官立演劇映画学校の提唱
岸田國士



 演劇と映画とは元来なら別々に論ぜられなければならぬ要素をそれぞれにもつてゐるのであるが、現在の日本では、この二つの部門が、その芸術的水準と文化的役割とに於いて、寧ろより多く共通な問題を含んでゐることを見逃してはならぬと思ふ。つまり、現代の日本演劇に最も欠けたものがあるとすれば、それは今日の日本映画に於いても同様に最も欠けたものなのである。

 しかも、それは、専門批評家のみならず、一般国民が直接に感じながら、どうすることもできずにゐることなのである。つまり、その欠陥が現代演劇映画の根本的な「不健康性」を形づくり、他の芸術部門に比して、娯楽としても教養としても、現代の魅力ある生活表現となり得ない結果を招いてゐるのである。

 その欠陥とは何かといへば、俳優の不足である。優れた教養と正しい演技能力と、必要な年齢と、社会的責任の自覚とを併せもつた俳優がゐないといふことは、勿論演劇映画を純然たる企業化した資本家の責任であるが、これを商業主義の利用に一任した国民全体の無定見にも罪があることはいふまでもない。が、更に重大なことは、新文化建設の途上にあるわが国の指導階級、殊に、政治家たちが「芸術と国民生活」の問題にまつたく無関心な態度を示してゐるといふ一事である。

 なるほど検閲といふ制度はあるが、これはたゞ、当局が有害と信ずる部分を除去する手段であつて、それも、「芸術的作品」の有害無害は、如何なる標準に拠るべきであるかといふ考慮の下になされてはゐないのである。

 例へば、風俗壊乱云々といふが如きも、勿論、趣旨として取締は必要であるが、風俗の由つて来るところを弁へなければ、影響の性質も範囲も断定し難いのである。現在の検閲制度とその方針なるものは、ヂヤーナリズムをあげての卑俗化と頽廃化を如何ともすることができないではないか。

 これは余談だが、さういふ消極的な面に文化政策の機能を限ることが、そもそも間違ひなのである。が、最近は政府当局も、いろいろな動機で演劇、殊に映画への注意を向けはじめ、目的が何処にあるにもせよ、その事業の発展を促さうとする画策をはじめたやうである。ところが、その具体案をみると、なるほど世上恐れをなす政治的統制の色彩が濃厚である割合に、国家として手を下すべき根本的な施設に触れてはゐないのである。

 私がくれぐれも当局に注意したいことは、演劇映画の部門においては、若干の無資力にして性急な半素人的研究団体が存在した外、未だ嘗て、職業としての本格的な教育機関が何人の手によつても創られなかつたといふことである。

 事実、名称だけは俳優学校と呼ばれたいくつかの組織がありはしたが、そこには、合理的なメソードもなく、近代アカデミイとしての人的統一もないのである。文明国日本の文化水準から云つて、これまで何人をも首肯させるに足る専門的技術の指導機関がひとつもなかつたといふことは、誠に不思議な現象であると同時に、それだけ、演劇映画といふものが、今日時代に遅れ、知識層の支持を失ひ、国民全般の精神的栄養として役立つところが少くなつてゐるわけなのである。


 そこへ行くと、維新直後の役人たちは、世を挙げて欧化時代の風潮に乗じたものであるにせよ、今から考へると、なか〳〵洒落れたことをやつてゐる。つまり、「芸術と国民生活」の問題に、積極的な関心を示し、少くとも、近代国家の文化水準統一に若干の考慮を払つてゐるのである。例へば、その当時として、官立の美術学校及び音楽学校を創設したことなどはそれである。これら二つの機関が今日までどれほどのことをしたかは観る人によつて異るであらう。私のいひたいのは、たゞ、この西洋模倣のアカデミイが、実は、国際的な新日本芸術の揺籃であつたといふ事実を誰も否定しないであらうし、それは、時代へのよき刺戟であり、民衆への啓蒙であり、殊に生気あるアンデパンダンの育成を促した間接の役割に至つては、皮肉でなく、これを認めないわけに行かぬといふことである。

 その結果は、西洋音楽も西洋美術も、今日では立派に日本化され、われわれの日常生活に浸透し、民衆の大部をその保守的な趣味から解放し、国際的な洋服風俗と共に、自然な美的表現の感覚を養はしめたのである。

 如何なる国粋主義者も、軍楽隊を和楽化しようとは思はず、国歌の曲譜が三味線や尺八にのらないことを嘆じもしないし、銅像は東洋風の技法でなければならぬと誰も注文はしないのである。

 ところで、さういふ音楽、美術のアカデミイに対して、明治初年の為政者は、それほどの賢明な見透しと決断を示したにも拘らず、同じく「西洋」から学ぶ必要があり、伝統的技術が近代生活の表現に適せぬことが明かであつた演劇の部門に於いてのみ「在来のもの」で間に合はせようとした怠慢をこゝに指摘しなければならぬ。

 察するところ、音楽美術にあつては、所謂外人教師を雇ひ入れゝばそれですみ、また、それでなければならぬと思ひ、演劇の畑では、外人の指導者に一任することの困難がすぐ感じられ、それでなければなんにもならぬと早合点をしたためであらうが、それこそ、演劇なるものに対する根本的な無知識から来た錯覚なのである。

 これは、今日では誰でもわかることだが、われわれは、文学をすら西洋から学んだと云ひ得るのであつて、その文学は見事に西洋文学の亜流ならざる独自の近代性をもつて、今日の日本文壇を形づくつてゐる。わが現代文学が実際国家の庇護の外にあつてよく今日を成したといふ説は、一応、肯づけ、その独立不羈の精神を否定するものではないが、私の観るところ、やはり、理論の上にも創作の上にも、官立大学の温床的役割は看過すべからざるものだと思ふ。同じく多くの文学的才能を出した私学は、官学あつての輝かしい存在であることはいふまでもない。


 さて、文学は文学として、演劇の部門であるが、当時の進歩的頭脳が、必ずしも舞台の近代化、劇場文化の向上を計らうと企てなかつたわけではない。演劇改良会の記録がこれを語つてゐる。但し、これは前にも述べたやうに、既成俳優にのみ働きかけ、その封建的教養と因襲的生活とによつて、国民の自由な進歩的な慾求に応ずる芸術家としての資格をまつたく欠いてゐることに気づかなかつたのはどうしたわけであらう。

 この錯覚は最近まで所謂「演劇界の先覚者」たちによつて繰り返され、たまたま、素人畑から「新劇」乃至「映画界」へ足を踏み入れたものでも、何時の間にか、現代の智的水準から後れ、その絶えざる努力にも拘らず専門的技術者としての確乎たる地歩を占め得ないのは、やはり俳優といふものに対する社会の標準が、まつたく近代の常識に基いてゐないためである。

 このことはもつとはつきりさせなければならない。西洋映画の魅力を分析して、何が最も強味であるかと云へば、かれには、社会の如何なる人物にも扮し得る豊富な俳優群があるといふことである。これは単に日本でいふ役柄の問題以上、俳優全体の生れて来る道筋に関係があるのである。一方では俳優の社会的地位が認められ、一方では、近代化された演劇の伝統があるからである。現在の西洋映画は、公平に見て、同時代の舞台芸術から主なる演技者を借りてゐると云つていゝ。

 ところが、日本の映画は、若干の例外を除いて、舞台俳優はスクリインの上で通用しないのである。なぜかといふと、今日までの日本演劇は、新劇を含めて、俳優の正統的な訓練を無視してゐたからである。これは現代日本演劇の民衆から離反する最大原因であるのみならず、また同時に、日本映画の発達向上を阻害する致命的弱点なのであつて、これをなんとかしなければ、なにをどうしても無駄だといふことを、私は固く信じてゐる。

 が、最早今日となつては、演劇も映画も、過去の積弊と信用の失墜によつて、それが民間の事業家乃至篤志家の手による限り、本質的な改革を企て得る希望はないと云つていゝ。残念ながら、周囲の情勢と十年の経験とが私にそれを云はせるのである。

 日本はまだ個人なるものゝ権威がそれほど認められない国と見えて、国家的配慮が、何よりも民衆に安心を与へるのである。官尊民卑の風潮によつて来るところの原因は極めて複雑であるに相違ないが、インチキ学校続出の傾向は、世の父兄を怖れしめ、野心と天分ある青年子女は一私人の宣言に懐疑の眼を向けるのは当然である。

 既成の劇場乃至映画会社は、其内部機構の曖昧さよりも、寧ろその生産によつて示される品位の低さによつて、如何なる方法でも、現在以上良質な材を誘引することは絶対に不可能であり、進歩的研究的と称する小劇団さへも、その理論的背景はともかく、実質に於て、責任ある職業教育のプランは樹て得ない事情にある。

 そこで、私は、例の映画国策の波に乗つて、その具体案の一つに、官立演劇映画専門学校案なるものを加へられんことを当局に希望する。この案は、劃期的であり、同時に、永久性あるものでなければならぬが、その実施の困難は恐らく教師の選定といふことにあるであらう。しかし、これに対し、私は今自分の意見を述べることを差控へよう。たゞ、その気になれば、いくらも方法は考へられるのである。


 国家は、人形芝居に補助金を与へ、官立音楽学校に今更邦楽科を置く余裕がありながら、何故に新興芸術の為にその基礎的施設を怠つてゐるのであらうか? 過去の遺産に恋々たるよりは、国民の進歩的な創造精神を鼓舞するのが賢明な政治であると思ふ。固より伝統的な歌舞音曲の保護も結構には違ひないが、その文化的価値に応ずるものでなければならぬ。国民生活の発展的な表現を、国家がより以上大切に育くまなければならぬといふことはわれ〳〵が叫んでも無駄なのであらうか?

 日本に遊ぶ外国人は、東京の数多き劇場が、一つとして教養ある人々の足を向けさせないといふ現象に苦笑するのである。能や歌舞伎を観てお世辞をいふ西洋人は、これらの演劇形式が、現代日本の国民精神を表象したものでないといふことを知つてゐるかゐないか、少くとも、日本人自身は、これらの骨董的芸術を褒められて好い気になるのは可笑しな話である。

 歌舞伎の海外進出は、この意味で、私は有難いとは思はぬ。浮世絵が代表する日本美術の世界的評価を、わが国の識者は誇つてゐるやうであるが、私にいはせれば、これが抑も日本といふ国を西洋人に誤解せしめるはじまりなので、欧米の大衆は、これを「日本風俗」の写生として好奇の眼を見はるだけである。そして、時代的変遷などはどうでもよく、なるほど日本といふ国は「可笑しな」国だと思ふのである。

 こゝまで来たからいふが、日本文化宣揚は、どうか、日本が特殊国であり、世界に類例のない文化をもつてゐることを吹聴する代りに、日本人も亦「あらゆる人間的感情」を理解し、神秘よりも真実を、体面よりも正義を愛し、等しく近代文化の建設に参与し、人類の理想と幸福のために相当な努力を払ひつゝある国民であることを強調して貰ひたい。

 民族の精神的特色は、もしそれが誇るに足るべきものであるなら、こつちから見せびらかさなくとも、其民族の現代的面貌のなかにこれを発見し得るのみならず、必要に応じて向ふから探しに来るものである。お客に御馳走をし過ぎて子供を饑ゑしめる勿れである。

 ある人は云ふ。それなら現代日本が欧米諸国に向ひ、これこそ新興日本の芸術であると云つて紹介し得るものがあるか、と。さうなると議論がむづかしくなるから、こゝで別にその問題には触れぬが少くともそれだけの説をもつてゐるなら、現代日本の芸術的生産が何故に海外向きでないかを一考すべきである。そして、更に、最も手近な映画が、何故に、国家の体面を汚がす程度のものであるかを検討してみるがよい。

 文部省の義務教育延長は大いに賛成であるが、庶政一新の翼を、もうひと息、芸術擁護の域まで拡げて欲しいと思ふのは私だけであらうか。

 大日本映画協会、国際映画協会、その他、各省の文化映画製作の機関は、それぞれの職能と方針があるにせよ、私が以上述べた根本の問題についても、時機を失せず、相互の理解と連絡の上にたつた慎重な研究を進めて貰ひたい。

 非常時と俳優養成──これは凡釣り合はぬ題名のやうであり、場合によつては一笑に附せられさうであるが、私は、今こそ、これを大声で叫びたいのである。どつちが後で笑ふ番になるか、といふぐらゐの信念をもつて、この一文を草した。

底本:「岸田國士全集23」岩波書店

   1990(平成2)年127日発行

底本の親本:「東京朝日新聞」

   1936(昭和11)年12月8~11

初出:「東京朝日新聞」

   1936(昭和11)年12月8~11

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年1112日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。