発病
北條民雄



 いつたいに慢性病はどの病気でも春先から梅雨期へかけて最も悪化する傾向がある。結核などはその著しい例であらうと思ふが、癩もやはりさうで、この頃になるとそれまで抜けなかつた頭髪が急に抜け始めたり、視力が弱つて眼がだんだんかすんだり充血したりする。私もこの春突然充血した眼が、いまだに良くならないでゐる。勿論その頃に較べるとずつと良くなつたし、それに秋がもう始まつてゐるのでだんだん良くなつて行きつつあるが、それでも一度充血するともう完全な恢復は不可能である。それ以来ずつと視力が衰へて、夜などちよつと無理をして本を読み過ぎたりすると、翌日は一日中じくじくと眼の中が痛む。何かひどくしみる薬液──たとへば硝酸銀──をさされたやうで、黒い眼鏡でも掛けない限り、明るい屋外を歩くことが出来ないくらゐである。まことにそれは憂鬱なものである。

 だから、癩の発病も定つて春さきで、秋や冬に発病したといふのは非常に少い。私が発病したのもやはり春、四月頃だつたと記憶してゐる。発病とは無論自覚症状を言ふのであつて、それまでには病勢は相当進んでをり、彼等は長い潜伏期のうちに十分の準備工作を進めて居るのである。

 自覚症状に達する前一ヶ年くらゐ、私は神経衰弱を患つて田舎でぶらぶら遊んでゐたが、今から考へて見るとそれは既に発病の前兆だつたのである。変に体の調子が悪く、何をやるのも大儀で、頭は常に重く、時には鈍い痛みを覚えた。極端に気が短くなつて、ちよつとしたことにも腹が立つて、誰とでも口論をしたものであつた。

 それでゐて顔色は非常に良く、健康そのもののやうだと人に言はれた。両方の頬つぺたが日焼けしたやうにぽうと赧らんで、鏡など見ると、成程これは健康さうだと自分でも驚いたくらゐであつた。従姉などに会ふと、お前は何を食つてそんなに顔色が良くなつたのか、神経衰弱なんてうそついてゐるのだらうと言はれた。そしてこれが、やがて来るべき真暗な夜を前にして、ぱつと花やぐ夕映えのやうなものであらうとは、私は無論知らなかつた。

 そのうち年が更つて一ヶ月もたたぬうちに私のその健康色は病的な赤さに変つて、のぼせ気味の日が続き、鼻がつまつてならなくなり出した。医者に診て貰ふと鼻カタルだと言はれた。それで一日三回薬をさしたが、ちつとも効かないで日が過ぎた。

 かうして二月も半ば過ぎた或る日、私は初めて自分の足に麻痺部のあることを発見した。どういふ工合にして知つたのかもう忘れてしまつたが、ひどく奇異な感じがしたので、何度も何度もつねつて見たり、ためしに針をつきたてて見たりしたのを覚えてゐる。をかしいと思つたが、しかし別段かゆくも痛くもないことなのでそのままほつたらかして置いた。ところが、さうしたことがあつてから間もない或る日、寝転んでぱらぱらとめくつてゐた雑誌に癩のことが書かれてあるのを発見し、好奇心にかられて読んで見たのであつた。そしてそのとたんに私はさつと蒼白になつたのを覚えてゐる。

 私は不安になつたのである。俺は癩かも知れない。癩だらうか、そんなばかなことが、しかしさうかも知れない。私は夢中になつてズボンをまくり上げ、麻痺部を調べた。ひよつとしたらもう麻痺なんか無くなつてゐるかも知れない。さう思つてたまたつねつて見たのだつたが、やはりそこには何の感じも伝はつて来なかつた。しかし麻痺したからつて必ずしもレパーだとは言へないぢやないか、と私は自分を元気づけてみたりしたが、不安は暗雲のやうに広がつた。人間が運命を感ずるのはかういふ瞬間である。私はどがんと谷底に墜落した思ひで、運命と鼻をつき合せたやうな感じであつた。真黒いものが潮鳴りのやうな音をたてて私にうちかかつて来た。私はその時初めて闇といふものを見たのである。

 しかし私はすぐ冷静になり、冷静になると同時に自分の驚きの大きさがばかばかしくなつた。よし癩であることが確実だとしても、何も驚く必要はありやしない。現代の医学では治癒すると言ふぢやないか、それに、第一この俺が癩病患者になるなんて信ぜられんぢやないか、この俺が。──

 大臣でもルンペンになり得るといふことを、私はその時知らなかつた。人は誰でも、自分は特別の位置にあると思ひ込んでゐるし、またさう思つてゐればこそ生きられるのであるが、私もやはりさうであつたのだ。例へば新聞で殺人事件や自殺の記事を読んでも、自分がさうしたことの当事者になることがあらうとは誰も考へぬであらう。なんとなく自分とは別な種類の人間がすることのやうに思ふのが普通である。しかし別な種類の人間などどこにもゐはしないのである。人は誰でも同じである。一朝ことが間違へば強盗でも強姦でも殺人でも自殺でも、その他なんでもなし得るのが人間の宿命である。が兎に角その時私は、自分が癩者になり得るとはなかなか信ぜられなかつた。俺が癩患者だつて、ばかな! と私はじぶんの考へをひと蹴りしたのであつた。

 けれども、それから一ヶ月も経たぬうちに更に自分の新しい症状を知らねばならなかつた。もう夕刻近かつたと覚えてゐるが、妙に眉毛がかゆく、私はぼりぼりと掻きながら自分の部屋へ這入つた。そして何気なく指先を眺めると抜けた毛が五六本かたまつてくつついてゐるのである。をかしいと思つてまた掻いて見ると、また四五本くつついてゐるのであつた。おや、と思ひ、眉毛をつまんで引つぱつて見ると、十本余りが一度に抜けて来る。胸がどきりとして、急いで鏡を出して眺めて見た時には、既に幾分薄くなつてゐるのだつた。私は鏡を投げすて、五六分の間といふもの体をこはばらしたままじつと立竦んでゐた。LEPRA! といふ文字がさつと頭にひらめいた。殆ど決定的な感じがこもつてゐた。私はけもののやうに鏡を拾ひ上げると、しかし眺める気力もなく畳に叩きつけたのであつた。

 三日たつて、私は村から五里隔つたまちの病院へ診察を受けにいつた。家の者にはまちへ遊びに行つて来るからとごまかしておいた。家の者といつても私は祖父母との三人暮しであつたが。父は義母と共に義弟や義妹を連れて別居してゐた。

 その病院は市ではかなり信用のある皮膚科専門で、院長はもう五十を過ぎたらしい人である。待つ間もなく私は診察室に通された。麻痺部を見せ、眉毛の脱落を述べると、彼は腕を組んで、頬に深く皺を寄せて私の貌を眺めた。

「どういふ病気でせうか。」

 と訊いてみたが、ううむと唸るだけで返事をしなかつた。私はその重大さうな表情で、もう自分の病名を言はれたのと同じものを感じとつた。私は自分でも驚くほど冷静であつた。

「レパーぢやないでせうか。」

 と思ひ切つて訊ねると、

「さうだらう。」

 と彼は圧しつけるやうな重々しい声で言つた。私は今その時のことを考へながら、どうして彼が、私の言葉に対して「さうだ」とは言はなかつたのか不思議でならない。さうだらう、とはまことに医者らしくない言葉だからである。さうだと断定するのは残酷な気がして言へなかつたのかも知れない。

「あんたの家族にこの病気の人があるかね。」

「いや、ないです。」

「二三代前にあつたといふ話は聴かなかつたかね。」

「全然そんなことはありません。しかしこれは伝染病ぢやないのですか。」

「さう、伝染病だがね、ちよつと……。」と言葉尻を濁して黙つた。暫くたつてから、「研究中といふことにして置きます。診断すると警察の方へ通知しなければならないから。」と言つて出て行つた。入れ違ひに年をとつた看護婦が来て私を寝台の上にうつぶせに寝かした。私は初めて大楓子油の注射を尻へしたのであつた。

 外へ出ると、私はすぐその足で本屋へ立寄つて土田杏村の『哲学概説』と他に心理学の本を二三冊買つた。何のためにその本を買つたのか自分でも判らなかつたが、兎に角何かして気をまぎらはしたかつたのに違ひない。私はそれから市中をあつちこつちと歩き廻つて最後に活動小屋へ這入つた。大して絶望もしないで、私は極めて平然としてゐた。しかしその平然とした気持の底に、真黒な絶望と限りない悲哀が波立つてゐることを、私はかすかに意識してゐた。さういふ意識があつたからこそ本を買つたり活動小屋へ飛び込んだりする気になつたのである。

 それは、何かの糸口を見つけて湧き立つて来ようとする絶望感を、じつと押へ耐へてゐる気持であつた。その気持をもし横からちよつとでもつつかれたりすると、私は忽ちその場でがつくりと膝を折つてしまつたであらう。

 活動は「キートンの喜劇王」だつた。館内は割れるやうな爆笑の渦で波立つてゐたが、私はちつともをかしくなかつた。大げさな身振りと少しも現実性のない場面と場面の重なりが腹立たしくてならなかつた。私は人々と同じやうに笑へなくなつた自分を意識した。とたんに激しい孤独感が押し寄せて来さうになつた。私は必死になつてそれに反抗し堰きとめようと努力した。何でもない、何でもない、俺はへこたれやしないと声に出して無理に呟いた。

 小屋を出ると運の悪いことには小学校時代の友達にばつたり出合つた。彼はその小屋のすぐ近くの店に奉公してゐるとのことであつたが、私はそれまで知らなかつた。二人は貧弱なカフエに這入つてビールを飲んだ。酒を飲んではいけないとさつき病院で聴かされて来たばかりだつたが、私は別段やけでもなく三本を飲んだ。そして更にウヰスキーを三四杯飲んで、それから別れた。しかし少しも酔つぱらはなかつた。

 家へ帰るのがなんとなく嫌悪されてならなかつたので、私は海辺へぶらぶらと歩いて行つた。東京で言へばちやうど芝浦といつたやうなところで、埋立地になつてゐる所には、不用になつたボイラーや、鉄くづや、木材などが積んであつた。もう夕方になつてゐたので、海は黒ずんで、底の方に怪物でも忍び込んでゐるやうな気配がした。夜といふものはその怪物の吐き出す呼吸に違ひない──薄闇の中に融かされてゐるやうに煙つた海原を眺めながら、そんなことを思つてゐると、不意に「ああ俺はどこかへ行きたいなあ。」といふ言葉が自分の口から流れ出た。言はうと思つて言つたのではなかつた。自分の中にゐるもう一人の自分が、せつぱつまつて口走つたやうに、客観的に聴えた自分の声であつた。泣き出しさうに切ない声であつたのを、私は今も忘れることが出来ない。

 かうして私の癩生活は始まつたのだつた。私は十日に一度づつその病院へ通つた。勿論祖父母にも別居してゐる父にも病名を明して、半年ばかり通ひ続けた。しかし何の効果もないことは勿論である。そして凡ての癩者がするやうに、売薬を服用し薬湯を試みてみたが、やはり何の効目もなかつた。そして今ゐる病院へ這入るまでの一ヶ年に幾度死の決意をしたか知れなかつた。しかし結局死は自分には与へられてゐなかつたのである。死を考へれば考へるほど判つてくるものは生ばかりであつたのだ。

 けれど、病名の確定した最初の日、活動館の中で呟いた、

「なんでもない、なんでもない、俺はへこたれやしない。」

 といふ言葉と、海辺で口走つた言葉、

「ああ俺はどこかへ行きたいなあ。」

 の二つはいつまでも執拗に私の頭にからみつき、相戦つた。今もなほさうである。恐らくは死ぬるまでこの二つの言葉は私を苦しめ通すであらう。どつちが勝つか自分でも判らない。もしあとの方が勝てば私は自殺が出来るであらう。どちらが勝つても良いと思ふ。私は自分に与へられた苦痛をごまかしたり逃避したりしてまで生きたくはない。生きるか死ぬか、これが解決を見ないまま時を過して行くことは実際苦しいことではある。しかし私の場合に於てさう易々と解決がついてたまるものか。苦しくともよい、兎に角最後まで卑怯なまねをしたくないのである。苦痛に正面からぶつかつて自分の道を発見したいのである。

底本:「定本 北條民雄全集 下巻」東京創元社

   1980(昭和55)年1220日初版

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:Nana Ohbe

校正:伊藤時也

2010年912日作成

2011年415日修正

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