新美南吉




 兄さんの松吉と、弟の杉作と、年も一つ違ひでしたが、たいへんよく似てゐました。おでこの頭が顔の割に大きく、笑ふと、ひたひに猿のやうにしわがよるところ、走るとき両方の手を開いてしまふところも同じでした。

「二人、ちつとも違はないね。」

とよく人がいひました。さうすると、兄さんの松吉が、口をとがらして、虫くひ歯のかけたところからつばを吹きとばしながら、いふのでした。

「違ふよ。おれには二つもいぼがあるぞ。杉にや一つもなしだ。」

 さういつて、右手の骨ばつた握りこぶしを出して見せました。見ると、なるほど、拇指おやゆびと人差指の境のところに、一センチくらゐはなれて、小さい疣が二つありました。

 この兄弟の家へ、町から、いとこの克巳かつみが遊びに来たのは、去年の夏休みのことでした。克巳は、松吉と同い年の、国民初等科五年生でした。

 克巳は五年生でも、体は小さく、四年生の杉作とならんでも、まだ五センチぐらゐ低かつたが、こせこせとよく動きまはる子で、松吉、杉作の家へ来るとぢき、廿日鼠はつかねずみといふあだなをつけられてしまひました。

 松吉、杉作の家の裏手には、二抱へもある肉桂にくけいの大木がありました。その木の皮を石でたたきつぶすと、いい匂がしたので、大人たちが、ひるねをしてゐるひるさがりなど、三人で、まるで啄木鳥きつつきのやうに、木の幹をコツコツと叩いてゐたりしました。

 また、あるときは、お祖父ぢいさんの耳の中に、毛が生えてゐることを克巳が見つけて、

「わはア、おぢいさんの耳、毛がはえてゐる。」

と、はやしたてたことがありました。松吉、杉作は、もうずつとまへからそんなことは知つてゐました。が、あまり克巳が面白さうにはやしたてるので、いつしよになつて、これも、

「わはい、おぢいさんの耳、毛が生えてゐる。」

と、はやしたてたものでした。するとお祖父さんが、松吉、杉作をにらみつけて、「何だ、きさまたちや。おぢいさんの耳に毛の生えとることくれえ、毎日見てよく知つてけつかるくせに。」と叱りとばしました。そんなこともありました。

 克巳は、からうすをめづらしがつて、米をつかせてくれとせがみました。しかし、二十ばかり足を踏むと、もういやになつて、下りてしまひましたので、あとは、松吉と杉作がしなければなりませんでした。

 あしたは克巳が町に帰るといふ日のひるさがりには、三人でたらひをかついで裏山のきぬ池にいきました。絹池は大きいといふほどの池ではありませんが、底知れず深いのと、水が澄んでゐて冷いのと、村から遠いのとで、村の子供達も遊びにいかない池でした。三人はその池を盥にすがつて、南から北に横切らうといふのでした。三人は南の堤防にたどりついて見ますと、東、北、西の三方を山でかこまれた池は、それらの山とまつ白な雲をうかべてゐるばかりで、あたりには人のけはひがまるでありません。三人はもう、すこしぶきみにかんじました、しかしせつかく、こゝまで盥をかついで来て水にはいりもせず帰つては、あまり意気地のないはなしではありませんか。三人は勇気を出して裸になりました。そして土堤どての下のよしの中へ、おそるおそる盥をおろしてやりました。盥がばちやんといひました。その音があたりの山一めんに聞えたらうと思はれるほど、大きな音に聞えました。盥のところから波の輪がひろがつていきました。見てゐると、池のいちばん向かふのはしまで、ひろがつていつて、そこの小松の影がゆらりゆらりとゆれました。三人は少し元気が出て来ました。

「はいるぞ。」

と松吉がうしろを見ていひました。

「うん。」

と克巳がうなづきました。

 三人の裸ん坊は、ずぼりずぼりと水の中にすべりこみ、盥のふちにつかまりました。そして、うふふふふ、とおたがひに顔を見合はせて笑ひました。をかしいので笑つたのか、あまり冷たかつたので笑つたのか、自分達にもよくわかりませんでした。

 もう、かうなつては、ぢつとしてゐるわけにはいきません。三人は足をうごかしました。はじめのうちは調子が揃はないので、一つところであばれてゐるばかりでした。が、そのうちに、三人は同じ方へ水をりました。盥は少しづつ、池の中心にむかつてすゝみはじめました。

 長い時間がたちました。

 三人はへとへとになりました。もう、足を動かすのがいやになりました。さて、三人はどこまで来たのでせう。自分達の位置を見て、三人はびつくりしました。いま、ちやうど池のまん中にゐるではありませんか?

 まはりの山で蝉は鳴きたててゐます。気ばかりあせります。しかし体はもう動きません。

「もう、俺、泳げん。」

と、弟の杉作が泣き出すまへの笑ひ顔でいひました。

 松吉も泣きたい気持ちでした。黙つて眼をつむりました。

「僕も、もう駄目や。」

と克巳もいひました。

 松吉は眼をひらくと、きつぱり、

「もどらう、そろそろいかう。」

といひました。

 そして盥を、逆の方向にぐいとひとつ押しました。

 杉作も克巳も黙つてゐました。しかし松吉についていくより、しかたがありませんでした。つかれきつた二人の顔に、かすかにわきあがる力の色が見えました。

 盥は動いていくやうには思へませんでした。いつまでたつても、もとの土堤に帰りつくことはできないやうに見えました。

 三人は、ときどき、ちつとも近くならない土堤の方に、ちらつちらつと、絶望したやうな眼を投げました。

 そのとき、松吉の口をついて、

「よいとまアけ。」

といふ、かけ声がとび出しました。

 よいとまけ──それは、田舎の人達が、家を建てる前、地かためをするとき、重い大きいつちを上げ下ろしするのに力をあはせるため、声をあはせてとなへる音頭です。それは田舎の言葉です。町の子供である克巳にきかれるのは、恥かしい言葉です。しかし、いまは、松吉は恥かしくも何ともありません。必死でした。

「よいとまアけ。」

と、水を蹴つて、また松吉はいひました。

 すると弟の杉作が泣き声で、

「よいとまアけ。」

と応じました。杉作も必死でした。

「よいとまアけ。」

 松吉は声をはりあげました。

 するとこんどは、杉作ばかりでなく、克巳までがいつしよに、

「よいとまアけ。」

と応じました。

 克巳もまた必死だつたのです。

 三人とも必死でした。必死である人間の気持ほど、しつくり結びあふものはありません。

 松吉は自分達三人の気持が、一つのこぶしの形にしつかり、にぎりかためられたやうに感じました。さうすると、今までの百倍もの力がぐんぐんと湧いて来ました。

「よいとまアけ。」

と松吉。

「よいとまアけ。」

と杉作と克巳。

 きふにたらひが速くなつたやうに思はれました。もう土堤はすぐそこでした。そら、もう、葦の一本が盥にさはりました。

 克巳は、田舎の松吉、杉作の家に十日ばかりゐたのですが、最後のこの日ほど、三人が心の中で仲好しになつたことはありませんでした。

 池から家へ帰つて来ると、三人は心もからだも、くたくたに疲れてしまつたので、藤棚ふぢだなの下の縁台えんだいに、お腹をぺこんとへこませて腰かけてゐました。

 そのとき克巳は、松吉の右手をなでてゐましたが、

「疣つて、どうするとできる? 僕も、ほしいな。」

と笑ひながらいひました。

「一つあげよか。」

と松吉はいひました。

「くれる?」

と克巳はびつくりして眼を大きくしました。

 松吉は家の中からはしを一本もつて来ました。

「どこへほしい?」

「ここや。」

 克巳は信じないもののやうに、くつくつ笑ひながら、左の二の腕を、植疱瘡うゑばうさうしてもらふときのやうに出しました。

 松吉の右手の一つの疣と、克巳の腕とに箸がわたされました。

 松吉は大まじめな顔をしました。そして天の方を見ながら、

「疣、疣、渡れ。」

「疣、疣、渡れ。」

と、よく意味のわかる咒文じゆもんをとなへました。

 その翌日、町の子の克巳は、茄子なす胡瓜きうり西瓜すゐくわを、どつさりおみやげにもらつて、町の家に帰つていつたのでした。




 牛部屋のかげで、山茶花が白く咲くころに、松吉、杉作のうちでは、あんころ餅をつくりました。農揚のうあげといつて、この秋のとり入れとお米ごしらへがすつかり終つたお祝ひに、どこの百姓家でもさうするのです。

 松吉と杉作が、土曜の午後に、学校から帰つて来ると、そのお餅を、町の克巳の家に配つて行くことになりました。これはもう昨日、お餅をつくつてゐるときから、二人がお母さんにたのんで固く約束しておいたことです。

 何故なら、このことには二つのよいことがありました。──一つは、夏休みに、仲好しになつたいとこの克巳にあへるといふこと、もう一つは、あまり、はつきりいひたくないのですが、お駄賃だちんをもらへることです。そしてまた、町のをぢさんをばさんは、田舎の人のやうにお銭のことではケチケチしません。いつも五十銭くらゐお駄賃をくれたのです。

 お母さんが、お餅のはいつた重箱を風呂敷ふろしきにつゝんでゐるとき、松吉は、

「ねえ、おつかさん、電車にのつてつてもええかん?」

と鼻にかゝる声でねだりました。

「何や? 電車や? あんな近いとこまで歩いていけんやうなもんなら、もう頼まんで、やめておいてくよや。おとつあんに自転車で一走りいつて来てもらやすむことだで。」

「うふん。」

と松吉は鼻を鳴らしました。しかし、帰りは、もらつたお駄賃で電車に乗ることができると思つて、わづかに心をなぐさめました。

 松吉と杉作は、帽子をかむらないで家を出ました。帽子をかむつて町へいくと、町の子供が徽章きしやうを見て、松吉、杉作が田舎から来たことをさとるに違ひありません。それが二人はいやだつたのです。

 二人が八幡さまの石鳥居の前を通りかゝると、そこで、独楽こまを持つて、ひとりでしよぼんとしてゐたけん坊が、

「杉、どこへ行くで、遊ぼかよ。」

と声をかけました。

 杉作は、

「俺達、町へ行くだもん。」

といひました。そして二人は新しい幸福にむかつて進んでいく人のやうに、わきめもふらないですぎていきました。

 けん坊ははねとばされた仔猫のやうな顔をして二人を見送つてゐました。

 村を出てしまつた頃に、松吉は、じぶんの右手が痛んでゐることに気がつきました。見ると、重箱が右手に持たれてゐるのでした。

 ちやうどうまいぐあひに、一メートルくらゐの竹切れがみちばたに落ちてゐました。二人はその竹を風呂敷の結び目の下に通して、二人で提げていくことにしました。弟の杉作が先になり、兄の松吉があとになりました。かうして二人で持てば重箱はたいそう軽いのでした。うまいぐあひでした。

 二人はしばらく黙つて行きました。松吉はぼんやりと考へはじめました──五十銭くれると。五十銭もくれるだらうか。でもをばさんは去年もその前も五十銭くれたから、ことしだつてくれるだらう。五十銭くれると。それで何を買はうか。模型飛行機の材料──あの米屋の東一君が持つてゐるやうなのはいくらするだらう。五十銭では買へないかなア。それとも雑誌を買はうかなア。弟は何がいいといふか知らん……

 松吉のとりとめのない夢は、とつぜん、

「どかアん!」

といふ、とてつもない音で、ぶち破られました。松吉はきもをつぶして、あやふく、持つてゐた竹をはなしてしまふところでした。

 そんな声を出したのは、すぐまへを歩いてゐる弟の杉作でした。杉作であることがわかると、松吉は腹が立つて来ました。

「何だア、あんな馬鹿みてな声を出して。」

 すると杉作は、うしろも見ないでかういふのでした。「あ、この木のてつぺんに、とんびがとまつたもんだん、大砲を一発うつたゞげや。」

 それでは、しかたがありません。

 また、しばらく二人は黙つていきました。

 また松吉は考へはじめました──克巳は今日、うちにゐるだらうか。俺達の顔を見たらどんなに喜ぶだらう。いぼはうまく腕についたらうか。俺の疣は一つ消えてしまつたけど。

 松吉は、じぶんの右手をそつと見ました。




 町にはいると、二人は、じぶんたちが、きふにみすぼらしくなつてしまつたやうに思へました。

 これでは帽子の徽章を見なくても、山家やまがから出て来たことはわかるでせう。第一、町の人は、こんなふうに、魂をぬかれたやうに、きよろんきよろんとあたりを見てゐたり、荷馬車にぶつかりさうになつてどなりつけられたりはしません。ところが、この、きよろんきよろんが二人ともやめられないのでした。

 二人は、心の中では一つの不安を感じてゐました。それは町の子供につかまつて、いじめられやしないか、といふことでした。だから二人は心をはりつめ、びくびくし、なるべく、子供のゐないやうなところを選んでいきました。

 同盟書林どうめいしよりんといふ大きい本屋の前を通りすぎて、少しいつてから、東へはいるせまい露路ろぢ中に克巳の家はありました。そこで、同盟書林をすぎると二人は、首を鵝鳥がてうのやうにのばして、どんな細い露路ものぞきこみました。路もない、たゞ家と家の間になつてゐるところまでのぞきこみました。

 そのうちに、杉作が、

「あツ、こゝだ。」

と、落した財布でも見つけたやうに叫びました。なるほどその小路の中程に、紅と白のねぢ飴の形をした床屋の看板が見えました──克巳の家は床屋さんでした。

 二人は、幸運のしつぽを、たしかにつかんだ人のやうに、あわてずに、すゝんでいきました。竹切れはぬいてすてました。重箱は松吉が持ちました。松吉は口の中で、向かふで言ふやうに、お母さんから教へられて来たことを復習しました。

 店の前までくると、入口の擦硝子すりがらすの大戸の前には、冬の午後の、かじかんだ日ざしをうけて、一つ一つの葉の先に、とげのあるらんの小さい鉢が二つおいてありました。蘭の根もとには卵のからが伏せてあつて、それに道の埃がつもつて、うそ寒いやうに見えました。しかし店の中は、擦硝子で、よくは見えませんが、温かさうな湯気が立つてゐます。そこには、優しいをばさん、をぢさん、懐しい克巳がゐるのです。

 重い硝子戸をあけて中にはいりますと、をぢさんがひとり、畳のしいてあるところに、仰向けにひつくりかへつて、新聞を読んでゐました。こちらの方では、丸い銀の頭をぴかぴかに磨きあげられたタオル蒸しが、ひとりで、ジユーン、ジユーンと湯気をふいてゐました。

 をぢさんは新聞を読みながら、うとうとしてゐたらしく、しばらく、そのままでゐましたが、やがて、人のけはひに驚いて、ガバツと新聞をはねのけ、起き上りました。それを見て二人はびつくりしました。をぢさんではなかつたのです。

 それは二人の村の、鍛冶屋かぢやの三男の小平こへいさんでした。小平さんはその前の年の春頃、学校を卒業しました。さういへば、いつか、小平さんが町の床屋さんへ小僧に行つた、といふことをきいたやうな気もします。

 二人は、つくづくと小平さんの顔と姿をうちながめました。

 小平さんは何となく大人くさくなりました。色が白くなり、あごのあたりが肥えて来たやうでした。頭も、床屋に来たからでせうが、四角なかつかうにきれいに刈りこんでゐます。もとから、あまり口をきかないで、眼を細くしてにこにこしてゐました。そのくせ、人のうしろから、よくいたづらをしました。いちど松吉は耳の中へ小豆を入れられてこまつたことがありました。あゝいふことを、小平さんはいまでも覚えてるかしらん、忘れてしまつたかしらん──ともかくいまも小平さんは、白いうはつぱりのポケツトに両手を入れて、二人を見ながら、にこにこしてゐます。

 小平さんは、今日は親方も、おかみさんも、金光教こんくわうけうの何とやらへ行つてゐない、克巳ちやんもまだ学校から帰つて来ない、といひました。

 二人は、ちよつと失望しました。

「だが、まだ三時だから、もうちよつと待つてをれよ、そのうちにおかみさんが帰つておいでるかも知れんに。」

と小平さんがいひました。

 そこでまた希望がわきました。二人はあがりはなに、目白押しにならんで、腰をかけました。

 小平さんは、ともかく、お餅をいたゞいておかうといつて、奥へはいつていき、カタンコトンと音をさせてゐましたが、やがて、空の重箱をまた風呂敷に包んで出て来ました。松吉はそれをうけとつて、膝の横に置きました。

 あれから、五分たちました。まだをばさんは帰つて来ません。をぢさんも克巳も帰つて来ません。松吉、杉作はいつしよに、小さいため息をつきました。

 小平さんは二人の頭を見てゐましたが、

「だいぶ、のびとるな。一つ、駄賃の代りに刈つてやろか。」

といひました。

 二人は顔を見合はせて、クスリと笑ひました。

 松吉も杉作も、生れてからまだいちども、床屋で髪を刈つてもらつたことはありませんでした。いつも二人の髪を刈つたのは、お父さんかお母さんの手に握られたバリカンでした。そのバリカンはもう五六年前から、ひどく調子がわるく、ときどき、ぐわツと大きく噛みついて、とることもどうすることもできなくなつてしまふやうなしまつでしたので、二人は、家で髪を刈ることをあまり好んではゐませんでした。

 二人は眼の前にある立派な腰掛を見ました。白い瀬戸物のひぢかけがついてゐます。お尻ののるところは黒い革で張つてあります。もたれるところも黒い革です。その上に小さい枕のやうなものまでついてゐます。下の方は、足をのせる金属かねの台があつて、それには透かし彫りの模様があります。──この立派な腰掛に腰掛けてやつてもらふのです。二人はまた何となく顔を見合はせました。

 小平さんにうながされて、松吉と杉作は、先をゆずりあつて、お互ひに、すみの方へひつこみあひをしましたが、とうとう、兄さんの松吉が先にしてもらふことになりました。

 松吉はこはごは、立派な腰掛にのりました。ばかに高いところにのぼつたやうな気がしました。すぐまへの大きい鏡に、あまりにはつきり、じぶんの瓢箪へうたん顔がうつりましたので、はづかしくなりました。

 小平さんは、真白な布で、松吉の首から下を包んでしまひました。手も出ませんでした。

 小平さんはどこかから、バリカンを取り出して来ました。バリカンは家のと同じもののやうに見えました。バリカンが触つたとき、松吉は思はず首をすくめました。このバリカンも噛みつくかと思つたのです。

 ポロリと白い布の上に落ちて来たものを見ると、刈られた、黒い、じぶんの髪の毛でした。なアんだ、もう、刈られてゐるのか、と思ひました。ちつとも痛くないではありませんか。そこで松吉は、やつと安心して、肩の力をぬきました。

 髪が刈られてしまふと、松吉は、これでおしまひだと思ひました。家ではいつでも、それだけだつたからです。ところがおどろいたことには、腰掛が、キーイとかすかな音を立てて、うしろへたふれていきました。

「あツ。」

と松吉は声を立てました。しかし、腰掛けはたふれたのではありませんでした。もたれだけがうしろにのびて、腰掛けてゐる人が仰向あふむけに寝るやうになつただけでした。

 天井の白壁や、キヤベツの玉のやうな形の大きい、擦硝子の電燈を見てゐると、とつぜん、顔いちめんに、だツと何か熱いぬれたものをのせられて、眼も見えなくなつてしまひました。見てゐた杉作が、をかしかつたのか、ハハハハ、と笑つてゐます。松吉も笑ひたいのですが、顔がふさがつてゐて笑ふことができません。人間は顔で笑ふのだといふことがよくわかりました。顔にのせられたのは蒸しタオルでありました。

 小平さんは、タオルをのけると、太い筆のやうなものでせつけんの泡を松吉の顔にぬり、剃刀かみそりで、額ぎはからそりはじめました。

 松吉はそのとき、小平さんがまだ子供で村にゐた頃、松吉たちによくいたづらをしたことを、また思ひ出しました。小平さんはよくうしろから、そつときて、人の背中へ手を入れたり、わきの下をくすぐつたりしました。そして、小さい眼を細くしてにやにや笑つてゐました。

 いまも松吉は、小平さんが、そんないたづらを、はじめるのではないか、とお尻のおちつかぬおもひでした。ことに小平さんが、松吉の耳をつまんで、二度ばかり、耳の毛をそつたときには、松吉は、てつきり、小平さんが、むかしのいたづらをはじめた、と思ひました。もうすこしで、クツクツと笑ひ出すところでした。しかし小平さんの顔を見ますと、まじめな顔をしてゐました。遊びをしてゐるのではない、仕事をしてゐる大人の顔つきでありました。

 松吉には、小平さんが大人になつたからもう遊ばないといふことがわかりました。大人は仕事をするのです。たとへ、人の耳をつまんでそるといふやうな、いたづらみたいなことでも小平さんは、仕事ですから、まじめにするのです。松吉には、大人になるといふのは、ふざけるのをやめて、まじめになる約束のやうに思はれました。何となくさみしい感じがしました。

 すみの洗面所で、頭を洗ひ、もう一ぺん腰掛けにもどり、顔に、ぬるぬるしたものを塗つてもらふと、松吉の番はすみました。こんどは弟の杉作がかはつて腰掛けにのぼりました。

 時計を見ると三時四十分でした。さつきは入口の硝子戸の下までさしてゐたひざしが、今は、上の方に忘れられたやうに、ほんの少しのこつてゐるだけです。

 と、そのとき、入口の戸をガラガラと乱暴にあけて、茶色のジヤケツを着た少年が手提鞄てさげかばんを持つてはいつて来ました。

「たゞいまア。」

 克巳でした。

 松吉と杉作はいつぺんにいきかへりました。「克巳ちやん」といふ言葉が松吉ののどのところまで出て来ました。しかしそこでとまつてしまひました。克巳のあまりに町風な様子に対して、じぶんたちの田舎くささがおもひかへされたのでした。

 克巳は、さいしよに松吉を、それから杉作と顔を合はせました。しかし克巳の眼は知らない人を見るやうに冷淡でした。俺達が松吉、杉作なことがまだわからないのかな、と松吉は思ひました。はがゆい感じでした。

 克巳はながくは、そこにゐませんでした。松吉のうしろの階段をのぼつて二階へあがつてしまひました。

 でもまだ松吉はのぞみをてませんでした。克巳は、ちよつとした用事を二階ですまして、いまに下りてくるだらう、そして俺達と遊んでくれるだらう、と松吉は考へてゐました。

 だが、克巳はさつぱり下りて来ませんでした。

 やがて、克巳の友達らしいのが二人、

「克巳くウん。」

といつて外から店にはいつて来ました。

 克巳は二階から下りて来ました。

 松吉は胸がわくわくしました。こんどこそ克巳が松吉たちに何か言つてくれると思つたのです。

 しかし、克巳は松吉には目もくれませんでした。そして、二人の町の友達を手招ぎして、三人いつしよに、どやどやと二階にあがつてしまひました。

 松吉は、つきおとされたやうに感じました。じぶんの立つてゐる大地が、白ちやけた寂しいものにかはつてしまひました。

 松吉にはわかりました。──克巳にとつては、田舎で十日ばかり一しよに遊んだ松吉や杉作は、何でもありやしないんだと。町の克巳の生活には、田舎とちがつていろんなことがあるので、それがあたりまへのことなんだと。




 松吉と杉作は、町から村の方へ、魂のぬけたやうな顔をして歩いていきました。

 空の重箱は、ズボンのポケツトにつつこんだ松吉の右手にだらしなくぶらさがり、一足ごとにお尻にぶつかります。

 いくときの、希望にみちた心持ちにひきかへ、帰りの、何といふ、間のぬけた、はぐらかされたやうな心持ちでせう。

 考へて見ると、けふは、あほ臭いことでした。第一、克巳に知らん顔をされました。第二に、駄賃がもらへなかつたので、帰りも電車に乗れませんでした。第三に、やはり駄賃がもらへなかつたので、雑誌や模型飛行機の材料を買ふ夢がおじやんになつてしまひました。

 かうしてじぶんたちは、すつぽかされて、青坊主にされて帰るのだと思ふと、松吉は、日ぐれの風がきふに、刈りたての頭やえりくびにしみこむやうに感じられました。

「どかアん。」

と杉作がとつぜんどなりました。

 また、とびかと思つて、松吉は見まはしましたが、それらしいものはどこにも見あたりません。枯れた桑畑の向かふに、まつかな太陽がいま沈んでいくところでした。

「何が、をるでえ。」

と松吉は杉作にききました。

「何も、をやしんけど、たゞ、大砲をうつて見ただけ。」

と杉作はいひました。

 松吉は弟の気持が、手にとるやうによくわかりました。弟もじぶんのやうにさびしいのです。

 そこで松吉も、

「どかアん。」

といつぱつ大砲をうちました。

 すると松吉は、こんな気がしました。──けふのやうに人にすつぽかされるといふやうなことは、これからさきいくらでもあるに違ひない。俺達は、そんな悲しみに何べんあはうと、平気な顔で通りこしていけばいいんだ。

「どかアん。」

とまた杉作がうちました。

「どかアん。」

と松吉がそれに応じました。

 二人は、どかんどかんと大砲をぶつぱなしながら、だんだん心をあかるくして、家の方へ帰つていきました。

底本:「日本児童文学大系 第二八巻」ほるぷ出版

   1978(昭和53)年1130日初刷発行

底本の親本:「牛をつないだ椿の木」大和書店

   1943(昭和18)年9

初出:「牛をつないだ椿の木」大和書店

   1943(昭和18)年9

入力:菅野朋子

校正:富田倫生

2011年926日作成

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