久保田万太郎氏著「釣堀にて」
岸田國士



 これは久保田氏の五冊目の戯曲集だといふことである。なるほど数へてみるとさうだ。なぜそれがそんなに不思議な気がするかといふと、戯曲界のこの大先輩が、今日まで劇作の筆を執りつゞけ、しかも、量にすると僅にそれくらゐの数しか書いてゐないかと思ふからである。実際、僕は、久保田氏の作品を随分昔から愛読した。その独得の詩的境地もさることながら、先づ第一に感服したのは、氏の戯曲が何人にもまして、西洋近代劇の伝統を渾然たる姿において日本的表現のなかに活かしてゐるといふことであつた。いひ換へれば、日本にはじめて、心理と雰囲気の劇をつくりだし、しかも、所謂、文学の精神に通ずる劇的文体の新しい一つの見本を示したのである。

 氏、みづからいふ通り、「作品にも運不運がある」やうである。傑作、必ずしも評判にならない。久保田氏の作品を通じて、僕の好みからいふと、寧ろ小品に優れたものが多いと思ふが、やはり、「大寺学校」に次いで、今度の集に収められた「ゆく年」は、力作であると同時に傑作中の傑作である。雑誌に発表された時は、誰でもさうであるが、ついあわたゞしい読み方をするために、久保田氏の戯曲のリズムに乗つて行けないことがある。耳を澄まさなければ音色の聴きわけ難い調べもある。構成もうますぎるほどうまいし、殊に、お家の芸ではあるが、心理の畳み込みがひときは鮮かで、手馴れた役者で舞台が見られたらと思ふのは僕だけではあるまい。

「ふりだした雪」は、今年の二月、歌舞伎座で新派がやつた。珍しいことだが、やはり僕は見に行かなかつた。新派では、ちよつと違ふのである。

「鵙屋春琴」といふ題で、谷崎氏の有名な小説「春琴抄」の戯曲化されたものがのつてゐる。これは、花柳章太郎のを見た。脚色は谷崎色をはづれてゐると思つたが、それは無理もないことで、花柳の春琴だけは、まだ眼に残つてゐる。読返す必要がある。その他、「好晴」「はくじやうもの」、それに「釣堀にて」は、久保田氏のものとして、ちよつと風変りなところがあり、おやと思ふ人もあらう。友田恭助が老人直七に扮してなかなか味を見せたのはもう、一年、二年になる。

 最後に、この戯曲集の「附記」を読んで、僕は、つく〴〵久保田氏の芸術家としての矜持を羨ましく思つた。この矜持は、氏の良心的な仕事の裏づけになつてゐると同時に、その仕事の成果に対する純粋な愛著を透してみられるものであり、そこに、氏の名匠気質がうかびでてわれ〳〵ははたと自分を省みないわけに行かなくなる。

 久保田万太郎氏は、恐らく現代作家中、最も永く後世に生きる作家の一人であらう。

底本:「岸田國士全集23」岩波書店

   1990(平成2)年127日発行

底本の親本:「東京日日新聞」

   1937(昭和12)年616

初出:「東京日日新聞」

   1937(昭和12)年616

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年1112日作成

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