優にやさしき心
岸田國士


 今こそ日本人といふ日本人は一人残らず、共通の感激、共通の幸福感、そして、共通の矜りをもつてゐるといふことがはつきり云へます。われわれは、われわれの手によつて一日一日新しく、しかも偉大な歴史を書き綴つてゐるのであります。

 世界の眼は、悉く、われわれの上に注がれてゐます。日本は何をしでかすか? この興味は、敵と味方とで全くその性質は違ひますけれども、半ば驚嘆を交へた心理的波紋の大きさから云へば、ひとしく、類例のないものでありませう。

 ところで、かういふ衝撃を地球の全面に与へた日本の力なるものは、そもそもどこにあるか? それを考へてみなければなりません。

 もちろん、国体の尊厳なるところ、民族の優秀なるところにありますが、われわれ国民のすべては、あらゆる立場に於て、この力を自ら信じてゐたかといふと、必ずしもさうは云へません。なぜなら、この力は、時あつて忽然と現はれる力のやうに見え、また、平生、ある点にかけては、かういふ力をもつてなどゐさうにないといふ例が間々あるのであります。

 私ははつきり申しますが、現代日本のすべての社会を通じて、この「日本的な力」を完全に備へ、これを有効に発揮し得るのは、ひとり軍隊のみだと信じます。なぜなら、そこには、職責遂行のために必要な精神と技術とを絶えず鍛へあげる純粋にしてかつ厳密な掟があるからであります。

 玉磨かざれば光なしであります。

 如何に立派な歴史を背負ひ、如何にすぐれた素質をもつた民族でも平和に慣れ、安逸をむさぼり、身心の鍛錬を怠つたならば、一朝事ある場合は勿論、長い間には、次第に、自立自衛の力を失ひ、その文化は頽廃し、いはゆる老朽国民に成り果てるのであります。日本民族は、いくたびかの試煉によつて、国家の基礎を益々固めては来ましたが、かの明治の建設期を経て大正に入る頃から、一種小成に安んずるといふやうな風潮が社会の一隅に頭をもたげて来ました。

 西洋文明の軽薄な模倣が際限なく行はれました。

 日本人の真の姿が少くとも表面的には、生活の近代化と共に消え失せようとしつゝあつたのであります。この間、黙々として、国防の重責に任じ、兵を練り、武器を整へ、近代戦への必勝態勢を備へてゐたわが陸海軍のみは、誠に陛下の股肱たるに応はしい国民中の国民であつたと申さなければなりません。しかしながら、われわれも亦、日本人なることに変りはないのであります。

「大君のしこのみ楯」と勇んで出で立つたわれわれの兄弟、夫、父、親、息子たちは、いづれも、昨日までは、われわれと共にあつて、野良に出で、算盤をはじき、事務所に通つてゐたのであります。

 戦場に於ける彼等の心構へをわれわれが日常の心構へとすることはできないでありませうか? 私は、必ずしもこゝで、生と死との問題を論ずるつもりはありません。

 われわれの日常の御奉公は、立派に生きることであります。立派に生きるためには、先づ、何をおいても、存分に鍛へられなければなりません。仕事の上では、血のにじむやうな修業を積むことであります。そんな修業が今、何処で行はれてをりますか?

 次には、生活の上での、家庭の躾けをやり直さなければなりません。此の躾けは、徒らに旧い型を押しつけるのでなく、新時代の健全な生活感情を盛つた、闊達明朗な風俗を作り出す基礎たらしむべきであります。躾けは、つまり、あらゆる意味に於ける家庭的訓練であります。たゞ単に礼儀作法を教へるといふやうなことでなく、困苦欠乏に堪へる習慣をつけ、常に秩序に服するよろこびを知らせ、真の恩義と、真に美しい心とを感じ得る能力を養はせ、すべての知識を知識としてでなく、これを人間の智慧として身につけさせることであります。そして更に、今日特に大切なことは、家の名、家の業に対する誤りのない自尊の念を植ゑつけることであります。

 以上のことは、家庭だけの躾けで十分の効果をあげることはできません。学校も社会も、これに協力すべきはもちろんでありますが、私の考へでは、先づ、それぞれの家庭に於て、この際、次代の国民を育てるといふ重い責任を自覚した上で、是非ともこの方向に一歩を踏み出したいものだと思ひます。

 家庭にこの風が起れば、学校の教育は非常に楽であります。社会も亦、これに応じて変つて来ませう。既に宣戦の詔書渙発以来、国民のゆるぎなき決意と満々たる抱負とは一人一人の表情のうちに読みとれるやうな気がいたします。

 大東亜の指導民族として、この奇蹟にもひとしい、武力を中外に示すことのできた日本人が、他のすべての点に於て、後進諸民族の信頼と畏敬をかち得るために、われわれは、先づ、何をしなければならぬかといふ問題が、既に提出されてゐるのであります。

 経済産業の領域では、それぞれ専門家の腕が振はれるでありませう。

 文化工作として先づ日本の真の姿をはつきり知らせる必要があります。文書による宣伝の外、映画の活躍する舞台がなかなか広いのでありますが、これはもう準備が整つてゐるでせうか? 少し心細いやうに思ひます。日本語の普及をはじめとして、学校の経営、指導にも乗り出さなければなりますまい。医療施設の万全を期することも急務であります。すぐさういふところへ手が届くでせうか? 宗教家に何等かの用意ありや? 南方民族に関する学術的研究がどの程度まで進められてゐたか? かういふ風に考へて参りますと、われわれは、今迄、何をしてゐたかと思はれる節々が非常に多いのであります。

 殊に、将来に亙つて最も禍根を残しはすまいかと思はれることは、米英の異民族統治法が、如何に人道に反するものであつたにせよ、彼等には白人独特の政治的謀略があり、物質文明を誇り示すことによつて、楽々と優越的な地位を占めることができたのであります。今や、白人をもつて最優等の人種と見做す習癖は東亜諸民族のなかに深く根をおろしてゐるに違ひありません。われわれ日本人は、先づこの迷妄を打破してかゝらなければなりませんが、それがためには、例の物質文明に代るところの、しかもそれ以上に彼等東亜諸民族にとつて魅力あり、渇仰おくことのできぬやうな「何物か」をわれわれが如実にもたらすことが絶対に必要であります。

 私は、それこそ、「日本人の優にやさしき心」以外にはないと信じます。それは決して人に示すための作り物であつてはなりません。われわれの日常の生活、一人一人の言動のはしばしに、おのづから示される品位と温みとであります。

 昭和の戦陣訓も、将兵に諭すに、「ゆかしく雄々しく」あれと云つてをります。

 武力そのものにさへ、「ゆかしさ」を添へなければ日本の武士道は成り立ちません。まして、武力の後に平和の建設に従ふわれわれは、弱みにつけ込む浅間しさと、徒らに人情家を衒ふ親切の押売りを排した、堂々たる兄貴振りをみせたいと思ふものであります。これはもう、「心掛け」とか「自粛自戒」とかいふ程度の間に合せでは駄目なのであります。

 日頃、しかも、若い時分から、自らも鍛へ、人にも鍛へられて、錬りに錬つた精神と生活の自然なあらはれが物を言ふのであります。日本人の真の優秀さといふものは、かういふ形で先づ世界に誇り得るものとならなければなりません。

 今更らしく、私がかういふことを申すのは、今こそ、われわれは、一斉に、不断はなかなかやれないことをやらうといふ勇気と自信とが湧いてゐるからであります。

 決死の覚悟といふことを云ひますが、身命をなげうつのは必ずしも外敵を前にひかへた瞬間だけでなくてもよろしい。国を危くする敵が、若し、われわれの不覚な心のうちに宿つてゐるならば、これと刺しちがへて死ぬのが忠義の道だと私は信じます。日本を、かくあらねばならぬ姿に返すために、お互は、先づ自分自身を鞭うちませう。

 年を取つたものは、習慣を改めるのに非常に骨が折れ、或は努力しても効果がない場合さへあります。私は、やゝ年を取つたものゝ部類でありますが、同年配以上の方々には、決して要求がましいことは申しません。たゞわれわれ年配の者でさへ、次に来るべき者のために、自分を叩き直したい念願でいつぱいなのは、敢て私一人だけではないと信じます。

 私は、先づ、自分で実行してゐることについて、主として青年諸君にご相談申したいのですが、なんでもないことで、若しそれが諸君のすべてによつて行はれたら、その日から、日本は、それだけでもうわれわれの望むところへ一歩近づいたと云へるやうな、ほんの、例であります。

 電車やバスなどの中で、青年諸君は病人でない限り必ず起つてゐること。座席が空いてゐて誰も腰かけるものがなければ、強ひてそれに及ばぬとも云へますが、しかし、起つといふことは一つの訓練であり、また、青年は乗物の中で凜然と起つてゐるのが一番青年らしいといふ意味に於ても、私は、これを是非奨めたい。女子青年もなるべくといふ範囲でこれに做つてほしい。

 序でながら、子供を連れた親が、子供を坐らせるために汲々としてゐるのは甚だ見苦しい。子供を起たせることは、そんなに心配なことではありません。却つて、七八歳以上の子供は、青年並に起たせる方が訓練になるのであります。

 こんなことでも、青年諸君が自発的に挙つてこれをやりはじめるといふ事実は、決してそれだけの効果には終りません。それは正に、遠大な理想を目指して進むわが日本国民の烈々たる意気の無言の表象であり、いはゆる国防国家建設への新しい時代の情熱が、正に発火点に達したことを告げ知らせるものであります。


 香港落ち、マニラ落ち、シンガポール将に落ちんとして、われわれは、相次ぐ海陸の大戦果に胸ををどらせてゐるのでありますが、お互にもう鼻を高くし合つてゐるばかりが能ではないと思ふのであります。こゝ一と月の歴史は、日本の発展からみておよそ五十年の飛躍を遂げたと私は信じるのでありますが、この急激な発展は聊かこれに伴はない部分を目立たせる結果になつたやうにも思へてなりません。

 みんなが、先頭に追ひつくまで、みんなが駈足であります。足許に気をつけて、精一杯の速力を出しませう。(一月七日放送原稿)

底本:「岸田國士全集25」岩波書店

   1991(平成3)年88日発行

底本の親本:「文学界 第九巻第三号」

   1942(昭和17)年31

初出:「放送 第二巻第二号」

   1942(昭和17)年21

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2010年31日作成

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