安吾の新日本地理
飛鳥の幻──吉野・大和の巻──
坂口安吾



 海を見たことがないという山奥の子供でも汽車や自動車は見なれているという文化交通時代であるが、紀伊半島を一周する汽車線はいまだに完成していない。また、紀州の南端から大台ヶ原を通って吉野へ現れるには、どうしても数日テクる以外に手がないのである。吉野の入口から自動車にのると上の千本までしか登れない。奥の千本へ行くにもテクらなければダメなんだから、大峰山や大台ヶ原は今もって鏡花先生の高野聖時代さ。交通文明というものに完璧に見すてられている山また山の難路なのである。ところが昔の神々は目のつけ場所がちがう。ここが日本で一番早くひらけていた交通路の一ツなんだね。

 神武天皇が熊野に上陸して最初に辿ったコースがこれだ。そのころの日本人の生活はどんなグアイかというと、当時の日本の王様、大国主だかその子孫だか誰だか知れんが、その王様のいたミヤコがたぶん今の奈良県三輪らしいね。今はそこに大神みわ神社があって大国主を祀っているが、この神社は拝殿があるだけで本殿はなく、否、建築としての本殿はないが、三輪山という四百五十メートルぐらいの姿の美しい山全体が本殿であり御神体なのである。山上や中腹に巨石がルイルイとあるそうだ。

 三輪から山の辺に沿うて盆地を北上すると天理教の丹波市たんばいちから奈良へと平野がつづいている。南に向ってはウネビ、耳成みみなし、天ノ香具山の大和三山にかこまれた平地があって飛鳥の地があり、そこから山岳になって吉野へ熊野へと通じるわけだ。東の方へは初瀬はせから宇陀、伊賀を越えて伊勢路へ通じ、西の方へは二上山を経て河内、大阪方面へ通じている。三輪のミヤコをまン中に、交通は四通八達していたらしい。これを古に「山の辺の道」と云い、古記にも、崇神天皇には「御陵ハ山辺道ノ勾之岡ノ上ニアリ」とあり、景行天皇には「御陵ハ山辺之道ノ上ニアリ」とある。

 この古代の道が今も残っているのだ。東に伊賀伊勢方面へ、西に河内方面へ、と東西にのびる道が三輪の町で丁字形に岐れて奈良方向へ北上している。今日も古代のように人がそこを歩いているのだが、どういう証拠があって、これを古代のままの「山ノ辺ノ道」と断定されたのか私は知らない。私はその道を通ってみた。今は賑やかな町となっているところもある。賑やかだが自動車がようやく一台通れる道だ。道で自動車とすれちがった。私たちの自動車は自発的に後退して向うの車がすれちがうのを待った。向うの車がサンキューと云ってすれちがうかと思いのほか、あやしくも心にくし、向うも後退して通路をつくり、私たちの通過を待つではないか! なんたる礼節! 古代日本はかく在りしか。見上げたる神々の子孫よ。と思いつつ敬々うやうやしくかの車を通過すれば、この車に乗りたるオノコらは手に手にメガホンをもち、これなん選挙の自動車にてありけり。二日の後が投票日さ。三日目からは決して人に道を譲らない自動車でした。

 家並を外れると、なるほど山の辺にかかって北上し、右手山際に、景行、崇神両帝の陵をすぎ、石上神宮があって、やがて現代教祖のお筆先賑う丹波市となるのである。

 いわば吉野も、この古の道の支線の一ツだ。伝に曰く、えんの行者がひらいた道さ。そして今も年々歳々山伏の通る道である。この地帯は山伏の聖地である。吉野には蔵王堂があって、この聖地の本堂だ。そして金峰山のテッペンから大台ヶ原全体にかけて、すなわち山伏の根本道場だね。蔵王堂は木造建築としては東大寺の次ぐらいに大きいのだそうだが、実にヌッと突ッ立ってる様が山伏的にブザマで、美的じゃないね。この本堂の前に人だかりがあって、本堂のキザハシの上で洋装の女の子が炭坑節を唄っていたよ。桜まつりと、いうんだそうだ。私の行った日は、桜まつり歌謡曲の日。その翌日は、ストリップ桜ショウの日、と宣伝ビラにあったね。山伏の根本道場のキザハシでストリップをやるのさ。役の行者以来、法術によって何でも祈りだすのが山伏というものさ。

 吉野山に立って北方を見ると、天は山々の壁によってさえぎられ、一きわ高いのを龍門岳というね。ここに昔、久米の仙人が住んでいたのだ。その山々の向うに飛鳥の地があって大和盆地があるのだが、仙人は空をとんでとぶとりの飛鳥の里の久米川上空にいたり、センタクしている女の子のフクラハギを見て墜落したね。よってそれより人間に戻ってその女の子と結婚し、仲よく暮したそうだ。イニシエもイマも目にしむフクラハギ吉野はカナシ花ミエズ。久米の人マロかね。

 先月、仙台の旅行から戻ってきてから肺炎をやった。旅行の疲れのせいではなくて、伊東の町に火事があって猛スピードで見物に行って水を浴びたせいであった。コレヲ歓楽の果トイウカ、ペニシリンには感激しました。たッた一晩で熱が落ちた。ドクター曰く、ペニシリンにれるナカレ。肺炎ハ肺炎デアル。二週間ハ注意シタマエ。しかし締切が待っているから仕方がない。翌日から仕事にかかり、競輪にも出かけましたね。再びどッと床につき、今度はいつまでも微熱が去らない。吉野旅行が延び延びとなり、ついに意を決しペニシリンと注射器一式にダイヤジンをぶらさげて吉野へついたら、花の散ったあとであった。しかし、どうせ花を見ない私である。久米ノ仙人の末流さ。

 神武天皇が熊野から八咫やたの烏の先導で吉野にかかったとき、尾のある人間が井戸の中から出てきて、その井戸が光った。お前は誰だと問うたら、国ツ神で名を氷鹿ひかという者だと答えた。これが吉野おびとの祖先だと古事記に書いてある。その井戸が今も残っている。

 竹林院という修験道の宿坊が今は旅館になっている。万事アルバイト時代である。そこの名園(?)から竹林派という造庭上の名が起ったのだそうだが、そこのフモトの汚い谷底に神武天皇の昔光ったという井戸があるのである。谷底といったって、吉野の谷には水というものが殆どない。吉野川は岩石山水の美で名高い渓流であるが、これは吉野山の外側をぐるッと一周して大峯山脈から豊富な水を下流へ運んでいるけれども、山を距てた外側のことで、吉野山の内ブトコロには水がない。吉野の町は両側が谷だ。両側の深い谷にはさまれて、下から上へ桜の名所がエンエンつづいているのだが、両側の谷には殆ど水というものがない。地質のせいかね。そこで吉野山の頂上ちかく上ノ千本のあたりに、大峯山脈のドテッ腹から清水をひいてきて水道をつくり、町民はこの水道を飲料に用いている。井戸を掘っても水がでないのだ。

 だから、吉野山に井戸水があるということは例外なのだ。清水というものも、甚しく乏しい量で、後ダイゴ天皇の御製に、枕の下に水くぐる音、とあるが、なるほど吉水院の門前の家には竹のトヨで山腹から清水をひいてチョロ〳〵流れているのを現に用いているけれども、その清水の溜り水が深く濁りよどんで臭気があるほど流れている水量はチョロ〳〵にすぎない。吉野の宿屋はこの吉水院と同じように深い谷の上に一列に並んでいるが深夜になっても私の枕の下は水の音がくぐらなかったね。恐らく雨がふれば、眼下の谷に水流の音がトウトウと鳴るのであろうが、お天気の日は枕の下はほとんど水音はないね。実に高い谷なんだ。私の泊ったサクラ花壇という妙テコリンな名の旅館の座敷から見ると、はるか眼下にトンビやカラスが舞いまわり木の枝にとまっている。実にはるか眼下の木の枝にです。トウトウと谷が流れて然るべきだが、吉野山なるものは殆ど水がないのである。

 だから、吉野に於ては、むかし、むかし、井戸があるとすれば、実に最高の宝であったに相違ない。吉野の親分が井戸の中から這って現れたというのは当然の話ですよ。東京の親分は省線の駅を縄張りにマーケットをつくるが、吉野の大昔の親分はたった一ツの井戸を縄張りにマーケットを造ったにきまっていや。高い水を売りつけてボッたんだね。貴重な水だから、濁っていても光りかがやくさ。

 吉水院の前には珍しく清水があったし、名も吉水だから、吉野をひらいた役の行者がこゝに庵室を造ったというのも、こゝが水にめぐまれていたせいかも知れない。その庵室が後年の吉水院、今の吉水神社、後ダイゴ天皇の仮の宿舎です。この庵室は鎌倉時代の建築で、後ダイゴ帝の泊った時のままのものだ。後ダイゴ帝の遺品には楽器が多いや。御岳丸笙、国軸丸笙という笙があったし、七文字笛、高麗笛という笛の精が中に住みついているようなのもあったね。楽記という書物もあった。続拾遺和歌集があった。風流でいらせられる。詩歌管絃に身をかためて京都を脱出あそばしたね。字も名筆だ。この帝、感情豊富ナリ。しかし、水の乏しい吉野で、枕の下に水をくぐらせてしまったのは、誰しも傷心やみがたければ、そうもなろうというものだろう。だいたい人の判断が視覚に幻惑される例は多いね。この山この谷の姿を見ればトウトウと谷の流れや至るところに清水の流れを思うのは自然なのさ。この山に水がないときいた方がビックリするよ。全山冷めたく清らかな清水にあふれているように思われますね。桜ノ花ハ火ニアラズ。火ヨリモ水ニ近カラン。旅行者たる後ダイゴ帝が水にあざむかれ、土着の親分氷鹿がチャッカリ井戸を占領して井戸の中より現れ出でたのは然るべきところであるかも知れません。太古の史家はその表現が巧妙だ。これを健康なる表現と云いますか。水鹿親分は一本には女性ナランとあるね。

 南北朝は元中九年(北朝の明徳三年)南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を伝えて、南朝の不和は和解したことになっているが、実はさにあらず、後南朝というべきものがあって、その後も吉野にたてこもり、六十五年がほど抗争していた。

 和解の条件は南北両朝から交互に皇位につく約束であったが、後小松天皇以後への北朝はその約束をまもらないから、五十年ほど辛抱していた南朝方はもはや北朝に誠意なし武力以外に手がないと内裏へ乱入して三種の神器を奪いとり、吉野川の上流、北山村と川上村にたてこもり、南朝の正系たる自天王を擁し天靖の年号をたてて天皇を称した。しかし長禄元年に北朝の刺客がこの村に忍びこんで自天王を殺し、その弟の宮忠義王をも殺した。本誌の昨年正月号に滝川政次郎氏の文章があるから、私がクダクダしく書くには及ばないでしょう。

 応仁の乱に、山名宗全は西陣南帝を擁して北朝の天子をいただく細川方と戦ったが、西陣南帝は乱後に奥州へ落ち、標葉郡沢之邑というところに住んだそうだ。その後裔が熊沢天皇デアル、という。これ即ち熊沢天皇家に伝る系図だそうだね。系図は本当らしいね。しかし彼は天皇ではないさ。南朝の血をひく名古屋の雑貨商、熊沢寛道氏であろう。藤原一族は云うまでもなく、大和の農民にも、クマソ土グモの子孫の中にも天皇の血をひく者は珍しいことではなかろうさ。

 日本の相続の習慣は(習慣だろうな。昔は制度や法律ではなかったろう)古代に於ては家長が自分の好きな子供に与える。これを選定相続というのかね。しかし、長兄に与えるのが自然だという不文律が感情的に存在していたのかも知れない。応神天皇は二人の子供をよんで、お前らはお前たちの子供の場合に兄の方が可愛いいか、弟の方が可愛いいか、ときいた。というのは三人目の末弟に皇位を譲りたい下心があったからだそうだ。長兄は兄の方が可愛いいと答えたが、次兄は天皇の心を察して弟の方が可愛いいと答えた。天皇はよろこんで、次兄の言葉は正しい。一番下の子が可愛いいものだ。だからお前らには皇位をゆずらず、三番目の末ッ子を天皇にするよ、と言い渡した。しかし、天皇崩御のとき末ッ子が辞退して次兄に皇位をゆずった。この次兄が仁徳天皇だそうだ。こんな話が記紀にあるから、親も好みのアトツギを選ぶには子供に気兼ねがあったのだろう。選定相続は概して末ッ子に譲ることになり易い。末ッ子が一番可愛いいのが大概の親の気持らしいな。また末ッ子の母が一番若くて美人で、お気に入りなのも自然だろう。昔は子供の母がたいがい一々違っているから、尚さら事はメンドウであったね。

 長子相続は大化改新からだそうだが、どうだかね。しかし、いきなり壬申の乱が起ったほどだから、どうも天皇家の相続はうるさいね。藤原一族が勢力を得て、銘々が自分の娘をひんだの夫人だのというものにして自分の血縁を天皇に立てようと企むに至って、相続のたびに、否、常に相続をめぐって、お家騒動の絶え間なき連続のようなものだ。藤原一門自体が氏の長者だの関白をめぐって父子兄弟の絶え間なき争いでもあった。藤原氏にも三種の神器のようなものがあるのだね。これを、長者の印、朱器、台盤とやら云うね。朱器台盤というのは食事の道具らしいや。年に一度の大宴会に大臣諸公や代表的日本紳士諸公にこの朱器台盤とやらでもてなす。これが藤原長者の貫禄なんだそうだ。そこで朱器台盤とやらがないと氏の長者になれないから、これをめぐって争奪戦をやらかす。平安朝はテンヤワンヤさ。この時代に於ける儀式や虚器の人格化というものはまるで実生活をもつ生き物めいた妖怪であった。私は戦争中バクダンに追いまくられている以外の時間に甚しく退屈に苦しんだので、この時とばかりに「台記」だの「玉葉」というものをノートをとりながら読みはじめた。この種の本はいかに退屈している時でも連続的に読めないな。こういうものを読むことのできる歴史家という存在は実に超人だとその時シミジミ思った。「台記」も「玉葉」も、つまり朱器台盤とやらをめぐって争奪の実戦に経験ある関白殿の日記なのである。第三次世界戦争がはじまったら、また台記や玉葉をよむかね。しかし私の生存中に百ぺん世界戦争があっても、とてもこの本を読み終る見込みはないね。

 天皇トハ何ゾヤ。三種ノ神器デアル。イヤ、笑イ事デハアリマセン。台記だの玉葉というものを三頁ぐらい読めば、虚器とは人格的に実存している厳然たる怪物だということが分ります。

 南北朝の皇位争奪がやっぱり三種の神器の争奪だ。天皇は三種の神器だ、というのは神皇正統記の思想なのである。南朝を正当化するには、特にこういう論理が必要でもあった。戦争に妙な論理が必要だということは、我々が痛切に経験したことである。八紘一宇とやら称して古事記だの日本書紀だのというものから論理を探してきたのが現代の話だからね。それに比べれば南朝の論理の方がいささか文明さ。

 建武中興の理想は武家政治や院政の否定、天皇親政復活ということであるが、皇位相続の正しい法則をどこに求めるかということになると大そうグアイがわるかったのである。摂関政治、院政、武家政治時代、というものは、なべて選定相続だ。南朝自体が嫡流ではないのである。院政のおかげで、弟の方が上皇に愛され選ばれて、皇位をついだのが南朝だ。兄の系統が北朝だ。天皇親政の理想によって相続法も昔に復活すると、北朝の方に相続権の理があるのだ。そこで仕方がないから、正統の天子とは何ぞや。三種の神器の授受である。神器のあるところに天皇あり。やむを得ない詭弁であった。九条兼実という九条家始祖の関白は藤原氏歴代の中で特に実利派の陰謀家であるが、しかし彼の日記「玉葉」なるものを三頁よむと、虚器を人格化している感情は身についているね。生活自体がそうであった。これが平安貴族の特色だ。これに比べると神皇正統記の理論は親房の身についた感情をともなっているものではなくて、一貫して論理であり、論理のために汗ダクではあるが、論理と共に生きている安定はない。

 だいたい一国の王様の資格には万世一系だの正統だのということが特に必要だというものではない。王様を亡して別の一族がとって代って王様になっても王様は王様だ。三代貴族と云って、初代は成り上り者でも、三代目ぐらいに貴族の貫禄になる。十代前が海賊をはたらいて稼いだおかげで子孫が今日大富豪であると分っていても、民衆の感情は祖先の罪にさかのぼって今日の富豪を見ることはないものだ。王様も同じことだ。初代が国を盗んだ王様であっても、民衆の感情は初代の罪にさかのぼって今日の王様を見ることはない。今の王様であることが、王様の全てであり、それが民衆の自然の感情だ。

 曾我兄弟の人気は大そうなものだが、ツラツラ事の起りを辿れば、曾我兄弟の祖父が工藤祐経の領地や財産を奪ったのである。祐経の方が元来の被害者さ。そこで祐経が五郎十郎の父に復讐し、五郎十郎がその仇を討った。事の起りは、五郎十郎方の祖先が悪いのだが、祖先の罪は民衆の感情の対象にはならないのである。祖先と云ったって、五郎十郎でたった三代目、祐経の方は国や財産を盗まれた当の本人だ。それですら、ソモソモのことはすでに民衆の問題ではない。民衆の自然の感情はそういうものだ。常に「今」の問題である。

 今の王様が今の罪によって民衆に裁かれることはあっても、国を盗んだ祖先の罪によって裁かれるということはない。すくなくとも、民衆の感情が自然の状態に於てはそうである。法律だって祖先の罪にさかのぼりやしないね。

 天皇とても同じことだ。しいて万世一系だの正統だのということは、民衆の自然の感情に相応しているものではないのである。ただ原始の、呪術的な神秘思想に相応しているだけさ。歴史的事実としても神代乃至神武以来の万世一系などというものはツクリゴトにすぎないし、現代に至るまでの天皇家の相続が合理的に正統だというものでもない。むしろお家騒動、戦争ゴッコの後の相続が甚だ少くないのである。しかし、そんなことは民衆の自然の感情には問題ではないのだ。かりに熊沢天皇が南朝の血統たるのみならず、徹底的に合理的な正系であるにしても、民衆の感情は熊沢天皇をうけいれはしないね。民衆の感情にとっては今の天皇が天皇のすべてで、熊沢覚道氏は名古屋の雑貨屋にすぎないのである。

 もっとも、かりに革命が起り、別の王様が国をとる。その初代目は民衆の多くに愛されないかも知れないが、二代目はもう民衆の自然の感情の中でも王様さ。否、うまくやれば国を盗んだ一代目ですら民衆の憎悪を敬愛に変えることができるかも知れん。民衆の自然の感情はたよりないほど「今的」なものだ。時代に即しているものだ。戦争中東条が民衆の自然な感情の中に生きていた人気と、同じ民衆の今の感情とを考え合せれば、民衆の今的なたよりなさはハッキリしすぎるほどでしょう。たった六年前と今とのこの甚しい差。別に理論や強制と、関係なく現れてきた事実だ。単に時代と共に生きつつある民衆というものの自然の感情は、永遠にかくの如きものさ。

 万世一系だの正統だのということを特別の理由とする限りは、蒙昧な呪術的な神秘迷信時代の超論理や詭弁をもって一国の最後的な論理とする愚かさ危さをまぬがれることはできない。日本の運命を古事記的な神がかりにまかせておいて文明開化を導入されては助からんな。カブツチの代りに原子バクダンをふりまわされちゃア危いよ。国家の論理も文明開化に相応しようじゃありませんか。真理は簡単さ。生キティル神様ハイナイ。しかし、また、日本の政治家は生きている神様をつくりつつあるらしいね。政治家が論理的に正当な思想をもたないと、生きている神様をつくる。論理ぬきで民衆を征服する手段は宗教的方法にまさるものはないからである。

 天皇は国家の象徴だという言い方もアイマイで、後日神道家の舌に詭弁の翼を与える神秘モーローたる妖気を含んでいるね。天皇家はかつて日本の主権者であった立派な家柄さ。日本歴史に示されている通りの第一の家柄さ。そして、他の日本人よりも特に古いということはないが、歴史的に信用できる系図を持つものとしては日本最古の家柄さ。歴史の事実が示す通りに、それだけのものなのだ。そして人間がそれに相応して社交的にうけるような敬意をうければ足りるであろう。ガイセン将軍に対してもお光り様に対しても土下座しないと気がすまないような狂的怪人物に恵まれている日本では、アイマイな規定はつつしむことがカンジンだね。新しい神様をつくる必要があるのは共産党だけさ。

 吉野の旅館で食べたデンガクはちょっとうまかった。ミソに吉野葛をまぜていたね。いくらうまいと云ったってデンガクなどというものが特に美味でありっこないが、旅の心にしむ土地の味かね。土地の味を工夫してデンガクもクズも生かしたところがミソなのさ。言葉のシャレを言うツモリではありませんがね。たったこれだけの小さな工夫でも、よその土地では今までのところお目にかかることができなかったのです。枕カバーの上にさらに吉野紙(ナラン)が当ててありましたわい。


          


 吉野の宿で、私は夜の十二時に目をさましていました。そして、地図をみたり、考えたりしていました。アスカ。タナカ。アマカシノ丘。イカズチ。ヒノクマ。オカ。四時起床。五時半に出発。アスカへ、アスカへ。十五年ほど前にもブラリと京都の下宿を着流しで出てウネビへ着き、アスカの地へと志したことがあったが、金もなく、土地にも不案内な人間には、手軽にアスカ遍歴を志してもムリですね。四方のあらゆる山々も野も畑も丘も川も、みんな同じようだもの。地図や写真は相当に長期にわたって眺めた覚えの土地であるが、山水風物が四方八方こうよく似ていては、どうにもならん。いさぎよく諦めて帰ってきた。二、三十分土をふんだというだけで、十五年前に行った時は何一ツ見物しなかったのです。

 日本の神話(仏教渡来の頃までを含めて)で最大の巨人は大国主という大人たいじんだね。いとも情緒こまやかに太平楽で、女や酒は大そう好むけれども、およそ戦争を好まないという昔には珍らしいダンナだね。時の人民に人気があったわけですよ。スサノオ。オキナガタラシヒメ。建内スクネ。ヒノクマの帰化人たち。変ったダンナやオンナのヒトは色々といるけれども、神話という太古の湖があるだけで、その湖面から確実な歴史を見分けることは全然できない。

 神話と歴史の分水嶺は、仏教の渡来だろう。はじめて実在の人間と遺物があって、それを証明するに足る記録があるのだから。

 それにしても、王仁わにが論語をもたらし文字を伝えたというのが伝説であるにしても、また、ヒノクマその他に土着した夥しい帰化人たちが大和地方民の生活中に文字をもたらしたであろうことが臆測にとどまるにしても、仏教の渡来以後は急速に文字が普及したことは確実だ。とりわけ聖徳太子が現れるや、隋へ大使や学問僧を送って文物をとりよせ、憲法をつくり、十二階を定め、七大寺をたて、仏典を講じ、今日と同じように文字とともに生活する文化生活が起ったのである。色々雑多な記録がおびただしく在ったはずだ。今日では主として寺院関係の極めて少数のものだけが、引用されたりなんかして、どうやら残っていますね。しかし、ある種のものが完璧に伝わらないね。

 聖徳太子と馬子が協力して、天皇記、国記、各氏族の本記というものを録した由ですね。文字のあるところ、必ずそのような記録があるべき性質のものだ。それが完璧に残っていませんね。大極殿で入鹿いるかが殺され、蝦夷えみしがわが家に殺されたとき、死に先立って、天皇記と国記を焼いたそうだ。もっとも恵尺という男が焼ける国記をとりだして中大兄なかのおおえに奉ったという。

 蘇我氏の亡びるとともに天皇家や日本の豪族の系図や歴史を書いたものがみんな一緒に亡びたのかね。そういう記録が一式揃って蘇我邸に在ったというのは分るが、蘇我邸にだけしかなかったということはちょッと考えられないことだね。文字の使用者が聖徳太子と馬子に限られていたという蒙昧な時代ではなかったはずだ。それらの記録は蝦夷とともに焼けた。または、蘇我氏とともに亡びた。しかし、蘇我氏の亡ぼされた如くに、それらの記録も亡ぼされた、ということを一度は疑ってみても悪くはなかろう。焼ける国記を恵尺がとりだしたということは、弁解的な筆法で、事実はアベコベにそれを焼いたのが彼ら自身だとみることも、歴史家や学者はやらないかも知れないが、タンテイというものはそういう下司なカングリをやらかすものなのさ。こッちは学がありません。素人タンテイというインチキ岡ッピキの三下ヤッコですからね。

 素人タンテイの心眼だから我ながら鋭い把握はないのだが、しかし「上宮聖徳法王帝説」という本を読むと、どうも妙だな、と思うことがあります。私は二十五年前の坊主学校の生徒だったから、否応なくこの本を読まされたのですよ。日本仏教史をやると、書紀の仏教渡来年代の誤りというカドによって、この本だの元興寺伽藍縁起併ニ流疏記資財帳などを読まされますよ。なるほど欽明戊午と書いてあるな。しかし、そういうことは、大したことじゃないね。欽明戊午だろうと、一二一二だろうと、十年や二十年のヒラキはコチトラの知ったことじゃアないね。夢想的な素人タンテイというものは、そういうコクメイなことは性に合わないのである。しかし「上宮聖徳法王帝説」なるものは、本文の字数はいくらもないけれども、読んでみると、おもしろいね。

 なぜ面白いかって? ヒラキ直られると、こまるが、失われた古代の歴史、たとえば日本書紀が甚しく多数の文字を用いて説話的伝説的に物語を構成している失われた古代を、これは、また、たった二十か三十の字を用いてズバリズバリと簡潔に事実だけを言いきっているではありませんか。なんの感情もありませんね。この記録者が聖徳太子のファンなら、入鹿にも悪意はないだろう。もっとも入鹿は山背大兄王やましろのおおえおう(聖徳太子の子供)とその一族を殺していますね。それにしても、入鹿が山背大兄を殺した記事も簡潔、入鹿が殺された記事も簡潔、気持がいいほど無感情、実にアッサリしたものですよ。ザッと次の通りです。

「飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日、蘇我豊浦毛人とゆらのえみし大臣ノ児、入鹿臣□□林太郎、伊加留加宮いかるがのみやニ於テ山代大兄及其ノ昆弟等合セテ十五王子ことごとク之ヲ滅ス也」

 飛鳥天皇は皇極天皇のこと。林太郎というのは入鹿の異名だそうです。その上の二字の欠写については、後にタンテイの結果をのべます。

「□□□天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇、林太郎□□ヲ殺シ、明日ヲ以テ其ノ父豊浦大臣子孫等皆之ヲ滅ス」

 アッサリしたものです。近江天皇は天智天皇のこと。□□□及び□□という二ヶ所の欠字については、これまた後にタンテイの次第を申上げます。

 この件りのあたりを書紀がどのように書いているか、欽明天皇の終りごろから読んでごらんなさい。ヒステリイだかテンカンだか知らないが、ほとんど血相変えて、実に慌しく発作を起しているのです。入鹿蝦夷が殺される皇極天皇の四年間だけでなく、その前代の欽明天皇の後期ごろから、何千語あるのか何方語あるのか知らないが、夥しく言葉を費して、なんとまア狂躁にみちた言々句々を重ねているのでしょうね。文士の私がとても自分の力では思いつくことができないような、いろんな雑多な天変地異、妖しげな前兆の数々、悪魔的な予言の匂う謡の数々、血の匂いかね。薄笑いの翳かね。すべてそれらはヒステリイ的、テンカン的だね。それらの文字にハッキリ血なまぐさい病気が、発作が、でているようだ。なんというめざましい対照だろう。法王帝説の無感情な事実の記述は静かだね。冷めたく清潔で美しいや。それが事実というものの本体が放つ光なんだ。書紀にはそういう清潔な、本体的な光はないね。なぜこんなに慌しいのだろうね。テンカン的でヒステリイ的なワケはなんだろう。それは事実をマンチャクしているということさ。

 とにかく、重大なことが起ったのさ。ところがですね。その重大なこととは、蝦夷という大臣とその子の入鹿が殺されただけのことではないか。蝦夷と入鹿は自分を天皇になぞらえて、宮城やミササギをつくッていたそうだが、それにしでもだね、大臣が殺されたなんてことは、その前後にフンダンにありますね。天皇も皇太子も殺されているね。王子もそれから天皇位を狙う重臣も、いろいろと品数多く、蝦夷入鹿の父子よりもよッぽど高貴の筈の人たちが実にムザンに実に大量に殺されたり殺したりしているではありませんか。より以上に重大な殺人事件がタクサンあるのに、ヒステリイ的で、テンカン的で、妖しい狂躁にみちているのは、この事件の場合だけですね。実に事の起る六七年以前から、記事はすべて天変地異、妖しい前兆、フシギな謡の数々だ。ただごとではありません。そこに重大な理由がなければならないことだ。

「上宮聖徳法王帝説」は、昔、写本を写真に撮したのも見たことがあったし、写本の一種も見たことはあったが、今は私の手もとには群書類従もない。岩波文庫本が一冊あるだけだ。ほかの本のことは知らないが、岩波本は相慶之という坊さんが写した本だね。二条、六条天皇のころ、平安末期の法隆寺の大法師だそうだね。

 この本に、ごく稀に、二字三字ずつ欠字があるのは、なぜでしょうね。虫くいの跡ではないね。虫くいにしては数が少なすぎるし、欠字の形が縦横に不自然でなければならない筈だ。この欠字はいつもタテであるし、前後がハッキリしていて、ある単語や、ある意味をなす一句の全部がチョッキリ欠字になっていることを示しているのである。虫がそんなにチョッキリと食う筈はないね。

 つまりこの欠字は人から人へ写本されつつあるうち、誰かが故意に欠字にしたものだ。しかも甚しく曰くありげなところに限って欠字になっているのである。相慶之の写本以外の異本があるなら、見たいな。同じところが欠字になっているかしら。曰くありげとは、天皇の名とか、ミササギの場所とか、そういう事が記載されているらしい所に限って欠字になっているのさ。

 まず、先にあげた山背大兄王が殺された記事と、入鹿父子が殺された記事を例にとってみましょう。

 飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日。これは書紀と同じだね。飛鳥天皇は皇極天皇で、癸卯は書紀では皇極二年に当っています。さて次に毛人えみし大臣の児、入鹿臣□□林太郎が山代大兄及び十五王子らを殺したというのだが、書紀の方には皇極二年に何があったかというと、例の妖しげな前兆や天変地異の数々のほかに、十月六日のところには、蝦夷が病気と称して朝堂へ姿を見せないばかりか、息子の入鹿に紫冠を授けて物部大臣を名のらせたと書いてある。自分の子を勝手に大臣に任じたわけだ。その前年の条には、祖先の廟を葛城の高宮にたて八佾之儛やつらのまいをやり、自分と入鹿のミササギをつくったことが記されている。山背大兄が殺されたのは、書紀では翌三年の出来事になっており、またその年には蝦夷がいよいよ甘梼岡あまかしのおかに宮城を構えて自分の住居を上宮門うえのみかど、入鹿の住居を谷宮門はさまのみかどとよび、子供を王子とよびはじめたことが書いてある。

 すると「入鹿臣□□林太郎」という欠字には、どうやら、天皇的な、それに類する語、蝦夷の私製の特別な語があったのかも知れないが、そういう語がはいっていたのではないかね。まだ蝦夷も入鹿も天皇ではなかった。なぜなら、すぐその上に、飛鳥天皇御世葵卯年と明記しているから。

 ところが、それから二年目が入鹿と蝦夷の殺された年であるが、それを法王帝説は、

「□□□天皇御世乙巳年六月十日」

 と書きだしているね。書紀によれば、これは皇極四年である。皇極四年ならば、法王帝説は、先の条にある如く「飛鳥天皇御世乙巳年」と書く筈だね。ところが、飛鳥天皇は二字だが、□□□天皇は三字だよ。そして、それにつづいて、その六月十一日に、

「近江天皇、殺於林太郎□□、以明日、其父豊浦大臣子孫等皆滅之」とある。

 近江天皇はまだその時は中大兄王で天皇ではないが、後に天皇たるべき人をはじめから天皇とよんでいる例はこの本ではしょッちゅうのことだ。怪しむに足らん。まだ天皇になる前にも後の天皇を天皇とよぶのがこの本の例であるのを知ると、「入鹿臣□□林太郎」も「林太郎□□」も、どっちも、やっぱり天皇か皇太子、もしくは天皇か皇太子を特に蘇我流にした同じ意味の別の語であったかも知れないね。

 皇極二年に山背大兄王及び十五王子を殺すとともに、蝦夷か入鹿のどちらかがハッキリ天皇位につき、民衆もそれを認めていたのではないかね。即ち、

「□□□天皇御世乙巳年」は皇極天皇の飛鳥ではなく、甘梼岡だか林太郎だか他の何物だか知らないが、蝦夷天皇か入鹿天皇を示すどれかの三字があったのだ。私はそう解くね。この欠字の特殊な在り方によるのみではなく、日本書紀が蝦夷入鹿を誅するのを記述するに途方もないテンカンやヒステリイの発作を起しているからです。きわめて重大な理由がなくて、このような妖しい記述が在りうるものではなかろう。蝦夷入鹿は自ら天皇を称したのではなく、一時ハッキリ天皇であり、民衆がそれを認めたのだ。私製の一人ぎめの天皇に、こんな妖しい記述をする筈はないね。その程度のことは、否それよりも重大な肉親の皇位争い、むごたらしい不吉な事件はほかにいくつもあるではないか。

 蝦夷入鹿とともに天皇記も国記も亡び失せた意味は明瞭だ。蝦夷が焼いたのではなく、恐らく中大兄王と藤原鎌足らが草の根をわけて徹底的に焼滅せしめたのに相違ない。

 そして、書紀全篇の中で、ただ一ツ調子が妖しく乱れて、テンカン的にざわめき立っているのがこの一ヶ所であるのを知れば、書紀成立の重大な理由の一ツが天孫たる天皇家の日本の首長たる神慮や定めを創作するにあったというその最も生々しい原因が蘇我天皇の否定、蘇我天皇よりも現天皇の優位を系譜的に創作する必要に発していたと見てよかろう。蘇我天皇の否定、現天皇の優位を理窟づけることは、さしせまった大問題であったのだ。ことその条に至るや妖しくも調子が乱れてざわめき立たざるを得なかったほどの大問題であったのさ。蘇我氏とともに蘇我氏の国記を亡して、自分の国記を創る必要があったのだろうね。

 歴史家でも学者でもない私は、文章の調子から歴史をタンテイするという妖しい手口を用いたのですが、しかしタンテイするためにムリにその手口を発明したわけではないのです。たまたま書紀にそういう文章があって、同時に上宮聖徳法王帝説という妙に冷静な欠字をもった書物があったということが、おのずからムラムラと私にタンテイの意慾を起させただけのことです。しかし、こういうことをあばくことが現天皇家に何の影響もありうべからざることは前章でルル述べた如くであり、歴史というものは、たとえ素人のタンテイ眼を用いてでも、その正しい史実をもとめるべく努力することが理にかなっているということを明にしたかったからであります。学問は真理をもとめて真理を語るものであるが、つとめて真理をごまかそうと努力している学問は日本歴史あるのみ。日本の史家が真理をもとめようとしないから、素人タンテイが柄にもなく言わざるを得ないのです。素人タンテイのナマクラ手口に対する諸先生のお叱りは覚悟の上であります。

 さて、かりに私のタンテイの結果を認めることにすると、書紀に於いて蘇我氏が素性のない成り上り者ではなくて、建内宿禰すくねという怪人物の子孫に表現されているということには、いろいろと意味がありそうだね。しかし建内スクネとは何者ぞや。これはどうにも分りッこないね。まったく神話という太古の湖の底の存在だもの。湖面にはなんの手がかりがあるものですか。

 だが、記紀から判断すると神功皇后は神がかりして予言などを行うミコや教祖の実力を具えていたようだ。すると建内スクネは教祖の参謀長、否、総理大臣かね。それにしては、その後のスクネが妙に忠実な番頭で、現代に於ける教祖の総理大臣の性格とは大そう、ちがっている。彼は蔭で教祖を支配している総理大臣ではなくて、熱心な信徒的な性格のようでもある。そうかと思うと現代の教祖総理大臣よりも抜け目のないようなところもあるね。この人間は非常に複雑な、多くの人間のタイプや性格を一人で背負っているようなところがある。時に甚しく単純だから、そうきめてかかると手に負えない。よって何人ものスクネが子々孫々いたのだろうというのは昔の史家にだまされている見方であろう。このへんは歴史をのべているのじゃないね。まさしく神話なのですよ。歴史らしく解釈しようとするのは妙な話というべきだろう。神話がいけなければファーブルでもよろしい。

 しかし、古代史の上ではこれほど大きな怪人物でありながら、建内スクネ古墳と称してウネビに現存するものは大そうチッポケであるし、史上で表現された功績にも拘らず、彼を祀った大神社というものもなく、つまり、歴史にあるが如き建内スクネという大人物の大行跡が庶民の心に深く長く残って敬愛され礼拝されたという形跡の見るべきものが、あんまりないようである。建内スクネが大忠臣、大功臣として仰がれているのは、むしろ現代が最も甚しく、つまり、現代は記紀にまんまと騙されているような気がするね。つまり、歴史として読むからだ。

 私は記紀の史家の作為があるような気がするな。実在していた(伝説的にも)スクネという人物は一向にパッとせず、民衆にあんまり関心を払われていない人物だったんじゃないかな。記紀の史家の巧妙なイタズラと巧妙な構成が成されているような気がする。ああいう怪物的な大存在が当時の民衆の心に深く宿っていないらしいのが、どうにも怪しいじゃないか。裏でカラカラと哄笑している健康でたくましい古代の史家の野性的な笑声がきこえてくるような気がするよ。

 むしろ蘇我氏の祖先は大国主系統かも知れないと私は空想するのである。蘇我氏の地たる飛鳥のカンナビ山(イカズチの丘)はミモロ山ともいうね。大国主の三輪山がミモロ山である。馬子の頃に三輪逆という三輪の一族らしくて妙に怖れ愛されているような奇怪な人物がちょッと登場して殺されるが、馬子はこれとジッコンらしいね。ヒノクマの帰化人はじめ多くの帰化人にとりまかれて特殊な族長ぶりを示していたらしい蘇我氏の生態も、なんとなく大陸的で、大国主的であるですよ。私は書紀の役目の一ツが蘇我天皇の否定であると見るから、蘇我氏に関する限り、その表面に現されていることは、そのままでは全然信用しないのである。

 ともかく、大和を中心にした夥しい古墳群(ミササギも含めて)は小心ヨクヨクたる現代人のドギモをぬくに充分な巨大きわまるものだね。玄室の石の一ツの大きさだけでも呆気にとられるね。それらの古墳は、どれが誰のもので、誰の先祖だか、実はてんで分るまい。記紀が示した系譜なるものが、実は誰が誰の祖先やら、人のものまでみんな採りいれたり、都合のわるいのを採り去ったりしているに相違ないと思われる。

 しかし、大そうな豪族がたくさん居たことだけは確かだね。その子孫はどこへどうなったものやら。ヒノクマの帰化人などもどこへどうなったものやら私自身がそれを探りだす能力はとてもないね。

 八木で電車を降りるとき、五尺五寸ぐらいもあって肉づき美しく、浄ルリ寺の吉祥天女そっくりの白いウリザネ顔のお嬢さんを見た。あの土地で、否、あの土地へ着いた時に見たから、甚しくおどろいたね。しかし、幻でした。なぜなら、その時以来は目を皿にして行き交う男女の顔や形を見つづけたが、昔をしのぶ男女の顔形はついに再び見ることができなかったからです。

 当り前の話だろうね。幻さ。すべての時間が。

底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房

   1998(平成10)年1220日初版第1刷発行

底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第八号」

   1951(昭和26)年61日発行

初出:「文藝春秋 第二九巻第八号」

   1951(昭和26)年61日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:深津辰男・美智子

2010年113日作成

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