取舵
泉鏡花



         上


「こりゃどうも厄介やっかいだねえ。」

 観音丸かんのんまるの船員は累々やつやつしき盲翁めくらおやじの手をりて、はしけより本船に扶乗たすけのする時、かくはつぶやきぬ。

 この「厄介やっかい」とともに送られたる五七人の乗客を載了のせおわりて、観音丸かんのんまる徐々じょじょとして進行せり。

 時に九月二日午前七時、伏木港ふしきこうを発する観音丸かんのんまるは、乗客の便べんはかりて、午後六時までに越後直江津えちごなおえつに達し、同所どうしょを発する直江津鉄道の最終列車に間にあわすべき予定なり。

 このあわれむべき盲人めしいは肩身狭げに下等室に這込はいこみて、厄介やっかいならざらんように片隅にうずくまりつ。人ありてそのよわいを問いしに、かれ皺嗄しわがれたる声して、七十八歳と答えき。

 めくらにして七十八歳のおきなは、手引てびきをもれざるなり。手引をも伴れざる七十八歳のめくらの翁は、親不知おやしらずの沖を越ゆべき船に乗りたるなり。衆人ひとびとはその無法なるにおどろけり。

 かれは手も足も肉落ちて、赭黒あかぐろき皮のみぞ骸骨がいこつつつみたる。たけ低く、かしら禿げて、かたばかりのまげいたる十筋右衛門とすじえもんは、略画りゃくがからすひるがえるに似たり。まゆも口も鼻も取立ててうべきところあらず。頬はいたけて、まなこ窅然がっくりくぼみていたり。

 木綿袷もめんあわせ條柄しまがらも分かぬまでに着古したるを後褰しりからげにして、継々つぎつぎ股引ももひき泥塗どろまぶれ脚絆きゃはん煮染にしめたるばかりの風呂敷包ふろしきづつみを斜めに背負い、手馴てならしたる白櫧しらかしの杖と一蓋いっかい菅笠すげがさとをひざの辺りに引寄せつ。うまれ加州かしゅうざい、善光寺もうでみちなるよし

 天気は西のかた曇りて、東晴れたり。昨夜ゆうべの雨に甲板デッキは流るるばかり濡れたれば、乗客の多分おおくは室内にこもりたりしが、やがて日光の雲間を漏れて、今は名残なごり無く乾きたるにぞ、蟄息ちっそくしたりし乗客は、先を争いて甲板デッキあらわれたる。

 観音丸かんのんまるは船体しょうにして、下等室はわずかに三十余人をれて肩摩けんますべく、甲板デッキは百人をきてあまりあるべし。されば船室よりは甲板デッキこそ乗客を置くべき所にして、下等室は一個の溽熱むしあつ窖廩あなぐらに過ぎざるなり。

 このうちとどまりて憂目うきめを見るは、三人みたり婦女おんな厄介やっかい盲人めしいとのみ。婦女等おんなたちは船の動くととも船暈せんうんおこして、かつき、かつうめき、正体無く領伏ひれふしたる髪のみだれ汚穢けがれものまみらして、半死半生の間に苦悶せり。片隅なる盲翁めくらおやじは、いささかも悩める気色はあらざれども、話相手もあらで無聊ぶりょうえざる身を同じ枕に倒して、時々南無仏なむぶつ南無仏なむぶつと小声に唱名しょうみょうせり。

 抜錨ばつびょう後二時間にして、船は魚津に着きぬ。こは富山県の良港にて、運輸の要地なれば、観音丸かんのんまるは貨物を積まむために立寄りたるなり。

来るか、来るかと浜に出て見れば、浜の松風音ばかり。

 櫓声ろせいして高らかに唱連うたいつれて、越中まいを満載したる五六そうの船はこぎ寄せたり。

 俵の数は約二百俵、五十こく内外の米穀べいこくなれば、機関室も甲板デッキ空処あきも、隙間すきまなきまでに積みたる重量のために、船体はやや傾斜をきたして、吃水きっすいは著しく深くなりぬ。

 俵はほとんど船室の出入口をも密封したれば、さらぬだに鬱燠うついくたる室内は、空気の流通をさまたげられて、窖廩あなぐらはついに蒸風呂むしぶろとなりぬ。婦女等おんなたち苦悶くもん苦悶くもんを重ねて、人心地ひとごこちを覚えざるもありき。

 睡りたるか、覚めたるか、身動きもせでしたりし盲人めしいはやにわに起上りて、

「はてな、はてな。」とこうべを傾けつつ、物をもとむる気色けしきなりき。かたわらるは、さばかり打悩うちなやめる婦女おんなのみなりければ、かれ壁訴訟かべそしょうはついに取挙とりあげられざりき。盲人めしい本意ほい無げにつぶやけり。

「はてな、小用場こようばはどこかなあ。」

 なお応ずる者のあらざりければ、かれこうじ果てたる面色おももちにてしばらくもくせしが、やがておくしたる声音こわねにて、

「はい、もし、まこと申兼もうしかねましたが、小用場こようばはどこでございましょうかなあ。」

 かれくびべ、耳をそばだてておしえてり。答うる者はあらで、婦女おんなうめく声のみ微々ほそぼそと聞えつ。

 かれ居去いざりつつ捜寄さぐりよれば、たもとありて手頭てさきに触れぬ。

「どうも、はや御面倒でございますが、小用場こようばをお教えなすって下さいまし。はいまことに不自由な老夫おやじでございます。」

 かれ路頭ろとう乞食こつじきごとく、腰をかがめ、頭を下げて、あわれみを乞えり。されどもなお応ずる者はあらざりしなり。盲人めしいはいよいよ途方とほうに暮れて、

「もし、どうぞ御願でございます。はいどうぞ。」

 おずおずその袂をきて、惻隠そくいんこころを動かさむとせり。打俯うちふしたりし婦人おんな蒼白あおじろき顔をわずかにもたげて、

「ええ、もう知りませんよう!」

 むごくもたもとを振払いて、再び自家おのれの苦悩にもだえつ。盲人めしいはこの一喝いっかつひしがれて、くびすくめ、肩をすぼめて、

「はい、はい、はい。」


         中


 甲板デッキより帰来かえりきたれる一個の学生は、しつるよりその溽熱むしあつさ辟易へきえきして、

「こりゃひどい!」と眉をひそめて四辺あたりみまわせり。

 狼藉ろうぜきえりし死骸むくろてられたらむように、婦女等おんなたちさんを乱して手荷物の間によこたわれり。

「やあ、やあ! 惨憺さんたんたるものだ。」

 かれはこの惨憺みじめさと溽熱むしあつさとにおもてしわめつつ、手荷物のかばんうちより何やらん取出とりいだして、忙々いそがわしく立去らむとしたりしが、たちまち左右をかえりみて、

皆様みなさん、これじゃたまらん。ちと甲板かんぱんへおでなさい。涼しくッてどんなに心地こころもちいいか知れん。」

 これ空谷くうこく跫音きょうおんなり。盲人めいし急遽いそいそ声するかた這寄はいよりぬ。

「もし旦那様、何ともはやまこと申兼もうしかねましてございますが、はい、小用場こようばへはどちらへ参りますでございますか、どうぞ、はい。……」

 盲人めしい数多あまたたびかれの足下に叩頭ぬかづきたり。

 学生はかれが余りに礼の厚きをいぶかりて、

「うむ、便所かい。」とその風体ふうていを眺めたりしが、

「ああ、お前さん不自由なんだね。」

 かくと聞くより、盲人めしいは飛立つばかりによろこびぬ。

「はい、はい。不自由で、もう難儀をいたします。」

「いや、そりゃ困るだろう。どれ僕が案内してあげよう。さあ、さあ、手を出した。」

「はい、はい。それはどうも、何ともはや、勿体もったいもない、お難有ありがとう存じます。ああ、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏なむあみだぶつ。」

 やさしくも学生は盲人めしいたすけて船室をでぬ。

「どッこい、これから階子段はしごだんだ。気を着けなよ、それ危い。」

 かくて甲板デッキともないて、かれ痛入いたみいるまでに介抱かいほうせしのち

爺様じいさん、まあここにお坐り。下じゃたまらない、まるで釜烹かまうでだ。どうだい、涼しかろ。」

「はい、はい、難有ありがとうございます。これは結構で。」

 学生はそのかたわらに寝転びたる友に向いて言えり。

「おい、君、最少もすこしそっちへ寄ッた。この爺様じいさん半座はんざを分けるのだ。」

 かれは快くその席を譲りて、

「そもそも半座はんざを分けるなどとは、こういう敵手あいてつかやすい文句じゃないのだ。」

 かく言いてその友は投出したるひざてり。学生は天を仰ぎて笑えり。

「こんな時にでもつかわなくッちゃ、君なんざ生涯つかう時は有りゃしない。」

「とまず言ッてくさ。」

 盲人めしいはおそるおそるその席に割入わりこみて、

「はい真平御免まっぴらごめん下さいまし。はい、はい、これはどうも、お蔭様で助かりまする。いや、これは気持のい、とんと極楽でございます。」

 かれは涼風のきたるごとに念仏して、心ひそかに学生の好意をしゃしたりき。

 船室にりて憂目うきめいし盲翁めくらおやじの、この極楽浄土ごくらくじょうど仏性ほとけしょうの恩人と半座はんざを分つ歓喜よろこびのほどは、しるくもその面貌おももちと挙動とにあらわれたり。

「はい、もうお蔭様で老夫おやじめ助かりまする。こうして眼も見えませんくせに、大胆な、単独ひとりで船なんぞに乗りまして、他様はたさまに御迷惑を掛けまする。」

「まったくだよ、爺様じいさん。」

 と学生の友は打笑うちわらいぬ。盲人めしい面目めんぼくなげにかしらでつ。

「はい、はい、御尤ごもっともで。実はおかを参ろうと存じましてございましたが、ついこの年者としよりと申すものは、無闇むやみと気ばかりきたがるもので、一時いっときも早く如来様にょらいさまが拝みたさに、こんな不了簡ふりょうけんを起しまして。……」

「うむ、無理はないさ。」と学生はうなずきて、

「何も目が見えんからといって、船に乗られんという理窟りくつはすこしもない。盲人めくらが船に乗るくらいは別に驚くことはないよ。僕は盲目めくらの船頭に邂逅でッくわしたことがある。」

 その友はかれそびら一撃いちげきくらわして、

「吹くぜ、おかぶだ!」

 学生は躍起やっきとなりて、

「君の吹くぜもおかぶだ。実際ださ、実際僕の見た話だ。」

「へん、いざり人力挽じんりきひきおしの演説家に雀盲とりめの巡査、いずれも御採用にはならんから、そう思い給え。」

「失敬な! うそだと思うなら聞き給うな。僕は単独ひとりで話をする。」

単独ひとりで話をするとは、覚悟をめたね。その志に免じて一條ひとくさり聞いてやろう。その代りたばこを一本。……」

 眼鏡ごしに学生はかれにくさげに見遣みやりて、

「その口が憎いよ。何もその代りと言わんでも、れなられと。……」

れ!」とかれはそのてのひらを学生の鼻頭はなさき突出つきいだせり。学生はただちにパイレットのはこを投付けたり。かれはその一本を抽出ぬきいだして、燐枝マッチたもとさぐりつつ、

「うむ、それから。」

「うむ、それからもないもんだ。」

「まあそう言わずに折角せっかく話したまえ。謹聴々々きんちょうきんちょう。」

「その謹聴きんちょうきんの字は現金のきんの字だろう。」

いまつまびらかならず。」とその友はかしらりぬ。

「それじゃそのたばこんで謹聴きんちょうし給え。

 去年の夏だ、八田潟はったがたね、あすこから宇木村うのきむらへ渡ッて、能登のと海浜かいひんしょうさぐろうと思って、うちを出たのが六月の、あれは十日……だったかな。

 渡場わたしばに着くと、ちょうど乗合のりあいそろッていたので、すぐに乗込のりこんだ。船頭は未だなかッたが、ところ壮者わかいものだの、娘だの、女房かみさん達が大勢で働いて、乗合のりあい一箇ひとつずつおりをくれたと思い給え。見ると赤飯こわめしだ。」

塩釜しおがまよりはいい。」とその友は容喙まぜかえせり。

謹聴きんちょうの約束じゃないか。まあ聴き給えよ。見ると赤飯こわめしだ。」

「おや。二個ふたつもらッたのか。だから近来ちかごろはどこでも切符を出すのだ。」

 この饒舌じょうぜつこらさんとて、学生は物をも言わでこぶしげぬ。

あやまッた謝ッた。これから真面目まじめに聴く。よし、見ると赤飯こわめしだ。それはわかッた。」

「そこで……」

「食ったのか。」

「何を?」

「いや、よし、それから。」

「これはどういう事実だと聞くと、長年このわたしをやッていた船頭が、もう年を取ッたから、今度息子むすこを譲ッて、いよいよ隠居いんきょをしようという、このが老船頭、一世一代いっせいちだい漕納こぎおさめだというんだ。面白おもしろかろう。」

 かれの友は嗤笑せせらわらいぬ。

赤飯こわめしもらッたと思ってひどく面白がるぜ。」

「こりゃしからん! 僕が赤飯こわめしのために面白がるなら、君なんぞは難有ありがたがッていいのだ。」

「なぜなぜ。」とかれ起回おきかえれり。

「その葉巻はまきはどうした。」

「うむ、なるほど。面白い、面白い、面白い話だ。」

 かれは再び横になりて謹聴きんちょうせり。学生は一笑いっしょうしてのちくだんはなしを続けたり。

「そのいわい赤飯こわめしだ。その上に船賃ふなちんを取らんのだ。乗合のりあいもそれは目出度めでたいと言うので、いくらか包んでる者もあり、即吟そくぎんで無理に一句浮べる者もありさ。まあおもい思いにいわッてやったとおもいたまえ。」

 例の饒舌先生はまた呶々どゝせり。

「君は何を祝った。」

「僕か、僕は例の敷島しきしまの道さ。」

「ふふふ、むしろ一つのくせだろう。」

「何か知らんが、名歌だッたよ。」

「しかしうかがおう。何と言うのだ。」

 学生はしばらく沈思ちんしせり。その間に「年波としなみ」、「八重の潮路しおじ」、「渡守わたしもり」、「心なるらん」などの歌詞うたことばはきれぎれに打誦うちずんぜられき。かれはおのれの名歌を忘却ぼうきゃくしたるなり。

「いや、名歌めいかはしばらく預ッておいて、本文ほんもんかかろう。そうこうしているうちに船頭が出て来た。見ると疲曳よぼよぼ爺様じいさんさ。どうで隠居いんきょをするというのだから、老者としより覚悟かくごの前だッたが、その疲曳よぼよぼめくらなのには驚いたね。

 それがまたかんが悪いと見えて、船着ふなつきまで手をひかれて来る始末だ。無途方むてっぽうきわまれりというべしじゃないか。これで波の上をぐ気だ。みんなあきれたね。険難千方けんのんせんばんな話さ。けれどもかたの事だから川よりは平穏だから、万一まさかの事もあるまい、と好事ものずき連中れんじゅうは乗ッていたが、げた者も四五人はッたよ。僕も好奇心こうきしんでね、話のたねだと思ッたから、そのまま乗って出るとまた驚いた。

 実に見せたかッたね、その疲曳よぼよぼ盲者めくらがいざとッて櫓柄ろづかを取ると、仡然しゃっきりとしたものだ、まるで別人さね。なるほどこれはそのみちに達したものだ、と僕はおもッた。もとよりあのくらいのかただから、誰だッてげるさ、けれどもね、その体度たいどだ、その気力きあいだ、猛将もうしょうたたかいのぞんで馬上にさくよこたえたと謂ッたような、凛然りんぜんとしてうばうべからざる、いや実にその立派さ、未だに僕は忘れんね。人がわけのない事を(眠っていても出来る)と言うが、その船頭は全くそれなのだ。よく聞いて見ると、そのはずさ。この疲曳よぼよぼ盲者めくらたれとかす! 若い時には銭屋五兵衛ぜにやごへえかかえで、年中千五百石積こくづみを家として、荒海を漕廻こぎまわしていた曲者くせものなのだ。新潟から直江津ね、佐渡あたり持場もちばであッたそうだ。中年ちゅうねんから風眼ふうがんわずらッて、つぶれたんだそうだが、別に貧乏というほどでもないのに、舟をがんとめしうまくないという変物へんぶつで、疲曳よぼよぼ盲目めくらながら、つまり洒落しゃれ半分にわたしをやッていたのさ。

 乗合のりあい話好はなしずき爺様じいさんて、それが言ッたよ。上手な船頭は手先でぐ。巧者こうしゃなのは眼でぐ。それが名人となると、はらぐッ。これはおおいにそうだろう。沖で暴風はやてでもッた時には、一寸先は闇だ。そういう場合には名人ははらぐからたしかさ。

 生憎あいにくこの近眼だから、顔は瞭然はっきり見えなかッたが、咥煙管くわえぎせるで艪を押すその持重加減おちつきかげん あっぱ見物みものだッたよ。」

 饒舌じょうぜつ先生も遂に口をつぐみて、そぞろにきょうもよおしたりき。


         下


 魚津うおづより三日市みっかいち浦山うらやま船見ふなみとまりなど、沿岸の諸駅しょえきを過ぎて、越中越後の境なるせきという村を望むまで、陰晴いんせいすこぶる常ならず。日光の隠顕いんけんするごとに、そらの色はあるいは黒く、あるいはあおく、濃緑こみどりに、浅葱あさぎに、しゅのごとく、雪のごとく、激しく異状を示したり。

 ちかく水陸をかぎれる一帯の連山中に崛起くっきせる、御神楽嶽飯豊山おかぐらがたけいいとよさんの腰を十重二十重とえはたえめぐれる灰汁あくのごときもやは、揺曳ようえいしていただきのぼり、る見る天上にはびこりて、怪物などの今や時を得んずるにはあらざるかと、いとすさまじき気色けしきなりき。

 元来伏木ふしき直江津間の航路の三分の一は、はるかに能登半島の庇護ひごによりて、からくも内海うちうみ形成かたちつくれども、とまり以東は全く洋々たる外海そとうみにて、快晴の日は、佐渡島の糢糊もこたるを見るのみなれば、四面しめん淼茫びょうぼうとして、荒波あらなみやまくずるるごとく、心易こころやすかる航行は一年中半日も有難ありがたきなり。

 さるほどに汽船の出発は大事を取りて、十分に天気を信ずるにあらざれば、解纜かいらん見合みあわすをもて、かえりて危険のおそれすくなしとえり。されどもこの日の空合そらあいは不幸にして見謬みあやまられたりしにあらざるなきか。異状の天色てんしょくはますます不穏ふおんちょうを表せり。

 一時ひとしきり魔鳥まちょうつばさかけりし黒雲は全く凝結ぎょうけつして、一髪いっぱつを動かすべき風だにあらず、気圧は低落して、呼吸の自由をさまたげ、あわれ肩をもおさうるばかりに覚えたりき。

 疑うべき静穏せいおん! あやしむべき安恬あんてん 名だたる親不知おやしらずの荒磯に差懸さしかかりたるに、船体は微動だにせずして、たたみの上を行くがごとくなりき。これあるいはやがて起らんずる天変の大頓挫だいとんざにあらざるなきか。

 船は十一分の重量おもみあれば、進行極めて遅緩ちかんにして、糸魚川いといがわに着きしは午後四時半、予定におくるることおよそ二時間なり。

 陰〓(「日+(士/冖/一/一/口/一)」)たる空におおわれたる万象ばんしょうはことごとくうれいを含みて、海辺の砂山にいちじるき一点のくれないは、早くも掲げられたる暴風警戒けいかい球標きゅうひょうなり。さればや一そう伝馬てんまきたらざりければ、五分間もとどまらで、船は急進直江津に向えり。

 すわや海上の危機はせまるとおぼしく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、にぐるがごとく漕戻こぎもどしつ。観音丸かんのんまるにちかづくものは櫓綱ろづなゆるめて、この異腹いふくの兄弟の前途をきづかわしげに目送もくそうせり。

 やがてはるか能生のうを認めたるあたりにて、天色そらにわかに一変せり。──おかはなはだ黒く、沖は真白に。と見る間に血のごとき色はと流れたり。日はまさに入らんとせるなり。

 ここ一時間を無事に保たば、安危あんきの間をする観音丸かんのんまるは、つつがなく直江津にちゃくすべきなり。かれはその全力を尽して浪をりぬ。団々だんだんとして渦巻く煤烟ばいえんは、右舷うげんかすめて、おかかたなだれつつ、長く水面によこたわりて、遠く暮色ぼしょくまじわりつ。

 天は昏瞢こんぼうとしてねむり、海は寂寞じゃくまくとして声無し。

 甲板デッキの上は一時すこぶ喧擾けんじょうきわめたりき。乗客は各々おのおの生命を気遣きづかいしなり。されども渠等かれらいまだ風もすさまず、波もれざる当座とうざに慰められて、坐臥行住ざがぎょうじゅう思い思いに、雲をるもあり、水を眺むるもあり、とおくを望むもありて、その心には各々無限のうれいいだきつつ、惕息てきそくしておもてをぞ見合せたる。

 まさにこのときともかたあらわれたる船長せんちょうは、矗立しゅくりつして水先を打瞶うちまもりぬ。俄然がぜん汽笛の声は死黙しもくつんざきてとどろけり。万事休す! と乗客は割るるがごとくに響動どよめきぬ。

 観音丸かんのんまるは直江津に安着あんちゃくせるなり。乗客は狂喜の声をげて、甲板デッキの上におどれり。拍手はおびただしく、観音丸かんのんまる万歳! 船長万歳! 乗合のりあい万歳!

 八人の船子ふなこを備えたるはしけただちにこぎ寄せたり。乗客は前後を争いて飛移れり。学生とその友とはややりて出入口にあらわれたり。その友は二人分の手荷物をかかえて、学生は例の厄介者やっかいものを世話して、はしけに移りぬ。

 はしけくさりきて本船と別るる時、乗客は再び観音丸かんのんまると船長との万歳をとなえぬ。甲板デッキに立てる船長はぼうだっして、満面に微笑えみたたえつつ答礼せり。はしけ漕出こぎいだしたり。りくを去るわずかに三ちょう、十分間にして達すべきなり。

 折から一天いってんにわか掻曇かきくもりて、と吹下す風は海原を揉立もみたつれば、船は一支ひとささえささえず矢を射るばかりに突進して、無二無三むにむさんに沖合へ流されたり。

 舳櫓ともろを押せる船子ふなこあわてず、さわがず、舞上まいあげ、舞下まいさぐなみの呼吸をはかりて、浮きつ沈みつ、秘術を尽してぎたりしが、また一時ひときり暴増あれまさる風の下に、みあぐるばかりの高浪たかなみ立ちて、ただ一呑ひとのみ屏風倒びょうぶだおしくずれんずるすさまじさに、剛気ごうき船子ふなこ啊呀あなやと驚き、かいなの力を失うひまに、へさきはくるりと波にひかれて、船はあやうかたぶきぬ。

 しなしたり! とかれはますますあわてて、この危急に処すべき手段を失えり。得たりやと、波と風とはますますれて、このはしけをばもてあそばんとくわだてたり。

 乗合のりあいは悲鳴してうち騒ぎぬ。八人の船子ふなこかい無き櫓柄ろづかすがりて、

南無金毘羅大権現なむこんぴらだいごんげん!」と同音どうおんに念ずる時、どうあたりらいのごとき声ありて、

取舵とりかじ!」

 舳櫓ともろ船子ふなこは海上鎮護ちんごの神の御声みこえに気をふるい、やにわにをば立直して、曳々えいえい声をげてしければ、船は難無なんな風波ふうはしのぎて、今は我物なり、大権現だいごんげん冥護みょうごはあるぞ、と船子ふなこはたちまち力を得て、ここを先途せんどげども、せども、ますまするるなみいきおいに、人の力はかぎりりて、かれ身神しんしん全く疲労して、まさ昏倒こんとうせんとしたりければ、船は再びあやうく見えたり。

取舵とりかじ!」とらいのごとき声はさらに一喝いっかつせり。半死の船子ふなこ最早もはや神明しんめい威令いれいをもほうずるあたわざりき。

 学生の隣にすくみたりし厄介者やっかいもの盲翁めくらおやじは、このとき屹然きつぜんと立ちて、諸肌もろはだくつろげつつ、

取舵とりかじだい」と叫ぶと見えしが、早くもともかた転行ころげゆき、疲れたる船子ふなこの握れるを奪いて、金輪際こんりんざいより生えたるごとくに突立つったちたり。

「若いしゅおやじが引受けた!」

 この声とともに、船子ふなこはたたおれぬ。

 一そう厄介船やっかいぶねと、八人の厄介やっかい船頭と、二十余人の厄介やっかい客とは、この一個の厄介物やっかいものの手にりてたすけられつつ、半時間ののちその命を拾いしなり。このいてめしいなる活大権現かつだいごんげんは何者ぞ。かれはその壮時そうじにおいて加賀かが銭屋内閣ぜにやないかくが海軍の雄将ゆうしょうとして、北海ほっかいの全権を掌握しょうあくしたりし磁石じしゃく又五郎またごろうなりけり。

底本:「新潟県文学全集 第1巻 明治編」郷土出版社

   1995(平成7)年1026日発行

底本の親本:「泉鏡花全集1」岩波書店

初出:「太陽 創刊号」

入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース

校正:小林繁雄

2006年918日作成

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