木枯の酒倉から
聖なる酔っ払いは神々の魔手に誘惑された話
坂口安吾



発端


 木枯の荒れ狂う一日、僕は今度武蔵野に居を卜そうと、ただ一人村から村を歩いていたのです。物覚えの悪い僕は物の二時間とたたぬうちに其の朝発足した、とある停車場への戻り道を混がらがせてしまったのですが、根が無神経な男ですから、ままよ、いい処が見つかったらその瞬間から其処へ住んじまえばいいんだ、住むのは身体だけで事足りる筈なんだからとそう決心をつけて、それからはもう滅茶苦茶に歩き出したんです。ところが案外なもので(えてして僕のやることは失敗に畢るものですから)、見はるかす武蔵野が真紅に焼ける夕暮れという時分に途方もなく気に入った一つの村落を見つけ出したのです。夢ではないかと悦んで思わず快心の笑みを洩して居りますと村端れの一軒に突然物の破ける音がして、やがて荒れ狂う木枯にふわりと雨戸が一枚倒れるのを見ましたが、次の瞬間には真っ黒な塊が弾丸のように転げ出て、僕の方へまっしぐらに駈け寄ってくるのです。近づくのをよく見ますと、いやに僕によく似た──背が高く、毛髪は茫々とし、顔色は蒼白で、駈けてきた所為でもありましょうが、何となく疲労の色が額に漂っていて、妙チキリンなピジャマを着ているんです。一体こいつほんとに気狂いかしら、と無論僕はそう思いついたのですが、広い武蔵野の真ん中で紅々とただ二人照し出されてみますと、この怪物がばかに親密に見えるものですから、君、君、と僕は通りすぎるこの怪物を呼びとめました。ところがこの周章て者は僕の声などてんで耳に這入らないらしく尚も一散に弾となり地平線の向う側へ飛び去りそうに見えたものですから、僕も亦とっさにわあっというと一本の線になってこの男の跡を追いかけるような次第になったのですが──大根の四五本ぬき棄てられてある横っちょのあたりでやっとこの周章て者の腰のところへ武者振りつくと勢あまって二人諸共深々と黒い土肌へめり込んでしまったのです。顔の半ぺたを土にしてフウフウと息をつきながら夢からさめたもののようにポカンとしているこの周章て者に僕は又とぎれとぎれに詫を述べ、如何なる必然と偶然の力がかかる結果を招致するに至ったものであるかということを順を追うて説明いたしました。

 ──結局君はこの村に貸間又は貸家が存在するであろうかということを僕にききたかったんだね。

 と、話してみれば物分りのいい男で、心臓の動悸がようやくに止ったらしく、こう(顔の半ぺたを土にして)反問するのです。

 ──そうです、何か御心当りがありますかしら。

 と、僕はもうひどくこの周章て者に好意を感じ出していたのですが、物のはずみで拾いあげた大根をなで廻しながらこんな風にきいたのです。するとこの男は僕の言うことが呑み込めないのでしょうか(えて哲人は食物を食べるその理窟さえ分らないものだと言いますから)怪訝な顔をして、

 ──無いこともないが、かりにあったとして、君はそれをどうする心算なんだ。

 というのです。

 ──無論僕が住むんですがね。

 ──う、ぶるぶる、止した方がよろしいよ。

 ──何故ですか?

 ──う、ぶるぶるじゃよ。

 と彼は一きわ顔色を蒼く鋭くするのです。しかし彼は見かけによらぬ親切な男で、改めて僕を自分の宿(さっき雨戸を蹴倒して出てきたところです)へ案内すると、どうしても君はこの寒い村に居を構えるつもりであるかと尋ね、頑としてそうであると答えると、「尊公も亦呪われたる灰色じゃよ」と目を伏せながら、次のような笑うべき物語を語ってきかせたのです。木枯が窓を叩くたびに、う、ぶるぶると震えながら──


蒼白なる狂人の独白


 俺の行く道はいつも茨だ。──茨だけれど愉快なんだ。茨よりほかの物を、俺には想像ができなかったから。


 俺は禁酒を声明した。肉体的、経済的、ならびに味覚的に於てすら、酒そのものが俺にはけして愉快なる存在ではなかったからだ。無論禁酒を声明した程だから昔は酒を呑んだんだ。あべべい、酒は茨だねえ、不快極る存在じゃよ、と言いながら。

 酒は君、偉大なる人間の理性を痺らせるものじゃよ。酒はあぱぱいじゃ。汝の明朗なる人間的活動は忽ちにして神の如く曇るぞよ。おそれよ、おそれよ、という忠告は遺憾ながら俺の為にはペチシオ・プリンシピイの誤謬を犯している。

 俺の理性が痺れうるものならば──余は酒樽の冠を被り樫の大いなる觴を捧げ奉って、ロンサルの如くたちどころに神に下落するぞよ。

 ──愛する友よ。君は人間として甚だいたらん男じゃ。酒呑めば酒と化すことを、人間はその誇りとするものじゃよ。まま、ええさ。唄いかつ踊り、寂しげなる村々を巡礼して悩みを悦びの如く詩にあらわし、一文の喜捨にも往昔の騎士に似て丁重なる礼を返し、落日と共に塒を求めて山毛欅の杜へ消え去るのも一つの修業方法であるな。旅は人の心を空ッポにするものじゃよ。そのくせひどく感動しやすくなるもんだから、貴公のような鈍愚利でも時あれば泌むように酒が恋しくなるかも知れん。ああ! 酒呑まぬ男は猿にかも似ていると、うまいことを言うもんだねえ。サカシら人は、いやだねえ、ゲジゲジを思わせるよ、君。

 とわが友は暗澹たる顔をさらに深く曇らせてゲジゲジを払うもののように觴を振り廻すのだ。わが友は日本にたった一人の瑜伽行者ヨーギンだ。痩せさらぼうて樹下岩窟に苦行し百日千日の断食を常とするかのトモガラです。業成れば幻術の妙を極めて自在シジを得るところの、あれだ──が、俺の友達は酒樽の如く脂肪肥りの酔っ払いだ。呑んだくれの瑜伽行者もないもんじゃよ、君。

 ──余は断じて酒をやめるぞよ。と俺はその場で声明した。ひたすらに理性をみがき常に煩悶を反芻して、見よ煩悶の塊と化するぞよ。右も煩悶左も煩悶、前も後も煩悶じゃよ。目を開けば煩悶を見、物を思えば煩悶を思い、煩悶を忘れんとして煩悶に助けをかり、せっぱつまれば常に英雄の如くニタニタと笑いつつ、余は理性を鉾とし城として奮然死守攻撃し、やがて冷然として余の頭をも理性もてくびくくるであろう。見よ。

 ──余は断じて酒を止めるぞよ。

 と俺は断乎として声明したのだが──まあ待ち給え。聖なる俺の決心を永遠ならしむるために、も一度立ち戻って事のいきさつに詩的情緒の環をかけさせて呉れ給え。


 毎年のことだが、夏近くなると俺は酒倉へサヨナラをする。それというのが、夏は君、ペンペン草を我無者羅に俺達の酒倉へはやすからなんじゃよ。見給え。夏が来ると俺達の酒倉はペンペン草で背の半分を埋めてしまうのだ。酒倉の壁の罅からもペンペン草が頸を出す。同じ草が傾いた屋根の上では頭をふり、庭も亦一面にペンペン草の波なんだ。

 一体俺達の酒倉はこれでもれっきとした造り酒屋なんだけど、何分ここの亭主は自分の酒を自分一人であらかた呑みほしてしまうものだから、長い年月には母屋を呑み庭の立木を呑み(客ではない、無論亭主自身が呑んだんだ)、今では彼の寝室でありやがては棺桶であるところの破れほうけた酒倉がただ一つ残っているばかりだ。だから君、夏がきてペンペン草が酒倉の白壁の半分を包み隠してしまうとき、俺は呆然として無から有の出た奇蹟をば信ずるに至るのだけれど──君が見かけ程詩人なら、疑うべき筋合ではないのじゃよ。といったわけで、ペンペン草は生え放第に庭も道も一様に塗りつぶすものだから、俺は酒倉への出入にペンペン草に捲き込まれてとんだ苦労をしてしまうのだ。足をからむとか蛇をふみつけるとかしてわあっ! と及腰になりかかると、鼻孔にまぎれ込む奴もペンペン草であるし懐にガサガサとなる奴も──ああ何処をどうして潜り込んだのか背中で何か騒ぐ物があるのもみんなこのペンペン草なんだ。俺はううんと呻えたまま天高く両腕をつきあげて進退ここにきわまったという印をしてしまうのだ。すると真夏の太陽がカアンというあの変テコな沈黙でいやというほど俺の頭を叩きのめすものだから、俺は危く目をまわそうとするのじゃよ。おお光よ、おお緑よ、おおペンペン草よ、怖るべき力よ、俺の若き生命よ。余は緑なすペンペン草の如く太陽のあるところへ一目散に駈けてゆかねばならぬ。ああ酒は憎むべき灰色じゃよ、と俺は思うのだ。

 ──酒は頑としてサヨナラじゃよ。

 と、そこで俺は憤然として酒倉を脱走するのだ。「ああ太陽よ」とか「おお生命よ」とか、まあそういったことを喚きながら、俺は何分あまりにも興奮して酒倉を走り出るものだから、つい亦ペンペン草に足をとられて大概は四ん這いになり畢り、酒は実に灰色じゃよ、俺は頑としてそれを好まんよなどと叫びながら這い出してゆくのだった。

 すると酒倉の亭主は──先刻御承知の瑜伽行者だが──ペンペン草の間から垣間見える俺の尻を見送りながら、「木枯が吹いたら又おいでよ」と、ニタニタと笑うのだ、「木枯が吹いたら又おいでよ」と、ね。

 まことに木枯と酒と俺は因果な三角関係を持つものである──木枯は、恰も俺の活力を刺し殺すように酒倉のペンペン草を枯してしまうのだ。すると俺は──

 ああ! 俺は冬が大嫌いだあ!

 冬は──俺の心をさむざむと白く冷くするのじゃよ。寒気は俺の脳味噌をも氷らせるのだ。俺の一切の運転はハタと休止して──俺はペンペン草と一緒に、ここに果敢なく枯れ果ててしまうのだ。顔色はいうまでもなく蒼白となり、目は鈍くかがやき、脳味噌は──脳味噌という代物を余はひどく怖れるよ──脳味噌は、氷りついて動かないのだ。そこで俺は様々な手段を講じてぜひとも脳味噌を動かそうと勉めるのだ。俺の目はいみじくも光り輝き、額は痩せくたびれて、頭は唸りを生じ、俺は──ほがらかに気狂いになりそうな気がするのだ。俺の唇は酒を一滴も呑まぬのに呂律も廻らなくなって、ワハ、オモチロイヨ、などと言うのだ。こんな風にして、俺の身体は何かガラスのような脆い物質から出来ていて、どこかしら一寸でも動かしたが最後ピチピチと音がしてわれちまうような気になる。舌を出してさえゼンマイがくずれそうな気がするから(ああ、舌が出してみたいねえ)笑いたくてたまらないのだが──俺は断じて笑わんよ。武蔵野に展かれた宿の窓から、俺は時々頸をつき延して、怖るべき冬の情勢を探るのだ。すると、見渡す視野がばかに広茫と果もなくひろがってゆくのに、その都度瞠若として度胆を失ってしまうのだ。冬の広さを見ていると、俺は俺の存在が消えてなくなるように感じるものだから……

 ……こうして、木枯のうねりが亦一とうねり強くなると、俺はつい堪りかねて、ふっとあの酒倉を、思い出してしまうのだ。憎むべき酒よ、呪うべき酒樽よ、怖るべき冬よ、う、ぶるぶるよ。俺の恋心は果もなくつのって、俺の魂はいつの間にやら木枯の武蔵野を一ととびに、酒倉の戸の隙間から悪魔風な法式でふいとあの酒倉へもぐり込んでしまうのだ。すると酒倉の亭主は──

(ああ、彼の不愉快な幻術は、如何に俺を悩ますことか!)

 ──おもむろに觴をひねくりながら、まぎれ込んだ俺の魂をてもなく見破ってしまうのだ。彼は脂ぎった太くまん丸い顔をニタニタと笑わせる、そしてグイと一杯呑みほすと、いやに取り澄まして、やおら得意なる背亀坐ウッターナーサナを組み、おもむろに調息するのだ。見給え──彼は分身の術を用いて、さむざむと武蔵野に展かれた俺の窓から、脂ぎった顔のニタニタをぬっと現す。

 ──愛する友よ、寒さは人間の敵だねえ。彼等はかつてナポレオンをオロシヤに破り、転じては若きエルテルの詩人を伊太利に送り、澆季の今日に於ては純愚利の尊公をも酒倉へ送ろうとする。人間はかくの如く常に温かくあるべきじゃよ。その意味に於て尊公の心に萠し出でた本能の芽は聖なる鉢顛闍梨パタンジャリの三昧に比していささかも遜るところを見出しがたいのじゃよ。唵々オームオーム、(箆棒め)といったものじゃよ。

 と言うのだ。

 俺は憤然として何事かを絶叫しようと思うのだが、うかつに絶叫しては頤のゼンマイから必然的に頭のゼンマイへかけて狂い出す怖れを感じるものだから、絶望的なニヤニヤを笑って行者のニタニタを眺めているのだ。すると俺の心臓はひどく臆病になって次の一秒がばかに怖ろしく不気味に思われ沈黙に居堪らなくなり出すから、もうおさえ切れずにわあっ──と叫ぶと──

 一っぺんに階段を跳び降りて雨戸を蹴破ると、もう武蔵野の木枯を弾になって一条にころがっているのだ。

 わあ!

 助けて呉れえ、冬籠りだあ!

 と、かように声高く武蔵野を喚きながら、俺は酒倉の戸を踏み破って──

(俺達の酒倉では二十石の酒樽から酒をのむのじゃよ)

 ──二十石の酒樽を抱きかかえるようにしてグイグイ、ぐいぐいと酒の灰色を一息に(茨じゃよ)あおるのだ。木枯がペンペン草を吹き倒すとき、俺は毎年もとの酔っ払いに還元してしまうのだった。

 こうして俺、聖なる呑んだくれは、武蔵野の木枯が真紅に焼ける夕まぐれ足を速めて酒倉へ急ぐのだが──すると酒倉の横っちょには素っ裸の柿の木が一本だけ立っているのだ(君は勿論知るまいが──)。この柿は葉が落ちても柿の実の三つ四つをブラ下げて、泌むような影を酒倉の白壁へ落しているのだが──俺は毎日このまっかな柿の実へ俺の魂を忘れて、ふいと酒倉へもぐるのだ──と、こう思うのがせめても俺の口実なんだ。だから俺は安心して、あれとこれとは別物だけれど、まるで魂を注ぐように、酒樽にとびかかると、ぐいぐいぐいぐいと酒を魂を呑んじまうんだあ! 概して俺はこの酒倉で最もへべれけに酔っ払う男の唯一人で、酒倉の階段を踏みはずすと窖へ宙づるしにブラ下ったまま寝ちまうこともままあるのだ。そんな朝、目が覚めると、頭の下から足の方へ登ってゆく太陽を天麩羅だろうかと眺めるんだが……

 酒は憎むべき茨じゃよ、全く俺は毎夜ダブダブ酔っ払って呪いをあげるのだけど──冒頭にお話しした聖なる禁酒の物語はペンペン草の夏ではない、頑として木枯の真っただ中に(うう、ぶるぶる)行われたのじゃよ。それはそれは悲痛なものであったのだが、まあきき給え。


 ──愛する行者よ。と、俺は一夜鬱積した酒の呪にたまりかねて、幾杯目かの觴を呑みほしたとたんに、憎むべき行者の楽天主義オプチミスムを打破しようと論戦の火蓋を切ったのだ。

 ──愛する行者よ、鉢顛闍梨パタンジャリの学説は不幸にしてイマヌエル・カント氏に先立って生れたるが故にここにたまたま不運なる誤謬を犯すに至ったものであることを、余は尊公のために歎くものじゃよ。思うに尊公等岩窟断食の徒は人間能力の限界について厳正なる批判を下すべきことを忘却したがために、浅慮にも人間はつまり人間であることを忘れ恰も人間は何でもない如くに考え或は亦人間は何でもある如くに考えるのじゃよ。さればこそ尊公は酒と人間との区別を失い、酒は尊公の肋骨であり尊公は酒の肋骨……うむうむ、であるなぞと考えるのじゃ。げに恐るべき誤謬じゃよ。かるが故に──(と二十石の酒樽より酒をなみなみと受けて呑みほし)

 ──かるが故に尊公は又人間能力の驚嘆すべき実際を悟らずして徒に幻術をもてあそび、実は人間能力の限界内に於て極めて易々と実現しうべき事柄を恰も神通力によってのみ可能であるなぞと、笑うべき苦行をするのじゃ。見よ。余の如きは理性の掟に厳として従うが故に、ここに酒は茨となり木枯はまた頭のゼンマイをピチリといわせるのだけれども、余は亦理性と共に人間の偉大なる想像能力を信ずるが故に、尊公の幻術をもってしては及びもつかぬ摩訶不思議を行い古今東西一つとして欲して能わぬものはないのじゃ。世に想像の力ほど幻々奇怪を極め、神出鬼没なるものは見当らぬのじゃ。さればこそ乃公ダイコウの行く手はいつも茨だが、目をつむれば茨は茨ならずしてたちどころに虹となり、虹と見ゆれど茨は本来茨だから茨には違いないけれど亦虹なんじゃあ。しかし亦虹は茨──うう、面倒くさい話であるが(実際に於てかくの如く面倒であるのじゃよ)──だから余は断じて幸福であるのだ!

 と、酒樽にもたれて酔眼を見開き、勢あまって尚も口だけをパクパクと動かしていたのだが、行者はニタニタと笑いつつ面白そうに俺のパクパクを眺めながら焦燥アセらず周章てず尚も幾杯かを傾けてしばらく沈黙の後(ああ! 悲劇の前奏曲よ!)静かに鼻の頭をこすって、

 ──尊公は見下げ果てたる愚人じゃよ。(とおもむろに暗涙を流した)。かつて人間が神を創造して以来ここに人間の生活に於ては詩と現実との差別を生じ、現実は常に地を這う人間の姿を飛躍する能わず、詩はまた常に天を走れども地上の現実とは何等の聯絡を持つことを得なかったから、人間は徒に天と地の宙を漂い、せっぱつまって不幸なる尊公らは虚無と幸福とを混同するの錯覚におちいり、ジオゲネスは樽へ走り、アキレスは亀を追いかけ、小春治兵衛は天の網島、荘周は蝶となり、尊公のゼンマイははずれそうになるんじゃよ。ひとり淫乱の国天竺には現実を化して詩たらしめんとする聖なるトモガラが現れて、ここにカーマスツトラを生みアナアガランガをつくり常にリンガ・ヨオニに崇敬を払って怠ることがないから法悦極るところなく法を会得し、転じて一方には聖なる苦行断食の徒を生み出して彼等には幻術の妙果を与えるに至ったのじゃよ。されば我等の幻術は現実に於て詩を行い山師神々を放逐しサカシら人を猿となし酒呑めば酒となる真実の人間を現示せんとするものであるわい。いで──(と、行者は奇蹟的な丸顔をニタニタと笑わせながら立ちあがったんだ)

 ──いで空々しく天駈ける尊公の想像力を打ちひしぎ、地を這う人間そのものを即坐に詩と化す幻術の妙を事実に当ってお目にかけるよ。

 と、フウフウと酒気を吐きながら、しばらくは酒樽にもたれてフラフラと足下も定まらなかったが、おもむろに重心を失うと横にころげて鯉のようにビクビクと動くのだ。

 俺はもう行者の長談義の中途から全く退屈していたので、どうにと勝手になるようになれと、酒倉の壁にもたれて天井の蜘蛛の巣を見ていたが、酔ったせえでもあるのだろうか、ぼやけた蝋燭は数限りない陰々を投げて狂おしく八方へ舞いめぐり、さらでも朦朧とした俺の視界を漠然の中へ引きずりこんでしまうのだ。俺は木枯の響がヒュウとなって酒倉をくるくると駈けめぐるのをきいていたが──そのうちにみんな忘れて何もきこえなくなってしまった。

 それからものの五分もじっとそんな風にしていたのだろうか、ふと引く様な物音に我にかえると、それは嘗て耳に馴れない笛の音で唄うように鳴りひびいてくるものだから何事であろうかと目で探ると──俺は危くうわあっ! と呻えて酒樽に縋りつく所だった。一匹のコブラが頸のところをまんまるく膨ませ、立つように泳ぐように屈伸しながら、ぼやけた蝋燭にいやらしいその影を騒がせているのだ。それは音にきく熱国の蛇使いであろうか、白い回教徒頭巾チュルバンを頭にまいた銅色の男が酒樽の片影に坐を組んで太く節くれて光沢のある笛を吹いている……

 わあわあ、余は酔ったんだあ。断じて俺は酔っちまったぞ。と、俺は絶望して俺の頭を横抱きにかかえながら、せめて親友瑜伽行者は何処へ行ったんだ、助けて呉れえと眺めまわすと──亦しても俺はわあっ! と今度は笑いが爆発して今にも粉微塵と千切れ去るところだった。何という笑うべき恰好であろうか! 魁偉なる尻を天高く差しあげ、太い頸をその股にさし込むばかりにして匍匐するあの様は、あれが行者の得意なる背亀坐ウッターナーサナであるのか。それともむしろあの形よりおして瑜伽経に説く弓坐ダヌラーサナ孔雀坐マユラーサナの類でもあろうか。見れば股かげにその丸顔をもぐらせて相も変らずニタニタと笑わせながら、それでも流石に目を閉じて豆程もある脂汗をジタジタとわかせているのだ。

 蛇の踊りがこうして、何の変哲もなくものの五分も続いていたろうか。すると俺は、ひどく酔ったせえで目のまわりに白い靄がかかったんだと、そう思ったのだ──周章てて目のマワリをこすったのだが、模糊とした靄は一向に消えようともせず、今度は何となくフワフワと渦を巻いて見えるから──ああ俺は遺憾なく酔っちまったんだと匙を投げて拳骨をふりあげた、すると──だだだ、何たる事だ! ゆらめく靄はするりと縮んで忽ちに一つの塊におさまったと思ううちに不思議な香気が鼻にまつわったような気がしたが、ばかに一面が気持よく澄み渡ったようだと思いついた時には、もう目の向うに波羅門の銅色の娘が綺麗な裸体でねそべっているのを見出していた──娘はひどく自由な、物なれた物腰でゆるやかに立ちあがると、すぐ自分の横にそびえたつ魁偉なる尻の塔を眺めていたが(べつにおかしくはないとみえて、俺のようにゲタゲタと笑いくずれやしないのだ)、やがて、ひどく懐かしい表情をすると、恋人を抱くように行者の頸に手をやって、蛇のような腕をするするとまわした……

 ああ! 酒は憎むべき灰色だ! 呪うべき酒の毒よ!

 と、俺は怒り心頭に発して跳ね起きると(起きあがる急速なる一瞬間に、娘の腕のふうわりとした中で行者のニタニタがなおニタニタと深く笑うのを眺めたのだが──)、ああ! 呪うべき酒よ! 呪うべき幻術よ! と俺は狂気の如く行者の丸顔(そのときも股のとなりにあった)にとびかかると娘の腕を跳ねのけて太くたくましいその頸筋をむんずと掴んでぐいぐいと絞めつけたのだ──恐らくその瞬間には娘も蛇も蛇使いも消えて其処には居なかったのであろうが──けれども行者は、なおも娘に頸をまかれているかのように快くニタニタと脂の玉を浮べるのだ。

 ──わあっ! 余は断じて酒を止めたぞよ! 余は断乎として……わあっ!

 と叫ぶと俺は行者の頸を離れ、自分の頭を発止とかかえてガンガンとじだんだ踏んだが、あらゆる見当を見失ってわあっ! と一声うめえたまま──二十石の酒樽の周囲を木枯よりも尚速くくるくるくるくるとめぐり初めたのであった。余は煩悶の塊じゃよ、余の行く道は茨じゃよ、前も後も煩悶じゃよ、煩悶を忘れんとして煩悶──

 わあっ!

 と俺は跳ねあがって(ああ何十辺酒樽の周りをまわったか)バッタリと立ち竦んだまましばらくは外を吹く木枯の呻きに耳傾けていたのだが、猛然と心を決め、グワンと扉を蹴倒すと荒れ狂う木枯の闇へ舞うように踊りこんでしまったのだ。俺がただ一条に転げてゆく闇のうしろでは、今蹴倒した扉から酒倉へかけて津波のように木枯の吹き込んだ音をききながら、

 ──俺は断じて酒を止めたんだあ!

 ──もう一滴も呑まないんだあ!

 ──助けてくれえ!

 と武蔵野を越え木枯をつんざいて叫びながら──辛うじて下宿の二階へ辿りつくと空しい机の木肌に縋りついて。

 ──く、苦しい! 助けてくれえ、喉がかわいた! 酒を呉れえ! 酒だ酒だ!

 とかようにもがきながら、反吐を吐きくだしてしまったのだ。


 俺の禁酒は、結局悲劇にもならずに笑うべき幕をおろした。悶々の情に胸つぶし狂おしく掻い口説くのは一人恋人だけであるということを、呪われたる君よ、知らなければならぬのじゃ。冬はあまりにも冷たすぎるものじゃよ。

 だから(聖なる決心よ!)俺はうなだれて武蔵野の夕焼を──ういうい、酒倉へ、酒倉へ行ったんだ! 断乎として禁酒を声明したあの一夜から、数えてみて丁度三日目の夕暮れだった。俺の目は落ち窪み、頬はげっそりと痩せ衰えて、喉はブルブルと震えていたが。ややともすれば俺は木枯に吹き倒されて、その場でそのまま髑髏サレコウベにもなりそうに思いながら、ようやく酒倉へ辿りついてその白壁をポクポクと叩いたんだ。

 俺の悄然たるその時の姿は、「帰れる子」の抱腹すべき戯画であり、換言すれば下手糞な、鼻もちならぬ交響楽を彷彿させるそれら「さ迷える魂」の一つであったと、行者は後日批評している。とにかく俺はようやくにして二十石の酒樽に取り縋ると物も言い得ず灰色の液体を幾度も幾度も口へ運んだ。ああ幾度も幾度も……そんな風にして俺の神経の細い線が、一本ずつ浮き出てくるのを感ずる程呑みほしたのだが──酒は本来俺にとって何等味覚上の快感をもたらさないのだ。むしろ概して苦痛を与える場合が多いのだし、それに酒はむしろ俺を冷静に返し、とぎ澄まされた自分の神経を一本ずつハッキリと意識させるのだけれど──それでいて漠然と俺の外皮をなで廻る温覚は俺をへべれけに酔っ払わしているのだった。だから俺は酒に酔うのは自分ではなく何か自分をとりまく空気みたいなものが酔っちまうんだと思っているのだが──そんなことを思い当てるときは、きまって足腰もたたない程酔いしれているのだ。

 俺はぐいぐいと、どれ程の酒を呑みほしたものであろうか。益〻冴える神経の線が例の模糊とした靄につつまれてゆくのを感じながらふと我にかえると、思わず俺はわあっ! と──いや、もはや俺は物に驚く力をも忘れた木念人であったから、朦朧たる目を見開いて、見開いても暫くはさだかに見定まらないので、わしぁ驚かんよ。勝手にしろよ。とフラフラと動いたのだ。

 俺達の酒倉はいつの間にか緑したたる熱国の杜に変っていた。見涯もつかぬ広い緑は、あれはみんな魂のるような、葉の厚ぽったい、あんな樹々だ。菩提樹、沙羅樹、椰子、アンモラ樹。緑をわたる風のサヤサヤにガサツな音を雑える奴は、あれは木の葉ではない、地べたに密生する丈長い草──ペンペン草ではありませんよだ──これは梵語にクサと呼ぶ草で印度に繁る雑草だった。クサの繁みに一きわ白くそびえ立つ円塔は、あれは聖なる卒塔婆であろうかと目をすえると──ああ、これは背亀坐ウッターナーサナを組む行者のグロテスクな尻であったから、俺は思わず敬虔なる心をさえ起すところであったのだ。

 もしや婆羅門の「いらつめ」「いらつこ」が古い日本の嬥歌かがいさながらに木々を縫うていはしまいかと奥深く杜をうかがったのだけれど、渡るものは風ばかりで、それでも気のせいか、何か遠くさんざめく物声にもききとれた。見るほどに、見渡す限り樹々を渡る、風の冴えた沈黙ばかりだ。

 ──わしは幻術を好まぬよ。(と俺はフラフラと立ち上った)。木枯の如く酒の如く呪うべきものは幻術じゃよ。緑なす菩提樹よ、椰子よ、沙羅樹よ、アンモラ樹よ、これも亦甚しくわしの気に入らんよ。俺の行く道は常に愉快なる茨じゃよ。(ああ、俺は何と歎くべき小人であろうか!)、ああ愛すべき茨よ!

 と、尚も俺はフラフラと、ひどく陽気に歩き出し、クサを踏みわけて幾度も転げながらあのパゴダ──行者の御尻です──に辿りつくと、呪われたる尻よ、とこれを平手でピシャピシャと叩いたのだ。すると行者は尚も幻術に無念無想で、股にもぐした丸顔には例の脂汗とニタニタが命懸けにフウフウと調息しているのだった。

 ──余は断じて尊公の尻を好まんよ。

 と、俺も詮方なくニヤニヤと空しい尻に笑いかけながら尚暫く叩いていたが、やがて退屈して酒樽へ戻ろうと足のフラフラを踏みしめて叢の中へわけ入ったのだが──(ああ、これも呪うべき行者の幻術であろうか)叢に秘められた階段に足踏みはずして、酒倉の窖へ真っ逆様に転り込むと、何のたわいもなく、俺は気絶してしまったのだ──。


附記

 この小説は筋もなく人物も所も模糊として、ただ永遠に続くべきものの一節であります。僕の身体が悲鳴をあげて酒樽にしがみつくように、僕の手が悲鳴をあげて原稿用紙を鷲づかみする折に、僕の生涯のところどころに於てこの小説は続けらるべきものと御承知下さい。僕は悲鳴をあげたくはないのです。しかし精根ここにつきて余儀なければしゃあしゃあとして悲鳴を唄う曲芸も演じます。

底本:「坂口安吾選集 第一巻小説1」講談社

   1982(昭和57)年712日第1刷発行

底本の親本:「黒谷村」竹村書房

   1935(昭和10)年6

初出:「言葉 第二号」

   1931(昭和6)年11日発行

入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース

校正:富田晶子

2016年99日作成

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