醫學士はと、不圖見れば、渠は露ほどの感情をも動かし居らざるものゝ如く、虚心に平然たる状露はれて、椅子に坐りたるは室内に唯渠のみなり。其太く落着きたる、これを頼母しと謂はゞ謂へ、伯爵夫人の爾き容態を見たる予が眼よりは寧ろ心憎きばかりなりしなり。

『宜しい』

と一言答へたる醫學士の聲は此時少しく震を帶びてぞ予が耳には達したる。其顏色は如何にしけむ俄に少しく變りたり。

『看護婦刀メスを』

『夫人唯今お藥を差ます、何どうぞ其をお聞き遊ばして、いろはでも、數字でも、お算へ遊ばします樣に』。

伯爵夫人は答なし。

『お聞濟でございませうか。』

『あゝ』

『それでは宜しうございますね。』

『何かい、魔醉劑をかい。』

『いや、よさうよ』

『それでは夫人、御療治が出來ません。』

『はあ、出來なくツても可よ。』

『奧、そんな無理を謂つては不可ません。出來なくツても可といふことがあるものか。我儘を謂つてはなりません。』

『はい。』

『それでは御得心でございますか。』

腰元は其間に周旋せり。夫人は重げなる頭を掉りぬ。

『そんなに強ひるなら仕方がない。私はね心に一つ祕密がある。魔醉劑は譫言を謂ふと申から、それが恐くつてなりません。何卒もう、眠らずにお療治が出來ないやうなら、もう〳〵、快ならんでも可い、よして下さい。』

『刀を取る先生は高峰樣だらうね』

『何うしても肯ききませんか。それぢや全快なほつても死でしまひます。可いゝから此儘で手術をなさいと申すのに』

『さ、殺されても痛かあない。ちつとも動きやしないから、大丈夫だよ。切つても可』

『痛みますか。』

『否、貴下だから、貴下だから。』

恁言懸けて伯爵夫人は、がつくりと仰向きつゝ、凄冷極り無き最後の眼に、國手をぐつと瞻まもりて、

『でも、貴下は、貴下は、私を知りますまい！』

謂ふ時晩く、高峰が手にせる刀に片手を添へて、乳の下深く掻切りぬ。

醫學士は眞蒼になりて戰きつゝ、

『忘れません。』

其聲、其呼吸、其姿、其聲、其呼吸、其姿。伯爵夫人は嬉しげに、いとあどけなき微笑を含みて、高峰の手より手をはなし、ばつたり、枕に伏すとぞ見えし、唇の色變りたり。

其時の二人が状、恰も二人の身邊には、天なく、地なく、社會なく、全く人なきが如くなりし。

『私もさ今まではかう、ちよいとした女を見ると、つひそのなんだ。一所に歩く貴公にも、隨分迷惑を懸けたつけが、今のを見てからもう〳〵胸がすつきりした。何んだかせい〳〵とする、以來女はふつゝりだ。』

『でも、あなたやあ、と來たら何うする。』

『正直な處、私は遁げるよ。』