伊勢之巻
泉鏡花



 昔男と聞く時は、今もゆかしき道中姿。その物語に題は通えど、これはあずまの銭なしが、一年ひととせ思いたつよしして、参宮を志し、かすみとともに立出でて、いそじあまりを三河国みかわのくに、そのから衣、ささおりの、安弁当のいわしの名に、紫はありながら、杜若かきつばたには似もつかぬ、三等の赤切符。さればお紺の婀娜あだも見ず、弥次郎兵衛やじろべえ洒落しゃれもなき、初詣ういもうでの思い出草。宿屋のすずりを仮寝の床に、みちの記の端に書き入れて、一寸ちょいと御見ごけんに入れたりしを、正綴ほんとじにした今度の新版、さあさあかわりました双六すごろくと、だませば小児衆こどもしゅも合点せず。伊勢は七度ななたびよいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも三度目みたびめじゃと、いわれてお供に早がわり、いそがしかりける世渡りなり。

  明治三十八乙巳年十月吉日

鏡花



「はい、貴客あなたもしお熱いのを、お一つ召上りませぬか、何ぞおあがりなされて下さりまし。」

 伊勢国古市ふるいちから内宮ないぐうへ、ここぞあいの山の此方こなたに、ともしびの淋しい茶店。名物赤福餅あかふくもちの旗、如月きさらぎのはじめ三日の夜嵐に、はたはたと軒をゆすり、じりじりと油が減って、早や十二時になんなんとするのに、客はまだ帰りそうにもしないから、その年紀頃としごろといい、容子ようすといい、今時の品のい学生風、しかも口数を利かぬ青年なり、とても話対手はなしあいてにはなるまい、またしないであろうと、断念あきらめていたが、たまり兼ねてまず物優しく言葉をかけた。

 宵から、灯も人声も、往来ゆききの脚も、この前あたりがちょうど切目で、後へ一町、前へ三町、そこにもかしこにも両側の商家軒を並べ、半襟と前垂まえだれの美しい、ねえさんがたもとを連ねて、かたのごとく、お茶あがりまし、お休みなさりまし、おまんま上りまし、お饂飩うどんもござりますと、なまめかしく呼ぶ中を、頬冠ほっかむりやら、高帽やら、菅笠すげがさかぶったのもあり、脚絆きゃはんがけに借下駄かりげたで、革鞄かばんを提げたものもあり、五人づれやら、手をいたの、一人で大手を振るもあり、笑い興ずるぞめきにまじって、トンカチリと楊弓ようきゅう聞え、諸白もろはくかんするごとの煙、両側のひさしめて、処柄ところがらとて春霞はるがすみ、神風に靉靆たなびく風情、の影も深く、浅く、奥に、表に、千鳥がけに、ちらちらちらちら、吸殻も三ツ四ツ、つちこぼれて真赤まっかな夜道を、人脚しげにぎやかさ。

 花の中なる枯木こぼくと観じて、独り寂寞じゃくまくとして茶を煮るおうな、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の後胤こういんか、北畠きたばたけ殿の落武者か、お杉お玉の親類のはずを、思いもかけぬ上客じょうかくにん引手夥多ひくてあまた彼処かしこを抜けて、目の寄る前途さきき抜けもせず、立寄ってくれたので、国主こくしゅ見出みいだされたほど、はじめ大喜びであったのが、あかりが消え、犬がえ、こうまた寒い風を、欠伸あくびで吸うようになっても、まだ出掛けそうな様子も見えぬので。

「いかがでございます、おしゃくをいたしましょうか。」

「いや、構わんでもい、大層お邪魔をするね。」

 ともの優しい、客は年の頃二十八九、眉目秀麗びもくしゅうれい瀟洒しょうしゃ風采ふうさいねずの背広に、同一おなじ色の濃い外套がいとうをひしとまとうて、茶の中折なかおれを真深う、顔をつつましげに、脱がずにいた。もしこの冠物かむりものが黒かったら、余りほおが白くって、病人らしく見えたであろう。

 こっくりした色に配してさえ、寒さのせいか、屈託でもあるか、顔の色がくないのである。銚子ちょうしは二本ばかり、早くから並んでいるのに。

 赤福のもちの盆、煮染にしめの皿も差置いたが、猪口ちょくも数をかさねず、食べるものも、かの神路山かみじやま杉箸すぎばしを割ったばかり。

 客は丁字形ていじけいに二つ並べた、奥の方の縁台に腰をかけて、てのひらうなじおさえて、俯向うつむいたり、腕をこまぬいて考えたり、足を投げて横ざまに長くなったり、小さなしかも古びた茶店の、薄暗い隅なるかたに、その挙動ふるまい朦朧もうろうとして、身動みうごきをするのが、余所目よそめにはまるで寝返ねがえりをするようであった。

 また寝られてなろうか!

「あれ、お客様まだこっちのお銚子もまるでお手が着きませぬ。」

 と婆々は片づけにかかる気で、前の銚子をかたえけようとして心付く、まだずッしりと手にこたえて重い。

「お燗を直しましょうでござりますか。」

 顔をのぞき込むがごとくに土間に立った、物腰のしとやかな、婆々は、客の胸のあたりへその白髪頭しらがあたまを差出したので、おもてを背けるようにして、客はかたながめると、店頭みせさきかまに突込んで諸白の燗をする、大きな白丁はくちょうの、中が少くなったが斜めに浮いて見える、上なる天井から、むッくりと垂れて、一つ、くるりと巻いたのは、たこの脚、夜の色こまやかに、寒さにてたか、いぼがあおい。



 涼しいひとみを動かしたが、中折なかおれの帽のひさしの下からすかして見た趣で、

「あれをちっとばかりくれないか。」と言ってまたおもてを背けた。

 深切なは、ひざのあたりに手を組んで、客の前にかがめていた腰をして、ゆびさされた章魚たこを見上げ、

旦那様だんなさま、召上りますのでござりますか。」

「ああ、そして、もう酒は沢山だから、おまんまにしよう。」

「はいはい、……」

 身を起して背向うしろむきになったが、庖丁ほうちょうを取出すでもなく、縁台の彼方あなたの三畳ばかりの住居すまいへ戻って、薄い座蒲団ざぶとんかたわらに、ちらばったように差置いた、煙草たばこの箱と長煙管ながぎせる

 片手でちょっと衣紋えもんを直して、さて立ちながら一服吸いつけ、

「旦那え。」

「何だ。」

「もう、お無駄でござりまするからおしなさりまし、第一あれは余り新しゅうないのでござります。それにお見受け申しました処、そうやって御酒ごしゅもおあがりなさりませず、滅多にはしをお着けなさりません。何ぞ御都合がおありなさりまして、わしどもにお休み遊ばします。時刻ときちまするので、ただ居てはと思召おぼしめして、婆々に御馳走ごちそうにあなた様、いろいろなものをお取り下さりますように存じます、ほほほほほ。」

 わらいとともに煙を吹き、

「いいえ、お一人のお客様には難有過ありがたすぎましたほどもうかりましてございまする。大抵のお宿銭ぐらい頂戴をいたします勘定でござりますから、わたくしどもにもう一室ひとま、別座敷でもござりますなら、お宿を差上げたい位に、はい、もし、存じまするが、旦那様。」

 婆々はかまちに腰を下して、前垂まえだれに煙草の箱、煙管を長く膝にしながら、今こうわれて、急に思い出したように、箸のさきを動かして、赤福の赤きを顧みず、煮染にしめの皿の黒い蒲鉾かまぼこを挟んだ、客と差向いに、背屈せこごみして、

「旦那様、決してあなた、勿体もったいない、お急立せきたて申しますわけではないのでござりますが、もし、お宿はおきまり遊ばしていらっしゃいますかい。」

 客はものいわず。

一旦いったんどこぞにお宿をお取りの上に、お遊びにお出掛けなさりましたのでござりますか。」

「何、山田の停車場ステエションから、直ぐに、右内宮道ないぐうみちとある方へ入って来たんだ。」

「それでは、当伊勢はおれ遊ばしたもので、この辺には御親類でもおありなさりますという。──」と、婆々は客の言尻ことばじりについて見たが、その実、土地馴れぬことは一目見ても分るのであった。

「どうして、親類どころか、定宿じょうやどもない、やはり田舎ものの参宮さ。」

「おや!」

 と大きく、

「それでもよく乗越しておいでなさりましたよ。この辺までいらっしゃいます前には、あの、まあ、伊勢へおいで遊ばすお方に、山田が玄関なら、それをお通り遊ばして、どうぞこちらへと、お待受けの別嬪べっぴんが、おそでを取るばかりにして、御案内申します、お客座敷と申しますような、おしとねを敷いて、花をけました、古市があるではござりませぬか。」

 客は薄ら寒そうに、これでもと思うさまかん出来立できたてのをいで、猪口ちょくを唇にもたらしたが、においいだばかりでしばらくそのまま、持つ内につめたくなるのを、飲む真似まねして、重そうにとんと置き、

「そりゃ何だろう、山田からずッと入ると、遠くに二階家を見たり、目の前に茅葺かやぶきあらわれたり、そうかと思うと、足許あしもとに田の水が光ったりする、その田圃たんぼも何となく、おおきな庭の中にわざとこしらえた景色のような、なだらかな道を通り越すと、坂があって、急に両側が真赤まっかになる。あすこだろう、店頭みせさき雪洞ぼんぼりやら、軒提灯のきぢょうちんやら、そこは通った。」



「はい、あの軒ごと、ごと、むこう三軒両隣と申しました工合ぐあいに、玉転たまころがし、射的だの、あなた、賭的かけまとがござりまして、山のように積んだ景物の数ほど、あかりが沢山きまして、いつも花盛りのような、にぎやかな処でござります。」

 客は火鉢に手をかざし、

「どの店にも大きな人形を飾ってあるじゃないか、赤い裲襠しかけを着た姐様ねえさんもあれば、向う顱巻はちまきをした道化もあるし、牛若もあれば、弥次郎兵衛やじろべえもある。屋根へ手をかけそうな大蛸おおだこが居るかと思うと、腰蓑こしみの村雨むらさめが隣の店に立っているか、下駄屋にまで飾ったな。みんな極彩色だね。中にあの三間間口げんまぐち一杯の布袋ほていが小山のような腹を据えて、仕掛けだろう、福相な柔和な目も、人形が大きいからこの皿ぐらいあるのを、ぱくりとっちゃ、手に持った団扇うちわをばさりばさり、往来をあおいで招くが、道幅の狭い処へ、道中双六どうちゅうすごろくで見覚えの旅の人の姿が小さいから、吹飛ばされそうです。それに、墨の法衣ころもの絵具が破れて、肌の斑兀まだらはげの様子なんざ、余程すごい。」

まねき善悪よしあしでござりまして、姫方や小児衆こどもしゅうこわいとおっしゃって、旅籠屋はたごやうなされるお方もござりますそうでござりまする。それではお気味が悪くって、さっさと通り抜けておしまいなされましたか。」

つまらないことを。」

 客は引緊ひきしまった口許くちもとに微笑した。

「しかし、土地にも因るだろうが、奥州の原か、飛騨ひだの山で見た日には、気絶をしないじゃ済むまいけれど、伊勢というだけに、何しろ、電信柱に附着くッつけた、ペンキぬりの広告まで、土佐絵を見るような心持のする国だから、赤い唐縮緬とうちりめんを着た姐さんでも、京人形ぐらいには美しく見える。こっちへ来るというので道中も余所よそとは違って、あの、長良川、揖斐川いびがわ、木曾川の、どんよりと三条みすじ並んだ上を、晩方通ったが、水が油のようだから、汽車の音もしないまでに、かささぎの橋をすべって銀河あまのがわを渡ったと思った、それからというものは、夜にってこの伊勢路へかかるのが、何か、雲の上の国へでも入るようだったもの、どうして、あの人形に、心持を悪くしてなるものか。」

「これは、旦那様だんなさまお世辞のい、土地をめられまして何より嬉しゅうござります。で何でござりまするか、一刻も早く御参詣ごさんけいを遊ばそう思召おぼしめしで、ここらまで乗切っていらっしゃいました?」

「そういうわけでもないが、伊勢音頭を見物するつもりもなく、古市より相の山、第一名がいではないか、あいの山。」

 客は何思いけん手をほおにあてて、片手で弱々と胸をいだいたが、

「おばあさん、昔から聞馴染ききなじみの、お杉お玉というのは今でもあるのか。」

「それはござりますよ。ついこの前途さきをたらたらと上りました、道で申せばまず峠のような処に観世物みせものの小屋がけになって、やっぱり紅白粉べにおしろいをつけましたのが、三味線さみせんでお鳥目ちょうもくを受けるのでござります、それよりは旦那様、前方さきに行って御覧じゃりまし、川原に立っておりますが、三十人、五十人、橋を通行ゆききのお方から、おあしつぶてを投げて頂いて、手ン手に長棹ながざおさきへ網を張りましたので、宙で受け留めまするが、秋口蜻蛉とんぼの飛びますようでござります。橋のたもとには、女房達が、ずらりと大地に並びまして、一文二文に両換りょうがえをいたします。さあ、この橋が宇治橋と申しまして、内宮様ないぐうさまへ入口でござりまする。川は御存じの五十鈴川いすずがわ、山は神路山かみじやま。その姿の優しいこと、気高いこと、尊いこと、清いこと、この水に向うて立ちますと、人膚ひとはだ背後うしろから皮をとおして透いて見えます位、急にも流れず、よどみもしませず、なみの立つ、瀬というものもござりませぬから、色も、あおくも見えず、白くも見えず、緑のふちにもなりませず、一様に、ほんの水色というのでござりましょ。

 渡りますと、それから三千年の杉の森、神代かみよから昼も薄暗い中を、ちらちらと流れまする五十鈴川を真中まんなかに、神路山がつつみまして、いつもしずかに、神風がここから吹きます、ここに白木造しろきづくりの尊いお宮がござりまする。」



内宮ないぐうでいらっしゃいます。」

 を挙げて白髪の額に頂き、

「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる、自然ひとりでつむりが下りまする。お帰りには二見ふたみヶ浦、これは申上げるまでもござりませぬ、五十鈴川の末、向うの岸、こっちの岸、枝の垂れた根上り松にもやいまして、そこへ参る船もござります。船頭たちがなぜ素袍すおうを着て、立烏帽子たてえぼしかぶっていないと思うような、尊い川もござりまする、女のきますくるまもござります、ちょうど明日は旧の元日。初日の出、」

 いいかけて急にひざを。

「おお、そういえば旦那様だんなさま、お宿はどうなさります思召おぼしめし

 成程、おっしゃりました名のとおり、あなた相の山までいらっしゃいましたが、この前方さきへおいでなさりましても、い宿はござりません。後方あと古市ふるいちでござりませんと、旦那様方がお泊りになりまする旅籠はござりませんが、何にいたしました処で、もし、ここのことでござりまする、必ず必ずおき立て申しますではないのでござりまするけれども、お早く遊ばしませぬと、おとまりが難しゅうござりますので。

 はい、いつもまあこうやって、大神宮様のおかげで、繁昌はんじょうをいたしまするが、旧の大晦日おおみそかと申しますと、諸国の講中こうじゅう道者どうじゃ行者ぎょうじゃしゅ、京、大阪は申すに及びませぬ、夜一夜、古市でおこもりをいたしまして、元朝、宇治橋を渡りまして、貴客あなた、五十鈴川で嗽手水うがいちょうず、神路山を右に見て、杉の樹立こだちの中を出て、御廟おたまやの前でほのぼのとしらみますという、それから二見ヶ浦へ初日の出を拝みに廻られまする、大層な人数。

 旦那様お通りの時分には、玉ころがしの店、女郎屋のかどなどは軒並のきなみ戸がいておりましてございましょうけれども、旅籠屋は大抵戸を閉めておりましたことと存じまする。

 どの家も一杯で、客が受け切れませんのでござります。」

 婆々はひしひし、大手の木戸に責め寄せたが、

「しかし貴客あなた、三人、五人こぼれますのは、旅籠はたごやでも承知のこと、相宿でも間に合いませぬから、廊下のはずれのかこいだの、数寄すき四阿あずまやだの、主人あるじ住居すまいなどで受けるでござりますよ。」

 と搦手からめてを明けて落ちよというなり。

 けれども何の張合もなかった、客は別に騒ぎもせず、さればって聞棄ききずてにもせず、なん機会きっかけもないのに、小形の銀の懐中時計をぱちりと開けて見て、無雑作に突込つッこんで、

「お婆さん、勘定だ。」

「はい、あなた、もし御飯おまんまはいかがでござります。」

 客は仰向あおむいて、あらたに婆々の顔を見て莞爾かんじとした。

「いや、実は余り欲しくない。」

「まあ、ソレ御覧ごろうじまし、それだのに、いかなこッても、酢蛸すだこあがりたいなぞとおっしゃって、夜遊びをなすって、とんだ若様でござります。どうして婆々が家の一膳飯いちぜんめしがお口に合いますものでござります。ほほほほ。」

「時に、三由屋みよしやという旅籠はあるね。」

「ええ、古市一番の旧家で、第一等の宿屋でござります。それでも、今夜あたりは大層なおひとでござりましょ。あれこれとおっしゃっても、まず古市では三由屋で、その上に講元こうもとのことでござりまするから、お客は上中下とも一杯でござります。」

「それは構わん。」といって客は細く組違えていた膝を割って、二ツばかり靴の爪尖つまさきを踏んで居直った。

「まあ、何ということでござります、それでは気をむではなかったに、先へ誰方どなたぞお美しいのがいらしって、三由屋でお待受けなのでござりますね。わざと迷児まいごになんぞおなり遊ばして、うござります、翌日あすは暗い内から婆々が店頭みせさきに張番をして、芸妓げいこさんとでも腕車くるまで通って御覧じゃい、おのぞみの蛸の足を放りつけて上げますに。」と煙草きせるを下へ、手ですくって、土間から戸外そとへ、……や……ちょっと投げた。トタンに相の山から戻腕車もどりぐるま、店さきを通りかかって、軒にはたはたと鳴る旗に、フトかじを持ったまま仰いでとまる。

車夫くるまや。」

「はい。」となまめかしい声、婦人おんなが、看板をつけたのであった、古市組合。



「はッ。」

 古市ふるいち名代なだいの旅店、三由屋みよしやの老番頭、次のの敷居際にぴたりと手をつき、

「はッ申上げまするでございまする。」

 上段の十畳、一点のよごれもない、月夜のような青畳、紫縮緬むらさきちりめんふッくりとある蒲団ふとんに、あたかもその雲に乗ったるがごとく、すみれの中から抜けたような、よそおいこらした貴夫人一人。さも旅疲たびづかれさま見えて、鼠地ねずみじの縮緬に、麻の葉鹿の子の下着の端、なまめかしきまでひざななめに、三枚襲さんまいがさね着痩きやせのした、撫肩なでがたの右を落して、前なる桐火桶きりひおけの縁に、ひきつけた火箸ひばしに手をかけ、片手をほっそりと懐にした姿。衣紋えもんの正しく、顔の気高きに似ず、見好みよげに過ぎて婀娜あだめくばかり。眉の鮮かさ、色の白さに、美しき血あり、清き肌ある女性にょしょうとこそ見ゆれ、もしその黒髪の柳濃く、生際はえぎわさっかすんだばかりであったら、えがける幻と誤るであろう。袖口そでくち八口やつくちもすそこぼれて、ちらちらと燃ゆる友染ゆうぜんの花のくれないにも、絶えず、一叢ひとむらの薄雲がかかって、つつましげに、その美を擁護するかのごとくである。

 岐阜ぎふ県××町、──里見稲子さとみいなこ、二十七、と宿帳に控えたが、あえてしるすまでもない、岐阜の病院の里見といえば、家族雇人やからうから一同神のごとくに崇拝する、かつて当家の主人あるじが、難病を治した名医、且つ近頃三由屋が、株式で伊勢のに設立した、銀行の株主であるから。

 晩景、留守を預るこの老番頭にあてて、津に出張中の主人あるじから、里見氏の令夫人参宮あり、丁寧に宿を参らすべき由、電信があったので、いかに多数の客があっても、必ず、一室ひとまを明けておく、内証の珍客のために控えの席へ迎え入れて、とどこおりなく既に夕餉ゆうげを進めた。

 されば夫人が座のかたわら、肩掛、頭巾ずきんなどを引掛ひっかけた、衣桁いこうきわには、萌黄もえぎ緞子どんす夏衾なつぶすま、高く、柔かに敷設けて、総附ふさつき塗枕ぬりまくら枕頭まくらもとには蒔絵まきえものの煙草盆たばこぼん、鼻紙台も差置いた、上に香炉を飾って、呼鈴よびりんまで行届ゆきとどき、次の間の片隅には棚を飾って、略式ながら、薄茶の道具一通。火鉢にはかまの声、はるかに神路山の松に通い、五十鈴川のながれに応じて、初夜も早や過ぎたる折から、ここの行燈あんどうとかしこのランプと、ただもう取交とりかえるばかりの処。

「ええ、奥方様、あなた様にお客にござりまして。」

 優しい声で、

「私に、」と品よく応じた。

「はッ、あなた様にお客来きゃくらいにござりまする。」

 夫人はしとやかに、

誰方どなただね、お名札なふだは。」

「その儀にござりまする。お名札をと申しますと、生憎あいにく所持せぬ、とかようにおっしゃいまする、もっともな、あなた様おつきおそうござりましたで、かれこれ十二時。もう遅うござりますに因って、御一人旅の事ではありまするし、さようなお方は手前どもにおいでがないと申して断りましょうかとも存じましたなれども、たいせつなお客様、またどのような手落になりましても相成らぬ儀と、お伺いに罷出まかりでましてござりまする。」

 番頭は一大事のごとく、固くなって、御意を得ると、夫人は何事もない風情、

「まあ、何とおっしゃる方。」

「はッ立花様。」

「立花。」

「ええ、おわかいお人柄な綺麗きれいな方でおあんなさいまする。」

「そう。」とかろくいって、莞爾にっこりして、ちょっと膝を動かして、少し火桶を前へ押して、

「ずんずんいらっしゃればいのに、あの、お前さん、どうぞお通し下さい。」

「へい、よろしゅうござりますか。」

 おとがいの長い顔をぼんやりと上げた、余り夫人の無雑作なのに、ちと気抜けのていで、立揚たちあがる膝が、がッくり、ひょろりと手をつき、苦笑にがわらいをして、再び、

「はッ。」



 やがて入交いりかわって女中が一人いちにん、今夜の忙しさに親類の娘が臨時手伝という、娘柄こがらい、つまはずれの尋常なのが、

「御免遊ばしまし、あの、御支度はいかがでございます。」

 夫人この時は、後毛おくれげのはらはらとかかった、江戸紫の襟に映る、雪のようなうなじ此方こなたに、背向うしろむき火桶ひおけ凭掛よりかかっていたが、かろく振向き、

「ああ、もう出来てるよ。」

「へい。」と、その意を得ない様子で、三指みつゆびのままつむりを上げた。

 事もなげに、

「床なんだろう。」

「いいえ、お支度でございますが。」

「御飯かい。」

「はい。」

「そりゃおまいとうに済んだよ。」と此方こなたも案外な風情、あまり取込とりこみにもの忘れした、旅籠屋はたごやの混雑が、おかしそうに、莞爾にっこりする。

 女中はまた遊ばれると思ったか、同じく笑い、

「奥様、あの唯今ただいまのお客様のでございます。」

「お客だい、誰も来やしないよ、おまい。」と斜めに肩ごしに見遣みやったまま打棄うっちゃったようにもののすッきり。かえすことばもなく、

「おや、おや。」と口のうち、女中はきまりの悪そうに顔を赤らめながら、変な顔をして座中をみまわすと、誰も居ないでしんとして、かまの湯がチンチン、途切れてはチンという。

 手持不沙汰てもちぶさたに、後退あとじさりにヒョイと立って、ぼんやりとしてふすまがくれ、

「御免なさいまし。」と女中、立消えのていになる。

 見送りもせず、夫人はちょいと根の高い円髷まるまげびんに手をさわって、金蒔絵きんまきえ鼈甲べっこうくしを抜くと、指環ゆびわの宝玉きらりと動いて、後毛を掻撫かいなでた。

 廊下をばたばた、しとしとと畳ざわり。襖に半身を隠して老番頭、呆れ顔の長いのを、もたげるがごとく差出したが、急込せきこんだ調子で、

「はッ。」

 夫人は蒲団ふとんに居直り、薄い膝に両手をちゃんと、なまめかしいが威儀正しく、

「寝ますから、もうお構いでない、お取込の処を御厄介ねえ。」

「はッはッ。」

 遠くから長廊下をけて来た呼吸いきづかい、番頭は口に手を当てて打咳うちしわぶき、

「ええ、混雑ごたごたいたしまして、どうも、その実に行届ゆきとどきません、ひらに御勘弁下さいまして。」

「いいえ。」

「もし、あなた様、希有けうでござります。確かたった今、わたくしが、こちらへお客人をお取次申しましてござりましてござりまするな。」

「そう、立花さんという方が見えたっておいだったよ。どうかしたの。」

「へい、そこで女どもをもちまして、お支度の儀を伺わせました処、誰方どなたもお見えなさりませんそうでござりまして。」

「ああ、そう、誰もいらっしゃりやしませんよ。」

「はてな、もし。」

「何なの、お支度ッて、それじゃ、今着いた人なんですか、内に泊ってでもいて、宿帳で、私のいることを知ったというような訳ではなくッて?」

「何、もう御覧のとおり、こちらは中庭を一ツ、橋懸はしがかりで隔てました、一室ひとま別段のお座敷でござりますから、さのみ騒々しゅうもございませんが、二百余りの客でござりますで、宵の内はまるで戦争いくさ、帳場のはたにも囲炉裡いろりきわにも我勝われがちで、なかなか足腰も伸びません位、野陣のじん見るようでござりまする。とてもどうもこの上お客の出来る次第ではござりませんので、早く大戸を閉めました。帳場はどうせ徹夜よあかしでござりますが、十二時という時、腕車くるまが留まって、かどをお叩きなさいまする。」



「お気の毒ながらと申して、お宿を断らせました処、つれが来て泊っている。ともかくも明けい、とおっしゃりますについて、あの、入口の、たいてい原ほどはござります、板の間が、あなた様、道者衆どうじゃしゅう充満いっぱいで、足踏あしぶみも出来ません処から、かまちへかけさせ申して、帳場の火鉢を差上げましたような次第で、それから貴女様あなたさまがお泊りのはず、立花が来たと伝えくれい、という事でござりまして。

 早速お通し申しましょうかと存じましたなれども、こちら様はお一方ひとかた、御婦人でいらっしゃいます事ゆえ念のために、わたくしお伺いに出ました儀で、直ぐにという御意にござりましたで、引返ひっかえして、御案内。ええ、唯今ただいまの女が、廊下をお連れ申したでござります。

 女が、貴女様このお部屋へ、その立花様というのがお入り遊ばしたのを見て、取って返しましたで、折返して、お支度の程を伺わせに唯今差出しました処、何か、さような者は一向お見えがないと、こうおっしゃいます。またお座敷には、奥方様のほか誰方どなたもおいでがないと、目を丸くして申しますので、何を寝惚ねぼけおるぞ、てまえが薄眠い顔をしておるで、お遊びなされたであろ、なぞと叱言こごとを申しましたが、女いいまするには、なかなか、洒落しゃれを遊ばす御様子ではないと、真顔でござりますについて、ええ、何より証拠、土間を見ましてございます。」

 いいかけて番頭、片手敷居越に乗出して、

「トその時、おあがりになったばかりのお穿物はきものが見えませぬ、洋服でおあんなさいましたで、靴にござりますな。

 さあ、居合せましたもの総立そうだちになって、床下までのぞきましたが、どれも札をつけて預りました穿物ばかり、それらしいのもござりませぬで、希有けうじゃと申出しますと、いや案内に立った唯今の女は、見す見す廊下をさきへ立って参ったというて、あおくなって震えまするわ。

 いここわがりましてこちらへよう伺えぬと申しますので、手前駈出かけだして参じましたが、いえ、もし全くこちら様へは誰方もおいでなさりませぬか。」と、おだやかならぬ気色である。

 夫人、するりと膝をずらして、後へ身を引き、座蒲団の外へ手の指をそらしてくと、膝をすべった桃色の絹のはんけちが、つま折端おりはしへはらりとこぼれた。

いやだよ、串戯じょうだんではないよ、穿物がないんだって。」

「御意にござりまする。」

「おかしいねえ。」と眉をひそめた。夫人の顔は、コオトをかけた衣裄いこうの中に眉暗く、洋燈ランプの光のくまあるあたりへ、魔のかげがさしたよう、円髷まげの高いのも艶々つやつやとして、そこに人が居そうな気勢けはいである。

 畳から、手をもぎ放すがごとくにして、身を開いて番頭、固くなって一呼吸ひといきつき、

「で、ござりまするなあ。」

「お前、そういえば先刻さっき、ああいって来たもんだから、今にその人が見えるだろうと、火鉢の火なんぞ、つッついていると、何なの、しばらくすると、今のねえさんが、ばたばた来たの。次ののそこへちらりと姿を見せたっけ、私はお客が来たと思って、ことばをかけようとする内に、直ぐせわしそうに出て行って、今度来た時には、突然いきなり、お支度はって、お聞きだから、変だと思って、誰も来やしないものを。」とさもいぶかしげに、番頭の顔をじっと見ていう。

 いよいよ、きょとつき、

「はてさて、いやどうも何でござりまして、ええ、廊下を急足いそぎあしにすたすたお通んなすったと申して、成程、跫音あしおとがしなかったなぞと、女は申しますが、それは早や、気のせいでござりましょう。なにしろ早足で廊下を通りなすったには相違ござりませぬ、さきへ立って参りました女が、せいせい呼吸いきを切って駈けまして、それでどうかすると、背後うしろから、そのお客の身体からだが、ぴったり附着くッつきそうになりまする。」

 番頭は気がさしたか、そっと振返って背後うしろを見た、かまの湯はたぎっているが、ちり一つ見当らず、こういう折には、余りに広く、且つ余りに綺麗きれいであった。

「それがために二三度、足が留まりましたそうにござりまして。」



「中にはその立花様とおっしゃるのが、剽軽ひょうきんな方で、一番ひとつ三由屋をお担ぎなさるのではないかと、申すものもござりまするが、この寒いに、戸外おもてからお入りなさったきり、洒落しゃれにかくれんぼを遊ばす陽気ではござりません。殊に靴までお隠しなさりますなぞは、ちと手重ておも過ぎまするで、どうも変でござりまするが、お年紀頃としごろ御容子ごようすは、先刻さっき申上げましたので、その方に相違ござりませぬか、お綺麗な、品のい、面長おもながな。」

「全く、そう。」

「では、その方は、さような御串戯ごじょうだんをなさる御人体ごじんていでござりますか、立花様とおっしゃるのは。」

「いいえ、大人おとなしい、沢山たんと口もきかない人、そして病人なの。」

 そりゃこそと番頭。

「ええ。」

「もう、大したことはないんだけれど、一時ひとしきりは大病でね、内の病院に入っていたんです。東京で私が姉妹きょうだいのようにした、さるお嬢さんの従兄子いとこでね、あの美術、何、彫刻師ほりものしなの。国々を修行に歩行あるいている内、養老の滝を見た帰りがけに煩って、宅で養生をしたんです。二月ばかり前から、大層、よくなったには、よくなったんだけれど、まだ十分でないッていうのに、かないでまた旅へ出掛けたの。

 私が今日こちらへ泊って、翌朝あしたまいりをするッてことは、かねがね話をしていたから、大方旅行先たびさきから落合って来たことと思ったのに、まあ、お前、どうしたというのだろうね。」

「はッ。」

 というと肩をすぼめてこうべを垂れ、

「これは、もし、旅で御病気かも知れませぬ。いえ、別に、貴女様あなたさま身体からだ仔細しさいはござりませぬが、よくそうしたことがあるものにござります。はい、何、もうお見上げ申しましたばかりでも、奥方様、お身のまわりへは、寒い風だとて寄ることではござりませぬが、御帰宅の後はおこころにかけられて、さきざきお尋ね遊ばしてお上げなされまし、これはその立花様とおっしゃる方が、親御、御兄弟より貴女様を便りに遊ばしていらっしゃるに相違ござりませぬ。」

 夫人はこれを聞くうちに、差俯向さしうつむいて、両方引合せた袖口そでくちの、襦袢じゅばんの花に見惚みとれるがごとく、打傾いて伏目ふしめでいた。しばらくして、さも身に染みたように、肩を震わすと、後毛おくれげがまたはらはら。

「寒くなった、私、もう寝るわ。」

御寝ぎょしなります、へい、唯今ただいま女中おんなを寄越しまして、お枕頭まくらもともまた、」

「いいえ、煙草たばこは飲まない、お火なんか沢山。」

「でも、その、」

「あの、しかしね、間違えて外の座敷へでも行っていらっしゃりはしないか、気をつけておくれ。」

「それはもう、きっと、まだ、方々見させてさえござりまする。」

「そうかい、此家うちは広いから、また迷児まいごにでもなってると悪い、可愛い坊ちゃんなんだから。」とぴたりと帯に手を当てると、帯しめの金金具きんかなぐが、指の中でパチリと鳴る。

 先刻さっきから、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、

「ええ、さようならばおしずかに。」

「ああ、御苦労でした。」と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめがゆるんだか、絹足袋の先へ長襦袢、右のつまがぞろりと落ちた。

「お手水ちょうず。」

「いいえ、寝るの。」

「はッ。」と、いうと、腰を上げざまにふすまを一枚、直ぐに縁側へすべって出ると、呼吸いきこらして二人ばかり居た、こわいもの見たさのてあい、ばたり、ソッと退気勢けはい

「や。」という番頭の声に連れて、足もすそともえに入乱るるかのごとく、廊下を彼方あなたへ、隔ってまた跫音あしおと、次第に跫音。このしおに、そこら中の人声をさらえて退いて、はてはるか戸外おもて二階の突外とっぱずれの角あたりと覚しかった、三味線さみせんがハタとんだ。

 聞澄ききすまして、里見夫人、もすそを前へさばこうとすると、うっかりした褄がかかって、引留められたようによろめいたが、衣裄いこうに手をかけ、四辺あたりみまわし、向うの押入をじっと見る、まぶたさっと薄紅梅。



 煙草盆たばこぼんまくら、火鉢、座蒲団ざぶとんも五六枚。

(これは物置だ。)と立花は心付いた。

 はじめは押入と、しかしそれにしては居周囲いまわりが広く、破れてはいるが、むしろか、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしないかこいなぞの荒れたのを、そのまま押入につかっているのであろう、身を忍ぶのはあつらえたようであるが。

(待て。)

 案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるがはやいか、ものをいうよりはまず唇のおののくまで、不義ではあるが思う同士。目を見交みかわしたばかりで、かねて算した通り、一先ひとまず姿を隠したが、心のやみより暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目がれたせいであろう。

 立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦まちあぐんでいるのであった。

(まず、し。)

 とふすまそっと身を寄せたが、うかつに出らるるすうでなし、ことばをかけらるる分でないから、そのまま呼吸いきを殺してたたずむと、ややあって、はらはらときぬ音信おとない

 目前めさきみちがついたように、座敷をよぎる留南奇とめぎかおり、ほのゆかしく身に染むと、彼方かなたも思う男の人香ひとかに寄るちょう、処をたがえず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、

「立花さん。」

「…………」

「立花さん。」

 襖の裏へ口をつけるばかりにして、

いんですか。」

「まだよ、まだ女中が来るッていうから少々、あなた、靴まで隠して来たんですか。」

 表に夫人の打微笑うちほほえむ、目も眉も鮮麗あざやかに、人丈ひとたけやみの中に描かれて、黒髪の輪郭が、細く円髷まげくぎってあかるい。

 立花も莞爾にっこりして、

「どうせ、だますくらいならと思って、外套がいとうの下へ隠して来ました。」

うまく行ったのね。」

「旨くきましたね。」

「後で私を殺してもいから、もうちと辛抱なさいよ。」

「おいなさん。」

「ええ。」となつかしい低声こごえである。

「僕は大空腹。」

「どこかで食べて来たはずじゃないの。」

「どうして貴方あなたうまで、おまんま咽喉のどへ入るもんですか。」

「まあ……」

 黙ってしばらくして、

「さあ。」

 手を中へ差入れた、紙包をそっと取って、その指がからむ、手と手を二人。

 へだての襖は裏表、両方の肩でされて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、さみしく顔を見合せた、トタンに跫音あしおと、続いて跫音、夫人は退いて小さなしわぶき

 さそくに後をひしと閉め、立花はたなそこに据えて、ひとみを寄せると、軽くひねった懐紙ふところがみ二隅ふたすみへはたりと解けて、三ツうつくしく包んだのは、菓子である。

 と見ると、白とくれないなり。

「はてな。」

 立花は思わず、ひざをついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かならず、低いか、高いか、さだかでないが、何となく暗夜やみよの天まで、布一重ひとえ隔つるものがないように思われたので、やや急心せきごころになって引寄せて、そでを見ると、着たままで隠れている、外套がいとうの色がほのかに鼠。

 菓子の色、紙の白きさえ、ソレかと見ゆるに、仰げば節穴かと思うあかりもなく、その上、座敷から、し入るような、透間すきますこしもないのであるから、驚いて、ハタと夫人の賜物たまものを落して、その手でじっとまなこおおうた。

 立花は目よりもまず気を判然はっきりと持とうと、両手で顔を蔽う内、まさに人道を破壊しようとする身であると心付いて、やにわに手を放して、その手で、胸を打って、がばとまなこを開いた。

 なぜなら、今そうやってひざまずいたなりは、神に対し、仏に対して、ものを打念うちねんずる時の姿勢であると思ったから。

 あわれ、覚悟の前ながら、最早もはや神仏を礼拝し得べき立花ではないのである。

 さて心がら鬼のごとき目をみひらくと、余り強くおもてを圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、はるかに且つかすかに、しかも細く、耳のはたについて、震えるよう。

 それも心細く、その言う処を確めよう、先刻さきに老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処いどころ安堵あんどせんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れてた。

 人の妻と、かかるすべして忍び合うには、く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命いのちのないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命いのちよりは便たよりにしたのであるが。

 こはいかにたなそこは、いたずらくうでた。

 あわただしくちょうと目の前へ、一杯に十指を並べて、左右にやみ掻探かいさぐったが、遮るものは何にもない。

 さては、やみの中に暗をかさねて目をふさいだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、と今度はかいなを差出すようにしたが、それも手ばかり。

 はッと俯向うつむき、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。

 かっと逆上のぼせて、たまらずぬっくり突立つッたったが、南無三なむさん物音が、とぎょッとした。

 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫せきばくとして、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省ふせいならんとする、瞬間に異ならず。

 同時に真直まっすぐに立った足許に、なめし皮の樺色かばいろの靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然ぞっとした。

 靴が左から……ト一ツとまって、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。

 たとえば歩行の折から、爪尖つまさきを見た時と同じさまで、前途ゆくてへ進行をはじめたので、啊呀あなやと見る見る、二けんげん

 十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方かなたに隔るのが、どうして目に映るのかと、あやしむ、とあらず、歩を移すのはかれ自身、すなわち立花であった。

 茫然ぼうぜん

 世に茫然という色があるなら、四辺あたりの光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、みちもない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似てつめたからず、朧夜おぼろよかと思えば暗く、東雲しののめかと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓こたつやぐらの形など左右、二列ふたならびに、不揃ぶぞろいに、沢庵たくあんたるもあり、石臼いしうすもあり、俎板まないたあり、灯のない行燈あんどうも三ツ四ツ、あたかも人のない道具市。

 しかもその火鉢といわず、臼といわず、枕といわず、行燈といわず、一斉に絶えずかすかゆらいで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸いきのあるはことごとく死して、かかる者のみただよう風情、ただソヨとの風もないのである。



 そのうちに最も人間に近く、頼母たのもしく、且つ奇異に感じられたのは、唐櫃からびつの上に、一個八角時計の、仰向あおむけに乗っていた事であった。立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴をちかづけて差覗さしのぞいたが、ものの影を見るごとき、四辺あたりは、針の長短と位地を分ち得るまでではないのに、判然はっきりと時間が分った。しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明あざやかにその数字さえかぞえられたのは、一点、蛍火ほたるびの薄く、そしてまたたきをせぬのがあって、胸のあたりから、ななめに影を宿したためで。

 手を当てるとつめたかった、光が隠れて、たなそこに包まれたのは襟飾えりかざりの小さな宝石、時に別に手首を伝い、雪のカウスに、ちらちらとの間からす月の影、露のこぼれたかと輝いたのは、けだ手釦てぼたんの玉である。不思議と左を見詰めると、この飾もまた、光を放って、かいなを開くと胸がまたきらめきはじめた。

 この光、ただに身に添うばかりでなく、土に砕け、宙に飛んで、みどりちようの舞うばかり、目に遮るものは、うすも、おけも、皆これ青貝摺あおがいずりうつわひとしい。

 一足進むと、歩くに連れ、身の動くに従うて、さっと揺れ、ぱっと散って、星一ツ一ツ鳴るかとばかり、白銀しろがね黄金こがね、水晶、珊瑚珠さんごじゅ透間すきまもなくよろうたるが、月に照添うに露たがわず、されば冥土よみじの色ならず、真珠のながれを渡ると覚えて、立花は目が覚めたようになって、姿を、判然はっきりと自分をながめた。

 我ながら死してはえある身の、こは玉となって砕けたか。待て、人の妻と逢曳あいびきを、と心付いて、こうべれると、再び真暗まっくらになった時、更に、しかし、身はまだ清らかであると、気を取直して改めて、青く燃ゆる服の飾を嬉しそうに見た。そして立花は伊勢は横幅の渾沌こんとんとして広い国だと思った。宵の内通った山田から相の山、茶店で聞いた五十鈴川、宇治橋も、神路山も、縦に長く、しかも心に透通るように覚えていたので。

 その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花がいたずらに、黒白あやめも分かず焦りもだえた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり前途ゆくての路に、たもといて、厚いふきかかとにかさねた、二人、同一おなじ扮装いでたちわらわ

 竪矢たてやの字の帯の色の、沈んであかきさえしたためられたが、一度ひとたび胸をおおい、手をこまぬけば、たちどころに消えて見えなくなるであろうと、立花は心に信じたので、騒ぐさまなくじっと見据えた。

「はい。」

「おむかいに参りました。」

 駭然がくぜんとして、

「私を。」

内方うちかたでおっしゃいます。」

「お召ものの飾から、光のすお方を見たら、お連れ申して参りますように、お使つかいでございます。」とかわがわるいって、向合って、いたいたけにそでをひたりと立つと、真中まんなかに両方からき据えたのは、そのおもて銀のごとく、四方あたかも漆のごとき、一面の将棋盤。

 白き牡丹ぼたんの大輪なるに、二ツ胡蝶こちょうの狂うよう、ちらちらと捧げてく。

 今はたとい足許が水になって、神路山の松ながら人肌を通すながれに変じて、胸の中に舟をもやう、烏帽子えぼし直垂ひたたれをつけた船頭なりとも、乗れとなら乗る気になった。立花はめず、おくせず、驚破すわといわば、手釦てぼたん、襟飾を隠して、あらゆるものを見ないでおこうと、胸を据えて、しずか女童めのわらわに従うと、空はらはらと星になったは、雲の切れたのではない。霧の晴れたのではない、かれが飾れる宝玉の一叢ひとむら樹立こだちの中へ、さかさま同一おなじ光を敷くのであった。

 ここに枝折戸しおりど

 戸は内へ、左右から、あらかじめ待設けた二にんの腰元の手に開かれた、垣は低く、女どもの高髷たかまげは、一対に、地ずれの松の枝より高い。


十一


「どうぞこれへ。」

 椅子いすを差置かれた池のみぎわ四阿あずまやは、瑪瑙めのうの柱、水晶のひさしであろう、ひたと席に着く、四辺あたりは昼よりもあかるかった。

 その時打向うた卓子テエブルの上へ、わらわは、そっくだんの将棋盤を据えて、そのまま、陽炎かげろうもつるるよりも、身軽に前後して樹の蔭にかくれたが、枝折戸しおりどを開いた侍女こしもとは、二人とも立花の背後うしろに、しとやかに手をひざに垂れて差控えた。

 立花は言葉をかけようと思ったけれども、我を敬うことかくのごときは、打ちつけにものをいうべき次第であるまい。

 そこで、卓子にひじをつくと、青く鮮麗あざやか燦然さんぜんとして、異彩を放つ手釦てぼたんの宝石を便たよりに、ともかくもこまを並べて見た。

 王将、金銀、けいきょう、飛車、角、九ツの、数はかかる境にもちがいはなかった。

 やがて、自分のを並べ果てて、対手あいての陣も敷き終る折から、異香ほのぼのとして天上の梅一輪、遠くここに薫るかと、はるかの間をれ来る気勢けはい

 円形の池を大廻りに、みどりの水面に小波ささなみ立って、二房ふたふさ三房みふさ、ゆらゆらと藤のなみさかしまみぎわに映ると見たのが、次第にちかづくと三人の婦人であった。

 やがて四阿の向うに来ると、二人さっと両方に分れて、同一おなじさまに深く、お太鼓の帯の腰を扱帯しごきも広くかがむる中を、しずかと抜けて、早や、しとやかに前なる椅子に衣摺きぬずれのしっとりする音。

 と見ると、藤紫に白茶の帯して、白綾しろあや衣紋えもんかさねた、黒髪のつややかなるに、鼈甲べっこう中指なかざしばかり、ずぶりと通した気高き簾中れんじゅう。立花は品位に打たれて思わずかしらが下ったのである。

 ものの情深なさけぶかく優しき声して、

「待遠かったでしょうね。」

 一言いちげんあたかも百雷耳にとどろく心地。

「おお、もう駒を並べましたね、あいかわらず性急せっかちね、さあ、貴下あなたから。」

 立花はあたかも死せるがごとし。

「私からはじめますか、立花さん……立花さん……」

 正にこの声、たしかにその人、我が年紀とし十四の時から今に到るまで一日も忘れたことのない年紀上としうえの女に初恋の、その人やがて都の華族に嫁して以来、十数年間一度ひとたびもその顔を見なかった、絶代ぜつだい佳人かじんである。立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、幾年月いくとしつき、寝てもさめても、夢に、うつつに、くりかえしくりかえしいかに考えても、また逢う時にいい出づべきことばいまだ知らずにいたから。

 さりながら、さりながら、

「立花さん、これが貴下あなたのぞみじゃないの、天下晴れて私とこの四阿で、あの時分九時半から毎晩のように遊びましたね。その通りにこうやって将棊しょうぎを一度さそうというのが。

 そうじゃないんですか、あら、あれお聞きなさい。あの大勢の人声は、みんな、貴下の名誉を慕うて、この四阿へ見に来るのです。御覧なさい、あなたがお仕事が上手になると、のぞみもかなうし、そうやってお身体からだも輝くのに、何が待遠くって、道ならぬ心を出すんです。

 こうして私と将棊をさすより、余所よその奥さんと不義をするのがのぞみなの?」

 と手をのばして、立花が握りしめた左のこぶしを解くがごとくに手を添えつつ、

「もしもの事がありますと、あの方もお可哀かわいそうに、もうきてはおられません。あなたを慕って下さるなら、私も御恩がある。そういうあなたが御料簡ごりょうけんなら、私が身をててあげましょう。一所になってあげましょうから、よその方に心得違こころえちがいをしてはなりません。」と強くいうのが優しくなって、はては涙になるばかり、念被観音力ねんぴかんのんりき観音の柳の露より身にしみじみと、里見は取られた手が震えた。

 うしろにも前にも左右にもすくすくと人の影。

「あッ。」とばかりわなないて、取去ろうとすると、自若じじゃくとして、

「今では誰が見てもいんです、お心が直りましたら、さあ、将棊をはじめましょう。」

 しずかに放すと、取られていた手がげっそりせて、着た服が広くなって、胸もぶわぶわとしわが見えるに、きっと目をみはる肩に垂れて、うずまいて、不思議や、おのが身は白髪になった、時に燦然さんぜんとして身の内の宝玉は、四辺あたりてらして、星のごとく輝いたのである。

 驚いて白髪しらがを握ると、耳が暖く、ふすまが明いて、里見夫人、莞爾にっこりして覗込のぞきこんで、

「もういんですよ。立花さん。」

 操は二人とも守り得た。彫刻師はその夜のうちに、人知れず、やみながら、心の光に縁側を忍んで、裏の垣根を越して、庭を出るその後姿を、立花がやがて物語ったうつつの境の幻の道をくがごとくに感じて、夫人は粛然として見送りながら、はるかに美術家の前程を祝した、誰も知らない。

 ただ夫人は一夜ひとよの内に、いたおもやつれがしたけれども、翌日あくるひ、伊勢を去る時、揉合もみあ旅籠屋はたごやの客にも、陸続たる道中にも、汽車にも、かばかりの美女はなかったのである。

明治三十六(一九〇三)年五月

底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房

   1995(平成7)年1024日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第七卷」岩波書店

   1942(昭和17)年722日発行

※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。

※底本編者による語注は省略しました。

入力:門田裕志

校正:土屋隆

2006年130日作成

2020年115日修正

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