火の扉
岸田國士



冬を待つ山河




 もう、その年の秋も暮れようとしていた。

 その年とは、長い戦いがすみ、来たるべきものが来たり、きびしい祖国の運命を告げ知らされた年である。

 信州のI市に近い山村の国民学校で、きようも校長を中心に研究会が開かれ、今後の新しい、教育の問題について、まだなんとなく地につかない討論をしたあとで、四五名の教員がストーブを囲んで雑談を続けていた。

「それはそうとね、きようの事件はだね、われ〳〵として簡単に見すごすわけにいかんと思うね」

「つまるところはさ、単に児童の群集心理といつて片づけられないわけさ。なにしろ、あの井出という生徒は、二年生にしちや、すこし生意気だでな。わしは前まえからそう思つとる。疎開児童の一種の優越感と、おやじが陸軍大佐だつていうことを妙に鼻にかけるところがあつた。それが全校の生徒の反感を買つて、きようの結果をみたんだ」

「その点はおゝいにあるね。第一、家庭そのものが、都会の生活をそのまゝこゝへもつて来て、少しも土地の生活に順応するつていう風がないらしい。そうでねえか、北原君、君は家庭訪問をよくやるようだが……」

 同僚の一人から北原と呼ばれたのは、まだうら若い女教師で、健康そうな血色にやゝ疲れをみせ、穏やかな微笑のうちにひと一倍勝気な性分を強いて包んでいること、がわかる。

「その通りですに」

 と、彼女は平然として言い放つた──

「しかし、そのことは別にきようの事件と関係はないじやないですか。わしの受持だからいうじやないですけど、あの生徒を、大きなもんが寄つてたかつてかまうなんて、まつたくひきようですに。生意気かどうかは、見る人によつてだと、わしは思います。軍人の子だということが、あの子の罪ですかしら? お前のお父ッつあんは、戦争に負けた軍人じやないか! 悪いことをして威張つとつた軍人じやないか! 戦争犯罪人の子、やあい! こう言つてはやしたてたのは、いつたいだれでしよう? あなた方の教え子ですに。わしども長い間教えた子ですに。井出は、教員室を出ると、泣いて家へ走つて帰りました。わるさをした子供たちは、あの通り、まだ校庭で芝居のまねをしとるじやありませんか!」

 ひと息に、しかし、落ちついた調子で、ところ〴〵力をこめてまくしたてる北原ミユキの声は、だん〳〵ふるえを帯びて来た。



「北原君の意見も一方的さ。結果だけをみればそうもいえるけれども、子供たちの正義感は単純なところに面白味があるんだに。軍閥を呪う民衆の健康な精神が、そのまゝ幼稚な表現のなかに働いてるんだ。軍閥つていえば、ひろい意味では、職業軍人の公私の生活を含めた一つの世界をいうんせ」

 と、理論家をもつて自任する次席訓導が判決を与える。

「そういうこんだ。北原君は、なんだに、ちつとばか井出の家庭にかぶれとるに」

 そう相ずちをうつたのは、平生から虫の好かぬ仁村という地主の長男坊である。

 北原ミユキは、ぷいと眼をそらして、独言のように言つた──

「さうかも知れんわ。仁村先生がヒツトラーにかぶれとつたみたいに!」

 その時、隣にいた女教師の一人が北原ミユキのひじをそつとつゝいて、

「みんなすぐ感情的になるからいやさ、わしや、それより、さつき校長先生が、──諸君は一度教育者としてのうぬぼれを捨てた上で、自分を新しく教育し直すことからはじめなければならん、なんて言いなすつたけれども、そうなると、自分を新しく教育してくれるのはだれかつていう問題になりやせん?」

 と、話題を変えるつもりで、こんなことを言いはじめた。

「時代さ、時代だよ」

 そう吐き出すように言つて、次席訓導がたち上る。

「良心さ、自分の良心だけさ」

 と、だれかが応じる。

「時代にそつぽを向きさ、良心にちとばか耳をふさぐ癖がついとる人間どものことを云つとるんだでなあ、もつと〳〵、性根のつくような……」

 それをみなまで言わさず、

「だから、革命よ、革命が必要なのよ」

 みんながおやという顔をした。北原ミユキである。この宣言は、およそ、その言葉に似つかわしくない平静なひゞきをもつていた。

 だれもかれも、たゞなんとなく、アハヽヽヽと笑つた。

 その笑いの空ろさが、北原ミユキを、もういたゝまらぬ気持にさせた。

 彼女は、その場を離れると、自分の席へもどり、荷物をまとめて、

「お先へ、みなさん」

 ストーブのまわりで、気のぬけた笑いが尾を引いていた。



 校門を出ると、北原ミユキはいつものとおり自転車へ飛び乗つた。

 平たんな降り道を、熟練工の断ちばさみのように、自転車は滑つて行く。

 天竜の河原をへだてゝ、対岸の山すそは夕陽をいつぱいに受け、青空に浮いた中部山腹の峰々が、いつの間にか、もう雪におゝわれていた。

 通いなれた沿道の風景ではあるが、北原ミユキは、今日ほど眼にうつるあらゆるもの、農村の農村らしいすがたを冷やかに見すごしたことはない。そこには何ひとつ心を躍らすもの、人間の力を誇示するものはないという気がした。

 北原ミユキはN市の女学校を出ると、教員養成所としての同校専攻科をおえ、そしてすぐに今の国民学校へ勤めることになつたが、もと〳〵学校の先生を長くするつもりはなく、機会があれば東京へ出て、新聞か雑誌の記者になるつもりだつた。ところが、ちようど太平洋戦争の始まる年、I市の本屋の店先でふと口を利いた一青年浜島茂と何気なく交際をつゞけているうちに、互に心をゆるし合う間柄となり、たま〳〵戦争がおこると同時に、その青年にも召集令状が来た。まだ双方の親元は正式に承知をしたわけではないが、本人同士は、かたく将来を約して別れたのである。

「心ならずも、」商業学校を出たという浜島茂は某製糸会社の事務員で、何よりも、無名の詩人として、北原ミユキはその清純な詩風をまず愛したのである。

 彼女にとつて、詩人は夢想家であり、彼女を生み育てた土地にいちばん欠けているのは詩であり、夢であつた。彼女が革命を叫ぶのは、自分たちが満足に食べられないからばかりでなく、自分たちは満足に食べること以外を考えなくなつているからであつた。

 ハザの上に盛り上つた稲の穂、軒端に満艦飾のようにつるされた干ガキ、大豆の山、大根畑の波……秋のみのりの豊かさにほゝえむ人々の顔が、彼女には、時としてあさましく思われた。

 向うから牛車が一台、うず高く米俵を積んで来る。供出の新米であろう。

「ご苦労さま」

 と、彼女は道を譲りながら引き子に声をかけた。相手は、近ごろきまつた右側通行を守つていない。だから、牛の鼻先へ来て彼女はハンドルをひねつた。そのとたん、牛車のすぐ後から、そいつを追越そうとして左へ外れて出たもう一台の自転車が、彼女を乗ものぐるみ跳ねとばした。



 相手も重心を失つて自転車をたゝきつけ、前のめりにのめつた。

 が、二人は同時に起ち上つて顔を見合わした。そして、笑つた。

けがはなかつたかね」

「あんたは大丈夫?」

「ちつとも見えんじやつたもんで」

「交通規則を守らないからよ」

「一人だけ守る先生が悪いだ」

 ひざ小僧がちく〳〵痛むのをじつとこらえて、彼女はにらむまねをした。

 この若い衆は市ノ瀬牧人という農業会の指導部にいる男で、ついせんだつて復員したばかりである。以前から学校へ時どき遊びに来るので顔見知りになつている程度だが、北信の出身というだけあつて、はだ合いが土地のものと一風変つていた。どちらかといえば当りのやわらかな周囲にまじつて、これはまたゴツつとしたところがあつた。へらず口をたゝく癖はどつちにもあるが、このへんの人間には市ノ瀬牧人のとんちがまるでない。彼女は、そこに興味をもつていたと言えば言えるのである。

「損害ばい償もやみ値じやこたえるね」

 と、彼は、北原ミユキが自転車をおこすのを手伝いながら、あちこちをしらべる。なんのことはない、ペダルがそりかえり、チェーンがみごとにきれていた。

「おゝきいぞ、おゝきいぞ。なに、公用中の事故ちゆうわけで、農業会へおんぶするだ。じや、すまんが、わしのへ乗つて帰つておくれんか。えゝ、えゝ、わしはすぐそこだで」

 彼は、そう言つて、自分の自転車を彼女の方へ押しつけ、こわれた一方を引きずりながらさつさと行きかける。が、すこし行つたところで後をふりかえしり、

「わしは代りのがあるでなあ。しばらく使つとつておくんな。案じやアないに」

 そう言つて、またしばらくたつと、今度はそつぽを向きながら、声を張りあげた。

「浜島君はまんだもどつて来んかな? マレイはもうぽつ〳〵送りかえすはずだに」

 北原ミユキはこの男の口から浜島の名が呼ばれることは、あまりに不意打ちだつたので、一つ時ぽかんとしていた。が、急に顔がほてりだした。自分でそれに気がつくと、やつと服のどろを払いはじめた。手首のかすり傷に血がにじんでいるのを、そつとなめてから、自転車に乗れるかどうかを試してみる。ペダルを踏むことはいらなかつた。

 彼女はふと浜島茂のやせ衰えた姿を想像した。



 北原ミユキの両親は諏訪湖の西南にあたるS村に住んでいた。したがつて、彼女はひとり勤めさきのH村で農家の離れを借りて自炊をしているのである。戦争中は疎開者がこの村へも殺到して、彼女は一度ならず追い立てを食おうとしたのだが、なんとか理くつをつけて今までがんばりどおした。いゝ顔をされたければ間代さえ余計に払えば簡単なのだとはわかつているけれども、給料だけの生活ではそうもいきかねるから、居ごこちはあまりよくない。彼女の実家も代々農業とはなつているが、父は早くからわずかの土地を小作に委ね、自分はあちこちの事業に手を出して当つたとか外れたとかいつている。だから、農家とはどんなものという観念が彼女にちつともないわけではないのに、この土地がとくにそうなのか、お百姓なるものゝ性格に彼女は同情がもてない。欲張りやがん固やうそつきは世間の到るところにいるわけだが、それをおかしいほど意識していないのが彼等の特徴で、どうかすると、それらの悪徳が機械的と思われるほど不必要に彼等の生活のなかに根を張つている有様は、どうにも手のつかぬ、グロテスクな世界である。

 しかし、北原ミユキのこの観察はまだ若いのであつて、実を言えば、そういうことを多少意識し、しかもそこに落ちこんでいくわれ〳〵普通の日本人の心理にも、公平にみて他の民族のそういう場合と違う意識の程度の弱さがある。お互は、自分のそんなところをたなにあげて、他人のあつかましさにまゆをひそめているのが現在の世相であろう。

 それはさておき、北原ミユキはろくに口も利かない宿の女主人に軽く「帰りました」を言い、今朝ふかしたサツマイモの残りとホウレン草のみそしるで夕食をすませ、ひざがしらに湿布を巻き、手首にバンソウコウをはり、鏡に向つて髪を結い直そうかどうしようかと考えた。というのは、これから、今日学校で大ぜいにいじめられて泣いて帰つた井出という生徒の家へ顔を出してみようと思いたつていたからである。むろんそれは務めという考えもあるにはあつたが、この生徒の家庭へはわりに気軽に足が向くのである。気軽にと言つては言いすぎかも知れぬ。正確に言うと、おつくうのようでいて、つい心が惹かれ、きゆうくつなところもないではないが、それにもかゝわらず、そこにでなければないふん囲気のようなものが、彼女の要求とぴつたり合うのである。が、それもせんじつめれば、井出夫人その人の魅力にほかならなかつた。



井出夫人とピヤノ




「たゞいまア……。つい道草を食つちまつて……」

 裏の炊事場から、買物袋をさげたまゝ、しきいぎわへひざをついて軽く会釈をしたのは、井出康子である。

 そう大柄ではないけれども、均整を保つてよく伸び〳〵と育つたし体を、ちよつと華奢にみえる真つ白な薄い皮膚がつゝんでいるのは、なにか血統に、特別なものが混つていそうに見えるが、顔だちは、むしろ多分に東洋的で、それも、やゝ厚いくちびるのおのずからな結び加減、黒いまつ毛の中のうるんだひとみ、殊に眼じりの切れの細く長く切れ上つたあたりまで、全体に、表情の深い静的な美しさを、あくまでも特色としているようである。

「お帰んなさい」

 毎日繰り返される内々のあいさつは、礼儀という重い一面をかなぐり捨てゝいる。乃婦のぶ子の口が同時に機械的に開く。

「お夕飯は何にいたしましようね。もう何時ごろでしよう?」

 腕時計が当てにならないらしく、康子は十畳の間へ置時計を見に行く。

 義妹の百々子はスカートは寒いと云つて、ジャケツにズボンをはいているのに、康子は、ズボンのひざが出てしまつたからと云つて、一張らのツーピースを惜しげもなくおろしてしまつた。あいネズは彼女の好みの色である。

 さて、康子が十畳の間へ足を踏み込んだ瞬間に、こつちでは、二人の女が眼と眼で合図をした。

 と、その時、ピヤノの前に立つた康子は、くるりと後ろを振り返つた。

「あ、そう、そう、あたくしこのピヤノ売る決心しましたの。買手がもうぼつ〳〵押しかけて来るかも知れませんわ」

 視線を交したまゝ、しゆうとと義妹とは、息を殺している。

「まさかと思つたら、もう今朝の新聞に、ちやんと広告が出てるんですつて……家じや「信毎」はとつてないから……」

「あんたが出したのかい? 新聞広告なんぞ……」

 非難するというよりも、ガッカリしたというような調子で、しゆうとは口を切つた。

「直接じやないんですけれど……あたくしね、そのことで、ちよつと池内先生にご相談してみましたの」



 池内先生というのは、I市に開業している小児科兼内科医で、現にいま部屋を借りている池内家の近親に当り、東京からの疎開先をあれこれ思い悩んでいた矢先、日頃懇意にしているO博士が、その弟子筋の池内に頼んで適当な家を探させようと言つてくれたのが、そも〳〵此処へ落ちつく動機になつたのである。

 これだけの縁故で、まつたくだれ一人知るものもないこの疎開先では、なにかといえば池内医師が最初からの相談相手であつた。歯科医から普通医の免状をとつたという人物だけに、ケンシキ張つたところのない気さくなお医者さんで、その代り、早合点とムカツ腹立ては、ちつと度が過ぎるとの評判である。

 康子は、家の経済がもうこのまゝでは立ちゆかぬということを見越して、夫の指図どおり、ぼつぼつ目ぼしい持物を金や食料に替えはじめていたが、それも底が見えて来た。恒産といつては満洲にある会社の株が少しあるきりで、それこそ今では役に立たぬ。どうせ置きつぱなしのようになつているピヤノをいつそと、彼女はさほどの執着もなく売つてしまふ決心をしたのである。

 東京の知合いへ話をすれば、きつと欲しがるものもいるとは思うけれど、こいつはなにしろ手間のかゝる話だ。信州にだつてI市をはじめ、市と名のつくものが五つもあるのだから、空襲の被害はなかつたにせよ、新たにピヤノぐらい置こうという家がなくはあるまい。そう考えて、ふと頭に浮んだのは、池内医師のことである。当人は無理にしても、お医者仲間にひよつとしたらと、子供の虫下しをもらいに行つたついでに、池内医師の耳へちよつとそのことをさゝやいたのが一週間ほど前のことである。

「ほんとですか?」

「えゝ、ほんとですの」

「さあ、この町の医者にそんな景気のいいのはいませんよ」

「あら、景気と関係ございませんわ」

「だつて、そうでしよう、今どき万というもんでしよう?」

「先生は、それよりずつとお高いだれとかの絵を最近お求めになつたそうじやございませんか」

「はあ、春草ですか? そんなおしやべりをしたかなあ、ワハヽヽヽヽ」

 池内氏は機げんよく笑つてから、心当りを当つてはみるが、若し見込がないようなら、知合の新聞社へそう言つて広告を出すからと言つた。



 康子は、その言葉を耳に残して帰つて来たものゝ、いざ、けさの新聞にその広告が出ていると、郵便局で顔を合せたこれも疎開組の一婦人から聞かされてから、妙に憂うつにならないわけにいかなかつた。

 ピヤノを売るのが人に知れて外聞が悪いというのではさら〳〵ない。たゞ、そのことから、自分が人々の話題にのぼり、こゝしばらく、好奇心の対象にされそうなのが、なんとしてもやりきれない。そんなことにはわりに無とん着な彼女も、狭い土地の単調な生活の空気のなかで、たゞ異様にどぎつく向けられる人々のまともな視線には、時々ぞつとするのである。

 それはそうと、たつた今、しゆうとはなにを言つたか? それに自分は何と答えたか? しゆうとはピヤノを売ることに反対なのか? それとも、新聞広告をしたことがわるいと言うのか?

「ちよつとひと言、相談してくれるとよかつたねえ。なにしろ……」

 あとは、ぶつ〳〵と、よく聞えない。

「えゝ、そりやもうそれが当り前ですけれども、ほんと申しますとね、おかあさま、あたくし、てつきりお許しがでないものときめてましたの。まあ、それだけはとつてお置き、つて、そうおつしやるにきまつてると思いましたの。そういうお心持がわかつているだけに、あたくし、まあ、これは自分のためにあるものつていう意味で、勝手なまねをさせていたゞきましたのよ。ね、ですから、なんにもおつしやらないで、おかあさま……」

 そう言い終つて、康子は、指の先でピヤノのそここゝにたまつたほこりぬぐつている。

「あんたがその気なら、なにもこつちは反対することはないさ。たゞ、いきなりえたいの知れない男がやつて来て、お宅のピヤノは売物でしよう、なんて言われると、わたしや、ヒヤッとするからね」

 この言い方は、明らかに効き目があつた。

「あら、あら、もうそんなこと言つて来ましたの? どうもすみません。あたくしがいなくつてお困りになつたでしよう? それで、なんておつしやいましたの?」

 このでんで、いつも相手は気もちをほぐされる。どんな皮肉でも、それにはまつこうから反ぱつをみせない。そうかといつて、通じるものだけは通じているのである。どつちみち、「よめ」だからつらく当るというようなたちの「しゆうと」でもなく、こういう物言いはもと〳〵この老人の癖なのだから、康子のあつさりした出方で、もうそれきりになる。



 こういういきさつはあつたけれども、わりにすら〳〵とピヤノの買手がついた。M市から、音楽学校出だという若い娘が、村夫子然とした父親と一緒に、その日の夕刻やつて来て、こつちの言い値をそのまゝ、二千円の手附を置いて帰つて行つた。その娘もわりに感じがよく、音色を調べてみるやり方も、無作法でなく、キザでなく、初々しいピヤニストの情熱をみせて、康子を心からほゝえませた。

 で、あとは、もう一度自分が附いて、荷造りと運搬の指図をしに来るから、残りの金はその時にとはつきり言い、娘は父親とその日取りについて相談し、

「でも、こちらのご都合は? 一日二日、どつちになつてもかまいませんのよ。おひきなれになつた楽器を、手許からおはなしになるのは、ほんとにお辛うございましよう?」

 などと、ませたことを言い、それにもいや味なところはなく、康子も、引き込まれるように、ついほろりとしてしまつた。

 しかし、品物の取引がこういう風に行われることは稀であろう、という意見が、あとで、内々のものゝ間で語られた。それはそうに違いないけれども、康子にしてみれば、それが一層思いきりをわるくさせはせぬかと思われた。

 はたして、約束の日が近づくにつれて、康子は感傷的になつた。居ても立つてもいられぬようないらだたしさがつのり、息子のモトムがなにか耳元で言つても、それが耳へはいらぬことすらあつた。昼間のうちはそれほどでもないけれど、夜になると、殊に真夜中、ふと眼がさめて、いきなりキーをかき鳴らしたい衝動におそわれる。そういう時、不思議なことに、夫の顔がうつゝながらに浮んで、その眼が自分に何か言つているように思う。耳をすます。もちろんなにも聞えない。が、夫は無表情に口を動かしていることもあり、みけんに険しいしわをよせて、なにやら叫んでいるようなこともある。その印象はいづれも、夫らしくない印象で、寒々としたものを彼女の胸に伝えるばかりであつた。

「おねえさん、どう、ピヤノとのお別れに、今晩は、もうこれでいゝつていうまで、おひきになつてごらんなさいよ。あたしたち聞かせていたゞくわ」

 いよ〳〵あすは来るという前の晩、夕食をしながら、義妹の百々子が言つた。

 風の荒い晩であつた。



 夕食のあと片づけがすむと、しゆうとの乃婦は、

「あたしにやどうしても西洋の音楽つていうもんはわからないけれど、これからはやつぱりそれじやいけないんだろうね。さあ、そうかといつてお琴や三味線が聞けないとなつたら、あたしやどうにもさびしいね」

 と、こんな前おきをしておいて、康子がピヤノの方へ起つて行きかねているのを、

「さあ、さあ、ひきおさめならあたしに遠慮はいらないよ。この風ならご近所へもそう聞えやしないだろう」

 この程度で異議はないものとみとめなければならぬ。康子は義妹の方へ眼で笑いかけながら座をたつた。

 楽譜の一つ〳〵をめくつてみながら、それ〴〵に織りこまれた感情のあやが、過ぎ去つた自分の心の歴史と結びついて胸のうずくような旋律ばかりであることに気がつく。

 手あたり次第に、そのうちの一つを楽譜台の上にひろげ、軽く指を走らせてみる。練習不足はてきめんにこたえたけれども、次第に、一音が一音をひとりでに呼びさます、あの無我の境にひきいれられる。

 と、不意に、彼女はひく手を止めてうしろを振り返る。

「トムちやん、もうねむいでしよう?」

 祖母の肩に寄りかゝるようにして絵本にながめ入つている国民学校二年生のモトムは、

「うゝん、ちつともねむくない。ボク、じつと聞いてるんじやないか」

 この返事はちよつと大人をたじたじとさせた。

「ほんと?」

 と、康子は、それだけ言つて、また続ける。

 義妹の百々子は、こうしてあによめにピヤノをひくようにすゝめはしたものゝ、さて、これが自分なら、おいそれとその気にはなれまいと考えていた。このことに限らず、「とくなたちだわ」と、自分とひきくらべてそう思うことはたび〳〵だが、これは性質の違いでどうにもならぬことゝきめている。

 アパッショナタの荒れ狂うような響きが部屋をふるわせていた。

 しゆうとの乃婦は、そつと両手で耳をおさえながら、「やれ、やれ、あんなに乱暴にひいてもピヤノはいたまないのかしら」というような顔つきをし、百々子は百々子で、こんな熱演をそばで聞くのははじめてのこととて、あによめの気が変になるのではあるまいかと不気味さを感じるほどであつた。

 いつの間にかもう別の曲に移つていた。



 ちようどそのころ、まだ開いている坪庭の門をくゞつて、北原ミユキが姿をあらわした。

 勝手がわかつているので、別にためらいもせず、縁側のくつぬぎのところへ来て、ピヤノの音に耳をすます。

 ──レコードか知ら、と思う。が、それにしてはなま〳〵しい楽器のねいろだと気がつくと、彼女の胸は急に波うつ。──あら、奥さんが……始めて……と、もうぐず〳〵はしていられない。はき物をぬぎすて、障子のすき間からのぞいてみる。

 ──あゝ、やつぱり……。

 口の中で思わずそう言つて、茶の間の障子に手をかけ、そつと押しあける。

 老夫人の眼がそれを迎える。はいれという合図だ。百々子が顔をあげ、モトムがすわりなおす。

「先生」がそういう風に訪ねて来ることには、近ごろもうなれている一家のものは、別にお客らしいあしらいもせず、老夫人が小声であいさつをするほかは、みな黙つてこたつの仲間入りをさせる。

「ピヤノをね。明日わきへ持つてまいりますことになりましたので、当分これがひきおさめだなんて申しましてね。まあ、思いのこりのないようにつて、わたくしも、先生、我慢してきいておりますんですよ」

 北原ミユキは耳のそばでさゝやく老夫人の言葉にうわの空で、なんべんもうなずきながら、全身全霊をうちこむとはこのことかと思われる井出夫人の感情をこめた演奏ぶりに魂を奪われていた。

 その時、また母屋に通ずる廊下を忍び足で歩く足音がした。その足音は一たん奥へ引込み、またもう一人の足音と重つて、二人の男が障子の外に近づく気配がした。百々子が起つて行つたけれども、二人の男は廊下にたゝずんだまゝ動こうとしない。

 当家の次男池内和昌と、例の市ノ瀬牧人である。

 一曲は終つた。

 それをしおに、二人の若者が、首を縮めてはいつて来る。

 康子は後ろを振りむいて、顔を赤くし、

「おや、おや、大変なことになつたわ」

「なんていう曲、今のは?」

 北原ミユキがたずねると、

 百々子が、ショパンのワルツだと教える。

「そう、そう、そういえばそうだわ。わたしやなんど聞いても、名前を忘れるの」

 と、国民学校の訓導は、モトムの方へちよつと照れた笑顔を向ける。

 乃婦が、改まつて、孫に「ごあいさつは?」と促す。北原ミユキは、別に変つた風もみえぬ生徒の肩をたゝいて、これなら案じることはないと思う。

 厳粛な顔をして、二人の若者は、畳の上にかしこまつている。

 康子は、それをみて、吹きだす。

「いやねえ、お通夜みたい……」



 額ぎわからくびすじへかけて、ぐつしよりの汗を、康子は、無造作にハンカチでふきながら、

「あゝ、いゝ気持だつた。みなさん、いらつしやい。とんだところをみられちやつた。おかあさま、どうもおやかましゆうございました」

 こんな風に、しゆうとには軽くじようだんめかしたわびを言う彼女の心づかいが決して不自然でなく、むしろ一座を晴ればれとした家庭の空気のなかへ誘いこんだ。

「なんちゆう、すごいもんずら」

 わざと土地の言葉で、北原ミユキがまず感嘆の叫びをあげる。

「やつぱ、音楽は、ほんとは眼でみんならんのだに。耳といつしよに眼で聞くちゆうことがいるだに」

 と、彼女は、だれにともなく、ちよつぴり「先生」らしい調子をみせる。

「そういうこんだ。耳で聞くだけなら、レコードでもラジオでもえゝわけだでなん。演奏者が眼に見えるちゆうことは、自分も一緒に演奏しとるような気がするこつたでなん」

 池内和昌が、むつつりした風ぼうに似合わずなか〳〵雄弁に応じた。多分、最近I市で催された青年文化講座で、だれかの音楽論を聞きかじつて来たに相違ない。

 すると、今まで腕ぐみをしてじつと眼をつぶつていた市ノ瀬牧人が──

「うむ、そういや、軍楽隊の奴らは、男でもぱつとしたなりをしとるでなあ」

 この男は、いつたい何者だろうと、康子は、それまで別に気にもとめずにいた未知の若者に視線を注いだ。

 いわゆる農村のにおいをそれほど身につけず、そうかといつて、都会育ちのインテリというひ弱さもなく、どこかガムシャラな一面と、知的なひらめきとを併せそなえた、わりに複雑な印象を与える男である。太いまゆを忙しく動かして物を言う癖は、自信の強さと、はにかみやであることを証明している。

「和昌さん、どなた、この方?」

 と、そこで康子は当家のせがれにたずねるよりほかなかつた。

「戦死した兄貴のお友達で、市ノ瀬牧人さん、今日はお線香あげに寄つてくれただ」



「どうかよろしく。お前、はよう紹介してくんでいかんわ」

 と、市ノ瀬牧人は、頭を抱えながら、傍らへつぶやく。

「和昌君の兄貴の親友でもあり、北原先生の許嫁の悪友でもあります。あ、いた、ほんとじやないか」

 北原ミユキがどこかをつねつたとみえて、飛びのくような形で、言う。

「まあ、それは〳〵……。じや、うちともお近づきになつていゝわねえ」

 康子はそういつて、北原ミユキの方へ笑いかけ、茶を入れる支度をする。この若い女教師の許嫁が、ビルマ戦線からなんでも一度とか便りをよこしたきり、いまもつて消息がないということはかねて聞いていた。顔さえみればそのことは頭に浮ぶのだけれども、そうずけ〳〵と訊ねるのもと思い、康子の方からはあまりその話にふれずにいたのである。それにしても、北原ミユキの康子に対する態度は、まつたくほかのだれとも違つていた。子供の先生という関係は別にして、もつと個人的な親しみをみせはじめていた。それというのも、終戦この方、いわゆる職業軍人の家族に対する周囲の風当りは、目立つて強くなつていた。康子自身は、むろんそれを人一倍身にしみて感じていたけれども、そのために肩身の狭い思いをするのは卑屈だと思つていた。北原ミユキは、そういう彼女の気持を実によくのみこんで、それとなく、かばいだてをしたり、時によると、軍服をはがれた夫一徳の立場に不思議な同情と理解とを示したりするのである。が、それもこれも、特に深い考えがあつてのことではなく、たゞ、この夢多き処女の、成熟した人妻康子に対するなみ〳〵ならぬ興味、強いて言えば崇拝というようなところから来ていることはたしかであつた。北原ミユキは、事実、待ちこがれているもの、たゞひとりの異性への思慕を、年上の同性の豊かな感受性のなかで温めるよりほかなかつたのである。

「さ、みなさん、勝手におとりになつて……お茶うけがなんにもないけれど……」

 と、康子は盆をこたつ板の上にのせ、

「北原先生、あなたが遠慮してらしつちやだめよ」

「いやだ、また、先生だなんて……」

 北原ミユキは、存分に甘えた眼つきで康子をにらむ。

 と、障子の外で、母屋の細君の声、

「井出さん、電報が来ましたに」



すべてを与えるには




 電報は東京の夫からであつた。

「ヤスコヒトリデ スグ コイ」

 ひとりで来いという意味は、子供など連れて来るなということにきまつているにしても、それを特に強くいう理由があるのだとすれば、康子は、そこになにか重大なものを読みとらないわけにいかなかつた。戦争中ならともかく、ちよいと帰つて来るぐらいの暇もないということは、これまでの手紙の簡単な説明だけでは、どうしても信じられないことである。そこへ、いきなり、彼女一人に来いという理由は……?

 翌朝一番の電車でたつことにきめはしたが、康子はその夜まんじりともせず、夫の性格と思想とが選ばせるあらゆる行動を、とりとめもなく頭に描いた。そして、なによりも鮮やかに彼女の眼に残つている夫の長い手紙の一節は、あらゆる想像をかきたてるに十分であつた。

 ──然し、自分にはまだ残された公の任務があり、将来を見届けなければならぬ部下もいる。もうしばらく、一個人としての進退は絶対に許されないことを、お前はもちろん、母上にも承知していてもらいたい。自分がどういう姿でお前たちのそばに帰れるか。こゝ二三カ月乃至半年の間に、それは自分にも明らかになるだろう。……

 この文句をなんども〳〵よみかえした康子は、それまでもう眼いつぱいにためていた涙をはらはらとひざの上に落した。が、夫のこの見事な思慮は、決して単純な絶望につながるものではない、と信じさせるゆとりがあつた。

 彼女には、かすかにではあるが、運命の新しい道がひとすじ眼の前にひらけはじめていたのである。

 ところが、今度の電報は、不安と希望とを五分々々に突きつけるようなものであつた。最悪の場合を想像すればできなくもないし、最善の場合もまた考えられないではなかつた。

 五月以後、久々の汽車の旅は、こむとかこまぬとかの話ではなく、これでも人間かと思われるような無気味な混乱の数時間であつた。

 夫の勤務先で、同時に宿舎になつている工しようは、八王子から厚木へ通じる電車の沿線で、H町という停留場で降りることになつているのだが、彼女は直接そんなところへ足を運んだことはかつてなく、おまけに電車の故障で思わぬ時間を食い、H町へ着いたのがかれこれ九時近くであつた。そして、駅の前は手さぐりでも歩けぬような暗さである。



 若しや迎えが来ていはせぬかと、そのへんをながめまわしたが、人ッ子一人みつからぬ。時間を知らせずにたつて来たのだから、と思い直す。何処かで工しようのありかを訊ねようと思う。ところが、店らしい店は何処にもない。駐在所のありかでも見えればと、やみをすかしてみるけれども、そんなものはてんで眼にとまらぬ。たゞ、空をあおぐと、まばらな星の光が遠く廃きよのような建物のどす黒い輪郭を描き出しているだけである。

 いつ時、康子は途方にくれる。

 歩いてどれくらいかゝるのか、夫からそれほど遠いとも聞いていなかつた。道さえわかれば、と彼女は駅へもどつて、たつた一人の駅員に、こゝの陸軍工しようの技術部を訪ねたいのだが、道順は……言いかけると、もう中年の、肩のおそろしく怒つた駅員は、なにやらぼり〳〵と口の中で音をさせながら、

「じようだんじやない、こんな時間にあの道が歩けるもんかね。以前はバスがあつたんだがね、終戦後、それも休んでるから、みんな歩くんです。もう工員もたんとおらんしなあ。幹部の将校が二、三人残つとるらしいね。だれを訪ねるんです、いつたい?」

 だれときかれて、名前を言つたものかどうかと迷つた。

「えゝちよつと……」

 と、彼女は考え込む。

「もう、八王子へ引返す電車はございませんね」

「上りの終電車は時間通り、こゝは廿時廿六分きつかりに出ましたよ。下りはなにしろあの通り延着ですから、こゝから折り返しで終電を出したんです。そうだね、明日の朝まで待つしかないでしようね」

「この町には宿屋なんぞございますかしら?」

「さあ、この町にはどうかね。あつたにしても、探すのは骨だね。なんしろ、街道まで出にやならんが、これも道がやゝこしいですよ。倉庫ばか、あつちこちに建つとつてね。近ごろはそれも進駐軍が使つとつて、滅多なところは通れんし……」

 ──では、こゝで夜明しをするよりほかないのか、と思うと、彼女は泣き出したくなつた。淋しいとか、薄気味がわるいとか、そんなことよりも、この恰好で、この吹きさらしのバラック建の駅のベンチの上で、すぐそこにいるはずの夫に声さえかけず、眠るにも眠られぬ長い一夜を、火の気もなしに過さねばならぬということが、これこそ今の自分の境遇を露骨に思い知らされている感じでひし〳〵と胸にこたえる。



 これに比べると、あの五月二十五日の空襲で高円寺の家を焼かれる前後、もう命はないものと覚悟をきめて焼夷弾の雨の中を右往左往し、やがて警報解除が鳴つて、わが家の焼跡をはう煙のなかで、まる一日夫の帰りを待つたあの当時の方がまだしも心に張りつめたものがあつた。

 見渡すかぎり黒々と焦げ散つた「街」の残骸を夕やみがおゝう頃、あの日、夫の一徳は軍刀のつかをいつものように左手で握つて、さもそれは予期したことだといわぬばかりの悠々たる足どりで帰つて来た。

「おゝ、こゝにいたのか? どこもどうもなかつた?」

 彼女はだれも見ていないので夫の胸にすがろうとしたが、夫はからだをかわすように、つと、自分が手を下して掘つた防空ごうの方へ歩み寄り、

「やつぱり、これじや駄目だ。お前はどこへ逃げた?」

「もうどこにいてもおんなじだと思いましたわ。どこをどう通つたのか覚えていませんけれど、でも、気がついてみたら、お向いの赤ちやんを抱いて線路の土手の蔭にしやがんでいました。お向いの奥さん、お気の毒に大怪我をなすつて……今朝川西病院でお亡くなりになつたんです」

 彼女は、なにから話していゝかわからなかつた。夫は、棒ぎれをひろつてあちこち灰の中をかきまわしていた。

「むろんなんにも出さなかつたろうな。非常持出のトランクは?」

「防空ごうまでは持つてはいつたんですけれど……。それから先、どうしたか覚えてませんの」

「そいつは弱つたな。大事な書類がはいつてることは、お前も知つとるはずだがなあ」

 ──それはそうに違いないけれど……と、彼女は、自分のうかつを責める前に、夫の不機げんを恨めしく思つた。

 夫は、しかし、それきり「大事な書類」のことは何にも言わず、書斎の跡とおぼしいところを行きつもどりつしながら、

「ところで、これからどうするか、だ。おれは役所に寝泊りをしてもいゝが、お前はさし当り、目黒のおとうさんのところへでも行くか? あつちはたしかまだ残つてるはずだ」

「父のところ? いやですわ、あたくし……。そんならいつそ、信州へ参りますわ」

 目黒というのは康子の実家ではあるが、父は素性の知れぬ若い女を引き入れて、目にあまるふしだらな生活をしているのである。

 その夜は夫の先輩にあたるN中将の吉祥寺の家へ泊めてもらい、それ以来、彼女は夫の顔を見ないのである。



 スーツケースに片ひじをついたまゝ、康子は、うつら〳〵していた。

 その時、手荷物扱所の硝子戸をガラリと開けて、さつきの駅員が顔をつきだし、

「そこで待つなら、おんなじこつたから、火のそばへ来たらどうだね。そんなところ、寒くつて、眠られるもんかね」

 彼女は、はつと顔をあげたが、なるほど、この寒さでは風邪をひくにきまつていると思い、駅員の言葉の調子もどうやら親切気からと感ぜられたので、彼女は、

「そうですか。では、お言葉に甘えて、すこし温たまらせていたゞきますわ」

 と、荷物を携げて起ちあがると、駅員はわざ〳〵改札口の方から、こつちへという合図をして、ストーブの赤々と燃えている部屋の中へ彼女を招じ入れた。彼女は、ぽうつと顔にあたる熱気を心地よくもう全身に感じながら、すゝめられるいすを程よい位置におき直して、それへかけた。

「これで助かりましたわ。でも、あなたはずつと起きていらつしやいますの?」

 彼女がそうたずねる意味をどうとつたか、

「うん、わしはどつちでもいゝんだよ。こゝにいさえすれや任務はすむんだから……。あんた眠るなら、あつちの部屋に寝台があるからね。それとも、こつちにいたけれや、わしは向うへ行くで」

「あら、あたくしのことなんかおかまいなく、どうぞ……」

 と、言いはしたが、それ以後ぷつつり黙りこんでストーブの前に立ちはだかつているこの四十男のボタンを外した詰えりの下に、うす汚れたメリヤスを着ていて、それがまた胸のあたりの毛深い膚をむき出しにするほど大きく裂けている、そういう風体を見れば見るほど、この自分などにこんな同情を示してくれることが、どこか不自然のように思われた。

 いつまでたつても、相手は口をきこうとしない。こつちも、わざわざ話をしかける用事はなかつた。たゞ、こうして際限なく無言のまゝ向い合つていられるものではない。彼女はちよつとからだを斜にいすの背へもたせかけて、じつと眼をふさいでいた。

 しばらくすると、男は、思い出したように部屋の中をあちこち歩き廻り、電燈を消してそのまゝ隣りの部屋へはいつて行つたと思うと、ドサリと寝ころぶ音がし、間もなく、いびきが聞えだした。



 康子は、ほつとした。これで早く夜が明けてくれゝばと思つた。さつきからすこしずつ空腹を感じはじめていたが、弁当を出して食う気にはなれない。また、うつらうつらした。

 ストーブの火が落ちて、急に部屋が暗くなり、背筋が冷やりとするように思つた。で、そこにある薪を取りあげて、二三本くべた。なるべく音をたてないつもりでいたのにふたがよく締らない。

 果して、隣室では、男が眼をさましたらしく、

「薪はそこにあるだけ燃しちまつていゝから……。湯は沸いとるかね? 茶をいれるかな」

 彼女は、自分のためならもう結構と云おうとしたが、男は、もうそこへ現われて、電燈をつけ、黙つて茶をいれ、茶わんの一つをあごでさし、自分も音をたてゝ熱い茶をすゝり、

「豆はどうだね、豆は?」

 と、ドンブリに入れた大豆のいつたのを、ボリ〳〵かじつた。

 茶わんを口へもつていつた彼女の鼻先へ、大豆のドンブリを突き出して、

「さあ、おつまみ」

「えゝ、ありがとう。たくさんですわ」

「遠慮せんで……さあ……」

「ほんとに、あたくし……歯がわるくつて……」

 歯はべつだん悪くもないのだけれど、彼女は、そんなものは欲しくなく、また、食べなければわるい、とも思わなかつた。

 男は、今度は、電燈を消すからと云い、ストーブへ薪を入れ足し、

「どうだね、ちつとあつちで眠らんかね。こゝじや、きゆうくつだろう」

「いゝえ、ちつとも……」

 と、油断をみせず、彼女は言つた。

 電燈が消える。一瞬、真暗になり、男の姿を見失うほどであつたが、やがて、すべてがもとへもどつた。男のいびきが聞えはじめた。

 こうして、この不思議な一夜が過ぎ、康子は、やつとの思いで夫の宿舎へたどりついたのである。

 それは幾むねにも分れているぼう大な建物の一つで、受附の少年はすべてを心得ているらしく、こちらへと言つて、長い廊下の一ぐうにある部屋の前へ彼女を連れて行つた。

 さすがに、彼女の胸はおどつた。少年のノックに、「オーイ」とこたえる夫の声が聞える。



 康子の夫、井出一徳は、正規の道を踏んだ陸軍技術将校で、砲兵科の秀才として部内では早くから嘱望され、専門の弾道学は世界的とまで言われていたが、彼は研究室に閉ぢこもつてばかりいなかつた。自分から志顧して直接兵器製作の現場に乗り出し、更にまた実戦に於ける新兵器の性能をたしかめるため、わざ〳〵第一戦部隊の指揮官を買つて出るというふうであつた。

 が、現在の彼は、復員庁の一職員として専らH工しようの連合国への引渡事務に当り、同時に、彼の関係した重要研究の資料を整理して提出する特別な任務もあつた。

 既に解体を終り、ガランとしたこの工しようの一室で、井出一徳元大佐は、妻康子の到着を待ちうけていたのである。

 彼はたつたいま起きたばかりで、ワイシャツを着、乗馬用の「短こ」と呼ばれるズボンをはき、次でえり章を外した軍服に腕を通したところである。

 きのうの午後いつぱい手をあけて待つていたのだが、終電には部下の一人を駅まで出し、夜道の案内をさせるつもりであつたところ、線路の故障で下りはもう来ぬという駅員の言葉に、出迎えはそのまゝ引つ返して来てしまつた。そういうわけで、妻がこんなに早朝から訪ねて来るとは思つていなかつた。康子の姿がドアの陰にみえると、彼は、

「おや、どうしたんだ? 何時に着いた?」

 と浴せかけた。

 康子はその調子に慣れているので、先づゆつくり頭をさげ、電車の故障で五時着のはずが九時になつてしまつたことゝ、駅で夜が明けるのを待つよりしかたがなかつたことを告げ、

「まだすこし早すぎると思いましたけれど、どこつて別に休むところもありませんし……」

「そうか。それや可哀そうだつた。電話をかけてよこせばいゝのに。もつともあの駅には普通電話はないのか。まあ、いゝ、無事に来れたんだから……。みんな変りないね? モトムは元気か? かい虫がわいたつていうじやないか? そんなものはすぐ出せる。いなかはどうだい、いなかは? 百姓は日本が負けたつていうことを、実際に感じてないだろう? お前たちだつて、戦さに負けるつていうことは、どういうことか、ほんとにわかつてやしないんだ。情ない国民さ。まあ、すわれよ。荷物はそれだけか?」



 たてつゞけにしやべる夫の前で、康子はしばらく黙つて立つていた。自分ひとりで勝手なことをべら〳〵まくしたてることが彼にはよくある。それは平生の癖というよりも、どうかしたはずみにそうなるらしい。相手により、場合によつて、むしろ口数をきかぬこともあり、そういう彼もまた、彼らしいのである。康子は、夫のこのとめどのないおしやべりを、ひとつの発作とみていた。鎮まるのを待つより手はないのである。

「お寒くはないかと思つて、チッキで毛布とお下着を二三枚送りましたの。おいり用のものをちつともおつしやつてくださらないから……」

「毛布はいらないよ。この通り何枚でもある。顔を洗つてないだろう、洗面所もあるにはあるが……すぐ行くなら、一緒に来い」

 康子は、洗面道具をとり出して夫の後について行つた。兵営とも違い、学校の寮ともちがう、一種特別なお役所のにおいが、強く彼女には感じられた。

 部屋に帰ると、附近の仕出し屋から運ぶらしい朝食がちやんと二人前、事務テーブルの上に並べてあるのを、康子は珍しいものをのぞくようにしてはしをとつた。なにはともあれ、こんな殺風景な食事を三度々々甘んじてとり、先ざきの楽しみもなく、一切をかけた光栄のしるしをはがれ、しかもなおこうして「何事か」に励んでいる夫のいた〳〵しい姿を見るに忍びなかつた。なにかひと言、いま、妻としての想いをこめた言葉で、この夫を慰め、鼓舞したかつた。が、その言葉がどうしても口に出ない。

「もう食わんのか?」

 と、はしをおいた康子をみて、一徳はたずねる。

「えゝ、どうしてものどを通りませんの」

「そんなにまずいか、この雑炊は?」

「いゝえ、それより、きよう、どんなお話を伺うのかと思うと、あたくし、食事どころじやございませんの。早くおつしやつていたゞけないかしら?」

「うむ。それやまあ、ゆつくりでいゝさ。あとで腹がすくから、とにかく食え」

 彼女は、そこで、自分が手をつけなかつた弁当をとりだし、

「冷えてますけど、これ、およろしかつたら……伊那谷の新米ですのよ」

ぜいたくしよるなあ」

 と、それでも頬をほころばせながら、夫は握り飯の一つをつまみあげた。そして、言つた。

「いろ〳〵お前には話したいことがある。話したいことはあるが、余計なことは言わんよ」



 ──話したいことはあるが、余計なことは言わん、と、夫の一徳は、そう前おきをして、握り飯をうまそうにほおばり、さて続ける。

「手紙であらましはおれの気持ちもわかつてるだろうが、どうも手紙つていうやつはにが手でなあ。言いたい気持は書けんよ。実を言うとなあ、この仕事もやつとけりがついたし、二三日前、役所からはお暇が出た。ほかの仕事へまわれば、もうしばらく勤めてもよろしいという話だつたが、おれは自分の責任だけ果せば、別にお上の飯を食わしてもらわんでもいゝと思つたから、それは断つた。部下の身のふり方も、大体きまつたらしいので、これも安心していゝわけだ。そこで、今度はおれ自身のこれからの問題だが、これをひとつ、はつきりお前の耳に入れてだな、よく納得してもらわにやならんと思つたのだ。いゝか、冷静に聞けよ……」

 夫の調子は、しごくまじめではあるが、どこかよそ〳〵しく改まつたところがあり、康子は、この自分にも当然関係のある重大な事柄を、こんなふうな調子で夫自身の口から伝えられるのはいやだつた。なぜもつとくつろいだ、自然な、親しみのある、しみ〴〵とした調子で話しだしてくれないのか!

「ちよつとお待ちになつて……。あなた、後生ですから、もうすこし……」

「もう少し……なんだ?」

「えゝ、もう少し……なんて申すんでしよう……。とにかく、あたくし、まだ、なんにも気持ちの用意なんかできていませんの。いきなり、そんなふうに、冷静に聞け、なんておつしやつたつて、無理ですわ」

やつかいなことを言うなあ。だつて、さつきお前は、早く話をしろつて言つたじやないか」

 康子は、黙つて夫の顔をみつめていた。そしてその眼の動かぬ表情のなかに何ものかを読みとろうとした。しかし、彼女は、やがて胸にこみあげてくる恐怖に似た感情をおさえることはできなかつた。そこで、静かに席をたちながら言つた。

「あたくし、どうしてこういく地がないんでしよう。いままでずつとお側にいたのなら、いまなにをおつしやつても、そんなに驚かないだろうと思いますの。でも、こうしてお別れしていて、その間になにもかも、変つてしまつたんですもの。ことに、あなたのご境遇は、あたくしなんか想像できないほど変つてしまつた、と申してよろしいと思いますわ……」



 いつたん窓に近づいて、ガラス越しにぼんやり外に眼をやつたが、彼女は急にまた夫の肩先へ歩みより、

「ねえ、あなた、ご自分のことだけお考えになつてらしつちや、いやよ。もちろん、あたくしたちは、これから、世間せまく暮らしていかなければならないことはわかつていますわ。それにしても、決して希望がないわけじやないと思いますの」

「どんな希望がある?」

 と、一徳は、妻の手を採りあてると同時に言つた。そして、いくらか笑いをふくんだ調子で、

「お前の希望というのは、おれにもまんざらわからんわけじやないが……そんな希望は、たゞ、人間が生きているために、生きざるを得ないがために、強いて頭のなかに描く幻影にすぎんさ」

「いゝえ、ちがいます。そんなもんじや……」

「待て、待て。おれは、おれ一人のことだけ考えてるわけじやないよ。それどころか、おれという一個人は物の数でもない、この日本という国のこと、おれが永年そのなかで育ち、そのために働き、その名誉を名誉として来た軍隊のこと、それから、最後に、家のこと、つまり、お前たちのこと……」

 こゝで夫の指にぐつと力がはいり、彼女の手はしびれるように痛かつた。彼女は何か言おうとして、くちびるを動かしたが、そのまゝ何も言わなかつた。

「まあ、おれの言うことだけ聞いて、意見があつたら言え。いゝか、おれはなあ、康子、日本が負けたことは、そんなに恥じじやないと思う。堂々と戦つて堂々と負けたのならだよ。しかし、おれは早くから軍職に身をさゝげたものゝ一人として、こんなことは言えた義理じやないが、今度の戦争ばかりは、堂々と戦つたと言いきれんのだ。なぜかと言えば、たとえ形式は天皇陛下の御命令ということになつていても、実は、軍隊というものが起つべき時に起つておらん。軍隊が起つべき時とは、軍隊が起たなければどうにもならんときをいうのだ。その時こそは、たとえ勝算なしと見ても、やるだけやるんだ。運を天にまかせるのもいゝ。しかしだよ、あらゆる点からみて、まだ〳〵武力に訴えなくてもすむ場合、或は、武力に訴えざるを得ないようになつた原因が、他のすべての力において故に劣つているという、そのことにある場合、軍隊を動かすことは愚の骨張だ」

 言葉がしばらく途切れる。



「うん、愚の骨張だ……」

 と、一徳は繰返して、またしばらく天井を仰いで考え込む。

「しかも、それが、軍人たる身分において、武力に訴える時機を決定し、それを押し通すに至つては、実に不謹慎、実にせんえつ、実に無責任だ。なるほど、当時、真に国を憂える政治家がいなくつて、軍人のなすがまゝにさせたということは、かえす〴〵も遺憾だが、そこにもまた日本の救うべからざる病根があつたのだ。戦さに負けることは、だから、負けた理由によつては、必ずしも恥じではない。少くとも国家にとつて致命的な不名誉ではない。しかるに、当然負けることがわからずに、いや、仮にわかつていたとしても、それに自ら眼をおゝつて、たゞぎようこうをのみたのんだ、その軽挙もう動は、いくら恥じても恥じたりない」

 そこで、彼は眼をつぶり、腕を組む。

「おれは自分の専門の立場から、この戦争の見とおしをつけはしたが、おれの任務は、たゞひとつだ。よりいゝ兵器を作るということ、それだけだ。もと〳〵おれは軍人を志し、自分の天分をそこで活かすために技術畑を選び、お前も知つているとおり、精魂を傾けてその道にまい進した。いろいろの事情がおれの意図を可なりはゞみはしたが、おれのやつたこと、やり得たことは、それだけで十分報いられている。それはそうに違いないが、おれの任務は、軍人としての任務は、こゝでまつたく終つたのだ。ということはなんとしても事実だ。そのことは、また、同時に、おれという人間の存在が、これから、まつたく無にひとしいということなのだ」

 一徳は、妻の手がふるえているのに気がつく。で、それをいたわるように軽く握りしめ、

「まあ、待て。そこをよくわかつてもらいたいのだ。いゝか、おれはだよ、戦さに負けたから、軍人として申しわけないとか、世間に合わす顔がないとか、そんなことのために、くよ〳〵はせん。まして、よくあるように、戦争を職業意識から待ち望んだ軍人の一人では絶対にない。それは良心にかけて誓う。あ、そのことなら、お前だつてわかつてるはずだなあ。だから、おれは、国民を戦争に引きずり込んだ責任は負うわけにいかん。ところがだ、おれは今さら軍服を脱いだところで、何を生きがいに生きるという当てが、かいもくない。おれは、早くいえば、それほど、軍人以外のなにものでもなくなつていたのだ……」


十一


「軍人以外のなにものでもなくなつていた」という夫の言葉は、最初、康子には一種の自ちようのように聞こえたけれども、それはやがてそうでないことがわかつた。一徳は言葉をついだ──

「そうだろう? はじめて剣をつつたのが、十四の年だ。幼年学校の五年、士官候補生を三年、これはおれの少年期の最後と青年期の大部分をあげて、ひたすら偉大なる武人という夢を追つた時代だ。隊附の一年は、満々たる自信と華やかな野望の年さ。砲工学校は、おれに二つの道を自由に選ばせた。おれは、くじを引くようにその一つを選んだ。員外学生として東京帝大の工学部に籍をおいた三年間は、おれを特殊な科学者、つまり、兵器の研究を専門とする技術将校に仕上げる期間だつた。うん、そう〳〵、その当時だ、名和さんがお前という女をおれに押しつけたのは……」

 康子のまゆがぴり〳〵ッと動く。

「おれは、人生の幸福がそこにもあるということを、お前によつてたしかに知らされはしたが……知らされはしたが、しかし、その幸福は、おれの目ざしているものとどういう関係があつたか? たしか、おれはお前をもらうについて、こういうふうに念をおしたはずだ──軍人の家へ嫁ぐ女の覚悟はできているだろうな。軍人は自分の意志が自分の意志ではなく、自分のからだも自分のからだではないのだ、という意味のことだつた。お前は、うなずいて、おれの顔をじつと見た。お前のその時の眼つきは、非常に美しかつた。美しいばかりじやない。非常に力強いものを感じさせた。おれは、これなら大丈夫だと思つた。お前のその時の眼つきに、おれは、それから三度ぶつかつた。一度はヨーロッパへたつた時、一度はノモンハンから帰つた時、それから最後は、この五月、あの焼跡の灰のなかだ……」

 夫の手が肩へまわつた。彼女は、されるがまゝにからだを曲げた。夫の顔が近づく。その視線に射すくめられるように、彼女は眼を伏せた。

「実を言うとなあ、おれは、お前たちのことを考えても、もうこれ以上生きていたくないのだ。生きていても、なにもならんと思うのだ。ほかの軍人は知らん。おれだけは、徹頭数尾、軍人として生きて来た。それ以外の生き方はどうしても考えられない。唯ひとつの使命が永遠に終つた時、おれの生涯は、いわば尽きたのだ。そこでだよ、お前に相談というのは……」


十二


 しばらく夫の言葉がとぎれると、康子は、不意に夫の腕をふりほどくように、からだを引き、

「そういうお話、こんな陰気なお部屋の中で伺うの、あたくし、いや」

 と、きつぱり言い放つた。そして、夫の方は見ずに、

「もう、なにをおつしやつても驚きませんわ。でも、こゝじや、いや……。もつと広々した、明るい日の射すようなところで、なにもかもおつしやつて!」

 窓ガラスに顔をおしつけるようにして、彼女は、自分の声がうつろに響くことをおそれながら言つた。

「ふむ、そうか。そんな場所があるかい、いつたい?」

「えゝ、ありますわ、どこにでも……。外へおでになれません? このへん、どこを歩いても原つぱみたいですのに……」

「原つぱか、よかろう」

 二人はそれ〴〵支度をした。一徳は長をはき、康子はコートを羽織つた。

 建物の裏手からすぐ通用門を出ると、板べいで囲われた倉庫風の建物がいくむねも立ちならぶ間をぬけて、やゝ広い草地に出る。そこにもさま〴〵な形をした鉄材が山のように積まれており、なかには明らかに砲身と思われるものが赤さびたまゝ不気味に横たえられてあつた。

 康子は夫のうしろを小走りについて歩いたが、やがて草地のつきるあたりから、小道がまばらな雑木林に通じ、二人はいつの間にか肩を並べて歩いている。

「こういう道を歩くのも久しぶりですわ」

 と、彼女は、ふと、そんなことを言う。

「そうか? 信州のいなかとどこか違うか?」

いなかという点ではおんなじかも知れませんけれビ、あんまり外へ出ないのと、なんていうんでしよう、気分がすつかり違いますわ」

 彼女は、自分でもばかげたことをと思いながら、ほかに適当な返事ができない。「久しぶり」という言葉からして、彼女の今の気持ちにはそぐわないのである。たゞ、落ち葉に埋もれた森の小道と、おう悩の胸に降りそゝぐ秋の日射しとが、彼女の青春の一つ時をよみがえらせたといえばいえよう。

 すると、小高い堤防が林を区切つているのに出会う。堤防にあがる。ひとすじの流れがところどころ砂ぞこをみせてまつすぐに空の光りをうつしていた。



青春の孤独




 市ノ瀬牧人はI市の地方事務所で開かれた農業技術員会議をたつた今おえて、自転車で目ぬきの通りを走つていた。会場を一緒に出て来た。村の同僚は、町に来たついでにすこし買物をして帰るというので、彼はひとりで、ちかごろ急ににぎやかになつた店先をたゞぼんやりうちながめながら、高砂館という劇場兼映画館の前にさしかゝつた。

 六時開演とあるのに、まだやつと三時になるかならないうちから、もう一丁以上も続いている長の列を、彼は珍らしい風景として目をそばだてないわけにいかなかつた。

 東京でなら、こんな現象もさほど驚くに当らないと思う習慣がついていたけれども、地方の小都市では、すべてがもつとつゝましく行われるものと思いこんでいた彼は、自分の認識不足か、それとも時代の急変か、どちらとも判断がつきかねた。が、よく考えてみると、しばらく郷土をはなれて異国の風物にとりまかれ、しかも軍隊という単純な生活のなかに身をおいた数年間のうちに、彼のすべての記憶が色あせてしまつたのだということに気がつく。

 それにしても、某々映画俳優の実演が呼びおこすこの現象は、たゞ、美ぼうの女優がもつ人気というだけで説明がつくだろうか?

 彼は行列のなかに知つた顔がみえはせぬかと、前から後のほうへ順番に首実検をした。いる、いる。視線があうと、向うから笑いかけ、照れたふうで「おう」とか、「やあ」とか言う。みな、働き盛りの若者だ。おまけに、数里の道を山越しで出かけて来たものもある。

「えらく熱心なもんだなあ」

 と、彼は、その一人へ冷やかす気でなく言う。

「うゝん、ちよつと、ついでがあつたで」

 その隣で、明らかに連れと思われる少女が、ショールで顔をかくした。

 市ノ瀬牧人は、こつちがそこで不覚にもほおを熱くして、さりげなく列をはなれる。

 彼は、今年二十七になつた。郷里の農学校から東京の私立農科大学へはいりはしたが、中途で学校がいやになり、或る出版社の編集事務を手伝つているうちに、郷里では父が亡くなり、母が帰つて来いと言つてきかぬので、再び郷里の土を踏み、村の農業会に籍をおいたとたん、補充兵としての召集が来た。

 彼はそういうふうにして足掛け五年、大陸の南北を引きまわされてつぶさに「兵隊」の苦労を味い、最後に北部仏印で負傷をして病院にはいつた。

 終戦のことはその病院のベットの上で聞いたのだが、あの時の興奮はいま思うとおかしいくらいである。完全な敗北、無条件降伏という事実の前で、それを信じまいとする自分が刻々に打ちのめされる姿は、惨めともなんとも言いようがなかつた。



 あの時にもいろ〳〵な人間の性根がむきだしになつた。もと〳〵自分を自分だけにみせたがらない多くの連中は、むやみやたらに憤慨したり、先見の明を誇つたり、罪もない上役にたてついたりしてみせた。が、それらのものは例外なく、とつくの昔に「自分を失つた人間」であつたことを暴露した。

 ところで、それにも増して市ノ瀬牧人が意外に思つたのは、なにがどうなろうと無関心に、自分に直接の損さえなければ、周囲にどんなことが起ろうと平気の平左右衛門だという手合いの、うようよしていることだつた。

 武装解除から以後の二月ほど、彼に民族の素質ということを考えさせた時期はなかつた。そしてまた、そのことから、自然に、自分の属している民族の宿命的な不幸を、この時ほど痛切に胸に感じたことはなかつた。

 それは彼がこの年まで経験したことのない精神の危機とでもいうべきものだつた。その証拠に、彼はありとあらゆる空想に身をゆだね、極端から極端への気分の移り変りを経験し、愛するものに冷やかな眼を向け、憎悪の念をかき立てるよろこびにひたつた。

 ある時は、カンボチャの山の奥にひそんで未開人の娘を妻にしようと思つた。そうかと思うと、またある時は、自慢の脚にものをいわせ、陸路をアジアからヨーロッパへ抜けてスカンヂナビヤの一角にたどりつき、文明と平和の理想郷がどんなものであるかをたしかめてみる気になつた。が、虜生活のさま〴〵の経験と、いやでも聞かされる内地の日に日に変るすがたとは、彼のえがくすべての夢を、片つぱしからもみ消した。かつては無我夢中で、しかし運命に従うように身をおこして銃剣をとつた彼は、今度は、もつと冷静に、自分の力でひとつの路を切りひらく決意に促されて再び祖国の土を踏んだのであつた。たゞおなじことは、退くよりも進むことをえらんだというだけである。

 彼はしばらくいなかにとゞまつて「何をなすべきか」をゆつくり考えることにした。おぼろげにではあるが、彼にも日本の向うべき方向はわかつていた。そして、その歩みをさまたげるものが何であるかということもほゞ察せられた。彼はまずなによりも自分を新しい人間に鍛えなおす必要を感じた。彼はどんな場合にも「自然」であろうとつとめた。「自然」であるためにどんなに勇気がいるかを彼はつく〴〵思い知つた。

 そういえばまつたく日本の社会は「不自然」で埋められているといつてよかつた。そのことを彼は五年間の異民族との接触ではじめて知つたのである。



 市ノ瀬牧人は劇場で行列を作つている群集のなかに知つている顔をみつけだす興味から、つぎつぎに眼をうつしていくうちに、同村の一青年が彼の視線をまぶしそうに避けながら、連れの少女をそれとあからさまにさとらせまいとしてうろ〳〵し、連れの少女はまたなにが恥かしいのかいきなりたもとで顔をかくしてしまうのをみて、そこにもひとつの小さな「不自然」をみつけだした。

 彼はしかしそれ以上この青年にものを言う気にもならず、ふと劇場の二階の窓に眼をうつした。そこは客席の廊下になつているらしく、五六人の若い男女がひとかたまりになつて首をつき出し、何やら大声にわめいたり、いつせいに笑いこけたりしている。いずれも二十前の、学生とも工員ともつかぬ服装で、なかには巻煙草をくわえたのや、くちびるまつかにぬつたのもいる。これはまた、場所がらといい、だれはゞからぬ振舞いである。男は女の肩へ手をまわし、女は男の帽子をひつたくつて窓から捨てるまねをする。すると行列のはるか後ろで、仲間らしい男の、妙にうわずつた声がこれにこたえる。

 市ノ瀬牧人は、思わず身ぶるいをした。これはまたなんという「不自然」であろう! 青春の放たれた世界とはこういうものであろうか? 彼は気がつくと、わきの下に汗をかいていた。しかし、彼は思いかえす。これを「不自然」とみる自分の方が、むしろ「不自然」なのではないか? そもそも、人間が「自然」であるという状態は、なにを標準にするか? いうまでもなく「人間らしさ」である。「人間らしい」すがたというものを、自分は理想化しすぎてはいないか?

 彼は、もう何も見ていない。自転車へ乗るのも忘れたように、眼をふせたまゝ、静かな横町の方へ歩きだしていた。

 やがて、町はずれの片がわはやぶの茂つた坂道をおりようとしたとき、うしろからポンと背中をたゝかれて、彼ははじめてわれに返つた。

「きようはどこへ?」

 北原ミユキの例のいたずらッ子のような笑顔が後ろを追つていた。そして、彼の返事も待たず、

「わたし、学校をやめることにしたの。子供を教えることなんぞ、もう興味ないわ。わたしもう自分勝手なことしたくてたまらんの。うゝん、それ、自由主義のまねなんかと違うのよ。あなたにわかつてもらえるかしら? こう、なんでもいゝから、徹底的にぶつかつてみたいの」

 市ノ瀬牧人は、この一風かわつた女教師の宣言を、然として聞き、そして、それはやはり時代のさせるわざに違いないと思つた──

「へえ、すごい決心でおありだな」



 市ノ瀬牧人の口からひとりでに出た感嘆の声には、むろん北原ミユキは正確な反応をみせた──

「そうよ、冷やかさないでよ。あなたなんかのんきにお百姓相手の仕事をしていられるからいゝわ」

のんきに?」

 と、彼は聞きとがめる。

「だつて、そうでしよう? お米がたくさんとれるかとれないかの問題でしよう、けつきよく。そんなことどうだつていゝじやないの」

「無茶だね、先生の言うことは。そう頭ごなしに言わないで、ちやんと話をしたらどうだね」

「そりや、するわ、いくらでも……。たゞ、あなたがまじめに聞いてくれそうもないからさ」

 そう言つて、彼女はちよつとさびしそうな眼つきをする。

「ほんとだ。人の話をまじめに聞かんのはよろしくない。しかし、先生の方にも、まじめに聞かせんようなところがあつたことはたしかだ。そこで、こつちは今度こそまじめに聞くによつて、なんでも話してみておくれんか」

「いやだ、そういうまじめはきらい、わたし」

「すると、どういうまじめがいゝんだろう?」

「知らないわ。まじめくさくないまじめよ」

「なるほど、わかりました。しかし、もう手おくれだよ、先生。こりや、どうにもならんよ。すべりだしがわるかつたもんで……」

 二人は、そこで、ほがらかに笑つた。

 丘の上に建つたI市からH村に通じる道はいくつもあつた。天竜の支流である松川の岸に沿つて東へくだる村道はいちばん人通りがすくない。その人通りのすくない道を、どちらかと言えば北原ミユキのほうが選んだ。だれがだれといつしよに歩いていたということが、すぐに教員室の陰口になる、その難を無意識にさける習慣がついているためである。

 それはそうと、北原ミユキは、まだそれほど古い附合いとはいえぬこの男に、どうしていまこんな親しい口のきゝかたをするのか、自分ながらに落ちないのである。たゞ、相手がわりにすらすらと調子をあわせてくれるので、やつぱりそれでよかつたと思つている。つまりは、だれでもいい、すこしは手ごたえのある話相手が、ふとほしくなつていたのである。井出夫人が東京へ行つたまゝ、もうかれこれ一週間たつのにまだ帰つて来ないことも、彼女の現在にとつては、言いようのないさびしさであつた。

「こんなこと、まだ言うのは早いと思うけれど、だれかに言つてみたくてたまらんの、わたし」

 と、彼女は、市ノ瀬牧人がくつのひもを結びなおしている横から、だしぬけに言つた──

「あのな、ほら、あのひとな、どうも戦犯にひつかゝつとるらしいの」



「戦犯に? どうしてわかつたの?」

 と、市ノ瀬牧人は、顔をあげた。

「うゝん、はつきりしたことはわからんのだけど、あのひとの家へ同じ部隊で戦友だつたつていう人がたずねて来てな、多分そうだつて話したらしいの」

「そんなら新聞に出そうなもんだがな」

「名前がでしよう。でも、まだ公表しないものだつてあるわ、きつと……」

「どこかで調べてもらえんかしら?」

「それがたいへんなのよ。今までどこへ行つても、もう少し待て、もう少し待て、ですもの」

「しかし、まあ、生きているということの手がかりにはなるわけだね」

「生きている……そうね、そう言えばそうだわ。たゞ、その生命のかぎをだれが握つているか、だわ」

 ながい沈黙ののち、市ノ瀬牧人は、ひとりごとのように──

「そういうこともあるかも知れんが、浜島君なら大丈夫と思うがなあ。そんなことする男じやないもの。よく調べればきつとわかるよ」

「そんなこと言つて、あの人のこと、あんたよう知らんくせに……」

「いや、いや、会つたことは一、二度だが、うわさによう聞いとるに。詩も読んどるに。信州日々に、ほら、よう出しよつたもの」

「へえ、市ノ瀬さんも詩をよむなんてことがおありなの? うれしくなるわ」

「おい、おい、わしはこれでも昔は藤村の愛読者だでなあ。──小諸なる古城のほとり、か。今でもこんなもん暗しようしとるに」

「そんなもん、だれだつて暗しようしとるわ。でも、あのひとのものはまさか覚えておいでんなあ」

「白状すると、そのとおり。上手か下手かもわからなんだ。しかし、詩人は残忍ではあり得ないということだけわかる」

「そうかしら? でも、戦争に行くと、だれでも少し気がへんなるんじやない?」

へんになるね。変にはなるけれども、人間が変わつてしまうということは絶対にないと思う。ふだんはかくされているものが、ふつと現われるだけさ。つまり、いわゆる日本兵の残ぎやく行為ね、あれなんかはだよ、わしの考えでは、どうも、子供の時分から手荒なことをするいたずらぐせが、大人の分別を失つた瞬間、ふつと頭をもちあげて来たもんだよ。その証拠に、そのやり方をみてると、じつに他愛もない、よけいなまね、バカ〳〵しい強がりみたいなものが多いんだ。これはその行為を弁護することにはならないよ。たゞ、そういうことは、できない人間には絶対にできないんだ。道徳的判断がそれをさせないのじやない。そういう習性がないだけの話さ。そうだ、この習性は、ふだんわれ〳〵日本人が、それほど恐ろしい悪質なものと思つていなかつたんだ」



 市ノ瀬牧人は、彼がみずから戦場で目撃したさま〴〵の光景をいままた眼の前に浮べるような表情でそれを言い、

「野ばんということが、そんなに恥じではないという不文律が日本の男のなかにはあつたからね」

 と、あとは苦笑でまぎらしてしまつた。

 北原ミユキも、その述懐の率直さについ引きこまれ、

「今だつて、まだそう思つてる男がいるわ。野ばんつていえば、わたし、意地わるも一種の野ばんだと思うわ。人をいじめてよろこぶ癖ですもの。精神的な残ぎやく行為だわ」

「嗜ぎやく性というやつだね。いつたいに、日本人は、つまらんところでちよつと意地わるをしてみる癖があるね。変態心理というほどでもあるまいが、これもどうやら習性みたいなもんだ。だから、自分のことはわからない。人のことだけはよくわかる。実にへんなもんだ」

「バスの切符売場で、おゝぜいの人が急いでるのに、わざとゆつくりおつりを数えたり、仲間としやべりたくもない口を利いたりしてるの、わたし、くやしくつて……」

「そんなこと数えあげたらきりはないさ。母親が赤ん坊に意地わるをすることさえあるんだもの」

「それはヒステリーよ」

「そうさ、日本人はおゝかたヒステリーなのさ」

「野ばん人にヒステリーつてあるかしら」

「さあ、そいつは知らん。しかし、ヒステリーは野ばんに近いよ。人間らしくなくなるつていう意味でね。だつてさ、わしはサイゴンではじめて聞いたんだが、フランス人は、極端なはにかみ屋のことを、野ばん人つていうんだぜ」

 こんな会話をつゞけているうちに、松川の流れがもう天竜にそゝごうという河口の砂浜にさしかかつた。そこから小みちが左右に分れて、一方はI市の南側をまわつてE村に、一方は広い堤防の上に出てM村の八幡という小駅に通じていた。

 北原ミユキはその駅から電車に乗るつもりであつた。が、市ノ瀬牧人は、もうこゝからは道もいいし、自転車の後へ乗せていつてやると言う。どうしたものかと迷つた末、

「あなたさえよければ……」

 と、彼女は市ノ瀬牧人の背につかまつた。

「なあ、市ノ瀬さん、あのひとの作つた詩、どれか覚えておいでる、ぼんやりでもなんでも……」

 彼女は、なにを思つたか、こう問いかける。

「さあ、そいつは困つた。ひとつも覚えとらん」

「一行も……? 一句も?」

「待つてくれ、思いだすから……」

「ふゝゝ、わたしのこと歌つた詩があるんだに……」



 ──わたしのこと歌つた詩があるんだに、と、北原ミユキは、首をちゞめるかつこうで、市ノ瀬牧人の肩ごしにやつたのはいゝが、うふゝゝと、こみあげる笑いをとめようとして、手に力がはいる。

「そりやそうだろう。詩人が恋愛を歌うのはあたり前だ。おい、笑つちやあぶないよ」

 と、市ノ瀬牧人は、これもハンドルを握りなおす。

 自転車の衝突事件以来、この二人はお互にだん〳〵遠慮がとれて、ふしぎに異性という観念をはなれた友達づきあいのできる間がらになりつゝある。それはむろん、北原ミユキに婚約者があるという安全ベンのためでもあるが、それ以上に、これらの両人に共通な性格──そこから来るこだわりのない、あけすけな態度が、双方の警戒をとりのぞいて、同性にさえも求められぬ淡白な友情の如きものをつくりあげているからである。

 それにしても、市ノ瀬牧人は、一人の若い女性が自分の背中につかまりながら、その愛人の詩について語るのを聞くのはまことに妙な具合で、自転車のかじを取るのもなか〳〵容易でない。

 しかし、事こゝに及んでは、と、はらをきめ、おもむろにこう言つてみる──

「わが天上の星にさゝぐ、か。北原先生、それじや、せつかくの機会だから、ひとつ、その詩を暗しようしてみておくれんか」

 すると、彼女は、ほんとにからだをゆすぶつて、

「いや、いや、それだけはいや……。死んでもいや……」

「いやという法はないに、自分で言いだしといて」

「だから、いやなのよ。わたし、そんなつもりで言やせんに。ひよつとしたら、あんた、その詩よんどりやせんかと思つて、ためしに言つてみたのよ。もしもそんな詩よまれとつたら、わたし……あゝ、恥ずかしい」

 と、彼女は、のけぞるように空をあおぐ。

 肥おけを積んだ牛車が道をふさいでいる。だれも人がいないので、しかたがなしに自転車をおりて二人は桑畑のなかを歩いた。

「こんどはわたしが乗せてつてあげるわ」

 と、道に出ると、北原ミユキは、手を出しかける。

「だめ、だめ、それこそ命がけだ。さ、もうひといき……。村へはいつたらおろすから……」

「かまやせん、そんなこと……」

 だゞをこねるように彼女が言いはなつたのを、市ノ瀬牧人は、つく〴〵その顔をのぞきこみ、

「ほんとに、北原先生、きようはどうかおせたな。なるほど、さつきの話は、先生にとつちや重大なこつた。心配おせるのも無理はないが、まだはつきりそうときまつたわけじやなし、そんなにがつかりせんとおきない」

 改まつた調子で、そう言つた。



「…………」

 北原ミユキは、それには返事をせず、黙つて歩きだした。市ノ瀬牧人は、自転車を押して行く。が、とつぜん、彼女は立ち止まつて、

「さ、わたしひとりで歩くから、かまわずに行つてちようだい」

 と、言つた。

「どうして? まだだいぶあるに」

「いゝから、先へ行つてちようだい。ひとりでぶら〳〵帰りたいの」

「わしの言つたことが気に入らなんだ?」

「うゝん、ほんとはありがたいのよ。でも、急にひとりになりたくなつたの。あなたがいると、わたし、よけいなことばつかり言うから……」

「いゝじやないか、なにを言つたつて……。相手がわしなら罪はないさ。ほんとのところ、先生と話をしてると、張合いがあつていゝだ」

「そうかしら? わたし、市ノ瀬さんにはなんでも勝手なこと言えるからだわ。そういうお友達はめつたにないもの。でもね、市ノ瀬さん、わたし、もうこの村にながくはいないわ」

「学校をやめてどうするの、いつたい?」

「どうするつて、どうもしないわ。たゞこうしているより、どこへでも行きたいところへ行けたら、気がまぎれると思うの」

「だから、どこへ行つて何をするつてあてでもあるの?」

「ない。ありつこないわ。むろん家へなんぞ帰りたくないし……」

「わからないなあ。それじやまるで、放浪じやないか」

「そう、そうよ、放浪よ、放浪の旅よ」

「なに言つてるんだい、先生にそんなことができるもんか」

「できるかできないか、やつてみないうちはわからないわ」

「そんなこと本気で言つてるんじやないでしよう? わしはすぐ本気にするで」

「本気よ、もちろん……。市ノ瀬さんは、わたしが自暴自棄でそんなことを言うと思つておいでりやせん?」

「多少はね」

「それごらん、それが間違いよ。わたし、これからなにをするにしても、ちやんと最後の目的はあるのよ」

「ほゝう、すると、その目的を達するために手段をえらばないというわけ?」

「まあそうね?」

 と、こゝで、北原ミユキは、ちよつと得意そうにまゆをひきあげ、

「でも、わたし、井出さんの奥さんが東京から帰つて来なさるまで、どうしてもこゝを動きたくないの」



 井出夫人の名前がだしぬけにとび出したので、市ノ瀬牧人は、ちよつとどぎまぎして、

「あゝ、あのピヤノの奥さんか。ありやすばらしい奥さんだ」

 と、簡単に片づけようとすると、

「ね、すばらしいでしよう。わたし、もう、あの奥さん、大好きで、大好きで……」

 彼女が夢中になつてそう言うのを、市ノ瀬牧人は、いま〳〵しそうに、

「大好きなのは、先生だけじやないに。そうひとりで占領した気ならんでおくれない」

 この抗議は、北原ミユキを吹きださせた。

「あら、いやだ。あたしが大好きじやどうして……?」

 と、あとは眼つきで、その意味をたしかめようとした。

「…………」

 市ノ瀬は、無言のまゝ、片ほおに微笑をうかべていたが、やがて、

「なに、先生があの奥さんを大好きなのはいゝさ。だれに遠慮することもいらんさ。先生とあの奥さんとが仲善しだつていうことは、わしもちやんと知つとるし、みんな知つとるこつた。それはそれでいゝに。しかし、先生が、あんまり大好きだ、大好きだつていうと、すこし変な気のするもんがおりはせんかな」

「だれな、それは?」

「さあ、だれだろう?」

「ふん、まさかだんなさまでもなかろうに」

 と、市ノ瀬牧人は、それにかまわず、

「わしは、たつた一度あの奥さんと口をきいたきりだが、たつた一度きり口をきいて、もうどうしても忘れられんという女性は、おそらくわしの生涯であの奥さん一人きりだと思うとるに」

 こういう彼の口調があまりに荘重なので、北原ミユキは、もう笑うのをやめはしたが、

「市ノ瀬さん、あんた、気はたしかでおありる? そんなことつてあるかしら?」

 明らかに半信半疑、どちらかと言えば、疑い八分の問いかえし方をした。

「わしの気のたしかだつていう証拠は、あの奥さんに向かつてこんなことは言えん、ということでおわかりんかな」

 そう言つたと思うと、市ノ瀬牧人は、ひよいと自転車に飛び乗つて、一目散に走り出した。

 それが、あッという間のことなので、北原ミユキは、なんとも感情の始末がつかず、背中を丸めて力いつぱいペダルを踏む市ノ瀬牧人の後ろ姿を、たゞぼう然と見送つていた。



過去は過去




 中央線終発の下り列車はもう甲府駅を過ぎていた。

 やつといまあいたばかりの座席へぐつたりとよりかゝつて、頭へかぶつた毛糸のマフラをそつとはずし、髪の毛の乱れを気にしながら、手袋をはめたきやしやな指で、はえぎわの美しいうなじのあたりを、いつまでもいつまでも撫でまわしている水ぎわたつた洋装の女をだれもちつとも気にとめない。それほど、この客車のなかは、混乱のあとの疲労でいつぱいだつた。

 女はえりの立つた黒地の外とうを着ていた。そして、ほんの申しわけに化粧をしたかもしれぬすきとおるくらい青みをおびた顔が、うす暗い光の下で、あでやかな輪郭を浮き出させていた。

 手荷物というほどのものはなにも持たず、小さなスーツをひざの上にのせ、やがて、そのなかから、ミカンをひとつ取り出して皮をむき、ひとふくろ、ひとふくろ、ゆつくりくちびるのあいだへはさんでしるを吸う、その落ちつきはらつた、わるびれない態度も、この女の特長であつた。

 ミカンをたべおわると、こんどは、ハンドバッグをひらいて、コンパクトの鏡をちよつとのぞき、すぐにそれをしまつて、またマフラをかぶり、頭を軽く窓わくにもたせかけた。が、すぐに眼をつむるわけでもなく、むしろ、その切れの長いまぶたをいつぱいに引きあけ、遠くのものを見つめるようにひとみをこらした。

 とき〴〵まゆをよせる。しかし、それは水面の波紋のようにすぐに消える。が、そのたびに、深く澄んだひとみがかげをましていく。そして、またゝきがいくらか小きざみになる。そのうち、なんということか、急に眼がしらに涙がたまる。その滴が、両方の頬を伝つて、ぽたり、ぽたりとひざの上に落ちる。それでも、女は、どうもしない。自分を泣くまゝに泣かせておくふうである。

 読者は、これが井出康子だということをもう察したであろう。そのとおりである。

 彼女は、その夜、夫一徳に見送られて新宿をたつた。それにしても、夫とはどういうふうにして別れて来たか。そのことについてまず語らねばなるまい。

 さきごろ、夫の勤務先であるH町工しようをたずね、夫の口からまさかと思つた最後の決意を打ちあけられようとし、彼女は、それをはつきり言いきらせないうちにと、夫を誘つて陰気な部屋を出たのであつたが、真ひるの日光もひろ〴〵とした自然も、彼のいちずな思いをひるがえさせることはできず、そのうえ、これはまた難題ともいえるような問い責めにあつた。

 ──お前は、おれの最期をみとゞけたあと、いつたい、どうするつもりだ? それをはつきり聞いておきたいのだ!



 夫の絶望的な気もちはわかるとしても、そういう気もちに理くつをつけて、ひとを納得させようとする自分勝手には彼女もついていけないのである。彼女は、それがなんにもならないとは知りながら、あくまで夫の言いぶんに反対した。そして、こんなことを言つた。

 ──なんとおつしやつても、あたくしにはわかりませんわ。そういうことをしなければならない立ち場の方もあるでしようけれども、あなたは、ちがいます。げんに、ご自分で責任はないとおつしやつてるじやございませんか。そうだとすれば、あなたのようなかたが、まつたく生きる望みを失つておしまいになるなんていうことは、どうしても考えられませんわ。軍人以外のなにものでもなかつた、とおつしやいますけれども、それなら、これからは、軍人以外のなにものかにおなりになればよろしいじやございませんか。ことに普通の方とは違つた、ゆうずうのきく学問を身につけていらつしやるんですもの。

 すると、夫の一徳は、例の調子で、

 ──女になにがわかるものか。ゆうずうのきく学問とはいつたいなんだ? おれの専門は兵器だ。戦争以外に役には立たんさ。よしんばゆうずうがきくとしても、おれには、ほかのことはてんで興味はない。仕方がなしにやるというような仕事はまつぴらだ。

 ──あら、そうでしようか。科学上の研究とか発明とかいうものは、これからの日本で……

 ──おい、待て。これからの日本なんていうものはないよ。完全な亡国じやないか!

 ──日本がないなら、世界でもよろしいわ。でも、あたくし、理くつを申してるんじやございませんのよ。どうかして、あなたが、ご自分のいのちを大事なものだと思いかえしくださるように、あたくしの精いつぱいのお願いをしているんですわ。

 ──よし、お前の言うことは聞くだけ聞いたから、もういゝだろう。ところで、おれの決心に変りがないとすれば、お前はたゞ、おれの妻として、それ相応の覚悟をしてもらわにやならん。もともと軍人のところへ来た以上は、それくらいの心構えはあつて然るべきだが、おれは、その点、ちよつと不安でなあ。あと〳〵のことを、遺書にする前に、あらかじめ相談しておきたいと思つたのだ。

 彼女は、もう口をはさむ勇気はなかつた。すると、夫は、道ばたのナラの枯枝をポキリと折つて、例の問いをだした。

 ──お前は、おれの最期を見とゞけたあと、いつたいどうするつもりだ?



 彼女には、この、夫の問いの意味がどこにあるかをたしかめる気さえしなかつた。

「そんなこと、お返事できませんわ。第一、あたくしは、あなたのおつしやること、ぜつたいに承認していないんですもの。承認しろとご命令になるんでしようけれども、あたくし、そればかりは、妻として、母として、いゝえ、女として、ぜつたいに承認いたしません」

 それは実にきつぱりとした彼女の宣言であつた。

「そうか。それならしかたがない。お前をこゝへ呼んだのはむだだつた」

 気まずく夫の一徳は口を結んだが、二人はそれからいつたん工しようのさつきの部屋へもどり、また、こんな問答をかわした。

「では、もうお前に用はないから、すぐに帰れ」

「いゝえ、あたくしはこのまゝこゝにいさせていたゞきます」

「バカいうな。こゝは役所だ」

「でも、プライヴェートのお部屋じやございません? あなたのおそばにいさえすればよろしいんですわ」

「なんだ、監視か」

 と、夫ははじめて苦笑した。

 康子はそういう夫のすきをのがさなかつた。

 ともかく、もう任務を終つたこの役所をさつそくにも引きあげることをすゝめ、どうあつてもいつしよに信州へ連れて行くといつてがんばつた。彼女の腕は、まなざしは、そしてくちびるは、夫のかたくなな心を次第にほぐした。

 その日、彼等夫婦は、H町の安宿に部屋をとり、翌日は一徳が多少顔なじみになつている浅川在のさる料理旅館へうつり、そこの離座敷で、前後十日間、まことに奇怪な同居生活をいとなんだのである。

 早く子供のそばへ帰つてやろうと彼女が言えば、夫の一徳は、──まあ、まあ、もうすこし、と言つて腰をあげない。そうかと思うと、朝起きぬけに宿を出て、夕刻にならなければ顔をみせないこともある。どこへ行くのかとたずねると、面倒だからいち〳〵行先を聞くなとつッぱねられる。

 が、それにしても、彼女は、夫の毎日の行動や顔色から、まだそれほど切迫したものを感じてはいない。で、なにか、もうひと息という気がした。

 それは、かんたんに言えば、ふと気が変るというような、たゞ生命への執着が微妙な一線をこえて彼の精神をとりこにすればいゝのである。そう考えてくると、彼女にしてみれば、自分というものゝ存在が、それほどそのことには役に立たぬのかと、ある夜、つい、いらだたしく綿々と夫の愛撫にいどみかゝつた……。



 夜は更けていたけれども、もういく時ごろかわからなかつた。

 夫が何か耳もとでさゝやいている。彼女はそれを夢うつゝで聞いている。

「ねえ、康子、いつかの返事をしてくれよ。おれがいま死んだら、お前はどうする?」

 ギクリとはしたが、彼女は、夫の胸にぐつと寄りそうかたちで、かすかに答えた。

「まだそんなこと考えてらつしやるの? あたくし、もうすつかり忘れてましたのに……」

「いや、たゞ聞いておくだけだよ」

 しかし、夫の腕が彼女をしめつけるその力で、彼女は、なんと答えれば彼が満足するかを直感した。

 それにもかゝわらず、彼女はそのひと言を言いきるわけにいかなかつた。

「ねえ、おい、ちやんと言えよ。おれが安心するじやないか」

 それでも、彼女はおし黙つていた。

「おれといつしよにでも、死ぬのはいやか?」

 あゝ、もうおしまいだ、と、彼女は思つた。すると急に全身の力がぬけて、夫のはだが石のように固くつめたく感じられた。

「なぜ返事をしないんだ? そんなにお前は冷淡なのか! お前のすべてはおれのものじやないのか?」

 その声の低くはあるが、なんという荒々しさ! 夫は、ぷいと夜着をけつておきあがつた。

 康子は、そこで、えりをかきあわせながら、静かにすわりなおす。

「あたくしが返事をしないでいるのは、いゝ加減なことを申しあげたくないからですの。死ぬなんていうことはじようだんに言えることじやございませんあたくしは、自分が死ぬ死なゝいより、第一に、あなたを……」

 と、そこまで言つて、もう胸がいつぱいになつた。

「おれのことはおれが考える。お前のことを聞いてるんだ」

「えゝ、ですから、あたくしは、自分の力かぎり、あなたを……あなたのいのちを、おまもりすることしか考えておりません」

 そう言つて、彼女は、そこへ突つ伏した。

「強情だなあ、お前は……。どうして、うそでもいゝから、おれといつしよに死ぬ、と言つてくれないんだ? 気安めに、あとを追うとでも言つたらいゝじやないか。とにかく、それが夫婦の情というもんだ」

 すこし折れて来たふうがみえるので、彼女は、そのまゝ、顔をあげずに云つた。

「その夫婦の情について、あたくしを疑つてらつしやるんですの?」



 一徳は寝間着のはだに寒さがしみるとみえ、両腕をかわる〴〵こすりながら、

「そうとばかりも言えんが、疑いたくなることもある。いつたい、お前は女らしくない」

 女らしくない、という夫の批評は、これがはじめてではなかつた。しかし、夫がそれを言いだす時は、きまつてなにか意見の合わない時であつた。妻としてそういう印象を与えることは自分でもまずいと気がついていたから、彼女は、どうでもいゝことはずいぶん彼の言うなりになつていたつもりである。ところが、その言うなりになり方が、どうもまだ夫の気に入らぬらしい。

 そういうことのあつた翌日、夫の一徳は、昼すぎに、いつものように服を着かえ、出かけるのかと思うとそうでもなく、なにやら書類のようなものを折カバンから出して、ひとつ〳〵ていねいにそろえたり、不用のものは破いたりしていた。それがすむとこんどは、一通の封書を康子の前へほうり出し、

「さ、あとのことはくわしくこれに書いてある。別に相談することもない。その通りに実行すればよろしい。お前のことはお前の自由にせよ、と書いておいたが、それは直接話すつもりだつた。しかし、お前はてんで話に乗つて来ないから、もう話すのはやめた。おれがいつ、どこで決心を実行にうつすかは、今、はつきりしたことは言えない。おそらくだれの目にもつかないところで、いつのまにか消えているということになるだろう。なにも井出一徳のあつぱれな自決ぶりを人にみせる必要もない」

 康子は、その封書のうえへ、ぼんやり視線をおとしたまゝ、夫の言葉に耳をかたむけていた。

 封書の表には、「井出一徳遺書」と肉太に認められ、そのかたわらに、「昭和二十年十一月末日以後ニ非レバ開封スベカラズ」と書き加えてある。

 十一月末日といえば、あとちようど半月である。

 康子はしずかに顔をあげて夫のほうをみた。

「では、どうあつても、ご決心をおかえくださいませんのですか?」

 やつと、これだけが言えた。

「あゝ、変えない。それならどうして黙つてやらんか、と言うんだろう? なにをグズ〳〵してるか、と言うんだろう? その通りだ。おれは、お母さんのことより、モトムのことより、お前のことが気がかりだつた。お前にひと目会つて、お前だけがおれにすべてをさゝげてくれていることを知りたかつたんだ」

 一徳は、あぐらをかいたその片ひざを弾ませた。



 康子は、ふら〳〵と眼がくらむような気がしたけれども、夫の、よくする、あの人を射すくめるような眼つきにぶつかると、胸にひやりとしたものを感じ、ある反ぱつをさえ意識して、こう言つた。

「どうかおゆるしくださいまし。あたくしには、まだ母としてのつとめが残つております」

 すると、一徳は、

「母としてのつとめか。うむ、なるほど、それで一応は理くつがたつ。しかし、お前の手で子供が養つていけるか?」

「いけてもいけなくつても、養つていかなければなりませんわ」

「男の子はうつちやつといても育つ。どうだ、モトムはお母さんに預けといて、おれの行くところへついて来んか? そんなにびつくりするな。無理心中をするつもりなんぞ、おれにはない。お前がその気なら、そうしようといつてるだけだ。いやか? え? いやなら、いやでよろしい。もうこれ以上なにも言わん」

 彼はそう言つたと思うと、ぐらつとうしろへひつくり返つた。

 康子は、こういうことをいつまでも続けていてもきりがないと思つた。

 彼女を道連れにという夫の要求は、それがどんなつきつめた情愛のしるしだとしても、康子にとつては狂暴にひとしい男のわがまゝにすぎなかつた。

「あたくし、もうどうしていゝかわかりませんわ。自分の力がどんなに弱いかということがよくわかりました。あなたおひとりを残していくのは気がすみませんけれど、あたくし、なんですか、モトムの顔が、もう見たくつて、見たくつて……」

 と、強いて自分を引きたてるように、言葉をかさねる。

「あゝ、見に行くがいゝさ。しかし、お前もまだ若いしな。子供が邪魔になつたら、いつでもお母さんにおしつけて、自由行動をとれ。周囲に気がねをして未亡人でくすぶつてしまう必要はない」

 彼女は、もうそんな当てつけがましい言葉に耳をかす気はしなかつたが、ふと夫の横顔をのぞくと、眼じりからこめかみへかけて、ひと筋の涙が流れているのに気がついた。

 すると、無意識に、彼女は夫のそばへにじり寄つて、自分のハンケチでその涙をそつと拭いてやりながら、

「ほんとに、ごめんなさいね。あたくしたちは、どうしてこう別々なことを考えなけりやならないんでしよう? お苦しいだろうつていうことはよくわかるんですけれど、あなたのそのお苦しみを、しんから自分の苦しみとして苦しめないことが、あたくし、なによりも悲しいんですの」



 しかし、康子はまだどこかにわり切れぬ気もちをのこしながら、夫が許すまゝに、その夜東京をはなれることにした。それがいゝかわるいか、もつとほかにとるべき方法があるかどうか、そういうことはほとんど考えなかつた。

 新宿駅のホームで、もうかなり続いている行列に加わり、送つて来てくれた夫とぽつり〳〵立ち話をし、もうこれが夫の顔を見る最後かも知れぬ、いや、最後にきまつていると思うにつけて、自分がひとりいまこうして汽車に乗るということが、およそこの世の中にあり得べからざる不自然なことのように思えてくる。

 夫は、時どき彼女のほうへ向きなおつて、まるでほんのちよつとの別れででもあるように、軽く道中の注意を与えたり、近ごろの人心のすさみかたについて感想をのべたり、していたが、ふと彼女のそでをつかんで二三歩引つ張つていき、やゝ改まつた口調でこう言つた──

「おれの決心については、お前だけが知つているわけだから、一切他言は無用だぞ。お母さんにはもちろん黙つていてくれ。騒ぎだすとやつかいだから……。それから、お前の一存でだれかれに相談をもちかけるとか、つまり、おれの行動を妨げるような処置をとることは厳禁する。そんなことをしてもぜん〳〵むだだ。そればかりじやない。いわば一家の恥さらしだ。このことはくれ〴〵も言つとくぞ」

 そう言われてみると、なるほど、自分が当然考えつかなければならない方法、手をつくすべき余地があつたのだということに彼女は気がつくのである。

 夫が先輩として信頼し、そのうえふたりのなこうどであるN中将の顔がまず浮ぶ。同郷でかつ同僚のMも力にならぬことはあるまい。が、今となつては、もう、なんとしても気が重く、万一の効果ということよりも、その効果がまたひとつの新しいみぞを二人の間に築く懸念のほうが大きかつた。

 彼女は、そこで、たゞ、

「はい」

 と、答えただけで、深く首をたれた。

 …………

 真夜なかの、客車とは名ばかりの人間をつめこんだ列車の一隅で、いま、座席についてほつとした井出康子の眼に、まぼろしのように浮かぶかず〳〵の情景は、これでやつと読者の想像の範囲にはいつたことと思う。

 彼女の胸がいませつなさでいつぱいだとすれば、それは自分の夫の「死」をどうすることもできずにたゞ見つめていなければならぬというような理由からではない。なにはともあれ、生がいを誓つた一人の男のいのちが、自分にとつてかけがえのないものだという信念の、むざんにもぐらつきはじめたこと、そして愛情が時にいつわるものだという事実をまざ〳〵と見せつけられたためである。



 辰野駅へ着くと、もう夜は白々と明けはじめていた。

 汽車がわずか遅れたために、飯田線の初発は出てしまつたあとで、康子はその次ぎを待つために駅前の茶店でひと休みしようか、それとも、寒いのをがまんしてホームへはいろうか、と迷つていた。

 すると、ちようどそのかたわらを、重そうなリュックをかついで一人の中年の男が通りかゝつた。オーバーに中折れという服装がリュックとつり合わぬおかしさはだれの目にももうなれて来たが、その男は、おまけに人形のはいつたガラス箱を大事そうに抱えているのが漫画風の愛きようをそえていた。

 彼女はなにげなくその男の顔をみたのだが、向うでも、こつちをしげ〳〵とながめ、行きすぎようとして、ふとうしろをふり向き、ちよつとためらいながら、そばへ寄つて来る。

 と、その時、彼女は、たしかに知つている顔だと気がついたけれども、どうしても名前を思い出せない。

「失礼ですが、井出さんの奥さんじやいらつしやいませんか?」

 ていねいに帽子をぬいで問いかけた、その額のくつきりと上半分の白い──つまり日にやけた顔が帽子のところだけ白くなつている、それだけのことで、すぐに康子の記憶はよみがえつた。

「あら、おめずらしい……。どうしてらつしやるの、中園さん……?」

 この中園と呼ばれた男は、服装だけではすぐに見当はつきかねるが、これも現役将校として最近までサーベルをさげていた夫一徳の後輩なのである。

「どうもそうじやないかと思つたんですが、奥さんが、あんまり知らん顔をなすつてらつしやるから、ちよつとまごつきました。いかゞですか、その後……? 井出大佐殿もお元気でしような」

 隊附時代から、最近に至るまで、思い出したようにちよくちよく遊びに来る後輩の一人で、それほど頭はよくないけれども、勤務の上では模範的といわれる青年将校の部類であつた。

 陸軍大学は一度失敗してあつさり思いきり、高射砲の実地方面をやつて、射撃指揮では折紙つきというところまで行き、自然、井出一徳とはわりによく話が合つた。

 夫より三つ年下で任官は五年もおそく、そのうえ一方が大佐になつた時、まだ少佐でいた、この同連隊出身の後輩を、康子は時にはいくぶん軽く扱うようなふしもあるにはあつたが、いわゆる羽ぶりのいゝ出世組にくらべて、どこか「話のわかる」ところが気に入り、立ち入つたこともずけずけ言えるような気がしていた。



 康子は夫の安否をたずねられて、やゝ口ごもりながら、

「えゝ、おかげさまで……それはそうと、いつたいこれはなに、中園さん、このありさまは……?」

 すると、中園は、にやりとはしたが、なんとも言えぬ表情で、

「申しわけありません。ですから、こういうかつこうで遠くへ落ちのびるところです」

 と、言つた。別にしやれを言つたつもりもないらしく、ガッシリした肩でリュックをゆすぶつた。

「あなたの申しわけなんぞどうでもいゝわ。ご家族はどこにいらつしやるの?」

「え? あゝ、まだご存じないわけですなあ、私、家内をこんど離縁したもんですから、いま、娘と二人暮しであります。娘ですか? ついこの間、家内の実家から鎌倉の親せきへ連れもどしたんですが、いまからちよつとその親せきへ顔を出して、それから……。まあ、そんな話はどうでもいいでしよう。ところで、井出大佐殿は、まだ御用ずみになられませんか?」

「えゝ、なんですか、まだH町のほうにおりますの」

 と、彼女は言いはしたが、すぐそのあとで、中園がどうしてあの可愛らしい細君と別れなければならぬのかを聞きたゞしたくなり、が、それはあまりにぶしつけなことに思われ、

「では、お嬢ちやんとお二人きりで? 戦争はどこまでいろんなものをぶちこわすんでしようね……」

「すべては、無条件降伏ということにあるのです。家内のおやじはご承知の退役軍人ですが、私に腹を切れといゝます。私はそんなまねはせんという。そこで、絶交ということになつたんですが、そこへいくと、女房なんていうもんは頼りないですなあ。おやじにガンと言われると、もうその気になつて、逃げだして来ようとせんです」

 中園のそれを言う調子は、まだ青年将校の子供臭さがむきだしになつていた。が、それだけに、なにか痛々しい心のきずが康子の感情のひふに感ぜられた。

 すると、われながら制しきれぬ勢いで、悔恨に似た気もちが頭をもちあげて来る。自分と夫との関係についてである。夫をみす〳〵殺そうとしているのはだれだ、という、どこからともなく聞こえる声に、彼女は耳をすます。

「中園さん、あたくし、あなたに聞いていたゞきたいことがあるの。主人からは絶対に口止めをされてるんだけれど、今のお話うかゞつてるうちに、どうしても、あなたのお耳にだけ入れておかなくつちや、と思うようになつたの。実はね、主人は、近いうち、自決するつもりでいるんですの……あたくしをひとりいなかへ帰して……」



 井出一徳が自決するつもりでいると、夫人の康子から直接打ち明けられた中園三郎が、その時、どんなふうに出たかは、こゝでこま〴〵と言う必要はない。

 それは、康子がうす〳〵期待していたとおり、そんな行動は絶対に思い止まらせなければならぬと言い──もし彼女の力でだめなら、自分が自分流に情理をつくして説いてみる、と、進んでこの難役を買つて出た。

「では、もう上りが来る時間ですから、これで失礼します。鎌倉へ寄るまでに、私、この足で大佐殿にお目にかゝつて参ります」

 そう言いすてゝ、駅の改札口へ姿を消すまで、康子はほつとした思いで中園を見送つていた。

 夫の後輩とは言いながら、自分よりも七八つ年上のこの中園が、頼もしい弟のようにみえるのはなぜであろう?

 そう言えば、中園に限らず、決して広い交際ではないが夫の周囲のだれかれ、官等や職務の上下を問わず、彼女などに対して示す一種の親身な、それでいてちやんと礼にかなつている態度を、康子はほかの社会にみられぬ軍人特有のものときめていた。夫の一徳でさえ、妻の自分にはいつこうに不愛想で、時には暴君そのまゝの行状を示すのに、よその細君に対しては、寸分もすきのない紳士振りである。彼の場合、それが洋行帰りだからというのではない。いつたいに、明治このかた、西欧風の騎士的ギャラントリーが、いくぶんかは日本の軍人によつて学ばれていたのだ、という解釈ができぬこともないのである。

 彼女は、ほかのどんな男と話をする時よりも、たとえ俗臭ふんぷんたるところはあつても、夫を除いた軍人というものにむかつた時が、一番、女としてのひけめ、被圧迫感をかんじないですむのである。そして、われながら、女の威儀というようなものに自信がもてた。

 中園三郎はそういう相手のひとりだつたことはいうまでもないが、彼にはまだそれ以上、軍人のほとんどすべてに共通な、例の現実主義者の風ぼう薄であるというところに、彼女のゆらぐ気もちをやす〳〵とうけいれる半面があつたのである。

 この人にならという期待が、そのまゝ、やつぱり言うべきだつたという安となつて、彼女の気分にある弾みを与えたのはそれゆえである。

 そして、ふしぎなことに、これでもうなにもかも終つたというふうな、言いかえれば、過去の重荷をすつかりおろしたような身軽さで彼女は天竜峡行きの電車に乗りこんだ……。



木の葉の如く




 紀州田辺の港は、いわゆる復員船の出入りで、この秋から珍しい混雑を呈していた。

 いま一そうの大型船が沖に浮び、いく杯ものハシケで運ばれる「武器のない兵隊」の波がさん橋にあふれ、そのひとり〳〵の表情に祖国の土を踏む複雑な気持が読みとれる。めい〳〵が肩にめりこむほどの荷物は背負つているが、あたかも強いられた労役に服しているような足どりで、たゞ、前へ前へとのめり歩いていた。

 行くあてのあるものは、そこからすぐに停車場に向つた。

 行くあてのないものは、一時、町はずれの復員者相談所へ身をよせた。

 出迎えとおぼしい男女の姿もちらほらさん橋の附近に見えはするが、いずれも確たるあてもないらしく、もしやというぐらいのあやふやな眼つきで、この人の波を遠くからながめていた。

 ところで、ついさつきから、潮風にほつれ毛を巻きたて、片手にちようど卒塔婆のような白木の札をさし出して、さん橋の上を行きつもどりつしている一人の若い女が人目をひいた。

 木の札には、──「旭一三六二四部隊杉部隊の浜島茂を御存じの方」と墨で書いてある。

 十人のうち一人がそれを読むか読まぬか、おそらくは気ちがい女のもう執のすがたとして淡く見すごされるふうであつた。

 しかし、この若い女は、気が狂つているのではない。愛人の消息を一刻も早く知りたい北原ミユキの、せめてこうでもしたらと、考えに考えぬいた妙案なのである。

 げんに、時たまは、声をかけてくれるものもあつた。

「杉部隊はこの船にはたしか一人も乗つちやおらんぜ」

 とか、

「浜島茂か、どつかで聞いた名前だぞ」

 とか、

「このあとで宇品へはいる船が杉部隊の本部を乗せるはずだ」

 とか、

「おい、ねえちやん、停車場の待合所でたずねてみなよ。その方が落ちついて話ができらあ」

 とか、そんな親切なことを言つてくれるものすらあつた。

 彼女は、それもそうだとは思つた。しかし、停車場では、この船からおりるもの一人残らずに、というわけにいかぬのが心もとなかつた。できればひとり〳〵話しかけて、そのひとり〴〵から、なにかしらの手がかりを得たかつた。──新聞はたゞこの船で旭一三六二四部隊の一部千何百名が引揚げるという報道をかゝげたにすぎなかつた。



 北原ミユキのこの狂乱にちかいすがたは、今日はじめてのことではない。この田辺の港にたどりつくまでに、もう、浦賀の船着場でもそれはみられた。浦賀では、木札をかゝげる代りに、大声で「浜島茂」の名が叫ばれていた。

 田辺の町へは昨夜おそく着いて、船はもう沖へはいつていることをたしかめ、夜の明ける前にさん橋のたもとに立つていた。検疫でしばらく暇がかゝることを告げ知らされたのは、昼近くであつた。用意して来た握り飯をひとつたべた。それから町をぶら〳〵歩いた。墓地のそばを通りかゝつた時、ふと新しい墓標に戦死者の名があざやかに記されてあるのが目についた。──あゝ、そうだ、と、彼女はとつさに思いついた。葬儀屋をさがした。店の主人のいぶかるのもおかまいなく、自分で筆を借りて一枚の卒塔婆へ「旭一三六二四部隊云々」と書き、拾円札二枚を投げ出すようにおいて、飛び出して来た。

 が、その効き目もついになさそうである。

 日が暮れようとしていた。

 さん橋には人影はまばらである。

 見張りの警官に、──もうこれで全部上陸したのかとたずねてみたが、「わからん」という返事である。

 復員者相談所というのへ行つてみる。倉庫の一部を事務所風にした建物であつた。事務所に続いた広い板敷の部屋にはまだうよ〳〵人影が動いていた。隅々にはじつと動かぬひとかたまりもみえた。一種異様の臭気が鼻をついた。煙草の火がちら〳〵と薄やみのなかで光り、同じような顔がそここゝに浮んだ。重く沈んだどよめきが地をはうように聞えた。とき〴〵、かん高いのゝしり声がそのなかから起る。やけつぱちな笑いがまじる。

 と、だしぬけに耳もとで、

「ねえちやん、どうかしてくれヨウ」

 とんきような声色といつしよに、男の腕が彼女の首にからみついた。彼女は、ギョッとしてからだをすくめ、力いつぱいその腕をふりはらおうとした。

「よせ、よせ」

 と、だれかゞ言つた。

「おや、なんだい、その札は?」

 一人がそばへ寄つて来た。やつとからだが自由になつた。

「浜島茂か、おい、おい、あれや違うか、本部附からペナンの収容所へ行つたのは? ほら、浜島なんとかいう上等兵がいたじやないか」

 答えるものはいなかつたが、彼女は、その声の主をあらためて見直した。

「あの、浜島をご存じなんですか?」

 呼吸がとまるかと思うほど、胸がおどつていた。



「いや、浜島つていうんで思ひ出したんだけれども、それが浜島茂かどうか、直接知つてるわけじやないから……」

 と、返事があいまいになるのを、北原ミユキは、こゝで手がかりを失つてはと、必死になつて、

「でも、その浜島つていうひとの名は、おわかりになりませんの?」

「えゝ、それが……わしはたゞ、ちよつとした関係で、浜島キヨウジという──ペンネームだろうと思うんですが……」

 そこまで聞くと、彼女は、思わず声をはずませて、

「浜島峡児、えゝ、それですわ、それですわ」

 と、相手の方へつめよつた。そして、

「浜島峡児が浜島茂ですの。それに違いありません。詩人としてのペンネームですわ」

「へえ、そうですか。しかし、わしは会つたことはないんですよ。同じ部隊だということはわかつていたんだけれども、部隊で出していた雑誌に時々作品がのつていたもんで、覚えているんです。たしか本部の当番兵だつていうことは聞いていたんですが、そうだなあ、あれはことしの初めかなあ、ペナンの虜収容所へ派遣されて、そこからやつぱり雑誌へ詩を送つて来ていましたつけ。収容所のことを歌つたいゝ詩がありました」

 詩などに興味をもつているだけあつて、普通の兵隊らしくないところが、言葉の調子にみえるこの相手を、北原ミユキはむしようになつかしくなつて、

「うれしいわ、そんなお話伺えて……。では、最近まで元気でおりましたんですね」

「えゝ、最近まで……そうです、雑誌は六月まで出ていましたから……。しかし、そのあとのことはわかりませんよ。ことに虜関係は……」

 と、そこでちよつと言葉をにごし、

「あなたは? 失礼ですが、奥さんですか?」

 彼女は、「奥さん」という言葉に思わず顔をほてらしはしたが、

「いゝえ、まだ結婚はしておりませんの」

 と、キッパリ答えた。

「こゝは寒いなあ。なにしろこのとおり夏装束ですからね。どこかゆつくり話のできるところはないかなあ。あなたは、それで、この船なら浜島君の消息がわかると思つてこられたんですね?」

「えゝ、ことによつたら、ひよつこり会えやしないかと思つて……」

「そうだろうな。わしも、ひよつこり帰つて来て、だれか迎えに来てやしないかと思つてるんだから……」



「お国はどちらでいらつしやいますの?」

 と、彼女は、待つ人といくらも年の違わぬらしいその男にたずねた。

「わし、国は富山の方ですが、勤めが広島だつたもんですから……。家内は広島の実家にずつといた関係で、もちろん生死不明です」

「まあ、広島……」

 と、彼女は、まゆをよせて、相手の事もなげな調子をいぶかるように、その眼に見入つた。が、そこには、言葉とは反対に深いさびしさを読んで、胸がぐつとつまつた。

「きつとご無事でいらつしやるんじやないかしら? 早くたずねておあげになるとよろしいわ。そう、そう、お寒いんでしたわね。ながくお引止めしてしまつて……。あたくし、でも、どうしようかしら?」

 ついそう口に出てしまう途方にくれた気持を、彼女は、いまさら相手にかくすことはできなかつた。

「遠くからこられたんでしよう? たいへんですねえ」

 と、男はしみ〴〵と言つてくれる。

「えゝ、信州からですの。なんでもこの次ぎの船が一週間後になるんですつて……。やつぱり行つてみようと思いますの。それにしても、また出なおすのはやつかいだし……」

「あゝ、この次ぎ宇品へはいる船ですね。たしか本部の連中を乗せてくるはずだから、きつとくわしいことがわかるでしよう」

 ぽつりと、そこで話が切れた。男は腕時計を見るかつこうをしたが、途中で時計のないのに気がついたように、

「もうなん時ごろでしよう?」

「七時……十五分……」

 と、彼女は、自分の腕時計をみて言つた。

「じや、わしは、とにかく今夜の大阪行臨時列車へ乗ることにしますから……。まあ、お元気で……」

 軽く会釈をしてもう行きかける男のうしろ姿へ、

「どうもありがとうございました。では、お気をつけになつて……」

 北原ミユキは、急に力がぬけたように、板べいを背にしてその場へへた〳〵としやがみこんだ。疲れと、ひもじさと、寒さとが一時に襲いかゝつた。こんなことではいけないと思うのだけれども、どうしようもない。手さげの中にまだ残つている握り飯を取りだす気さえしないのである。

 そのうちに、うと〳〵と眠くなつて来た。

 野良犬がひざのあたりをかぎまわす、そのけはいに驚いて眼をさます。

 遠くに汽笛が聞えた。

 浜島茂がひとりぽつねんと船の甲板に立つている夢をみていたのである。



 やつとの思いで、北原ミユキは腰をもちあげた。

 街のあかりを目当てに、ふら〳〵と歩きだした。どこへ行こうというのだろう? 自分でもはつきりそれと意識してではないけれども、どうやら、停車場の方角へ足が向く。

 寝静まつた街のなかは、水底のような深さを感じさせるだけで、夜の不気味さなどはどこにもなかつた。

 停車場というものは勘でたどりつくことのできるものらしい。彼女の眼の前には、やがて、田辺駅の小じんまりした建物があらわれた。待合室には次ぎの列車を待つ人の群があふれていた。

 彼女の眼は、忙しくその群集の一人々々を探した。もしやさつきの男がまだいるのではないか? ほんとを言えば、それがばくとした目的で、彼女はこゝへ来たのであつた。

 しかし、大阪行はよほど前に出たあとで、今夜は和歌山行が終列車でもうそれだけだということがわかつた。

 ──どうして、あの時、いつしよに出掛けなかつたんだろう? そうじやない、どうして、広島までいつしよに連れて行つてと頼まなかつたのだろう?

 彼女はそれが口惜しくてたまらない。──あの男となら安心だし、それに、もつと〳〵、いろんな話が聞けただろうに! 広島と宇品なら、同じところと言つてもいゝのだ。自分の方からどうしてそれが言い出せなかつたのだろう? 広島と聞いた時、ふつと、そんな気がしないでもなかつたけれど、さすがに、あの時は……。

 そう思えば思うほど、取り返しのつかぬことをしたような気になつてくる。なんとかしてもう一度つかまえる方法はないものか、と、もうじつとしてはいられなくなる。人波をかき分けて、彼女は駅長室へ飛びこむ。そして、今夜の大阪行と連絡する下り列車の時間をたずねた。その列車なら、今度の和歌山行に乗ればことによると電車で間に合うかも知れぬとの返事だ。彼女はやつと光明を得た思いで、一時預けのリュック・サックを受けとると、出札口の行列に加わつた。

 薄暗がりでぼんやりしかその顔を見ていない男の、どんな特徴を覚えていて、再び大勢の人なかで、それを探しだすことができると言うのか。まことに雲をつかむような話だが、彼女には、それがやさしいとかむつかしいとかいう問題ではなかつた。なにかひと筋の糸のようなものが、彼女をそつちへ引張つて行つてくれるものと信じているふうであつた。

 やがて、切符が売り出された。



道はいずこ




 井出一徳元大佐は昭和二十年十一月二十八日の夜、H工しよう裏のうず高く積まれた兵器資材の山のなかで、黒焦げの死体となつていた。ガソリンをしませた毛布にくるまつたまゝ、致死量の劇薬を服用し、意識を失う直前にライターの火をつけたのである。

 翌朝になつてしよう員の一人がそれを発見した。

 この事件があつてから一と月のちのことである。

 遺骨をおいた床の間の前で、妻の康子は、夫一徳の実弟、三則とむかい合つて静かに話をしていた。息子のモトムを学校へ送りだして、朝のかたづけものを終つたあとである。

「ご親切はほんとにありがたいんですけれども、あたしすこし考えがあつて、子供と二人きりでなんとかやつていきたいんですの」

「それがですよ、ねえさん、時機が時機ならぼくも反対しませんよ。今はとても女一人で生活をたてるなんていうことは、まつたく空想ですよ。兄貴の遺書には、なるほど、ねえさんは自由な行動をとれとありました。その意味が、ぼくにはよくわからないんですが、これは察するところ、ねえさんの立場を考えてですよ、親せきの無理解な強制をあくまでもしりぞけるという、含みをもたせた一言だと思うんです。母と百々子のことをぼくに面倒をみろと言つてあるのも、そのためじやないですか。それはむろん、兄貴に言われなくつたつて、ぼくの当然の義務ですから、ちつとも文句はないんですが、逆に、ねえさんとモトムのことは、兄貴に頼まれなければ知らん顔ができるかと言えば、決してそんなことはできない。それも生活の問題がなければ、別にぼくなんかの立入る筋じやないと思うけれども、現に……」

「えゝ、ですから、そういうご心配をいつさいかけないようにやつてごらんにいれます。ほんとに、あなただつて、お母さまと百々子さんだけで、そりやあたいへんなんですもの。そのうえまた……」

「だから、それはつまらん遠慮だつて言つてるじやありませんか。こうみえて、ぼくもちかごろはそんなにぴい〳〵してやしませんから……」

 彼は、おう揚に笑つてみせる。なるほど、いろ〳〵な点から、この弟が戦争の末期から今日この頃にかけて、相当に金まわりのよくなつている様子はうす〳〵察せられた。そして、それは彼の家思い、きようだい思いである日頃の性質をいつそう目立たせていた。

 彼女は、そういう弟の、ひどく物のわかつたらしい助力の申出を拒みつゞけている。



 康子は、母と義妹とがこの弟の家に引取られることにきまつたうえは、もうなにも先々のことを心配してはいなかつた。どうするつもりかとたずねられても、まだはつきりした返事はできなかつたけれども、とにかくなんとかなるという自信はあつた。

 夫の自決について、彼女がそれを予め告げ知らされていたこと、しかもそれを母に黙つていたことが、遺書の開封をめぐつて、穏かならぬ空気を一家のうちにまき起したのは事実であつた。それ以来、母は彼女と直接口をきこうとせず、百々子は百々子で、あてつけがましい皮肉を言い、弟の三則だけは、それでも、兄貴の口止めは、これは絶対なものだとして、一応彼女の立場に同情を示しはしたが、それでも、「なんとか方法はなかつたかなあ」と、ひとり言のようにつぶやいたりしたものである。

 ところで、彼女は、その後、思いがけない時機に、例の中園三郎から一通の手紙を受けとつた。北海道稚内わつかないうんぬんというところがきである。

 手紙の文面は、まず夫一徳の自殺の記事を新聞で見たことからはじまり、辰野の駅で別れてから、早速東京でH工しようを訪ね、一徳に会い、それとなくその問題に触れてみたのだけれども、全然そういうけはいはみせず、とりつく島がなかつたこと、しまいに、かなり鋭くつゝこんだつもりだが、あべこべに、こつちが激励されるという羽目になり、思いきつて、奥さんから聞いたとまでぶちまけて、手をつくようにして翻意を求めると、それはたゞ女房をおどかしたまでのことだと笑つて相手にしてくれず、自分もなにがなんだかわからなくなつて、そのまゝ引さがつたこと、しかるに、今日、事実が事実となつて公表されてみると、自分の力がまことに無にひとしかつたことがわかり、ざんきにたえないこと、おそらくあの場合、奥さんの希望が数ならぬ自分一人にかけられていたのではないかと思うと、自分の不がいなさが痛感されるばかりでなく、またひとつ生がいに償うことのできない罪を負わねばならぬことを自覚し、そのために日夜煩もんしていること、早速おそばにかけつけて、後事についても何かお力になるべきところだが、目下当地でなれない仕事に手を着けたばかりのところで、一日も目がはなせない事情であり、ほんとにお役に立つ時はもうすこし先のことだと思うので、その時まで待つてほしいこと、が、軍人特有の四角ばつた文章で書きつらねてあつた。

 康子は、義弟との対話の合間々々に、この手紙の文面を想い出していた。



 と、だしぬけに、義弟のくちびるのへんに微笑が浮び、なんとも言えぬ冷やかな調子で、

「この家の内情については、ぼくもよくはわからないんだけれども、兄貴の家というもんは、こりやあ、ぼくにとつて本家なんだから、ねえさんの一存でどうなつてもいゝというわけにはいかんと思うんですがねえ。なんと言つても、モトムは井出家のあととりですし、その点を考えていたゞかなけりやあ──」

 康子は、そこで、キッとなつた。この義弟のそういう出方は、意外と言えば意外だが、うしろに母がひかえている以上、嫁の立場を嫁の立場らしくぐつと押えるものがなくてはなるまい。義弟がいまやその役を買つて出たのだと、彼女は気がつく。

「えゝ、それはわかつていますわ。ですから、モトムのことは、あたしが責任をもちます。あくまでも立派に育てます。兄さんに申しわけがないようなこと、井出家に迷惑が及ぶようなことは決してしません。そのことだけは……」

「そう、まあ、むきにならなくつてもいゝですよ、ねえさん、だれもねえさんを信用しないて言つてるんじやない。たゞ、その、なんですよ、これからのねえさんの生活がです、もし、どこかのだれかによつて支えられるということになるんならですね。それは、筋道が違うと、まあ早く言えば、そう思うだけなんです。どういう形式にしろ、ねえさんが子供を抱えて自活をしていかれるというのには、それ相当の、世間の同情と言いますか、そういうものが必要でしよう。ねえ、その場合、いつたい親類はなにをしているということになる。こりやあ当然そうですよ」

 すべてをのみこんだような、この口ぶりには、もう、こつちを女として甘くみているところが露骨に出ていた。

「そうですかしら? あたしは、だれにも助けをもとめるようなことはしないつもりですわ。細腕でもなんでも、自分の生きる力で解決できると思うの。兄さんが生きていらしつても、この決心に変りありませんわ。あたしね、はつきり言いますけど、もう世間体や、お義理や、ごまかしや、そういうもんはいつさいごめんなの。兄さんが、今から思うと、ご自分のこうと信じる道をとりなすつたように、あたしも、女ですけれど、女だからというひけめを感じずに、自分の納得できる道を歩こうと思うの」

 そこまで言つて、康子は、なぜか胸がいつぱいになつた。



 隣の部屋でじつと二人の会話を聞いているらしい母と義妹とが、なにやら口早に、こつちへ聞えよがしの言葉を交したように思つた。康子は、聞くともなしに、そつちへ気を配つたが、あとはひそひそ話になつたので、

「とにかく、あとのことはあたしでできるだけのことをしますから、一日もはやく、お母さまと百々子さんを、どうかお落ちつきになれるようにしてあげてちようだい。こゝの生活は、ほんとにお二人にはお気の毒で……。荷物もお母さまと百々子さんで、お入用のものをみんなお持ちになるようにしていたゞくわ。あたしがモトムを連れてどつかへ今すぐ移るつていうことは、あんまり角がたちますから……」

 すこし言い過ぎかとは思つたけれども、彼女にしてみれば、事を早くきめてしまうのには、もうえん曲な言いまわしはしていられなかつた。

「いや、ねえさんのそういうお気持がわかれば、ぼくにしたつて、なんにも言うところはありませんよ」

 と、義弟は、つゝ放すように云つた。そして、奥に向つて、

「お母さん……ちよつといらしつてください」

 しゆうとの乃婦は、ちよつと間をもたせて、姿をあらわした。

「だいたい、話はわかりました。ねえさんはあくまで親せきやつかいにならずに自活の方法を立てると言われるんですが、その意味は、ぼくの理解したところでは、井出家の一員として今後なんらの束縛もうけたくないというお考えらしいんです。まあ、そのお考えのよしあしは別として、そういう決心をされているねえさんをですねえ、お母さんは、長男の嫁として、どう取り扱われますか? ぼくは、これは、ねえさん一個の問題としてでなく、井出家の問題として、はつきりさせなきやいかんと思うんです」

 次男三則の、ひざを正してのこの言い分を、乃婦は、わざととぼけた顔つきで、

「へえ、それは初耳ですねえ。死んだ一徳が聞いたらなんていうか……」

「そんなこと、お母さん、むだなせんぎですよ。それより、大事なことはほかにあるでしよう? 兄貴の遺書は、かんたんにねえさんの自由を認めていますね……」

「それがさ、あたしは、その自由ということを、もつとほかの意味にとるんですがね。軍人の妻として、以心伝心とでもいうか、あゝいう最期をとげた主人の心持ちは、ほんとなら、ちやんと……」



 康子は、この言葉がチクリと胸を刺した。しかし、この老人を相手に、そのことでは何も言う気がしない。

「まあ、まあ、そこまでお母さんがおつしやる手はありませんよ。第一、そんなことはお母さんだつて望んではいらつしやらないでしよう。いや、ぼくが言いたいのはですよ、ねえさんは、ねえさんの解釈でその自由を求めていられるとしてですよ、それを、どういう程度に、どういう形で、お母さんがゆるされるか、ゆるすと言つちやまずいかな、つまり、認められるか、ということです。端的に言いますとね、ねえさんが今後も井出姓を名乗られるかどうか、これがひとつ。いずれにしても、ねえさんがほんとに自由になるために、モトムをどうするか、これがひとつ。これはねえさんの意志とは別に、お母さんの裁決が必要だと思うんです」

 この義弟の、先まわりをした話の進め方には、康子も、すこし面くらつた。

「おや、お話がばかに急ですのね。あたし、井出家との縁を切ろうなんて、そんなこと、夢にも思つていませんわ」

 そう言いつゝも、彼女は、実のところ、自分の弱気がまだそれを言わせるのだと、われながらいくぶん歯がゆくさえ思つたが、

「しかし、ねえさん、物ごとをはつきりさせるというのはそういうことですよ。ぼくは井出家の一人として今度の事件を慎重に考えてみてです、白状すると、ねえさんの態度というか、気持というか、ちよつとぼくのにおちないのは、いわば、悲しみの中心にあるはずのねえさんがそも〳〵はじめから実に冷静だ。冷静なのはいゝとして、むしろ、心こゝになきがごとき、無反応にちかいところがみえることです。ねえさんの心はもう兄貴からはなれているんですか? それにしても、それを、こんなにも早く、こんなにもあつさり見せつけられたんでは、ぼくも黙つてはいられないんです。ねえ、そうじやありませんか、お母さん」

 しゆうとの乃婦は、黙つて、うなずく。

 康子は、自分のあれからの態度や顔いろにそういうところがみえたとしたら、それもしかたがないと思つた。

 夫の自決をしらせる電報を受けとつた瞬間、彼女は、だれのためにも泣けなかつた。たゞ、一番大事にしていたものがむざんに踏みにじられたという憤りに全身をふるわせ、黙つてその電報をしゆうとにつきつけたのであつた。



 この話はこの程度で打ち切られた。そして、義弟の三則は、運送屋を呼んで荷ごしらえをさせ、しゆうとの乃婦と義妹の百々子とを連れて神戸へたつた。

 あれもこれもという家財道具のさらえかたであつた。夫の身のまわりのものも、おゝかた引出され、井出家に伝わつた品々というようなものは、むろん、洗いざらい運び去られた。

 最後に、夫の遺骨と位はいとをどうするかゞ問題になつたが、これも母親の意志どおり持つて行くことになつた。信心気のないひとにお祭りのことはまかしておけないというのであつた。

 康子も別にそのことにこだわる気はなかつた。モトムを手もとにおくことができただけでほつとしたくらいである。

 たちぎわには、それでも老人はいくぶん言葉をやわらげて、モトムの健康のことなど注意をし、気が向いたらいつでも来て一しよに暮すようにと言つた。

 駅への見送りをすまして、歩きなれた野道を子供と二人で帰つて来る途中、彼女は、これで万事うまくいつたと思つた。が、そう思うしりから、あすの問題がもう眼の前に迫つているのを感じないわけにいかなかつた。

 残されたわずかな持物は、もう二人の生活を長く支えるに足りないことはわかつている。急転直下という言葉がじつによくあてはまる今の境遇を、彼女は、自ら求めたものと観念していた。それだけに、たとえ裸で路傍に立つとしても、なにかさわやかなものが胸のなかをかすめていた。

 それにしても、日一日と手もとは苦しくなつていつた。これだけはと思う衣類もついに手ばなした。身につける飾り物などはなにひとつ残つていない。こうなるまでに、なにか手内職でもと思わぬではなかつたが、ついふんぎりがつきかねた。やればなんだつてできると思う、そんな自信みたいなものが、いざ何かをという選択を迷わせた。三度の食事にことを欠くようになつた。もうこうしてはいられないと気がついた時は、村費のなにがしを払う余裕も手もとにない有様だつた。

 これで東京にでもいれば、と、彼女は思うのである。万一の場合も考えて、ミシンだけはまだ売らずにあつた。そのミシンの仕事さえ、こんないなかではあるかないかわからない。と言つて、それ以外になにがあるか? なんでもいゝから当つてみないことにはと、やつと腰をあげた彼女は、I市の目抜きの通りを、行きつもどりつした。女工募集の広告がいたるところに出ていた。それには年の制限があつた。女給を求むというビラもかゝつていた。まさかと、くすぐつたい微笑がうかぶ。



 ふと、池内医師のことが頭に浮ぶ。そして、彼が女学校の校医だつたことを思いだす。女学校なら専攻科の免状で傭つてくれないかしらと思う。音楽ならなおいゝ。しかし、そんなうまい話はありつこないと自分を打ちけす。が、ちようど昼の時間なので、池内医院の勝手口から声をかけてみる。

 細君が、まああがれというので、しばらく座敷で待つ。

 今度のことは池内自身が新聞をみたと言つてわざ〳〵悔みに来てくれたくらいだのに、細君は、口の中で「このたびは……」と云つたきり、それ以上その問題にはふれようとせず、天気のことゝ、物価のことしか、このしとやかな細君にはかつこうの話題というものがないらしい。

 主人が現れる。これも天候の不順なことゝ、薬価の暴騰につれて医者の商売も容易でないことをまくしたてる。

 康子はやつとすきをみて話を切り出す。

「なんでもかまいませんの。食べていけさえすればよろしいんですから……。すこし虫のいゝことを申せば、先生のご関係の学校なんかで、まあ、音楽と家政ですけれども、すこし時間をもたせていたゞけるとありがたいですわ。そういう口がございましたら、是非、お骨折ねがいたいと思いますの」

「ふむ……」

 と、池内医師はうなつた。

 細君は眼を細めて、この話をそばで聞いていたが、なにも口は出さなかつた。控え目ということはこの地方の婦人の特質で、すべて係り合いになることを避けるのが特に身分のある婦人の美徳とされているらしかつた。

「さようさな、わしはどうもそういうお世話をする資格があるかどうか、まあ、しかし折があつたら校長に話してみましよう。だが、当てにはなりませんよ。これで、看護婦とかなんとかいうんならね、また、わしの口で推せんのしようもあるが……」

「そりやあもうわかつておりますわ、先生、なんなら、たゞご紹介いたゞくだけでも結構でございますわ」

 しかし、池内医師は紹介状を書くとは言わなかつた。

 すこしたよりない希望をのこして康子は池内医院の門を出るには出たが、このまゝ家へ帰るのも芸がないので、洋裁の看板の出ている目ぼしい店を一つ二つ訪ねてみた。一軒は非常に丁寧に、一軒はぶつきらぼうに彼女をあしらつた。丁寧な方は来月から忙しくなるから、条件次第で手伝つてもらつてもいゝという話だし、ぶつきらぼうの方は、あなたみたいな立派な奥さんは使いにくいからと、もつともな断り方をした。

 しかし彼女の眼の前は明るくなつた。



 そういうわけで、康子がI市のコスモス洋装店からワイシャツの下うけ仕事をもらつてくるようになつたのは、もう一月の終りで、近所の農家では、旧正月のもちつきをはじめるころであつた。

 朝から晩まで、ぶつ通しミシンを踏んでいて、配給のものがやつと手にはいるくらいの収入しかない。そのうちにもうすこし能率があがればと、彼女はわりにしよげずに、この単調な労働に全身をうち込んだ。

 ある日、彼女は、農業会の製粉場へ少しの小麦を粉とかえてもらいに行つたところ、面倒だと言つて相手にしてくれないので、すご〳〵引つ返してくると、向うからどこか見覚えのある青年が近づいて来て、帽子をぬぎ、

「ごぶさたしています。わし、いつかお邪魔した市ノ瀬です。つい機会がなくつて、まだお悔みを申していませんが……まつたく驚きました」

 と、このへんの若いものには珍しいあいさつのしかたである。

「あゝ、そうでしたつけ、市ノ瀬さんね、そう、そう、おみそれしてしまつて……。主人のことは、もうなんにもおつしやつてくださいますな。みなさんにほんとにお世話になつて、こんなことになるんですものね。農業会……役場……でしたかしら、お勤めは?」

「はあ、農業会に籍はおいてるんですが、なんにもしてないようなもんです。そう、そう、けさ、北原先生からハガキをもらつたんですが、そちらへもなにか便りがありましたか?」

「北原先生? いゝえ?」

 と、康子は、まぶたをいつぱいに引きあけ、

「それで、北原先生、いま、どちらに?」

 康子が東京から帰つて来た時は、もう、北原ミユキは学校をやめて、実家へもどつたといううわさを耳にしただけであつた。

「ハガキにはたゞ、瀬戸内海のある港町にて、と、ばかりで、見当がつかんのですが……」

「瀬戸内海のある港町……」

 と、康子はおうむ返しに口の中で云つてみる。

「どうも変だと思つてたんです。急に学校をやめて遠くへ行くようなことを言つてましたが……。なんでも、復員船のはいる港を、片つぱしから歩いてるらしいんです」

「まあ、いじらしい……。でも、北原先生らしいわ」

「まつたく、情熱家だから……」

 市ノ瀬牧人は、べつに皮肉らしくもなくそう言い、その言葉に自分でてれている風であつた。



 康子が宿へ帰ると、北原ミユキからの部厚い手紙がついていた。恐らく市ノ瀬へあてたハガキと同時に書いたものであろう。

 しかし、この封書には、ちやんと居どころがしるしてある。──広島県宇品海岸通り。さて、それだけで番地もなければ、止宿先の名前もない。これで返事が届くかしらと思いながら封を切る。


 ごあいさつもせずにおん地を去りましたことを申しわけなく存じます。なにから申しあげてよろしいやら、その後お宅さまでは皆さまお変りもいらつしやいませんか。ご主人はもうお役目がおすみになりましたかしら。一日も早くお家族おそろいで新しい団らんのご生活におはいり遊ばすことを祈つております。

 わたくしは、教師の職をすて、まともな生活のあてもなく、放浪の旅に出ました。お話をすれば長くなりますけれども、これも止むにやまれぬ女心の、たゞひとすじの道をと思いつめた結果でございます。待つということほどなやみのますものはございません。近づけるものなら、ひと足でもこちらから近づいていきたいのです。道はいくら遠くても、いくらけわしくても、それは忍んで忍べないことはないと思いますの。音さたのまるでないものを、どうして待つ気になれましよう。それは待つことにはならず、見失うことです。とりにがすことです。たゞ、海のかなたに向つて、その名前を呼びつゞけるということだけで、わたくしのいのちは生きていられるような気がいたします。

 浦賀と、紀州の田辺とこの宇品とを、もう二度も往復いたしました。少しばかりの食料はもとより用意したお金も、とつくにつかい果しました。それはもとより覚悟の上でしたけれど、とう〳〵こゝまで来てしまいました。見栄も外聞もなく、いちばん手近な働き口をと思い、ある喫茶店、と言つても港町のいかがわしい飲食店で、その日暮しの給仕女にやとつてもらいましたの。

 でも、こゝにこうしていれば、南からの復員船が時々はいります。その度ごとになんか手がかりになるような話を聞くことができます。わたくしの待つている人は、どうやら戦争犯罪の容疑者として、どこかに抑留されているらしいことがわかりました。虜収容所にいた関係とかで、それは調べがつくまでだそうですけれども、わたくしは、たゞあの人を信じていますの。



 北原ミユキの手紙はまだつゞく──

 ──はじめはほんの口すぎのつもりでこんなところへはいつたのですけれども、こういう社会には今まで想像もしていなかつたようなむきだしな生活があつて、わたくしなんかにはほんとにいゝ修業になると思い、ちかごろはだん〳〵周囲となじむように心掛けております。これがほんとうの生き方だとは思えませんけれど、こゝにも人間の真実のすがたがあること、知識や道徳や趣味やをふりまわす世界にくらべて、ちつとも恥ずかしくない世界、勇気と自由との世界がこゝにあることを知りました。こんなことを申すと奥さまはおおどろきになるかも知れませんが、学校の教員室の空気よりは、このインチキ・カフエーの空気の方がずつと健康で、厳粛なところがあるように思われます。人間と人間との心のふれあいにそれが見られます。野卑な言葉や、無軌道な行動がむろんそこにはございますけれども、それはたいはいとか自暴自棄とかいう部類にぞくするとしても、決して、人間が人間でなくなつている姿ではございません。わたくしは、あの思想の皮が甲のように厚くなり、虚栄心がこぶのようにふくらみ、保身の触角が釣竿のようにふるえているお化けの世界が、どんなに人の精神をむしばみ、笑うにも笑えないこつけいをふりまいているかを思いだしてぞつとしております。

 こゝでわたくしはいくたりかのお友だちをひろいました。

 その一人についてお話をすれば、ある晩ひよつこりはいつて来たお客で、もうずいぶん酔つているふうでしたが、またお酒を注文して、隅のテーブルでちびり〳〵飲んでいる若い男がございました。時々思いだしたようにため息をつき、ひとみをじつとひとところにすえて、なにか考えごとをしているらしく、わたくしがおしやくをしようと申しますと、いゝからほうつといてくれ、ぼくはたゞ酒さえ飲めばいいんだ、と言つて、また憂うつに黙りこんでしまいます。変つたお客だと思つて遠くからそれとなく気をつけておりますと、しまいに指を眼にあて、涙をふいている様子です。それもめそ〳〵泣くというのではなく、ふとこみあげてくる悲しみを自分で追いはらう、そういう気持の動きさへみえる仕ぐさでございました。わたくしがおちようしの代りをもつてまいりました時、──君はこの土地のひと? とたずねます。──いゝえ。──どこかでみたことあるなあ……。


十一


 ──あれッと、わたくしは思わず叫びました。

 こう申しても奥さまにはお察しがつきますまい。つい一と月ほど前、紀州の田辺で偶然話しをした復員兵の一人だつたのでございます。このひとは、船からおりた大ぜいの兵隊のなかで、わたくしのあの人の名を知つていたたゞ一人のひとで、会つたことはないというのですけれども、あの人の書いた詩を戦地で読んだという話をきゝ、なつかしくてたまらず、これから広島へ行くと言つて別れたのを、わたくしは、停車場まで後を追つたのですが、とう〳〵見つけることはできませんでした。たゞそれだけの間柄ですけれども、広島にいたはずの奥さんが生死不明だということも聞いていましたし、いつまでも頭からはなれない人でございました。わたくしは、まつたく無我夢中でその人のそばへ腰をおろし、──まあ、ほんとに、こんなところでお目にかゝるなんて、と、つくづくその顔をながめてしまいました。

 奥さんはやつぱりどこを探してもいどころがわからず、近所の生き残つた人の話では、まずなくなつていることはたしかだとのことでございます。それですべてがわかりました。

 そのひとは、それからたび〳〵店へくるようになり、お酒はすこし飲みすぎるくらいですけれども、どこか純真なところもあり、話がそれは〳〵上手で、今ではいゝお友達になりました。

 わたくしは、女にも大事な気品というものを、奥さまからはじめて、そのものとして学んだような気がいたしますが、よく考えてみますと、奥さまの気品は、わたくしが今まで思つていたような教養や育ちからばかりくるのではなく、その裏に、と申しますよりむしろ、その根底に、自然であり得るという人間のほこりがあつてこそ、はじめて身についたものになるのだ、ということを発見いたしました。この社会に生きる女たちのなかに、自卑と自ちようのなくもがなのポーズをみかけます。けれども、ふとしたおりに、ほんとうに心からうちとけて、女の運命などということを語り合いながら、じつにたのもしい一瞬の表情にぶつかつて、立派だなあ、と感心することがございます。平凡なことばが、どうしてこんなに力強い、美しいひゞきをもつものだろうと、相手の平生を知つているだけに、わたくしは不思議に思われてなりません。

 自分のことばかりくだ〳〵とならべたてましたが、モトムさまは、ちかごろお元気で学校へお通いでしようか。


十二


 ちようどこゝまで読んだところで、康子はふと眼をあげた。門を半びらきにした坪庭の外をうろうろしている人の気配がしたからである。

 と、彼女の視線をまぶしそうに受けながら、市ノ瀬牧人が、ぬつとはいつて来た。

「よろしいですか、こゝから?」

「えゝ、えゝ、かまいませんとも……」

「こんなもの、珍しくもないが、ちつとばかり手にはいつたで……」

 と、彼は、ふろしき包みを縁さきへどさりとおいた。

「まあ、なんでしよう? いたゞいていゝの?」

 さつそくなかをのぞくと、リンゴと玉ネギがとりまぜて二十ほどはいつていた。

「あら、うれしい。インド・リンゴなんてずいぶん久しぶりだわ。それに、玉ネギ、ほしくつて、ほしくつて……」

 と、彼女は、ほんとうにうれしそうに礼を云つた。それはお世辞でもなんでもなかつた。しかし、だれもこういうことをしないこの土地で、この青年の心づかいは、ひとしお彼女の身にしみたのである。

「いまね、北原先生からのお手紙を読んでたところなの。さつきお話をきいたばかりでしよう。あたしのところへ長い長いお便りよ。女同士だからいろんなこと書いてある、書いてある。おみせしてもいゝけど、まあよしとくわ。ね、先生にわるいから……」

 康子は、すこしはしやいで、そんなことを言いながら、奥から座布団をもちだし、

「あがつていたゞかないわ。まあ、ちよつとこゝへおかけになつてよ。お茶でもいれましよう」

 また奥へ引込むのを、市ノ瀬牧人は、

「いゝえ、わし、これで失礼します。ほかへまわるところがあるもんで……」

「そう、じや、お茶はこんどのことにして、……またお話しにいらつしやいよ。北原先生のおところがはつきりわかつたら教えてちようだい」

 市ノ瀬牧人を帰してしまつて、康子は、ことによると、もつと話して行きたかつたのではなかろうかと思つた。たゞリンゴと玉ネギだけ置いて行く理由がどうもはつきりしないようにも思えてくる。が、そんなことはばく然とたゞそう思つただけで、北原ミユキの手紙の続きを読む。モトムのような子供を今の農村の学校へ入れることは可哀そうだと言い、また国民学校というものを痛烈に倒し、最後に、町と言わず村と云わず、人間がもつと高い理想をかゝげて生きることはできないものであろうか、と結んである。

 康子は、肩で大きく息をついた。



春の日ざし




 冬の眠りからさめたこの谷間の村には、もうそここゝのリンゴ畑にほの白い花がちらほらと咲きはじめていた。

 市ノ瀬牧人は、全村の麦の育ち加減をみて歩くかたわら、冬の肥料のおそろしく不足した果樹にもひととおり注意して、ことしは虫の駆除を徹底的にやらねばと考えた。

 野良には、まだ顔を覚えきらない男や女がいた。ことになじみのない年寄りに声をかけるのがおつくうであつた。明らかに技術の不足を感じさせる菜園が目につく。しかし、なまじつかな指導は真つ平という気風があるから、うつかり口出しはできぬ。ことに実地の経験が浅いのは彼の弱味であつた。

 が、こういう日課は、彼にとつては、事務所の机にかじりついているよりましであつた。サラリーのためにだけ仕事をし、或は仕事をしているふりをする同僚の顔をみているのが苦しい。

 ことに、彼には話相手というものがないのは淋しかつた。学校の教員室はその意味では唯一の油の売り場所だが、ちかごろは、なんとなく気づまりであまり足が向かなくなつた。先生がみんな陰うつな表情をしていた。議論を吹きかけると、それ〴〵に自分の穴へひつこんでしまうように思われた。

 そんなわけで彼は、いゝ機会をつかまえて、井出夫人に近づきはじめた。もちろんたゞの話相手としてではなかつた。北原ミユキがのぼせるわけとあまり違いはなかつたけれど、こつちは異性の相手というだけが、もうすこし複雑な色合いをもつていた。

 あれから三日に一度、時としては、一日おきぐらいに、井出夫人のところへ顔を出した。野菜や果物をもつて行くこともあり、手ぶらで行くこともあつた。手ぶらで行くときは、ちよつとしたニュースをみやげにした。

 井出夫人は、たいがいミシン仕事をしていた。縁伝いに、そのそばへ行つて、仕事の邪魔をせぬように話をしかけた。夫人は、立つていつて茶を入れることもあるが、今日は忙しいからと言つて、そのまゝミシンをはなれないこともある。すこしもいやな顔はしなかつた。いつ行つても、きちんと身じまいをし、端然と仕事に向い、あたゝかく澄んだ眼をあげて彼にほゝえみかけた。

 彼はなが居はしない。──あら、もう? と、いわば恨みがましい夫人の口調ぐらい彼の耳をこころよくくすぐるものはないからである。

 今日も、ひるすぎの一つ時を、彼は待ちあぐんだ。春の日ざしのやわらかに射しこむその縁先で、彼は夫人の手に白梅の一枝をさゝげるつもりでいるのである。



「あゝ、やつぱりそうだつたわ。なにか花の香りが流れてくるように思つたの」

 と、井出夫人は、市ノ瀬牧人の差しだす白梅の枝を抱くようにして受けとつた。

「花びんが一つしかなくつてねえ」

 そう言いながら、もうだいぶんしおれかけている床のスイセンをぬいて、そのあとへ梅の枝をさした。首をかしげて、しばらく、それに見入りながら、

「あなたはよく気のつく方ね。それに、そういうことを照れないでなさるから、えらいわ」

 ずけ〳〵ものを言う彼女には、市ノ瀬牧人はとつくになれていたけれども、このあいさつには閉口した。

「奥さん、批評はかんべんしてください。わしの童心が傷つきますから……」

 笑いをふくんで言う彼の言葉に、すかさず、彼女は、

「ドーシン? あゝ、子供の心、わかつたわ。こつちが、もう、老婆心のかたまりみたいになつちやつたから……」

 ちよつと、おどけて、彼女は、にらむような眼つきをした。彼女にしては、めずらしい素ぶりであつた。

 彼女はすぐにまたミシンを動かしはじめる。踏みながら、押しながら、彼女は、言葉をかける。

「いゝ時候になつたわね。あなたもこれからご用がふえるんでしよう? それに、世間の騒がしさは、あたしなんかにはよくわからないけど、いつたい、どうなるつていうの? あなたには、そんなに関係ないの?」

「世間の騒がしさですか? さあ、騒がしいのが当り前でしようが、わし自身は騒いでも、しようがないと思つとるんです。革命つていえば社会制度がひつくり返ることですから、物が落ちたり飛びあがつたりぶつかつたり、こわれたりするわけでしよう。騒がしいわけですよ。しかし、新しい組み立てのプランができ、材料がちやんとそろつていなければ、たゞ、ガヤ〳〵ひつかきまわしてみても、またすぐやり直しつていうことになりますからね。わしは、だから、動きまわりたくない。たゞ、一度、今までのさばつていたものをたゝきのめして、虫食い材料を遠くへ運びだすことは必要だと思うんです。こりやあまあ、だれにだつて出来ることです」

「だれにだつて出来るなんて言つてないで、あんたもそれをおやりになつたらいゝじやないの」

「え、わしがかね? そりやあ、いざとなりややりますよ」

 彼は、明らかにあわてゝいた。



「おもしろいこと……。あたしの眼の前で、あなたがいまになにをなさるか、それが見たいわ。毎日自転車へ乗つて、田んぼや畑をながめてらしつて、それが今のあなたのどういう気もちにぴつたりするの? でも、やつぱり考えてらつしやるのねえ」

 井出夫人があくまで今日は批評的なので、市ノ瀬牧人は、苦笑のしつゞけである。

「そうおつしやるなら言いますけど、わしは奥さんの静かな生活を乱さんように、これでも気をつけて話をしとるんです」

「ほんと……あたしの方からそんな話をしかけるなんて……。じや、もう、こゝでは、世間の騒々しいお話はいつさいしないことにして……」

 と、井出夫人のそのあとの言葉は、ミシンの音が消してしまう。

「あすはちよつと豊橋まで用事があつて出かけにやならんのですが、なんか序に仕入れてくるものはありませんか?」

 とつぜん、市ノ瀬牧人は、立ちあがるといつしよに言つた。

「そうねえ、べつに……」

「わしにはどんなものがえゝかわからんで……。じや、ごめんなすつて」

 出て行こうとして、今日はなぜかいつもほど晴れ晴れとした気持になれないことを、市ノ瀬牧人は感じた。

 井出夫人の目礼には、相変らずの微笑があふれ、どこがどうと変つたところはないのだが、たぶん話題のせいであろうと思う。

 それにしても、井出夫人は、今日は最初からふだんよりも鋭さを示してはいなかつたろうか? おなじ無遠慮な口をきくにしても、いつもはもつとふわりとした手ざわりのもので、あとへなにひとつ苦みはのこらないのに、今日に限つて、じようだんのつもりではあろうが、あの、ちくり〳〵と批評めいた言葉をはさむことが、そも〳〵今日の会話をあと味のわるいものにしたのではあるまいか? しかし、ほんとにあと味がわるいと言えるか、と、自分自身に問うてみれば、決してそうとばかりも言えないのである。今まではどちらかと言えば、たゞとりとめもない話がおもで、一個の女性のにおやかな肉体と精神の火花が彼をわけもなく酔わせていたにすぎなかつた。ところが、今日はじめて、彼女の知性が彼の頭脳にいどみかけたのである。それはまつたく不意打ちと言つてよかつた。だからこそ、彼は、受身の立場で応戦しなければならなかつた。かすり傷までは負わぬにしても、余計な神経の疲れがおりのように残つたのである。



 市ノ瀬牧人は、父が製糸に手を出して失敗し、ひろい土地屋敷をあらかたなくしてしまつたので、今は母と二人で主食以外のものは自給できる小じんまりとした生活をしているのであるが、母は父の死後、一人息子の彼に頼りきりで、早く身を固めさせる算段ばかりしていた。年ごろの娘ならいくらでもあるという時勢に気をよくし、彼女は、あれはどうか、これはどうかと息子の気を引いてみるのだが、彼は、いつこうこの話には乗ろうとしない。

「まつたくお前というひとの気が知れんに。しまいに残りもので我慢せにやならんようになるに」

「いゝよ、おつ母さん、そんな心配せんでも……。女の子はあとからあとから生れて来るもんだで」

 そんなふうに彼はごまかして母親の口をつぐませはするが、なにしろ毎日顔をつき合せている間柄なので、あの手この手で攻めたてられるのには、彼も少々業をにやしはじめた。

「そんなこと言つたつて、その気にならんもんはしようがないじやないか。こいつは、ゴムぐつを買うようなわけにやいかんでなあ。わしは、はつきり言うと、好きで好きでたまらんていう相手でないともらわんに。そのかわし、これが好きとなつたら、向うがなんと云つても引つ張つてくるに。人のもんでもかまわんに。子供がおつたつて平気だに、そんなことは……」

 いくぶん母親のほこ先をくじくつもりではあつたが、はたして、これは効き目があつた。ありすぎるほどあつた。母親は、しよんぼりと眼をふせ、やれ〳〵というように首をふつて、あとはもうなにも言わなかつた。

 言葉のはずみとはいえ、彼が、「人のものでもかまわん、子供がおつても平気だ」と、まくしたてるとき、彼の眼の前には、むろん、井出康子のまぼろしが浮んでいた。

 彼はぷいと座をたつて二階にあがる。本だなから手当り次第に翻訳の小説を引きぬく。読みはじめるが、面白くない。落ちついてそのなかにはいつていけないのである。

 表へ飛びだしたくなつた。行くあては別にない。まだ七時をちよつとすぎたばかりである。日がながくなつた。どこかのやぶでうぐいすがないている。天竜の河づらにもやがながれ、微風に麦はそよぎ、丘の上の町のがちらほらとつきはじめた。

 ハノイの植物園のことをふと思い出す。日の暮れかゝる時分になると、重くよどんだ空気のなかで、むせかえるような香りが一面にたゞよつてくる、あの瞬間だが、しかし、市ノ瀬牧人は、なぜ、ものみな淡くさわやかなゆうべに、そんな印象を呼びさましたか?



 むせるような亜熱帯の花の香りは、あからさまに言えば、彼の胸にきざしている井出夫人へのやみがたい恋情のひとつのかたちなのであるが、彼自身は、そんなことは意識してはいない。たゞ、漫然と、その香りにさそわれるように、井出夫人のすまいのそばへさしかゝる。大きな竹やぶを背負い、白壁がぐるつと坪庭を囲み、旧家らしい構えの母屋が奥深いものをつゝんでいるこの一郭を、彼は、それが池内なにがしという大地主の屋敷であることなどは忘れてしまい、井出康子という端麗な未亡人をそこのあるじにみたてゝ、なにか物語めいた空想をしてみる。それは、またとなく神秘的な、心のおどる遊戯であつた。

 彼、市ノ瀬牧人は、この井出夫人の「やかた」の前を、しばらく、行きつもどりつする。ピヤノの音は漏れてはこないが、その代り、ミシンのうなりが間をおいて聞えるような気がする。

 坪庭の門は固く閉ざされていた。土べいにあけた風抜き窓から、明りをうつした離れの障子がみえるだけである。

 彼はこうして、夕やみがあたりをおゝうまで、屋敷のまわりをぶらつくことで満足する。まさかこの時刻に、玄関から案内をこうて井出夫人のまともな客となる気はしない。それはなんとしてもかつこうのつかぬ図だとわかつている。それならむしろ、この土べいを乗り越えて、あの離れの縁先へ忍びより、「こん晩は」と声をかけてみる方が自分の柄に合うのである。

 それにしても、彼女の方ではいつたいこの自分をなんと思つているだろう、ということが、今夜はじめて問題になりだした。それは実に、とつぜんのことである。三日にあげず彼女に会い、そのたびごとに、なにか口実のようなものを作ることにすこしばかり苦心はするけれども、それはたゞあまり用もないのに顔を出すのはへんだというくらいな心づかいが主で、彼女の自分に対する特別な関心、ことに異性としていくばくかの興味を期待するような気持は、まずなかつたと言つてよい。早く言えば、いやな顔をされないだけで、それで十分だつたのである。

 ところが、今や、それだけでは十分とは言えなくなつた。どんなにかすかなしるしでもいゝ。ある反応、ある手ごたえのようなものが感じられたら、と、そういう欲望が急に頭をもたげてくる。──それがために自分はなにをしたか、とも考えてみる。しかし、それは、雄弁な沈黙という言葉もあるではないか。

 二日ほど間をおいて、彼は、いつものように、池内家の坪庭の門をくゞつた。



「こんなにたび〳〵来てご迷惑じやないでしようか?」

 と、市ノ瀬牧人は、すゝめられる座ぶとんを押しやりながら、いつものように腰をおろした。

「あら、どうして? そのかわりちつともおかまいしないわ」

 井出夫人の、こともなげなあいさつである。

 そういう意味ではなかつたのだが、と、市ノ瀬牧人は、相手の顔はみずに、大きく息をついた。

 身ぢかにこうして彼女を感じていること、それはこの世の中でいちばん貴重な生命にじかにふれていることであつた。無造作に立ち、すわり、あれこれと手を動かし、時々思い出したように話しかけるこの存在は、彼にとつては、光り輝き、ほのかなかおりをはなち、目に見えぬもののみにほほえみかけ、ちかづくものを酔心地にさせる不思議な存在であつた。

「きのうはね、モトムとこんな話をしたの──もうじきお山にワラビがでるでしよう。そうしたら、一日お弁当をもつて草つみに行こうつて。……道がわからなくつて迷子になつたら、どこでもいゝから、いちばん近くのお百姓家へ頼んでとめてもらおうつて……。こういう空想は、子供はそりやあ面白がるのね。でも、そういう時、子供はすぐに、そのお百姓家をいんさんなものにしたがるのよ。わるいお婆さんが住んでたら、とか、人殺しの相談をする声がどつかから聞えて来やしないか、とか……。そう言えばあたしたちおとなだつてそうね。たゞ空想をしてみるだけでも、なかなか楽しい空想にするのには骨がおれるわ。どうしてでしようねえ……」

 なかばひとりごとのように、こんな話をしだす彼女の方へ、市ノ瀬牧人は相変らず背を向けたまま、

「そういうふうに仕込まれてしまつたんだから、そうなるのは当りまえですよ。わしもしばらく外地の生活をしてみて、つく〴〵そう思つたね。日本人つてやつは、楽しい夢をみるなんてことを、じつにバカげたことだときめてかゝつてるからね。だが、一方からいうと、それだけ現実のみじめさを平気でうけいれるつていう強味もあるだね」

「強味だわ、ほんとに……」

 と、すでに彼女はその言葉の裏をよんで、声をくもらせる。

「ワラビ取りなら、わしが案内しましよう。そこいらの山はすぐ取りつくしてしまうで、もつと上の、人のあんまり知らんところがいゝですよ。子供が野ウサギの眠つとるやつをそつと抱いて来たつていう話があるほど、のんびりした山奥だが……」



「それ、いゝお話だわ」

 と、井出夫人は、明るく言い、そのまゝ立ちあがつて奥へひつこむ。

 市ノ瀬牧人は、もう、夫人とその息子とを案内してワラビ狩りに行くものとひとりぎめにきめこみ、あの山この山の春めいたすがた、若草の緑によみがえる小みちのかず〳〵を、たのしく頭のなかに想いえがいていた。

 そこへ、モトムが学校から帰つて来た。

 が、彼とはまだなじみが浅いので、ちよつと警戒の色をみせる。

「ほう、もうそんな時間かなあ。まあ、こゝへおいない、モトム君」

 と、彼はなれ〳〵しく声をかける。

「ボク、勉強しなくちや……」

「だから、わしのそばで勉強すればいゝに」

「おじさん、教えてくれる?」

「あゝ、教えてやるとも……。なんだね、読方かね、算数かね」

 モトムは、やつと安心したように、カバンをもつて彼の横へすわる。が、とつぜん、

「おじさん、なんの用があるの?」

「え?」

「おじさん、なにしてんの、そこで?」

 市ノ瀬牧人はこの質問には面くらつたが、しかし、子供が相手だと気がつき、

「おじさんかい? そりやあいろんな用があるさ。きようはワラビをとりにいく相談に来たんだよ。お母さんと君とじや、道がわからんだろう? わしがえゝとこへ連れてつてやるで。君はどれくらい歩ける?」

「ボク、十六キロは平気さ。こないだ学校からカナエのプールまで往復歩いたんだもの。おじさん知つてる、カナエのプール?」

「知つてるさ。だが、ありやあ平らな道じやないか。山道を登るんだぜ、こんどは」

「お母さんがどうかなあ。お母さんはくたびれたなんて言わないけど、すぐくつずれをこしらえるんだよ。足に水ぶくれができて、それがひどいのさ。ボクは一度新しいくつをはいた時できたつきりだ。あ、クロツグミ、クロツグミ……」

 そう言つて、坪庭のドウダンの枝にいま来てとまつた小鳥に眼をすえた。

「なにをおしやべりしてんの、トムちやん?」

 奥からなにやら盆にのせて運んで来た井出夫人は、この二人の友だちぶりをもの珍しそうにうちながめ、

「さ、なんにもないけど、お茶にしましよう。トムちやんは、このおにいさん、知つてるわね。市ノ瀬さん、ね、いつか北原先生と……」

「うん、うん、そんなこと知つてるよ」



「そんなこと知つてる、は、なに? その言いかたは?」

 笑いながらではあるが、井出夫人はちよつと息子をたしなめる。

「こないだ、いたゞいたおさつだけど、よくこんなに上手にかこつておゝきになるわね」

 東京風の焼イモが、彼女のしなやかな指の先につまみあげられる。

「今年はじめて成功したつて云つてますよ、うちの母は」

「あら、あなたのご研究じやなくつて、お母さまのご丹精なのね」

「わしは一俵二俵を目当にしとらんからね。去年はこの村で五千貫から腐らかいたで、今年は、わしがやり方をかえてみただが……」

「へえ、そうすると、あたしたちの命が市ノ瀬さんの肩にかゝつてるわけ?」

「そういうこんだ」

 まじめともじようだんともつかぬ話ぶりだが、しかし、夫人のいのちだけなら、自分の肩に、と言いたいところである。それにしても、こういう話題は、彼としてはあまり好ましくない。こんな話ならどこへ行つてもできるからである。と、そのとき、

「それはそうとね、市ノ瀬さん、あたし、あなたにお願いがあるの……」

 夫人は、とつぜん、こう言つた。彼は、思わず腰を浮かせて、そつちをふり向く。いまだかつて、彼女からこういうふうに出られたことはないからである。──えゝ、えゝ、なんでもと、眼つきにものを言わせて、じつと夫人をみつめる。

「こればかりはと思つたんだけれども、もうどうにもならないから……。あのね、お炭なの。一俵でいゝからなんとかできないかしら?」

 ──なんだ、そんなことか、と、彼はすこしひようしぬけがしたけれども、

「はあ、承知しました。お安いご用です」

 と、答えた。母親に相談して物置から一俵かつぎ出せばいゝと思つた。

「用意もわるいんでしようけど、いつたいどうなるの、これは? もつとも、これでなければ、だあれも騒ぎやしないわね」

 夫人は、そこで精がないというふうに、肩をがくりとおとす。

「しかし、お宅のことぐらい、この家で面倒をみてくれませんか? くれんだろうなあ」

 と、彼は、もう、自分でそれを言い、夫人のことさら返事をしない意味を察した。

 頼まれた品物は、実をいえば、そんなに気を入れるほどのものでない。しかし、夫人の「お願い」をはじめてかなえるよろこびは、彼を有頂天にした。



一歩一歩




 夜のひけは二時三時になつた。

 港町の客はこういうものだと聞かされても、彼女には、比較するものがなかつた。船を宿にする男たちに、帰る時間はないのである。

「さ、もう閉めるわよ。だめだよ、そんなとこへ寝させちまつちや……」

 女主人の、督励にもかゝわらず、この店の女たちは、客といつしよに酔つていて正体がない。まだまだ気をひきしめているのは、彼女一人ぐらいなものである。

「ねえつたら、ユキちやん、あんたはまだ、たしかなんだろう?」

 つまり、ユキちやんと呼ばれたのが、この店へはじめて出て、まだ三月そこ〳〵の北原ミユキであつた。

「えゝ、あたしは酔つてなんかいないわ。でも、だるいの。先へ帰つてもいゝかしら?」

「勘定さえすめばいゝさ」

「あら、あたしの、いますんだんじやない?」

「そうか。そんならいゝよ」

 ユキちやん事、北原ミユキは、こうしてこの日の勤めから解放される。

 もう顔をなおす手間はかけない。外とうにくるまつて、深夜の海べを町の方に歩いて行くのであるが、最初の掘割の橋を渡ると、彼女のからだ全体がしやんとしてくる。無理にさゝれる酒をわりに平気でうけて、それほどふら〳〵にならないのは、自分ながらあきれるくらいである。

 アパートとは名ばかりの、えたいの知れぬ貸間を彼女は仲間の一人といつしよに宿にしている。その仲間の筒井レイ子という女は、彼女より二つ年下の二十三であるが、先輩としていくぶん幅を利かし、夜も帰つたり帰らなかつたりする。二人の部屋には絶対に男を遊びに来させないことゝいう約束があるので、北原ミユキも、やつと安心していられるわけであつた。

 部屋へあがると、すぐ寝る支度をする。店の主人が工面をしてくれたセンベイ布団にくるまる前に、入口に投げ込んであつた一通の手紙をひろいあげる。口もとに冷笑がうかぶ。封も切らずに、破つて、丸めて、部屋のすみへなげすてる。二等機関士と称する若い客の、いつもの美文調の口説である。店へ来ると、まるでそんなことはした覚えがないような顔をしているのが、彼女には面白いのである。が、もう、その手紙のおなじことの繰りかえしに彼女はうんざりしてしまつた。

 さて、電燈を消す。横になつたとたん、

「ユキちやん、もう寝たのう?」

 と、廊下で、乱れた足音といつしよに、筒井レイ子のどなる声がした。



 戸締りのないドアがバタンと開く。

「ひとりだろうね」

 電燈がつく。筒井レイ子は、和服のすそをはだけて、北原ミユキの枕もとにつゝ立つている。

「あら、ごめんなさい。お床とつとかないで」

 と、言うのを、

「神妙にご帰宅とは知らなんだちゆうわけか。いゝよ、いゝよ、それより、困つたことできたんやわ。ほら、あんたんとこへよく来る広島の、なんだつけ、オーさんか、あのひとの友達でうちにほれちよるマーさん、知つちよるやろ。たつた今、ふらりと来て、泊るとこないか言うんよ。あちこち歩いてべろん〳〵や。今ごろ、どこ行つたて、宿なんぞあるもんか言うてやつたん。拝むんやわ。うちとはまだどうもないんやぜ。そやつたら、一晩ぐらいそこのはじつこへ寝かせてやつたかて、あんた、がまんできるやろ思うて……」

 でい酔の舌に、さすがに約束違反の気がねをのせて、筒井レイ子は弁じたてる。

「いや! わたし、絶対に、いや!」

 と、北原ミユキは夜具をかぶつたまゝ、キッパリ言う。

「いやか。いやでもしようないわ。そこへ待たせてあるんや」

「そんなら、わたし、この部屋出るわ。勝手にしなさい」

 彼女は、おきあがる。脱いだ洋服を素早く着る。夜具をたゝむ。それをぽかんとしてみていた筒井レイ子は、

「ユキちやん、あんた人情いうものわからんの? 見ず知らずのもんやなし、男ちゆうたて遊びに来たんやなし、この夜更けに泊るとこない言うてんのやぜ。どないでもせえいうて、ほつとかれるの? 男、男、あんたは言うけど、男がなぜそうこわいの? 男かて人間、女かて人間や。いつしよに寝たかて、どうもないもんはどうもないんや。あほらし、そんなら、こういう商売やめたらええわ。ちよつと、どこへ行くんや、あんたは? バカ!」

 もう、ドアに手をかけようとしている北原ミユキの前へ、筒井レイ子は、よろめきながら立ちふさがる。

 どこへ行こうにも、行くあてなどあるはずはない。北原ミユキは、たゞ、この部屋を出さえすればよかつたのである。

「なんでもいゝから、そこどいて! 約束を守らないの、あたしいやなのよ。さあ、どいてつたら……」

 押しのけようとする手をはらつて、筒井レイ子の片手が、逆に彼女のほおをピシャリと打つた。



 北原ミユキがはつと思う瞬間に、相手は泣きだしそうな顔になり、

「なんちゆうひと、あんたは? それであたしが黙つとる思うてんの? あんたをほうりだすくらいなら……それくらいなら、うち、マーさん連れてヨネちやんとこへでもなんでも行くわ」

 と、そのとき、廊下で、──こゝだ、こゝだという男の声、それと同時に、ドアを激しくたゝくものがあつた。

 筒井レイ子は、舌うちをして、ドアをあけた。

「ユキちやんが、いややて。マーさん、あんたじかに頼んだらえゝ。今夜は男やない言うて頼まんとあかん」

 マーさんなる男は、なるほど酒に弱そうな男で、からだが先へまいつていることがわかつた。

「お願い、ユキちやん、どこでもえゝ。あゝ、もう動けん」

 と、彼は、ドアによりかゝつたまゝずる〳〵とすべるようにしりをつき、そのまゝ首をがくりと垂れて眠つてしまう。

 北原ミユキは、男を見おろしながら、もじ〳〵していた。

「まあ、こういう次第やから、ユキちやん、そないやかましいこと言わんと……さあ、ほつといて、寝たらえゝんや。うちおひやほしわ」

 そう言いながら、火のない火ばちにかゝつた薬かんの口から、ゴクゴク、水を飲んだ。

 大風一過というおもむきであつた。

 北原ミユキは、もう出るにも出られず、そうかと云つて、すぐに床を敷くでもなく、部屋の一ぐうへちよこなんとすわり、筒井レイ子のすることをじつとみていた。

 筒井レイ子は、自分の夜具を敷いてしまうと、北原ミユキの分も引つぱり出して隣りへ敷いた。それから、ちよいと考えてから、自分の着るべき毛布をとりのけて、それを男の肩へ着せかけた。男は、すると、なにやら口の中でつぶやきながら、ぐたりと長く横になつた。座ブトンを折つてまくらにさせようとすると、──や、どうも、すまん、すまん、と意外にはつきりした口をきいたので、筒井レイ子は、──どういたしまして。おそまつなところで、とわざとまじめな顔でこたえる。

 部屋を暗くするというので、北原ミユキは、しかたがなしに、そのまゝのかつこうで夜具の中にはいろうとすると、だしぬけに、

「ユキちやん、ユキちやん、すつかり忘れてた……オーさんは病気で入院やて」

 その声はもうろうとして真剣だつた。



 筒井レイ子がオーさんというのは、北原ミユキの一番親しく口をきく店の客で、むろんたゞそれだけの客であるが、これこそ、井出康子にあてた手紙に詳しく書いた、例の田辺の船着場以来、ふしぎなめぐりあわせというか、この宇品の海岸で再び落ちあうことになつた復員者、元陸軍少尉尾関昇なのである。

 めずらしく一週間ばかり顔をみせないと思つていた。広島からほとんど毎日のように通つて来る熱心さは、店でももう評判がたつほどであつたが、二人の間は、たゞなんとなく話が合い、お互の境遇に同情と理解とをもつというだけのことである。おゝぜいの客のなかで酒くせも悪い方ではなく、友人だというこの正木と連れだつて来ることもあるが、むしろ一人でぽつねんとしていることの方が多く、彼女を相手に、多少虚無的な、しかしほどよく詩的な調子をまじえた人生論などする男であつた。

 筒井レイ子は、その尾関が入院しているということを彼女に伝えると、もう、いびきをかきはじめた。おそらく、そこにいる正木から聞いたのであろうが、どんな容態なのか、気にならぬではない。あすの朝ははつきりしたことがわかるであろう。そう思うと、この男が今夜舞いこんで来たことも、まんざらではないことになる。

 部屋を明るいまゝにしておいたのは、北原ミユキのはからいであつた。たゞその方がいゝような気がした。しかし、夜はもう明けかけている。港では、カマをたきはじめた船もあるらしく、機関の音がそここゝでする。

 彼女は、それからうと〳〵とした。

 眼をさましたのは、街が騒がしくなつてからで、筒井レイ子はまだぐつすりと眠り、正木のすがたはもう見えなかつた。

 昼近く、いつものことではあるが、二人は化粧をすまして町の食堂へ出かけた。

「ゆうべはどうやつた? よう眠れなんだやろ」

 と、筒井レイ子は笑いながら言つた。酔つているときとうつて変つた、しんみりした調子でものを言う女であつた。

「ところが、案外よく眠れたわ。でも、あゝいうこと、もうしつこなしよ」

「うちの好き勝手にしたんやないもの。それわかつてもらわんと困るわ。あんた、男いうものどない思てんの? こちらしだいで言うまゝになるもんよ」

「あんたなら、そうかもしれないわ」

 と、北原ミユキは、投げ出すように言つた。

 すると、筒井レイ子は、もうその話はどうでもいゝというふうで、

「オーさん入院したいうのに見舞にいかんの」



 北原ミユキは、尾関が病気をしているのだということをおもいだした。しかし、病院がどこなのかもわからず、見舞にいくなどということは夢にも考えていなかつた。だから、相手の言葉にはろくに返事もしないでいたところ、その晩、例の正木がまたぶらりとやつて来て、

「尾関からのことずけをすつかり忘れてたよ。なんでも急に話したいことがあるんだそうだ。直接でなけりやだめなんだとさ」

 と、あたりはゞからず言うのを、彼女は、

「そう、どうもありがとう。でも、入院してらつしやるんでしよう? ご病気はどんなふうなの」

 と、それこそ、にこりともせずに、たずねる。

「病気かい? それはちよつとぼくの口からは言えんなあ。しかし、君が病院をきいたら、教えてくれつて言つたぜ」

 すると、そばから、だれかが、

「あら、ずいぶんまわりくどいんやなあ」

「そうよ、これが尾関らしいところよ」

「ユキちやん、どないすんの? 病院をきくの? きかんの?」

「うるさいわね。そんなこと、あたしの勝手じやないの」

 と、北原ミユキはぷいと席をたつてしまつた。

 が、しばらくして、彼女は、正木の席のそばを通つた序に、

「あたし、お見舞の手紙書くから持つてつてくださる?」

 と、声をかけた。

「あゝ、それでもいゝよ。だけど、ほんとは君に来てほしいんだよ、やつこさん」

 で、そのつぎにまた、あつらえものを運びながら、

「じや、病院どこだか、教えて!」

 ほかの女の手前、すこし虚勢をはるように胸をそらせながら、言つた。

「よし、そうこなくつちや」

 と、正木は、もういい加減に酔つた手つきで、万年筆をポケットからぬきとり、紙ぎれへなにやら書いて、やがて通りかゝる彼女の手に渡した。

 病院の名と所と、おまけに道順までていねいに説明してあつた。

 女たちは手をたゝいてはやした。しかし、そんなことに北原ミユキは頓着なく、受けとつた紙ぎれを小さくたゝんで帯の間へしまつた。

 彼女は尾関が急に話したいことがあるという、その話の内容は察しかねたけれども、しかし、なんとなくそれを早くきゝたかつた。

 受けもちの客を送りだすと、彼女は、今夜ははやく帰つて、ぐつすり眠つておこうと思つた。



 病院はすぐにわかつた。皮膚泌尿科、花柳病科という看板に、彼女はちよつとへんな気がした。しかし、尾関の病気は、まさか、そんなわるい病気だとは信じられなかつた。消毒薬のどぎつい臭いがつんと鼻にくる。そこと教えられた病室の前で彼女はしばらくためらう。

 と、ドアが中から開いて、看護婦が注射器をもつて出て来た。その眼が、じろりと彼女に注がれる。

「いま、よろしいでしようか?」

「ご面会ですか? どうぞ」

 と、看護婦は、言いすてゝ、さつさと行つてしまう。

 畳敷のわりに明るい病室である。

 不精ひげを生やした尾関があおむけに寝ている。

「おや、来たね。座ブトンなんかないんだ。まあ、すわりたまえ」

「しばらくおみえにならないと思つたら……どこがおわるいの?」

 彼女は、ひざをつくといつしよにたずねた。

「どこつて、そいつは想像にまかせるよ。だが、べつに見舞に来てくれたわけじやないんだろう。正木にことずけたとおり、急に君の耳にいれたいことがあつてね。どうも、こうしてちや手紙は書けんし、……ところで、君、新聞みてるかい、ずつと……?」

「新聞? えゝ、たいがいみてるわ。どうして? なにか出てた?」

 もうそれだけで、彼女には、見当がついた。

「あやしいもんだなあ、君の新聞の見かたは……」

 と、彼は、まくらもとにある新聞の一枚をとつて彼女の方にさしだした。

「あんまりいゝニュースでもないが、君が知らずにいる法はないからなあ。わかつたかい? それでひとまずはつきりしたわけだ」

 吸いこまれるように活字に見入つている彼女の方へ、尾関は言う。

 しかし、彼女には、まだ、その見出しがみつからないのである。手がふるえるのをどうしようもない。

「どこよ、どこ?」

 と、彼女は、ひざをのりだす。尾関は、その新聞の一ぐうをこゝと指して教える。

 マレイにおける戦争裁判の記事が小さく出ている。それは、虜虐待の証拠があがり、戦犯容疑者として、近く法廷の裁きをうける十数名の日本軍人の名前が記されているのである。官等の下に漢字と片仮名とをまじえて、ずらりと並んでいるそれらの姓名のなかに、「伍長浜島シゲル」と、はつきり彼女の眼は読んだ。



「君がその記事を読んでたら、正木が何かしら感づいて、ぼくに言うだろうと思つてたんだ。やつぱり知らなかつたんだなあ。しかし、まだ、がつかりすることはないさ。裁判にかゝつて無罪になる例もあるからな」

 尾関の言葉がぼんやり聞えはするが、北原ミユキは、まだ新聞から眼をはなさず、「浜島シゲル」という活字をじつと見入つているうちに、頭がしびれ、胸がつまつた。

 彼女は、泣くまいと歯をくいしばる。

 やがて、静かに新聞を下におくと、もう眼からあふれ出そうな涙を、つとふりはらうように顔をそむける。

 ものを言えば、それでおしまいである。黙つて、いつまでも、窓の外をみつめていた。

「どうしようもないね。いやなことだ。じつにいやなことだ。君もしかし、いくらか覚悟はしていたろう? ものごとは、はつきりした方がいゝんだ。毎日港へはいる船を、いち〳〵探しまわる必要は、これでなくなつた。君のスイート・ハートは、シンガポールの法廷で、起訴理由のまつたく事実に反することを堂々と陳述すればいゝ。それは君の想像の範囲のなかにあることだ。だれかの細君が証人として呼びだされたのは、あれは、マニラの法廷だつたな。君もそれが許されゝばやるだろう? やりたいだろう? まず、彼が詩人であつたということを強調するんだね。しかも、愛の詩人だ。君はその詩の一つを朗読して聞かせるさ。人間的感動こそ、今度の戦争裁判を正しくささえるものなんだよ。なぜなら、彼等犯人を裁くものは、だれでもない、人類そのものだというんだから……」

 こういうじよう舌のなかに、尾関の彼女に対する思いやりがあふれていた。

 彼女は、眼をそらしたまゝで、こたえるともなくこたえた。

「覚悟なんて、まるでしてやしませんわ。そんなはずないと信じてたんですもの。今の今まで信じきつてたんですもの。でも、こうして新聞に出たら、もうしかたがないわ。無罪の判決なんて、ほんとにあるかしら?」

 こゝで、彼女は、かすかにほゝえんだ。自分で強いて描こうとする一ののぞみが、まさにはかないものだということを感じたからである。

「そりや、ないことはないさ。君としては、最後まで希望をすてちやいけないよ。しかし、運命はだれの幸福だつて跨みにじるからね。一番わるい結果が君をおとずれるかも知れない。その時はまた、その時の話さ。人間は自分だけの力で生きていけるよ」



 泣く顔をやつと見られずにすんだ、と彼女は思つた。

 尾関との話は、たいてい、彼の生死不明の細君のことか、そうでなければ、彼女のまだ帰らない愛人のことから、だん〳〵に発展するのが常であつた。もちろん、どつちからも直接そんな話題をもちだすわけではないが、たとえば、尾関が下宿の殺風景なことを言いだすと、彼女は、彼が家庭をもつていた時分を想像して、それとなく同情の言葉をはさむし、彼女が信州の山々に春がくる時分の話をもちだすと、彼は、ふと、その季節を美しく歌つた浜島の詩がたしかあつたなどと、なにげなく言い、戦場にあつてふるさとを想いえがくすべての兵士の心理をおもしろおかしく語りだすといつた具合である。

 きようはしかし、尾関は、それきり、口をあまりきかず、彼女が露店で買つた果物の包みをそこへ出すと、たゞ、低く、──ありがとう、と言つて、眼をつぶつてしまつた。

 まくらもとに体温表がおいてあるので、手もちぶさたな彼女は、それをとりあげてみる。病名のところに「軟性下疳」と書いてあるのだが、その病気がどんな病気か彼女には見当がつかぬ。たずねてみようと思つたけれども、彼はうと〳〵しているらしく、熱もかなりある様子なので、しばらくそつとしておくことにする。

 そのうちに、看護婦が二人、あわたゞしくはいつて来て、

「尾関さん、すぐに手術ですつて……歩けるでせう?」

 尾関は眼をあける。

「歩けるさ。それじや、お客さんは帰つてもらおうか。一二週間で退院するから、そうしたらまた遊びに行くよ」

 あわてゝ座をたつた北原ミユキは、手術と聞いてすこし驚いた。

「なんだかへんだわ。いつたい、手術つて、どこを手術なさるの?」

 が、彼女が、それを口に出すといつしよに、二人の看護婦は、顔を見合わせて、くすッと笑つた。

「別にかくす必要もないから、言うがね。ぼくは不潔な病気をしよいこんだんだよ。君が、ほら、そんないやな顔をするのは無理はないさ。しかし、事実はこの通り。わかつたら、早く引きあげたまえ」

 あつさり尾関にそう出られて、彼女は、なんとあいさつのしようもなく、そのまゝ、振り向きもせず病室を出るには出たが、なにか、ガンと打ちのめされたような気持で、たゞ人に顔をみられるのがいやだつた。



 まつたくのところ、北原ミユキは、店へたどりつくまで、自分でなにを考えているのかわからなかつた。頭がみだれているというのか、心がおちつかぬというのか、たゞつぎ〳〵に浜島のこと、尾関のこと、裁判のこと、病院のことなどが、ぼんやり念頭に浮ぶだけで、しかも、そのひとつひとつの幻影が、悲しみとも憤りともつかぬ感情の波の上を、ふわり〳〵と流れていくばかりである。

 彼女は、まだだれも来ていないガランとした店のなかを、シュミーズ一枚になつて、掃除をしはじめた。ゾウキン・バケツの水を、床の上へパチャ〳〵と手でまく仕ぐさは、やがて、彼女の気分をいくらかほぐしたとみえ、ひとりでに「ボダイ樹」の一節を口ずさむようになる。しかし、ほうきをかついで奥から出て来た彼女の両眼は、足どりの快活さにひきかえて、うつろに沈んでいた。

 早番の同僚が二人、三人と、掃除の仲間に加わつた。女主人が湯沸しに火をつけた。

 待ちかねたように、客がぞろ〳〵とはいつて来た。

 こうして、また、半日半夜がすぎるのである。

 三人連れの客を相手に、彼女は、今日は、思ひきりはしやいだ。酒も飲めるだけ飲んだ。かたちは乱れてはいなかつたが、口だけは乱暴になつた。ふだんはつゝしんでいる国ことばをまるだしに、さん〴〵、男性ば倒をやらかした。それは、中年の酒客にとつて、思いがけぬ座興となつた。どつとあがる笑い声に、ほかのいくつかの席は、粛然とさえする気味があつた。

「あんたたちは、えらそうな顔しとつて、それでみんな秘密の病気もつとりやせん? 汚らわしいわ」

 そこでまた、とん狂な男たちの笑い。

「戦争裁判みたいに、みんな、どいつもこいつも調べあげてなあ、それこそ絞首刑にしたら面白いだに」

「絞首刑か、ワハッハッハッ」と、しばらく笑いがとまらぬ男もいた。

 女主人は女給の一人と、この北原ミユキのふだんと違つた様子について、ひそ〳〵話をしている。

 どの席も、今や、彼女を中心とする語尾でにぎわつた。

 信州で国民学校の先生をしていたのだということは、なじみの客にはもう知れわたつていたが、平生はどつちかといえば固くるしいところのある女として、あまり相手にするものもなかつたのに、さては、なにか身の上に変つたことが起つたなと、早くも察するものは察して、もの好きらしい眼があちこちから彼女の方にそゝがれていた。



 翌日は、頭が痛むと言つて、北原ミユキは店を休んだ。

「くよ〳〵せんとおき。ゆんべの元気、なくさんとおいてや」

 同宿の筒井レイ子は、そう言いながら、彼女をひとり部屋へ残して出て行つた。

 午後は雨になつた。

 手紙を書きたいと思うのだけれども、机もなにもないこの部屋では、腹ばいになつて書くよりしかたがないのである。

 だれに手紙を書こうというのか? それは井出夫人にである。けさ、ふとそれをおもいついた。どうしても書かずにはいられないのである。


 先日の手紙はごらんくださいましたでしようか。なにを書きましたやら、さぞお読みづらかつたことゝ存じます。ところが、また、奥さまに手紙をさしあげたくなりました。ほかにだれも話しかける相手がございません。話せば気持がほつとするというような相手が、奥さま以外にはないのです。それはわたくしにとつてあたりまえのことですけれども、奥さまは、ことによると、そんなことは想像もなさいませんでしよう。どうかわたくしのわがまゝをお許しくださいませ。そして、しばらく我まんをあそばして、とりとめもないわたくしのおしやべりをお聞きくださいませ。

 あれからずつと、みなさまお元気でいらつしやいますか。いつの間にか春になつてしまいました。もうその春も過ぎようとしておりますのに、わたくしの生活には、いまもつて光りがさしません。それどころではございません。ほんのわずかに見えていた光りのひとすじが、いま、まつたく消えうせてしまいました。あの人はいよ〳〵戦犯容疑者として法廷に引き出されることになつたようでございます。新聞の記事がそれをはつきり伝えております。無罪になることがあると言つてくれるひともございますけれど、それこそ当てのない望みで、じつさいに罪がなければ、一応の取調べで裁判までにはならぬという話が、ほんとうのように思われます。

 わたくしは、これまで、あの人だけは大丈夫だと信じておりました。あの人のどこを信じていたのでしよう。さあ、そうなると、もうわからなくなるのです。この人がと思うようなひとが、ほんとに意外なことをしているのですもの。男というものは、どうして、そんなにいろ〳〵な面をもつているのでしよう。でも、女は信じる以外に生きる道はございません。


十一


 彼女は書きつゞける──


 奥さま、ほんとにわたくしはどうしたらよろしいのでしよう?

 ゆうべは、店でずいぶんバカなまねをいたしました。お酒のいきおいで、口からでまかせのことを言い、ひとりでいゝ気になつて騒いだのですけれど、そんなことは、あとで考えるとつまらないことで、すこしもものごとの解決には役立つておりません。自分で自分をまぎらすだけなら、いくらも方法はありそうですけれど、それは、苦しみをだん〳〵深くするだけだと思われます。でも、おなじ苦しい思いをするなら、その苦しみが中途半端なものでなく、とことんまで苦しんでみたいという気にもなります。そういう苦しみがどんなものかということは、こうしていてはわからないにきまつています。それは、まだ〳〵、生来の自分というものに望みをかけすぎているからではございますまいか。自分で自分を一度は踏みつけにするような生活、そういう生活のなかでちつとも悔いのないひとつの立場をみつけだすことができたら、と思うのですけれども、それはわたくしには勇気がなさすぎます。今まで大事だと思つていたものをすてきつて、ほかのもつと大事なものを身につけるためには、こんななまぬるい生活をしていてはだめだということがわかりました。もう、この土地にいる必要もなくなりました。旅費でもすこしたまつたら、どこか大都会へ出て、女にどれだけのことができるかを試してみとうございます。

 こういう言い方は、自暴自棄みたいに聞えますでしようか? いくぶんそんな気持もないではございませんけれども、しかし、こうして奥様に手紙をさしあげるわたくしをごらんになれば、やつぱり、美しいものを美しいとし、愛するものからは愛されたいという人間の本性は失つていないことがおわかりになるとぞんじます。

 この手紙を書きはじめました時の気持と、いま、こゝまで書いて来て、さて、自分をふり返つてみての気持との間には、まつたく、夜と昼とのような違いがあることに気がつきました。奥さまは、なんという方でしようか? あゝ、もう一度あのお声で、わたくしの名を呼んでいたゞきたい、なんて、甘えたことを申してすみません。

 伊那谷の新緑が眼の底にうかびます。モトムさまは、もう三年生、お父さまがおそばにいてくだされば、どんなことがあつてもご安心ね、と、わたくしは、申しあげとうございます。では、これぐらいで……。



うしろ影




 市ノ瀬牧人の道案内で、井出康子はむすこのモトムをつれて、きよう、ワラビ狩りに出かけて来た。

 なるほど、道は登り一方で、人里をはるかにはなれた森の間の草地である。炭を焼いたあとの、雑木の切株のまわりに、によき〳〵とワラビの芽がのび、これはなんとしても採りつくせぬというありさまであつた。

「なんていうありかた、これは? まるで、ワラビ畑ね」

 と、井出康子は、むしろ手を下さずにながめていたいというふうに、眼をみはつた。

 市ノ瀬牧人は、やゝ得意げに、

「あるところには、ある、というこつてす」

「まつたく……あればそれほどありがたくないつていうこと、かしら? でも、もつたいないから、持てるだけ持つて帰るわ」

 が、その「持てるだけ」が問題であつた。市ノ瀬牧人は、ひと握りずつ束にしたのを、リュックいつぱいにつめこみ、二つの手さげ袋は、はみだすほどになつた。

「もう、たくさん、たくさん」

 そこで、弁当をということになつた。

 ところが、市ノ瀬牧人は、近所の知合いの家で昼の支度を頼んであるからと、先にたつて歩きだす。そんな必要はないのにと、彼女がいくら迷惑がつても、いつこう耳をかさぬ。

 しかたがなしに、ついて行くと、谷あいの一段低くなつたところに、さゝやかなわらぶきの一軒家があつて、主婦らしい中年の女が、土間でなにやら言いわけめいたことをくど〳〵と言つていた。

 いろりには大なべがたぎり、すゝけた天井から煙が舞いおりている。

 市ノ瀬牧人は、よほど懇意な間がらとみえ、つか〳〵といろりばたへあがつて、なべの中をのぞいてみたりしている。

「ウサギじるをたのんどいたんだが、どんなあんばいかな。さあ、こつちへあがつてください」

 この家の主人は炭焼きが本職で、猟もするのだと聞かされて、井出康子は、やつと、このもてなしの意味がわかつた。

 飯もたいてあるというので、彼女は出しかけた弁当の始末に迷つた。

 が、ともかくも、風変りな昼食であつた。ドンブリには、骨ぐるみぶつ切りにしたウサギの肉が山盛りに盛られた。

「どうです。加減は?」

「とてもけつこう。だけど、この分量はちよつと……。ねえ、トムちやん」

 と、彼女は、ひとくちしるを吸つたあとで、はしのつけようがないという顔をした。



 こいつは、とてもはしではだめだということになり、みんな手づかみでやりはじめた。それは彼女がお手本を示したのだから、市ノ瀬牧人はよろこんだ。

「こいつは愉快だ。さつきなべをのぞいてみて、奥さんにはどうかなと思つたんだ。これで安心した」

「あら、こういうお料理は指をつかうのが本当なのよ。ちつともご心配はいりません」

「なるほど、そういうもんか。やつぱり自然が本当なんだな」

 と、市ノ瀬牧人は感心する。

 あきざらに骨をうず高く積んで、食事がおわる。

「あゝ、おいしかつた。トムちやんはウサギなんてはじめてね。どう? この味をよくおぼえとくといゝわ」

 それから、市ノ瀬牧人の「イカモノ」を食つた話になり、彼女は、とき〴〵まゆをよせる。が、しまいに、

「もういゝわ、そのお話は……。よくあることだけど、へんよ、すこし、男のひとの悪食趣味つて……。どこまで行くかわからないから、いや、あたし……」

 やんわりとたしなめられたかたちで、市ノ瀬牧人は頭をかくまねをする。

「でも、そいつが、戦争中、ところによつちや、やくに立つたと思うんですがねえ」

 と、おそる〳〵抗議をしてみる。

やくに立つたでしよう。いく日か生きのびるためにはね。でも、ことによると……。もう、よすわ。さつき、この上にたきがあるつておつしやらなかつた? 近いの? 遠いの?」

 急に話をそらした彼女の問いに、市ノ瀬牧人は、ちよつと、面くらいながら、

「は? たきですか? いや、すぐそこですよ。見に行きますか?」

 行くことになつた。

 この家の主婦に礼をのべて、彼女は、モトムと市ノ瀬とが手をつないで走る、そのあとを、急ぎ足でついて行く。

 谷の小みちは、暗く、しつとりと湿つていた。けい流の音がしだいに近づく。

 たきはなか〳〵見えない。

 先へ行く二人は、道の曲り目ごとに立止つて彼女の追ひつくのを待つ。

「ずいぶんあるのね。すぐかと思つたら……」

「いや、もういくらもないです。たきつて言つたつて、おもちやみたいなもんですよ」

「このへんなの、クマが出るつていうの?」

「えゝ、冬のうちは、この下の里までやつて来ますよ。イノシヽはいまでも出るでしよう」



 ようやく、あれがたきだと言われて、向う岸のへこんだところをみると、申しわけのように、三尺幅ほどの水が一段高いところから落ちていた。

「ほんとに、おもちや……」

 と、彼女はからだを折つて笑つた。

「奥さんの知つてる大きいたきつていうと、なんだね?」

「あたしは、華厳も、那智も知つてるわ。トムちやんだつて、華厳は覚えてるでしよう?」

「あゝ、これの十倍ぐらいだね」

「十倍できくもんですか。でも、なんだつて大きいばかりが能じやないわ。それにしても、このたきはねえ……」

 と、市ノ瀬の方へ眼で笑つてみせる。

「やあ、自慢にはなりませんよ。この土地にはどうも名所つていうもんがないでね。天竜峡つて騒ぐけれども、あんなもの、どこにだつてあるしね」

「それでいゝのよ。こゝが名所だつていうようなところに、ろくなところはないわ。ほんとにいゝ景色だつていうところは、なにもかもぜんたいがいゝんですもの」

「じや、下伊那はどうだね? ぜんたいがいゝですか?」

「さあ……」

 こんなむだ口をきゝあつているうちにも、彼女には、市ノ瀬牧人の、なんとかしてこつちの満足をかち得ようと心を砕いている様子があり〳〵とわかつた。そして、どうかすると、それが思うようにいかない当惑のしかたは、いじらしく、おかしかつた。

 はじめて会つたころは、どことなく、ひと癖ありそうな、物に動じない、しんの冷たい男にみえたのに、ちかごろは、まるで気のおけない、時としては、おど〳〵しているようにさえみえる、一個のいなか書生にすぎない彼のこの変りようを、彼女は、しかし、たゞの変りようだとは思つていなかつた。この素ぼくな男ごころに、すこしでもそれらしく感応するためには、彼女は、あまりに成熟していたというほかはないのである。

 げんに、彼女は、この青年の情熱をもてあそぶ結果になることをおそれはじめていた。それにもかゝわらず、まだ、彼を身辺から遠ざける理由を見いだし得ないでいる。これは彼女の心理としては、矛盾とまではいかないが、あやふやな自問自答というようなかたちのものであつた。それゆえ、彼の出方に対して、いつも、警戒と名のつくほどの態度はみせたことがない。が、すくなくとも、まぎらわしい素振りだけはつゝしむようにしている。

「さあ……」という返事が、そのひとつの現れである。



 なぜなら、「下伊那はなにもかも、ぜんたいがいゝ」などと言いきることは、その「ぜんたい」という意味を、今の場合、彼がどんなふうに受けとらぬとも限らぬからである。それは、そう問いかけた彼の声の調子、その眼つき、そしてさらに、彼女の返事を待つおぼろげなある期待のようなものゝなかに感じられる。

 はたして、彼女の「さあ」というなま返事は、一瞬、彼をうろたえさせた。

「なにか、奥さんには気に入らんところがあるんだね。もう東京へ帰るなんて言いだすんじやないですか?」

「東京へ帰るつたつて、家がないんですもの」

「たゞそれだけの理由で、こゝにいるのかね?」

「えゝ、それだけの理由よ。まさか景色がいゝからいるつてことないわ」

「そりや、そうだろうけれども……」

 と、彼は、苦つぽく言い、モトムが岩の間でなにか探している、その方へ近づいて行つた。

 彼女は、すると、もう後悔に似た気持がわいて来て、なにか、うめあわせになるような言葉をかけてやりたかつた。

 と、その時、モトムが、とつぜん、

「お母さん、この上に炭焼小屋があるんだつて……ボク、行つてみたいや」

「あら、だつて、もうそんな時間ないわ」

「うゝん、すぐそこだつて。炭焼つて見たことないんだもの」

「市ノ瀬さん、ほんとにすぐそこなの?」

 と、彼女は、わざと、やさしく念をおす。

「そのたきのむこうですよ。煙がみえてます」

 なるほど、そう言えば木立ちのすき間から、ひと筋の白い煙が立ちのぼつていた。

 彼女は、黙つて歩きだした。

 モトムは、市ノ瀬牧人の手を引つぱつて、走りだす。

 やがて、すこし上の方のつり橋を渡り、赤松の林をぬけると、べつの谷がひらけ、その谷への降り口に、炭焼小屋があつた。

 市ノ瀬牧人は、小屋のそばで煙草をすつている男に、なれ〳〵しく話しかける。さつき昼食をした家のむすこだということがわかる。おそろしく顔色がわるく、からだをわるくしていることはひと目で察せられた。

「わしの戦友で、負傷はする、病気はする、難儀をした男です」

 市ノ瀬牧人がいうと、

「この通り、足は義足だで……」

 と、その青年は左脚をちよつとあげてみせた。

「おやじさんは?」

「うむ? おやじはそこにおる」

 あごで指す方をみると、小屋の裏手に、木の根のようにうずくまつて、俵を編んでいる男がいた。



 ついさつきまで日があたつていたのに、おやという間に、薄暗い夕やみがおりていた。

 急いでそこを引きあげはしたが、荷物をとりにさつきの家に寄つた頃は、もうあかりのつくころであつた。

 どんなにしても二時間はかゝる道であつた。

「すこしゆつくりしすぎたわね。でも、いゝピクニックだつたわ」

 井出康子は、だいぶ参つたらしいむすこの様子を気にしながら、足もとのあぶない坂道を、つまづき、つまづき、歩いた。

「なに、わしは、あの家へ一晩やつかいになつてもいゝぐらいに思つとつたで……」

「じようだんじやないわ。でも、あんた、おなかがすいたでせう?」

「わしはなんでもないが、モトム君はどうだね?」

「ボク、すいたさ」

「そいじや、さつきのお弁当があるわ。たべる、あんた?」

 そこで、道ばたに腰をおろす。

 月が出たらしい。

「市ノ瀬さん、北原先生からお便りあつて、その後?」

「いゝや、べつに……」

 と、このとつぜんの問いに、彼は、握り飯を口にもつて行く手をやめて、彼女の方をみる。

「あたしのところへは、つい二三日前、二度目の便りがあつたわ。そのお話しようと思つて忘れてたの」

「へえ、今度はどこからですか?」

 それほど興味のわかぬらしいこの聞きかたに、彼女はすこし拍子ぬけがしたけれども……。

「やつぱり宇品よ。消息がわかつたらしいの。戦犯つていうの? いよ〳〵裁判にかゝるらしいんですつて……。結果を待つ気持、どんなでしよう……」

「先生は、しかし、強気だからなあ。そうわかつたら、案外、しつかりするんじやないかなあ」

「しつかりはしてゝよ。でも、あたし、すこし心配なところがあるの。長い手紙よ。まあ、苦しみを訴えるつていうような手紙だけど。ほんとは、どうしようもないつていうことね。なにか、支えるものが必要だわ。一所懸命になれることね、つまり……。女ですもの……」

 それには、なんとも答えず、市ノ瀬牧人は、たゞ、

「戦犯か……。うつかりすると、やるからなあ」

 と、ため息まじりに、つぶやいた。



 その話はそれきりだつた。

 井出康子は、北原ミユキの手紙について、あれこれと想像をめぐらし、それこそ言葉にはつくせない心のもだえを察すれば察するだけ、自分と彼女との立場のへだたりを感じ、そのへだたりをうめるためにも、だれか親身にこの話を話し合う相手がほしかつたのである。一方にきまつたひとがあるという場合、若い異性の間は、こんなにまで遠いのであろうかと思つた。

 また歩きだすと、モトムは、日ごろになく弱音をはき、ぐつたりしたふうをみせ、足をことさら引きずるようなまねをする。彼女は、はじめのうちは、快活に、じよう談などまじえて元気をつけつけしていたが、しまいに、やゝ真顔になつて、そんなことで男と言えるか、などと言い、自分も実は足の痛みに閉口しているのを、「お母さんをごらんなさいよ、歩くのはいつもあんたにかなわないのに、きようはあべこべじやないの」と、足を早めてみせた。

「すこし休みますか?」

 と、市ノ瀬牧人は、気をきかせて、いくども言う。

「いゝえ、そんなことしてたら、なお遅くなるわ。この子は、こんなはずないのよ。ちかごろ、すこうし、甘つたれやさんになつたの。ねえ、トムちやん、そうでしよう?」

 モトムは、たゞ、ふくれていた。

 それはたしかにそうなのである。最近、べつに、ことさら手心を加えているつもりはないのに、夫のあのことがあつて以来、むすこの日常にどこかゆるみができたような気がする。これがもし、女親一人になつた影響だとすれば、いつたい、自分のどこにすきがあるのか、そういうことも、彼女のこのごろの不安のひとつであつた。

 なんと励ましても効き目はなかつた。モトムはとう〳〵、そこへしやがみこんでしまう。

 市ノ瀬牧人も、とう〳〵口を出した。

「それじや、わしがおぶるか?」

「おぶつてもらつてごらん。一生の恥じだわ」

 すると、モトムは憤然として起ちあがり、今までとうつて変つた足どりで歩きだした。

「おぶつてなんぞもらいたくないよ。お母さんは市ノ瀬さんとばつかり話してんだもの。ボク、つまんないよ」

 彼女は市ノ瀬牧人と顔を見合せた。そして、あきれたという顔つきで、

「あゝ、そうなの、それが気に入らなかつたの? じや、あんたと話するわ。それより、いつしよに歌うたいましようよ。なにうたう?」

 彼女はもう、小声で、「イレ タン プチ ナヴィール」と、フランスの童謡を口ずさみはじめた。



 それから一週間ばかり後のことである。

 井出康子は、昼の食事をひとりですましてから、仕事のあとを受けとりにI市まで出かけ、帰つてみると、思いがけない客が、座敷へあがつて待つていた。

「あら、どういうこと、これは? お嬢ちやんね、まあ可愛い……」

「いや、どうもごぶさたしてしまつて……。こんど子供を連れにちよつと帰つたもんですから、またと言つちやたいへんだと思つて、序にお寄りしてみたんです。お変りありませんか?」

「それは、それは……。えゝ、こちらはこのとおり……。でも、ずいぶん不便なところで、びつくりなすつたでしよう?」

「不便つて言えば、わたくしのいるところなんぞお話になりませんからね。けさ、着いて、その足で伺つたんですが、停車場を間違いましてね。すこし、まご〳〵したもんですから……」

「そうでしよう、駅の名前なんてごぞんじないはずだわ。で、北海道へ、ずつとこれから?」

「漁師になりました。さかなの方の漁師です」

「まあ、それじや、船で?」

「はあ、まあ、自分でも乗つて出ることもありますが、小さな会社みたいなものをはじめましてね。昔の友人が、いつしよにどうだつていうわけです。兵隊上りの失業者にはもつてこいの仕事でして……」

「海軍ならわかるけど……」

「ところが、今度の戦争では、海軍の陸戦隊の向うを張つて、陸軍の軍艦つていうものをこさえましたからねえ」

「それで、お仕事は、好調なの?」

「まあ〳〵つていうところです。なにしろ、船一そうがもとでで、まだ雪のなかへバラックを建てたところなんですから……。あ、そんなことより、大佐殿のことは、実になんとも申しあげようがありません。奥さんにあれだけのことを伺つていながら、どうにもしようがありませんでした。面目ない次第ですが、もうあれだけの決心をされている以上、だれがどう言つても歯がたゝんでしよう。相変らずの鋭い頭で、ぴし〳〵やられるんですから、こつちが突つ込むすきがないんです。新聞にはくわしいことは出ていませんでしたが、島大尉から当時の様子をこま〴〵と知らせてよこしました。大佐殿らしい、ご最期だと思いました。しかし、惜しいですなあ。あの頭脳をこれからの日本が失うことは……」

 彼は、ひと息にしやべつて、急にあたりを見まわした。その様子を察して、彼女は言つた──

「あ、こちらにはおまつりしてはございませんの」



 彼女は、そして、言葉をつゞける──

「母と妹は、主人の弟の方へ参るようになつたもんですから……。こゝは、あたくしと子供と、いま二人きりで、まあ、旅先というようなかつこうですわ。ごらんなさい、あたくし、仕立屋をはじめたのよ」

 ミシンと、一と山の材料の方をあごでさして、彼女は、かすかに笑つてみせる。

「けつこうです。戦死をされた小倉閣下の奥さんは、なんでも、道ばたでアメ玉を売つておられるそうです。それがほんとじやありませんか。もつとも、板につかんので人がじろ〳〵見るらしいです」

「そうでしようね。あたくしの場合は、そんなこと自慢のつもりで申しあげてるんじやないの。どうして暮してるか、ご心配くださるといけないから……」

「あゝ、そうですか。しかし、奥さんなら、なんでもおできになるつていう気がします」

「そうかしら? そうでもないのよ。でも、親せきやつかいになるよりいゝわ。あたくし、もう、愛情と関係のない因縁つていうものをいつさい絶ちきりたいの。たゞ、自分で不安に思うことは、これが愛情だときめても、それが、小さな愛情じやないかつていうことね。まあ、どうせそうにちがいないわ。だから、生れかわらなきやだめなのよ」

 こういう話は、この相手には不向きのようであつた。はたして、中園は、

「むつかしい問題ですね、そいつは……。ぼくは簡単に考えてますよ。義務は愛情を正しくのばす力だ、というふうに。だから、義務は強いられたものじやないんです。ぼくは軍人をやめても……よしましよう、こんな話は……。時に、ピヤノはどうされました? 持つてこられたんでしよう」

 急に話題をかえた中園は、そう言つてあたりを見まわした。

「売つてしまいました」

 あつさり答える彼女の顔に、複雑な気持を読むには読んだが、彼は、また、調子をかえて、

「どうもぼくは、なにしにこゝへ来たのかわからなくなりました。実をいうと、奥さん、ぼくは多少、なぐさめ役をつとめるつもりだつたんです。ところが、もうそんな必要はないですなあ。立派に覚悟がついておいでですなあ。敬服しました。じや、こんどは、ぼくの方から、すこし苦境を訴えるかな」

 と、かたわらの娘の頭へ手をのせるといつしよに、中園は天井を仰いだ。

 彼女は、その調子に誘われて、笑つた。が、ふと、眼を庭へうつすと、坪庭の門の外に、市ノ瀬牧人の姿が見えた。



「市ノ瀬さん、なにかご用?」

 康子の声に応じて、市ノ瀬牧人は、ためらいながら門をはいつて来た。

「お客さまでしよう?」

「かまいませんのよ。主人のふるいお友達で……」

 と、双方をそれ〴〵に紹介したのち、男同士が口をきくのを彼女は待つていた。どちらも、いつこうに、話をしかけそうにない。そうなると、ちよつと彼女は面白くなつて、わざとしばらく黙つていた。

「ヒデ子、モトム君が帰つてくるまでいるか?」

 中園三郎はついに子供を相手にしだした。

「あら、きようはゆつくりなすつていゝんでしよう。家はこの通り広いんですし、ひと晩ふた晩ならかまいませんのよ」

 すると、その時、市ノ瀬牧人が手にぶらさげているワラ包みを眼の高さに差しあげながら、

「お客さんでちようどよかつた。こないだたずねた山のおやじさんが、あん時のウサギより肉がやわいだろうつて、さつきこれを届けてくれたで……」

 と、言つた。

「へえ、うちへいたゞいていゝの? それは、それは……」

 彼女は、縁へたつた。

「皮は、へえだるらしいが、料理は、奥さん、できるかね?」

「カシワみたいなもんでしよう? すこし違うかな」

「いや、ニワトリとは違うね。わしがやらずか?」

 結局、そういうことになり、市ノ瀬牧人は井戸端へまわつた。

 康子が夕飯の支度にとりかゝつている間、中園三郎と市ノ瀬牧人は、座敷とえんとにそれ〴〵陣どつて、親しく言葉を交した。戦争の話にはちよつと触れたきりで、二人は日本の将来について語り合つた。中園が単純に経済問題などを論じ、自分の生活ということで頭がいつぱいなのをみて、市ノ瀬は、現役将校の転身とはこういうものかと思つた。中園は中園で、市ノ瀬の見かけによらぬ複雑な考えに眼をみはり、祖国の運命をおもいなやむ青年のすがたをそこに発見して、なにか久々で厳粛なものに接する気がした。

 と、一方では、子供たち二人が、絵本にもあきたとみえて、手をひき合つて表へ駆け出して行つた。

「どこへ行くんだ?」

 中園はそつちへ声をかけたが、そのあとでうなるように言つた──

「君は、いつたい、いくつですか、年は?」



 夕食には、市ノ瀬牧人も引きとめられて、ぜんについた。

 女世帯にも近ごろわずかながら配給になつたという何級かの酒が出た。

 なんの屈託もなさそうに、慣れない事業の困難さを語つて聞かせる中園の酔のまわつた調子は、例の軍人独特のものだつたが、康子は、それがそんなに聞きづらくはなかつた。以前は、いくぶん、そういう単純な性格を俗つぽさとして軽べつする気味があつたのに、きようは、その同じ性格が、むしろ彼女の眠つている感覚をよびさますはたらきをした。ほんとに、彼女は、自分でも不思議なほどうき〳〵とした気分になつた。

 で、彼女は、別に強いられもせぬ酒を、杯に二三ばい飲んだ。

 これに引きかえて、市ノ瀬牧人は、しじゆう、むつつりとし、中園の不必要に高い声に対抗するような低音を時々はさんでいた。

 康子は、しかし、そういう市ノ瀬の存在を無視するように、中園の一語々々に絶えず眼や、肩でこたえていた。それは、いまだかつて、市ノ瀬に向つてはみせたことのない、最も華やかな彼女の姿態であつた。しかし普通、彼などの想像し得る若い女のコケットリーとは違う。みじんも男性にこびるというようなところのない、却つて、そのために威儀をますとさえ思われるたぐいの、気取つて言えば、天上を舞う魅惑の権化そのものであつた。

 市ノ瀬牧人のこういう観察は、うい〳〵しい驚きと、苦つぽいしつととをまじえてなされたことはもちろんであつた。そして、食事がおわり、子供たちが歌をうたい、中園が、ほんとにひと晩やつかいになつてもよいかと、夫人に念を押し、夫人は、気軽にひと晩でもふた晩でもとうけあい、やがて、寝床が敷かれようとするまで、彼は座をたちそびれた。

 まず、奥の部屋にモトムの寝る場所ができた。

「お母さん、ヒデ子ちやんはどこへ寝るの?」

「さあ、お父さまとご一緒にお座敷へやすんでいたゞきましよう」

「こつちじやいけないの?」

「こつちは狭いからねえ」

「そいじや、ぼくもお座敷へ寝るよ」

「いゝえ、あんたはこつちでいゝの」

「いやだあ、ボク……」

 母親と息子とのこんな押し問答を聞きながら、市ノ瀬牧人は、ついに決心をして暇をつげた。

「あすは雨かも知れんね」

 坪庭の門を締めかた〴〵送つて出た夫人に、彼はそう言つた。

 空のおぼろ月を二人はみあげていた。


十一


 夜具の用意はそれほどなく、客を二人泊めることは無理であつた。で、彼女は、息子のそばへ今夜はもぐりこむつもりでいた。ところが、子供たち二人は、どうしてもはなれようとしないのである。

「それじや、すこしきゆうくつだけれど、お隣りへヒデ子ちやんのおふとん敷きましようか」

 と、康子は、中園に笑いかけながら、譲歩した。

「お父さまのお寝間着がないけれど、兵隊流におシャツでおやすみになつてね。主人はパジャマのない時は、いつでもそうでしたのよ。和服の寝間着は、足や腕がまくれていやなんですつて……」

 こんなことを言いながら、彼女は、中園のためにありつたけのふとんを重ねる胸算用をした。

 モトムの小さくなつたパジャマをヒデ子は着せられて、うれしそうであつた。

「さ、おやすみなさい。お父さまのそばへいらつしやりたかつたら、いつでもいらつしやいね。ここは閉めておきましよう」

 唐紙を閉めた座敷に、康子は中園と向い合つた。

「あなたもお疲れね。先が長いから、たいへんだわ」

「北海道の果てまで子供を連れて行くつてことはひと苦労ですよ。しかし、これからは仕事に身がはいるでしよう。そばにいるべきものがいないつていうことは、今の自分にとつては、張り合いがなくていかんです。娘の顔を毎日みていれば、つまらんことに気をくさらさなくつてすみますから……」

「そりや、そうでしようとも……学校なんか出来てるんですの、今いらつしやるところは?」

「その学校なんですが、まあ、そのうちになんとかしようつて言つてるんです。なにしろ、町からは三十キロもはなれた海岸ですから……。バラックがやつと四五軒建つたばかりで、電気もつかず道もろくにないような砂つ原です。まあ、無人島へ流れついたと思えば間違いなしです」

「想像がつかないわ。ヒデ子ちやんをそんなところへ連れてらつしやるなんて、すこし無茶ね」

「そうでしようか。しかし、丈夫に育つてくれさえしたら、面白い女になると思うんですがね」

「丈夫に育てる自信、おありになるの?」

「育つか育たないかです。運を天にまかせるよりほかにありません」

「そんなら、何も言うことないわ。お友達はあるんでしようね」

「まだ、子供は一人もいません。第一、女つ気がないんです。事務所の飯たき婆さんをのぞいては……」


十二


 中園三郎のガッシリした肩が大きくゆれ、引きあげた太いまゆの下で、年にしては濁りのない、若者のような眼が、康子の視線を追うようにまつわりついた。

 彼女は自分でもわけのわからぬ戦りつを全身に感じ、それをあからさまに楽しむように、まぶたを軽く閉じたり開けたりするしぐさをくりかえしていた。

 と、中園は、とつぜん、ため息まじりに、言つた──

「ねえ、奥さん、どうお思いですか、ぼくはやつぱり娘と二人でずつとやつて行つた方がいゝとお思いになりますか?」

 彼女は、夢からさめたように、

「え? さあ……」

 と答えたまゝ、今度は、ひとみいつぱいに彼を見すえながら、だん〳〵に首をかしげ、それにつれて、油断のない笑顔をつくつた。

「いや、こんなことは別に改まつてご相談するつもりはなかつたんですが、つい、なんだか……」

 そこで、彼は口をつぐむ。語尾をにごすような物の言いかたは、彼にしては珍しいのである。

「つい、なんだか……じや変だわ。はつきりおつしやいよ」

「それがはつきり言えないんですよ。どうも、奥さんの前じや、ぼくは、万年候補生で……」

「あら、いやだ、ひとをあんまりおばさん扱いにしないでちようだい」

 と、彼女は、ついそう言つてしまつて、ひやりとした。こんな軽口が自分のどこから出たのだろうと思つた。男相手に左右の女が口にする紋切型のじようだんを、彼女は、あれほどきらつていたのに。

 が、この一言は、中園を元気づけたかにみえた。

「そうおつしやるなら、言いますがね。今の奥さんにはぼくの立場がよくわかつていたゞけると思つたからです。さつき、娘が育つか育たないか、運を天にまかせるなんて言いましたけど、その運つていうやつのなかには、よく考えてみると、ぼくたちの将来の……まあ、早く言えば、娘にとつては第二の母……」

「あなたにとつては第二の妻でしよう。お探しなさい。きつとちようどいゝ方がみつかつてよ」

 彼女は、さらりと言いすてゝ、座をたつた。そして、唐紙を細目にあけて、子供たちがもう眠つたかどうかをたしかめた。子供たちは手を握り合つてすや〳〵と眠つていた。


十三


 康子はそのまゝ座へもどらず、中園の寝床をのべ、枕もとへ、水差しとコップをおき、

「では、ごゆつくり……。お服はご自分でどうぞ、あそこへおかけになつて……」

 で、引きさがろうとすると、それまで部屋のすみに突つ立つていた彼は、つか〳〵とそばへ寄つて来て、彼女の肩へ手をまわし、くちびるを求めようとした。彼女は、一瞬、抵抗力を失つたかとみえたが、急に、かぶりを強く振つて、上半身をうしろへそらした。

「そんなの、いや……。ちやんとおつしやらなきや、いや……。あたしがほしいならほしいつて、なぜはつきりおつしやらないの。それも、第二の妻なんて、あたし、たくさんだわ。そんなもんでなくつていゝの。でも、きようはだめ、絶対にだめ……」

 こう言いながら、強く抱きしめる男の腕を払いのけて、彼女は、唐紙をさつと開けた。そして、次の間から、その唐紙を静かに閉めるといつしよに、

「おやすみなさい」

 翌朝、彼女は、眠不足の眼を水でゆつくり冷やし、化粧をすこし丹念にし、子供たちの起きるまでに、食事の支度をしおわつた。そして、何事もなかつたように、やがて、食卓へみんなを着かせた。

 モトムの弁当をつめようとすると、

「お母さん、きようは学校お休みだよ」

「おや、どうして……」

「だからきのうそう言つたじやない、開校記念日だつて……」

「あら、いやだ、すつかり忘れてたわ」

 すると、中園がそれを引きとつて、

「まあ、いゝや、お母さんが忘れたつて、お休みはふいにならないんだから……」

 にぎやかな笑い声のなかで、康子は、なにか心うかぬものがあつた。

「じや、せつかくのお休みだから、きようはヒデ子ちやんと遊んであげるといいわ。でも、お帰りの汽車の時間はどうかしら?」

 と、中園は、

「そうですね、ぼくの予定では、長野へ朝着くとぐあいがいゝんですが……」

「そんなら、こゝをもうお昼にはおたちにならなけりや……」

「そんなにかゝりますか」

「その方が安全だと思いますわ。今の汽車は時間があてにならないし、混んでると乗りそこなうことだつてありますもの」

「そうしますかな」

「そうなさい」

 と、彼女は、力をこめて言つた。


十四


 二人の子供は、兄妹のようにではなく、うい〳〵しい恋人のように遊んでいた。

 しかし、康子は、そのひまに、中園と向い合つて話をするのが、どうもいやであつた。彼の方ではそういう機会を待ちかまえているらしいけれども、それだけに、彼女としては、それを避けるようにするほかはなかつた。なにかゞ未解決のまゝ残されていることはたしかであつた。それにしても、彼女の待ち望むものは、彼の月並な求愛の言葉やしぐさではなかつた。彼女は自分の思慮分別に重きをおこうとはしていない。ある誘惑なら誘惑でもよい。それが、彼女の魂を根こそぎゆすぶるようなものであつてほしい。この相手の、どこかにそれがあるようでいて、さて、いざとなるとまだ〳〵自分の心の片すみに冷たいかたまりのようなものが残つているのである。

 早昼をすますことにした。

 それで、いよ〳〵中園は、

「近いうち、もう一度出て来ます。口で言えないことは手紙に書きます。ぼくは、このまゝお別れするつもりはありません」

 と、言い、庭先へまわしたくつをはきながら、

「おい、ヒデ子、早くしなさい。モトム君にサヨナラは?」

 すると、それまで、モトムのそばで顔を伏せていたヒデ子は、肩をしやくつて泣きだした。

「おい、おい、おかしいぞ、そんなの。また遊びにこよう、また……」

 が、少女は泣きやまず、モトムは、それが自分のせいででもあるように、手の甲をあごに当てゝ面目なげに母親の顔をみあげていた。

「それじやね、トムちやん、あんたも駅までお見送りしなさい。ね、ヒデ子ちやん、そんならいゝでしよう。もう時間がないわ」

 モトムがたちあがると、ヒデ子もしぶ〳〵それをまねた。

 駅までの通を、子供たち二人は黙つて手をつないで先へ歩いた。大人たちは、その後から、ぽつり、ぽつり、言葉を交しながら、ついて行つた。

「ほんとに、もう一度伺つてもいゝですか?」

「えゝ、どうぞ、かまいませんわ」

「かまわない、という程度ですか?」

「それよりお返事のしようがないわ」

「来てほしいとはおつしやらないんですね」

「それを言わせないのは、あなたよ」

「ごめんなさい。なにもかもやり直しだ」

 電車に乗り込んだ二人は、満員の人混みの中に吸いこまれて、姿はみえなかつた。

 しかし、康子は、電車がカーヴを切るまでそこに立つていた。



たくらみ




 戦争が終つて一年目の東京である。

 あたり一面の焼跡のなかに、わずかに焼け残つた家がいくつか立ちならんでいる。そこは郊外としてはわりに早く開けた土地で、庭をひろくとつた洋館まがいの建物も二三軒まじり、そのうち、ちよつと風変りなコッテージで、銅ぶきの屋根はどつしりしているけれども、しつくい壁は雨漏りでところ〴〵しみがでたり、ひゞがはいつたりしているうえに、窓ガラスのわれたのへ新聞をはりつけてあるというふうな、いかにも住み荒すだけ住み荒した二階建の邸があつた。

 赤レンガの門柱に、おそらくあとではめかえたらしい木の標札が「二木康夫」と出ている。そして、その下に、これは、臨時の同居人とおぼしい二枚の名刺がはりつけてあつた。

 道順を書いた紙ぎれを手に、この門の前にさしかゝつた市ノ瀬牧人は、しばらく標札を見つめていたが、そのまゝ、ヒノキの並木で仕切られた道を、奥まつた玄関まで、あたりを見まわすようにして、はいつて行つた。

 呼リンはなんど押しても鳴らぬとみえて、いつこう人の出てくる気配はない。大きな声で、「ごめん」と言つてみる。だめである。彼は裏口へまわつた。勝手の井戸端──と言つても、そこは物置きのヒサシの下で、コンクリートの洗たく場になつているのだが、その洗たく場で洗いものをしている一人の若い女に、彼は、帽子をぬいで、

「ちよつとおたずねします。お宅に井出康子さんはおいでですか?」

「イデヤスコさん、あ、こちらの奥さんですか、いらつしやいますよ」

「わし、市ノ瀬というもんですが……」

「ちよつと、お待ちになつて……」

 やがて、玄関の方へというので、またそつちへまわると、玄関のドアがあいて、

「まあ、まあ……」

 と、いつに変らぬ井出夫人の姿があらわれた。

 古びてはいるが趣味をこらした調度の、どことなく日本ばなれのした応接間へ通されて、市ノ瀬牧人は、薄地の白いブラウスを無造作に着た井出夫人と向い合い、自分がいまこゝにいることが夢ではないかと思つた。それほど、夫人そのものはこの周囲に溶けこみ、自分だけが別の世界にいることがわかつた。

「こゝはどういうおうちですか?」

 彼は、開け放されたガラス戸のむこうに、夏の木立の青々と茂つた庭から、飾りだなの中に並んだ西洋人形や、つぼや、革とじの書物や、壁にかゝつている大きな裸体画や、暖炉の上の珍しい振子時計やに眼をうつしながら、たずねる。



「こゝはどういうおうちですか」という市ノ瀬牧人の問いに、井出康子は、いたずらつ子のように笑いながら、

「どういうおうちつて、あたしのうちよ。父が最近なくなつて、そのあと始末をしに来たの。ほかにだあれもいないんですもの」

 それはその通りであつた。彼女がかたづくと間もなく、一人の兄は病死し、兄嫁が実家へ帰つてしまうと、独り者の父は、えたいの知れぬ女をどこからか連れ込んで身のまわりの世話をさせていたが、近所の話では、その女にはほかに男があり、父の死後も、がんとしてこの家に居据わるつもりでいるらしい。

 ところが、父は、かねて万一の場合のことを弁護士に託してあつたので、その弁護士からの呼び出しで、康子は、ともかく東京へ出て来た。そして、そのまゝ、いなかを引きあげることにしたのである。そういうわけで、現在、自分の実家には違いないが、いわば父の情婦であつた女と同じ屋根の下に住み、そのうえ、町内の災者だという二家族にいくつかの部屋を占領され、それはそれでいゝとして、彼女は、息子のモトムと二人、二階の寝室二部屋とこの応接間とをわずかに自由に使える身分であつた。

 が、そういうこまかい説明は、市ノ瀬牧人にする必要もなく、彼女はすぐに、言葉をついだ──

「でも、よく来て下すつたわね。どうかしらと、実は思つてたの」

「なんだか知らないけど、こいとおつしやるから出て来ました。どんなご用ですか?」

「それはまあ、ゆつくりお話しするわ。いまお着きになつたの?」

「けさ早く着いたんですけれど、宿をきめとく方がいゝと思つて、友達のところへ寄つて来ました。二三日は泊めてくれるでしよう」

「あら、どんなところでもよければ、うちへ泊つていたゞくんでしたのに……。これでもいなかの暮しよりはすこしはゆつくりしてますのよ」

 が、こうして市ノ瀬牧人を前において、彼女は、ほかになにもいうことはなかつた。信州の客に茶を絶やしてはならぬと聞いていたので、大きなきゆうすをもち出して来た。

「それじや、さつそくご相談にとりかゝりましようね。あなた、ご存じないわね。いま、北原先生がどうしてらつしやるか……」

「知りません」

「それが、困つたことになつたの。このまゝにしといたら、あの方、どうなるかわからないわ」



「どうしたんです、いつたい?」

 と、市ノ瀬牧人は、この、だしぬけの話に、まだそれほど興がわかぬらしい。

「どうしたもこうしたもないのよ。ほら、婚約の方があつたでしよう? とう〳〵戦争裁判の判決があつたらしいの。それが、重労働二十年ですつて……」

「二十年!」

 市ノ瀬牧人は、やつと真剣な顔になる。

「まあ、ちよつと考えてごらんなさい。二十年つていうと、子供が大人になるのよ。娘がお婆さんになるのよ」

「わかつてます。こたえるなあ」

「北原先生は、それまで、まあ〳〵、希望をもつてらしつたわけよ。死刑よりは軽いつていつたつて、どう、市ノ瀬さん、北原先生にとつて、どつちが辛いとお思いになる?」

 彼は、返事ができなかつた。

「お手紙にはこうあつたわ……五年十年なら待ちます。二十年といえば、わたしは四十六です。待つことが待つことになるでしようか……」

「待てないことはないでしよう」

 と、市ノ瀬牧人は、低くつぶやいた。

「そんなこと、たゞ、美しい物語にすぎないわ。そういうことも、それがもし自然にそうできるなら、あつたつていゝわ。たしかに、感動にあたいする人間のすがただわ。でも、もしそれが、何かあるおきてのようなもの、道徳のようなもので、むりに強いられて、そうするのがほんとだ、そうしなければならないと思うのだつたら、あたしは、間違いだと思うの。そのことを、北原先生だつてわかつてらつしやるにちがいないんだけど、まだなにかさつぱりしないんだわ。それで、あたしに、どうしたもんだろうつていうご相談なの。今までは当分の間と思つて、不安と戦つたり、さびしさをまぎらしたりしていたけれど、もう、これからは、そんなことで気持がおさまるわけはないつて……まあ、そうでしようね。あたしも、どうしていゝかわからないの。戦争のおかげで不幸な人もたくさんできたわ。でも、北原先生だけは、あたし、なんとかして、この不幸から救つてあげたいの。そこで、これはあたしの最後のお願いだけれど、あなたのお力、拝借したいわ……」

 井出夫人の哀訴にもちかい言葉の調子、そして、眼つきから、市ノ瀬牧人は、たゞならぬものを感じとつた。

「わしにどんな力があるかしら?」

 彼は、ぐつとつばをのみこんだ。



 井出康子は、すこし首をかしげたまゝ、市ノ瀬牧人の顔色を読むように、

「北原先生つていう方は、あたし、とても純粋な、しつかりした方だと思うの。普通の女のように引込み思案でなく、そうかといつて軽薄なお先つ走りでもない、とても頼もしいところのある方ね。あの方に愛される男つて、どんなに仕合せかと思うくらいだわ。それだけに、北原先生を幸福にしてあげられるような男は、そんなにざらにいないつていう気もするけれど、あたし、その役をあなたに引受けていたゞきたいのよ。ちよつとお待ちなさい、あたしに言うだけ言わして……」

 と、井出康子は、何か言いかけた相手を制して、

「もちろん、北原先生がその婚約の方をあきらめるつていう条件でよ。あたしがそうさせるから大丈夫よ。結局、北原先生の愛があなたに移るということは、あなたがそれを必要となさるかどうかできまるの。あたしは、その婚約の方は知らないけれど、むしろ、あなたこそ、北原先生にはうつてつけ男性だと思うの。あたしの眼がそうにらんだんだから、決して間違いつこなし。こゝに、お互がその気になりさえすれば、きつとすぐに激しい愛情で結ばれるはずの男と女とがいて、その二人が、何かの事情で手を差しのべ合うことができないなんて、そんな不都合な話つてないわ。もちろん、あたしは、その愛情にいろ〳〵な動機があつていゝと思うの。北原先生は、生きる力をあなたに求め、あなたは、あなたにふさわしい一人の女性の命を、破滅から救うという義きよう心で、ひとつ北原先生にぶつかつてみていたゞきたいの。おいや?」

 こゝで、井出康子は、かすかに微笑は含んでいるものゝ、相手に有無を言わせぬという強い決意を、結んだくちびるに示していた。

「お話は、だいたいわかりました。では、わしも言うだけのことを言わしてもらいます」

 と、市ノ瀬牧人は、両ひざをかわる〴〵動かしながら言つた。

「奥さんのお気持を、わしはわし流に解釈してかまわんですな。非常にえん曲な方法で、わしが知らなければならんことを知らせてくださつたものと思います。その点、もうなにも言うことはありません。このまゝ、こゝを引きさがつてもいゝわけです。しかし、お話を聞いているうちに、わしはやつぱり奥さんを信じて、奥さんがこうしてくれと言われることなら、どんなことでもきくのがほんとだという気になつて来たんです……」



 市ノ瀬牧人は、そこでちよつと考えこんだ。そして、大きく息を吐くといつしよに、

「これは、まあ、宿命のようなもんです。それと同時に、こいつは、奥さんに対する……言葉はなんでもいゝですが、まあ、わしの心のありつたけ……です」

 と、彼は、額をおさえながら、顔を伏せた。

 井出康子は、その様子をみて、はつとしたように肩をおとし、そして、やゝ、しみ〴〵とした調子で、

「わかつてます、わかつてます。立派よ、あなたは……ほんとに立派よ……。それにくらべて、あたしは、なんていう女でしよう。なにひとつ、自分の意志でものごとを決められないの。こうしたいからするんじやなくて、こうせずにいられないからするの。つまらないわ、そんなの……」

「いや、それがいゝんです」

 市ノ瀬牧人は、キッパリ言い放つた──

「わしはそれが好きです。それがほんとだと思うんです。わしはともかく、北原先生に会いましよう。奥さんにそう言われたなんて言わん方がいゝでしような」

「さあ、それはあなたのご勝手……。所をお教えするわ」

 彼女は、立つて、部屋を出て行つた。

 ひとりきりになると、市ノ瀬牧人は、これも座をたつて、テラスの方へゆつくり歩を運んだ。なにもかも終つたという感じと、軽い新たな好奇心とが胸に残つていた。

 テラスに出て、ふと庭の一ぐうの物干場へ眼をやると、二人の女が何やら言い争つていた。

「あたしはなんにも言つた覚えありませんよ。勝手に気をまわすのよしてちようだい」

 こうカン高い声で叫んだのは、四十がらみのでつぷりした女で、簡単服のすそをつまんで胸をそらしている。

「気をまわすのはそつちのことでしよう。弟がたまに遊びにくるのが、どうしておかしいの。いやらしい、いゝ年をして……」

 と、これは皮肉たつぷりに浴せかける相手は、三十をいくつも越していないと思われる、色の浅黒い、ゆかたのえりを思いきりぬいた女である。

「とにかく、ひとの洗たく物は勝手に取り込まないでくださいね。部屋代はちやんとお払いしますからね」

「部屋代が聞いてあきれるわ。子供の小遣じやあるまいし、大きな顔がよくできたもんさ」

 うしろでドアのあく音がした。

 彼は、振り向くと、そこに北原ミユキがしよんぼりと立つていた。



 二人は、顔を見合つたまゝ、しばらくじつとしていた。

 が、市ノ瀬牧人は、やつと口を開いた──

「なあんだ、先生、こゝにいたのか」

 すると、北原ミユキもそれに応じた──

「市ノ瀬さん、どうして、あんた、こゝへ……」

 次第に、双方はうちとけた表情になり、北原ミユキがまず彼の方へ近づいて行つた。

「いま奥さんから浜島君のこときいたが、えらいことになつたなあ」

 と、市ノ瀬牧人は、これも、彼女のそばへ歩み寄つた。

 すると、北原ミユキは、いつたん眼を伏せたが、すぐに、その眼をカッと見開くようにして、

「浜島のこと、あんた、どうお思いる? ほんとにそんなわるいことしたとお思いる?」

「そういうことは、こゝで言つてもしようがないさ。問題はもつとべつなところにあるよ。あんたは、信ずべきものを信じ、否定すべきものを否定すればいゝのさ。あんたは、これを自分のことゝして考えるか、浜島君のことゝして考えるか、だ。この二つをはつきり分けろといつたつて無理だろうが、どつちを主として考えるか、だ。わしは、あんたの立場として、あんたはもう自由なんだということを言いたい。それは、いろんな理由からそう言えるんだが、第一に、その若い生命を空なお題目のために犠牲にしちやならんということだ。二十年間帰らぬ恋人を待つなんて、およそこつけいだよ。悲惨を通り越してるよ。人間わざじやないという意味で、神々しい半面があるかも知れないが、そいつは、自分の心をためしてみれば、すぐに、ほんものか、にせものか、わかるはずだ。あんたには、そういうことはできないよ。できないのが当りまえで、不名誉でもなんでもないよ。あんたの、女としてのねうちに決して傷はつかんと思う、わしは」

 こうまくしたてゝ、市ノ瀬牧人は、すこし照れたように、くるりと彼女に背を向けて、テラスの方へ一二歩、歩いた。

「奥さんとおなじことをいうわ、あんたも……」

 と、北原ミユキは、ぐつたりといすによりかゝり、すこし調子をかえて──

「わたし、自分の気持がちつともわからんの。たゞ、今になつて不思議でならんのは、あんたに言われるまでもなく、わたし、自分のことばつかり考えてたつてことだわ。あのひとがかわいそうだつて、どうして、まつさきに思わんのでしよう……」



 そこで、市ノ瀬牧人は、彼女の方へ急に向き直つて、言つた──

「いゝとこへ気がついたなあ。それごらん、それが、わしどもの恋愛つてやつさ。そんな恋愛は犬にくわれろだ。わしは、しかし、先生がそれだけの女だとは思つとらんに。そこへ気のつく女は、たいしたもんだに。それじや、ひとつ、心を入れかえて、まともな恋愛をだれかとしてみんかね?」

「じようだんじやないわ」

 と、北原ミユキは、ぷりつとしてみせる。が、思い出したように──

「わたし、ほんとは、浜島がかわいそうなの。かわいそうでかわいそうでしかたがないのよ。でも、やつぱり、そういう罪を犯したんだと思うと、腹がたつて、くやしくつて、はずかしくつて……。それだのに、なんだか、まだ、うそのような気がして、ほんとのあの人は、そんなことゝ関係なく、ちやんとどつかにいるような気がして……その浜島に、あたしは、もう一度会いたくつて、会いたくつて、しようがないの。二十年待てば会えるんだわ。もつと早く会えるかも知れないわ。どんなことだつて、ないとは限らないんですもの……」

 ほとんど独りごとのように、彼女は、しやべりつゞける。

 市ノ瀬牧人は、あわれむように、その言葉にきゝ入つていたが、とつぜん、

「自分のいうことに自分で酔つちやだめだ。わしらもよく、自分自身にこびた、自分の好みに通した考え、というやつをもてあそんで得意になることがあるが、こいつは警戒せにやならんと思う。真実つていうもんは、どうにもならんもんだでなあ」

「あんたは、なんでもぶちこわそうとするから、きらい!」

 と、北原ミユキは、すこし、ヒステリカルになつて言つた。

「そんな気は毛頭ないに、わしは。あんたがほんとに大事にしとるもんは、わしも大事にせにやならんと思ふとるんだに。あんたぐらい真剣にものを考えるひとが、どうしてそんなことがわからんのだろう? 今すぐとは言わんで、ゆつくりわしの言つたことを味つてみておくれんか」

 玄関先で案内をこう男の声がした。

 だれも出る様子がない。

 市ノ瀬牧人は、つか〳〵と出て行つた。

 客は背広を着た若い男で、眼ざしは知的な輝きをもつているけれども、どことなく皮肉な影をくちびるのあたりに漂わせ、一見病身であるということが察せられた。



「こちらに井出さんの奥さんはおいでですか?」

「おられますよ」

「ちよつとお目にかゝりたいんですが……」

「あなたは?」

「名前を言つてもご存じないはずです。お会いすれば話はわかると思います」

 市ノ瀬牧人は、勝手を知らぬ奥へ向つて、

「奥さん……奥さん……井出さん……」

 と呼んでみた。

 康子が二階からおりて来た。

 客と彼女との問答──

「井出さんの奥さんですか?」

「はあ、さようでございます。あなたさまは?」

「ぼく、北原といつしよにいるもんですが……北原ミユキは、こちらに伺つていますか?」

「お名前をおつしやつていたゞかなければ、お返事はできませんわ」

「ぼくの名前ですか。あゝそうですか。ぼく尾関と言います。北原をこゝへ呼んでいたゞきます」

 …………

 市ノ瀬牧人は、応接間へ引つこんでから、この問答にわれ知らずきゝ耳を立てゝいた。そして、とき〴〵、北原ミユキの顔色をよんでいた。それは、一種の妙な気持で、まずいところへ居あわせてたというふうな後悔でもあり、北原ミユキという女の秘密をのぞきあてた好奇心でもあつた。

 と、井出夫人が、ドアを開けて、静かにはいつて来た。そして、低く北原ミユキの耳もとでさゝやいた──

「わかつた? 会う?」

 北原ミユキは、別にわるびれる様子もなく、

「会います。しかたがありませんわ。でも、こゝじやご迷惑かしら?」

「あがつていたゞく?」

「いゝえ、わたしが出ます」

 玄関へ出た北原ミユキは、ふたこと三ことその男と口を交わし、やがて、もどつてくると、

「わたし、これで失礼させていたゞきますわ。奥さまには、このことはいずれお話します。かんたんには言えませんの。市ノ瀬さん、さよなら……さつきのこと、よく考えるわ。わたし、ほんとの自分をみつけだしたいの。どこを歩いても、まつくらなんですもの……」

 北原ミユキが、その男の後について門を出て行くと、井出康子は、首を大きくかしげながら、市ノ瀬牧人のそばへ帰つて来た。

「あたし、ほんとに意外……。でも、まる三日、お話をしどおしよ。それに、気ぶりにもそんなところはみえないんですもの……」



アトリエの夜




 年のころは二十から三十そこ〳〵まで、身なり風体は思いおもいの男女が十二三人、あるものはソファーにふんぞりかえり、あるものは床の上にあぐらをかき、またあるものは窓のかまちに腰をかけなどして、歌い、笑い、議論をし、そして、なかには、まだ酒の残りをちびり〳〵茶わんで飲んでいるものもあつた。

 部屋は天井の高い、中二階のある美術家のアトリエである。それも、あちこちにブロンズや大理石の首がおいてあり、未完成の塑像が片すみにおしやられているだけで、アトリエのぬしは彫刻をやるのだということがわかる。

 そういえば、こゝに集つている連中は、みな同類かといえばそうでもなく、第一に、いまビール・ビンを二本両手にさげてはいつて来たのは、例の尾関昇であつて、これは美術とは関係のない一会社員である。また、さつきから、中二階の手すりへもたれかゝり、学生服を着た男と話しこんでいるのは、これは、北原ミユキで、女といえば彼女をまじえてたつた四人ではあるが、彼女は、いつたい、なぜこんな場所に姿をあらわしたのか?

 日が暮れて、もうよほどになる。夏の夜風が雨あがりの湿気をふくんで窓から流れこむ。このあたりは、東京から一時間という郊外電車の沿線で、数十年前に植林を切りひらいた分譲地であるが、住宅はまだ建ちそろわず、道路だけは広く縦横に通じているけれども、そここゝの空地は草のしげるにまかせて、林間都市という名前とはおよそ遠いおもむきのものである。

「もう、これでおしまい……。一本は賃におれが飲む」

 尾関はそう言つて、左右からのびる手へその一本を渡した。

「あるところを教えろよ。おれが自分でとつてくるよ」

「あるにはあるが、たゞじやよこさんよ」

「江原さんとこから来たつて言やいゝんだろう」

 すると、モデル台の上へあぐらをかいている仕事着の男が、

「おい〳〵、そりやあ昔のことだ。今や時代は一変して、江原久作も禁酒党の仲間入りをしようとしてるんだ。尾関のヤツが舞いこんで来て、このアトリエの静寂を破りやがつた。それもすばらしいモデルを連れて来た手柄にめんじて、ゆるしてはいるが、もうそろ〳〵ヤッコさんに出てつてもらおうと思つてるんだ」

「出るも出ないもないさ。これは江原久作のアトリエだと思つたら大間違い……」

 と、尾関昇は、ビールを振りながらわめいた。



「そも〳〵このアトリエは、彼のおやじが建てたもので、彼のおやじは、こゝで幾多の傑作をものした。おれは、かつての少年の日を思い出す。江原老先生は、そのへんで静かにのみを動かし、おれは、毎日そのそばでじつと人間の顔が浮きあがつてくるのをながめていた。その時、彼久作はなにをしていたか? 彼ははだしで鶏を追いまわしていたのである。今日、彼は、おやじの業をついだつもりでいるけれども、はたして彼におやじだけの仕事ができるか? とすれば、おれをそんなに邪魔者あつかいしなくてもいゝのだ。おれは、なるほど、ルンペンだ。しかし、たゞのルンペンではない。おれは居候かもしれん。しかし、たゞの居候とはわけがちがう。江原久作の芸術は、おれの霊感なくしては断じて実を結ばんのだ……」

 手をたゝくもの、「しつかり、しつかり」と叫ぶもの、などがあつた。

「そんなら、おれも言つてやるが、この尾関というのは妙な男で、もと〳〵裁判官のむすこと来てるから、人を裁くのがむやみに好きなんだ。その結果、彼は恋愛というものをしたことがない」

「よけいなお世話だ。安手な恋愛に満足する手あいはそのへんにごろ〳〵している。おれは、生がいにたつた一度の、命をかけても惜しくないおれの恋愛のために乾杯する」

 尾関は、どつかと床の上に腰をおろして、ビール・ビンを傾けた。

 ギターをひきだすものがあつた。

 ざわめきが次第に静まつて、みんながその音に耳をすましはじめる。

 こうして、夜はふけた。

 酔いつぶれた一人二人を残して、引上げることになつた。

 尾関昇は北原ミユキを促して駅までみなを送ろうと言つた。

 スギ林の中をまつすぐに通じる広い道路を、彼等二人は、いま帰つてくるのである。彼女はあまり口を利かない。たゞ、尾関ひとりがとき〴〵特徴のあるバスで話しかける。

「ぼくもあゝいう連中と飲むのははじめてだが、アトリエの酒宴もなか〳〵乙なもんだ。君も遠慮なんかしないで飲めばいゝのに」

「…………」

「あの、なんとかいう女彫刻家は、ありや相当なもんだ。あの社会は才能がものをいうらしいから、みんなをおさえてたじやないか。ところで、君は、本来はモデルという柄じやないし、あゝいう女性と仲よしになりたまえ。どうしてそんなに黙つてるの?」



 こゝでひと言、説明をしておかねばならぬことは、北原ミユキがどういうふうにして、この江原久作のアトリエへ来たかということである。それは言うまでもなく、尾関昇が連れて来たのである。彼女は、尾関の病気の性質を知つてから、彼をなんとなく信用しなくなつたけれども、やはり気のおけぬ、面白い話相手として、店へくれば愛想よくあしらい、今後の身のふり方について軽い相談をもちかけなどした。東京へ出たいと、彼女はしきりに言つた。すると、ある日、尾関は──東京へ出たければ方法はなくはないが、それにしても、いつたんからだを落ちつけるところが必要だ。それには、ごく親しい友人で彫刻をやつている男が、大きなアトリエのついた家に住んでいて、たしか母親と女中と三人暮しだから、一人や二人なら頼めばおいてくれるだろうと思う。しかし、若い女をぼくがたゞ紹介するのも変だし、君とぼくとの関係も説明しにくいしするし、ひとつ君がモデルになつてやるという条件で、話をしてみてあげるが、どうだ? というわけであつた。

 彼女はそのつもりで、尾関についてやつて来たのである。

 江原は、ちようどモデル難で閉口しているところだと言い、彼女をしばらく家に置くことを快く承知した。

 が、そのまゝ、尾関も、二晩三晩と泊り込み、いつこう動きそうにない。江原も別に気にかける様子もなく、ついにもう六、七、八の三月、なんということなしに、二人は、江原家の客とも居候ともつかぬかたちで、根をはやしてしまつたのである。

 北原ミユキは、江原の望むまゝに、完全なモデルの役を果すことにした。それは思いきりひとつであつた。男の前で、たゞ着物を脱ぐということではなかつた。それは、考えようによつては、神聖なひとつの天職のように思われた。芸術家の眼は、自分の裸のすがたをとおして、なにを見るのでもない。──肉体の美の秘密は、なにひとつ失われることなしに、芸術家のみにさゝげ得るものと彼女は信じていた。

 彼女はしかし、この尾関が時々アトリエをのぞきにくるのがいやであつた。それを厳禁してくれるように江原に頼むのだけれども、江原がそれを言うと、尾関はたゞにや〳〵笑つていた。

 彼女がちよつと出てくるといつて、例の井出夫人を訪ね、そのまゝ三日ほど帰らなかつたのは、そういうことのあつた後である。それ以来、尾関は、江原の仕事の邪魔はしにこなかつたけれども、折さえあれば彼女のあとをつけまわした。



「君はちかごろ変にぼくをけむたがつてるようだが、君はいつまでも江原のモデルで通すつもりかい? ぼくは、どうでもいゝんだよ。しかし、君は雑誌社かなんかへ勤めたいつて言つてたじやないか。ぼくも今、仕事の口を探してるんだから、ついでに、君のことも考えてるんだぜ。実はこないだ、江原にこう言つてやつたんだ──君は彼女の影をふんだんにとれ。おれは、彼女の実体をつかんでみせるつて……。その意味、わかる?」

「…………」

「君はしきりに、男の純潔さということを言うね、いつたい、純潔とはなんだい? 女を知らないということかい? 世間には、いくらでも、純潔づらをして、その実、純潔でもなんでもない男がいる。あるいは、自分が偶然童貞であることを純潔のしるしのように思い込んでいるきたならしい男もたくさんいる。しかし、おれはどういう意味でも、純潔とは言えない、と告白する男を、君はどう思う? 純潔ではないが、純潔ならざることを心から悔いている男が、こゝにいるとする。どう思う?」

「…………」

「返事をしてくれよ、返事を……」

「あなたは、いつたい、なにを言いたいの? あたしに、なにを要求なさるの?」

 彼女は、冷たく言つた。

「君の実体をだよ。絵にも彫刻にもならないものをだよ」

「どういう資格で、そんなもの要求なさるの?」

「なに? 資格? 驚いたね。たゞ、男性の資格においてだよ。うそいつわりのない男の資格においてさ」

「…………」

「それじや、まずいかね? 君はいつか、男とはなにか、を、知らなければならん。君は、あの、井出夫人などとは違う。君がいくら崇拝したつて、ありや、そのへんにざらにいる、既成の、ちよつと気のきいた家庭婦人にすぎん。君こそは、新しい世代をみごとに典型化し得る女性だ。そういう素質を、ぼくは、君のすべてに認める。井出夫人は、自分の世界を守ることによつて、なるほどある種の美しさを発揮している。君には、年の若さということゝは別に、君自身の世界というものはない。つまり、すべて未知なるものが君の世界なんだ。その未知の世界こそ、君にとつて、永遠の花園だということを、君は無意識に感じている。君の大胆さはそこからくる……」

 尾関昇の雄弁は、酒の気も手伝つているけれども、だん〳〵熱をおびてくる。



「君にとつて、恋愛は、一人の、何某という男の片りんを知ることじやない。男という男の、なし得るすべてを知ることなんだ。つまり、男性の世界が、一切の秘密の幕をひらいて、そこを、君の自由にかつ歩し得る花園にする、というのが、君の念願なのだ。大きな夢だ。しかし、君は、少くとも、ほかの女性には足を踏み入れることをゆるされないわれ〳〵の世界を、君だけは、いつか苦もなくのぞけるとぼくは信じている。それはなにも、君に男性的なところがあるというような意味じやない。それとは反対に、君こそ、女性のなかの女性だという恵まれた条件においてだ。おい、聞いてるかい? そんなに早く歩くなよ」

 彼女は、尾関昇のこんな調子でものを言うのを今まで聞いたことがない。彼は、どんな場合でも、お世辞らしいお世辞は言つたためしはないのである。それにしても、彼女は、この言葉に、彼の真実があらうとは思えなかつた。

 すると、彼は、いきなり、そこへ立ち止つた。彼女が、思わず歩をゆるめて、ふりかえると、

「いゝかい? ぼくはきようは思いきつて言うがね、君は、かつての婚約者たる詩人浜島なにがしを愛しているという。おそらく、今までの君は、そうだつたろう。だが、今の君は、もうちがう。君はぐつと成長した。君は、その恋人を、それ自体としてもう愛してはいないのだ。ぼくは保証する。君が今もなお愛していると思つているのは、たゞ、浜島なにがしの相ぼうを借りた、一個のより複雑な男性像なんだ。眼をつぶつて思いだしてみたまえ。君がかつて愛した浜島なにがしは、断じて、君がいま眼の前に浮かべている幻影の主ではない。君が、現に追い求めている恋愛の対象は、マレイのろう獄につながれている一戦犯とは似てもつかぬ、あらゆる可能性を身につけた男の巨大な影さ」

 彼女は、それを聞くともなく聞いていたが、ぷいと顔をそむけて、また歩きだした。

 こうして、二人がアトリエへ帰つてみると、江原久作はまだ仕上げには間のある立像の前で、しきりに首をひねり、あちこちをなでまわしている。寝いすの上へ、毛布をかぶつて寝ころんでいる二人の男のいびきが耳につくだけである。

 片づけものを今のうちにすこししておこうと彼女は、あきざらや茶わんを盆にのせはじめると、江原は、

「そんなものは、あすにしたまえ。婆さんが来てからでいゝよ。それより、ちよつと話があるんだ。尾関はいてもいゝよ」



「尾関はいてもいゝよ」と言われて、尾関昇は、江原の顔をじつとみた。

「いてもいゝよ、か。いなくつてもいゝんだな」

 彼はそう言いながら、ぶら〳〵そのへんを歩きまわつていた。

「なにを言つてやがる。おれは北原君に話があるんだ。お前にも関係があるかも知れんから、そん時はいた方がいゝと思つたんだ。どつちでもいゝよ。お前にはあとで話してもいゝ」

「ふむ、そうか。北原君のことでおれに関係があるかもしれんというと、ちよつとおかしく聞えるが、いつも言うとおり、北原君の一身上の問題は、だれがきめるのでもない。北原君自身がきめるんだ。おれは、たゞ、行きたいというところへ、北原君を連れて行くだけの役目だよ。もつとも、どこへ行きたいのか、ご本人にもわからんことがあるがね」

「そういう場合、君は、こつちへこいという合図をするのかい?」

「いや、しない。決してしない。たゞ、彼女が無意識に求めている方向を、これではないかと指し示すことはある。それに従う従わないは彼女の自由さ」

「よろしい。君にそういう役目があるなら、一しよにおれの話をきけ。おれは、北原君が何を欲しているかは知らん。しかし、おれにとつて、北原君は、実際かけがえのないモデルなんだ。いつかどこかへ行つてしまわれると思うと、それだけでもう仕事をする張合いがなくなるくらいなんだ。この間、北原君が三日すつぽかしてどこかへ行つてしまつた時、おれは、あんなにお前に頼んだ──ぜひ探して連れもどしてくれつて、なあ。お前にはそれができるんだ。しかし、北原君のうしろにお前がついているということは、だよ、これは、ちよつと、おれには困るんだ。こゝにお前がいるのはいゝとしてさ、おれの友達としてだけでいるんじやないということね。こいつは、どうだろうね」

 江原は、おだやかに言葉を結んだ。

「別に、どうということはないだろうね」

 と、尾関は、無反応に答え、北原ミユキが腰かけているいすの背に両手をかけて、

「これがおれの事実上の女房だつたら、どうする? そんなことは言えまい?」

 彼女は、つと立ちあがつた。そして、席をはなれた。

「はゝゝゝ。まだおれの女房じやないつていう証拠をみせる気だな」

 尾関昇は、にがつぽく口をゆがめた。



 それからいく日目かの夜、彼女の寝ている部屋の障子がしずかに開いて、黒い人影が忍び込んで来た。しばらく彼女は息をこらしていたが、その輪郭でほゞそれが尾関だということがわかると、急にはね起きて、廊下へ飛びだした。どこへかくれるというあてもなかつた。彼女は無我夢中でアトリエへ通じるドアをおしあけ、中からカンヌキをかけようとしたけれども、金具がどうしても手にふれない。そのうちに、足音が近づいてくるように思い、声を立てるかわりに、中二階へかけ上つて、江原の寝室を軽くノックした。

 江原が起きて来て、彼女の肩を抱くようにしてなかへ入れた。

 朝になつて、彼女は、泣きぬれた眼を両手でおゝうようにして自分の部屋へ帰り、食事の支度をしにくる近所の婆さんにも、ろく〳〵あいさつをせず、夜具の上へつッ伏したまゝ動こうとしなかつた。アトリエにもむろん顔を出さなかつた。江原が昼ちかく、ちよつと様子をみに来て声をかけたけれども、彼女は返事をする気にならなかつた。

 過ちといえば過ちといえよう。しかし、半分はみずからちかづいた過ちであることを、彼女は知りすぎるほど知つていた。

「どうかしなすつたの? そんなにしてないで、ひと口おあがんなさいよ」

 と、婆さんは朝からそのまゝになつているぜんを見おろしながら言つた。

「ほうつといて……。わたし、病気じやないんだから……」

「病気でなけりやあ、なおさら、ご飯をたべなきや……。先生にしかられなすつたんだね」

 婆さんが出て行くと、彼女はやつと床の上にすわつた。どうしても鏡を見るのがいやであつた。

 すると、ひる過ぎの、まだ日のかんかん照つている最中、表玄関のベルが鳴つて、取次ぎに出た婆さんが、駆け込むように彼女の部屋へはいつて来た──

「ちよつと、ちよつと、あんたにお客さまですよ。井出さんとおつしやる立派な奥さんですよ」

「あら、そう……」

 と、彼女は、おどる胸をおさえながら、軽く答え、どうしようかと迷つた。

「こゝ片づけてお通しするわ。おばさん、ちよつと手伝つて……。困つたなあ」

 思案にあまるというように、彼女は、寝間着の帯をときはじめる。

 やつと、部屋が片づき、着物を着かえ、急いで髪をときつけて、ぬれ手ぬぐいで顔をごし〳〵こすりはじめた時、江原がそこへすがたをみせた。



「お客さんはアトリエへお通ししとくからね。あとで来たまえ。ぼくにもなんか話があるそうだ」

 江原の視線をさけながら、彼女は、

「えゝ」

 と、低く答えた。そして、ほつとしたように、身づくろいをていねいにしなおすと、すこし遅れてアトリエへはいつて行つた。

 井出夫人の張りのあるまぶたが、口元の微笑とともに彼女を待つていた。

「とつぜんで、びつくりなすつたでしよう。でも、どうしても、きようはお目にかゝりたいと思つて……」

「先日はほんとに失礼いたしました。あのまゝお手紙もさしあげないで、どんなにご心配をかけたかと思うと、きようはなんだか、わるくつて、わるくつて……」

「いゝえ、ね、いま江原さんからいろ〳〵お話を伺つて、どうやら事情がわかつたもんだから……あんとき、ちやんとおつしやればいゝのに……」

「言いそびれましたの、奥さま……。だつて、いろんなお話がたまつてたんですもの。わたし、もう、現在の自分のことを、そんなに考えなくなつてますの。きようとあしたとはなんにも関係がないような気がするんですもの……」

 井出夫人は、この自暴自棄にもちかい彼女の言葉を、たゞ笑つて受けながし、江原の方へ向きなおつた──

「どうでしよう。こういうことをおつしやるんですよ。でも、いゝお仕事のお手伝いができなさるんだから、そういうことに興味がおありになるんだつたら、ずつとお続けになるといゝわ」

 井出康子が、やさしく言つてきかすように、彼女へ眼をうつすと、

「あら、奥さま、わたし、ちつとも興味なんかないですわ。いくらかの好奇心と、お義理とで、承知しましたの。わたし、後悔してますの、ほんと、ほんと……」

 と、彼女は、泣きだしそうな顔になり、井出夫人の方へいすを引きよせる。

 江原久作は、じつと下を向いて、彼女の冷静を失つた態度を、それとなくうかゞつていたが、

「奥さん、ぼくからはつきり申しますが、北原君は、ぼくには絶対に必要なひとです。これは、ただ、仕事のうえというだけでありません……」

 こゝまで言うと、北原ミユキは、立ち上つて叫んだ──

「うそ、うそ……、このひとの言うことはうそです」



 北原ミユキは井出夫人のひざにすがつて、叫びつゞける──

「ねえ、奥さま、おねがいです……どうぞわたしを助けてくださいませ……この家から連れだして……いま、すぐに……。ねえ、奥さま、わたし、もう、こゝにじつとしていられません……。わたしは行くところがないんです……。どうなつても、わたしはかまいません……。でも……でも……こわいんです……。えゝ、こわいんですわ、なにもかも……。落ちるところへ落ちてゆくのはなんでもありません……ひと思いにそれができれば……。なまじつか、ちいさな望みが、眼の前にちらつくのがいけないんです……。奥さま、教えてください。どうしたらいゝんでしよう? 希望なんて、まつたくなくなすには、どうしたらいゝんでしよう……?」

 井出康子は、このせつない訴えを、わがことのように胸にうけて、つい涙ぐみ、それで声だけははげますように言つた──

「しつかりなさいよ。いまが大事なところよ。あたし、できるだけお力になるわ。そんなら、どんなわけがあるにしても、あなた、この家にいたくないの?」

 と、それにかぶせるように、大きくうなずいてみせて、

「えゝ、いたくないんです……。奥さま、お願いですから、どこかへ今すぐに連れて行つて……」

 江原が同意するも同意せぬもなかつた。

 井出康子は、ふろしき包みひとつ抱えた北原ミユキをともなつて、このアトリエを辞したのであるが、しばらく歩いてうしろをふりかえると、アトリエの入口に、江原が見送つたまゝのかたちで立ち、そこへあがる石段の下に、尾関昇がいつの間にか姿をあらわしていた。そして、男二人は、上と下とで、ちらと視線をかわし、どちらも口をきこうとせず、そのまゝ彼女らの影がみえなくなるまで、じつと立つていた。

「なんのことかさつぱりわからん」

 と、江原は、ひとり言のようにつぶやいた。

「このおれに、礼を言わんか、礼を……。さて、もう長居は無用だから、こつちもそろ〳〵引きあげるとしようかな。今度はお前が自分で引つ張つてくるといゝ。呼び戻しの役は一度でたくさんだ」

 尾関は、そこを立ち去りながら言つた。

 江原久作は、アトリエへもどると、北原ミユキの未完の裸体像を、大きな木づちでこな〴〵に叩きわつた。



愛の誕生




 北原ミユキは井出康子のふところに抱かれて、ようやく興奮からさめようとしていた。──わたしはもうだめだ、とりかえしのつかないことをしてしまつた、と、繰りかえし繰りかえし言うのを、井出夫人は、別に深くはたゞさず、およそのことを察して、たゞ、彼女の気持ちの落ちつくのを待つていた。

 モトムの学校の休みには、いつしよに散歩につれ出したり、場末の映画館ではあるが、面白そうな写真がかゝると、わざ〳〵誘つたりした。

「わたし、いつまでもこうしてはいられませんわ。奥さまのおそばにいると、なんだか安心してしまつて……」

 と、ある日、せんたくをいつしよにしながら、北原ミユキは康子に言つた。

「いまはそれでいゝのよ。でも、これからのことは、あなたもよつぽどお考えにならないと……」

「考えるつていつたつて、もう、考える力、わたしにはありませんわ」

「いく地がないことおつしやつちやだめよ。だから、あたしに考えろつて? そんなら、約束してちようだい──どんなことでもするつて……」

「するわ。えゝ、しますとも……」

 北原ミユキは、こゝで、急に快活な調子になる。

「ほんと? ほんとね?」

 と、康子は、笑いながらではあるが、真剣に念をおす。

「えゝ、ほんと。奥さまのおつしやることなら、わたし、それ以上のことないと思いますわ」

「そんなに信用されては困るけど、あたし、あなたのために、前から考えてることがあるの。もうずいぶん前からよ。あなたが宇品からお手紙をくだすつたわね。そのころからなの。今なら、それを思いきつて言つてもいゝと思うわ。いろんな行きがかりをいつさいすてゝ、あなた、結婚なさらない?」

 その声は、落ちついて、みじんも浮わついたところはなかつた。が、それだけに、北原ミユキには、意外であつた。

「結婚? わたしが? 奥さま、それ真面目なお話?」

 と、眼をみはるのを、

「真面目よ。大真面目よ。あたしは案外ふるい女だけど、結婚のことだけは、ありきたりの結婚を考えてはいないの。それはわかつてちようだいね。そうよ、あなたは、あなたのような方は、ほんとに生きる道をそこに求めなければうそだと思うわ」



 北原ミユキがせんたくの手をやすめずに、じつとうつむいたまゝ考えこんでいる様子なので、康子はさらに言葉をつゞけ──

「いつさいの行きがかりをすてるつていうことが、むろん条件よ。あなたにその決心がつきさえすればいゝの。いつかもお許したように、あなたが苦しんでいらつしやるほんとうの原因は、なに? もつともらしい理くつをつけないでさ。それがはつきりすれば、あとはなんでもないでしよう? 早く言えば、美しい夢が破れたつていうことじやないの? あなたのものだと思つてらしつたものが、そうでなかつたつていうだけの話よ。そのあとは、あなたがご自分を殺すか、生かすかよ。しつかりしてちようだい」

「…………」

「いま、あなたに必要なのは、あなたの苦しみをいつしよに苦しむひとじやなくつて、あなたに新しい希望と力とを与えてくれるひとだわ。そういうひと、いないかしら? あたしは、いると思うの。どこに? つておつしやれば、あたし、すぐにその人をこゝへ呼ぶわ」

 そう言つて、康子は、じつと北原ミユキの横顔をみつめていた。

「異性の間の愛情つていうようなもんを、へんに神聖に考えるのはおかしいと、あたしは思うの。そりや、一面から言えば、そういうところもあるにはあるわ。つまり、ある特別な相手だから、熱烈な、純粋な愛情が生まれることも事実よ、そりや。でも、そういう愛情は、どんな心にも生まれるもんじやないつていうことも、あたしは信じてゝよ。だから、あなたにしても、そうよ。失われたのは、たゞ、愛の目あてだけで、愛そのものじやないつて言えるわ。あたしは断言するけど、いまにきつと、あなたにふさわしい相手が現われて、あなたを夢中にさせるわ。それでいゝのよ。なんにもやましいことなんかないわ。だれにも遠慮はいらないことよ。あなたがご自分さえいつわつてらつしやらなければ……」

 たゝみかけるように、康子はしやべつた。しかし、北原ミユキは、まだこれという反応を示さず、石けんあわがとき〴〵顔へはねるのを、まくりあげた腕で無造作にふきとりながら、いつまでも押し黙つている。

「楽屋をおみせして興がさめちやいけないけど、ねえ、先生、あたし、はつきり言うわ。実は、市ノ瀬さんに、先生のこといろ〳〵お話したの。むろん、あたしがこのひとゝ見込んでよ。おふたりをならべてみて、こんな立派な一対、ないと思うんですもの……」



 その話は、そのとき、こうときまつたわけではないが、北原ミユキは、もう今では、康子の言うまゝに動くというふうであつた。──自分にはそんな資格はない、などと卑下しているところはあつたけれども、康子は、てんで耳をかそうとせず、たゞ、ふたりを正式に会わせる手順をあれこれと考えた。

 市ノ瀬牧人をまた呼びつけることだけは、彼女にもできなかつた。それはあまりに手厳しいやり方のようでもあり、また、この邸の現在の状態からいつても、落ちついてそういう話を進める場所でもなかつた。

 てん〴〵にいく部屋かを占領している三家族と、父の情婦であつたがために、相変らずこの家の支配者のように振る舞つている女と、その間にはさまつて、井出康子は、うちの者ともよその者ともつかぬ中途半端な存在になつていた。下の応接間も、同居人で共同に使うようにしたいという申込みを拒むことができず、そのうちに、町内にできた消費組合から、邸の一部を是非とも事務所に貸せと強く要求して来たのを、同居人が相談してことわつたのが原因で、毎日のように人が押しかけて来、そうなると彼女がいち〳〵応待しなければならぬというような有様であつた。

 そこで、彼女は、北原ミユキを説き伏せていつたん郷里の実家へ帰し、自分が市ノ瀬牧人を連れて、近くそこへ訪ねて行くという段取りをきめた。

 彼女は、それから早速、市ノ瀬牧人にあて、手紙を書いた。彼の返事は簡単だが、彼女の意志を十分にくんだものであつた。しかし、最後はこう結んであつた──

「──ともかくお言葉に従います。先方も多分、奥様のお心にそむかぬため、そういう決心をしたのだと思いますが、二人はいわば、共通の尊敬と信頼を第三者たる奥様にさゝげ、そこにひとつの希望をみいだそうとしているわけです。奥様にとつて、それはずいぶん大きなご負担でありましようし、小生にとつては、なによりも、冒険というほかないのです。しかし、率直に申して、若い小生には、冒険は必ずしも有がたくないわけではありません。自分が何事をなし得るかということは、つねに、小生の心を躍らせる疑問です。こんどのことは、決して浮わついた興味からでなく、自分の力をある意味で試すことにもなり、あわよくば、人間として、男として、満足に生きる自信を与えられるかも知れないと、ひそかに期待している次第です。小生は、なにものも失つたという気はしません。そう申すことをお許しくださいますか」



 井出康子が上諏訪駅へ着いたのは夜の十時すぎであつた。息子をひとり家へ残しておくことは気がかりであつたが、まさか今度は連れてくるわけにいかず、同居人の細君の一人に二三日の世話を頼んで、思いきつて出かけて来た。比較的こまぬというので、こんなに遅く着く汽車をえらんだのだが、駅には、ちやんと市ノ瀬牧人が迎えに出ていた。土地の農業会から紹介してくれたという宿屋も、ころあいの宿屋らしかつた。そこへ彼女を送り込み、市ノ瀬は、友人のところへ泊るといつて玄関から上りもせず、あすの朝九時ごろに来てもいゝかと念を押して、そのまゝ出て行つた。

 北原ミユキの実家は、湖水の西南岸を占める丘陵の中腹で、近ごろはトラックもめつたに通らず、上諏訪からは、二里ほどの道を歩くか、さもなければ特別に漁船を頼んで近くの岸まで運んでもらうかしなければならないという話であつた。

 翌朝、市ノ瀬牧人は、手まわしよくボートを用意して彼女を迎えに来た。行先の道順を詳しく書いたものをみせ、けさ地方事務所へ寄つて調べて来たのだという。

「まあ、そういう方がいてくだされば、どこへ行くのも安心ね」

 と、彼女は、つい口に出して言つた。

 水の上を渡る風は、もう秋らしくなつていた。

 市ノ瀬牧人はあざやかにオールをあやつつた。

「岸づたいじや面白うないで、ぐつと中心まで出てみましよう。それから、まつすぐに見当をつけて、陸へあがりましよう」

「あんまり遅くならない方がいゝわ」

「ひるまでに着けばいゝですよ。どうせ今日は待つてるわけなんでしよう?」

「あたし、酔うかもしれないわ」

「しずかにこぎますよ。これで、すこしはゆれてますか」

「ゆれてるわ、ずいぶん……」

「遠くをみてゝくだざい。あの朝日のあたつてる山のてつぺんをみてごらんなさい。あ、もう、あの山にも雪がくるなあ。冬は早いですよ、このへんは……下伊那よりは、ひと月は早いですよ」

「もう冬なの? いやだわ、夏がやつとすんだところだのに……」

「秋は、つておつしやるんでしよう? 春も秋もそりやあありますよ。たゞ、短いんです。あつと思う間にすぎるんです。ごらんなさい、あの鳥のむれを……あれが、渡り鳥でしよう? 秋が通りすぎるのは、あゝです。ちよつと、奥さん、水へ手をつけてみてください」

 康子は、言われるまゝに、片手をのばした。



「お湯ね、これは……」

「いつか温泉を調べに来た若い学者が、氷の割れ目から落ちて死んだのは、このへんですよ。たしか……。わしは、スキーはちつとばかりやりますが、スケートつてやつはきらいでね」

「運動はなんでもなさるの?」

「ひと通りやつたね。だが、わしは、どうも競争となると本気になれんたちだで……ひとりでやることなら、相当がんばるですよ」

「面白いたちね。負けるのがおいやなの?」

「それもあるかもしれんね。しかし、勝つた時の方がなおさみしいね。そんなこと言つてもだれも本気にせんから困るですがね」

「あたし、わかるような気がするわ。でも、スポーツつて、ほんとは、そんなもんじやないんでしよう?」

「どうだかしらんが、わしはトツプを切るつてことより、なんかしら、ほかのところに自分の本領があるつて気がして……。ほら、ほら、もつとまんなかにいないと、舟がかしぐですよ」

 井出康子は、あわてゝ舟べりからひじをはなした。彼女はさつきから、今日の首尾はどうであろうと考えていた。北原ミユキがどんな表情で自分たちを迎えるか? 両親はどこまでのことをのみこんでいるのか?

 時どきうしろを振り返り、まともに日を受けてまぶしそうな眼つきを、そのまゝこつちへ向ける市ノ瀬牧人の顔を、康子はしげ〳〵とながめていた。それは、なんの感情も示さず、たゞ無心に目的地を目ざして舟を進める男の顔であつたが、彼女は、だん〳〵その顔から眼をそらさないわけにいかなかつた。

 舟はもう岸に近づいていた。そこはアシの茂つた川口のようなところで、軒ばたに投げ網を干した家が一二軒、木立のなかにみえていた。

 市ノ瀬牧人は、こぐ手をゆるめた。ボートがアシのすき間をする〳〵と滑つて行くと、川岸がそのまゝ細い道になり、道ぞいに石を積んだ舟着き場ができていた。

 と、そこからいくらも離れていない、茶店風の家の薄暗い土間から、一人の若い女の姿があらわれた。北原ミユキである。

「ようこそ……。お待ちしてましたわ。たぶん舟でいらつしやるだろうと思つて……。だつて、市ノ瀬さんがごいつしよなら、それくらいのことはねえ……」

 と、彼女は、機敏にボートのふちへ手をかけて岸へ引き寄せる。

「あらまあ、合い図かなんかしてあるみたい……。でも、こゝからが大変なんでしよう」

 井出康子は、岸へ飛びうつりながら言つた。



 神社の境内をぬけ、新しく開墾したらしい麦畑の間をぬつて、道は急な登りになる。

 先登にたつて北原ミユキは、一番うしろの康子に話しかける。

「わたし、もう父とけんかしてしまいましたの」

「どうして?」

「わたしがあんまり勝手だつていうんですのよ。だから、勝手なのはわたしじやなくつて、家つていうもんがわたしとは縁がうすくなつたんだ、つて言つてやりましたの」

「そんなことおつしやつたら、お母さまがきつと悲しくお思いになるわ」

「母には感情つていうもんがないんですの。そんなはずないと思うには思うんですけど、まるでそうとしか思えませんわ」

 こんな話を聞いていたので、どんな家かと想像しながら、それでも相当の構えをした農家のしきいを、康子は何気ないふうでまたいだ。

 が、やはり彼女は、両親や、兄嫁というひとや、それらから、冷やかなものを感じ、市ノ瀬牧人を紹介するのにも気おくれがするほどであつた。父親のごときは、露骨に、彼に対して無関心を装い、取りつく島のない態度を示した。

 もうひるの時間ではあつたが、母親がひとこと、申しわけのように引きとめるのもきかず、康子は、市ノ瀬牧人を促して座をたつた。

「ね、奥さま、おわかりになつたでしよう。わざ〳〵いらしつていたゞいて、ほんとにすみません。でも、いちど、ほんとのところを見ておいていたゞいた方がいゝかしらと思つて……」

 と、送つて出て来た北原ミユキは、顔を伏せながら言つた。康子にばかりでなく、市ノ瀬にも聞かせている言葉らしかつた。

「ミユキさん」

 と、康子は、はじめて、彼女をこういう呼び方で呼んで、

「あたしは、なんにも、そのことでは言いたくないの。きよう、こうしてお宅へ伺つたことが、あなたがたのために、よかつたか、どうか、それもわからないわ。でも、そんなことより、なにより、お二人がこれから自由にお会いになれるきつかけをつくつたつていうことで、あたしは、満足よ。あの広い湖の上はあなた方のこれからの世界よ。あたしの役目はもうすんだの。お二人で、どこへでも舟をお着けなさい」

 微笑をふくんで言う康子の言葉を、若い二人は、それ〴〵の感慨をこめて聞いていた。

 やがて、ボートをつないである岸へくると、康子は、そこの茶店のえんをかりて弁当をつかおうと言い、北原ミユキは店のお神さんに頼んで、あり合わせの煮物を運ばせた。



 市ノ瀬牧人と北原ミユキとは、ほとんど直接に口をきこうとしなかつた。どつちもそれを避けているふうではないが、ふたりの間に交わされる話題は、つねに、康子を通じて、康子もいつしよにということになる。それはきわめて自然なようにも思われたが、康子にしてみれば、あきらかに、自分の存在がこの場合、不必要であり、邪魔なものに考えられた。しかし、それは、いまどうしようもないのである。

「あたし、午後の汽車で帰ろうかしら? これから何時のに間に合うでしよう?」

「今からだと、もう東京へ遅く着く汽車しかありませんわ。お疲れになるわ。ねえ、市ノ瀬さん」

「そう、辰野を四時いくらつていうのには、まだ間に合うけれど、東京へ十一時だで……」

「いゝわ。それでいゝわ。早く帰らないと困るの、あたし……。市ノ瀬さんは、一日や二日、ぶらぶらしてらしつていゝのね」

「ぶら〳〵はできんですが……」

「とにかく、そうしてちようだい。さ、行きましよう」

 ボートの中へは、いつの間にか、北原ミユキのはからいで、ざる一杯のシジミが東京へのおみやげといつて用意されていた。

 が、いよ〳〵、康子と市ノ瀬牧人を乗せらボートが岸をはなれようとするとき、康子はそこにしよんぼり立つている北原ミユキに、声をかけた。

「じや、いずれまた……東京へお遊びにいらつしやいね。それから、あす、市ノ瀬さんが、お迎いに来ますつて……朝……なん時ごろ、市ノ瀬さん?」

「…………」

 市ノ瀬牧人は、キョトンとして、康子の顔をみた。

「きつと、九時から十時までの間よ。さよなら……。しばらく、おとなしくしてなきやだめよ」

 ボートが岸をはなれようとした。

 と、いきなり、北原ミユキは、ひと足ふた足、走しり出るようにからだをのめらして、叫んだ──

「わたしも乗せてつて……わたしも行くわ……上諏訪まで……」

 半信半疑の面もちで、市ノ瀬牧人は応じた──

「帰りはどうするね?」

 すると、北原ミユキは、キッパリ答える──

「帰りは、またあんたに送つてもらう」

「はよう、乗りない!」

 康子は、声をたてゝ、笑つた。が、胸がぎゆつとつまつた。



 その日のことである。

 もう夕もやが水の上をはつていた。

 オールを静かに動かしている北原ミユキと、それに向い合つて、腕を組んでいる市ノ瀬牧人と、その間に、さつきから深い沈黙がつゞいている。

 ちらほらつきはじめた岸の火影に、北原ミユキは眼をうつすと、思いだしたように、彼女は言つた──

「フィルムが逆にまわつてるようなもんね。結果がもうきまつていて、原因へはいつて行くんだから、気持の整理がお互にできないんだわ。わたしも、あなたも、井出さんの奥さまのことは信じてるんだけれど、あんまり話が簡単すぎて……。それまでにわたし、もつと自分で解決しなければならない問題がたくさんあるし……。あなたが、たとえ、どんなにわたしの力になろうつて言つてくだすつても、それをいゝことにして、当座の苦しみをごまかすなんてこと、どうしてもできんの。あなたには、第一、まだ、わたしつていう女が、ようわかつとらんでしよう?」

「そんなことは、わしにはどうでもいゝんだ。はじめ井出の奥さんから話があつた時は、ちよつと意外に思つたし、実をいうと、それどころじやないつていう気持もあつたさ。しかし、よう考えてみると、わしがあんたを好きになれんという理由もほかにないでなあ。げんに、こうしてると、わしはやつぱり、仕合せになるんじやないかと思うよ。わしはあんたのために、なんかしらできるつていう自信がついただ」

「わたしがまだ浜島のことを想つていても?」

「うん、わしが奥さんのことをあきらめられんのとおなじだもの。事情はいくらか違つても、まあ、ふたりはおんなじ境遇と言つていゝよ。こんなことは普通は考えられんことさ。しかし、すこしもお互に不純な気持でなく、なにものからも強いられないで、そこへ飛びこんで行けるとしたら、これもひとつの人生の生き方だと思うよ。希望はやつぱり、育てなけりやならんのじやないかなあ」

「それで、わたし、すこしわかりかけて来たわ。一番わからなかつたところが、わかつて、うれしいわ。もうこれでいゝのかもしれんけれど、言つてしまわなければ、どうしても気になることがあるの。言わしてちようだいね?」

「あゝ、なんでも言いない」

「わたしねえ……いやだなあ、こんなこと……。でも、言うわ。わたし……ひとつだけ、条件をつけていゝ?」



「どういう条件かね?」

 と、ぼんやりしか見えぬ市ノ瀬牧人の顔に微笑がうかぶ。

「あのなあ、浜島のことだけどなあ、二十年たつたら、帰つてくるでしよう? そん時、もし、まだわたしのことを忘れずにいてさ、どうしてもいつしよになつてくれつて言つたとするのよ。わたしがどうなつていてもそれは許すつて言つたとするの。ずいぶん変なことだけれど、わたし、それを考えると、やつぱり決心がつかないの。わたしは、四十六よ。いゝお婆さんだわ。虫のいゝ話ね。でも、そういうことつて、ないとは限らないでしよう。あなた、わたしを自由にしてくださる?」

「…………」

 この突飛な条件には、市ノ瀬牧人もあきれたかたちであつたが、彼はおもむろに口を開いた──

「よくも考えたね、君は……。本来なら返事なんかしないところだが、面白いから、わしは、その条件を快諾するよ。よろしい、二十年後を見ようよ。君のロマンスの美しい結末を楽しみに、わしは、君の青春を大事にあずかるよ。しかし、言つとくがね。君の心配はまず無用だね。万が一、そういう事態が生じたとしても、君はもう、その時は完全にわしのもんだよ。わしが行けと言つても、君は行かないよ。行かないようにしてみせるよ」

「市ノ瀬さん……」

 と、北原ミユキは、想いをこめた調子で呼んだ。

「なんだ?」

「こゝへ来て! もつとそばへ来て!」

 市ノ瀬牧人は、腰をあげた。ボートが大きくゆれ、彼はからだの重心を巧みにとりながら、彼女に近づいた。

「なに?」

「立つてないで……」

「じや、こうか?」

 と、彼は、どつかとあぐらをかく。そして、両手を彼女の手に重ねる。

「もう一度、今のこと、言つて!」

「今のことつて、なに?」

「今のことよ。万が一……そんなことがあつたら、それから、どうなの?」

「二度は言わないよ」

「そんならいゝわ。わたし、もう、どうなつてもいゝわ。どうなつてもいゝつて、言つてるのよ」

 彼女は、眼をうすくとじて、その顔を、市ノ瀬牧人の方へ寄せかけようとした。が、ハッとわれに返つて、彼女は、大きくため息をついた。



 急に打ちしおれたように、北原ミユキは、首をうなだれて、水面に浮くもくずをながめていたが、やがて、

「もう一と月はやく、こうして、あなたとお会いしたかつたわ……。いつか、東京の奥さんのお宅でお会いしたわね。あの時分だと、まだよかつたんだけれど……」

「そりや、どういう意味な?」

「わたしのことで、奥さんから、もつとほかになにか特別なこと、聞いておいでん?」

「そんなこと言つたつて、わからんよ。わしが知つとらにやならんことは、みんな知つとるつもりだに」

「そうかしら? ほんと? そんなら、言つてもむだかも知れないけれど、やつぱり、わたしの口から言うわ。その方がせい〳〵するから……。でも、こわいの、わたし……」

「そんなら、言わなくつてもいゝよ」

「うゝん、言うわ。そのかわり、わたし、命がけよ。この手をしつかり握つて、ちようだい。そう、もつとしつかり……顔をみちやいや……」

 そう言いながら、彼女は、市ノ瀬牧人の胸へほおをおしつける。

「あのね、わたし、たつた一度、間違つたことしてしまつたの。それが、なんでもない相手なの」

 そこまで言うと、市ノ瀬牧人は、頭をふりながら、もう聞くまいとするように叫んだ──

「もういゝ、もういゝ、そんなことはどうだつていゝんだ。君の過去なんぞ、どうせわしとは関係のないことなんだ。きようからの君なんだ、わしに必要なのは……。ほら、そんなこと聞いたつて、わしの手にはこの通り力がはいつとるじやないか」

「ほんとだわ、ほんとだわ……あゝ、うれしい……あたし、泣いていゝ? 泣くわよ」

 じつさい、彼女は、眼にいつぱい涙をため、その涙をふこうともせずに、市ノ瀬牧人の頻を晴ればれと見あげる。涙はほおを伝つて流れるのだけれども、彼女の表情には、みじんも悲しみの影はなく、あんどと喜悦の色が、あでやかなまでの輝きとなつて、市ノ瀬牧人の胸をもえたゝせた。

 固く抱きあつた二人の影を、ほのかな水面の光のうえに投げて、こぐものゝないボートは、湖心の波にたゞよつている。

 空の一端からは黒い雲がわきあがつていた。

 雨がぽつり〳〵と落ちはじめた。

 峰を吹く風の音が、遠い汽笛の音にまじつて聞えていた。



道すゝまず




 二階の寝室の窓から、東南一帯のくぼ地が見渡せるのだが、そのあたりは軒並に焼けおちた黒焦げの柱や壁がまだ取り払われもせずにいる。とき〴〵、焼跡を片づけに手車をひいてくるものもあり、まばらにトタン張りの小屋が建つただけで、この真昼に、人ひとり通らぬ荒涼たるながめである。

 井出康子は、このながめを、毎日、飽かずながめ、遠景の森のうえをトビが舞つているような日には、この廃きよにうつる物の影をなつかしむように、小声で西洋の子守歌をうたつてみることもある。

 しかし、焼跡の連想は、彼女にとつても、おゝかた暗く、痛ましいものであることは当然であつた。そこには、まだ炎々とほのおがたち昇つているような錯覚に襲われることすらある。彼女は、そのほのおにつゝまれて消えうせた命と、こうして生きのびている人間の命とのつながりを考えてみる。夫の幻が浮ぶ。自分をしかりつけるような声も聞える。「戦争はなんのためにあつたのだ」と、その声は叫んでいるようだ。彼女は「そんなことは知らぬ」と応えたい衝動をどうすることもできない。しかし、彼女は、ひとりになつて、どれだけの道を歩いたか、と、ふり返つて考える。自分を置き去りにしていつた夫、ついて行けない道をぐん〳〵進んでいつた夫、その夫に背を向けて、自分はどこへ行こうとしているのか? 道はすこしもはかどつていないのである。

 モトムが学校から帰つて来た。

「お母さん、お手紙」

 二通の封書は、それ〴〵、北原ミユキと、市ノ瀬牧人とからであつた。

 北原ミユキの方から封を切る。


 ──ごぶさた申しあげました。あれから、きようこそはきようこそはと思いながら、つい、なにか不安な気持が残つていて、どうしてもペンをとる勇気が出ませんでした。いよ〳〵市ノ瀬の家へ参ることになりましたので、そのことをまず御報告申しあげます。別に改まつた式も挙げません。この月の十日に、H村へ落ちつき、平凡な主婦の修業にはいります。市ノ瀬の母は、わたくしの実母とちがい、まことに感情のこまやかな、いじらしいところのあるひとで、これはもうけものだと思つております。親孝行というものを、はじめてしてみたいなんて考えました。市ノ瀬のことは、ご想像にまかせます。わたくしは、奥様のお言葉を信じたことが、やはり間違つてはおりませんでした。これからのことは、いつさいわたくしの責任だという気がいたします。



 こゝで、井出康子はほつとした。

 北原ミユキの手紙は、そこまで読んだきりで、急いで市ノ瀬牧人の、同じ封筒を使つたその封をあける。


 ──先日はお疲れになつたことゝ思います。事は順調に進んだように思われます。いろ〳〵御配慮にあずかつたことについては、今、御礼を申上げるのが適当かと思います。両人は本月十日、正式に結婚いたすことに決めました。障がいと思われたことが、案外、そう思うだけのことであつたのには驚きました。しかし、小生の本心を申しあげれば、これはミユキにもその通りを言つてあるのですが、まだ〳〵しやく然とはしていません。生がい消すことのできない焼印のようなものが、小生の心の上に残つています。手を触れてはならぬ偶像としてではありましようけれども、夢にもたえず浮ぶ香高いすがたです。地上のものにたとえるすべのない一女性の微笑を、小生は他の如何なる女性にも見ることを欲しません。また、それは不可能なことです。ミユキは、小生の伴りよとしては、たしかに得がたい女性だと信じます。それにしても、それだけでは満足できない小生の願望をなんと申したらよいでしよう。性卑しくして比類なきものを識つた罪とでも申しましようか。赤石には、もう薄雪が見えます。稲も実のりました。小生がベンベンとこの土地にとどまつていることを、いつかおわらいになりましたが、風雲は、この小さな天地の間から起らぬとも限りません。余計なことは申しますまい。奥様とモトム君の将来に幸の来ることを祈ります。


 読み終つて、井出康子は、妙にいらだたしい気持になつた。あの純ぼくな青年にこういう手紙を書かせた自分という女は、いつたいどんな女なのか、と、彼女は、しばらく途方に暮れるおもいであつた。

 が、それから彼女は、気をとりなおして、北原ミユキの手紙の続きをよんだ。


 ──すべては夢のような気がいたします。自分で自分を縛るとか、自分で自分がよくわからぬ、とかいう意味をはつきり教えられました。男らしい男の大きなふところに抱かれることは、女にとつてこのうえもない仕合せだと、しみ〴〵感じております。愛し合うことは、愛し合つているつもりでいるのとは、たいへんな違いだということも、はじめてわかりました。けれど、市ノ瀬をまだわたくしは、自分ひとりのものにできない弱味を白状いたさなければなりません。奥様、これは市ノ瀬には内証にしておいてくださいませ。わたくしの我まゝがまたはじまりました。



 井出康子は、ちよつとまゆを寄せた。北原ミユキには、おくびにも出さずにおいたことが、市ノ瀬牧人の口から漏らされているらしいからであつた。しかし、つぎの瞬間には、康子は、もう、口もとに微笑をうかべていた。そこまでのことが明らかにされていて、それで北原ミユキの方で気をまわしていないことが、なによりも彼女には安心であつた。

 そこで、康子は、部屋のすみのテーブルに向つて、返事を書きはじめた。わざと同じ封筒にあて名を別々にした二通の手紙を入れておくつもりであつた。


 ミユキ様

 まず、おめでとう。もう一度言いますが、ほんとにおめでとう。

 わたしは、自分の手柄だともなんとも思いません。相会うべきものが会い、結ばるべきものが結ばれたのだと信じます。あなたこそ、よくも勇気をだしてくださいました。なみたいていの勇気ではないとお察しいたします。道が明らかに示されていたとは申すものゝ、それが自分の進むべき道だと信じ、その道の上にどんなほのおが燃えあがつていても、それが一たんはくゞるべき門だと信じることは、なか〳〵できないものです。あなたは、みごとによみがえるすべをごぞんじでした。あなたのいちばん美しいすがたは、そこで発揮されたにちがいありません。市ノ瀬さんは、それを決して見逃してはいらつしやらないはずです。市ノ瀬さんは、だれがなんと言おうと、あなたおひとりのものよ。大事にしておあげあそばせ。

康子


 市ノ瀬牧人様

 あつぱれと申しあげるよりほかございません。それから、わたくしにも、おめでとうと言わせてくださいませ。自分をまず〳〵知つたつもりの若い女人の運命を、どうぞあわれにおぼしめして、強がりを真におうけにならないように。そして、あなたも、単純なことを単純にお考えになり、奥様に通じないようなウワゴトをおつゝしみになるよう、わたくしから切に切にお願いいたします。

井出康子


 封筒へ入れてから、彼女はまた、この市ノ瀬牧人にあてた手紙をぬき出して読み返した。そして、いきなり、ずた〳〵に破つたあげく、新しい書簡せんへ、こう書きなおした──


 市ノ瀬牧人様

 あつく〳〵お礼を申しあげます。それから、わたくしにも、心からおめでとうを言わせてくださいませ。

井出康子



 二階の窓から焼跡をながめる井出康子の日課は、相かわらず続いていた。

 北原ミユキと市ノ瀬牧人との新しい生活のなかに、自分の占める場所はもうない、という気がした。それはその通りにちがいないが、そのことはまた、この若い二人の運命を自分の手が導き、決し、そして、その運命は必ずしも希望にのみ輝いてはいないという不安をうち消すものではなかつた。あらゆるいまわしい想像もできなくない。それらの想像は驚くばかり生き生きと彼女の胸に描きだされた。そうなると、もう、じつとしてはいられなかつた。日ましに彼女は憂うつになつた。

 が、こういう康子の心理状態は、別の原因も手伝つていたことはたしかで、第一に、例の、父の世話をしていた小夜という女が、最近、露骨に康子を邪魔もの扱いにしだしたことである。なるほど、康子は、東京へ移つてからまだ自分で収入の道を講じてもいなかつたし、昔から家にあつた道具類を小夜と相談のうえ売り売りしていたのであるが、その度ごとに、小夜は渋い顔をし、なんの証拠もないのに、これ〳〵は自分がだんな様からいたゞいたものだ、と言い張り、しまいには、「このお家だけは残しといてくださいますね」と、高飛車に談判をかける始末であつた。

「この家は別にあなたのものになつてるわけじやないでしよう?」

「あら、そうですか? あたくしはまた、そのつもりでおりましたのに……」

「名義は、ちやんと父の名になつてますよ」

「でも、お亡くなりになる前に、そうおつしやつたんですもの──お前にはなんにもやるものはないから、この屋敷でもつてね。へえ、名義はまだ変つておりませんか?」

「土屋さんにそう言つて調べておもらいなさい。いやねえ、どうも変だと思つたわ」

 土屋さんというのは、父が後事を託した弁護士である。

 こういうふん囲気のなかで、康子は、安閑としていられるはずはない。たえず追い立てられるようなその日を送つているのである。

 彼女は、別に今更、この家屋敷に未練があるわけではなく、最初からあてにしていた財産でないだけに、どうなつたところで、それはいゝとして、たゞ、すぐにもこの家を出て、また以前のように自活の道をたてるということが、なんとしてもおつくうなのである。それは自分ながら、不思議な変りようであつた。理由は、せんじつめれば、なにをする張合もなくなつた、ということであつた。



 時には、鏡の前で、妙にどんよりとくすんだ自分の顔色をみて、ギョツとすることがある。こんなことでどうするのかと、みずから気を引き立てるように、わざと念入りに化粧をして、強いておどけた笑顔を作りなどするのであるが、ひとみが一瞬、なまめいたつやをおびるかと思うと、それは、たちまちどこかへ消えて、あとには、以前よりもうつろな視線が宙をみつめている。心もからだも暗やみに落ちこんでいくような気持をもうくいとめるなんの力もない。はては、自暴自棄的な精神の発作とも思われる興奮から、すべての光明に向つてちよう笑を投げる。これまであれほど大切なものとしていた女のほこりが、他愛もない子供だましになる。「健康な」という言葉ほど愚かしいものはなくなる。そして、自分で自分にこう言う──

「そうとも……あたしは有閑婦人でも不良マダムでもいゝのよ。どうせその日のご飯にありつくために、なんかかんかするんじやないの。もつたいぶつたつておんなじだわ。職業戦線なんて、聞くだけでもぞつとするわ。女がせい伸びをして、人並にお金をとろうつていうのが今の流行なら、あたしは、どんなに流行おくれだつてかまわないわ。働かざるもの食うべからず。はい〳〵、食べなくつてもよろしゆうございます。そのかわり、働くひとをほんとにおなかいつぱい食べさせてあげてくださいね」

 彼女のほおには、いつのまにか涙が伝わつている。きのう、すぐ近所の路地の奥で、新聞配達の少年が空腹のために倒れていた、あの光景を想いだしたのである。彼女は、その話を聞くとすぐに、モトムのおやつにと思つてとつておいた手製のパンをもつて現場へ駆けつけてみた。すると、女をまじえた五六人が、たゞそれを取囲んでみているだけで、だれも、どうもしようとしないのである。少年は、彼女の差出すパンを、もう受けとることすらできなかつた。

 こういう味気ない瞬間が、ほとんど刻々に彼女をおそうようになつたある日、思いがけなく、北原ミユキがひよつこり訪ねて来た。

 応接間はあいにくふさがつているので、二階の居間兼寝室へ通す。

 向いあつてすわると、北原ミユキはもう呼吸をはずませて、言つた──

「わたし、もう、どうしていゝかわからなくなつて、お伺いしましたの」

 康子は、じつと北原ミユキの眼をみながら、

「おや、おや、もうなにか事件がおこつたの?」

 自分を強いて落ちつかせるために、彼女は軽く応じた。



「奥さまにはほんとに申しあげにくいことなんです。ですから、どんなに迷つたかしれませんわ」

 北原ミユキは、うつむき加減になり、うなじをかすかにふるわせながら、切りだした。

「お目にかゝつたらまつ先に、お礼を申しあげなけりやならないんですけれど、それは、この話を聞いていたゞいてからにしますわ。なんだかうまく言えそうもなくつて……。でも、どうしても一度お耳に入れておかないと、わたし、自分では気持の始末がつかないんですの。あの……市ノ瀬のことでなあ……奥さま、どうお思いになりますかしら? あのひとが奥さまを、たゞお慕い申しあげていたつていう程度でなく、もつと深い気持で……なんて申すんでしよう……まあ、早くいえばもう執のとりこみたいになつているのを、わたし、はじめて知つて……いえ、そりや、前もつて、自分からちよつとほのめかしたことはございますけれど、そんな程度とは、夢にも知りませんでしたの。奥さまは、それをご存じなかつたんでしようか?」

 キッと見あげる北原ミユキの視線を、康子は、まともに受けながら、やさしく、

「ミユキさん、あたしたちは女同士よ。細かい気持をお互に読みあいましようね。それであなたが、おいでになつた意味がよくわかつたわ。市ノ瀬さんの一方的のそういうお気持は、そりや、あたしにもわかつてゝよ。わからないはずないわ。わかつていればこそ、あたしには、決心がついたのよ。市ノ瀬さんがどういうおつもりで、そんなことを自分から告白しなすつたのか、そこのところは、あたしには想像がつかないけれど、考えようによつては、あなたの心の負担を軽くしようつていうおつもりかも知れないわ。そうじやない、きつと?」

 北原ミユキはしばらく考えていた。やがて、前よりはいくぶん落ちついた口調で、

「それにしても、わたしすこしがつかりしましたの。もつともつと市ノ瀬が純粋な気持でわたしに手を差しだしてくれたものと思つていましたわ。どんなに、わたし、あの人のひろい心にうたれたかしれませんわ。わたしは、あのひとが、なにもかも無条件でゆるしてくれたということ、たゞそれだけの感動で、あのひとの前にひざをついてしまつたんですの。奥さまのことを、そりや、ひとこと申すには申しました。しかし、それは、わたしをなぐさめるために、半分じようだんを言つてるんだと思いましたの。ところが、それは、じようだんではなかつたんです」



 北原ミユキは、思ひつめたように、くちびるをかんでいる。康子はたずねた──

「それで、もうあなたは、市ノ瀬さんのところへいらしつてるの?」

「えゝ、先月の十日から……」

「じや、そのほかのことは、うまく行つてるわけね?」

「うまくですか、どうですか……とにかく、夫婦みたいに暮してますわ」

 めずらしく、北原ミユキの口元に自ちよう的な微笑がうかぶ。

「おや、みたいとは変な言いかたね。すこし立ち入つたことを聞かしてちようだい。あなたの方から、せんのいいなずけの方のこと、なんにもおつしやらないようにしてらつしやる?」

「もちろん、なんにも言やしませんわ。市ノ瀬の方から、言いだすくらいですわ」

「それでなにもかもわかるじやないの。お二人の気持を早く落ちつくところへ落ちつかせたいと思つて市ノ瀬さんは苦労してらつしやるだけよ。お二人の過去の生活が、別々の歴史になつていてはいけないと思つてらつしやるのよ。そういうところは、女よりも男の方が潔癖だと思うわ。市ノ瀬さんは、それといつしよに、二十年さきのことを、今からはつきりさせておおきになりたいんだわ」

「そのことは、はじめに、条件をつけましたの。二十年、あるいはそれ以内に、あの人が帰つて来たら、わたしを自由にしてくれる約束なんですの」

 康子は、そこで、あきれたというふうをし、やがて、北原ミユキをにらむかつこうで、

「へえ、それ、市ノ瀬さん、承知なすつたの?」

「えゝ。そんなこと平気なんでしよう。でも、こうは言いましたわ──その時になつたら、もう君にはその自由の必要はなくなるだろう、つて……。わしには自信がある、ですつて……」

 康子は、こんどは、からだを折つて笑い、

「そういうお話なら、まあ、お茶でもいれましよう」

 と言いすてゝ座をたつた。

 つきのわるいガスの火をつけながら、彼女は、ひとり、さつきからの話の経過をもう一度繰りかえして考えてみた。

 単純なようで複雑な男のこゝろ、複雑なようで単純な女のこゝろが、そこでは典型的な対立を示しているように思えた。その二つの心のまじわる線がどこにあるかは別として、危いのは、北原ミユキでなく、市ノ瀬牧人の方だと、彼女は直感した。

 茶を運んで座にもどつた時、彼女は、北原ミユキをこのうえ悲しませてはならぬと心に誓つた。



真実の声




 津軽海峡の連絡船はもう三日欠航をつゞけていた。

 青森駅からさん橋までの通路は人に埋まり、町の旅館はどこもむろん満員であつた。もう初雪が降つたというこの地方の、十一月とは思えぬ夜風の冷たさに、破れガラスの窓の下でいく日も船を待つ人々の皮膚は血の気を失い、毛布を頭からかぶつてうずくまる旅なれた連中のすがたのみが、世にもぜいたくなものに思われた。

 ひとわたり、この人ごみの中をかきわけて、なにかを探すように歩いてみたが、井出康子はいまにも泣きだしそうな息子の顔をのぞきこみながら言つた──

「元気をだすのよ。男のくせにそんな顔してるとヒデちやんに笑われてよ」

 彼女はあてもなく、こゝへ来たわけではない。しかし、そうかといつて、たしかなあてがあるわけでもなかつた。もうこれ以上じつとしていられないという、切羽つまつた気持で、どこか遠い、それこそまるでちがつた世界へ飛びこんで行こうという気になり、子供のことを考えると、自分ひとりの身の始末だけではすまず、たま〳〵中園三郎のことが頭に浮び、いつそのこと、彼のところへ黙つて押しかけて行つてみようと、つい思いたつてしまつたのである。それは、じつさい、ふらふらとそういう気になつたのであつて、彼女自身としては、中園という男のどこかに心ひかれてそうなつたのか、または、彼の現在の生活──話に聞いただけではあるが、いわゆる無人島に流れついたと思えば間違いないというような原始的な風物と、そのなかの荒々しい生活──が、彼女の好奇心をそゝつたのか、そのへんのところはまだはつきりしないのであるが、ともかく、小さな息子の手を引いて、着のみ着のまゝといつてもよい女一人が、いきなりぶつかつて行く場所としては、なにかそこには、さほど無謀とも考えられない条件がそなわつていたのである。息子のモトムとあんなに別れを惜しんだ少女は、中園の娘、ヒデ子ではなかつたか。

 とはいうものゝ、彼女は、こゝまで来て、あらわにそれと言いたくない自分のひそかな期待、本心とみられることはまだ〳〵承服できないような中園に対する一種の興味を、もう否定はしなかつた。

 地獄の旅のような二日二晩の汽車の中で、彼女は、うつら〳〵考えた──市ノ瀬牧人の前からはどうしても姿をかくさなければならない。永久に……そうだ、永久にだ。自分というものをいまだれかの手にゆだねるとしたら……。彼女の胸はあやしく波立つた。



 待合室のストーブのまわりは、折り重なるように群集がひしめき合つていた。

 こゝでは、船の欠航がどういう原因なのかを人々は論じ合つている。濃霧のためだと言うものもあり、暴風の警戒が出たからだと主張するものもあつた。しかし、一人の厳めしい洋服姿の男が、薄笑いの中で言葉を濁しながら、近頃、機雷がおびたゞしく流れてくるからだと、断言したので、一同は、是も非もなく口をつぐんだ。

 井出康子は、待合室の一ぐうにやつと腰をおろす場所をみつけ、リュックと手提げカバンを下において、くた〳〵になつたからだを休めることにした。

「トムちやん、おなかすかない? すいたら、お握りあげるわ」

 握り飯を竹の皮の包みから一つ、つまみあげようとすると、いきなり、にゆつと黒ずんだ大きな手が左右から出た。思わず顔をあげると、浮浪者のような男が一人と、そのそばに、中年の身なりはさほどひどくもない女とが、それ〴〵片手をつき出しているのだとわかつた。二人とも口はきかない。差しだした手がすべてを語つているのである。隣りにいた若い女が、康子のひじをつゝいて、小声で教えた──

「だめですよ、こゝでそんなもの出しちや……」

 彼女はしかし、知らん顔はできなかつた。残り少い握り飯を一つずつ、その差しだされた手にのせた。

 終つたはずの戦争が、こゝにもまだ長く尾を引いているのに彼女はりつ然とした。

「どちらへ?」

 と、若い女は、しばらくして康子に声をかけた。

「あたくしたち? ワッカナイですの、北海道の果ですわ」

「わたしたち、樺太からやつと引揚げたばかりなんですけれど、また、行けるようになつたら行こうと思つて……」

「それで? 今からどこまでいらつしやるの?」

「どこでもいゝんです。すぐ渡れるようなところへ行つて、待つてますわ」

「お連れがおありになるの?」

「えゝ、わたしたち三人……」

 見ると、なるほど、そのそばに背中を丸めて居眠りをしている二人の女がいた。いづれも二十そこそこの小ぎれいな娘たちである。

「感心ね。おくには?」

「みんな違うん」

 と、あとはふくみ笑いでまぎらしてしまう。いずれはこびを売るたぐいの女たちであろうと、康子は察した。しかし、彼女の心はちつとも痛まなかつた。



 なんというおそれを知らぬ娘たちであろう。たとえそれが表面の自由さにしても、好むがまゝを振舞つて悔いないようにみえる彼女らの生活は、いつたい、どんな信念と希望とで支えられているのか? 康子は、薄暗い光のなかで、いま口をきいた相手の風ていを見直した。いくぶんはすさんだところもみえなくはない。しかし、娘らしい心づかいが田舎じみた衣しようのはし〴〵にもみえてあらい手織りじまのモンペがよく似合うのも、ほゝえましかつた。

「樺太はそんなにいゝところ?」

 と、康子が、こんどは口を切つた。

「ふん、ほかを知らずにそう思うのかも知れないけど、内地へ帰つてみて、あんまり居心地がよくないもんで……」

「今はことにね。北海道はよくご存じ?」

「わたしはあんまり知らないの。このひとがよく知つてるわ」

 といつて、隣りをゆり起そうとするので、

「いゝわ、いゝわ、折角やすんでらつしやるんだから……。ワッカナイつていえば、今ごろは雪が積つてるでしようね」

「そりやそうよ。もうこれからは、四月まで雪の中だわ。それに、十一月のガスと来たら……うゝむ、息がつまりそうだ」

 表情たつぷりに、霧につゝまれてむせかえる声をだしてみせる。

 隣りがこの時、ちよつとからだを動かしたので、すかさず、

「おい、起きなよ。この奥さんが北海道の話聞きたがつてるからさ」

 康子は、つりこまれて笑いながら、

「聞きたいんだけど、どこを聞いていゝかわからないわ。かいもく見当がつかないんだから……。こういうところ知つてなさる?」

 そこで、ハンドバッグから手帳をとりだし、中園三郎の住所のところを読みあげた。

「知らん、わたし」

 と、素ッ気なく、その娘はこたえた。

「あんた、それでも、ワッカナイは二年もいたくせに……」

「だつて、それ、ワッカナイじやないもの。そんな会社の名前、わッし聞いたことないわ」

「なんでもワッカナイからずつとはいるらしいのよ。どつちへだか……。海岸なんですつて……さびしい、さびしい……」

「海岸はどこだつてさびしいよ」

 と、その娘は、また、投げだすように言い、

「いつそ、ワッカナイまでのすか?」

「いつしよに行つてちようだいよ、ほんとに……」

 康子は、この道づれを失うまいと、せい〴〵親しみをこめた調子で誘つてみた。



 乗船の順番をとつておかなければならぬということをはじめて知つた康子は、もうぐつすり眠つているモトムをその女たちに頼み、重い足をひきずるようにして手続をしに行つた。ところが、番号札の数字は、たしか三航目にあたるらしく、道づれにと思つた女たちは、もうこの次の船には乗れる番号であつた。

「しかたがないわね。じや、あたしたちは、おあとからつていうわけ……? また、どこかでお目にかゝれるかも知れないわね」

 と、康子は、もう、あきらめていた。

 すると、さつき「ワッカナイまでのすか?」と言いはなつた女が、まばたきをいそがしくしながら、こういゝだした。

「はじめて、子供をつれて、ワッカナイまでの旅はつらいよ。なあ、キヌちやんとシメちやん、お前さんたち、いつしよにあとから来なよ。順番をこのひとたちに譲つてやつてさ。わしがワッカナイまで連れてつて、そのついでに、例のうちへみんなのことを話してみるよ。どうせいゝにきまつてるんだから、ひと足おくれて来たら、ちやんと、お茶わかして待つてゝあげら。それがいゝだろう?」

 キヌちやんとシメちやんは、顔を見合わした。

「それもいゝね」

 と、キヌちやんが言つた。

「たしかなら、だ、それも……」

 と、シメちやんがつけたした。

「そうきまれば、わッしたちや、こゝでぶる〳〵ふるえてなくつてもいゝんだ。なん時だろう」

「時計はだあれも持つてない」

 と、シメちやんが応じた。康子はあやしい腕時計をみながら、十時二十分ごろだと言つた。

「そんなら、ヨシ子さん、お頼みします。あした、また来てみら。お大事に、奥さん……」

 二人の女たちは、番号札を康子の分と取りかえて、身軽にたちあがり、ふろしき包みを小わきに抱えたまゝ、さつさと行つてしまつた。

「ほんとにいゝかしら? せつかく……」

 と、康子は、あまりのことに口もきけないほどであつた。

「あの二人は、どこへ行くにもはなれたことはないんだから、あれで満足なのよ。わたしは、すこし別なの。そのかわり、わたしの方が、どこでもよく知つてるの。青森から北なら、たいがいのところに友達がいるの。十四の時から方々渡り歩いてるから……あゝ、ねむい……」

 ヨシ子さんと呼ばれた、この小柄な、しかし、一番年かさらしい女は、もう眼を閉じていた。



 船の半日、汽車のまる一日は、しつかりした道案内のおかげで、なんの気づかいもなく、もの珍しい沿道の風物に眼を楽しませる余裕さえできて、井出康子は、食糧の心細きをのぞけば、行く先の不安などは、もう消しとんでしまつていた。

 が、函館から札幌までは、ほとんど立ちどおしで、ゆつくり座席のとれたのは旭川から先であつたが、さて、向い合つた女二人の話題は、相変らず当りさわりのない範囲を出なかつた。向うからも立ち入つたことは聞こうとせず、こつちも質問の限度を心得ているから、鉄道線路にクマが出るというのはほんとか、とか、南樺太にもロシヤの女はたくさんいるか、とか、そんな問いに、相手は、別段力を入れて返事をするわけではなく、それだけに、また、康子たちに対して、ひと通りの好奇心はもつているらしいが、それをどういうかたちかで現わすでもなく、細川ヨシ子は、たゞ、行きずりに相会うた女同士の、ほんのなんでもない心やりを示すにすぎぬというふうで、きわめて事もなげに、この親子をあしらつていた。しかし、なにかにつけて、ふとみせる真実のすがたは、康子の心を深く動かした。

「ヨシ子さんておつしやつたわね。ご姓は?」

「え?」

「なにヨシ子つておつしやるの?」

「あゝ、そんなもの、どうだつていゝのよ。わたしなんか、たゞ、ヨシ子でいゝのよ。どこのヨシ子だつておんなじよ」

「そうね、女はどうせすぐに姓なんか変えるんですものね。あたし、井出康子、お聞きにならないけど、自己紹介しとくわ。あつちへ行つたら、中園つていう家に多分落ちつくでしようけれど、なんかのことで、もし思いだしたら、訪ねてちようだいね。北洋海産合資会社の中園方、いゝこと……? こんなこというと変だけど、あたし、一生、あなたのこと忘れられないわ。今までに知つたど人な女のひとよりも、あなたは、美しいわ。いゝえ、そんな、顔だとか、姿だとかいうことでなく……それ、ほんと……信じてちようだい……」

 康子は、自分ながらいくぶん感傷的になつていることは気がついていたけれども、それだけのことは、どうしても言わずにいられなかつた。

 汽車は朝のさわやかな日を窓から受けていた。白一色の平野は、紫にかすむ遠山のながめを澄んだ空の中に浮かせ、葉の落ちつくしたポプラのしなやかなこずえが、刷毛でぼかしたようなすがたで、一列に立ちならんでいた。



 海岸線に近づくと、なるほど、太陽の光りは乳色の霧のなかに吸いこまれて、沿道の木立も、家も、牧場のさくも、家畜の群れも、いずれも、輪郭のぼやけた影絵のようなものになつていた。それは、いかにも現実ばなれのした夢幻的な風景として康子の眼にうつるのだけれども、もうこゝからワッカナイは遠くないと聞かされ、急に、これは大変なところへ来てしまつたという気がした。

 どこかで聞いてあげるからという細川ヨシ子の言葉に力を得て、康子はしびれたような腰をもちあげて、やつと、プラットフォームに降りた。そこは、もう、不思議な気体のうず、ガラスの粉をまきちらしたような空間の連続であつた。

 案内を見失わないように、康子は、モトムを急きたてながら歩いた。

 駅前の交番で、細川ヨシ子は、これ〳〵とたずねてみたが、いつこう要領を得ぬ。彼女は、康子に眼くばせをして、一軒の旅館らしい建物のなかへはいつて行つた。帳場にいる男が、しばらく考えて、

「わかつた。この春、認可をとつたボロ会社だ。こつちへ出張所をこさえるつていう話だつたが、まだできた様子ば聞かんなあ。あんたたち、その会社を訪ねるのかね。そいつは、ことだ」

 と、ちよつと大げさに言つてみせて、

「いや、あすの朝、ひよつとしたらトラックの便がありやせんかな。聞いてみてあげましようか?」

「あちらに電話はございませんのでしようね」

 康子は、念のためにたずねた。

「電話どころか、電燈もまだつかんそうですよ。第一、人の住めるようなところじやないや」

 それには、康子は驚かなかつた。人が住めようと住めまいと、現に、住んでいるのである。

 トラックは当分出ないという返事であつた。

 今から歩いて行つて、どれくらいかゝるかしらと、彼女は思つた。たしかワッカナイから三十キロと聞いている。一時間に三キロとして十時間……。道を迷わないとして、たつぷり一日は歩きとおしだ。あすの朝にするよりしかたがない。そう決心をして、細川ヨシ子の方を振りかえると、もうそこには姿はみえない。

 店の外へ出てみたが、それはむだであつた。通り一面にたちこめている霧が、すべてをおしつゝんで、人の顔などは見分けがつかぬ。

 細川ヨシ子は、いつの間にか、黙つて、この霧のなかへ消えてしまつたのである。



 トラックの便は当分ないということがわかり、彼女は、それなら道順を詳しく調べて、いつそ歩いて行くよりほかはないと覚悟をきめた。ところが、帳場で新聞を読んでいた一人の男が、本局から毎朝郵便車がW町へかよつているから、それに頼めば途中まで運んでもらえるのだが、と言う。

「途中までつて申しますと、あとどれくらい歩けばよろしいんでしよう?」

「さあ、少しもはつきりしたことは知らんが、なにしろ、あつちの方角に違いないから……」

 それで、その日はこの旅館に一泊することにし、翌朝、定刻の五時よりもすこし早い目に郵便局の前へ行つてみる。夜はまだ明けきつていない。

 荷物を提げた五、六人の男女が、同じく郵便車をあてにして、こゝへ集つていた。なかに、このへんの地理に明るいものがいて、その会社のあるところは、街道から二里もはずれた、一番へんぴな海岸で、道を迷わぬようにせぬと、どこへ行くかわからぬと言うのである。

 車はやがて動きだした。

 人家がだん〳〵まばらになり、街道はまつすぐに北に走つていた。

 断がいの上から、はるかに水平線がみえはじめる。それは一条の微光にすぎなかつたけれども、しだいに空と海との鮮明な境界となり、空には金色の雲がまばゆくゆらいで、やがて、とてつもなく大きな太陽がじり〳〵と浮びあがつた。

 一たん海に近づいた道は、いつのまにか海から遠ざかつていた。そして、たまには畑らしいものも眼につくけれど、おゝかたは、カラ松と白カバの林を縫うようにして、その道はどこまでも続いていた。

 やがて、こゝで車を降りて、右へはいるのだと言われ、康子はハッとしてあたりを見まわした。なるほど、一軒の古びた小屋が大きく林を切り開いた、その道端に建つていて、そこから一筋の通がなゝめ右手の方へ通じている。

 彼女は、この、人つ気のない、ぼうばくとした自然のなかへ子供と二人つきり取残されたとき、もう心細さを通りこして、泣くにも泣けぬような絶望感におそわれた。

 が、彼女は、気をとりなおして、その小屋の中をのぞいてみた。だれも住んでいる模様はない。たき火をしたらしい跡はあるけれども、たゞそれだけのことである。

「さ、トムちやん、これから歩くのよ。海が見えるまで頑張りましよう。そしたら、もうじきだから、ね」

 そう言つて、歩きだしはしたが、林は間もなくつきて、はるかに、小高い砂丘の連らなつている風景が眼にはいつた。



 その砂丘地帯にたどりつくまでには、小一時間もかゝつた。そして、道はわだちのあとをかすかに残しただけとなり、それも、ところによつて立ち枯れの草の葉のなかに埋もれてしまつていた。

 康子は、この砂丘が海岸まで続いているものとは察したけれども、それが、どんな広い地域を占めているのかは想像がつかなかつた。おそらく、あとまだ十キロは歩かなければ目的の場所へは行き着くまいという計算である。そう考えると、やつぱり、急いで道を迷うことが一番おそろしいのである。

 ゆつくり弁当をつかうことにした。

 モトムは、もう顔をしかめていた。

 と、その頃から、急に冷い風が吹きだした。すると、海の方角にあたつて、白煙のようなものが立ちのぼり、その白煙の巨大な幕が、しだいに陸をめがけてはいあがつてくる。

「来た、来た……」

 と、彼女は、つい口にだして言つた。そして、無意識に顔を伏せ、モトムのからだを自分の胸の下へ抱きよせて、しばらく、息を殺していた。モトムの手は彼女の肩のあたりでふるえているようであつたが、彼女は、自分のからだがふるえているのかもしれぬと思い、

「こわいことなんかないのよ。ほら、きのうだつて、この通りだつたじやないの」

 しかし、きのうの様子とは、まるで違つていた。第一に、それは襲いかゝるような勢いで彼女たちを取りかこみ、たちまち、動きのとれぬものにした。汽笛の音がどこかで底鳴りのように聞えるのだけれども、海の方向さえ、もう見当がつかぬ。もし風がとき〴〵吹かなければ、足もとの道も見えないくらいであつた。

 康子はいつまでも、こうしてはいられぬと思い、一歩、一歩、用意深く前へ進んだ。ときたま風向きによつて、眼の前にぱッと視界がひらける瞬間がある。彼女はすかさず足をはやめ、ほつとひと息つくのである。が、こういうことを繰りかえしているうちに、疲れは刻々に重なつて、からだが言うことをきかなくなる。

 親子はついに、折り重つて、砂地の斜面の上に倒れてしまう……。

 どれくらい時間がたつたか、康子は、ふと眼をさます。モトムは彼女の腕のなかですや〳〵眠つている。手足は冷えきつて無感覚になつているのだけれども、背中には日光の直射が感じられる。霧はもうなかばはれていた。

 顔をしずかにあげると、海がすぐ眼の前に見える。波打ちぎわの白い線が遠く続いているかなたの空に、あざやかなにじがうかんでいる。

 そのにじほのおの下に、まださめきらぬ彼女の夢の名残りのように、ひとならびのバラックの屋根が、ぼんやりかすんで見えた。

底本:「岸田國士全集16」岩波書店

   1991(平成3)年99日発行

底本の親本:「岸田國士長編小説集第三巻」八雲書店

   1947(昭和22)年1115日発行

初出:「時事新報」

   1944(昭和19)年11日~7日、19日~225日、31日~35日、37日~38日、311日~315日、318日~321日、325日、327日~329日、41日~43日、47日~411日、415日~419日、424日~54日、56日~59日、513日~517日、520日、522日~524日、527日~531日、63日~68日、612日~617日、619日~622日、624日~626日、628

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2012年1222日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。