日本に生れた以上は
岸田國士



 さあ、僕はどういふ風に云はうか?

 林君は熱情を見事に整理しつつ雄弁を振つてゐる。森山君は、縹渺たる感懐をリリカルな思考に托してゐる。何れも文学者らしい態度で堂々とこの課題を征服した。

 僕は、率直に云ふ。林君にはまだついて行けないし、森山君には少し焦らされた。

 かういふ問題は、といふよりも、「愛国心」といふやうな言葉に対しては、文学者共通の潔癖から、まづ一つのポオズを択んで物を云ふやうになる。そこが興味のあるところであらうが、出題者の意図はどこにあるにせよ、僕は、この問題を、まだ「文学者的」に取扱ふ用意ができてゐない。

 憂国精神、愛国心、祖国愛、国民の真情、日本を愛する気持、母国を懐しむ心、と、かう字引のやうに書き並べてみて、その間に可なりのニユアンスがあることはもちろん、語感の上では、殆んど右と左のやうに違ひがあることを発見する。

 殊に、最初の二つの言葉は、林君の使つてゐる意味を、正当に解釈させることが必要である。

 僕も人並に、この「愛国心」といふ言葉には照れる方であるが、それは照れるのが間違ひなのだと思ふ。現代の日本語のうちで、文学者に毛嫌ひされてゐる言葉が可なり多く、それは、一般の日本人、殊に、無教養な政治家やジヤアナリストが、勝手に言葉のイメエジを決定し、不純な概念を附け加へることを平気でやり、これを是正する「機関」がないために、民衆の間にすぐこれが伝播してしまふからである。専門的用語でさへ、これを戯画的に使用することが流行し、いつの間にか、本来の意味が忘れられてしまふ。自然主義、享楽主義、自由主義等皆然りである。

 文学者は、かういふ風にして、国語の使用権を狭められてゐるのみならず、言葉を毛嫌ひすることによつて、実体を疎んずる結果を招いてゐることさへある。

 僕は三十歳を過ぎて初めて戯曲を書き、不用意に「夢」といふ言葉をふんだんに使つたら、当時、先輩たる某作家から注意を受けた。日本では、そんな風に「夢」といふ言葉を作家たるものは使はないといふ説明である。それは「臭い」のである。なるほど、少したつて、僕は活動写真の標題が「夢」といふ言葉を荒したのであらうと気がついた。この事実を皮肉に考へると、日本の作家は「夢」といふ言葉を用心して使ふ結果、「夢」を書くことまで用心するのであらう。


       一


 僕は日本人であることを恥ぢもしないし、矜りともしてゐない。つまり、これこそ、人間に生れたことと同様、実に運命的であり、偶然であり、誰の力でもどうすることもできないことである。だから、それについて、愚痴もこぼさないかはり、感謝もしてゐないといふ当り前な前提をしておいて──


       二


 日本は世界の他の国に比べて、善いところもあり、悪いところもある。しかし、われわれの祖先並にわれわれが、その善いところ悪いところの一部を生み出し、育ててゐることは争へない。それに対しては、真剣に考へなければならぬと思ふ。ただ、日本は世界の他の国に比べて優れてゐるから、その日本を愛するといふ考へ方には危険なものがある。小学校時代に、われわれは日本の風土気候について、さもそれが世界に類のない恵まれた国のやうに教へられた。ところが、事実は大違ひで、自然の脅威の下でこれほどすくみ上つてゐる国は少いのである。が、それゆゑに、日本に対する愛情がどうもなりはしない。寧ろ今日の僕は、かかる国土をしみじみ痛ましく思ひ、その国土に於いて、戦ひ、生き、しかも自然を愛して来た民族の相貌を懐しむ心が切である。なんでもないことを、優れてゐるやうに思ひ込み、または思ひ込ませ、それによつて自尊心を撫でまわしてゐるやり方は、笑止千万であり、愚劣の骨頂である。

 それと同時に、日本の悪いところを、さも手柄顔に取りたてて、これだから日本は嫌ひだといふのも少し早すぎる。さういふ自分にも、その悪いところがあるのを忘れてゐさうだからである。それから、人間ならどこの国の人間でも有つてゐる弱点のやうなものと、日本人のみが特に、その長所と共に有つてゐる弱点とを区別して、その各々に対する批判と対策を誤らぬやうにせねばならぬと思ふ。しかし、日本を愛するといふ気持は、その美点と欠点とを併せた何物かに対する親しみの感情であるにもせよ、好きになつてはいかぬもの、好きでなくてはならぬものがだんだんはつきりして来ると、われわれの日本は、現在、甚だ魅力に乏しい国であるといふことに気がつき、自分は日本を愛するとは云ひきれぬやうな気がし、さて、こんなことでは困る、どうしたらいいのだと、うろたへるやうになる。


       三


 日本をより善くしたいといふ欲望が、祖国愛といふ名で呼ばれるなら、さう呼んでも差支ないではないか。この場合、他の国より善くしたいと希ふのは、人間の美しい弱点だ。それも、結局、「何を善いといふか」の問題になるが、例へば、警察網が完備し、粗製濫造品が世界の市場を脅やかし、外遊客がゲイシヤと人力車に感心するといふやうなことを指すのだとしたら、それはもう、美しい弱点とは云へなくなる。


       四


 その意味で、日本を善くするといふ、その「善く」といふ観念だけは、飽くまでも、世界共通のものにしなければならず、それならば、日本がいくら善くなつても、他の国々は少しも迷惑はしない、云ふところの国際主義と矛盾はしないのである。

 理窟はまあさうだが、一つ困つた問題がある。それは他の国々も、さう理想的に行つてゐないといふこと、日本と略々同じやうな「醜い弱点」をもつてゐるといふことである。林君は魯迅の言葉を引いてゐるが、その気持は、日本人だつてあるのだ。あるけれども、なかなかああ云ひ切るものが、われわれの周囲にはゐなかつた。

 他の国から征服されるといふこと、例へ文化の面だけでも、他国の優越的支配下に置かれるといふことは、ただに民族的自尊心を傷けるのみならず、そこからは、断じて新しい生活が芽を吹かないのである。過つて、敵に正義の名を奪はれても、戦争には負けてはならぬ。少くとも、国家の自由だけは存続させねばならぬ。ここのところ、政治的にはいろいろの方便があらうと思ふが、愈々戦争となつたら理窟はもう通らぬ。お互にお互の生命を守り合ふのが当然だ。そして、これは止むに止まれぬ「愛国的行為」である。


       五


 僕は、愛国心といふもののうちに、民族的自尊心が含まれてゐることを指摘したが、それは何れも、その現はれ方によつて弱点ともなり、強味ともなること、他の総ての性情的特質と同様である。殊に、愛国心といふ言葉は、今日に於いては、母性愛などといふ言葉と同じく、月並で、空元気で、卑俗な響きを伴ひ易く、従つて、無教養な権力階級並に、これに迎合せんとする大衆の便利な標語として役立ち得る語感に満ちてゐる。森山君が「最初この問題では気が進まなかつた」理由もここにあり、僕も亦、嘗て、「国を憂ふる」といふ言葉ほど気恥かしい言葉はない、と云つた所以であるが、いま、われわれは、周囲を見渡して、似而非愛国者と、無意識的「非国民」との数が圧倒的であることに慄然とし、未だ嘗て、いつの時代、どこの国にも、かくの如き現象はなかつたであらうといふ事実を、われわれ以外のものが誰も指摘しないことを歯痒く、遺憾に思ふだけである。


       六


 日本を愛する人々を愛国者と呼ぶになんの妨げがあらう。ただ、愛国者たる以上、その名に値する「愛国的行動」を為さねばならぬといふ考へ方はどんなものであらうか? 自ら「愛国者」と名乗ることすら、真の愛国者の資格とは関係のないことである。

 僕は自分が真の愛国者ではないと、人から評されることを怖れはしない。しかし日本を愛するが故に、日本の現状が堪へ難きまでに憂鬱であることを、訴へる権利と義務があると信じるのである。その憂鬱はどこから来るかといへば、日本人がお互に軽蔑し合つてゐるといふところから、日本人がお互に信じ合つてゐないといふところから、日本人がてんでんばらばらに、勝手なことを考へてゐるといふところから、日本人が、日本はどうなつても自分さへなんとかなればと思つてゐるところから来るのだと思ふ。日本人は、日本人である前に、まづ人間として、共通の理想を有たなすぎるといふことを、なんとかして日本人全体に気づかせる方法はないものであらうか?


       七


 僕は、日本国民として、日本のどこが好きか? と問はれれば、ちよつと困ることを告白する。はつきり云へないといふよりも、そんなに好きなところはないやうな気がするのである。しかし、それは贅沢を云つてゐるのだといふこともよくわかる。例へば、日本の現代文化にしても、不消化のまま、歪んだまま、無選択のままである状態はいやだが、あるべきものは、ちやんとどこかにあるのである。それを伸び育たせる努力と計画が不足してゐることは、われわれの罪である。(実は政治家の罪だと思つてゐるのだが)

 僕は文学者として、別に「愛国文学」を作り、又は提唱しようとは思はぬ。国民大衆の愛国心は、所謂「愛国主義者」のデモンストレエシヨンによつて、判断することもできず、官憲や教育当事者の日本精神鼓吹によつて、高め得るものでないのである。現にそれは憂ふべき逆効果を生みつつあることに、彼等は気づかぬのであらうか? フアツシヨの名を以て呼ばれる愛国主義が、いかに心ある民衆の希望を、祖国日本より引離しつつあるかを見ればわかる。(六字削除)徐々に感激を失ひつつある国民を誰が作つたか?


       八


 日本では、かういふ常識的な問題を思想家は軽蔑する風があり、これを取り上げてわいわい云ふのは、みな思想的には訓練のない人間ばかりであつた。いつまでたつても、常識が常識とならず、民衆は、常識下の思想に追随し、今日に於いてすら、殆ど健全なる社会感覚といふものをもたないのである。この上、政治家や官吏や教育家や歴史家やに、常識の問題を委しておいていいかどうか?

 日本精神とか、東洋の平和とか、国語国字の問題とか、故ら社会的関心を示すつもりでなくても、文学それ自身のためにでも、先づ常識の上に立つ大意見を優れた文学者は発表して貰ひたいと僕は思ふ。その意味で、読売紙上に見る長谷川、三木両氏の一日一題は、頗る「愛国的」な文章である。


       九


 僕の愛国心は語る──

 徳田秋声は、極めて民族的なことによつて、世界的に一流作家である。


 日本の文学者は勲章を欲しがらぬ。欲しくないやうな顔をするものさへ例外である。

 日本人は肉体的な美しさに於いて、西洋人に劣るといふ迷信に、われわれは陥つてゐる。これは迷信であつて欲しい。なぜなら、日本で僕が見る最も美しい男女は、西洋の最も美しいといはれる男女よりも優つてゐる。少くとも劣つてゐない。ただ、平均点がいかにも低いのは残念だ。しかも、その低さは、人権蹂躙の歴史が齎したものだと、僕はふと感じたことがある。日本人に、いかなる人間が美しいかを教へよ。それが徹底しないと、芝居も映画もよくならぬ。(これは少々脱線か?)


 日本の自然は眺めるやうにできてゐる。西洋の自然はそのなかで遊ぶやうにできてゐる。どつちが美しいかわからぬ。そして、どつちが、より「自然」であるか、これは考へものである。


 支那とは日清戦争後当然大使を交換すべきであるとは、十数年前から考へてゐた。支那人をもつと尊敬すべし。少くとも彼等に対し優越感を示すといふことは、まつたく国辱である。


 西洋崇拝と、西洋のある部分に羨望を感じることとは、別ものであるといふこと。現代日本が住み難いと思ふことと、日本以外の国に住みたいと思ふのとは別ものである。なんでもひとつに片づけてしまはないこと。


 仏蘭西人が仏蘭西を、英吉利人が英吉利を愛する愛し方のなかには、日本人にはないものがある。自惚れでなく、まつたく、惚れ込んでゐるところがある。伝統が生きた力になつてゐる強味である。が、そのために、当代の復古主義を歓迎する気は毫もない。そんな運動は、どこの国でも度々繰り返され、それ自身なんの役にも立つてをらぬ。要するに、文芸復興ルネツサンスが早く来たお蔭である。日本には、やつと、今年来た。


 最も心を寒くするものは、不真面目な大学生の氾濫である。不真面目は勉強をせぬとか、カフエエに入りびたるとかいふことばかりでない。なにはともあれ、秩序の何ものであるかを弁へぬことだ。学生生活でその訓練を怠るところから、日本国民の野蛮性が上下を風靡するのである。自由によつて秩序を生み出す能力は、大学に於いてのみ養はれることを一日も早く彼等に知らしめたい。


 官尊民卑の思想についていろいろの人が云ひ出した。これはわが国の社会的弊風であつて、それを弊風と気づき、批難攻撃するもののうちに、なほ、官尊民卑的気質を反映してゐる場合が多いのはどうしたわけか。「官」のなすところ、悉くこれに反対するといふのは、もつと文化の一般水準が高まつた時にこそ、意義のある(或は威勢の好い)ことである。現在日本のやうに、芸術も科学も、更に文学でさへも、アカデミスムの恩恵によつて近代的洗礼を受けた事実を目の前にして、アカデミスムの否定に急なるは甚だ偏狭で、幼稚な考へ方である。現代日本の選ばれた人々は、もう暫く辛抱して「官」を利用し、誘導し、為すべきを為さしむべきである。アカデミスムに対する恐怖は、期待の大き過ぎるところから来るので、これこそ官尊民卑の思想である。アカデミスムはある時代の役割を果せばいいのである。アカデミスムの樹立以前に、アンデパンダンの発展を望むが如きは、文化の推移の法則を無視したものである。「官」は「民」のために、「民」によつて存在するといふ確乎たる事実を、官吏はつひ忘れたがるものであり、この職業的関節不随の症状を、さう絶望的に考へなくてもいい。なにをやり出すかわからんのは誠に困つたものだが、なんにもさせずにやるかやるかと待つてゐるより、まあなんでも註文をつけてやらせてみた方がいいのである。きつと悪いことをするだらうといふ猜疑心が、これも無理とは云はぬがちつと強すぎて、どうせさう思はれてゐるならと、不貞な夫のやうな考へを起させないでもない。官民互に相信じ合はないこと(或は信じ合へないこと)は前にも述べたやうに、日本国民にとつて、現代の憂鬱の一つである。


 こんなことを書いてゐるときりがないからもうやめる。

 武田君には至極平凡な、大へん長つたらしいものを読ませることになつて相済まぬが、どうか許して下さい。殊に最後の一項は君の顔が目の前に浮んでゐるので、つひこんなにくどく書いたらしい。君の「愛国心」が何を語るか、僕は、それを聴く前に、もうわかつてゐるやうな気がする。がしかし、その言ひ方がどんなであるか、大いに楽しみである。(一九三六・八)

底本:「岸田國士全集23」岩波書店

   1990(平成2)年127日発行

底本の親本:「時・処・人」人文書院

   1936(昭和11)年1115

初出:「文学界 第三巻第八号」

   1936(昭和11)年81

入力:tatsuki

校正:門田裕志、小林繁雄

2005年318日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。