双面神
岸田國士



祝賀会を繞つて




 無理やりに父の隣に坐らされた千種ちぐさは、広い食堂の一隅に設けられた婦人連の席へ、僅かに晴れがましい微笑を投げてゐた。

 芝公園の深い木立こだちの中の、古風な、しかし落ちついた西洋料理店である。

 羊頭塾ようとうじゆく三十周年記念祝賀会御席といふ貼紙が、まだ眼に残つてゐる。二百に近い顔が並んでゐるが、三分の二以上は、まるつきり見覚えのない顔である。それが何れも自分の生れる前に、或はまだ自分が小さかつた頃、父の教へを受けた人々であらうと思ふと、彼女は、勿体らしく片肱を卓子につきなどしてゐる中年過ぎの紳士たちにも軽い親しみを感じ出した。

 アイスクリームが運ばれる時分、満場の拍手に迎へられて、海軍将校の制服を著た男が起ち上つた。

「私は鬼頭令門きとうれいもんと申すものであります。僭越ながら、発起人を代表いたしまして、ご挨拶を申上げます。今夕の会合は、趣意書にもしたためました通り、わが羊頭塾創始以来、満三十年の輝やかしい歴史を記念し、併せて、われ等の恩師、伴直人ばんなほんど先生の高徳を讃へる目的をもつて開かれたのであります。従つて、発起人も糸瓜へちまもありません。場所と時刻とを打ち合せるのが、私共の任務でありました。晩春、空晴れて気爽やかな夜とは申しながら、かくも盛大な集会となり得ました結果については、誰も発起人の手柄であるなどとは申しますまい。伴先生は、ご承知の通り、昭和三年の秋令閨を失はれ、われ等にとつても懐しい「小母さん」のお姿を、今夜、先生の傍に見ることの出来ないのは誠に遺憾に堪へません。が、その代り、目下先生の膝下に於て、その寵愛を一身に集めてをられる令嬢千種ちぐささんのご臨席を乞ひました。ついでながら先生のご家庭の近況をご報告申上げておきます。ええ、長男千尋ちひろ君は九州帝大法学部ご卒業後、福岡県県庁に奉職中、長女千登世ちとせさんは、神戸青木商会の大番頭……モトイ……営業部長久野信次郎ひさのしんじらう君にして、既に一男一女を挙げられ……次男千里ちさと君は、三年前美術研究のため仏国巴里に渡り、今なほ刻苦精励を続けられてゐます。ええ、三男千久馬ちくま君は、今日は風邪気味で出て来られませんでしたが、東洋殖民大学本科在学中、次女千種さんは……」

 と、そこまで述べ立てた時、

「もう、そのへんでよからう」

 主賓席から、唸るやうな声がして、一同の視線がそつちへ向けられた。

 千種も、さつきから、妙にくすぐつたく、時々、父の横顔を盗み見ようとしたが、ほてつてゐる顔をあげる勇気はなかつた。しかし、出しぬけに父のしやがれ声が耳へ飛び込んで来たので、驚いてあたりを見まはした。

 なるほど、弁士鬼頭海軍少佐の鼻の頭には膏汗あぶらあせが溜り、聴衆の唇はそれぞれ、笑ひたさをこらへてゐた。

 鬼頭少佐は、頭に手をあてたまま、父の方へ眼顔で「もう暫く……」と許しを請うてゐる。

 誰かが、「続けろ、続けろ」と叫んだ。

 千種は、ひとりでに眉がぴりぴりと動くのを感じたが、すべてを成行きにまかせるよりほかなかつた。彼女は、そこで、以前よりも早口に、そして、申訳のやうに、自分以下三人の同胞きやうだいの名が呼び上げられるのを、ぢつと眼をつぶつて聞いてゐた。



 やがて、指名された人々が、それぞれの流儀で、テーブル・スピーチを始めた。平凡に旧恩を謝するもの、露骨に自己宣伝をするもの、しんみりと過去の思ひ出を語るもの、なかには「伴先生こそ、今日われわれが求めるところの文部大臣である」などと変なお世辞を振り撒くものもあつた。

 伴直人は、眼鏡を掛けたり外したりして、この長い祝賀の辞を受けてゐたが、たうとう、際限なしと見てか、司会者の鬼頭少佐を手招きして、スピーチを打ち切らした。

「千種、お前も起て」

 さう云つて、彼は「山羊」と綽名をつけられてゐるその頤髭あごひげを、馴れた手つきで、さつとしごいた。

「さきほど浦川子爵のお言葉でありますが、只今の私にとりまして、最も必要なものは、なるほど休息でありませう。しかしながら、思へば、総てこれ足らざるもののみであります。ただ十分と思はれるのは、子供の数だけで、末子を千足と命名いたしました心境をお察し願ひます」

 そこで、どツと笑声が起り、眠気から覚めたやうな顔も二つ三つ見えた。

「今夜は、皆さんから、いろいろとお褒めに預りましたが、私は何ひとつこれといふ専門をもちませんから、博士号などは戴きたくもなし、学校といふものには懲り懲りしてをりますから、文部大臣の儀は平にご辞退いたします。ただ、私が、たとひ初歩の初歩にしろ、国、漢、英、数を一手に引受けて、皆さんの受験にお力を藉したと言ふことは、今日顧みて、憮然たらざるを得ません。羊頭を掲ぐるもの、必ずしも狗肉を売らずと自称いたしました手前、独学をもつて数学の高等教員免許状まで獲得いたしましたことは、実にお笑ひ草であります。さて、私も疲れました。子供も大きくなり、親の手をそれぞれ離れかけてをります。今夕のお招きは、私はじめ、伴一家のものどもに取りまして、誠に感銘深いものであります。皆さんの厚い友情に対しまして、不肖直人、娘千種両人より茲に深甚なる謝意を表します」

 再び湧き上る拍手の前で、伴直人は、慌てて鼻を啜つた。

 千種も、ぐツと胸がつまり、眼頭に涙が溜つて来た。これは困つたと思ひ、そつとハンカチを出して、顔をそむけると一緒に、眼を押へた。が、やがて、座が鎮まると、今度は、誰かの音頭で、「羊頭塾万歳!」が叫ばれた。彼女もふるへる手で杯を取りあげたが、もうどうにも我慢ができなかつた。

「お父様、あたし、ちよつと……」

 と、口の中で呟いたまま、そつと座を外して食堂を抜け出した。

 廊下で、一つ時戸迷とまどひした挙句、やつとトイレットを見つけてドアを押した。そして、鏡の前に立つと自分の泣顔に「イ、イ」をしてみせた。

 彼女は、今夜の会を不思議な会だと思つた。父の半生を識つてゐるものなら、凡そ儀式張つたこと、凡そお座なりなことの嫌ひな彼が、こんな席で人並に感動した風を見せるといふのは、まつたく思ひも寄らないことである。

 ──やつぱり、うれしかつたんだわ……。

 さう思ふと、この祝賀会を開くについて、一生懸命父を説き伏せようとする鬼頭はじめ、四五人の人達の好意を、父が頑固に拒みつづけたのも無駄なことのやうに思はれた。最後に、それでも、彼は条件づきで折れて出たのである。



 その条件といふのは、ほかでもない。娘の千種も一緒にんでくれといふことであつた。

 幹事に異議のあらう筈はなかつた。

 彼女は、そのために、新しく振袖をこしらへ、当日は、自分の知らないうちに、美容術師が予約されてゐた。

「大変だわ、お嫁に行くみたい……」

 父の気持も察しられないではないけれど、それだけに、自分本位の何かになりさうで、内心気おくれがしないでもなかつた。

 が、それにしても、美しく着飾つた自分の姿を、今あらためてこの明るい鏡の中に映してみた時、彼女の顔には、かすかな誇りの色があらはれたとしても、それは致し方がない。

 二十三歳の豊かな肉体が、危ふく純潔さを支へて、目近まぢかな夢を追つてゐるのである。

「おや、もう笑つてるぢやないの」

 後ろを振り向くと、これは地味な洋装の新島にひじまその子が、何時の間にかそこに立つてゐた。

「あら、泣いたとこ、見たの?」

「見たどころぢやないわ。素敵だつた、たしかに……」

「まあ、どうして?」

「あそこは、ああ行くとこよ。感激の場面だもの」

「人をッ……」

 と、千種は、はじめてひやかされてゐることに気づき、相手の背中を、大きくぶつ真似をした。長い袖が翻つて、そのまま、彼女らは抱き合つた。

「いい親爺だな。うちのパパなんか、なつちやねえや

 園子は、もう、コンパクトを出して、頬を叩いてゐた。

「一緒に遊べないからでせう……あんなにお忙しくつちや……」

「外では遊んでて、家へ帰ると忙しい忙しいつて吹聴するのさ。昨夕ゆふべもママと喧嘩した話、したげようか」

「いいわよ、それより、今夜はずつとうちへ帰るの?」

「まだ九時だらう。戯談ぢやない。これから新宿へ廻らなくつちや……」

「新宿へ廻つて、何すんの?」

「人を待たしたるんだよ」

「今時分?」

「女のアミだから心配しなさんな」

「なほ心配ぢやないの」

いてるな」

「そんなんぢやないけど、近頃、あたしのところへちつとも来ないんだもの。お友達がだんだんなくなつて、淋しいわ」

「よし、よし、たまには誘つてやるよ。その代り、旧式のお嬢さんぢや駄目だよ。近頃面白いグループを作つたのさ。男も女もはいつてるんだけどね、まあ、何れその話はゆつくりするよ」

 新島園子といふのは、現に、政界でも羽振りがいいと云はれてゐる貴族院議員伯爵新島則之にひじまのりゆきの娘で、女学校から某英学塾にはひるとき、一年半ばかり伴直人の個人教授を受けたことがあるのである。千種は、また、その同じ英学塾で、一級下であつたといふやうな関係で、二人の交渉は特別に密接であつた。ところが、園子は、途中から急にある思想的の影響を受けて、学校でも注意人物として取扱はれ、やがて、卒業を目の前にして、自身から出て来なくなつた。それでも、千種との友情は変らなかつた。別に、同性愛とかなんとかいふ種類のものでないことは明らかだが、そんな風なポーズを楽しむぐらゐな芝居気は、どちらにもあつて、お互に生活の半分は全く隠されてゐたにも拘はらず、残りの半分だけは、平気で暴露し合つてゐた。



「もう済んだらしいわ。あつちへ行かなけやわるいかしら……」

「あたりまへよ」

 園子にき立てられて千種は座に戻ると、丁度、鬼頭少佐が閉会の辞を述べてゐた。

「では、今晩はこれで解散いたします。なほこの祝賀会の延長とも見るべき一種の計画について、目下発起人の間で相談が進められてをります。何れ、近々皆様のご賛同を得て、その実現を期したいと存じます。この点、予めお含み置き下さるやうお願ひいたします。終りッ!」

 父の後ろについて、千種は控室の方へ歩を運んだが、いちいち出くはす視線を、まぶしさうに避けなければならぬ自分を寧ろみじめに思つた。こんな恰好さへして来なければ、もつと大胆に振舞へるのにといふ気がして、女のおしやれが一体なんの役に立つのかしらとわれながら疑ひたくなる。

 自分の美しさを信じ、人前で得意然と気取つてみせる女が果して軽蔑に値するか、それとも、自分を美しいと信じながら、わざとさういふ風は見せず、肩をすぼめてはにかみを装ふ女が好もしいか、千種は、ふと自分が後者の部類に属するのではないかと気づき、努めて自然であらうと心掛けた。

「かういふ会は近頃珍しいね」

 彼女を挟んで、二人の男が向ひ合つた。

「千イ坊の盛装も珍しいよ」

 と、一方の男がこたへた。

 顔をみると、それは深水高六ふかみかうろくで、これはある専門学校の講師である。学生時代からずつと出入りをしてゐる、言はば家庭の常連の一人だ。帝大の史学科を出た秀才であり、自称江戸ツ子であり、映画俳優的美男といふ定評でもあつた。

 ついでに、その相手の方へ眼をやると、これは、記憶の底にかすかにその面影が残つてゐるだけで、名前も急に思ひ出せないといふ人物であつた。年は三十に近いであらう。しかし、見たところ、誰よりも書生つぽらしい風体で、カラアの汚れが目立ち、服は背広でも滑稽なくらゐだぶだぶで、靴は何時磨いたのかわからない。

 そこへ、いきなり、

「僕、覚えてますか?」

 と、問ひかけられ、彼女は深水高六とその男との顔を見比べながら、なんとか連絡をつけようとあせつた。

 やや厚く膨んだ唇に、皮肉とも図々しさとも取れる微笑が浮び、太い眉が瞼と一緒に動いて、その度に、眼鏡の奥で鋭い瞳が光つた。

「お顔は覚えてますけど……まあ、あたし、いやだわ……」

「名前は忘れましたね。云はうか、どうしよう……?」

 その眼を反らして、深水の方へ問ひかけた、その瞬間、彼女は殆ど無意識に、

神谷かみやさん……」

 と、叫んだ。

「ええと、なん年ぶりかなあ」

 その神谷は、晴れやかに天井を仰いだ。

「あれからずつと顔を見せないんだとすると、十年以上になるぜ」

 深水が口を挟んだ。

「この令嬢はまだ小学生だつたよ。千久馬先生とよく喧嘩してたな」

 兄の名を云はれたので、千種は、あの時代のことをまざまざと思ひ出した。それと同時に、耳朶みみたぶがやけに熱くなるのを感じた。──さうだ、あの人だわ……子供のくせに、あたしにあんな変なこと云つたのは……。



 彼女が男といふものを怖いものと思ひ出したのは、それからであつた。そして、それが二十頃まで続いたやうに思ふ。兄弟は別として、苟くも他所よその男とは口をくのさへ憚るやうな気持が何処かにあつて、そのために、つい最近まで結婚の話など身ぶるいするほどいやであつた。それが、どうしてこんなに平気で男たちと向ひ合つてゐられるやうになつたのか、自分でも近頃の変り方に驚くくらゐである。

 父の直人は、ボーイの汲んで出す番茶を受け取りながら、傍らの椅子を引寄せて坐つた。彼女は、何時の間にか自分たちの周囲を取囲んでゐる人々の中に、神谷の姿を見失つてゐた。

「車の用意ができましたから、どうぞ……」

 鬼頭少佐が、その時、二人の前に立つた。

「いや、電車で帰るよ」

 父は必ずさういふのが癖であつた。しかし結局、自動車で送られることになり、同じ方面といふので、深水が一緒に乗り込んだ。

 暗い公園の道を、静かに車は走つた。大分酔ひが廻つたらしく、父の直人はうつらうつら居眠りをはじめてゐる。古い顔馴染ではあるが、若い男とこんな風に臂を接して並ぶといふ経験は流石に彼女にはなく、自分がうつかり真ん中に坐つたことを後悔した。

「神戸の姉さんから、お便りありますか」

 深水がまづ沈黙を破つて問ひかけた。

「ええ、近いうちに出て来るさうですわ。子供を連れて来るんですつて……。家が賑やかになりますわ」

「ぢや、また遊びに行かうかな」

 なんでもないことだが、そんな言葉のはしばしにも、彼が以前から自分よりも姉の方に興味をもつてゐることがわかつてゐた。三十でまだ独身の彼は、父の前などで、よく、

「僕は女房を持つたら、うんと我儘な女房をもちたいですなあ」

 といふやうな、嘘とも本当ともわからぬことを喋つてゐた。ところが、妙なもので、独身の青年が、年頃の娘のゐる家へ出入りすると、娘の親がまつさきに、その男が何時かなにか云ひ出すだらうと、心待ちにその日を待つてゐるもので、本人同士がそんなことを問題にしてゐないとなると、それはそれでまた不安が募るのである。

 姉の千登世の場合も、実は、父の直人にしてみれば、誰か自分の教へ子のうちで貰つてくれる男がありさうなものと予期してゐたのに、不意に話のあつた縁もゆかりもない人間のところへ行つてしまつた。で、妹の千種の方は、もうどうでもいいと思つてゐる。自分で勝手に探せと腹をきめてゐるのである。

 昔からいちばん頻繁にやつて来る深水のことは、父よりも寧ろ、千種自身が気にはなつてゐる。若し、そんな話を持ち出して来たらと、彼女は実のところ警戒に警戒をしてゐるのであるが、その半面に、もう自分だけの気持は決つてゐて、いざとなつたら、返事は「ノー」だ。

 なぜなら……こんな男は、およそ虫が好かんからである。



 相手の、深水は、彼女のそんな感情に頓著なく、悠々と煙草を喫ひはじめた。千種は、そこで、けむたさうに眉を寄せながら、

「ほら、さつきの、神谷さん……今、なにしてらつしやるのかしら……」

 と、独語のやうに云つてみた。

「神谷? ああ、あいつは、なんでも、農科を途中で止めて、たしか、化粧品の製造かなんかやつてる筈ですよ」

「まあ、化粧品の? どんな化粧品?」

「どんなつて、どうせ、ろくなもんぢやないでせう。何時か、変な匂ひのする香水を人にがせて、得意になつてましたよ。白粉みたいなもんも作るんださうです。君なんか、知らずにつけてるんぢやないかな」

「へえ、そんなこと、あの方が、おできになるの?」

「だれにだつてできるでせう、白粉ぐらゐ……。容れものさへ綺麗なら、女は買ふつていふぢやありませんか」

「さういふ女も、あるかしれないわ」

 彼女は、そこで、深水の横顔へ反抗の一瞥を投げて口を噤んだ。

 すると、不意にまた神谷のあの特徴のある顔が眼に浮んだ。そして、その顔が彼の昔の面影とダブつて、さつきの記憶が再び頭をもちあげて来た。

 それは誰の記憶の中にもあるやうな話である。ただ、彼女の場合は、その印象が、ひと口で云へば強烈であり、相手の調子になにかおびえさせるやうなものがありすぎたからであらう。彼女は、その言葉を聞くと泣き出しさうになり、黄色い花の咲き乱れてゐる植込の中を、一目散に駈け出したものだ。それが、多分、彼女が十一か二、向うは、兄の千久馬と同年輩なのだから、十六かそこらででもあつたらう。

 今日の神谷が、まだそのことを覚えてゐるかどうか、いいあんばいに忘れてゐてくれればと、胸の痛むやうな思ひで、車の窓に映る街の灯に見入つてゐた。

 父が、大きなくさみをした。

「あ、鬼頭君がさつきちよつと云ひましたが、あの計画についてですね、先生に是非承知して貰つてくれつて頼まれたんです」

 深水は、この時、父の方をのぞき込むやうにして声をかけた。

「眠つとつたかい? 実にいい気持だ、今日は……」

「大成功でした。しかし、会のはじまる前に、みんなと話し合つたんですが、祝賀会だけぢや、あとになんにも残らないから、ひとつ記念になるやうな物を、先生に差上げようぢやないかつていふことになつたんです。いけませんか」

「何をくれるんだい?」

「鬼頭君の案では、先生の隠退所を作りたいつていふんです」

「隠退所? 隠退はまだ早いよ」

「将来のためにです」

「そんなことより、諸君にはまだ大事な仕事が沢山ある。老人のことなんか心配せんでよろしい」

 味も素ツ気もないこの返事に、深水は出鼻をくぢかれた形で、止むを得ず、「アハヽヽヽ」と笑つてみせた。

 千種は、ぼんやりこの会話に耳を傾けながら、次第に、われにかへつた。そして、たつた今の言葉に冷やりとしたものを感じた刹那、この父の強がりの中に、たしかに淋しい半面があることを見落さなかつた。



 深水は四谷見付で車を降りた。

「ぢや、また近いうちに……」

 と、気取つた手つきで帽子を脱ぐのを、父は、たゞ、「うん」と云つたきり、前を向いてゐた。

「いろいろ、どうも……」

 代りに、千種は、礼の意を含めて、頭をさげた。

 牛込の高台を車は上つて行つた。運転手と押問答の末、狭い路地を、二人は歩かなければならなかつた。

「どうも、かういふ会なんていふもんは、らぞらしくていかん。恩師とかなんとか云つたところで、入学準備の相手をした先生ぐらゐに、誰も一生感謝の意を捧げる筈はないさ。結局、みんなお義理で賛成するんだな。さもなけれや、幾分、見得もあるだらう。美談とか佳話とかいふやつが、妙に日本人の趣味に合ふんだ」

 吐き出すやうに、父は呟いた。

「でも、お父さんだつて、さつきは、いいご機嫌だつたぢやないの? それに、ご挨拶の時だつて……」

 彼女は、父が声をつまらせてゐたのを云ふのである。

「うん、それや妙に興奮はしたさ。芝居を見て泣くやうなもんだ。嬉しくもなんともありやせん」

「あら、そんなこと……みなさんに悪いわ。鬼頭さんだつて、ほんとに一生懸命よ。お父さんはあんまり懐疑的すぎるんだわ」

「さうかも知れん。例外は例外として認めるさ。だがなあ、千種、お父さんはなにも、人の好意とか、情誼とかいふものを軽蔑する気はない。ただ、そんなものを取巻いて、お互に自分を甘やかす気持がいやなんだ」

「それはわかつてますわ。でも、人にさういふ弱点がなければ、なかなか好いことつて出来ないんぢやないかしら……」

 千種は、いくらか慰めるやうな調子で云つたが、その言葉は、自分の心に撥ね返つて来て、苦い後味を残した。

 門をはひると、留守番の倉太くらたが玄関の前でぼんやり空を眺めてゐた。書生とも下男ともつかぬ家族の一人で、同郷の関係もあり、元来修業の目的で世話になつてゐるうちに、自分で学問に見きりをつけ、食べさせてさへ貰へば、先生の下で一生使つて欲しいと、両手をついて申出たのを、無下に追ひ出すわけにも行かず、そのまま二十幾年、文字通り一家の雑用を弁じさせて来た、当節、風変りな人物であつた。

「千久馬は寝てるか?」

 いきなり、直人は、声をかけた。

「いいえ、さきほど、お友達が見えて、何処かへお出掛けになりました」

「なあんだ、仮病か」

 父の拍子ぬけのした顔を見ながら、千種も、思はず、

「いやな、兄さん」

 と、語勢をはづませた。

 その時倉太は、懐ろを探りながら、

「あ、たつた今、電報が……」

 さう云つて、直人の手に渡した電報を、彼は手早く、玄関の明りにすかしてみた。千種も、それをのぞき込んだ。

──二〇〇〇エンシキウオクレイサイフミチトセ

 なんだらう、といふ眼付きが、だんだん暗い表情に変つて、直人は、千種をそこへ残したまま、さつさと上へあがつてしまつた。




野は花ざかり




 神田駿河台するがだいの裏通りに、硝子をはめた格子戸造りの二階家が並んで、製本、図案、揉療治もみれうぢ、素人下宿といふ風に、住居と生産とを兼ねた、下町的特色を見せてゐる一角がある。そのなかに、ヤヌス化粧料研究所といふ白木の表札が出てゐるのが、神谷仙太郎かみやせんたらうの所謂「アトリエ」である。

 入口の土間には、ビールの空箱が積み上げてあり、その一つは下駄箱代用になつてゐる。玄関は踏板のところまで、びんの見本が雑然と並んでゐて、むせるやうな香料の匂ひが、煤けた屋内の隅々から這ひ寄つて来る。

 奥の八畳は、昼の日中に電燈がとぼり、その下で、四五人の少女が黙々と壜の一つ一つにレッテルを貼つてゐる。台所では、米を磨ぐ音が聞える。梯子段は急で、真つ暗だ。

 二階の窓ぎはで、メートル・グラスを鼻の孔に押しあてたまま、神谷仙太郎は、眼を細めて、ヂャスミンの香りを空想してゐた。

 正午のサイレンが鳴つた。

 そこへ、飯炊きと掃除に雇つてある四十過ぎの中婆さんが上つて来た。

「今日は、お昼はどうなさいます。おかずは竹の子と蕗のお煮つけですよ。大阪漬がおいしく漬かりましたでせう」

「食つてもいいね。下の連中は?」

「今、さう云ひましてす」

 彼は、女工たちに弁当を持つて来させない主義であつた。

「肉が大分遠のいたやうだね。あんまり虐待するなよ」

「でも、お野菜は、うけがいいんですよ」

 婆さんが降りようとするのを、彼は「おい」と呼び止めた。始めに名前を訊いたのだが、どうもすぐ忘れるので、これからただ「おい」と呼ぶことにすると宣告はしてある。家のものはみんなそれゆゑ彼女の本名を問題にせず、ただ「おいさん」と呼ぶ習慣がついた。

 一日中、彼とは口をきかないことが度々あるので、「おいさん」は、呼ばれると機嫌がいい。

「はい、なんかご用ですか? こちらへ、ご飯持つて参りませうか」

「いや、よろしい。すまないが、そこにあるもの、洗つといてくれ」

 彼は、茶の間で、みなと一緒に食事をしはじめた。目白押しに並んだ七人が、一斉にお代りを出す光景はさかんであつた。

「遠慮するなよ。炊きたての飯はいくらでも食へるだらう」

 やつと、有力な問屋と渡りをつけ、彼の製品は、ぼつぼつデパアトにも現れだした。宣伝で負けることは、今のところ止むを得ない。実質で、殊に、意匠と使用上の特色で売り出さうと、苦心をそれらの点に集中した。舶来品を凌ぐ高級な香水の製作にも没頭した。そのために、ある秘密な方法で、葡萄からとつたフランス産の純粋アルコールを手に入れる冒険まで試みた。

 今のところ、不義理な借金もない代り、雇人の給料は手いつぱいで、目ぼしい原料は、買ひ溜めをする余裕もなかつた。

「今月は踏ん張つてくれ。やつと黒字が出て来たとこだ。ボーナスに影響するぞ」

 彼は、笑ひながら一座を見廻した。少女たちの眼は、この一瞬の希望に輝いて、彼の心を明るくした。

「ごめん……」



 助手兼配達係の遠藤が取次につた。

 客は、思ひがけなく、旧友の深水であつた。一昨日、伴直人の祝賀会で、顔を合はした折、ながらく往き来をしない二人のいはゆる旧交があたゝまつて、度々神田へ出てくるなら、それぢや、昼休みにでも寄れといふので、彼は、名刺を渡しておいたのである。

「やつてるね」

 二階へ通ると、まづ、化学実験室といふ趣を備へた次の間をのぞき込みながら、深水は、眼を丸くしてゐる。

「別にやつてもゐないが、ざつとこんなもんだ。無資本の工場といふ格さ。現代のまゝとは如何なるものか、まあ、参考に見てくれ。君は、今日は、午前だけかい?」

「といふわけでもない。教員室でランチを食ふのに、そんなに手間は取りやしないよ。時間が余つたから、ぶらりとやつて来たんだ。ちよつと相談したいこともあつたしね」

「まあ、ゆつくりしてけ。紅茶でも取らうか」

「取るとはなんだい。君は、まだ独りか?」

「相変らず察しがいいな。女房を貰ふ条件がまだ備はらんのでね」

「君がそんなことをいふのは可笑しいよ。産を成して、多少、ブルジョア気質かたぎが出て来たな」

「僕は昔から、俗人だ。世間並の野心家だよ」

「それもいいがだ、をととひ、君の評判はなかなかよかつたぜ。鬼頭少佐も感心してたよ。君なんかああいふ会には、凡そ興味がないだらうつて、誰でも思つてたよ」

「さうかなあ。ふらふらと出てみる気になつたんだ。山羊やぎ先生、大分、よぼよぼになつたね」

「それなんだよ。ああして記念祝賀会をやつた序に、もう少し何かしてあげたいつていふ気がするだらう。賛成者も大分あるんだが、君はどうかなあ。めいめい、大した負担でなけれや、この際、老後の慰安といふやうなことを考へてあげたいんだ。この間五六人で、ちよつと話したんだが、浦川うらかは子爵なんか非常に乗気でね、知つてるだらう、先生の藩主だよ。是非、その計画を立てろといふんだ。今夜、そのことについて相談会を開くんだが、みんな方面が違ふんで、意見を纏めるために、君も一人、委員に加つて欲しいんだ」

「僕なんか出る幕ぢやないよ。もつとお歴々がゐるだらう」

「お歴々は金を余計出しやいいんだ。われわれは、適当な案を立てて、先生にうんと云はせれやいいんだ。ところが、あの山羊さん、なかなか手強てごわくつて、おだてに乗らんから困る」

「無慾恬淡を標榜しとるかい、未だに……」

「あれや、主義でなくつて、趣味だよ。だから、やせ我慢も張らない代り、理窟で行つても駄目なんだ。あの年で、月々生計に追はれてゐるのは気の毒だが、また、なかなか考へてもゐるらしいね。下の男の子は、二人とも官費の学校へ入れちまつたよ。師範と幼年校だ」

「あの娘はどうして、まだぶらぶらしてるんだい?」

「千イ坊かい? 僕は知らん。これも、お嫁に行く条件が備はつてないんだらう」

 二人は、にやりと笑つた。



 話がそれからそれへとはづんで、学問のこと、生活様式のこと、道楽のこと、職業のこと、政治のことにまで及んだ。

 深水高六は、西洋史を専門にやつてゐるせゐか、一国の運命を即座に決めてしまふ手際が鮮やかで、欧羅巴の文明は、今や没落に瀕し「光は東方より」とは誠に至言であると力み、日本民族の伝統と使命について、近頃大いに自覚するところがあると、しきりに愛国者かぜを吹かした。そして最後に、これは決して時代の流行思想に感染したわけではないと云ひ、その証拠に、政治としてのフアッショ的傾向も、過渡期の日本では寧ろ止むを得ない方便と考へる自分一個の見方を説明した。神谷は、それに対して、初めのうちは、興味をもつて応酬してゐたが、だんだん、調子が合はなくなり、何処と云つて異論を唱へるところもない代り、言葉の繋がりが妙にぐらぐらしてゐて、全体にかさばり過ぎた感じがするやうに思はれた。

「歴史の教師も、やつぱりさういふことを云ふのかい、教場で……」

「学生の顔を見ると云ひたくなるね。僕の信念は、やつぱり、学問の上にも反映させなけれやならんと思つてゐる。これが、歴史をやつてるんだつたら、日本精神とか、大和魂とか云つたところで、学生が、ふん、またかと思ふけれどね、こつちは、さうぢやないからね。西洋を識つて、西洋崇拝に陥らないといふことは、これや、相当、学生も信用すると思ふんだ。現に、われわれ以後のヂェネレーションを見給へ、その点案外自覚がないからね。社会の罪も大いにある。それにしても、頭を使つてゐないよ。考へることを怠けてゐるよ。自由主義も結構だが、考へない自由なんて、凡そ不思議なもんだよ」

「うん……考へてゐることを、みんな云はなけれやならんといふ義務もないが……」

 と、神谷は唇をゆがめ、

「なにを云つても、どうもならんといふ気持が支配してるんだな。君は、それぢや、一体、さういふ主義をだね、誰に吹き込んで、誰にどうさせようといふんだい?」

「一人ではなんにもできやしないさ。影響といふもんは、さう目に見えなくつたつて、何時か結果が現れる。それだけの役割は僕にだつて負へるよ」

「伴先生の影響を、何時の間にか、君が受けたやうにね」

「僕は、むしろ、伴先生とは、思想的には相容あひいれないところが多い。ただ、あの人物は面白いからね。先生の自由思想といふ奴は、非常に古風で、悠長だ。十六世紀的ヒューマニズムだ。ただ、先生は、英吉利紳士と、日本武士と支那の聖人とを一緒にしたやうなところがある。勿論、その三つにアルファを加へたものだが、そのアルファは、極く平凡な苦労人といふところだ」

 深水は、さう云つて、なぜか、自嘲的な微笑を漏らした。

「君の観察は秀才らしいが、僕には面白くないね。あの先生は、ただ、日本人だよ。日本人の一つのタイプだよ。それも武士か町人か、どつちかわからない。英吉利紳士と言へば、仏蘭西の哲学者とも似てゐるし、支那の聖人で通れば、印度の坊主でも通るだらう。あれや君、世が世なら、革命家だぜ。しかも、どえらい革命家だぜ」

 思はず、声を励まして、神谷は、煙草の喫ひ殻を外へ投げた。



 深水高六は、すると、相手の顔をのぞき込むやうな身構へで、

「ほう、君もさう思ふか。まあ、それはそれでいいとして、どうだい、今夜、鬼頭君の家へ集るんだが、出掛けて来ないか?」

「まさか、伴先生をだしに使つて、不穏な計画をやるんぢやあるまいな」

 神谷仙太郎は、そんな戯談を云ひながら、すぐに、そのあとで、

「今夜は駄目だ。先約があるんだ」

 と、答へた。

 やがて、深水は、時間だからと云つて、腰をあげた。神谷は玄関まで送つて出て、

「寄附なら、いくらかするよ。千種嬢によろしく云つてくれ」

 無表情にさう云ひ放つと、そのまま、女工たちの仕事をしてゐる部屋へはひつて行つた。彼女らは明日の遠足のことを話し合つてゐた。十五、六から八、九ぐらゐまでの、どれも特徴のない顔かたちで、浪費を知らない階級の硬さとつつましさをもつてゐた。しかし、ふと、彼の方を見上げるそのうちのいくつかの眼が、女のうるほひを放つて彼をまごつかせることがある。あるひは、強ひて伏せた横顔の、物思はしげな風情ふぜいに、おやと思ふことがある。が、それはその時だけの話で、すぐに忘れてしまふ。女性といふものに対する彼の考へ方は、非常にはつきりしてゐて、言はば、理想主義者であつた。どういふ女でももつてゐる単純な魅力などには興味が湧かないのである。彼は近代娘といふタイプを好まない。それは令嬢であらうと、職業婦人であらうと同様である。そんなら、下町風のいきな女がいいかと言へば、それも必ずしもさうではない。いちいち比較をしてみたわけではないが、自分の想像し得る範囲で、望んでも得たいと思ふ女性は、封建時代の武家娘である。その話を嘗て友達にしたら、笑つて相手にされなかつた。例が如何にも突飛なやうに聞えたのであらう。しかし、彼の頭では、なにも芝居に出て来る何々姫といふのを指すのではなく、琴を弾いたり、茶をたてたりして貰はなくともいい。要するに、女の職分を毅然として守る一個の性格と信念とが、純粋に美化され、おのづから相手の男に、情熱と休息とを交々こも〴〵与へればいいのである。

 そんな風に理窟をつけてはみるが、彼は常に索漠たる気持に落ち込んで行く。なぜかと云へば、それはまるで、現代が向かつてゐる方向とはあべこべで、少し物のわかつた女性なら、女の職分とはいつたいなんのことですかと、反問してくるに違ひないからである。

 この間も、ある友人の家で、丁度来合せてゐた二、三人の若い女と話をしたのに、何れも、相当の教育を受け、快活で、自由で、おしやべりであつたが、彼の女性観に対して、今云つたやうなさんざんな質問攻撃を浴せかけてくる。

「亭主ばかりが大事だつていふやうな女は、今時、ゐないわよ。世帯の切り廻しなんて、一種の職業ぢやないの」

「さうよ、男にさせたつてかまはない職業だわ。女の天職でもなんでもないわ」

「だからさ、亭主とか子供とか、そんな限られた対象を考へなくつたつていいでせう。もつと、大きな社会の一単位としての家族、いや、夫婦と子供といふ一共同体をですよ、誰が完全に管理し、撫育し発展させるんです?」

 と、彼は、彼女等につめ寄つてみたが、

「そんなもの、社会的に言つて、ちつとも重大な存在ぢやないわ。発展させる必要なんてないぢやないの」



 かういふことを、近頃の若い娘は、見得みえにでも言つてみるもので、いざとなれば、それぞれ平凡な主婦として、一切の運命に甘んじるのだと、彼も内心高をくくつてゐるにはゐるが、それにしても、なんのためにそんなことを云つてみなければならないのか。さういふところに、現代のあぶなさがあり、男の不安があるのだといふ風に考へないわけに行かなかつた。

 彼はしかし、年がら年中結婚のことばかり念頭に置いてゐるわけではない。昨今は寧ろ、事業のことで夢中である。当代の英雄は、財力を背景バックとしなければならぬと、彼は何時からか思ひ込んでゐる。黄金のために黄金を崇拝するのでなければ、聊かも恥ぢるところはない。彼は自分の胸中にある理想社会を描き出し、天下を動かす力は、ただそれに理論を与へ、適切なスローガンを掲げることにあると信じてゐた。

 ところが、彼は既に、共鳴者の一人をふとした機会に、某大学の文科生のうちに発見し、それ以来、互に往復して、運動のプランを練り、同志の糾合を目論もくろんだ。

 今夜もその男を訪ねることになつてゐる。

 時刻が近づくと、彼は、ぶらりと家を出た。本郷台町の盛運館といふ下宿がそれである。勝手を知つてゐるので、づかづかと部屋へ上つて行つた。廊下から、

さかき君、ゐるかい?」

 障子を開けると、この前ここで紹介された若い女が二人、洋装の膝をくづして、苺をたべてゐた。

「やあ、こなひだは……。あそこで会はうとは思ひませんでしたね」

 先づ話しかけた相手は、榊ではなくて、眼がきりりとつり上り、鼻すぢの見事に通つた一方の女性、新島園子であつた。

「お待ちしてましたわ。近頃お忙しいんぢやなくつて?」

 彼女は、さうこたへた。

「いくら、忙しくつたつて、この会は別ですよ、今日はみんな集るの?」

 榊の方へ顔を向けると、この男は、理論家らしく額の皺を深く寄せながら、

「うん、多分、みんな揃ふだらう。揃つたらお茶でも飲みに行かう」

 と、沈痛な声をしぼり出した。

「宣言書はできたかい?」

 神谷は、また問ひかけた。

「ああ、あとで草案を出すから、審議して貰はう」

「それやよかつた。あなたがた、会の名前、考へて来ましたか?」

 女達は、互に顔を見合はして、笑つてゐる。

「それもあとで議題にするよ。どうだい、苺食はないか、新島君たちのお土産だ」

 一つの皿に盛り上げてある洗ひたての苺を、彼は二つ三つ口の中へはうり込んだ。

 その時、「今晩は……」といふ声といつしよに、同じ大学の制帽を鷲づかみにした、運動選手といふ恰好の増野ますのがはひつて来た。

 新島園子の連れの女、津幡秀子つばたひでこが席を譲らうとすると、

「いいですよ。そんなことは規則違反になるぜ。たしか、必要以上の儀礼は排斥するといふ項目も入れる筈だつた」

「ぢや、あなた、何処に坐るの?」

「座蒲団なんかいらないよ。ここへ坐るよ」

「あら、それも規則違反よ、人のハンド・バックの上へあぐらなんかかいて……。必要な礼儀は厳守する筈よ」

 津幡秀子に逆捻さかねぢを食つて、増野は、「いけねえ」と頭を掻く真似をした。



 七時までに総勢八人の顔が揃つた。男が六人、女が二人である。男は神谷を除くと、何れも学生か、この春学校を出たばかりの連中である。専攻は、哲学が二人、美術史、経済、医学がそれぞれ一人づつ、ただ、津幡秀子だけが変つた経歴で、一度結婚したこともあるといふ小説家志望の女であつた。

 これらの連中が、自然に寄り合つてひとつのグループを作つた動機といふのは、単純と言へば単純、込み入つてゐると言へば込み入つてゐた。最初、神谷と榊とが、あるカフェーで識り合ひ、一二杯のビールで、忽ち青春の熱気を発散し、互に知己を得た悦びに勇み立つたところから、話が進んだのである。

 彼等は、現在のやうな世の中に生れた以上、なんとかして精神の危機を処理せねばならぬと考へた。つまり、このままで行けば自暴自棄やけくそになるといふのである。生活の目標がないことが悲しい。餓ゑるよりもなほ苦痛なことは、餓ゑることが誰のためにもならぬといふことであると、二人は真面目に語り合つた。

「われわれは餓ゑることはない、それは安心だ。しかし、それが心配なんだ」

 榊は、酔眼をビールのコップの上に伏せて、溜息を吐いた。

「われわれは、今、新しい理想を探してゐる。それを持たねばならん。が、そんなものは、何処にもないのだ」

 神谷は、これも、卓子に片足をのせて叫んだ。

 二人は、肩を組んでカフェーを出た。近いうち、なにかをしようといふことになつた。

 そのなにかが、このグループの結成であり、事業であつた。

 彼等は、同志の糾合に当つて、なによりも、他の思想的団体に所属してゐない人物といふことを条件とした。何々主義と称へる一切の傾向を排除することにした。われわれには、特定の思想はないのだと頑張つた。しかし、大事なことは、自由に物を考へ得るといふことである。従つて、若い頭の持主であること、いくらか本を読んでゐること、これだけだと、榊は云つた。「しかし、忘れてゐてもかまはん」と、神谷は混ぜ返した。

 今日は、これで三度目の会合である。創立委員会といふ名義で、いよいよ議事が進行しかけた。

 丁度その時、神谷のところへ電話がかかつて来た。助手の遠藤からである。

「もし、もし、大将ですか? 今、実は弱つてるんですよ。女工の北見きたみね、北見せん子、あれのおふくろが訪ねて来て、是非大将に会はせろつていふんです。用事で出かけたつて云つたんですが、ぢや、お帰りになるまで待つツてきかないんです。つい、出先を云つちやつたもんだから、そつちへ行くかも知れませんがね、どうしませう、かまひませんか?」

 北見せん子と言へば、あの色の白い、むつつりした少女だが、その母親がこの自分に何を云ひたいといふのか。彼は、てんで見当がつかない。

「うん、寄越してもいいが、そんなに急ぐのかい? なんのこつたか、君、心当りはないか」

 なにやらぶつぶつ云つてゐるのがよく聞えない。で、面倒になり、

「よし、会ふから、こつちへ来るやうに云へよ」

 と、彼は、受話機をかけた。



 神谷が室に戻ると、

「どうだい、新島君が、すばらしい名前を考へて来たぜ」

 と、榊が云つた。

「来年クラブ……」

 増野が、横合から引取つた。

「ふむ、面白いね。きめよう」

 そこで、宣言書の草案が読み上げられた──


──凡そ文明の理想は、意識的に生活表現の洗煉を目指すものであつて、今日の日本の如く、社会万般の現象が、本能の満足と虚偽の押売にその根柢をおき、人間性の没却と美の衰頽を如何ともなし難き時、吾等は何を信じ何を望むべきであらうか。叫ばうとすれば、口を封ずるものがある。囁かうとしても、何人も耳を藉さないのだ。君達は、ただ、おびえてゐる。空元気をつけてゐる。右往左往してゐる。何といふ見苦しい態だ……。


「待てッ」

 と、誰かがさえぎつた。

「そんな理窟張つたもんぢやいけないな」

「文章が、ちつと古臭いわね」

「自分たちだけえらがつてるみたいだわ」

 等々の反対、批難が続出した。

「いつたい、そんなものが必要なのかい」

「お互にわかつてれやいいぢやないか」

「会員も、これだけあれば沢山だね」

 で、たうとう榊の苦心になる草案は葬り去られた。

「ぢや、早速、今晩を第一回の例会として、これから、みんなで例の不満なり、希望なりを云ひ合はうぢやないか」

 と、一人が提議した。

「だけど、ほんとに、やる気なの?」

 新島園子が、悪戯ツ児のやうに小鼻を固くふくらました。

「どうして? 君はそのつもりぢやなかつたの?」

 と、榊は、もう、自信を失つて、これも苦笑した。

「いざとなると、馬鹿々々しいね。喋つてる間に、座が白けちまひさうだ。吐き出しちまへばせいせいしさうなもんだが、さうはいかん、これや……」

 増野は、頭を抱へて、妙に照れた恰好をした。

「なにかまだ足りないものがある。お互に通じ合ふものをもちながら、やつぱり、これぢや駄目なんだ。絶望を絶望の形で表はさないためのこの会が、一時的の火花さへ散らすことができないとしたら、われわれは、もう絶望に徹するよりほかはない」

 榊は、眼を据ゑて、闇の底をのぞくやうな顔をした。

 が、その時までぢつとこれらの言葉に耳を傾けてゐた神谷は、突然、声を立てて笑つた。

「それもよからう。絶望に徹して、おれは金儲けをしてやる。君たちも、なんでもいいから、我武者らにぶつかつて行けるものをこしらへろ。現実を夢にしてしまへ。お互に、甘やかすことはよさう」

 かう云ひ終ると、腰をあげて、挙手の礼をした。彼の姿は、もうそこに見えなかつた。

 やがて、本郷通りをぶらぶらと赤門前まで歩き、そこでタクシイを拾つたのは彼であつた。北見せん子の母親と入れ違ひになるかと思ひ、車を急がせたが、家の門口で、彼は遠藤と彼女とが何やら云ひ争つてゐる気配けはいを感じた。



 耳を澄ましてゐると、女の声で、

「いいんですよ、あなたぢやわからないんだから……」

 すると、それにこたへて、

「僕ぢや、どうしてわからないの? 僕が責任をもつと云や、それでいいぢやないか」

 それにかぶせて、

「へえ、さつきからのお話で、あれで責任がもてるんですか」

「もてる」

「ぢや、もつて下さい。どうもつてくれますか」

「どうつて、だから、さつきから云つてるやうに、今すぐどうかうつて云つたつて……」

「それごらんなさい。こつちは、そんなことは云つてられませんからね……」

 神谷は、しばらく道ばたに佇んで時機を待つてゐた。早すぎてはいかんと思つたのである。

 ──なるほど……さういふわけか。

 甘苦い微笑が唇に浮んだ。

 表通りのレコード屋であらう、和製ジヤズの胸につかへるやうな騒音が、ひとしきり彼を焦ら立たせた。が、たうとう、思ひきつて、玄関の格子を開けた。

「ただいまア……」

 今日は夜業もなく、家のなかは、がらんとして、茶の間だけに電燈がついてゐる。

 その茶の間から、遠藤が飛び出して来た。

 彼は黙つて、ひとまづ二階に上つた。遠藤が、しよんぼりと、ついて来た。

 椅子にかけると、彼は、ぢつと遠藤の顔を見据ゑた。

「おい君は十九だね」

「さうです」

「向うは……?」

「…………」

 まだ少年と云つてもいいその肩を、無意識に左右に揺りながら、急に横を向いてしまつた。

「なんだい、はつきりしろよ。北見せん子はいくつだつて訊いてるんだぜ」

「いくつでもいいんです。僕、今日からお暇をいただきます」

「さうして、どうするんだい?」

「…………」

「とにかく、どうするか云つてみろよ」

「もう決心してるんです」

「どんな?」

「最後のです……」

 そして不器用に、片臂をあげて、眼をおさへた。

 彼は、ちよつと、意外であつたが、

「へえ、死ぬ気かい? 簡単だね。ぢや、その命を僕があづかるから、しばらく、此処で待つてろ」

 彼は、そのまま階段を駈け降り、茶の間の入口に突つ立つた。

「やあ、お待たせしました。遠藤の問題は、僕が引受けましたよ。明日は、せん子さんを寄越して下さいね、遠足ですから……。休んだら、僕も、責任はもちませんよ」



 北見せん子の母親を帰してしまふと、神谷は、また二階に上つて行き、そこにぼんやり突つ立てゐる遠藤の肩を叩いた。

「あらまし想像はついてるが、詳しい話を聴かうぢやないか。いつたい、どうしたんだい。いくらなんでも、お前の年ぢや女房はもてないぞ。子供ができるつてことは知らなかつたのかい?」

「済みません」

「馬鹿だなあ。済みませんつて、おれに云ふ奴があるかい。それより、自分が、出来たらかうしたいと思ふことを、ちやんと云つてみろよ」

「わかりません」

「北見から、その話は聞いたんだらう」

「いいえ」

「明日会つて話をしてみろ。場合によつてはおれも考へてやるが、二人ともしばらくこの家は出て貰はなけれや困る。お前の仕事口だけは世話してやつてもいい。二年たつたら、またここで働いて貰はう。結婚はその時といふ約束にしといたらどうだ?」

 で、翌日は、早くから、同勢十二人がお茶の水駅へ集合し、そこから省線で吉祥寺まで行き、ぞろぞろとかしら公園へ繰り込んだ。

 北見せん子もやつて来た。なるほど、遠藤とはことさら口を利かないやうにしてゐる。神谷と、視線が会ふと、あわてて眼をそらすのは、昨夜のいきさつを母親から聞いたのであらう。小柄ではあるが、高等小学を出たばかりで、もう眉などを引いてゐる娘であつた。

 男は神谷と遠藤と、ほかに通ひで註文取りをさせてゐる西川にしかは。女たちがボートに乗ると云ひ出したので、神谷はいちいち、人員の割振りをした。ところが女たちは相手の択り好みをして、なかなか命令に応じない。

「そんなこと云つて、みんな漕げるのかい?」

 漕げるといふものが半数以上もゐるのには驚いた。

「西川君、監督を頼むよ。おい、遠藤、独りで乗つてく奴があるか」

 彼は、北見せん子に、そのボートへ乗れと云ふ意味の眼くばせをした。

「あたし、よすわ、なんだかこわい」

「ぢや、僕と乗らう」

 無理に彼女を追ひ込むやうにして、彼は、悠々とオールを握つた。

 黒々と水底にうつる杉林の倒影が、ゆらゆらと揺れて、睡蓮の花びらが、そこ此処で散つた。何処かの一と組がレコードの円舞曲をかけてゐる。

 神谷は、浮々と口笛をそれに合せ、北見せん子の依怙地えこぢに結んだ唇から、何かを読み取らうとしたのだが、彼女は、時々、舟べりに顔を近づけて、魚の群に見入つてゐた。

「どうだい、かうしてると愉快だらう? え、さうでもないか?」

 返事がない。

「向うの岸に白い花が咲いてるね。あそこまで行つてみよう。あれや、なんの花だ?」

 彼女は、そつちをちよつと振り向いたが、一向、感動した様子もない。

 ボートは全速力で滑つた。

 林がきれて、その一帯は明るく日が当つてゐる。豊かに光を吸つた灌木の青葉の茂みを抜いて、一株のうつぎが房々と咲き乱れてゐた。



 この時、ふと神谷は、北見せん子の姿態が艶かしく崩れて、岸の方に向き直る瞬間を見たのである。そして、それが、あやしく彼の頭を掻き乱した。彼は、慌てて、オールを取り直すと、夢中で池の中心に向つてへさきを向け、遠藤の乗つてゐるボートを捜しはじめた。

 遠藤は、やがて、蘆の蔭から、姿を現はした。半ば空を仰ぐやうな身構へで、こつちを振り向かうともしないのを、神谷は、

「おい、待てッ」

 と、呼び止めた。

 二艘のボートは、速力をゆるめて近づき合つた。

「そのボート、おれに貸せ。さ、いいか、気をつけろ」

 神谷は、ひと跨ぎに乗り移つた。

「さあ、お前はあつちだ。早くしろ」

 き立てられて、遠藤もしぶしぶ起ち上つた。

「先へ漕げ。こつちは後からついてく」

 そこで、この初々しい恋人一対を乗せたボートは、あてもなく動き出した。

 ──畜生、図々しい奴等め!

 神谷は、腹の中でさう叫んだ。が、ひとりでに可笑しさがこみ上げて来る。

「こら、こら……黙つてゐちや駄目だ。ここまで聞えない声で話をしろ」

 お互にそつぽを向き合つてゐた二人が、ちらりと視線を合はしたらしい。それだけで、もういろいろな意味が通じたのであらう。女は、両手で顔を覆ふ真似をしてみせた。それは、明らかに、信頼を籠めた羞みの表情と見て取れた。

 ──もう安心かな。

 さう言へば、神谷は、とつくに安心しきつてゐるのである。遠藤の昨夜口走つた言葉に不安を感じてゐるなら、今日、こんな場所へ連れては来ない。が、それでも、二人を並べてみると、まだ眼が放せないといふ気もする。

 ──ええい、面倒臭い!

 何か冒険のやうな気持で、彼は、眼を閉ぢて、ぐんぐん漕ぎまくつた。

「危いツ」

 鋭い声に、はツと後ろを振り向くと、中年の職人風の男が、七ツ八ツの女の子を一緒に乗せて、すぐそばを漕いで行く、その横つ腹に、こつちのへさきがぶつからうとしてゐる。

「失敬」

 さう応じて、彼は片手に力を入れ、急角度に舟を廻した。

 と、遥か向う岸の、例の白うつぎの咲いてゐるあたりに、遠藤たちのボートは、ぢつと動かずに止つてゐるのが見える。

 彼は、片手を挙げて、みなに陸へ上れといふ合図をした。

 やがて弁当を食べ、動物園を見、森を横切つて歌など唱ひながら、駅へ出た。そして、解散間際に、北見せん子を手招ぎして、彼は小声で云つた。

「明日、おつ母さんに店へ来るやうに云つてくれ。君はしばらく家でぢつとしてた方がいいだらう」

 彼女は軽くうなづいた。

 …………

 その夜、彼は、どういふものか伴千種の夢を見た。




わが憩ひの家




 長旅のあとのやや化粧くづれのした顔を、冷たく硬ばらせて、姉の千登世は座敷で父と向ひ合つてゐる。千種は、姉の電報もみてゐるし、そのあとから寄越した手紙の内容も父から聞かされてゐたので、かうして不意に神戸から出て来たわけは、父からの返事を待ちきれなくなつたからだと、十分察してゐたが、それにしても、老人の父を前において、あのしやあしやあした物の云ひつ振りは、少しどうかしてゐると思つた。

「なんとかご都合を聞かせて下さらなくつちや、毎日、あたしの方は気が気ぢやありませんわ。あれだけ云つてあれば、おわかりだと思ふけど、あたしたちの浮沈に関する問題ですから……。主人だつて、云へば、ああさうかですましてくれるかも知れませんけど、そのために、こつちで頭があがらなくなるのがいやなんですよ。交際つきあひはいい加減にしとけつて云はれたつて、さうはいかないわ。その結果は、存外男にわからないらしいのね」

 父の直人は、黙つて聴いてゐる。別に同感を示すでもなく、さうかと云つて、迷惑らしく不機嫌な顔をみせるでもなかつた。「へえ、そんなこともあるのかねえ」といふやうな、いくぶんとぼけた恰好で、千種が汲んで出す煎茶を、うまさうにすすつた。

「ねえ、どうでせう、しばらくでいいんですけど……」

 千登世は、引きさがらうとする妹の方へ、ちらりと眼をやつて、

「あんたからも、お願ひして頂戴よ」

 と云つた。

「だけど、そんなお金、うちにあるの?」

 千種は、膝を突いたまま、軽く父に問ひかけた。無論、ないことはわかつてゐる。父は、ほんとに要るものなら、保険のうちから借り出しをするほかはないと、この間も彼女に漏らしたことを覚えてゐる。そんなことをしてまで調達しなければならない金であるかどうか、千種にはまだ呑み込めないのである。

「あるなしは別さ。亭主の出せない金を親が出すといふ法はない。ただ、おれがすぐ返事を出さなかつたのは、その事情がわからないから、もつとはつきりするまで待つてゐたのさ。まあ、さういふわけなら、信次郎に頭をさげて始末をつけてもらふといい」

「だから、そんなことはできないつて云つてゐるぢやありませんか」

 今年三十二の、何処から何処まで奥様然と鍛へあげた千登世の鼻息はなかなか荒かつた。

「うむ、主観的にはできんかも知れんが、そいつは、おれの知つたことぢやない。第一、信次郎にはなんて云つて出かけて来たんだい?」

「ちよつと遊びに行つて来るつて云つたら、序に恋人にも会つて来いつて、平気なもんよ」

 姉のさういふ調子には慣れてゐるものの、千種は、はツとして、眼のやり場に困つた。父は聞えないふりをして、床の間の芍薬を眺めてゐた。

「それよか、こなひだの祝賀会は、どうだつた? 盛会だつた?」

 自分に訊ねてゐるのだと気がつき、千種は、ほつとした笑顔で、

「ええ、それやもう……二百人以上お集りになつたわ。あたしなんか顔も知らない人が随分ゐるのね。忘れてた人もあるし……姉さまだつたら、きつと面白かつたわ。お父さんの演説で、あたし泣いちやつた」

「へえ、それがみたかつたね」

 千登世は、そこで、はじめてにつとした。



 それから、いろんな人物の噂が出た。

「園子さんはもう赤の方はやめたの?」

「赤々つて、あの方、赤ぢやないわよ。ただお友達の関係で調べられただけよ。勿論それだけであの方の不名誉にはならないと思ふけど……」

「それやさうよ。あたしだつてそれくらゐの理解はあるわ。つまり、保守的なものに対する反抗でせう。さういふ気持なら、あたしにだつてあるわ。第一、古くさい頭をもつた亭主の云ふことなんか聴いてられないわ」

「あら、だつて、信兄さまのことなら、流石さすがは外人と交際つきあつてるだけあつて、なかなかハイカラだつて、何時かおつしやつたぢやないの?」

「そこが可笑しなとこなのよ。どうすればハイカラだつてことは知つてるのよ。だから、さうする必要がある時だけ要領よくやるんだわ。自分の都合で、それがあべこべになるんだから……。さういふ時はまるで野蛮つて云つていいわ。社交なんていふものの意味は、打算を離れて存在しないと思つてゐるらしいの」

「おい、それで、お前は、何時までこつちにゐるんだい?」

 と、直人が、この時訊ねた。

「さあ、このままぢや帰れませんわ。でも、そのお話は、もつとどうかした時にするわ。今日は草臥くたびれてるから……。で、あの人、どうしてる……? なんだつけ……深水さんさ、相変らずおしやべりでせう?」

 千種が返事をせずにゐると、

「ねえ、お父さん、ほら、蓮沼はすぬまさん……たうとう次官におなりになつたぢやないの。出世がしらね。尤も、学者の方面ぢや、いくらも名前の出た人がゐるけど……」

「まあ、いいや、そんなことはどうでも……。ぢや、今晩はどうせ泊るんだらうから、着物でも着替へて来なさい。千種、お前のなんかがあるだらう」

「ええ、さうなさる? でも、着替へもつてらしつたんでせう。今、あたし、お昼のおかずのことを考へてたとこなの。それとも、久しぶりでおすしどう?」

「うん、結構だけど、あたしまだおなかすかないんだ。さうさう、鬼頭さんは、時々いらつしやる? 今東京でせう。あの方だけよ、信次郎とあたしとの連名で、ちやんと年賀状を下さるのは……。あのお母さんさへなけれや、あんたに丁度いいんだけどなあ……。どう、お父さん? 海軍少佐ならわるくないわ」

「なんでも独りできめてしまふ奴だな。千種はこれでなかなか理想をもつてるんだよ」

 と、直人は、苦笑して、

「まあ、楽になるといい」

 起ち上らうとするところへ、玄関で、「伴さん」と呶鳴るやうな声が聞え、やがて、女中のきぬが、千登世へのお辞儀を兼ねて、速達の葉書をもつてはひつて来た。

三鴨みかもは?」

 直人は葉書を受取りながら訊ねた。三鴨とは倉太のことである。

「あの……先程さつき、若旦那様とご一緒に、自転車で戸山とやまはらを一と廻りするんだつて、出かけたやうでございます」

「誰の自転車?」

「さあ、御用聴きにさう云つて、借りたんぢやございませんかしら……」

 千種と千登世とは、眼を見合せて笑つた。

「学校を休んで自転車乗りをする年ですかね、二十八つていふと……」

 千登世は、弟千久馬の姿を想像するらしく、天井を仰いだ。

 葉書を読み終ると、直人は、吐き出すやうに云つた。

「今夜、鬼頭と深水がまたやつて来るさうだ。ビールでも用意しといてやれ」



 その晩、食事が終つて、ぼつぼつ夜の部の授業が始まる時刻に、鬼頭と深水とが揃つてやつて来た。

「今日は個人の資格で来たんぢやありませんからね、どうぞそのおつもりで……」

 深水は、戯談めかして、そんなことを云ひながら、千種の並べた座蒲団の一方へ、いきなりあぐらをかいた。鬼頭少佐は、それに応じて、ずんぐりとしたからだを笑ふやうに弾ませただけで、膝も崩さずに畏まつてゐる。三分刈の額にくつきり帽子のあとがつき、地肌と日やけとの区別を一線に劃して、陸上勤務の日がまだ浅いことを証拠立ててゐる。縁取りをした黒い詰襟の胸に、ピカピカと参謀の飾緒かざりをがゆれ、眉から耳へかけての柔和な線が、どこかお釈迦様に似てゐるといふ評判であるにも拘らず、頤はムッソリーニのやうに張つて、俗説を信じるとすれば、それは正に自尊心一徹強情の看板であらうか。

「お手間は取らせませんから、先生にちよつと十五分ばかり……」

 さう云つて彼は、上半身を三十度前に傾けた。

「はあ、ただいま……」

 と、千種は口の中で応へた。この男に話しかけられるといつもかうである。別に大きな理由はない。同じ調子で話をすると、だんだん喉がかれて来る。だから用心をしてゐるだけである。

 やがて千種は戻つて来て、

「あの始めたばかりの組がございますので、それをすましてからに願ひたいつて申しますの、いけません?」

「さうすると、あと、小一時間待つわけですね。僕たちはかまひませんよ。なあ、深水君……将棋でもやらうか」

 深水は、千種の方を見て、「ハヽヽヽ」と笑つた。

「それより、神戸の姉が今日出て参りましたの。今ご挨拶に伺ひますわ」

「へえ、早くなつたんですね。秋の筈ぢやなかつたんですか」

 深水が興味ありげに眼をみはつた。

「秋は例年のことですけれど、ちよつと急用ができまして……。ですから、子供たちはおいて参りましたの」

 そこへ、湯上りの、心もち襟を抜いた大柄のセルへ、黒つぽい名古屋帯といふ、ちよつと不断すぎる恰好で、千登世は大形おほぎやうな笑顔を作りながらはひつて来た。

 が、そこへ坐ると、いきなり、

「みなさん、ご立派におなりんなつて……。鬼頭さんはまた、いつもご年始状をどうも……」

 と、真顔になるのを、千種は、そばから、手品でもみてゐるやうな驚きで眺め入つた。

「鬼頭さんはわかるが、僕が立派になつたは少しどうかなあ」

 深水が、姉の前では、妙に子供臭くなるのが不思議であつた。

「あら、あなただつて立派ぢやないの。腕時計なんか巻いて……」

 吹き出したのは鬼頭だけであつた。深水はねたやうに口を曲げ、千種はそれを見て、却つて可笑しくなつた。

「今日はなんかご用でいらしつたんですつて……? あたしはすぐ引つ込みますわ。あ、先達せんだつては、なんでしたつけ、記念祭つていふの? さうぢやない、祝賀会ね、ほんとにいろいろどうも……。父も喜びましたでせう。もう少し早く知らして下されば、なんかお手伝ひをしましたのに……」

 千登世が、さういふのを待つてゐたやうに、深水は、ポンと拳固げんこで膝を叩いた。

「さうだ、丁度いいや、ねえ、鬼頭さん、ひとつ久野夫人にも助太刀を頼まうぢやないですか」



 やがて、伴直人がはひつて来ると、娘たち二人は座を起たうとした。が、深水は、

「いや、あなた方もゐて下さいよ」

 と制しておいて、

「実は、先生、この間、車のなかでちよつとお話しましたね、あの企てについて、いよいよみんなの相談が纏りまして、僕たち二人で是非、先生のご承認を得て来いといふことになつたんです。……あと、鬼頭さん……」

 予めさういふ段取りがきめてあつたと見え、鬼頭は心得て、

「うん、で、率直に申上げますと、或る程度纏つた基金を得るために、ただ羊頭塾ばかりでなく、先生が従来ご関係になつた学校その他の方面へも手を伸ばし、多少とも先生の恩義を受けた連中へ残らず呼びかけようといふことになりました。発起人としましては……」

 さう云ひながら、ポケットから紙ぎれを取り出し、

「ええ、まづ第一に、浦川うらかは子爵、司法次官蓮沼泰三はすぬまたいざう氏、椎野しゐの海軍中将、黒部くろべ陸軍少将、松下まつした工学博士、荘司さうじ医学博士……」

「ちよつと……」

 と、直人は、静かにさへぎつて、ごくりと唾をのみ込んだ。

「発起人は誰もまだ知らずにゐるんだらうと思ふが、そんな話はなんとしてもやめてもらはなけれや困る。筋道も立たんし、気持も許さない。別に体裁を云々するわけぢやないが、師弟といふものの関係には自ら限度がある。友情があつてもよし、なくてもよし、恩をてもよし、被ないでもよしなんだ。むくいられない仕事だなどと、先達せんだつての会でも誰かが云つたが、そんなことはあるもんか。これや、自分が食へさへしたら、ただでやつてもいい仕事だ。僕がさういふと、なんの権威もないが、まあ、教壇に立つといふ職業はだね、良心に問うてやましくさへなければ、こんな楽な、得のいく職業があるもんか。教師といふものは、渡し船みたいなもんで、通行人は当然それに乗つて、河を渡る権利がある。きまつた賃金を払ひ、おとなしく坐つてゐる以上、船頭の方で、お前は乗せんといふわけには行かんのだ。向う岸へ着けば、それまでさ。後をふり返つてみる必要もないやうなもんだ。弟子の立場からはさうはいかんと云ふかもしれん。さうはいかんやうにさせた習慣を考へて見給へ。ほめたことぢやないよ、これや……。恩義なるものが若しありとすればだ、そして、それが、結構なものであり、忘るべからざるものであるとすればだよ、例ひ万分の一にもせよ、それに酬いるなどは寧ろ惜しい話で、出来れば差引勘定ぜろにしておかうといふ、甚だ水臭い了簡だと云へないこともない」

「それや、先生、詭弁ですよ」

 と、深水は、喰つてかかつた。

「詭弁でもなんでもない。さういふ考への上に立てられた友情こそが、美しい師弟の道なのだ」

 直人もこの議論は面白いらしい。鬼頭が再び言葉をついだ。

「しかし、僕らは、断じてそんな了簡はもつてゐません。恩義に酬いるなんて言葉は、それぢや撤回しませう。しかし、先生を敬慕する弟子たちが集つて、先生の晩年を慰めようといふくはだてなんです。ご住居でも、別荘でもかまひませんが、とにかく、今後、お疲れをお休めになる場所をひとつ提供しようと思ふんです。贅沢なもんぢやありません。ただ、先生のご趣味に適つたものを造りたいといふみんなの希望です。どうでせう。うんと云つていただけませんか?」

 すると、この時、千登世が口を挟んだ。



「ねえ、深水さん、さういふお話は、父に相談なすつちや駄目よ。やかましい理窟はわかりませんけど、みなさんのご好意なら、受けないつて法はないですもの。あたくしも父の気性はのみ込んでますし、それやなによ、どんどん、あなた方で運んでおしまひになればいいのよ」

 千登世の意見は単純であつたが、何処かきよをついたところがあると見え、鬼頭も、深水も、ややうろたへ気味であつた。

「馬鹿云へ。お前はまあ黙つてろ」

 と、直人は苦い顔をした。

「ああ、それやさうすればなんでもないんですが、僕たちも先生のご気性を呑み込んでるつもりですからね。あとで、いやだと云はれたら、引つ込みがつかないぢやありませんか」

 深水は、さう云つて、首を縮めるやうな恰好をした。

 千種は、さつきから、ひどく気づまりな空気を感じ、早く座をはづしたいと思つてゐるが、なかなかその機がない。

「お麦酒ビールでも、もつて参りませうか」

 と、彼女は、父に云つてみた。

「うむ、麦酒と、それから、こないだの鮭の燻製があつたらう、あれでもあけて来なさい。ぢや、話はもうすんだんだから、あとは、ゆつくり麦酒でも飲んで遊んで行き給へ」

 で、千種は、やがて台所で、女中のきぬを相手に酒肴の支度をはじめた。横浜の知合から貰つた、輸出品の見本と称する鮭の燻製は父の好物であつた。彼女は、桃色の肉の薄い切り身を、丁寧に皿に盛り分けた。

 それを、麦酒といつしよに盆にのせて、

「おきぬさん、あんたこれ持つてつてよ。あたし、あとのもの用意しとくから……」

 そのきぬが帰つて来て、

「旦那さまの分は、どういたしませう。もうお二階へおあがりになりましたんですよ」

「ああ、さう、ぢやいいわ、そのままにしといて……」

「でも、神戸の奥様が、お麦酒を召しあがつてらつしやいますから……」

「だから、それでいいのよ。あんた、兄さんところへ行つてね、鬼頭さんたちがいらしつてますが、お麦酒のお相手をなさいませんかつて、伺つて来て頂戴」

 兄の千久馬は、今時分家にゐないのが普通だと彼女は思つたけれど、それを確めたい気持もあつてみせにやつたのである。ところが女中の返事では、珍しく兄は部屋にゐるらしい。但し、今、洋服に著かへて何処かへ出掛けようとしてゐるのだから、彼女の想像が半分以上当つたわけだ。

「で、なんて云つてらしつた?」

「麦酒なんか家で飲めるかつて……」

「あら、いやだ、外の麦酒つて、どう違ふのかしら……」

 千種は、さういふ兄の言葉もわかるにはわかるが、わざと反抗の意気を示した。

「ぢや、いいわ、あたしが行くわ……」

 すると、そこへ、姉の千登世がもう、眼瞼を赤く染め、何が可笑しいのか、袂で顔をあふぐやうに笑ひこけながらはひつて来た。

「あんた……どうして、そんなに引つ込んでるの? いやよ、あたしにばつかりお客さんを押しつけて……さう、さう、さつきの話ね、ほら、受けるの受けないのつて話さ、たうとうお父さんの敗けよ。でも、あたしがゐなかつたら、どうなつたかわからないわよ。ぢや君たちの好意として、有難くお受けしよう。決して大袈裟なことはしてくれるな……。それで、万事解決……。ちよいと、お麦酒のお代り……」



 千種は、それでもと思ひ、兄千久馬の部屋をのぞきに行つた。

「ちよつとご挨拶だけなさいよ。今頃から何処へいらつしやるの?」

「何処だつていいぢやないか、おれはゐないことにしとけよ」

 この千久馬は、中学時代から今日までに落第四度といふ記録保持者で、別にこれといふ原因もなく、学校を怠ける癖がつき、生来どちらかと云へば内気で、友達交際づきあひも少く、従つて方々を遊び歩くといふよりも、一人二人のきまつた相手と、もそもそ寝転んで話をしたり、さうかと思ふと、たまには場末のカフエーなんぞで、自慢の詩吟をやることもある人物である。幾分精神薄弱の部類に属するのであらう。父の直人も、早くからそれを察し、何か適当な道を選ばせようとしたのを、当人案外志だけは雄大で、将来ブラジルへ渡つて材木王になるのだと云つて聴かず、流石の父も精根尽きて、ただ学期々々の授業料を渡してゐるに過ぎない状態である。

 彼が玄関へ出ようとするのと、深水が便所へ行かうとするのとが同時であつた。

「おい、ゐたのかい、久馬ちやん、随分顔を見ないね。あ、出掛けるのかい。ひでえ奴……何処へ行くんだか、教へろよ」

 からみつかれて千久馬は弱つてゐる。で、ただにやにやしてゐるだけではすまず、つい腕力で座敷へ引つ張り込まれ、麦酒を一杯飲まされてしまつた。

「今日はね、僕、約束があるんだ。嘘ぢやないですよ。手紙を見せませうか。なんて、そんなに驚くやうな手紙ぢやないさ。こら……」

 と云つて、彼は丁寧にもポケットを探り、一通の封書を取り出してみせた。

 千種は、丁度夏蜜柑の皮をむいたのを運んで来て、この様子をちらと見たのだが、何のことかと思つてゐると、深水がその封筒の上書を読んで、いきなり、

「なんだ、これや、神谷ぢやないか。君、近頃、あいつと交際つきあつてるのかい?」

「ううん、さういふわけぢやないんだけど、昨日、不意にこんな手紙を寄越したのさ。──そのうち遊びに行きたいと思ふが、何時が都合がいいか。あんまりご無沙汰してるから、君のゐる時に行きたいつて云ふんですよ。あいつ、家の親爺は苦手だつたからなあ。そいで、僕、今夜、寄つてみてやらうと思ふの。こないだの会に、それでも出たんだつてね」

 すると、深水は鬼頭の方へ笑ひかけながら、

「奴さん、だんだん昔懐しくなつて来やがつた。ね、僕が行つた時は、まだ、そんな風は見せなかつた、さう云つたでせう、鬼頭さん……。しかし、あれからですよ、大いに論じたからなあ……」

「それぢや、序に、今度の委員にしちまはうや。相当やつとるんだらう、あれは……」

 深水は、首をひねつて、

「うむ、ああいふ商売は、どの程度がやつとるといふのか、実はわからんよ。人はだいぶ使つてるが、まあ、元気は元気だつた」

「人物はしつかりしとつたなあ」

 今迄、ぼんやり話を聴いてゐた千登世が、この時、やや頓狂な声で、

「神谷さんつて……ああ、あの仙ちやんのこと? へえ、珍しい人物が現はれたのね。生意気つたらなかつた……あの少年、今なにしてるの?」

「それがね、姉さま、化粧品の製造なんですつて……驚いたわね」

 千種は、それを自分が云はずにゐられないやうに、しかもできるだけ突つ放すやうな調子で、朗らかに云つてのけた。



「うん、あいつあ面白い。今夜引つ張つて来よう」

 と云ひ出したのは深水であつた。鬼頭は、

「よせよせ、そんなにゆつくりしてゐられないぞ。早速あとの仕事にかからなけれや、君は名簿を作るんだつたらう」

「そいつは引受けた。おい、久馬ちやん、行かう……」

「ちよつと待つて……。あたしも行くわ。いいでせう」

 千登世が、さう云つて奥へ駈け込んだ。羽織を引つかけて出て来るまで、千種は、なんのことやらわからず、玄関でぽかんとしてゐた。

「姉さんはなかなか活動家ですね」

 二人きりになると、千種は、やつと今、自分が鬼頭と向ひ合つて坐つてゐなければならないことに気がついたのだが、彼女は、この男だけには一種の信頼を寄せてゐた。どんな場合にでも節度を守つてくれるものと、安心しきつてゐるところがある。それだけに、また歯痒はがゆいやうなところもあり、気むづかしい母親一人のために、結婚を躊躇してゐるのだといふ評判など聞くにつけて、こんな人物が恋愛をしたらどんな風になるんだらうと、凡そ自分とはかゝはりのない範囲で、勝手な想像をめぐらしてみることもあつた。

「お暑いでせう、上着おとりになつたらつて申上げたいんだけど……兵隊さんは、さういふわけにいかないのね」

「どうしてですか。お許しが出たら、何時でも脱ぎますよ。家へ寄る暇がなかつたもんだから、こんな窮窟な恰好でやつて来たんです。ぢや、失敬して……」

 彼は、さう云ひながら上着のホックを外し、無造作に後ろへ脱ぎ捨てた。

 千種は、それを畳んでおいてやらなければと気はついてゐたが、そこまでのサーヴィスは自分の柄でないやうな気がし、つい、知らん顔をしてしまつた。

「海の生活から陸へおあがりになると、なんだか変ぢやありません?」

「魚ほどぢやありませんが、まあ変ですね、当座は少くとも……。馬には髀肉の嘆つていふやつがあるけれども、艦はなんていひますかね。とにかく、物足らんですなあ」

「どういふところでせう、その物足りないつていふのは……。水平線が見えないなんてことも、その一つかしら?」

「うむ、なるほど、それもあるでせうね。しかし、もつと散文的な面白さがありますよ」

「例へば……?」

「さうですね、例へば、こんなユーモアも陸上勤務ぢや味はへません──ふねの上ぢや、第一に水を節約します。だから、風呂へはいるなんて贅沢ですからね。南洋方面なんかだと、ほら、時々驟雨があるんで、そいつを利用する。雲が出たッといふと、みんな真つ裸になつて、からだ中へシャボンをぬりつけるんです。そして、その雲が艦の上を通るのを待つてゐる。艦が雲の下を通るのをと云つてもいいでせう」

「あら、詩的ぢやないの」

「さうですか、まあお待ちなさい。すると、その雲が、頭の上をすつと通り過ぎてしまふ──雨は一滴も落ちて来ない」

「あら……」

「日がかんかん照つてるんですよ。からだ中のシャボンがぱりぱりに硬ばつて、爪で剥がさなけれや落ちないつていふ始末です」

 千種は、声を立てて笑つた。鬼頭は、自分で麦酒を注いで、ぐつと飲み干した。彼女が、重ねて酌をしようとすると、彼は、コップを差出す代りに、ぢつと眼を据ゑて、彼女の顔を見つめた。



「いやだ、なに見てらつしやるの?」

 と、千種はいくらか照れて、まぶしさうに顔を伏せ加減にし、こつちも睨むやうに相手を見かへした。

「なにつてこともないが、あなたを軍艦へ乗せて、方々引つ張り廻したら愉快だらうなあつて、ちよつと思つただけです」

「あら、そんなことできるのかしら……?」

「できませんよ、できないから空想してみるんです」

「ぢや、仮にできたとして、先づ第一に、何処へ連れてつて下さる?」

「さうですねえ……先づ演習を見せますね」

「あら、戦争ぢやないの?」

「戦争たつて、こいつはどうも……」

「どうせ空想なんでせう。あたしのために何処かの国と、戦争して見せて下さるつてわけに行かないの?」

「横暴ですね、あなたは……。ぢや、ひとつやりませう。そこで、若し僕が戦死したら、それでおしまひ……。助かつたら、そのあと南洋の無人島へ連れて行きませう」

「無人島ぢやつまらないわ」

「ぢや、鬼ヶ島……いや、ほんとに、鬼ヶ島つていふのがあるんですよ」

 千種は、酔つぱらひ相手の会話には、いくぶん自信がある積りでゐた。父も相当いける方だし、その父を取巻いて、毎年正月には、無礼講の酒宴がはじまり、放歌乱舞の光景すら見なれてゐるのである。しかし、鬼頭は、まだそんなに酔つてゐる風は見えなかつた。こつちがそのつもりであしらつてゐると、急に真剣な調子でかかつて来るやうなところがあり、彼女は、その度毎に、うろたへて眼をみはつた。

 ところで、今の話はひとつの寓話と取れないこともないが、それをどんな意味に解したらいいのか、相手の何気ない話しぶりに釣り込まれて、こつちも余計なことを云つてしまつたやうな気がして来た。彼女は、ことさら、戯談を戯談らしくするために、ビール壜を電燈にすかしてみた。

「もう沢山ですよ。あんまり酔ふと、またどんなことを云ひ出すか知れませんからね。叱られると大変だ」

 鬼頭は、縁に出て、籐椅子に腰をおろした。広いとは云へないが、手入の行き届いた庭である。借家でも住み方によつてはかういふ具合になると、直人はよくこの庭を客に自慢してゐるだけあつて、一見平凡な樹石の配置に、何処となく閑寂な趣がひそんでゐた。

 二階からは、英文の訳読をする若い声が漏れて来る。

「ほんとに、もうおよろしいの? もう一本ぐらゐ大丈夫でせう」

 千種も起ち上つて、訊ねた。

「それより、ちよつとここへ来てごらんなさい。ほら、そこへ蛍が飛んで来た」

「うそ……今時分……」

 と、彼女は、うつかりはしやいで、彼の傍へ走り寄つた。

「何処? ゐないぢやないの、そんなもの……」

「まあ、さう慌てないで、ゆつくりごらんなさいよ。いいですか、そら……」

 彼は、そうつと、千種の後ろへ廻り、肩越しに腕を差し出した。

「この方向……もつと右……あの達磨みたいな恰好した木ね、葉の大きな……その下に饅頭みたいな木が、二つ並んでますね……真ん中に石が白く見える……石ですよ……わかつた? よし。あの石の上端じやうたんを水平に左へ見て行きますよ……」

「わかつた……」

 思はず叫んで、千種は、鬼頭の腕を払ひのけた。

「なにがわかつたの?」

 鬼頭は、彼女のその手を、逆につかんで問ひ返した。



「なにつて、蛍でせう」

 と、そこで彼女は確めるやうに相手の顔を見ると、

「さうですか、ほんとに見えますか? どこ? どこ? 教へて下さい」

 鬼頭の胸が肩の上へ、のしかかつて来るのが感じられた。

「そいぢや、あの光つてるものはなに?」

 口惜しいがなんともしやうがない。木の葉に露がたまつてゐるのだと気がついても、彼女はもうそれを鬼頭の悪戯いたづらにしてしまふことができないのである。いきなり、身をかはして、奥へ逃げ込まうとした。

「あ、怒つたんですか?」

 千種は、遠ざかりながら、それに笑つてみせた。

「ちよつと失礼……お稽古がすんだやうですわ」

 なるほど、二階からどやどやと階段を降りて来る跫音が聞える。と、そこへ、玄関で姉千登世の甲高い声が、

「お客さまよ……」

 千種は、出ようかどうしようかと思つた。急いで鏡台の前に立膝をついて、両手の甲を頬に押しあてた。

 座敷では、もう「よう」「やあ」と、男同士の挨拶が交はされてゐる。あれが神谷だと彼女にはすぐにわかつた。

 姉が飛び込んで来た。

「あんた、なにしてるの? お麦酒まだあつて?」

 父が降りて来たとみえ、深水が今夜神谷を連れて来たわけを述べ立ててゐた。

「あの時代は、なんと云つても、羊頭塾華やかなりし頃ですからな。われわれが中心にならなけれや駄目ですよ。神谷君は、えらく方面違ひのやうに見えて、決してさうぢやないんです。これでやつぱり科学者ですよ。なあ、おい、さうだらう」

「いやあ、僕は商売人だよ。しかも、まだ海のものとも、山のものとも、わからんのだ。先生、僕はうんと金儲けをして、その金をどえらいことに使つてやらうと思つてるんです」

「まあ、使ふ方はゆつくり考へてもいいな」

 深水が分別顔で横から応じると、

「その話はいいや。それで、今日はどういふ相談があるの?」

「相談はすんぢまつた。あとは実行だ。君は忙しいやうだから、委員会に顔だけ出せばいいよ。事務所は、先生、此処にしておいてかまひませんか?」

「なんの事務所?」

「基金募集のです」

「変なもんだが、かまふまい」

「幾らぐらゐ集まるかなあ」

 神谷は、もう胸算用をはじめた。

「一口五円として、二千口は大丈夫だと思ふんだ、内輪に見積つてだよ」

 深水が云ふのを、

「おい、そんなことは、此処で議論すべきことぢやない。神谷君、すると、君はもう一城の主だね。部下は何人ぐらゐゐるんだい?」

 と、鬼頭少佐が訊ねた。

「十二人のうち、二人欠けたから、今は十人です。今朝から実はその事で転手古舞てんてこまひさ。その二人つていふのが、どつちもまだ子供なんだが、心中のおそれがあつてね。参つたよ」

 神谷は、そこへ唐紙を開けてはひつて来た千種に、その「参つた」顔附で目礼した。



 夜が更けて、女中が酒屋へ麦酒の追加註文に走る頃になると、座は大ぶん乱れて、神谷と鬼頭との間に殺気立つた論争がはじまり、深水がその間を取りなさうとするのだが、その甲斐もなく、神谷はたうとう、鬼頭の脱ぎ捨てた軍服を拾ひ上げ、

「なんだ、これが少佐の服か。少佐なら少佐らしい物の言ひ方をしろ。一国の文化といふものはな、君の気がつかないやうなところに重心があるんだぞ。日本は戦争に勝つたんびに何かしらを得た。しかし、一方で、何かしら失ひつつあつたんだといふことがわからんか。日本国民は万歳万歳と云ひながら……」

 と、その言葉が終るか終らぬうちに、鬼頭のこぶしが斜に飛んで、神谷の頭はぐらぐらつと揺れ、そのはずみに眼鏡の一方の蔓が外れた。

 それまで、微笑を含んで、若い同士の話に耳を傾けてゐた直人は、この時つと起ち上つて部屋を出た。

「おい、さういふ侮辱的な言葉は慎めよ」

 と、深水は、神谷の腕を押へたが、彼は徐ろに眼鏡をかけ直し、

「侮辱になるならなつたで構はん。おれは寧ろ、鬼頭さんを信じて云つてるんだ。軍人の神経過敏はいかん。国民は軍隊の有難さを百も承知してゐるんだから、君たちは大いに頑張ぐわんばつて差支ない。治にゐて乱を忘れない心掛けは、乱にゐて治を忘れない心掛けと相通じるのだ。さういふおれだつて補充兵だ。一朝事あれば武器を取つて、君たちの指揮に従ふ人間だ。なんのために戦ふのか、そんなことを誰も彼も二六時中考へてゐなけれやならんかどうか。進めと云はれた方向からは、何か恐ろしいものが押寄せて来るに違ひないのだ。後ろには命がけで護らなければならんものが、あるに違ひないのだ。日本人ならそれはお互暗黙のうちにわかつてゐる筈だ。日本といふ国は、一度も外国に負けたことがないから尊い国だといふのは間違ひだ。どうしても負けられないほど大事にしてゐるものがある、それがあることだけが尊いのだ。ところが戦争、戦争とそれに気を取られて、知らず識らず、国民の精神的栄養がお留守になるとしたら、これはどうすればいいんだ。それを君たちの責任だとは云はん。しかし、実際に責任をもつて、そのことを考へる奴がゐないんだ。それは、なぜだ。君たちほどに日本のためを思ふ人間が、ほかにゐないのか。さうだとしたら、これは大変だぞ。おれを殴つて解決がつくなら、いくらでも殴れ」

「貴様の云ふことはよくわかる。おれの家へ来い、もつと話をしよう」

 鬼頭は起ち上つた。

 この時、部屋の隅に縮こまつてゐた女二人は、ほつとして顔を見合はせた。が、神谷の固く結んだ唇の端から、たらたら血が流れでてゐるのを見つけ、千種は驚いて、姉の袖を引つ張つた。


十一


 鬼頭はハンカチを出して、神谷の膝の上に投げた。千登世は含嗽うがひの水を取りに行つた。が、深水は、

「なんでもない、なんでもない」

 と、云ひながら、部屋の中をうろうろした。そして、千種が、一つ時ためらつた後、急いで、自分のハンカチで神谷の口を拭いてやらうとした時、鬼頭は、

「僕がします」

 といつて、神谷の頭を抱へた。

「おい、悪かつたなあ。赦せ」

 それは極く自然な調子で、少しのこだはりも感じさせなかつたが、相手の神谷が、それで納得するものとは信じられないので、千種は、二人の顔を交る交る見比べながら、幾分の同情と反感との混つた気持で、彼がなんと返事をするか、ひそかに待つてゐた。

「おれも悪かつた。云ひ過ぎたよ」

 と、神谷は、幾度もうなづきながら、口の中で呟いた。

 すると、鬼頭は、千種の方を振り向いて、

「親爺は何処へ行きました? 呼んで来て下さい」

「もういいわ。疲れてますから、あんまり起しとくの可哀さうよ」

 千種は、きつぱりと答へた。

「ぢや、まあ、さういふことにして帰らう。神谷、もう大丈夫か?」

 深水が、実際以上に酔つたふりをして、まづ先に玄関へ出た。

「危いわよ」

 千登世がその後を追つた。

 鬼頭は何時の間にか神谷の真正面に胡坐あぐらをかいて、じつと腕組みをしてゐる。

 その時まで、部屋の隅でぽつねんと柱にもたれてゐた千久馬が、いきなり声をかけた。

「おい、仙ちやん、おれの部屋へ行かう」

「ああ、おれはもう少しゐてもいいだらう。鬼頭さん、帰つてくれ。そのうちゆつくり会はう」

 神谷は、ごろりと仰向けに寝転がつた。

 やがて、千種は鬼頭を送り出して玄関へ出ると、門の外で、姉の千登世が、深水の肩につかまつて、何やら早口に喋つてゐる。彼女は、はつとして顔を反けた。と、鬼頭が、脚を突つ張るやうにして短剣のバンドを締めてゐる、それと視線が合つた。

「やあ、千種さん、どうです、戦争見物は? 一向面白くもないでせう」

 彼が、ことさらなんでもないやうに云ふのを受けて、彼女は、これも負けない気で、

「あら、あたしに見せるおつもりでなすつたの……? なかなかご立派でしたわ」

 さう云つて、冷く取り澄ました表情をしてみせた。


十二


 すると、鬼頭は、一旦がくりと前に垂れた頭を急に昂然と起して、自ら厳粛さを取戻さうとするやうに、ちよつと肩をゆすぶり、つかつかと彼女の方に歩み寄つた。

「今のは戯談です。僕は決して酔つてはゐませんよ。いや、酔つてゐてもかまひません。ただあいつを殴つたのは、僕の軍人としての良心が、それを命じたからです。議論は時によると、無意味です。わかりますか? 野蛮な舌を封じるのは、ただ、この野蛮な腕があるだけぢやありませんか」

 彼は、さう云ひながら、千種の肩に両手をかけ、我武者羅にゆすぶつた。そして、彼女の眼の中にある和かな色をみてとると、そのまま黙つて靴を穿きだした。

 彼女は、その後ろ姿をぢつと眺めながら、今の野蛮といふ言葉を思ひ出し、この男がどこまで野蛮であるのか、その限界についていろいろと考へてみた。それもその筈で、家へ出入りする男性の誰彼と比較してみて、鬼頭は少くとも一番紳士的であるやうに思つてゐたからである。軍人といふ肩書に対する世間の通念はどうであらうと、彼一人によつて、若しも軍人全体が代表されるものなら、それは寧ろ軍人こそ現代の日本では、文化人の典型といふべきではなからうかと、時々考へるくらゐである。職業としての好悪は別として、自分の男性に対する好みは、或はさういふタイプなのではあるまいかと、ひそかに鬼頭の風貌を胸に描いてみることさへあつた。が、それを何時か友達の新島園子に云つてみたら、言下に「あなたは形式家ねえ」と、簡単にあしらはれたことがある。──だから、職業としての好みは別よ、と、弁明はしたが、相手は、一向わかつてくれず、自分もそれ以来、軍人でない軍人的タイプといふものが、ありはせぬかと気をつけてゐた。一目みて、いくらかそれに近いかなと思つたのは、野球チームの監督だつたといふ牧師さんだつたので、彼女は自分の鑑識に自信を失つた。

「ぢや、さよなら……先生によろしく」

 きちんと挙手の礼をしながら、鬼頭はもう一度千種の眼の中に何かを読み取らうとした。

 彼女は、もうそれに応へなければならないのだらうか? 鬼頭の自分に対する感情が、露骨にそこに示されてゐることは、なんと云つても疑ふ余地はない。ところが、こつちには、まだなんの用意も出来てゐないのである。が、それならそれで、なんとか合図のしやうはないものだらうか。

 そこで、彼女は、静かに眼を伏せて、まともなお辞儀をした。そして、

「失礼いたしました。またどうぞ……」

 と、低く、ほんの僅な親しみを籠めて云つた。

 鬼頭が門を出て、いきなり深水と腕を組んだのを見て、彼女は、奥へ走り去つた。座敷へ帰つてみると、神谷はまだ、ぢつと眼をつぶつて、あふむけになつてゐる。

 そして、舌のさきで頬の内側を突つ張り、傷口を探つてゐる様子であつたが、よく見ると、眼尻から涙が一筋になつて流れてゐた。

「お気分がわるいんぢやない?」

 彼女は、そつと訊ねてみた。

「いいえ、反対ですよ。せいせいしましたよ。それはさうと、折角の『わが憩ひの家』も、この調子だと、あんまり静かといふわけに行かんですねえ」

『わが憩ひの家』といふのは、ついさつき、今度建てる別荘の名前はなんとつけるかなど戯談に評議し合つた時、洋行中の次男千里が、伊太利の何処やらで偶然泊つたといふ宿の名前を、直人がふと思ひ出して、そいつに日本語をあててみた、つまりヴィラ・モン・ルポオの訳なのである。




女の役割




 それから一週間過ぎた。姉の千登世はまだ引上げる様子もなく、毎日ぶらぶら外を飛び歩いてゐる。今日は深水さんに誘はれて、映画を見て来たなどと大つぴらに吹聴することもあり、そんなことばかりしてゐて、例のお金の問題はどうするつもりなんだらうと、千種は、一人で気を揉んでゐた。と、ある時、

「今日はいいところへ連れてつてあげるわ、ついて来なさい」

「何処よ」

「何処つて訊くなら連れてかない。いいぢやないの、別に困るところぢやないから……」

「いやよ、そんな、子供みたいな……」

「あら、子供ぢやないの、あんたは? ぢや云はうか、実はお金の工面に行くのよ。お父さんはどうしても出して下さらないから、自分で奔走してみるわ。一人ぢや心細いんだよ。あんたもそばについててよ」

「心当りがあるの、姉さま」

「ないこともない。ぶつかつてみなけれや……」

「でも、その入用なお金つていふのは、いつたいどういふお金なの? あたしにはわからないわ」

「だからさ、それは詳しく云ふと、信次郎に内証であたしが、ある関係筋から受け取つたお金なのさ。商売をやつてれや、そんなことは当り前なんだけど、信次郎つていふのは馬鹿正直だからね。知らせると、うるさいのさ。そのお金は、あたし一人で遣つたわけぢやないわよ。信次郎の洋服代や、子供の入院費にだつてなつてるわ。ところがさ、そのお金のき目が一向現れて来ないつて、それを出した男が、あたしを責めるんだよ」

「お父さんにその話くはしくしたの?」

「しない」

「どうして?」

「馬鹿つて云はれるから」

「だつて、馬鹿なことしたんだから、しやうがないぢやないの」

「ひと口にさうも云へないさ。事情つてものがあるからね」

「そんなら、旦那さんに打明けるのが一番だわ。どつちみち、お父さんは無理よ。千里兄さんに毎月五十円だか送るのが大変らしいわ。骨董を売つたりなんかしてるんですもの」

「わかつてるわよ。どうせ他処よそへ出た娘のことまで心配してたらきりがないからね」

 千種は黙つた。そして、姉が出て行くまでぢつと部屋に閉ぢ籠つてゐた。

 その夕方、はじめて、伴直人先生慰労基金募集委員宛の書留が三通届いた。そして、更に、夜の九時頃、神戸から、千登世の夫久野信次郎ひさのしんじらうが突然やつて来た。直人から娘がこんなことを云つてるが、といふ手紙を受け取つたからであつた。

 ところが、肝腎かんじんの千登世は、まだ帰つてゐないのである。何処へ出掛けたのかと、父に訊ねられたが、千種は返事に困つた。信次郎が風呂を浴びてゐる間に、彼女はそつと父に耳うちをした。父は眉を曇らしたが、その後で、信次郎とビールを飲みながら、こんな風なことを云つた。

「だがね、信次郎さん、千登世といふ女は、さう大胆なことはしますまい。千種には多少詳しいことを打明けてゐるらしいが、まあ、直接訊いてやつてくれ給へ。もうほどなく帰るだらう。久しぶりで東京が珍しいらしいよ」

 すると、久野信次郎は、綺麗に分けた頭の、もう半白に近いびんのあたりを指先で掻きながら、

「お父さんの前ですが、あの奥さん、なにをしでかすかわからんですよ。わたしなんぞ、眼中にないですからなあ」



 十一時になり、十二時になつた。直人と千種とは、かはるがはる表の物音に耳を澄した。千登世は、たうとう一時になつても帰つて来なかつた。

「三鴨……」

 と、直人は、多少ら立つて、奥へ声をかけた。三鴨倉太は、鼻をすかすか云はせながら、しきゐの外へ手をついた。

「そのへんを見て来い。神戸の奥さんがまだ帰らんのだ」

「はあ、どの辺まで……?」

「どの辺つて……電車通りのへんから、ずつと……」

「お父さん……それより、あたしが行くわ。ひよつとしたら、あそこかもしれないから……」

 時間が時間なので、三鴨倉太が一緒について来ることになつた。

 千種は、一種の直感で、姉が現在深水の下宿にゐるか、さもなければ、彼と今夜の行動を共にしてゐるに違ひないとにらんだのである。ところで一旦家を出はしたものの、その深水の下宿が、四谷見附の附近とわかつてゐるだけで、町名も番地も空で覚えてゐないことに気がついた。今から引返して名簿を繰るのも変なものだ。

「倉さん、あんた深水さんの下宿知つてる?」

「深水さんの下宿ですか。いや、存じません」

「ぢや、しかたがないから、あんたそうつと裏口からはいつてつて、お父さまのお部屋にある知人名簿を、大至急持つて来て頂戴。いやだなあ、寒くなつて来たわ」

ついでに、お嬢さんの羽織持つて参りませうか」

「そんな芸当できないでせう、さ、待つてるから急いで……」

 梅雨のうちらしい重くかぶさつた夜空の下で、彼女は、袖を掻き合せた。昼間、なんかの時に帯の間にはさんだ蟇口がまぐちを、念のため調べてみた。小銭がいくらか、まあこれだけあればタクシーには乗れるだらう。

 横丁を通りまでぼつぼつ歩いた。車が拾へるかも知れないと思つたからである。と、丁度その時、一台の円タクが、その角で止つた。たしかに人は乗つてゐるらしいが、誰も降りる様子はない。おやと思ひ、彼女は何気なく、その車に近づいて行つた。が、突然、扉があいて、男が飛び降りた。それが、深水だつたので、彼女は、思はず物蔭に身を潜めた。彼は、また、車の中をのぞき込むやうにして、

「さあ、お降りなさいよ、早く。そんなこと云つちや可笑しいよ。これから何処を歩いたつて、どうにもなりやしないや」

 そこには、姉の千登世がゐることはたしかである。それが、また何か云つたらしい。

「え? 僕のとこまで……? 戯談ぢやない、今何時だと思つてるんです。無理を云ふと、もう遊んであげないから……」

 深水の艶のいい笑顔がぱつと硝子の反射に輝いた。同時に、その腕へ、転げ込むやうに、姉の千登世がからだをのり出して来た。そして、ぴよいと、爪先で立つて、あたりを振り返りながら、大きく溜息をついた。

 千種は、今だと思つたが、ついまた出そびれてしまつた。

 車を待たしたまま、二人は歩き出した。手を握り合つてゐることがわかる。千登世は時々、甘えるやうに相手の肩に頭をもたせかける恰好をした。千種は、それを見て、胸がどきどきと鳴り、物を云ひかけようとすると唇がふるへた。倉太がもうぢきそこへ姿を現はすであらう。自分が此処にゐることもすぐにわかるのである。

「姉さま……」

 と、そこで、彼女は無我夢中で呼んだ。



 深水のからだが弾機バネのやうにはづんで、千登世の手を振り払つた。

「いやねえ、そんなとこにゐたの? 遅くなつたから何処かで泊つて来ようと思つたのよ」

 姉は千種が追ひつくのを待つて、口早にさう云つた。

「しやうがないんですよ、姉さんは……昼間から人を誘ひ出して方々引つ張り廻すんだもの……。まるで不良マダムだ」

 さも大儀さうに深水が呟いた。

「いいのよ、不良マダムで……。男はかういふ時、お酒が飲めるから羨ましいわ」

「姉さんは、いつたいどうしたんです? 今日はいやにしよげてるんですよ」

 それをきつかけに、千種は、

「信兄さまが来てらしつてよ。まだ起きて待つてらつしやるわ」

 と、姉にだけ聞かせるやうに声を落して云つた。が、深水の方が先に驚いた顔をし、

「あ、いけねえ……僕はもう帰るよ」

 で、ほんとにきびすをめぐらして帰りかけるのを、千登世は、いやといふほど背中をどやした。

 それきりであつた。姉妹は、黙つて門をくぐらうとすると、倉太が、ひよつこり眼の前に立ち塞がり、

「名簿はどうしても見えませんですよ。先生に伺ひましたら、深水さんが持つてお帰りになつたさうです」

「ふうん」

 千種は、もういらないといふ手附をしてみせ、姉の顔をちらりと見た。

「兄さん、なにしに来たんだらう」

「さあ……。早くお上んなさいよ」

 千登世が座敷へはひるのと一緒に、父のかすれた声が、

「今日はもうおそいから、わしは先へやすまして貰はう」

「すみません」

 と、千登世は神妙である。やがて階段を上る父の跫音が聞え、次の間で、千種は固唾かたづを呑んだ。

「話は明日にしよう。お前も疲れてるだらう。ひとつ、床をとつて貰つてくれんか」

 千種は、さうさうと思ひ、女中を呼ばうとしてゐると、

「千いちやん……」

 と、姉が、舌を出しながらはひつて来た。

「もう寝たいんですつて……。あんたも眠いでせう。ごめんなさい」

 やがて、女中と一緒に夜具を運びながら、姉の方はどうしたもんだらうと、それを訊ねるのも気がひけて、妙にもぢもぢしてゐると、姉は、

「あたしのは、いいのよ、今迄通りで……」

 あつさりさう云つて、もう奥へ引つ込んでしまつた。

 昨夜までは、千種の部屋で、床を並べて寝てゐたのである。

 千種が義兄の信次郎に「おやすみ」を云つて引退ると、姉はもう寝間着に着かへて頸筋の汗をタオルで拭いてゐた。

「なんだか、変だよ。みんなあたしを迂散臭うさんくさい眼で見てるんだね。やつぱり帰つて来るんぢやなかつた……」

 電気を消して横になると、千登世は独言のやうにうなつた。

 どれくらゐ時間がたつたであらう。千種はたしかに、うとうとと眠りかけてゐた。と、障子が、がたんと音を立てて、それからすうつと開いたやうに思つた。



「千登世……千登世……」

 暗闇の中で、低く呼ぶ声が聞える。で、その声が義兄の声だとわかると、千種はぢつと息を殺した。早く姉が眼を覚してくれればいいと思つてゐるうちに、電気がぱつと点いた。

「おい、あつちへ行かう。やつぱり話を聞いとかんと眠られやせん。おれはなんとも思つてやせんぜ。ただ、ちやんとしたことを云ふてくれよ」

「変な方ね……。明日でいいぢやありませんか。今時分、見つともないわ」

「見つともないのは、お前の方ぢやないか。亭主をひとり放つたらかしといて、どこがえらいんぢや。そんなら、ここでもええ。その金つていふのは、どういふ金か、はつきり云ふてみい。僕に云へんとは可笑しいぢやないか」

「だから、明日ゆつくりお話するわよ。いいのよ、あなたにご迷惑はかけないから……」

「それがいかん。ご迷惑はかけんと云はれて、僕がお前のすることを安心して見てゐられるか、そこをよう考へてみい。辰郎たつらうは食ひ過ぎをやりよるし、ひな子はぴいぴい泣いてばかりゐるんぢや」

「不断からさうぢやないの」

「あツ! ああいふ無茶云ひよる。おお、寒い……ちよつといれてくれ……」

「駄目ですよ、そんな馬鹿な……妹がそこにゐるぢやありませんか」

 千種は、眼を固くつぶつて、そつと寝返りを打つた。一つ時、揉み合ふ気配けはいがして、電気が消えた。

 翌朝、千登世の姿は家に見えなかつた。鞄はそのままであるが、倉太が玄関の前を掃いてゐる時分、ちよつと散歩にと云つて出掛けたといふことがわかつた。

 この行動に対して、誰もなんとも云ふ元気がなかつた。昼近く、東京駅の発信で電報が届いた。彼女は、その足で神戸へつたらしい。信次郎は、それでも、にこにこしながら、──それなら自分はもうこつちに用はないと云つて、その晩の夜行で帰つて行つた。

 夕方、深水と鬼頭がやつて来た。

「どうです、大分集まつてますか?」

 書留の束を、千種が箪笥から出して来て渡すと、深水は、いちいち差出人の名前を読みあげた。すると、鬼頭が云つた。

「封は委員全部立会の上で開けようね。だが、もう少しあつてもいいな」

「まだ一と月あるんだもの」

「それやさうだ。誰だつて、かういふことは急がんからね」

「ところで、姉さんは?」

 と、深水が千種に問ひかけた。

「今朝発ちましたわ」

「今朝? 神戸へ?」

「君はいかんなあ、人の女房のことばかり心配して……」

 鬼頭がそれを戯談に云ふのを千種は暗い顔で笑つた。深水は、しかし、一向痛くもかゆくもなささうに、

「異性の友達として最も安全なのは人の細君ですよ。僕は恋愛も結婚もしたくないんだ。お互に或る程度以上の関係を否定し、寧ろ、忌避して、友情と少しばかりの夢を与へ合ふことは、男女の間の健全な道徳だと思ふんだ。遊戯的だつていいさ。それが若し、相手を傷けないなら、ちつとも非難すべきことぢやない。過ちのないことを確信して、火遊びができるといふのは、こいつは精神の鍛へられてゐる証拠ですからね……」

「ほう……君は、何時の間にそんな精神を鍛へたんだ?」

 と、鬼頭は、半分千種に笑ひかけながら、深水の全身を見上げ見おろしした。



 千種は深水の気負きをつた議論を聴いてゐると、それは何よりも苦しい自己弁護のやうにも思へるのだが、また一方、彼自身の場合を離れて考へてみると、さういふ精神の鍛錬(?)が何時どんな役に立つかも知れないといふ気がして来たのである。

「そんなことは経験でもなんでもない。一種のプライドだよ。さうでせう、千種さん、あなた、男の友達ありますか?」

 不意に訊ねられて、千種は大きく眼を見張つた。

「お友達つて、どういふ? うちへいらつしやる方以外に?」

「うちへ来る連中だつていいでせう。特別に交際してる男性と云ひますかね。一緒に映画を見たり、お茶を飲んだりする……?」

「そんなの、ありませんわ」

「ないさ、それや……」

 と、鬼頭がひとりで呑み込んだ。

「鬼頭さんはさういふけど、今時、この年になつて、そんなのないぜ。うそでせう」

 深水は、いつもよりはしやいで、なほ喋りつづけた。

「この家は妙な家だよ。親爺さんが自由主義、放任主義で、子供たちがみんな融通の利かん引込思案ばかりだ。千里氏があれでいくらか、無鉄砲なところがあるかな。久野夫人の如きは、表面は明けつぱなしみたいで、その実なかなか用心堅固ですからね。女の友達つて奴はやつぱり女であることは絶対必要な条件だよ」

「当り前のことを云ふな」

 鬼頭は、それでも、深水の相槌だけは打ちながら、もう興味がなささうだつた。

 さう云へば、自分なども融通の利かぬ引込思案であるに違ひないと、千種は思つたが、それもほかから見るほどではなく、これで機会さへあればどんな冒険だつてする気持はあるのだ。もつと正確に云へば、そのへんに転つてゐる機会チャンスなんか、拾つてみたところでたいしたことはないと思つてゐるので、女としての自分が、身も魂も打ち込めるやうな一人の対手あひてを、一生かかつてでも探し求めようといふ、この熱情を、誰にも見せないでゐるだけの話である。

 やがて、父が出て来ると、鬼頭は、この間の詫びのやうなことを一言しやべり、深水は今日の用事といふのは実はそれだけで、ついでに令嬢二人を今夜音楽会に案内しようと思つて来たのだが、千種嬢だけではどうであらうか。差支なければお許し願ひたい。帰りはさう遅くはならない筈だと、いくぶん固くなつて直人に申入れた。

「どうだい、お前は……?」

 と、父は、さういふ場合、さう訊ねるのである。

「さうね。音楽会は、なんですの?」

 すると、今度は鬼頭が、

「いやあ僕の友人の妹で、声楽をやつてるのが、こないだ伊太利から帰つて来たんですよ。鈴原すゞはらかね子つていふんです。ご存じないでせう。切符を押しつけられたもんだから、ひとつ利用しようと思つて……」

 鬼頭の音楽好きはかねがね知つてゐたし、以前から音楽会の切符は二三度持つて来たこともあるので、別に不思議はないが、今日に限つて、一緒に行かうといふのは面白い。

「久馬兄さんも行かないかしら……」

 さう、何気ない風で彼女は云つてみた。

「あいつは、派が違ふだらう。まあいい、連れてつて貰へ」

 父は、例の頤髭をしごいて、曖昧な笑顔を浮べた。



 時間もないし、夕食は外で簡単にすまさうといふことになり、千種は大急ぎで化粧にかかつた。姉に貰つたお召の単衣がまだ手を通さずにある。あれにしようと、彼女は、ちよつと浮き浮きした気持になつた。

 日比谷公会堂に近い帝国ホテルのグリルで、三人は卓子を囲んだ。

 鬼頭が主人役を承つて、二品三品軽いものを註文してから、千種に問ひかけた。

「此処ははじめてですか、あなた?」

「いいえ、以前二、三度、来たことがありますわ。たしか、ここだと思ふけど……」

 と、答へて、彼女は、そつとあたりを見廻した。たしか、新島園子と最初に食事をしたのがさうであつたし、その後、やはり園子に誘はれて来たことがある。女でもこんなところへどんどんはひれる勇気を羨やましいと思つたり、あんなに平民的を装つてゐても、やつぱり華族の令嬢は、かういふ場所に趣味をもつてゐるのかと思つたりしたものだ。

 と、そんなことを想ひ出してゐる彼女の鼻先へ、

「あら、珍しいわ……ちよいと……どうしたのさ」

 千種は、フォークを置くのも忘れて起ち上つた。園子が、女の連れと一緒に、そこへはひつて来たものである。

「たつた今、あなたのことを考へてたのよ、今日はね……」

 と、男二人の方へちらと視線を投げ、

「音楽会へ誘つていただいたもんだから……」

「ああ、さう……」

 そのあとは小声で、

「おい、紹介し給へ」

 千種は、しかたなく、

「覚えてらつしやらないかしら……さうね、時代が違ふわね……やつぱり、うちへいらつしやつた方よ……鬼頭さん……深水さん」

「あたくし、新島園子……序に、こちらは、女流作家の津幡秀子さん……どうぞ……」

 と、園子は、流暢に顔をかしげた。

 隣り合つた卓子であるが、園子は傍若無人に話をしかけた。

「思ひ出したわ……羊頭塾の記念祝賀会で司会なすつた方ね……あさう云へば、まだ、あたくし、お送りしてません……」

 改まつてお辞儀の真似をされ、鬼頭はまごついたらしい。が、すぐに、

「いや、何時でも結構です。僕も思ひ出しました。あの会で、途中から見えなくなつたのは、あなたでしたね」

「まあ、知つてらしつたの? ずるい方……。流石は名司会者ね、八方に気がおつきになるわ」



 これ以上の応酬は彼もできかねるとみえ、頬をふくらませて苦笑してゐると、深水が、

「ねえ、鬼頭さん、さういふ時、かういふんですよ──なに、八方でなく、あなたの方ばかり気をつけてゐましたつて……」

 すると、園子は、首をひねつて、

「そんなの、面白くないわ」

 その調子があんまりないので、千種は、脇の下にぢゆつと汗をかいた。しかし、気を取り直して、

「ねえ、園子さん……今夜お暇なら、そちらとご一緒に、あたしたちの方へ参加しない?」

「あんたたちの方つて……音楽会? なんだつけ?」

 千種が、それを説明すると、園子は、

「よし、行かう。行くだらう」

 と、傍らの津幡秀子に同意を求めた。すると、

「ほら、わたしは駄目よ、会が七時からだから……」

「さうか。よく会のある人だなあ」

 で、園子だけ、とにかく行くといふことになり、千種は、鬼頭の思惑おもわくをちよつと気にしたが、それを無視する快感のやうなものが案外強く、黙り込んで下を向いてゐる彼の肩先へ、時々悪戯ッ児のやうに微笑を投げた。

 日比谷まで、女は女、男は男と並んで道を歩くやうなことになつてしまつた。

「おい、黙つてたつてわかるよ。いよいよ、海軍少佐ときめたのかい?」

 肱を小突いて、園子が責めたてるのを、千種はむきになつて、

「馬鹿ね、ちがふわよ。きめたんなら、二人つきりで出掛ける筈よ」

「カムフラアジュつてこともあるからね。もう一人の、なんだつけ……よくあんたんちへ来てたね、あれも怪しいと思つてたんだけど……」

「深水高六よ。あれで凄いのよ」

「あんなの、知れたもんさ。だけど、あれでなくてよかつたよ」

「あんたも嫌ひね。どういふとこなんだらう、シャンのつもりでゐるからかしら……」

「男はみんな、なんかのつもりでゐるからね。面倒臭いよ」

 音楽会は満員であつた。やつと席について、第一の曲がはじまると、プログラムをのぞき込みながら、園子は、靴の先で千種の草履を軽く蹴つた。

「折角だけど、このソプラノ頭がわるいね」

 それが鬼頭の耳にはひりはせぬかと、千種ははらはらした。が、二曲三曲と進むうちに、たうとう園子は、我慢がならぬといふやうに伸びをしはじめた。そして、千種の耳元へ、

「おい、出ようよ。映画でも見た方が気が利いてるぜ」

 まさかそんなわけに行かぬから、千種はわざと聞えないやうなふりをしてゐると、

「ちよつと……ちよつと……」

 と、手招きをしながら、園子は腰を浮かし、席をはなれて、どんどん廊下の方へ出て行つた。



 どうにも仕方がなく、千種は、男二人に会釈をして、その前を通り抜けた。

「いやだわ、わるいぢやないの」

 廊下に出ると、彼女は、園子の肩をぶつやうに手を振つたが、それには平気で、

「あんな歌、聴いてられる?」

「だつて、わざわざ誘はれたんだから、ちつとはおつきあひをしなくつちや……」

「訊くの忘れたけど、海軍少佐のご招待なの? どつち?」

「さうよ、お友達の妹さんなんだつて……。切符を買はされたのよ、きつと……」

「よくあるこつたよ。だけどさ、おつきあひおつきあひで、あたしたちは自分のしたくないことばかりさせられてるんだもの……。あたしは、もう、うんざりだ。折角だけど、ごめんかうむるわ。あんたは、さうもいかないだらう、なんかの義理があるんだらうから──なんて、いぢめるんぢやないよ。本音を吐け、本音を……。今帰つちや、どうしても海軍少佐にわるいか、どうか、はつきり云つてごらん」

「はつきりつて、なにを? あたしの平凡な社交常識で云つてるのよ」

「時には、これに反抗してみる気にならないか?」

「時にはね、それやあるわ。程度の問題よ」

「ぼくはもう一切、譲歩しないんだ。君にわるいかも知れないけど、怒るなよ。あの女、気ちがひだつて云つとけよ」

「気分がわるくなつたつて云つとくわ」

「よし、よし……だけど、あの海軍少佐なら、まあ及第点だよ。僕の意見はそれだけ……。きまつたら、報告しなさい」

「ええ、それやむろん……」

 この流儀に慣れてゐるので、千種は無理に引留めもせず、ハンケチを振つて別れた。

 座に帰ると、アンダルーチャが終つて、儀礼的な拍手が起り、鬼頭は、うはの空で掌を重ねる恰好を繰返してゐた。

「なんですか、急用を思ひ出したんですつて……だから、よろしくつて……」

 なるほど、伊太利で修業をしたにしては、素人芸すぎるやうなところが、千種にも感じられた。それにしても、あの花環に埋まつた舞台の中央で、嫣然と胸をそらし、豪奢な振袖を重たげに左右に揺すぶる今夜の歌手、鈴原すゞはらかね子嬢の苦衷に、千種は人事ならず同情した。自信もあるにはあるんだらうが、ああいふことをさせる周囲にはどんな人がゐるのであらうか。

 外へ出て人波に揉まれながら、やつと日比谷の交叉点へ辿りつくまで、鬼頭と深水とは、彼女の蒼ざめた顔色に気がつかなかつた。

「どうしたの……いやに沈んでるぢやありませんか」

 鬼頭が声をかけた。

「ほんとだ……さう云や、陽気な歌は少なかつたね」

「どつかで休みませうか?」

 さう云ひながら、鬼頭が、立ち止るのを、彼女は、ぢつとその顔を見上げ、何かひと言、やさしい返事がしてみたくなつた。心の奥の奥で、深水さへゐなければ、と、ふとそんな気さへしてきたのである。



 それから、三人は、美松でアイスクリームをたべた。

 深水がビールを飲みたいといふのを、鬼頭は眼で叱つた。

「おれは禁酒したよ。何時まで続くか、こいつはわからん」

 と、彼は千種に笑ひかけた。

「どうして? あの事件以来ですか?」

 深水は探るやうに訊ねた。

「うん、神谷とその後会つて、酒の上の議論はやめようつて誓つたんだ。彼奴あいつは、かういつたよ。軍人と喧嘩をするのはつまらん。殴られるより殴る方が厭な気持に違ひないつてさ。これには参つた。あいつはなかなか考へてるね。こんだ喧嘩をしたかつたら、兵隊をやめて、殴られてもみつともなくないやうにして来いつていやがるのさ。笑つたよ」

 千種はそれを聴きながら、あの晩の光景を心に思ひ浮べた。しかし、かういふ男同士の殺伐な話の中に、妙に胸のすくやうな感じがあり、神谷のいつた言葉も面白くなくはないが、それを単純にうれしがる鬼頭の方に、より一層、頼もしい男性の襟度が示されてゐるやうに思つた。

 彼女は思ひきつて訊ねてみた。

「鬼頭さんは、時々、人をおぶちになるの?」

 すると深水が、

「さあ、この返事は面白いぞ。質問者はレデイですよ。用心して下さい」

 それに頓著なく、鬼頭は破顔一笑した。

「安心してらつしやい。決して、僕は女の人は殴りません。もつとも、殴つてくれつてのがあるさうですがね、僕の友人の女房がさうださうです。何時までも不機嫌でゐられるより、一と思ひに横つ面をはり飛ばされた方がせいせいするさうですよ。あとはなんでもないですからね。どうだい、深水君、さういふ細君は?」

「変態だな、それや……。僕はどつちかつていへば、女に殴られたい方ですね」

「それはどういふの、なほ変態ぢやないの?」

 と、千種は、うつかり本気になつた。が、すぐに、深水といふ男は、そんなことをいつてみるのが好きなのだと気がつき、女性に対する彼の興味がひどく荒んでゐるのを、どうしたわけかと思つた。

 時計を見ると、もう十時過ぎである。

「さあ、まだ惜しいが、お嬢さんをうちへ返して来るかな」

 鬼頭は、さういひながら、真つ先に席を起ち、深水に、

「君は自由行動を取れ。僕が護衛は引受けた」

 いきなり、命令のやうに浴びせかけて、悠々と出口の方へ歩を運んだ。

 深水は、眼をぱちくりさせ、それでも反対はせず、

「ぢや、僕は銀ブラでもして来よう」

 といつて、千種に意味ありげな目礼を投げた。

 タクシイの中で、鬼頭は、新島園子のことばかり問題にした。いちいちの批評が彼としては尤もであつたが、暗に自分へ註文をつけられてゐるやうでもあり、どうかしたはづみに、こつちへ鉾先を向けて来るのではないかと、千種はいくぶん覚悟をきめてゐたのだが、相手は謹厳といふか、淡泊といふか、二人きりだといふ意識がどこにも見えなかつた。ただ、時々、彼は、思ひ出したやうに、今夜は愉快だつたと、そればかり繰返した。さういふ彼の気持にこたへるものが自分のなかにもあることを、彼女は否定できなかつた。が、車は容赦なく家の曲り角で止つた。

 と、彼は、はじめて、千種の方に向き直り、

「かういふ機会を利用しては、ちよつと卑怯なやうですが……僕、近々、あなたに結婚を申込むつもりでゐます。考へておいて下さい」

 彼女は、全身の血が湧き立つやうに思ひ、ぎゆつとからだを硬ばらせた。

 それでも、彼の方へ一瞬大きく眼を見開いて、大胆に低く、

「そんなの、ないわ……。ぢや、ごめん遊ばせ……」

 あとは笑つて、ひらりと車から飛び降りた。




現代作法




「まあ、使へるつて云へばこれくらゐのもんね」

 と、新島園子は、小さいサロンの卓子の上に並べられた香水の壜の中から、ピラミッド型のをひとつ取り上げて、もう一度香ひを嗅ぐ真似をした。

「それ、イランイランの花です。ちよつと変つてませう」

 化粧品屋の註文取りにしてはぶつきら棒である。これは云ふまでもなく、神谷仙太郎かみやせんたらうで、商売を表看板に園子のところへ遊びに来たのであるが、遊びに来た序に商売もしてやれといふところかも知れない。

「南洋土人になるか、ひとつ……。でも、ぢき飽きさうね」

 園子は、壜の栓を取つて胸のあたりを二、三度軽くたたき、

「これで、おいくら?」

「見本として進呈します。この次から買つて下さい」

「約束はしないわよ。ただし、もつとうんと洒落たもの、お作んなさいよ」

「和製で高いと売れないんです」

「原料は、あたしが買つてもいいから、あなたの思ふやうなもん、ひとつ、調合してみない? あたしの方からも註文出すわ」

「面白いですね。だけど、あなたにさういふ趣味あるんですか?」

「女に向つて、なに! 失礼ぢやないの! あたしが不断使つてるの、あててごらんなさい」

「気がつかなかつた。あなたはお化粧なんかしないとばかり思つてたもんだから……」

「する時はするのよ。ほら、今日はしてるでせう」

 さう云ひながら、頸のあたりを突き出すやうにして見せる彼女は、なるほど、不断外で見馴れた彼女とは違つてゐる。堂々たる邸宅を背景に、この贅沢な小道具の中で、自然変つて見えるのであらうと思つてゐたが、さう云はれてみるとそればかりではなささうだ。

「家にゐる時はおめかしをし、外へ出る時は、剥がして出るんですか?」

 神谷は、このひと癖ある伯爵令嬢のいろんな生活が知りたかつた。

「ううん、さうでもないけど、今日は特別よ」

 と、にくらしいほどの身軽さで、ひとつの椅子から、ひらりと、隅の長椅子に腰をうつした。

「また商売の話ですが、ぢや、そのイランイランを少し宣伝してくれませんか。それから、紹介状もほしいな」

 これではまづいと思ひながら、どうも気がせくのである。果して、彼女は、

「驚いた。今日は、あたし、そんなつもりぢやなかつたのよ」

 すると、彼は乗りかかつた船で、

「しかし、なんですよ。さうしてるあなたとは、こんな話ぐらゐしかできませんよ」

「へえ、あなたも現金ね。ぢや、香水の用はないから、帰つて頂戴……」

「帰るもんですか。生活と芝居とをごつちやにしないで下さい」

「ごつちやになさるのは、あなたの方でせう」

「園子さん、僕を見損つちやいけませんよ。世の中に、あなたのやうな女を利用しようとするものは多いでせう。僕もその一人だと思つてるんですか? あなたに商売の話をしないですますぐらゐ、これこそ、なんでもないこつた。友達だと思はれなけれや、この家へこんなもん売りつけに来やしないんだ」

 彼は続けざまに呶鳴つた。



 園子は、その声が奥に聞えはせぬかといふ風に、ちよつと耳をすます恰好をしたが、やがて、からだを大きく前へこごめて、肩で笑つた。

こんなもんはよかつたわね。ほんとだわ、こんなもん、あたしでなけれや宣伝できやしないわ。──ええ、これは南洋フィリッピンの土人が全身の皮膚に塗つてをりまする異国情調豊かな香料を、神谷研究所独特の科学的方法により、純粋化粧品として精撰いたしましたるその名もをかしきイランイラン……」

 壜を片手でつまんで高く差上げ、もう一方の腕を腰にささへて、ゆるゆると部屋の中を歩き廻る彼女の姿を神谷は見るでもなく、見ないでもなく、眼と唇に余憤を残したまま、鼻だけはとつくに笑ひを噛み殺してゐる。

「手帳もつてる? 名前云ふから、お書きなさい。所は電話帳見ればわかるわ。親爺さんの名前で見なけや駄目よ。さうね、はじめ、やつぱり見本を送つて欲しいわ。効能書をつけてね。それにあたしの名、使つたらどう? 後で註文を取りに行くと……。国産高級品つていふ言葉入れるのを忘れないでね。定価は、これが仮に二円なら、十円ぐらゐにつけとくといいわ。壜の意匠を、もう少し工夫すること……。このクリームも、白粉も落第……。それこそ、こんなもん、あたしたちは使ひませんからね」

 へん、どうです──といふ顔附をしてみせて、彼女は、神谷の隣へ近く、からだをすり寄せるやうにして座を占めた。

 彼は、黙つて手帳を取り出し、万年筆の用意をした。

「いいこと? ええと、まづね……」

 最初の名前が、日本財閥の巨頭の一人だつたので、神谷は、こんちきしやうと思つた。誰々の娘とか、何々子爵の息子の嫁とか、いちいち説明づきで賑やかな人名簿ができあがる。かうなると、もう戯談半分に字を書いてゐるのとおなじで、しまひには彼の方で面倒臭くなり、まだあるのかといふやうな顔をしながら、時々名前を飛ばしたりした。

「どう、それくらゐでいい?」

 彼女は訊ねた。彼がうなづいてみせると、

「実はあたし、さういふ連中とあんまり交際つきあつてやしないのよ。でも、そこはいろんな関係があつて、新島の紹介つて云へば、相当ものを云ふわ。まつたく変に出来てるんだから……」

 そこで、彼女は、巧みに話題を転じた。もともと二人が識り合つたのはさかきといふ大学生を通じてであり、その榊が彼女に妙な手紙を寄越したといふのである。自分ひとりで読むのは勿体ないやうな、珍無類なラヴレタアだから、参考のために是非読んでおけと云つて、それを奥から持ち出して来た。

「そんなもん、読みたかないよ」

「あら、受け取つた当人が許すんだからいいぢやないの」

「書いた人が迷惑するでせう」

「さあ、さうかしら……。後世に残すつもりで書いたみたいなところがあつてよ。ぢや、あたしが読むから聴いてらつしやい。ええと、初めの方はなんでもない、さう、ここはどう? ……ところが、さういふ階級のなかから、新しい日本の、所謂「美しい性」を代表する一人の貴女が現れたといふことは、半ば不思議であり、半ば当然です。勇敢で、聡明で、技巧と……(タクトと仮名がつけてあるわ)タクトと気品とを兼ね備へ、殊に……」

 扉をノックする音に、彼女は、

「だあれ?」

 とこたへた。女中が、

「あの伴様のお嬢様がおみえになりましてございます」

「へえ、千種さんが……」

 明るく眼をみはると、今の紙きれを丸めて部屋の隅へ投げた。



 千種は、うつかり会釈をした相手が神谷だと気がつき、息がつまるほど驚いた。

「ここで会はうとは思はなかつたでせう」

 園子が、さう云ひながらすすめる椅子の背に、彼女はまだつかまつたまま、どうも腑に落ちないといふ顔附をしてゐるので、今度は神谷がつけ足した。

「園子さんは、僕の仲間で、同時にお華客とくゐなんです。尤も、お華客は今日からですが……」

「まあ、その話はゆつくりするとして、どう、この方のお店の品物は? 使つてる? つかつてない?」

「さあ、知らずに使つてるかも知れないけど……ああ、これがさうね……。いろんなもんがあるのね……みたことない、あたし……」

「どうして千種さんのとこへ持つてかないの?」

「追々と思つてるんです。確実な方面はあと廻しでいいでせう」

「あら、そんなに信用があるの?」

 と、千種もやつとその香水の壜を鼻に近づけてみる気になつたらしい。

「今日はなにしに来た?」

 突然、園子が、叱るやうな調子で云つた。

「うん、ちよつと……話したいことがあつたから……。でも、何時だつていいのよ。今日はお邪魔かしら?」

「どうして? この人ならかまはないんぢやない? それとも、絶対秘密か? そんなら、あつちへ行かう、あたしの部屋……」

「それより、僕はもう帰つてもいいんですよ。何れは、三人でどんな話でもできるやうにしたいもんだなあ」

「それや、あんたの心掛け次第よ」

 園子は、さう云つて、そこへ並べた壜を片づける手伝をはじめた。

「いやだわ、あたしが来たから、帰るつておつしやるんぢや……。もう少しいらしつたら、神谷さん……。三人でお話のできることが、いくらだつてあるんですもの」

「さう云へばさうだ。千イ坊がゆつくりしてけばいいんだから……。あんた達は、近頃あんまり、なんていふか、交際してないんでせう。話してごらんよ、二人で……面白いから……」

「この調子ですからね、かなはんですよ」

 神谷は、さすがに照れて、千種の方を横目でみた。

 彼女は、そこに、少年のやうな感じをみてとり、思はず笑顔になると、

「ねえ、千種さん、あの話、園子さんにした? ほら、例の事件さ、鬼頭海軍少佐の?」

 鬼頭の名を云はれたので、千種は、面喰つた。実は、今日園子に会ひに来たのも、その鬼頭のことで予め意見を聴いておきたかつたからである。

「なに、事件つて? あの音楽会の後?」

 今度は、神谷が、眼をぱちくりさせた。どの音楽会だらうと云ひたげな顔附である。

「違ふのよ、神谷さんのおつしやるのは、ご自分に関係のあることよ。あんなこと、云はなくつたつていいわ」

 何か云へばややこしくなりさうで、千種は、此処へ来たことを後悔した。果して、園子が、承知しなかつた。

「ぢや、自分で云つたらいいぢやないの、神谷君が……」

 で、鬼頭少佐の武勇談が一席はじまつた。

 神谷の話し振りは、園子に腹をかかへさせた。彼が、鬼頭の一面を戯画化する調子のなかに、少しの敵意をも含んでゐなかつたのは事実だが、それでも、千種は、ひとり憂鬱に黙り込むよりほかなかつた。



 神谷は、早くもそれに気がついたらしく、今度は、千種の方に向きなほつて、しきりに話しかけた。鬼頭のことがやはり中心であつたが、軍人には敬礼といふものがあつて便利だといふことから、今の日本人はお辞儀がまちまちで、お互に誤魔化し合つてゐるやうなもんだが、それだけでも人に会ふのが億劫になるといふことや、女の人はその点では割に素直だから、相手次第で適切なお辞儀がひとりでに出来るのではないだらうかとか、その間に、いろんなお辞儀の恰好を真似てみせて、これは尊大、これは卑屈、これは無関心、これは軽薄、という風に、お辞儀本来の目的を失つて、人間同士の感情を絶えず波立たせてゐるに過ぎないのだと彼は主張した。封建時代のお辞儀はそれでよかつたのかも知れぬが、その精神を失つて形式を守つてゐる状態が不自然なので、もともと西洋流の礼式を真似る気にもならず、と云つて、実際の生活感情はそれに近づいてゐるといふ矛盾が、遂にわれわれから共通の挨拶方法を奪つたのだと、彼は見てゐるのである。

「さう云へば、あたしたち、お友達同士はどんなお辞儀してたかしら?」

 と、千種は、園子の方をかへりみた。

「ごしやごしやつとやつてたね。だけど、ああいふのはどう? どつちからともなく指なんか触り合つたりさ……肩を無やみにぶつけたりさ」

 園子がさういふと、神谷は、即座に、

「まあ、犬みたいなもんさ」

 と、批評した。

「さう云へば、今の小説なんかに出て来る日本人の恋愛なんていふもんにも、さういふところがありやしない?」

 一大発見をしたやうに、園子が語勢を強めて云ふのを、神谷は、軽くうなづいて、

「実は、それを僕は云ひたかつたんだ」

 と、千種は、自分でもいまそのことを考へてゐたところだつたので、これも、膝を乗り出さんばかりに、

「日本人のラヴ・シインなんて、想像できないわ」

 すると神谷が、

「想像はできるでせう、どんなんでもよければ……」

「あら、どんなんでもいいつて云つてやしないわ」

 千種は、ややむきになつた。その時、園子が茶化すやうに、天井を向いて、

「しかしだね、シインのないラヴなんていふの、いいぢやないか」

 千種は、その言葉がぴんと自分に来るやうな気がした。が、同時に、神谷が叫んだ。

「賛成だ。僕は、それをやつてみせるよ。ねえ、千種さん、園子さん、君たちもやらなきや駄目だぜ」



 しかし、日本人がかういふことを考へながら恋愛をするとしたら、それはずつと、西洋人よりも進歩してゐるんだといふ結論になり、三人は、好い気持で紅茶をすすつた。

 千種は、もう園子になんにも相談する必要はないと思つた。自分に判断のつかないことが、園子に判断のつくわけはないのだし、鬼頭の心持が、それこそ、シイン抜きで、こつちに感じられさへすればそれでいいのである。きつとさういふ時機が来るだらうと彼女はもう信じきつてゐた。

 丁度そこへ、奥から園子をちよつとと云つて呼びに来たので、千種は一緒に起ち上つて、

「あたし、また来るわ。今日は少し急ぐから……」

「だつて、なんか話があるんだらう。すぐ来るよ」

「いいの、もうすんぢやつたから……」

 うつかりさう云つて、千種は自分ながら可笑しかつた。どさくさ紛れに、問ひ返されないですんだが、神谷も、

「そんなら、僕も……」

 と云つて、後にくつついてくる様子なので、玄関への道を譲ると、彼は、園子に、

「ええと、僕が靴を脱いだのはどつちだつけな」

「あんた、どつから上つたの?」

「知らない」

「ぢや、玄関へ廻させるから、待つてらつしやい」

 表へ出ると、彼は、大きな包みをぶらさげた手を精いつぱい振りながら、

「ああいふ暮しもわるくないな。馴れないと落ちつかないだらうが、別に不合理なところはない。実用と装飾とを或る程度まで引伸ばすと、まづ、ああなるんだらう。出来るやつにはさせておく方が、いろいろ参考になつてよろしい。ねえ、千種さん、序に僕の家へも寄りませんか。アトリエを見て下さい。これも参考になりますよ」

 時計をみると四時だつた。高輪から品川の駅へ出る道である。彼女はそこから省線で市ヶ谷まで行くつもりであつた。彼が、

「それぢや、お茶の水二枚」

 と、出札口に立つた時、ふと、彼女の胸に、あの、いやな思ひ出が蘇つて来た。

「駄目よ、駄目よ、五時に帰る約束だから……」

「五時に帰しますよ」

「今からぢや、そんな暇ないわ。また何時か見せていただくわ」

 神谷の失望したやうな眼の色のなかに、彼女は早くもある特別な感情を読み取つて、ギクリとした。それは、彼女の記憶の底に残つてゐる少年の「強迫する眼」ではなかつたが、もつと複雑な、穏かに迫つて来る男の逞しい眼であつた。

 彼女は、慌てて切符を買つた。そして、努めて何気ない風に挨拶を送ると、そのまま、後ろも見ずにプラット・フォームへ駈け下りた。

 その翌日である。

 土砂降りの雨の中を、昼近く、椎野しひのといふ人物が父を訪ねて来た。千種は、その顔をみてはじめて気がついたのだが、これは、いつかの祝賀会にも出席し、号令のやうな声でテーブル・スピーチをやつた例の海軍中将なのである。



 その椎野が一時間ばかり父と話し込んで帰つて行つたが、千種は、すべての様子で、もうこの訪問の意味を勘づいてゐた。

 父はすぐに彼女を呼びつけて、

「また嫁入りの話だが、お前、あの鬼頭といふ男をどう思ふ?」

 で、千種は、

「やつぱりそのことなの?」

 と、逆に、父の意向をたゞすつもりで、ぢつとその顔を見返した。

「鬼頭から、何かもう話があつたのか」

「ええ、それが変なのよ。ぢかにさういふこと云つちやいけないと思つてるらしいの。をかしくつて……」

「それやいいが、一体、お前の方はどうなんだ? 行く気があるか、ないか?」

「お父さんさへいいと思ひになれば……あたしは……」

「よし、わかつた。さう返事をしておかう」

 すると、彼女は、急に慌てて、

「ちよつと待つて……。そんなにすぐ返事をしないだつていいんでせう。あたし、もう少し、あの方のいろんなところ識つときたいわ」

「うん、それもよからう。まあ、二人で一度ゆつくり会つてみるさ。しかし、なんとしても、わからんところはわからんのだから、そんなに先の先まで考へなくつたつていいよ。お前が結局鬼頭のところへ行くといふのは、こいつは面白い。お父さんは、無論、反対はせんが、時節柄、よほど腹を据ゑてかからんといかんな。軍人とはどういふものか、その仕事が世間一般の仕事とどう違ふか、どんな考へ方をすれば、彼等を心から尊敬の眼で見ることができるか、さういふ風な点で、あやふやなところがあつちやいかん」

 父の言葉は、いつになく厳かで、悲痛な調子さへ帯びてゐた。

 千種は、さう云はれてみると、鬼頭が海軍将校であるといふことをうつかり忘れかけてゐたのである。彼女は、それでいいのだと思つた。

 父からどういふ返事が伝へられたものか、それから四、五日たつて、鬼頭は彼女に宛てて、直接手紙を寄越した。


 先夜は失礼しました。

 扨、椎野中将から、父上先生並に貴嬢の御意見承はりました。小生も同感であります。就いては、隔意なき懇談を試み、相互の理解を深めるため、一夕、貴嬢を小生宅へ御招き致したく、老母もひたすらそれを希望してゐますので、明後土曜午後六時頃、御差支なくば、小生お迎へに上りたいと思ひますから、左様御承知下さい。

 なほ、父上先生にも直接小生より申上げたいことがありますが、何れ機を見て参上いたすつもりでをります。よろしく御伝へ下さい。

 先は要用のみ
頓首
七月二日
鬼頭令門
伴 千種様



 その日、鬼頭は、役所の帰りだといふのでまた軍服を着て来た。ともかく上へあがつて、父と二言三言話しをしたが、千種は、その場へは顔を出さず、やがて二人は並んで門を出た。

 車が待たせてあつた。鬼頭は、彼女に先へ乗れと云つた。彼女はためらつた。彼はもう一度「さあ、そんなことを遠慮しちやいけません」と云つた。

 彼は、まづ、自分の母親といふひとのことを話した。第一に田舎者であること、女の手ひとつで子供二人を育て上げただけあつて、なかなか男勝りだといふこと、従つて他人にはがつちり屋に見え、金銭のこと万端締るところは容赦なく締るが、義務の観念は十分あるのだから、決して世間で云ふ吝嗇けちではないといふこと、兄貴の嫁がこの母親の性質を理解しないために双方で不満をもち、たうとう別居することになつたが、自分は寧ろ母の方に同情を寄せてゐるといふことなどを述べ、最後に、

「しかし、あなたなら、きつとうまく行くと思ひます。母の方も、あなたのやうな女をかねがね僕にと思つて探してゐたらしいんです。今度の話は、母が第一に乗気でしてね。僕は少し不平なくらゐですよ」

 黙つて聴いてゐた千種は、このひと言で、やつと相手の気持に乗つて行けるやうな気がした。で、そこでちよつと首をかしげてみせ、

「あたくし、そんなに従順に見えるかしら……」

「要するに聡明ならいいんですよ」

 と、彼はもうひとりで決めてしまつてゐる。

「あら、そんな風におつしやると、あとで取返しがつかないわ」

 うは眼づかひに彼の方を見上げると、鬼頭はいきなり片手を差出して、彼女の手を求めた。が、それには応へず、彼女は、両手を後ろへ廻し、肩で防ぐ身構へをした。

 彼の手は、彼女の膝の上に残つた。

「どうして? まだ早い?」

 小声で、彼は囁いた。彼女は、黙つて、重々しくうなづいた。しかし、彼は、こだはりなく話をしつづけ、彼女も、何時の間にか警戒を解いてゐた。

「此処です」

 と云はれて、彼女は、

「へえ、こんな家なのか」と思つた。門構へとは名ばかりな二軒建の平家ひらやで、玄関の障子を開けると、勝手から揚げ物の臭ひがして来るのである。しかし、掃除だけは行届いて、古い柱が艶々と光り、座敷の床には新しい百合が生けてあつた。

「初めまして……」

 と、型通り、切髪きりがみの老婦人の前に彼女は手をついた。

「まあ、まあ、ほんとに……」

 あとは何やら、感心したやうな表情のいろいろを、千種は、いい加減に読み取つただけであつたが、鬼頭の説明で、こんな綺麗なお嬢さんが、こんなむさくるしい家へ、ようこそお越し下さつたといふ意味であることがわかつた。

 面白いのは、母親から何か訊ねられる度に、鬼頭が、「はあ、はあ」と云つて、いちいち、頭をさげるやうにして返事をする恰好である。

「それぢや、まあ、お母さんは、食事の支度の方をお願ひします。僕はもう腹がぺこぺこですよ」

 すると、母親は思ひ出したやうに、慌てて起ち上つた。そして、女中がゐないもんだからといふやうな云ひ訳をしいしい、奥へ姿を消した。



 ご馳走は凡て類のない取り合せで、これが母一流の田舎料理だと聞かされ、千種は、却つてうれしかつた。殊に気持がよかつたのは、チャブ台に三人分の用意がしてあつたことである。鬼頭と差し向ひで食べさせられ、それをぢろぢろ見てゐられる辛さを思ふと、かういふ心遣ひが寧ろ感謝に値するものであつた。

 中学生の令門を連れて、はじめて羊頭塾の門を潜つた時の話を、母親は、例の方言でまくしたてた。

「あんたさんは、おいくつの時ぢやいろ」

 といふ言葉だけはわかつたので、千種は、鬼頭の顔を見ながら、

「さあ……あたくし、そん時のこと、ちつとも覚えてないわ」

「それやさうさ、僕だつて覚えてやしない」

「あら、覚えてらつしやらない、あなた?」

「ううん、君のことをさ。あの時分は、お母さんがゐて、のこのこ出て来るとやかましかつたんでせう」

 しばらく話が途切れたが、突然母親は、独言のやうに呟いた。

「九つ違ひか……ちやうどええわ」

 千種は、ぐつと可笑しさが込み上げて、危ふく吹き出さうとしたが、幸ひ、鬼頭が大声で笑つてくれた。

「なにを云ひ出すんです。ほらほら、お代りですよ」

 なごやかな晩餐であつた。食後の枇杷びわを、鬼頭は、「これがよささうですよ」と云つて、母親に取つてやり、千種には、

「枇杷のほんとの食べ方知つてますか」

 さう云ひながら、皮をくるりとむいて、そのままひと口にかぶりつき、綺麗に軸と種とを残してみせた。

「やつてごらんなさい」

 すると、母親は、

「無理なこと云ふもんでねえけに」

 と、これも戯談と知りながら、たださう云つてみるのが楽しい風である。

 やがて、二人きりになると、鬼頭は、やや改まつて、

「あなたが家を出ると、お父さんがお困りになるといふやうなことはないでせうね」

「ええ、多少は不自由だらうと思ひますけど……でも、そのつもりになれば……」

 話が飛びすぎるやうに思ひながら、それでも、彼女ははつきりと答へた。

「僕として、何かお話しておくべきことがありますかねえ? 当分、この程度の生活で、不満はありませんか?」

「そんなこと別に……」

「ぢや、僕のからだは国家に捧げたものだつていふことも考へて下さつてますね」

 そこで、彼女は、返事につまつた。彼は、いつたい自分に何を云ふつもりなのであらう? どんな覚悟をしろと云ふのか? 夫としての義務が、国家に対する奉公と、どう矛盾するのであらう? 公の仕事のために、男が全生命を打ち込むといふことが、どうして、妻の身にとつて不幸なのであらう? そんなことが問題になるくらゐなら、結婚などの必要はない筈ではないか? いや寧ろ、さういふ男は、妻を持たないのが理想ではないか? 国家のためとか、研究のためとか、いや、なんのためとか、男はなぜさういふことをすぐ口に出していふのであらう? 家庭以外の、或は以上の生活を認めるといふことは、夫婦の愛情や義務とは関係のないことではないか? 一方のために一方がお留守になるといふことは信じられないばかりでなく、男が絶えず女の束縛から脱しようとする口実に天下国家の名が叫ばれるのだとしたら、ああ、女は、どうしたらいいのか?



 千種の不意に考へ込んでしまつた様子に驚いて、鬼頭は、頭をがりがりと掻き、

「いや、別にむづかしいことぢやないんですよ。ただ、軍人は何時死ぬかもわからないし、ふねへでも乗り込むやうになると、長く留守もさせなきやならず……」

「それや、わかつてますわ。そんなこと、軍人でなくつたつてあることですもの。それより……」

「それより、なんです?」

「それより、まだ伺ひたいことは……でも、よすわ……お話だけぢやわからないから……」

「話だけでわからんといふのは、どういふんだらう?」

 彼は、いくぶんき込んだ。彼女は、呼吸いきがつまりさうになり、やつと口籠りながら、これだけのことを云つた。

「でも、軍人の妻つていふのにはいろいろ資格がいるんでせう? どんな資格がいるか、それをまづ、おつしやつて」

 すると、相手はひどく恐縮したやうに、

「僕があなたにそれを云ふのは変ですよ。だつて、あなたは、その全部を備へてゐると僕が認めたんだもの」

「ぢや、さういふ資格が備はつてゐることが第一条件なのね?」

「だと、思ひますがね。僕が好きになるとしたら、当然さういふ女ですよ」

「さういふもんかしら……」

 と、彼女は、やうやくほつとしたやうな、しかしまだ問題を残しておくといふやうな謎めいた笑顔を作つて、帯の間からコンパクトを取り出した。

 その時、母親が袋戸棚をごそごそ掻きまはし、大きなボール箱を引き出して、二人の前へそれを置いた。

「なんです、写真ですか?」

 鬼頭は、恐る恐る中身を改めるやうに蓋を取つた。

「これが、親爺です。死ぬ間際に撮つたんだな」

 明治中期型のフロックコートに、シルクハットを片手に持ち、頭髪を真ん中から綺麗に分けてゐる。千種は、何時か何かの口絵でみた板垣退助を思ひ出した。裏には、陸軍通訳官正七位勲六等鬼頭源之丞きとうげんのじやう、明治四十一年正月写之と達筆な署名がしてあつた。

 母親が差し出した一枚の写真を、何気なく受取ると、

「それ、わかりますか?」

 と、鬼頭がのぞき込んだ。

「可笑しに撮れとる」

 母親がそばからさう云つた。令門がまだ父の腕に抱かれ、一家四人が揃つてうつした、所謂記念撮影である。

 千種が、声を立て得ず笑ひ崩れるのを、鬼頭は、わざと真面目に、

「頭に毛があるのかないのか、どつちだらう?」

 それから、兄貴夫婦、親類の誰彼、兵学校時代、軍艦の砲塔の前で写したといふの、しまひに、同僚の新婚記念などいふ皮肉なのまで飛び出して、千種は変にくすぐつたくなつた。

 さうして時間が経つた。九時過ぎに、彼女はまた鬼頭に送られて家に帰つた。門をはひる時に、彼はつと立ち止つて、

「どうですか? 今日だけの印象を云つて下さい。及第ですか? 落第ですか?」

 彼女は、そこで、十分に親しさを籠めて云つた。

「たいへん愉快でしたわ、ほんとに……」

 あツと思ふ間もなかつた。鬼頭の両手の中に、彼女の手は固く握られ、そのまま二人は、玄関までの暗い数歩をゆるゆると歩いた。




人情縄の如し




 鬼頭令門は勤務時間を終へて、二、三の同僚と一緒に役所の門を出て来た。彼は今日、特命検閲使随員を命ぜられ、近々九州方面へ出張することになつた。そのため、準備書類を一と抱へ鞄につめこんで、彼はそれを重さうに提げてゐるのである。

 ──今夜は徹夜だ。

 彼はさう覚悟をしてゐる。が、特別な任務を与へられた時、誰でもが感じる興奮と希望とを彼も亦感じてゐた。

「佐世保はええぞ。長崎が近いからのう。ラ・バタイユの古跡でも見て来い」

 ラ・バタイユといふのは、長崎を背景にした仏蘭西の小説で、日本の海軍将校が主人公として登場する関係上、彼等の間では有名なのである。

 一人が鬼頭の肩を叩いた。

「いや、バッタアフライに会つて来た方がよからう」

 もう一人が横から口を挟んだ。

 鬼頭は、何時もなら、それしきの戯談を一と言でへこますぐらゐの機略をもつてゐるのだが、今日はうはの空で、ただにやにやと聴き流してゐた。

 ──さうすると、ゆつくり彼女にも会つてゐる暇はないな……

 ふと、心の中で彼は呟いた。

 ──はつきりした約束をしておかんでもいいかな。あれで十分かな。敵は殲滅するまで追撃しなけれやいかんのぢやないか? いや、逃げる心配のない場所へ追ひ込んではあるつもりだ。警戒をゆるめなければそれでよからう。

「おい、鬼頭、よつぽどうれしさうだな。しかしな、随員なんていふのは、まるで小使だぞ。酔つ払つてる暇なんかないぞ」

 いまいましさうに、また一人がやり出した。

「単独行動は諦めた方がいいぞ」

 すると、彼はやつと我に返つて、

「羨ましけれや代つてやらうか? 女房の許可を得て来い」

 電車の停留場にさしかかると、それぞれ、「やあ」と云つて挙手の礼をした。鬼頭が品川行のバスへ飛び乗らうとした瞬間、

「あツ、鬼頭さん……」

 と、後から声をかけられ、機械的にそつちを振り向くと、そこへ、深水高六が、これも鞄を小脇に抱へて、汗ばんだ額に皺を寄せながら駈け寄つて来た。

「おお、君か、どうしたい?」

「いや、実はね、ちよつと調べ物があつて、ついそこにゐる先輩の家を訪ねたんですがね。あなたのところへ寄つてみようか、どうしようかと考へてたとこなんです」

「役所へかい、うん、今日は少し遅くなつたんだよ。何か用? さういふわけでもないの?」

「ええ、ほら、羊頭塾の基金募集ね、あのことも相談しなけれやならないし、一度委員会を開かうと思ふがどうですか」

「いいだらう。ただ、僕は、今えらく忙しいんでね。まあ、みちみち話さう」

 深水は鬼頭の家までついて行くことにし、二人はバスに乗り込んだ。



「申込口数が六百十七、人数にして三百人足らずです」

「すると、金額では……?」

「ええと、三千いくらかですね。まだ少しは、来ると思ふんですが、どうも成功とは云へませんね」

 深水は、最初の意気込もあつただけに、ちよつとしよげ気味で、浦川うらかは子爵の十口はどうかと思ふとか、蓮沼はすぬま司法次官の四口に至つては、冷淡も甚だしいではないかとか、満洲から名前も知らないやうな男で二十口といふ申込があるのは、さすが時代の風雲を語るものだとか、そんな話をしたあとで、

「僕も実は、今の学校をやめて満洲へでも行つてやらうかと思つてるんです。向うの大学ならいきなり教授ですからね」

「だつて、口はあるのかい」

 と、鬼頭が云つた。

「それやありますよ、話しとけば……。日本にゐては食へないといふ決定的事実の前に、だれが悠然としてゐられますか?」

「なんだい、君は月給ぢや足らんのかい?」

「月給ぢやない、時間給ですよ。まあ、しかし、そんな話はどうでもいいや。ぢや、あなたが忙しけれや、僕たちだけで、事務は取りますよ。あとは集金だけですからね。それと、山羊さんの希望を訊いて、とにかくそれだけで建つ家を建てようぢやありませんか」

「なるほど、三千円ぢや大きなことは云へないな。まあ、いづれ、その相談はゆつくりするとして……。僕はここ一と月ばかり役所の用事で地方へ出掛けるんだがね、その前に暇がとれたら、一度寄つて話をしよう。多分駄目だと思ふが……」

 二人はそれだけの話をして別れた。

 が、鬼頭はつ前に、ちよつとでも千種の顔をみておきたいと思ひ、役所が少し早く退けたのを幸ひ、伴家を訪れた。それでも、時間はもう八時を過ぎてゐた。ことによつたら玄関で帰らうと、そのつもりで呼鈴を押すと、例の倉太が出て来て、先生は授業中で、お嬢さんは夕方から出掛けて帰りは遅い筈だと云ふのである。

「お嬢さんは何処へ行つたの?」

 彼は思はず、突慳貪つつけんどんに訊ねた。

「さあ、新島さんからお迎への車が来て、そのままお出掛けになつたんですが……」

「新島つて……あの伯爵の令嬢かい?」

「さうです。多分映画かなんか観にいらつしつたんでせう」

「ぢやね、この名刺をおいてくから、お嬢さんに渡しといてくれ給へ」

 彼は鉛筆で、その裏へ次のやうに走り書きをした。


 公務のため一ヶ月ばかり九州方面へ出掛けて来ます。お暇乞ひに上りました。出発前一度お目にかかりたく思ひますが、残念です。父上先生にもよろしく。


 それを倉太に渡して、帰りかけようとすると、

「あの、只今、深水さんと神谷さんが見えてますが……」

 と、倉太は、今になつて云ふのである。

「なんだ……そんなら会ふよ。さう云つてくれ。よし、上つてもかまはんね」

 彼はづかづかと、勝手に座敷の唐紙を開けた。



「や、鬼頭さんだ」

 そこでは、深水と神谷のほかに、千久馬が腹這ひになつて手紙の束を択り分けてゐた。

「ねえ、鬼頭さん」

 と、深水は、思案に暮れた風で、

「先生の意見を、あなたからひとつ、はつきり訊いてくれませんか。さつきもちよつと相談してみたんですがね、どうもまるで手応へがないんですよ。なにもかも君たちがいいやうにしてくれつていふんだけど、さう云はれたつて、何処へどんな家を建てたらいいか、僕たちには見当がつかないからなあ」

「だから、僕が云ふんだよ」

 と、神谷が引きとつて、

「集つた金をそのまま受け取つてもらつてさ、これでよろしくつてさう云やいいぢやないか。なにも、さあこの家へおはいりなさいつて、そこまでのことをしなくつていいだらう」

 すると、鬼頭は、荒々しく首を振つて、

「駄目だ。そんな失礼なことはできない。よし、おれが談判してやる。第一、それぢや委員たるものの責任が果せないぢやないか。例へばだよ、先生が大工に誤魔化されてその家が手にはいらなくなつたつていふ場合、われわれが知らん顔をしてゐられるか。やつぱりこつちで信用のできる大工を撰んで、こつちで十分監督をして、一切の煩はしいことに先生を関係させないやうにしなきやいかん。それでなきや、無意味さ。さうだらう、神谷君……」

「それができりやいいさ。ところで、若し、家は建つた、金が足りないといふことになつたら、どうする? それもわれわれの責任か?」

「なるほど、さういふこともあるなあ」

 深水が、もう不安らしい顔付になるのを、

「むろん、われわれの責任だ。そこが、事務的経済的才幹を要するところさ。おれにはそんなものはない。深水君にもない。おい、そのために、神谷君、君がゐるんだぜ」

「はゝゝゝゝ」

 と、神谷は、大声に笑つて、その話はそれで解決した。

 直人が降りて来ると、鬼頭が改めて、土地選定の範囲を云つてもらふこと、海岸がいいか、温泉がいいか、それともただ郊外の閑静なところがいいか、そのへんの標準を与へてもらひたいと、しきりに責めた。直人は、

「さういふがね、君、海岸や温泉に家を持つてゐたところで、一生そこへ行く機会はないと見ていい。郊外の閑静なところ、甚だ結構だが、そこでいつたい、この商売ができるかい?」

 三人は黙つて顔を見合はした。



「しかし、まあ、さう云つてしまへばそれまでだが、折角のものだから、ひとつ、大いに利用しようぢやないか。それには、やはり日帰りができるくらゐのところでさ、畑も作れるし、近所に釣りかなんかするところがあつてね、煙草屋と酒屋がついそこだといふやうな土地なら、まづ申分ないな。どうだ、千久馬、賛成か?」

 父の直人が急に興味をもちだしたので、千久馬は、のつそりとからだを起し、

「僕は、別に意見はないよ。へゝゝ、南米へ行く旅費を残しといて貰ひたいなあ」

「こいつ!」

 と、深水は、その鼻先へ巻煙草の先を突きつけた。

「ぢや、そのつもりで、あとはよろしく。今夜また夜業です。何れ帰つて来ましたら……」

 鬼頭はさう云つて、直人の方に頭を下げた。すると、深水も慌てて、

「僕も一緒にそこまで……。あ、先生、土地、そんなら、調べといてみませうか?」

「うん、まあまあ……」

 といふやうな程度で、彼は、鬼頭と一緒に表へ出た。出るといきなり、

「ねえ、鬼頭さん、僕少し、突つ込んだ質問しますよ。いいですか?」

「なんだい? 返事のできることならするよ」

「少し歩きますか?」

「歩いてもいい」

「いや、実は、僕自身の問題なんですがね、それが、ちよつと自分だけで判断のつけにくい点があるもんだから、あなたの智恵を借りようと思つて……。それはそれとして、若しかしたら、こいつは、あなたにも関係が及びはしないかと、そこを確めておきたいんです」

「どういふの? 早く云ひ給へ」

「ええ、そんなら訊きますが、あなた、近々、千種さんと結婚されるんぢやありませんか?」

 鬼頭は、ちらつと横目で深水の方を見た。深水は、もうこれだけ云つてしまへばといふやうな落ちつきを見せて、鬼頭の返事を待つてゐる。

「どうしてそんなこと訊くんだい、君が? 結婚したらどうなんだい? できないわけでもあるのかい?」

「いかんですよ、さういふ風に取つちや……。僕の訊き方がわるかつたかな。決して、そんな意味ぢやないんです。あの女は、あなた以外のところへ行くべき女ぢやないですよ。僕は、とつくにもう、にらんでた。話はどこまで進んでるんです、物好きなやうだけど……」

「まだ、進んでやしないよ。僕が申込んだだけだ。正式の返答はまだない。それだけさ」

「むろん、二つ返事ですよ。ただ、ちよつと勿体をつけてみるかな。直接申込んだんですか?」

「おい、つまらんことを訊くなよ。どうだつていいぢやないか。で、それが何と関係があるの?」

「それがですよ、あなたに若し千種嬢を貰ふ意志があるなら、ひとつ、僕の問題を考へて欲しいんです。かまはないから、遠慮なく云つて下さい。ほら、神戸の久野夫人ね、今までは、それこそ絶対になんでもないんですよ。ところが先生、最近家出をして、関西のある温泉場に隠れてるらしいんです。それで、僕にちよつと来いと云つて来てるんですが、まさか、行けやしませんや。濡衣ぬれぎぬを着せられちやいやだからなあ。さうかつて、こいつを山羊さんの耳に入れる手はないでせう。女はこれだから困るんだ」



 そこで、深水は、鬼頭の顔色をうかがふやうに、

「それや、僕に来いつていふのはね、必ずしも、僕の懐へ飛び込まうつていふ意味に解釈はできないと思ふんだ。ただ、何か重大な、何か厄介な相談があるんぢやないかと思ふんです。この前からどうも変だと思つたんだ。多分、久野氏との間のことで、親爺にも打ち明けられないやうな煩悶があるに違ひないですよ。なにしろ、この僕ぢや、そんな役は勤まりさうもないんでね。弱つちやつた」

「さうでもなからう。君は、割にさういふことは好きだらう」

 鬼頭は、案外冷やかな態度で応じて来た。

「戯談云つちや……。あの千登世といふ女性はね、鬼頭さん、僕だから一緒に遊べたんですよ。まあしかし、ただ遊ぶのはいいですよ。断じて、真面目な話はできないんだ。だから……」

 深水が、自分ひとりであれこれといふのを、鬼頭は、

「もういいよ、その話は。それでおれに何をしろつていふんだい?」

「だからですよ、あなたにも関係があることだとしたら、僕はいつたい、どうしたらいいでせう? それを相談したいと思つて……」

「おれや、しらん」

 と、一度は素ッ気なく云つておいて、あらためて、調子を変へ、

「君が行くのは、どつちにしろ、穏当でない。さうかつて、君から先生なり、久野氏なりに……といふわけにも行かんね、これや……。厄介だなあ、ほつといたらどういふもんだ。相手がなけれや、また家へ帰るだらう」

「その先は?」

「どうかするだらうぢやないか。君は、とにかく引つ込んでろよ。だから、何時かも云つたらう、ひとの女房のことばかり気にするなつて……」

 鬼頭は、そこで、露骨に苦い顔をしてみせ、

「ぢや、僕は少し急ぐから……」

 と云つて、タクシイを拾つた。

 一人になると、深水は、千登世と自分との間の、あの妙にひねこびた気持のつながりを考へてみるのである。お互に怪しげな自信をもち合ひ、これでもかこれでもかといふやうにちよつかひを出し合つて、どつちが先に兜を脱ぐか、それだけの興味から、ぢりぢり双方で後退りをしてみせる、例の他愛のない男女間の遊びに過ぎないのだが、彼は、常に、もう一歩といふところで、巧みに体をかはし、心の中で凱歌を挙げてゐた。

 が、また一方、千登世の方でもやはり同じやうに、勝味は自分の方にあると思ひ込んでゐるかもわからないのである。いや、さう思ひ込んでゐればこそ、今度、宝塚の温泉宿から、彼に宛てて、合図めいた手紙を寄越したのである。

 そこで、深水は、この芝居を続演すべきかどうかに迷つた。迷つたのではない。続演する興味は十分あるが、その危険の度が、俄然倍加したことに気がついたのである。宝塚と云へば、神戸とは眼と鼻の土地である。まして、夫の家を飛び出したといふことになると、事は面倒になりさうだ。



 鬼頭は、出発までにたうとう千種と会ふ機会がなかつた。しかし、彼が訪ねた翌日、彼女から次のやうな手紙を受け取つた。


 昨夜はわざわざお越し下さいましたのに、生憎留守にいたし、お目にかかることができず、残念でございました。近く九州地方へご出張のよし、それまでにお暇があればと存じますが、ご無理を遊ばすといけませんから、お帰りの日を待つことにいたします。昨夜は、お友達に誘はれて映画を観に参りました。旧い封切ですけれど、新興独逸の意気を見せた戦争もので、友達は馬鹿馬鹿しいなんて申しましたけれど、私には、どういふものか息づまるほど面白く、なんのためにもせよ、武器をとつて戦ふ人々の姿が、ひときは頼もしく感じられました。私がロマンチックだと云はれるところでせうか? それとも、陰鬱な平和に飽きあきしてゐるせゐでせうか? なんて、あんまり大きなことは云はずにおきませう。

 ほんとに、ご旅行と伺つて羨ましく、お勤めのことゆゑ、そんな暢気なもんぢやないとおもひますけど、福岡は母の生国でもあり、兄の勤務地でもあり、懐かしく楽しい旅を一度してみたいと思ひます。

 暑さに向ひます折柄、おからだお大切に、くれぐれもご用心遊ばせ。お留守中、お母様のご機嫌伺ひにお宅へ寄せていただくかも存じません。どうかよろしくお伝へ下さいませ。かしこ。


 彼は出張先から、怠らず彼女に絵葉書を送つた。

 一方、深水は、鬼頭に止められて、千登世に会ひに行くことは思ひ止まつたが、あの手紙の様子では、自分が出掛けて行かなければどんなことしでかすかわからないといふ不安もあるし、彼は第一、今度の家出について、例の金銭問題がからんでゐることは夢にも知らないから、ただ、夫との不和、並びに自分への思慕がさういふ行動を取らせたものと思ひ込んでゐた。もともと、彼は今迄に道楽といふ道楽をしつくし、女性の表裏に通じてゐるつもりでゐたが、またそれだけにどんな女に対しても、妙に臆病だつた。自信がないわけではない。あとが厄介だからである。一旦心を惹かれはしても、早晩興味を失ふのだと、はじめからわかつてゐるし、さうなつた場合、あつさり捨て去るといふ芸当が彼にはできないのである。飽きつぽいが冷酷にはなれない自分を、これまで幾度持てあましたことか。それ以来、彼は、積極的な恋愛を断念し、あはよくば、持参金附の娘か、遺産を抱へた未亡人を物にしようとねらつてゐるのである。

 しばらく返事も出さずにゐると、千登世から更に電報で「今夜九時行く」と云つて来た。彼は慌てた。今朝から旅行に出たといふことにしておかうか? いつそ、千種にでもこのことを話して、うまく追ひ帰して貰はうか? まさか、彼女なら事を荒だてるやうなこともすまい。が、千登世にしてみれば、妹に説教されて、おとなしく引退ひきさがるだらうか?

 で、彼は、思案に余つて、千久馬を速達で呼び寄せ、実はこれこれの訳だから、

「君ひとつ、親爺さんに云ひつけるとかなんとかしてさ、うまく気持を落ちつけさせてくれないか。僕は会はない方がいいと思ふんだ。今夜九時とあるから、多分『燕』だらう。それまで此処にゐてくれ給へ、頼むから……」



 千久馬は、照れたやうな薄笑を浮べながら、深水の言葉をいちいちうなづいて聴いてゐた。

「ぢや、僕は、その間、どつかをぶらぶらして来るからね、話がすんだら、なるだけ、家へ引つ張つて帰るか、どうかしてくれよ。此処で泊られちや困るんだ、まつたく……」

 さう云つて、深水は下宿を飛び出した。が、足の向く方は東京駅であつた。プラット・フォームで彼女の姿をひと目見ようといふ魂胆である。来るか来ないかを確める必要もあつた。

 時間まで食堂にゐるつもりで、ゆつくり献立表とにらめつくらをし、その挙句、ハヤシ・ライス一皿を註文して、アイス・ウォターをがぶがぶ飲んだ。

 九時の『燕』で、果して彼女はやつて来た。

 彼は、人混みの蔭から彼女の後姿を見送り、声をかけたい衝動を幾度も制しながら、そのまま裏口から日本橋の方へ出た。良心がとがめるといふほどでもないが、彼の弱気はそんな場合にも平気とはいかないので、やはり酒でも飲まうといふことになる。で、懐と相談の結果、裏通りのおでんやをのぞきのぞき、手頃な店へふらりと姿を消した。

 その時刻には、丁度、千登世が彼の下宿へ車を乗りつけてゐた。

「おあがりよ、姉さん」

「あらッ、あんたもゐたの?」

「あんたもぢやない、おれだけだよ」

「深水さんは?」

「臨時に夜学の講義を頼まれて、今日は遅くなるんだとさ。姉さんが来たら、僕と話してくれつて、わざわざ呼びつけられたんだよ。まあ、あがつたら……。家へは顔を出さないつもりなんだらう?」

「さういふわけでもないけど、この前、変だつたからさ。ぢや、ちよつと上つて、待たして貰ふわ」

 二階の深水の部屋は六畳と三畳である。同宿人がゐないのと、階下したは年寄夫婦なので、彼は主人のやうに大事にされてゐる。婆さんが、彼女の顔を見知つてゐるので、お茶を汲んで持つて来た。

「電報は何時頃著きましたの?」

「さあ、お昼すぎ早くでしたかしら……」

「今日は何時までですつて、学校は?」

 すると、千久馬が婆さんに眼くばせをしたので、婆さんは聞えないふりをして階下へ降りた。

「知つてるんだから、ほかへ廻りやしないよ。それより、姉さん、いつたい、どうしたの? 宝塚にゐるんだつていふぢやないか? 一人で行つてるのかい?」

「一人でとは?」

「子供も連れないでかい?」

「当り前ぢやないの? 子供たちはあたしの自由になりやしないもの」

「自分だけは自由になるつもりなのかい?」

「あんたこそ、なにを知つてるの? 深水さん、どんなこと云つた?」

「みんな云つたよ。なにもかも白状したよ」

「あら、いやだ、白状だつて……。白状することなんかありやしないぢやないの」

「家出したんだらう? 喧嘩かい?」

「だれと?」

「亭主とさ」

 そこで、彼女は、声を立てて笑つた。

「亭主とはなに? いくらああしてても、あんたよりや、ましな人間よ」

「畜生! 自尊心を出しやがつた。おれよりましなら、それでいいぢやねえか。どうして、その亭主を捨てる気になつたんだい?」

「知つた風な口を利くひとね。亭主を捨てて、ほかの男になんか会ひに来れや、それや、あんた、不義ぢやないの!」



 千久馬は、ぐつとつまつた。

「さうぢやないのかい? だつて、深水は……」

 それをみなまで云はせず、彼女は、ヒステリカルに横を向き、やがて、膝をくるりとそつちへ廻した。

 で、どうするのかと思つたら、ハンド・バッグを取り上げて、懐中鏡を出すのである。

「深水さんが、どう云つたつて、あんな人、それや己惚よ。ただちよつと、お金のことで、相談したいことがあつたからよ」

 今度は、千久馬が笑つた。

「深水が、金を持つてると思つてんのかい? なんの金だい、それや?」

「ううん、なんでもない、つまらないお金よ。あんたに聞かせるやうなことぢやないけどさ、あたしや、意地でも義兄にいさんにだけは云へないお金なのよ」

 それから、この前上京した折のことを残らず、彼女は千久馬に話した。そして、思ひ余つたやうに肩をふるはせて泣き出した。

「なんて云はれても、あの、からつきし人情つてもんのわからない、堅くさへしてれや人が尊敬すると思つてる男に、あたしがそんなお金を受け取つたなんて、どうしたつて云ひ出せやしないわ。方々に借りができたのを、自分で形をつけたつて、さう云つてやつたのよ。でも、その相手のやつつていふのが、あたしを甘くみて、なんのかんのておどかすぢやないの。もうかうなつたらしかたがないと思つて、十日までのうちにきつとこしらへて返すつて云つてやつたのさ。あと幾日? 七、八、九……三日でせう? 若しできなけれや、あたし……」

「姉さん……」

 と、千久馬は、眉を寄せながら、叱るやうに呼んだ。

「僕はね、そんな場合、姉さんがどうすればいいか知らないよ。多分、独りで苦しまなくつたつていいんだらうと思ふよ。しかし、まだあと三日あるなら、姉さんの気の済むやうにしようぢやないか? 僕が、なんとかしてみるよ」

「えッ! あんたが?」

 千登世は、ハンケチをずりさげて、そつと彼の方をみた。

 二人は、しばらく黙つてゐた。

「あんた、だつて、どうするつもり?」

 彼は、返事をしない。ぢつと、天井の一隅をみつめてゐる。

「ねえ、どうすんのよ?」

 ふと、彼女の頭をかすめた考へに、彼女自身、愕然とした。で、哀願するやうに、

「久馬ちやん……お父さんは駄目よ」

 千久馬は、しづかに、姉の視線を避けるやうに眼をつぶつた。

「ねえ、お父さんに云ふと、今度こそ、義兄さんの耳へはいるわ……。そんなら、おんなじよ……。それがあたし、死ぬほど怖いのよ……」

「わかつてゐるよ」

 と、千久馬は、低く呟いた。

「ぢや、ほかにあてでもあるの?」

 おそるおそる訊ねかける姉に、彼は大きく、うなづいてみせた。

「深水に相談するよりや、神谷に頼む方が気が利いてるよ。あいつきつと、どうかすらあ。おれから話してやらう」

「でも、あとで返さなけれやならないとなると……」

「いいよ、姉さんは知らん顔してろよ。おれがあとは引受けるよ」

 その夜、千登世は、丸の内ホテルの四階に部屋をとつた。




期待




 机の上へひろげた地図から眼をはなすと、千種は、窓ぎはに咲いた紫陽花あぢさゐに、ふと見入つた。

 一と月の半分がやつと過ぎただけである。そして、鬼頭からの絵葉書が十三枚溜つた。さつき、父が関東地方の地図を見たいと云ひ、本棚から陸地測量部の二十万分ノ一を探したついでに、分厚な日本地理の附録を、自分の部屋に持つて帰り、急いで、日本全国の地図を出してみたのである。そして、東京から九州の佐世保まで、都会から都会を縫つて、彼の後を追ひかけた。

「おい、千イ坊」

 はツと、うしろを振りむくと、すぐそばに、兄の千久馬が突つ立つてゐる。

「いやだわ、黙つて人の部屋へはいつて来て……」

「だまつてなもんか。ちやんと名前を呼んでるぢやないか。なんだい、地理なんか勉強してやがつて……」

「今日はプールへはいらつしやらないの?」

「親爺、ゐるか?」

「ええ、いらしつてよ、なに?」

「いいこと話してやるから、大きな声出すな」

 さう云ひながら、彼は、そこへ胡坐あぐらをかいた。

「出さないわ。早く云つてよ……」

 彼女は、子供のやうに眼を輝かした。

「云つてやるけどさ。その前に、ひとつ、訊いときたいことがあるんだ」

「なあに?」

「いいか、おれの親友がだぜ、ある事業に失敗したと仮定してだよ、そいつを、おれがどうしても救つてやらなきやならないやうな時さ……。さうだな、もつと事態は急なんだ……さうしなきや、その友達もおれも、二人とも破滅だつていふやうな場合だとしてさ……。親爺はそんな金、出せないだらう。出せたつて、出しやしないよ。あの親爺……。おれに南米行の旅費をどうしても出さうと云はないんだ……」

「兄さん……それや、だつて……」

「まあ、聴け!」

 千種は、だんだん気味がわるくなり、兄の口許をぢつと見つめた。

「この兄貴を助けようと思つたら、お前、いつたいどうする?」

 彼女は、まだよくその意味がわからない。

 千久馬は、両手を膝の上に突いて、

「なあ、頼む……それを云つてくれ……。お前の自由になる金があるだらう」

「自由になるお金つて、いくらぐらゐ?」

 ちよつと間をおいて、

「二千円だよ」

「えッ!」

 と、云つたきり、彼女は、次ぎの言葉が出て来なかつた。



「なんだい、どうしてそんなに驚くんだい? それくらゐあるだらう、銀行に……」

 兄の千久馬は、もう威猛高ゐたけだかである。

「あつたつて、あれや、みんな人のお金よ。あたしがみなさんから預かつてるお金よ。うちのなんか、郵便局に六、七十円しきやないわ」

「大きな声、出すなよ……」

 低く、彼は寧ろ眼で制して、それから、いくぶん調子を変へ、

「あれは、お前、人の金つてこたあないぜ。親爺のための寄附ぢやないか。親爺の金とは云へるかも知れないが、そんなら、別に他人のものでもなからう」

「馬鹿なことおつしやいよ」

 と、彼女はむきになり、

「あれはね、いいこと、お父さんの隠退所を建てるために、みなさんがお集めになつてるお金よ。それを、便宜上、うちで保管してるだけよ。全部集まつたところで、委員のどなたかにお渡しして、それを、あの方たちが、相談の上で建築費におあてになるのよ。お父さんは、さうして建つた家を、家としてお貰ひになるのよ。そんなこと、わかつてるぢやないの、兄さん……」

「わかつてるさ、なるほど、形式はさうさ。だけど、親爺は、家なんかいらないつて云つてるんだぜ。気がきいた奴なら、そんなら金で渡さうつて云ふ筈だよ。神谷なんかさう云つてらあ」

「神谷さん一人の意見ぢや駄目よ。あの人は、心持よりお金が大事なのよ」

「なんだい、それや……。神谷に云ひつけるぞ。神谷が物質主義だつて云ふのかい。お前は、あいつを知らないなあ。家は物質ぢやないのか? 動産と不動産の違ひぢやねえか」

「とにかく、あたしにそんなことおつしやつたつて、どうにもならないわ。委員の方たちが、出せつておつしやれば、あたし、何時でも銀行から出して来てあげてよ」

 やつと、落ちつきを見せて、彼女は、きつぱりと言ひ放つた。

「委員つていふと、神谷と深水とそれから鬼頭だらう。よし、おれが説き伏せてやらう。但し、事後承諾だ……」

「そんなこと、できるもんですか。あたしが第一、反対だわ」

「面白い……反対しろ。しかしだぜ、お前は同胞きやうだいつてものを、どう思つてるんだい。死ぬか生きるかの問題なんだぜ、親爺の別荘が大事か、兄貴の命が大事か?」

「あたしをおどかすのね。いいわ、待つてらつしやい……お父さまを呼んで来るわ」

 起ち上つて、彼女は、兄の傍らを擦り抜けようとした。が、その右手を、千久馬はぎゆつと掴んで、

「おい、坐れ!」

 引据ゑられて、彼女は、横坐りに畳へ手をついた。

「なになさるの、兄さん……人を女だと思つて……いい加減に……」

 口惜しさに、彼女はもう喉をつまらせて、兄の顔を鋭く見あげた。すると、掴んだ手をゆるゆると放し、彼は面目なげに顔を伏せながら、

「ごめんよ、千イ坊……実は……こら……」

 と、懐を探り、袱紗に包んだ銀行の通帳を、ぽいと、彼女の眼の前へ投げ出した。



 彼女は、兄の顔と、その包みとを見比べながら、恐る恐る中を改めた。まづ、印形が、ころりと膝の上に落ちた。通帳を開いてみた。集金の溜る都度、入れ入れしてゐた約二千三四百円の総額のうちから、綺麗に、二千円だけ引出してあつた。

「まだそこに持つてらつしやるの?」

 声をふるはせて、彼女は訊ねた。千久馬は首を振つた。

「もう手許には一文もない」

「で、今、後悔してらつしやるの?」

 憤りと悲しみとが、胸のなかでごつちやになつて、彼女は、泣くにも泣けなかつた。

「おれが、全責任を負ふよ。覚悟はしてるんだ」

「ほんとに、そんなに要るお金だつたの?」

「ああ、少くとも親爺の家を建てるよりはね」

「罪を犯してまで、手に入れなけれやならないお金なの?」

「おれは、良心に恥ぢないつもりだ」

「良心に恥ぢないつておつしやるのね。ぢや、二人でお父さんのところへ行きませう。そうして、一緒にお詫びしませう」

「ああ、いいとも……。だが、云ひに行くんなら、おれ一人で行くよ」

 彼は、さう云つて、腰をあげた。そして、部屋から出ようとするその後ろ姿を、彼女は痛ましく眺めてゐたが、突然、

「兄さま……」

 と、呼びとめた。一瞬後の二階の光景が、ふと頭に浮び、この事件が、どう父の心に響くであらうと、彼女は、もう堪らなくなつたからである。

「兄さま……やつぱり、いけないわ……。お父さんには、今、云はない方がいいわ……ねえ、兄さま……その金、何処へもつてらしつたの……。それを教へて頂戴……あたしが、なんとかして、返して貰つて来るわ……」

 無駄であらうと知りつつ、彼女は、そんなことを口走つた。何かに縋りつきたい気持で、いま心は宙に浮いてゐる。

「そんなことできるもんか。渡した人間はもう東京にはゐないよ」

「だつて……」

 と、彼女は、不審げに、改めて兄の顔を見た。

「さうさ、それ、みてみろよ。引出したのは昨日だ」

 彼女の視線は、兄の視線を追つて離れない。

「わかつた。そのお金……きつとさうだわ……姉さんがまた神戸から出て来たんでせう」

 その時、さう云ふ彼女は確信に満ちてゐた。

 千久馬はこたへようとしない。

「姉さんと共謀ね」

 うつかり、そんな言葉を使つてしまつた彼女は、われながら、ぎよつとしたが、思へば、自分も、その同胞きやうだいの一人ではないか。

「違ふ!」

 と、千久馬は、力んだ。

「姉さんは、あれがどんな金だか知りやしないんだ。おれが友達のところで作つて来た金だと思つてるんだ」

「嘘……嘘……兄さんに、そんなお金、できる道理がないわ……そんなお金、貸してくれる友達なんかゐるわけがないわ……。姉さんつたら……なんて、ほんとに!」

 かう云ひながら、すつと起ち上りさま、鏡をちよつとのぞき込み、本棚の上のハンド・バッグを手に取るが早いか、廊下を小走りに玄関へ出た……。



 ──こんな時に、鬼頭がゐてくれたら……と、彼女は思つた。

 自分が今すぐ姉のところへ飛んで行けたらとも考へた。それは、しようと思つてできないことはないが、父に黙つてといふわけにはいかないのである。

 神谷と深水には、是非知らせておかなければなるまいが、あの人たちにどんな処置ができるだらう。それよりも第一、うちうちで始末のできるものなら、こんなことを他人の耳に入れたくない。

 彼女は、外へ出るには出たが、電車通りまで来る間に、何れとも決心がつきかねた。が、とりあへず一番早い方法で、姉の行動を縛つておかねばならぬと気づき、郵便局の窓口に立つた。さあ、なんと打つたものだらう?

「チクマアニカラウケトツタモノスグヘンソウタノムチクサ」と、まづ書いてみて、それを消した。次ぎに「チクマアニノワタシタモノ……モシツカヘバ」……と、そこでしばらく考へてから、やつと「タイヘンナコトニナル」……。これではつきりするにはするが、なんだか取り乱したやうなところがみえて気になる。が、もうそんなことは云つてゐられない。これが若し義兄の手にはひれば、それも亦やむを得ないといふ覚悟で、彼女は、その頼信紙を差出した。

 さて、この後は? と考へると、一応深水なり神谷なりの耳にこのことを入れておくのがやはり自分の責任のやうに思へて来た。それにしても、あの箪笥の鍵を、何時の間に、どうして兄が開けたのか彼女には想像もつかない。ここでなまじつかな細工をして、一番大事なことを忘れるやうなことがあつてはならぬ。兄の汚名も父の憂慮も、公の事実の前には、もうどうすることもできないのである。

 深水と神谷と、どつちを先にすべきか。姉の問題だけに、深水の立場はデリケートである。彼女は、ハンド・バッグから手帳を出して神谷の呼出電話を調べてみた。何か用事ができたらと云つて、この前彼が口で云つたのを、その場で控へておいたのである。

 郵便局の公衆電話がすぐに通じた。

「ちよつと至急にご相談したいことができたんですけど、深水さんとお二人に何処かでお目にかかれるでせうか? 家ぢやない方がいいんですの」

 神谷は、それでは、今から深水のところへ使ひを出して、すぐ呼び寄せることにするから、とりあへず自分の仕事場へ来ないかと云つた。

「場所はわかつてますか? 今、何処にゐるんです?」

「家のそばの郵便局ですの」

「ぢや、すぐいらつしやい。お茶の水からぢきです。主婦之友社、ご存じでせう。あの横をはいつて二つ目の通りを右へ曲ると、最初の角にフランス人形の材料を売つてる店がありますよ。そこをまた右へはいつて、その並びで四軒目です。ヤヌス化粧品研究所つていふ看板に気をつけて下さい」

 電話を切ると、彼女はすぐにもう後悔のやうな気持で、いつ時足がすくんだが、なに、深水が一緒にゐさへすればと、しばらく時間をおくつもりで、市ヶ谷見付の方へ、ぶらぶら坂を降りて行つた。



 お茶の水駅で省線電車を降りると、千種は汗ばんだ額に軽くハンケチを押しあてた。鋪道は梅雨つゆあがりの日を受けて息ぐるしいほどの暑さである。草履の下でアスファルトがゴムのやうに凹んだ。それでも、教へられた道をその通り辿つて行くうちに、ヤヌス化粧品研究所といふ看板を見つけると、急にからだぢゆうが引締つて、表のつくりなどには目もとまらず、いきなり格子戸を開けて案内を乞うた。

 神谷が二階から駈け降りて来た。

「さあ、どうぞ……深水君のところへはさつき使ひを出しました。もう来れば来るでせう」

 暗い梯子段を昇りかけて、彼女は、やつとこの家の内部が、なるほど一風変つたものだといふことに気がつきだした。

「まあ、いい匂ひ……」

 神谷の後からついそんなことを云つたのも、まんざらお世辞のつもりではなく、雑然としたなかに、動いてゐるもの、流れてゐるものが、十分に彼女の好奇心をそそつたからである。

「こつちがいいでせう。あ、その椅子は毀れてるから駄目だ。なんです、いつたい、用事つていふのは? まあ、それは深水が来てからでいいか。ぢや、それまで、ひとつ、化粧品化学の講義でもするかな」

 彼女は、深水が来るのを待つてゐる必要はないと思つたが、いざとなるとやつぱり云ひ出しにくい。大きな卓子の上に、えたいの知れない標本のやうなものが並んでゐるのを、ぼんやり見つめてゐるうちに、わけもなく胸がどきついて来た。

「あれ、みんな化粧品の原料なんですの?」

「さうです。つまり天然香料といふやつですね」

 さう云つて、彼は、卓子の上から小さな瓶をひとつ取りあげ、

「天然香料には、植物性と動物性とがあるんですが、普通知られてゐないもので、なかなか研究すると面白いものがあるんですよ。これは、南洋産の猫のふんです」

「え?」

 と、彼女は眼をみはつた。

「リデイスつて云ふやつです。この糞を氷の水で溶いて、土人はイランイランの花に塗りつけておくんださうです。すると、得も云はれない芳香を放つやうになるんだから不思議でせう」

 彼は、それから、抹香鯨の脳油だとか、ラブカ鮫の肝油だとか、トカゲの腸から取つた脂肪だとかをいちいち手に取つてみせ、

「とにかく、香料の大部分は南洋から出るんですが、それをわれわれは欧羅巴人の手から買つてゐるんです。植物性の原料にしたつて蘭科のものは全部東洋産ですしね。僕は、これから、原料を自分で探して歩かうと思つてるんです。日本人は、さういふ根本的な努力をしないからいけないんです。エチオピアの猫の生殖腺が立派な香料になつてゐるんだから、日本のいたちの屁だつて、どうかすると……」

 おいさんが、サイダアを盆にのせて上つて来た。



「三浦はまだ帰つて来ないかい?」

 神谷は、そこで、おいさんに訊ねた。

「あ、たつた今、帰つて来ましたやうです」

「なにしてるんだ」

「喉がかわいたつて、おひやをがぶがぶ飲んでましつたつけ」

 そこへ、入れ違ひに、十六、七の少年が、頤の滴を手の甲で拭きながら上つて来た。

「あのう……深水さんはお留守でした。昨日からお帰りにならないさうです。手紙だけおいて来ました」

「よし」

 と、彼は、眼をつぶつて返事をした。少年は千種の方へピヨコンと頭をさげて引き退つた。

「休暇になつて、何処かへ遊びに出掛けたんでせう。すると、どうします? 僕だけぢやいけませんか? 話つて、どんな話です? それだけでも聞いておけば……」

 さういふ神谷の視線を眩しく受けながら、千種は思ひきつて、

「ええ、ぢや、お話しますわ。実は、困つたご相談なんですけど、あたくしの不注意で大変なことをしてしまつたんですの」

 相手は黙つてゐる。

 彼女は、先づ事件の経過を物語つた。それから、兄千久馬の態度を説明した。そして、最後に、一刻も早くその金の性質を姉に知らせておく必要から、自分の計ひで今電報を打つて来たこと、父の耳にはまだ入れてないこと、これは順序としては間違つてゐるかも知れないが、父のために企てられたこの計画が、父自身を失望に陥れるやうな結果になつては、却つて皆さんに済まぬと思ふから、これだけは最後の処置として考へて欲しいといふことなどを、比較的落ちついて述べた。

「で、とにかく、今更、兄になんと云つてみたところでしやうがないと思ひますの。あたくし、今夜にでも神戸へ行つてみたいんですけれど、父にそれを云ひ出すのになにかいい口実はないでせうかしら……」

 すると、神谷は、やつと口を開いた。

「姉さんとこなんかへ行くのは無駄だな。勿論、旦那さんの久野氏に責任を負つてもらふつていふ手はありますよ。そんなら別だけど、そこまでやるんですか?」

「姉の出方ひとつだと思ひますけど、気の毒なやうな気もしますわ。さういふ姉の自尊心をあたくしは認めないんですけど……。兄は大へん重大に考へてるらしいんです。どんな悲劇が起るかもわからないつていふ風に……。でも、父に犠牲を払はせることから考へれば、姉の贅沢な見得なんか、どうだつていいと思ひますわ」

「あなたは、姉さんと仲好しぢやないんですか」

「あら、それとこれとは問題が違やしないかしら……。あたくしの力でなんとかなるものなら、どんなにでも姉のために尽したいと思ひますわ」

「むづかしいとこですね。どうです、僕が姉さんに会つて来ませうか? あなたも行くなら行つてもいいですよ。しかし、姉妹きやうだいでとことんまでそんな談判ができますか」

 神谷は、微笑を浮べてはゐるが、真剣に彼女の同意を求める気勢を示した。



 千種は神谷のその言葉をわざと真面目に取り上げようとせず、自分の考へだけを追ひながら、だんだん当惑の色をみせはじめた。が、相手はそれに頓著なく、

「ねえ、さうしようぢやありませんか。その代り……と云つちや変だけど、若し、それで駄目だつたら、あとは僕が引受けますよ。あなたにもお父さんにもご心配はかけません。僕が千久馬君に代つて二千円の穴埋めをすることにしませう」

「あら、そんなこと……」

 と、千種は意外なものにぶつかつた時の、あの驚きを顔いつぱいの表情にみせて、うつかり声をはづませた。

「いや、悪い意味に取らないで下さい。気前なんか見せるつもりは毛頭ないんですから。二千円は僕にだつて大金ですよ。しかし、大勢の人間がそれくらゐの金で、気まづい思ひをするなんて馬鹿馬鹿しいですからね。深水はまあなんて云ふか、鬼頭少佐にだけはこの事件は知らせずにおかうぢやありませんか。僕なんかとは、きつと考へが違ひさうだな。憤慨しますよ、あの先生……」

 これもまた、思ひがけない時に鬼頭の名前が飛び出したので、彼女は、面喰つた。そして、この神谷が、鬼頭にだけは知らせずにおこうといふその心遣ひの裏に、もつと特別な意味を含ませてゐるのではないかと、一瞬間、返事に困つた。

「憤慨なら、誰だつてしますわ。だつて、弁護の余地なんかないんですもの……」

「それで千久馬君は今どうしてます?」

「家にゐましたわ。結局自分ではいいことをしたつもりでゐるらしいんですの。まつたく、どういふんでせう」

「まあ、あの先生を責めるのはそれくらゐにしておおきなさい。僕はね、近頃こんなことを考へてるんです。但し、今のところ、空想ですがね。それはね、まづさつきお話した香料の発見を目的として、一度是非南洋を廻つて来るんです。例へばフイリッピン群島の北、つまり台湾に近い部分の小さな島あたりにすばらしい動物か植物がありさうに思ふんです。それを見つけたら、今度は、人工的にそいつを繁殖させなけやならないでせう。土人を使ふにしても、監督がいります。僕は何時までもそこにゐるわけには行かないから、ひとつ、千久馬君をおびき出さうと思ふんですよ。ブラヂルなんて云つたつて、先生何時行けるかわかりやしないんだ。それより、太平洋の孤島で、酋長みたいに威張つてる方がいいでせう、ねえ、あなたはどう思ひます?」

「さあ……」

 と、千種は、この夢みたいな話につい気持をはぐらかされ、かすかに微笑をうかべた。



 ──なんて暢気のんきな人なんだらう……。

 と、千種は、いささか張合ぬけのした形で、話題を前に引きもどす元気もなく、出されたサイダアのコップにはじめて口をつけた。が、何時までもかうしてゐてはと気がつくと、さつきからの神谷が、どこまで頼りになるのかわからないと思ひ出した。で、たうとう、腰をあげると一緒に、

「ぢや、あたくし、もう少し考へてみますわ。姉からなんか云つて来るかも知れませんから、そんな時また、ご相談にあがることにして……」

 すると、神谷は、急に真面目な顔をし、

「ええ、いつでも……。だけど、そんな問題をあなた一人でどうかうしようと思つたつて駄目ですよ。そのために、僕たちがゐるんだから……。あんまり心配して病気になつたなんて鬼頭少佐が聞かうもんなら、それこそ、僕たちがひどい目に会ひますよ」

 さう云つてしまふと、彼は、小鼻をふくらまして、「どうです、早いでせう」といふ風に笑つてみせた。別に邪気のない、ただひやかしの言葉とは受け取れたが、千種は、ぽツと頬を赤くし、キヨトンとしらばくれるつもりの表情が、思はず崩れて、ぎこちなくからだをくねらせた。

 梯子段を夢中で降りた。

「千久馬君を一度寄越してくれませんか。いろいろ話があるからつて……」

 外へ出て、パラソルを開くと、さつきこの道を来た時の自分が、どんなに惨めであつたかを思ひ、同じ道をかうして帰る今の自分が、なんとなく明るみに向つて歩いてゐるやうな気がするのを不思議に思つた。

 彼女は、若しもこれが鬼頭であつたらと、ふとそんな好奇心が起り、ああいふ場合、どんな風に相談に乗つてくれるであらうと、みちみち漠然とではあるがその時の有様を空想した。彼は、神谷よりも深刻に、厳粛に、この問題を取り上げるだらう。しかも、神谷よりも合理的な、道徳的な解決法を考へる。千久馬と姉は罪を悔い、父も彼女も、個人的に唯彼に済まぬといふ立場におかれないで済む。が、彼女だけは、鬼頭のこの計ひに対し、ひそかに人格的な偉大さを感じ、ほこりをもつて彼の前に頭を下げるだらう……。

 一方で世の中を知らない自分の甘さといふやうなものを、彼女自身わらつてゐないではなかつた。それにしても、この空想は快いものであつた。もう、女一人の配慮などはどうなつてもいい。早く彼が帰つて来て一刀両断にこの事件の跡始末をしてくれればと、ただそれのみを祈る気持で家のしきゐをまたいだ。

 すぐに父の部屋をのぞきに行つた。

 団扇を片手に、畳の上へ寝ころんで、父はうつらうつらしてゐる様子であつた。



 声をかけようと思つたが、やめて、押入から枕を出し、そつと父の頭の下にあてがつた。すると、

「何時帰つた?」

 眼を薄くあけて、父は訊ねた。

「たつた今よ。外は暑いわ」

 が、その返事は聞いてゐないらしく、

「おい、その机の上の電報を読んでごらん」

「何処から?」

 と、彼女は、いきなりそれを取上げて、貪るやうに仮名をひろつた。

 チトセキフビヤウニテキトク

 そこで、一旦、眼をあげて、彼女は父の方を見た。父は寝込んだやうに、ただ静かに呼吸をしてゐる。

 次ぎを読まうとした。手がぶるぶる顫へた。

 その時、また父が云つた。

「お前に来てくれとあるだらう。行つてやるか?」

「それや、むろん行くけど……なんでせう、病気は……」

「わからん。今夜の汽車でつか? さうなら寝台を買はせとかう」

「ええ、あたしは何時でもいいけど、お父さんは?」

「おれはやめよう。電報でキトクとあるのは、もう駄目といふことだ。葬式に間に合へばいいだらう」

「姉さんのことで、何か怒つてらつしやるんぢやないの?」

「うん、そんなわけでもない。さあ、時間を調べて、早く用意をしなけれや……。倉太をちよつと呼んでくれ」

 階下したへ降りると、彼女は、急に胸がつまり、自分の部屋へ駈け込むと同時に、机の上へわツと泣き伏した。泣いてなんかゐる場合ぢやないと、思へば思ふほど、泣けて泣けてしやうがない。何が悲しいのだと、自分を叱つてみても、それはどうにもならないのである。

 千久馬はあれから何処へ行つたのか、夕食の時間になつても顔を見せなかつた。父も別にそれを訊ねようとしない。その上、姉について語ることを妙に避けてゐるのが、千種には却つて痛ましかつた。

 彼女は、時計ばかり見てゐた。で、八時になるのを待てず、倉太に鞄を持たせ、通りの円タクを拾ひ、初めての一人旅の心細さも忘れて、「東京駅」と勇ましく運転台へ声をかけた。

 が、いよいよ汽車が動きだし、倉太が窓の外で、仰々しいお辞儀をするのを見てゐるうちに、急にこの自分に何ができるのだらうといふ気がして来た。義兄はまだ、こつちからの電報を見てゐないに違ひない。さうだとすると、自分を呼び寄せる理由もはつきりわからないのである。あれやこれやの問題が、ごつちやになつて彼女の行くのを待ち受けてゐるのだと思ふと、寝台などへのうのうと寝てゐられるもんかと、心の中で叫んだ。が、実は、さういふ気持を募らせる別な原因があつた。それは、これからどんな風に著物を脱ぎ、どんな恰好であの寝台の垂幕を潜つたらいいか、一向見当がつかないからである。そこで、みんなが寝てしまふまで、ぢつと喫煙室の一隅に縮こまつてゐようとしたが、もう汽車は、横浜に著いたらしい。

 どやどやと西洋人の一団が乗り込んで来た。食堂の方からは、ワイシャツ一枚で、顔を真つ赤にした中年の紳士が、麦酒の臭ひを残して彼女の前を通り過ぎた。

 と、彼女は、変な圧迫を感じて窓の方へ顔を向けた。その途端、後ろから、肩をぽんと叩かれ、誰かの間違ひだらうと思ひながら、そつと振り返る鼻先で、

「やつぱりさうだつた。変なもんだなあ……」



 それが深水高六であつたことは、千種にも意外千万であるが、しかし、彼が、

「で、何処へ?」

 と、馴れ馴れしく傍らへ腰をおろした時、なにか、ぴんと来るものがあつた。──ははあ、これもやつぱり神戸だな!

「あててごらんなさい」

「待つて下さいよ。まさか鬼頭に会ひに行くわけぢやないでせう」

 薄暗いのをいいことに、彼女は、眉を寄せて、うるさいといふ顔をした。

「さうか、姉さんとこか。一人でなかなか元気ですね」

「あなたは? やつぱりお一人?」

「むろん、一人です。京都にちよつと用があつて行くんですが、あなたがゐるなら、神戸へ寄つてみようかな。なんか面白い手はありませんか、姉さんをおどかしてやるのに……」

 おや! と思ひながら、彼女は、

「おどかしたつて、もう効目ききめがないわ。危篤なんですもの」

「危篤? 姉さんが?」

 と、深水は、ほんとに驚いて、彼女の方へからだを向け直した。

「病気は何時からなんだらう?」

「なんでも、急病らしいわ。今日電報が来て、あたしに来いつて云つて来たの」

「その割に落ちついてますね、あんた」

「あら、これ以上、どう慌てればいいの」

 さう云つて、彼女は、深水の態度を観察しはじめた。彼こそ、たしかに、今、落ちつきを失つてゐる。彼と姉との関係については、これまで穿鑿する興味もなく、寧ろ、見て見ないふりをしてゐたくらゐであつたから、その姉が危篤と聞いて、どうするだらうといふ予想はまつたくつかなかつた。

 深水は、実は、今朝、千登世から気味の悪い手紙を受け取つたのである。昨日の日附で東京中央局の消印になつてゐるが、文面を見ると、これから神戸へ引返すといふこと、彼が、そんなに卑怯な男だとは知らなかつたといふこと、自分は今、いろんな意味で、危機に立つてゐるが、それを切り抜けるために必要なものは、彼の力でもなく、愛でもないこと、だから、会へなくつてもそんなにがつかりしないこと、その代り、彼が不明にも女の気まぐれを真実と取り違へて、怖れなくてもいいことを怖れる気持は、自分にとつて侮辱以外の何ものでもないこと、さうならさうで、望み通り安全に逃がしておくわけに行かないから、近いうちに返礼をすること、などが、たしなみを忘れた女のどぎつい筆でしたためられてあつた。

 彼は、それを読みながら、ひどく興醒めな印象を受けたが、どうも戯談とは思へない節が多く、だんだん憂鬱になつて来た。それといふのも、最近ある京都の知合から、相当気乗りのする縁談を持ち込まれてゐるので、変な邪魔がはひつてはと、それが何より心配なのである。で、とにかく、一度会つてなだめておかうといふ気になつた。

 ところが、その汽車で、偶然千種からギクリとするやうな話を聞かされ、さて、そんならと考へ直してゐるところなのである。

 翌朝、千種を食堂に誘つた。

「やつぱり京都でお降りになる?」

「さあ、どうしようかな。久野氏に変ぢやないかな」

「変だわ、むろん……」

「ね、さうでせう。残念だけど、僕は遠慮すらあ。好い機会があつたら、僕の名前をそつと姉さんの耳へ入れといて下さい」

 ──いやよ、と、きつぱり云ふかはりに、彼女は、静かに窓の方を向き、眼を細めて、朝霧にけむる湖の面を眺めた。




花火模様




 神戸中山手通の表に石垣を積み上げた純関西風の二階家、これが久野信次郎の二、三年前に買入れた住宅である。諏訪山公園の所謂金星台と、その麓に建てられた移民収容所の線を結んで東南へ数町、ここから、海岸のオフィスまで、朝夕の散歩には丁度いい距離だといふのが久野の自慢であつた。が、昨日から彼は店にも顔を出さず、たつたさつき呼吸いきを引取つた千登世の枕もとで、眼を泣きはらしてゐた。

 階下の応接間には、新聞記者が四、五人詰めかけてゐる。

「自殺だつてことはたしかなんだらう」

「それは警察でもはつきりさう云うとるやないか。問題は、その動機やて。東京にラヴァアがをつたていふ噂やぜ」

「いや、おれが聞き込んだところによると、久野氏の方に何か秘密があるらしい」

 玄関で呼鈴が鳴つたので、彼等は一斉に眼くばせをし合つた。

 千種は、やつとさういふ時刻に著き、二階へ通され、変り果てた姉の姿を、ただ茫然とうち眺めた。

 義兄の信次郎が、口籠りながら語るところによると──

 彼女は十日ばかり前に、些細ないざこざの挙句、しばらく一人きりになりたいと云つて家を出たきり、消息がなかつた。また東京へでも遊びに帰つたのだらうと思ひ、そのまま放つておくと、昨日の朝、ひよつくり舞戻つて、どうも相済まんことをした、実は深い事情があつたので、決してヒステリイを起したわけではない。ついては、是非とも今日は店を休んでくれ、いろいろ話したいことがあると、改まつての頼みなので、彼も機嫌を直して、その話といふのを聴くことにした。すると、彼女は早速電話で、店と以前取引関係のあつた綿貫わたぬきといふ男を呼び寄せ、夫の面前でこんな風に啖呵たんかを切つた。

「どうも遅くなりました。拝借したお金、たしかに二千円お返しいたします。主人は、このことを今日まで知らずにゐたんです。そのために、あたしは、ほんとに苦しみました。このお金も、主人に内証でほかから融通したのですが、あなたのやうに人の弱点につけ込んで、無理な要求を持ち出すやうな相手ではありませんから、あなたのお手にこれをお渡ししたら、主人の耳にいれても差支ないのです。これまでのことは、なんと云つても、主人には面目ありません。しかし、あなたの脅迫から逃れて、眼を伏せずに主人の胸に帰ることができたのは、まつたく天の与へです。さあ、これでお引取り下さい」

 綿貫が帰つてしまふと、彼女は黙つて自分の部屋へはひり、なかなか出て来なかつた。どうしたのかと思つて、女中を見せにやると、その時はもう、意識不明の状態であつた。むろん、薬を飲んだのだといふことはわかつたが、医者も今朝まで付き切りで、何とも手段の施しやうがなかつた。

「遺書といふのは、この三通やが……」

 と云つて、信次郎は既に封を切つた自分宛のものと、ほかに父の直人と千種にそれぞれ宛てた封書をそこへ出してみせた。



「僕には、なにがなにやらさつぱりわからん。これにはただ、子供たちのことを頼むと書いたるだけで、なぜ死なんならんのか、そのわけは、どつこにも、書いてないんです。あんたに来てもろたら、なんぞ想ひ浮ぶかも知れんと思うて、実は電報打つたやうな訳や。ともかく、それ読んでみてくれませんか」

 久野信次郎は、汗と涙とをいつしよに拭いた。

 で、千種は、自分宛の封を切つた。


──こんな姉をもつてあなたはきつと恥かしく思ふでせう。主人のこと、お父さんのこと、また子供たちのことよりも、今のあたしには、なんだか、あなたのことが考へられてならないの。それや、かはいさうなのは一番子供たちだわ。でも、あなたには一番すまない気がします。なぜなら、あたしの運命を、あなたが一番身近に感じる人だからよ。むろん、あなたはあたしより悧口だわ。物の理窟もよくわかるし、女がどういふ風に生きて行つたらいいか、さういふ信念もちやんとできてゐるらしいから、あたしなんか女の屑みたいに見えるでせうけれど、これでも過去十年間、男の利己心と偽善とに刃向ひつづけて来たんですもの。そして今、最後の戦ひに敗れて、生きる希望を捨てようとしてゐます。主人は、あたしの過失を赦すかも知れないけれど、その赦し方は、結局、妻としてのあたしを侮辱することになるんです。二人はもともとさういふ間柄なの。夫が妻の前で自分を立派に見せようとするぐらゐ、どうにもならないものはないのよ。さういふ男に愛されてゐると思ふことは、どんなに辛いことか、あなたにわかつて貰へるかしら。兄さんや弟たち、殊に久馬ちやんには、あとで迷惑がかからないやうに、あなたからよくわけを話して頂戴……。


「どら、見てもいい?」

 千種が膝の上へおいたその手紙を、信次郎は奪ふやうに取り上げた。が、それを読み了ると、いきなり妻の遺骸にすり寄つて、その肩先へ手をかけ、

「あほうや、お前は……。そんなら、僕への面当つらあてに死んだんやないか。そんな水臭いことてあるかい……。商売上のことは、そらお前にはいちいち云へへん。受け取るべき金と、受け取つてはならん金とがあることは、なんべんも云うたが、僕かて、人並の儲け方はしてる。お前が勝手にあの綿貫から二千円いふ金を受け取つたことは、今日まで知らなんだが、ひと言それを云うてくれたら、そら困る、使うてしもたなら、しかたないさかい、これ返せ云うて、それだけお前に何時なん時でも渡したんや。さういふ僕の心持がわからん法てないやないか。どうして、それがお前を侮辱することになるんや。ええい、今やから云うてしまふ。僕かて、一度や二度は、人に云はれんやうな金を懐へ入れてるんやぜ。それを、お前にはえらさうなこと云うとつたんや。なぜやと思ふ。お前が、なんぞいふと、商人は卑しい卑しい云ふからや。コンミッションいふことさへ、お前は知らなんだやないか。コンミッションはつまり賄賂や云うて、お前はどうしてもきかなんだやないか。しやうない、僕は、お前に黙つて賞与がふえたやうな顔をしとつたんや。二千円ぐらゐ、なんでもあらへんが。道理で、綿貫の奴、なんぼ断つてもひつこう売り込みに来よつた。ほんまに、阿房や、お前は……」

 しまひには、泣き声になつて、信次郎は掻き口説いた。



 千種は、かういふ場にゐたたまらない気持で、ぢつと眼を伏せてゐた。姉の遺書には、なるほど心を撃つものがあつた。しかし、それは死といふ問題と結びつけてのことで、彼女の苦しみには、義兄の今の告白と同様、何か空々しさを感じないわけに行かなかつた。

 階段を、どやどやと人の上つて来る気配がした。

「あ、序にこれも云ふとかんならん……昨日あんたからの電報で、おほかた、例の金の出どころはわかつた。僕が、その方はちやんとするさかい、心配せんとおいてくれ給へ」

 それを聞くと、千種はほツとした。そして、姉に対する妙なこだはりが、急にほぐれたやうに思ひ、義兄の人間がぐつと引立つて見えだした。

「ええ、ほんとにさうしていただければ……。姉さんは自分で自分を不幸にしてゐたのね」

 これが、姉の死を悔む彼女の最初の言葉であつた。そして、さう云ひ終ると、やつと胸の中に温かい血のやうなものが湧いて、思はず姉の手を取つた。もう何も云ふことはない。自然に、涙が一滴、頬を伝ふのを感じた。と、心で低く呟いた。

 ──姉さん、あなたは、やつぱり、みんなから愛されてゐたのよ。

 唐紙の外で、「久野さん」と呼ぶ男の声がした。信次郎は、浴衣の襟をかき合せながら出て行つた……。

 その日のうちに火葬を終り、告別式の日取りもきまつた。千種は、父と神谷とに手紙を書き、父にはわざわざ出て来なくてもいいだらうといふ意見を述べ、神谷には、信次郎の申出を伝へておいた。

 ところが、その翌日の朝刊に、四段抜きでこの事件の記事が掲げられてゐるのである。新聞によつて多少調子は違ふが、何れも、千登世を典型的不良マダムとして取扱ひ、一方夫たる久野信次郎の素行にも言及して、双方が暗黙のうちに不貞を許し会つてゐたのだと断じ、千登世の情人とは、東京の某大学教授であり、久野には、ダンサアくづれの妾があることを暴露し、最後に、千登世の実家について、相当詳しい調査が掲げられてある。羊頭塾の名も出てゐる。伴直人の人物についても語つてゐる。ある新聞は、機敏にも、父直人氏の談として、あの娘には手こずってゐたといふやうな感想を述べさせてゐるのもあつた。自殺の原因としては、久野自身の率直な告白にも拘らず、千登世の不倫な恋愛の破綻に重点を置き、問題の二千円をめぐつて、彼女の虜となつた、新たな登場人物の名が、遠からず世人の目をそばだたしめるであらうと結んでゐる。

 久野信次郎は、千種に云つた。

「こんなこと気にせんとおきなさい。僕も千登世も、夫婦としてその点だけは信じ合つてゐたし、今でも、僕は、千登世の潔白を信じてゐるんや。告別式は、堂々とやつたる。あんたも、衣裳はこつちで都合するさかい、帰らんとおいてもらはう。お父さんにも、でけたら参列してほしい。なあに、くそ、これくらゐのこつて、久野信次郎が兵古垂へこたれると思うてくさるか!」



 父の直人は病気といふことで告別式には出て来ず、千種はその翌朝東京へ帰ることにした。

「ほいぢや、あの二千円は、あとから送るさかい……誰宛に送つたらええんや?」

 と信次郎は云つた。そして、そのあとで、子供たちも一番手のかかる時代だし、都合ができたらしばらくこつちへ来て、家の方を手伝つてもらへないだらうかと切り出した。

「さあ、お父さんにさう云つてみるわ、あたしがゐないと困るつて云ふでせうけど……」

 自分も気が進まないとは云へなかつた。すると彼は何時の間に用意をしたのか、姉の形見だといつて、衣類を二、三枚取り出して来た。手にとつてみる興味もなく、それをそのままトランクへしまつて、駅へ急いだ。

 日中のうだるやうな汽車の長旅は、からだこそぐつたり疲れたけれど、沿線の風物にひとつひとつ心が躍り、わりに退屈はしなかつた。

 父はなるほど床を敷いて寝てゐた。しかし、彼女の顔をみると、

「やあ、ご苦労さん……。こつちは大したことはないんだ。まあ、ゆつくり風呂でも浴びて来なさい」

 べつたりと父の枕もとに坐つた彼女は、なにから話をしだしていいかわからなかつた。物を言はうとするともう胸がいつぱいで、危ふく涙ぐんで来る。で、逃げるやうに階下したへ降りて、著物を著換へた。

 机の上には、鬼頭からの絵葉書が何枚もたまつてゐた。

 そのひとつを、何気なく拾つて読むと、


──いよいよ最後の検閲を終りました。帰途京都に一泊、桃山陵の参拝を終へて、東京に向ひます。元気旺盛です。父上先生によろしく。長崎にて。


 彼女は指を折つて日を数へてみた。消印の日付から四日たつてゐる。ことによつたら、もう東京へ帰つてゐるかも知れない。さう思ふと、今すぐにでも会ひに行きたかつた。

 次ぎ次ぎに葉書の文句を読んで行くうちに、彼の様々な表情が眼に浮び、直接、その声が聞えて来るやうだつた。

 その晩、父のところへ食事を運んで行き、姉の話から、だんだん自分の将来のことについて話した。

「姉さんは結局世間見ずだつたんだわ。あたしも、ぼやぼやしてゐられないわ」

 さういふと、父はやつと、眼尻に皺を寄せ、

「世間を見るつて、いつたいどうすればいいんだい? 今時の人間は、だれでも、幾分づつは世間見ずなんだよ。といふ意味は、昔のやうに標準になる世間といふものがないんだ。自分の棲んでゐる世間と隣の世間とがだんだん離れて行く、そいつに気がつけばよし、気がつかずにゐると、人に馬鹿にされるか、こつちが腹を立てるか、さもなければ身動きができなくなる。お前なんかさういふことはわかつてると思つてたが……」

「ところが、あんまりわかつてゐないのよ。何処かに、ほんとの世間があるやうな気がしてるわ。でもそれは、やりきれない世間だつてことは想像がつくんだけど……」

 二人は、それから、別々のことを考へはじめた。

 ちつとも風のない晩であつた。



 それから二日三日と待つて、鬼頭からはなんの便りもなかつた。

「もうとつくに帰つてらつしやる筈よ。どうしたんでせう」

 彼女は、父にさう云つてみた。

「うむ、帰つてれば、顔を出すだらう。あれは大阪からだつたか、悔みの電報を寄越したくらゐだから……」

「あら、大阪から……? そいぢや、新聞をごらんになつたんだわ」

 ふと、暗い顔になるのを、自分で励ますやうに、

「あたし、ちよつと、行つて来てよ。なんだか心配だわ」

 その晩、彼女は、姉の形見として持つて帰つた著物のうちから、黒地に白く花火模様を浮かした絽の単衣の、わりに自分にも似合ひさうなのを、思ひ切つて著て出ることにした。

 鬼頭は、今食事をすましたばかりで、腹こなしの散歩に出ようとするところだつた。

「そいぢや、まあ上りませう」

 といふのを、彼女は、

「でも、散歩ならお伴しますわ、よろしかつたら……」

「いや、今日はどうでもいいんです。お母さん、座敷をちよつと片づけて下さい」

 彼はどんどん上つて行つてしまつた。

 やつと向ひ合つて坐ると、彼はいきなり、

「姉さんは、いつたいどうしたんです。馬鹿なことをしたもんだなあ」

 と云つて、取りつく島のないやうに不機嫌な顔をした。

「新聞をごらんになつたんでせう」

「あの大学教授つていふのは深水のことですね。あんなのはもう出入り差止めだ」

「新聞は、だつて、好い加減なのよ。姉さんの気持は、そんなことと関係ないらしいわ」

「ぢや、なんと関係があるんです?」

 で、千種は、ひと通り、姉の遺書にあつたことをそのまま話し、

「だからつて別に姉の弁護をするわけぢやありませんけど、ああいふ風に伝へられるのは可哀さうですわ。それに、その二千円つていふお金がよ、何処から出てるとお思ひになつて?」

 これだけは、云ふ必要がなければ云はずにおかうと思つたのだつたが、ここまで来ると、もうかくしておくのが負担に思はれた。それに、第一、さつきからの彼の態度は、厳正を通り越して、やや意地悪くも感じられるので、彼女はなんとかして相手の心を大きくゆすぶつてやりたかつた。それによつて、一時にもせよ、硬ばつた彼の感情の裏に、この自分に対する変らない優しみを見出すことができたらと、実は、無我夢中であつた。

「新聞でみると、例の大学教授が出したみたいでせう。ところが、さうぢやないの。あれはね、お驚きにならないでね……」

 ぢつと眼を見据ゑながら、彼女は、そこで、微かに、媚びのある笑顔を作つた。



 相手の好奇心が十分動いたと見て、千種は、さもそれがなんでもないことのやうに、千久馬が勝手に銀行預金を引出したのだといふこと、おまけにそれは、例の基金募集の金であることを述べ、

「あなたはいらつしやらないし、あたくし、どうしやうかと思つて……。父にはまだ内証にしてありますの」

 すると、鬼頭は、ますます苦い顔をし、

「千久馬君ていつたつて、あれの保管はあなたがしてるんでせう」

「さうよ、だから、どうしようかと思つたんですわ。神谷さんにだけは、ちよつとお話しときましたけど……」

「弱つたなあ。僕たちの責任問題になるな。お父さんにはまあ諦めてもらふとして、金を出した連中が承知しないでせう。少くとも応募の趣旨にそむいたわけなんだから、委員は、これや切腹だ」

 ほんとに切腹でもしさうな、沈痛な口調であつた。そこで、彼女は、もうよからうと思ひ、

「でも、あたくし神戸へ行つて来ましたの。義兄もそのわけを知つて、そんなら、むろん自分が後始末をするつて云つてましたわ。ですから、もう安心なの」

 こつちで安心してみせたわりに、鬼頭はよろこばず、何か云ひたさうにして、そのまま口をつぐんでゐる。

 こんな風では駄目だと、彼女は思つた。

「ほんとに、いやなお話ばかりね。なんかせいせいするやうなお話、伺ひたいわ。絵葉書をいただくたんびに、あたくし……。よさう、をかしいから……」

 別に技巧を弄するつもりもなく、彼女は、思慕の情を籠めた一と言を、婉曲に伝へたかつた。が、それを許さないへだたりが二人の間にまだあることに気がつくと、彼女はそのために却つて顔を赤らめた。

 その時、鬼頭は、突然腰をあげて、

「家の中は、やつぱり暑いや。ぶらぶら歩いてみやうぢやありませんか」

 と、云ひ、縁側へ出て大きく伸びをした。

「ええ、その方がいいわ。歩くんならいくらでも……」

 釣り込まれて、彼女も起ち上つたが、母親がそこへ果物を盛つた皿を運んで来たのに、わるいと思ひながら、鬼頭の後について外へ出た。

 御殿山を降つて、踏切を越えると、京浜国道が左右へ延びてゐる。何処へ行くのかと思つてゐると、それを横切つて、ずんずん細い道へはひつて行つた。

「こつちへ行くと、どこへ出るんですの?」

「海岸ですよ」

「まあ、そんなに近くに海があるのかしら……」

「あんまり綺麗な海ぢやないけど、涼しいことは受け合ひです」

 人家がやがてまばらになり、倉庫のやうな建物のぽつぽつと並んだ薄暗い場所に出た。潮風が髪と袂と裾とを目がけて、真つ向から吹きつけて来る。彼女は、それをけるために、からだをはすにして、いつとき道ばたに立ちすくんだ。

 埋立地のとつつきである。



 千種が追ひつくのを待つて、鬼頭は、

「僕の散歩コースはね、此処で潮の匂を嗅いで、それから、そこの東海寺といふお寺へ寄つて、それから時間が早ければ、少し先きの沢庵和尚たくあんをせうの墓へお詣りをして帰るんです。しかし、今日は、これくらゐでよしませう。あなたが草臥れるといけないから」

 と、いくぶん快活な調子になつた。

「あら、あたくし、歩くんなら平気よ。女学校の頃、箱根へ遠足に行つて、六里だか歩かされたことがありますわ。一番元気だつて先生に褒められたんですもの」

「へえ、一日に六里……強行軍だなあ」

 鬼頭は感心したやうに、一つ時彼女の顔を眺めてゐた。軽くウエーヴした髪が、ところどころほつれて、折からの風に、うるさく額にからみつく、それを撫で上げ撫で上げする細い指が、物憂げに、また艶めかしい。彼の視線は、その指先から袖口のレースに移り、ついで、うす水色の半衿からのぞいた清楚なうなじ……。彼は、頭がしびれるやうに思つた。と、その時、足もとからつい二、三歩のところを、小さな黒い影が非常な速力で横切つた。千種は、はツと呼吸をつまらせ、からだをすくめると一緒に、鬼頭の腕に縋りついた。

「まあ、今の、なに?」

「犬か猫でせう。驚いたの?」

 彼は労はるやうに訊ね、女の汗ばんだ肌を皮膚に感じながら、ぢつと空を見上げた。

 彼女は、何時の間にか、鬼頭の手を握りしめ、もう決して放すまいと覚悟をしてゐるもののやうであつた。

 しかし、鬼頭は、それに応へる様子はなかつた。そして、彼は、もう猶予はできぬといふ風に、

「ねえ、千種さん、今日はいい序だから、今僕が考へてることを、率直に云つてしまひませう。いいですか? あなたも、冷静にこの問題を考へて下さい。誤解は勿論、そこに意見の相違があつてもならないんです。僕たちは、もう相当にお互を識り合つてるんですからね。いや、識り合つてるなんていふ程度ぢやないな。なんていふんです? 好き合つてる、愛し合つてる、まあ言葉はどうでもいいや。僕たちは自分たちの意志で、近い将来に結婚しようとしてるんでせう。あなたからはまだ正式のお返事はないが、これは、僕の判断にまかせて下さい。ところで、さういふ状態にある僕たちの前に、不幸な事件が起つたんです。不幸といふ意味は、勿論、僕たちの結婚の障碍になるといふことです。ここですよ、恐らく、説明を要するのは。さうでせう、第一に、あなたの姉さんの自殺、これは世間に伝へられた真相なるものは、伴一家にとつて、拭ふべからざる汚名です。待つて下さい。僕自身は、もつと自由な考へ方だつてできますよ。しかし、周囲がそれを許さないんです。許さないのみならず、僕一個としても、結婚は、個人と個人との結合だとまでは考へてゐません。本人を中心として、その家族、おや同胞きやうだいといふものは、十分計算に入れなければならんと思つてゐます。少なくとも、われわれのやうな職務にあるものは、その点慎重でなければならんのです。これは必ずしも旧式の思想と関係はありませんよ。現在の独逸などで、国策として結婚の条件を民族的血統の純化においてゐるのとやや同じ理由です」

 聴いてゐるうちに、千種は、茫然として、ひとりでに握つてゐる相手の手を放してゐた。



「だからですよ、まあ、しまひまでお聴きなさい。僕が若し軍人でなかつたら、さういふことは問題にしないでせう。世間体なんていふことと、凡そ関係はないんですから。ただ、われわれの仲間の常識として、かういふ事件のあつた直後、あなたとの婚約をおほやけにするといふことは慎みたいんです。勿論、式を急ぐわけには行きません。そこで、いろいろ考へたんですが、あなたの方のお返事を、もうしばらく保留しておいて下さい。いづれ機会をみて、もう一度僕の方から話を持ち出します。その時は、きつと承知して下さいよ。変な云ひ方だけど、今すぐ約束をしてしまふといふことは、僕個人としては熱望するところですが、周囲の情況がそれを許さないといふわけです。つまりなんといふか……」

「ちよつと、そんなに一人で喋つておしまひにならないで……」

 と、千種は、心の動揺を制しかねて、せめて相手のひと言ひと言に、自分の気持の反応を示したかつた。初めとしまひとでは、大分雲行が違つては来てゐるが、結論は何処へ落ちつくのか、まつたく見当がつかないのである。世間体とは関係がないと云ひながら、事件のほとぼりがさめるのを待つ気でゐるとしたら、やつぱり、おんなじではないか。伴一家の家名とか、信用とかといふ点なら、時日を延ばすことがどれだけ有利なのか?

「さつき独逸の例をお引きになつたわね。あれはどういふ意味なんですの? あんなことをした女の妹だから、やつぱり同じ血統で、将来が案じられるつていふ意味かしら?」

 彼女は、思ひ切つて問ひかけた。

「いや、さうはつきり云つた訳ぢやないんです。僕たちの仲間はね、女房を貰ふのに、必ず当局の許しを受けなけやならないんです。今迄のあなたは、無論、及第にきまつてたんです。ところが、今度の事件が相当新聞で書かれてますからね。恐らく調べて行くうちに、伴直人次女、ああ、それぢや、あの……といふことになつて、ちよつと面倒だと思ふんです。こんなことは、だれがなんと弁解しても無駄なんですよ」

「でも、さういふ時は、さういふ時で、なんとかなりさうなもんだけど……」

「なるほど、そこをはつきりさせておかなくつちや……。あなたは、僕に軍服を脱いだらと云ふんでせう? そして自由なからだになれと云ふんですか? お待ちなさい。さういふ気を起してもいいぐらゐ、僕はあなたをかけ替へのないひとだとは思つてますよ。ところが、日本の将校は、昔の武士とも違ひ、西洋の軍人とも違ひ、こいつは、なんと云つていいか、自分でえらんだ道でありながら、自分で棄てることのできない義務を負つてゐるんです。そこが、所謂、職業でないところでせう。お役に立つ間は自分の都合でやめるわけに行かない。名を棄てて恋に生きるなんていふ洒落た真似はしたくてもできないところに、われわれの信念が置かれてゐるんです」

 闇の中で、低く唸るやうなその声を聞きながら、千種は、鬼頭の眼が燃えてゐるのを感じた。




改宗




 大義名分の絶壁の前で、人間一人の感情は木の葉のやうに無力であることを、千種は感じ、もうこれ以上、何も云ふまいと心に決めた。鬼頭の言ひ分には、世俗的な見得みえや打算が含まれてゐないのだと信じれば信じるほど、彼女は、真実な魂を動かす目に見えない権威が、自分たち女性の運命に眼をふさいでいいのであらうかと疑はずにゐられないのである。

 二人は品川駅の前で別れた。

 千種は切符を買ひはしたが、鬼頭の後ろ姿を見送ると、このままもう彼とは会へなくなるやうな気がした。と、なんだか急に、眼の前が真つ暗になり、その反動でもあらうか、ふとこの近所に住んでゐる新島園子の華やかな顔を思ひ出した。

 近所と云つても、ここから歩いてはちよつと暇がかかるし、おほかた別荘へ行つて留守かも知れぬと思ひ、自動電話をかけてみた。園子は家にゐた。今、面白いことをしてゐるからすぐ来いといふ返事であつた。

「葉山なんかより、ここの方が静かで本も読めるしさ、第一、外へ出るとお辞儀ばかりしてなけやならないだらう。そんな生活ないよ。ところで、これなんだ? あててごらん」

布片きれぢやないの」

「あたり前なこと云ふなよ。なんにする布片か、それを云はなけや」

「なんかの袋にすんの?」

「このひだの取り方でわからないかなあ」

「カーテンでもないわね」

「かうすんだよ。どうだ、似合ふだらう」

「なに? 著物」

「古代希臘の布衣ほいつてやつだよ。ほらソクラテスが着てるだらう。あれさ」

「ソクラテスのとヴィナスのと、どう違ふかしら?」

「おんなじらしいね。この布片はわざわざ手織にさせたんだけど、まだ感じが出ないや。うまく襞がつかないんだよ」

「著かたが下手まづいからよ」

 あつちを引つ張り、こつちを引つ張り、二人は、女神のポーズを工夫することに余念がない。

 やがて、園子は、女中を呼んで、これも自分が作つたといふサンダールを持つて来させた。革の草履である。

「なに? いよいよ、希臘まで後がへりするつもり?」

「まづ外形を整へてね。第一に雄弁術の稽古をするよ。その次に悲劇を書く……」

「演じないで頂戴……」

 と、千種は、思はずしんみりと云つた。

「ああ、さう云へば、昨日聞いたんだけど、神戸の姉さんのこと、ほんとかい? 新聞にも出てたつて……」

「ええ、新聞は少し違ふけど、死んだことは死んだのよ。そのことで、あたしの縁談も一時お流れになつちやつた」

「鬼頭少佐? ふむ、そいつはわかるね。で、諦められないつていふわけだね」

「まだ諦めようとはしてないけど、なんだか、希望はなささうだわ。何れ時機を見てつていつてるの。そんな時機が来るかしらと思ふわ」

「だから、君は駄目なんだよ。向うの都合ばかり考へてたら、こつちはどうなるんだい。ちよつとでも二の足を踏む男なんか、どんなに惜しくつたつて、あつさり思ひ切るのさ。いつたい、好きになり方が早いんだよ、君は。好きになつてもいいから、それを相手に知らせる時は、もう愈々つていふ時でなけれや駄目だよ。第一、見つともないぢやないか、おめおめ引退るなんて……」



 園子の議論は何時でも元気がよく、口では誰でも云つてみたいやうな意見なので、別段傾聴に値するとも思はぬが、なによりも、さういふ物の考へ方をしながら、ずばずばそれを実行にうつして、一向悔むところのないらしい様子が、見てゐて気持がいい。何処へも自分の意志が働きかけて行けないやうな状態は、精神の目じるしがはつきりしてゐないからだといふことをしみじみ感じるのである。

 ぼんやり考へ込んでゐると、そこへ、扉を叩く音がして、一人の女客が案内されて来た。

「遅くなつちやつたわ。明日どうしても間代を払はなけれやならないもんだから、あつちこつち駈け廻つたのさ。やつと原稿が売れた。あら、失礼、何時か帝国ホテルでお目にかかつたわね」

 さう云はれてみると、なるほど、これが女流小説家の津幡秀子であることがわかつた。彼女は、二た口目には貧乏の話をはじめる。それが園子の前なので変なことになりさうだが、本人は勿論、聴いてゐる園子の方でも一向平気らしく、貧乏の面白さ、貧乏人の誇りが、この贅沢なサロンの中で、光彩を以て語られるのである。千種は、魔術をみせられてゐるやうな興味で、ただ眼をみはつてゐた。

 そのうちに、話題が女の職業といふことになり、津幡秀子は細君業なるものについて弁じ立てた。現実の暴露はお手のものといふ感じで、ひどく穿つたものであつたが、千種は流石に黙つてはゐられず、

「女が外に出て働くのは、それや結構は結構だけど、あなた方の考へ方は、少し女を軽蔑し過ぎてやしないかしら。だつて、かういふ話があつてよ。西洋のどこだつたか、たしかフランスだと思ふけど、ある聡明な女に向つて、あなたはなぜ女子参政権に反対するかつて、誰かが訊いたら、そのひとは、笑ひながら、──政治なんていふもんは、男にだつてできますからね、つて返事したんですつて。素晴しい返事だと思ふわ」

 すると、園子がそばから口を挟んだ。

「そんなこと云つてゐられるフランスの女は、まだ仕合せだつていふ証拠になるだけぢやないか。日本の女がそんなこと云つたら、可笑しいよ」

「あら、どうして?」

「だつて、君だつてさうぢやないか」

 と、彼女は、遠慮なく、鬼頭少佐と千種との結婚問題にからまるいきさつを、津幡秀子の前で披露に及んだ。

「ねえ、秀子さん、あんたどう思ふ? この人は、それでもまだその海軍少佐を諦められないんだとさ」

「諦めなくつたつていいぢやないの。それやいつたい、恋愛の話? それとも結婚だけの話?」

「いやなひと、両方さ」

 と、園子は、起ち上つて呼鈴を押した。

 千種は、かうして自分を中心に、人々が無責任な評定をしはじめるのを聞いてゐると、それだけは我慢ができず、今迄眠つてゐた勇猛心が瞬間に翼をひろげたやうに、遥な大空を眼にうかべて、勢ひよく暇を告げた。



 神戸の久野信次郎からは、いくら待つても金を送つて来ない。婉曲に催促をしてみると、──二千円をみんな自分が出すのは負担が重すぎるし、さういふ義務もないやうに思ふから、せめて半分だけは実家の方で引受けて貰ひたい。なんなら、自分が上京して、お父さんとぢかに話をしてもいい。死んだ千登世にしてみても、あとで亭主に尻ぬぐひをさせるつもりはなかつたにきまつてゐる。千久馬君も子供ではない。相当分別もあり、腹もあつて然るべき男であるからして、弱い女にばかり罪の名を被せるのは如何かと思ふ。自分としてはただ、千登世への供養として金壱千円也を羊頭塾に寄付する気持である。名目はそちらで如何やうとも変へられてよろしい、といふ返事である。そして、翌月払の約束手形が封入してあつた。

 千種はこの手紙を読みながら、さあ困つたことになつたと思案にくれたが、義兄の取つた処置には、なんとなく徹底した、面白い人柄が感じられ、はじめの申出をひるがへす卑怯さも、かうあつさり出られては、強ひて責める力も抜けてしまふやうな気がした。で、もうかうなつたら、父に打明けて、他人を交へずに解決をしてしまはうかとも思つた。と、丁度、この日の夕方、神谷がぶらりと遊びに来た。

「久馬ちやんは?」

 玄関の声を聞きつけて、千種は、自分で出た。

「毎晩十二時にならなけや帰つて来ませんわ。その後、お会ひにならない?」

「その後つて……ああ、あれからね、会ひましたよ。ちよつと上つていいでせう。ご飯はもうすんだの? 僕はすまして来ました」

 座敷へ通すよりほかなかつた。

 二人の話は、いきほひ千登世の今度の事件に向はうとした。神谷は、既に千久馬から聞いたあらましの事情を、なほ腑に落ちないところがあると云つて、要領のいい質問をした挙句あげく

「深水の奴、近頃神妙な顔をしてますよ。新聞記者に追つかけられたんですつてね。よくわかつたもんだな」

「そのデマは全然信じられないわ。少くとも直接の原因ぢやないことよ」

「しかし、あの事件の前の日か、姉さんが深水の下宿へ現れたのを知つてますか」

「へえ、それで?」

「深水は逃げを打つたらしいんだ。久馬ちやんが、そこで一役持たされたんです。まあ、いいや、そんなことはどうでも……。僕はただ、みんなが真相を半分づつしかつかめないでゐることが愉快なんだ。僕だつて恐らく、さうなんだ。あなただつて、一番詳しいつもりでゐながら、案外、眼が届いてゐないことがわかつたでせう。それはそれでいいんぢやないかな。時に、金の方はどうです。無事に受取りましたか?」

 千種は、その訊き方が、なにか先々を見透したやうな訊き方なので、ちよつとひやりとしたが、

「無事に半分だけ受取りました。あとはそつちでいいやうにですつて」

 そこで、神谷は、大きくうなづきながら、

「大成功です。あなたは見かけによらず凄い腕だなあ。よし、あとは僕が誤魔化してあげる。誤魔化すたつて、山羊さんと海軍少佐でせう。あんなもの!」

 と、楽観そのもののやうな調子である。



 千種もつい誘はれて気が大きくなり、特別のお客さんにと思つてまだ冷蔵庫の中に入れてある貰ひ物のメロンを厚く切つて出した。

「然しね」

 と、神谷は、そいつを一匙、うまさうに口へ入れ、

「こんな厄介な仕事は早く片づけちまつた方がいいな。どうです。土地なんか何処でもかまはないぢやありませんか。早く家を一軒建てちまひませう」

「これでも、近頃は、父もちよくちよく地図なんか引つぱり出して、土地の物色をはじめたらしいわ。あなたから、早く決めるやうにおつしやつてよ」

「それより、鬼頭少佐に云はせたらどうです。あの人は、ものを云ふ時だけは、はつきりしていいや。それに、こいつは号令で行かんと、進捗しませんよ」

 さういふわけで、近々、委員会を開くことにし、場合によつたら序にみんなで候補地の実地踏査をやらうといふことに二人できめた。で、その案を、深水に提出させることにし、神谷は、それまでに必要な工作を進めるといふ段取をつけた。

 委員会は日曜の午前に開かれた。会計報告は、神谷が千種から下聞きをしておいて、その場で自分が代つてやつた。現金二千なにがしといふところを、三千なにがしと変へて云つた。

「では、このへんで締切ることにして、中間の決算報告を応募者諸氏にしておいたらどうだ」

 神谷の提議に誰も異存はなかつた。

「すると、どうでせう、先生、土地の方ですが、何処かお心当りはありませんか」

 と、今度は深水が訊ねた。

「うむ、行つてみたわけぢやないが……おい千種、ちよつと東京近郊の地図を持つて来なさい」

「やつぱり郊外ですか」

 鬼頭は賛成らしい。

 やがて、地図を囲んで四つの頭が向ひ合つた。直人の眼が眼鏡の奥で光つた。

「ええと、ここが五反田……池上線……洗足池……まあ、このへんに空地があれば、ひとつ見に行つてもいいな」

「よろしい、先生、今から見に行きませう。みんなで行きませう。暑いですか?」

 深水がここぞとばかり膝を乗り出した。

「暑いなあ、秋になつてからぢやどうだ」

 もつとも至極な渋り方なので、神谷も千種も鬼頭も、自分で云ふには云つたが、深水自身も、声を揃へて笑つた。

「しかし先生は、秋になつてからの方がいいとして、若いものは汗をかかなけやいかんよ。今日は有志だけでもいいから、調査だけして来ようぢやないか。先生に何処と何処とを見せるといふ、これはできるぜ」

 神谷は、事を急いでゐる。

「それぢや行かう。先づ、先生に条件を伺つて行かう」

 鬼頭が応じた。すると深水がまた、

「女性的見地からもいろいろ条件があらうから、千イ坊を是非連れてかうぢやないか。鬼頭さんどうですか」

「え?」

 と、鬼頭は、そこで、毒瓦斯の臭ひを嗅ぎ分けるやうな表情をした。

「あたしは、お父さんと一緒の時でいいわ。最後の決定権をもたして頂戴よ」

 何気なく云つたつもりだが、つい、最後の云々といふところへ来て声に力が籠つた。

「大きく出るぞ。うそうそ、ご免なさい。僕は今謹慎中で、こんなこと云ふんぢやなかつた」

 直人と顔を見合はせた途端、深水は首を縮めながら、頬をつるりと撫でた。



 八月は伴一家にとつて、五月とおなじやうに「家族的」な月で、末の男の子が二人、それぞれ学校の休みで帰つて来るし、塾の方はぐつと人が減り、千種は弟たちと一緒に神楽坂や銀座をぶらつく機会が多くなる。師範生の千早も、幼年校生徒の千足も、時々姉から小遣をせびつて、二三泊の登山旅行にでかけることがある。千種はそのためのやりくりが楽しかつた。

 さういふ間にも、鬼頭のことを考へると、彼女は、宙ぶらりんな状態におかれてゐる自分の気持を扱ひかね、いつそひと思ひに、こつちから断つてしまはうかと思ふやうなことさへあつた。しかし、こんな反抗的な出かたの裏には、実は反対な結果を望む極度の執著があることを自分でも知つてゐたし、意地などと云つても、それは第三者からみれば、単なる腹癒せや負け惜しみにすぎないことが多いと思つてゐたから、どうもそんな真似はする気にならない。女学校時代から、よく姉などは、彼女のさういふ我慢強さをもどかしがり、たうとう「偽善者」といふ綽名をつけたくらゐである。

 が、ある日、彼女は、父に鬼頭の云つたことをそのまま伝へ、自分は別に無理とは思はないが、どんなものであらうと相談してみた。

「鬼頭がそんなことを云つたか? よし、おれが話してみてやる」

 それから早速仲に立つた例の海軍中将のところへ、直人は自分で出かけて行つた。

 帰つてからの話では、仲人中将の意見として、それは心配はいるまい。十分諒解がつくと思ふ。ただ、鬼頭が彼一個の判断によつて、今度の問題で結婚を躊躇するといふなら、それは別である。が、まださういふ意志表示を受けてゐないから、何れとも返事はしかねるといふのださうである。

 直人は、千種の顔をのぞき込みながら、

「もう一度、鬼頭に会つた折、直接訊いてみてやらうか」

 すると千種は、慌てて首をふつて、

「いや、いや、それはよして頂戴。だつて、直接なら、あたしだつて話ができるわ。二人の間で、念を押すみたいなこといふのいやだから、言葉通りにあたしは解釈してるの。でも、こんな風に相手を信じるつてことは、卑屈かしら?」

 それには、父は返事をしなかつた。

 鬼頭は、その後、ぱつたり顔を出さないのみならず、父に宛てた手紙には見聞した土地のことを簡単に報告し、何れ九月になつたら、みんなで寄つて、めいめいの意見をお聞かせする筈としたゝめてあるだけで、千種は、その時、そばから、

「あたしのこと、なんにも書いてない?」

 と、訊ねてみたが、父は、

「ないな」

 さう、気の毒さうに答へて、その手紙を彼女の前へはふり出した。



 その晩ひと晩ぢゆう、千種は、鬼頭に会ひに行く口実を考へた。

 で、いよいよ決心がつくと、父にはただ──今日一日遊んで来る、ことによつたら、その日下山といふところの土地を見て来ると云ひ、日曜の朝早く家を出た。

 鬼頭の家へ著いたのが、まだやつと九時で、母親は眼をまるくして彼女を迎へた。

「もうお眼ざめですかしら……。なんですか、遠いと思つたもんだから、家を八時に出たんですのよ。お差支ございません?」

 すると、そこへ鬼頭が奥から顔を出して、

「かまひませんよ。なんか急用ですか?」

「ええ、実は、先日お手紙にありました土地のことでね、父が一度あたくしに見て来てくれつて申しますの。場所、わかりますわね。ちよつと地図でも書いていただければと思つて……」

「一人で行きますか? それや無理だな。ご案内してもよござんすよ。しかし、深水も、神谷も、そこは知らないんですよ。みんな別々に手分けをして見たんですから……。まだ、なんとも云つて来ませんか?」

「いいえ、べつに……」

「ぢや、今度集まつた時報告するつもりなんだらう。あんまりいいところは残つてないですよ」

「でも、父はなんですか、興味がありさうでしたわ。ぢや一緒に行つていただかうかしら……さうしてくだされば、あたくしは、有りがたいわ」

 やがて、二人は、省線で五反田まで行き、更に池上線に乗り換へて、石川台といふところで降りた。

 新開地らしい、自然と人工の不調和は見られるが、地勢は一体に広闊で、南面の明るさがあり、もう日は可なり高くなつてゐたにも拘らず、爽やかな微風が時々土のいきれを払つて、所謂都塵を離れたといふ感が深かつた。駅を出ると、すぐに踏切を渡つて、ゆるやかな斜面を登りきると、なるほど、台地らしい周囲の眺望がひらけて来た。

「僕はこのへんを受持つたんです。深水はあの谷の向うの高いところ、神谷は、駅の北側から洗足の池へかけて探したらしい。夕方の四時頃まで、てくてく歩いて、五反田で落ち合つたんですが、みんなへとへとでしたよ。その代り、酒がうまかつた。いい気になつて、芸者なんか呼んでね、はゝゝゝ、こいつは、余計なことを云つちまつた」

 此処だといふ場所に来てみて、千種は、ややがつかりした。二階家の間に挟まつた狭苦しい空地で、富士が見えると云ふのは、隣の物干の間からである。

「もう少しまはりの広々としたとこはないのかしら……。あの辺にいくらだつてあるみたいだけど……」

「あの辺つて、あれは畑です。今はよくつても、あとで周りに何ができるか、それこそ飛行機のモオタア工場でも建てられてごらんなさい。昼寝もできやしませんよ」

「さう云へばさうだけど……」

 なるほど、鬼頭らしいと彼女は思つた。

「ぢや、いつそ、周りへなんにも建ちさうにないとこを探したらどうでせう。せめて、前だけでも、海か河か、深い谷にでもなつてれば……」

「そんなら、この辺ぢや駄目だ。いつそ、多摩川べりまで範囲を延長しますか? 先生はどうだらう」

「多摩川は、ここから、そんなに遠くないわね」

 彼女は、家の方はどうでもいい。鬼頭と一緒に歩く範囲を、できるだけ延長しさへすれば、今日はそれで目的を達しるのである。



 鬼頭も、それではまあ遠足のつもりでと云つて、丸子の渡しへ出る道順を人に訊ねた。この電車では、駅から相当歩かなければならないといふのを、千種はまた、歩くのは平気だと云つて頑張つた。

「あなたはまるで僕に歩きつくらを挑んでるんだな。よろしい。今日は降参さしてやるから……」

 が、その言葉は千種の心を浮き浮きとさせ、パラソルを肩の上で廻しながら、彼女は、

「いいわ。その代り、ご自分が先に降参なすつちや駄目よ。ああ、うれしい」

 と、思はず跳び上るやうな形をしてみせた。

 多摩川の岸には、相当の人出があつた。二人は日にやけた河原へ降りて行かうとせず、土手の上を、しばらく往つたり来たりした。

「このへんで家を建てるつていへば、何処だらう?」

 鬼頭は、本気とも思へない調子で千種に笑ひかけた。

「このへんなら何処でも借りられるのかしら……? でも、ちよつと不便すぎるわね、第一お酒屋が遠さうだわ」

 家の話はそれきりで、鬼頭がたうとう喉が渇いたと云ひだした。

「あら、もつと歩くんぢやないの? この次の渡しまで行つてみませうよ。おいや?」

「もうわかりました。あなたの健脚に敬意を表して、あそこで一杯ビールを飲むと……」

「ずるいわ」

 と、彼女は、睨む真似をした。が、すぐあとで、それこそ思ひ出したやうに、かう附け足した……。

「ねえ、ちよつと……あなた、どうして近頃、ぷつつりお見えにならないの? お手紙だつて下さらないし……。何時かおつしやつたことね、さういふ意味でしたの?」

 鬼頭は、突然のこの質問に、やや面喰つた様子であつたが、さりげなく、

「ご判断に委せませう。僕としては、今、さうするよりほかしかたがないぢやありませんか。今日みたいな機会を与へて下されば別ですが……」

「今日みたいなつて……ぢや、あたくしの方から伺へばいいんですの? そんなこと、一度もおつしやらないぢやないの?」

「それは云へませんよ、やつぱり……。いいですか? 僕は、こないだも云つたやうに、あなたとの結婚については、慎重に考へ直さなければならない時だと思つてゐるんです。自分の感情も、それがためには抑制すべきであるし、あなたの気持も、できるだけ自由に保たせておきたいんです。つまり、二人を今迄以上に接近させるやうな機会は、絶対に避ける必要があると考へたからです。わかりますか? これは自分自身のためといふよりも、あなた、即ち、感情に支配され易い女性たるあなたのために、僕が当然負はなければならない義務なんです。さうぢやないですか?」

 努めてかどうか、それは、説諭的であると同時に、宣告的であつた。彼女は、そこで、やや皮肉に胸を反らして、独言のやうに呟いた。

「もう遅すぎるわ、そんなこと」



 それから、突然、黙つてゐる鬼頭の腕をぐつと引き寄せて、

「義務なんて、いや、いや、いや……。あたしは、義務なんかでなく、もつと自然な気持で、あなたのことを考へてるわ。結婚ができなければ、それでもいいの。だけど、いよいよできないときまるまでは、やつぱり、結婚するものとして、心のつながりだけはもつてゐたいわ。それがどうしていけないんでせう? ねえ、あなたのおつしやることは、ほかの女には当てはまるかもしれないわ。だけど、あたしは、そんな女ぢやないことよ。あら、いやだ、こんなこと云ひながら、泣きだしさうになるなんて……。ごめんなさい。興奮なんかしないつもりだつたけど、やつぱり、これだけ云ふのは、一生懸命なんだわ……」

 自分でも何を云つたのか、恥も外聞もないつもりで、ただ云はずにはゐられないことを止めどなく喋つたのである。呼吸いきが苦しい。眼をあけてゐられないほど、周囲の光りが眩しかつた。

 が、ぐつたりと倚りかかれば、それを支へてくれる力が、そこにあるかどうか疑はしかつた。そのまま、自分のからだは雑草の上に投げ出されるのではあるまいかと、反射的に、彼女は、姿勢をもとへもどした。

 果して、鬼頭は、そつと腕を外して、煙草に火をつける風をした。

「あなたの云ふことはよくわかりました。まあ、落ちついて話をしませう。あなたのさういふ情熱が、僕の心を燃え立たせない筈はないんです。しかし……」

 と、彼はいつ服、煙草を喫つて、その煙をぷつと空へ吹き上げた。

「しかし……?」

 彼女は、何時の間にかそこへしやがんで、彼の顔を見上げながら、先をうながした。

「待つて下さい。僕は当節の恋愛論といふやうなものは知りませんよ。あなたのは、それは新しい恋愛論ですか?」

 極度に冷静な響きをもつたその反問に、彼女はいつ時腰を折られた形であつたが、もう、此処まで来ると、何か激しい身振りの要求にせきたてられ、

「人をおからかひになるの? そんな風におつしやると、あたし、なんにも云へませんわ。恋愛論なんぞどうだつていいから、あたしのほんたうの気持がわかつていただきたいわ。後生ですから、子供をだますやうなことはなさらないでね。結婚はできなくつてもなんて、さつき申上げたのは、女としてなにかふしだらな言葉のやうにお取りになつたんでせう。そんな意味ぢやないのよ。どう云つたらいいか、あたしもうわからないわ……」

 鬼頭も、しかたがなしに、道ばたの、彼女の隣へ腰をおろしてゐる、その方へわざと背中を向けて、彼女は、ねるやうに肩をゆすぶつた。

「千種さん、今日はいつたいどうしたんです、まるで不断のあなたぢやないですね」

「さうでせう……」

 と、彼女は、優しく応じた。──

「それや、だつて、今日みたいなことは今までになかつたんですもの……。もうどうなつてもいいと思ふくらゐよ」

 すると、鬼頭の手が彼女の肩さきにそつと触れた。彼女はパラソルの下で眼をつぶつた。



 と、やがて、逞しい力が、彼女を抱きすくめた。もう、どうする暇もなかつた。熱い息を頸筋に感じたと思ふと、鬼頭の声が耳もとで囁いた。

「ね、かうすればいいんでせう。僕だつて我慢してたんだ。あなたがそれほど徹底してるとは知らなかつたんです。ぢや、僕を信じてくれますか? 行けるとこまで行きますか?」

 彼女は、全身を硬ばらせ、ぎゆつと肩をすぼめて、逆ふでもなく、従ふでもなく、相手の求めるものを警戒するやうに、頤を襟に埋めてゐた。

 なるほど、この辺へ来ると、もうひとは更になく、真夏の日光の下で、眼があればすべて、水の流れか緑樹の茂みに注がれてゐるに違ひないこの瞬間である。彼等は、たしかに二人だけの天地に棲んでゐたと云へるであらう。

 鬼頭もそれを意識し、彼女もそれを感じてゐた。が、しかし、鬼頭にとつても、それは冒険と思はれたし、彼女はなほさら、さういふ度胸試しに慣れてゐないので、この場面は、ながくは続かない。

「駄目よ、こんなとこぢや……」

 と、つひに彼女は、鬼頭の唇をこばんだ。

「ほら、だれか来たわ」

 が、誰も来ないのである。

 二人は、それでも、陽気に起ち上つた。そこで、鬼頭はやうやくビールにありつけ、千種は、サイダアをと云はれたのを、茶目つ気を出して「みつまめ」を註文した。

「お待ちなさい、もう昼ぢやありませんか。食事はどうしませう。ここで何かできるかしら……」

 すると、茶店の女将は、昼食なら、裏に座敷があるからと云つて、御料理といふ看板を出した離れのいくつもある家へ案内した。

 周りは鬱蒼たる木立で、部屋はこの時刻に薄暗いほどであつた。千種は、さつきから背中が冷えびえして気もちが悪い。帯を結び直したいと思ふが、それもならず、女はどこまでも損にできてゐると考へてゐた。

 やがて、川魚と缶詰の野菜を取合せた場末らしい料理が運ばれ、給仕の女中が厚顔あつかましく二人に向ける視線を、千種はくすぐつたく感じながら、箸を動かした。

 食事がすむと、女中が、心得顔に、

「では、あちらにお支度がしてございます」

 と云つた。

「え? なんの支度?」

 と、鬼頭は問ひ返した。

「あら、おやすみになるんぢやないんですか」

 女中は、あらためて二人を見比べてゐる。

「馬鹿ッ!」

 膳がひつくり返るやうな声で、鬼頭は一喝した。そして、何かを追ひ払ふやうな手附をして、

「早く勘定をして来い」

 千種は、あとで、今のはなんだと訊きたがつた。鬼頭は、笑つて答へない。

「え? なによ? どういふこと云つたの? 教へてつたら……ねえ……」

 彼女は、起つて帯を結び直してゐる鬼頭の方へ、からだをすり寄せ、しまひに、その肩へ手をかけてゆすぶつた。

「よし、ほんとに知りたけれや教へてあげよう。いいですか。驚いちやいけませんよ。それはね、もつとかういふ風にして聴かなくちや……」

 彼女は易々と彼の腕に抱かれた。そして、あつと思ふ間に、唇を許してゐた……。



 千種は、さうして鬼頭の腕のなかで、すべてを投げ出してゐるやうにみえた。彼は、口早に、この家がどういふ種類の家であるかを説明した。彼女は、なにを聞いてゐるのか、うすく見開いた眼に微笑をさへ浮べて、そつと胸を寄せて行つた。

 が、鬼頭は、なだめるやうに、

「さ、ぼつぼつ出掛けませう。こんなところに長居は無用だ」

 勘定をすまして外に出ると、千種は、ほつと息をついた。鬼頭がぎごちなくステッキを振つてゐる、その方へ自分から話しかけたものかどうか迷つた。彼女は、しかし、幸福であつた。

 夕方まで、渡しに乗つたり、樹蔭に腰をおろして雲の湧き上るのを眺めたりした。これと云つて話すことはもうなかつた。千種はやつとこれで安心だと思つた。眼をつぶつて彼の後について行けば間違ひはないといふ気がする。それほど、彼の一切が信頼すべきもののやうに思はれた。今日といふ今日、彼女は彼の前で自由に振舞ふことができた。そして彼の男性としての魅力は、節度と矜恃が、野性と単純さに一種の気品を与へてゐるところにあるのだといふ気がした。

 五反田の駅で鬼頭と別れてから、彼女は、何よりも自分の力で彼をここまで引つぱつて来たのだと思つた。昔のままの自分であつたら、彼の本心をかう簡単に見抜くことさへできなかつたであらう。彼のやうな男を動かす情熱と技巧が、この自分のどこにあつたのか、われながら驚くくらゐである。彼女は、勝利者のやうに微笑んだ。そして、さあこれからだと勇み立つ心をぢつと抑へながら家へ帰りついた。

 その晩はなかなか寝つかれなかつた。鬼頭のことを想ひつづけてゐるのである。それはもう、酔ひ心地といふより、寧ろ苦痛に近いものであつた。希望の輝やかしさではなく、解決を迫る貪婪な息吹きである。胸をはだけ、また掻き合はせて、幾度も寝返りをうつた。

 日曜には差支ない限り会ふ約束をした。この次ぎは、鬼頭が来ることになつてゐる。不断の日は会ひたくつてもお互に我慢をしようと、鬼頭は云つた。彼女もそれに賛成した。少し窮屈な取り極めであつた。しかし、彼のさういふ気持がよくわかつた。

 ところが、その日曜日に、彼は差支ができた。速達でそれを知らせて来た。一週間たつて、彼女はこつちから出掛けて行つた。彼は風邪を引いたと云つて寝てゐた。顔を近づけると、

「駄目、駄目、うつるから……」

 と云つて、彼女の肩を押へた。

「ご病気の間、毎日お見舞に来てもよくつて?」

 さう訊ねてみた。

「なあに、明日はなほつてますよ。病気は日曜にやつて、一日で追つ払ふことにきめてるんです」

「まあ……そんな勝手な病気つてあるかしら……?」

「病気の方で遠慮するらしいですよ」

「大事なお仕事もつてらつしやるから? そんなら、今日も遠慮して欲しかつたわ」

 彼女は、思ひ切り力をいれて彼の手を抓つた。

 彼は、痛いとも云はなかつた。




落成式




 九月にはひると、神谷仙太郎の仕事はぐつと暇になつた。香水が売れなくなるからである。工場の仕事が暇になる時は、売上金の回収に骨が折れる時である。一番困つたのは、製品の大部を納めてゐる問屋が、言を左右に託して支払を延ばさうとしてゐることであつた。そこへもつて来て、千円の現金はどうしても用意しておかなければならないのである。彼は四苦八苦した。中学時代の同窓で、建築をやつてゐる男を識つてゐたので、時下三千円の家を二千円で建てる工夫はあるまいかと相談に行つた。それができなければ、おれたちの商売は儲からんと云つて、その男は笑つた。

「よし、そんなら、君が儲ける代りに、おれに儲けさせてくれ」

「どういふんだ、それや?」

「詳しいわけは云へないが……」

 と、前置して、彼は自分が千円だけ背負ひ込まなければならなくなつた理由を説明した。

「で、おれにいくらぐらゐ儲けさしてくれるんだい?」

「その上君に儲けられちや、かなはんな。公平にみて、三千円ぢや安いといふ家を建てて貰ひたいんだぜ」

「二千円でね。そいつは見る人間次第さ。おれが当り前に儲けても千円はどうかと思ふが……」

「ぢや、一度だけ損をしろよ」

「馬鹿云へ。お前も商売人ぢやないか」

「その商売人が腹を割つて頭を下げて、かうやつて頼みに来たんだがな」

「なるほど、君がそんなに弱音を吐くのは珍しい。だが折角だけど、こいつはできないとはつきり断らう。相手がほかの奴なら、黙つて引受けるかも知れないが。現代の友情とはそのへんのところぢやないかな」

「さうか、わかつた。ぢや、君はいくら儲ければいいんだい? 友情を計算に入れてだ」

「まあ、おれは儲けなくつてもいいよ。実費で我慢しよう」

「実費二千なにがしで、三千円の家を建てるのはなんでもないだらう。おれなんか三十銭でできる香水を一円五十銭で卸してるよ。ぢや、大体この間取りで設計と見積りを出してくれ。土地は、洗足池のそばの石川台つていふところだ。おれが案内する」

 こんな風な談判の末、いよいよ工事にかかつたのは、九月ももう半ばに近い頃であつた。一と月の予定がおくれて十月の終り近くにやつと建物だけができ上つた。庭の方は後まはしといふことにし、とにかく、記念品贈呈の式を兼ねて新築祝ひを現場で行はうといふことになつた。発起人代表として誰かを呼ばうといふ案が出た。神谷はそれなら、発起人をみんな呼べと主張した。

「来たい奴だけ来ればいいさ」

 彼は千種と眼を見合せて笑つた。



 簡単な茶菓とビールの用意ぐらゐしておけばよからうと云ふのであつたが、それにしても床の間には軸と花ぐらゐは飾らねばならず、座蒲団と茶器をひと揃ひ運んだり、便所や手洗ひ場の設備をしたり、標札も出したりといふ風に、当日はこれでなかなか忙しい。委員は午前中に顔を揃へることになつてゐた。千種は倉太を連れて朝から出掛けて行つた。

 発起人二十名のうち、出席の返事があつたのはたつた七名であるが、呼んだ以上はあまり恰好がつかんのも困るとあつて、鬼頭が順序みたいなものを決めた。

 午後二時の定刻に、先づ××大学教授工学博士松下弥三郎まつしたやさぶらう氏が円タクを乗りつけた。

 伴直人が、床の間を背に、さつきから羽織袴で、手もち無沙汰さうにしてゐるところである。鬼頭は玄関で受付をやり、神谷と深水が案内役を承はつた。

「ええ、ここが書斎です。書院風と云つても、まあ、楷行草かいぎやうさうの行にあたる奴ださうですな」

 神谷は、聞いた通りを、相手が建築美術の大家とは識らず弁じ立て、あとでさうと知つて頭を掻いた。

「設計はどなたですか」

 松下博士の質問である。

「いや無名の新人ですが……大体、伴先生のお考へを尊重したわけです」

 苦しい説明である。

「予算が予算だから、まあこんなものでせうか。場所はなかなかいいですね」

「はあ」

 と、彼は、胸を撫でおろした。椎野しひの海軍中将、黒部くろべ陸軍少将、元群馬県知事名取なとりしゆん六氏、さかき予備主計監、総領事釜屋望かまやのぞむ氏、最後に浦川子爵と来賓一同が席に就く。委員三人は、座敷の隅に小さく並んで、千種と倉太が運んで出す盆や皿を順々に見送り、小声で、「もう一つ」とか、「ビールは真ん中へ」とか注意してゐた。

 やがて、鬼頭が、例によつて、挨拶を述べた。

「今日はご多忙のところ、かつ遠路にも拘らず、われわれの勝手な希望をお容れ下さいまして、わざわざご臨席下さいましたことは、誠に有りがたい次第であります。何分、委員はみな若輩でありまして、この種の経験もなく、結果は伴先生のお気に入りますかどうか、従つて、発起人各位を初め、有志諸氏のご満足を得るものであるや否や、甚だ疑問とするところでありますが、ただ委員の一人、ここにをられます神谷仙太郎君の、何と申しますか、事業的才幹……に信頼して、建築一切の交渉を一任し得たことは、共同責任者たるわれわれの聊か意を強うするところであります。

 ええ、只今から、神谷君に建築事務に関する報告をして貰ひますが、幸ひご臨席各位のご承認を得ますれば、ここに発起人代表として、浦川子爵閣下より、あらためて、伴先生に対し記念品贈呈のお言葉を賜りたいと存じます」

 八畳と六畳の二間をぶち抜いたこの座敷からは、南に百坪あまりの空地をへだてて、麦畑の斜面が続き、それが切れたところにまだ雑木林が残つてゐる。眼にはひるものは勿論、それだけではない。赭土の乾いた肌を見せた向うの丘には点々と不恰好な屋根が並び、麓の街道に砂埃が舞つてゐる。そして、眼の前の新しいカナメ垣が、そこまでは庭であることを如何に主張しても、畑をならしたままの土地に、まだ植木が一本も入れてないのであるから、これは、眺めとは云へないのである。



 神谷の報告が何時の間にか済んだ。と、年輩は四十五、六、モーニングのよく似合ふ浦川子爵が、伴直人の前へいざり出た。

「ええ、今般、羊頭塾三十年祝賀記念の一事業といたしまして、記念品贈呈の企てが発起せられ、委員諸君のご尽力によつて、茲に目出たく家屋一棟の竣工を見ましたることは、不肖発起人の一人といたしまして、欣快に堪へないところでございます。今日、拝見いたしますると、誠に立派な、と申しては、手前味噌になりまするが、有志諸君の誠意の現はれといたして、先づこれならばと申せるやうな、外観は第二第三、主として配慮の行き届いた、精神の籠つた建物であるやうに考へられます。どうか、先生におかれても、われわれの微衷をお酌みとりになつて、快く、これをご利用あらんことを希望する次第であります」

 云ひ終つて、そこへ、鬼頭の用意した目録一封を差出した。

 伴直人は、いくぶん照れ気味で、手を膝にのせたまま頭をさげたが、ちよつと間をおいて、

「上席からおゆるしを願ひます。もはやご辞退をしても追つつかぬといふわけで、お言葉に甘え、このありがたい記念家屋を私の死に場所と定めませう。皆さんのご厚意に対しましては、伴直人、生憎、お礼の言葉を尽く使ひ果しました。が、最後に、鬼頭、神谷、深水三君の、時間と労力を惜しまれない友情を、深く感銘します。どうも、いろいろ、お世話さまでした」

 椎野海軍中将が、そこで、どえらい声を出した。

「いや、かう申しちやなんだが、三千円そこそこでは、当節、これだけの家は建ちませんぞ」

「まつたく……」

 と、浦川子爵が手軽に賛成するのを、松下工学博士は、ギヨロリと眼をむいて、天井の隅々を眺め渡し、

「三十坪欠けるんでしたな。仕様書だけでも一度拝見できるとよかつたが……」

 何を云ひだすかと、一同緊張したが、殊に、神谷は、露骨に顔をしかめ、

「いや、大家を煩はすほどの建築でもありませんから、それはこつちで遠慮したんですよ。しかし、ご批評は、参考のために承はつておきます」

「なに、専門家は、どんなものでも批評したくなるんでね。しかし、その批評はあなた方のお耳に入れてもなんにもならん」

「なるほど、先生がおいで下さるんだつたら、設計者を連れて来るんでした」

 鬼頭は如才がない。

「はゝゝゝ、そんな罪なことはせん方がいい」

 博士は、飽くまでも皮肉な笑ひ方をした。が、運よくそれは例の職業的習癖として、一座の苦笑を買ふに過ぎなかつた。

 そのうち、来賓諸氏は申し合せたやうに、次の会に出なければならぬといふので、引上げて行つた。委員たちは、やれやれといふ形で伴直人を取巻き、急に水入らずといふ気持で、めいめい勝手な熱を吹き合つた。

 千種もそこへ出て来て、菓子をつまんだ。麦酒の壜が幾本も空になつた。

「ちよつと類のないやり方だね、今日のは」

 深水が、感慨無量といふ面持で神谷に酌をした。

「類はないさ。第一、こんなことを考へる鬼頭少佐といふ男は、演説をしに生れて来たやうなところがあつて面白いよ。ねえ、鬼頭閣下、軍人と儀式について、僕は若干意見があるんだ。云つてもいいかい?」

「云つてもいいさ。君は儀式軽蔑派なんだらう。予め断はつておくがね、儀式無用論なら聴きたくないよ。無用か、有用か、それは議論にならん」



 その時、深水が鬼頭の肩を持つつもりで、

「それやたしかにさうだ。僕なんか、自分が野人だから儀式に列するのは苦手だが、厳粛な儀式的光景には十分感激するたちの人間だよ。儀式を一般に保守的なものと考へるのはどうかと思ふな。早い話が、オリムピックの炬火たいまつリレーだつて……」

 と、云ひかけるのを、

「お前は黙つてろ」

 と、神谷はきめつけて、

「さうさ、有用だとか無用だとか云ふんでなくね、僕は、軍人と役者には共通したものがあると思ふんだ。好んで軍人になるといふこと、軍人の職分に忠実であること、殊に、軍人らしく振舞ふといふことは、結局は、自分が芝居のなかの一人物になりきつて、堂々とその役を演じてみせようといふ熱情にほかならんと思ふ。芝居といふ言葉の悪い意味は別としてですよ。要するに、日常の散文的な生活以外に、一つの舞台、真剣だが、また考へやうによつては、ひどく空想的な舞台といふものを離れて軍人の世界はないのだ。彼等の身振りヂェスチュアは、云はば芸術家の身振りヂェスチュアだといふことを世間は忘れすぎてるよ。ねえ、鬼頭少佐、僕は軍人つていふものがだんだんわかつて来ましたよ。近代の戦争が如何に科学的であらうと、優秀な指揮官は、みなこれ一個の名優でなければならん。先生、どうですか、兵を語るには、絶対に神が必要なんですね」

酒神バッカスを失つた軍人はみぢめさ」

 と、伴直人は微笑んだ。

「おれは無宗教だが、信念として絶対なるものに仕へてゐることは事実だ。しかし、君は、そのことを云ふんぢやあるまい。何かもつと変つたことを云ひたいんだらう。それにしてもだ、役者とか芝居とかいふ言葉は穏かでないな。おれはおれ以外の何者にもならうと思はん。また、なる必要もないのだ」

 鬼頭はそこで、金モールの附いた軍服の胸を張つてみせ、悠然とコップを口に運んだ。

「いや、それはまあ、比喩みたいなもんだがね、それはさうと、さつきの儀式の話だが……」

「もう、いいよ、その話はよせ」

 深水が、千種の方へちらと眼をやつてから、神谷を制した。

「ぢや、よす。その代り、僕は、先生の前でこの機会に宣言するぜ。いいか、それはね、千種嬢と鬼頭少佐との婚約を、速かに発表してもらひたい。なんでえ、さうして、二人とも、すましてるけど、われわれに何を憚るところがあるか。もつと、親密なところを見せびらかしたらいいぢやないか。ねえ、さうでせう、先生……かういふ風に素ツ気ないふりをしてみせる必要があるんですか? 僕は、だれとだれとが結婚するなんてことを、それほど気に病む男ぢやないが、しかしだぜ、山羊先生のところの千イ坊と、帝国海軍の鬼頭おやぢとが夫婦になるつてことは、これや、相当の事件だ。挨拶ぐらゐしろよ」

 さう云つて、鬼頭の方へコップを差し出したのを、鬼頭は、受ける代りに、ぢつと睨みつけた。

「おい、神谷、それが儀式軽蔑のつもりか? 軍人の逆を行くつもりか? 芝居ぬきで裸になつたつもりか? 馬鹿ツ! そんな真似は土方にでもできるぞ。先生、今日は喧嘩はしませんからご安心下さい。この男は、なかなかしつかりした男ですが、まだ若いですよ。虚無的なのはよろしいとして、先生ぐらゐにあくがぬけんと、徒らに騒々しくつていかん。まあ、現代青年の悩みのために一杯飲めッ!」

 彼は、神谷が下へおいたコップへ、麦酒をなみなみと注ぎ込んだ。



 神谷は、ぢつと考へ込んでしまつた。

 彼は昨夜まで必死の金策をしたにも拘はらず、まつたく絶望状態に陥つた。不払手形がそのまま彼の手に残つたきり、原料問屋からの強硬な取立てに、たうとう腕をまくつて、勝手にしろと工場を明け渡して来たところであつた。そのうへ建築費の残り五百数十円は彼の名義で借りになつてゐた。

 それが今、鬼頭の口から、現代青年の悩みといふ言葉を聴いて、ちくりと胸に応へたのである。

「おい、神谷、どうした? 急に元気がなくなつたなあ」

 深水が肩へ手をかけようとするのを、払ひのけて、彼は、

「もう、喋りたくなくなつたよ。自分で云つてることが可笑しくなるやうぢや駄目だ。先生、僕たちは、いつたい、どうなるんでせう。鬼頭少佐は恐らく艦隊司令長官になり、海軍大臣になるでせう。僕や深水は、どうなるんです。深水なんていふ男は教場で出鱈目を云つてれや、気の済む男ですよ。怒るな、深水、実際さうだらう。こいつの日本主義なんて屁みたいなもんだ。僕も商売をやる以上、インチキもやりますが、それでなけれや生きて行けないとなると、やつぱり腹が立つんです。今日のこの会だつて、インチキですよ、これや……。名目なり趣旨なりには反対しません。僕も先生は尊敬してます。しかし、金を集めて家を建てるなんて、インチキですよ。発起人を呼んでわざわざ家を見せて、先生の前で代る代る演説するなんて、インチキですよ。第一、これを儀式にしようつていふのがインチキだ。変なもんだつたよ、あの光景は……。僕は二度とこんな真似はしたくないね」

「うるさいぞ。そんならどうして最初から反対しないんだ。発起人をみんな呼ばうつて云ひ出したのは貴様ぢやないか」

 鬼頭は、もう真面目に相手はごめんだといふ顔附で、それでも、云ふだけのことは云つた。

「さうか、そんなことは忘れたよ。とにかく、先生はよくない、弟子たちをやきもきさせといて、自分だけ涼しい顔をしてるんだもの。自由主義つてもんは、さういふもんかなあ」

 なほもからみつかうとするので、深水は、気を揉んで、

「おい、さうみんなに当るなよ。お前の主義つていふのは、いつたい、なんだい?」

 と、逆に、攻勢を取つてみた。すると、

「先生に訊いてくれ」

 神谷は、昂然と顔をあげて、伴直人の方を指さした。

「おれは、羊頭塾へ五年通つた。しかし、思想的に何等山羊先生の影響を受けたとは思はん。だから、今もつて、思想らしい思想はもちあはせてゐないんだ。しかし、率直に云へば、なんて、率直とはどういふことか実は知らんがね。まあ、云はなくつていいことを云へばだ。おれは、この山羊先生から、第一に、人間は下らんもんだといふことを教はつた。嘘ぢやない。それと、もうひとつ、現在の日本は文明の着物を着た野蛮国だといふことを教はつた。これは先生の口癖だから、みんなよく覚えてるだらう。おれは、その頃、勉強するのがいやになり、どうせ野蛮人なら野蛮人で通さうと思つたことがあるよ」

 彼は、さう云つて、苦々しく顔をしかめ、それから、そつと、千種の方へ視線を向けようとした。

 千種の姿はもうそこには見えなかつた。



 張りたての障子を、傾いたが黄いろく染めてゐた。

 伴直人は、桜の床柱に頭をもたせかけ、さつきから、ぢつと眼をつぶつてゐる。

「先生、お疲れになりましたらう」

 と、鬼頭は、そつちへ向き直り、

「神谷がなんと云はうと、これで僕たちは、できるだけのことをしたつもりです。なるほど、少し声ばかり大きくつて、実質がこれに伴はなかつた憾みはありますが、まあ、時勢その他の関係で、已むを得ないこととしていただきます。神谷も、やつぱり、そんなことを憤慨してるんでせう。しかし、インチキといふことはないです。正々堂々たるものです。さ、もう一杯如何ですか? これで切り上げませう」

 直人は、夢から醒めたやうに、きよとんとして、コップを取り上げた。

 すると、深水が、

「おい、先生はもうそれくらゐでいいよ。近頃酔はれると、あとがいかんのださうだから……」

「うん、いかんといふこともないが、昼間からぢや、どうも……。さうだ、諸君は、何処かで飲み直したらいいだらう。ええ、神谷君、会計の残りで、ひとつ、慰労会をやつたらどうだ」

「ええ、さうしてもいいですが、まだ、庭の方へ相当かけなけりやなりませんから、残額は先生の方へ納めていただくつもりなんです。なあ、諸君、その方がいいだらう」

 神谷は、朦朧とした眼附で、言葉の調子だけはいやにまともなのが、それが却つて無気味な印象を与へた。

「庭が出来ると、ぐつと引立つね」

 と、深水は縁先へ眼をやつて、

「しかし、暫くでも明けとくのは惜しいな。ひとつ留守番に傭はれやうかな。先生はやつぱりすぐ移られるつてわけにいきませんか」

 直人は、それに返事をするかはりに、神谷の方へまた言葉をかけた。

「千種の話だが、君の商売はなかなか面白さうぢやないか。どうだい、儲かるかい? 不思議なもんだね、僕は昔から家へ来る連中の志望を聞いて、ひと通り、なるほどと肯いたもんだが、君だけは、農科へ行くつていふ、その理由がどうしても呑み込めなかつたんだ。なるほど、農科にもさういふ畑があることは知らなかつたよ。しかし、はじめから、香水を作るつもりぢやなかつたんだらう?」

「農科をやることは、先生に勧められたんぢやなかつたかなあ」

「いや、君が自分でさう云ひだしたよ。中学を出る年か、その前の年だ。君のお母さんが相談にみえたことを覚えてる。さう云へば、あのお母さんはどうしてをられるか?」

「僕が大学へはいつた年に、再婚しました。それから子供が二、三人できて、今、大阪にゐます。滅多に訪ねもしませんが……」

「さうか。いや、その農科で思ひ出したが、千久馬の奴は、これや僕が、無理にやらせたやうなもんで、今更どうすることもできんが、なんかあいつに向く仕事を考へてやつてくれんか、君……」

「僕がですか……」

 と、神谷は、意外な面持ちで、ちよつと頭を掻く真似をした。

 そこへ、千種の声で、

「お父さん、もうそろそろ時間ですわ。駅までお歩きになる?」

「ああ、歩くとも……」

 ひよいと膝を立てた拍子に、からだがのめり、彼は片手を畳に突いたが、そばから鬼頭が慌てて抱き起さうとすると、もう首ががくりと前に垂れて、

「アタマ……アタマ……」

 と、かすかに唸つた。



「千種さん、ちよつと……早く……」

 呼ばれて、彼女が飛び込んで来た時は、もう父の意識はまつたくなく、そつと仰向けに寝かせて、帯を解かせながら、

「お父さん……どうなすつたの……お父さんつてば……」

 耳へ口を寄せて、躍起やつきになる彼女の声は、だんだんかすれて行くばかりだつた。

 深水と倉太とが近所の医者を連れて来たが、勿論、間に合はず、脳溢血の発作が急激に襲つたのだといふことがわかつた。

 誰も一と言も喋らなかつた。

 ただ、千種は、静かな父の死顔を見まもりながら、何かの予感で自ら彼はかういふ運命を選んだのであらうといふやうな気がしてゐた。それだけに、もう声を立てては泣けないのである。涙があとからあとから出る。それを黙つて拭き拭き、医者の指図を聴いてゐた。

 が、座を起つて、勝手の方へ行き、誰も見てゐないとなると、急に堪へられなくなり、暗い壁に顔を押しあてて、さめざめと泣いた。

 なんといふ淋しい死方だらうと思つた。

 深水は、この家から葬式を出すことを提案した。鬼頭は、

「とにかく、千尋さんが出て来られるのを待たうぢやないか。福岡を今夜発てば、明後日には間に合ふんだからな。それはさうと、千久馬君はまだか?」

 さういふなかで、千種はなるべくなら、牛込の本宅から正式の喪を発したいといふ意見を述べた。

「しかし、先生は、此処を死場所にするつて云つてをられたことはをられたが……」

 鬼頭は、一応さう云つてみたが、千種が応じさうにもないので、

「ぢや、万事不便でもあるし、今夜のうちに牛込へ移ることにしよう。神谷君、ひとつ手筈をたのむ」

 その時、神谷は、やつと顔をあげた。

「なんの手筈だい……、おれは酔つてて駄目だよ。先生が死んだのはわかつてる。あとをおれにどうしろと云ふんだ。……お前たちでいいやうにしろよ。ああ、おれや、もう、何がなんだかわけがわからん……」

 ごろりと仰向けに寝ころがつたと思ふと、手放しで、おいおい泣き出した。それは、突然気が狂つたやうでもあり、さうかと思ふと、また、子供が駄々をこねてゐるやうでもあつた。

 一同は、あつけにとられたが、彼のその出鱈目さのなかには、ひとの胸をうつものがなくはなかつた。次第に、誰もかれもが、顔を伏せて、鼻をすすりはじめた。

 ほの白く電燈のついた真新らしい部屋の内部は、はじめて生々しい感情のどよめきに満たされ、厳粛な嗚咽の合唱に暮れて行つた。



 葬式が済むまで、神谷仙太郎は事業の恢復についてゆつくり考へる暇もなかつた。工場の器械といふ器械、製品のストック、原料の見本まで悉く差押へをくらつてゐた。女工たちには訳を話して暫く休んでもらふことにしたが、なかにはその日までの給料を渡してくれと、がつちり居直るものもあつた。

 やつと、それはなんとか始末をつけて、当分の生活費だけ、何処かから捻り出す算段をしてゐるところへ、ひよつこり千久馬が訪ねて来た。

「親爺がゐなくなると、やつぱり自分の家のやうな気がしねえや」

 と、彼は流石に悄げ返つてゐた。

「あとはどうするんだい。兄貴の世話になるよりしかたがあるまい」

「うん……今度の家を売るつていふ話が出てるよ、幾らに売れるかなあ。そのことで君にも相談したいつて云つてたよ」

「おれや、もう知らんよ。今、それどころぢやないんだ。まあ、そのへんを見てくれ」

「いやにひつそりしてるね。休みかい?」

 千久馬は、あたりを見まはすには見まはしたが、別におやといふ顔もしない。

「千イ坊はもう泣いてないか?」

 神谷はそれとなく訊ねた。

「笑はなくなつたぐらゐのものだ。あいつは鬼頭おやぢの顔さへ見れや、元気がでるらしいよ。兄貴にはまだ黙つてろつて云やがんのさ。だもんだから、兄貴の奴、福岡へ連れてくつもりでゐるよ」

「で、お前はどうするんだい?」

「おれのこたあ、心配いらないさ」

「一番心配だらう」

 と、神谷は、苦笑しながら、相手のチェリイを一本抜き取つた。

「あ、さうさう、親爺が遺書つてものを書いてたの、知つてるかい?」

「知らない。何時書いたんだ?」

「ちやんと、机の抽斗ひきだしから出て来たぜ。おれのことも書いてるよ。──同胞きやうだいに決して迷惑をかけるな。その代り、若し遺産と名のつくものがあつたら、その半分をやるから、そいつをもつて海外で暮せ、とあるんだ」

「海外で暮せ、か」

「うん、親爺はやつぱり親爺だよ」

「兄貴も承知したのかい」

「するもしないも、親爺の遺言ぢやないか。だからさ、あの家が売れたらつて云ふんだよ。お前、なんとかしてくれ」

 黙つてゐると、また思ひ出したやうに、

「おい、その遺書でわかつたんだがね、親爺は、日記みたいなものをつけてたらしいんだ。そいつを、できたら本にしたいつていふんで、今、深水と鬼頭とが読んでるよ。面白いらしいよ」

 が、神谷は、それをうはの空で聞いてゐた。



 その日の夕方、千久馬と支那飯のランチを食つて別れた神谷は、それこそ、ふらふらつと、自動電話へはひつた。電話帳を繰つてゐる間、幾度も躊躇したが、たうとう、新島伯爵家の番号を呼び出した。お嬢さんはご在宅かと取次の女中らしいのに訊ねると、ちよつとと云つて、奥へ引つ込んだ。しばらくして、今ちよつと手がはなせないが、用向はなんだと問ひ返して来た。用向は会へばわかるが、とにかく今夜是非お目にかけたいものがある、げてご都合を願ふと、贔屓ひいきの番頭といふ声色を作つた。すると、やがて園子が電話口へ出た。

「いつたい、なんなの、今時分? 明日ぢや駄目?」

「明日になると、気が変りさうなんでね。ちよつとでいいから時間を作つて下さい。何処かへでかけるんですか?」

「ううん、さうぢやないけど、うちへ人を大勢招んでるのよ。あたしの誕生日なのさ。うんと騒いでやらうと思つて……」

「丁度いいや。僕も紛れ込んでやる」

「あら、あんたなんかにや面白くないのよ。でも、のぞきに来る? 五分や十分なら話できるわ」

 高輪まで円タクを飛ばして、いざ門をはひると、なるほど、屋敷のなかは様子が違つてゐる。自家用がずらりと並んでゐるまではなんでもないが、ルネッサンス風の煉瓦づくり母家おもやを黒々と包む奥深い庭のそこかしこに、樹立をすかして、赤々と燃え盛る篝火かゞりびが先づ眼を惹き、大がかりなバンドの、乙にすましたミニュエットかなにかが、やはりその方向から聞えて来るので、彼は思はず微笑を漏らした。

 心得顔な中年の給仕に案内されて、薄暗いテラスの一隅で、園子の現はれるのを待つことにしたが、すぐ前の芝生は、云ふまでもなく、露天の舞踏場で、男女思ひ思ひの仮装が入り乱れ、百鬼夜行さながらの光景とは云へ、彼、神谷仙太郎にとつては、千載一遇の観ものであつた。

「どう、驚いた?」

 ぼんやり魂を奪はれたかたちの彼は、その声で、ふと我にかへると、そこには、これまた異様ないでたちで、園子がつんと肩を聳やかしてゐた。

「なに、その恰好は?」

 吹き出したいのを我慢して、彼は相手を見あげ見おろした。肩からはすに腰へ巻きつけただぶだぶの布片きれが素足をのこして三角の裾をつくつてゐた。カーテンのお化けだ。

「なんだつていいわ。早く用事を云ひなさい」

 そこへ、給仕がカクテルを二つもつて来た。そして、彼女の耳もとへ何か囁いた。

「あんた、踊れる?」

 と、彼女は、そのまま彼の方へ顔を向けた。彼は、黙つて首を振つてみせた。

「ぢや、いいわ」

 給仕にさう云ふと、給仕は、お辞儀をして引退つた。

「ううん、なんなら、マスクを貸したげようと思つてさ。あんたの、それ、仮装で通用するわ。ほら、あれみてごらんなさい。菜ッ葉服を着てるのがあるでせう。あれ、赤羽製鋼の重役の息子よ」



 その菜葉服の青年は、篝火を背にして立ち、あたりをきよろきよろ見廻してゐる。

 園子は、頸をすくめて、

「あたしを探してんのよ。さ、踊らないなら、早く用事をかたづけちまはう」

 と、急きたてた。神谷は、それに応へず、

「みんな、これ、あんたの友達なの?」

 すると、彼女はいつ時眼を据ゑて、

「友達なんて言葉をさう簡単に使ふもんぢやないわ。かういふ時には、かういふ連中が集るのよ。あたしだつて退屈なことがあるさ」

「ちやんと連絡がついてるんだね。あの黒ん坊は、念入りだなあ。あれや、だれ?」

「だれつたつて、名前知らないでせう。姫岡ひめをかつていふ男爵よ。もつとも養子だけど……。あら、なに感心してんの?」

「何時か香水の見本を送つた、姫岡田鶴子つていふのは、あれの細君だな。さうでせう」

「さう。註文とつた?」

「たしか二壜だつたか、届けましたよ。あツ凄いのがゐるなあ……なんだ、津幡秀子ぢやないか」

「津幡秀子よ。芝居の衣裳を借りて来たらしいわ」

「畜生! あいつも仲間にはいつてるのか。ここへ呼んで来給へ」

「呼んで来てどうすんの? ほら、どうしたのさ、何時までもかうしちやゐられないのよ」

「あ、さうさう、実はね……」

 と、彼は、現在の仕事がまつたく行きづまつたことを話し、再起を計るためには、なんとしても若干の資本を必要とすること、ただ直接の助力を仰ぐのは筋違ひと思ふから、その心配は絶対にしてほしくないが、その代りひとつ、自分がぶつかつて行つて、幾分手応へのありさうな金持つまり、打算的にしろ、義侠的にしろ、新事業を理解して出資を快諾してくれさうな相手を、若し心当りがあれば是非紹介してほしいことをいくぶん遠慮がちに、しかし、率直に云ひ出してみた。

「親譲りの財産を、なにに使はうかと迷つてゐるやうな男はゐませんか?」

「いまどき、そんなのゐるもんですか」

「ぢやあ、こんなのはどう? いくらかの金をもつててですよ、いろんなことに、手を出してみたが、どれもこれも思はしく行かんので、何か新手でぼろい儲け口はないかと、そればかり考へてるやうなのは?」

「それや、あるだらうけど、あたしの耳へちよいとはいらないなあ」

「さうか。そんなら、かういふ風なのは? 今ここに、一万円だけ何に使つてもいい金があるとしてね、亜米利加を廻つて来てもよし、感化院へ寄附してもよし、競馬で棄ててもよし、だが、同じことなら、有望な科学的研究を補助して、日本の産業文化のために……」

「ない、ない、そんなの」

「弱つたなあ。よし、これならあるだらう。誰か相当な奴の次男坊なんかでね、何をやらしても駄目、親爺はもう諦めかけてゐるが、万一、しつかりした協力者があつて、才能と労力とを提供してくれるなら、こののらくらに資本をつけて、社長とか重役とかの肩書をもたせ、なんとか世間へ顔向けをしようなんていふのは?」

ざらぢやないの。ただ、その協力者つていふのがまた、ざらにゐるんだから」


十一


 そこへ、さつきの給仕が現れて、再び園子に耳うちをした。

「ああ、わかつてるわ、もうしばらくお待ち下さいつて……」

 返事をしつぱなしで、すぐに、あとを続けた。

「さういふ相談は、あたしぢや、ちよつと困るなあ。いつたい、いくらぐらゐいるの、その資本つていふのは?」

「小は五千円から大は……」

「なんだ、五千円ぱつちか」

「さういふけど、なかなか、そのぱつちがぱつちでないんだ」

「あたしが頼めば、出しさうなのがゐるけどなあ」

「頼んで下さい」

「一生に一度頼むんなら、そんなけちなのいやさ」

「もつと豪勢に頼んだらどう?」

「あんたのために? ところで、それだけの理由があるかしら……」

「理由ならいくらでも作れますよ」

「どんな理由? 例へば?」

「例へば……。さあ、そいつは、僕の口からは云へないや」

「あたしの恋人だ、とでも云ふかな」

「気が向いたら、それでも結構……」

「へえ、気が向くとでも思つてるの?」

「ははあ、自尊心がなんか云ひましたか?」

 彼は相手の反らした眼を追ひかけるやうに、からだを乗り出した。

「あああ、もう好い加減に踊りたいなあ」

 溜息まじりに、彼女は、卓子の上へぐつたりと、片肱をついた。

 さつき、カーテンのお化けとみえた園子の衣裳は、いま、かうして気をつけて眺めると、なかなかどうして、凝りに凝つたものだといふことがわかつた。それは必ずしも、眼が慣れたせゐばかりでない。一向服飾の流行などにくはしくない彼ではあるが、若し、これをひとつの趣味と云ひ得るなら、この情景のなかに浮ぶ姿態の魅力は、さながら古代の妖姫サフォオを想はせるものがあつた。

「踊りたけれや、踊つてらつしやい。僕は、待つてますよ、いつまででも……」

 思はず、彼は、戦ひを挑むやうな調子になつた。

「こんなところで待つてるの変だわ。あとでまた話すのは話すとして、ここぢやなく、あのあづまやの向う側で休んでてくれない? あつちへは誰も行かないから……」

 彼女は、何んでもなくさう云つたと思ふと、もう階段を駈け降り、揺れる灯影に横顔を照しながら、輪舞の渦の彼方へ姿を消してしまつた。

 神谷は、これも、機械的に腰をあげた。が、このまま引上げるのは残念な気がした。まだなにか云ひ残したことがありさうだし、聴いてをくべきこともあるやうだ。芝生の端をひろひ、泉水の一方が高い壁のやうになつてゐる、その裏を抜けて、急に斜面の降り口へ出たところが、例の亭である。そこには一組の男女がベンチに倚つて、ひそひそと話しをしてゐる。それを見て見ないふりをしながら、彼は小径こみちを下の方へ降りた。

 ──こいつめ、胸がどきどきするとは何事だ。冒険にしちや気の利かねえ冒険でやがら……。

 彼はゆがめた口の中で独りごとを云つた。

 そして、何といふ木なのか、上を仰ぐと星空のわづかに透いて見える枝の茂みの下へ、どかりと腰をおろした。

 時々、枯ッ葉が落ちて来た。あたりを水が流れてゐるらしい。場所の加減か、上のざわめきが途切れ途切れに聞えて来るだけである。寧ろ、足もとで鳴きしきる虫の声が、耳へしみ込む。

 どれくらゐ時間がたつたか、ふと気がつくと、たしかに二人づれと思はれる跫音が近づいて来る。


十二


「いやだ、こんなとこにゐたの?」

 笑ひを含んだ園子の声が、頭の上から落ちて来た。

「ご紹介するわ。こちら、もと紐育で一流の雑貨店を経営してらしつた進藤八十吉しんどうやそきち氏……」

 と、彼女の唇から漏れた最初の社交語に、神谷は、むつくりと起き上つた。

「初めまして……」

「やあ……」

 で、あとは次のやうな会話になつた。

「ひとつ、ゆつくりご相談してみようぢやありませんか。わたしもかねがね、化粧品には目をつけとつたんですが、なにぶん信用のおける技術者がをらんでしてね。原料の研究に重点を置いてをられるのはまことに面白いと思ふから、及ばずながら、ひと肌ぬぎませう。と云つて、あんたをただ補助するとかなんかと云ふんでなくだ、大いにこつちも儲けようといふわけさ。ね、さうでせう、お嬢さん、これは亜米利加式ですぞ」

「みんな、亜米利加式にしておしまひにならなくつてもいいわ」

「いやあ、進藤八十吉も、これで当てなけれや、暢気に踊りなんか踊つてゐられませんや」

「おや、おや、そのご謙遜は日本式ね。では、何時、何処でお会ひになる? それをおきめになつといたらいかが?」

「オーケー、ミスタ神谷のご都合は? わたしは明日午前なら、オフィスにをります。大阪ビル新館の五階で、進藤商会とおつしやればわかります。どうか参考資料をおもちになつて……」

「はあ、承知しました」

 と、そこでやつと神谷が口を利く番になつた。が、もうこれ以上なんにも云ふ必要はない。えらいことになつて来たと思つた。進藤八十吉氏の顔は暗くてよくわからないが、カウ・ボーイに扮してゐることはたしからしい。そして、もう青年とは云へない年配であることは、総ての点で明瞭だ。やはり、えらいことになつて来たと、彼はこれが夢でないことを心に祈つた。

「さあ、どうぞ、あちらへ……。これで第一次会見は終りといふことにいたしませう。あたくし、ちよつと、ここでまだ……。おあとから、ぢきに、ええ……」

 あざやかに進藤八十吉氏を追ひ払つて園子は、いきなり神谷の手をとつた。

「どう? あの鴨は?」

「鴨だか家鴨だか僕にやわからん」

「家鴨つてなによ。でも、ちよつと変つてるでせう。紐育にゐたことはゐたらしいんだけど、商売の方は振はずじまひで、ただ、日本から行つた名士を自分の自動車で案内して歩くのが得意だつたつていふ人物よ」

「今、なにしてるの?」

「さあ、よく知らないけど、うちのパパなんか、わりに重宝がつててよ。西洋下手げてものを掘り出すのがうまいんですつて」

 二人は落葉の上へ並んで腰をおろしてゐた。神谷の片手をまだ弄びながら、園子はいつ時黙り込んだ。と、やにはに彼女は、彼の頸へあらはな腕を捲きつけ、

「お礼を云はないの、お礼を……。自分のことばかり考へてると、かうだぞ」

 ぐいと引き寄せられて、神谷は動かうとしなかつた。

「一度だけよ。いいこと……。おや、遠慮するなんか、をかしいわ」

 やがて、匂やかな十月の闇を背景バックに、二つの黒い影が獣のやうにもつれあつた。




冷熱




 世間の風潮といふものに、これほど頭をなやます自分がをかしいぐらゐであつた。鬼頭令門は、近年、身近に起つた数々の事件について、相当、冷静な批判を加へ得るつもりでゐたが、また同時に、いはゆる輿論といふやうなものの正体に、大きな疑問を抱いてゐた。彼は、周囲の眼を機敏に読み取る努力に、少し疲れたやうである。しかし、国家の運命と、職責の重大さと、それから最後に、大きな声では云へぬが、望み得べき自己の栄達のために、その努力は続けられねばならぬと信じてゐた。

 彼は今、公務の余暇に、いや、その余暇をなるべく多く作るやうにして、旧師伴直人の遺稿を読んでゐる。専門以外の読書は平生心掛けてする方ではあるが、思想的なものになると、それを語る人物の風貌が何よりも気になるたちである。どうかすると、言葉の裏が読めないのがもどかしい。ところが伴直人の文章は、随想風に、といふよりも寧ろ告白の調子で書かれてゐるせゐもあらう、一言一句、筆者の表情をはつきり眼に浮かべることができ、賛否いづれの場合でも、興味津々たるものがあるのである。

 その上この「日誌」に対して、特に彼の関心を高めさせる理由がほかにあつた。つまり、日本の一時代が公平に映つてゐるに違ひない一個の自由思想家の心の鏡のなかに、若しかしたら、自分に加へられた鋭い批評を読むことができるかも知れぬといふほのかな期待と、もう一つは、さういふ父親の眼からみた娘千種が、どんな思ひがけない姿で現はされてゐないとも限らぬといふ激しい好奇心とが、絶えず、彼に頁を繰る手を急がせたのであつた。

 二十年に亘る生活の記録と云へば、相当厖大なものであるが、洋罫紙のノートにペンの細字がみつしりつまつて、それが全部で二十何冊かになつてゐる。

 遺書には、出版の機会があつたら出版して差支ないとあり、戯れに西洋の文士を真似て、「但し、予の死後少くとも六ヶ月を経過せざれば公に刊行するを得ず」といふ条件をつけてゐる。長男千尋からその話を聞いて、深水が云ふには、

「いろいろ当り障りがあるからでせうが、六ヶ月ぢやなんにもならないな。とにかく、西洋にも例のあることだし、近親のものが一度眼を通す必要があるですよ。ねえ、鬼頭さん、どう? 僕とあなたとで、ざつと読んでみたら? 千尋さんがそれをなさるといいんだが、お忙しいでせう。それに、ちよつと、先生の身辺で、うちの方には通じないところもあるでせうね。なにしろ、センセイショナルなものかも知れないぞ、これや……」

 二人が手わけをして読むことになつた。鬼頭は先づ後の半分を家へ持つて帰つたのである。

 十一月にはひつたばかりの雨の日、彼は、役所から帰ると、夕食を急いでかき込んで、早速机に向つた。

 自分の名がところどころ出て来るやうになつたのは、昭和二年の夏頃からである。兵学校の休暇に、さう言へば、腰にぶらさげた短剣を見せびらかしに行つたことを覚えてゐる。が、それよりも、伴直人の政治観といふやうなものが、最も露骨に、雄弁に語られてゐるのもこの時代からである。かなり矯激な、従つて世間に公表を憚るやうな議論が随所に見え出した。

 鬼頭は、思はず眉をひそめた。

 と、玄関の静かに開く音がして、

「ごめん遊ばせ……」

 何時になく、憚るやうな千種の声である。



「今日は番外よ、ごめんなさい。だつて、あれからちつともお話する機会がないんですもの……。兄はひと先づ九州へ来いつて云ひますし、あたくし、気が気ぢやないのよ。お忙しい?」

 息をはづませながら、彼女は、もう涙ぐんでゐるとさへ思はれた。

 なるほど、二人きりで話をする機会がなかつたのは、彼がことさら作らなかつたまでで、あの凶事以来、千種の唯一の力になつてやらねばならぬ筈の自分としては、勿論、冷淡にすぎる態度であつたが、さういふ風にでもしなければ、彼女との間が、ずるずるべつたりに、深みへ落ち込んで行くばかりだといふ危険を感じたからであつた。しかし、例によつて、かうして彼女の方から押しかけて来られると、もうそんなことは云つてゐられないのである。悲しみに面やつれしたその風情は、凜然としたなかに、脆くも崩れ落ちさうな媚態をのぞかせ、玄関に突つ立つた彼を、不思議な衝撃でうちのめした。

「おあがりなさい」

 と、彼は夢中で叫んだ。そして彼女の手を取らんばかりに、自分の部屋の六畳へ案内した。

「今、先生の日誌を読んでたとこです。あなたも読みたくない?」

「ええ、それや、読みたいどころぢやないわ。あなた方お二人が、先へお読みになるつて法ないくらゐだわ……。深水さんて、だから嫌ひよ、どこまでも自分勝手だから……」

「まあ、さう怒り給ふな……。僕がすんだらあなたに廻しますよ。ほら、こんなことが書いてある──昭和二年七月……」

「まあ、そんなこと、あとでいいわ。ねえ、それより、もつと急ぐことで、ご相談があるの! 聴いて下さる?」

「聴きますとも。但し、話は冷静にしませうね。それでないと、僕もあなたも、今一番興奮し易い時だから……。話つて云へば、どうせ事務的なことでせう?」

「さあ、さうとは限らないけど、事務的にでも、お話しようと思へばできますわ。その方がよくつて?」

 彼女は、睫毛をふるはせて、彼の顔を見あげた。

「待つて下さい。あなたはいけないひとだなあ。ぢや、話はもう少し後にして、二人とも気持を落ちつかしちまはう。駄目だ、これぢや……」

 と云ひながら、彼は、いきなり千種を横倒しにして膝の上へ抱いた。

「いや……そんな乱暴なすつちや……」

 笑ひわらひ起き直らうとするのを、彼は、しつかり押へて、

「どうもしやしない、どうもしやしない……」

 が、長い接吻のあとで、二人は、やつとお客と主人の席へもどつた。

 そこへ、母親が風呂から帰つて来たらしく、奥から、

「千種さんがみえとんなはる?」

「さうです、早くお茶を出して下さい。どうも日本の家つてやつは、恋愛には不向きだなあ。これならまだ、船のキャビンの方がましだ、少しは窮屈でも……」

 その戯談に、千種は笑へず、そつとハンド・バッグを引きよせた。コンパクトを持つた手がぶるぶる顫へてゐた。



 鬼頭令門は、ふと机の上の「日誌」に眼をおとし、それと、千種の顔とを見比べて、なにか自分を責めたいやうな気持になつたが、ことさら快活に、

「さあ、それぢや、話つていふのを聴きませう」

 と云つて、例の癖で、尻をぴよいとはづませた。

「そんなに改まつて、変だわ。それに……もう、なんにも云ふことないみたいなんですもの……困つちやつた……」

 上眼づかひに、こつちをみて、彼女は微笑んだ。が、すぐに、もう一度懐中鏡をのぞき込み、そのままのかたちで、

「あのね、あたしが若し、福岡へ行くやうになつたら、どうなさる?」

 さう云つて、パフを鼻の頭へのせたまま返事を待つてゐる。

「ああ、兄さんとこへでせう。それや、しばらくならしやうがないさ。家長の意思に、この際、従はんといふわけにいかんからな」

「兄は、是非つていふんぢやないんですの。東京にゐる理由と、その方法さへ立てば、それはかまはないつて云つてますわ。でも、理由はとにかく、方法は、ちよつとね……。何か仕事口でも見つければ別ですけど……」

「そんなことは、僕がやめてもらひたいな。家庭をはなれて東京でぶらぶらしてるより、僕の考へぢや、少しは窮屈でも兄さんのとこへ行つてた方がいいと思ふな。だつて、もうしばらくなんだもの……」

「しばらくつて……それがわからないでせう。何時までつておつしやつて下されば、それこそ、安心なんだけど……無理だわねえ」

 さう云ひながら、彼の方へ向き直つて、コンパクトをハンド・バッグの中へしまつた。そして、いつまでも顔をあげずにゐる。

 鬼頭は、黙つて彼女の額を見つめてゐた。が、だしぬけに、握り拳でどすんと机の端を叩き、

「さうだ。あなたの方からさういふこと云はせたのは、僕がわるかつた。ぢや、これだけのことを約束しませう。一年たつたら、きつと正式に話を進めます。それまで、僕の希望としては、福岡の兄さんのところへ行つてて下さい。時々、東京へ遊びに出て来たらいいでせう。僕の家で宿ぐらゐしますよ」

 それを聞いて、千種は、晴ればれと瞳をかがやかし、

「ほんと……あら、さうなら、一年でも二年でも……」

 と云ひかけて、急に胸がつまり、あとの言葉がどうしても出て来ない。かういふ時に、こんな意気地いくぢのないところを見せてはと、歯を喰ひしばるやうにしても、いつたん緩んだ気持は、もう取り押へやうがなかつた。



 それだけのことを聞けば、あとはどんなことでも忍べると、彼女は思つた。

 しかし、鬼頭は、一方でまたこんなことを考へてゐた。──その時になつて、冷静な判断ができないわけはない、今は、男として、ほかに取るべき態度があらうとは思へぬ。嘘も飾りもないところと云へば、まさにこの通りなのだ。一年後は? 情況に応じてまた新たに決心のつけやうがあらう。ただ、そのことを、彼女にいくぶんにほはせておかなくてもよいか?

 すると、今度は、彼女の方からあべこべにこんなことを云ひ出した。

「一年でも二年でも、それやかまひませんけど、その間、兄のところでぶらぶらしててもしやうがありませんわ。ですから、しばらく、一人つきりになつて世間を歩いてみようと思ふんですの。駄目かしら?」

「世間を歩くとは?」

 彼は、眉を引きあげて、不審げな顔をした。

「歩くつて別に、渡り歩くことぢやないのよ」

 さう、笑ひながら念を押して、

「ほら、今まで、家にばかりゐて、あんまり世の中のことを知らないでせう。自分ながら、これぢや、なんの役にも立たないと思ひだしたんですの」

「そんなこと云つて、あなたは、学校生活も普通より長いんだし、なかなか話せるぢやありませんか」

「おやおや、何処が? うそよ、とても意気地いくぢがないのよ。父が割にいろんなことに干渉しない方でしたから、我儘にはなつてますけど、なんだか、いざつていふ場合に、てきぱき物が考へられないし、まあ、早く云へば、頼みにならない女だらうつていふ気がしてしやうがないんですの」

「淑女はそれでいいんぢやないかなあ。少くとも、僕の求めてる女房は、あなたぐらゐで丁度よろしい」

「あら、丁度よろしいなんて、まだなんにもごぞんじないくせに……。ぢや、かういふ理由でならどう、結婚までになるだけ年を取らないやうにつていふ理由なら……さうぢやない? 少しでも気持の新鮮さを失はないために、外で働くつてことはいいんぢやないかしら?……この上、退屈な家庭生活の中へ捲き込まれてしまつたら、それこそ大変だつていふ気がするわ」

「お待ちなさい。僕はあべこべに考へてますよ。職業婦人の方が、早く年を取るんぢやありませんか。どうもさうのやうだな」

「さう、早く大人になるかも知れないわね。でも、子供臭いのと、溌剌としてるのと、どつちがいいかしら?」

「職業婦人は、溌剌となんかしてませんよ。ぎすぎすしてるだけですよ。無論、例外は認めます。ただ、細君になる資格は、半分なくしてるのが普通だ。そこは微妙な問題です。恐らく、過渡期的な現象でせう。将来はどうなるか知りません」

 千種は、返す言葉がなかつた。自分の気持がかうまで通じないのは、もどかしいにはもどかしいが、また、それを通じさせない彼の気持にも、たしかに手応へのある重量のやうなものが感じられた。



 鬼頭のさういふところが、彼女は決していやではなかつた。しかし、その「重量」の下で、ただぢつと押しひしがれてゐるのは、なんとしても気がきかないと思つた。まともな議論がなににならう。相手を信じてゐればこそ、この場合、相手がまごつくやうなことをちよつと云つてみたいのである。

「ぢやあね、それはそれとして、今かういふ話があるんだけど……賛成してくださらない?」

 と、いくぶん悪戯いたづらな眼付で、彼女は鬼頭の顔をみつめながら、こんなことを云ひだした。

「久馬兄さんがね、こんど台湾へ行くことになつたんですつて……詳しくいふと、台湾の南にある小さな島なんださうですけど、それがとても面白い島らしいの。紅頭嶼こうとうしよとかつていふのよ。くれなゐあたまつて書くんでせう。土人も、まあ生蕃なんかより、原始的だし、動物や植物の種類が、日本の領土のなかでは、全く例がないくらゐ違ふんですつてね」

「紅頭嶼なら、僕、知つてますよ。上陸したことはないけど、そばをふねで通つたことがある。千久馬君、あんなとこへ何しに行くんです?」

「ええ、だから、それが羨ましくつて、あたし……。なんでも、香水の原料を探しに行くんですつて……」

「神谷と一緒に?」

「ええ」

 そこで、ちよつと変な沈黙があつて、千種は、鬼頭の表情が硬ばるのをみた。が、

「それで?」

 と促されて、彼女は、勇気をふるひ起し、

「それで、久馬兄さんが、昨夜、その話をして、お前も連れてつてやらうかつて云ふんですの。戯談だと思つたら、本気なのよ。兄さんのこつたから、信用はできないけど、そんなら神谷さんにお願ひしてよつて、あたし、云つちやつたの。そしたら、今朝、神谷さんがいらしつて、鬼頭少佐さへ承知なら、見物かたがた、助手としてついて来てもいいつておつしやるのよ。なんでも、今度神谷さんのお仕事に、相当資本を出す人ができたらしいわ」

 黙つて聴いてゐた彼は、二三度うなづいて、それから大きな伸びをする恰好で、

「いいでせう。そいつを僕が止める権利はなささうだ。気候は悪いし、風土病はあるし、どうかすると饑ゑ死にをするかも知れませんよ。それを覚悟で行つてらつしやい」

 軽くさう云ひ放つたものの、彼は文字通り面喰つてゐた。彼女がどういふつもりでそんなことを云ひ出したのか、それさへはつきり呑み込めなかつた。が、たとへ、女らしい気まぐれがそれを云はせたとしても、一旦、神谷の名が出た以上、彼は、それに正面から反対するのは気がひけた。ここで、神谷如きに嫉妬を感じたと見られるのは、男の面目に係はるといふ念慮でいつぱいだつた。事実、彼女が思ひ込んでゐるほど、暢気な旅行でないこともわかつてゐた。それは女としては、冒険に近い企てで、なにも好んでやるべきことではあるまいと、それだけは、はつきり云ひたいのだが、神谷の顔が眼の前に浮ぶと、もう、ある種の争闘心理が頭をもたげて来るのである。

「なに、神谷がついてゐれば大丈夫でせう。あいつは、千久馬君より、あなたを委せて安心な男だから……」

 つい、そんなことを云つて、彼は下つ腹に力を入れた。



 絶対反対だと云はれれば、それはそれで当り前だと諦めもしたであらうのに、かうわけなく賛成されてみると、千種もやつぱりひやりとせずにはゐられなかつた。が、もう取り返しはつかない。

「ねえ、ほんとに行つてもよくつて?」

 やつと念を押すだけは押したが、うれしさに勇みたつ調子を、無理にもつけなければならなかつた。

何時いつ発つの?」

「さあ、まだはつきりわからないんですけど、もう船をきめるやうな話でしたわ。なんだか、こわいみたいね……」

 鬼頭は、それでも泰然と顔を崩さず、

「熱帯旅行について、若し参考になることがあれば話をするからつて、神谷にさう云つて下さい。第一にマラリヤの予防をどうするか、その研究を専門にやつてる軍医がゐますから、明日よく訊いといて……」

 彼は、やがて、千種を送つて門口まで出たが、そのまま引返して、机に向ひ、再び「日誌」の続きを読みはじめた。


七月二十一日。コノ茅屋ヲ訪ルル客人ノウチ目立ツテ軍人諸君ガ多イノハ不思議ナ現象デアル。何レモ少年時代ノ幾年カヲワガ塾生トシテ過シタル諸君デアルガ、業成リ世ニ出デテナホ旧師ノ門ヲ叩ク可憐ナル礼節ハ近来頓ニ振ハザル傾向ト思フガ、ソノ若干ノ例外中、六、七割マデハ軍服ヲ著タ連中デアル。和田、石原、富永、平川、魚住、村瀬、奥屋、鬼頭ナドハ、何レモ特別ニ眼ヲカケタト云フ訳デモナイノニ、士官学校又ハ兵学校ニ入学シテカラモズツト遊ビニ来ルシ、古イトコロデハ退職後マデ機嫌ハドウカトタヅネニ来テクレル有様ダ。古風ナ人情トモ云ヘルガ、嬉シクナイコトモナイ。ガ、コツチノ気持ハ第二トシテ、軍人ダケガ、ナゼ当節サウイフ感情ヲ尊重シテヰルカニツイテ考ヘテミルト、「モンテェニュ」デハナイガ、世ノ中ニ軍職グラヰ愉快ナ職ハナイノカモ知レヌ。予ノ観ルトコロデハ、実際、彼等ハ愉快サウデアル。比較的不遇ナ地位ニアルモノデモ、公然ト不平ヲ云ハヌノミナラズ、戦争ノ話ヲスルト忽チ膝ヲ乗リ出スノデアル。一国ノ平和ヲ護ル争闘意識ノ象徴ハ、マタ同時ニ、閃々タル指揮刀ヲタバサム華ヤカナ装飾人デアルコトヲ自覚シテヰルノデアラウ。コノ自覚ニヨツテ、彼等ハ勇気ノ化粧ヲ心掛ケ、軍楽ノ如キ社交術ヲ会得シタ。余ハ軍人ヲ歓迎スル。但シ、軍人ト軍隊ト軍部トヲ混同セシメテハナラヌ。軍ト云フ言葉ハ何ヲ意味スルカ余ニハ解ラヌ。


 そこで、鬼頭は思はず苦笑した。そして、伴直人が生きてゐたら、ひとつ議論を吹つかけてやるのにと思ひ、かういふ思想は何処までが彼独特のものであらうかと首をひねつた。その晩はたうとう、そこへ引つかかつたきり先へ進まず、考へてみれば別に文句はないやうであるが、なんだかもやもやした後口が舌に残り、ウヰスキイを二三杯ひつかけて床に入つた。

 すると、今度は、千種の顔がちらついて容易に寝つかれないのである。その顔は、瞬間瞬間にさまざまな表情を見せはじめた。取り澄ました顔、はにかんだ顔、うつとりなにかに見惚れてゐる顔、驚いて眼を見開いた顔、悪戯ツ児のやうに笑ひをこらへた顔、それから、だんだんに、淋しく打ち沈んだ顔、恨みを含んでちらと上眼を使つた顔、なまめかしく媚びた顔、皮肉に口を結んだ顔、たくらみを秘して冷たく横を向いた顔……。と、彼は、遂に、心の中で叫んだ。

「こいつは油断がならんぞ!」



 幾日かがたつた。

 千種からの便りで、いよいよ旅行の準備が進められてゐるのを知り、鬼頭は、流石に妙な不安に襲はれたが、今更兜を脱ぐわけにはむろんゆかず、どうにでもなるやうになれと、歯を喰ひしばつてゐた。

 一方、千種の方でも、どうせ離れてゐるならおなじだとは思つたものの、言はば婚約の間柄で、少し嗜みを欠いだ行動になりはせぬかと、ひそかに後悔をしたが、相手の出方がさつぱりしすぎてゐるだけに、やはり乗りかかつた船といふ気持で、ともかく後へひかぬ決心をつけた。

 いよいよ、神戸から乗る船が蓬莱丸ほうらいまるときまり、東京を明日発つといふ日の晩、千種は兄二人と一緒に鬼頭のところへ別れを告げに来た。

「内地の女はあたしがはじめてだらうと思つたら、さうぢやないんですつて……。お巡りさんの奥さんが、ちやんと行つてるらしいわ。でも割に有名な島なのね。お土産までできてるんですつて……」

 彼女はそんな風に、こだはりなく口をきいた。長兄の千尋は、改まつて、

「もつと早くご挨拶に上る筈でしたが、どうも上を下への混雑で……。なにしろ、一家を畳むといふ仕事は、これで面倒なもんですな……。自分勝手になるやうでならんのが実に閉口です」

「さうでせう。いろいろお察ししてます。で、あなたも明日はお発ちですか」

「はあ、やつとこちらも片づきましたから……。あ、実は、あの今度の家ですがな、あれは当分貸家にしようかと思つとるんですが、また、お友達かなにかで確かな方がありましたら、ひとつ、お世話ねがひます」

「いやな兄さん、そんなこと鬼頭さんにお願ひするの変だわ」

 と、千種は顔を赤くし、

「それより、久馬兄さん、今度の旅行のこと、兄さんから詳しく説明なすつてよ」

 すると千久馬は、もぢもぢしながら、

「うん、だけど、神谷に云はした方がいいな。あいつ、おれにも詳しいことは云はないんだよ。なんでも、あいつの調べたところぢや、蜥蜴とかげの種類が十以上もあつて、どれかがものになるらしいんだ。それから、蘭さ、眼をつけてるのは……」

「いいえ、そんなことでなく……そんな専門的なことはいいわ。向うに二週間ぐらゐゐるのね、たしか?」

 彼女はさう云つてから、鬼頭の方を見た。長くはゐないのだといふことをそれとなく知らせておきたかつた。

 その気持は鬼頭にも通じたが、彼は聞えないふりをしてゐた。やがて、夜が秋らしく更けた。兄たち二人を先へ帰して、千種は後に残るつもりでゐたのに、たうとうそれを言ひ出すきつかけがなく、それこそ後に心を残して座を起たねばならなかつた。

 鬼頭は、玄関で、千種に向つて云つた。

「ぢや、明日は、都合がついたら東京駅でお見送りします。それから、先生の日誌は、もう少し拝借しときます」

 そして、彼女と最後の視線があつた時、彼女は彼のうちに、痛ましい心の闘ひを見ることは見た。が、それと同時に、自分の沸騰する感情の底を、冷たく吹きまくる北風のやうなものに気づき、半ば恐怖に似た身ぶるひといつしよに、障子の蔭で、彼の手を強く握つた。




胡蝶蘭




 船の旅ははじめてといふ以上に千種にとつては、まつたく想像も及ばないほど「新しい生活」であつた。何から何まで勝手が違ひ、刻々に胸ををどらすやうな情景が繰りひろげられた。大洋の波濤のうねり、夕陽ゆふひの光芒のなかをよぎる飛魚とびうをの群、遠ざかる港の夜の灯、水平線上に浮ぶ島々の陰翳、すべてこれ夢と云つてもよかつた。

「あれが台湾……」

 と指さされても、彼女にはぴんと来ないのである。台湾なんて地図の上にしかないものと思つてゐたせゐであらう。

 基隆きいるんで高雄行の船に乗り換へ、台湾の東海岸に沿つて航海を続ける。

「どう、そろそろ退屈でせう」

 神谷が気を揉むのを、千種は笑ひながら首を振つてみせた。千久馬がそばから、

「おい、そんならもつと元気を出せよ。いやに沈んでるやうに見えるぜ」

 事実、彼女は、あまり誰とも口を利きたくないのである。大概、ひとりつきりで、甲板の手摺にもたれてゐることが多い。さうしてゐるのが一番いい気持なのはどうしたわけか? 別に自分では感傷的になつてゐるとも思はないのだが、さう云はれてみると、なるほど、もつと快活に振舞ふのが同伴者への義務かも知れぬ。

「あら、沈んでなんかゐないわ。ただ、あんまり珍しいことだらけで、ぼんやりしちまつたのよ。だけど、もう慣れたわ」

「とにかく、酔はなかつたのは感心だ。鬼頭少佐にも、こいつは威張つていいな」

 神谷は時々、さういふ風に鬼頭の名前を引合に出す癖がある。千種は、それが可笑しかつた。可笑しいと云へば、神谷に対する彼女の警戒がだんだんゆるんで来たことも、ここで特に注意しなければならぬ。その第一の原因は、彼がもう鬼頭と彼女との関係を、ある程度まで識つてゐるといふことにあつた。次には、神谷といふ男の正体が、いろんな事件を通じて、こつちにもだんだんわかつて来たこと、即ち、無軌道のやうに見えて、案外実際家であり、辛辣なやうでゐて、どこか弱気みたいなところがありといふ風に、女の眼から見ても、それほど気味の悪い人物でないばかりでなく、どちらかと云へば、異性の友として、これくらゐ清潔な感じで交際のできる相手はさうざらにあるまいと思はれるやうな特質が、次第に目立つて来たことであつた。

 自分に対しては普通以上の好意を見せてゐるといふ点では、それはなんとでも解釈ができるし、その好意にいくら甘えても別段こつちに弱味が生じるとも思へないのである。殊に、少年時代のあの忌はしい記憶が、今日では寧ろ罪のない笑ひ話にしてしまへさうなのが不思議であつた。彼の方こそ、そんなことをいつまでも覚えてゐる筈はないと、彼女は、ひとりできめてしまつたほどである。

 船はやがて台東の沖をはなれて南へ南へと進んだ。赤道に近づくといふ印象が、海の色にも、太陽の輝きにも、鮮かに見えだした。基隆を出てから、はじめて身につけた白地の旅行服が、われながらぴつたりするのを感じ、甲板を歩く足どりが、知らず識らず女探検家を気取つてゐた。



 神戸を離れてすでに一週間である。彼女は、鬼頭のことをなるべく想ひ出すまいと努めてゐた。初めのうちは、気を転じることがわりに楽にできた。東京駅で最後に言葉を交はした時の、お互に隙を見せまいとする構へが、こりのやうにまだ残つてゐたからである。ところが、日がたつにつれて、反撥する気持がくじけ、ふと眼に浮ぶ彼の面影にわけもなく心をときめかすやうになると、もうどうにもしようがない。基隆と台東で絵葉書へ簡単な旅の消息を書いて出したが、もつと長い細々とした便りをすればよかつたと、今になつて惜しい気がするくらゐであつた。

 夕方から海が荒れはじめた。キャビンは薄暗く、蒸し暑い。ベットの上で、からだが左右に揉まれ、時々、地の底へ吸ひ込まれるやうな心地がした。それでも、やつと寝つくには寝ついたが、何度も夢にうなされた。夢の中で、彼女は鬼頭の名を呼んだ。

 扉を叩く音で眼をさますと、外から、千久馬の声で、

「おい、千イ坊、著いたぜ。早く起きろよ」

 急いで支度をして甲板へ駈け上つてみると、波はあらかた静まり、朝霧につつまれた灰色の島が一つ眼の前に聳えてゐる。

 それが、紅頭嶼こうとうしよであつた。

 船は錨をおろしはじめた。

 霧は海面から徐々に霽れ上つて、珊瑚礁さんごせうの岸に波の打ち寄せるのが見え、やがて、緑の斜面を縫ふ小径の一つ一つから、赭い肌の土人が、蟻のやうに這ひ出て来る光景が鮮やかに眼にうつつた。

「やあ、こいつは凄いや。槍をもつてるぞ」

 千久馬が叫んだ。

「あれは伊達に持つてるんです。まあ、おまじなひみたいなもんですな」

 船長がそばから説明した。

「なるほど、あれだな、有名な土人の船つてやつは……」

 神谷が眼を輝かした。何時の間に漕ぎ出したか、極彩色を施した小舟が鋭い舳を揃へてぐんぐんこつちへ近づいて来る。

 一行は、一人一人その舟で陸へ運ばれた。

 海岸は、雑沓を極めてゐた。見物の土人たちに相違ないが、いきなり千種たちの周囲を取り囲んで、口々に「チン・マン」「オオ・カイ」を連発しながら、からだぢゆうを手で撫でまはすのである。さういふ話は前もつて聞いてゐたから、別に驚きはしなかつたが、千種は、やはり気味がわるく、神谷と千久馬の後ろへ隠れるやうにして、小さくなつてゐた。「チン・マン」とは、「これは素敵だ」の意味、「オオ・カイ」は「おお可愛い」に通ずるといふ話である。

 内地人の旅行者には、警察で駐在所の別棟を宿舎として提供してくれることになつてゐる。一行は、早速、そこで旅装を解くことにした。

 群衆はいつまでも窓口を離れようとしない。千久馬がわざと大きなくさめをしたら、土人たちは顔を見合はせてにやにや笑つた。

「千種さん、チョコレートをひとつはうつてやつてごらん」

 神谷が云つた。千種は自分でそれをやる代りに千久馬にやらせた。

 群衆は死にもの狂ひで地上に殺到した。子供の泣き喚く声がした。千種は兄の手を押へてゐた。



 神谷はその日から早速実地踏査の支度をはじめた。炊事は千種が引受けることにしたが、雑用を便じるため、特に、土地の案内人として土人を二人傭ひ入れた。一人はカリヤルといふ男、一人はシナロンといふ女である。二人とも多少日本語ができ、ヤミ族としては、この島開闢以来の文化人なのださうだが、なるほどさういへばカリヤルは頭を解き分けにして豚の脂をつけ、シナロンは束髪に結つて浴衣地のアッパッパを著てゐた。

 この地方は既に雨期にはひつてゐるので、空は重く垂れて、時をり疾風が砂を捲き上げ、ココヤシの枝がもの凄く揺れてゐた。

「おい、カリヤル、でかけるぜ」

「シナロン、靴、靴、そこにある三人の長靴……」

 面白半分に、彼等の名前を呼ぶと、甲斐々々しく彼等は腰をあげた。

 案内役のカリヤルは、採集函を肩にかついで、素足のまま焼けた石ころの上をすたすた歩いた。イモロルの蕃社を抜けると、眼の前にそそり立つ絶壁の間に、深い谿谷が奥へ伸び、蕃社と蕃社をつなぐ小径が、赭土の地肌のままで峠に続いてゐる。カリヤルは、手ごろな木の枝を折つて、頭の上にかぶさつて来る葉の茂みを払つて行く。アヲヘビといふ小さな毒蛇の攻撃を予防するためとわかつた。

 千種は縁の広いセロファンの帽子に黒いヴェールをかけ、足許の危険に備へて、スカアトにゴム長靴といふ不恰好を我慢しなければならなかつた。

「ある、ある、これが胡蝶蘭だ!」

 千久馬が叫んだ。そして、ひと茎を折つて千種の鼻に嗅がせた。カリヤルの話では、以前には取りきれないほど沢山にあつたのだが、内地人がよろこぶといふので、みんなが根を掘つた結果、今では探すのに骨が折れるくらゐだといふのである。

「しかし、大丈夫、ここなら栽培できるね。大仕掛にやるんだよ」

 神谷は勇み立つた。それから、予て目をつけてゐたトカゲも、カリヤルの活動で一匹つかまへることができた。これは普通南洋諸島で香料をとる種類の大トカゲとは違ふのであるが、研究の材料として重要なものと考へた。

 第一日の踏査はそれで終つた。途中で目撃した土人の生活振りも、想像してゐたよりはずつと穏かで、裸体の習慣は日本人がさう珍しがるにも及ばず、野蕃と云ふどぎつい感じよりも、寧ろ、未開そのものの愛嬌と悲哀を交へた印象が、強く千種の胸に刻み込まれた。

 夕食には、カリヤルが海でトビ魚をとつて来た。それを千種が塩焼にしようといふと、

「塩焼、ハイ、ワカリマス」

 と云つて不器用に腹を割き、真つ黒に焼いてしまつた。一同が大笑ひをすると、カリヤルは悄げ返り、シナロンが、そばから何やら小言を浴せた。困つたことには、食事が始まると、もう窓の外は見物人でいつぱいになる。その見物人が、カリヤルの失敗を一斉にはやし立てるのである。



 仲間の誰よりも、文明の理想と先進民族の意志を解するつもりでゐるカリヤルは、部落の共同作業たる漁の方は好い加減に誤魔化し、その代り、彼等には真似の出来ない芸当、例へば食塩を一と匙ふるまふとか、傷口へメンソレタムを塗つてやるとか、殊に、缶詰の缶を開けてみせるとかいふことで、その埋め合せをしてゐた。が、それにも拘らず、仲間は、彼の失敗を喝采する了簡が、彼にはわからないのである。彼はさういふ場合、仲間の前で自分の面目をつぶされたことを恨むよりほかはない。彼はまる一日、ふくつらをしてゐる。

 千種は、彼にお内儀かみさんがあると聞いて、何かお土産にやりたいと思つた。土人の女が悦びさうなものを僅かな荷物のなかから探し出すことは困難であつた。しかたがなしに、刺繍入りのハンケチを一枚、カリヤルにさう云つて渡すと、彼はなんべんもお辞儀をした。シナロンがそこへ顔を出した。千種は予備にもつて来たコンパクトを欲しいならあげようと云つてみた。シナロンはややはにかんで手を差出した。この女は、二十八のオールド・ミスである。蕃童教育所第一期卒業の才媛であるところから、同族の青年を見向かうともしなくなつたといふのである。千種は、その話を聞いた時、変に憂鬱になつた。兄の千久馬はしかし愉快さうに、

「よし、そんなら、おれのお嫁さんにしてやらうか」

 と云つた。すると、神谷はそんな戯談はよせといふ顔をして、さてシナロンの後ろ姿をしんみり眺めてゐた。

 一週間は退屈せずに過ぎた。雨降りには、室内の遊びにも事を欠かず、男たちは、標本の整理や、インドトカゲの解剖に夢中なこともあつた。

 ある晩のこと、千種は蚊帳を吊り終つて、何気なく窓から空を見上げると、珍しく雲が切れて、朧ろな月光が海上を明るく染めてゐる。そして、何処からともなく、単調な歌の声と、それに合せて、サツクサツクと、何かをこするやうな音が聞えて来た。

 隣りの部屋で、もう横になつてゐる男たち二人に、彼女は、

「あれ聞えて? なんでせう?」

 すると、台所で洗ひ物をしてゐたシナロンが千種のそばへ近づいて、

「あれは海岸で女たちが踊つてゐるのです。今夜は満月ですから。ごらんになりますか? つまらない踊りです」

「ああ、ぢや、あの黒髪踊りつていふやつだ。見に行かう」

 神谷が飛び起きたらしい。千種も、慌てて外へ出る支度をした。支度と云つても著物を著かへる必要はなく、蚊除け香水を手足一面に塗つて行くだけのことである。

 神谷の後につづいて千種は靴をはきながら、

「久馬兄さん、早くいらつしやいよ」

「面倒くさい」

「あら、面白さうだわ。一度見とくもんよ」

「まあ、行つてこい。おれは少し疲れた」

 何時もの無精からであらうと、別に気にもとめず、千種は、シナロンに後を頼んで、海岸に出る道を駈け出して行つた。

 風は相変らず強かつた。

 遥か向うに砂浜が白く続いてゐる。その砂浜の上を手をつないで、輪になつた一群の女が、髪をふり乱し、からだを前後に大きくゆすぶり、低い合唱につれてゆるゆると廻る有様が、はつきりわかつた。

 千種と神谷とは、何時のまにか枝をひろげたタコの木の蔭に、ぼんやり立ち止つてゐた。



「もつとそばへ行つてみませうよ」

 千種は、さう云つて神谷の方を見た。

「おんなじでせう、そばへ行つたつて……。どうせ歌の文句はわかりやしないんだ」

「でも、ここぢやよく節もわからないし、第一、どんな顔して踊つてるか見たいわ」

「遠くからの方が美しいことはたしかだ。しかし、ご希望なら、近くで見物しませう」

 そのへんは、石ころが一面に転がつてゐて、足もとが危い。神谷はいちいち、足場をたしかめながら、千種の先導をつとめた。

 歌の声がだんだんはつきり聞えて来る。踊り手の円陣を、更に見物の群が取り巻いてゐるのがはじめてわかつた。何れも砂の上に胡坐あぐらをかいてゐるので、遠くからは岩のやうに見えたのである。しかも、見物は悉く男と子供である。

 踊りも歌も、最初は緩慢で、次第にテンポを増し、最後には急激な乱調子となつて、一曲を終るのだが、それを幾度も繰り返し繰り返しやる仕組になつてゐるらしく、女声のバスとでも云ひたいやうなしやがれ声が、素足で砂を蹴る音に交つて、咏嘆から熱狂に移つて行く一方、豚の脂を塗つた皮膚に月光がどす黒く反射して、動く群像は忽ち妖気の塊となるのである。

「もういいわ、このへんで……」

 舟小屋の前で、一艘のタタラが、修繕半ばで放り出してあつた。

 二人はその縁に腰をおろした。

「どうです、感想は?」

 神谷が笑ひながら訊ねた。

「素敵だわ……。ああいふ風な気持に、一度なつてみたいわ」

「原始に帰るといふことですか?」

「帰らなけれや駄目かしら?」

「さあ……少くとも、半文明人には真似はできませんね」

「ほんとに、半文明人なんていやね。シナロンもこの踊りを軽蔑してたわ。あたしだつて、たつた今、軽蔑できないつてことがわかつたんだわ。あああ、あたしもシナロンも、そんなに違やしないわ」

「馬鹿に悟りましたね。しかし、あなたは同族の青年と恋愛ができるから仕合せですよ」

「同族の青年つて? ああ、さう……恋愛つて云へるかしら、あんなの……」

「なんです? あんなのとは? もつと自信をもたなけやいけませんよ」

「自分にだけ自信があつたつて……」

「さう云ふなら、訊きますがね、鬼頭少佐とは、どうしてすぐに結婚しないんです。先生の喪中だからですか?」

「ええ、まあ、それもあるけれど……」

「それもあるけれど……ほかの理由もある。なんです? 僕は随分前からあなた方の、なんていふか、精神的交渉でもいいや、それを嗅ぎつけてゐたんです。一度、先生の前で、ばらしたことがあるでせう。あの時の鬼頭少佐は可笑しかつた。あなたも可笑しかつた。婚約の行悩みみたいな形が、ちやんと目に見えたんです。どうしたんです、一体……。今度この旅行にあなたが参加することだつて、僕は実は不可解なんだ。千久馬君を通じて、あなたを誘つたのは、深い意味はないが、その問題を確めるための間接の手段でした。あなたは行くといふ。鬼頭少佐は行けと云ふ。なんです、それや? あなたは自由だといふんですか?」



 自由とはどんなことを云ふのであらう?

 千種は、ここで神谷の問ひになんと答へていいかわからなかつた。「自由ではない」と答へる幸福感が直ちに浮び上つて来ないのはどうしたわけか? さうかと云つて、「自由」だと云ひきる見得も必要もないのである。ただ漠然と愛の誓ひを信じ、そして、漠然と幻滅の予感におびえてゐる自分を、もうこれ以上甘やかしてはゐられないといふ気がする。この二、三日一人きりになると、心の片隅で、「お前はどうしてもあの男と別れられないか?」といふ声を聞くやうになつた。彼女は、その声に耳をすましながら、気も狂はんばかりになるのである。

 偶然、いま、神谷は、彼女の痛いところに触れたのである。

「あたくしのことを心配して下さるのはありがたいけど、さういふお話、なんだか、あなたとするの変だわ。変つて……つまり、不自然だわ。ね、さうお思ひにならない?」

「さう逃げなくつてもよろしい。僕は非常に自然だと思ひます。かういふ機会は、またとないからです。これやなんと説明していいか。僕は結局、鬼頭少佐に先手を打たれてしまつたんだからな」

 千種はぎよつとして顔をあげた。その時、神谷は、さも重荷をおろしたといふ風な恰好で、空を見上げながら、やや自嘲的な微笑を漏らした。

 土人の踊りは、何時までも続いた。二人は、もう踊りを見てゐるのでもなく、歌を聴いてゐるのでもなかつた。長い沈黙の後で、千種は、急に腰をあげた。

「まだお帰りにならない?」

「ええ、帰りませう」

 と、云ひながら、神谷は動かうとしない。

「もうひと言云はせて下さい。僕は、鬼頭少佐に先手を打たれて、がつかりしたことは事実です。しかし、一方では、なるほど、さうなるのが当り前で、あなた方二人は、最も好い相手を撰んだのだと、負け惜しみでなく、蔭ながら、祝意を表してゐました。そんなことは嘘だと思ふでせう? ところが、僕には、自分ながら信じられないほど、使徒的と云ふか、殉教者的といふか、さういふ傾向があるんです。こいつは、妙な話で、自分で自分を偽善者扱ひにするやうな結果も生じるくらゐで、まして、人にそんなことを云ふ必要はないんですが、あなたのことに関しては、是非、それだけ、知つてゐてほしいんです。それも、鬼頭少佐との縁談がすらすらと運ぶんなら、なにもわざわざ、僕自身の心境なんか吹聴しやしません。あなたは、また、それをかうして聴いてゐる筈もないんです」

「ええ、だから、もう沢山よ、その話は……」

 と、千種は、思はず眉を寄せかけた。が、神谷は、すかさず、快活な調子を取り戻し、

「まあ、まあ、落ちついて、その先を聴いてごらんなさい。鬼頭少佐がですよ、なぜ、一旦心にきめたあなたとの結婚を、今更躊躇してゐるか、その理由をあなたはたしかめましたか?」

「あら、躊躇していらつしやるんぢやないと思ふけど……」

 つい、彼女は、相手の言葉につりこまれた。



「躊躇はしてゐない。しかし、延ばさうとしてますね。その理由を僕は知つてるんです。第一に神戸の姉さんの事件、第二に千久馬君の事件……」

「久馬兄さんの事件つて?」

「例の金の問題ですよ。あとの方はどうやら誤魔化したけど、千久馬君に対しては相当憤慨してるらしいですね」

「あたし、そのことはなんにも聞かないけど……」

「それはまあ深水から聞いた話ですがね。要するに僕らの想像では、久馬君の人物をまるで信用してないんでせうね。だから、過去の行為よりも、将来、妻の同胞きやうだいとして、家庭的に厄介な問題を惹き起しやしないか、それが引いて自分のおほやけの地位に累を及ぼしてはと、その点を一番心配してる様子ですね。かういつてしまふと、ひどく露骨だけども、海軍少佐としては、無理もないでせう。僕は、だから、お父さんからのお話もあつたし、今度の仕事に、なんとかして久馬ちやんを利用してと思つたんです。あれでまつたく、使ひ道のない男ぢやないんだから……。失敬、こんなことをいつて……」

「あら、どうして? 兄さんだつて、とてもよろこんでますわ。──希望つて、どんなものかと思つてたら、かういふものなんだねつて、つ前なんか、それや、興奮のしやうつたらなかつたわ」

 急に救はれたやうに、彼女は、兄の話に身を入れはじめた。神谷が自らいふやうに、純粋に寛大な気持であるかどうかはまだわからないにしても、こつちさへ、素直にそれを認めれば面倒なことはないやうな気がした。で、少し気がひけはしたが、

「ほんとに、さう云へば、あたくしからまだお礼も申しあげないで……。ごめんなさい、かういふぼんやりなのよ」

 と云つて、腰をかがめる真似みたいなことをした。すると、神谷は、果して、不機嫌な顔をし、

「およしなさい、そんなこと……。それより、まだ、後があるんだから真面目に聴いて下さい。お礼なんか云はれちまうと、もうなんにも喋れなくなるぢやありませんか」

「さう? ぢや、そのあとは、この次ぎ伺ふわ。今日はこれくらゐにして、家へはいりませうよ。ね、なんだか、からだがじとじとして来たわ」

 肩をすぼめて、彼女はさつさと歩きだした。そこで、彼も諦めて起ち上つた。

 歌の声が次第に微かになつて行つた。彼女は、ふと、女たちばかりの踊りを、男たちがぢつと眺めてゐる習慣といふものが、何処から来たのであらうかと考へた。髪が長く、乳房が瓢箪形にくびれ、そして、男の褌を巧みに織る女が、この島では珍重されるといふ話とを思ひ合せ、世界到るところ「女大学」は皮肉な言葉で綴られてゐることにはじめて気がついた。

 駐在所の白壁が、土人の小屋の間に、ひときは高く、目じるしのやうに突つ立つてゐる。と、向うから、誰かが走つて来るのが見える。

「あら、シナロンだわ」

 千種は思はず叫んだ。

「どうしたんだ、なにか用事かい?」

 さう神谷が問ひかけるのを、なぜか手で制しながら、そばまで近づいたと思ふと、いきなり低い声で、

「クマサン、ビヨウキデス、ネツ、タイヘンアリマス」

「しまつたッ! マラリヤだ」

 神谷は、沈痛な表情で千種を顧みた。



「それみろ、やられたぢやないか」

 神谷は部屋へはひると、いきなり千久馬の枕もとで呶鳴つた。マラリヤ予防のキニーネを、彼だけは、なんのかんのと云つて飲まうとしなかつた。

「おい、苦しいか? あたり前だ。お前はさういふところがいけないんだぞ。不断威張つてやがつて、なんだ、そのざまは。いつたい、世の中を甘くみすぎてるよ、お前は。自分のしくじりで人を困らすのは、いい加減にやめろ」

 薬瓶から丸薬を数へて出しながら、神谷はなほも呶鳴りつづけるのを、千種は、

「そんなにおつしやつたつて、病気が早くなほるわけぢやないでせう。それより、氷は手にはいらないかしら……」

 勿論、氷などあらう筈はない。土人はマラリヤ患者を怖れるといふよりも、これを死神にみいられた人間と考へ、家族の何人もその傍に近づかず、食物をさへ与へないで見殺しにする残酷な風習がある。

「みんなあつちへ行つててくれ、看病なんかしていらないよ。黙つて死んでしまやいいんだらう。早く厄介払ひをさせてやるよ」

 熱に浮かされてゐるにしては、あんまり云ふことがはつきりしてゐて、神谷と千種は、はッと顔を見合せた。

「馬鹿ッ! 死にたけれや病気をなほしといて死ね」

 そこで、神谷は吹き出さうとした。医者を呼ぶ代りにお巡りさんを呼んで来た。駐在所には三人のお巡りさんがゐて、それぞれ、専門の知識をもつてゐた。カリヤルもシナロンも近代科学を信じてゐるとみえ、マラリヤ患者の世話を平気でするやうになつてゐた。殊にシナロンは、土人が決して食はないことになつてゐる鶏の卵を拾つて来てくれた。内地の病人は生卵をよろこぶことを知つてゐたからである。しかし拾つて来た卵は生みたてではなかつた、ある時は黄身の代りにひよこが出て来た。

 千久馬は、それでも、神妙になつた。熱の下つた日などは、起きて働くといひだした。しかし、衰弱が甚だしく、たうとう出発はひと船延ばさなければならなかつた。千種も日夜附きりで看護をしたが、神谷の心労もなみたいていではなかつた。彼は一方で友情のありたけを示し、一方では、自分の仕事をお留守にしなかつた。全島を一巡する計画も果した。胡蝶蘭栽培の方針も定め、それを請負はせる土人の人選も終つた。その話を千久馬にして聞かせると、彼は眼に涙をにじませて、

「やあ、ほんとに済まなかつた。おれも、これからは大丈夫だ。大いにやるよ。だから、君たちは先へ帰れ。おれは島に残つてゐて、奴等を監督するよ。それでなけや、成績はあがらないよ」

「うむ……君がそのつもりなら、さうしてくれるとありがたい。帰つたら早速、進藤氏とも相談して、君の待遇を決めるよ。その病気は大体免疫になるつていふんだから、気が強いね。だけど、予防だけは怠つちや駄目だよ」

「ああ、わかつてるよ。安心しろよ」

「またさう簡単に片づけないでさ。今度は、このおれに対して責任を負つてくれなけや……。病気も病気だが、一旦引受けた以上、どんなことがあつても帰りたいなんて云はないでくれ」

「云はないよ」

 神谷はそろそろ千久馬と打合せをはじめた。最初予定した船がはひり、その船がまた出て行つた朝、千種はみんなと一緒に海岸で船を見送り、その後でたつた一人ぶらぶらと附近の丘の上にあがつた。遥か向うの山腹を、土人の一隊がイモロルの方へ歩いて来る。先頭には、誰が持たせたのか、日の丸の旗が風になびいてゐた。



 それからまた二週間たつた。

 三度目の連絡船が、この天候なら今朝は間違ひなく寄るだらうといふ日の明け方、神谷と千種とは出発の準備を整へて、山の上からの合図を待つてゐた。山の頂上には、蕃社の見張りが出てゐるのである。

 いよいよ船が見えたといふので、神谷はいきなり千久馬の手を握り、

「さあ、それぢやお別れだ。しつかり頼むぜ。当分は健康恢復に努めるんだね。雨期が明けたら、早速例の計画を実行してくれ給へ。あんまり無鉄砲をやつちやいけないよ。こつちの準備ができたら、ほら、時機を見計つて、高雄へ渡るんだつたね。こいつはうまく行くかどうかわからん。とにかくポンポン蒸汽がルソンの近くまで漁に出ることはたしかなんだらう、そいつに乗つてさ、是非ともそのへんの島で、蘭の根と、それから大蜥蜴を大量に手に入れる工夫をしてくれ給へ。こいつが成功すれや紅頭嶼万歳だ」

「ああ、引き受けた。二三年したら、もう一度やつて来るだらう?」

「用があれば何時でもやつて来るさ。あ、なんか君の方に用はないかい? 内地から送るもんがあつたら送るぜ。云はれなくつても気をつけるがね。差しあたり、どうだね?」

「菓子でも時々送つてくれ、ほかのものは間に合ふ」

 そばで千種は、ぢつと兄の顔をみながら、胸をつまらせてゐた。

「千尋兄さまになんかおことづけない?」

「ないなあ。あいつから受け取る金があるんだが、それやお前にやるよ。嫁入道具でも買へ」

「あら、そんなことなさる必要ないわ。お父さんの遺言の、あれでせう。ちやんとしてお貰ひなさいよ。やつぱり、いざつてことがあるから……。ねえ、神谷さん」

「おやぢの遺産かい? 結構ぢやないか。おれが管理してやつてもいいぜ」

「ははあ、管理を頼むかな、ひとつ」

 カリヤルが、艀舟はしけを出すといふ。

 本船まで送つて来たらといふのに、千久馬は首を振つた。

「海岸で見送るよ。また艀舟で帰つて来るなんていやだよ。それに内地の臭ひを嗅ぐのもいやだ」

 二艘のタタラが、神谷と千種とを別々に乗せて、沖へ漕ぎ出した。

 浜には、千久馬とシナロンとが、肩をならべてしよんぼり立つてゐる。

「兄さアん……お元気でね……」

 千種が、伸びあがるやうにして最後の挨拶を送つた。千久馬は、それに応へる代りに、大きくうなづいてみせた。

「久馬ちやアん……しつかりやれエ……」

 今度は神谷が声をしぼつた。千久馬は、なにか云はうとしたが、鼻がつまり、眼がかすんで、首が自然に垂れた。と、同時に、全身に急にうつろなものを感じて、胸を引き裂きたいやうな衝動にかられた。

 刻々に舟は遠ざかつた。千種のこんかぎり振りつづけるハンケチがいつまでもほの白く、海上の靄の中にひらめいてゐる。

 千久馬は、このとき、そばでシナロンがしくしく泣きだしたのをみて、もう我慢ができなくなつた。で、一目散に、丘の上へ駈け上り、そして、両手を高く挙げて、

「おーい、おーい」

 と、無我夢中でわめいた。なんのためか自分にもわからぬ。木の葉のやうなタタラに取り巻かれた巨大な船体から黒煙が真一文字に流れてゐた。




北風の街




 同じ航海が往きと還りとでは、千種にとつて、かげ日向ひなたとの違ひであつた。

 先づ一旦東京へ帰つて、鬼頭の顔を見なければ承知ができない。さういふ気持にもやはり裏と表とがあつて、明るい希望と、胸のふるへるやうな悦びの裏に、近づく不安が波立つてゐたことは争へない。

 そこへもつて来て、六週間の孤独にひとしい生活は、周囲を見る彼女の眼をいくぶん変へてしまつてゐた。

 台湾をはなれる頃から、彼女は神谷と二人きりで、この旅をしてゐるのだといふ意識がはつきりして来た。

 ある朝、食事をすますと、例によつて、一緒に甲板へあがり、神谷は煙草をかしはじめ、千種はその傍で、ぼんやり空想に耽つてゐた。

「ああ、千種さん、あの話はどうします。いつか千久馬君に返事しといたんだけど、あなた、僕の会社でずつと働いてもいいつて、さう云つたんでせう?」

「ええ、はじめね。でも、なんかお役に立つかしら……? あたしに出来ることつて、どんなこと、例へば?」

「しかし、それは真面目なんですか。やる気があるなら、どんなことでもできますよ。さうだ、僕は、その話を聞いた時も、変だと思つたんだ。鬼頭少佐に相談してみたんですか? 相談したら、許さないでせう?」

「…………」

 彼女は、黙つてゐた。しかし、彼がどうしてそこまでの想像ができるのであらう?

「でも、あたしにだつて、それくらゐの自由はあると思ふわ、さうお思ひにならない?」

「さあ、自由なんて、どうせ相対的なことで、鬼頭少佐の認める自由はどのへんまでか、僕にはわからない。少くとも、あなた以上にはわかりませんよ」

 そこで、二人は、別々な気持で、淋しく微笑んだ。

「風が冷たくなつて来たわね」

「われわれは今、空間的に冬に向つて行くんだから面白いな。ぢや、あなたは、そのことをはつきり決めてから、僕に云つたんぢやないんですね。すると、また僕は迷ふんだ。あなたはいつたい、なんのために、僕たちの旅行に参加を申込んだんです? ただ、かはつた土地を見ておくためですか? 旅行そのものを楽しむためですか?」

「だつて、それよりほか、女がついて行つて、なんのお役に立つとも思つてませんわ。いやだ、今頃になつてそんなこと……」

 千種は、この男の追究がどこまで来るかわからないと思つた。



 ところが、神谷のさういふ態度に、今は反感を感じるどころでなく、千種は寧ろ、彼の助力によつて、自分の心の底を何処まででも掘り下げてみたいといふ慾望にかられた。その結果がどうであらうと、それはもう甘んじてれるよりほかはない。彼女はひそかに天に祈つた──どうかこの惨めな私に正しい道を踏ませて下さい。頭ではいいと考へることが、心ではほんとにいいと感じられないのはどうしたことでせう。私のどこかに悪魔がんでゐるのでせうか?

 この時、更に、神谷が言葉をついだ。

「僕たちは妙な時代に生れたんだ。ひと口に云へば、いろんなものが離ればなれになる時代、離ればなれになつて、相反撥する時代なんだ。そこへもつて来て、暴力が物を言ふ時代、人間が人間らしく生きて行くことの困難な時代と来てゐる。文明が生んだいろいろの宝は、もつともそれを必要とし、且つ、最も有効にそれを利用し得るものの手に渡らない時代です」

 彼は、それつきり口を噤んだ。

「急にどうしてそんなことおつしやるの?」

 と、彼女は、たつたいま、自分が考へてゐたことと、妙に連絡がありさうな気がして、さう訊ねてみた。

「なに、ちよつと感慨にふけつただけですがね、別に大した意味はないんです。ただ、あなたのやうな女性がですよ、一面に於ては、軍人の妻として非常にふさはしいところがあり──これは尊敬した意味でです──その反面には、どうしても軍人の妻では恰好のとれない──これも、軽蔑した意味ではありません、勿論──さういふ相反したとは云へないが、結局、今の時代には複雑すぎる性格を築き上げたといふことはね、これは、たしかに、悲劇ぢやありませんか? 鬼頭少佐は、個人的に見ては、なかなか立派な人物ですよ。僕は、ああいふ軍人は好きだ。近代的でさへある。ところが、かういふことは、あなたの前で云つていいかどうかわからないが、軍人といふ商売、おつと、商売なんていふと叱られるんだつけ、まあ俗に云へばですよ、これは、ほかの如何なる文化的な部門にもみられない面白い特性をもつてゐる。戦争の専門家なんていふと、すぐに暴力を連想しますが、軍人は個人として、野蛮どころか、これはお世辞でなく、寧ろ現代では一番紳士的な嗜みをもつてゐる文化人ですよ。ただ、どんな人間でも、軍人である以上、ある一つの思想とはまつたく相容れない信仰に、全生命を献げなければならないといふ特性をもつてゐる。その思想とは、なにかといふと、国際主義です。如何なる国の軍人も、どんなに進歩的な頭をもち、どんな革命的な政治組織に属してゐても、軍人といふものは、その軍隊と共に、国際的な行動などは、絶対に取り得ないのです。某々の国々が共同の敵に当るために連合軍を作つたと云つても、これは云ふ迄もなく、便宜的な処置で、本質的に超国家を精神とするものではない。これだけのことは、是非とも、あなたは知つておかなけれやなりません。あなたばかりぢやない。軍人自身も、世の中のすべての人間も、知つてゐなけれやならないと思ふ。この軍人の宿命を光栄とするところに、彼等の孤独な、悲壮な、宗教的姿勢があるのです。僕は、自分のうちにある感情が、彼等の存在を肯定し、その勇気を讃美し、彼等に従つて国難に殉ずる日のあることを期してゐますが、また同時に、僕は、人類の進歩が、嘗て幾度も彼等の手によつて阻止された事実を知つて、これはどうしたらいいのだらうと、心が暗くなるのです。必ずしも、それが意識的にとは云ひません。現代文化の国際性が、彼等のイデオロギイと対立する場合が屡〻あるからです。軍人が保守的、反動的に見えるのは、かういふ場合に限ります。われわれが云ふ人間性といふやつも、往々彼等の眼には、文弱であり、軽薄であり、西洋かぶれであり、危険でさへあるのです。あなたも、鬼頭少佐の細君になつてごらんなさい。きつと、一度や二度は……」

 と云ひかけて、彼は、にやりと笑つた。



「え? さうしたらどうなのよ」

 千種は、何時の間にか人ごとのやうに、その話を聴いてゐた。そして、いくぶん、浮き浮きとしてゐた。

「なぜ僕がこんなことを云ふかわかりますか。わからないだらうな。あなたは家庭生活といふもんをどう思つてるか知らんが、僕に云はせると、恐ろしく矛盾したものを含んでゐることに間違ひはない。その矛盾解決をしないで、結婚する人間があつたら、それこそ、結婚は恋愛の……どころぢやない、人生の墳墓ですよ。われわれはまづ、どういふ男であり、どういふ女であればいいんですか? それを誰が、権威をもつてわれわれに教へましたか? 現在、日本の男が、女に望むところと、女が男に求めるところとを、どういふ教育が、どういふ形式で、これを完全な調和に導きましたか。西洋の男が日本の女を讃美する理由と、日本のある種の女が西洋の男に興味をもちはじめた理由とは、まつたく別々な方向から日本の男の虚を衝いた形ですが、それをいつ、いかなる場所でわれわれは問題にしましたか? 近頃女は結婚を重大に考へすぎ、男はこれを軽く見すぎるといふやうなところはありませんか。そのくせ、いや、それだからこそ、女はまづ疑ひ、男はまづ信じてかかるんです。女の負けです。が、それで結局、男も得をしてはゐないらしい。幸福はさういふ勝利からは生れません。家庭生活の負担の第一歩です。ああ面倒臭い! 日本式か、西洋式か、支那式か、いつたいぜんたい、おれたちは、なに式でやつてるんだ、といふことになる。さうでせう? ほかから見ても、さう云ひたくなる夫婦がいくらもゐますよ」

「たいがいさうだわ」

 と、この時、やつと千種は同感した。

「さういふ風に、癇癪をおこすくらゐなら、まだいいんですよ。自分たちはなんにも気がつかずに、ただ、とんちんかんな応酬で、お互が面喰ひ、照れ合ひ、気を腐らし、精根をなくしてしまつてゐるやうな一対が、三十そこそこのインテリ階級にはざらにある。これが現代一般の家庭風景だと僕は観てゐる。どうです? あなたはさう思ひませんか?」

「神戸の姉夫婦なんか、その例ぢやないかしら?」

「あれは姉さんの方で癇癪を起したんだな。だから、僕の云ひたいことは、あなたが鬼頭少佐の細君になるなら、なるとしてですよ、個人的な趣味性格といふやうなものを含めて、現代の軍人がもつてゐる社会感覚、生活感情、思想傾向といふやうなものをはつきりつかんでおいて、さて、自分がどの程度までそれに順応できるか、また相手をどういふ範囲で自分に同化させ得るか、そこを大体見極めてから、最後の決心をしなければいけないと思ふんです。おや、おや、何時のまにか、お説教になつちやつた。僕がこんなことを云ふと、をかしいでせう。をかしい、たしかに。自分でもをかしいや。たつたいま急に思ひついたことを、うまく喋れるかどうかと思つて、喋つてみたまでなんだから……。よしやよかつたなあ」

「あら、いいぢやないの。たいへん参考になつたわ」

 千種は、なかば真剣に、なかば皮肉に、しかも、その眼はうつろなものを見据ゑながら、かすかにそれにこたへた。



 あくる日の午後、千種は毛糸の洋服を脱いで和服の袷に著替へた。船は鹿児島の南端に近づきつつあつた。

 空は美しく晴れてゐた。

 デッキ・チェアーに長々と寝転んで、頸筋へ斜に落ちる日光を久々で楽しんでゐると、昨日までの蒸し暑さが嘘のやうである。

 社交室でラヂオが鳴りだした。たしか演芸放送の浪花節である。さう云へば、やはりこの船で内地へ引上げる台湾政庁の某高級官吏が、食事を待つ間、きまつてレコードの浪花節に聴き入つてゐる顔附を、彼女はいくども見た。その官吏は、夫人と子供たちと女中を二人まで連れてゐたが、船客のなかで一番幅が利くと見え、いつも食卓では船長と並んで座を占め、ボーイに度々用を云ひつけ、波が少し高くなると、忙しい当番の運転士を呼び止めて、大丈夫といふ保証を要求した。

 その細君は、四十がらみのお世辞のいい細君で、時々千種にも話しかけ、植民地生活の愚痴を自慢まじりに述べ立てるのであるが、苦労人らしい相手の見ぬき方で千種の素性をのみこみ、現代女性の心意気をたゝへなどした。

「へえ、これがあちらへお出掛けの時でしたら、なにかとご便宜が計れるんでしたのに……。でもまあ、あなたのやうな方が、職業戦線で活躍あそばすやうな時代が来たんですから、日本の海外発展は女性の手でつていふスローガンが、はじめて朗らかな意味をもつて来たことになりますわ。あら、ほんとですよ、お嬢さま、これは皮肉でもなんでもありませんよ」

 千種はさう云はれてくすぐつたいこと限りなく、余計なことを云ふんぢやなかつたと、忽ち後悔した。

 が、またひとりきりになると、昨日神谷の云つた言葉がつぎつぎに思ひ出され、なるほど自分のやうな女は、すべてが中途半端で、ひと通りはなんとでも見える代り、これと云つてぴつたりしたものは何ひとつない女なのであらうと、つくづくいやになつた。人の思惑ばかり気にしながら、もう一歩といふところで自尊心が必要な愛嬌を封じ込み、どんな相手にも物足らぬ感じを抱かせてしまふことになる、それがわかつてゐた。彼女は男と女との違ひはあつても、神谷のあの、ものにこだはらない、つまづくことを気にしない、転んでも平気で起き上る身軽さを羨ましく思つた。

 さつきから、神谷の後ろ姿が舳の甲板の上に見える。彼は、手をかざして行手の水平線を眺めてゐる。千種は、急に彼と話がしたくなり、そつちへ歩いて行つた。

「なんか見えます?」

 肩越しに声をかけると、彼は黙つて前の方を指さした。

「あれ、なんだかわかりますか? 黒い点みたいなものが四つ、間隔をおいて見えるでせう」

「軍艦ね」

 と、彼女は思はず緊張した。

「でせうね。こつちへやつて来ますよ」

 見る見るうちにその距離がちぢまつて、縦一列に同じ間隔をおいた四隻の軍艦が、波を蹴つて進んで来るのが手に取るやうに見えた。

「巡洋戦艦といふやつかな。相当なもんだな」

「水兵が、あらあら、大勢でこつちを見ててよ」

「海軍もいいなあ。かうなると、われら日本男児の血を湧かさせるなあ」

 神谷は、腕組みをして感じ入つた。



 千種は、ちらりと神谷の方を見た。動悸が打つてしやうがない。だんだん自分たちのまはりに人が集まつて来る。自分には理由のつかめないこの興奮を、彼女は少くとも神谷には気づかれたくなかつた。といふのは、今、軍艦と云へば、すぐに鬼頭少佐のことが連想され、その連想は、きつと神谷に何事かを推測させるに違ひないからだ。さうかと云つて、自分の方からそれを云ひ出す手はないのである。別に珍しくもないやうな顔をしてゐるほかはない。

「声を出せば聞えさうだね」

 後ろで、誰かが云つた。すると、だしぬけに、

「ばんざアい……」

 と、大声に呶鳴つたものがある。それは、神谷であつた。続いて、また、

「ばんざアい……」

 彼のあとに続いて、一斉に、人々は「万歳」を唱へた。

「さあ、あなたも云はなけれや」

 手を取つて無理に高く挙げさせようとする神谷を、彼女は、やさしく睨んだ。

 手摺の上へ、二人の手は重つたままおかれてゐた。

 夕食の銅鑼どらが鳴つてゐる。人々は散つて行つた。一筋のみをを長く引いて、艦隊は南下した。

 神谷は、口笛で「守るも攻むるも」を吹きだした。子供のやうであつた。千種は、うつむいたまま笑つてゐた。波に顔がうつるかしら、などと、心の中で独言を言つた。

「僕は、どうしてかう楽しいんだらう? 何をみても楽しいな。軍艦はもちろん勇壮だ。ごらんなさい、もうあんなに小さくなりましたよ。想ひ出はみをの如く泡だち……か。大海わだつみの、霞に消ゆる、ふね四艘……と」

「なに、それ?」

「新体詩……」

「誰の?」

「ははは、僕の……」

「いやだ……真面目くさつて……。旧いの!」

「ああ、どうせかういふ気持はふるいですよ。だつて、僕は、そいつをなくしたら最後、新しい代りは、もう手にはいらない年なんだもの。何処までも、こいつで押し通しますよ。寒いの?」

「いいえ……。手、おはなしになつて」

 彼女は、自分の手を引つ込めようとしたが、神谷の手がそれを放さないのである。

「ふり放してもよくつて?」

「やつてごらんなさい」

 千種は、決して神谷の顔を見ようとしなかつた。不思議に慌ててはゐないのである。かういふことがあつていいのだらうか? ただ、さう思つた刹那、全身が硬ばつて、眼がくらむやうな気がした。

 と、その時、手首にちくりとしたものを感じた。神谷が唇をそこに押しあてたのである。あつと思ふひまもなかつた。彼女は、力まかせに手を振り切つて、その場を逃れようとした。が、彼はさうさせない。

「お待ちなさい、僕は、鬼頭少佐と決闘をしてもよろしい。あなたは、彼を裏切りたくないといふだけでせう。決して裏切ることにはなりません。あなたは、もう自由です。立派に彼の手をはなれ、心のつながりさへ、ないと云つていいぢやありませんか。僕は、そのことを確めたかつたんです。僕は、堂々とあなたに近づけ、あなたは、素直に僕の気持を受けいれて下さつたまでです。何を憚るところがありますか?」



 神谷の眼をぢつと見据ゑた千種は、急に眩しさうに瞬きをした。もう自分の力ではどうにもならぬといふ気が、ふとしたのである。それは、怖れにも似た精神こころの動揺であつたが、それはまた同時に、天の声を聞いたとも云へるやうな不思議な麻痺状態に違ひなかつた。彼女は、とられた手に力をいれて握り返さうとした。が、指が自由にならない。

「痛いわ、そんな風になすつちや……」

 そこで、赦しを乞ふやうに、低く呟いた。彼の手が緩むと、彼の眼も和やかに微笑んだ。

「痛かつた? ごめんなさい。しかし、元気がついたでせう。どら、もう一度、あなたの眼を見せて下さい。僕は、今、たしかに希望を読んだんだがなあ。また、後ずさりをしちやいけませんよ。さあ、飯を食ひに行きませう」

 さう云つて、神谷は、彼女の顔をのぞき込んだ。

 彼女は、唇を噛んで横を向いた。しかし、ほんのりと紅をさした瞼が、夢想をたたへて美しく張つてゐた。

「あたし、あとから行くわ。お先へいらしつて……」

「いいぢやありませんか、一緒に行つたつて……」

「いやなの。さ、いらしつてよ」

「変だなあ、今日に限つて……。大丈夫なんですか?」

「…………」

 大丈夫といふ言葉に自分ではツとして、神谷は、しばらく、そこに立ちすくんでゐた。

「とにかく、ここは暗くなると、足もとが危いですよ、いろんな道具があつて……。あつちの広い甲板へ出ませう」

 彼はもう、馴れ馴れしく、彼女の肩へ手をかけた。それをまた、別にとがめる気持もなく、千種はゆるゆると歩き出した。

「さつき、ふつと、あたし、海へ飛び込まうかと思つたのよ。それ、おわかりになつた?」

 彼女は、わざと平気な顔をしてそんなことを云つた。神谷は、なんと返事のしやうもなく、ただ苦笑してゐると、

「あなたが、大丈夫かつておつしやつた時、丁度、あん時だつたの。人間つて、妙ね、考へがさういふところへ落ち込んで行く瞬間があるのね。生れてはじめて、こんなこと……」

「度々あつちや困るですよ」

 と、神谷は、とぼけてみせた。

 その晩、急に天候が変り、海はそれほど荒れなかつたが、霧雨が次第に本降りとなり、甲板には出られさうもないので、みんな早目にキャビンへ引きあげた。

「なんか、読む本、一冊貸して下さらない? 寝つけさうもないから……」

 千種が、しばらくして神谷の船室をのぞきに来た。

「本つて、どんな本? 小説なんかもつてませんよ」

「雑誌は?」

「雑誌も、みんな島へおいて来ちやつた。図書室になんかあつたやうだな。探して来てあげませうか?」

「あら、自分で行くからいいわ。今、なにしてらつしやるの?」

「え? ちよつと、面白いことをはじめてるんです。まあ、はいりませんか」

「雨はんだかしら……」

「こつち側ぢやわからないなあ。風は西風でせう。海は真つ暗だし……。さうしてるならおはいりなさいよ。おんなじこつた。剃刀の修繕はぢきすみますから……」



 千種はいつときためらつて、たうとう神谷のキャビンへはひつた。ベッドの端へ腰をおろして、彼のすることをみてゐた。安全剃刀のどこかが工合が悪くなつたのをなほしてゐるのである。

「さあ、これでよし。明日はいよいよ門司著と……上つてみませうね」

 千種は黙つてゐた。

「ねえ、覚えてますか、旧いことだけれど……、あなたが十か十一ぐらゐだつたかなあ……僕の家へ遊びに来た時のこと……」

 さう云ひながら、彼は千種の傍らへ歩み寄つた。彼女は、上眼づかひに、彼の顔をちらとみた。

「久馬君と、たしか、千里君も一緒でしたね、あれはどういふんだつたかなあ……。僕はあなたと仔猫を追つかけたことしか覚えてないんだ。夕方になつて、千里君だつたかが、もうご飯だから帰らうつて云ひ出すと、あなたは、いやだいやだつて泣き出すのさ」

「あら、うそばつかり……」

 と、千種は、はぐらかされたやうに、むきになつた。

「うそ? ぢや僕の思ひ違ひかしら? 今でも眼に見えるやうなのは、あなたの、あの生毛うぶげの多い頬つぺたさ。それがもう、こんなに頬紅なんかつけて……ええい、生意気だ……」

 横へ坐つたと思ふと、彼は、いきなりその顔を近づけてきた。彼女が軽く除けようとして首を縮めるのを、今度は、正面からのしかかるやうに、両肩をぐいとつかんで後ろへ押し倒した。不意を喰つて、千種は、危く声を立てようとした。が、神谷の健康な笑顔が、危急切迫の感じを与へず、却つて、それが戯談でもあるかのやうな印象を与へた。

「随分、野蕃ね、あなた」

 と、仰向けに倒れたまま、彼女は、かすれた声で云つた。

「ははは、野蕃か……野蕃に違ひないや。だつて、どうすればいいんです、あなたみたいに反響がないなら……」

 彼もまた、餌物を抑へた獅子のやうな身構へでこれに応じた。

 二人はさうしてしばらく睨めつくらをしてゐた。どつちが早く笑ひ出すか?

 が、どつちも笑はなかつた。

 彼女は、つひに、悲しげに口を開いた。

「ちやんとお話をするから、どいて頂戴!……ご自分のことばかりおつしやつて、あたしにはなんにも云はして下さらないんですもの……。あたしだつて、云ひたいことがあるわ……」

「ぢや、一度だけ、キスしてもいいでせう」

 彼女は大きく首を振つた。

「お預けですか? 女の戦法はお預けの一手と来てるんだからなあ。その間に、いつたい、何を考へるんです? 待たしておくと、どんな利益があるんです? 後で逃げを打つとき、ああ、あん時許さないでよかつたなんて、胸を撫でおろすためでせう? ただ、それだけのためなら、許しといて逃げるのも面白いぢやありませんか。あん時はあん時つていふ弁解は、十分成り立ちますよ。今は、今の気持に従つて、決して間違ひはありません、少くとも僕が相手である以上……」

「ええ、それやわかつてますわ。ただ、いまの気持が、ちやんとすわつてお話しがしたいんだつたら?」

 神谷は、そこで、からだを起すといつしよに、声をたてて笑ひだした。



 千種は、崩れた帯の形を気にしながら鏡の前に立つた。

「こんなになつちやつたぢやないの。ちよつとなほして来るわ。あたし……」

 さう云ひ云ひ、彼女が出て行かうとするのを、神谷は、止めようとしなかつた。

「すぐいらつしやいよ。寝ないで待つてるから……」

 自分のキャビンにはひると、千種は、ぐつたりと椅子に倚りかかつた。が、急にまたちあがつて、帯をぐるぐる解きはじめた。刺繍の花模様が大きく足もとに流れた。と、思ひ出したやうに、ドアの鍵をおろしに行つた。それから、下著まできちんと著なほした。帯は結ばずに、伊達巻のまま、いつ時、窓から外を眺めてゐた。表情が目まぐるしい移り変りをみせた。波の音に耳を澄ましてゐるのかと思ふと、なにかの幻影を払ひのけるやうに眼をつぶつて両手で顔を押へた。さうかと思ふと、鏡に顔を近づけて眉をぴくぴく動かしてみたりした。

 やがて、散らかしたものを手早く片づけ終ると、抜き足差し足でドアに近づいた。音を立てないやうにハンドルをまはした。部屋から出ると、そのまま、まつすぐに上甲板の方へ歩いて行つた。雨はもう降り止んで、密雲にとざされた空はところどころ微光をのぞかせ、黒一色の海上は不気味な静けさを漂はしてゐた。

 彼女はいま、なによりも、自分の生命をいたはる気持になつてゐる。まづ、何ものをも怖れない勇気が欲しい。なんでもやればできるといふ自信をもちたい。さういふ風に、心ははづむだけ弾んでゐるのだが、どういふものか、なにひとつ、ぢつくり考へるといふことができないのである。判断はすべて、頭の中できりきり舞ひをするだけである。

 彼女は、甲板デッキの上の水溜りをよけながら、右へ左へと歩きまはつた。梯子を伝つて、二等船室の甲板へも降りた。それから、足の向くままに、歩けるところは何処でも歩いた。

 ──死ぬなんて、いやなこつた。生涯に二人の男を愛したといふことが、ただそれだけのことが、どうしていけないんだ! ふと、心の中でさう呟いた時、すぐ後ろに、跫音が聞えたので、彼女は、ぎよツとして振り返つた。

「なにしてるんです、今頃……。人を待たしといて……」

 神谷の声である。

 すると、彼女は、笑ひを含んで、

「若しかしたら、あなたも散歩に出てらつしやりやしないかと思つて……お部屋より、ここの方がずつといいわ」



 二人はそれから遅くまで、そこで語り合つた。そして、彼の激しい情熱の前に、彼女はもう一切をこばむことができなかつた。

 彼女は、いま、幸福であり、羞恥にふるへ、自分の大胆さにあきれてゐた。が、神谷の胸に、顔を押しつけて、ぢつと波の音を聴いてゐると、急に、深い谷底へ落ち込んで行くやうな気がした。と、その時、耳もとで神谷の囁く声がした。

「なんにも考へないで……ね。僕と一緒に何処へでも行く気でいらつしやい。僕だつて、どうなるかわかりません。しかし、あなた一人を苦しませるやうなことはしないから、それだけは安心して下さい。周囲をすべて敵にするやうなことがあつても、あなただけは僕を信じてくれると思つてます。ああ、かういふ時にこんなことしか云へないのかなあ。ねえ、千種さん、この船でもう一度台湾へ行かうか?」

 すると、千種は、静かにからだを起しながら、

「ええ、ほんとにさうして……」

 と云つて、相手の顔を見上げた。

 やがて、もう一時になる。船が門司に著くまでにひと眠りしておかうといふので、二人は船室の前で別れた。神谷の跫音が遠ざかると、千種は船暈ふなよひの用心に持つて来たアダリンを、極量の半分だけ飲んでベッドにはひつた。

 翌朝、早く、船は門司に入港した。

「どう、上陸してみない? 時間はたつぷりあるから……」

 神谷は朝食に彼女を誘ひながら、かう提議した。

「あたしね、やつぱり、先へ福岡へ行つてみるわ。一度帰らないと、兄さんにもわるいし……」

「ぢや、僕も行かう。兄さんにも会つて、先々の話をしといた方がいいでせう」

「さあ、それやどうかと思ふわ。まあ、そのことはあたしに委しといて下さらない?」

「さうか。で、幾日ぐらゐの予定? すぐ東京へ出て来られるでせう?」

「ええ、できるだけ早くつていふことにするわ。あなたの方さへよければ……」

「僕の方は、今からでもいいさ。形式的なことは急ぎやしないんだから……。荷物なんかなんにもいりませんよ。なにもかにも新しくやり直しだ」

 駅で切符を買ふ時、神谷はまたかう云つた。

「福岡まで一緒に乗つて行かうか?」

「いいのよ、一人で行つた方が……」

「休暇は一週間以内ですよ。東京へ出て来たら、まつさきに僕んとこへ来ますね。それ約束して下さい。前もつて、電報を打つてくれるといいな」

 汽車が出ると、千種は、ほつと溜息をついた。プラット・フォームへ残した神谷の姿がいつまでも眼を去らなかつたが、やがて、工場地帯を抜け、蕭条と枯れ果てた野づらが左右にひらけると、彼女の胸に、ふと、今までにない悲しみがこみ上げて来た。

 鬼頭を去つて神谷についた自分を、一方で是認し、力づけ、光明のなかにおいて見ながら、これでいよいよ鬼頭との間もおしまひだと思ふと、そのことが、こんなにまで淋しいことなのだ。

 彼女は、決して、後悔はしてゐないつもりである。これが過ちだとしたら、自分はもう台なしな女である。そんな筈はない、と、そこで彼女は心のなかで叫んだ。この時、ふと、今迄気がつかなかつたひとつの考へが頭の一隅をかすめた。

 ──さうだ、あたしは、ひよつとしたら、復讐をしたのかも知れない。あの人にではなく、あの人の何処かに……。

 博多湾が松林の間に見えだした。線路に沿つた白い砂浜のそこかしこに旋風が舞つてゐる。

 彼女は、はじめておとづれる北風の街をせつなく心に描いた……。




決断




 やうやく伴直人の日誌を読み了つた鬼頭は、六十年にあまる生涯が築き上げた、複雑な心の世界を、隅々まで知りつくしたやうな気がすると同時に、自由に物を考へるといふことが、如何に頼りないことであるかを、今更ながら痛感した。伴直人の、社会人として、また家庭の父としての不遇は、彼みづから誇りとするところの無方針から来てゐるのである。政治を論じ、教育を論じ、文明を論じ、職業を論じ、民族性を論じ、武士道を論じ、殊に、現代の軍人とか、日本の指導精神とかを論じてるあたりも、そこには、西洋風の分析と論理があるばかりだ。たまたま、感動に類するものがあるとすれば、それは、彼の「誠実」である証拠を示すぐらゐのもので、どうかすると文章のあやがそれさへをも誇張してゐる場合がすくなくないのである。彼の個人生活には、別に一般の模範となるやうなところもなく、三十年の育英事業は、その功績よりも寧ろ労苦を多とすべきであり、この日誌の出版はさなきだに混乱を極め、無気力に傾きつつある現代青年の思想と性格に、何等、好影響を与へるものでないのみならず、自分一個としても、かかる人物の薫陶を受けたといふことは聊かも名誉にはならぬ、まして……。

 丁度そこへ、番茶と塩せんべいとを持つてはひつて来た母が、何時もならそのままそつと部屋を出て行くのを、今日に限つて、ぺつたりと彼の横に坐つた。

「千種さんからは、その後お便りはないの?」

「台東から電報を打つてよこしたのは、あれは何時でしたかね? もう一週間になりますかね。ぢやとつくに内地に著いてる筈ですね。福岡の兄さんのところへ帰つてるに違ひないんですが……」

「疲れとりなさるぢやらう。見舞の手紙でもあげたらどう?」

「ええ、まあ、いろいろ僕にも考へがありますから、お母さんは黙つてて下さい」

「黙つてろちうたて、あんた、急ぐものは急がにやならんし……。はやう、家へ呼んであげるわけに行かんの?」

「家へですか? 結婚する前にですか?」

「そいぢやつたら、すぐにでも、簡単に式を挙げたらええぢやありませんか」

「さう簡単に行きませんよ。ねえ、お母さんはどう思ひます? 僕との話がほぼ決つてゐながら、ほかの男に連れられて、台湾くんだりまで旅行にでかけるやうな女が、立派な細君になれますか?」

「あんたが許したからぢやないの。千種さんにしてみれや、兄さんと一緒なら、かまはんと思うてなさるんぢやらう。現代式に云うたら、あたり前かも知れん。あんた、また、今頃になつて、なにいうてんの!」

「まつたく、なに云うてんの、には違ひないけど、女房を貰ふつていふのは、実に厄介なもんですね。考へだしたらきりがありませんからね」

「軍人らしう、早うきめてしまひなさい。あたしはもう、千種さんを嫁のつもりで可愛うなつとるんぢやぜ」

「それはありがたいんだが……どうでせう、お母さん、保証して下さいますか」

「なにをね?」

「軍人の妻として恥かしくない女だつていふことを」

「それや、あなた次第よ。どうにでも教育すればええんぢやから……。器量は飛びきりで、性質もまあ、あれなら優等の部ぢやと、あたしは思うとる。あとは、知らん」



 翌日、鬼頭令門は役所の帰りに深水高六の下宿を訪ねた。

「日誌はみんな読んだがね、どうも個人的の興味以外、世間に発表するだけの価値はないと思ふ。おれは、第一、全体の思想が気に入らんよ。人物としては面白いところもあるさ。しかし、筆を執つておほやけにものを云ふとなると、あれぢや困るな」

 鬼頭の語勢にやや圧倒された気味で、深水は、ちよつと二の句がつげないといふ風であつたが、やうやく、

「さうかなあ。僕は、ああいふものもあつていいと思ふんだがなあ。実はある本屋の出版部に勤めてる友人にちよつと話してみたら、そいつは面白いから是非出さうつていふんですよ。別に、だれに悪いつていふところはないでせう」

「おれは絶対、出版には反対だ。むろん、出す出さんは、伴一家の自由だが、おれが相談に預る以上、立場はおのづから明らかだ」

 深水は、もう、議論の余地はないと思ひ、固く結んだ鬼頭の口に、弱々しい微笑を送った。

「ああ、さう云へば、昨日の朝、神谷に会ひましたよ。もう帰つて来たんですね」

「昨日? 何処で?」

「神田の通りで。千久馬君は向うへ残つたつていふぢやありませんか」

「うん、それは知つてるが……」

 と、鬼頭はつい、云つてしまつた。生れてはじめて、こんな嘘をつく自分を、彼はいまいましく思つたが、この意外な事実の前で、度を失ふやうなことがあつてはなほさら沽券にかかはるのである。

 彼はきたてられるやうな思ひで、深水に暇を告げた。そして、よほど神谷のところへ寄つてみようと思つたが、それよりも、こつちからぢかに福岡へ電報を打たうと考へた。

 今はもう、一切の行きがかり、すべての取越し苦労を棄てねばならぬ。彼女には、なにも罪はないのだ。あの情愛と信頼とは何ものにも代へ難いと云つていい。公の名にかくれて一人の女の幸福を踏みにじるやうなことをしてはならぬ。いや、それよりもなによりも、あれ以上、自分の好みに適つた女が、世の中にまたとあるかどうか? そして、この好みといふやつは、今日の自分にあつては、もはや、理性から遊離した単なる感情の動きではないと信じていいのである。

 彼は、いよいよ、千種との結婚を急ぐことに決めた。

 が、それを千種にいつてやる前に、あらためて、形式的仲人たる椎野中将の同意を求めておくのが順序だと気がついた。中将は、来るものは拒まずといふ調子で、

「おれは別段、これといつて意見はないが、君さへさういふ気なら、話を進めようぢやないか。場合によつたら、おれが福岡へ出掛けて行つてもいい」



 日が暮れると同時に、粉雪が降りはじめた。鬼頭は、肩を真つ白にして玄関にはひつた。出迎へた母は、早速手拭でそれを払つてやりながら、

「千種さんから手紙が来とるぞな」

 と云つた。

 服を著替へに部屋へはひると、机の上に、なるほど白い小型の封書が一通おいてある。

「ご飯は?」

「椎野さんとこでご馳走になりました。こら、背中みてごらんなさい」

「なに、これや、この寒いのに汗なんかかいて……」

「すぐに風呂へ行きますから、支度して下さい」

「でも、まあ、その手紙を読んでからになさいよ。今、熱いお茶をいれるから……」

 そこで、鬼頭は、手紙の封を切つた。


 厳しいお寒さですが、みなさまお変りゐらつしやいませんか。旅先で兄が例のマラリヤにかかり、出発を延ばさなければならなくなりましたので、予定よりこんなに遅れて帰つて参りました。兄は幸ひに健康をとりもどし、新しい事業のために、自分から進んで島に残ることになりました。私は只今、福岡で旅の疲れを休めてをります。からだばかりではございません。こころの方も、すつかり疲れきつてをります。旅行に出る前と今とでは、まつたく人間が変つてしまひました。もうあなたにもお目にかかる気がいたしません。

 突然かう申してはおわかりになりますまいけれど、今の私の気持など、くどくどと申上げても、それこそなんにもならないと存じますゆゑ、ただ、お別れしてこの方、いろいろの事情の変化もございますし、お互ひ将来のためといふ立場から、あなたとのお約束を私の方から撤回させていただくことを、今はお願ひしたいのでございます。

 いつぞやのお話がございました通り、私はやはり、境遇と申しますか、育ちと申しますか、必ずしも周囲の関係ばかりでなく、私自身の素質から申しましても、あなたのやうな職分をおもちになる方の健全な妻となる資格はないやうでございます。習慣に従つて物事を判断してゐるうちはまだよろしいのですが、良心をつきつめて行けば、そこにある理想も信念も、まつたくあやふやだといふことがわかりました。破壊の魅力にすぐと心を惹かれるのはそのためなのでせう。私は新しいといふことに、それほど興味をもつ女ではなかつた筈ですのに。

 私がこんなことを申してはをかしいのですが、あなたは、日本の女のみんなから敬愛されていい方だと信じます。そして、そのなかのただ一人が、あなたを幸福にし、あなたによつて幸福になれるとしたら、それが私でなく、もつと聡明な清らかな女性でなければならないといふことを、私自身、今となつてはもう少しも遺憾には存じません。かつてあなたを愛し、心のすべてを捧げつくした思ひ出が、私にさう云はせるのでございます。どうか、この我儘をお許しください。

 帰りの船が九洲の南端にさしかかつた時、軍艦が四隻、すぐそばをすれ違つて通りました。男の人たちは、一人のこらず万歳を唱へました。私は、あなたのことを考へながら、胸をつまらせてをりました。あの時を最後に、私は、あなたとの結婚をさつぱり思ひきることにいたしました。云ひたいことが云ひ尽せません。

 最後にお母さまにごきげんよろしくと、とくにお伝へ下さいませ。

十二月十五日
千種
鬼頭令門様



 鬼頭令門は、読み了つた手紙をぽいと机の上へ投げだした。そして、煮えくりかへるやうな気持を臍下丹田せいかたんでんにささへて、静かに眼を閉ぢた。

 ──要するに、こんなことになつた。女の気紛れに過ぎん。こつちでたつてと云へば、またどうにでもなるのだらうが、さうまでする必要があるかどうか? 手紙の文句にも腑に落ちないところはあるが、突つ込んで訊いてみたところで、あとがさつぱりするわけでもあるまい。かういふ問題は一度こじれると駄目だ。愛の糸瓜へちまのと云つたところで、結局、女が重荷になつてはかなはん。こつちが必要な時だけそこにゐるといふ風な女房で沢山だ……。頭ではやつとそこまで自分に云ひふくめはしたものの、一方、それを裏切る種々雑多な感情がつぎつぎに彼の胸をしめつけ、それを追ひのけるための努力は、まつたく無駄でさへあるやうに思はれた。

 が、彼は、つひに心の中で叫んだ。

 ──馬鹿ツ、しつかりしろ! 貴様はそれでも……。

 と、そこへ、母が恐る恐るはひつて来た。

「なにを、そんなに考へ込んでるの? 千種さん、どう云うて来なすつたの?」

 すると、彼は、膝を組みなほし、

「お母さん、いままで面倒なことはお耳に入れませんでしたがね、先生の家庭に実はいろいろ面白くない事件が起りましてね、そのことで僕もいよいよといふ決心をつけ兼ねてゐたんですが、今、向うから、結婚を辞退するつていふ手紙を寄越しました。可哀さうですけれど、しかたがありません。こつちも諦めることにします」

「まあ、面白くないことつて、どんなことがあつたの?」

「まあ、それやどうでもいいでせう。もう関係のないこつたから……。それより、お母さん、今度は僕、田舎から女房を貰ひますよ。どつかに心当りはありませんか?」

 そんな戯談にまぎらして、彼は、起ち上つた。

 風呂から帰ると、それでも、もういつぺん千種からの手紙を読み返した。一生懸命に考へて書いたものには違ひないが、それだけに、どこか取りすました嘘の表情が感じられ、思はず舌打ちをして、手紙をずたずたに引き裂いた。

 ──よし、これで万事片がついた。

 翌日は日曜であつた。

 ある新聞記者の書いた「日本南進論」といふ本を読んでみようと思ひ、近所の本屋へ出かけて行つたが、その本はまだ来てゐなかつた。そこで、ぶらぶらと、薄雪の積つた道を品川駅の方へ出た。

 彼は近頃停車場といふものをみると、すぐに武装した陸軍の部隊を連想するのである。理由は簡単で、満洲事変以来、この品川駅が屡〻カーキー色の軍服で埋められたのを覚えてゐるからである。

 彼は一度ならず、出征兵士とその家族との美しい離別の光景をも目撃した。艦隊の出動には、また別個の感激的場面を伴ふものだが、汽車で運ばれる軍隊といふものには、不思議に生々なま〳〵しい「生活の歌」があることを彼は気づいてゐた。

 ふと、電車線路を踏み切らうとして向う側を見ると、安全地帯の真ん中にぼんやり立つてゐる一人の男が、意外にも神谷仙太郎であつた。



 二人の視線が会つた瞬間、鬼頭は神谷の眼の中にある胡乱うろんなものを読んだ。

 ──こやつ、何か細工をしてるな。

 それは直感などといふよりも、寧ろ今迄意識的に眼をそむけてゐたものが、偶然の機会に正面へ現れ出たといふかたちであつた。鬼頭は腹をきめて、彼の方に近づいた。

「やあ、どうしたい。帰つて知らん顔をしてゐるのは怪しからんぞ」

 神谷は、もう平静を取戻してゐた。

「さうさう、あなたの家はこの辺だつけな。今から行つてもいいですか?」

「それや来るなら来てもいいが、どこかでゆつくり飲みながら話さうぢやないか。待てよ、おれは金をもつて来とらんから、とつて来る。まあ、とにかく寄れ」

「金なら、僕が持つてるからいいですよ。どこがいいかな」

「いや、君におごらすはふはない。それではと、面倒だからかうしよう。少し遠いが、暢気なところがあるんだ。附き合ひ給へ」

 やがて、円タクが彼等を築地河岸にある一軒の待合へ運んだ。神谷は、鬼頭がかういふ家を知つてゐるのかとをかしく思つたが、鬼頭は、別に悪びれもせず、女中をつかまへて無骨な戯談をいひ、なんにもいらんから酒を出せと命じた。

「この家はね、役所の連中が飲み荒しに来るんだ。女なんかゐない方がいいだらう」

「ゐたつてかまはないぢやないですか。いや、話の都合では二人つきりの方がいいかな」

 神谷はさういつて、硬ばつた笑顔を作つた。表面、ことさら磊落にふるまつてゐる彼等の間に、もうなんとなく嶮しい空気が漂ひはじめた。

「僕は、かういふところははじめてですよ。なかなか豪勢ぢやありませんか」

 さういつて、神谷はあたりを見廻した。

 用があつたら呼ぶからと、女中を追ひ払つて、さて、鬼頭はおもむろに口を開いた。

「旅行の話も聴きたいが、それより、君にひとつ、是非、本音を吐いて貰ひたいことがあるんだ。男同士だ、ざつくばらんに行かうぢやないか」

 ぢつとひとみを据ゑて、彼は相手の顔をのぞき込んだ。

「ざつくばらん、いいですね。どんなことでも訊いて下さい。その前に、僕の方から云ひますが──云つた方がいいと思ふから云ふんですが──実は千種さんのことね、僕はあなたに対してかういふ立場に立つことは予期してゐなかつたことだけ、はつきりさせておきます。千種さんから、なにか云つて来ましたか?」

「君、さういふ云ひ方はないよ。もつと順序を立てて云ふなら云ひ給へ。今、君から何を聞かされたつて、僕は驚かないよ。あの女はもう、僕にとつては路傍の女だ。君がどうしようと勝手さ。君自身は、僕の前で平気な顔はできんのぢやないか? 信ずるに足る友人として、僕をうなづかせるやうな説明をしてもらひたいんだ」



 そこで、神谷は少し照れて、

「できるかできないか、それはやつてみてもいいですが、あなたは……どういふことを僕に云はせたいんです? 問題はデリケートだと思ふんだ。あなたの方もざつくばらんにならなきや駄目だ」

「むろんさうさ。要するに、あの女は、僕との結婚を破棄して……その先は明瞭でないんだが、ともかく自由になりたいといふ希望を漏らして来た。理由は、恐らく複雑なんだらう。体裁のいいことしか書いてないが、これは、女だから仕方があるまい。君の名前も全然出てゐない。これはそれでよろしい。おれは、何も追求しようと思はなかつた。ところが、さつき、君の顔を見た途端に、おれはすべてを察した。いや、察したと云つてはいかん。正確に云ふと、君の口から、彼女がどうなるのかといふことを聴いて、おれ自身の気持に解決を与へたくなつた。君にはその義務があるんぢやないか?」

 鬼頭は、チヤブ台に両臂りやうひぢをついて、非常な落ちつきをみせ、言葉の調子も、わりに懇談的になつて来た。

「別に義務はないと思ふな。しかし、お互に探り合ひみたいなことは、よさうぢやないですか。ぢや、かう云へばいいんでせう。僕は、千種さんとあなたとの結婚問題が行き悩んでゐることを知つて、その責任をあなたが負ふべきであると信じた結果、僕は、今迄抑へてゐた自分の心持を彼女に打ち明けたんだ。勿論、あなたとの友情を犠牲にするつもりでさ」

「待ち給へ、おれとの友情なんかどうでもいいが、男の面目はどうなるんだい?」

「さういふ言葉は、僕の辞書にないよ」

「道徳的な反省が、君にはないといふんだね」

「僕には良心があるだけだ。その良心が下らんものなら、そいつは僕の罪ぢやない」

「おい、あんまり興奮するなよ。それでわかつた。彼女は、それで君のいふことを聴いたんだな」

 そして、いつ時、鬼頭は眼をおとして、ぢつと、冷たくなつた盃をふくんでゐた。が、やうやく徳利が空になつたのに気づき、

「君、ちよつと、その呼鈴を押してくれ」

 上つて来た女中に、彼は、徳利を指さしてみせた。

「もうお話はおすみになつたんでせう。だれか呼びませうか?」

「うん、呼べ」

 鬼頭は、さう答へておいて、今度は神谷の顔をあなのあくほど見つめた。

「なぜだらうな、かうしてゐて、君にちつとも嫉妬を感じないんだ。軽蔑はするさ、若し、君がほんたうに自責を感じてゐないなら……。しかし、君はそんな男ぢやない」



 神谷は、さつきから妙な圧迫を感じてゐた。ね返す力がないわけではないのに、ひつきりなしに先手を打たれるのは、必ずしも年齢の差によるものとばかりは思はれなかつた。彼はこの幸福な弱みを半ば楽しみ、半ば持てあましながら、相手に云ひたいだけのことを云はせてしまはうと腹をきめた。すると、鬼頭はまた、

「だがね、君、かういふことは世間にざらにあることだ。しかし、女一人を中心に、男と男がいがみ合ひをするなんてことは、実にみつともないからな。君が、どういふ手段であの女を靡かせたにしろ、おれは、さういふ結果を、ここで問題にしたくはないんだ。その方が、神の意思に適つてゐるとしたら、これやどうもしかたがないぢやないか。ただ、さう考へることは、あくまでおれの自由で、だれからも強ひられるべきものぢやない。君にはただ、おれに代つて、彼女の将来を幸福にしてやる義務があるだけなんだ。云ふまでもないことだが、無責任なことをしてくれちや困るぞ」

 さう云つて、神谷の方へ銚子を差出した。神谷は盃を手に取る気はしなかつた。で、いきなり、

「をかしいな、その話は……。いやに大きくでるんだなあ。そんな風に云はれたつて、僕は参らないんだ。あんたがほんとに、彼女を愛してるんだつたなら、彼女に対して、もつと憤りを発したらどうなんだ。従つて、僕をもつと徹底的にやつつけたらいいぢやないか。それや、嫉妬を感じないのもいいさ。敵意を露骨にみせないのもいいさ。しかし、自分を一段と高いところへおかうつていふ量見は少し変だよ。そんな優越感は、自然ぢやないにきまつてるんだ。そんなことを有りがたがる人間があるかも知れないけど、僕なんかにや、有りがたくないな」

 と、彼は吐き出すやうに云つた。

「さうか、有りがたくないか。別にさういふつもりでもなかつたんだが、おれはただ、匹夫野人の真似をしたくなかつただけさ。女を横取りされて血眼になるのが君の好みだとしたら、生憎だが、おれは不合格だ。おれにはもつと血眼になつて然るべき仕事の方面がある。それくらゐのことは君だつてわかるだらう。ちつとも廻りくどいことを云つてるわけぢやない。多少の努力は必要でないとは云はんが、この困難な立場を、堂々と切り抜けてみせたいんだ。こいつは、断じて芝居でもなければ、偽善的態度でもない。日本人の伝統的な嗜みだ。お互なら暗黙のうちに理解し合はなければならないもんだ。君は所謂新時代をもつて自ら任じてゐるらしいが、文明といふものは西洋の特産物ぢやないぜ」

「それやまた話が違ふさ」

 と、この時、神谷は、また受身になつた。

「ぢや、もうよさう、かういふ話は……。とにかく、おれの心境は明朗鏡の如しだ。君も良心云々なんて云ひ張らずにだ、おれの気持を素直に認めて、男らしくおれの為めに乾盃しろ」

 鬼頭が盃をあげたところへ、唐紙が大きく開いて、芸者が二人並んで手をついた。



「そんなに澄ましてないで、早くお酌をしろ。この方は、おれの親友で神谷さん……いいか……日本の香水王……に、もうぢきになられる方だ。よく覚えとけ」

 さう鬼頭が紹介すると、女たちは眼をみはつて、神谷に会釈をした。

「君たちはどんな香水を使つてるんだい?」

 神谷は、しかたがなしに、そんなことを云つて、鼻さきを彼女らの胸に近づけてみたりした。

 香水の話に身が入りだすと、神谷は、もう鬼頭の存在を忘れてゐた。女たちは巧みな聴き手であつた。

「なにしろ原料を欧羅巴から買つてゐる間は駄目さ。南洋で採れるものを、わざわざフランスへもつて行つて、そのマークをつけて輸出するんだからね。われわれは、そいつを高い金を出して買ふつていふ手はないさ」

「でも、近頃は日本人で南洋に工場をもつてる方があるんですつてね。こないださういふお話を伺つたわ。ほら、なんとかいふえらい坊さんですつて……」

「ああ、ヂャヴァにね、その工場はもうその坊さんの手を離れてる筈だよ。今、和蘭人と日本の商人とが共同出資でやつてるんだよ。なにしろ、初めは坊さんが三十人で出掛けて行つて、さつき云つたシトロネラの製造をはじめたんだ。油をしぼる機械だけはフランスから仕入れたんだけれど、元来経験もない上に、専門の技術家を無視したもんだから、土人の作つてるものより数等品質が悪い。従つて検査も通らないつていふ始末で、たうとう、その坊さんたちは幾年かの間に何十万円かの資本を食ひつぶして、命からがら日本へ帰つて来たつていふ滑稽な話があるよ。ところが、その坊さんは、なかなか強情で、今度は土其古へ行つて、大々的に薔薇の栽培をはじめたもんだ。むろん香水の原料さ。すると、これも素人の杜撰づさんな頭で、結果は見事失敗に終つた。まつたく、勿体ない話さ。国家の財宝は、この通り無能な野心家の手で、非合理的に消費されてゐるんだ」

 この不粋な結論には、鬼頭だけがぴんと耳を立てた。

「その点は、おれも認める。われわれの進路に、何時でもさういふ連中が待ち受けてゐることは、考へなけれやならん問題だ」

 その時、突然、若い方の芸者が神谷に訊ねた。

「おにいさんの造つてらつしやる香水は、なんていふんですの?」

「それをもつと早く訊かんといふ法があるか。東京のデパートなら何処でも売つてるぞ。ヤヌスと云へばわかる。香水ばかりぢやない。白粉、クリーム、ローション、白粉には、粉と水がある。水には新式の調合白粉、ミクス白粉、この意匠はちよつとほかに類がないから、一度試してごらん」

「まあ宣伝がお上手だこと」

 と、年上の芸者が彼の背中をぶつ真似をした。神谷も鬼頭も、だいぶん酔つてゐた。鬼頭は殊にさつきから続けさまに盃をあけてゐた。

「おい、神谷、お前はちつとも紅頭嶼の話をせんぞ。何か面白い話はないか?」

「あ、さうさう、帰りの船でね、軍艦四艘とすれちがつたよ。あとで聞いたら、第三戦隊とか云ふんだつて……。ちよつと興奮したよ。君が乗つてゐると愉快だつたな」

「なに云つてやがる。どこが愉快なんだい。紅頭嶼で貴様たち、センチになつたな。あのギラギラ光る星かなんか眺めやがつて、世の中の無情を語り合つたつていふわけか。それならわかるぞ。やい、白状しろ。貴様は口がうまいからな」



 相手がそろそろからみつくのをみて、神谷は、用心した。

「口がうまいのはそつちさ。うん、さう云へば、島にゐる間に、ちよつと珍無類な光景をみたよ。なんでも半年に一回かなんか、台湾本島から係の役人が巡視に来るんだがね。丁度僕たちのゐる間に、それがやつて来た。すると、島のお巡りさんが、七つの蕃社の土人を駐在所の前の広場へ召集するんだ。なにしろ、そこへ来るのに一日がかりつていふ遠い蕃社もあるんだらう。酋長が先頭に立つてさ、それが日の丸の旗を持つことになつてるんだぜ。各〻一族郎党を率ゐて、山を越え谷を越え、焼けつくやうな道を歩いてやつて来る。広場に着くと、みんなへとへとさ。いよいよお役人が一段高い壇上に立つて、一同の敬礼を待つてゐるのだが、誰も腰をあげようとしない。お巡りさんが、足踏みをして、なにやら呶鳴る。渋々起立をする。そのお役人が日本語で、一場の訓示をすると、通訳がゐて蕃語になほす。──諸子は名誉ある日本国民である。諸子は、今や立派に文明人の仲間入りをしたのである。文明が幸福をもたらすものであることは云ふまでもないが、文明人たらんと欲するならば、何よりもまづ勤勉でなければならぬ。老人は仕方がないが、若いもの、ことに子供は文字を習ひ、計算を覚え、いろいろな技術を身につける必要がある。昨年各蕃社に貸し与へた耕作用の牛も、諸子がその飼育方法を完全に守らなかつたために、今では、二頭しか残つてゐないといふ話である。これでは、牛をもう貸し与へるわけに行かない。それから、道路を修築することを命じておいたのに、殆んど実行されてゐない。現在のままで諸子は十分だと思ふかも知れんが、車といふものが通れるやうにしなければ、内地の旅行者が非常に不便を感ずる。それでは、島の発展といふことは、望まれないではないか。更にまた、諸子が自慢にしてゐるタタラ、あの船は誰が見ても野蛮である。野蛮といふのは文明の反対だ。よろしく内地の船を採用し、日本伝来の進歩した風習に一日も早く慣れなければならん──といふやうなわけなんだ。僕たちも、それを聴いてるんだが、蕃人先生は、通訳がなんと訳したか知らんが、一向面白くもないやうな顔をして聴いてるんだ。文明人たることも亦つらい哉と思つたらう」

 鬼頭は、その話には大して興味が湧かぬらしく、生欠伸をしてゐた。女たちは、しかし、時々、声を立てて笑つた。神谷がまた先を続けようとすると、

「笑ひごとぢやない。蛮人にも劣る奴が内地にごろごろゐるぢやないか。おい、神谷、それで紅頭嶼は、お前の見込みぢやどうなんだ? 産業的に開発できるのか?」

「できるね」

「よし、そんなら大いにやれ。これでもう当分会ふ機会はあるまいが、事業家としてのお前の前途におれは注目しとるぞ。個人としては、なんと云つても、お前は怪しからん奴だ。一刀両断に処すべきところだが、そこはおれも、ほんとを云ふと、自分が大事なんだ。わらふなよ。恨みを呑んで分別の声に従つた。かう云へばお前にも通じるだらう。ところが、どうも、これではまだ、引つ込みがつかんのだ。おい、外へ出て飲み直さう」

 神谷は、その時、鬼頭の眼の中に、きらりと光るものを見た。



 一座は急に白けた。女たちはどうしていいのかわからずにゐた。一人が小声で歌を唱ひだした。

「いやだわ、二人ともそんな深刻な顔して……。ねえ、鬼頭さん、何時かの、ほら、カロリン音頭とかつていふの教へてよ」

「そんなもの、知らん」

「あら、みなさんで歌つてらしつたぢやないの、この前の会の時……」

「おれは歌はん。大谷だよ、あんなもの作つたのは……。今度あいつに会つたら訊け」

「そいぢや、なんでもいいわ、歌つて……」

 女は三味線を引き寄せた。

 が、神谷はこの時、

「僕はもう帰つていいだらう」

 と云つた。

「なに、帰る? どうしてだ」

「こんなことしてたつて、つまらないぢやないか」

「おやおや……」

 と、女は興醒めのていで、三味線をそつと下においた途端、神谷は起ち上つた。

「待て! 一緒に出よう」

 鬼頭は、女に、車を呼べと云ひつけた。

「もう今日はいいことにしよう。僕はこれから仕事があるんだ。話があれば、また今度にしてくれよ」

「なあに、話なんかないさ。貴様がその態度をかへない以上、おれは赦さん。こら、女どもは階下したへ降りてろ」

 さういひながら、鬼頭は、神谷の手を取つてそこへ引据ゑた。

「なにするんだい」

「なにするも糞もないさ。おれは酔つちやをらんぞ。この眼をみろ。いいか、貴様は幸運児だ。それはそれでいい。だが、そんなに威張るなよ。武士は相身互だ。わかつたか。よし、帰れ!」

 肩をぐいと突かれて神谷は、後ろへ倒れかけたが、その時、彼は、やつと相手の心持がわかつたやうな気がした。で、いきなり、膝を組み直して、かう云つた。

「わかつた。なんにも云ふな。僕の横つ面を気のすむだけ、殴つてみないか。いいからやれよ。さあ、思ひきり殴つてくれ」

「うむ」

 と、鬼頭は唸つた。

 神谷は、微塵も悪意のない眼付で、相手の眼を見つめてゐた。殆んど親愛の微笑を送つてゐると云つてもよかつた。

「やるぞ!」

 鬼頭の拳が飛んだ。

「もうひとつ!」

 神谷は叫んだ。二度目のは物凄い音を立てた。神谷は、はずみを喰つて斜に後ろへ倒れた。が、起き上ると同時に、また、

「もうひとつ!」

 今度は、殴ると見せて、鬼頭は神谷に抱きついた。

「痛かつたか……え、おい、許せよ……貴様は実にいい男だ。これでさつぱりした。なんでもありやせん、こんなこと……。なあ、くだらんことはみんな忘れちまはうぢやないか」

 神谷は、黙つてうなづきながら、彼の腕を払ひのけ、

「ぢや、失敬」

 と云つて、ゆつくり部屋を出て行つた。

 外は吹雪だつた。

 時々、頬の肉が顫へた。冷たいものがそこへさはるたびに、ぴりりと痛んだ。彼は大声で笑ひだしさうになつた。




未知の国




 子供たちは遊び疲れて、すぐに寝入つてしまつた。千種は跫音を忍ばせて部屋を出た。茶の間では兄夫婦がまだ食後の雑談をつづけてゐた。

「どうもすみません。叔母さまのお話はとても評判がいいから……有りがた迷惑ね」

 嫂の邦子は、さう云つて愛想笑ひをした。

「早く馴れるもんだね、子供つて奴は……」

 兄は急に夕刊をひろげた。

 尋常二年を頭に四人の子供たちは、一週間この方、千種の傍を離れようとしないのである。

 彼女は、今日こそは今日こそはと思ひながら、東京へ出ること、即ち神谷の仕事を手伝ふことになつた話をつい云ひそびれてゐた。むろん、それだけのことを云ひ出すのはなんでもないが、兄の賛成を得るためには、神谷との結婚の問題を予めそれに含めたものかどうか、この点はどつちとも判断がつきかねてゐたのである。恐らくさういふ話のしかたをすれば、兄は、そんならしばらく上京するのは待て、神谷といふ男はどんな男か調べてみようと云ひ出すにきまつてゐるのである。それはそれでいいが、そんなことをしない方が自分の好みには適つてゐる。当人同士が信じ合ふ以外にどんな条件が必要なのだ! そこで、彼女は、なにかの口実をみつけて、有無を云はさずこの家を飛び出す機会をねらつてゐるのである。

「ねえ、邦子、あの話、お前から千種にしてみたらどうだ」

 突然、兄がかういふと、

「ええ、でも、やつぱりあなたからなすつて頂戴よ。あたし、さういふこと上手に云へないわ」

 その二人の様子で、千種は、はツとなにかを感じた。悪い事を聞いてしまふんぢやないか、と、もうさういふ風に神経が働くのである。

「ぢや、云ふがね。……その前に訊いておきたいんだが、ほら、あの鬼頭つていふ人ね、海軍少佐か、あの人から別にお前をくれとかなんとかいふ話はなかつたのかねえ?」

 兄は努めてなんでもないやうに云つた。

「あつたわ。でも、お断りしたの」

「断つた。ふむ……どういふわけで?」

「どういふわけつて……いろいろわけはあるけど、まあ、気が進まないからよ」

「しかし、一時は進んでたこともあるんぢやないか? どうもさういふ風におれには見えたぞ」

「まあ、はつきりおつしやるぢやないの」

 と、その時、嫂が、苦労性らしく口を挟んだ。千種も、ついをかしくなり、

「どうみえたつて、あたしの知つたことぢやないわ。ともかく、今はなんでもないんだから、それでいいでせう」

「うん、いいわるいを云つてるわけぢやないさ。すると、なんだね、その他、先方から申込中といふやうな縁談はないんだね」

 今度は、いやに真面目な調子で兄が膝を乗りだすのを、嫂は、

「あなた、さういちいち念をお押しにならなくつたつていいわよ。どんどん云つておしまひになつたら……? 無駄なら無駄で、はいさうですかつて云へばいいんぢやないの」

「ああ、さうか」

 兄は、とぼけて、千種の顔をぢつと見た。



 兄の話といふのはかうである。

 彼の高等学校時代の親友で真野蕃まのしげるといふ地質学を専攻した男がゐて、東京の帝大を出るとすぐにある研究所へ勤めたのだが、外国の雑誌等へ論文を発表してゐるうちに、何か特殊な研究で相当欧洲学界の注目を惹くやうになり、やがて、どういふ関係からか、印度の大学から講座の口がかかつて来た。元来、評判の変り者で、平生から日本の科学者は不幸だとこぼしてゐる上に、先輩のご機嫌をとることなどむろん下手らしく、そんなところから、この交渉に快く応じて、八年前に印度へ渡つた。郷里がこの福岡の在なので、ふとした機会に実家の人たちと懇意になつて、いろいろその後の消息を聞いてみると、非常に元気で暮してゐるといふことであつた。ところが、最近、突然そのお父さんが訪ねて来て、息子から嫁を探してくれと云つて来たが、どういふ風なのが適当なのかさつぱり見当がつかんので困つた。自分の心当りと云へば、百姓の娘ばかりで、いつたいそれでいいかと問ひ合せてみたら、なんでもかまはんが、悧巧で美人でないといかん、英語も少しはできた方がいい、但しモダン・ガールはごめんだ。さうかと云つて、引込思案の、足手まとひになるやうなのは禁物だ、といふやうなわけで、親爺ほとほと思案に暮れてしまつた。そこで、ひとつ、しげるの旧友たるあなたにご相談申上げる次第だが、これならと思ふ淑女のご推薦に預りたい。いよいよとなつたら、本人を呼び寄せて見合をさせる。ああ、さうだ、本人はシンガポールあたりで見合をしたいと云つてゐるが、これはちよつと考へ物で、何処の令嬢でもそんな冒険はおいやであらう。是非帰つて来いと云つてやるつもりだ。

「まあ、ざつとこんな話なんだ」

 と、兄は、もうその先を云はなくてもわかるだらうといふ顔をした。

「とつても純な方なんですつて……。科学者らしい半面に、また詩人肌の優しい処があるんでせう」

 嫂は、千種と夫とを等分に見比べて、なかなか乗気である。

「うん、とにかく、変人は変人だが、子供みたいな奴だよ。なんといふか、八方美人つていふのの反対だよ。学課でも出来不出来がひどくあつたよ。友達なんか大勢作らないしね。そのくせ淋しがり屋で、おれの行くところへはきつとついて来たもんだ。だから、一人で印度へ出掛けて行つたのは、至極当然なやうであり、不思議なやうでもあるんだ」

 千種は、さつきから、ひどく擽つたい気持で、兄の熱心な話ぶりに、耳を傾ける風をしてゐた。が、自分とはもう縁のない、云はばお門違ひも甚だしい話題でありながら、また一方、世間話としてちよつと面白く聞けるぐらゐには思つてゐた。それにしても、いよいよなんとか返事をしなければならぬ。ここでお茶を濁さないとしたら、どつちみち一番重大な面にぶつつかることになる。彼女はまづ、兄たちの失望を、もう眼のあたり見るやうな気がして、いくぶん言葉がしぶつた。

「印度のどこなの、その方のいらつしやる大学つて……?」

「ええと……なんだつけな?」

「バンガロアのセントラル・カレッヂでせう」

「バンガロアか、さうか、なんでも中部の山岳地方ださうだよ。気候もいいらしいね。なにしろ天竺だからな。極楽浄土に近いわけだ」

 極楽浄土は洒落にもならぬが、千種の夢想はおのづから上田敏の訳になる印度古詩の一句につながつて行つた。──


きみがまなこは青蓮せいれんに、きみが皓歯は茉莉花まつりくわに、かんばせ、はすの香に匂ふ。

さればその身も、たをやげる、葉にこそあれと、思へども思へども、石にも似たるその心。



 やがて、兄はまた言葉をついで、

「話の順序が変になつたが……そのお父さんつていふのは、こつちのことをなかなかよく識つててね、ご同胞きやうだいが大勢おありになるさうだが、年頃のお妹さんでもいらつしやると、都合がいいがなんて云ふからね、それやあるにはあるつていふ返事をしたら、ぢつと考へ込んでたよ」

 嫂はそれにかぶせて、

「お父さんつて、それや朴訥ないい方なのよ。なんておつしやつたんでしたつたけ、写真をお目にかけたら……?」

 兄はちよつと千種に笑ひかけた後、

「こげな別嬪ひやんなら、なんも云ふこたなかつて云つたよ」

「千種さん、今のおわかりになる? さうよ、さういふ調子なのよ。聴いててをかしくつて……」

「とにかく、それ以上どうかうといふ話もまだしてないが、お前が帰つたら、意向を訊いてみるつてことにはなつてるんだ。どうだい、興味ないか? 実家の方のことは役所で調べさしたところによると、まあ、農村としては中流の地主で、財産の割に声望があるつていふところをみると、なるほどと思へるんだ。息子の学費に田地を売つた親爺の一人さ」

「問題は印度ね。これが紐育とでも云ふなら、なんでもないんだけど……」

「そんなことないさ。だつて紅頭嶼を讃美する女が、印度に怖ぢ気をふるつてどうするんだ」

「ぢや、問題はやつぱり、ご本人つてことになるかしら? あの写真出してみませうか」

 さう云ひながら、嫂はもう袋戸棚をあけて分厚なアルバムを取り出して来た。千種は眼のやり場に困つた。

「これが高校時代ですつて……いやだ、なにがをかしいの。こら、大学へ来るともう、かうなるから変なもんね。でも、どつかほかの人にくらべて、超然としたところがありやしない? 眼のつけどころが違ふみたいね」

 千種は、かうして、完全に口を封じられてしまつた。何を云ふ力もないといふ恰好で、ただ笑ひたいのを堪へてゐるばかりである。それにしても、兄夫婦の気の入れ方はどうしたといふのであらう。

「なんかおつしやいよ、千種さん……」

「あら、なんて云へばいいの?」

「だからさ、この写真みて、どうお思ひになるか、それ、あたしたち伺ひたいのよ」

「瘠せてるわね」

「うん、それから……? でも、今はもつと肥つてらつしやるんですつて……。それから?」

「さうね……眼のつけどころが違ふつておつしやるけど、この写真、どうしたんでせう。影のつけ方がめちやね。修整が下手なんだわ」



「おいおい、誤魔化さないで、ちやんと批評しろよ。お前のは、実は、家にあるやつを貸さうと思つたんだが、嫂さんが反対するからやめたよ」

「無断ぢやあんまりだと思つたから……。それに、写真で第一印象をきめられるの、女は損だわ」

「そんなこと云つたつて、お前、写真も見ずに……」

 二人は、すつかり呑み込んでしまひ、もう、勝手に事を運ぶ気でゐるらしいので、千種は黙つてゐるわけにもゆかず、

「ちよつと、お待ちになつてよ。さういふお話、急に伺つたつて、あたし困るわ。これで、いろいろ考へてることもあるんだけど、ただ、云ひだしにくくつて……でも、それ、云つてしまはうかしら?」

「なるほど、そいつは聞いておく必要があるな」

 と、兄は、拍子抜けがしたやうに、それでも、尤もらしく、暁一本を抜いて、チヤブ台の上をポンポンと叩いた。

 この一週間、千種は、神谷の事ばかり考へてゐたかといふと、決してさうではなかつた。事実、東京へ出る希望の裏には、何れは鬼頭にも遇はねばならぬといふ、漠然とした怖れが常に潜んでゐた。神谷と一緒に東京まで行く決心がつかなかつたのも、福岡へ来てから一日一日を空に過してしまつたのも、実を云へば、その怖れが、いろいろな形で彼女の行動を鈍らせたからである。

 鬼頭に宛てた手紙の返事が来るかと思ひ、心待ちに待つてゐたが……それも、すぐには来ないところを見ると、相手の心はますます量りかねるのであつた。

 が、もうこれ以上何を躊躇する必要があらう。神谷の差しのべる手が、自分を支へるただひとつの力だと信じるよりほかはない。

 彼女は咄嗟に、こんなことを兄に云つてしまつた──

「その話もいいけど、少し冒険すぎるわ。それより、今度台湾へ一緒に行つた神谷さんね、まだ独身なのよ。今度の旅行で、お互に気心も呑み込み合つたし、将来結婚の話が持ち上るかも知れないんだけど、それまでとにかくお交際つきあひしてみるつもりだわ。どうかしら、当分自分の仕事を手伝つてくれないかつておつしやるんだけど……。東京へ行つたら、あたし、お友達で宿をしてくれる人がゐるから、そこから事務所なり工場なりへ、通へばいいと思ふわ。賛成して下さらない?」

「なんだ、そんなことならもつと早くさういへばいいのに……。神谷といふ男はよくは知らんが、汽車の中だけの印象では、少し、なんといふか、未成品ぢやないのかなあ」

「未成品つて?」

「さあ、ちよつと説明に困るが、事業家として世間に通用するのかえ、あれで?」

 兄はしかし、案外すらすらと東京行を彼女に許した。嫂も、それではといふので、着物の支度などあれこれと世話を焼き、慌ただしく、出発の日取りがきまつた。

 ところが、その出発の前夜、思ひ出したやうに、深水高六から兄に宛てた手紙が舞ひ込んだ。文面は、例の父直人の日誌をもうしばらく預かつておきたいこと、鬼頭少佐は一応出版には反対の意見を漏らしてはゐるが、自分としては是非とも世に出したいと思ふから、何れそのことで本屋を直接相談にやるかも知れないこと、洗足の家は四十円の家賃で借手がついたこと、神谷に会つて台湾旅行の話を聞いたこと、ところが、その神谷を今朝訪ねてみたら、病気で入院したとのこと、なんでも、マラリヤの疑ひがあるらしいから、千種さんもどうかしらと思つてゐること、など。

 千種は、もう兄夫婦の思惑などはどうでもよかつた。半日出発の時刻を繰り上げた。



 汽車の旅はどうにも長かつた。それは心がせいたからといふばかりではない。空想が軽やかに翼をひろげないからである。彼女はいくども自分を叱つた。神谷のよろこびに輝く顔を、強ひて眼の前にうかべようと努力した。

 大阪から、とにかく神谷の自宅へあてて電報を打つた。東京駅へ著いたら、電話で病院の名を訊ね、ぢかにそつちへ行くつもりでゐた。ところが翌朝汽車を降りると、プラット・フォームには、意外にも、片頬に大きく繃帯をした神谷が、ステッキを杖にぢつと立つてゐた。

「あら、入院なすつたんぢやないの?」

 彼女は驚きの叫びとともに、かう訊ねた。

「だれに聞いたの……」

「深水さん……。兄のとこへ下すつたお手紙にさうあつたから……」

「実は、今病院を抜け出して来たとこですよ。もうなんでもないんです」

「だつて、マラリヤでせう」

「さういふ疑ひもあつたんだけど、どうも風邪らしいですよ。なに、この繃帯? これや別さ。ちよつと耳をね」

「どうなすつたの?」

 それには応へず、神谷は出口の方へ歩き出した。

「いやね。無理なすつちや……。熱はおありにならないの?」

「大丈夫」

「大丈夫つたつて、まだふらふらなすつてらつしやるぢやないの」

 彼のひぢを支へるやうに、彼女はそつと手を差出した。二人が改札口へさしかかると、何処かで、パンパン……パンと物がはじけるやうな音がした。と、同時に、群集の視線がプラット・フォームの奥へ吸ひ寄せられた。駅員の右往左往する姿がすぐに眼についた。

「なんでせう」

 千種は、後ろを振り返つた。

 構内は騒然たる光景に変じた。憲兵が改札口を占領した。

「だれかやられたな」

 神谷は、さう云ひながら、千種をうながして待合室の前へ人を避けた。

 やがて、五六人の警官に取囲まれた若い男が、青ざめた顔をして改札口を出て来た。時々、取られた両腕を振りはなさうと藻掻もがいてゐる様子であつた。

「物騒だな」

 誰かが千種の耳もとで呟いた。

「今日はだれがつ日だい?」

 その相手らしいのが、物好きな問ひを発した。

「知らん」

「さあ、ここにゐてもしやうがないから、出かけませう。号外がでるだらう」

 神谷は、それでも気になるらしく、憂鬱な顔をしてタクシイを拾ひに行つた。

「あなたも疲れてるだらうし、僕もちよつと楽になりたいから、何処かホテルで休みませうね」

「あら、ホテルなんかぢやない方がいいわ。お宅、どうしていけないの?」

「人が来てうるさいから……」

 運転手に、彼は、「丸ノ内の蚕糸会館」と命じた。

 へえ、そんなところにホテルがあるのかしら、と彼女は思つた。なるほど、その建物の一番上が手軽なホテルになつてゐた。屋上と云つてもいい眺めを前にして、二人は、やつと二人きりになつた。



 神谷は千種を後ろから軽く抱いて、

「風邪がうつるといけないから……」

 と云つた。

 千種は神谷の手を胸の上で握りしめてゐた。

「あたし、電報なんか打つんぢやなかつたわ。でも、いきなり鞄をさげてお宅へ伺ふの、どうかと思つたもんだから……。だつて、病院はどこだかわからないんですもの」

「だから、それでいいぢやありませんか。実は、僕はまだ安心ができなかつたんだ。一週間つていふのが、今日は九日目でせう。待ちくたびれて病気になつたんですよ」

 戯談みたいにではあるが、神谷はさう云つて、更に彼女のからだを引き寄せた。

 鬼頭と会つたあの晩から、彼は急に発熱したのである。翌日は蒲団をかぶつて寝てゐたが、おいさんが心配して近所の医者を呼んで来た。耳の下が紫暗色に膨れ上つてゐるので、医者がどうしたのかと訊ねると、酒を飲んで喧嘩をしたのだと答へた。耳をしらべてみると、鼓膜に炎症を起してゐることがわかつた。熱はそのせゐだらうといふので氷をあててみたが、あまり悪寒をかんが続くので、彼は、ふと紅頭嶼で千久馬がやはりこんな風な症状だつたことを想ひ出し、医者にその話をしてみた。マラリヤの潜伏期は時によると二三週間といふやうな場合もあるので、或はさうかも知れないといふことになり、早速、その医者の紹介で、ある医科大学の附属病院に入院したのである。が、専門医の診断の結果、マラリヤの疑ひははれ、その代り、気管支加答児と中耳炎の宣告を受けた。夕方になると、熱はまだ八度台に昇るのである。

「中耳炎つて、あぶないのよ。脳へ行くことがあるのよ」

 千種は、弟が一度かかつた経験があるので、そんなことを聞きかぢつてゐた。神谷は、鬼頭に横面を殴らせた話を彼女にしてみようかと、なんべんも口へ出しかけたが、それは思ひ止つた。

 窓から見る空は、久々で明るかつた。

 千種は、そつと神谷の腕から脱け出して、部屋の姿見をのぞき込んだ。

昨夜ゆうべはよく眠てないんでせう。風呂へでもはいつて、ひと休みしたらどうです。僕もあつちへ行つて、しばらく横になりますから……。お昼には起してもいいでせう」

「ええ、でも、こんな時間に眠られるかしら……。それより、これから、あたしどうすればいいのか、そのことを先にきめていただきたいわ。なんだか落ちつかないから……」

「だつて、それやわかつてるでせう。僕んとこへ来るつもりぢやないんですか」

「いきなりご迷惑ぢやないかしら……」

「なにがご迷惑です? いやだなあ、居候のつもりですか、君は?」

「あら、さうぢやないけど、あんまり簡単に考へてらつしやるから……。ぢや、どういふ名義で行けばいいの?」

「名義? さあ、そいつは考へてない。やつぱり、名義がいりますか? お嫁さんはまだ早いですか?」

「かういふの、いけないんでせうけど、あたしやつぱり、それはそれできちんとした形式を踏みたいわ。だから、女事務員ぢやいけないこと?」

「今、自宅とオフィスと別ですからね。しかしまあ、そいつは……」

 と、彼は、窓の方へ歩み寄つた時、真つ下の街上にけたたましい鈴が鳴り響いた。彼は電話受話機に飛びついた。

「もし、もし、帳場? 大急ぎで号外を買つてくれ給へ」



 やがて女ボーイの差出す一枚の号外を、二人は頬をすり合ふやうにして読んだ。

「某高官○○○○氏東京駅頭にて狙撃さる」といふ見出しで、


──本日午前八時五十八分、ある種の重要使命を帯びて海外に出発せんとする某高官○○○○氏(其筋の達しに依り特に姓名を秘す)は、若干の見送り人を前に、今や発車時刻の迫つた特急「燕」に乗込まうとする刹那、群衆の中より同氏を目がけてピストルを放ちたるものあり。幸ひ同氏は微傷だも負はず、悠然と車中の人となつたが、偶々関係長官の代理として見送りに来た海軍少佐鬼頭令門氏はいち早く危急を察知し、身を以て兇器の前に立ち塞がりたるため、胸部に三個所の盲管銃創を蒙り、その場に昏倒した。


 ここまで来ると、千種は、もうなにを読んでゐるのかわからなかつた。

「ほんとかねえ、これや……」

 神谷も半信半疑のていであつた。が、どつちも相手の顔を見ようとしない。

 その先にはこんなことが書かれてゐた。


──犯人はインテリ風の青年で、兇行直後警戒中の日比谷署員の手で難なく逮捕されたが、政治的背景は未だ全く不明である。ただ、現場を徘徊中の一婦人が、挙動不審の廉で同時に引致された。共犯者と目すべき証拠が挙げられた模様である。なほ鬼頭少佐の負傷は、可なりの重傷であるが、鉄道省の山下医師、並に時を移さず駈けつけた白石海軍軍医大佐の手当によつて、奇蹟的に生命は取止め得るものと思はれる。因に、同少佐の果敢なる献身的行為は、目撃者一同に深い感銘を与へた。


 読み了ると、神谷は、その号外を千種の手に残して、どさつと寝台の上に寝ころがつた。千種は千種で、もう一度それを読み直す勇気もなく、激しい動悸で息がつまりさうなのを、顔色に出すまいと、椅子の背に片肱を支へて、横向きにそつと腰をおろした。

 長い沈黙がつづいた。

「なぜ黙つてるの、君は?」

 先づ、神谷が重々しく口を切つた。

「だつて、なんにも云へないわ……。こんなことつてあるかしら……なんにも云へないのが、ほんとよ」

 と、千種は、悲しげに声をふるはせた。

「鬼頭少佐の果敢なる献身的行為が、君にも深い感銘を与へたらしいな」

 明らかに、皮肉な調子を含んでゐるのが、彼女には、堪へきれなかつた。

「それ、どういふ意味? はつきりおつしやつてよ。卑怯だわ、遠まはしに人の気持を探つたりなんかなすつちや……」

「はつきり云ふと、僕はけるんだ。君はなんと云つても英雄崇拝だからな。ほら、泣いてるぢやありませんか。その涙は、だれにそそぐ涙なのか、僕はそれが知りたいんだ。今日は、いつたい、どういふ日だと思つてるんです。僕は、いつたい、なんのためにここにゐるんだ! 僕は!」

 藻掻もがきながら、神谷は呶鳴つた。

 あはれむやうな千種の眼が、ちらりとこつちを見た。と、同時に彼女は、袂で顔をおほつた。肩が大きく揺れてゐるだけである。



 すると、神谷は、急に沈んだ口調で、

「僕だつて泣きたいさ。但し、それはだれのためでもないんだ。感動の性質は、君のとまるで違ふんだ。しかし、さつきから云つたことは取消します。たしかに、つまらんことを口走つたやうだ。僕はただ、かういふ事件で、君が個人的な感動だけに支配されてゐるのが不満だつたんだ。いや、もうわかつた。そんなことを云つたつて無理だ。さう云ふ僕だつて、ただ興奮してるだけで、頭のなかにはなんにもありやしないんだ。なにを考へることだつてできやしないんだ。じれつたいけど、しやうがない。だから、見たまへ、公衆の前で人間幾人かの生命いのちが賭けられたつていふこの不祥な出来事を、心から憤ることも、嘆くこともできないんだ。まして自ら進んで犠牲者たらうとした男の勇気をたゝへる気にもならんのです。わかつた……君……もう泣くのはおよしなさい。彼の口吻を真似れば、鬼頭令門は幸運児さ。どら、その涙は僕が拭く番だ、ここへいらつしやい……」

 千種は、そのまま、身動きもしない。

「怒つたの?」

「…………」

「怒つたんだな。よし、だから、あやまつてるでせう。取消すつていふのは、あやまることですよ。あやまつても駄目ですか?」

 そこで、やつと、彼女はかすかに呟いた。

「あやまるなんて、をかしいわ。ご自分のどこが悪いか、わかつてもいらつしやらないくせに……」

「わかつてる。第一に、君を怒らしたのがいけないんでせう」

 ──そんなに茶化したつて……

 と、彼女は心の中で彼をわらはずにはゐられなかつた。──率直に振舞ふといふことが、こんなに取り乱すことなのであらうか? かういふ種類の弱さを人間味といふのなら、鬼頭の手強てごわさは、それがどんなに批難されようとも、より高い情熱の仮のすがたとして、立派に人間的なものだと云へないだらうか?

 なるほど、鬼頭にないものが、この神谷にはある。ただそれだけの理由で、自分が一方を棄て一方を撰んだとしたら、神谷にはなくて鬼頭にあるものを否定することになるのだ。それでいいのであらうか? なによりも大事なことは、自分が女として、ほんとにどつちを愛してゐるかといふことだ。嘗ては鬼頭を愛し、今は神谷を愛するなどと云つても、そんなことがあてになるだらうか? どちらも、全体を見てゐなかつたと云へるのだ。しかし、今となつては、後ろをふり返るべきではない。相反する二つのものさへ誰のうちにもあるのだ。育つものを育てて行かう……。

 そこで、彼女は、静かに起ち上つて、神谷のそばへ歩み寄つた。

「あたし、ちつとも怒つてなんかゐないわ。あなたのお気持もよくわかつてよ。でも、あんな風におつしやると、悲しくなるぢやないの。ほんとを云ふとね、鬼頭さんのことなんか、あたしもうとつくに忘れてたのよ。だつて、さうでせう、あなたがかうしてそばにゐて下さるんですもの。ところが、今、この号外をみて、ふつとあの方が……」

「気の毒になつた……」

 と、神谷は、眼を閉ぢたまま、うめくやうに呟いた。

「さうぢやないの。さうぢやないんだけど、自分の気持として、もつと綺麗に、あの方が納得なさるやうにして、別れるものなら別れたかつた……さう思つただけなの」



「だから、どうしようつていふの?」

 神谷は、急に眼を見開いて、半身を彼女の方へ向けた。

 千種は一瞬ためらつた後、

「家との旧い関係もあるし、結婚の話とは別に、ちやんとするだけのことはしておきたいわ。こんな場合に、知らん顔してるの、なんだか気がすまないんだけど……」

「はつきり云つてごらんなさい。こんな場合に、君は、どうすれば気がすむんだらう」

「お見舞に行つて来たいと思ふの……」

 と、彼女は、やつと低い声で云つた。すると、神谷は、再びあふむけになつて、

「お見舞にね……さうか、さういふもんかなあ」

「あなただつて、お見舞にいらしつてもいいんだわ。その方が正々堂々としてるわ」

 なほも云ひつづけようとする彼女を、神谷はいかりに燃えた眼で見据ゑた。

「正々堂々は、僕に関係はないよ。行つて来給へ、そんな偽善を平気でやれるなら……。偽善だよ、それや……。鬼頭はよろこぶだらう。涙を流して君を拝むだらう。感激の場面つてやつは、さういふもんだ。さあ、行つて来給へ。今頃は、東京駅の駅長室で、輸血かなんかやられてるだらう」

「もうたくさんよ……」

 と、彼女は、つひに顔をそむけた。が、思ひかへしたやうに、また、神谷の傍らに寄り添つて、静かに、優しく云つた。

「あたしを信じて下さらなけやいやよ。すぐに帰つて来るわ。どうせ話なんかできないにきまつてるんだから、ただ、あたしが顔を出したつていふだけでいいのよ。お母さんが来てらつしやるかも知れないわ。あたしはただ、肩身の狭い思ひだけしたくないの……。ね、許して下さらない。今度いつぺんきりよ、こんな無理を云ふのは……」

 答へがないので、彼女は、彼が頭の上へ組んだ手を、そつと自分の方へ引き寄せた。

「そうつと、ここでやすんでらつしやいね。なにか掛けないでいいかしら……。このまま眠つておしまひになつちや駄目よ。ぢや、大急ぎで行つて来るわ……」

 額に唇を近づけようとして、彼女はふと気がさしてやめた。で、手袋を握つたまま、逃れるやうに部屋を出た。

 すぐ傍の新聞社の前は、黒山のやうな人だかりであつた。通行人が、今日に限つてどういふわけか、自分の顔をぢろぢろみてゐるやうな気がしてならなかつた。道ばたに立ち停つて車を拾ふことさへ億劫おつくうになり、彼女は、うつむいたまま、すたすた歩道の一隅を歩いた。

 東京駅の附近にさしかかると、そのへんはもう平常と変りはなく、乗車口の赤帽が、暢気に煙草をふかしてゐた。

 ──何処で訊ねたらわかるだらう?

 その疑問にさへ、誰も答へてくれさうもなく、彼女は、ガランとした構内の端から端へ視線を走らせた。

 ──駅長室つていふのは何処かしら?

 が、それを駅員に訊いてみる勇気がないのである。こんな筈ではないと思ふのだけれど、自分なんかの出る幕ぢやなかつたといふ、妙に白々しら〴〵とした気持が、この時はじめて彼女の頭をかすめた。すると、今朝の事件は、鬼頭を中心として考へてみても、自分からずつと遠い、遥か彼方の世界に起つたものといふ感じがして来た。

 と、同時に、ホテルへ残して来た神谷の面影が、やはりぼんやりと霞んで見えだした。それは、また、淡い記憶のやうなものであつた。おやおや、これは不思議だと思ひながら、彼女は、ふらふらと待合室へはひり、片隅のソファにからだを埋めた……。



 彼女は、もう、しんの心まで疲れきつてゐた。鬼頭の姿をたとへ今そこに見ても、すぐにはち上れさうもない。しかし、かうして、周囲の誰彼にかかはりなく、雑踏と騒音のなかで、一つ時のくつろぎと夢想の自由を得たことはもつけの幸ひであつた。

 しばらくたつてから、彼女は時計を見た。丁度十二時であつた。

 その時、海軍の将校が二三人、待合室の入口で立ち止り、何やら低い声で話をしてゐた。彼女は、それとなく、傍らを通り抜ける風をして、その話声に耳を傾けた。それは、たしかに鬼頭のことに違ひない。

「あの調子なら大丈夫だ。二週間ぐらゐの入院ですむだらう」

 彼女は、それを聞いて、さすがにほつとした。急にを速めて、駅の出口に向つた。が、もうその時は、鬼頭のことは頭になかつた。さういふ気易さで、明るい街を見た。神谷が腹を空かしてゐるのだらうといふやうなことが、平気で心に浮かんだ。

 ホテルのエレヴェータアの中で、ちよつと顔を直して、部屋へはひると、神谷はまだ寝台の上に寝転んでゐた。

「会つて来たの?」

 落ちついた声である。

「ええ」

「意識はあつたの?」

「ええ」

 彼女は、眼を伏せたまま答へた。すると、神谷は、突然笑ひだした。

「会つて来やしないんだらう。嘘ついても、ちやんとわかるから不思議だなあ」

 彼女は思はず、唇を噛みしめた。神谷は、もう、からだを起してゐた。

「ほんとに会つたの? ああ、さうか。ぢや、それで気がすんだわけですね」

 さう云つておいて、彼はまた、ごろりとあふむけになつた。

 彼女は、いきなり寝台に近づき、がくりと膝をついたと思ふと、神谷の胸の上に、顔をおしあてた。

「どうしたの? さ、もうなんにも訊かないから、食堂へ行く用意をし給へ。それとも、ここへ運ばせようか?」

「お腹おすきになつた? ごめんなさい、遅くなつて……」

「どら、そんなこと云ふ、君の眼を見せてごらん。うん……」

 彼は、彼女の眼の中に、はじめて生き生きと働きかけて来る感情を読みとつた。

 それは、すでに、新しい戦ひの合図であつた。

底本:「岸田國士全集11」岩波書店

   1990(平成2)年89日発行

底本の親本:「岸田國士長篇小説集第五巻」改造社

   1939(昭和14)年518

初出:「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」

   1936(昭和11)年519日~105

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「ベット」と「ベッド」、「カフェー」と「カフエー」、「フィリッピン」と「フイリッピン」、「素ツ気」と「素ッ気」、「悪戯ツ児」と「悪戯ッ児」、「馬鹿ツ」と「馬鹿ッ」、「チヤブ台」と「チャブ台」、「そうして」と「さうして」、「引退つた」と「引き退つた」、「四谷見付」と「四谷見附」、「菜ッ葉服」と「菜葉服」、「くらゐ」と「ぐらゐ」の混在は、底本通りです。

※新仮名によると思われる外来語のルビの拗音、促音は、小書きしました。

入力:門田裕志

校正:岡村和彦

2018年1024日作成

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