演劇統制の重点
岸田國士



     国家の権威と責任で当れ


 世界を通じて、演劇は今や膠着状態にあるやうである。歴史的にみてさういふ時代が過去にもむろんあつたが、この状態は当分続きさうな気がする。

 なぜこんな風になつたか、その原因をひと口に云ふのはむつかしいけれども、つまりは現在が芸術の開花に適しない社会的情勢にあることをまづ考へなければなるまい。そのうへ、演劇は特に近代企業として様々な矛盾する面を含んでゐて、その点、映画の生産と普及に押され勝ちであり、且、純粋芸術としての発展進化のうへでは、一定文化水準の観客層がこれを支持すべき物質的精神的の余裕をもつといふことが最大要件なのである。

 これはわが国についてのみ云つてゐるのではないことをもう一度明かにしておいて、さて、欧米に於ては、この危機が如何に当面の問題として処理されてゐるかはその国々によつて異るやうである。私は、自分の国のことについて識者の注意を促したいと思ふ。

 古典劇としての歌舞伎は例外として、現代劇、即ち、現代日本人が現代の思想と感覚とをもつてする舞台表現なるものをまだ完全に育てあげてゐない今日、早くも演劇の不振時代が来たといふことは、まことに由々しいことである。一部の演劇関係者は、私のこの言葉に不審を抱くであらう。なぜなら、劇場は到るところ満員に近く、殊に新劇の如きでさへいづれも予想外に客足がつきだしたといふ現象を極めて楽観的にみてゐるからである。

 私は逆に、この現象のなかに、演劇の停頓乃至退化を指摘することができる。が、この議論はしばらく預るとして、私の若干の経験は、今こそ、日本演劇の整理と改革の好機だといふことを教へる。演劇当事者の間でその動きがなくはない。

 しかし、これまた私の観察によれば、わが国の風潮の悲しむべき一面であるが、これをいつまでも民間の努力にのみ委ねておくことは、百年河清を待つにひとしいことを先に私は宣言せざるを得ぬのである。

 戦時の要求に応ずる文化部門の身構へといふ意味とは別個に、また、政治理論の芸術的扮装などと混合しない範囲で、国家は速かに演劇統制に乗り出してほしい。最近新聞の報ずるところによれば、そのプログラムも一応できあがつてゐるやうである。われわれはその内容について直接当局からはなにも聞いてゐないけれど、各項目をざつとみたところでは、別に驚くやうなことはひとつもない。

 たゞ最後に自分の眼を疑ひたいほど会心な一項目が掲げられてゐるので、それだけでも、政府の意図するところを私は汲むことができた。その項目といふのは、国立演劇研究所の創設である。

 かねて私は機会ある毎に、かゝる国家的施設の必要を叫んでゐたのである。わが国の演劇界の現状は、誰がなんといはうと、正しい意味でのアカデミズムの欠如が唯一の弱点であつた。技術の訓練も、人材の吸引も、品位の向上も、理論はとにかく、実際問題として、まづそこから出発しなければならぬのが、少くとも日本的特殊事情なのである。

 演劇そのものに対する社会的偏見の是正は、国家がその権威と責任とをもつてこれに当る以外、もはや近道はないと私は信じる。

 さて、然らば、どんな演劇研究所ができるか? 恐らく急速にといふわけにはいくまい。技術の新しいメソードの樹立といふ見地からでも、いくらかの準備期間が必要かも知れぬ。形式にとらはれて、無きに如かざるやうなものが出来あがれば、それこそ時節柄、国家の大なる損失であるが、所謂、世界的日本建設の掛声が、演劇芸術といふ限られた部門において偶然最も根本的な問題に触れ得たことを私はひそかに悦ぶものである。


     耳による正しい国語教育


 演劇の社会的効用について論ずる人は多いが、演劇と国語教育とを結びつけた意見といふものがまだ日本には現れてゐないやうである。

 これは、在来のわが国の演劇が、伝統的に時代の教養から遊離し、高い意味での文化的な指導性をもつてゐなかつたことが第一の原因であり、第二の原因としては、今日までの国語教育乃至国語の修得といふことが、主として「文字」を通じてなされ、「読み書き」が主であつて「音」による「言葉」の研究がいくぶん軽視され、「聴き方、話し方」の訓練法が殆ど体系づけられてもゐないやうな有様であるといふことを挙げなければならぬ。

 私は国語教育について特に専門的な意見を述べる資格はないが、演劇方面の仕事に関係して痛切に感じてゐることは、俳優技術確立の基礎条件として、この国語教育の欠陥を先づ埋めなければならぬといふ事である。

 国語といふのはつまり、日本語のことであらうと思ふが、抑も語感から云つて、これとそれとはなんといふ違ひだらう。学校で国語は習つたが日本語は習はなかつたといふものがあれば、誰でもなるほどさうかとすぐその意味がわかるくらゐである。

「書かれる言葉」は、なるほど、文章として、学校の先生から、正しく、時としては、美しく学ぶことができる。しかし、「話される言葉」は、学校の先生のすべてがこれを正しく美しく教へることは困難な事情がある。

 先生の心掛けと、当局の配慮によつて、むろん、ある程度までの指導はできるが、自ら模範を示すといふことはなかなか厄介である。従つて、さういふ部門の専門的な教師が必要になつて来る。

 此教師の養成は何処でやるか? 師範学校あたりで特別な講座を設けることも差当り必要であらうが、その講座はどういふ人物が受けもつことになるか? かうなつて来ると、「正しい日本語の標準」といふものが問題になる。その日本語は正しいばかりではいけない。活きてゐなければならぬ。現代の感覚に愬へなければならぬ。さういふ言葉の完全な遣ひ方は普通の「練習」ぐらゐでは間に合はぬ。それはもうこのことをひとつの職業として身につけ、これに熟達し、万人を首肯せしめるていの魅力ある技能となつてゐることが大事なのである。

 耳に愬へる言葉の価値が国民生活の文化的表現として夙に尊重されてゐる国では、演劇がおのづから国語教育の一分野を受けもち、俳優は「話される言葉」の正統的なエキスパートとして、社会全体がこれを認めてゐる事情を、今更ながら私は当然なことゝ思ふ。

 最近わが国にも紹介されたフランス映画の「とらんぷ譚」といふのは、サシヤ・ギイトリイといふ俳優がはじめから終ひまで一人で喋りつゞける風変りなトオキイであるが、この映画の面白さは、フランス俳優のさういふ教養と技術を土台として仕組まれたものと解するのが適当である。

 国立劇場コメデイイ・フランセエズのマチネーには、小学生や女学生が古典劇のテキストなど持ちこんで舞台と睨めつくらをしてゐる図をよく見かけるが、これは、学校の先生や両親に連れられてフランス語の正しい「言ひ方」を聴きに来るのである。

 また舞台を退いた老俳優とか、舞台の収入だけでは生活に余裕のなささうな官吏俳優の内職が、「朗誦デクラマシヨン」或は「会話コンヴエルサシヨン」の個人教授であることは周知の事実であつて、これまたフランス語教育の立派な一部門とされてゐる。

 日本の演劇が今直にさういふ役割を果し得るとは決して私も考へてゐない。舞台がさういふ方面に発達もしてゐないし、俳優もさういふ風に教育されてゐないからである。しかし人各々その畑ありで、国語教育の極めて重要な課題が、学者や教育者の手だけで解決されるものでないことを注意しなければならぬ。と同時に、日本語の研究といふ点で頗る怠慢かつ横着であつたわが演劇当事者の反省をも当然促すべきである。


     観客層と新劇の宿命


 最近に於て新劇の観客が非常にふえて来たのは事実である。これにはいろ〳〵原因もあるが、前に述べたやうに、これをもつて新劇そのものゝ飛躍とみることはできないのである。一方、新劇団のあるものは、所謂職業化を目ざして経済的立場からの企画を云々するやうになり、またある種の劇団は、新劇の看板たる先駆的傾向を封じて、アカデミツクな、乃至は普遍的な上演目録を追ふやうになつたことも計算にいれなければならぬ。

 また、同時に、脚本、演技を通じて、「試み」が少くなり、従つて「独りよがり」で見物を悩ます度合がたしかに減つたばかりでなく、写実の地道な勉強がいくらか舞台にコクをつけ、その範囲では最もわかり易い、誰にでも親しめる芝居の味を出しはじめてゐることは否めないのである。

 私自身は、新劇関係者として、この現状を必ずしも悲観的にみてはゐないが、可なり警戒すべき時期だといふことを見逃し得ない。と云ふのは、今日の観客は新劇から何かを学ばうとはしてゐないし、況んや、面白くないのを我慢して見てはゐないのである。云はゞ、見物としては素人が多い。しかも、厄介なことに大人である。わが演劇界の特殊事情は、新劇がやはりこゝから出発しなければならぬやうになつてゐるのである。

 してみると「もう新劇は見る気がせぬ」と云つて早くから背中を向けてゐる人々の多くを私は識つてゐるにつけても、もう一度それらの人々が今日の新劇の立場を考慮にいれて、これを健全に育てゝ行く熱意を示してくれることを望むものである。

 日本の新劇は、やつと、こゝへ来てほんたうのスタートを見つけたのである。新劇はこれまでのやうに自分を思ひあがらせる何ものをも身近に持たなくなつた。ほんたうに「芝居として」面白くなければならぬ──むつかしく云へば、演劇の本質に徹した魅力を備へてゐなければならぬ、といふことを痛切に感じだしてゐる。時局におもねるし物を軽々しくやらぬのも、その心掛けのゆゑであらう。

 以上のことは、日本の新劇の歴史を顧みてまことに感慨に堪へないひとつの結果を意味するのである。つまり、日本の新劇が、その本来の使命を自覚し、衒学とスノビズムから脱却して、真の現代劇の樹立に邁進するために、過去三十年の彷徨を余儀なくさせられたのである。この間に、新劇は「芝居の愛好者」を徐々に劇場から遠ざけた。

 西洋の新劇運動は、概ね新理論に基く演劇の革命を目指してゐる。日本では、その前に、演劇の風俗的現代化が必要だつたのである。新劇俳優の技術が上達するにつれて新派に接近するとは今日もなほいはれてゐることであるが、これはいふまでもなく、風俗の現代化が新劇に於てすら等閑視されてゐた証拠なのである。

 新劇の忠実、且つ素朴な観客はそれゆゑに、翻訳的な科白せりふをより新劇的なりと思ひ込んでゐる。罪は何れにもあるのである。

 私は、嘗ての新劇愛好者を信用しない。寧ろ、現在の新劇が偶然に惹き寄せた観客にある期待をかける。即ち、こゝしばらく、新劇はこの観客の多数と共に成長し、進化し、変貌しなければならぬ。なぜなら、これらの観客は少くとも、この時代に於て、自分の眼をもつて物を見、自分の感覚で真実を嗅ぎ分ける能力をもつてゐる人たちだと思ふからである。

 現在の新劇は、明日の近代古典となるのが唯一の正しい目標であると、私は固く信じる。明日の新劇は、われ〳〵の巣から飛び立つ若い頼もしい反逆児でなければならぬ。この宿命のいさぎよい担ひ手を私は、すでに私の周囲に発見して、自分の仕事の力強い支へとしてゐるのである。

底本:「岸田國士全集24」岩波書店

   1991(平成3)年38日発行

底本の親本:「東京朝日新聞」

   1939(昭和14)年41719

初出:「東京朝日新聞」

   1939(昭和14)年41719

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年1112日作成

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