新劇の黎明
岸田國士




 劇文学の夜は永く続いた。黙阿弥を最後として、わが国には、ほんたうに劇作家といへる劇作家が現れてゐない。ほんたうの劇作家とは、その名前で民衆を劇場に引き寄せ、独特の思想と技術によつて舞台の生命を創造しながら、民衆と共に愉しむことのできる才能をいふのである。

 もちろん、ある意味でいくらかの手腕と抱負とを示した岡本綺堂のやうな人はゐるけれども、現代の演劇にその足跡を残すまでの業績を示したとは言ひ難い。森鴎外は、まつたく別の素質によつてわが国の劇文学に近代の洗礼を与へた。しかし、あくまでも、その劇作品は余技の域を出でず、たゞ、いくつかの外国戯曲の紹介が同時代の若き劇文壇に新鮮な刺戟を与へたのみである。

 この刺戟のなかゝら二つの貴重な結果が生れた。一つは、小山内薫の自由劇場運動であり、もう一つは、純乎たる劇詩人久保田万太郎の登場である。

 この時代はたしかに、演劇史上、特筆すべき新機運の擡頭期であるがすべての文化的現象がさうであつた如く、舞台の近代化も遂に精神と技術との遊離に終り、単に旗じるしとしての「新劇」の名を今日に伝へたといふだけで、真に文学と演劇の領域に跨つて確実な地位を占め得る劇的作品がほとんどまつたく生産されてゐないのである。

 十数年後に至つて、小山内薫は土方与志と共に築地小劇場を創設し、いはゆる「新劇」の黎明が再び訪れたかにみえたことがある。この運動もまた不幸にして中途で挫折し、いくたりかの有為な俳優に舞台への情熱を注ぎ込む結果だけを残した。

 劇文学の夜はまだ続いた。



 しかし、これらの有為な俳優は、それぞれ好む道を歩いた。離合集散の過程はあるけれども、大きく別ければ、新協劇団系と築地座系とである。これに、やゝ特殊なテアトル・コメデイ系を加へてもよい。そして、そこに演技の成長が徐々にみられた。

 友田恭介、田村秋子、杉村春子、中村伸郎等を築地座系とすれば、滝沢修、千田是也、小沢栄太郎、東山千栄子、岸輝子等を新協劇団系とすべきであらう。

 現在の俳優座、民衆芸術劇場、新協劇団は、後者の流れを汲み、文学座は前者の糸を引くものである。森雅之、三津田健、村瀬幸子等の名を更にこれに加へれば、当代の新劇俳優陣は、未だ嘗て見ない盛観である。

 そこで、この期間に於ける劇文学の消長をみなければならぬ。

 たしかに、その間に、戯曲生産の飛躍は認められる。例へば、阪中正夫が「馬」一作によつて近代ファルスの形式をみごとに征服し、久板栄二郎が「北東の風」を提げて堅実な努力を社会劇の構成に示し、川口一郎が「二十六番館」に於て堂々たるレアリズムのスタイルを完成し、久保栄が「火山灰地」でいはゆる思想性をもつ野心作と取り組んだ。いづれも画期的な意味をもつ。更に、真船豊の「いたち」、田中千禾夫の「おふくろ」、小山祐士の「瀬戸内海の子供ら」、伊沢紀の「北京の幽霊」等を加へれば、必ずしも劇文学の貧困を言ふには当らぬやうだけれども、やはり、そこには、根本的な「何か足らぬもの」があるのである。

 それは何か? 曰く、作品と舞台と観衆とを継ぐ力強い生命の泉がまだまだ、これら一連の戯曲のなかには、十分に湧き出てゐない憾みがあるのである。

 戯曲が真にすぐれた戯曲であるためには、たゞ劇文学として活字で読まれる価値があるだけでは十分でない。それはまた、すぐれた舞台を創りあげる要素を完全に備へてゐなくてはならぬのである。

 舞台の魅力そのものは、俳優の精神と肉体とに負ふこと大なるはもちろんであるが、その俳優を通じて、舞台の印象を、観衆の魂に、即ち、その、無意識の欲求に、決定的な生命の魅力として刻みつけるのは、戯曲作家の本質的才能の質如何によるものだと、私は思ふ。

 その才能とは、一面から言へば、創造と享受の作用を期せずして同時に発揮し得る才能、真の意味に於ける「対話の精神」を創作活動の中に浸透せしめ得る才能をいふのである。つまり戯曲作家は舞台を通じて、観衆に語るばかりでなく、その観衆の言葉にも亦耳を傾け彼等と共に愉しむことを知らなければならぬ。

 観衆は時として、俗衆にすぎぬこともあるが、彼等を俗衆たらしめる罪は、屡〻、作家の側にある。なぜなら、独善と卑屈とは、対話の真の精神から遠く、作家のかゝる態度は、観衆の心を徒らに索然たらしめるばかりでなく、彼等をして「聴き手」たる矜りを失はせるからである。

「知つてゐることしか解らうとしない」俗衆の性格は、これは如何ともし難いであらう。たゞ「知らぬことを何時の間にか知つてゐるやうな気にさせる」芸術の妙味をこゝで指摘するまでもなく、演劇の秘訣も亦そこにあることを忘れてはならぬ。

 終つて、考へさせること、教へることは、演劇にあつては、禁物とは云へぬが、条件づきでそれが許される。考へるための努力をできるだけ軽減させること、教へる風をしないで、自然に発見させること、が、これである。結果に於て、考へるだけのことを考へさせ、教へるだけのことを教へることができれば、それは観衆が「何ものにも強ひられ」なかつた満足感を抱いても、決して作家の不名誉ではない。演劇とは、かゝる種類の作家対観衆の「対話術」に外ならぬと言つてよいのである。



 たゞこゝで問題となるのは、新劇が「選ばれた観衆」を対象として成り立つといふ通念である。

 これはもとより理由のあることである。いはゆる「純文学」が特殊な読者をもつてゐるといふ事実に近い一つの現象に違ひないけれども、厳密な意味では、「選ばれた観衆」が、別に「演劇のために最も好ましい観衆」といふ意味にはならぬことが多いのである。それはまた同時に、純文学の読者が、必ずしも、「文学のために最も好ましい読者」でない実例を示すことができるやうなものである。

 純文学の作家が、順調に伸び育てば、次第に読者層をひろげていくやうに、新劇の舞台も、健全に成長すれば、観衆の質はますます複雑多様になるのである。

 新しい戯曲作家は前述のやうな「対話精神」の上に立つことによつて、この複雑多様な観衆にも語りかけることができる。そして、その作品が完全に成功するためには、更に、もう一つの才能が必要なのである。

 それはつまり、詩人であると同時に、一個の健全な生活人であるといふことである。

 生活人の定義はむつかしいが、平易に解釈をすれば、その精神も感覚も特殊な修業や経歴によつて主に養はれたのでなく、広い意味の生活自体によつて豊かにされたといふやうな一つの型を指すのである。この素質は、何よりも人間をその全貌によつて把握するばかりでなく、その眼は普く人間生活の隅々に行きわたり、人間と人間とのあらゆる関係を機微な瞬間に於て捉へ得る特徴をもつてゐる。

 このことは、ある問題、ある事件、ある人物について、「幅のひろい」興味を持ち得る前提となる。従つて、一つの問題を提出するそのしかたのなかに、高い見方と俗な見方の両面を併せて含ませ得ることにもなり、ある事件の語り方のなかに、政治的、社会的な意味と、私的な、個人的な意味とを同時に織りまぜるといふこつを身につけ、更に、一人の人物を描く場合、その思想性と感情生活とを、また必要に応じては、運命の悪戯をも併せてこれを見事に立体化し得る才能の根柢をなすのである。

 これが、古今の天才はもちろん、およそ一時代を風靡するやうな傑れた戯曲を生み出した劇作家のすべてに通じる著顕な特質である。



 さて、然らば、さういふ傑れた戯曲作家は、生れながらか、或は期せずして、一種の特殊な才能素質に恵まれてゐなければならぬのであらうか?

 私は、さうは思はない。

 先づ第一に、劇作の天才なるものが現はれた国と時代とを考へてみればわかる。そして、それらの天才の歩いた道を、その次によく調べてみることである。

 ギリシヤ劇は、もちろん都市国家の繁栄と美の創造を目指した時代の空気のうちに花開いたものである。特に、周知のやうな公共劇場に於ける壮大な規模をもつた民衆の祝祭的行事が、戯曲作家を刺戟し、勇励し、肥らせ、輝き出させる動機にならぬ筈はないのである。

 演劇史の講義をこゝでするつもりはないから、いちいちの例を挙げることはやめるが、かのシェイクスピアにせよ、モリエールにせよ、ボオマルシェにせよ、クライストにせよ、イプセンにせよ、チェエホフにせよ、最初から天才の光芒を放つて現はれたわけではない。なかには、前人の模倣から出発したものもあり、劇場の魅力に惹かれて、やつと戯曲らしいものを書いた場合もあり、友人の俳優から勧められて試みに一作を物したといふのもある。

 しかし、例外のないことは、ちやんと、一国に於けるある時代の演劇的土壌が、一個の才能を徐々に豊かに育て、次第に高い方向へ引きあげて行つたといふことである。

 演劇的土壌とは、作者と批評家と俳優と観衆と、更に興行主との合作になる、劇場中心の芸術的雰囲気である。

 何とかの蔭には女がゐる、といふ諺を真似れば、一人の天才戯曲家の蔭には必ずなんらかの意味で肥沃な演劇的土壌があり、少くとも、かゝる土壌を代表する特定の人物、例へば、すぐれた劇評家または劇作家の友人がゐるとか、時の名優或は名演出家を親友にもつとか、さういふ事実が歴然としてあるのである。もちろん、一代の名女優を恋人にしてゐる抒情詩人が、いつか劇作に手を染めてもすこしも不思議ではなく、その作品がたまたま傑作であれば、これもまたごく自然だと言へるのである。



 さて、そこで、わが国の現状に戻つて考へれば、上に述べたやうな演劇的土壌が、明治このかた、実にお話にならぬほど瘠せてゐたといふのが、偽りのない事実であつて、劇文学の夜はまさに秋のそれのやうに長かつた理由がそこにある。

 私は、その夜が、今度こそ、間違ひなく明けてくれゝばいゝといふ祈願と、おそらく、ぼつぼつ明けそめるのではないかといふ希望とを、近頃半々にもつに至つた。

 その理由はかうである。

 第一に、劇場払底の際にも拘らず、いはゆる新劇団の活動がやうやく盛んにならうとしてゐること。これは、劇団それぞれに可なり充実した俳優陣ができかゝり、劇団自体も亦、真剣に劇作家と結びつかうとする機運を示してゐることとも関係がある。

 そして、こゝで特につけ加へたいことは、わが国では前例のない新劇俳優にして劇作の筆をとる田村秋子の出現と、同じく俳優と演出家を兼ね、しかも、堂々たる演劇評論の著述を試みる千田是也の存在である。いづれも、新劇の健やかな成長を語るものでなくてなんであらう。

 第二に、劇作家の側でも、すべてが解放されたやうにみえる戦後の空気のなかで、自分の才能を存分に伸ばして、最も野心的な仕事を世に示さうとする傾向が目立つて来たこと。これはまた、小説や批評や詩などからスタートした新進が、戯曲の方面に創作の領域をひろげようとする気配とも関係がある。

 第三に、外国トオキイの鑑賞に慣らされた観衆が新劇に求めるものが従来と変りつゝあり、新劇関係者──劇作家も俳優も演出家も批評家も、舞台の真の魅力を会得しはじめ、遅まきではあるが、西洋映画俳優の演技のなかに、映画的でありながら、なほかつ演劇的なもの、つまり映画と演劇に共通な演技の生命なるものを識別するやうになり、新しくして旧いリアリズムの妙味をやうやく据ゑ得るに至つたこと。これはまた同時に、単なる些末主義を脱して、舞台の限界と可能性とに大胆な挑戦を試みる動機を作つたことも注意しなければならぬ。

 第四に、これは専ら受動的にではあるが、演劇の興行方法による近代化のために、一つの実験劇場が与へられようとしてゐること。即ち、嘗ての邦楽座がピカデリイ劇場の名の下に、夜間を広い意味の現代劇に開放し、最も合理的、かつ、進歩的な運営方針に基づいてプロデューサー・システムによる諸種の企画を検討し、ある標準に達したものを採択して、ロングラン興行を行はしめようといふのである。

 ロングラン興行とは、予め興行日数を限定せず、不成功の場合は短日で打切り、成功すればいくらでも続けるといふ制度で、これを実現するためには、多少の障碍を予想しなければならないけれども、若し実現しさへすれば、他の劇場にも好ましい刺戟を与へ、劇作家の地位は初めて「経済的」に確立される見透しがつくことになる。劇文学に志す有能な作家の輩出は、今日までの事情を考へても、先づ劇作といふ仕事が「経済的」にある程度酬ひられることを必要な条件とするものゝやうである。

 第五に、一般素人の間に演劇熱が非常に高まり、特に学校及び各種の職場に於ける演劇活動が未だ嘗て見ない盛況を呈してゐること。これは従来の演芸会式余興風なものとやゝ趣きを異にし、多くはむしろ、正しい文化運動の一形態であり真摯な研究と、純粋な芸術愛好の精神を伴つたものらしいことである。

 これは必ずしもそのまゝの形で将来の発展を予想させるものではないが、かゝる機運は、私の希望としては、学校及び職場と限らずそれ以上に、各地方自治体のなかに伸び進んで、都市町村の素人劇勃興から公共劇場創設にまで至るべきものである。イタリアの地方方言劇の現状、アメリカのコミュニティイ・シアタアの存在を想ひ合せて、わが国のいはゆる「旅廻り」が如何に民衆の演劇的趣味を低下させてゐるかを知るべきである。

 が、ともかく、学生にしろ、勤労者にしろ、自ら舞台に立ち、自ら脚本を書き、自ら演劇の創造と享受とに与らうとする意欲を私は双手を挙げて歓迎する。

 新しい劇文学の貴重な芽生えは、思はざる「素人劇」のなかにも発見できない筈はない。


 以上は、私の夢でもあり、また、期待でもある。

 最近、そのうちで、最も私の意を強くするのは、ともかくも相次いで注目すべき戯曲が発表され、そのうちのあるものは、既に脚光を浴びたが、世評もまたそれらの特色を素直に受け入れたことである。

 三好十郎の「その人を知らず」、田中千禾夫の「雲の涯」、真船豊の「黄色い部屋」、野上彰の「夢を喰ふ女」、川口一郎の「田宮のイメージ」、木下順二の「山脈」、加藤道夫の「挿話」等がこれである。

 上演はまだされてゐないが、野心的な力作としては同じ加藤の「なよたけ」が三田文学賞を受け、三好は矢次ぎ早やに「胎内」を中央公論に書き、鋭利な批評家福田恆存は、「戯曲家の批評」と自ら称する「最後の切札」をもつてピランデルロを想はせる特異な作風を誇示した。新進小説家三島由紀夫は、「火宅」ほか一篇を試みて劇作の才あるを認めさせた。太宰治が生きてゐたら「春の落葉」は止つてはゐなかつたらう。小山祐士は今なほ「瀬戸内海」の周囲を逍遥して飽きない如くであるが、ひそかに戦後の飛躍を準備してゐるらしく、内村直也は「雑木林」三幕を俳優座の舞台に託したといふ快いニュースが伝へられてゐる。



 私はあまり楽観的な調子で物を言ひすぎたであらうか?

 もちろん、悲観すべき現象や条件は数限りなくある。しかし、私の知る限りに於て、こゝ二十年の間に、劇文学は徐々にではあるが進化の一路を辿りつゝある。その歩みの遅いことは道が狭く、嶮しいからであつて、むしろ、二十年間によくもこゝまで来たと、私にしても、感慨無量である。

 劇文学の立ち遅れといふことがよく言はれる。私自身も、嘗てそれを公言したことがあるけれども、公平にみて、今日、小説が二十年前と比較してどれだけ進んでゐるか? 小説が仮に一歩前進したとすれば、戯曲はすくなくとも三歩や五歩は前に出てゐるのである。

 小説の時代的進化と戯曲のそれとを比較することは、この二つの文学ジャンルの特質を正しく見究めたもののみにゆるされる。例へば、ある文学的な新流派が名乗りをあげたとする。たまたまそれが小説家のグループであれば、その流派の先頭に立つのは小説家たちであらう。そして、もしそれが詩人の一群であれば、まさに、それは詩人によつて音頭がとられたといふことになる。

 戯曲家もまた、かゝる運動のイニシアチーヴをとることがある。たゞそれはつねに、演劇が文学を「尊重する」時代に限られる。舞台を離れて戯曲文学の成長も発展も考へられないからである。

 この意味で私は、いはゆる戦後派の「戯曲」になほ多大の興味をつなぐ。劇文学として、それがどれだけ新しいかといふことだけでも、われわれは問題にしていゝからである。

底本:「岸田國士全集27」岩波書店

   1991(平成3)年129日発行

底本の親本:「文芸往来 第三巻第七号」

   1949(昭和24)年71

初出:「文芸往来 第三巻第七号」

   1949(昭和24)年71

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2010年71日作成

2011年530日修正

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