哲學はやさしくできないか
三木清


 哲學がむつかしいといふことは、いはゆる定評である。なぜ哲學はむつかしいのか、哲學はもつとやさしくすることができないか、さういふ問に對して誌上でぜひ答をせよとの、『鐵塔』の編輯者からの再三の命令を受け、催促に會つて、何か自分の意見を述べねばならないことになつた。

 私など日頃そのやうなむつかしいものを書いて讀者を惱してゐる者の恐らくひとりであらうが、さういふ私どもは、私どもで、自分たちの立場からの言分がないわけではない。それを先づ云はせてもらはねばならぬ。哲學もひとつの學問である、學問である限り、哲學の場合でも、他の學問においてと同樣に、何の用意もなしにすぐさまわかる筈のものでない。わかるためにはそれに必要な準備がなくてはならぬ。哲學だけが怠け者に媚びねばならぬ理由はなからう。哲學も他の學問と少くとも同等の權利をもつて、それの理解されるために缺くべからざる學問的訓練が階梯的になされるやうに要求することができる。これは當然のことだが、云つておかれてよいことだと思ふ。他を非難する前に自分を省みるといふことは、單に道徳的な意味ばかりではないからである。

 それにしてもなほ哲學はむつかしくはないであらうか。そこにはまた逆に、こんどは哲學者自身が反省してみなければならぬ色々な問題があるのではないであらうか。

 單純なことであるけれど、「むつかしい」といふことと「わからない」といふこととは同じでない。例へば、高等數學はむつかしい、しかしわからないものではない、順序を踏んで研究すればわかる筈のものである。哲學にもそのやうな意味でのむつかしさがあるであらう、それ故に唯むつかしいとのみ云はないで、わかるやうにするために筋道を踏んで勉強しなければならぬ。然るに數學の場合には「わからない」ものの書かれることが殆どないに反し、哲學においては往々にして「わからない」ものが書かれることがあるやうである。さういふものは唯むつかしいのでなく、もともとわからないのである。わからないものが書かれてゐるために、哲學はむつかしいといふ評判を作つてゐることがないでもないやうである。哲學が「むつかしい」といふことは致方がないとしても、「わからない」ものが書かれるといふのは困つたことだ。わからないのは、實はそれを書いた當人にもよくわかつてゐないからだと云はれるであらう。好い數學者の書いた數學書がわかり易いやうに、好い哲學者の書いた哲學書はわかり易い。それだから、わからないことはわからないとして、自分にわかつたことだけを克明に書いてゆくといふことが大切であらう。さうすることによつて自分にも他人にも役立つものとなるのである。わからせるためには、ごまかさないといふことが必要である。わからせるためには、どこまでも論理的で、理論的で、方法的で、秩序的でなければならぬことは云ふまでもない。さうでないためにむつかしいとすれば、實はむつかしいのでなく、わからないのである。

 しかしそれにしても、高等數學がむつかしいといふのと哲學がむつかしいといはれるのとの間には、何か區別があり意味の違ひがあるやうである。準備の全然ない者がいきなり高等數學にとりつくといふやうなことはあまりなからうが、哲學の場合では誰でもが何かの機會にそれにとりついてみようとするといふことがある。これは哲學にとつて固より恥辱であるのでなく、寧ろ光榮であると云はねばならぬ。けれどもかかる哲學にとつての光榮は哲學に對する非難に變ずることがある。さういふ人々によつて哲學のむつかしさが非難される。彼等が哲學において求めるのは人生觀とか世界觀とかいつたもの、一般に思想である。「理論」に對して「思想」といふものが區別される。哲學には理論的要素と思想的要素とが含まれる。尤も二つの要素ははなればなれのものであるべきでなく、思想が飽くまでも理論化されるところに哲學があると云はれよう。最近の哲學は、いはゆる嚴密な科學としての哲學に對する要求が強く、思想的であるよりも理論的であることに努めてゐると見られる。そして恰もそこに、哲學においていきなり思想を求める人々が、今日、哲學はむつかしいと感ずる理由があるとも考へられる。從つて今日の哲學をばわかり易いと思はれるものにするためには、もつと豐富な思想的要素がそのうちに盛られること、一層正確に云へば、哲學がもつと豐富な思想を背景として、或ひは地盤として作られることが要求されてゐるとも云はれ得るであらう。實際、哲學において「思想」に對する要求は根源的なものであつて、思想的要素を除外して純粹な「理論」として哲學を打ち建てようといふ主張そのものが既にひとつの思想として、云ひ換へれば、ひとつの世界觀乃至人生觀として受取られるといふほどである。思想は哲學において飽く迄理論化されることを要求されるけれども、しかし思想は思想として直觀的に理解されるといふ性質を失はないであらう。それ故に豐富な思想によつて生かされてゐる哲學は「理窟でなしにわかる」といふ方面をもつてゐる。かかる見地からすれば、哲學がむつかしいと云はれるのは、哲學における思想の貧困にもとづくものと見られよう。

 よく云はれることは、現在の日本の哲學のむつかしいのは、それが西洋の哲學の模倣であり、飜譯であるからである、といふことである。しかしさういへば、數學だつて物理學だつて根本においては同じことではないかといふ議論もできよう。哲學は實にへんてこな言葉を使ふのでわからないと云ふ。しかし物理學の術語でも、數學の符號ですらがしろうとにはわからないものではないか。哲學上の種々なる術語も少し勉強すればわかる筈だ。かうして哲學がむつかしいと一般に云はれるとき、それは根本において何か別の意味で語られてをり、そしてそれは哲學の或る特殊性に關係してゐるのでなければならぬ。即ち哲學には何かほんたうに模倣できないもの、飜譯できないものが含まれるのである。そのやうなものは哲學の理論的要素ではなく、寧ろ思想的要素であらう。模倣や飜譯のできないものを模倣し飜譯しようとするから、むつかしくなり、わからなくなるのである。理論は模倣され飜譯されてもわかるものである(それがほんたうの模倣、ほんたうの飜譯でなければならぬことは云ふまでもない)。さうでないのは思想である。しかも理論も哲學においては思想と結合してをり、はなればなれのものでない。かくして哲學において要求されるのは「思索の根源性」であると云はれ得るであらう。それだからして大哲學者の著作は多くの亞流の書いたものよりも本質においてわかり易い。思索の根源性があるからである。古典はそこいらの書物よりもわかり易い。およそ古典となるものには「天才的な單純さ」といつたものがある。解説書よりも原典が結局わかり易いといふことは多くの場合に經驗されることである。そこで哲學において大切なのは思索の根源性でなければならぬ。自分でしつかり考へて書いたものなら、わかり易いのである。自分で考へるといつても、必ずしもいはゆる獨創的であることをいふのではない。哲學の歴史を少し綿密に辿つた者は、いはゆる獨創的なものがそんなに多くはないことを知るであらう。またあらゆる哲學研究者に獨創的であることを期待し得るわけのものでなく、希望されることは思索の根源性といふことである。他の哲學を模倣したり飜譯したりするのでなく、他の哲學に從つて或ひはそれを手引として自分自身で考へるといふことである。さういふ思索の根源性がなければ他の哲學がほんたうにわかることもできぬであらう。藝術に關して眞の享受は或る創作活動であると云はれるのと同樣である。思索の根源性によつて何よりも哲學上の問題が生きて來るのであり、問題が生きてゐるといふことがまたひとにとつてわかり易くなる一つの要點である。そのうちに問題が生きてゐるものは何といつてもわかり易い。さういふ問題は現實性を有する問題である。本からでなく、物から考へることが大事である。自分にとつて現實的に問題になつてゐないことを、それが流行であるからといつて、或ひはそれについてひとが論じてゐるからといふので、問題にしたのでは、わからないものになるのは當然であらう。

 現在の日本の哲學のむつかしいのは、あまりに折衷的乃至混合的であるためだとも云はれ得る。そこでは思索の根源性が失はれるからである。思索の根源性からいへば、自分にとつてほんとに根源的に理解し、思惟し、研究してゆくことのできる立場といふものが色々あり得るわけではなからう。或る人にとつて或る種類の哲學がコンヂニヤル(性に合つたもの)であり、他の人にとつては他の種類の哲學がコンヂニヤルである。自分にとつてコンヂニヤルな、從つて運命的とも性格的ともいふべき哲學をやることが、自分にとつては固より、他人にとつても有益なことである。今の日本のやうに何か最新流行の哲學といふやうなものがあり、それが次から次へめまぐるしく變つて行き、そして或るものが流行だといへば、誰も彼もが、從つてそれが自分の性に合つてゐない人々までが、それを追つかけるといふ傾向があつては、哲學がむつかしいと非難されても仕方がないであらう、なぜならそのやうな状態では思索の根源性も、純粹性も、それ故に徹底性もあり得ないからだ。流行を追ふといふことは哲學の場合にも浪費を意味する。それは個人としても、哲學界全體としても、たしかに浪費である。そのやうな状態が特に日本において著しいといふのは、日本にはまだしつかりした哲學の傳統がないためであらう。そしてこの傳統がないといふことが哲學のむつかしいひとつの原因であり、いな、その最大の原因であると云へる。傳統がないから哲學が自然的な教養として一般人の間に行き亙つてゐない。傳統がないから哲學が他の諸文化のうちに浸潤してゐない。そのために哲學がむつかしいと思はれる度が甚しいのである。哲學が藝術、科學等の諸文化の中に根を張るやうになることが哲學のわかり易くなるために必要な條件である。さうなるための努力があまりなされてゐないのは遺憾である。哲學が哲學者仲間だけのあひだのものとなり、お互のあひだだけしか通じない言葉を語つてゐるやうに見えるのは遺憾である。そのやうな傾向が哲學を無意味にむつかしくしてゐるといふことがありはしないか。

 またよく云はれるのは、今の日本の哲學のむつかしいのはドイツ哲學の影響によるといふことである。これは一理あることであらう。フランスやイギリスの哲學はドイツのものに比してわかり易いやうに見える。しかしこれは本質問題とは無關係である。わかつたやうに思はれても、ほんたうにわかつてゐるのでないことは、例へば、さういふフランス流の哲學を自分でやつてみようとしても、なかなかできないといふことでも知られよう。それには性格と才能とが要る。然るにそのやうな性格や才能は、實際はドイツ流の哲學においても必要なのである。ドイツの哲學は概念的で、秩序整然たるものがあり、教科書として便利であり、それをつなぎ合はすれば何か論文らしいものができる。いはゆる哲學論文を作るにはドイツのものが都合がよからう。しかしさういふ風にして論文が作製されることが哲學をむつかしく、いな、わからないものにしてゐるのである。論文作製の便法をすてて、ほんたうに哲學することの困難を知るために、もつとフランスのものが讀まれることが望ましいかも知れぬ。フランス風のもので哲學的と思はれるやうなものを書くことは容易でないのである。さういふところから自然ドイツ流の哲學におもむくといふことがなければ仕合せである。ドイツのものなら何でも大事に讀むといふ傾向があまり甚しくはないか、そして實は亞流のものをあまりに大切に讀むといふことの影響で哲學がむつかしくなつてゐるのではないかと感じられるのである。讀書は哲學にとつても大切だ。しかし何でも構はず手あたり次第に讀んでゐると、善いものと惡いものとの區別ができなくなつてしまふ。その影響が恐れられねばならぬ。

 今の日本の哲學がむつかしいのは、それがあまりにこせこせしてゐて、餘裕がないためであると云へる。古典的なものにはゆとりがあり、落著いたところがある。しかしそのやうなところが出て來るといふのは實に容易なことではない。それはとにかくとしてもつと餘裕のあるものを書くやうに努力したいといふことは、このことが忘れられがちだから、云つておかれてよいと思ふ。

 本質問題を離れて、哲學をわかり易くするために啓蒙的な論文や書物がもつとできることは望ましいことに相違ない。哲學は學問である限りそのやうな啓蒙的なものが書かれ得る筈である。それは實際にさういふ能力のある人によつて書かれなければならぬ。啓蒙的なものだからといつて、誰にでも書けるわけのものでなく、それは普通に想像される以上に困難な仕事だ。その困難のほんたうにわかる人が、それに打ち克ちつつ啓蒙的なものを書いてくれることが希望される。固より、啓蒙的といふことと俗流化といふこととは嚴密に區別されねばならぬ。俗流化されることによつて哲學はほんとにわかるやうになるのでなく、唯わかつたやうな氣がさせられるだけであり、實は何もわかることにならないのである。俗流化は哲學を失ふ、哲學をなくすることは哲學をわかるやうにすることではなからう。哲學をわかり易くするといふ口實のもとに、俗流化によつて、哲學そのものが抹殺されたり、哲學的精神が失はれたりすることがありはしないかを警戒せねばならぬ。啓蒙は哲學そのものの啓蒙であり、哲學的精神の啓蒙でなければならぬ。それだからほんたうの「哲學者」だけが哲學について眞に啓蒙的であることができる。さういふ意味で古典こそ最上の啓蒙書なのである。哲學において重要なのは、物の見方であり、考へ方であり、方法である。結論でなく、過程が、方法が特に大切なものであるところに哲學的啓蒙の特殊な困難がある。然るに方法は、その方法が生きて生産的にはたらいてゐるところにおいて最もよく學ばれ得るものであり、從つてそのためには大哲學者の著作につくのが最もよいのである。そのやうなことを離れても、大哲學者の書いたものには何か啓蒙的精神といつたやうなものが含まれてゐるのではないかと思ふ。科學としての哲學の理念と共に教育としての哲學の理念をたてたところにプラトンの偉大さが忍ばれる。啓蒙的、教育的、指導的精神と云へば、何か嫌なものに感ぜられるかも知れないが、とにかく、ひとに呼びかけるといつたところが偉大な哲學には含まれてゐるやうである。さういふものの缺乏が哲學をむつかしく思はせてゐるのではないか。獨語的な哲學はむつかしい。

 これが質問に對する私の感想的な答であり、それはまた私自身にいひきかせる言葉である。

底本:「三木清全集 第一巻」岩波書店

   1966(昭和41)年1017日発行

初出:「鐵塔」鐵塔書院

   1932(昭和7)年7

入力:石井彰文

校正:川山隆

2008年123日作成

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