東京朝日新聞の劇評
岸田國士


 近頃変つた試みだと思ふのは、東京朝日がこの春あたりから始めた劇評の形式である。これは結局、一二の人を除き、今日、専門の劇評家として、大新聞の劇評を担当させるやうな見識才能ある人物がゐない結果、苦肉の策として考へ出された「名案」であらうと思ふが、私は、可なり興味をもつて、これを迎へたものの一人である。今日までなかには、責任のがれのお座なりや、素人通の見当外れがないではないが、概して、人選にも与太つ気が少く、私などの聴きたいと思ふことを聴かして貰へるのが、一方うれしくもあり、為にもなるといふ気がするのだ。さすがに、本職と心得ない自分への遠慮と、世間への慎しみがあつて、思ひの外点の甘い傾向は共通らしいが、却つて、本職の批評家が云ひ渋るところで、ずばりと急所を突き、いつものこととして一方が触れずにおくところを、正面から打ち込んで行くといふやうな態度は、多くの場合、私など、双手を挙げて賛成したくなる。

 いちいちの批評をここで取り上げる暇はないけれど、これらの人々が、殆んど例外なく、「今日の芝居」に対して、根本的に不満を漏してゐたことは、見逃すべからざることで、これが、決して、所謂純芸術的な立場からでなく、十分、娯楽としての要素を加味した演劇の立場から、俳優並に興行者側に対し、相当理解ある間接の忠言を与へてゐたことは、極めて意義ある現象と思はれた。殊に、新派劇に関し、これを近代劇として批判することの当否は別として、少くとも、これをわが国唯一の現代劇たらしめようとする意図の下に、何れも、忿懣に近い感情を以てその舞台を眺めたらしく察しられるあたり、私は、百の味方を得たといふやうな心強さを感じた。

 ただ、残念ながら、この種の劇評は、実際その芝居を観に行くやうな人が、殆ど読むまいといふことだ。

 それにつけても、劇評といふものさへ、現在の日本では、まだ、正しき地位を与へられてをらず、読者が、それによつて、「演劇の手引」をされるなどといふことは滅多になく、単なる「内輪話」のやうなものになつてしまつてゐることを不思議としないわけに行かない。

 劇評に権威があるとかないとかいふのは、無論、演劇当事者にとつてでもあるが、それ以上に、劇評それ自身が読者に働きかける仕組になつてゐなければならぬ。先づその芝居を観に行く前に読めるやうにすることが第一である。次に、その芝居を観てなくても、面白く読めるやうにすることが第二である。更に、その芝居を観に行きたく、或は観に行きたくなく(?)するやうに書くことが第三である。最後に、その芝居を観た時、その舞台から「何を感ずべきか」を教へ示すことが第四だ。

 ところが、現在の劇評といふものは、さういふ仕組になつてゐない。軍隊の検閲や演習には「講評」といふものがあるが、それは、検閲を受け、演習に参加した部隊の幹部、時にはこの部隊全体に、検閲官又は上官が、一場の意見、注意を述べるのであつて、専門的に明瞭適切であるかもしれぬが、要するに「二人称」的であつて、第三者には、なんのことやらわからんのである。現在の劇評もややこれに類する嫌ひがなくはない。のみならず、いろいろの事情によつて、第一の条件は十分に満たされず、第二の条件は、努めても、張合がないに相違なく、第三は、観せたいやうな芝居が滅多になく、その上、観せたくないと云つて、観に行かないものは、はじめから観に行かないものばかりだから、何を云つてもしかたがない。そして第四に至つては、劇評家の手を俟たなければ、感ずべきものが感じられないほど「芸術的な」脚本は、どこでもやつてゐないから、その必要がないと云へばないのである。

 大体、かういふ傾向の劇評界に、職業的な立場を離れ、寧ろ、一個の見物として土産話をするやうな即席劇評家の登場は、それが、他の方面──殊に、文学芸術の領域に於て、それぞれ信用ある人々であるだけ、一般読者は、親しみと好奇心をもつてこれを迎へるだらうと想像されるが、さて、それらの読者は、多くそんな芝居を観てゐないのみならず、それによつて、その芝居を観ようとか観まいとかいふ気を起すのでなく、頭から、「自分もそんなことだと思つてゐた」と考へるぐらゐが関の山であつたら、折角の朝日の企ては、劇評といふ名目の大部を失ふことになるのだ。

 一体文章などといふものは、誰が読むかを予め考へて書くべきであるかどうか、私自身時によつて、いろいろ使ひ分けをするやうな次第だが、少くとも、ひとたび、ヂャアナリズムの方向に乗り、その機関を通して発表する以上、既に、ある種の目標が決定されるわけだ。劇評にしろ、創作評にしろ、数万、数十万の読者を有する新聞雑誌に掲載せられるものとしては、常識から云つても、せいぜい五百か千の「専門家」乃至「専門的アマチュア」のみに呼びかける種類のものでは、どうかすると、その五百か千の人々が、却つてこれを見落すことにより、結局、発表する意味がないといふことになりはすまいか。なるべく多数の人々が興味を有つ問題を取り上げるのが、ヂャアナリズムの一特色だとすれば、さうでない問題でも、なるべく多くの人に興味をもたせるやうに書くことも亦、ヂャアナリストの仕事だと思ふ。劇評家が、劇評の筆をとる時は、少くとも一個のヂャアナリストたる役割を兼ねてゐるので、私は、その点、好い意味での啓蒙運動が、劇評界の一角に頭を持ち上げてくれればいいと思つてゐる。(一九三三・一)

底本:「岸田國士全集22」岩波書店

   1990(平成2)年108日発行

底本の親本:「現代演劇論」白水社

   1936(昭和11)年1120日発行

初出:「改造 第十五巻第一号」

   1933(昭和8)年11日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年95日作成

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