五月晴れ
岸田國士

大庭悠吉  三十一

同 空子  二十三

女中かな  二十

児玉的外  五十六

同 初男  十

新聞配達  二十一


五月末の日曜日昼近く

東京郊外のどんづまり

大庭悠吉の住居──新しい文化住宅

舞台正面は座敷の縁、二階から突き出た露台バルコニー。庭を距てゝ狭い道路

右手、庭の一隅に物置、その前を通つて勝手口へ廻れるやうになつてゐる。


女中のかなが、座敷の掃除をしてゐる。御用聞きの声らしく「今日こんちは」

かなは台所の方に向つて


かな  酒屋さんね、あゝ、今日けふはなんにもなかつたわ。

声  みんなお留守……?

かな  えゝ。旦那さんは昨日きのふからずつとだし、奥さんも、昨夜さくや遅くお出掛けさ。

声  何処へ行つたんだい、奥さんは?

かな  お里よ。ほら、神田なのよ、おさとは、……。近頃、旦那さんとは、ろくに口もかないのよ。昨夜ゆうべも、また、旦那さんが帰つて来ないもんだから、たうとう、業を煮やして、「あたしや、陸坊をかばうを連れて里へ帰るからね、もしお帰りになつたら、さう申上げといておくれ」つて、あんた、十一時よ、もう……。それがさ、出掛けに、またかういふのよ。「万一、今夜こんやお帰りにならなかつたら、あたし覚悟があるからね。いづれ、明日あしたのお昼頃、様子を見に帰るけど、旦那さまには、お前からなんにもいふ必要はない。たゞ、朝でもお帰りになつて、あたしはつてお訊きになつたら、今朝出掛けたつていつておくれ。いざつていふ場合、こつちに弱味がないやうにしとくんだから……。わかつたかい。間違ふと承知しないよ」──かうなのよ。あたし、面喰つちやつたわ。旦那さんが帰つて来るまでに、奥さんが帰つてくれゝばいゝつて、さう思つてるとこよ。だつて、あたしが、嘘をついてさ、あとで、二人が仲直りをして御覧よ。こつちや、旦那さんに体裁が悪いぢやないの……。


この時、玄関の戸があく。かなは、急に口を噤み、台所へ目くばせをして玄関に出る。

主人、大庭悠吾が、折鞄を提げてはひつて来る。かながその後に続く。


大庭  奥さんは?

かな  あの……ちよつとお出掛けになりました。

大庭  どこへ?

かな  さあ、多分、東京へでございませう。

大庭  陸坊をかばうを連れてかい?

かな  はい。

大庭  いつごろ出掛けたんだ?

かな  えゝと……今朝けさほどでございますけれど……。

大庭  今朝ほどはわかつてる。何時ごろだつて訊いてるんだ。朝早くか、たつた今か、それをいへばいゝんだ。

かな  只今何時でございませう。

大庭  今は十時だ。

かな  それぢや、九時ごろでございます。

大庭  ふうん……(あたりを見廻す)昨夜おれが帰らないで、またヒステリーを起したんだらう。

かな  いゝえ、別に……。お昼はどういたしませう。

大庭  何がある?

かな  昨晩のお煮つけが残つてるきりでございます。

大庭  そんなもん、食ひたかない。(着物を着替へ終り)下駄をこつちへ廻してくれ。


かなが庭の方から下駄をもつて来る。大庭、庭へ降り、植木鉢などいぢる。そこへ、垣根の向うを児玉こだま的外が息子の初男を連れて通る。


児玉  ちよつと物をお尋ねいたしますが……。大庭おほばといふ家は、この辺にありませんか。主人は……(かういひかけて、大庭の振り向いた視線と合ひ)なあんだ、君かい。

大庭  あゝ、僕です。今日はどちらへ?

児玉  どちらへぢやないよ。君んとこへ来たんだ。こんな辺鄙なところへなんの用があつて来るもんか。東京から五十分と聞いてゐたが、どうして、家を出たのが今朝の八時半だぜ。初男はつを小父をぢさんの顔を覚えてるか。

初男  覚えてるさ。笑ふ時栗鼠りすみたいなんだもん。

児玉  馬鹿、余処よそへ来て、そんなことをいふもんぢやない。なか〳〵洒落た住居だ、これや……。しかし、惜いことに、地震と来たら、剣呑けんのんだね。実は、駅の前でいてもわからんしね、少し探しあぐねてゐたところなんだよ。お邪魔ぢやないかね。

大庭  いや〳〵、丁度いゝところでした。今帰つて来て着物を着替へたばかりです。どうぞあつちからお廻り下さい。まだ門もこしらへてありません。坊つちやんは、小父さんがかうして……(両手を出すと子供は後退りする)どうもしやしない。こゝから垣根を越えて、どう、かういふ風に……(子供を抱き上げて中にいれる。その間に、児玉は表からはひつて来る)

児玉  細君さいくんは?

大庭  家内かない生憎あいにく留守でどうも……さあ、まあお上り下さい。おい、かな、かなはゐないのか。(女中現はれる)座布団を……。

児玉  (大庭が上へ上りかけるのを制して)なに、こゝで結構、久しぶりでかういふところへ来ると、家の中へはひるのが惜しいよ。

大庭  ぢや、まあ、そこいらへお掛け下さい。向うに見えるのが秩父です。

児玉  なるほど。おい、初男、あれが秩父の山だぜ。

初男  富士山は見えないの?

児玉  また、慾張る。あるもんで我慢をしなさいつて、何時もいつてるぢやないか。細君は用達ようたしかね。

大庭  えゝ、東京へ行つたんださうですが、僕は、昨夜から帰らなかつたもんですから……。

児玉  こんなところで留守番は淋しいだらう。おい、初男、その辺の広つぱで遊んで来い。蜻蛉とんぼでもつかまへて。

初男  今時分、蜻蛉なんかゐやしないや。

児玉  そんなら蛙でもいゝ。少し小父さんと話があるんだから……。(初男去る)実はね、君は知つてるかどうか、二三目前、細君から手紙が来てね。あゝ、君は知らなかつたのか。なに、それやかまはん。その手紙の主旨といふのは、外でもない、早くいへば……。

大庭  僕に対する不平でせう。

児玉  お察しの通りだ。率直にいふよ。尤も細君としては、これが当然なことで、誰よりも先に、さういふことは仲人なかうどの耳に入れんけれやならん。当事者同士で解決がつかんとあればね。

大庭  解決もなにも、僕の方ぢやてんで、問題になんかしてないんですから……。

児玉  それやさうだらう。男は女と、そこが違ふ。男の方で問題にしないことを、女つていふものは問題にするんだ。ところで、君も相当の年配ではあるし、結婚後四年といふ月日が経つてゐる今日、僕などからかれこれくちばしれられることは、実際迷惑かも知れんが、そこは一つ、年寄の顔を立てると思つて勘弁してもらひたい。今日は実はうちの婆さんをと思つたんだが、これは平生から君よりもむしろ細君の方の肩を持つ気味があつて、絶対中立といふ態度は取れんと思ふから、わしがわざ〳〵出掛けて来た次第だ。先づ第一に両方のいふことを聞かんとわからんが、一体、どういふんだね。近頃余り面白く行かんらしいが……。

大庭  近頃といふわけぢやありませんよ。

児玉  しかし、始めからぢやあるまい。僕のところへ、是非この話を纏めてくれといつて来たのは、君の方からぢやないか。

大庭  それが纏つてみると、大分話が違ふんです。年だつて、よく調べてみると、一つ違つてますしね。戸籍では一つ多くなつてるんです。その戸籍だつて当てになりません。生れる前に戸籍を入れる気遣きつかひはないんですから。

児玉  一つぐらゐどつちになつたつていゝぢやないか。大体、君とは年が違ひすぎるんだ。その外はなんだね、話が違ふといふのは?

大庭  編物が上手だつていふんですが、この正月でしたか、僕のチヨツキをこしらへてくれつて頼むと、四つきも五つきもはふつといて、催促をしたら……今こさへてる最中だ。忙しくつてその方にばかりかゝつてゐられないつて──かういふんです。それでやつと出来上つたのが、ついこの間です。御覧なさい。もう春が過ぎて夏が来ようとしてゐます。それだけなら、まあなんでもありません。その出来上つたチヨツキといふのが、僕の胴なら二つはひるくらゐです。それでもまだ我慢します。あいつが丹精を凝らしたんだと思へば……。それがどうでせう、自分でそのチヨツキをこさへたといひながら、実は人に頼んでるんです。それも近所の女学生かなんかで、男の胴まはりがどれくらゐあるもんだかまだ知らないやうな小娘です。

児玉  待ち給へ、その話は、聞きやうによつて、細君の立場に同情することも出来るが、君は全体、細君の怠慢を責めるのか、それとも、人に頼んだといふことを責めるのか!

大庭  それもこれもですが、第一、初めからの嘘を責めます。出来もしないことを出来るやうにいひふらしたこと、人にやらせながら自分でやつたやうな顔をしたこと、いづれも、僕をだましたことになります。

児玉  まあそれは、二つを一つに勘定してもいゝわけだが、それで君は、細君におこつたんだね。

大庭  いや、それで怒つたんぢやありません。その事実がばれると、すぐに向うから食つてかゝつて来たんです。僕は却つて、そんなことは知らずにゐたかつたんです。ですから、そのことが知れた時、こいつは弱つたと思ひました。あいつに気の毒な気さへしたんです。僕は話をほかへらさうと思ひ、何かいひかけると、今度は、向うから、いきなり、「もうわかつてます」。さういふ場合の女の声を、あなたも御承知だと思ひますが、僕は、ひやりとしました。「なにがわかつてるんだ」──「わかつてますよ」

──「だから、なにがわかつてるといふんだ」

──「あたし、もう、辛抱できません」

児玉  細君がいふんだね。

大庭  さうです。

児玉  よし。そこで、その細君が「辛抱できん」といふわけは、かうだらう。手紙に書いてあつた通りをいふと、つまり、君は、さつぱりしてるやうで、案外さつぱりしてないといふんだ。直接にいふべきことを間接にいつたり、素直すなほに受取ればなんでもないことを妙にからんで来たり、ちやんと知つてることを知らないといつたりする──といふんだね。これについて、心当りはないかね。

大庭  (即座に)ありませんよ。

児玉  まあ、もう少し考へて返事をし給へ。自分で気がつかないことで、さういはれゝばなるほどと思ふこともないか。

大庭  女から見れば、男の心理は多少複雑ですよ。僕は、わざ〳〵さうしてるんぢやありません。

児玉  さういへるだらうが、相手は女なんだ。女つていへば、子供みたいなもんだ。物のいひ方だつて、少しは加減して、そこはなにさ、噛んで含めるやうに……。

大庭  そんなことをしたら大変ですよ。さもなくつてさへ、やつこさんを僕が軽蔑してるといふんで、再三抗議を提出してますからね。

児玉  いや、実は、そのことも書いてあるんだ。誰とかの前で、細君が言葉をいひ違へたら、君が大声で笑つたとかなんとか、そんなことがあつたかね。

大庭  無論あつたでせう。しよつちうあることです。なんべん人が注意をしてやつても、ヒントとピントとを間違へる。

──「あなたのおつしやることは、ヒントがはづれてるわ」です。

──「詳しく聞かないだつていゝのよ。ピントさへ与へて下されば……」この調子です。英語はまだいゝとして、「電球でんきうたま」はどうです。

児玉  (愉快がり)さういふことはなか〳〵なほらんもんだね。うちの婆さんも、いまだに、ヘチマコロンがヘチマコンロだよ。まあ、それやいゝさ。それから、もう一つ君が度々夜遅く帰つて来たり、どうかすると、よく外で泊つて来たりなんかもするといふことだが、これはまあ交際もあるしすることだらうから、わしからはなんにもいはんが、それについて、最近悶着でも起つたかね。

大庭  最近ですか。さあ、よく覚えませんが、そんなことがあつたかも知れません。今日なんかも、それは覚悟して帰つて来たんですが、生憎ゐなくつてがつかりしたくらゐです。

児玉  君の方でも、さう挑戦的態度を取つてもらつちや困るな。

大庭  挑戦は向うからです。朝出かける時に「今夜はまた遅いんでせう」──かうですからね。「いゝや、早く帰るよ」ともいへませんよ。

児玉  どうしていへない? それがいかんのだ。で、わざ〳〵遅く帰る──さういふ手は困るな。

大庭  しかし、あなただつて、さういふ経験はおありになるでせう。

児玉  それは、返答の限りでない。わしは今日は、どつちの味方でもないんだ。


この時、表から細君空子そらこが帰つて来る。勝手口で女中と立話をし、何か頻りにうなづきながら上へ上る。

一方、縁側では、その気配を察し、二人は話を中止する。それから、空子が現はれるまでに、児玉は大急ぎで大庭の耳元へ囁く。大庭笑ひながら聞いてゐる。


児玉  話はまだ済まんが、大体見当がついた。わしにまかせなさい。そこで、わしは、もうしばらくして帰るといひ出すからね、引止めないでくれ給へ。但し、帰つたことにして、すぐにそつと引返して来る。そして、何処かから君たちの様子を見てることにしよう。君は極く当り前にやつてゝくれ。それを細君が、どう扱ふか、つまり、細君の出方を、ひとつ、参考のために見て置きたい。(大きな声で)いや、なに、参考のためといつたところでね、元来、政治などといふもんは、どこか太い神経が必要なんでね……外交にしろ、産業にしろ……。


細君の空子が、外出の服装で現はれる。


空子  いらつしやいませ。

児玉  やあ、どうも御無沙汰をしてしまつて……。お宅の方でも皆さんお達者かね。

空子  はあ、お蔭さまで……。

児玉  実は、もうお察しのことゝ思ふが、今日は例のことについて、その、なんだ、二人から直接詳しいことをきかうと思つてね、それで伺つたわけなんだが、今まで大庭君のいはれるところを聴くと、大体筋道はよくわかるし、結局、あんたの注文を容れて、これからは大いにつゝしむといふことだから(大庭が何かいはうとするのを制して)こゝでひとつ、万事一切を水に流してだね、お互ひに新しい気持で、明るい家庭生活を営むといふことにして貰ひたい。今あらためて、わしが双方の言分を聴いてみたところで、国際連盟が満洲事件の審議をするやうなもんで、どつちの気に入るはずもなしさ。折角、大庭君の方で、無条件に妥協を申出てゐるんだから(大庭また何かいはうとする)ねえ、さうだらう、さうさ、君のいふことはよくわかる。まあ、こゝではなんにもいはん方がいゝ。さういふわけだから、わしは、ひとまづ引取ることにします。そしてだね、今後もし、問題が起つたら、その時は、その原因について、わしが公平な判断を下してあげる。いゝね、や、どうもお邪魔さま。休暇にでもなつたら、ちつと二人で出かけて来るがいゝ。陸太郎をかたらう君はどうしました?

空子  里へ預けて参りました。

児玉  ふう。お祖父ぢいさんやお祖母ばあさんが、たまにゆつくりお守をさせてくれつていふんだね。わしも孫の顔を早く見たいが、なにしろ、あの息子が嫁を貰ふまでにや、まだ大分暇がかかる。おい、こら、初坊、もう帰るんだよ。こゝへ来て、小父をぢさんや小母をばさんに「さよなら」をいひなさい。


初男、汚い棒切れを持つて現はれる。


児玉  (菓子鉢から菓子を二つ三つ取つて子供にやり)さ、これを貰つてやる。「ありがたう」を忘れるな。

空子  よろしいんですね。もつとあげませうか。(紙につゝんで子供の手に渡す)

初男  どつちから食べるの?

児玉  どつちからでもかまはん。

大庭  (空子に)もう昼だぜ。なんか用意したらどうだ。

空子  ほんとに……。まあ、ごゆつくり遊ばして……この辺はなんにもございませんけれど……。

児玉  いや、いや、これからもう少しこの辺をぶら〳〵して、あれはなんとか公園といつたつけな、この先に近ごろ出来たでせう、そこへでも行つて、ゆつくり遊ばうといふ計画なんだ。

大庭  さうですか。ぢや僕が御案内しませう。

児玉  いや、いや、それには及ばん。親子水入らずのボート乗りといふのが、今日の目的だ。ぢや、さよなら……。

空子  でもね、それぢやあんまり……。では、御免あそばせ……小母をばさまによろしく……。

児玉  (会釈しながら)あ、あゝ。


児玉と初男が庭伝ひに表の方へ去る。大庭送つて行く。空子は玄関の方に廻る。しばらくして、再び大庭が、庭に姿を現はす。その間に、空子は、二階に上り、露台に出て籐椅子に腰をおろす。無論、やがて児玉が初男の手を引いて、そつと、右手の物置の蔭に忍び寄る。大庭は、すぐにそれに気づく。

長い間。

児玉、頻りに大庭の方に向ひ、手真似で何かを促す。


大庭  (植木の芽をいぢくりながら独言らしく)この植木は枯れさうだな。

空子  …………。

大庭  こいつが枯れたら……抜いちまふか。

空子  …………。

大庭  (誰にともなく)抜くと、その跡に穴ができるねえ。

空子  …………。

大庭  その穴はどうしよう。

空子  …………。

大庭  埋めちまふか、それとも、埋めずにおくか。

空子  ……。あたしにいつてらつしやるの。

大庭  あゝ、さうだよ。

空子  もう一度はじめからいつて頂戴。

大庭  はじめから? ぢや、もつと何かほかのことをいはう。


児玉が頻りに初男をなだめてゐる。


大庭  そこはつたかいかい?

空子  えゝ、暖つたかいわ。

大庭  よく日が当るんだね。

空子  当るわ。

大庭  暖つたかいと眠くならないかい。

空子  眠いのは何日いつだつて眠いわよ。

大庭  夜よく眠つてもかい。

空子  よく眠ることなんかないんですもの。

大庭  人聞きの悪いことをいふなよ。仕事でもあるのかい。

空子  …………。

大庭  昨夜ゆうべはよく眠つたんだらう。

空子  …………。


児玉は初男をおぶひ、大庭に「そんな話はよせよ」といふ眼くばせをする。


大庭  多分、近ごろは心配ごとがあるんだらう。その話はさつき児玉の親爺おやぢさんから聞いたが……(児玉の方をちよつと見る)先生もあゝいふし、僕はこれから方針を変へようと思ふんだ。

空子  児玉のおぢいさん、どんなことをいつて?

大庭  君が手紙に書いてやつた通りをさ。

空子  だから、それについて、何か意見をいはなかつた?

大庭  意見? いつたよ。

空子  あの人は、あたしに同情なんかしないでせう。

大庭  二人に同情してるさ。(児玉大きくうなづく)

空子  あなたも何かおつしやつたんでせう、あたしのことを……。

大庭  いつたこともあり、いはないこともある。

空子  どんなこと、おつしやつたの?

大庭  …………。

空子  どんなことよ。あたしには内証なの。

大庭  内証といふわけでもないさ。そんなことを、今いひ出すと、すつかりぶちこはしになるからな。

空子  あたしが嘘つきだつておつしやつたのね。

大庭  そこまではいはない。第一、君はしよつちゆう嘘ばかり吐いてるわけぢやないからね。

空子  それぢや、どんなこと?

大庭  もういゝぢやないか、そんなことは。君があんな手紙を出したことだつて、僕はなんとも思つてやしないんだぜ。

空子  それやさうよ。第一、あたしのことをなんとも思つてらつしやらないんですもの。

大庭  児玉の爺さんは、なか〳〵要領がいゝから、僕は丸め込まれたのさ。

空子  あたしは、奥さんに宛てゝ手紙を出したのよ。あの爺さんなんかに、なんにもわかりやしないわ。

大庭  (ちらと児玉の方をみる)しかし、あの爺さんのお蔭で僕は君と仲直りをする気になつたんだ。

空子  仲直りなんかさせてくれつて頼みやしないわ。

大庭  さうか。

空子  あたしの立場を知つておいて貰つて、いざつていふ場合、文句をいはせないつもりだつたのよ。

大庭  いざつていふ場合が、そんなに迫つてるかねえ。君はもう決心してるのかい。

空子  あなたの出方でかた次第よ。

大庭  児玉のお爺さんもいつてたが、君は少し我儘すぎるよ。

空子  あいつ、そんなことをいつた?

大庭  (また児玉の方をみて)あいつに限らん、誰だつてさう思ふよ。しかし、そんなことを今問題にしてるんぢやない。君は僕の出方ひとつといふが、君の出方だつて、もつと考へる余地はあるぜ。

空子  あたしの出方は、これや生れつきなんですからね。

大庭  生れつきか。そいぢやしかたがない。


この時、かなが二階に上つて行く。


かな  (空子に)奥さま、あの、「今日新聞」が、また新聞代を取りに来たんでございますが……。

空子  だから、さういつてやつたらいゝぢやないの。家では取つてないんだから、払ふわけはないつて……。

かな  先月分だけでいゝからつて申しますんです。

空子  頼みもしないのに入れてつて、あとからお金を取りに来るつていふのは、それや押売よ。警察へさういつてやるといゝわ。(かな、空子の耳もとで何か囁く)かまはないわよ。さういつて断つて頂戴。

かな  あたくし、困つてしまひますわ。(さういひながら降りる)


勝手の方で何かいひ争ふ声。

大庭は裏口の方をのぞいてみる。


大庭  なんだい、君は……。一度断つた新聞をなぜ放り込んで行くんだい。それだけでも僕の方ぢや迷惑なんだぜ。人の家へやたらに紙屑を投げてつたら、どなられるにきまつてるぢやないか。

新聞配達  (顔を出す)でも兎に角、御覧になるだけは御覧になつたんですから、そこをなんとかして欲しいんです。今月はもうよござんす。先月分だけ、それも、こつちからいや……。

大庭  黙り給へ。君が置いてつた新聞は、読んだか読まないか知らないが、ちやんとそのまゝにして残してあるから、そつくり持つて帰り給へ。(奥へ上り、新聞の束を持つて出て来る)

新聞配達  (唖然としてそれを見守り)これから気をつけますから……。

大庭  気をつけ給へ。そして、さつさと帰り給へ。第一、新聞屋なんか、朝と晩でなけれや、顔を出すもんぢやない。

新聞配達  実は今朝早く女中さんに頼んだんですけど、みなさん昨夜ゆうべからお留守で、そんな話はわからないつていふもんですから……。

大庭  (ちよつと空子の方を見て)さうか。家内は昨夜からずつと今朝まで家にゐたんだ。今朝九時に出掛けて、東京の里へ帰つて、十時過ぎに戻つて来たんだ。非常に急いだんだらう。普通なら電車だけで二時間かゝるところを、用事を済まして一時間で帰つて来た。それ見給へ。おまけに子供を連れてつたんだぜ。さ、愚図々々してないで、早く引揚げ給へ。今後、この家の前を通ることもやめてくれ。


新聞配達、仕方がなしに帰る。


空子  なんて図々しいんでせう。

大庭  (大きな溜息を吐く)


児玉はさつきから、起つたり、蹲んだり初男をおぶつたり抱いたり、初男は頻りに駄々をこねてゐる様子だが、物をいはせまいとして苦心惨憺の体である。


空子  あたし、里へ行つて、何もかも話して来たわ。

大庭  向うでも聴き飽きてるだらう。何か名案を授けてくれたかね。

空子  今日、うちの母さんが、児玉の奥さんところへ話しに行つたはずよ。

大庭  大丈夫かなあ、そんなことして……神経痛は近頃いゝのかい。

空子  いゝんでせう、行くつていふから……。

大庭  お父さんが行つちや、角が立つて、やつぱりまづいかな。そんな話は女でないとね……。

空子  お父さんは駄目よ、児玉の爺さんよりもつと駄目よ。相手のいふことにすぐ賛成しちまふから……。でも、自分ぢや、あれでなか〳〵談判には自信があるのよ。だから、しよつちう、児玉の爺さんはお人好しで、まさかの場合頼みにならんなんていつてるわ。

大庭  しかし、一方、お父さんは児玉の爺さんを褒めてるぜ。あれくらゐ人のことに気のつく人はないつて……。

空子  さうはいふけど、実際は、とてもうるさがつてんのよ。人の喫ふ煙草のことまで世話を焼くなんて……。

大庭  (ちらと児玉の方をみる)それで、君が僕のことを話したら、お母さんも大いに憤慨したわけだね。

空子  えゝ、さうよ。

大庭  そんなところで辛抱することはないつてかい?

空子  ………。

大庭  二時間も一緒においてみろ。年寄は草臥くたびれるし、子供は飽きるし、今ごろはもうあいつ、少々厄介もの扱ひにされて、ベソをかいてるぜ。

空子  あたしが、出て来る時から泣いてたわ。

大庭  しくしくか、わアわアか。

空子  わアわア

大庭  そんならまあいゝや。

空子  しくしくなら、置いて来れないわ。


大庭は口笛を吹きながら、あつちこつち歩きまはる。空子は、それに聴き入りながら、次第に腰を浮かし、遂に椅子から起ち上る。夫の方をじつと見つめてゐる。二人の視線が合ふ。微笑し会ふ。一方、児玉は、さつきから、初男をおんぶして、この「端倪すべからざる」夫婦の会話を聴き入つてゐるが、背中の初男は、すや〳〵と眠つたやうである。やがて、空子は二階から降りて来て、縁側に立つ。下駄はすぐにみつかつた。

大庭はそこで、こと面倒なるを察し、手真似で、児玉にそれといふ合図をする、生憎児玉は知らん顔をしてゐる。


空子  なによ、その手付は……?

大庭  うん? これか……(といひつゝ、さつきの手真似を機械的に繰り返し)かうもやるし、またかうもやるんだ。(と、それに似た意味のない手付をしばらくやつてみせる)

空子  それ、なあに……。

大庭  だから、かうやつた時には(と、最初の形を少し変へてやる)指の下に真空ができるし、かうやつた時には(と、第二の形をやつてみせ)指の上に真空はできないが、下の方に圧搾空気ができる理窟だ。それを利用して、つまり……まあ、早くいや、体操だ。


さういつてるうちに、空子は児玉のゐるのをみつけ、児玉は、しかたがなしに、変な作り笑ひをして歩き出す。


児玉  いやはや、どうも……このざまでは、道も歩けない。後戻りだ。こら初坊、起きんか。また、小父さんの家へ来たんだよ。

初男  (顔をあげずに)知つてらあい……。

児玉  さうか。そんなら、下へおりろ。

初男  (やうやく顔をあげ)喧嘩、もうすんぢやつたの?

児玉  (慌てゝ)えゝい、何をいひ出すんだ、この小僧は……。

空子  おほかた、夢を御覧になつたんでせう。小母さんが今、いゝおざをあげますよ。(座敷に上る)

児玉  それみろ、いゝ小母さんだらう。

初男  だつて、さつき……。

大庭  (初男に何も喋らせまいとして)さあ、来い、相撲を取らう。(取り組む)

初男  (半ば空子の方を向き)お父ちやんのことを……。

大庭  (かまはず)さあ、来た、いゝか。(無理に自分の方を向かせ)負けるもんか。こいつ、どうだ……強いぞ、なか〳〵……よし、やつたな。畜生……。


気のない子供を相手に、大庭は一所懸命である。


──幕──

底本:「岸田國士全集6」岩波書店

   1991(平成3)年510日発行

底本の親本:「花問答」春陽堂書店

   1940(昭和15)年1222日発行

初出:「週刊朝日 第二十三巻第二十六号(初夏特別号)」

   1933(昭和8)年61日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2011年76日作成

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