『月・水・金』の跋
岸田國士


 卒業製作の採点を命ぜられて、一番困つたことは、標準を何処におくべきかといふこと、並にその点数に表はれた数字が、結局何を意味するか第三者に解つて貰へるだらうかといふことであつた。

 学校の成績といふものは大体さういふやうなものであらうから、別にさうやかましく考へなくつても、本人にさへ実質的な迷惑が及ばなければ、あとはこつちの勝手と腹を決めた。

 この集を編むについて、私の組から、大木、八谷両君の製作を撰んだのも、私は、やはり、両君の名誉(?)といふことよりも、寧ろ他の諸君の為めを顧慮した結果だと云ひきることができる。つまり、大木、八谷両君と雖も、後来、これ以上のものが書けない人ではないが、他の諸君のものは、なんとしても、今世間へ発表するのは早すぎるといふ性質のものである。

 元来、誰がどう工夫しても、作家や評論家を養成する機関といふやうなものは、先づ在り得るとは思へない。明治の文芸科は、その組織から云つて、まづまづ好ましい文学的雰囲気を作つてゐると考へられるだけで、他日、こゝから何かゞ生れるとすれば、この一巻の選集は単なる出発準備を示す合図に過ぎないであらう。

 大木君の戯曲は、一と通り「もの」になつてはゐるが、決して同君の才能をすら出しきつた作品とは云へない。妙に飛躍のないことも不満である。たゞ、生活を観る相当肥えた眼が、必要以上に衒気を封じたのだと云へば云へるし、更に、熱情を湧き上らせるものさへあれば、こゝから新しい領域を開拓して行つて、決して間違ひはないと思ふ。

 八谷君の論文は、研究として私は面白いと思つた。批判の鋭さよりも、対象を捉へる意欲の逞しさを認める。整理されないもの、周到さに欠けるものはあるが、泡鳴の現代的解釈として興味ある問題を抽き出したことは、方法の如何に拘はらず、同君の文学的精進を語るものだと思ふ。

 さて、かう述べて来て、まだ何か不安なものが残る。私の受持つてゐる指導講座なるものが、その名に値しない貧しいものであつたといふやうなところから来る感慨かも知れない。しかし、幸にして、それは一週僅か二時間である。八谷、大木両君はもとより、私の組にゐた今度の卒業生諸君が、三年間に学び得るところがあつたとすれば、それは、「一週二時間」の如何に拘はらなかつたこと勿論である。これは是非この機会に云ひ添へておきたい。

底本:「岸田國士全集22」岩波書店

   1990(平成2)年108日発行

底本の親本:「月・水・金(明治大学文芸科卒業製作選集1)」健文社

   1935(昭和10)年625日発行

初出:「月・水・金(明治大学文芸科卒業製作選集1)」健文社

   1935(昭和10)年625日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年95日作成

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