芸術座の『軍人礼讃』
岸田國士



 脚本について──

 同じショウのものでも、『ウォレン夫人の職業』と『アンドロクレスと獅子』との間には、殆ど一人の作家だけの距りがある。

 然し乍ら、その距りはショウが写実主義を作品の根柢に置くか、或はファンテジイを作の基調とするかによつて自ら生ずる二つの傾向であると云へる。

 そこで此の『軍人礼讃』であるが、これは写実主義の手法と、作者のファンテジイとが相半ばして、いづれを主とも定め難きものであらうと思ふ。そこにまた此の作品の面白味があるのである。

 翻訳は極めて忠実に、而も相当デリケエトな皮肉や諷刺の味を伝へる事に成功して居るやうにも思ふが、またそこまでゆけば翻訳の難事業はまづ十中の八九まで完成されて居ると云はなければならぬが、たゞこゝに問題が生じると云ふのは、事苟くも上演用の脚本に関するからである。

 これは戯曲の文体と云ふ問題になるから、こゝでは云はない。たゞ次に述べようとする俳優の台詞が、動もすれば聞きづらいと云ふのが、その罪の一半を翻訳者に於て負担するのが至当であると思ふ故に、こゝでこれだけの事を云つて置く。


 舞台意匠について──

 外国劇の上演と云ふことについては、色々の不便や困難が伴ひ、俳優も舞台監督も人知れぬ苦心をすることであらうと思ふが、その苦心こそはやがてその上演の結果を左右するものであることを忘れてはならない。

 先づ此の脚本の舞台はブルガリヤの或る小さな町であるとすれば、或る程度までブルガリヤの地方色を出すことが必要ではあるまいか。──その必要はない。──よろしい。それならば何故、舞台をもつと様式化しなかつたか。第一幕のペトコフ家令嬢ライナの寝室の如きは純然たる写実でありながら、その見すぼらしさは、木賃宿の一室と選ぶ所はない。勿論ペトコフ家の令嬢が寝るやうな寝台を一つ買ふにも三百円や四百円はかゝるのだから、そんなことの為めに金を使へと云ふのではない。只どうして色彩的効果によつて舞台に或るリュックスの感じを出し得なかつたか。


 演技について──

 私は先づニコラに扮した東屋三郎氏に満腔の讃辞を呈する。どこがいゝのか未だよくわからない、何しろ日本にもかう云ふ役者が出て来たかと思はれるやうな一種のエスプリイを持つた人のやうに思はれた。口だけでものを云つてゐないで、すばらしい瞼の働きを持つてゐる。腰のすわり方も一きは目立つてゐる。

 それならばブリュンチュリイの役を演じた汐見洋氏はから駄目かと云へば決してさうではない。最も複雑な表現を要するこの役をともかくも大きな破綻なくしおうせたことは手柄である。最初の幕は非常に六ヶ敷くもあるが、未だ渾然とした表現に達してゐない。これに反して第三幕目はゆとりのある確かな演出を見せた。たゞ此の人は人並以上の頭を持つてゐるのであるが、少くとも「俳優並」の技芸的訓練を積んでほしい。殊に発音と姿勢には徹底的の工夫をすべきである。

 ライナに扮する水谷八重子嬢は悲劇の主人公にもしまほしき美しさだ。いゝえ、それはわかつてゐる。彼女の持味は古典喜劇の「オボコ娘アンジエニユ」である。コケットを演ずる為めには何かしら足らないものがあるやうに思はれる。──そこへゆくと芝居が芝居でなくなるのだ。

 此の役はロマンチスムの運動が作り出した若い女の一つのタイプで、「オボコ」らしくて実はコケットな、どうかするといくらかサンシュエルな女なのである。たゞかう云ふ役の為めに八重子嬢が豊かな素質を持つて居ることは否むわけにはゆかない。様々な場面の様々の表現に於いて、信頼するにたる舞台監督の助言は現在の嬢にとつては必要欠くべからざるものであらうと思ふ。

 カザリンに扮する室町歌江嬢は先づ第一にその演伎に統一のない事が欠点である。俳優が「第一の自己」を舞台で働かせ、「第二の自己」をしてそれを監督させることを可とする俳優技芸論に従ふとしても、「第一の自己」を働かしておいて第二の自己がぼんやりとしてゐたんではしかたがない。

 それからこれは歌江嬢ばかりでなく、石川治氏についても云ひ得ることであるが、自分が云ふだけのことを云つてしまつたら彼は自分の番を間違へないやうにすればいゝと云ふやうな、それ程でもあるまいが、さう云はれても仕方がない程、相手の云ふことを馬耳東風と聞き流し、相手の口から出る一句一句に対して何等の反響を示さない「怠慢な表情」を見ると少々情なくなる。

 河原侃二氏の扮するペトコフは至極愉快な人物になつてゐる。稍々一本調子のきらひはあるがそれだけあぶなつけがなく、いくらか平凡にはなるがそれだけ自然さがある。成功であると思ふ。

 田村秋子嬢のルーカは、あゝ何時もすねてゐなければならないであらうか。だからほんとにすねる時にそのすねがきかなくなる。よくあることだ。

 小川昇氏は暗がりにばかりゐるので、よく見えなかつた。


 要するに翻訳劇を日本でやるとすれば、先づ第一に脚本の銓衡、翻訳者の名前に囚はれないで、上演に適した翻訳であるかどうかを吟味することが必要である。こんなことは云ふまでもないことであるが、此の誤りは遂に俳優を窮地に陥れるものである。あの間伸まのびのした台詞廻し、朗読の範囲を一歩も出ない抑揚緩急、しぐさせりふとの間に出来るどうすることも出来ない空虚、これ等は前にも述べた戯曲の文体から生ずる欠陥である。

 私は日本の近代劇が先づ此の点で大きな障害にぶつかつてゐることを痛切に感じる。


 芸術座の予告によるとアンドレーエフ氏作吉田甲子太郎氏訳『殴られるあいつ』は「新劇には珍らしい非常に面白い悲劇」だとある。名作『殴られるあいつ』が名訳者吉田甲子太郎氏の筆を俟つてきつと非常に面白い舞台効果をあげることゝ信ずるが、それにしても「新劇には珍らしい……」と云はれた「新劇」こそ一言なかるべからずである。


 九日の晩『殴られるあいつ』を見る筈であつたが、『軍人礼讃』を見ての帰途、大雨に遭つて、軍人の恨みか雨の祟りか、四十度近い熱にとりつかれ、遺憾ながらここでその感想を述べる事が出来ない。

底本:「岸田國士全集19」岩波書店

   1989(平成元)年128日発行

底本の親本:「我等の劇場」新潮社

   1926(大正15)年424日発行

初出:「演劇新潮 第一年第五号」

   1924(大正13)年51日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:Juki

2005年1123日作成

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