新たに法学部に入学された諸君へ
末弘厳太郎




 私はかつて『法学入門』と題する本のなかで、法学入門者に対する法学研究上の注意について多少のことを書いた。同書は元来、「現代法学全集」の読者を相手として書かれたもので、いわば法学研究者一般、殊に独学者を仮想の相手として書かれたものである。ここではこれと違って、この四月新たに諸大学の法学部に入学された諸君を特に相手として、勉学上注意されたらいいと思うことを一、二述べてみたいと思う。その種の注意は、諸大学の教授諸氏によってそれぞれ適当に与えらるべきものなること、もとより言うをたないし、また実際にもいろいろ好い注意が与えられていることと想像するが、私が今まで多数の法学生ないし法学士と会談した経験から推すと、案外その種の注意が学生には徹底していないのではないか、学生の多数は彼らの研究する学問の特質を知らず、従ってまた、いかなる態度方法で聴講し、また研究すればいいのかというようなことについて適切な指導を与えられていないのではないか、という疑いを抱かざるを得ないのを甚だ遺憾とするのである。

 元来法学については──他の諸学部と違って──中学や高等学校で予備知識を与えられる機会が少ない。なるほど法制経済とか、公民科とか、法学通論とか、多少法律知識を与えることを目的とする講義が行われてはいるけれども、これらの講義はすべて一般的教養としての法律常識を与えることを目的とするものであって、学問としての法学の何たるかを教えることを目的とするものではない。高等学校の法学通論においては、教授それぞれの考えで、法律常識を与えんとするよりは、むしろ法学的基礎知識を与えることを主眼としていると思われる講義も行われているやに聞いているが、なにぶんにも講義時間が少ないのと教授に専門的法学者を求めることの困難のために、この種の講義を通して、大学の法学教育ではどういうことが教えられているのかを十分学生に呑み込ませることは、できていないように思われる。例えば理学部に入学して物理学を研究しようと志す学生が、物理学とは一体どういう学問であるかを知っている程度に、法学の何たるかを知って法学部に入学してくる学生は、ほとんどないのではあるまいか。さればこそ、法学部が入学試験を行うに当っても、一般に法学的学科を試験科目に加え得ないのであって、このことを考えただけでも、法学部の新入学生に対しては、研究上その入口において、先ず法学の何たるかを十分に教える必要のあることがわかると思う。



 私は今ここに、法学が全体としていかなる学問であり、もしくはあるべきかを説こうとするのではない。また、法学教育上法学のいかなる方面に重きを置くべきであるかを論じようとするのでもない。これらの点については人々によっていろいろ考えがあり、私としてもまた多少の考えを持っているが、ここではその問題に論及せんとするのではない。現在全国の官私立大学において法学教育の名において教えられているものをそのまま与えられた事実として認めつつ、それを基礎として、法学生は一般にいかなる考え、いかなる態度で講義を聴き、また研究すればいいのか、そのことについて私の考えていることの一ぱんを、新入学生諸君の参考のために述べてみたいのである。

 現在全国官私立の諸大学で与えられている法学教育の内容は、主として法律諸部門に関する所謂解釈法律学的の教育である。無論、法理学のように法律に関する哲学的考察を目的とする講義も行われているし、また法制史のように法律事実学の部門に属するものと考えられる講義も行われている。その他各教授の考え次第によって、解釈法律学的の講義のなかに織りまぜて法律事実学的、もしくは法律社会学的のことを比較的多く教えようとする講義も行われているようであるが、現在実際に与えられている法学教育の大部分は解釈法律学である。個々の教授の意識的に意図するところの如何にかかわらず、また教授方法の如何にかかわらず、実際行われているものは、主として解釈法律学的法学教育である。

 このゆえに、新たに法学部に入学して法学教育を受けようとする新入学生としては、その所謂解釈法律学がいかなる学問であり、これに関する講義が何を目的として行われているかを知ることが何よりも大切であって、私は、この点に関する無智もしくは誤解が、適正なる学習の妨げになっていることを多数の事例について発見するのである。

 現在我が国の諸大学で行われている解釈法律学の講義は、大体法典法条の理論的解説を与えるのを主たる内容としているから、これを聴く学生が、法学というものは法典の意味を説明するものだというふうに軽く考えやすいのは極めて自然であるが、その結果学生の多数は、中学以来彼らの称して暗記物と言っている学科を学ぶのと同じような気持で聴講その他、学習を行うようになるのである。無論、解釈法律学の一方面は法典法条の理論的解説にあるから、学生としても、法典法条の意味を正しく理解し、かつこれを記憶することは必要である。しかし、それだけが法学学習の全部であると考えるのは非常な誤りである。言うまでもなく、法学教育の目的は広い意味における法律家の養成にある。必ずしも裁判官や弁護士のような専門的法律家のみの養成を目的としてはいないが、広義の法律家、即ち「法律的に物事を考える力」のある人間を作ることを目的としているのである。ただ講義を聴いていると、いかにもただ法典の説明をしているように思われる、そうして先生は、ただ法典の意味をよく理解し、かつこれを記憶している人のように思われる。ところが、実際講義を通して学生の得るものは、法典の意味に関する知識の蓄積のみではなくして、法律的に物事を考える力の発達であって、一見専ら法典の解説のみで終始しているように思われる講義でさえも、この考える力を養うことに役立っているのである。だから学生としては、常にそのことを念頭に置くことが必要であって、さもないと、法律の物識りになることはできても、法律家になることはできない。

 しからば「法律的に物事を考える」とは、一体どういうことであるか。これを精確に初学者に説明するのは難しいが、要するに、物事を処理するに当って、外観上の複雑な差別相に眩惑されることなしに、一定の規準を立てて規則的に事を考えることである。法学的素養のない人は、とかく情実にとらわれて、その場その場を丸く納めてゆきさえすればいいというような態度に陥りやすい。ところが、長期間にわたって多数の人を相手にして事を行ってゆくためには、到底そういうことではうまくゆかない。どうしても一定の規準を立てて、大体同じような事には同じような取扱いを与えて、諸事を公平に、規則的に処理しなければならない。たまたま問題になっている事柄を処理するための規準となるべき規則があれば、それに従って解決してゆく。特に規則がなければ、先例を調べる。そうして前後矛盾のないような解決を与えねばならない。また、もし規則にも該当せず、適当な先例も見当らないような場合には、将来再びこれと同じような事柄が出てきたならばどうするかを考え、その場合の処理にも困らないような規準を心の中に考えて現在の事柄を処理してゆく。かくすることによって初めて、多数の事柄が矛盾なく規則的に処理され、関係多数の人々にも公平に取り扱われたという安心を与えることができるのであって、法学的素養の価値は、要するにこうした物事の取扱い方ができることにある。

 法学教育を受けた人間が、ひとり裁判官、弁護士のような専門法律家としてのみならず、一般の事務を取り扱う事務官や会社員等としても役立つのは、彼らが右に述べたような法学的素養を持つからである。世の中にはよく、「大学で法律を習ったけれども今では皆忘れてしまった、法律など覚えているうちは本当の仕事はできない」など言って得意になっている人──例えば中年の実業家など──がいるけれども、彼らが忘れたと言っているのは法典法条に関する知識のことであって、彼らが法学教育によって知らず識らずの間に得た法律的に物事を考える力は、少しも失われているものではない、否、むしろ実務取扱い上の経験によって発達しているのである。のみならず、その力が全く身についてしまったため、自分では特にそれを持っていると意識しないほどになっているのである。

 これを要するに、法学教育は一面において、法典、先例、判決例等すべて法律的に物事を処置する規準となるべきものの知識を与えると同時に、他面、上述のごとき「法律的に物事を考える力」の養成を目的とするものであるにもかかわらず、とかく一般人にはこの後の目的が眼につかないのである。先日三上文学博士が貴族院でされた演説のなかで、法科万能を攻撃し、法学的素養の価値を蔑視するような議論をしているのも、畢竟この種の認識不足に基づくのである。法学教育を受けた人々が、実際上「法律技師」としてよりはむしろ、局課の長として用いられてゆく傾向があるのは、要するに、これらの人々が法学的素養を持っているために、多数の人を相手にして多数の事柄を公平に秩序正しく処理せねばならない局課長のような地位に向いているからである。法学教育は特にそういう力の養成を目的としているのであるから、その教育を受けた人間がそういう力を必要とする地位に就くのは当然であって、何の不思議もない。しかるに、ひとり三上博士に限らず、法学教育の真面目に通暁しない人々のあいだには、とかくこの明々白々たる事理が十分理解されていないのである。



 法学教育の目的は以上のような点にあるのであるから、新たに大学に入学して法学研究に志す諸君は、よくそのことを念頭に入れて学習態度を決める必要がある。さもないと、折角の勉強も十分の成果を収め得ないことになりやすい。

 学生として先ず第一に必要なのは、教授が講義を通して示してくれる法律的の考え方を理解して、これを自分のものにするよう力めることである。現在我が国の大学では、主として講義の形式で教育が行われており、演習や米国風のケース・メソッドのように、直接法律的考え方の鍛錬を目的とする教育方法はあまり行われていないけれども、講義のなかで教授自らが──意識的もしくは無意識的に──その考え方をやってみせているのであるから、学生としては法典法条の解説等によって与えられる知識を蓄積することのみを考えずに、常々教授のやってみせる考え方を習得して、これを自分のものにするよう努力しなければならない。

 従って第二に、折角大学に入った以上、極力講義に出席して、毎日毎日の努力で法律的考え方の体得を計らなければならない。無論、読書によってこの考え方を習練することも決して不可能ではないけれども、聴講によるのに比べると非常に困難である。平素はあまり講義に出席せずにプリントや教授の著書で試験勉強をしても、考え方の力がつかないから駄目である。力というものは、毎日毎日の努力鍛錬によって段々に発達するものである。だから、教授のなかでも特に教育方法に注意している人々は、学生に段々と力をつけてゆくことを力める。初めは比較的容易な考え方を習得せしめ、これによって段々力がついてゆくのに連れて、複雑な考え方を習得せしめるようにしてゆく。だから入学の当初、「まだ一学期だからいい」などと呑気に構えていると、そのうちには教授の教えることの意味を理解することさえできないようになりがちなものである。学生として一番おそれなければならないのは、自分ではわかったつもりでいて、実は講義の真意を理解していないようになることであって、入学の当初になまけると、とかくこういうことになりやすい。人間というものは、他人の言うことを聞いても、本を読んでも、自分の力相応にしか理解し得ないものである。しかも自分の力の不足には気づかずして、各人それぞれ自分だけはわかったように思うものである。「勉強もするし、また自分では十分わかっていると思うのに、どうも成績が上がりません」など言っている学生のなかには、初めにボンヤリしていて力が後れてしまった者が多いのであって、新たに入学された諸君は、特にこのことに注意する必要がある。

 なお、我々は新入学生から、「講義を聴いていさえすればいいか、それとも参考書を読む必要があるか」というような質問を受けることがしばしばあるが、もしも余裕があれば、参考書を読めば読むほどよろしいに決っている。しかし参考書を利用し得るためには、先ず講義を理解し、そのうえ講義に疑いを挟むだけの力ができなければならない。いたずらに多数の本を読んで学者所説の異同を知っただけでは、何の役にも立たない。各学者の所説のあいだにいろいろ相違があるのは、その相違を生ずべきそれ相応の理由があるのだから、その理由にまでさかのぼって各学者の考え方を討究しなければならない。さもないといたずらに物識りになるだけで、法律的に物事を考える力が少しも養われない。これに反して、各学者所説の根柢にまで遡って各学者の考え方を研究するようにすれば、自ずから得るところが非常に多い。参考書を読むことの要否よりも、むしろ読むについての態度を考えることが必要である。



 終りに、も一つ、法学生一般に対する注意として、およそ法学を学ばんとする者は、社会・経済・政治その他人事万端に関する健全な常識を持つよう、一般的教養を豊かにすることを力めねばならないことを言っておきたい。法律の規律対象は人間である。「法律的に物事を考える」についてのその「物事」は、すべて人間に関する事柄であり、またその「考える」諸君自らもまた人間である。人事万端に関する健全な常識を持つ者でなければ、到底適正に、法律的に物事を考え、物事を処理し得る筈がない。しかるに法学生のなかには、ややともすると、狭い法律の技術的世界の内にのみ跼蹐きょくせきして、一般的教養を怠るがごとき傾向が認められるのは甚だ遺憾であって、これは、教育の局に当る者としても、また学生としても、大いに注意せねばならない主要事である。一般的教養の重要なるはすべての学生について言わるべきものなること勿論であるが、以上に述べたような意味から、法学生について特にその重要なる所以を力説して、一般の注意を促したい。

(『法律時報』九巻四号、昭和十二年四月)

底本:「役人学三則」岩波現代文庫、岩波書店

   2000(平成12)年216日第1刷発行

初出:「法律時報 九巻四号」

   1937(昭和12)年4

入力:sogo

校正:noriko saito

2008年411日作成

2012年46日修正

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