今月の感想
──文芸時評
岸田國士



       一


 雑誌を一度に隅から隅まで読むのは辛いから、私は、さういふ義務を負はない約束で、この文章を書くことにした。

 私が今、拾ひあげたい問題といふのは、当節やはり一番人々の注意を集めてゐる日本対世界、民族対人類の問題であらう。これは私自身についていへば、もう解決ずみなのであるが、理窟をこねればこねられないこともない。たゞ、多くの人の議論を読んでみると、たいていは自分の立場をはつきりさせることに汲々としてゐるだけで、それによつて新しい眼界が開けるやうなものは先づ少いといつていゝ。

 つまり、さういふ立場からはさういふより仕方があるまいと思はれるやうなものばかりである。が、それも個人の仕事の順序としてはやらなければならないことであらう。たゞ、何時果つべしとも思はれないのが少々焦れつたい。

 私の観るところ、文学者としてさういふ意見を発表してゐる人々は、何れも立派な心掛けをもつてゐる人々で、いはゞ、日本人としても、世界人としても精神的貴族の部類にはいる人々なのである。ほかにいふことがなければとにかく、相手の議論が世に害毒を流すといふ理由で、それ〴〵相手を打ち負かさうと意気込むその態度はなるほど真剣ではあらうが、翻つて、その意気込みの相反撥する結果を考へたならば、読者大衆を五里霧中に追込むだけである。そこから、努力してはひ出るものは、荒れ果てた土壌の上に茫然と眼をおとさないわけに行かぬといふのが、ともかく日本の現状なのである。

 官僚風に挙国一致などを強ひるわけでは毛頭ないけれど、文学者は、もつと高遠な思想に遊ぶか、もつと卑近な現実を直視すべきであつて、所詮そこでは、日本人の頭で、文化の未来を考へ、日本人の心情で自他の幸福を思ふよりほかないのである。

 平明に哲学することのできぬ国語での、半分づつわかりあつた論戦にはお互にもう倦きてもいゝ頃ではないか。対立する思想よりも、共通の観念に興味を持ちはじめたのが例のヒユウマニズムの呼び声だと思つてゐるうちに、ヒユウマニズムが更に頭と尻尾との噛み合ひに終つた形である。これが、民族対世界の奇怪な同士討だとしたら、誰が喝采などしてくれよう。

 軍部と議会との渡り合ひを昨日今日われ〳〵はどんな気持で眺めたであらう。どつちかへ加担するものがあつたら、私はとくとその理由を訊ねたい。国民は単なる論理やジエスチユアに迷はされてはならぬ。真実を語るのはたゞ、己れを無にした精神の火花だけである。

 こゝで引合ひに出すのは、聊か「月遅れ」に違ひないが、横光利一氏帰朝第一回作品「厨房日記」を再読し、これに対する諸家の批評をのぞいて、私は、感慨に耽つた。これは作者自身のいふ「現代日本の知性」が欧羅巴的なものに立ち向ふひとつのポーズを鮮かに描いてみせた作品の好適例であるが、私は敢てこの皮肉な作品の意識的な構図を分析しようとは思はない。なぜなら、それはもはや横光風ともいふべき詩学の究極を示すに過ぎないのであつて、それよりも、私がこゝで考へたいのは、同氏をしてかゝる主題を選ばせた動機が、親しく見聞した欧羅巴の心理にあるのではなくて、帰朝と同時に触れ得た文壇的雰囲気にあるのだといふことである。そして横光氏の例の鋭い感受性はその雰囲気の稜線を見事に発見した。が、それと同時に一方の斜面への急滑走が開始されたのである。こゝにもつまり私のいはうとする「共通の観念」の省略があつた。

 作家横光の感懐は、かの独得な措辞法のなかにはないのであつて、作品の真実が、なほかつ、われ〳〵の胸にふれる所以は、実に、作者が所謂「欧羅巴の知性」に眼を据ゑてゐるところにあるのである。


       二


 林房雄氏の説によると、近頃、文壇の一角に「新日本主義」ともいふべきものが擡頭しつゝあるとのことである。ロマンチシスト林氏の命名であるから、この名前は、勿論、ロマンチツクに解すべきであるが、それにしても、これは、「新世界主義」といふ別名を与へるにふさはしいものではないかどうか? かうなると、日本フアツシヨの宣言めいてよろしくないといふなら、もう少し命名を延しておく方がよろしからう。

 私は私流に、あるひとつの傾向を指摘することができる。例によつて、そのなかに含まれる個々のものを、特異な面によつて区別するよりも、共通な面で捉へることに現在はより以上興味をもつといふ建前のもとにである。

 どうせ大ざつぱないひ方しかできぬが、それは、文学者として「現在の危機」と戦はうとする一種ストイツクな犠牲的相貌である。

 かの江戸文学から明治の自然主義、更にプロレタリヤ文学の全盛期から今日へかけての近代日本文学の伝統の底に、見逃すことのできない暗黒な一点を、何時、今日ほどまざ〳〵と世人の眼に投げ出してみせた時代があらう。いはゆる、純文学の宿命がそこに繋りをもつといふ意味さへ、今やうやく、一部の人々は気がつきだしたのである。

 この絶望感は、必ずしも虚無的な形で現れないのは勿論、現実を眺める角度にも関係はないのである。従つて、理想社会をめざす戦闘文学の光明性すらも、なほかつ「現在」を照らさないといふ矛盾があり、読者は文学のうちに「現在」を生きようとして、常に冷やかな白眼に出会ふ習慣を与へられた。かゝる文学的性格は何処から生れたかといへば、わが封建制の特殊産物たる階級的倫理教養が、一切の反逆精神を陰性化したところにあり、憤懣は諷刺にさへ伸び得ず、引火点は直ちに自己破滅を意味する激情の燻りを歴史は幾度も語つてゐるのである。

 多くの西洋人は、如何に屡々日本人が「仕方がない」といふ言葉を使ふかに気づいてゐる。これをわれ〳〵が「諦め」なる美徳の表れなりとすることは自由であるが、その美徳が、実は、曲者なのである。またこれを風土的に解釈することも勝手である。が、その自覚のみからは何ものも育たないのである。

 少くとも、かういふ民族的性格との闘ひを、一部の文学者が試みようとしてゐることは事実である。彼等が、それを意識するとしないとは別問題である。そのうちのあるものは、一見、民族的自負を強調するかの如く見えるため、これを反動的と断ずるのは、大きな誤りである。彼等は、正確にいへば日本を語ることに自信をもちだしたゞけである。なぜ、さうなつたか? 自分の眼に、はつきり日本人といふものが映り出したからである。民族の強味と弱味とを同時に自分のうちに感じだしたからである。彼等は、それをまた、現代日本文学のなかに発見したのである。


       三


 そこで例へば、文学者の「日本民族の力を信ぜよ」といふ表現のなかには、「現在の文化的危機を必ずしも世界的にでなくてよろしいから、一時も早く、そして先づ、日本的に救へるだけは救はう」といふ決意が示されてゐるものと解すべきであるが、さう解してさへもこれを昨今の内外情勢に照して、甚だ不都合な側のいひ分であると断じなければ気がすまぬひとつの立場を、私は幾分承認できるつもりである。たゞ、双方で、さういふ対立する部分的観念(ある時代にはこれが部分的ではなくなるかも知れぬが)に拘泥して、自分たちが、「ある処までは」手をつないで共同の敵と戦ふ役割を果さねばならぬ──また、それが可能である、といふ事実を忘れてゐてはならぬと思ふのである。

 そのためには、どうしても、まづこの種の問題に関心をもつ文学者は、思想家である以上に政治家でなければならず、革命家である前に、啓蒙家(?)である必要がありはせぬか? 非合法の手段を懼れぬといふならこれはまた別である。活字として発表できぬ事柄を、無理に活字にしようとする苦心焦慮が、たま〳〵、今日、味方の揚足を取り、その言葉尻を押へて、間接の鬱積を晴らすといふことになつては困ると思ふ。誰がそんなことをしたと開き直られゝば、私は軍部大臣のやうに言葉を濁すかも知れぬが、なんとなく、そんな気がすることがある。

「寛容といふ陰険な近代病」もないことはないから、自ら自分の心に問うてやましくさへなければ、「文学」といふ仕事の名において、その人を信じ、当面の戦線を分担しつゝ、共同の活動に入るべき時期ではなからうかと、私はひそかに考へてゐる。

 その意味で、私は、文化的に「日本」だけが解決を急ぐ特殊な問題が沢山あると思ふ。しかも、そのなかには、文学者の手によつて解決の方向を与へらるべきものも少くないのである。さういふ問題を放棄して、如何に「人類文化のため」に戦つても、それは片手落でなければ、机上の空論である。

「文化はあと、思想が先」といふ説もあるが、それはどつちでもいい。理想をいへば、文学者は思想的な立場を異にするものが、なほかつ文化的には相互の立場を保護し合ふやうにできてゐるとさへ私は思つてゐる。さういふ面での、積極的な提携が、今日ほど有効で、必要な時機はないのだといふことを、みんなが早く気づいて欲しい。論争を封じてとまではいはぬ。論争の傍らでよろしい。戯談をいつてゐるやうに聞えるかも知れぬが私は今、戯談などをいへる気持ではない。

 早い話が、近頃の新聞か雑誌に、「文芸家協会の会館を建てるといふ計画はどうなつたか」といくぶん弥次り気味に書いてあるのを読んだが、第一、文芸家協会が何をしてゐるのかさつぱりわからぬといふ文学者が、そのへんにいくらもゐるのだから、心細いものである。目先のことばかり大事がるわけではないが文芸家協会は、会員の大部分並に、会員外の文筆業者がまつたくご存じない間に、日本文化史上画期的な著作権改正の仕事をやり遂げてゐる。

 文芸家全体のより一層積極的な関心がありさへすれば、日本文学のために、更に、世界文化のために、微々たる作品や論文一束に比すべくもない事業を達成し得ることゝ思ふ。それぞれ自分の畑といふものがあるにせよ、文学者一般がこの種の問題を俗事として軽蔑するところに考ふべき事実がひそんでゐる。

 それなら、国語問題はどうか? 小学教育の問題は? 新劇の問題は? 隣邦支那との文学的交渉の問題は? 出版合理化の問題は?

 このへんでやめておかう。

底本:「岸田國士全集23」岩波書店

   1990(平成2)年127日発行

底本の親本:「東京日日新聞」

   1937(昭和12)年12426

初出:「東京日日新聞」

   1937(昭和12)年12426

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年1116日作成

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