可能性の文学
織田作之助



 坂田三吉が死んだ。今年の七月、享年七十七歳であった。大阪には異色ある人物は多いが、もはや坂田三吉のような風変りな人物は出ないであろう。奇行、珍癖の横紙破りが多い将棋しょうぎ界でも、坂田は最後の人ではあるまいか。

 坂田は無学文盲、棋譜も読めず、封じ手の字も書けず、師匠もなく、我流の一流をあみ出して、型に捉えられぬ関西将棋の中でも最も型破りの「坂田将棋」は天衣無縫の棋風として一世を風靡ふうびし、一時は大阪名人と自称したが、晩年は不遇であった。いや、無学文盲で将棋のほかには何にも判らず、世間づきあいも出来ず、他人の仲介がなくてはひとに会えず、住所を秘し、玄関の戸はあけたことがなく、孤独な将棋馬鹿であった坂田の一生には、随分横紙破りの茶目気もあったし、世間の人気もあったが、やはり悲劇のかげがつきまとっていたのではなかろうか。中年まではひどく貧乏ぐらしであった。昔は将棋指しには一定の収入などなく、高利貸には責められ、米を買う金もなく、かけ将棋には負けて裸かになる。細君が二人の子供を連れて、母子心中の死場所を探しに行ったこともあった。この細君が後年息を引き取る時、亭主の坂田に「あんたも将棋指しなら、あんまり阿呆あほな将棋さしなはんなや」と言い残した。「よっしゃ、判った」と坂田は発奮して、関根名人を指込むくらいの将棋指しになり、大阪名人を自称したが、この名人自称問題がもつれて、坂田は対局を遠ざかった。が、昭和十二年、当時の花形棋師木村、花田両八段を相手に、六十八歳の坂田は十六年振りに対局をした。当時木村と花田は関根名人引退後の名人位獲得戦の首位と二位を占めていたから、この二人が坂田に負けると、名人位のかなえの軽重が問われる。それに東京棋師の面目も賭けられている、負けられぬ対局であったが、坂田にとっても十六年の沈黙の意味と「坂田将棋」の真価を世に問う、いわば坂田の生涯を賭けた一生一代の対局であった。昭和の大棋戦だと、主催者の読売新聞も宣伝した。ところが、坂田はこの対局で「阿呆な将棋をさして」負けたのである。角という大駒おおごま一枚落しても、大丈夫勝つ自信を持っていた坂田が、平手で二局とも惨敗したのである。

 坂田の名文句として伝わる言葉に「銀が泣いている」というのがある。悪手として妙な所へ打たれた銀という駒銀が、進むに進めず、引くに引かれず、ああ悪い所へ打たれたと泣いている。銀が坂田の心になって泣いている。阿呆な手をさしたという心になって泣いている──というのである。将棋盤を人生と考え、将棋の駒を心にして来た坂田らしい言葉であり、無学文盲の坂田が吐いた名文句として、後世に残るものである。この一句には坂田でなければ言えないという個性的な影像があり、そして坂田という人の一生を宿命的に象徴しているともいえよう。苦労を掛けた糟糠そうこうの妻は「阿呆な将棋をさしなはんなや」という言葉を遺言にして死に、娘は男を作って駈落ちし、そして、一生一代の対局に「阿呆な将棋をさし」てしまった坂田三吉が後世に残したのは、結局この「銀が泣いてる」という一句だけであった。一時は将棋盤の八十一の桝も坂田には狭すぎる、といわれるほど天衣無縫の棋力を喧伝けんでんされていた坂田も、現在の棋界の標準では、六段か七段ぐらいの棋力しかなく、天才的棋師として後世に記憶される人とも思えない。わずかに「銀が泣いてる坂田は生きてる」ということになるのだろう。しかし、私は銀が泣いたことよりも、坂田が一生一代の対局でさした「阿呆な将棋」を坂田の傑作として、永く記憶したいのである。

 いかなる「阿呆な将棋」であったか。坂田は第一手に、九三の端の歩を九四へ突いたのである。平手将棋では第一手に、角道をあけるか、飛車の頭の歩を突くかの二つの手しかない。これが定跡じょうせきだ。誰がさしてもこうだ。名人がさしてもヘボがさしても、この二手しかない。端の歩を突くのは手のない時か、序盤の駒組が一応完成しかけた時か、相手の手をうかがう時である。そしてそれも余程慎重に突かぬと、相手に手抜きをされるおそれがある。だから、第一手に端の歩を突くのは、まるで滅茶苦茶で、乱暴といおうか、気が狂ったといおうか、果して相手の木村八段(現在の名人)は手抜きをした。坂田は後手だったから、ここで手抜きされると、のっけから二手損になるのだ。攻撃の速度を急ぐ相懸り将棋の理論を一応完成していた東京棋師の代表である木村を向うにまわして、二手損を以て戦うのは、何としても無理であった。果してこの端の歩突きがたたって、坂田は惨敗した。が、続く対花田戦でも、坂田はやはり第一手に端の歩を突いた。こんどは対木村戦とちがって右の端の歩だったが端の歩にはちがいはない。そして、坂田はまたもや惨敗した。そのような「阿呆な将棋」であった。

 しかし、坂田の端の歩突きは、いかに阿呆な手であったにしろ、常に横紙破りの将棋をさして来た坂田の青春の手であった。一生一代の対局に二度も続けてこのような手を以て戦った坂田の自信のほどには呆れざるを得ないが、しかし、六十八歳の坂田が一生一代の対局にこの端の歩突きという棋界未曾有みぞうの新手を試してみたという青春には、一層驚かされるではないか。端の歩突きを考えていた野心的な棋師はほかにもあったに違いない。花田八段なども先手の場合には端の歩突きも可能かもしれぬと、漠然と考えていたようだ。が、誰もそれを実験してみたものはなかった。まして、後手で大事な対局にそれを実験してみたものは、あとにも先にも坂田三吉ただ一人であった。この手は将棋の定跡というオルソドックスに対する坂田の挑戦であった。将棋の盤面は八十一の桝という限界を持っているが、しかし、一歩の動かし方の違いは無数の変化を伴なって、その変化の可能性は、例えば一つの偶然が一人の人間の人生を変えてしまう可能性のように、無限大である。古来、無数の対局が行われたが、一つとして同じ棋譜は生れなかった。ちょうど、古来、無数の小説が書かれたが、一つとして同じ小説が書かれなかったのと同様である。しかし、この可能性に限界を与えるものがある。即ち、定跡というものであり、小説の約束というオルソドックスである。坂田三吉は定跡に挑戦することによって、将棋の可能性を拡大しようとしたのだ。相懸り法は当時東京方棋師が実戦的にも理論的にも一応の完成を示した平手将棋の定跡として、最高権威のものであったが、現在はもはやこの相懸り定跡は流行せず、若手棋師は相懸り以外の戦法の発見に、絶えず努力して、対局のたびに新手を応用している。が、六十八歳の坂田が実験した端の歩突きは、善悪はべつとして、将棋の可能性の追究としては、最も飛躍していた。ところが、顧みて日本の文壇を考えると、今なお無気力なオルソドックスが最高権威を持っていて、老大家は旧式の定跡から一歩も出ず、新人もまたこそこそとこの定跡に追従しているのである。

 定跡へのアンチテエゼは現在の日本の文壇では殆んど皆無にひとしい。将棋は日本だけのものだが、文学は外国にもある。しかし、日本の文学は日本の伝統的小説の定跡を最高の権威として、敢て文学の可能性を追求しようとはしない。外国の近代小説は「可能性の文学」であり、いうならば、人間の可能性を描き、同時に小説形式の可能性を追求している点で、明確に日本の伝統的小説と区別されるのだ。日本の伝統的小説は可能性を含まぬという点で、狭義の定跡であるが、外国の近代小説は無限の可能性を含んでいる故、定跡化しない。「可能性の文学」はつねに端の歩が突かれるべき可能性を含んでいるのである。もっとも、私は六年前処女作が文芸推薦となった時、「この小説は端の歩を突いたようなものである」という感想を書いたが、しかし、その時私の突いた端の歩は、手のない時に突く端の歩に過ぎず、日本の伝統的小説の権威を前にして、私は施すべき手がなかったのである。少しはアンチテエゼを含んでいたが、近代小説の可能性を拡大するための端の歩ではなかったのだ。当時、私の感想は「新人らしくなく、文壇ずれがしていて、顔をそむけたくなった」という上林暁かんばやしあかつきの攻撃を受け、それは無理からぬことであったが、しかし、上林暁の書いている身辺小説がただ定跡を守るばかりで、手のない時に端の歩を突くなげきもなく、まして、近代小説の端の歩を突く新しさもなかったことは、私にとっては不満であった。一刀三拝式の私小説家の立場から、岡本かの子のわずかに人間の可能性を描こうとする努力のうかがわれる小説をきらいだと断言する上林暁が、近代小説への道に逆行していることは事実で、偶然を書かず虚構を書かず、生活の総決算は書くが生活の可能性は書かず、末期の眼を目標とする日本の伝統的小説の限界内に蟄居ちっきょしている彼こそ、文壇的ではあるまいか。

 私は年少の頃から劇作家を志し、小説には何の魅力も感じなかったから、殆んど小説を読まなかったが、二十六歳の時スタンダールを読んで、はじめて小説の魅力にかれた。しかし「スタンダールやバルザックの文学は結局こしらえものであり、心境小説としての日本の私小説こそ純粋小説であり、詩と共に本格小説の上位に立つものである」という定説が権威を持っている文壇の偏見は私を毒し、それに、翻訳の文章を読んだだけでは日本文による小説の書き方が判らぬから、当時絶讃を博していた身辺小説、心境小説、私小説の類を読んで、こういう小説、こういう文章、こういう態度が最高のものかというノスタルジアを強制されたことが、ますます私をジレンマに陥れたのだ。私は人間の可能性を追究する前に、末期の眼を教わってしまったのである。私は純粋小説とは不純なるべきものだと、漠然と考えていた。当時純粋戯曲というものを考えていた私は、戯曲は純粋になればなるほど形式が単純になり、簡素になり、お能はその極致だという結論に達していたが、しかし、純粋小説とは純粋になればなるほど形式が不純になり、複雑になり、構成は何重にも織り重って遠近法は無視され、登場人物と作者の距離は、映画のカメラアングルのように動いて、眼と手は互いに裏切り、一元描写や造形美術的な秩序からますます遠ざかるものであると考えていた。小説にはいかなるオフリミットもないと考えていた。小説は芸術でなくてもいいとまで考えたのだ。しかし、日本の文学の考え方は可能性よりも、まず限界の中での深さということを尊び、権威への服従を誠実と考え、一行の嘘も眼の中にはいった煤のように思い、すべてお茶漬趣味である。そしてこの考え方がオルソドックスとしての権威を持っていることに、私はひそかにアンチテエゼを試みつつ、やはりノスタルジア的な色眼を使うというジレンマに陥っていたのである。しかし、最近私は漸くこのオルソドックスに挑戦する覚悟がついた。挑戦のための挑戦ではない。私には「可能性の文学」が果して可能か、その追究をして行きたいのである。「可能性の文学」という明確な理論が私にあるわけではない。私はただ今後書いて行くだろう小説の可能性に関しては、一行の虚構も毛嫌いする日本の伝統的小説とはっきり訣別する必要があると思うのだ。日本の伝統的小説にもいいところがあり、新しい外国の文学にもいいところがあり、二者撰一にしゃせんいつという背水の陣は不要だという考え方もあろうが、しかし、あっちから少し、こっちから少しという風に、いいところばかりそろえて、四捨五入の結果三十六相そろった模範的美人になるよりは、少々歪んでいても魅力あるという美人になりたいのだ。

 読者や批評家や聴衆というものは甘いものであって、先日私はある文芸講演会でアラビヤ語について話をし、私がいま読売新聞に書いている小説に出て来る「キャッキャッ」という言葉は実はアラビヤ語であって、一人寂しく寝るという意味を表現する言葉である、その昔アラビヤ人というものはなかなかのエピキュリアンであったから、よわい十六歳を過ぎて一人寝をするような寂しい人間は一人もいなかった、ところがある時一人の青年が仲間と沙漠を旅行しているうちに仲間に外れてしまって、荒涼たる沙漠の夜を一人で過さねばならなかった、一人寂しく寝て、空を仰いでいると、星が流れた。青年は郷愁と孤独に堪えかねて、思わず一つの言葉を叫んだ、それが「キャッキャッ」というのである、それまでアラビヤには人間の言葉というものがなかった、だからこの「キャッキャッ」という言葉は、アラビヤではじめて作られた言葉であり、その後作られたアラビヤ語は、「アラモード」即ちモーデの祈りを意味する言葉を除けばすべて「キャッキャッ」を基本にして作られている、「キャッキャッ」という言葉は実に人間生活の万能語であって、人間が生れる時の「オギャアッ」という言葉も人間が断末魔に発する「ギャッ」という言葉も、すべてみな「キャッキャッ」から出た言葉であって、一人寂しく寝るという気持が砂を噛む想いだといわれているのも、「キャッキャッ」という言葉がアラビヤ最初の言葉として発せられた時、たまたま沙漠に風が吹いてその青年の口に砂がはいったからだと、私は解釈している、更に私をして敷衍ふえんせしむれば、私は進化論を信ずる者ではないが、「キャッキャッ」という音は実は人類の祖先だと信じられている猿の言葉から進化したものである──云々と、私は講演したのだが、聴衆は敬服して謹聴していたものの如くである。恐らく講師の私を大いに学のある男だと思ったらしかったが、しかし、私は講演しながら、アラビヤに沙漠があったかどうか、あるいはまた、アラビヤに猿が棲んでいたかどうかという点については、甚だ曖昧あいまいで、質問という声が出ないかと戦々兢々せんせんきょうきょうとしていたのである。ところが、その講演を聴いていた一人の学生が、翌日スタンダールの訳者の生島遼一氏を訪問して「キャッキャッ」の話をした。生島氏はアラビヤ語の心得が多少あったが、「キャッキャッ」という語はいまだ知らない。恐らく古代アラビヤ語であろう、アラビヤ語は辞典がないので困るんだ、しかし、織田君はなかなか学があるね、見直したよとその学生に語ったということである。読者や批評家や聴衆というものは甘いものである。

 彼等は小説家というものが宗教家や教育家や政治家や山師にも劣らぬ大嘘つきであることを、ややもすれば忘れるのである。いくたびか一杯くわされて苦汁をなめながら、なおかつ小説家というものは実際の話しか書かぬ人間だと、思いがちなのである。ひげを生やした相当立派な(髭を生やしたからとて立派ということにはなるまいが)大学教授すら、小説家というものはいつもモデルがあって実際の話をありのままに書くものであり、小説を書くためには実地研究をやってみなければならぬと思い込んでいるらしく、小説家という商売は何でも実地に当ってみなくちゃならないし、旅行もしなければならないし、女の勉強もしなければならないし、並大抵の苦労じゃないですなと、変な慰め方をするのである。私は辟易へきえきして、本当の話なんか書くもんですか、みな嘘ですよと言うと、そりゃそうでしょうね、やはり脚色しないと小説にはならないでしょう、しかし、吉屋信子なんか男の経験があるんでしょうな、なかなかきわどい所まで書いていますからね──と、これが髭を生やした大学の文科の教授の言い草であるから、恐れ入らざるを得ない。何がそうでしょうなだ、何が吉屋信子だ。呆れていると、私に阿部定あべさだの公判記録の写しを貸してくれというのである。「世相」という小説でその公判記録のことを書いたのを知っていたのであろう。私は「世相」という小説はありゃみな嘘の話だ、公判記録なんか読んだこともない、阿部定を妾にしていた天ぷら屋の主人も、「十銭芸者」の原稿も、復員軍人の話も、酒場のマダムも、あの中に出て来る「私」もみんな虚構だと、くどくど説明したが、その大学教授は納得しないのである。私は業を煮やして、あの小説は嘘を書いただけでなく、どこまで小説の中で嘘がつけるかという、嘘の可能性を試してみた小説だ、嘘は小説の本能なのだ、人間には性慾食慾その他の本能があるが、小説自体にももし本能があるとすれば、それは「嘘の可能性」という本能だと、ちょっとむずかしい言葉を使った。すると、はじめて彼は納得したらしかったが、公判記録には未練を残していた。

 私は目下上京中で、銀座裏の宿舎でこの原稿を書きはじめる数時間前は、銀座のルパンという酒場で太宰治、坂口安吾の二人と酒を飲んでいた──というより、太宰治はビールを飲み、坂口安吾はウイスキーを飲み、私は今夜この原稿のために徹夜のカンヅメになるので、珈琲を飲んでいた。話がたまたま某というハイカラな小説家のことに及び、彼は小説を女を口説くための道具にしているが、あいつはばかだよと坂口安吾が言うと、太宰治はわれわれの小説は女を口説く道具にしたくっても出来ないじゃないか、われわれのような小説を書いていると、女が気味悪がって、口説いてもシュッパイするのは当り前だよ、と津軽言葉で言った。私はことごとく同感で、それより少し前、雨の中をルパンへ急ぐ途中で、織田君、おめえ寂しいだろう、批評家にあんなにやっつけられ通しじゃかなわないだろうと、太宰治が言った時、いや太宰さん、お言葉はありがたいが、心配しないで下さい、僕は美男子だからやっつけられるんです、僕がこんなにいい男前でなかったら、批評家もほめてくれますよと答えたくらい、容貌に自信があり、林芙美子さんも私の小説から想像していた以上の、清潔な若さと近代性を認めてくれたのであるが、それにもかかわらず女にかけての成功率が殆んどゼロにひとしいのは、実は私の小説のせいである。同じ商売の林芙美子さんですら五尺八寸のヒョロ長い私に会うまでは、五尺そこそこのチンチクリンの前垂を掛けた番頭姿を想像していたくらいだから、読者は私の小説を読んで、どんなけがらわしい私を想像していたか、知れたものではない。バイキンのようにけがらわしい男だと思われても、所詮致し方はないが、しかし、せめてあんまり醜怪な容貌だとは思われたくない。私は一昨日「エロチシズムと文学」という題で朝っぱらから放送したが、その時私を紹介したアナウンサーは妙齢の乙女で、「只今よりエロチ……」と言いかけて私を見ると、耳の附根まで赧くなった。私は十五分の予定だったその放送を十分で終ってしまったが、端折った残りの五分間で、「皆さん、僕はあんな小説を書いておりますが、僕はあんな男ではありません」と絶叫して、そして「あんな」とは一体いかなることであるかと説明して、もはや「あんな」の意味が判った以上、「あんな」男と思われても構わないが、しかし、私は小説の中で嘘ばっかし書いているから、だまされぬ用心が肝腎であると、言うつもりだった。しかし、それを言えば、女というものは嘘つきが大きらいであるから、ますます失敗であろう。

 だから、私は小説家というものが嘘つきであるということを、必要以上に強調したくないが、例えば私が太宰治や坂口安吾とルパンで別れて宿舎に帰り、この雑誌のN氏という外柔内剛の編輯者の「朝までに書かせてみせる」という眼におそれを成して、可能性の文学という大問題について、処女の如く書き出していると、雲をつくような大男の酔漢がこの部屋に乱入して、実はいま闇の女に追われて進退きわまっているんだ、あの女はばかなやつだよ、おれをつかまえて離さないんだ、清姫みたいな女だよ、今夜はここへかくまってくれと言うのを見れば、ルパンで別れた坂口安吾であった。おい、君たちこの煙草をやるよ、女がくれたんだよ、と彼はハイカラな煙草をくれたが、私たちは彼がその煙草をルパンの親爺から貰っていたのを目撃していた。坂口安吾はかくの如く嘘つきである。そして私は彼が嘘つきであることを発見したことによって、大いに彼を見直した。嘘つきでない小説家なんて、私にとっては凡そ意味がない。私は坂口安吾が実生活では嘘をつくが、小説を書く時には、案外真面目な顔をして嘘をつくまいとこれ努力しているとは、到底思えない。嘘をつく快楽が同時に真実への愛であることを、彼は大いに自得すべきである。由来、酒を飲む日本の小説家がこの間の事情にうといことが、日本の小説を貧困にさせているのかも知れない。

 日本の文壇というものは、一刀三拝式の心境小説的私小説の発達に数十年間の努力を集中して来たことによって、小説形式の退歩に大いなる貢献をし、近代小説の思想性から逆行することに於ては、見事な成功を収めた。

 人間の努力というものは奇妙なもので、努力するという限りでは、ここ数年間の軍官民はそれぞれ莫迦は莫迦なりに努力して来たのだが、その努力が日本を敗戦に導くための努力であった如く、日本の文壇の努力は日本の小説を貧困に導くための努力であった。悪意はなかったろうが、心境的私小説──例えば志賀直哉の小説を最高のものとする定説の権威が、必要以上に神聖視されると、もはや志賀直哉の文学を論ずるということは即ち志賀直哉礼讃論であるという従来の常識には、悪意なき罪が存在していたと、言わねばなるまい。

 私はことさらに奇矯ききょうな言を弄して、志賀直哉の文学を否定しようというのではない。私は志賀直哉の新しさも、その禀質ひんしつも、小説の気品を美術品の如く観賞し得る高さにまで引きあげた努力も、口語文で成し得る簡潔な文章の一つの見本として、素人にも文章勉強の便宜を与えた文才も、大いに認める。この点では志賀直哉の功を認めるにやぶさかではない。しかし、志賀直哉の小説が日本の小説のオルソドックスとなり、主流となったことに、罪はあると、断言して憚からない。心境小説的私小説はあくまで傍流の小説であり、小説という大河の支流にすぎない。人間の可能性という大きな舟を泛べるにしては、余りに小河すぎるのだ。けっして主流ではない。近代小説という大海に注ぐには、心境小説的という小河は、一度主流の中へ吸い込まれてしまう必要があるのだ。例えば志賀直哉の小説は、小説の要素としての完成を示したかも知れないが、小説の可能性は展開しなかった。このことは、小説というものについて、ことに近代小説の思想性について少しでも考えた人なら、誰しも気づいていた筈だが、最高の境地という権威がわざわいしたのと、日本の作家や批評家の中で多かれ少かれ志賀直哉の小説というより、その眼や境地や文章から影響を受けた者が多いという事情がわざわいして、小説を「かず離れず」の芸術として既に形式の完成されたものと見る考え方が、近代小説の可能性の追求の上位を占めてしまったのである。そして、この事情は終戦後の文壇に於ても依然として続き、岩波アカデミズムは「灰色の月」によって復活し、文壇の「新潮」は志賀直哉の亜流的新人を送迎することに忙殺されて、日本の文壇はいまもなお小河向きの笹舟をうかべるのに掛り切りだが、果してそれは編輯者の本来の願いだろうか、小河で手を洗う文壇の潔癖だろうか。バルザックの逞しいあらくれの手を忘れ、こそこそと小河で手をみそいでばかりいて皮膚の弱くなる潔癖は、立小便すべからずの立札にも似て、百七十一も変名を持ったスタンダールなどが現れたら、気絶してしまうほどの弱い心臓を持ちながら、冷水摩擦で赤くした貧血の皮膚を健康の色だと思っているのである。「灰色の月」はさすがに老大家の眼と腕が、日本の伝統的小説の限界の中では光っており、作者の体験談が「灰色の月」になるまでには、相当話術的工夫が試みられて、仕上げの努力があったものと想像されるが、しかし、小説は「灰色の月」が仕上ったところからはじまるべきで、体験談を素材にして「灰色の月」という小品が出来上ったことは、小説の完成を意味しないのだ。いわば「灰色の月」という小品を素材にして、小説が作られて行くべきで、日本の伝統的小説の約束は、この小説に於ける少年工の描写を過不足なき描写として推賞するが、過不足なき描写とは一体いかなるものであるか。われわれが過去の日本の文学から受けた教養は、過不足なき描写とは小林秀雄のいわゆる「見ようとしないで見ている眼」の秩序であると、われわれに教える。「見ようとしないで見ている眼」が「即かず離れず」の手で書いたものが、過不足なき描写だと、教える。これが日本の文学の考え方だ。最高の境地だという定説だ。猫も杓子しゃくしも定説に従う。亜流はこの描写法を小説作法の約束だと盲信し、他流もまたこれをノスタルジアとしている。頭が上らない。しかし、一体人間を過不足なく描くということが可能だろうか。そのような伝統がもし日本の文学にあると仮定しても、若いジェネレーションが守るべき伝統であろうか。過不足なき描写という約束を、なぜ疑わぬのだろう。いや「過不足なき」というが、果して日本の文学の人間描写にいかなる「過剰」があっただろうか。「即かず離れず」というが、日本の文学はかつて人間に即きすぎたためしがあろうか。心境小説的私小説の過不足なき描写をノスタルジアとしなければならぬくらい、われわれは日本の伝統小説を遠くはなれて近代小説の異境に、さまよいすぎたとでもいうのか。日記や随筆と変らぬ新人の作品が、その素直さを買われて小説として文壇に通用し、豊田正子、野沢富美子、直井潔、「新日本文学者」が推薦する「町工場」の作者などが出現すると、その素人の素直さにノスタルジアを感じて、狼狽してこれを賞讃しなければならぬくらい、日本の文学は不逞なる玄人の眼と手をもって、近代小説の可能性をギリギリまで追いつめたというのか。「面白い小説を書こうとしていたのはわれわれの間違いでした」と大衆文学の作者がある座談会で純文学の作家に告白したそうだが、純文学大衆文学を通じて、果して日本の文学に「アラビヤン・ナイト」や「デカメロン」を以てはじまる小説本来の面白さがあったとでもいうのか。脂っこい小説に飽いてお茶漬け小説でも書きたくなったというほど、日本の文学は栄養過多であろうか。


 正倉院の御物が公開されると、何十万という人間が猫も杓子も満員の汽車に乗り、電車に乗り、普段は何のなにがしという独立の人格を持った人間であるが、車掌にどなりつけられ、足を踏みつけられ、背中を押され、蛆虫のようにひしめき合い、自分が何某という独立の人格を持った人間であることを忘れるくらいの目に会って、死に物ぐるいで奈良に到着し、息も絶え絶えになって御物を拝見してまわり、ああいいものを見た、結構であったと、若い身空で溜息をついている。まことにそれも結構であるが、しかし、これが日本の文化主義というものであろうと思って見れば、文化主義の猫になり、杓子になりたがる彼等の心情や美への憧れというものは、まことにいじらしいくらいであり、私のように奈良の近くに住みながら、正倉院見学は御免を蒙って不貞寝の床に「ライフ」誌を持ち込んで、ジャン・ポール・サルトルの義眼めいた顔の近影を眺めている姿は、一体いかなる不逞なドラ猫に見えるであろうか。

 ある大衆作家は「新婚ドライブ競争」というような題の小説を書くほどの神経の逞しさを持っていながら、座談会に出席すると、この頃の学生はあしたに哲学書を読み、ゆうべに低俗なる大衆小説を読んでいるのは、日本の文化のためになげかわしいというような口を利いて、小心翼々として文化の殉教者を気取るのである。一体どちらを読めというのか。いや、正倉院を見学しろと彼は返答するであろう。日本の芸術では結局美術だけが見るべきものであり、小説を美術品の如く観賞するという態度が生れるのも無理はない。奈良に住むと、小説が書けなくなるというのも、造型美術品から受ける何ともいいようのない単純な感動が、小説の筆を屈服させてしまうからであろう。だから、人間の可能性を描くというような努力をむなしいものと思い、小説形式の可能性を追究して、あくまで不純であることが純粋小説だという意味の純粋小説を作るのは、低級な芸術活動だと思い、作者自身の身辺や心境を即かず離れずに過不足なく描写することによって、小説を美術品の如く作ろうとし、美術品の如く観賞されることを、最高の目的とするのだ。私は彼等の素直なる、そしてただ素直でしかない、面白くないという点では殆んど殺人的な作品が、われわれに襟を正して読むことを強制しているという日本の文壇の、昨日に変らぬ今日の現状に、ただ辟易するばかりである。彼等の文学は、ただ俳句的リアリズムと短歌的なリリシズムに支えられ、文化主義の知性に彩られて、いちはやく造型美術的完成の境地に逃げ込もうとする文学である。そして、彼等はただ老境に憧れ、年輪的な人間完成、いや、渋くさびた老枯を目標に生活し、そしてその生活の総勘定をありのままに書くことを文学だと思っているのである。しかも、この総勘定はそのまま封鎖の中に入れられ、もはや新しい生活の可能性に向って使用されることがない。彼等の文学のうち、比較的ましな文学の中には彼等がいかに生きて来たかということは書かれているだろうが、いかに生くべきかという可能性は描かれていない。桑原武夫が、日本の文学がつまらぬのは、外国の文学に含まれている、人間がいかに生くべきかという思想がないからだという意味のことを言っていたが、結局それは私に解釈させれば、日本の伝統的小説には人間の可能性が描かれていないということだ。そしてこのことは、日本の伝統的小説が末期の眼を最高の境地として、近代芸術たる音楽よりも、既に発展の余地を失った古代造型美術を手本にして小説を作っている限り、当然のことである。志賀直哉とその亜流その他の身辺小説作家は一時は「離れて強く人間に即く」ような作品を作ったかも知れないが、その後の彼等の作品がますます人間から離れて行ったのは、もはや否定しがたい事実ではあるまいか。彼等は人間を描いているというかも知れないが、結局自分を描いているだけで、しかも、自分を描いても自分の可能性は描かず、身辺だけを描いているだけだ。他人を描いても、ありのまま自分が眺めた他人だけで、他人の可能性は描かない。彼等は自分の身辺以外の人間には興味がなく、そして自分の身辺以外の人間は描けない。これは彼等のいわゆる芸術的誠実のせいだろうか。それとも、人間を愛していないからだろうか、あるいは、彼等の才能の不足だろうか。彼等の技術は最高のものと言われているかも知れないが、しかし、いつかは彼等の技術を拙劣だとする時代が来ることを、私は信じている。


 私はことさらに奇矯な言をろうしているのでもなければ、また、先輩大家を罵倒しようという目的で、あらぬことを口走っているのではない。昔、ある新進作家が先輩大家を罵倒した論文を書いたために、ついに彼自身没落したという話もきいている。口はわざわいの基である。それに、私は悪評というものがどれだけ相手を傷つけるものであるかということも知っている。私などまだ六年の文壇経歴しかないが、その六年間、作品を発表するたびに悪評の的となり、現在もその状況は悪化する一方である。私の親戚のあわて者は、私の作品がどの新聞、雑誌を見ても、げす、悪達者、下品、職人根性、町人魂、俗悪、エロ、発疹チブス、害毒、人間冒涜、軽佻浮薄などという忌まわしい言葉で罵倒されているのを見て、こんなに悪評を蒙っているのでは、とても原稿かせぎは及びもつくまい、世間も相手にすまい、十円の金を貸してくれる出版屋もあるまい、恐らく食うに困っているのだろうと、三百円の為替を送って来てくれた。また、べつの親戚の娘は、女学校の入学試験に落第したのは、親戚に私のような悪評嘖々さくさくたる人間がいるからであると言って、私に責任を問うて来た。ある大家が私の作品を人間冒涜の文学であり、いやらしいと言ったという噂が伝わった時、私は宿屋に泊っても変名を使った。悪評はかくの如く人の心を傷つける。だから、私は私を悪評した人の文章を、腹いせ的に悪評して、その人の心を不愉快にするよりは、その人の文章を口を極めてほめるという偽善的態度をとりたいくらいである。まして、枕を高くして寝ている師走の老大家の眠りをさまたげるような高声を、その門前で発するようなことはしたくない。

 しかもあえてこのような文章を書くのは、老大家やその亜流の作品を罵倒する目的ではなく、むしろ、それらの作品を取り巻く文壇の輿論よろん、即ち彼等の文学を最高の権威としている定説が根強くはびこっている限り、日本の文壇はいわゆる襟を正して読む素直な作品にはことを欠かないだろうが、しかし、新しい文学は起こり得ない、可能性の文学、近代小説は生れ得ないと思うからである。私は日本文壇のために一人悲憤したり、一人憂うという顔をしたり、文壇を指導したり、文壇に発言力を持つことを誇ったり、毒舌をきかせて痛快がったり、他人の棚下しでめしを食ったり、することは好まぬし、関西に一人ぽっちで住んで文壇とはなれている方が心底から気楽だと思う男だが、しかし、文壇の現状がいつまでも続いて、退屈極まる作品を巻頭か巻尾にのせた文学雑誌を買ったり、技倆ぎりょう拙劣読むに堪えぬ新人の小説を、あれは大家の推薦だからいいのだろうと、我慢して読んでいる読者のことを考えると、気の毒になるし、私自身読者の一人として、大いに困るのである。これは文学の神様のものだから襟を正して読め、これは文学の神様を祀っている神主の斎戒沐浴さいかいもくよく小説だからせめてその真面目さを買って読め、と言われても、私は困るのである。考えてみれば、日本は明治以後まだ百年にもならぬのに、明治大正の作家が既に古典扱いをされて、文学の神様となっているのは、どうもおかしいことではないか。しかも、一たび神様となるや、その権威は絶対であって、片言隻句ことごとく神聖視されて、敗戦後各分野で権威や神聖への疑義が提出されているのに、文壇の権威は少しも疑われていないのは、何たる怠慢であろうか。フランスのように多くの古典を伝統として持っている国ですら、つねに古典への反逆が行われ、老大家のオルソドックスに飽き足らぬアヴァンギャルド運動から二百一人目の新人が飛び出すのではあるまいか。ジュリアン・バンダがフランス本国から近著した雑誌で、ヴァレリイ、ジイド等の大家を完膚かんぷなきまでに否定している一方、ジャン・ポール・サルトルがエグジスタンシアリスム(実存主義)を提唱し、最近巴里パリで機関誌「現代」を発行し、巻頭に実存主義文学論を発表している。エグジスタンシアリスムという言葉は、巴里では地下鉄の中でも流行語になっているということだが、日本では本屋の前に行列が作られるのは、老大家をかかえた岩波アカデミズム機関誌の発売日だけである。日本もフランスも共に病体であり、不安と混乱の渦中にあり、ことに若きジェネレーションはもはや伝統というヴェールに包まれた既成の観念に、疑義を抱いて、虚無に陥っている。そのような状態がフランスではエグジスタンシアリスムという一つの思想的必然をうみ、人間というものを包んでいた「伝統」的必然のヴェールをひきさくことによって、無に沈潜し、人間を醜怪と見、必然に代えるに偶然を以てし、ここに自由の極限を見るのである。サルトルの「アンティミテ」(水いらず)という小説を、私はそんなに感心しているわけでもないし、むしろドイツのケストネルが書いた「ファビアン」の方にデフォルムの新しい魅力を感ずるし、日本の実存主義運動などが、二三の反オルソドックス作家の手によって提唱されたとしたら、まことに滑稽なことになるだろうと思う。まして私たちが実存主義作家などというレッテルを貼られるとすれば、むしろ周章狼狽するか、大袈裟なことをいうな、日本では抒情詩人の荷風でもペシミズムの冷酷な作家で通るのだから、随分大袈裟だねと苦笑せざるを得ない。だいいち、日本には実存主義哲学などハイデガー、キェルケゴール以来輸入ずみみたいなものだが、実存主義文学運動が育つような文学的地盤がない。よしんば実存主義運動が既成の日本文学の伝統へのアンチテエゼとして起るとしても、しかし、伝統へのアンチテエゼが直ちに「水いらず」や「壁」や「反吐へど」になり得ないところが、いわば日本文学の伝統の弱さではなかろうか。フランスのようにオルソドックス自体が既に近代小説として確立されておればつまり、地盤が出来ておれば、アンチテエゼの作品が堂々たるフォームを持つことができるのだが、日本のように、伝統そのものが美術工芸的作品に与えられているから、そのアンチテエゼをやっても、単に酔いどれの悔恨を、文学青年のデカダンな感情で告白した文学青年向きの観念的私小説となり、たとえば肉体を描こうとしながら、観念的にしか肉体が迫って来ぬことになる。肉体を描いた小説が肉体的でない、──それほど日本の伝統的小説には新しいものをうみ出す地盤がなくて、しかも、権威だけは神様のように厳として犯すべからざるものだから、呆れざるを得ない。私が敢てサルトルを持ち出したのも、実はこのような日本文学の地盤の欠如を言いたいからである。

「水いらず」は病気のフランスが生んだ一見病気の文学でありながら、病気の日本が生んだ一見健康な文学よりも、明確に健康である。この作品の作られる一九三八年にはまだエグジスタンシアリスムの提唱はなかったが、しかし、人間を醜怪、偶然と見るサルトルの思想は既にこの作品の背景となっており、最も思考する小説でありながら、いかなる思想も背景に持たず最も思考しない日本の最近の小説よりも、思考の跡をとどめない。これは当然のことだが、しかしこれは日本の最近の小説を読みならされているわれわれには、異様な感さえ起させるのだ。「水いらず」は素直ではないが素朴である。フランスのように人間の可能性を描く近代小説が爛熟期らんじゅくきに達している国で、サルトルが極度に追究された人間の可能性を、一度原始状態にひき戻して、精神や観念のヴェールをかぶらぬ肉体を肉体として描くことを、人間の可能性を追究する新しい出発点としたことは、われわれにはやはり新鮮な刺戟である。人間の可能性は例えばスタンダールがスタンダール自身の可能性即ちジュリアンやファブリスという主人公の、個人的情熱の可能性を追究することによって、人間いかに生くべきかという一つの典型にまで高め、ベリスム、ソレリアンなどという言葉すら生れたし、またアンドレ・ジイドは「贋金にせがねつくり」によって、近代劇的な額縁の中で書かれていた近代小説に、花道をつけ、廻り舞台をつけ、しかもそれを劇と見せかけて、実はカメラを移動させれば、観客席も同時にうつる劇中劇映画であり、おまけにカメラを動かしている作者が舞台で役者と共に演じている作者と同時にうつっていて、あとで「贋金つくりの日記」のアフレコを行うというややこしい形式を試みてドストイエフスキイにヒントを得た人間の対決の可能性を追究し、同時に、近代小説の形式的可能性をデフォルムした。が、サルトルはスタンダールやジイドの終った所からはじめず、彼等がはじめなかった所からはじめることによって、可能性の追究に新しい窓をあけたのだ。サルトルは絵描きが裸体のデッサンからはいって行くことによって、人間を描くことを研究するように、裸かの肉体をモラルやヒューマニズムや観念のヴェールを着せずに、描いたのだ。そして、人間が醜怪なる実存である限り、いかなるヴェールも虚偽であり、偽善であるとしたのだ。日本の少数の作家も肉体を描く。しかし、描かれた肉体は情緒のヴェールをかぶり、観念のヴェールをかぶり、あるいは文学青年的思考のデカダンスが、描かれた肉体をだしにしているという現状では、やはりサルトルの「水いらず」は一つの課題になるかも知れない。新しい文学が起ろうとする時には必ず既成の「人間」という観念への挑戦が起り、頑固なる中世的な観念の鎧をたたきこわして、裸かの人間を描こうとし、まず肉体のデッサンがはじまる。しかし、現在書かれている肉体描写の文学は、西鶴の好色物が武家、僧侶、貴族階級の中世思想に反抗して興った新しい町人階級の人間讃歌であった如く、封建思想が道学者的偏見を有力な味方として人間にかぶせていた偽善のヴェールをひきさく反抗のメスの文学であろうか、それとも、与謝野晶子、斎藤茂吉の初期の短歌の如く新感覚派にも似た新しい官能の文学であろうか、あるいは頽廃派の自虐と自嘲を含んだ肉体悲哀の文学であろうか、肉体のデカダンスの底に陥ることによってのみ救いを求めようとするネオ・デカダニズムの文学であろうか。サルトルは解放するが、救いを求めない。

 いずれにしても、自然主義以来人間を描こうという努力が続けられながら、ついに美術工芸的心境小説に逃げ込んでしまった日本の文学には、「人間」は存在しなかったといっても過言でない以上、人間の可能性の追究という近代小説は、観念のヴェールをぬぎ捨てた裸体のデッサンを一つの出発点として、そこから発展して行くべきである。例えば、志賀直哉の文学の影響から脱すべく純粋小説論をものして、日本の伝統小説の日常性に反抗して虚構と偶然を説き、小説は芸術にあらずという主張を持つ新しい長編小説に近代小説の思想性を獲得しようと奮闘した横光利一の野心が、ついに「旅愁」の後半に至り、人物の思考が美術工芸の世界へ精神的拠り所を求めることによって肉体をはなれてしまうと、にわかに近代小説への発展性を喪失したのも、この野心的作家の出発が志賀直哉にはじまり、志賀直哉以前の肉体の研究が欠如していたからではあるまいか。だから、新感覚派運動もついに志賀直哉の文学の楷書式フォルムの前に屈服し、そしてまた「紋章」の茶会のあの饒慢な描写となったのである。

 思えば横光利一にとどまらず、日本の野心的な作家や新しい文学運動が、志賀直哉を代表とする美術工芸小説の前にひそかに畏敬を感じ、あるいはノスタルジアを抱き、あるいは堕落の自責を強いられたことによって、近代小説の実践にもろくも失敗して行ったのである。彼等の才能の不足もさることながら、虚構の群像が描き出すロマンを人間の可能性の場としようという近代小説への手の努力も、兎や虫を観察する眼にくらべれば、ついに空しい努力だと思わねばならなかったところに、日本の芸術観の狭さがあり、近代の否定があった。小林秀雄が志賀直哉論を書いて、彼の近代人としての感受性の可能性を志賀直哉の眼の中にノスタルジアしたことは、その限りに於ては正しかったが、しかし、この志賀直哉論を小林秀雄の可能性のノスタルジアを見ずに、直ちに志賀直哉文学の絶対的評価として受けとったところに、文壇の早合点があり、小林自身にも責任なしとしない。小林の近代性が志賀直哉の可能性としての原始性に憧れたことは、小林秀雄個人の問題であり、これを文壇の一般的問題とすることは、日本の文学の原始性に憧れねばならないほどの近代性がなかった以上滑稽であり、よしんば、小林秀雄の驥尾きびに附して、志賀直哉の原始性を認めるとしても、これは可能性の極限ではなく、むしろ近代以前であり、出発点以前であったという点に、近代を持たぬ現在のわれわれのノスタルジアたり得ない日本的宿命があるのである。

「可能性の文学」は果して可能であろうか。しかし、われわれは「可能性の文学」を日本の文学の可能としなければ、もはや近代の仲間入りは出来ないのである。小説を作るということは結局第二の自然という可能の世界を作ることであり、人間はここでは経験の堆積たいせきとしては描かれず、経験から飛躍して行く可能性として追究されなければならぬ。そして、この追究の場としての小説形式は、つねに人間の可能性に限界を与えようとする定跡である以上、自由人としての人間の可能性を描くための近代小説の形式は、つねに伝統的形式へのアンチテエゼでなければならぬのに、近代以前の日本の伝統的小説が敗戦後もなお権威をもっている文壇の保守性はついに日本文学に近代性をもたらすという今日の文学的要求への、許すべからざる反動である。現在少数の作家が肉体を描くという試みによって、この保守性に反抗しているのは、だから、けっしてマイナス的試みではない。しかし、肉体を描くということは、あくまで終極の目的ではなくて単なるデッサンに過ぎず、人間の可能性はこのデッサンが成り立ってはじめてその上に彩色されて行くのである。しかし、この色は絵画的な定着を目的とせず、音楽的な拡大性に漂うて行くものでなければならず、不安と混乱と複雑の渦中にある人間を無理に単純化するための既成のモラルやヒューマニズムの額縁は、かえって人間冒涜ぼうとくであり、この日常性の額縁をたたきこわすための虚構性や偶然性のロマネスクを、低俗なりとする一刀三拝式私小説の芸術観は、もはや文壇の片隅へ、古き偶像と共に追放さるべきものではなかろうか。そして、白紙に戻って、はじめて虚無の強さよりの「可能性の文学」の創造が可能になり、小説本来の面白さというものが近代の息吹をもって日本の文壇に生れるのではあるまいか。

(「改造」昭和二十一年十二月号)

底本:「夫婦善哉」講談社文芸文庫、講談社

   1999(平成11)年510日第1刷発行

   2002(平成14)年1025日第3刷発行

底本の親本:「織田作之助全集 第八巻」講談社

   1970(昭和45)年10

初出:「改造」改造社

   1946(昭和21)年12

入力:桃沢まり

校正:門田裕志

2006年321日作成

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