古都
坂口安吾



       一


 京都に住もうと思つたのは、京都といふ町に特に意味があるためではなかつた。東京にゐることが、たゞ、やりきれなくなつたのだ。住みなれた下宿の一室にゐることも厭で、鵜殿うどの新一の家へ書きかけの小説を持込み、そこで仕事をつゞけたりしてゐた。京都へ行かうと思つたのは、鵜殿の家で、ふと手を休めて、物思ひに耽つた時であつた。

「いつ行く?」

「すぐ、これから」

 鵜殿はトランクを探しだした。小さなトランクではあつたが、千枚ばかりの原稿用紙だけが荷物で、大きすぎるくらゐであつた。いらない、と言つたが、金に困つた時、これを売つてもいくらかになるだらうから、と無理に持たされた。

 書きかけの長篇ができ次第、竹村書房から出版することになつてゐたので、京都行きを伝へるために電話をかけたが、不在であつた。その晩は尾崎士郎の家へ一泊し、翌日、竹村書房の大江もそこへ来てくれて、送別の宴をはらうといふわけで、尾崎さん夫妻が、大江と僕を両国橋の袂の猪を食はせる家へ案内してくれた。自動車が東京駅の前を走る時、警戒の憲兵が物々しかつた。君が京都から帰る頃は、この辺の景色も全然変つてゐるだらう、と、尾崎士郎が感慨をこめて言つたが、昭和十二年早春。宇垣内閣流産のさなかであつた。

 僕が猪を食つたのは、この時が始めてゞあつた。尾崎士郎も二度目で、彼は二三日前に始めて食つて、味が忘れかねて案内してくれたのである。少し臭味があるが、特に気にかゝる程ではない。驚くほどアッサリしてゐて、いくら食つてももたれることがない、といふ註釈づきであつた。

 飾窓に大きな猪が三匹ぶらさがつてゐた。その横に猿もぶらさがつてゐたが、恨みをこめ、いかにも悲しく死にましたといふ形相で、とても食ふ気持にはなれない。猪の方は、のんびりしたものである。たヾ、まる〳〵とふとり、今や夢見中で、夢の中では鉢巻をしめてステヽコを踊つてゐる様子であつた。豚や牛では、とても、かうはいかないだらう。牛などは、生きてゐる眼も神経質だ。猪といふ奴は、屍体を目の前に一杯傾けても、化けて出られるやうな気持には金輪際襲はれる心配がない。無限に食つた。大丈夫だ。もたれない、と尾崎士郎がけしかける。

 そこを出たのは八時前で、まだ終列車には間があつたので、大江と二人、女のところへ一言別れを告げに行つた。黙つて行く方が良くはないか、と大江が言ふが、僕はハッキリ別れた方がいゝと思つた。大江と女は東京駅まで送つて来た。女とは、それまでに、もう、別れたやうなものではあつたが、気持の上のつながりは、まだ、いくらかあつた。

「君は送つてくれない方がいゝよ」と僕は女に言つた。「プラットフォームで汽車の出る時間待つぐらゐ厭な時間はないぜ」

 けれども、女は送つてきた。

「気軽に一言さよならを言ふつもりだつたんだが、大江の言ふ通り、会はない方が良かつたのだ。どうせ最後だ。二度と君と会ふ筈はないのだから、暗い時間を出来るだけ少くしなければならない筈だつたのに」

「分つてるのよ。二度と会へないと思ふし、会はないつもりでゐるけど、別れる時ぐらゐ甘いことを一言だけ言つて。また、会はうつて、一言だけ言つてよ」

 僕は、それには、返事ができなかつた。

「君も、どこか、知らない土地へ旅行したまへ。たつたひとりで、出掛けるのだ。さうすれば、みんな、変る。人はみんな、自分と一緒に、自分の不幸まで部屋の中へ閉ぢこめておくのだ。僕なんかゞ君にとつて何でもなくなる日が有る筈だといふのに、その日をつくるために努力しないとすれば、君の生き方も悪いのだ。ほんとの幸福といふものはこの世にないかも知れないが、多少の幸福はきつとある。然し、今、こゝには無いのだ。特に、プラットフォームで、出発を見送るなんて、やりきれないことぢやないか」

 然し、女は去らなかつた。プラットフォームに突立つて、大江にも話しかけず、たゞ、黙つて、僕の顔をみつめてゐた。その眼は、怒つてゐるやうに、睨むやうにすら、見えた。汽車が動きだすと、女は二三歩追ひかけて、身体を大切になさいね、身体全体がたゞその一言の言葉だけであるやうに、叫んだ。不覚にも、僕は、涙が流れた。大江は品川まで送つてくれた。


       二


 隠岐和一の別宅は、嵯峨にあつた。その別宅には隠岐の妹が病を養つてゐて、僕の逗留には向かなかつたので、伏見に部屋を探してくれた。計理士の事務所の二階で、八畳と四畳半で七円なのだ。火薬庫の前だから特に安いのかと思つたら、伏見といふ所は何でも安い所であつた。然し、この二階には、さう長くゐなかつた。さうして、語るべきこともない。

 引越した晩、隠岐と僕は食事がてら、弁当仕出屋を物色にでかけた。伏見稲荷のすぐ近所で、仕出屋はいくらもある。然し、どれも薄汚くて、これと定めるには迷ふのだ。京阪電車の稲荷駅を出た所に、弁当仕出の看板がでゝゐる。手の指す方へ露路を這入ると、まづ石段を降りるやうになり、溝が年中溢れ、陽の目を見ないやうな暗い家がたてこんでゐる。露路は袋小路で、突き当つて曲ると、弁当仕出屋と曖昧旅館が並び、それが、どんづまりになつてゐる。こんな汚い暗い露路へ客がくることがあるのだらうか。家はいくらか傾いた感じで、壁はくづれ、羽目板ははげて、家の中はまつくらだ。客ばかりではない。人が一人迷ひこむことすら有り得ないやうな所であつた。

「これはひどすぎる」

 隠岐は笑つた。僕も一応は笑つたが、然し、これでも良かつたのだ。むしろ、これが丁度手頃だとすら思へた。たゞ命をつなぐだけ、それでいゝ。汚いにしても、普通の弁当仕出屋と趣きが違つてゐる。仕出屋として汚いのではないのだ。溝の溢れた袋小路。昼も光のないやうな家。いつも窓がとぢ、壁は落ち、傾いてゐる。溝からか、悪臭がたちこめ、人の住む所として、すでに根柢的に、最後を思はせる汚さと暗さであつた。たゞ命をつなぐだけなら、俺にはこの方がいゝのだ。光は俺自身が持つより仕方がない……僕はさう思つた、さうして、戸をあけて這入らうとしたが、戸は軋むばかりで開かず、人の気配もなかつた。弁当のことは宿の人に頼むことにして、僕達は稲荷の通りへでゝ、酒をのんで別れた。

 ところが、宿主の計理士が頼んでくれた弁当屋がこの家で、そればかりではなく、三ヶ月ぐらゐの後、この宿を出なければ、ならなくなつたとき、計理士が代りに探してくれた部屋が、この弁当屋の二階の一室であつたのである。かうして、僕は、人生の最後の袋小路に住むことになつた。僕は気取つて言ふのではない。僕と隠岐が始めてこの袋小路へ迷ひこんだとき、二人が一様にさう感じて、なぜともなく笑ひだした露路なのだつた。

 伏見稲荷の近辺は、京都でも一番物価の安い所だ。伏見稲荷は稲荷の本家本元だから、ふだんの日でも相当に参詣者はある。京阪電車の稲荷駅から神社までは、参詣者相手の店が立並び、特色のあるものと言へば伏見人形、それに鷄肉の料理店が大部分を占めてゐる。ところが、この鷄肉が安いのだ。安い筈だ。半ば公然と兎の肉を売つてゐるのだ。この参道の小料理屋では、酒一本が十五銭で、料理もそれに応じてゐる。この辺は、京都のゴミの溜りのやうなものであつて、新京極辺で働いてゐる酒場の女も、気のきかない女に限つて、みんなこゝに住んでゐる。それに、一陽来復を希ふ人生の落武者が稲荷のまはりにしがない生計を営んでオミクヂばかり睨んでゐるし、せまい参道に人の流れの絶え間がなくとも、流れの景気に浮かされてゐる一人の人間もゐないのだ。

 然し、僕の住む弁当屋は、その中でも頭抜けてゐた。弁当は一食十三銭で、労働者でも満腹し、僕は一日二食であつた。酒は一本十二銭。それも正味ほゞ一合で、仕入れは一樽四十円であつたから、儲けといふものがいくらもない。僕は毎晩好きなだけ酒をのみ、満腹し、二十円ぐらゐで生きてゐられるのであつた。

 この弁当屋で僕はまる一年余暮した。その一年間、東京を着て出たまゝのドテラと、その下着の二枚の浴衣だけで通したと言へば、不思議であらうか。微塵も誇張ではないのである。夏になればドテラをぬぎ、春は浴衣なしで、ドテラをぢかに着てゐる。多少の寒暑は何を着ても同じものだ。さうして、時々は酒をのみに出掛けもしたし、祇園のお茶屋へも行つた。さういふ店で、とりわけ厭がられもしなかつたのだ。つまり、京都には僕のやうな貧書生が沢山をり、三分の二人前ぐらゐには通用する。それは絵描きの卵なのだ。ぼう〳〵たる頭を風にまかせ、その日のお天気に一生をまかせたやうな顔をして、暮してゐる人々はあの連中を絵師さんだの先生とよび、とても大雅堂なみにはもてないけれども、とにかく人間なみにはしてくれる。警察の刑事まで、さうだつた。だから僕も絵師さんとよばれ、二ヶ月ぐらゐ顔もそらず洗はなくとも平気なやうな、手数の省ける生活を営むことが出来たのである。


       三


 弁当屋は看板に㊉食堂と書いてあるが、又、上田食堂とも言つた。上田といふのは主婦の姓で、亭主の姓は浅川であつた。これだけでも分るやうに、亭主は尻に敷かれてゐる。二人には子供がなく、主婦の姉の子を養女にして、これがアサ子十七歳、三人家族で、使用人はない。

 この夫婦が冗談でなく正真正銘の夫婦であることを信じるまでには、いくつかの疑念を通る必要があつた。夫婦は四十三、齢と同じぐらゐに老けて、然し、美人であつた。髪の毛がちぢれて赤く、ちよん髷ぐらゐに小さく結んで、年中親爺をどなりつけながら、駻馬かんばのやうな鼻息である。文楽の人形の男の町人の身振りは、手を盛んに動かし、首をふり、話の壺でポンと膝をたゝいたりして賑かなこと夥しいが、この主婦が女のくせにそれと同じ身振りである。気の強いこと夥しいくせに、「うちはなア、気が弱いよつてに、そないなこと、ようできん」といふ科白を五人前ぐらゐ使用する。本人は本気でさう言つてゐるのだから、薄気味悪くなるのである。五尺四寸ぐらゐもあつて、然し、すらりと、姿は綺麗だ。けれども、痩せてゐる胸のあたりは、どうしても、女の感じではなかつた。

 一方、親爺の方は、五尺に足らないところへ、もう腰が曲つてゐる。まだ六十だといふのに七十から七十四五としか思はれぬ。皺の中に小さな赤黒い顔があつて、抜け残つた大きな歯が二三枚牙のやうに飛び出してゐる。歩く時には腰が曲つてゐないのだが先づ一服といふ時には海老のやうにちゞんでしまふ。部屋にぐつたり坐つてゐるとき、例へば煙草だとか、煙管だとか、同じ部屋の中のものを取りに行く時が特にひどくて、立上つて、歩いて行くといふことがない。必ず這つて行くのである。這ひながら、うゝ、うゝ、うゝ、と唸つて行く。品物を取りあげると、今度はそのまゝ尻の方を先にして元の場所へ這ひ戻るのだが、やつぱり、うゝ、うゝ、うゝ、と唸りで調子をとりながら戻つてくるのだ。年中帯をだらしなく巻き、電車の踏切のあたりで、垂れかけた帯をしめ直し、トラホームの目をこすり、ついでに袖の先ではなをこすつてゐるのだ。

 世の常の結婚ではないのである。世の常の結婚でないとすれば、この二人が、どのやうにして結ばれたのであらうか。多少の恋心といふものがなくて、あの女がどうして一緒になる筈があらう。けれども、二人の結婚について、僕は殆んど知つてゐない。訊いてもみなかつたのだ。たゞ、問はず語りに訊いたところでは、主婦は昔どこか売店の売子をしてゐて、親爺がこれに熱をあげて、口説き落したのだと言ふ。売子の頃はいくつぐらゐだつたのか、それも訊いてみなかつたが、騙されたのですがな、と主婦は言ふ。親爺は昔札つきの道楽者で、たらしこまれたのだと言ふのだが、ほんとはどうだか分りやしない。だが、親爺は、聖護院しょうごいん八ツ橋の子供であつた。京都の名物の数あるうちでも、八ツ橋は横綱であらう。聖護院八ツ橋は正真正銘の元祖なのだが、親爺はそこの長男で、然し、妾腹であつた。だから、この女と一緒になると、つぐべき家を正妻の子供にゆづる意味で、自ら家出したのだといふ。立派なぼん〳〵であつたのだ。然し、今、その面影は微塵もなく、誰の見る目も、最も家柄の悪いうちの出来損つた子供の成れの果だとしか思はない。

 親爺は食事毎に一本づゝの酒をのむ。それだけが生き甲斐といふ様子であつた。その次に、碁が好きだ。ところで、好きこそ物の上手なれ、といふ諺もあるが、又、下手の横好き、といふ言葉もあり、然し、これぐらゐ好きなくせに、これぐらゐ、下手だといふのも話の外だ。たゞ、生き死にの原則だけ知つてゐるに過ぎないのだ。もとより、上達の見込みもない。僕も碁はいくらか好きで(このあとで熱中していくらか強くなつたのだが、この時はまだそんなに好きではなかつた)田舎初段に井目置く手並であつたが、親爺を相手にすると、井目風鈴で百のコミをだしても、勝つ。つまり、親爺の石は大方全滅してしまふのだ。馬鹿々々しくて二度とやる気になる訳がなさゝうなものではあつたが、外の遊びといふものに興を持ちきれない僕は、たゞ気を紛らすための理由だけで、こんな碁でも、結構、たのしかつた。親爺の乞ふにまかせて、相手になつてゐたのである。

 親爺も手並が違ひすぎて、いくらか、気になつたのであらう。やがて、関といふ人を客に招くやうになつた。関さんは四十三歳。こゝの主婦と同年である。昔は伏見で酒屋であつたが、失敗して、今は稲荷のアパートの一室にくすぶつてゐる。酒の取引のことで、親爺の古い知己であつた。碁は僕と親爺の中間で、まづ、僕に六七目の手並であつたが、それでも親爺に勝ること数百倍だ。

 関さんは失業中だから、喜び勇んで、毎晩くる。食堂は店をしめるのが二時で、関さんの碁も、それまで頑張る。関さんは単純極る人で、自分の慾に溺れるばかり、思ひやりがとんとないから、下手な親爺と打つよりは、あくまで僕とやりたがる。僕はほと〳〵困却し、親爺はふくれる。僕も弱つて、こゝに一策を案出した。これは至極の名案であつたが、後には、自縄自縛、自らを墓穴へうづめる大悪計ともなつたのである。

 親爺にすゝめて、碁会所を開かせることにしたのであつた。幸ひ食堂の二階広間があいたまゝになつてをり、こゝは僕の二階と別棟だから、大勢の客が来てもうるさくない。碁会所には必ず初心者も現れるから、その相手には親爺があつらへ向きである。次に関さんを碁会所の番人にする。碁席は同時に関さんの寝室ともなり、給金はないけれども、食事を給する。関さんはその奥さんが林長二郎の家政婦で、乏しい月給をさいて衣食住を仕給されてゐるのだから、丁度よい。次には、僕で、十秒ばかり歩くだけで、好きな時に、適時に碁を打つことができる。三方目出度し〳〵である。

 碁会所は警察の許可もいらなかつた。関さんの勇み立つこと。僕も乗気で、下手な字で看板を書いてやらうと思つたら、日頃は大ケチの親爺まで、無理に僕の手を押しとゞめ、看板屋へ自ら頼みにでかけるといふ打込み方であつた。この看板屋が又、絵心があるといふのか、袋小路のどん底の傾いて化け物の現れさうな碁席であつたが、白塗りに赤字でぬき、華車きゃしゃな書体で、美術倶楽部と間違へさうな看板だつた。親爺は満悦、袋小路の入口へぶらさげ、停留場を降りると、誰の目にもつくのである。

 然しながらヘボ三人では碁席の維持ができにくい。そこで初段の人を雇つてきた。さて、蓋をあけてみると、この初段が大悪評だ。別の初段に変へてみると、これも悪評、あれも悪評。そのうち常連の顔ぶれも極つてみると、みんな僕以下の下手ばかりで、先生などはいらないから、たゞ碁を打てばいゝのだと言ふ。常連会議一決して、先生をお払ひ箱にしてしまつた。

 けれども、一日に一人や二人は強い人も来るのである。みんな常連がヘボだから、二度と来なくなつてしまふ。京都では、僕のやうな風体の者が絵師さん、つまり先生で、親爺は先生と呼ぶ。親爺は物覚えの悪い男で、僕の所へ速達が来ても、え、坂口はん、きいたことのない名前やなあ、と言ふ。だから年中お客の名前をトンチンカンに呼び違へ、陰では符牒でよんであるのだ。だから、僕はこの家では名無し男で、常に先生であり、たゞ先生で、先生以外の何者でもなかつた。結局碁会所の常連達にも、僕はたゞの先生で、名前がなく、先生以外の何者でも有り得ないことになつてしまつた。

 みんな先生と言ふものだから、知らない人は碁の先生だと思つてしまふ。知らないお客は大概僕より遥に強い連中だから、僕も慌てた。そのうちに、あの碁会所はヘボ倶楽部だ。大変な先生がゐるといふやうな噂がたち、ヘボ倶楽部とは巧いことを言ひやがる、と一同感心、カラ〳〵と大笑したが、気がついてみると、とにかく、自分のことである。これだけ常連が揃つてゐるのだから誰か一人ぐらゐ世間並なのがゐさうなものだが、と顔見合せ、さういふことになつてみると、常連の中では、とにかく僕が一番強いし一番若い。先生、しつかり頼うまつせ、といふやうなわけで、僕も大志をかため島といふ二段の先生について修業を重ねることゝなつた。寝ては夢、さめては幻、毎日々々、たゞ、碁であつた。部屋の中には忽ち碁の書物が積み重り、新聞の切抜が散乱し、道を歩く時には碁のカードを読んでゐる。碁会所へ来るので顔見知りの特高の刑事に、ヤア、大変な勉強ですな、と四条通りで肩を叩かれる。散歩といへば、古本屋で碁の本を探すだけで、京都中の碁の古本は、あらかた僕が買占めたやうなものだ。その代り、二ヶ月ぐらゐたつと、とにかく、田舎初段に三目ぐらゐで打てるやうになつた。近所にチヌの浦孤舟といふ浪花節の師匠がゐて、この近辺では一番強く、ヘボ倶楽部を吹聴した発頭人であつたが、まもなく再び碁会所へ現れるやうになり、僕も互先で打つやうになつた。

 東京を捨てたとき胸に燃してゐた僕の光は、もう、なかつた。いや、この袋小路の弁当屋へ始めて住むことになつた時でも、まだ、僕の胸には光るものが燃えてゐた筈だつたのだ。隣りの二階は女給の宿で赤い着物がブラ下り、その下は窓の毀れた物置きで、その一隅に糸くり車のブン〳〵廻る工場があつた。裏手は古物商の裏庭で、ガラクタが積み重り、二六時中拡声器のラヂオが鳴りつゞけ、夫婦喧嘩の声が絶えない。それでも北側の窓からは、青々と比叡の山々が見えるのだ。だが、僕には、もう、一筋の光も射してこない暗い一室があるだけだつた。机の上の原稿用紙に埃がたまり、空虚な身体を運んできて、冷めたい寝床へもぐりこむ。後悔すらもなく、たゞ、酒をのむと、誰かれの差別もなく、怒りたくなるばかりであつた。

 毎晩十二時に碁をやめる。常連の中の呑み助は、これから階下で車座を組んで十二銭の酒をのむ。山口といふ巡査上りの別荘番は、アル中で、頭から絶え間もなく血がふきだし、それを紙で拭きとつては、コップ酒を呷つてゐる。祇園乙の検番の杉本老人は色話にだけ割込んできて、あとは端唄を唸つてゐる。脳病のインチキ薬を売つてゐる二人組の一方は印絆纏、一方は羽織袴で、戸の開く音に必ずギクリとするのであるが、喧嘩の相手か刑事を怖れてゐるのであらう。これも稲荷山を商売に四柱推命といふ占をやる男は、常連の誰彼の差別もなく卦を立てゝみては、あれも悪い、これも悪いで、とても気の毒で正直に教へてあげられん、と言ふのだが、成程多分さうだらうと僕も思はずにゐられなかつた。この占者は茶色の髭を生やして、まだ三十だといふのに五十五六の顔をしてゐた。やつぱり参詣の人を相手に茶店の二階を借りて可視線燈といふ治療をやつてゐる老人は、人殺しの眼付をしてゐるし、水兵あがりの按摩がゐて、片目は見えるのであるが、この男の猥談には杉本老人も顔をそむけてしまふのだつた。百鬼夜行なのだ。けれども、百鬼夜行の統領が僕だつた。関さんは一同から杯を貰ひ、お愛想を言ふかと思ふと、絡んだり厭味を言つたり、親爺だけはたつた一人黙つてゐて、海老のやうにグッタリまるくなつてゐる。さういふ中に主婦だけが、軍鷄しゃものやうなキイ〳〵声で、ポンと膝を叩いたり、煙管を握つた手を振り廻して、誰にも劣らず喋つてゐる。

 たらふく飲み、たらふく睡り、二十円ぐらゐで生きてゐられるのであつた。考へるといふことさへなければ、なんといふ虚しい平和であらうか。しかも、僕は、考へることを何より怖れ、考へる代りに、酒をのんだ。いはゞ、二十円の生活に魂を売り、余分の金を握る度に、百鬼の中から一鬼を選んで率き従へて、女を買ひに行くのであつた。

 この連中のましな所は、とにかく、主婦を口説かなかつたといふだけだ。え、おつさん。早く死んだらどうかいな。あとは引受けるよつてに。かういふ露骨な冗談を、僕は毎日一度はきいた。誰かしら、それを言ひだすのであつた。親爺は牙をむきだして、ヒヽヽヽと笑ふ。必ずしも、腹を立てゝはゐないのだ。いや、諦めてしまつたのだ。然し、諦めきれるであらうか! とはいへ、今は、この冗談がこの食堂の時候見舞のやうなものだ。棺桶に片足つゝこんでおいてからに、ほんまにしぶとい奴つちやないか。却々なかなか、いきをらんで。この冗談がユーモアとして通用し、笑ひ痴れてゐるのである。之は、たしかに冗談だつた。然し、又、たしかに、冗談ではなかつたのだ。なぜなら、主婦は、亭主の死を如何に激しく希ひつゞけてゐたゞらうか。彼女の祈願は、たゞ、それのみではなかつたか。

 稲荷の山へ見廻りに来て、その足でこゝへ立寄る香具師やしの親分があつた。すると主婦は化粧を始め、親分は奥の茶の間へドッカと坐つて、酒をのみだすのであつた。親分が酔ふ頃になると、子分はみんな帰つてしまふ。すると親爺も、主婦の目配せで追ひ払はれて、二階の碁席へ、例の通り、うゝ、うゝ、うゝ、と唸りながら這込んでくる。額に青筋を立て、押黙つて、異常な速度で、碁を打ちはじめる。あゝ、又、変な客が来てゐるのだな。人々は忽ち悟るのであつたが、何人がかつて親爺に同情を寄せたであらうか。一片の感傷を知り、一本の眉をしかめる人すらもなかつたのだ。否、むしろ、その宿命が当然だ、と、人々は思ひ込んでゐたのであらう。

 これは碁客ではないけれども、伏見で石屋を営んでゐる五十三四の小肥りの男は、一月に必ず一度飲みに来て十五六時間飲み通すのがきまりであつたが、それは、まるで、親爺がまだ死なないことを確めに来るやうだつた。


       四


 四柱推命の占師が関さんに頼まれて卦を立てた。僕の所へ来て、関さんの卦ばかりはどこを取上げて慰めてやる所もない。天性の敗残者で、これから益々落目になる一方だと言ふのであつた。これ以上落目になるとは、どんなことだらう。だが、僕も、それが事実だと思はずにゐられなかつた。

 碁会所の常連全部見渡しても、関さんだけが頭抜けて無邪気な男であつた。だが、どん底の生活では、無邪気な奴ほど救はれない。関さんは、碁会所の常連達の悪評の的であつた。常連の一人に相馬といふ友禅の板場職人がゐて、山本宣治の葬式の先頭に赤旗を担いだ男で、勇み肌の正義感から時々逆上的な喧嘩をしたが、凡そ憎めない男がゐた。無邪気な点では関さんと甲乙なく、僕の言ふことは大概理解してくれたのだが、関さんとだけは打解けてくれなかつた。

 関さんは商売よりも自分の楽しむ方がまづ先だ。お客が来ると大喜びで、お茶のサービスもそこ〳〵に、一戦挑む。忽ち夢中になつてしまふ。敗北するや口惜しがること夥しく、今のは怪我敗けだ、ほんとは俺の方が強いのだといきりたつし、勝てば忽ち気を良くして、あんたは下手だと大威張りである。万事が露骨で角がある。おまけに勝負に夢中だから、お客が後から詰めかけて来ても、お茶も注がず、座布団すらも出してやらない。常連はそれでもなんとか自分でするが、知らないお客は、いつまでたつても一人ぽつちでボンヤリしてゐる。関さんが手頃な相手を物色してくれないからである。勢ひ常連の数がふへない。

 席料は一日十銭、会員は一ヶ月一円だつた。安いといへば大安だが、稲荷界隈では何から何まで安いのだ。結局常連の会費だけが収入で、一ヶ月二十四五円の上りしかなかつたやうだ。上り高が増さないから、親爺と主婦は大ぼやきだ。関さんが三杯目の御飯を盛ると横目で睨み、二杯目ぐらゐの御飯しか御櫃の中へ置かなかつたり、関さんは身体の動かん商売やさかいに等と頻りにチク〳〵何か言ふ。すると常連が一勢に呼応して、サービスが悪い、勝つても負けても態度が悪どい、井戸端会議の騒しさだ。どん底には辛抱だの思ひやりはないのである。我儘で、唯我独尊、一杯の茶のサービスが人格にかゝはる問題だつた。

 関さんは忽ち拗ねて、今度は、座布団をだし、お茶を注ぐのを専一にやりだし、決して碁の相手にならぬといふ一人ストライキをやりだした。相手のないお客が、関さん、どうや、と言つても、いゝえ、わたしはあきまへん。お茶を注がんならんさかい。これがわたしの役目どす。かういふ風に答へる。さうして、青筋をたてゝ、ふくれてゐる。益々お客の評判が悪い。

 先生が色々と言ふてくらはるよつてに辛抱もしてみましたけど……関さんは僕の所へやつてきて、もう、とても我慢がならないからほかの口を探してくるといふのであつた。さうして、前後二度、ほんとに勤め口を見つけだして姿を消した。然し、二度ながら、四日目には、もう、戻つて来たのだ。主婦が僕の部屋へやつてくる。朝のうちだ。僕をゆり起して、ほんまに先生、お休みのところを済んまへんこつちやけれども……とブリ〳〵しながら、ふと二階に物音がするから上つてみたところが、関さんが戻つてゐて、掃除をしたり、碁盤をふいたりしてゐる、と言ふのであつた。いゝぢやないか。戻つて来たのなら、おいておやり。僕は布団を被つてしまふ。ひる頃起きて階下へ行くと、関さんは甲斐々々しく襷などかけ、調理場の土間にバケツの水をジャア〳〵ぶちまけて洗ひ流し、ついでに便所の掃除までしてゐる。ふだんなら、碁席の掃除まで怠けて、拭掃除など決してやらぬ人なのだ。

 一度は伏見の呉服屋へ番頭につとめてゐたのださうだ。番頭も大袈裟だ。多分、下男とか風呂番ぐらゐの所だらうが、関さんの話のまゝに取次ぐとかうなのである。そこの娘が女学校の五年生だが、いくらか白痴で、然し素敵な美人ださうだが、関さんに色目を使つて仕方がない。これが女中だとか、娘にしても出戻り娘とか何とかとうのたつた女ならとにかくとして、四十三にもなつて、女学生の主家の娘と通じることは良心が許さぬ。ある晩、娘が誰よりもおそく風呂にはいつて、折から関さんが何も知らずに風呂の戸をあけると、裸体の娘がおいで〳〵をしてゐた。あんまり露骨なる情感に堪へられなくなつて、逃げだして来たのだと言ふ。

 二度目は友禅の小工場主の私宅であつた。そこの主人は四十がらみの未亡人だが、お経の用でもなく若い坊主を繁々家へ引込むといふ噂の女で、関さんに今夜忍んでこいといふ目配せをした。まさかに、と思つてゐると、そこが便所への通路でもないのに、夜更けに関さんの部屋の廊下を往復する。勤めて二日目といふのに何が何でも早すぎるとその晩は行かずにゐると、翌日、未亡人の態度が突然変つて出て行けがしにするので、ゐたゝまれなくなつて戻つて来た、と言ふのであつた。

 関さんの話は万事がかうだ。もとより当になりはしない。けれども、常連の一人々々をつかまへて、一々この話をきかせてゐる。無論、僕にも、親爺にも、主婦にもだ。関はん、えらい又、色男のことやないかいな、と冷やかされても、ヘッヘッヘ、いや、どうも、と喜んでゐる。作り話だらうとでも言ひだす人があらうものなら、青筋を立てゝしまふのである。いえ、そんなことあらしまへん。坐り直して、顫へながら相手を睨み、ほんなら、行つて、きいてみておいでやす。誰が一々呉服屋へ行つて、あなたの家の白痴の娘が……ときかれるものか。あたかも、生存の根柢を疑られ、おびやかされたといふ激怒であつた。

 然し、碁会所にしてみれば、こんなに厭がられ、出て行けがしにされながらも、結局、関さんがなければならぬ人だつたのだ。何人が誇りなくして生き得ようか。関さんとても、誇りはあつた。しかも、あらゆる人々が、関さんの誇りを一々つぶしてゐるのである。さうして、あらゆる人々が関さんに求める所は、要するに、自分と対等の位置に立つな、碁会所の奴隷になれと言ふことだつた。その報酬は、たゞ寝室と、十三銭の定食のその残飯だ。碁会所の番人の志願者はいくらも有るが、関さんの条件では有り得ない。だから、食堂の親爺も主婦も、関さんが戻つた当座は、むつとした顔をしながら、食事のお菜に御馳走し、御飯も鱈腹たべさすのだつた。


 碁席を別にして、この家の二階は二間あつた。僕がその一室へ越して間もなく、いつからだか確かな記憶はないのだが、ノンビリさんと称ばれる若者が他の一室へやつてきた。主婦の姉の三男だかで、和歌山の人、二十六歳の洋服の職人だつた。

 僕が名無しの先生で通るやうに、この男もノンビリさんで通用して、僕は姓名を全然知らない。東京で洋服の修業をしたが、病気で帰郷し、一年ぐらゐブラ〳〵し、まだ本復はしてゐなかつたが、母親と㊉の主婦が手紙で打合せ、京都で勤め口を探すために、ていよく故郷を追ひ出されたのだ。

 ノンビリさんと称ばれるけれども、凡そノンビリしてゐやしない。いつもオド〳〵し、喋りだすと口角に泡をため、顔に汗ばむのであつた。坐職のせゐか、両足が極度に細く、ガニ股で、居ても立つても歩いても、常に当惑してゐるといふ様子であつた。生れて以来、人に好かれたことがなく、常に厄介者に扱はれて育ち上つた様子でもあつた。

 二人の姉妹が手紙の上でどういふ相談をしたのであらうか。いはゞ、㊉の主婦ですら、一杯食はされたといふ感じであつた。つまり、就職が定まり次第、本人が下宿代を支払ふのは分りきつた話であるが、それまでは生家の方から口前を入れるからといふ約束であつたに相違ない。ところが、当の本人が布団と一緒に送られてきて、それから後は梨の礫、ついぞ一文の送金もない。三ヶ月たち、四ヶ月たち、就職口もないのであつた。

 尤も、途中に、三週間ぐらゐだけ、就職したことがあつた。忽ち、追ひ出されて来たのである。この追ひ出され方が、又、奇想天外、ほかの誰でもとても斯うは出来ないのである。その店に職人の仲間が五人ゐたが、中に一人の腕きゝがゐて、仕事の腕がいゝばかりでなく、倉庫から店の服地を持出して売飛ばし酒色に代へるに妙を得てゐた。夜業が終ると、職人一同が揃つて出掛けて一杯やつたり何かするが、半分ぐらゐは例の腕きゝが支払ひ、あとの所は代り番こぐらゐに奢り合ふ。ノンビリさんだけは、支払つたことがないのである。わしが払はふ思ふとるうちに誰かしらん払ふてしまふさかいに、とか、わしはつきあひに馴れんさかいに、どないして払ふていゝのやら分らへん等と言訳してゐるのであつたが、大体、金の有る筈のない関さんを自分の方から誘ひだして喫茶店で一杯のコーヒーをのみながら、必ず関さんに払はせてくる男であつた。

 僕が散歩にでると、黙つて後からついてくる。三四丁も行つたころ、先生、と始めて呼びかけて肩を並べ、それからは金輪際離れない。稲荷の山から東福寺へぬけ三十三間堂を通り宮川町から四条通り新京極へ現れてもまだ、離れない。こゝで僕は失敬するよ、と言つても、でも、先生、邪魔しいへんさかい、と言つて、僕が呑み屋へ這入れば自分も這入つてくるのであつた。自分は何も注文せず、僕の隣に坐つてゐる。仕方がないから何かあつらへてやると、先生、ほつといとくれやす、うち、欲しうないよつてに、と厭々ながら恩にきせて食べるのだつた。

 先生、おきゝしたいことがおますのやけど、と、有るのやら無いのやら分らぬやうな細い眼をチラ〳〵させて、なア、先生、女の子の手え握る瞬間とらえるには、どないコツがおますやろか。手え握りたうて仕方ないのやけど、うち、臆病やさかい、心臓がドキンドキンいふばかりで、どむならん。……かういふことを言ひだすのだ。事おとなしく言葉で説いてどうなるといふ相手ではなかつた。僕は激怒し、野良犬を追ひだすやうに追ひだしてしまふ。どうして僕が怒つたか、勿論、彼には分らないのだ。

 同僚達に愛される筈はなかつた。忽ちのうちに厭がられ、彼等だけの生活内で可能なあらゆる厭がらせを受けたのである。食事のオカズまでまきあげられて、仕方なしに、毎日、お茶で飯だけすゝりこむ。遂に、堪りかねて主人の所へ報告に行つた。受けた侮辱の数々を述べ立て、例の腕きゝの職人が倉庫の服地をチョロまかして酒色に費してゐることを密告した。ところが、その時までフム〳〵ときいてゐた主人が、この密告をきくに及んで、突然、馬鹿野郎! と一喝したといふのである。それぐらゐのことは、先刻、こちらが知つてゐる。それだけの腕があるから、やらせておくのだ。貴様はどうだ。たつた今、クビにするから出て行つてくれ。友達のつきあひも出来ない職人は店の邪魔だ。──かうして、叩き出されて来たのである。彼はビックリ顔色を変へ、布団や荷物を持ちだす手段も浮かばず一目散に飛びだして、まつさをな顔をして食堂へ三週間ぶりに戻つてきたのは、深夜の三時頃であつた。流石に彼も、公園のベンチに腰を下して、途方に暮れたといふのであつた。

 要するに、この男は、異常にしんねりむつつりとして、人の神経が分らぬくせに、神経質でオド〳〵し、あらゆる点でノンビリしてはゐないのである。無学な人が創りだした渾名でも、渾名といふものは大概肯綮こうけいに当つてをり、人を頷かせる所があるものだ。ところがノンビリさんに限つて、凡そ人に成程と思はしめる所がない。してみれば、この渾名をつけた人が、余程、どうかしてゐるのだ。つまり、この渾名にも、それ相当の理由はあつて、しかもその唯一の理由のために他の属性は全く掻き消され顛倒されてしまつてゐる。それほども強く、唯一の理由が、その人々の人生観の大根幹を為してゐるのだ。即ち、食堂の主婦と親爺は、たつた一つの大根幹が人生の全てゞあつて、他の属性はどうでも良かつた。さうして、この若者がどうしてノンビリさんと称ばれるに至つたかと言へば、下宿の支払ひがノンビリしてゐる、といふ、唯この一つの理由からであつたのである。

 然しながら、収入のないノンビリさんが支払ひをノンビリするのは仕方がなかつた。彼は、まだ、京都で働きたくはなかつたのだ。故郷で今しばらく病を養つてゐたかつたのだ。母と叔母が勝手に手紙で打合して、布団と一緒に、荷物のやうに送り出されて来たのであつた。のみならず、主婦ともあらう女が、どうして、この事態を予想したであらうか。言ふまでもなく、儲かることを打算してゐたに相違ない。姉とか、父母といふ関係ですら、打算を外に考へることはない筈だつた。してみると、彼女の姉が、更に一枚、上手うわての役者であつたのだらう。気の毒なのはノンビリさんで、食事のたびに口前の催促され、お櫃の蓋をあけるたびに、主婦が血の気の失せた横目の顔で睨んでゐる。わしア、もう、自殺したうなつた。と、彼はさういふ風に呟くのだつた。

 この時、関さんは親切だつた。彼は翌日、ノンビリさんをうながして、主人の所へあやまりに行つた。その翌日には、彼が一人で、出掛けて行つた。それでも駄目だと知ると、又、翌日には、リヤカーにノンビリさんの荷物を積んで帰つてきた。クヨ〳〵せんかて、よろし。ようがす。必ず、いゝ口見つけてあげますさかい。関さんは勇気をつけた。さうして事実、十日に一度ぐらゐづゝ、いや、一ヶ月に一度ぐらゐかも知れないが、ノンビリさんの口を探しに行つたのである。無論、むだ足にすぎなかつた。関さんは果して口を探したらうか。知合ひの隠居の所へ押かけて、碁でも打つて来たのかも知れぬ。

 日支事変が始つた。京都の師団も出征する。師団長も負傷した。親爺の生れが聖護院八ツ橋であることは前にも述べたが、親爺は家督を譲つた代りに自分のせがれに(この倅は主婦の子供ではない)八ツ橋製造の権利をもらつて、聖護院とはマークの違ふ八ツ橋を作らせてゐる。この八ツ橋を軍需品として師団へ納めることになつたのである。倅は大変な鼻息だ。自分の生母を棄て、女と走つてしがない暮しに老いこんでゐる親爺を扱ふに下僕のやうだ。親爺は主婦への面当てから、それを倅の出世のやうに喜んで、下僕のやうに扱はれながら顧問のやうに相好くづしてゐるのである。ところで、ついぞ来たこともない親爺の家へやつて来てどういふ用事があるかと思へば、師団へ納める八ツ橋の箱をつめてくれ、と言ふのである。ボール紙の小箱へつめて、十銭だか、十二銭だかで納めるのだが、この箱づめが一箱一厘、即ち十箱一銭、で百つめて、やうやく十銭といふ賃銀だ。冗談も休み〳〵言ふがいゝ、今時八ツの女の子でも、こんな仕事はしないであらう。一箱つめるにも角があつたり何かして相当骨が折れるのだ。ところが、親爺は二ツ返事で承知した。安いも高いもないのである。倅の出世に大喜びだし、ノンビリさんと関さんといふ有閑人士が二人ゐるから、十銭の金がはいるだけでも喜ぶ筈だと思つたのだつた。

 トラックが袋小路の入口へ横づけになり、寝間と茶の間に八ツ橋の山が築かれ、関さんもノンビリさんも召集される。然し、関さんは二十つめると、二階に客が来ましたさかいに、と逃げてしまひ、ノンビリさんは物の五ツとやらないうちに、うち、朝からなんや気分が悪うて、貧血が来さうやさかい、と、これも二階へ逃げのび、布団を被つて、ねてしまつた。それ以来、ノンビリさんは全然八ツ橋に手をださず、関さんは親爺にくどく言はれた時だけ、十ぐらゐづゝやりかけて、客があるとか、今日は外に用があるとか言ひつくろつて逃げてしまふ。あんたはん、まだ八十や。たつた八銭やないか、と言はれ、は、その金は貰はんといゝさかい、差上げますわ。冷然とかう言ひ放つて、二階へ上つてしまつた。関さんも甚だ意地が悪いのだ。勿論、このやうな安価な仕事をお為ごかしに押しつけることが悪い。然し、悪意は、親爺にはなかつたのである。果せる哉、倅が自動車を乗りつけて見廻りに来て、大方出来上る頃と思ひのほか、十分の一とつまりはしない。カン〳〵に自分の親爺を怒鳴りつけ、それからは、毎晩のやうに見廻りにくる。親爺は弁当の配達もできぬ。店の仕事は主婦に委せて、朝から夜中まで箱づめにかゝり、ふるへる手に手当り次第八ツ橋を毀し、無理に箱にねぢこんでゐる。かういふ破目になつてみれば、主婦も亦、仕方がない。さう〳〵油も売つてゐられず、箱づめの助勢にかゝり、恨み骨髄に徹して、二階へ駈け上り、ほんまに慾のない人達やないかいな。お公卿さんの生れの方はうちらと違ふてゐやはるわ。まあ、きいとくれやす、と、常連の誰彼に軍鷄の声で説明してゐる。然し、もと〳〵、無理な仕事を押つけられた親爺に落度があつたのだ。親爺以外の何人が、こんな仕事を引受けよう。然しながら、子の愛にひかされ、子供のために嬉々として慾得もない親爺の弱身につけこんで、引受けてのない労働を押しつけるとは、狡猾無類の倅であつた。然し、親爺は、子の愛からか、意地からか、引受け手のない無理な仕事をまんまと倅に押しつけられたといふことを、金輪際信じようとはしなかつた。さうして、好きな碁もやらず、青筋をたてゝ、うゝ、うゝ、うゝと唸りながら、たうとう全部箱につめてしまつたのである。それのみではなかつた。すでに関さんノンビリさんの助力のないことが分りながら、更に第二回目のトラックを引受けた。さうして、之も亦、遂に、片づけてしまつたのだ。盲目の愛からか、腹いせからか。怖るべき意地ではあつた。

 然しながら、之に就ても、蛇足があるのだ。あんたはん、なんとして、之が意地ですかいな。と、主婦が僕に言ふのである。慾ですわな。五千六千とつもつてみなはれ。大きうおす。それを忘れてからに、このをつさんが、やりますかいな。

 ほんまに、さうや。と、親爺は酒をのむ僕を見あげて、ヒヽヽヽと笑つた。それは神々しいぐらゐ無邪気であつた。

  附記 時間がなかつたので仮に古都と題しておきましたが、全然気に入りませんから、次回を載せる時は題を変へます。

(未完)

底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房

   1999(平成11)年320日初版第1刷発行

底本の親本:「現代文学 第五巻第一号」大観堂

   1941(昭和16)年1228日発行

初出:「現代文学 第五巻第一号」大観堂

   1941(昭和16)年1228日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。

入力:tatsuki

校正:noriko saito

2008年1015日作成

青空文庫作成ファイル:

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