茶番に寄せて
坂口安吾



 日本には傑れた道化芝居が殆んど公演されたためしがない。文学の方でも、井伏鱒二といふ特異な名作家が存在はするが、一般に、批評家も作家も、編輯者も読者も厳粛で、笑ふことを好まぬといふ風がある。

 僕はさきごろ文体編輯の北原武夫から、思ひきつた戯作を書いてみないかといふ提案を受けた。かねて僕は戯作を愛し、落語であれ漫才であれ、インチキ・レビュウの脚本であれ、頼まれれば、白昼も芸術として堂々通用のできるものを書いてみせると大言壮語してゐたことがあるものだから、紙面をさいてくれる気持になつたのである。北原の意は有難いが、読者がそこまでついてきてくれるかどうかは疑はしい。けれども僕は、そのうち、思ひきつた戯作を書いて、読者に見参するつもりである。

 笑ひは不合理を母胎にする。笑ひの豪華さも、その不合理とか無意味のうちにあるのであらう。ところが何事も合理化せずにゐられぬ人々が存在して、笑ひも亦合理的でなければならぬと考へる。無意味なものにゲラ〳〵笑つて愉しむことができないのである。さうして、喜劇には諷刺がなければならないといふ考へをもつ。

 然し、諷刺は、笑ひの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。諷刺する人の優越がある限り、諷刺の足場はいつも危く、その正体は貧困だ。諷刺は、諷刺される物と対等以上であり得ないが、それが揶揄といふ正当ならぬ方法を用ひ、すでに自ら不当に高く構へこんでゐる点で、物言はぬ諷刺の対象がいつも勝を占めてゐる。

 諷刺にも優越のない場合がある。諷刺者自身が同時に諷刺される者の側へ参加してゐる場合がさうで、また、諷刺が虚無へ渡る橋にすぎない場合がさうだ。これらの場合は、諷刺の正体がすでに不合理に属してゐるから、もはや諷刺と言へないだらう。諷刺は本来笑ひの合理性を掟とし、そこを踏み外してはならないのである。

 道化の国では、警視総監が泥棒の親分だつたり、精神病院の院長先生が気違ひだつたりする。そのとき、警視総監や精神病院長の揶揄にとどまるものを諷刺といふ。即ち諷刺は対象への否定から出発する。これは道化の邪道である。むしろ贋物なのである。

 正しい道化は人間の存在自体が孕んでゐる不合理や矛盾の肯定からはじまる。警視総監が泥棒であつても、それを否定し揶揄するのではなく、そのやうな不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸呑みにし、笑ひといふ豪華な魔術によつて、有耶無耶のうちにそつくり昇天させようといふのである。合理の世界が散々もてあました不合理を、もはや精根つきはてたので、突然不合理のまま丸呑みにして、笑ひとばして了はうといふわけである。

 だから道化の本来は合理精神の休息だ。そこまでは合理の法でどうにか捌きがついてきた。ここから先は、もう、どうにもならぬ。──といふ、やうやつと持ちこたへてきた合理精神の歯をくひしばつた渋面が、笑ひの国では、突然赤褌ひとつになつて裸踊りをしてゐるやうなものである。それゆえ、笑ひの高さ深さとは、笑ひの直前まで、合理精神が不合理を合理化しようとしてどこまで努力してきたか、さうして、到頭、どの点で兜を脱いで投げ出してしまつたかといふ程度による。

 だから道化は戦ひ敗れた合理精神が、完全に不合理を肯定したときである。即ち、合理精神の悪戦苦闘を経験したことのない超人と、合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑ひに鼻もひつかけずに済まされるのだ。道化はいつもその一歩手前のところまでは笑つてゐない。そこまでは合理の国で悪戦苦闘してゐたのである。突然ほうりだしたのだ。もしやくしやして、原料のまま、不合理を突きだしたのである。

 道化は昨日は笑つてゐない。さうして、明日は笑つてゐない。一秒さきも一秒あとも、もう笑つてゐないが、道化芝居のあひだだけは、笑ひのほかには何物もない。涙もないし、揶揄もないし、凄味などといふものもない。裏に物を企んでゐる大それた魂胆は微塵もないのだ。ひそかに裏に諷してゐるしみつたれた精神もない。だから道化は純粋な休みの時間だ。昨日まで営々と貯めこんだ百万円を、突然バラまいてしまふ時である。惜げもなく底をはたく時である。

 道化は浪費であるけれども、一秒さきまで営々と貯めこんできた努力のあとであることを忘れてはならない。甚だしく勤勉な貯金家が、エイとばかり矢庭に金庫を蹴とばして、札束をポケットといふポケットへねぢこみ、さて、血走つた眼付をして街へ飛びだしたかと思ふと、疾風のやうにみんな使つて、元も子もなくしてしまつたのである。

 道化の国では、ビールよし、シャンパンよし、おしるこもよし、巴里の女でもアルヂェリヤの女でもなんでもいい。使ひ果してしまふまでは選り好みなしにO・Kだ。否定の精神がないのである。すべてがそつくり肯定されてゐるばかり。泥棒も悪くないし、聖人も善くはない。学者は学問を知らず、裏長屋の熊さんも学者と同じ程度には物識りだ。即ち泥棒も牧師くらゐ善人なら、牧師も泥棒くらゐ悪人なのである。善玉悪玉の批判はない。人性の矛盾撞着がそつくりそのまま肯定されてゐるばかり。どこまで行つても、ただ肯定があるばかり。

 道化の作者は誰に贔負も同情もしない。また誰を憎むといふこともない。ただ肯定する以外には何等の感傷もない木像なのである。憐れな孤児にも同情しないし、無実の罪人もいたはらない。ふられる奴にも助太刀しないし、貧乏な奴に一文もやらない。ふられる奴は散々ふられるばかりだし、みなしごは伯母さんに殴られ通しだ。さうかと思ふと、ふられた奴が恋仇の結婚式で祝辞をのべ、死んだ奴が花束の下から首を起して突然棺桶をねぎりだす。別段死者や恋仇をいたはる精神があるわけぢやない。万事万端ただ森羅万象の肯定以外に何物もない。どのやうな不合理も矛盾もただ肯定の一手である。解決もなく、解釈もない。解決や解釈で間に合ふなら、笑ひの国のお世話にはならなかつた筈なのである。

 フランスにフィガロといふ都新聞のやうな新聞がある。「ゼビイラの理髪師」や「フィガロの結婚」のフィガロから来た名称らしく、なぜ私が笑ふかつて言ふのですかい。笑はないと泣いちやうからさ、といふフィガロの科白が題字のところに刷りこんである。(多分さうだつたと思ひますよ)「ゼビイラの理髪師」や「フィガロの結婚」は却々なかなかの名作だが、ここに引用したやうな笑ひの精神は、僕のとらないところである。世之助の武者振りや源内先生の戯作には、さういふケチな魂胆がない。

 一言にして僕の笑ひの精神を表はすやうなものを探せば、「浜松の音は、ざざんざあ」といふ太郎冠者がくすねた酒に酔つぱらい、おきまりに唄ひだすはやしの文句でも引くことにしようか。「橋の下の菖蒲は誰が植えたしやうぶぞ。ぼろおん〳〵」といふ山伏のおきまりの祈りの文句にでもしようか。それ自体が不合理だ。人を納得させもしないし、偉くもしない。ただゲタ〳〵と笑ふがいいのだ。一秒さきと一秒あとに笑はなければいいのである。そのときは、笑つたことも忘れるがいい。そんなにいつまで笑ひつづけてゐられるものぢやないことは分りきつてゐるのである。

 道化文学は、作者にとつては、趣向がすべてであり、結果としては読者から、笑つてもらふことがすべてなのである。

底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房

   1999(平成11)年320日初版第1刷発行

底本の親本:「文体 第二巻第四号」スタイル社

   1939(昭和14)年41日発行

初出:「文体 第二巻第四号」スタイル社

   1939(昭和14)年41日発行

入力:tatsuki

校正:noriko saito

2008年916日作成

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