劇文学は何処へ行くか
岸田國士



 私が戯曲を書きだしてからもう二十五年になる。四半世紀たつたといふわけである。その間に、いろいろな事情でしばらく戯曲の創作から遠ざかつてゐたこともあるが、やはりそれは自分の文学的故郷のやうなものであるから、折にふれて、いつかはまたそこへ帰りたいといふ願望がしきりに私を襲つた。

 戦争もすみ、新劇団も活溌に動きだし、昔から関係の深かつた俳優諸君の健在を眼のあたり舞台で知る機会もでき、私は久々で戯曲を書いてみる感興をおぼえたのである。

 しかし、妙なもので、いざ書かうとすると、なんとなく勝手が違ひ、機械なら歯車がうまく噛み合はないやうなもどかしさを感じてすこしギヨツとした。

 さて、自分でまた戯曲を書くだんになると、新旧内外の戯曲にも以前のやうな親しみを覚えてくる。勉強のためにも、努めて、さういふものに眼を通さうとするのであるが、今、私が一番気になることは、この二十五年間に、世界の、特にわが国の劇文学がどういふ方向に、そして、どの程度に進んだかといふことである。

 進んだ、といふのは、進歩の意味よりも、むしろ進化の意味であることはもちろんである。フランスで云へば、私はパニヨオル、ジロドウウぐらゐまでしか読んでゐないし、日本の新作家では、さあ、誰といつたらいゝか、まづ戦争直前ぐらゐまでに目立つた作品を公にした人々を最後として、それ以後の新人の名はほとんど知らないといつてよかつたのである。

 蔵書を焼いてしまひ、そのうへ田舎住ひをしてゐるので、新知識の獲得には甚だ不便であるが、あれこれと手に入る材料を漁つてみて、やつと、大戦後におけるアメリカやフランスの演劇界消息をおぼろげに知ることができた。菅原卓、川口一郎、加藤道夫三君のアメリカ劇紹介、佐藤朔、鈴木力衛両君編輯の「現代フランス演劇」第一、第二輯は、ともに大きな参考になつた。

 が、それはそれとして、私は、一方、最近の雑誌を注意しながら、日本の劇作家がどういふ道を歩いてゐるかを、極めておほざつぱにではあるが、推測することができたのは大へんうれしかつた。なぜなら、これでわが劇文学の進路が、今日までのところ、非常にはつきりしたといへるからである。



 私は過去二十五年間を顧みて、まことに感慨無量だといふのは、わが国に、それ以来ほとんど一人も雑誌ヂヤアナリズムをはなれて戯曲作家らしい戯曲作家が生れてゐないといふことである。その理由はすこぶる簡単で、文学作品としての戯曲はすべての劇場に受け容れられず、たまたまこれを上演する劇団があつても、作家の生活はそれによつて支へられる希望がまつたくないといふことである。

 世界のいづれの国でも、劇作家は劇場のために作品を書くのが原則で、その上演はもちろんつねに保証されてゐるわけではないが、少くとも、上演の可能性が作家を鼓舞激励して創作活動に向はせる仕組みになつてゐる。そして、一旦、舞台にかけられゝば、作品の価値はおのづから決定するのである。興行としての成功不成功はいろいろの条件に左右されるけれども、劇作家としての真価は作品の舞台化をもつてはじめて発揮され、世評もまたそれによつて定まるのが普通である。

 いくらかの例外はあるが、戯曲がその上演に先だつて活字になることはない。従つて、活字になつた戯曲には、上演記録が附せられ、初演の際の劇場と配役がちやんとわかるやうになつてゐる。

 更に注意すべきことは、戯曲の上演による作家の収入である。これは劇作家組合の規定で入場料の十パーセント以上となつてゐるから、大体の想像はつくと思ふ。すこし名前が知れた作家ならば、一年一作で十分生活の保証が得られるばかりでなく、時には、ロスタンのやうに十年計画で一作と取り組み、または、パニヨオルのやうに、処女作のロングランによつて産を成すといふ男も出て来るわけである。尤も、劇作家が興行者なみの投機心を起す危険も、そのためになくはなく、そのこと自体の善し悪しは問題の外であるが、ともかく、小説家にしても、いはゆるブツク・メエカアがないわけではないのだから、その一事を以て、劇作の仕事を不純なりと断じるわけにいくまい。つまり、私の言ひたいことは、戯曲作家も、小説作家の如く、専業が成り立つといふことなのである。

 わが国の場合を考へてみると、専門の劇作家として生涯を送つたのは、おそらく、名もなき座附作者をのぞけば、河竹黙阿弥が最後の人ではないかと思ふ。坪内逍遥や岡本綺堂はやゝそれにちかいかも知れぬが、私に言はせると、これは「現代作家」の列に加へていいかどうか疑問である。

 小山内薫と森鴎外は、共に新作家を刺激して戯曲の開花時代を招いたが、その時以来、多くの有望な新進戯曲家が、登場したにも拘はらず、いづれも、中途で劇作の筆を止めてしまふか、さもなければ、たまに雑誌への責ふさぎに戯曲を書く気になるか、そのいづれかである。

 菊池寛、山本有三、久米正雄、武者小路実篤、久保田万太郎の五人が轡を並べて劇文壇にその才を放つた時代は大正初業から中期にかけてである。震災直後から昭和にはいつて、再び戯曲界が活気を帯び、前記の諸氏は別として、小説家で戯曲を書きはじめた人も多く、新しく劇作をひつさげて文壇にデビユウするものが可なりあつた。或は世人の記憶に遠くなつてゐるかもわからぬから、それらの名前をざつと挙げれば、小説家として戯曲をいくつか発表したのは、佐藤春夫、正宗白鳥、室生犀星、谷崎潤一郎、長与善郎、横光利一、舟橋聖一、池谷信三郎、等であり、新進戯曲家としては、関口次郎、高田保、金子洋文、鈴木泉三郎、藤井真澄、水木京太、能島武文等があつた。私も、その頃、第一作を演劇新潮といふ雑誌に発表する機会を与へられたのである。



 以上のとほり、昭和の初め頃までに戯曲家として初登場をした人々のうち、今日、専ら劇作をもつて世に立つと称し得るもののないことは、なんといつても淋しいことである。(戯曲家でも一方にちやんとした詩や小説が書け、或は詩人や小説家で立派な戯曲も書くといふことがどんなに望ましいことであるか、それは言ふまでもないことである。)

 ところが、すべての条件がそんなに変つてもゐないのに、昭和七、八年頃から、劇文学の新しい芽が徐々に根を張つたやうな形になつて来た。言ひかへれば、劇作のみに専心して他を顧みない少数ではあるが有能な若い人達が現はれ、現在なほ、それらの人々は、執拗に戯曲を書きつゞけて倦む気色が見えぬのである。劇作は彼等にとつては、もはや、試みでも気紛れでもない。況んや、生活の手段の如きではさらさらない。たゞたゞ一途に、劇文学の道に精進するが如く私には感じられて、強く心をうたれるものがある。

 ところで、さういふ作家の一群が存在しはじめた理由はどこにあるか。前にも言つたとほり、すべての条件にさしたる変りもないとすれば、それは、わが国に、やうやく、劇文学なるものが確立したといふこと以外にはないと思ふ。微々たる力ではあつたが、これはまさに、久しきに亘る新劇運動の賜である。そして、もうひとつは、文壇ヂヤアナリズムの、時に消長はあるが、戯曲そのものに対する寛容な取扱ひである。更に最後に私がはつきりこゝで公言したいと思ふことは、外国トオキイの影響といふことである。

 この三つの理由をすこしくはしく敷衍すれば、第一の新劇運動、特に、築地小劇場以来の興行資本から独立した劇団活動は、さまざまな批判は加へられるにしても、一応、演劇の革新といふ役割を果し、特に、舞台と文学との接触に努めた功績を見落してはならぬと思ふ。つまり、現代俳優による現代戯曲の肉体化が、ある程度まで、作家のイメエヂとして創作の基本的な要素となり得るに至つたことである。

 第二の文壇ヂヤアナリズムの助力といふ点は戯曲家側としては、まだまだ慾を言ひたいところであらうが、しかし、公平にみて、読み物としての戯曲をこれくらゐ取りあげれば、まづ、劇場に代つて新人を世に送る機会は少いとは言へないであらう。

 たゞ、私の印象から言へば、一般編輯者は、戯曲に対しては標準をどこにおくかの自信がないやうである。小説の場合だと、当否は別として、それぞれ一家の見識を備へてゐるやうに思はれる編輯者でも、戯曲の場合は、つい、名前のみを当てにする傾向がないでもない。ポスター・ヴアリユウだけで用の足りる一面も察せられるけれども、新人発見の熟慮を小説とのバランスに於て、もうすこし、高めてほしいと、私は切望してやまない。

 既設の文学賞が戯曲に与へられる例の少いことを私はとやかく言ふものではないが、どこかの出版者が、詩賞と共に、戯曲賞を新しく作つてくれたら、私は非常にうれしいだらう。もう既に、私は、ヂヤアナリズムに甘へかゝつてゐるが、これこそ、現代に於ける劇文学の実情である。

 私はふと近頃の面白い経験を想ひ出した。ある若い雑誌記者の来訪を受けたのだが、原稿註文の話を切り出されて私はまごついた。私に四五十枚の短篇小説を書けといふのである。改まつて言ふのもをかしいが、私はもとから、新聞や娯楽雑誌になら続きものゝ小説みたいなものを書いてはゐるが、いはゆる純文学の創作欄には、戯曲しか発表したことはない。それで、そのわけを言つて断ると、その若い編輯者は不思議な顔をして私を見直し、私が戯曲作家であることを今まで知らなかつたと、率直に告白したのである。無理もないことで、十幾年も昔のことをこの若い記者は知らう筈もない。私は気の毒でもあり、愉快でもあり、試みに戯曲でもよいかと念をおしてみた。よいと答へたのにはすこし暇がかゝつたやうである。



 さて、第三の外国トオキイの影響については、事、微妙であつて、すこし独断になるかも知れぬが、私は、ほんとの影響とは、実はさういふものではないかと思ふ。誰が、どんな作品で、外国トオキイの影響をみせてゐるなどと言へるやうなものではない。そもそもトオキイが輸入されはじめた頃から、われわれは、外国俳優の演技に直接ふれることができたわけである。外国戯曲を読んで、極く肝腎なところ、その作品の演劇的な本質ともいふべき部分は、おほかた見落されてゐるのが普通であつた。翻訳劇上演といふ勉強の好機会はあつても、実は、日本の俳優では、その肝腎なところの、また微妙なところが、どうにもならぬ状態で残されてゐたのである。これこそ感覚の領域に属する問題で、書物などいくら読んでもわかりはしない。西洋の芝居の伝統のなかに深く根をおろし、それが現代精神によつて鮮やかに活かされてゐる舞台の雰囲気は、トオキイのある種のものゝなかに見るものが見れば、如実に現はれてゐる。それをキヤツチできる時代が、こゝ十数年来と言へるのである。むろんわが新劇俳優のいくたりかは、それをキヤツチしはじめた。そして、舞台がやうやく、現代劇の軌道に乗らうとしてゐる。劇作家がさういふ新鮮な雰囲気に無関心なわけはない。それほどトオキイは観てゐないよと豪語する劇作家が或はゐるかも知れぬが、影響とは常に直接に受けるものとは限らぬ。一つはまさに時代である。



 かうみて来ると、戦争に敗れた国ではあるが、そのことから、やはり、いくぶんのプラスが劇文学のうへに現はれて来さうでもある。

 細かい吟味は今は差控へるが、その一つの例は、元邦楽座、現ピカデリイ劇場の「現代劇」への解放である。これは実験劇場と名づけられ、最も合理的な運営と企画とをもつてわが演劇界の宿弊に挑戦しようといふのである。優秀な新作が需められてゐる。従来の標準ではやゝ不向きかとも思はれるが、また同時に、従来の如何なる劇場もはつきりした目標にしてゐなかつたやうな、ロング・ランの興行に堪へる「どつしりした」戯曲の生産が促されるであらう。

 そこで、戦後の劇文壇の動向は、この実験劇場に興味をもつもたぬは別として既にその曙光をみせてゐる野心的な機運を徐々に推し進め、一大飛躍を遂げるのではないかと思はれる。それは、いろいろな意味に於てゞある。

 まづ、第一には、文学としての著しい飛躍である。戯曲は、戯曲の本質を置き去りにした文学的飛躍はあり得ない。私が嘗て、戯曲は詩や小説に比べてその進化が二十年ぐらゐ遅れると言つたのは、近代文学史を通じてみて、およそどこの国でもその通りになつてゐるからである。わが国の場合は、小説も詩も、わりに近代文学としての洗礼を早く受け、そのうへ、伝統の強みも加はつて、二十年前は正に、戯曲の立ち遅れが明瞭であつた。しかしその後、詩も小説も、どれだけ時代の歩みを歩んだか。小説に於て、ことに、私は、旧態依然たるものを感じる。しかるに、戯曲の分野では、真船豊 川口一郎 三好十郎、と数へて来ても、戯曲家としての才能に於て、そして、特に、その作品の近代性と、演劇的文学的な高さとに於て、これらの作家は掛値なく二十年の歩みをちやんと歩んでゐる。

 文学界に若し戦後派と呼ばれるものがあるとしたら、劇文学のうちにかゝる色彩が認められるだらうか。にはかにそれはあると断定しかねるけれども、最近戯曲を書きはじめた新人のうちには、たしかに従来と違つた、しかも、なにかしら戦争といふ波をくゞつた精神の相貌を戯曲の形式に盛らうとする意図がうかゞへなくはない。しかし、若い世代のかゝる志向はともかく、戦後の劇文学界を見わたして、特に活溌な動きをみせ、その作品を通じて新しい自己の世界を開拓しようと試みてゐる作家の多くは、たとへその名前が戦後はじめて現はれたといふほどではなくても、私は、その一群の戯曲作家を、ひとしく、戦後派の中に加へたく思ふ。なぜなら例へば田中千禾夫は「雲の涯」その他に於て、戦前の彼の作風にみられぬ思想と感覚の解放を示し、同じく澄江夫人の文字どほり体当りともいふべき最近の「悪女と眼と壁」は見事な再出発である。三好十郎は、近作の二篇を以て、真剣に荒々しく時代の苦悩を訴へようとしてゐる。その他「文化議員」なる冒険作を残して惜しくも世を去つた田口竹男があり、「薔薇一族」でやうやく現実の傷痍に眼をむけはじめた小山祐士もゐる。久板栄二郎も、シナリオから再び戯曲に帰れば、その社会劇は今日の問題を正しく捉へるであらう。

 たゞ、これらの作家の業績は、なにはともあれ過去につながるものをもつてゐるけれども、まつたく新しく劇文壇に名乗をあげた数名の作家については、私自身、それがたゞ未知数だといふことだけでも、将来が楽しみである。なかには、木下順二のやうに、既に戯曲家として危げのない大作を示してゐるものもあるが、一方では、加藤道夫のやうに、未完成と言へる華麗な才能の持主もある。

 さうかと思へば、福田恆存の如く、戯曲形式を大胆に駆使して一個の鋭い演劇論を試みる珍しい頭脳も出て来る。小説界の新人、三島由紀夫は、処女劇作「火宅」でみせた巧者ぶりを、その小説のやうに取材の新味によつて一層引立たせることができたら、その将来は大いに期待ができる。



 今や、戯曲の貧困を云々すべき時ではない。それはその通りだが、さて、現在の新劇団は、それぞれに上演脚本の払底に頭を悩ましてゐることもまた事実である。

 これはいつたい、どういふことなのか。

 劇団に戯曲のわかるものがゐないのか。

 必ずしもさうではなからう。劇団はそれぞれに、当今第一線にある優秀な劇作家と特別に結びついてゐる。劇団はそれらの作家を信頼し、その作品を一つでも多く上演しようとしてゐる。しかるに、一年数回の公演に、それに間に合はないのである。要するに、一回の公演に堪へる作品の数が少なすぎるといふことである。

 公演に堪へるとは、そもそも、何を意味するか?

 こゝで、公演の性質を大きく二つに別けてみる。慣用語に従へば、一つは研究的公演乃至先駆的公演、一つは、大劇場公演乃至企業としての公演である。

 周知のやうに、現在の新劇団は、以上の二つの公演を交々、或る時は、その何れをも兼ねた公演を行はざるを得ぬ状態であるから、前者に適した脚本は多少無理を覚悟で決められぬこともないが、後者のための脚本をわが国の作家のうちから探すとなると、ほとんどまつたくと云つていゝくらゐ種切れなのである。

 早い話が、今度俳優座が実験劇場第一回公演として、「フイガロの結婚」を選んだ。ピカデリイ劇場で少くとも一ヶ月上演できる日本の現代劇は一つもないといふ断定に基くものとしか考へられない。私も、ちよつと首はひねるが、結局、さうかも知れぬと、同感の意を表せざるを得ないのである。

 俳優座のホープは真船豊だと聞き及んでゐる。それなら、この際、なぜ真船豊の作品を取りあげないか。私の考へでは、やりやうによつて、可能だと思ふが、第一回は慎重に興行成績をある程度まで挙げようといふ意図なら、なるほど、真船豊の「いたち」でさへもちよつと危険かも知れぬ。少くとも、興行成績は、今の時勢では、平凡といふところが関の山であらう。これが、俳優座にフランス十八世紀の諷刺劇を、舞台の華やかさと、その宣伝価値との故に、敢へて撰ばせたのであらう。しかし、いざ蓋を開けてみて、目的のロング・ランがどこまで成功するか。

 それはさうと、真船豊のこれまでの作品がもし、実験劇場の公演に不向きだとすると、その理由をはつきりさせなければならぬ。

 これは真船一人の問題ではない。現代劇作家、特に、劇文学に志す有為な数多くの青年たちにとつて由々しい問題でなくてはならぬ。なぜなら、実験劇場の上演脚本は、低俗な観衆の好みに投ずる必要のないことが、当事者によつて言明されてゐるからである。さればこそ、実験劇場なのである。文学的価値も相当に高く、かつ、観衆の正しい要求を満たし得る舞台芸術が、こゝで、経済的にも成り立ち得ることを実験によつて示さうといふのである。

 何びとも異議なく承服するであらうことは、劇文学の飛躍にも拘はらず、作家の誰一人として、かゝる劇場の出現を予想せず、かゝる劇場のために自作を提供することなど思ひもよらなかつたことである。それどころか、新劇団のいづれかによる上演の目的さへ、それほど明確には頭にないといふのが、実状である。たまたま新劇団のいづれかゞ上演の機会を与へたとしても、せいぜい、小劇場で十五日間続ければ、それでおしまひである。その程度の観衆の数は、実際は、劇団の名だけで引き寄せ得るとみてよいのである。どの作者も云はゞ、多くの場合、劇団の常連を相手に取り組んでゐるといふ有様であるから、どういふ点から言つても、責任が軽い。仮に不入りのため経済的な負担がかゝるとすれば、これまた、劇場か劇団のみがこれを背負ひこみ、作者は、涼しい顔がしてゐられたのである。

 観衆はつねに「撰ばれた観衆」ではないから、文学的戯曲の鑑賞は無理だと諦めるか、舞台の不成功は演出者や俳優の側にその罪があるとも、言ひ張れないことはなかつた。結局、自作の上演に対して、作者が初めから懐疑的であり、或は、責任を回避する場合が屡々あつたのである。これもいち概に悪い風習だと言ひ切れないところもあるが、正統的な劇文学が、いつまでも大衆から遊離し、本来市民の娯楽であるべき演劇の健全な発展のために、有能な作家のすべてがすべて、その才能を惜しみなく試みようとせぬ現在までの有様では劇文学の歴史もついに鬱然たる大作家を出すには至らぬであらう。



 劇文学の最大の敵は、わが国に於ては、あたかも、俗衆とこれに迎合すること以外に考へぬ商業劇場であるかのやうな通念ができてゐた。このこと自体は別に誤りではなからう。たしかに、演劇を堕落せしめた一半の責任は卑俗趣味のバツコである。そして、その卑俗趣味こそは、教養なき観衆と、これを食ひものにする営利的興行者なのである。

 しかしながら、これとおなじことが、なぜ文学の他の領域に於て、それほど問題とされないか。かりに問題とされても、そのために純粋な文学活動が出版ヂヤアナリズムと絶縁しなければならぬやうには考へられてゐないのである。

 もちろん、わが国の出版事業は、一面に於てその文化性を高く評価されていゝ部分がなくはなく、興行なる企業に比べて数等立ち勝つてゐることは否めないけれども、劇文学者がまつたく演劇興行者に背を向けて、ひたすら、出版ヂヤアナリズムに依存しようとしたことが、一種の遁避であつたとは言へないであらうか。

 多く読者をよろこばせる小説が必ずしも通俗小説に限らぬやうに、多くの観客を楽しませる戯曲が低級な脚本だとは言ひきれぬことを、当然のことながら、われわれは思ひかへしてみる必要がある。

 そこで、現在、私の最も尊敬するいくたりかの戯曲作家に、忌憚のない註文をさせてもらふ。

 あなた方の作品は、なるほど、立派である。活字で読めば一応敬服するやうなものを、あなた方は書く。しかし、舞台にかけると、いろいろ不利な条件もあることは認めるとしてしかもなほ、戯曲そのものの生命が、どこか稀薄であるか、或は、その生命の浸出のしかたが緩慢で、それを感じとるのに時間芸術としてはやゝ無理な努力がいるのである。生命の稀薄は、作者の感興にどこか熟しきらぬものがあるか、ひとり善がりがすぎるか、そのどちらかに原因がある。

 生命の浸出のしかたが緩慢なのは、観念の沈潜が、快適なリズムの進行を妨げる結果である。

 観念の沈潜は、思想の深さと関係があるやうで、実は、さうではない。散文の場合は、もちろん、自由な速度で読むことを前提として、流動性は絶対なものではないが、戯曲にあつては、本質的に「流動するもの」がすべてのすがたでなくてはならぬ以上、どんな深い思索が潜んでゐようと、観客(読者をも含めて)を瞬時も舞台の進行から引きはなしてはならぬことは言ふまでもない。

 興味本位のメロドラマはしばらくおき、すぐれた文学作品でもあり、同時に上演の結果も上々とされてゐる古今の戯曲をみると、この点が非常にはつきりしてゐるやうに思ふ。無条件にでも観衆の興味を惹くやうな、「あるもの」がつねに舞台を進行させ、その面白さの裏に、ちようど波紋がひろがるやうに、「深い意味」が観衆の精神にひたひたと触れて来る。そして、その「深い意味」が、さらに一層、表面の面白さを「味ひふかい」ものにするのである。

 つまり、観衆は絶えず意識的に次の瞬間を期待するが、次の瞬間に与へられるものは、意識的に期待したものだけではなく、作者はそのなかに、こつそり、「一つの思想」を投げ込む。観衆は、その思想を楽にうけとり、「調子に乗つて」呑み下す。これが、演劇や雄弁にのみ見られる知的快感の実体である。

 もとより、作者の思想にもピンからキリまであつて、ある深い思想の底は、普通の観衆には手は届くまい。しかし、また、普通の観衆は、自分の頭脳から生れるはずのない思想をも、舞台を通じて、自分がそれをよく理解し得るやうに感じ、時によれば、「教へられ」てゐることさへ気づかずして、作者が巧みに自分の代弁をしてゐるのだと思ひこむのである。かういふ錯覚は、しかし、一般の観衆にとつては、楽しい錯覚で、かゝる錯覚を与へ得る作者こそ、私は老巧な劇作家だと思ふ。



 演劇の革新も、ながく叫ばれ続けた。おそらく、西洋近代劇運動の後を忠実に追ふ限り、わが国の演劇界は、不死身の抵抗を示すであらう。

 フランスの演劇革新は、今日、どこまで進んだかといへば、私の乏しい材料からではあるが、まづ、著しい点が注目できる。それは外でもない。クロオデルやジロドウウなどが大劇場の舞台で、可なり多くの観衆に迎へられるやうになつたこと、実存主義を標榜するイデオロヂツクな戯曲が、多少流行の観もなくはないが、ともかく、これまた商業劇場の企業に、歩調を合せてゐるらしいといふことである。

 といふことは、必ずしも、戦後のパリの観衆が突如として「文学的戯曲」の魅力を解しはじめたわけではなく、従来なら「読まれる」のがせいぜいか、研究的な上演しか望めなかつたやうな種類の戯曲が、実は、そのなかに、十分、民衆の心を捉らへる「演劇的要素」を含んでゐるといふ事実の発見である。サルトルにしても、カミユにしても、その作品には、楯の両面のやうなものが、なるほどある。知的な面と感覚的な面、或は深刻に考へさせる面とそれをも楽にし、かつ面白がらせる面、である。この二人の新人は、むしろ小説の方を余計に書いてゐる模様だが、それらの小説もまた、すこしをかしいぐらゐに多くの読者をもつと言はれてゐる。戯曲の方は上演の結果をみなければわからぬが、小説の方だけについて言へば、例へば最近読んだカミユの「ペスト」の如きは、なるほど、小説好きなら必ず読んで悔いのない面白さである。調子は比較的辛いが、その辛さには快い刺戟があり、物語や文体の甘さにつきものゝ煽情的な臭味が微塵もなく、却つて不愛想なくらゐテキパキした記録風な叙述に、不思議な新鮮味と、信頼感が湧く、といふところに、おそらく、既成の文学にみられない「新しい」大衆性があるのであらう。

 フランスの劇評家が、いはゆる先駆的戯曲家の作品を評して、屡々 art はあるが、metier が乏しい、と言つたのを覚えてゐる。つまり芸術はあるが、技術が貧しい、といふのである。わが国でも、文学に関してこの種の区別はいろいろな表現で繰り返された。

 私は、この区別をそれほど信じないものであるが、たゞわが劇文学について言へることは、「芸術」の意味をもう少しひろげてもよくはないか、といふ一事である。

 すこし極端な議論になるけれども、戦後の日本に於ける演劇革新の歩みは、嘗ての「演劇を芸術たらしめる」方向から、更にそれを推し進めつゝ、なほかつ、「正しい演劇を民衆のものたらしめる」方向に転じることではないかと思ふ。

 そのためには、フランスの戦後派が、新しい思想を旗じるしとして、直ちに大衆に喰ひ入つたやうに、われわれの新しい劇文学も、大に新風を起すと同時に、その新風は爽やかに民衆の頬をなで、その魂にも、呼びかけうるものでありたい。そして、特に誤解があつてはならないことは、民衆の心を心とすることは決して、俗衆のレベルに自らを引きおろすことではない。むしろ、民衆の欲求を今日までのやうに「大衆性」の名で安易に片づけず、そのうちには、新しく開拓すべき無意識でかつ健康な領土があることに気づき、その開拓こそ、新しい劇作家に課せられた「芸術的課題」であり、かくて、明日の劇文学は完全な飛躍を遂げるであらうことを銘記すべきである。

底本:「岸田國士全集27」岩波書店

   1991(平成3)年129日発行

底本の親本:「文学界」

   1949(昭和24)年71

初出:「文学界」

   1949(昭和24)年71

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2010年71日作成

2011年530日修正

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