古代研究 追ひ書き
折口信夫



この書物、第一巻の校正が、やがてあがる今になつて、ぽっくりと、大阪の長兄が、亡くなつて行つた。さうして今晩は、その通夜である。私は、かん〳〵とあかるい、而もしめやかな座敷をはづして、ひっそりと、此後づけの文を綴つてゐるのである。夜行汽車の疲れをやすめさせようと言ふ、肝いり衆の心切を無にせまい為、この二階へあがつて来たのであつた。

かうして、死んで了うた後になつて考へると、兄の生涯は、あんまりあぢきなかつた。ある点から見れば、その一半は、私ども五人の兄弟たちの為に、空費して了うた形さへある。

昔から、私の為事には、理会のある方ではなかつた。次兄の助言がなかつたら、意志の弱い私は、やっぱり、家職の医学に向けられて居たに違ひない。或は今頃は、腰の低い町医者として、物思ひもない日々を送つてゐるかも知れなかつた。懐徳堂の歴史を読んで、思はず、ため息をついた事がある。百年も前の大阪町人、その二・三男の文才・学才ある者のなり行きを考へさせられたものである。秋成はかう言ふ、にあはぬ教養を受けたてあひの末路を、はりつけものだと罵つた。そんなあくたいをついた人自身、やはり何ともつかぬ、迷ひ犬の様な生涯を了へたではないか。でも、さう言ふ道を見つけることがあつたら、まだよい。恐らくは、何だか、其暮し方の物足らなさに、無聊な一生を、過すことであつたらうに。養子にやられては戻され、嫁を持たされては、そりのあはぬ家庭に飽く。こんな事ばかりくり返して老い衰へ、兄のかゝりうどになつて、日を送る事だらう。部屋住みのまゝに白髪になつて、かひ性なしのをっさん、と家のをひ・めひには、謗られることであつたらう。

これは、空想ではなかつた。まのあたり、先例がある。私の祖父は、大和飛鳥の「元伊勢」と謂はれた神主の家から、迎へられた人である。其前に、家つきの息子がゐた。その名の岡本屋彦次郎を、お家流を脱した、可なりな手で書いたのを見て、幾度か、考へさせられた。四書や、唐詩選・蒙求の類も、僅かながら、此人の稽古本として残つてゐる。家業がいやで、家に居れば、屋根裏部屋──大阪風の二階──に籠りっきり、ふっと気が向くと、二日も三日も家をあけて、帰りにはきつと、つけうまを引いて、戻つて来たと言ふ。継母の鋭い目を避けて、幾日でも、二階から降りて来なかつた。其間の所在なさに、書きなぐつた往来文や、法帖の臨書などが、いまだに木津の家の蔵には残つてゐる。果ては、久離きられた身となつて、其頃の大阪人には、考へるも恐しい、僻地となつてゐた熊野の奥へ、縁あつて、落ちて行つたさうである。其処で、寺子屋の師匠として、わびしい月日を送つて、やがて、死んで行つた事も、聞えて来たと聞く。夢の様な、家の昔語りの、幼い耳の印象が、年を経るに従うて、強く意味を持つて響いて来る。

かうした、ほぅとした一生を暮した人も、一時代前までは、多かつたのである。文学や学問を暮しのたつきとする遊民の生活が、保証せられる様になつた世間を、私は人一倍、身に沁みて感じてゐる。彦次郎さんよりも、もつと役立たずの私であることは、よく知つてゐる。だから私は、学者であり、私学の先生である事に、毫も誇りを感じない。そんな気になつてゐるには、あやにくに、まだ古い町人の血が、をどんでゐる。祖父も、曾祖父も、其以前のオヤたちも、苦しんで生きた。もつとよい生活を、謙遜しながら送つてゐた、と思ふと、先輩や友人の様に、気軽に、学究風の体面を整へる気になれない。これは、人を嗤ふのでも、自ら尊しとするのでもない。私の心に寓つた、彦次郎さんらのため息が、さうさせるのである。

独り身を守り遂げて、我々をこれまでにしあげてくれた、叔母えい子刀自も、もうとる年である。せめて一度は、年よりらしい、有頂天の喜びを催さしてあげたいと思ふけれど、私に、其望みをけてゐてくれる学位論文なども、書く気にもなれない。亡い兄も、数年前まで、帰省する毎にくり返したのは、其事であつた。でも、私の根本の憂鬱には、触れるよしもない叔母・兄も、近年すつかり、私に、そんな激励や、要求はせなくなつた。

「家の風をも 吹かせてしがな」と言つた風の、伝統に執する必要のない町人の家庭では、あきらめも早い。それだけに、目上の人々の頑に主張する事をやめてくれたのをよいことにして、其幼い望みを、満足させる気になれない、私の生活気分が寂しまれる。

私は、家びとの望みをしりぞけて、国学院に入り、又、そこを出てから二十年、長い扶養を、家から受け続けた。兄も段々あきらめて、私の遊び半分の様な為事の成長を、待ち娯む気になつて居たらしい。「世間的に、役にたゝぬあれの事だから、一生は、私が見てやります。」こんな事を、親しい隣人たちには、時々、言ふ事もあつた様で、せんもない私の為事を、無言の柔和な眦で、つめて居てくれた。世間から見れば、まことに、未練・無知なひいきに過ぎなかつたのである。私の一生を、後見るつもりでゐた兄の心が、今では却つて、はかないものになつて了うた。


けれども、兄ひとりが、寂しかつたのではない。私とても、一族を思ひ、身一己を思ふと、洞然とした虚しい心に、すう〳〵と、冷い風の通ふ様な気がしてならぬ。私の学問は、それ程、同情者を予期する事の出来さうもない処まで、踏みこんで了うてゐる。しんみになつて教へた、数百人の学生の中に、一人だつて、真の追随者が出来たか。私の仮説は、いつまでも、仮説として残るであらう。私の誤つた論理を正し、よい方に育てゝくれる学徒が、何時になつたら、出てくれるか。今まで十年の講座生活は、遂に、私の独り合点として、終りさうな気がする。唯珍らし相な主題、伝襲を守るをいさぎよしとせぬ態度、私の講義は、かうした意義で、若い人気を、倖に占め得た事もあるに過ぎない。兄の理会のない身びいきも、結句、あり難く思はれて来る。

でもまだ〳〵、兄のうへを越す無条件の同情者が、尠くとも一人は、健在してゐる。前に述べた叔母である。私の、此本を出さうと決心した動機も、この人の喜びを、見たい為であつた。だから第一本は、叔母にまゐらせるつもりである。叔母は必、かこつであらう。かういふ、本の上に出た、自分の名を見ることのはれがましさの、恥ぢを言ふに違ひない。兄が、かうなると思はぬ先から、私の考へてゐた事なのである。叔母に捧げる志は、同時に、兄の為の回向にもなつてくれるであらう。

学問の上の恩徳を報謝するためには、柳田国男先生に献るのが、順道らしく考へないではない。でも、その為には、もつと努力して、よい本を書いてからにせねばならぬ気がする。其ほど、先生の学問のおかげを、深く蒙つてゐるのである。先生の表現法を摸倣する事によつて、その学問を、全的にとりこまうと努めた。先生の態度を鵜呑みして、其感受力を、自分の内に活かさうとした。私の学問に、若し万が一、新鮮と芳烈とを具へてゐる処があるとしたら、其は、先生の口うつしに過ぎないのである。又、私の学問に、独自の境地・発見があると見えるものがあつたなら、其も亦、先生の『石神問答』前後から引き続いた、長い研究から受けた暗示の、具体化したに過ぎないのである。

其ほど、先生の学問の領域は広く、さうして、深く人を誘惑せずには居ないものである。私は、此学問の草分けに、かうした人を得た、日本の民俗学のさいさきのよかつた事を思ふ。さうして、不肖ながら、其直門として、此新興の学徒の座末に列する事の出来た光栄を、不思議とさへ考へることがある。今では、先生の益倦まぬ精励が、我々の及ばぬ処までも、段々進んで行つて居られ、新しく門下に参じる人たちも、殖えてゆく一方である。或は心理学的に、社会学的に、日々新しい研究法を加へて行かれる姿がある。発足点から知つた私自身は、一次・二次のものに、固執してゐるかも知れない。使徒の中、最愚鈍な者の伝へた教義が、私の持する民俗学態度かも知れない。併しながら、私は先生の学問に触れて、初めは疑ひ、漸くにして会得し、遂には、我が生くべき道に出たと感じた歓びを、今も忘れないでゐる。この感謝は、私一己のものである。先生に向うて、日本民俗学の開基を讃へる人は、別にあらう。その意味においては、此本は恥しながら、槃特はんどくが塚に生えた忘れ茗荷の、一もとに過ぎない。兄の扶養によつて、わびしい一生を、光りなく暮さねばならなかつた、さうして、彦次郎さん同然、家の過去帳にすら、痕を止めぬ遊民の最期を、あきらめ思うてゐた私の心に、一道の明りのさす事を感じたのである。

其は、新しい国学を興す事である。合理化・近世化せられた古代信仰の、元の姿を見る事である。学問上の伝襲は、私の上に払ひきれぬヨナの様に積つてゐた。此を整頓する唯一つの方法は、哲学でもなく、宗教でもないことが、始めてはつきりと、心に来た。先生の学問の、まづ向けられた放射光は、恰も、私の進む道を照してゐたのである。秋成や守部の様な批評家でない自分は、憂鬱な伝統知識のしの下に、何だか、不満な気分を抱いてゐたばかりであつた。其が、微かながら、跳ね返す力を得て来た訣である。個々の知識の訂正よりは、体系の改造である。彼二人の皮肉屋の、閃く如き鋭さよりは、重胤の、鈍い重さの広く亘る力を思ふべき気稟であつた。新しい国学は、古代信仰から派生した、社会人事の研究から、出直さねばならなかつた事を悟つた。此民間伝承を研究する学問が、我が国にもないではなかつたが、江戸末の享楽者流・銷閑学者の、不徹底な好事、随筆式な蒐集に止つてゐた。だから、民俗は研究せられても、古代生活を対象とする国学の補助とはならなかつた。むしろ、上ッ代ぶり・オトぶりの二つの区劃を、益明らかに感じさせる一方であつた。私は、柳田先生の追随者として、ひたぶるに、国学の新しい建て直しに努めた。爾来十五年、稍、組織らしいものも立つて来た。今度の「古代研究」一部三冊は、新しい国学の筋立てを摸索した痕である。


此書物の中から、私の現在の考へ方を捜り出さうとするのは、無理である。実は、今におき、悩んでゐる。日々、不見識な豹変を重ねてゐるのだから。

国文学篇の最初の「国文学の発生」は、あの上に今一つ、第五稿を書きさしてゐる。四つの論文をお読みになつた方は、定めて、呆れて下さつた事であらう。民俗学篇でも、「村々の祭り」と「大嘗祭の本義」との間には、実際、御覧に入れたくないほど、考への変化がある。この論文は、半年も立たぬ間に、出来たものなのである。其でゐて、かうである。かうした真の意味の仮説を、学界に提供する事は、わるいとも言へよう。又、よいとも言へる。其は、結論を度外視した顔のとりすました学者の為に、一人で罪を負ふ懺法としての、役に立ちさうだからである。慎重な態度を重んずる、庠序学派の人々は、此を、自身の学問と一つに並べるをさへ、屑しとせないであらう。殊に、民俗学の世界的権威にして、我々が「あがほとけ」とも斎くべきふれぃざぁ教授も、その態度からは、かう言ふ発表方法を認めない事が、明らかである。出来るだけ、揺ぎない道を立てようとする。其方法としては、及ぶ限り資料を列ねて、作者の説明がなくとも、結論は、自然に訣る様になつてゐる。我が柳田先生も亦、此態度を以て、整然たる論理の径路を示して居られ、さうして度々、其形式や結論において、世界の宿老教授を凌ぐ研究をすら、発表してゐられる。私は、かうした努力に対して、虔しい羨みを、常に抱いてゐる。だが、性格的に、物の複雑性──よい意味ばかりでなく──を見る私は、一行の読書にも、数項の旁線を曳かねばならぬほど、多くの効果を予期する暗示を感じる。其で、一冊の書物を読み上げる事が、非常な努力であつた時期がある。先生の勧めによつて、読書法を改めた頃の事であつた。さうして、引いた旁線の部分を、かあどに収める事が、亦、容易ではなかつた。その頃はまだ、記憶も衰へなかつた。唯さへ遅読の私は、かうした方法を採つた為に、本の内容に、深入りし過ぎた。読みではあつても、読みガサの少い方法に甘んじる様になり、ひき出しの摘要書きの範囲の広く及ばないのにれて、遂には、かあどの記録を思ひ止る様になつた。其以来唯、記憶及び記憶の下づみになつた、数多の知識の印象の、随時の活動に、たよる様になつて来た。だが、今は読書の印象も段々薄らいで、改めて、かあどを要する老いを覚え初めてゐる。

だが強情な私はまだ、思うてゐる。我々の立てる蓋然は、我々の偶感ではない。唯、証明の手段を尽さない発表であるに過ぎない。世の論証法も、一種の技巧に過ぎない場合が多い。ある事象に遭うて、忽、類似の事象の記憶を喚び起し、一貫した論理を直観して、さて後、その確実性を証するだけの資料を陳ねて、学問的体裁を整へる、と言つた方式によらない学者が、ないであらうか。つまりは、蓋然を必然化するだけの事である。而も、その必然化せられたと見える研究にすら、認識の不徹底が煩ひして、結論を誤らしめてゐる事が多い。蓋然の許されてゐる、哲学的の思索を改めて、実証化したぶんと等の研究が、常に、正しい結論に達してゐるとは云へない。やはり、論理に、飛躍が含まれてゐる。知識と経験との融合を促す、実感を欠いた空想が、多く交つて居る。われ〳〵には其が、単なる弁証にしか過ぎなく思はれる事さへある。

東海粟散の辺土に、微かな蟇の息をく末流の学徒、私如き者の企てを以てしても、ふれぃざぁ教授の提供した証拠を、そのまゝ逆用して、この大先達のうち立てた学界の定説を、ひつくり返すことも出来さうな弱点を見てゐる。だから、立証すべき信念と、その土台となる知識の準備とを、信頼してよい学者の立てた仮説なら、その解釈や論理に、錯誤のない限りは、民俗学上に、存在の価値を許してよいと思ふ。これを更に、必然化する事は、論者自身或は、後生学者の手でせられてもよいはずである。かう言ふ、自身弁護を考へて後、わりに自由に、物を書く様になつた。唯、柳田先生の表現方法から、遠ざかつて行く事を憂へながらも。私は、自身の素質や経験を、虔しやかな意義において、信じてゐた。だから、私のぷらんに現れる論理と推定とが、唯、資料の陳列に乏しい事の外、そんなに寂しいものとは思はなくなつた。虚偽や空想の所産ではないと信じて、資料と実感と推論とが、交錯して生まれて来る、論理を辿る事に努めた。

私は、過去三十年の間に、長短、数へきれぬほど旅をして来た。その中でも、近い十五年は、旅をする用意が変つて来た。民間伝承を採訪する事の外、地方生活を実感的にとりこまうと努めた。私の記憶は、採訪記録に載せきれないものを残してゐる。山村・海邑の人々の伝へた古い感覚を、緻密に印象してえた事は、事実である。書物を読めば、此印象が実感を起す。旅に居て、その地の民俗の刺戟に遭へば、書斎での知識の聯想が、実感化せられて来る。


私は、人類学・言語学・社会学系統の学問で、不確実な印象記なる文献や、最小公倍数を求める統計に、絶対の価値を信じる研究態度には、根本において誤りがあると思ふ。記録は、自己の経験記以外のものは、真相を逸した、孫引き同様の物となることが多い。計数によるものは、範疇を以て、事を律し易い上に、其結論を応用するには、あまり単純であり、概算的である。比較研究は、事象・物品を一つ位置に据ゑて、見比べる事だけではない。其幾種の事物の間の関係を、正しく通観する心の活動がなければならぬ。此比較能力の程度が、人々の、学究的価値を定めるものである。だから、まづ正しい実感を、鋭敏に、痛切に起す素地を──天稟以上に──作らねばならぬ。而も、機会ある毎に、此能力を馴らして置く事が肝腎である。

比較能力にも、類化性能と、別化性能とがある。類似点を直観する傾向と、突嗟に差異点を感ずるものとである。この二性能が、完全に融合してゐる事が理想だが、さうはゆくものではない。

私には、この別化性能に、不足がある様である。類似は、すばやく認めるが、差異は、かつきり胸に来ない。事象を同視し易い傾きがある。これが、私の推論の上に、誤謬を交へて居ないかと時々気になる。「無頼の徒の芸術」その外に出た、念仏芸能の観察が、私には、定説としての確さを持つてゐるが、他人には納得させにくい。最親しい旧友で、厳重に考証態度を守つてゐる若い正史編纂者の、微笑と渋面とを交へた抗議を受けたのも、其為であると思ふ。これは差異点の説明に、巧でないからである。踏歌・呪師・田楽・鎮花祭舞踊の文献や、残形を見ると、念仏踊りの要素となつたものが、うんとある。殊に、実地に見て歩いた経験を比較すると、田楽・念仏の共通点ばかりが目について、従来考へられて来た様な区劃は、心の中に没して了ふ。念仏踊りや念仏宗などの起原や相互作用の、鎮花祭や、祇園御霊祭りや、田楽などにある事が覚られる。けれども、其分派の状態や、世間が持つてゐた差別観の根拠などは、も一つ茫漠としてゐる。

近代の田楽には、念仏踊りに近い行道や、群舞の様式が、主とせられてゐるのも、事実である。念仏踊りの中にも、田楽能から移したらしい能狂言──物まね狂言──や、村群行ワタリや、家ぼめのことほぎが行はれて居る。呪師系統の田楽は、約束どほりの服装に、編木ビンザヽラを持ち、田楽鼓を腰にし、一様に藺笠を頂くのを目標とする事が出来るが、巫女田楽では、既に違ふ。村田楽や法師田楽などの形は、古い絵を見ても、違うてゐる様だ。竹の簓を摩り、大太鼓を吊り下げ、唯の晴れ着らしい物を着て、笠を冠るのも、鉢巻きをするのもある。法師田楽になると、大太鼓の代りの鉦鼓を、重さの為に高く吊り、おなじ田の行事なる鎮花祭の悪霊逐ひの念仏踊りと、田の祝福の田楽とを混淆して、踊るのも其はずである。

呪師系統の田楽で、大切な芸になつてゐる手品・軽業の類は、正式の田楽風を存する処にも、後には、行はれなくなつて居る。曲芸を忘れた芸能は、田楽としての要素を、既に、落してゐるのである。編木も簓も知らず、幸若の様な扮装をして出る遠州旧奥山村の田楽には、尚曲芸の形式だけは行ひ、又、他処には忘れられた田楽能──能楽要素を多くとりこんだ──を演じて居る。呪師田楽の地方的本拠なる伯州大山寺に近い、出雲西南の社々には、田楽の変体らしい傘鉾行列の群舞を行うてゐて、而も、念仏踊りと称へて居る。

かうした村田楽の、念仏踊りの古い時代に、念仏聖一派の手で、専門の芸能として行はれたものが、時の好みを逐うて、小唄踊りや、狂言をとり容れ、其が、巫女を主役とする様になると、お国を代表者とする新念仏踊りとなつた。念仏踊りなるが故に、巫女の資格の芸能人も、聖の男踊りの姿に扮することを、序開きの条件とし、其後は、巫女舞ひから、多くの小唄組み踊りを演じた。又狂言には、当世風流の寛濶ぶりをうつして、歌舞妓芸を創作する様になつた。

田楽・念仏の類似点から推した関係は、この様に複雑だが、さて、境界線を画する段になると、現存のものだけについてさへ、判然たる断言を下すことが出来ないのである。まして、近古・近世に亘つては、本質的な差異を鑑別する力が、実感となつては、私には、浮んで来にくい。文学・芸能の複雑な共通点は見えても、これを単純な、別々の元の姿に、還して来る能力には劣つてゐる。


私は、沖縄に二度渡つた。さうして、島の伝承に、実感を催されて、古代日本の姿を見出した喜びを、幾度か論文に書き綴つた。其大部分は、此本に収められてゐる。私のよい同行の友人の中にも、既に、南島研究に執する私の態度に飽いて、忠告と嘲笑とを、交々する人さへある。相違といへば、其間に、私は唯一つ、沖縄語と日本語との本質的な差異を、見出したばかりであつた。文法や語彙の類似にも、内外学者の言語学上の定説ほどの一致はない、といふ事である。二つの国語は、あまりに早く別れて居た。その後発達した特殊な組織が、複雑化した中央日本語との間には、相違があり過ぎる。言語の同系は事実に違ひないが、意外に距離のある事が、私だけには証明出来だして来た。語根の品詞化する方法が、第一に違ふ。殊に親近なるを思はせた用言形式の類似が、実は、分離後の発達であることを示すものだ、と知れた。両者の近代語に、類似したものゝ多いことは、記録・文学や上流用語として、日本語の利用せられたものが、組織等しい文法の中に入りこんで、自由に変化させられたからである。私はかう言ふ風に、日琉分離の時代を、極めて古く考へてゐる。単に、言語の上からばかりで、同族論を主張することを危み出した。

だが、其外の民間伝承、殊に、信仰生活については、我々の古代生活様式の、遺存して居る事を疑ふだけの別化性能の活動は、まだ起らない。本質的同型と、偶発的の一致とを区別してかゝらぬ研究は、根柢において誤りがある。印度や、極北あじあの民俗が、比較研究や、発生的論証には役立つても、祖先の古代生活を考へるためには、単に、反省を促す補助資材たるに過ぎない。民俗学の為には、此方法は、必履まれねばならぬ。だが、民俗学の一分科としての民族的民俗学には、第一資料を、比較資料の先に据ゑなければならぬ。私の沖縄研究は、此立ち場から、まだ、古代研究の為の実感を催す力を失うて居ない。


私は、国学院在学中、四年間、朝鮮語を習ひとほした。手ほどきから見て貰うた本田存先生の後は、金沢庄三郎先生の特別な心いれを頂いた。朝鮮語に就いては、相当の自信もあつた。卒業間際になつて、ほんの暫らくではあつたが、外国語学校の蒙古語科の夜学にも通うた。金沢先生の刺戟から、東洋言語の比較よりする国語の研究に、情熱を持つた為であつた。まだお若かつた金田一京助先生には、あいぬ文法の手ほどきを承つたが、この方はなぜか、ものにならなかつた。恐らく短期の演習として、過ぎたからであらう。あいぬ語の練習を後廻しにしてゐるうちに、外国語に対する私の頑冥な偏僻が、これ等の東洋語の記憶をすら妨げて居る事が、段々訣つて来た。それで、あいぬ語までは、手が届かないで了うた。でも、この先生の新鮮な感覚によつて蘇らされたあいぬの文法の講義や、座談には、衝動に堪へぬほど、多くの暗示が籠つてゐた。未開時代の種族・社会に偶発する共通民俗も、あいぬの場合は、東方日本の先住民として、民族的交渉の程度に疑ひのあるだけ、殊に注意は緻密にならないでは居ない。

その頃一方に、律文学の文学史に最、興味を持つてゐた。語部なる部曲については、古史伝以外には、まだ明確な、記述も研究もなかつた。ある時、重野安繹博士の国史綜覧稿の出版に臨んで、何かの意味を持つて催された講演会で、始めて偶像破壊者と謳はれて来てゐた翁の口から、語部の話を聞いた時は、此部曲の職掌について、一点の疑ひもない定説が、発表せられたものだと信じた。其と共に、我が古代社会の指導力としての詩のあつた事を知つて、心躍りを禁ずる事が出来なかつた。かうした興味を持つた私が、先生から、あいぬの詞曲ゆからと、其伝誦者なるゆからくるとの存在を聞き出したのである。語部の生活を類推する、唯一の材料を得た訣である。其後、古代欧洲諸国にも、此に似たものゝあつた事を知つた。さうして段々、日本の語部の輪廓の想定図だけは、作つてゐた。其後二十年近い年月に、まあ内容らしいものが膨らんで来たのである。文献の上の証拠は、幼稚な比較法によつた語部の職掌や、社会的地位に関した仮説を、殆、覆し尽した。けれども、私の古代研究は、此仮説を具体化しようとする努力に基いてゐる所が多い。

だから、朝鮮民族や、大陸の各種族の民俗について、全く実感の持てぬ私ではないと信じる。唯、新しい国学の為、古代研究の基礎を叩きあげるには、疑ひなく古代日本の一部を形づくつた、朝鮮や南方支那の漢人種の民間に伝承する習俗すら、私には危くてならぬのである。殊に、頻繁に加つた後入要素の分離が、完全に出来ない間は、出雲人や、但馬人に関した文献上の古俗を、韓人・南方漢種の近代のものに推し宛てる勇気が出ない。又事実、其だけの変化が加つてゐる。

併し、其等の土地に居て、その実感を深める事が出来たら、分離すべきものは分離して、民族的民俗学の第一資料を、思ふに任せて獲る様になるだらう。私一己の学問にとつては、今の中は、其国々からは、有力な比較資料を捜るといふに止めねばならぬ。其地を踏まぬ私は、自然かう言ふ態度を採る外はないのである。今の中、沖縄の民俗で解釈の出来るだけはして置いて、他日、朝鮮や南支那の民間伝承も、充分に利用する時期を待つてゐる。私の文献を活用する範囲は狭い。併し、理会の届かない比較資料を、なまはんかに用ゐない覚悟である。

私の本の為に、波多郁太郎さんの作つてくれた索引の効能は、せい〴〵此本の索引以上に出ないであらう。なぜなら、新しい研究者の引用に値ひせぬ、あり触れた資料を、私の実感で活してゐるに過ぎないからである。比べて言ふのも憚られるが、私の学問の大先達本居宣長の「古事記伝」がさうである。あの本の索引は、「古事記伝」自身の為以外に、応用の利かないまで、鈴屋の翁は、あり合せの材料で料理し尽してゐる。だからあの本の引用文は、宣長以上に役に立ちさうでなくなつてゐるのだ。伴信友は、典型的な学究態度を持して居たが、彼の珍しく博い材料は、まだレウり残したところがある。宣長の方から出た結論に、疑ひを挿まぬ人々も、その態度を学ぶものには、危険を説くに違ひない。信友の方針は、万人拠るべきものとせられてゐる。併し、宣長の仮説が、後学の手で段々具体化せられて来た今日では、誰もその蓋然を呪はない。甚しいのは、翁に数多い、誤つた論理の結果なる仮説さへ、今は定論として信じられてゐる。其と共に、信友の客観性に富んだ結論も、まう改めなければならぬものが多くなつた。

人各、フサふ所がある。研究法を以て、研究の最後と見、方法論を以て窮竟地と考へない以上、啓蒙的な意義に於ける正確さをも含んでの論証法の形式を、第一義に置いてばかりも居られない。哲学と科学との間に、別に、実感と事象との融合に立脚する新実証学風があるはずである。一方は固定した知識であり、片方は生きた生活である。時としては、両方ともに、生命ある場合もある。此二つを結合するものが、実感である。かうした実証的な方法を用ゐる事の出来ない、死滅した事象の研究法や、捕捉し難い時間現象を計数の上に立証しようとするのとは、自然違つた方法を用ゐてよい訣である。私の研究は、空想に客観の衣装を被せたものは、わりに尠い。民俗を見聞しながら、又は、本を読みながらの実感が、記憶の印象を、喚び起す事から、論理の糸口を得た事が多い。其論理を追求してゐる間に、自らたぐり寄せられて来る知識を綜合する。唯、其方法は誤らない様に、常に用心はしてゐる。

生きて感じ得ぬ資料を避ける私は、乏しい知識による比較研究によつて、民俗の文献や過去の存在を立証しようとするやうな方法には、年と共に畏れを増して来た。世界共通の伝説の型を解説する様な場合は、気楽になれる。が、実生活の一端として生きてゐるものに対しては、印度・欧洲の暗合を顧慮せねばならぬ。民俗の外的類似から推して、其発源地や、その本義を定める方法を採る事は出来ぬ。だから恥しい程、私の考へは、いつも国中をうろついてゐる。

傀儡子が、東あじあ大陸に広がつて、朝鮮半島までも来てゐる文献はあつても、それを直に、我が国のくゞつ──傀儡子の字面を好んで宛てた──の民の本源だとは信じない。薩満教が如何に、東方に有力でも、日本・沖縄の古来の巫女を以て、其分派と思ふ勇気もない。其を信じ得る時は、即、私自身が実証し得る時である。豊富な資料を自由に活用出来る時でなくてはならぬ。塔が卒塔婆から出、ぱんが洋人の食料を学んだと言ふ様な伝来の径路の、知れきつたものゝ外は、てら(寺)なる語が、外来語であると言ふ定説も、ほとけの語原などにも、一応は疑ひを持つて見る必要がある。ふれぃざぁ教授の様に、多くの資料をえ提供しない限り、若干の文献の抜き書きを列ねる位では、唯の比較研究すらも危いと思ふ。茲に、私の眼界の狭く止つてゐる所以がある。

顧みて恥ぢないものがあるとすれば、語原の解釈法である。口頭伝承による詞章ばかりが、存続性を持つた時代には、用語例の理会が、常に変化してゐた。聯想が無制限にはたらくのである。ある一語の語義の固定した時代は、その言語の可なり発達を遂げた後であつた。後世、語原と見做されてゐるのは、わりに、整然とした論理を具へたものである。さうした時代の用例を出発点としてゐる語原説は、発足地に誤謬がある。其以前の自由な時代の形式・内容の変化が、固定した推移の過程は、一向に顧みられないでゐた。品詞や文法の発生を考へる時、我々は常に、ある完成を空想してゐる。

本書中に、みぬまみづはみるめみぬめみつまひぬまひるめ等の形式変化と共に、内容も亦移つて居る事を述べた。而も、聖水及び聖水の使用処なるみつと言ふ語のは、敬称接頭語と見る俗間語原観から、游離して、──津──なる単語を発生するに到つた。かうした過程は、なる単語を、最初のものと定める見地からは、考へられるはずのないものである。そのみつすら亦聖水以前に、数次の意義変化が考へられる。

又、はなと言ふ語にしても、我々は、咲く花を初めから表したものと見て、合理的に語原を考へる。だが、その前に既に、兆象の意義に用ゐられた。農作の豊かなるべきを示すものとして、野山に咲くものを、はなと名づけた。兆象の永続せぬ事を見て、脆いことの形容にも、予期に反し易い処から、信頼し難い意にも転用して、はなものはなになどが用ゐられた。而も、神物のしるしとも見る処から、神聖な禁制の義を表して、はなづまの手触れ難きを表す用語例をも生じてゐる。かうして見ると、木草の花から説き出して、はな一類の語原を解説する旧説は、考へ直さねばならぬ。はなの語原は、まだ解する事が出来ない。だが、尚溯ると、聖役に仕へる者の頭につけた服従のしるしであつた事もある。土地の精霊の神に誓ふ形式と考へられたものが、神人・巫女の物忌みの標となつたのである。さうすると、兆象以前に、御貢ミツギ・魂マツりの義があつたらしくも見える。

私の学問は、最初、言語に対する深い愛情から起つたものであるから、自然言語の分解を以て、民俗を律しようとする傾きが見えぬでもない。一時は、大変危い処に臨んで居た。併し、語原探究と、民俗の発生・展開との、正しい関係を知る様になつた。だから、言語の分解を以て、民俗の考察の比較の準備に用ゐ、言語の展開の順序を、民俗も履んで居るかを見る様になつて来た。唯、古代生活は、言語伝承のみに保存せられ、其が後代の規範として、実生活に入りこんだから、古代における俗間語原観を考へる語原研究が、民俗の考察に棄てられない方法である事がやつと訣つて来てゐるのである。

だが、同系語の中、殊に縁の深い言語と謂うても、容易に、古代語の研究に応用することは、やはり危い迷ひ路である。うごなありと言ふ語が、沖縄の近世に生きて用ゐられ、今も先島に残つて居るにしても、「集侍ウゴナハる」と言ふ祝詞の用語とおなじものだと信じてはならぬ。その残り方に、不自然さをまづ感じなければならぬ。おもろ発想法変改の為の軌範として、祝詞が採用せられた事も考へられないではない。さうした女官としての貴い巫女の間には、万葉・古今・源氏の語も、近代日本語も、一つに用ゐられた形跡がある。さう言ふ人々の唱へる呪詞には、祝詞の用語が移された事もあらう。国々の呪詞の民謡化する事の早い島では、さうした日本の古語を、民謡の上に話して用ゐた例もある様だ。「混効験集」に蒐めた内裏語やおもろ用語には、さうした過程を経たものも多いと思はねばならぬ。其が、国々に民謡から、対話語となつて使はれたものもあるとしたら、やはり、研究資料には用ゐにくい。却て、外貌の類似の著しくないものから、同系語としての組織の等しさを見出して、役立てねばならぬ事もある。親友伊波普猷さんと、此点について益協同の研究を積んで行かうと思うてゐる。

私の古代言語の研究方法は、この通りである。恥かしい物言ひだが、態度においては、最確かな、学術的なものであり、効果から見れば、古代論理に順応する行き方が、古く合理化せられた物から、原形をひき放して、語原の上に、更に、語原を見出す方法を開いて来た様に思ふ。かうした個々の研究の堆積が、同系語の正しい比較研究を導くだらうと考へる。私の国語研究を疑ふ人は、私だけの方法を持たない人だ、と考へてもよい様に思ふのである。私はまづ其人々に、「古代生活に現れた民族論理」の一篇を読んで貰ひたい。

私の研究の立ち場は、常に発生に傾いてゐる。其が延長せられて、展開を見る様になつた。かうする事が、国文学史や、芸能史の考究には、最適しい方法だと考へる。文学芸術の形式や内容の進展から、群衆と個人、凡人と天才との相互作用も明らかにすることが出来る。

私の態度には又、溯源的に時代を逆に見てゆく処も交つてゐる。これは、民俗学の方法である。同時に、文芸の歴史を見るには、此順逆両途を交々用ゐねばならない場合が多い。

時として、私の叙述が、年代を疎かにしてゐる様に見える事がある。これ亦、民俗学と歴史との違ひである。民間伝承においては、土地と時間とを超越した事象が、屡見られる。殊に、全体としては、百年・千年前に亡びたものが、一地方には保持せられてゐることが、稀ではない。かうした伝承が、古代生活の説明に役立つ。文学や、芸能の発生展開の過程も、地方と時代とに相応することもあるが、其影響を離れて、個々の特殊の形に残る事が、とりわけ多い。此等の遺存を綜合しながらの叙述である為、いきほひ、時代・年月の印象が薄くなる事もある。曲舞を論ずれば、幸若から逆推して、白拍子の女舞の形態を説く事が便利な事もある。千秋万歳の曲舞から、幸若が分化した道程を示す為には、唱門師の職掌・地位を言はねばならぬ。更に、唱門師と陰陽師との交錯状態をも述べねばならぬ。踏歌のことほぎを説かねば、千秋万歳の芸能の一因の解決がつかぬ。均しく曲舞というても、時代によつて、内容が替つて居るのに拘らず、変化の尠い地方もある。年代の交錯して居るのは、一つは私の叙述法の拙劣なのにもよるが、方法自身、本質自体に、さう言ふ処があるからでもある。

此本をまづ整頓した形にしてくれたのは、私の国学院での最若い「臨時代理講師」時代から、私の講義を聴き続けて来てくれた、今の国学院大学教授今泉忠義さんである。この場合に言ふも変だが、私の民俗学に対する熱情は、此人及び谷川磐雄さん・高崎正秀さんの学生時代の清らかな心によつて煽られた事が多いことを述べて置く。次には、横山重さん・波多郁太郎さんの、恥しい私の書き物に対する、愛の充ちた編纂整理の上の御苦労を感謝して置かねばならぬ。殊に郁太郎さんには、此乱雑な文章集の為の、索引を作つて貰うたことをくり返して置きたい。

三冊を通じて、口だての筆記文が、大分交つてゐる。これでは随分、友人北野博美さんのおせはになつてゐる。其雑誌の為に、私の講義・座談を書きつゞめて、めんどうな私の発想法に即きつ離れつして、大抵の人に訣る程度にして下された友情を、あり難く思ふ。かうでもして頂かぬと、発表し渋る私なのである。国学院雑誌記者時代の、宮西惟喬さんを煩した物も二三ある。

古い物では、家の鈴木金太郎や、油絵の伊原宇三郎さん・水木直箭さん・牛島軍平さん・三上永人さん・今泉忠義さんなどにおしつけて、筆記や、書き替へをして貰うた横著の記憶がある。

近いところでは、袖山富吉さん・小池元男さん・小林謹一さん・向山武男さん・岡本佐氐雄さん等の講演のうとも、貸して貰うた。速記者のとつてくれたのも、少しあるが、殊に、認識不十分・表現不完全な、カミづった様なものになつてゐる。大岡山が、さう言ふ物までも、一応まとめて置くがよからう、と慂めてくれたから、つひ其気になつたのである。

今になつて、出さなかつたらよかつた、と思はれる未熟な論や、消え入りたい文句などが、ひよい〳〵と思ひ出される。大方たいはうの同情を以て、見のがして置いて頂きたい。あまり恥しいのは、却て何時か、書き直す衝動をつくることになり相に思ふ。

此本は三冊ながら、極めて不心切なところの多いのをおわびする。殊に、文章を解説するはずの写真図が、肝腎の本文なしに挿まれてゐて、却て画の為の解説のないことを、不審に思うて頂かねばならぬ事になつたのが多い。さう言ふ図は、出板当時の作者の心を唆り立てたものである。二冊のどれかに、大なり小なり関係のありさうな物を用意して置いたところが、其図に関係した文章が出ずじまひになつたり、思ひ違へから、とんだ場処に挿んだりして了うたのである。

「たぶ」の写真の多いのは、常世神の漂著地と、其将来したと考へられる神木、及び「さかき」なる名に当る植木が、一種類でないこと、古い「さかき」は、今考へられる限りでは、「たぶ」「たび」なる、南海から移植せられた熱帯性の木である事を示さう、との企てがあつたのだ。殊に肉桂たぶと言はれる一種が、「さかき」のかぐはしさを、謡ひ伝へるやうになつた初めの物か、と考へたのである。殊に、二度の能登の旅で得た実感を、披露したかつたのである。此側の写真は、皆藤井春洋さんが、とつてくれたのである。

文学篇の扉の処に出した「八百比丘尼」の石像は、四年前の正月、伊豆稲取のれふし町で見つけたもので、おなじ本の中にある房主頭の「さいの神」、帳面をひろげた女姿の「さいの神」らしいものとの間に、すゑてあつたのである。此神像は、土地の人すら、唯「さいの神」とより、今では考へて居ない様だ。が、左に担げた、一見蓮華らしい手草タグサが、葉の形から、椿と判断する外ない。八百比丘尼の信仰の造形記念物としては、今日の処、此石像より知らない私は、非常に喜んだ。其後、伊豆大仁在の穂積忠さんに頼んで、とつて頂いてあつたのを出さずには居られなくなつた。この三枚の写真の作者は、名を入れ落したが、穂積忠氏作と書き入れて貰ひたい。この人の学生時代、郷土研究会で報告した「伊豆のさいの神」の信仰を、新しく憶ひ起したことであつた。近代のは皆房主頭で、地蔵様との区別がなくなつてゐる様である。その配偶なる女性が、八百比丘尼と結びついた径路を思はせたかつたのである。椿も亦、上代から見える神木で、市の祭りに臨む神の手草・杖であつた。山から神聖な男・女の里の鎮魂に携へ来る木である。其枝を杖にする山の神女が、山姥となる一方、不死の八百比丘尼の信仰が出来ても、手草はやはり、椿であつた。フル年に花さく山茶花は、椿の字を宛てる花木の元の物である。それに代へて、今の椿を用ゐる様になつたのだ。海には「たぶ」、山には「つばき」、この信仰の対照を見せたかつた点もある。民俗篇一の「たぶと椿との杜」の写真は、さうした意味から出したのである。

八百比丘尼を採つた第一の理由は、別にある。漂浪する巫女の神語りとしての文学は、古代の海部──或は、山部──其後の「くゞつ」・「ほかひ」から、近代まで筋を曳いてゐる。盲御前ゴゼ・歌占の類から、念仏比丘尼・歌順礼の輩の生活が其である。

八百比丘尼を中心として、かうした因縁語りが、長い連環をなしてゐる。日本文学の発生を説く事に力を入れたあの本には、適当らしく考へられたのであつた。当時、私は凝視点を、口頭詞章の上に据ゑる方法を、国文学史の上に試みを積んで、稍自信の出かけた際であつた。此態度を表白するには、此上もない物と考へずに居られなかつた。

今度の本の巻頭は、又「たぶ」の木である。海から来る神と、海ぎはの崖に聳える神木との関係を想ひ見るに、一番叶うたもの、と見立てゝ置いた土地の写真が、遅れて手に入つたので、棄てられない事になつた。三河北設楽の山村の写真は、早川孝太郎さんの作で、花祭りなる神事舞踊を行ふ山人の生活と、環境とを想うて貰ひたかつたのである。念仏踊りの陰惨な古い面形は、あれを、壬生の寺で見た時の、ぎよっとした気持ちを以て、念仏芸能の古形を考へたかつた為だ。文学篇の「文学の唱導的発生」に説いた念仏にも、狂言──或は特に、歌舞妓狂言──の発生、分化にも、暗示を含んだものとして、地平社発行の民俗芸術写真集から、借用することにした。色彩から来るいやらしさが、写真には出ないのは、せんもない。沖縄の分は、凡私が、見当知らずにとつたもので、中には、二度目に同行した、三上永人さんの作も交つてゐる。壱岐の島の図は、亦私の写した中から出した。一枚だけ、絵はがきを複製した。後に出来た要塞地帯の規則に触れない様にと思ふので、執著ある絵も出さなかつた。人形芝居の処に挿んだ写真や銅版画などは、北野博美さんが、人形芝居号の為に、蒐集して出されたものを借用する。その中には、宮良当壮さんの見とり図もある。念仏者の用ゐた人形は、其前年私も写したが、此方が勝れてゐるから、転載させて貰うた。

横山重さんは、私の学問──と言へるならば──に、しん底から愛を持つてくれてゐる。時には脇で言ひふれてゐると言ふ、私への「ほめ詞」を又聞きに耳に入れてくれる。消え入りたい思ひをした事も、二度三度ではない。其ほかにも、一人や二人は、私の行き足をなごやかな眦で見つめてゐてくれる同情者のあるを感じてゐる。けれども、さういふ快い慰撫に甘える事が、直に情なくなる。私はさうした事にあふ毎に、虔ましさに立ち直るだけの心は落して居ない。だから、殊に大岡山から、こんな書物を出す事は、すまない気がする。けれども、此をさへ歓んでくれる心に負けて、とう〳〵ひき続けて、三冊までも、板にして来た。殊に此巻などは、殆、随筆集と言はれても、為方のない断篇が多い。夢の様に書き続けた草稿は、まだ〴〵ある。併しやつと、訣つて頂け相な文章と言へば、此だけであらう。

私は、世にハヾかる様な乗り気で、こんな物を出したのではない。もつとよい物を、寂かな心で書きたい。悔いの少い本を出したい。さうは思うてゐる。だが、今の処、大岡山の好意に酬いるにも、此だけの成迹を提供する外はないのであつた。

底本:「折口信夫全集 3」中央公論社

   1995(平成7)年410日初版発行

底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店

   1930(昭和5)年620

※底本の作品名「追ひ書き」に、収録書籍名の「古代研究」を補い、表題を「古代研究 追ひ書き」としました。

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2007年48日作成

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