横槍一本
──外国文学の『味』──
岸田國士



 この頃、二三の人が新聞や雑誌でかういふ議論をしてゐる。

「外国文学を味はふ場合、その国の人が味はひ得る味を、外国人たるわれ〳〵が同じやうに味はふことは不可能である」

 至極尤もな説である。

 多くの人々と同様、僕も、此の問題については再三考へたことがある。

 然し、問題をもう一歩進めて、それならば一つの作品を、甲の人間が味はひ得る如く、乙の人間が味はひ得るか。

 更に、問題を押し広めて、それならば、外国文学を味はふために何等の準備も必要でないか。どの程度まで準備をすれば満足だと云ひ得るか。

 外国文学など味はふ必要はないといふ徹底的な態度に出られなければ、つまり、外国文学を味はひたいといふ欲望があれば、どういふ味はひ方ができればいゝのか。

 その国の人間が味はひ得る味をそのまゝ味はふことができなければ、その作品を味はつたと云ひ得るか。

 勿論、理想に於てゞある。

 その味が、つまり、作品の芸術的価値を全部ではないが、可なり左右してゐるものではないか。

 日本人の外国文学を味はふ、その味はひ方が、これまで、あまり独り合点ではなかつたか。日本人の解り方で、あまり満足し過ぎてはゐなかつたか。つまり、どこかでも言つたが饅頭の皮ばかり食つて、これが饅頭か、なか〳〵美味いとか、どうも甘くないとか、そんな勝手なことを云つてゐたのではないか。

 文学と、話の筋とを混合してゐる批評の多いことなど、やはり、そんなところから来てはゐないか。

 これで、現代の日本文学が、もつと外国文学の影響を脱してをり、尠くとも、日本在来の文学的伝統の中に育つて来たものでゝもあれば、「外国文学は外国人と同じやうに得られなくてもいゝ」などゝ平気で云つてをられようが、実際は外国文学の模倣から出発してゐるところが多い。


 殊に戯曲は、日本の現代劇は、それより外、仕方がなかつた。自然、お手本と云へば、西洋の戯曲である。その西洋の戯曲が「西洋人と同じやうに解らなくつて」一体どこに感心し、どこに惹き附けられ、どこを真似ようとしたのか。

 感心したところは、日本人にもわかる処か、さもなければ、日本人としての解り方でか、どつちにしても、それは、文学的価値の一部をしかなさないものである。惹きつけられた処は、日本人にもわかる処か、或は、日本人としての解り方でか、何れにしても、「現はされてあるもの」と、「現はされ方」との間に漂ふ表現の妙味ではないにきまつてゐる。

 少し絶対的な物の云ひ方をし過ぎた。

 すると、結局、真似た処は、一部分に過ぎない。その部分に、日本人としての「持ち味」を加へればものになるのだが、また少数の芸術家はそれをやつてゐるが、大方の自称文学者は「西洋人にでなければわからない味」なるもの味はひ得ぬ悲しさに、そんなものがあることさへ露知らず、「味のない文学」「味の抜けた戯曲」を書き〳〵、日本現代劇はこれだと、見得を切つた。


「自分のもの」を作るために、外国文学を研究するなら、「われ〳〵日本人にはわからない味」があることを発見して、つまらない力み方などせずに、折角、それまで気がついたなら、もう一歩踏み込んで、その「味」がわかるやうに努めたらどうか。

 イプセンはもう古いなどゝいふ人間のうちで、イプセンのほんとうの芸術が、あの作品の文学的魅力が、ほんとうにわかつてゐる人間が幾人ある。

 表現派が佳いといふ人間のうちで、「朝から夜中まで」の、ほんとうの「劇的韻律」が、「新しい詩」が、「言葉の特殊なイメージ」が、ほんとうに「味はへる」人間が幾人ゐる。

 これは、先づ翻訳者に向つて問はるべきことである。

 仏国現代の戯曲家と云へば、日本で、ブリユウや、ロマン・ロオランが、持て囃されたらしい。ブリユウや、ロオランの戯曲が、一体、どこが佳いのか。佳いと思ふのは勝手だが、それを真似られては、どうにもしやうがない。

 眼に一丁字なきものゝ為めに、パスカルの言も市役所の標語も何等異なる処はない。中学卒業程度の語学力ではシエイクスピイヤの文章も斎藤某の文章も何等異なる処はあるまい。大学卒業程度の語学力なら、それくらゐはわかるだらう。既に進歩である。

 外国文学を味ふのは、勿論語学力だけでは駄目である。第一にその国民の生活を識ることである。識るばかりでは駄目である、やはり生活から味はつて行かなければ。

 それにしても、それは決して不可能なことではない。

 そして、最後の問題は、何と云つても鑑賞力の如何である。知つてゐることしか解らないやうでは駄目だ。

 多くの批評家よ、読者よ、見物よ、もつとしつかりして下さい。

 外国文学の中に「文学の要素」として、「本質的要素」として見出し得る「美」が、「魅力」が、「味」が、何故に、日本現代文学の多くに、現代戯曲の殆ど悉くに、欠けてゐるか、其点に注意して下さい。

 外国文学の影響を受けたくない作家は、外国文学がわかる必要はない。批評家は、さうは行かない。それでなければ、諸君は、永久に価値判断の標準を誤り続けるだらう。

 さもなくば、作家は、永久に、「味」のないものを書き続け、劇場は、「味」のない舞台を見せ続けるだらう。

 外国文学独特の「味」を日本文学にそのまゝ取入れる必要はあるまい。それは、決して、文学に「味」は要らないといふ理由にはならない。「味」にも色々ありますから。外国文学独特の「味」さへも、それを「味はひ」得ることによつて、自分独特の「味」を創造する何等かの暗示にならないとも限らない。

 僕は、寧ろ、その「外国文学独特の味」なるものが、既に、超国境的な、新しい時代生活の普遍的な「味」になつてゐるのではないかとさへ思ふくらゐである。外国文学独特の味だなど、云つてゐる暇に、われ〳〵日本人は、とう〳〵国際的な、二十世紀的な感情や感覚に触れられないでしまふのかも知れない。それが悪いとは、誰も云はない。

 日本人でありながら、外国文学をその国の人間と同じやうに味はひ得るなどと、自ら断言する馬鹿もゐまい、自分でそんなことがわかるものか。

底本:「岸田國士全集19」岩波書店

   1989(平成元)年128日発行

底本の親本:「時事新報」

   1925(大正14)年3月3、4、5日

初出:「時事新報」

   1925(大正14)年3月3、4、5日

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年95日作成

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