南京虫殺人事件
坂口安吾



消えた男


「ここの女主人は何者だろうな」

 この家の前を通る時、波川巡査は習慣的にふとそう思う。板塀にかこまれた小さな家だが、若い女の一人住いで、凄い美人と評判が高い。

 警察の戸口調査の名簿には「比留目奈々子ヒルメナナコ二十八歳、職業ピアニスト」となっているが、ききなれない名前である。なるほど稀にピアノの音がすることもあったが、しょッちゅうシェパードらしい猛犬が吠えたてているので有名だった。

 今日もシェパードが吠え立てている。するとカン高い女の声がきこえた。

「なんですって! 小包……知りませんよ……脅迫するんですか!」

 波川巡査は思わず立ちどまった。とぎれとぎれにしか聞きとれないが、聞えた部分はなんとなく穏やかではない。女の語気もタダゴトではない見幕のようだ。

 男の声が何かクドクドとそれに答えているようだが、これは低くて全く聞きとれない。どうやら、玄関先で応対しているらしい。また、女の声。

「知りませんたら。なんですか、言いがかりをつけて! 警察へ訴えますよ!」

 この声をきいたとたんに、門の外にいた波川巡査は無意識にガラガラと門の戸をあけて、ズカズカと中へ入ってしまった。この家の一人住いの女主人がさだめし喜んでくれるだろうと思ったのである。

 ところが、妙なアンバイになった。玄間の土間に二人の男がいる。

 女主人の奈々子は室内から二人を見下して睨み合いの様子だったが、制服の巡査が闖入したので、同時にふりむいた三人のうち、むしろ誰よりも狼狽の色を見せたのは奈々子であった。

「なにか御用ですか」

 と息をはずませて、きびしく訊く。

「通りがかりに、警察へ訴えますよという声をきいて、思わずとびこんだんですが、自分が何かお役に立つことがあるでしょうか」

「いえ、なんでもないんです。内輪の人に、親しまぎれに、冗談云ったんですのよ」

「そうですか。自分の耳には冗談のようには聞えませんでしたが……」

 波川巡査は二人の男を観察した。一人は体格のガッシリした遊び人風の若い男だが、洋服は上物で、相当金のかかった服装だ。他の一人は病弱そうなインテリ風の眼鏡をかけた男で、寒そうに両手をオーバーのポケットに突ッこんでいる。土間の上に、皮製のボストンバッグが置かれていた。押売りにしては、二人の服装は悪くはない。

「なんでもないんですから、どうぞおひきとり下さいまして」

 奈々子にこう云われては、それ以上居るわけにもいかないので、観察も途中で切りあげて退出せざるを得なかった。

「どうも奇妙な組合せだ。内輪の親しい同志だと云ったが、そうらしくない様子だった。あのボストンバッグの中身は何だろう? なんとなく、気にかかるな」

 波川巡査は当年四十五というウダツのあがらぬ名物男。かねがね叩きこまれていた第六感という奴をヒョイと思いだして、

「そうだ。これが第六感という奴だぞ」

 一町ほど先の雑貨屋の露地をまがると、波川巡査の自宅だ。帰宅したら一風呂あびて夕食をたのしみに家路をたどってきたところだが、それどころじゃない。よし、変装して追跡だ、と大急ぎでわが家へとびこんだ。

「セビロとオーバーを至急だしてくれ。夕食の仕度は後廻しだ。オイ、百合子、お前も外出の仕度をしろ。変な奴をつけるのだ」

 波川の娘百合子も婦警であった。ちょうど非番で家に居たから、洋装させて、同じ事務所の社員男女が会社をひけて帰宅の途中というアベック姿。大急ぎで取って返すと、奈々子の家には幸い二人がまだ居るらしい様子。犬がウーウー唸りつづけている。どうやら二人は上りこんだらしい。

「室内へあげたんなら、怪しい来客じゃないんじゃないの?」

「そうかも知れんな。しかし、やりかけたことだから、様子を見届けよう」

 物蔭にかくれて待伏せていると、やがて二人の男が門の外へ現れた。遊び人風の方が例のボストンバッグをぶらさげている。

 二人は電車通りへの方向とは反対の淋しい方へ歩いて行く。

「あっちの方角へ行くんなら、歩いて行けるところに住居があるのだな。突きとめてやろう」

「ええ、そうしましょう」

 二人は三十間ほどの間をおいて後をつけはじめた。出まかせに会話しながら、いかにもクッタクのない通行人のフリをして後をつけた。どうも、これがマズかったようだ。

 二人はなかなか歩きやまない。とうとう世田谷の区域をすぎて、渋谷区へはいった。ここから丘にかかると、戦災で大方やられているが大邸宅地帯。この丘を越すと、渋谷の繁華街の方へでる。

 世田谷で電車を降りて渋谷区まで歩いて帰宅する勤人というのは変だ。この辺へ帰宅するには他の停留所で降りなければならない。波川父娘はシマッタと顔見合せて、

「さとられたかも知れないな。しかし、奴らも電車を利用せずにこれだけ歩くというのはクサいぞ。奴らは急に二手に分れて走りだすかも知れないから、そのときはボストンバッグの奴の方を執念深く追うことにしよう」

「ピストル持ってきた?」

「持ってる」

 いよいよ丘の大邸宅地域にかかった。一ツの邸宅が広さ何千坪、中には一万坪を越すような大邸宅もある。高い石塀がエンエンと曲りくねってつづき、昼でも人通りがほとんどなくて淋しいところ。石塀と庭の樹木は昔さながらの姿であるが、石塀の中の邸宅は焼けて跡形もないのが多い。

 二人の男は石坂に沿うて曲った。とたんにドンと地響きがした。

「それ!」

 巡査親子は夢中で走った。我ながらヘタクソな追跡ぶりに気がひけて、間隔がいくらか遠ざかっていたので、どこまでも運がわるかった。ようやく曲り角へでると、今しも遊び人風の男がインテリ風の男を肩にのせて、高い塀の上へ押し上げたところだった。親子がそれを認めたとたんに、インテリ風の男は塀の内側へ姿を消してしまったのである。

 波川巡査はオーバーの下からピストルをとって、

「手をあげろ。警察の者だ」

 残った男は逃げる様子もなく、まるで何事もなかったように手をあげて、

「なんですか? 怪しい者じゃないですよ」

「ボストンバッグはどうした?」

「そんなもの持ってやしません」

 最初にドンと地響がしたのは石塀の内側へボストンバッグを投げこんだ音だ。波川巡査はそれに気がついて、さてこの男を捕えるべきや、石塀の中へとびこんで逃げた男を追うべきや、と思わず高い石塀を見上げた。それが運のつき。

 いきなり腕をうたれて火のでる痛みをうけたとたん、手のピストルも火を吐いて地上へ落ちる。とたんにミゾオチを一撃されてひッくり返った。と同時に、百合子も顔を一撃されて地上にすッとんだ。

 百合子は痛さをこらえて逃げ去る足音の方を目で追った。男は石塀の反対側の小路へいきなり曲りこんで消えてしまった。

 それから二分ほどの後、ピストルの音で駈けつけたパトロールの巡査が百合子と父を助け起してくれた。事情をきいたパトロールは、

「そうですか。それじゃア、この塀の中の男を探した方が早道ですね。そう云えば、この邸内にはドーベルマンとシェパードの凄いのがいますよ。あの犬が庭に放されている限り、その男は半殺しの目にあいますぜ。そんな物音はききませんでしたか」

 ところがピストルが火を吐いて地上に落ちてからというもの、近所の犬がそろってウォーウォー吠えだした。吠えられてみると、四隣遠近犬だらけ。特に一ツの犬の声に注意のできない状態であった。

「まだ八時だから、たのんで邸内を調べさせてもらいましょう。陳という中華人の家ですから、ちょッとうるさいかも知れませんがね」

 表門へまわって案内を乞う。門番の小屋があって、中年の日本人の下婢が顔をだした。奥の本邸とレンラクの後、案外カンタンに庭内の捜査を許してくれたが、なるほど入口には物凄いドーベルマンとシェパードがいて、一足はいると跳びかかる構えで睨んでいる。

「その犬をつないでくれませんか」

「ええ、いま、つなぎますよ」

「ずッと放しておいたんですか」

「ええ、そう。日が暮れると、毎晩放しておくんですよ」

「すると、奴さん、やられてるな」

 ところが、庭をくまなく捜したけれども、男の姿はどこにも見えない。犬と格闘した跡もない。塀をとび降りた場所にいくらか乱れが目につくだけだ。

「オヤ、なんでしょうね」

 懐中電燈で執念深く捜しまわっていた百合子は、男がとび降りた地点の木の根に、小さな光るものを見つけて取りあげた。

「金の腕時計だわ。婦人用の南京虫。男が南京虫を腕にまくかしら?」

 奇妙な謎の拾い物であった。


殺されていた奈々子


 翌日、非番の波川巡査はミゾオチを打たれた痛みもあって、午すぎも寝ていた。すると、飛ぶように戻ってきた百合子に叩き起された。

「大変よ。比留目奈々子が殺されたのよ。殺されたのは昨夜です。あの二人が犯人よ」

 波川は痛みも忘れて跳び起きた。

 百合子も下アゴを打たれて唇をきり、アゴが腫れて、美人婦警も惨たる面相。人に顔を見せたくないから休みたかったが、昨夜の報告があるので、署へでてみると、奈々子殺し発見の騒ぎである。

「犯人の顔を見たのはお父さんだけですから、すぐ来て下さいッて」

「あの二人が犯人ときまってるのか」

「確証があるらしいわ。ほかに、いろいろ重大なことが判ったらしいの。殺された奈々子は意外の大物らしいんですって。暗黒街の謎の女親分ミス南京」

「本当か」

 ミゾオチの痛みも吹ッとび、波川はいそいで服を着た。

 そのころ、東京横浜を中心に、大口の南京虫の密売者が現れた。これが凄いような絶世の美女だ。秘密に指定した場所へいずこからともなく現れて、無造作に大量の南京虫をバッグから取りだし、金とひきかえて、消え去ってしまう。その身辺には二人の護衛の若者がついていて、取引の終るまでピストルに指をかけて見張っている。麻薬を扱うこともある。どこの何者とも分らないが、仲間の間ではミス南京とよばれている。当局はようやくスパイをいれることに成功して、ミス南京の存在までは突きとめたが、密輸のルートはおろか、ミス南京の住居も名も分らないのだ。

 ところが殺された奈々子の屍体のかたわらから、ミス南京の謎を解いてくれるらしい多くの重大な物が現れたのである。

 奈々子は腕に麻薬を注射して殺されていた。和服姿で、すこしも取り乱したところなく、眠るように安らかに死んでいる。盗品がなければ、むしろ自殺と考えられるような死に方であった。

 ところが、奈々子の屍体を調べた警察医はビックリして思わず声を発したほどだ。奈々子の腕といわず股といわず無数の注射の跡で肉が堅くなっているのだ。麻薬の常習者であった。押入の中からは、それを証拠立てるモルヒネのアンプルが多数現れた。

 たぶん二人の犯人は、奈々子に麻薬を注射してやると云って、より強烈なものを注射したのだろうと考えられた。しかし、波川巡査はそれを疑った。

「なるほど奈々子は二人の男を内輪の者だと云いはしたが、玄関で睨み合って口論していた見幕では、とても男に注射をさせたり、男の目の前で自身注射することすらも、ちょッと考えることができないなア」

 ところが、奈々子の小さな家から発見されたいろいろの物品は、甚しく意外で、また重大な事実を物語るものであった。

 押入の中に、外国製の果汁のカンヅメがいくつもあった。その空カンも一ツあった。ところが、その空カンには果汁が入っていたらしいような痕跡や匂いが残っていない。

 そのカンヅメをたくさん入れて送ってきたらしい大きなブリキカンがあるが、押入の中から出てきたカンヅメの数はその三分の一にも足らないぐらいだ。そして、不足分のカンヅメは奈々子の家から発見することができなかったのである。

 もっと意外なことは、そのカンヅメ荷物の包み紙らしいものが現れたが、それは香港から羽田着の飛行便で奈々子宛に送られたことを語っていた。そしてたしかに香港から発送された証拠には、それを包むに用いたらしい香港発行の新聞紙がたくさん押入の奥に押しこまれていたのであった。

 さらに意外なことがあった。机のヒキダシの中や、ハリ箱の中や、筆入れの中からまで、無造作に合計五十三個という南京虫腕時計が現れたのだ。

 屍体のかたわらに奈々子のハンドバッグがひッかきまわされて捨てられていたが、その中にもひッかきもらした南京虫が一ツ残っていた。たぶん犯人はハンドバッグの中にあった南京虫だけ盗み取って行ったらしい。

「すると比留目奈々子がミス南京だったのか。なるほど、死顔ですらも、思わず身ぶるいが走って抱きつきたくなるような美人だねえ」

「香港から飛行機で送られてくるカンヅメのうち約三分の一が本物の果汁で、他の三分の二が南京虫というわけか」

「犯人がボストンバッグをぶらさげてきた謎が、それで解けるわけだな」

 そこで羽田の税関はじめ関係局の配達夫等にまで調査をすすめてみると、この荷物が奈々子のもとへ送られてきたのは当日の午前中のことだ。ところが、それ以前にも、約四ヵ月前から合計五度にわたって同じような荷物が香港から届いているのが分った。

 しかし、波川巡査はまだなんとなく解せないことがあった。

「自分が思わず立ち止ったとき、奈々子の叫んだ言葉というのは、こうなんです。小包……そんなもの知らないわよ……脅迫するのね。──ざッとこんな意味でしたよ」

「つまり犯人が南京虫の到着を知って取りに来たから、そんな小包はまだ来ていないとゴマカしたのだろう。それがそもそも奈々子の殺された原因さ」

 云われてみれば、ピタリとツジツマが合うようだ。けれども、波川の頭には、なぜだか証明できないが、どこかにマチガイがあるような感じがついて離れなかった。するとそのカンもまんざら捨てたものではないことをなかば証拠立てるような事が現れた。

 犯人を見たのは波川父子だけであるが、二人の印象を土台にモンタージュ写真を作った。インテリ風の眼鏡男は波川巡査一人しか見ていないから信用できかねるが、遊び人風の若者の方は二人の印象を合せていくうちに、二人そろってこの顔に甚だ似ていると断言したほどの似顔絵ができあがった。

 半年ほど前まで奈々子の旦那だったという勝又という実業家にこの似顔絵を見せると、

「この男なら、奈々子のもとに出入りするのを三四度見かけました」

「相棒が一しょでしたね」

「いえ、私の見たのは、いつもこの男一人だけです」

「どういう用件で出入りしていたのですか」

「実はそれが判ったために、次第に奈々子と別れる気持になったのですが、この男は奈々子にモヒを売りこみに来ていたのです。モヒが命の綱ですから、奈々子はこの男なしには生きられない状態だったと云えましょう」

「すると、情夫ですね」

「いいえ。すくなくとも私が旦那のうちは、この男が情夫であった様子はありません。この男なしには奈々子が生きられなかったという意味は、モルヒネが奈々子の命の綱だったという意味なんです。そして私の知る限りでは、二人の関係は純粋な商取引だけのようでした」

「奈々子さんの生活費はどれぐらいかかりましたか」

「私が与えていた定額は毎月五万円、それに何やかやで七八万になったかも知れませんが、奈々子はモヒの費用のために女中も節約していたほどで、いつもピイピイしていましたね」

 この証言に至って、それまでの見込みが怪しくなってきたのである。ミス南京ともあろうものがそんなにピイピイしているはずはない。彼女がそれまでに稼いだ額はたぶん一億以上にのぼるだろうと見られているのだ。

 もっとも、ミス南京が密売線上に現れてから、まだ五ヵ月ぐらいにしかならないから、勝又と別れた後のことではあるが、今も奈々子の押入の中には果汁のカンヅメとモヒのアンプル以外に目星しい品物は何もない。美女にとっては命ともいうべき衣裳類すら何もなく、着ている和服が一チョウラのようなものであった。ピアノすら売り払ったらしく、影も形もなくなっているのだ。自分が麻薬の密売もやりながら、麻薬のために所持品を売りつくしてピイピイしているミス南京は考えられないのである。

「お父さんのカンは当ったらしいわね。この事件には表面に現れていない裏が隠されていると思うの」

 百合子にこう云われて波川はてれながら、

「オレのカンが当ったという自信もないなア。何か変だと思うことがあるだけで、何が変だか分らない始末なのだからなア」

「何が変だか、私が云ってみましょうか」

「ウム」

「陳氏の邸内へとびこんだ犯人がなぜ猛犬に襲われなかったかという謎よ。私、陳家のドーベルマンとシェパードのことを調べてみたのよ。警察犬訓練所で一年以上も訓練された飛びきり優秀犬なのよ。そのほか、室内にはボストンテリヤと、ボクサーという小型の猛犬も飼われてるのよ。知らない人はあの邸内に一歩ふみこむこともできないような怖しいところなのよ」

「庭が広いから、一隅で起ったことには、他の一隅にいる犬は気がつくまいよ」

「あるいは、そんなことかも知れないけど……」

 百合子はやがて晴れ晴れと叫んだ。

「私、とにかく、当ってみるわ。私のカンもなんだか正体がつかめないのだけど、でも、うっちゃっておけないような気持があるのよ。これから陳邸へ乗りこんでみるの」

 どうやら百合子の顔の腫れもひいて、娘々した可愛いい昔の顔にかえっていた。


美女と佳人


 百合子は娘らしい普通の洋装で行ったけれども、婦警の身分は隠さなかった。

「先夜、この邸内へ逃げこんで行方不明になったある事件の容疑者のことで、助言していただけたらとお伺いしたんですけど、御主人に会わせていただきたいのですが」

「御主人は商用で台湾へ御流行中さ」

「代理のお方は?」

「お嬢さまがいらっしゃるけど、会って下さるかどうか」

「ほかに御家族はいらっしゃらないんですか」

「奥さまも居ないし、男の御子様もいないよ。オスは今のところ犬だけさ」

「お嬢さまにぜひ会って下さるようにお願いしてちょうだいな」

「巡査なんていけ好かないが、まア、女だから、取り次いでやろう」

 ところが意外にカンタンにお許しがでて、邸内へ通された。この家も戦災で焼けたのを、陳氏が地所をかりて小ザッパリした洋館をたてたものだ。室数は十室ぐらいで、庭にくらべてそう大きな家ではなかった。

 広間へ通された百合子は、現れた陳令嬢の美しさに、思わず息をのんでしまった。自然にポッとあからんで、あまり上手ではない英語をギクシャクとあやつりながら、

「突然、恐れ入ります。私、婦警の……」

 と云いかけると、令嬢はニコニコして、

「日本語で仰有おっしゃい。私、日本人と同じぐらい日本語が上手よ。日本で育ったから。あなた、本当に、女のお巡りさん?」

「ええ、そうです」

「まア、可愛いいお巡りさんだこと。男の犯人をつかまえたことあって?」

「いいえ、まだですけど」

「猛犬がうろついてる中国人の邸内へ一人でくるの心配だったでしょう」

「ええ。ですから、お嬢さまにお目にかかって、目がくらんでしまったのですわ」

「お上手ねえ。お答えできる範囲のことはなんでも答えてあげますから、用件を仰有って」

「先夜、この邸内へ逃げこんだまま行方が消えてしまった容疑者のことなんですけど、そのとき庭に放されていたはずのドーベルマンとシェパードが闖入者を見逃した理由が分らないのです」

 令嬢はいかにも同意するようにうなずいた。

「それは本当にフシギなことね。ですけど、知らない人たちが空想するほど、犬は利巧でもなく、鋭敏でもないらしいのね。これは飼い主の感想です」

「御当家へ出入りの男でしたら、犬は闖入者を見逃すでしょうか」

「特別犬と親しければ、ね。ですけど、犬が見逃すほど親しい男といっては、たぶん父のほかにいないでしょうね」

「お父さまはいま日本にいらッしゃらないのでしょう?」

「そう。もう半年もずッと台湾へ行ってるのです。ですが、乱世のことですから、国際人はたいがい神出鬼没らしいわね。ひょッとすると、私の知らないうちに、日本に戻っているのかも知れないわ。もしも父がその闖入者なら、年齢は六十ぐらい、銀髪で五尺五寸ぐらいの優さ男です」

「容疑者の年齢は三十ぐらい、身長は五尺三寸以下ぐらいという話なのです」

「それじゃ、父じゃないわ。身長はとにかく、年齢はいつわれないでしょうから」

「あの晩誰かが邸内に闖入した気配をお気づきになりませんでしたか」

「あなた方が庭を探しまわるまで、特に気づいたことはなかったようです。読書にふけっていましたから」

「私たちが立ち去った後は?」

「さア。それも、ありませんね」

 百合子の質問は、そこまでで種が切れてしまった。こんな清楚な可憐な令嬢に、得体の知れない犯人のことで、これ以上の質問はムダというものだ。

 しかし、最後に、異常な勇気をふるい起して、思いきって、きいた。

「こんな質問は本当に礼儀知らずとお思いでしょうが、さッき乱世と仰有いましたが、それに免じて許して下さいませ。実はこの邸内へ逃げこんだ容疑者というのは、密輸品売買の容疑者なのです。密輸品と申せば、常識として、日本人の手に渡る前に、まず外国人を考えます。私が御当家を訪れましたのも、そこに期待をつないでのことだったのです。お嬢さまにお目にかかってその期待も失ってしまったのですけど、念のため、訊かせて下さいませ。正直に申します。お父さまは密輸品売買にたずさわっていらッしゃるのとちがいますか」

 正直にも程があろうというものだ。ほかの人にはむしろこうは云えないが、息がつまるほど好感のもてる令嬢だから、かえってれて、こう言いきる以外に仕方がなかったのである。

 令嬢は鳩が豆鉄砲くらったように目をパチパチさせたが、百合子をやさしく睨んで、

「たとえ本当にそうだとしても、そうですなんて、誰だって言う筈ないわよ。あなたッたら、まア、どうしてにわかに大胆不敵な質問をなさッたの?」

「それは、その、さッき仰有ったことのせいです。乱世だから、国際人は神出鬼没だって」

「敏感ね、日本の婦警さんは」

「じゃア、やっぱり、そうですか。アラ、ごめんなさい」

「あやまることないわよ。この乱世に他国へ稼ぎに来ている国際人は、どうせそれしか商売がないでしょうね。ですから、あなたのカンは正しいかも知れないけど、密輸品にもピンからキリまであるのです。政府や他の勢力がひそかにそれを奨励しているような密輸だって、あるかも知れないのよ」

「すみません」

「いいのよ。それで、もしも父がそうなら、それから、どうなの?」

「もう、いいんです」

 百合子は口を押えて、ふきだしたいのを堪えながら、立上った。

「また変なことお訊きに伺うかも知れませんけど、会って下さいますか」

「ええ、ええ。何度でも、いらッしゃい。お勤めの御用の時に限らずに、ね」

「ありがとう」

 百合子はワクワクしながら、夢中で表へとびだした。

 渋谷駅の方へ歩きかけると、後から呼びとめられた。父であった。

「心配だから、そッと様子をうかがっていたのさ。首尾はどうだい?」

「ウチへ帰って話すわ」

 百合子は父の手をとって、子供の遠足のように大きくふりながら、上気して歩いていた。


父の推理


 家へ戻って、百合子は陳邸での様子を父に物語った。

 父はいかにも意外の顔で、百合子の話をきき終ったが、ふと淋しそうに云った。

「女はそういうものかなア」

「なアぜ?」

「お前のようなシッカリ者でも、ボオーッとなると、そんなになるのかということさ。だってなア。お前はえらい決心で出かけたはずじゃないか。なぜ猛犬が闖入者を襲わなかったかという素敵な疑問から出発してさ」

「素敵な疑問だなんて、お父さんたら、からかってるのね。犬の位置の反対側へ闖入者がとび降りた場合、広い邸内だから、犬も気がつかないだろうッて言ったくせに」

「そうは云ったさ。しかし、そのあとで気がついたのだ。どうやら、お前の疑問は一番急所に近づいているんじゃないかということにね」

「むしろ一番急所を外れていたのよ。あんまり尤もらしいのは、偶然という大事な現実を忘れさせる怖れがあるわ」

 父は切なげに、首をふった。

「オレはお前の身が心配で、お前が陳の邸から出てくるまでというもの、この事件のためではなしに、お前の身のために、この事件について考えた。そのために、今まで捉われていて気づかなかった怖しいことに気がついたのさ。お前の話をきいてから、いよいよその確信が深くなった。さ、おいで。オレの確信をたしかめるのだ」

「どこへ行くのです」

「安心おしよ。陳の邸じゃない。警察へ行くのだ。そして、お前に見せたいものがあるのだよ」

 父と娘は警察へ行った。そして父が娘をつれて行ったのは、この事件の証拠品の前である。

「ここに五十五個の南京虫がある。五十四は奈々子の家からでてきたが、一ツは陳の邸内の犯人がとび降りた地点で拾ったものだ。どれがそれか判るかね」

「判るわ。腕輪のついてるのがそれよ」

「そうだ」

 次に父は被害者の現場写真をとりだして、娘に示した。

「この写真を見てごらん。なにか気のつくことはないかね」

 それは安らかに死んでいる奈々子の上半身であった。注射をうたれて死んだのだから、左の腕は肩の近くまで袖がまくれているが、それ以外は特に変ったこともない。

「特に気のつくことって、なさそうじゃないの」

「では、次に、これだ」

 父は証人の証言をとじたものを開いて、一ヵ所を探しだした。

「ここを読んでごらん」

 それは附近の時計商の証言であった。それによると、当日の午すぎに奈々子が南京虫を一ツ売りにきた。売った金で、今度は時計の腕輪を買って戻ったというのだ。時計を売ったから、むしろ腕輪の不要品が一ツふえた筈なのに、腕輪を買って戻ったから、甚だ奇異に思ったと時計屋は語っているのである。

「そうねえ。時計屋さんはフシギがったでしょうね」

「お前はフシギじゃないのか」

「だって、彼女は持たないから買ったんでしょうね」

「当り前さ。その腕輪は、ホレ、南京虫と一しょに、注射をうった奈々子の左腕に巻かれているじゃないか」

「そうね」

「すると、こッちの南京虫は?」

 父はそう云いながら、陳の邸内で拾ってきた南京虫の輪をつまんで、ブラブラふって見せた。百合子の顔色は、次第に蒼ざめた。百合子は思わずテーブルのフチをシッカとつかんで、

「だから、お父さんは、どうだって云うのよ」

「意地をはるのは、よせ」

 父は腕輪のついた南京虫を元の場所へ戻した。奈々子の家から発見された五十四個は、時計だけで、腕輪がついていないのだ。

「お前のカンはすばらしいのだ。オレはお前があの晩陳の庭でこの時計を拾ったとたんに呟いた言葉を覚えているのだ。男が南京虫とは変だなア、とお前は呟いたのだぞ。もっとも、翌日になると、奈々子の屍体が発見され、室内から南京虫が腐るほど現れてきた。そのために、陳の邸内で拾った南京虫の特異性というものがにわかに薄れてしまって、犯人の歩いたところに南京虫が一ツ二ツ落ッこッてるのは当り前だと誰しも軽く思いこんでしまったのだ。オレも、むろん、そうだった。ようやく、今日になって、あそこで拾った南京虫に限って腕輪のついてることに気がついたのだよ」

 百合子はいらだたしげに叫んだ。

「だから、どうだって云うんです」

 父の顔はひきしまった。

「警官らしい態度じゃないぞ。だから、言うまでもなく──お前、ちゃんと知ってるじゃないか。陳の庭内へ逃げこんだのは、男装した女だったに相違ない。犯人が落したのは、盗んだ南京虫ではなく、彼女自身の所持品、彼女の腕につけていた南京虫だったのだ。奈々子の腕には彼女の南京虫がチャンとまかれていたのだから、それ以外には考えられないじゃないか」

「大金持の令嬢が、人を殺して物を盗る必要はないじゃないの」

「オレも、それを考えたのだ。しかし、お前が、それほど陳の令嬢の美貌に眩惑されてしまったから、オレは新しいヒントを得たのだ。ミス南京は絶世の美女だというではないか。どうだ。それで、いくらか、分りかけてきやしないか」

「分りかけてきやしないわ」

「よし、よし。今に、わかる。とにかく、あの邸内へ逃げこんだ男の顔はオレだけが見ているのだからな。いかに黒ずんだドーランをぬたくり眼鏡をかけていても、オレが首実検すれば判ることだ」


ミス南京の告白


 波川巡査は娘にだけは自分の見込みを語ったが、まだ他の誰にも打ち明けない。海千山千の経験者に打ち明けるには大事を要するし、見込み通りとなれば一世一代の晴れがましい成功となる。彼にとっては生れて以来の大事件で、思えば思うほど心が波立つばかりである。わくわくする胸を押えて、署内をなんとなく歩いたりしながら、懸命に作戦をねりあげている。

 そのヒマに娘の姿がどこかへ消えてしまったのに気づかなかった。

 百合子はいつのまにか署を抜けだして、すでに陳家の玄関で令嬢と対坐していた。なかば茫然とここへ辿りついてしまったのである。

 さすがに令嬢は蒼ざめていた。しかし、百合子が父の推理を語り終ると、静かに百合子の手をとって、握りしめた。

「ありがとう。百合子さん。本当に、うれしいのよ。私のお母さんだって、百合子さんのように私をいたわってくれなかったわ」

 令嬢が涙ぐんだので百合子も涙ぐみ、

「じゃア、本当にそうでしたの?」

「あら、ちゃんと知ってるから駈けつけて下さったくせに。ミス南京はたしかに私です。そして、奈々子さんを殺した共犯者もたしかに私です。私の父は台湾ではなく香港に居ります。そして、南京虫と麻薬を日本へ輸送していたのです。だんだん密輸ルートが見破られて面倒になったので、新しい方法を考えました。それは麻薬患者を探しだして、麻薬を餌に、密輸の荷物の仮の受取人に仕立てることです。奈々子さんはその受取人の一人だったのです。ところが、あの日、ひそかに荷物をあけて内容を知り、慾に目がくらんで荷物の到着を否定したのです。そのうち麻薬がきれかけて、私の同行者が、時々奈々子さんにそうしてあげたように注射してあげたのですが、彼は奈々子さんの変心によって、新しい密輸ルートの発覚を怖れるあまり、奈々子さんが無自覚のうちに多量の注射をうって殺してしまったのです」

 令嬢はもう平静をとりもどしていた。そして、微笑すら浮べて語りつづけた。

「私は父の相棒をつとめて数億の金を握りましたが、父が今度日本へ戻ったら、父を殺すつもりでした。乱世ですから、私の心は鬼だったのです。お金をもうけて、復讐してやりたかったのです。私を苦しめた人にも、苦しめない人にも、とりわけ、父に復讐しなければならなかったのです。なぜなら、彼は父ではないからです。彼は私の良人おっとなのです。私はお金で買われた内妻の一人です。そして私は日本人です」

 令嬢はきつく力をこめて百合子の手を握りしめると立上った。そして、笑みかけた。

「私の日本名と、素性だけは、私と一しょに永遠に墓の底に埋めさせてちょうだい。私はこれからいまと同じ内容の告白書を綴って死にますが、私が日本人で、彼の妻であることだけは書きたくないのです。誇りが許さないのです。あなたにだけは打ち明けましたが、もしも私があなたすらも偽って死んだとすれば、死後の淋しさに堪えられないでしょう」

 茫然と居すくむ百合子をのこして、令嬢は静かな足どりで自室への階段を登って行った。

底本:「坂口安吾全集 13」筑摩書房

   1999(平成11)年220日初版第1刷発行

底本の親本:「キング 第二九巻第五号」

   1953(昭和28)年41日発行

初出:「キング 第二九巻第五号」

   1953(昭和28)年41日発行

入力:tatsuki

校正:noriko saito

2010年519日作成

2011年519日修正

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