書簡
家族・親族宛
原民喜



●昭和十一年四月三十日 千葉市登戸より 村岡敏(末弟・当時明治大学ホッケー部に在籍し、ベルリンオリンピックに代表として派遣された)宛

今朝早くから女房が起すのである それから一日中オリンピツクのことを云つて女房は浮かれ たうたう我慢が出来ないと云ふので速達を出すといふのである 大変芽出度いこととワシも思ふのである この上は身躰に注意し晴れの榮冠を擔つてかへつて來い 原家一同それを望んでやまないのである

四月丗日

 村岡敏君万才




●昭和十一年六月三十日 千葉市登戸より ベルリン在 村岡敏宛

拜啓 シベリア鉄道は長い長い蛇体じやたいでしたか 日本では「忘れちやいやよ」といふレコードが發賣禁止になり 男お定が出沒して居ります 千葉は梅雨で眼の赤い氣球がゆらゆら搖れて居ります 柳町の叔父さんはこの間下関まで君を見送り帰りに秋吉の鐘乳洞を見物したさうです 善次郎君はこの夏は北海道旅行をする由です 北海道もビイルはうまいといふ話だがドイツのビイルはどんなにかうまいことかと想像します ドイツで飲むからうまいらしい さて代表軍の元氣は盛ですか この間東京出發の際は少し痩れて居たやうだが 長の旅路のこと故 勢と自愛が肝要ですぞ デエトリツヒのやうな女どもが右往左往して居る伯林 ナチスのナスビ鬚 それから柳町ではまた遠からず芽出度いことがあるさうです 草々

杞憂

六月丗日

村岡敏君

追伸 千葉の小犬は大分娘らしくなりました 今年の暮頃には子を産むかもしれないといふ噂です




●昭和十一年七月十五日 千葉市登戸より ベルリン在 村岡敏宛

拜啓 先日はドイツ軍と試合して勝つた由 芽出度い どしどし勝つて全勝して帰り給へ そうすると大変都合がいいから是非お願ひしておく 今日はうらぼんで籔入りで松竹少女歌劇も勝てオリンピツクとかいふオペラをやつて居る やつと梅雨が晴れて千葉も暑くなり蚊がブンブンブンブンブンブン啼く ベルリンには蚊が居るかしらん身躰を大事にして元気で暮し給へ

 七月十五日

杞憂

 村岡敏君〓(判読不可。「尓(に)」あるいは「与(よ)」か?)




●昭和十一年七月二十四日 千葉市登戸より ベルリン在 村岡敏宛

暑中御伺申上候サテサテ日本軍は勝ちましたか 城谷では十一月に赤ん坊が生れるそうです 伯林でもう少しはサインして貰ひましたか 伯林の女學生がサインしておくんねえと強請りはしまへんか 今日は颱風が吹いて居て昨日長崎沖で軍艦が搖れて沈みかけた アア防空演習で東京はマツクロケノケだそうだ アルプス登山の四勇士はあへなく倒れたそうですね 千葉の小犬には近所の不良犬がぞろぞろと押しかけて來ます それこそ選りどりみどりだと申し居り候

御健勝を祈る

草々

村岡敏君

七月廿四日




●昭和十三年頃 旅先の箱根から 千葉市登戸二の一〇七 妻の原貞恵宛

 さつきまで霧だつたが、今は雨が音をたててゐる。鶯が啼いたりききなれぬ鳥の声がする。昨夜は廊下の燈が眩しく、それに夜どほし咳をする人や赤ん坊の声で睡れなかつた。どこへ行つても理想的な場所はないらしい。そんな愚痴を自分でもをかしく思ひながら、神経は絶えずいらだつて居る。千葉の方も心配だし比較的早く帰るかもしれない。強羅は蠅が物凄かつた。世間の人の平気でゐることを苦労にする自分は一体どうかしてゐるのだらうか。今日部屋をとりかへた。

 既に世界は二つの種族に分かたれてしまふ。極端に野蛮人とまた極端に非生活的人と。

 その中間はすべて穏かなるロボツトのみ。




●昭和十八年?頃 発信所不明(千葉市登戸二の一〇七の自宅からか)深川恭子(妹)宛

 千葉へ帰つて会社へも出たが疲れが出たのか熱が出て一日寝た。どうも気候が定まらず今日もまた変な雨が降つてゐる。

 扨て別便で小包を送つたから受取られたい。セビロはいつの間にか少し虫が食つてゐたので余り切れを入れておいた。

 麻布はあれで開襟を拵へて欲しい。半袖でいい。カラーサイズは十五。

 白い布はカラーを作つて貰いたい。なるべく尖のところが細長い型にしてもらひたい。

 つまり下図の如き型。

 開襟の方は来年の夏までに作つてもらへばよい。




●昭和二十一年四月四日 東京都大森区馬込東二ノ八九九末田方より 倉敷市元町四二七 深川恭子宛

 卅日に上京した。

 なかなか東京もよく焼かれてをるのに感心するが焼残つてをるところもあり広島とは違つたものを感じることもたしかだ。

 末田からスタイルブツクもらつたから今度美樹でもことづけよう。

 和木氏は上海に居るさうだから近く帰つて来るだらう。

四月三日




●昭和二十一年五月十八日 東京都大森区馬込東二ノ八九九末田方より 広島市古田町字高須二三六 前田恭子宛

 端書を有難う。高須の新居穏やかに緑葉のゆらいでゐることであらう。今年は五月が梅雨のやうに寒冷で、おまけに近頃は米の配給はなく東京の電車に笑顔を湛えてゐる人間を見かけなくなつた。和木さんを訪ねたら二人とも頗る元気さうだつた。先頃千葉へ行つてみた。もとの家は無事に残つてゐたので損したやうな気がした。昨日美樹が来た。一緒に映画見た。




●昭和二十一年六月二十一日 大森区馬込末田方より 広島市古田町字高須二三六 前田恭子宛

 前略

 前便で無理な御願い申込んだが、その後こちらで何とか打開の途がつきさうになつたからあの件は放念してくれ給へ。

 昨日からすつかり夏めいて来た。美樹君が昨日来たのでスタイルブツク渡しておいた。僕は来月十四日から休暇。

 御健勝を祈る。




●昭和二十一年七月三十一日 大森区馬込末田方より 広島市古田町 前田恭子宛

 暑中見舞有難う。今年の暑さは非常であつたがこの二三日凉しく今日は雨。明日から又暑くなるさうだ。食糧困難に変りはないが近頃は休暇なのでまあ昼寝などしてゐる。八月六日もすぐだが、その日広島では復興祭があり、録音を巴里に放送するさうだね。一寸行つてみたいやうだ。去年の今日は浜松艦砲射撃、去年のこの頃は元気で饒津へ逃げて行つたものだね。

 開業も近いさうだが御発展を祈つておく。皆様によろしく。美樹君はよく遊びに来るかしら。江波ダンゴだつて今から思へば御馳走だよ。

七月三十日




●昭和二十一年四月 大森区馬込末田方より 広島県佐伯郡平良村 原信嗣(長兄)宛

 先日はいろいろ御世話になりました。七時二十五分広島発の列車は大竹から、復員列車として変更されてゐたので、大変な混み方でしたが、とにかく無事で東京へ参りました。来てみれば東京はうんざりさすものと何か新しく期待さすものとに満ちてゐるやうです。荷物も全部無事で届きました。転入は転出証明だけでは駄目なので、一寸暇どるやうです。とりあへず第一報まで。美樹君によろしく。早くやつて来いと云つて下さい。




●昭和二十一年五月七日 大森区馬込末田方より 広島県佐伯郡平良村 原信嗣宛

 その後お変りございませんか。今年はいつまでも寒いやうですね。今日は結構なもの有難うございました。五、六月の食糧危機を切抜ければあとは少しは楽になるだらうと観測されて居ります。近所で発疹チブスが出たのでDDT(殺虫剤)を振りかけられ部屋中粉だらけになりました。注射もしました。

五月七日




●昭和二十一年七月 大森区馬込末田方より 広島県佐伯郡平良村 原信嗣宛

 拝啓 その後は御無沙汰致して居りましたが御元気のことゝ存じます。

 美樹君も帰省してゐるので、こちらの様子も御聞のことゝ思ひますが、何分先月は全く餓死の一歩手前まで追ひつめられ心身ともに衰弱してゐました。それでつい恭子に無心なぞしましたが、すぐ後でいけなかつたと思ひました。

 こんどの小切手有難くいただいておきます。

 ズツクと蚊帳はたしかに受取りました、あの際すぐ礼状差出したのですがハガキだつたので届かなかつたのでせう、出したハガキが途中で紛失する例は再三ならずあるのです。

 東京は盆で電車はもの凄いばかりです。それでは暑さの折から御大切に。

   兄上様

民喜




●昭和二十一年十月十三日 大森区馬込末田方より 広島県佐伯郡平良村 原信嗣宛

 毎日よく雨が降つてじめじめした天気がつづいて居ます。廿日市の秋はどうですか。もう松茸も出る頃でせう。松茸どころかこちらは一ヶ月以上も米の味を忘れて居ます。最低生活をしながら金は矢鱈にかかり困つたものです。今年は豊作で増配の見込などと云はれてゐますが、ほんとか、どうか疑はしくなる程です。美樹君ももう来るかしらと思つて居ましたがなかなか出て来ませんね。

 先日は小切手有難う御座いました。第一封鎖に受つけてくれました。特殊預金など今後どうなるのでせうか、財産税などの手続で御存知のことがあったらその都度御教へ下さいませんか。扨て話は別ですがヘンリー・クボ君は大阪へ転勤になりました。そのヘンリー君の紹介で増岡登三郎といふ伯父を知ることが出来ました。先日牛込の家へはじめて訪ねて行きました。七十二歳といふことですが、なかなか元気さうな人です。古いことをいろいろ聞かされました。そこの家は戦禍を免れ息子は九州の方に居て今は夫妻きりの暮しです。で、もし御上京の折など宿にお困りでしたら、米を御持参になれば宿位は貸してあげるから、さう伝へておいてくれとのことでした。

 牛込弁天町 一三五    増岡登三郎

 もつともまだ東京見物は陰惨の域を出ないでせう。有楽町駅のコンクリの上にも上野公園の石段の上にも赤ん坊を抱へた女がぽかんとした顔でねそべつて居ります。銀座は綺麗になつたやうですが全体としてまだまだ焼跡のままのところが多いやうです。

 それではみなさんによろしく。

十月十三日


史朗君へ

 大きいやうで小さく小さいやうで大きいものは

 一ぺんおじぎをすれば四五へんおじぎをしてもらへることがあるがなに(答はうらにある)

 答 原子爆弾 駅で他人におじぎをしてタバコの火を貸りてタバコを吸つて居れば、すぐ誰かが、また火をおかし下さいと云つておじぎするよ。




●昭和二十一年十一月二十七日 大森区馬込末田方より 広島県佐伯郡平良村 原美樹宛

 美樹君 慶応義塾は財政難で倒れさうになつてゐるよ。塾長改選問題なども紛糾してゐるし、早く君が出て来て何とかしてやつてくれ。今度の土曜に十一番教室で三田文学紅茶会があるが出て来ないか。この頃はときどき米が食へるやうになつた。

十一月二十七日




●昭和二十一年十二月十六日 大森区馬込末田方より 広島市幟町 原信嗣宛

 永らく御無沙汰してゐましたが御変りございませんか。既に幟町の方へ転宅なさつたのではないかと思つてそちらへこの手紙差出します。先日美樹君が上京し御近況も承はりました。特殊預金のこと何とも御気の毒なことです。財産税を控へてインフレは昂進するばかりで困つたものです。こちらでは又、食糧の遅配がはじまりどうなることやら暗澹たるものです。上野駅のコンクリートの上に寝起する宿なしの群はニユース映画でも出て来ますが実際を見て来た人の話をきいては一層驚かされます。新聞紙をコンクリートの上に敷いて寝るのでそのため夜遅くなると夕刊が五十銭に値上になるさうです。

 美樹君も折角上京したのに宿が無くて帰京し気の毒なことです。

 扨て私はこの月の二十一日に学校が終りますから一度そちらへ行つてみたいと思つてゐます。二十五日か六日に出発、途中倉敷と本郷へ立寄りますから広島へ着くのは卅日頃となるでせう。何分その折にはよろしく御願ひ致します。

 寒さの折柄、御大切に。皆さんによろしく御伝へ下さい。

   兄上様

民喜




●昭和二十二年一月八日 大森区馬込末田方より 広島市幟町 原信嗣宛

 先日はいろいろ御世話になりました。慌しい旅でしたが印象深いものでした。

 帰りの汽車も大混乱でした。

 美樹君に見送り有難う。




●昭和二十二年二月七日 大森区馬込末田方より 広島市幟町 原すみ江宛

 お手紙有難うございました。

 寒はあけたのに、まだまだ寒いことですが、皆さんは御元気の様子何よりと存じます。先日帰郷の際は何彼と御世話になり有難く御礼申上げます。とても大変な汽車でしたが拵へていただいた弁当がおいしかつたので助かりました。その後こちらではあんなおいしいものは食べられません。寒いのでとかく縮こまつてゐますが東京の街もインフレで憂鬱なことです。

 扨て着物の件いろいろ御配慮にあずかり済みませんでした。私にも見当がつきませんからまあ適当な値段で処理して下さい。何分早い方が結構なのですから。

 増岡登三郎氏のことについては、美樹君に先便で申上ましたが、まああんな人なのですから仕方がないでせう。荷物は先方から発送してくれることと思います。それにしても早く美樹君の宿が見つかるといいのですが。

 先日も永井君が逗子の方へ探してやるとは云つてゐましたが、住宅難はなかなか深刻です。

 新新円が出るといふ噂も御座いますが、何が飛び出してくるやら全く日本の前途は暗澹としてゐます。

 寒さの折、御大切に。皆さんによろしく御伝へ下さい。

   姉上様

二月七日 民喜




●昭和二十二年三月二十九日 大森区馬込末田方より 広島市幟町 原すみ江宛

 御手紙有難うございました。みなさん元気で結構なことと存じます。大分陽気も暖かになりましたから広島も賑やかになつてゆくことでせう。東京も人足ばかりはぞろぞろしてゐますが、闇市の闇の物凄いことに胆を抜かれさうです。茂君も上京したさうですが、まだこちらへは姿を見せませんが、いづれ立寄ることでせう。美樹君も下宿がなくていらいらしてゐることでせう。私の考では増岡増造さんに当座の宿をたのんでみてはどうかしらと思ひます。

 煙草はまた高くなるし、銭湯へも滅多に行けずやねこいことばつかしです。

   姉上様

民喜




●昭和二十二年八月十五日 東京都中野区打越十三より 広島市幟町 原美樹宛

 暑いね、今年は少し暑すぎるやうだ。広島も暑いことだらう。この頃こちらは停電と断水が毎日つづき水も思ふやうには飲めないが阿佐谷の家鴨ばかりは、のん気さうに啼いてゐる。先日ウイスキーの配給があつたので、飲んだら久振りに酔つた。

 暑いからこれで失敬。

 凸版印刷が争議中なので又雑誌が遅れた。




●昭和二十二年十二月一日 東京都中野区打越十三より 広島市幟町 原すみ江宛

 昨日はジヤケツを有難うございました。恰度具合がいいので大変うれしく思ひます。

 ここのところ毎日ぽかぽか温かくありますが、部屋がまだ見つからないので、気が気ではありません。美樹君に話してありますが夏のズボンをそのうち縫つていただけないでせうか。茂君は元気です。




●昭和二十三年五月四日 東京都神田神保町三ノ六より 広島市幟町 原信嗣宛

 先日は有難うございました。

 暫くのあいだ坐つてゐて御飯が食べられたので、東京へ戻つて来ると外食に出あるくのが忙しく佗しいことです。

 土地のことなるべく早く御願いしておきます。

 みんなによろしくお伝へ下さい。




●昭和二十三年七月十七日 東京都神田神保町三ノ六より 原信嗣宛

 不順な天候がつづいてゐますが皆さんお元気の様子で結構に存じます。今朝ほどズボンを有難うございました。お蔭でたすかります。麻のきれを持つてゐたので、白ズボンを拵へました。そして元の夏服のずぼんは半ずぼんになほし上衣は黒に染めました。これでどうやら夏の用意ができたと思つてゐると、太田咲太郎氏や水木京太氏が急に死にましたので、告別式の服に間にあひました。まづまづかつかつのところで身のまはりのものも間にあつてゆきます。御健勝を祈ります。




●昭和二十四年七月十三日 神田神保町より 原美樹宛

 すつかり夏らしくなつた。僕は毎晩、南京虫に攻められてゐるので、昔の空襲警報の頃を思ひ出す。八月六日頃そちらへ行つてみたい気もするのだが、暑いし金はないし、旅行もこの節は汽車が危険だしやめにする。村岡は結婚したのかしら。

 何だかんだとこの頃は、酒をよく飲むお蔭で貧乏してゐる。




●昭和二十五年二月 東京都武蔵野市吉祥寺二四〇六より 広島市幟町 原信嗣宛

 御手紙有難うございました。

 副報告書たしかに受取りました。

 美樹君にはおめでたとの由、私も近頃童話を書きはじめてゐますが、美樹君たちの息子や娘がそれを読んでくれる日もあるだらうと思つてゐます。




●昭和二十五年四月六日 東京都武蔵野市吉祥寺二四〇六より 広島市幟町 原信嗣宛

 春らしくなりました。みなさんお変りございませんか。美樹君の新家庭もうららかなことと思ひます。扨てペンクラブの会が十五日に広島で行はれますので、それまでに広島へ行くことにしました。着広は十二日か十三日になります。よろしく御願ひ致します。




●昭和二十五年四月末ごろ 東京都吉祥寺より 広島市幟町 原信嗣宛

 滞在中はいろいろ御心づくし有難うございました。

 久し振りにみんなの元気さうな姿を見て嬉しく思ひました。

 今朝無事で東京に戻りました。

 こちらは雨で寒く火鉢をかかへてゐます。みなさんによろしく。




●昭和二十年八月二十三日 広島県佐伯郡八幡村田尾方より 茨城県高萩町南町深谷方 永井善次郎(佐々木基一)宛

 ゴオルキイの幼年時代を読みかけて面白くなつたところで、その本も灰になりました。その少し前には横光の上海と山本の真実一路を読みましたが上海はこけら脅しの作品だと思ひました。阿部次郎の三太郎の日記これも中途で灰になりましたが今度ここへ来て漱石の彼岸すぎまでを読み、あの日記にしろ漱石の作品にしろ明治四十何年代のものですが、それを思ふと、明治四十年代は昭和年代よりか進んでゐたのではないかと思つたりします。ただ昭和のものの考へ方は──それも戦争前迄のことですが、軟柔性に富んでゐたやうです。

 僕の蔵書も九割以上灰になりました。焼かれることは分つてゐながら輸送が出来なかつたのです。紙も二三冊のノートのほかは全部焼けました。これから大いに書かうと思ふと少し残念です。が紙は出て来るでせうね。ここでは米が足らないので一日にわづか二杯のかゆしか摂れません。しかし昨日は何処かからパイナツプルの罐詰が舞込みました。御健勝を祈ります。話したいこともあるやうですが遠からず再会も出来るでせうね。

八月二十三日




●昭和二十年九月十五日 広島県佐伯郡八幡村田尾方より 松戸市三丁目一〇〇三鴻巣方 永井善次郎宛

 高萩町といふのは地図で見ると海岸にあるやうですね。八幡村といふのは廿日市から一里あまり奥へはいつた寒村です。こないだから手紙を出しましたが届かなかつたことでせう。本郷にも思ひがけぬ不幸が訪れたものですね。

 広島の中心部で罹災した人は油断が出来ないらしいやうです。僕達も一ヶ月あまりを半病人のやうに勢なく暮して居ります。何せ食糧が足らないので無理もありません。

 また九月二十八日がやつて来ます。思へばあはただしい一年間でした。近いうちに本郷を訪れようと思つて居ります。それでは御元気で居て下さい。

九月十五日 原民喜

永井善次郎様




●昭和二十年十月十二日 八幡村より 松戸市三丁目一〇〇三鴻巣方 永井善次郎宛

 九月三十日日附のハガキ今日受取りました。もしかすると君は本郷の方へ居るのではないかとも思ひそれだと上々、僕も本郷を訪ねたいと思つて居るのですがまあこの手紙は松戸の方へ差出しておきます。八月六日の事は今になつて考へてみると、更に奇怪な感にうたれ勝ちです。あの朝八時頃警戒警報が解除になつて間もなく、広島上空に一機がパラシユートを投下したのを見たといふ人があります。そのパラシユートから光線が放射されたのを見たといふ人は沢山あります。僕は何も知らないでパンツ一つで、便所に居ましたが、急に頭上に一撃を加へられそれと同時に、眼の前は暗闇と化しました。がものの二三分するとあたりの破壊されてゐる光景が見えて来ました。家は柱と天井と床を残してあとは滅茶目茶になつてゐました。僕は身支度を整へ、隣家から煙が見えだした頃外へ逃出しました。見渡すかぎり家屋は倒壊してゐました。泉邸の川岸へ逃避すると向岸が燃えて居ました。はじめは小型爆弾の破片でも我が家へ落ちたのかと思つてゐましたが、ここへ来て見るとだんだん様子が違つてゐるのに気づきました。それに火傷した人の顔を見てびつくりしました。顔が黒焦になつてふくれ上つた人間が、男も女もあつたものではない姿でのそのそ歩いてゐました。その晩広島の街は燃えつづきました。水を求めて狂ひまはる瀕死者の叫びは生地獄でした。翌日東練兵場の治療所へ行きますとここでもひどい姿を見せつけられました。炎天の下に放り出されたまま、何の救助をも受けないで死んで行く人人を見るにつけ、もう戦争もおしまひだなと感じました。「兵隊さん助けてえ」と叫ぶ若い女もありましたが兵隊もひどく負傷してゐました。後できけば二部隊(むかしの十一聯隊)は全滅ださうです。西練兵場は死骸の山だつたさうです。何しろ外に出てゐた人は光線でやられたのです。勤労奉仕に出てゐて一村全滅になつたところもあります。人口の七割は死んだやうですが後から変調を来たして死ぬる人を加へるともつと多いいでせう。柳町の長男も九月二日頃、頭髪が脱け鼻血がとまらず躯に斑点が出て重態でしたが、これはどうやら持ちこたへ、今は快方に向つて居ます。本郷の兄の死因もこれと同じだらうと思ひます。元安橋辺が中心地ですから食糧営団あたりに居た人は負傷はしてゐなくても何かいけない影響を蒙つたのでせう(ガスを吸つたといふ人もあります)。幟町も中心地から二粁以内にあり危険区域ですから安心はできません。現に死んで行く人もありますし、助かつてゐる人の方が珍しいのです。僕は軽いかすり疵を受けただけでしたが右の眼の方に少し神経的の異常が生じ時時妙な光線がチラついて困ります。八幡村へ移る時広島の焼跡を通過しましたが全く奇怪な光景でした。銀灰色の廃墟のところどころに配置されてゐる死体はどうも人間離れのしたポーズで赤くふくれ上つてゐるのです。馬なども胴体がひどく膨脹して倒れてゐました。地獄といつてもこれは近代化された姿でせう。戦慄よりもさきに奇怪さにうたれるばかりでした。大体この空襲は不意打でしたので恐怖する暇もなく僕なども平素の臆病にもかかはらず落着いて行動できました。しかし死ぬるのも助かつたのも紙一重の相違でした。

 さて原子爆弾の話はこれ位にしておきませう。毎日よく雨が降りつづくので困ります。ここは食糧事情が悪くて弱らされて居ります。早く汽車に乗れるやうになり何処で暮しても困らないやうになつてくれないかなあと思ふばかりです。僕もなるべく早く都会の近くに栖みたいし、これからは大いに書きたいと思ひます。君の今後の活動も期待して居ります。雑誌も早く読みたいものです。光太からも久振りに便りが来ましたが彼も大いにやるのでせうね。みんなと逢つて話してみたいと思ひます。それでは御元気でゐて下さい。

十月十二日 原民喜


永井善次郎様




●昭和二十年十月三十一日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛

 手紙を出さうと思つてゐたところへ手紙を頂きました。

 先日本郷へ行つて来ましたが、上りも下りも大変な列車で窓から乗り窓から降りるのでした。ことに上りは復員やら朝鮮帰りの旅客で目もあてられないやうな暗さでした。本郷でも恰度八百三さんが家族をつれて帰つて来たところでした。こんどは分家で大変お世話になりました。

 昨日は城谷の葬式でした。城谷の家から一キロ離れた焼場には白骨がゴロゴロしてゐる叢で、そこに棺もなく家屋の破片をたきつけとして、夕暮、火はしめやかに燃えて行きました。電車が無くなると云ふので早目にひきあげ、土橋へ出る川の堤をとぼとぼ歩いてゐると、あたりは灯一つ見えない焼野で、まだ死臭がかすかに漾つてゐるやうでしたが、ふとその真暗なところから赤ん坊の泣声が洩れて来るのにははつとしました。(よくありさうな話ですがこんなことはやはり書きたい気持をそそります)

 僕も早く仕事に没頭できる環境が得たく(現在の住居では十人家族なので本を読むのも容易ではありません)心を悩まして居ります。先日も勝美さんに一寸お願ひしておいたのですが、忠海辺へ下宿でもあればと思つて居ります。東京近辺でも適当な下宿さへあれば早く出たいと思つて居りますが、これは金とも相談しなければならないでせう。刻々に変つてゆく現象をもつと接近した場所で貪り見たいといふ欲望と、この際しつかり腰を据ゑて仕事の土台をきづきたい気持とが裏表になつて居ります。

 雑誌の計企順調に進展してゆくことを祈ります。新年号といへばもうすぐでお忙しいことでせう。そのうち僕にも寄稿させて下さい。お願ひしておきます。文学新聞もいいプランだと思ひます。この方は月二回位の発行なのですか。

 光太は元気ですか。この前教文館の傍で出逢つた時のやうに、てらてらと精力的な容貌をして居りますか。僕は彼の詩集が上梓される日を待望して居ります。片仮名の横組の大型の異色あるものが出来上るでせう。尤も彼はこの際もつと書きたしたい気持を持つかもしれませんが。

 文壇もちよつとした原子爆弾を見舞はれた形だね──と光太は云つて寄来しましたが面白い比喩だと思ひます。火を消さないで持ちこたへた人は多いいやうで、案外少いのではないのでせうか。若くて戦禍に巻込まれた人達が立ちあがるのもまだ将来のことでせう。それにつけても特に啓蒙的の方面で貴兄たちの奮闘を祈ります。

 和木夫妻は南京でどうしてゐるのかさつぱりわかりません。村岡は満洲に居るらしいです。美樹は九月のはじめに復員して帰つて来ました。罹災者たちの世話焼に大童でよく活躍してくれますが母親との折合は悪く早く上京したいと嘆息もして居ります。廿日市に疏開してゐた兄の方は今も何不自由なく暮して居り、むしろ焼けぶとりらしく、いづれ一旗あげると気をよくして居ります。ところが恭子などは、闇の話にのぼせ日夜前途の不安に脅えてべちやくちやと僕の傍で喋べくるのですからかなひません。

 この辺でペンを擱きます。

 十一月にはお逢ひしたいものですね。お元気で。

十月三十一日 原民喜


永井善次郎様




●昭和二十年十一月二十四日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛

 御手紙拝見。長篇を書いてゐるのですか、それは前から、プランされてゐるものでせうね。僕もそろそろ長篇を手がけたいと思ひますがまだプランは建ててゐません。光太が詩の雑誌を来秋あたりからやりたいと云つてゐますが現在のところ組代など大変なものでせうね、一度逢つて印刷のことなどお訊ねしたいと思つて居ります。先日熊平兄弟を訪ねました、二人とも健在、木下も助かつて居ました。音楽学校の先生をしてゐた岡田二郎君は死亡しました。

 雑誌の原稿、十二月二十日が締切だと少し急だと思ひますが出来たら御送り致しませう。原子爆弾のことはあの直後早速書き上げてみましたが、読返してみるとどうも意に満たないのでこれはもつと整理してから発表したいと思ひます。

 ここへ美樹が疏開させておいたトルストイ全集があるので時折ひらいてみてゐますが、「饉餓に関する論文」などに興味をひかれ勝ちです。トルストイも研究するとなれば大変なしろものですね。

「冬の日」で光彩を放つてゐる杜国と荷兮のうち、杜国の抒情味もさることながら、荷兮の作家的手腕にこの頃また今更のやうに感心してをります。この荷兮といふ男はどうした男なのでせうか。俳句の方はそれほどでもないのに、連句のつけのあざやかさ。

 先日宮島へ行つてみました、ここも水害でやられてをりますが紅葉は綺麗でした。あまりみごとだつたので、その葉を拾つて帰りました。

 広島は己斐駅のあたりが賑やかになり、バラツクの食堂が建つて居ります。物価は東京とあまり違はないのではないかと思へる位です。乞食もだいぶ居るやうです。

 十二月にはお目にかかれるでせう。元気で帰つて来なさい。

十一月二十四日 原民喜


永井善次郎様




●昭和二十年十二月十二日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛

 お変りありませんか。

 新しい原稿書きかけたのですが纏らないので原子爆弾の方を速達で送つておきました。十七字十二行になつて居て字もきたなく意に満たない個所もありますが、適当に御取扱ひ下さい。

 本郷へはまだおいでになりませんか。

 寒くてやりきれない年末がやつて来ます。

十二月十二日 原民喜



  原子爆弾  即興ニスギズ


夏の野に幻の破片きらめけり

短夜を〓(「血+卜」)れし山河叫び合ふ

炎の樹雷雨の空に舞ひ上る

日の暑さ死臭に満てる百日紅

重傷者来て飲む清水生温く

梯子にゐる屍もあり雲の峰

水をのみ死にゆく少女蝉の声

人の肩に爪立てて死す夏の月

魂呆けて川にかがめり月見草

廃虚すぎて蜻蛉の群を眺めやる




●昭和二十年十二月二十八日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛

 拝復 十七日日附の端書拝見。なるほど検閲といふこともあつたのですね。別便で別の原稿送つておきますから読んでみて下さい。この「雑音帳」は原稿が間にあはなかつた時の用意にと思つて清書しておいたものです。

 阿佐ヶ谷の方はあまり焼かれてゐないのですか。自炊生活も容易ではないでせう。僕もこちらでは皆からだんだん厄介者扱にされ、再婚せよとすすめられて居りますが、そんな気にはなれず、飢ゑと寒さにふるへながら暮して居ります。一そこの地を離れて何処かもつと住みよい処へ移りたいのですが、汽車は当分駄目だといふことだし、そんなことをきかされるとひどく気が滅入つてなりません。東京の近くで月三百円位でおいてくれる所はないでせうか。参考までに東京の下宿料がわかつたらお知らせ下さい。この間原製作所の解散式がありましたが商人達の云ふことには、今後は百姓になるかそれとも闇屋になるかしなくては、暮しては行けないと申しますが、誰も彼も闇屋になつたのではどうなるのでせうか。こちらで今をときめいて居るのは闇屋ですが「大きな商売をして居ります。なにしろ月三千円生活費がかかりますしね」などうそぶいて居ります。己斐駅と広島駅の前には闇市が賑はひ、僕も時に見物に行きます。蜜柑が自由販売でいくらでも買へるので、僕はすつかり蜜柑党になつてしまひました。

 生活も押つめられるので、今のうち就職でもして暮らさうかと思つたりそれとも一年間位はこの地を離れたところで、英気を養つておきたいとも思ふのですが、なかなか目鼻がつかず今年も虚しく八幡村で終るかと思ふと佗しいことです。ヴアレリーのスタンダールを読返してみて、さうだつた、もつと元気を出さうと云ふ気持にされました。

 御自愛を祈ります。よき年を迎へ給へ。

十二月二十八日 原民喜


永井善次郎様




●昭和二十一年二月五日 八幡村より 東京都杉並区阿佐谷六ノ九三 永井善次郎宛

 御手紙有難う。御無沙汰してゐましたが先日本郷へ行つたので、あなたのことも承知してをりました。会へなかつたのは残念でした。先日は近代文学を昨日は文学時標をたしかに拝受致しました。久しぶりに雑誌らしいものを読めたので何だか昂奮しました。もつともその前に展望一月号は読んでゐましたが近代文学の方が同人雑誌としての親しみや張りがあり頼もしく思ひました。あなたの小説は今後あれをどういふ風に切りひらいて行くか、かなり神経をなやまし苦吟を要するのではないかと予想されました。どうか頑張つて完成させて下さい。光太の詩は韻律といふか言葉の発展といふかさういふ点で僕には驚異です。作家案内はなかなか気のきいた企劃だと思います。継続して百人位扱つてみてはどうです。

「人間は人間をまつてはじめて可能な仕事だけに従事したい。電車の乗り降りに見られるやうな、愚かさから来るエネルギーの損失を、人間同志の生活から除きたい(芸術歴史人間)」僕など痛切にこの嘆きを感じるのですが。花田といふ人は才人ですね。

 僕も、正月以来早く八幡村を立去らうと思ひ、或は広島の城谷の家に置いて貰つて一時就職しようかとも考へてゐましたが光太の処に部屋があいてゐて置いてやつてもいいと云ふので早く上京しようと思ひます。ただ、現在では六大都市転入禁止になつてゐますが、あれは世帯の移動を禁止してゐるのか、同居や寄偶の場合はどうなのか、何とか転入許可を得る方法はないものか、そちらでわかつたらお教へ下さい。転入できるものなら早速上京してともかく光太のところに一時寄偶するつもりで居ます。何にしろ上京すればまた、あなたの方にもいろいろ御世話になることゝ思ひます。

 こちらは財産税のことでみんなあれこれ案じて居り品物を買ひあさつて居る人が多いのです。美樹などもおかげで景気がいいのですよ。

 僕の原稿二篇ともあなたの方の都合にまかせます。その後書きたいことはかなりあるのですがなかなか机にむかへません。

 光太は僕の詩集に貞恵といふ題をつけと云ひますが、貞恵といふささやかな本は別にひそかに考へて居るのです。

 それでは御健闘を祈ります。

二月五日




●昭和二十一年二月十五日 八幡村より 東京都杉並区阿佐谷六ノ九三 永井善次郎宛

 速達拝見しました。原稿の件については先便で申上げた通りあなたの方の都合に一任します。「新日本文学」へ持つて行かれても結構です。「原子爆弾」といふ題名がいけないなら「ある記録」ぐらゐの題にしてはどうでせうか、それともまだ適切な題があればそちらでつけて下さい。

 下宿は末田のところに置いてやつてもいいと云ふので、一先づそこへ移らうかと思つてゐるのですが、転入の許可がとれるものかどうか目下問合はせてゐます。兄は食糧持参で一寸上京してみよと云ひますが末田のところに夜具があるものかどうか、それも目下問合はせ中です。

 二日の速達が今日十五日に届くのですから相変らず郵便物は遅れるのですね。

 兄は焼跡へバラツクを建てるので奔走してをります。焼跡といへば去年の十二月埋めてゐたものを掘り出しに行きましたが、そのなかに南京豆が健在だつたのは悦ばしくありました。炒つて食べましたが死にもしませんでした。

 僕はあの英文法の Subjunctive といふ奴を頻りに考へさされます。もしあの時、ああしたら、かうはならなかつただらうに──と、焼き出された人間は愚痴ります。Subjunctive Past は愚痴を現はす mood なのでせう。

 御健筆を祈ります。

二月十五日 原民喜


永井善次郎様




●昭和二十一年七月三日 大森区馬込東二ノ八九九末田方より 杉並区阿佐谷 永井善次郎宛

 先日は御世話になりました。

 こんどの部屋は落着いてゐるので、このまゝこゝへ居坐りたい気がします。光太が詩を送つて来ました。何処かへ掲載してほしいといふのですが。心あたりはありませんか。

 三田文学十号が出ました。一部送らせます。

 信濃へ行かれる前に一度逢ひたいと思ひます。気がむいたら、こちらへも御立寄り下さい。

七月三日




●昭和二十二年五月十七日 大森区馬込東二ノ八九九末田方より 杉並区阿佐谷 永井善次郎宛

 女房的文学論は面白かつたです。

 先日の部屋の話はどうなりましたか、いつ頃あくのでせうか、実は、今大至急立退を命じられてゐて弱つてゐるので、もしそちらがあけばすぐ引移さうと決心してゐます。美樹君もその部屋をあてにしてゐて一緒に、自炊しようと話合ひました。「高原」書店で見ましたがまだ手許には送つて来ません。「四季」は和紙で立派なのが出るといふことです。

 二十三日交洵社に行くかもしれません。




●昭和二十二年七月三日 東京都中野区打越十三平田方より 杉並区阿佐谷 永井善次郎宛

 小田切秀雄の「人間と文学」あれはつまり文学をだらけさせまいとするものの声として私にはうけとれました。近代文学6では座談会が面白く、あなたの小説はこんどのところは非常によく纏つてゐてあそこだけでも独立して短篇になると思へました。美樹が漸く上京して来ました。広島では間もなくバラツクが建つさうでこの暮には一度あちらへ行つてみようと考へて居ます。学校も今学期限りやめるつもりです。気ケウ(肺の治療にする)といふ字がわからないのですが、調べてくれませんか。

 相変らず天気が不順ですね。




●昭和二十三年二月六日 東京都神田神保町三ノ六より 杉並区阿佐谷 永井善次郎宛

 お元気ですか。

 どうもこの頃は雑用に追はれて落着けません。小説も書かねばならないのになかなか捗りません。長光太が暦程(3)に詩論を出してゐますが、これはなかなか面白いものでした。壊滅の序曲はどうなつてゐるのでせうか。今ならいいところへ出せさうなのですが、取し戻て頂けないでせうか。もつとも昭森社で組んでゐるのでしたら仕方ありませんが確かめてみて下さい。




●昭和二十三年八月頃 東京都神田神保町一ノ三能楽書林内より 長野県軽井沢町追分山屋内 永井善次郎宛

 ハガキ有難う。東京はこの一週間ばかり猛暑です。僕の部屋など畳が熱くなつてゐて昼寝さへ出来ません。時時阿佐ヶ谷の美樹のところへ避暑に行きます。水田氏とは一度逢ひましたがまだその後、部屋の件については、はつきりした返事を得てゐません。三田文学は十二号まで編輯済ませました。十三号にも平田君に時評もらふつもりですが、十四号から中田君が書いてくれるでせうか。病気とききましたので、おたづねします。高原特輯号に小説が欲しいといふことをききましたので「雲の裂け目」を掛川氏あてに送りました。

 明日は美樹とアメリカ交響楽を見に行くはずです。暑くてとても書けません。無理して秋に弱つては困ると思ひ、なまけてゐます。




●昭和二十五年三月頃 武蔵野市吉祥寺二四〇六川崎方より 茨城県多賀郡大津町西町大津館内 永井善次郎宛

 二三日寒さが烈しくて震へ上つてゐましたが今日は漸く春らしい天気にもどりました。この近辺を歩いてゐると樹木が多いので、ひとりでに武蔵野を感じます。大岡昇平の「武蔵野夫人」は名作になりさうですね。埴谷君も昨日、群像の原稿書上げました。

 強引に少女小説を一つ書いてみました。

 僕は三田の三奇人の一人にされました、あとの二人は片山修三と改造社編集長の小野田ださうです。

底本:「定本原民喜全集3」青土社

   1978(昭和53)年1130日発行

※これらは、底本にはじめて収録されました。

※村岡敏宛書簡(このファイル冒頭の4通。昭和十一年四月三十日・昭和十一年六月三十日・昭和十一年七月十五日・昭和十一年七月二十四日)について。底本では(おそらく原民喜自筆の)手紙がそのまま写真で載せられています。このファイルでは、それを判読し、テキストデータとしました。判読間違いがあるかもしれません。

※各書簡の区切りは、改行3個に統一しました。

※文中の「血+卜」の文字は、底本収録の「杞憂句集 その二」中の対応する句では、「倒」と表記されています。読みは「たお」か。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:砂場清隆

校正:土屋隆

2006年320日作成

青空文庫作成ファイル:

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