明治開化 安吾捕物
その十四 ロッテナム美人術
坂口安吾



 一助はお加久に叩き起されてシブシブ目をさました。めっぽう寒い日だ。昨夕から風がでて波も高くなっていたから、天気はよいが、今日は仕事にアブレそうな予感がした。一助は横浜の波止場で荷役に働く俗に云うカンカン虫であった。

「今日はアブレそうだなア。行くだけムダかも知れねえや」

 目をさまして顔を洗う習慣のない一助、シブシブ起きてグチの一ツも言いながら二三度手足を動かすうちに仕事着に着終っている簡易生活。あとは貧しい食膳の前へ坐る以外に手がない。お腹の大きいお加久が彼の坐るのを待って、

「アブレた方が良い口にありつくかも知れないよ。路地を出たとこの塀にハリガミがしてあるってさ。髪の毛のチヂレた大男を一ヶ月六十円で雇うそうだよ」

「バカめ。大男で髪の毛がチヂレているのが、どうした」

「お前の悪口を云ってるんじゃないよ。塀のハリガミにそう書いてあるとさ」

 一助は能登半島の奥で生れた。江戸時代には能登相撲という言葉があって、能登の国には大男が多く、腕の力が特に強いと云われていた。身長に比して腕が長い。相撲に適した体躯の人が能登人に多いと云われていたのである。

 一助は五尺七寸余。当時は一般に日本人の身長が低かったから、今なら六尺の大男ほど目立っていた。同じ村から能登嵐という明治初年に前頭四五枚目までとったのが引退して相撲の親方をやっていた。これが帰郷の折一助に目をつけて、相撲になれとすすめたが、弱気の一助はとても関取などにはと断っていた。

 ところがその後ふとしたことで村の若者と口論のあげく、相手の鎌で左の小指とクスリ指を根元から斬り落されたが、その代り相手の腹を蹴倒して生涯不治の半病人にしてしまった。そのために、村に居るのもイヤになったが、発奮もした。

「いッそ、江戸へでて相撲になろう。オレは術を知らないからダメだと思っていたが、あの喧嘩ッ早い野郎を蹴倒して半病人にしたところをみると、見どころがあるのだろう。まだ二十二だ。天下の横綱になれるかも知れねえ」

 そこで夜逃げ同然村をでて、東京へ行き、親方にたのんだところが、

「このバカヤロー。指の満足のうちになぜ来ないだ。指が一本なければ手の力は半分もはいりやしねえ。二本もなければ相撲とりにはカタワ同然だ。帰れ、帰れ」

 とケンもホロロに追い返えされてしまった。今さら帰国もできないから、人のすすめるままに、立ちん坊まがいの仕事をつづけて、カンカン虫に落ちつき、女房をもらって横浜の貧民窟に住みついた。

 この一助、生れつき髪の毛が大そうチヂレていた。一本一本コクメイにより合わせたようにチヂレている。村に居るうちは、他にも似たようなチヂレ毛の持主が居るから、特に注意もひかなかったが、上京以来は、どこへ行っても髪の毛のことを云われる。

 ひところは食うものをつめて床屋へ行って坊主頭にしてもらったが、女房を貰ってからは、食う方も元々満足にはいかないから、当節では覚悟をきめてチヂレ髪にハチマキしめて大ッぴらにやってる。けれども、これを人に云われると、不キゲンになってしまう。

 食事を終りかけたところへ、

「おうッ。カラッ風のせいか、めっぽう冷えこむなア。朝メシはまだか」

 と誘いにきた同じ長屋のカンカン虫。一しょに外へでると、

「お前に耳よりな口があるそうじゃないか。人間万事、人の持たない物を持つ方がいいらしいや。オッ。このハリガミだな」

 と立ち止ってはみたが、この字の読める者がない。むろん一助も読めないのである。

 ところが、カンカン虫の溜りへ行くと、どうやら横浜の諸方にこのハリガミがあるらしく、溜りの近所にもあるという。字の読める者も二三いて、

「なア。一助。このハリガミだぜ。頭髪のチヂレたる人入用。大男ほどよろし、とある。手金十円、後払い五十円。地方巡業一ヶ月の予定。日本壮士大芝居。ハハア。政治芝居の悪役かなア。一助に似合いの口だ。行ってみねえ」

 どこへ行っても、寄るとさわると、ゴウバラな話である。

 けれども、一助の予感の通り、その日の仕事にアブレたから、ママヨ、と考えた。とにかく、たった一月の巡業で六十円とは大そうな話だ。手金十円くれるというから、だまされても月に十円ならカンカン虫よりも悪くはない。

 そこで字の読める男から募集者の所番地をきいて、本牧のチャブ屋街の中にあるTエンドK兄弟商会別館というのを訪ねて行った。

 朝のおそいこの街はまだ半分眠りの中だが、めざす商会別館はさすがに開店している。西洋の酒や食べ物を商う店らしい。赤いワシ鼻のたれた西洋人の男が店の掃除をしている。

 一助が来意をつげると、西洋人はジロジロと上下に彼を眺めていたが、チヂレた髪の毛を見ると納得したらしく、彼を店の裏へつれて行った。裏口をはいって廊下をまがり扉をひらくと、階段が現れた。そこを登ると、屋根から光がもれるほかには窓のない暗い小部屋があった。

 ワシ鼻の西洋人は一助をそこへ待たせて扉の向う側へ姿を消した。やがて現れたのは、一助がまだ見たことのないフシギな外国人であった。ところが、このフシギな外国人は日本語をいくらか知っていた。無言でここまで案内した男とちがって、いきなり聞き覚えのある言葉で話しかけられたので、一助は面くらって、すくんだほどであった。男は一助をイスにかけさせて、

「アナタ、ステキデス」

 満足そうにうなずいてこう云うと、ポケットから日本の札タバをつかみだして、一枚の十円札をテーブルの上へのせ一助の方へ押しだした。

 それから一ヶ月半すぎた。

 お加久は一助が居なくなって五日目に、一助から手紙をもらった。達筆な代筆で一ヶ月後に帰るとあり、十円同封してあった。ところが一月すぎても一助は帰らない。お腹の子はそろそろ生れそうになるし、お加久は心配でたまらなくなって、長屋の人々に相談し、警察へ届けでた。

 そこで警察からTエンドK商会の本牧別館へ問い合せると、そのような日本人に心当りはないし、第一ここには西洋人が住んでるだけで、日本人が泊っていたこともなく、壮士芝居にも心当りがない。また、そのようなハリガミを出した覚えもない。という返事であった。まことに、そうであろう。西洋人の経営する食料品店TエンドK商会が日本の壮士芝居の俳優を募集する筈はない。そのハリガミが事実としても誰かのイタズラであることは明かなようだ。

 そして、そのようなハリガミをたしかに見たという人もあったが、また、そのハリガミを見て募集に応じたチヂレ毛の男もあって、

「そんなハリガミをした覚えがない」

 とTエンドK商会の西洋人に断られてスゴスゴ帰ったという証人も現れた。そして一助の失踪はウヤムヤになってしまったのである。


          


 克子は結婚して十七日目に、兄の大伴宗久が病に倒れたという報せをうけた。予感していたことが、やっぱり、と、克子は胸を痛め、良人おっと宇佐美通太郎と共に馬車を急がせて、広大な大伴邸へのりつけたときには、叔父の大伴晴高が小村医師と共に兄の隣室にションボリしていただけであった。

「お兄様の御容体は?」

 克子がせきこんで尋ねるのを、晴高は手で制して、

「静かに。静かに」

 なすところを失うほど困惑しきっている様子であった。

「そんなにお悪いのですか」

「生命の危険はとにかくとして、カンがたかぶっているのでなア」

「お姉様がつきそってらッしゃるのですか」

「イヤ、イヤ。誰もつきそっておらぬのじゃ。つきそうと、カンがたかぶる。ただ、克子に会いたいと云われるので、そなただけが、あるいはと思うて。ま、かいつまんで御容体をお話し致すから、おかけなさい」

 克子を椅子にかけさせて、叔父は小村医師の顔を見ては助言をもとめながら、だいたいの経過を語ってきかせた。

 宗久が発作を起して倒れたのは、克子が結婚して六日目にも、一度あった。そのとき宗久はウワゴトの中で、

「そこにいるのは、誰だ!」

 時々あらぬ方を見て、そう叫びだしたが、そこには誰も居らず、常に何か夢に脅やかされているようであった。

 二日ほどで発作は落着いた。その後、シノブ夫人が附ききりで、書斎と居間と寝室以外に出ることがなかった。

 しかるに、昨夕以来にわかに発作が起り、前回とちがって、今回は狂暴であった。彼は日本刀を握り、シノブ夫人に心中を追って、逃げるを追いかけ、とめに入る侍女や使用人の男たちをも一様に斬り殺しかねなかった。

 シノブ夫人の父、須和康人、また大伴家歴代の家老の家柄で今もって大伴家の相談役についている久世喜善、及び叔父晴高が参集して主治医小村とともにいろいろの策を試みたが、いくらかでも静かに言葉を交す気持になるのは、叔父晴高に対してだけで、それも長くは続かなかった。

「お前は大伴晴高ではあるまい」

 十分間ぐらい静かに話しているうちに、宗久はモックと頭をもたげて、狂暴な目を光らせて、こう叫びはじめた。今にも刀を握って斬りかかりそうに見えるのである。

「これは異なことを言われる。よくこの顔を見なさるがよい。まさか私の顔を見忘れは致されまい」

「黙れ! 顔だけで信用はできぬ。貴様は須和康人であろう」

「顔だけで信用ができなくては、さて、さて、私もまことに困却いたすのう。それでは何をもって証明いたしたら納得なさるかの」

 晴高にこう云われると、宗久もさすがに考えこみ、やがてひどい落胆が顔に黒々と表れて黙りこむこともあったし、時にはフッと何か考えついたらしく、やにわに鎌首をもたげて、

「ウヌ。刀で斬ってみれば、わかる。須和と久世と貴様と、三人、そこへ並べ。ハラワタを突き破って正体を見届けてやる」

 いきなり起き上って刀をぬいて斬りかかってくる。こうして、晴高すらも刀で追いまわされてしまうのである。宗久の衰弱は甚しいし、根が生れつき虚弱のところへ、学問に凝って、ほとんど書斎を出たことがないから、いかにも身の動きがおそく、宗久に追いまくられても、アワヤの思いをみることは先ず女でもめったになかった。けれども家人一様に抜き身をブラさげた宗久に追いまくられる運命をまぬがれない。

 要するに、宗久は誰も信用しないのである。女を見れば、シノブ夫人も侍女たちも見分けがつかず、男を見れば、貴様はその本人ではあるまいと叫んで、いっかな信用しなくなるのであった。

 ただ妹の克子を思いだして時々フッと会いたくなるらしく、

「克子をよべ。はやく、よべ。あいつだけはまだ、信用ができるはずだ」

 こう叫んだ。けれどもその言葉のように自分でも思いこもうと努める気分になるらしく、次第にあまり力のこもらない呟きになるのであった。

 晴高はこう語り終って、克子よりもむしろ宇佐美通太郎を見て苦笑しながら、

「そのようなわけで、病状が特別だから、御新婚のあなた方にお伝え致すのを躊躇しておったが、今となっては克子の心づくしの看病だけが頼みの綱。兄上の心を静めるように皆の者に代ってつとめていただきたい」

 叔父の顔は困りきっていた。

 そこへ扉をあけ跫音あしおとを忍ばせながら姿を現したのは、シノブ夫人と、その父須和康人に久世喜善であった。彼らは抜き身に追いまくられ疲れ果て別室でやすみ、いま目をさまして来たのであろう。

 この三名を見ると、克子はなんとなく悪感おかんを覚えた。とは云え、二人の男は立派な大紳士である。須和康人は鉱山業者で大金満家。久世喜善は大伴家の家臣ながらも最高重臣の相談役、克子とても礼を失って対することはできない。一同鄭重ていちょうに礼を交してのち、喜善は克子に向って苦笑しつつ、

「さて、克子さま。まことに大役で恐縮ですが、兄上様の御心を静めていただきとう存じます。すでに、令夫人も、小村医師も、我々もサジを投げておりますので、克子さまの手にあまる場合には最悪の事態に至りますのでなア」

「最悪と申しますと?」

「まことに申上げにくいが、兄上様がかように刀をとって暴れられては致し方ございませぬ。精神病の医師に見せて、場合によってはカンキンも致さねばなりませぬ」

 克子は全身の感覚を失うように思った。ようやく我にかえったが、混乱はうちつづくばかりであった。怖しいことだ。兄が精神病院へ入院すれば、兄に弟も子もない大伴家はどうなるだろう?

 いま、自分に課せられていることは、なんと重大な、また残酷なことであろうか。死せる父よ母よ。兄とわが身の上に宿りたまえ。つつがなく当家を守護したまえ。

「では……」

 克子は思い決して一礼し、しッかと力をこめて、兄の部屋の扉に向って進んだ。


          


 病床の兄はねむっていた。起してはなるまいと思い、跫音を殺して、ようやく枕元の椅子にたどりついて腰を下して、さて途方にくれた。

「なんておやつれになったのだろう」

 思わず溜息がもれた。婚礼の三日あと、良人とともに挨拶にきたときは、こんなにやつれた兄ではなかった。それからわずか十数日で、頬の肉はゲッソリ落ちて、手は骨だけのように小さく細くなっているではないか。

 克子は兄の寝顔を見つめて、悪夢を見つつある思い。どれぐらい坐っていたか、それも判じがたいような悲しさであった。せいぜい三十分ぐらいのものであったらしい。兄は目をさました。兄の目が克子を見つめてまだいぶかっているうちに、

「克子です。御気分はいかがですか」

 顔をよせてニッコリ笑いかけると、宗久はジッとみつめて、うなずいて、

「克子か。そうか、会いたかった。ここは、どこだ?」

「ここはお兄様のお部屋です」

 宗久は何か寝床の中を手さぐりしていたが、首をふって、

「ウソだろう」

「ほら、あたりをごらんなさいませ。いつもと同じお部屋よ。天井も、寝台も、壁も」

 宗久の目はやや光った。

「バカな。同じ物はいくつもあるのだ。同じ部屋をつくるぐらいはワケがないことだ。オレが抱いてねたはずの刀がどこにもないではないか」

 克子はハッとした。静かに立ち上り、フトンの中をたしかめ、寝台の下や四囲を改めたが、見当らなかった。すでに叔父たちが取りあげて隠したのだろう。それはすぐに思い当ったが、それをどのように説明すべきか、克子は時間をかせぐために空しく探していたのである。

 克子は椅子にかけて兄の手をとり、

「お兄さま。どうして刀などが御入用なのでしょうか。そのワケを克子に教えて下さいませ」

「ここにはお前のほかに誰もいないね」

「おりません」

 宗久は目をとじた。総てがメンドウくさいのか、自分で何か確かめる様子も表わさない。さればとて、さッきの疑念が納得できた様子もない。彼は甚しくものうそうに目をとじたまま、

「オレはお前だけ信じているよ。こうして目を閉じていると、お前が見えなくなる。けれども、そこにいるのは克子だと思うことができる。何も見えなく、信じることができるほど静かなことはないなア」

「それはどのような意味なの? そのワケを教えて下さい。お兄さま。何か御心配がおありではございませんか。克子がお役に立ちますなら、どのようなことも云いつけていただきとうございます」

「まア、まて。いそいでも、なかなか分るものではない。オレにもオレのことすらも分らない時がある。信じられない時がある。三位一体という言葉があるが、あの本当のワケはどうやら分りかけたのかも知れぬ。人間は三人ずつ一組の人間らしい。一人の人間が三ツの顔と体をもっているらしい」

 ああ、兄上はやっぱり狂ってらッしゃるのか。イヤ、イヤ。私がそう信じては最後ではないか。何か意味がある。それを判ってあげなければならないのが私の役目ではないか。克子は必死に悲しさをこらえた。

 宗久のウワ言のような言葉はつづいた。

「しかし、オレは一人しかない。そして、克子も一人しかいない。この部屋には、オレが一人、お前が一人しかいない。そして、一人しかいない人間は正しく、信じるに足る」

「人間は誰でも一人ずつですわ」

「そうではないよ。心のネジくれた人間は、心は一ツだが、顔も体も別々にいくつもあるものだ。ちょうど虫のようなものだ。虫は何百匹の同類も一ツのものと変りがない。さすがに人間は、何百ということはないが、一人が三人の顔と体をもっている」

「たとえば、どなたが、そうでしょうか」

「克子よ。お前の目にはまだ分るまい。たとえば、大伴晴高と須和康人と久世喜善が実は一人の人間だ。そして……」

 宗久はやゝ口ごもった。そして、やゝ言いかねる様子であった。心の傷がそこにあるかも知れないと思われるような苦しさが、うかがわれた。

 しかし、宗久は何事もないような顔つきにもどって、

「シノブも一人ではないのだ。ほかに二人のシノブがいる。カヨと、キミが、シノブなのだ。誰にも分るまいが、仕方のないことだ。お前には分らせたいが、まだ、分るまい。だが克子よ。お前だけはオレの言葉を信じてもらいたいものだ。ここに附き添っていてくれると、今に分る時がくるだろう。いつまでもここに居てくれ。オレが眠っている間も、ここを動いてくれるな。オレはお前だけしか信じることができないのだから……」

 こう呟いているうちに、宗久はねこんでしまった。その寝額は、さっきに比べて、たしかに安らかなようだった。

 三人の男が一人の男。三人の女が一人の女。それは、どういう意味だろう。考えただけではとても分りそうなことではなかった。

 しかし、三人の女は一人のシノブだと云ったが、三人の男は一人の誰だろう?

 シノブは、美しく、社交家で、明るかった。彼女がアニヨメとして克子の前に現れたときには、すくなからぬ敬意をいだいたものである。しかし兄の生活は、結婚後、むしろいけないようであった。明るく、美しく、利巧なアニヨメの力でも、兄の性格的な暗さはどうにもならないのであろうか。

 しかし、兄の新婚後、二ヶ月足らずで克子もお嫁に行ったから、兄夫婦の生活の内部のことは深く立ち入って知る機会がなかった。

 克子がアニヨメのことで、思いがけない噂をきいたのは、結婚後のことであった。それをきかせてくれたのは、良人通太郎であった。通太郎の先輩で、海外の視察から戻ってきた八住という若い手腕家が、通太郎の花嫁が克子であると知って、こう語ったそうだ。

「たしか君の新夫人の兄上大伴宗久氏は須和康人の娘シノブさんをめとっておられると思う。私はこのシノブさん父子にはロンドンでお目にかかったことがある。昨年の春ごろのことだから、もう一年半の昔になるが、当時シノブさん父子には影の形にそう如くに常に一人の青年が一しょであった。外務省の俊英で、久世隆光という前途有望な外交官だ。こう云えば御存知であろうが、大伴家の重臣、久世喜善の長子がこの隆光です。須和康人は鉱山業の視察のために娘をつれて渡欧したのだそうだが、ちょうど休暇中の久世隆光が通訳がてら案内に立ってやったというのも、シノブさんの色香にひかれてのことだというが、須和が娘をつれて外遊したのも、娘の色香でいろいろの便宜を当てにしての算用らしいな。とにかく、隆光君とシノブさんとの交情は我々在欧の岡焼き連のセンボーの的であったよ。シノブさんは昨年の暮に帰国した。と、隆光君も今春、外国勤務をとかれて帰国した。上官に頼みこんで内地勤務にしてもらったのだそうだが、シノブさんの後を追って帰国したい一心からだという専らの評判だった。ところが、このたび私が帰朝しておどろいた。シノブさんはこの初秋に大伴宗久氏と結婚したではないか。表てむきの媒的人は某公爵だが、内輪の取り持ちは久世隆光の父、喜善だというではないか。息子に因果を含めるために帰朝させたと考えても妙な話。大伴家といえば、南国の大藩の宗家。その富は莫大であり、しかも注目すべきことには、大伴家所領の山々こそは日本最大の地下資源の眠るところ。あまつさえ、山師や事業家の暗躍をシリメに、当主大伴宗久どのは書斎の中で居眠り同然の読書にふけって、血まなこの山師事業家どもを全然そばへ寄せつけない。ところで、累代の家老筋たる重臣が主家のために特に取りきめた縁組にしては妙ではないか。世に金権結婚と称する通り、華族が金持と縁を結ぶことはある。なるほど須和康人は金持には相違ないが、大伴家は華族ながらも特別の大金持ち、須和康人の富も遠く及ぶところではない。金権結婚と云いたいが、これでは話がアベコベだ。大伴家累代の重臣が縁組をすすめるならば、五摂家の姫君などが、いかにも然るべきところであろう。このへんの話がまことに奇怪で、アベコベだとは思わないかね」

 宇佐美通太郎は小大名の子息であるが、バカ殿様の生活が生れつき性に合わないスネ者で、大洋にあこがれ、航海にあこがれていた。そこで造船術を学んだが、かく決意したときから、家督は弟にゆずる覚悟であった。そして、克子を迎えたときは目的通り、すでに一介の造船技師として、また航海技術研究家として、ただの市民になっていた。先輩は話をつづけて、

「なア。宇佐美君。貴公は世間の噂を御存知か。久世喜善が克子さんを貴公の嫁御に選んだのは、貴公が大名の嫡流のくせに、名誉も金もいらぬという、妙な気骨のあるところが気に入ったせいだと云うぜ。まったく、当節カネや太鼓で探してもオイソレとは見当らない妙な気骨だて。妹の嫁入費用で当主の財産を減らしたくない家老のメガネにかなうのは尤も千万だ。若年ながらも、すでに造船航海術の英才。それ以下におちぶれることはなかろうし、おちぶれても嫁の実家の財産を目当てにするような貴公ではない。久世喜善は目が高いというもっぱらの大評判だぜ」

 まったく、世事にはうとい通太郎であった。八住にこう云われてみると、それまでなんの気なしに聞き流していた人の言葉に二三思い当ることがある。また、その後も同じような噂をチョイ〳〵耳にしたが、今度は下地ができているから、人々の遠まわしの言い方もよく意味が分る。なるほど。義兄やオレの結婚について、世間ではそんな噂があるのか、と思い当った。そこでこの話を克子にきかせた。

 克子もむろん初耳であった。深窓の娘にそんな噂はとどかなかったし、兄の結婚についても、シノブを一目見て舌をまいて敬服した克子であった。西洋で智徳をみがいた天下の大令嬢と身辺の者どもが噂するのをきき知っていたから、その実物のまさにさもありぬべきキラビヤカな立居振舞を見ては、さすがに大したものよと舌をまくばかりで、その他のことは考える余地もなかった。生れつき虚弱で、社交ぎらいで、ただ書斎の虫のような兄にはちょッとツリアイがとれないようなヒケメさえ感じたほどであった。

 しかし、大藩の当主としては陰鬱で風采の上らぬ宗久であったが、その学識は彼を知る者の絶讃せざるなき有様で、学問は名も金もいらぬ者にしてはじめて深く正しかるべし。これを大伴宗久に見るべし、と友人逍遥が言ったという。彼は古代の史実や風俗等について宗久に教えを乞うていたそうだ。奇しくも宗久と通太郎とが、名も金もいらないという同じ鑑定を得ていたのである。

 結婚前の宗久は単に書斎の虫であった。明るいところはなかったが、静かで落着いた毎日であった。

 ところが、新婚後の宗久は、昔ながらの書斎の生活が次第に乱れているようだった。結婚前には明るくはないが、自然で、安静なものに見えたのに、今では何かのために苦しみ、何かを遁れたいような苛立たしいカゲリや、いたましい暗さがあった。

 もともと克子の部屋は宗久の書斎から遠く離れていたが、彼の結婚までは気の向いたとき兄の部屋へ自由に出入できたのである。しかし、新婚後は、自由に出入もできない。別に禁ぜられたわけではないが、兄の書斎の隣室も、寝室の隣室も、その他の多くの部屋部屋がシノブの居間や化粧間や応接間や寝室などに飾り代えられ、それにつづいてキミ子にカヨ子という二人の侍女の部屋があった。この侍女は宗久とシノブの二人につきそって身の廻りの世話をやき、その下にスミという小間使いがいる。それだけで宗久の一家族が構成され、まるでシノブや侍女にさえぎられて、克子はその奥へ気楽に踏みこみがたい感があった。次第にそこが他人の家になったように思われた。

 その彼方の一劃には、いつも女たちの明るい笑声がわきたち、音楽がかなでられ、訪なう客も絶えるとき少く、食卓は常に賑やかで長時間であった。

 克子は夕食の時だけその食卓につらなった。他の食事は時間が違っていたし、夕食としても克子の時間にはおそすぎたが、強いてそれに合わせるように努めていたのである。

 けれども女主人や侍女たちや訪客たちの明るい笑声の蔭に男主人の姿だけがだんだん暗く悲しく苦しげなカゲリを深め、いつも何かを逃げるような、逃げたいような哀れさの深まるのを見るにつけ、克子はそれを見る苦しさにも堪えがたかったし、それでなくとも、あまりに長くつづきすぎる談笑について行けなくなるのであった。

「私がヒガンでいるせいかしら」

 と克子は反省してみた。しかし、毎夜の食卓に、いつも他人が二人いる。それが宗久と克子の兄妹だ。大伴家の家風も、兄の生活の流儀もそこにはなく、当家の者が、己れの家の生活からハミだしてしまうというのが有って良いことであろうか。

 もっとも、克子も一度は別に考えたこともあった。シノブの明るい生活流儀をはじめて見たとき、

「これが本当の生活だわ。いまにお兄さまも明るく幸福になるでしょう。利巧なお姉さまがきッとそうして下さるでしょう」

 と考えた。けれども兄が同化する風がないので、一度は兄がいけないのだ、と思ったこともあった。

 けれども女主人や侍女たちは兄を同化させようと努める風がなく、その離れるにまかせているだけではないか。

「むしろ突き放しているようだ」

 と克子は思った。そして自分も次第について行けなくなり、頭が痛いとか、用があるとか口実をもうけて、自然に自分も女主人の食卓から遠ざかってしまった。もっとも、克子は己れの婚礼の準備に多忙でもあった。

 彼女が生家に別れを告げるとき、兄の生活はこのように暗くいたましかった。

「可哀そうなお兄さま。私が立ち去ると、ひとりぽっちだけど、私が居ても、もはや、どうにもならない」

 それが生家を立つときの克子の思いであった。別れる生家は実に暗かった。だが、新家庭には希望をもつことができた。そのために、いっそ兄の将来について暗く悲しく思いふけり、悪い予感をもったのである。

 克子は良人からシノブと久世隆光の噂をきいたとき、まさかと思った。久世隆光は時々女主人の食卓にまねかれていた。才気煥発の談論と、一座の空気とピッタリした親しさ。けれどもそれは久世隆光に限ったことではない。除け者の兄のほかの総ての者がただ一様に一座の空気に親しいものに見えただけのことだ。そのころの克子の目はまだおさなかったのだ。悲しさに曇ってもいた。

「果して兄はこのようになってしまった」

 兄の病みつかれた寝顔を見つめて、克子の胸にはただ苦しくて、救いがたい暗い思いの数々が溢れでてやまなかった。

「なぜ兄はこうなったか? どのようにすれば、失われた心の安静をとりもどしてあげられるのだろう?」

 その目当ては一ツもない。だが、たった一ツ確かなことは、その適任者は地上にただ自分一人しか居ないこと。他の総ての者が自分ほどひたむきに兄の身を思いはしない、ということのみであった。

 そのとき宗久が、ふと目をひらいた。長く克子を見つめていたが、

「お前は誰だ?」

 本当に怪しんでいる声である。ねむる前の兄の言葉がまだナマナマしく耳についている克子はビックリして、

「私です。克子ですわ」

「いつ、来たのだ?」

「私と話を交してから一ねむりなさったばかり。お目がさめたばかりで頭がハッキリなさらないのでしょう。たった四五十分前のことですのに。私に、いつまでもここに居なさい、と仰有おっしゃったではありませんか」

 宗久は思いだしたようである。けれども、どの程度に思いだしたか、怪しいものであった。宗久は真剣に考えている様子だったが、

「お前は結婚したと思うが、たしか、そうであったな」

「ええ。結婚しました。なんてむごたらしいことを仰有るのですか。たしか結婚した筈だろうなんて。克子のことは、他人の出来事のようにしか頭にとめてらッしゃらないのね」

「イヤ、イヤ。それを咎めてくれるな。オレが総ての物を疑らねばならないのは、誰よりもオレ自身にとって、これほど苦痛なことはないのだからなア。ところで、お前は誰と結婚したのだっけな」

「宇佐美通太郎です」

「そうか。たしかに、記憶している。お前の良人はどんな人だ。悪い奴だろう?」

「いいえ。お兄さまと同じぐらい、立派で正しい心の持主です。そして、勇気があります」

 宗久はカラカラと空虚な笑声をたてた。

「オレの目をごまかすことはできない。お前はハリガネで松の木に縛りつけられたろう。そして泣いて叫んだろう。オレはそれをきいて行ってやろうと思ったが、足が痛くて、行くことができなかった」

 兄はやっぱり狂っているのか。恐怖を必死に抑える苦しさ。ただ祈るばかりである。すると宗久の語気はケロリと変って、大きな目をあけて克子を探しながら、

「宇佐美通太郎はどこにいる?」

「いま、隣室に来ております。お兄さまの身を案じて、どのようにでもお役に立ちたいと堅い覚悟をいだいております」

「そうか。つれてこい」

 実にケロリと変って、アッサリした言葉であった。


          


 通太郎を連れて戻ると、宗久は自分が命じたことを忘れたように眠りかけていた。二人が到着の挨拶をのべても、二三分は目をあけなかった。ようやく、薄目をあけたが、特に通太郎の方も見ようとはせずに、

「君はオレをどんな人間と思っているか」

「おちかづきが浅いから直接の判断ではありませんが、克子の言葉を通じて、大そう学問好きな、社交ぎらいの方と承知しておりました」

「キミは学問は好きか」

「学ぶことも好きですが、それを自身活用してみたいと思っております」

「大きなことを言うな」

 からかうような言葉であったが、むしろ反対の感情が、何かハッと感動したような表情がうごいた。宗久が、自らそれを意外としたらしく、しかし素直にそれについて考えをくりのべ、また、まとめているようであった。そして険しい目をチラとあけたが、それを閉じて云った。

「通太郎君。君の心は、おごっているぞ。君の目は、人間の多くが、三で一を作っていること。それを見てはおるまい。ヨコシマな者は、一人で三ツの顔と体を持っている。別の名すらも持っておる」

 通太郎はこの意外な言葉に、考えこんで、答えることができなかった。

「なぜ、黙っているか! そこに誰も居らぬのか! 克子は、どうした?」

 宗久は目をつぶったまま、猛りたって、叫んだ。目があかないのだろうか?

「克子はここにおります」

「なぜ、早く、返事をしないのか」

 通太郎がそれに答えて、

「返事ができなかったのです。兄上のお言葉が意外にすぎて理解いたしかねたのです。一人で三ツの顔と体を持った人間が、どこに居るでしょうか。真に有りうるでしょうか。有りうるならば、誰がその人間でありましょうか。それを説明していただかなければ、理解に苦しみます」

 宗久はそれを無表情にきき流して、暫し答えなかったが、相変らず目をとじたままで、

「君はエジプトのナイル河が海へそそぎ、その砂が海の底をわたって、海を距てて積みなしたところ、アラビヤの沙漠の辺にある国の名を知っているか」

 前説明が長くて奇怪であるが、要するにアラビヤの国の名を知っているか、という意味であろう。通太郎は思いつくままに、

「エルサレム」

「オウ!」

 かすかに叫んで、宗久は大きな目をあいた。通太郎をシッカと見つめて、

「エルサレムだと?」

「ちがいましたか」

 宗久は何事かに落胆しきったようだった。そして大切な物をしまいこむように、実にゆるやかに目をとじた。そして、いたましい声で、呟いた。

「お前たちは、しばらく、立ち去ってくれ。オレを一人にしておいてくれ。オレが呼んだらすぐ来ることができるように、隣りの部屋に待っていてくれ。夜も交替に起きて、オレの呼ぶ声をききもらしてはならぬぞ。オレの頭には、いま波がゆれている。それを鎮めるためには、オレは一人で考えてみなければならぬ。早く行け」

 二人は静かに引き返った。

 隣室には、人々が待っていた。

「どのような様子であったね」

 晴高が待ちきれないように問いかけた。他の人々は、宗久が狂暴にならなかったことがむしろフシギな面持のようであった。

 二人は交々こもごも、会談の様子を物語った。朝寝坊のシノブはまだ姿を見せていなかった。しかし、シノブが目をさまして姿を現したことを、物の気配によって、克子は感じた。そして、克子はその方を見た。見返した。しかしシノブの姿はなかった。そこに姿を見せて居たのは、茶菓を運んできたキミ子の姿であった。だが、克子の感覚が狂ったのではなかったのだ。シノブの現れと見た物の気配が、たしかにキミ子の身から発していたのだ。

 それは「黒衣の母の涙」とよぶ独特の香水であった。しかし、コチーのスペシャルというような筋の通った香料ではない。のみならず、非常に高価ではあるが、甚しくインチキな一外国婦人の私製品であった。誇大な広告にも拘らず、一向に広告だけの効能がなくて、一月足らずで夜逃げ同様日本を去ったロッテナム夫人の香水である。彼女が散々の不評に居た堪らず、日本を去ったのは一週間程前の事で、巷を賑わしている話題の一ツであったが、それにまつわる余談の一ツとして、今なおロッテナム美人術を信じその香料を身につくる者は大伴シノブ夫人のみなり、呵々、という新聞記事がもてはやされていたのである。

 克子も婚礼前に、シノブ夫人にすすめられて、ロッテナム美人術へムリヤリ連れて行かれた。裸体で寝椅子にねる。いろいろの香料で洗顔し、全身の皮膚を洗い、最後に油をぬってマッサージして黒布で顔を覆い、全身を覆う。器に香料をたいて、これをささげた黒人の男と女が四囲をゆるやかに廻りつつ歩いている。そして香料の燃え絶えた時間の後に黒布をとりのぞき、油を去り、仕上げに薄く化粧して一日の手術を終る。これをくり返すこと五日または七日で全身皮膚なめらかにクレオパトラの如くに冴え、顔のシワを去り、霊水をたたえた如くにスガスガしく顔に精気がこもるという。

 これがロッテナム美人術の広告の要旨である。ところが、高い金を払って五回七回くり返しても、シワがとれるどころか、かえって皮膚があれるばかりである。クレオパトラの玉の肌などとは途方もない大ウソである。たちまち人々に愛想をつかされてしまった。

 このロッテナム夫人の売りつけた香水が「黒衣の母の涙」。はじめは高価を物ともせず、西欧かぶれの淑女貴婦人が争って買いたがったものだ。なにがし公爵夫人が身につけている。なにがし男爵夫人も買いもとめた、と一ツ売れるたびに噂がとんで、世を賑わしたものであった。その流行は十五日か二十日あまり。婚礼がその流行期に当っていたから、克子もシノブにすすめられて、ムリにこの香水を嫁入道具の中へ忍ばせられた程である。

 もとよりシノブは当時からこの香水を愛用していた。しかしそれはシノブだけの話である。侍女のキミ子らがそれを身につけたことはない。一瓶が二百円という驚くべき高価な香料だもの、いかに流行といえ、第一級の金満家の夫人令嬢以外には手のとどかないものであった。当時の二百円は戦前の一万円にも当ろう。今なら何百万円の香水ではないか。

 シノブ愛用の香水を侍女が身につけているのは意外であった。貴婦人はその香水が己れ一人に独特なのを誇るのが常識ではないか。だが、そのような常識論よりも、もっと奇怪な、謎のような暗合があるのだ。

 それは兄が呟いたフシギな言葉、アラビヤの国の名エルサレム、それであった。

 それが単にアラビヤの国名のみならば、まだしもそれに多くこだわることは滑稽かも知れない。兄は長々と呟いたではないか。

「エジプトのナイルの河が海へそそぎ、その砂が海底をわたり、海を距てて積みなしたところ、アラビヤの沙漠の辺……」

 これぞまさにロッテナム美人術の広告中の文章ではないか。兄がロッテナム美人術を知っているとはフシギなことだ。いつも書斎にとじこもり、世事に興味をもたぬ兄が。

「ここに、何かイワレがある……」

 克子は石のように、考えこんでしまった。しかし、どのようなイワレがありうるというのだろう。克子はただの一度だけ訪れたことのあるロッテナム美人術の店内の様子なども思いだした。別に思い当ることはない。ロッテナム夫人は醜女であった。エルサレムの生れというが、当り前の西欧人によく見かける顔とそう変りはない。

 変っているのは、むしろ煙りつつある香料の器をささげて寝椅子のまわりを歩く二人の黒人男女であろう。それはまさに真ッ黒けの逞しく大きな黒人男女であった。

 そう云えば、もう一人、黒人がいた。これも大きな黒人で、やっぱり頭髪がチヂレていたが、これは手術室にははいらない。ただ出入りのお客の世話をやき、扉を開けたてする役であった。そして、この黒人がドアに左手をかけたとき、克子は目にとめて奇妙によく覚えていたが、その左手の指はたった三本しかなかったのである。


          


 その翌日の暮方、克子はやつれ果てて我家へ戻ってきた。生きている人間の顔ではなかった。

 兄の病床を見舞って以来一睡もせぬ克子ではあったが、今朝はこんなにやつれてはいなかった。通太郎も急変にそなえて別室に一夜を明したが、事もなく一夜は明けて、その報告に病室から現れてきた克子の顔は、疲れはあっても明るかったのである。そこで通太郎も安堵して、克子を残して己れは我家へ立ち戻ったのである。

 しかるに短い冬の一日が暮れるまでの時間のうちに、妻は死の国を往復して、ようやく再びこの世へ這い戻ってきたような様子である。あの世を往復した人間にはこの世の挨拶がないのであろう。我家へ立ち戻って良人に再会しても感情すらもないようであるから、さすが沈着の通太郎も、

「まさか兄上の身にもしものことが……」

 と思わず立ち上ると、克子はようやくこの世の風が目にとまったように、良人の胸に顔を埋めてさめざめと泣きくずれてしまった。

「兄上は死にました」

 克子はむせびつつ叫んだ。

「おイノチに別状はありませんが、兄上はもはやこの世のお方ではございません。人々が精神病院の一室へ押しこめてしまったのです。兄上のお姿は再びこの世で見ることができませぬ」

 克子が病床へ駈けつけて以来、次第に常態に復しつつあるかに見えた宗久は、意外にも妹の眼前で精神病院へらっし去られた。彼女が立会人であるかのように。

 その朝、通太郎が辞去するときは、宗久はまどろんでいた。そのかなり安らかな眠りを見すまして、克子ははじめて一夜つめきった兄の枕頭をはなれて、待ちかねていた一同に好転しつつあるやに見える一夜の経過を報告した。目をさますたび、昼夜にかかわりなく起りがちだった病人の発作は、その一夜中起らなかった。

 克子が兄の病床へ駈けつけたときは、兄は妹の顔を見ても、その現実と幻想との区別がつかない状態だった。しかるにその一夜のうちに、妹に関する限りは幻想は去り、いつの目覚めにも変りなく枕頭に侍っている妹を見ては、予期したことを確かめて安らぎを覚えるようであった。

「そのへんへフトンをしいて、お前も、もうやすんでは……」

 と云ってくれたりしたが、それはすでに夜更けであることや、克子が夜もすがら枕元にいてくれる約束などを明確に意識している証拠であろう。現実と幻想がダブっていた日中には、五分前の約束も、今の時間も、現実的な知覚がなかったようである。

 一夜あけて、兄は安らかに眠り、克子は希望にみちて枕頭をはなれ、一同にも吉報をつたえた。寝もやらぬ看病の疲れなどはまったく感じられなかった。湧きでてくる明るさだけで心がいっぱいだった。

 むろん人々は喜んだ。その場に居合わせて喜ばない人はいなかった。晴高叔父も、須和康人も、久世喜善も。通太郎は云うまでもない。手持ち不沙汰な徹夜のツキアイなどのできないシノブ夫人は冬の陽差しが真南にまわる頃でないと目がさめないから、その場にはいなかった。しかし彼女の分身のような侍女のキミ子とカヨ子が居合わせて、よろこんでいた。そこで通太郎は安心して、妻に後をまかせて、いったん帰宅したのであった。

 まったく、克子はそのとき、シノブ夫人の分身のような……、と、たしかにそう思ったことを記憶していた。今から思えば、この一つが不吉なツジウラだったのだ。シノブ夫人はこの席にはいない。どうせ、居る筈のない人だ。しかし、その分身のようなキミ子とカヨ子がいる。……

 なぜ、それが、不吉なツジウラなのだろうか?

 克子はそれを茫漠たる思考の中で思いだそうどしていた。

 兄が発作のウワゴトの中で、シノブ夫人と、二人の侍女は三位一体、三人はただ一人の同じ人間だ、とくりかえし叫んだ言葉は忘れる筈はないけれども、それは克子を納得させた言葉ではなかった。むしろ、その言葉によって兄の妄想や悪い病気の方を納得させられ、寒々と悲しい思いをさせられたウツロな言葉だ。

 あのとき彼女が「分身」を感じたのは、ジカに胸に刺しこんできた甚だ現実的な知覚によってであった筈だ。実にハッキリした何かであった筈である。

 実にそれが、その一晩中、彼女には思いだすことができなかったのである。疲れきっていたせいであろうか。それが一晩中思いだせなかったということも、そこにツジウラと似たような何かの宿命があるのかも知れない。


          


 居合わした人々は克子の報告をきいて一様によろこんだ様であった。そして、その後、兄の容態が再び悪い方へ向ったキザシは決して起っていなかったのだ。

 しかるに午後になって、克子は別室の人々に呼びよせられた。別室には人々の物々しい姿があふれて殺気立っているように思えた。

 そこには総ての人が居たように思われた。久世喜善、隆光父子も。須和康人も。シノブも、侍女たちも。叔父晴高も。小村医師も。そして、そのほかにも多くの人々がいた。

 たとえば、大伴家の親族代表とも云うべき某公爵や侯爵など。また、日本の貴族代表とも申すべき某々公爵等の姿までまじっていたのだそうである。

 また、積田、尾山、加奈井、という三名の医学の権威、積田は医学全般の最高権威者であるが、尾山、加奈井は精神病の権威者であるという。その三名が集っていた。そしてその場の中心的な人物は、日本の代表的な大貴族たちではなくて、実はこの三名の医学の権威であったのである。全くそれらの勢威ある侵入者たちは多くの従者をしたがえており、その従者たち単独でもこの客間の卑しからぬ賓客として遇せらるべき人々であったから、それはもう一見しただけでは全く判断のつけがたい、ただ物々しく怖るべき群集であったにすぎない。

 この物々しい群集は、桓武かんむの流れをくみ、南国の一角に千年の王者たりし一貴族の末裔、侯爵大伴宗久の精神鑑定のために突如として侵入したものであった。

 このような大貴族や大博士が事もあろうに大集団をくみ、シサイあって来駕光臨の栄をたまわった以上は、克子が血肉をわけた唯一の妹で、来駕光臨のシサイに対して申立つべき異議を胸に蔵していても、申立てる機会がないのは当然だった。彼女の異議を予期している貴族も博士も従者もいない。この威風堂々たる大訪問を恭々しく迎える当然きわまる附属品の一ツであるという外には克子の姿に意味も存在も認めた者がなかったのである。

 威風みつるが如き大鑑定の現場に於ては、被鑑定人のたった一人の血をわけた妹が人々の蔭に小さく身を隠すようにして見ていることすら、貴族の慣例に反するようなウロンな眼で見られなければならなかった。

 克子のマゴコロの看病によってのみ心の安らぎを得てようやく快方に向いつつあった宗久は、誰かの鬼の手で叩き起されて──それが誰の手であっても、克子以外の手はみんな一様に鬼の手にしか思えなかったが──エンマの庁へひきだされてきた。

「宗久どの。この者はそなたの何者に当るお方でござろうかの」

 こう問いを発したのは晴高叔父であった。ズラリと威儀高らかに控えているエンマたちの前にでて、たッた一人ウロウロしているのは晴高だけであったが、こうタクサンのエンマが居流れている前で誰一人としてうろたえる者の姿が見当らなければ、それこそ地獄絵図の何倍も怖しいものであったろう。なぜなら、それらは本来冷血な鬼の姿ではなくて人間の姿であるし、引きだされた人は彼女のただ一人の兄なのだ。

 この者がそなたの何に当るか、と指さされたところには、白衣の洋装を身につけたシノブ夫人が立っていた。

 女が美しいということは、男のいかなる威畏にも匹敵して劣るところのないものだ。シノブ夫人はエンマの法廷には不案内な外来者のようであったが、たまたま天女が地上へ迷い降りて、ここへ引ッ立てられてきた程度の外来者のようであった。白い裳をひき、一見天女の姿によく似て、まぶしく見えた。

 彼女は晴高が自分を指さしていることも、指さすにつれて自分の良人が自分を見つめているであろうことも、超然として無関心のようだった。たぶん、この外来者は人間の言葉を知らないのだろう。さもなければ、良人の妻たる者を指さして、これはお前の何に当る者だ、という奇怪な訊問の対象にされているのに、超然としていられるものではない。

 克子は見るに忍びぬ兄の姿を必死に追うた。兄は無礼な質問に答を拒むかも知れないが、拒んだところで当然ではないか。しかもたったそれだけで、妻の顔も見分ける能力を失った病人だという悪い判定を下されはしないか。克子はそんなことを考えて、胸を痛めた。

 兄は己れの妻の方を見ていたが、何か屈辱を感じたような複雑なカゲリが走った。しかし、その屈辱の内容については、兄以外の誰にも、むろん克子にも分らない。そして、兄がいま苦しめられている何かが甚しく複雑な何かであるということだけが確信できるだけだった。

 兄は叔父の背後に威圧するように控えている多勢のそして無言のエンマ達を吟味した。

 兄はエンマの誰かに顔見知りが居るだろうか。書斎に閉じこもっているばかりで、華族同士のツキアイなどに出たこともなく形式的な式や賀宴にはたいがい叔父や久世喜善が代理ですましているから、ひょッとすると親族代表のような大殿様の顔なぞも忘れているかも知れない。

 エンマの顔を一ツずつ吟味して兄が何を発見したかはその顔に表れなかったが、兄は何かを会得した如くに素晴らしい顔附をした。そして、その顔附の表した意味は、この人は聡明である、ということだけのように見えた。つまり、この人はエンマたちの威圧に押されもしないし、反抗的に苛立ちもしなかったのだ。そして、それら外部的な事柄にこだわらずに、問われたことに正しく答えれば足りる、と判断したことを表していた。

 これにまさる聡明な判断があるものではない。しかも、問いつめられ、威圧されてそうなったのではなく、自分で静かに吟味して、冷静にだした結論だ。この場に処してかく為しうる人は驚くべき聡明冷静な人であろう。およそ狂人の片鱗だにも見られはしない。

「偉なる人、聖なる人、兄よ」

 克子は叫びたいと思ったほどだ。

 兄は静かに質問に答えた。

「この者は、妻シノブです」

 すこし、からだがふらついていた。それは病臥の果てであるから、当然のことである。そして、声は総ての耳には聴きとれなかったほど低かったが、低声は兄の生れつきのものでもあるし、衰弱によって甚しくもなっていた。他に異状はない。真実を答えれば足りると信じ、そしてただ真実を答えた平静さ。これ以上に聡明な人為ひととなりと品格を表わす例が他にありうるだろうかと克子は感動して見まもったほどであった。

 ところが、意外にも、叔父は同じ物を指して、また、訊ねた。

「あれは、そなたの何者でござるか?」

 しかし、叔父の態度も、もはや慌ててはいないのだ。むしろ怒っているように見えた。

「たぶん、叔父の耳には兄の声がききとれなかったのだろう。あるいは、答を聞きちがえたのかも知れない。モウロクして、お耳が遠くなったのだわ」

 と、克子は考えた。そして、安心して叔父の指さす方を見た。克子は、アッ! と自分の叫んだ声がきこえたような衝動をうけた。シノブ夫人の居た場所にいま立つ人は別人なのだ。侍女キミ子である。シノブの姿は掻き消えた如くに失われていた。

 克子ですらも叫び声を発したかと思うほど驚いたのだから、兄のおどろかぬ筈はなかった。兄は身動きもしなかった。ただ、見つめていた。その顔は克子の方からは見えないが、脂汗がしたたるような苦悶の姿に想像された。

 兄は緩慢な動作で、ハナでもかむように、両手で顔を覆うた。そうするうちに、冷静をとり戻したようだ。そして、それ以上に乱れなかった。兄は顔を上げて、

「この者は、妻の侍女キミ子。しかし、実は妻と同一人間です」

 やや亢奮のせいか、さッきよりも声は高く、ふくらみのある澄んだ声が冷たく張りつめた空気をきりさいて人々の耳に流れこんだ。

 叔父はユックリうなずいて、甥の顔をきびしく見つめていたが、実は落胆しきったように目をふせてしまった。しかし、思い直したのだろう。また、同じ方を指して、

「あれは、そなたの何者でござろう?」

 と、三度、訊ねたのである。

 その瞬間に克子は叔父の指さす物を見るまでもなく、総てを知った。そして、そうか、その実験かと思った。もはや、驚く心をも失ったのだ。しかし、何も知らぬ一座の人々は、三度同一の所を眺め、そこに第三の女を見出して、やや、ざわめきが起った。

 二人の女の姿が消えて、第三の女の姿が現れていたという奇蹟のせいではない。なぜなら、そのことは奇蹟ではなかったから。今までの女の姿が消えて、新しい女の姿が現れるのはフシギではなかった。タネも仕掛もない。その壁際にはカーテンが垂れている。そこから出たり入ったりしているだけのことで、ひそかに人目をくらますためのような奇術的なタクラミはなかった。

 人々のはげしい期待や関心は、さらに第三の女について宗久がいかに答えるであろうか、ということであったろう。

 ところが、人々の興味の高まることとは逆に、宗久は克子と同じように、第三の質問を受けた瞬間に、すべてを予知したようであった。

 宗久は、第三の方を形式的にチラと見たにすぎなかった。そして第二の質問に答えるまでの長い時間を要することもなく、また特に衝撃をうけたような挙動もなく、至って投げやりに答えた。

「あの者も、妻の侍女のひとり、カヨ子と申す者です。しかし、かの者も実は妻と同一人です。妻シノブ、侍女キミ子及びカヨ子、三名の者は、まったくただ一人の人間です」

 その奇妙な答弁を待ちかまえていたらしい人々は、ここに至って緊張を破り、思いのままにザワメキを起した。そのザワメキは人々がすでに全く同一の結論を得て論争の余地もなくなったことによる余裕や安らぎを表していた。今に至るまでの緊張は、結論に至るまでの道程を表したものだ。もはや緊張は無用である。満堂の人々は、他の総ての人が自分と同じ結論を得て同じ心に相違ないと信ずるに足る明々白々な証拠を見出したからであった。

 さすがに叔父の晴高は元気がなかった。その訊問にはカマもなければオトシアナもないけれども、とにかく自分の問いに対する答えによって血をわけた甥が狂人と断定されては、浮いた気持にはなれなかろう。

 晴高は人々のザワメキが静かになるまで浮かない面持で身の持て扱いにこうじ果てているようであったが、満堂のザワメキがおさまると、改めて威儀を張り、

「宗久どの。あれを見られい」

 また、指さした。

 一同はギョッとした。すでに明白な証拠が現れて万人を承服せしめるに足る結論が出たというのに、この上さらに何事が有りうるのだろうか。宗久と血のつながる叔父のことだから、この人の頭もどうかしているのかと人々は思ったほどだ。

 同じ驚きは克子にもあった。彼女も思わずハッとして、叔父の四度指さす方を見たが、そこに彼女が見たものは、別に奇があるとも思われぬもの、単に蛇足にすぎないようなものであった。

 今まで一人ずつ現れていた三名が、今や並んでそこに姿を現しているだけのことである。すでに分りきったことではないか。こんなことを今さらつけたしてどうするつもりか。まさかオペラのフィナーレの手をエンマの庁でも終幕の挨拶に用いているわけでもあるまい。

 他の一同も、今さらなんのこッた、という面持であった。けれども晴高はバカバカしいほど大マジメなもので、

「宗久どの。あれを何と見られる?」

 意外に激しい語気である。

 宗久はすでに人々のザワメキが起ったとき、人々の心中に起った思いを読みとったのであろう。そのザワメキを身に浴びたとたんに、彼は一切の意志したものを投げて、すべての気乗りを失った様子であった。

「オレがいかに真実を語っても、どうせ誰にも分りやしないのだ」

 そう語っているように見えた。

 さッき示したあの聡明な態度、己れの信ずる正しい真実を語れば足りると心に定めた人の落ちついた態度から、このように総てを投げた態度に変るには、たぶん彼の心に、もはや人々に理解してもらうことを諦めた変化が起ったのだろう。

 彼は親の意志によって心にもないことをせざるを得ない子供のように、オツキアイだけの視線を、その方向にふりむけた。と、その瞬間に、この部屋に落雷があったようだった。部屋のマンナカの彼の姿だけがたった一人切り離されて、無音のカミナリに叩かれたように見えた。

 彼は視線をふりむけたところに三人の女の姿を認めたとたんに、その中間の姿勢のところでバネがきれたように停止した。次にカミナリが何かの意志によって冷めたい石の姿にちぢんで行きつつあるように見えた。と、彼の全身は静かにふるえはじめていた。ふるえは次第に高くなる。少しずつ。実に、少しずつ。満潮の静かなキザシが数日後の颱風の怒濤にまで少しずつ少しずつ高まるものを示していると同じような緩慢な過程に見えた。

 ところが、その次の一瞬間に起ったことが、それを注視しつつあった各人によっても、まるで違った物を見たように印象されているのである。なぜなら、思いがけない影が目を掠めて走ったような唐突きわまる一瞬の変化が、アッと思うヒマもなく起って、終っていたからであった。

 克子の目が見たものは、こうであった。その時までの兄の姿勢は、意外きわまる物を見出した人が内心の混乱と争いつつ必死にそれを見まもる時の姿勢のように、あるいは恐怖のあまりそれに飛びかかる寸前の姿勢のように、両手を胸の両脇にシッカとちぢめて小腰をかがめて、そして、ふるえはじめているのであった。と、その一瞬に、胸の両脇にちぢまっていた両手が、そして、ちぢまったままふるえる以外にはどうしようもないように見えていたその両手が、にわかにパッとひらいて各々天の方向に延びきったように思われた。

 それはその両手の手首につけておいた操り人形のヒモを、その一瞬に誰かがヤケに引っぱりあげた結果に起った突然の動作のように見えた。まったくそのような一瞬間のハジカれた動きであった。にわかに両の手がパッとひらいて天へ延びると同時に、それにつれてちぢんでいた両足もいくらかは延びたものか、もしくはいくらか飛びあがったのかも知れない。人々は宗久の手も足も全部の動きを捉えることはとても出来なかったのである。ある一人の人は、柳の枝に飛びつこうとしている絵の中の蛙のような姿が衝撃的に起ったのだと言っているが、克子が見たのもそれに似た人の姿であったかも知れない。それに似た影が一瞬に起って、一瞬のうちに終っていた。そのとき、一瞬の影から発したのか、他の位置の他の物体や人体から発したのか、誰にも正体を捉える術がなかったような一ツの音が、同時に起って、終っていた。その影にも音にも、前ぶれがなくて、後に残った動きも響きもなかったのである。まさしく一瞬の影が唐突に過ぎただけのことであった。

 影は、そこに、倒れていた。大伴宗久は、彼が立ちすくんでいた場所に、今や、ただ倒れていただけであった。

 大博士たちと大貴族たちとによる鑑定人も立会人も、相手の身分を考慮して意見の発表をためらうような考慮もいらなかったが、第一、相談までにも及ばす、各々が目を見合せて総てが一決していたようなものであった。

 侯爵大伴宗久は、その倒れた位置から精神病院の一室へ運び去られてしまったのである。否、彼はその位置に倒れた時から、もう侯爵ではなかったと言うべきかも知れない。否、その瞬間から、人間ですらもなかったかも知れない。そこに倒れていたものは、もはや影にすぎなかった、と言うべきであるかも知れない。

 南国の一角に千年の王者であった大伴家はこの一瞬に亡びたのであろうか。あとに残ったものは、ただ莫大な財宝だけであった。それはシノブの手に帰したものであろうか。


          


 宇佐美通太郎は、妻の語る現実の悲劇を、そして、その悲劇中の一人物の語る言葉を科学者の注意深さで、熱心に耳にとめ、心にとめようと努力していた。けれども俗事は陰険で表裏が非科学的に複雑であるから、いくら注意深くても、世事にうとい科学者の見逃し易い要点があった。その代りには、アベコベに、世事に通じた人々が見逃し易いものを確実に捉える場合もあった。

 また彼は最も世俗的な要点を見逃し易い代りに、いったんそれを発見して心にとめると、その重要さを人一倍理解して、さらに奥を究める能力があった。

 彼は大伴家の莫大な財産について世俗的な関心がなかったから、義兄の風変りな結婚も、その妹と結婚した自分のことすらも、大伴家の財産をめぐる誰かの意図によるものだということを久しく気附かなかったほどである。

 しかし、それに気がついた今日に至って、義兄が廃人として精神病院の一室へ運び去られたこの悲劇の終幕を知ると、この劇の性格や秘められた意図を劇のソモソモの始めから見直して、考え直す必要があるということに彼ほど鋭く心のうごいた者はなかったかも知れない。

 彼は己が妻の観察を信じていた。なぜなら彼女の心が正しい位置におかれていることを彼は確信していたからであった。

 エンマの法廷へひきだされた義兄は、叔父が義姉を指して、あれはそなたの何者に当る人かと無礼な問いを発しても、激するところなく、ただ問われたことに対して正しい返答をすることだけに心をきめた「最も聡明な人のみ示しうる態度」で応じたという。

 義姉の姿が侍女の姿に入れ代ったのを見出したとき、彼の挙動はおどろきを示したが、やがてそのおどろきを圧し鎮めることができた。そして、第二の問いに対しても正しく返答することにのみ心をきめた聡明な人の態度を失うことはなかった。

 侍女の姿はさらに第二の侍女の姿に変っていたが、それを彼が見たときも、聡明な人の態度は失わなかッたのである。彼が第三の問いに答えた時に人々のザワメキが起った。そのザワメキが示している意味に応じて、彼はにわかに総てを投げた人の態度を示したようであったというが、その反応は、三人の女の姿の一人ずつ入れ代っての現れに応じて起ったものではなくて、それに対する自身の信ずる正しい応答を終ってのちに、人々のザワメキに応じて起ったものであった。

「すると、三人の女が、一人ずつ姿を示したときには、義兄は多くの衝撃をうけなかったのだな」

 と、通太郎は心の中に、一ツの事実を確認した。

 義兄の態度が心にうけた激しい衝撃をマザマザと示したのは「三人の女が同時に並んで立っているのを見た」ときからであった。

 ここに、どれだけの差があるのであろうか。三人の姿が一人ずつ現れたことと、三人同時に並んだことに。

 義兄は三人の女は同一の一人である、と信じている。その言葉は、通太郎も自分の耳にたしかに聞いた。義兄は異った三体が同一人物の物であることを信じているのに、信ずる事実を目の前に見て衝撃をうけるイワレは何事によるのであろうか。

 一人ずつ現れた時と、三人同時に現れたときに、他の人々には分らないが義兄にのみはその意味が分り、そして大きな衝撃を与えるイワレをもつ何かの変化が巧妙に施されていたに相違ない。

 しかし、そのような衝撃を加えるものとして、また他の人々には気附かれない変化の上に施されたものとして、どのような事実の存在を考えうるであろうか。

 三人の位置か? 順か? 服装か? 表情か? あるいは義兄の混乱が三人の女の姿を認めたためと見せかけて、実は三人の女のほかに、他の重大な誰かの姿を認めさせたのであろうか。

 通太郎はその疑問を克子に訊きただしたが、それに対して克子は答うべきものを殆ど持ち合せていなかった。彼女の注意は、ひたすら兄を案じる不安の故に、兄の姿の上にのみ主としてそそがれていたからであった。

 彼女はしかし思いだそうと努力してみたが、力がつきて、

「そればかり見ていた筈の兄上のお姿まで、アリアリと順序正しく思いだすことができないほどです。三名の婦人は姉上、キミ、カヨの順に現れて、またその順に一しょに並んで立っていたと思いますが、確かではありません。服装は、キミもカヨも常に客間へ接待にでるときの侍女の服装のままでした。その壁際には他に人の姿が近づいたことはなかったようです。三名の婦人の方は出入の時機をかねて承知のように、自分で時を見はからって厚いカーテンの陰から思い思いに往復していたように思われました。指図をしている者の姿も、打ち合せている様子も、認められませぬ。しかし、カーテンの裏に時機を見て指図していた誰かが居たのかも知れませんが、その者がカーテンの外側に姿を現したことはありませんでした」

「カーテンの陰に誰かが指図していたとすれば、その者は同時刻にカーテンの表の側に居ることはできない筈だが、質問役の晴高叔父上がそれでないのは確実。次に大伴家に深い関係ある人々で、広間に姿の見えた人、見えなかった人を思いだしてごらん」

 克子はこう訊かれたが、叔父のほかには親しい人の姿を法廷で見た覚えはなかった。なぜなら、大貴族や大博士やその従者のみが主要な座を占めており、それだけが甚しく威圧的に目にしむ全部に見えて、その陰にいる誰かについて気を配る余地はなかったからである。しかし、大伴家に縁故の人で、当日来邸していない人は一人もなかったようである。他の時刻や他の部屋では、須和康人も、久世喜善も、隆光も、小村医師も、三太夫の宮内もみんな顔をそろえていた。

 通太郎はあれこれ思いめぐらしたが、

「とにかく誰かが兄上を精神病院へカンキンするタクラミにもとづいて組みたてられた事であるにしても、兄上を救いだすには、兄上が狂者でないという証明をだす以外には手段がない。よろしいかね。この鑑定の場内へひきだされた兄上は、一人ずつ姿を示した婦人が姉上とキミとカヨであることを順に認めて、それが実は同一の人物であるという断定を示したことによって、満堂の人々にほぼ兄上は狂者であるという判断を与えたようだ。兄上が同時に現れた三名を見て気絶されるまでもなく、その時までの鑑定だけでも狂者としてカンキンされる運びになったであろう。ところが……」

 彼はわが妻をやさしく見つめて、

「あなたがその場で兄上のお姿を観察したところによれば、三名の婦人が同一の人間であるというお言葉以外には、この上もなく聡明な人のみが示しうる静かな落ちついた態度で終始せられたという。僕もあなたの観察を正しいものと信じるが、僕自身が兄上の病床をお見舞いした折の観察によっても、三名の婦人が同一人物であるという確信以外には異常を認めることができないように思っている。問題は、三名の婦人が同一人物だという幻想がどうして兄上の頭を占めるに至ったか。僕たちが何を措いても先ず解決しなければならない謎はこのことだね。少しでもこの謎をとく助けになりそうなものを、お互いにみんな思いだしてみようじゃないか」

 克子は思いだすことをみんな良人にうちあけた。病床の兄が突然通太郎にエルサレムの地名を知るかと訊いたとき、

「エジプトのナイルの流れが海にそそぎ、その砂が海底をわたって、海を距てて積みなしたところ、アラビヤの沙漠の辺に……」

 と妙な呪文のような前説明を加えたが、それはロッテナム美人術の広告の文章中のものであること、ロッテナム美人術とはいかなるものであるか、克子は自ら見聞したところを総て良人に説明した。

「兄上は心のよからぬ者は男も女も三位一体だとしきりに三の数にこだわっていらッしゃるようですが、私が妙にハッキリと覚えていることは、ロッテナム美人館のドアボーイの黒ん坊が扉の把手にかける左手の指が、三本指しかなかったことです。小指とクスリ指とがなくなっているのでした。気持のわるい手。私の目にいやらしい蛇のようにハッキリとしみついているのは、そこに謎をとく何かがあるという神様のお告げのようにも思われて……」

 と、こう云って、さすがに克子も顔をあからめたが、良人はそれをさえぎって、

「イヤ、イヤ。羞しがらずに、なんでも思いついていることを言い切らなければいけない。人様に云うと笑われそうな、神様だの先祖のお告げかも知れないと思うようなとりとめもない神秘的な暗示や思いつきなどに、案外にも正しいカンが作用しているかも知れないよ。その方がこの目でシカと見たことよりも時には正しい真相を見破っていることがある」

 こう云って、通太郎は妻をはげました。かくて二人はいろいろの疑問を提出して考え合ったが、宗久の幻想の由来はどうしても見当がつかない。そして二人は多くの疑問を残して寝についたが、その翌朝の目がさめたとき、克子の頭にフッと浮かんだことがあった。

「そうだッけ。ゆうべはあのナゼ? を思いだそうとしても分らなかったのに、それがこれほど単純な事実だったのは、フシギなほどだ。これに関聯したことはみんな思いだしていたのに、このことだけがどうして思いだせなかったのかしら」

 思いだしてみると、バカバカしいほど単純な事実であった。

 克子がゆうべどうしても思いだせなかったことと云うのは、彼女が一夜つきそっていた兄の枕頭をはなれて、別室に待つ人々に、異状なく過ぎた一夜の様子と、むしろ兄は安静を得て快方に向いつつありと判断しうる吉報などを報告にでかけた時のことである。

 その部屋にシノブの姿はなかったが、キミ子とカヨ子はいた、その二人を見た瞬間に克子はシノブの分身を見たと直覚した。何かの事実によってその直覚が起ったことを記憶していたが、いかなる事実によってであるか、それが昨夜はどうしても思いだすことができなかったのである。

 思いだしてみればバカバカしいことである。すぐその隣りに当ることまでは思いだしたり、こねまわしていたのであった。

 キミ子とカヨ子をシノブの分身と直覚したのは、二人ともシノブ夫人御愛用の高価無類のロッテナム夫人の香水「黒衣の母の涙」を身につけていたからだ。

 その何時間か前に、キミ子一人の姿を認めた時にも、この香水の香りに気づいて、甚しく意外な感にうたれていたのだ。この時の意外感は鮮明で、昨夜の克子はこの意外感のテンマツの方は思いだして良人に語っていたのである。そこまで思いだして語っていながら、キミ子と同様、カヨ子もこの香水を身につけているのを認めた時に「分身」を感じた方だけどうして思いだせなかったのだろう。そして克子は、分身の方を直覚したときには、すでに意外の感には打たれずに、シノブの分身という事のみを直覚していたのであった。

「そのときには、直覚的にシノブ夫人の分身としてねえ」

 通太郎は克子の早朝の報告を吟味したのちに、やや顔をかがやかせて、妻の功に敬意を払うような笑みをうかべ、

「あなたのカンは怖しいほど鋭く正しかったのだよ。あなたがキミ子一人から香水の香を認めた時には、ただ甚しく意外に感じただけだったが、それはキミ子一人だったからだ。二度目の時には、キミ子とともにカヨ子も同じ香水を身につけているのを認めた。そのときは意外の感にわずらわされずにシノブさんの分身とだけ直覚したが、なぜならその時には香水を身につける者が三つの数を構成していることを早く認めたからだね。あなたはその三の数の直覚の方を意識の底へとじこめておいて、分身の方だけ直覚した。この分身ということは、兄上をなやましている三つの謎が幻想上に具体的に表れている事実なのだ。あなたはその瞬間に三という数の謎の原則の方を飛躍して、兄上の幻想上の事実の方をわが物として直覚していたのだね」

 通太郎はこう説明したのちに、その顔を益々明るくかがやかせて、

「あなたはこの謎の基本となっている三の数の直覚を飛躍したが、それはあなたが基本的な三の数の問題を、すでに兄上同様に、疑るべからざる当然なものとして問題外にしている理由があってのせいと思われる。こう云えばとて、あなたが兄上同様に三の幻覚を起す因子があるというわけではない。あなたの心の中に、自分ではそれに気がつかないが、兄上が三の数に悩むのは当然だという解決を発見しているせいだ」

 こう云われて驚く克子の顔を、通太郎は嬉しくてたまらぬような笑みをこめて見つめた。そして、断言した。

「あなたはそれに気がつかないが、実はすでに解決のカギを発見して握っているのだよ。あなたはこの分身の直覚に限って思いだすことができなかったが、それはあなたにとってあんまり平凡で当然な事でありすぎる意味があってに相違ない。そして、この直覚が平凡で当然の故に却ってボケた自覚しかなかったと同じように、確信の強さによって却ってゆがめられている他の似たような直覚がないかと云えば、ロッテナム美人館の扉ボーイの指が三本だったという発見がある。あなたはその発見が三の謎をとく神のお告げと見たい気持をもっている。分身の直覚は当然すぎるために思いだせないほどであったが、三本指の方は思いだせないどころか神のお告げと見たいほど曰くありげに思われていつも心にかかっている。一見二ツはアベコベのようだけれども三の数の謎をとく神のお告げと見たいほど曰くありげに思われるということは、実は前者と同じように平凡で当然な真理であると確信したいこと、否、すでに確信していることの証明だ。あんまり当然で思いだせないのも、あんまり当然な真実を衝いているためにいつも気にかかっているのも、結局同じ根から出て一見アベコベをさしているにすぎない。あなたは三の謎をとく大切なカギを握っていながらその自覚を忘れていたから、その自覚を与えるために神のはかりたもうたカラクリが、分身の直覚を忘れるという出来事であったのかも知れぬ」

 そこで通太郎は生き生きと結論を叫んだ。

「さア、我々はこの困難な仕事に自信をもってとりかからなければならないぞ。ロッテナム美人館の黒ん坊の扉ボーイの指が三本であったという発見が、三の謎の秘密を解いているとは、いかなる意味によってであるか。黒ん坊の三本指がいかなる理由や力によって兄上の幻想を支配するに至ったか。この方程式をとくのは困難な仕事のようだが、謎のカギがこの方程式の中に必ず実在していることはすでに確信できるだろう。あなたのマゴコロと、その心の位置の正しさによって、あなたの直観が神のように秘密の真相に迫っていることを僕は信頼できるのだ」

 そこで通太郎は一室に閉じこもったり、克子とともに論じあったりして、一途にこの不可解な三本指の方程式の解明にかかりきったが、いかにして黒ん坊の三本指が宗久の幻想を支配するに至るかは全く雲をつかむのと同じことでしかなかった。

「そうだ。僕が自分の手でいくらいじってみても答をひきだすことはできまい。きくところによれば、結城新十郎という人は紳士探偵と評判のように、名利にうとく、ただ正義を愛するために犯罪を解く人であるという。若年ながら古今東西の学に通じ、推理の天才であるというから、この人に判断をたのむことにしよう。あなたも同道して、見聞の総てを直接物語って判断を仰ぐことにしよう」

 こう約束して新十郎の住所を調べなどして、明日は新十郎を訪問しようという前日、朝食のあとで新聞をよんでいた通太郎は、にわかに顔色を変え、思わず大声で克子をよんだ。

「はやく、来てみたまえ。なんとなくフシギなことが新聞にでているよ」

 そして現れた克子にその記事を示した。それは他の読者にはやや意外なことに思われるだけで、それほど重大な意味があろうとは思われない記事であろう。だから大きく取扱われている記事ではないが、二人にとっては、たしかに見逃せない記事であった。

 隅田川の三囲みめぐり様のあたりの杭にひっかかっていた大男の水死人があった。

 ひきあげて調べてみると、多くのフシギなことが現れてきた。水死人ではなく、背後から拳銃で射殺されたものである。

 ところが着ていた洋服をはいでみると、奇怪なことが現れてきた。死人の露出していた額や手は日本人のような皮膚であるのに、洋服や靴の下では肌の色が黒いのである。しかるに、この肌の黒色も人工的に施されたもので、石鹸をつけてよく洗えば落ちる性質のものであることが次第に判明した。顔や手の色が黒色でなかったのは、死後に水につかっているうちに染めた黒色が落ちたためによるらしかった。だが、肌の色が人工的に染めたものであるにしても、その為に彼が本当は日本人だということが本当にハッキリとはしない。なぜならその髪の毛が甚だしいチヂレ毛であるし、その洋服も日本の洋服店に見かけるものとは相違しているように思われる、という記事であった。

 特に二人にとって見のがせないのは、この記事の終りに当って、「この死人の身許を知るに特別の便宜あり。左手に、小指クスリ指の二本なく、三本指の由なれば、いずれの異国人なりとも真偽を立つるは易しと云えり」

 これを見ては、さすがの通太郎が顔の色を変えたのもムベなるかなと云えよう。通太郎はただちに意を決した如く、

「この記事を見ては明日を待ってはいられない。今日は出社の日だが、特別の用もないようだから、これから急いで結城新十郎さんを訪問して、話をきいていただき、その必要があれば直ちに三本指の死人を掘りだして鑑定していただかなければならない。出発を急ごうではないか」

 二人はにわかに身支度をととのえると、馬車を急がせて神楽坂の新十郎邸へまっしぐらに走った。そして新十郎に対面して、二人が今までに見聞したことを一ツも漏らすことがないようにと注意深く語り終ったのであった。


          


 この出来事の裏に犯罪がありとすれば由々しい大事であるから、新十郎は根掘り葉掘り問いただすことを忘れなかったが、いかんせん二人の観察は時日も浅く、特に陰謀者と目すべき側の動静については、ほとんど個人的なツナガリも観察の機会も持たないのだ。

「お話はよく分りましたが、私がただちに申上げることができるような結論はまだ何一ツありません。だが、とにかく、三本指の変死人がロッテナム夫人の扉ボーイの黒ン坊だった男かどうか、時日のすこしも早いうち、ただ今から確かめに急ぐと致しましょう」

 ただちに馬車にのって警察を訪ね、仮埋葬の死人を見せてもらうと、黒白の相違もあって人相では一切判断できないが、身体の大きさは同じぐらいだし、着ている服はたしかにその黒人の着ていたものに相違ないと云う。

 見たところ、死後に日数を経た死体ではないようだ。杭にかかっていたというが、その状況をよく訊き正してみると、射殺されて水中へ落ちた時に杭にかかったもので、流れてきて杭にかかったものではないようであった。

 昨日の朝の発見であるが、その前夜から夜明けまでのうちに殺されたもののようだ。調査に当った警官が出て来ての直接の答えでは、

「左様ですなア。その辺には血痕も、特別の足跡もありませんし、上流と下流にわたって岸を調査した報告はそろって『現場の跡を発見せず』でありました。一昨夜から昨日までの潮は、満潮が午後十時ごろと午前十時ごろ、干潮が午前四時ごろと夜は五時ごろでした。一昨夜来の水量と潮では、満潮になると杭にかかった死体が外れて流れますが、それは満潮の前後各一時間半ぐらいではないかという、その方面の係の者からの報告がありました。すると、射殺されて落ちた場所で杭にかかったとすれば、一昨夜の満潮が十時ですから、約十一時半以後、発見が朝の八時で、その時はまだ次の満潮が死人を杭から外す時刻になっていません。つまり一昨夜の夜十一時半ごろから、翌朝八時までのうちに射殺されたことになります」

「被害者のポケットや、身につけたもので、特別の物はありませんか」

「何一ツ特別なものはありません」

 変死体の発見された三囲様のあたりは淋しいところで、誰も銃声をきいたと申立てる者がないそうだ。

 警察を辞去すると、新十郎は二人に向って、

「調査は迅速を要します。ロッテナム夫人はお話の様子ではすでに夜逃げ同然行方をくらましたということですが、外国人の来朝や帰国についてはその記録に当る機関があるだろうと思います。それらの調査を終った上で、数日後に結果を御報告いたしましょう」

 と約束して立ち別れた。

 新十郎は外務省を訪ねた。洋行帰りの彼であるからの地でジッコンを重ねた役人もあって、新十郎の知りたい事を調べてもらうには便利であったが、ロッテナム夫人、ならびにその従者の来朝帰国については、それについては当然何かの消息が知りうる筈のところに、ただの一行も記録したものがなく、それについて報告をうけたことも、上司から調査を命じられたこともないという。変名の場合を考えて、似たような婦人を古い記録をはじめコクメイに探してもらったが、まったくそれらしい婦人に就て知ることができなかった。

 そこへ彼の親しい友である宇井という外交官が外国の公館員と長い用談を終えて、ようやく姿を現したが、

「ナニ? ロッテナム夫人? そんなものを筋の通ったことしか知らないお役所で調べたって分るものか。海外に遊学して外国の事情にも通じた天下の名探偵ともあろうものが、イカサマ師の外国人の足跡を外務省へ調べにくるとは大笑いではないか。裏街道の手型はお役所からはでないが、ニセの手型でイカサマ師の外国人が表通りに堂々と営業できるのは日本だけのことではないぜ」

「しかし公爵夫人が手術をうけたり二百円の香水を買ったことが日毎の新聞紙を賑わすに至っても、かね」

「天下の名門婦人が競って店に集るに至れば、益々治外法権さ」

「次第に悪評が立って、イカサマの美人術であることが天下に喧伝された場合には? そして、被害者は天下の名門婦人だが」

 宇井はニッコリ笑って、

「そろそろ退庁の時刻だ。それほどイカサマ美人術師のことが気がかりなら、多少の知識はもらしてもいいが、さて、八百膳で我慢するか。美人術師のことだから、天下の美人の侍る席がよろしかろうが」

 と、二人は笑いつつ外へでて食卓をかこみながら、

「わずかに一ヶ月足らずでお人よしの名門婦人に手ひどい悪評をまねくようでは、全然美人術の素人にきまっていると思わないかね。云うまでもなくロッテナム夫人などというものは、それ以前にも、それ以後にも存在しない名にきまっているな。その名を追うたところでいかなる小さな消息をつかむことも不可能にきまっていよう。アラビヤなどとは使節を交していないから、彼女の責任を負うている外国公館も存在しないぜ」

「店を開く手続きは?」

「君に勘定をもたせるわけは、それだよ。わずかに一ヶ月足らずで貴婦人たちから揃ってヒジ鉄砲を食ったというのは、あんまり馬脚を現すのが早すぎるようだが、その反対に、開店と同時にすでに名流夫人の人気にことごとく投じていた。さすれば開店のアッセンをした者が日本の名流婦人の心を左右する力をそなえた誰かであることが分ろう。その誰かは、三人いる。それは公爵と大臣で、それ以下の身分の人ではないことだけ言っておこう。むろん、すでにお察しの如くにこの三貴人を動かした者が実際に君が知りたい人名であろうが、それはたぶん誰にも知られていないだろう。むろん僕にも分らない。しかし、外国関係のことが職業の我々仲間には、いまもって大きな謎が一ツ残っている。三貴人を動かして開店と同時に名流婦人が法外の値を物ともせずに飛びつくような効果的な後援を貴人直々してくれるには相当の運動資金が必要であろう。貴人の名を後援者につらねることは容易だが、真に効果的な実役を果すことに努めるのはこの人々の習慣的な後援法にはないことだ。それは莫大な運動資金を費したと想像しうるにも拘らず、ロッテナム夫人は一ヶ月足らずのうちに悪評の総攻撃にあって行方をくらました。もっとも、高価きわまる手術費と香水の値段だから、ロッテナム夫人のモウケは一ヶ月でも少なからぬ額であったと想像しうるが、三貴人を動かした人がこれによっていかに益するところがあったか、これが我々の大いなる謎なのさ。ある者はスパイだろうかと疑る。我々外交官は、まずそれを考えるのだ。しかし、これによって益するスパイ行為が有りうるだろうか。まず疑った者も、結局ない、という結論に至らざるを得ないのさ。するとそのほかに何が考えられるだろう? ここまでくるともはや外交官には分らない。あとは君の解く領分だが、それにも拘らず、表面に大看板をかかげ、たしかに何かの目的のために表向きの大役をつとめたのが奇々怪々な外国婦人であったという点で、我々外交官にとっては、今もって関心と謎を忘れることができない。実は内々こッちから名探偵に助け舟をもとめたいほど、なんとなく気がかりな事だったのさ。どうやら、こッちが勘定をもたなければならないような話になったがね」

 宇井はさらにいかにもガッカリしたように、次のような呟きをつけ加えた。

「ねえ、君。開店と同時に日本中の名流婦人のアコガレがその一店に集中するということは、千万人の長屋のオカミさんを動かすよりも難事業かも知れないのだが、このフシギが実際に行われたにも拘らず、この大仕事を企てて実行した人物が誰だか分らない。こんなベラボウなことがあるかねえ。これが本当にスパイ事件なら、我々外交官に外務をまかせる日本の運命は危いものだが、しかし我々の不明のみでもない理由もあるのさ。敵の目的がスパイと分れば我々が蔭の人物をつきとめる目安もつくかも知れないが、ロッテナム夫人を使い、三貴人をうごかして、たった一ヶ月足らずでたちまち馬脚を現したといういろいろの事実の組み合せからは、我々外交官にはどうしても事を謀った人間の目的を知ることができないのだ。そしてそのために、真の陰謀の主を推定する根本的な手がかりを失っているせいだよ」

 これが宇井のギリギリの本音でもあったであろう。外交官の領域では理解しがたいところへ問題の根がのびているらしい。

 しかし、新十郎は非常に感謝して、

「実に甚だ有益なお話だったよ。君が探偵して突きとめた成功談をきいても役に立つことはないらしいが、君が探しあぐねてサジを投じた悲愴なテンマツを偽らずきかせてくれると、おのずから犯人の姿がアリアリと出ているように見えるよ。その犯人の姿が見えないのは、御自分の頭の中の少しずつ寸の足らない推理を総動員して、その渦の中でもみまくられている御当人だけらしいな。実に本日の君は私にとってこの上もない恩人だった。この店の勘定だけでウメアワセがつくとは、ありがたい」

 新十郎がハシャイで、こんな皮肉なことを云うのは、実は皮肉ではなくて、本当に嬉しかった重大なことがあったのだろう。

 新十郎は宇井に別れた足で、さっそく通太郎夫妻を訪問し、

「私はあなた方の御依頼の原因が、バクゼンたる想像から出発しているにすぎないように考え、あんまり乗り気ではなかったのですが、どうして、どうして。もう、あなた方がお前やめてくれと仰有っても、この謎を解かなければ私の気持がおさまりません。それを報告にきました」


          


 ロッテナム美容院はどのようなものであったか、それを新十郎に語りうる克子は、たった一度シノブにつれられて行ったことがあるにすぎない。もっと深く内部の事情に通じているであろう人々は、日本きっての名流中の名流婦人に限られていて、新十郎が対面することもできない人たちばかりであった。新十郎もこれにはホトホト困却した。

 彼はやむなく二週間ほど以前まで、ロッテナム美人館と称していたかなり広大な木造の洋館へ行ってみた。その洋館は芝生で四方をかこまれ、その芝生は鉄のテスリをめぐらしただけで、まるで公園のように道行く人に見晴らしのきく開放的なものであった。およそ秘密くさいところがなかった。

「なるほど、このように明るく開放的なところが、貴婦人の好みにかなったのかも知れない。ロッテナム美人館の玄関先の馬車が彼女のものであることが、道行く人々にそれと理解せられることも、貴婦人たちの好みにかなったかも知れないなア」

 と、名探偵は手のとどかない貴婦人たちの心理について、仕方なしに考えてみたりした。彼は芝生をよぎり、玄関に立って案内を乞うた。実は無人の邸宅だと思っていたのだ。

 ところが意外にも、案内を乞うと、たちまち扉をあけて顔を現した者がある。それはまだ二十四五に見える、上品な、これも貴婦人の一類かと察せられるような婦人であった。新十郎は面くらって、

「どうも失礼いたしました。私はロッテナム美人館のあとを見物に来た物好きなヤジウマですが、つい屋敷をまちがえまして」

 とあやまると、婦人はほほえんで、

「いいえ。ここがロッテナム美人術館のあとにまちがいございません。あなたのような物好きなお客様はひろい東京にもはじめてですが、二週間前と今とでは、同じ物は間どりだけと御承知の上ならば、どうぞ御自由に御見物下さいませ」

 新十郎は喜んだ。そして部屋部屋を一巡したが、ロッテナム美人術という特別な術を施し、そこここに貴婦人がやすみ、またその裸体を横たえたであろうような妖しい現実を今も匂わせているような何物も見出すことはできなかった。

「この広間が手術室だそうですが、ロッテナム夫人が施した特別の部屋の飾りは、窓や寝台に幕をたれ、諸方に鏡を立てた程度の装飾で、ただ寝台のまわりを黒人の男女が香をささげてねり歩くのが何よりの異様なものであったらしいですね。日常の部屋の調度は私がこの部屋へ残して行った今と同じ物を使っていらしたのでしょう」

 新十郎はおどろいて、

「すると、奥様は元々この洋館の居住者でしたか」

「ええ。この洋館をたててまもなく、主人が胸の病いに犯され新しい医学の先生のおすすめで海岸に別荘をたてて移りすむようになりましたので、今年の初夏以来、私が時々上京の折に住む以外には用のない物になりましたのです。ふだんは留守番の老人ひとり居るだけです」

「ではその事情を承知でロッテナム夫人が借用を申込んだのですね」

「懇意な方を介して至って気軽なお話があったのです。何か世間をアッといわせる美人術だとのお話で、どうせ用のない建物ですから、その知人の方もイタズラ半分に申しこみ、私もイタズラ半分の気持でとりきめてしまった約束でした。もっとも私がロッテナム夫人にお貸ししたのは階下だけです。それで充分だとの申込みだったのです」

「そうでしたか。この建物も奇妙なお役に立ったものですなア。まさか、あの大評判で開店した美人術がみるみる不評を重ねてわずかに一ヶ月ほどで立ち退くことになろうとは思わなかったでしょうが、失礼なことをお訊きするようですが、ロッテナム夫人が当家を去るとき、日本では俗に夜逃げと申すような退散ぶりであったとか。世間ではそう申しておりますが」

 婦人は面白そうに笑って、

「ロッテナム夫人の立ち去る姿も、立ち去った時刻も誰も知らなかったと思いますが、もとよりこの地に居る筈のなかった私はそれを存じませぬ。しかし、俗に日本で申すような夜逃げとあらば、そうではなかったと申せましょう。なぜなら、ロッテナム夫人は多額の前金をそっくり置き残して立ち去ったのですから。それは三ヶ月分の家賃ですが、日本の常識のないような多額の家賃を一人ぎめにして、私は前金で受けとりました。むろん知人を介してです。私は今でも二ヶ月ぶんの負債があるようで、人々がロッテナム夫人の退去について夜逃げなどと仰有おっしゃるのを承ると、なんとなく憂鬱になるのです」

「それを知らないために大そう失礼いたしました。なるほど、ロッテナム夫人は金銭上のことではなく、ただ世間の不評に居たたまらなくて立ち去ったのですね」

「そうでしょうか。私が三ヶ月分の前金を受けとりましたように、ロッテナム夫人は元々三月以上はこの土地に住まないツモリと違いましょうか。知人から邸を借りたいと話があった時にも、本当に利き目のある術ではなくて、インチキと承知で世界中を渡り歩き、たまたま繁昌すればその期間だけその地に落ちついているという歴然たる罪人だという話でした。しかし、日本でだまされるのは名流中の名流婦人だけだから、この罪人は無邪気であった申せますし、したがってその罪人の詐術を引き立てるに役立つようなこの洋館を貸してあげる家主の場合は、この上もなく無邪気な罪人に相当するにすぎないであろう。こう仰有る知人の言葉が気に入って、私はこの上もなく無邪気な罪人の家主になることを選びました。私は家賃をいただかなくとも、無邪気な家主の罪を犯す満足に浸るだけですました方がたしかに幸福でしたろう。私はそうするツモリでしたが知人が許さなかったのです。その知人は大そうお金持ですから、他人がみんな気の毒な貧乏人に見えるらしいのです」

「その知人は、もしや大伴シノブ夫人ではございませんか」

「まア、あなたは、どうして。……私はこの方の名を人に語ったことはついぞ一度だってなかったのに」

 と、婦人は顔の色を変えたが、新十郎は彼女のおどろきがたちまち鎮まらざるを得ないような無邪気な様を示して、

「いえ、ただ今のお話中ににわかに思いついたのです。なぜなら、日本中で今もってロッテナム美人術を推賞していらッしゃるのは大伴シノブ夫人だけだということは世間で名高い話ですから。無邪気な罪と仰有る言葉を承るうちに、ロッテナム美人術に関してたぶんどなたよりも無邪気な罪を犯していらッしゃる犯人は大伴シノブ夫人でしょう。あの方が今もってロッテナム美人術を推賞している事実に越すイタズラはあるまいと思いついたからです。貴婦人の総ての方々が悪評を加えていらッしゃるのに、たッた一人推賞して倦むことを知らない情熱は、それが無邪気なウソにきまっていると語っているようなものです。第一、大伴シノブ夫人は天下名代の絶世の美人で、あの方の本来の玉の肌はすでに美人術の推賞を裏切るものです。まして甚しく情熱的にほめすぎることは益々明瞭なウソを自白いたしておるものでしょう」

「御説の通りですわ。あの方がロッテナム夫人を後援したのは、日本中の貴婦人方の玉の肌を荒すのが目的だったかも知れません。生れつきのイタズラ好きなんです。留守番の老人はロッテナム夫人の居住中も特に自分の一室に住むことを許されていたのですが、ときどき大伴夫人の姿を見かけたそうですが──あの方は毎日欠かさず来ていたのです。しかし、手術室で術を受けたことはなく、ロッテナム夫人には貸すことを許さなかった私の二階の寝室でねころんでいたようです。その部屋のカギは私が彼女に貸したのです。ですからロッテナム夫人の莫大な家賃は、実はこの寝室の借り賃なのかも知れません。ですが彼女が術をうけなかったというのはマチガイかも知れませんね。彼女は一般の手術室で他の貴婦人と同様な術はうけませんでしたが、自分ひとりのための寝室の中へ、皆さんの美人術に用いるものの何倍もあるような手術用の寝台を持ちこんで、それを自分だけで使用していた形跡はあったと留守番の老人は申しているのです。ですから、他の人々がうけた施術は玉の肌を荒す目的の美人術でしたが、彼女のうけた施術だけはホンモノの美人術で、彼女の推賞には秘密の真実を白状している本音も含まれているのかも知れません」

「もしもそれが事実でしたら、大伴夫人はさらに益々美しくなる貴重な女神を失ったようなものではございませんか。そして仰有ることが事実ならば、ロッテナム夫人を手放しは致しますまい」

「たしかにそうですわ。あなたは忽ち主要な点にお気づきになるフシギな方ですわね。すると彼女の手術も他の方のと同じようにやっぱり利き目がなかったのでしょう。ですが、他の貴婦人の何倍もある手術用の寝台を使っていたというのですから、慾が深いのね」

 そのとき外出先から戻ってきて、女主人と見なれぬ訪客との立話を小耳にはさんだ留守番の老人が独り言を呟くように口を入れた。

「慾のせいとも言えないねえ。皆さん用の寝台は形は小さくとも美しい飾があって、ふッくらとやわらかい絹フトンつきの寝台だが、大伴さまが二階の寝室へあげるのを手伝ってくれと仰有って、私が三本指の黒ン坊に手をかして二階の寝室まで運びこんだのは上から下まで木でできた箱のような寝台さ。外から見れば棺桶を何倍も大きくしたような薄汚いものだが、美人になりたい一心のために、あの棺桶に寝るという御婦人方の気持ばかりはおどろき入ったものだてなア」

「大伴夫人がその上で美人術をうけているのを見たかね」

「二階の寝室の中のことは、外からは分りやしねえ。私はロッテナム夫人が来てからも、昔通り自分の部屋に住むことだけは許されていたが、私の部屋と台所に自由に出入できるだけで、二階にも手術室にも黒ん坊の部屋の方にも行かれやしない。同じ軒の下に住んではいても、口一ツ利くわけでもなし、お早うを言うでもなし、ツキアイは一切やらず、美人術の連中が通る廊下をこの私は歩くワケにいかねえのだから、同じ軒の下でやってる筈の美人術のことなんぞも道路の方から邸の方を見て通る通行人と同じぐらいしか知りやしねえや。しかし、階下の使用しか許されていないロッテナム夫人が大伴さまの侍女たちと二階の寝室へトントンとでかけることがチョク〳〵あったようだから、大伴さまが特別の美人術をうけていたのはウソではなかろう」

「ロッテナム夫人が立ち去るときには、大伴夫人の個人用の手術台まで持去ったのかね」

「私がそれに気がついた時はなかったようだが、ここに置いとく筈はなかろうよ。他人に使わせたくない特別な物だから、ロッテナム夫人が持ち去らなければ大伴さまが自宅へ持ち去るにきまってらアな」

 新十郎は厚く婦人に礼をのべて辞去したが、その足でただちに通太郎夫妻を訪ねて、

「あなた方は精神病院のお兄様に面会ができるでしょうね」

「それが、まだ医師の許しがでないのです。発作がしずまって、一定の落ちつきを取り戻すまでは、いかなる者にも面会を許すことができないのが精神病院の定めとかで、克子は毎日のように病院へ問い合せを発しているのですが、いまだに吉報はありません」

「そうですか。それでは面会が許されたとき、イの一番にこれをお兄様に示してその返答をたしかめていただきたいのですが」

 と、一枚の紙をとりだして渡した。その紙には、

「貴殿がロッテナム美人館を訪問せられし折に招ぜられたる手術室は、階下なりしや、階上なりしや」

 実に通太郎夫妻にとっては意外千万というほかにない質問がたった一ツ書かれていただけであった。克子は呆れて、

「本当にこんなことを訊ねてもよろしいのでしょうか。兄上がロッテナム美人館へ行ったことがあったとは想像することもできないのですが」

「大伴家では誰にも想像のできないようなことだけが起っているのですよ。ですが、この質問に、もしも私が期待しているような御返事がいただければ、九分九厘までお兄様を鉄の格子の中から救いだすことができるでしょう」

 と、謎のようなことを言い残して、新十郎は消え去った。


          


 それから何日かがすぎて、珍らしく新十郎は虎之介を案内にたてて、氷川の海舟邸を訪ね、他の訪客には遠慮してもらッて、長らく密談にふけっていた。

「コチトラは敗軍の将だから、当節の殿様の権柄けんぺいについては不案内だが、文明開化の御時世とはいえ、無理が通れば道理がひッこむ。いかな明君の治世といえども、道理がみんな通るわけにはいかねえやな。氏族の長を奪うため、または財産横領のために、当主を狂人に仕立てることは大昔から当主をしりぞける陰謀者の甚だ用いた手段だが、大伴宗久が陰謀によって仕立てられた狂者であると分っても、助けることができるとは誰が請合えるものかね。文明開化の余沢なんぞと申しても、陰謀に向って道理を照らす役に立ちやしないものだ。キリストや孔子は何千年の昔から道理を説いていたことを知れば足りるのさ。身分ある者の手によって仕組まれた陰謀に対しては、道理の方が概ね負けると昔から定まったものだ」

 海舟の結論はアッサリしすぎたものだった。虎之介がその結論に不備なのは云うまでもないが、新十郎の顔にはむしろ同感の意がしるされたように思われた。

 虎之介はムカムカして、

「紳士探偵も落ちぶれたなア。斯々然々かくかくしかじかの如くに陰謀によって仕組まれた狂人でござると証拠をあげることができないばかりに、陰謀に対しては道理が負けるものだ、ときめこもうとしているよ。顔に書かれている」

「まったく御説の通りですよ。斯々然々と道理を言葉によって並べることはできますが、嘘といえども言葉の上では道理を立てることができるものです。そして言葉の上だけでは道理も嘘も区別を立てることはできません」

 新十郎は尚も理窟をこねたがる虎之介を制するために、海舟にイトマを告げた。彼が海舟を訪問して、この偉大な人物の見識から聞きただした答えは満足すべきものではないが、いかにも人生の真相に相違ない言葉でもあるから、彼は甚しく憂鬱ながら、その真理は承服せざるを得ないのだった。

 彼が次に力なく訪れたのは通太郎夫妻であった。

「私が今日までに得た調査の結果によると、お兄上が陰謀によって狂者に仕組まれた筋を作ることだけはできたようです。だが、それを説明する前にお断りしておきますが、陰謀の筋を突きとめただけではお兄上を救いだすことがどうやら不可能だったようです。今さらこのように申上げるのは甚だ不満足ですが、いかんとも仕方がありません」

 新十郎はなるべく事務的に説明をきりあげて、明るい爽かな風で胸いっぱいに満したかった。

「奥様が、二人の侍女からシノブ夫人愛用の香水の香りを認めて、分身を直覚されたのは正しかったのです。だが、黒ン坊の三本指には、三の秘密とむすびついた意味はなく、三本指がお兄上の幻想を支配しているような事実もなかったのです。偶然やとわれた黒ン坊役の男が三本指だったのですが、黒ン坊役がすんだのち、秘密をまもるために殺されたのでしょう。さて、二人の侍女はなぜシノブ夫人の香料をつけていたか。その香料によってシノブ夫人の分身であると信ぜしめるため。たしかにそれも一ツの理由でしたでしょう。しかし、なぜお兄上が三人の異る女を同一人と信ずるに至ったか。かかるフシギな幻想を確信せしめるに至った力は、単に香水の如きものから生れる筈はありません。実にメンミツに構成された驚くべき仕掛けがありました。実に驚くべき複雑な仕掛けですが、その仕掛けは地球を半周して材料を揃えたほどの大仕掛けでした。まず、ロッテナム美人術というものが、実にただお兄上を狂人に仕立てる目的のために遥々はるばる日本へよばれてきたものでした」

 聴き手の顔が狐につままれたように無表情になったが、新十郎自身の胸の思いは、捕縛しがたい犯人や悪計を単に見破ったということが無に劣る侘びしさでたまらなかった。

「ロッテナム美人術は開店と同時に日本の貴婦人の関心を最大限に集めることができたほど、恐らく多額な資金を物ともせぬ万全な宣伝と用意のもとに発足しながら、悪評を受けてのち没落に至るまでのダラシない不用意と無力さは、前者の性格からはいかにしても導くことができない性質のものでした。開店の当日にはすでに日本の貴婦人たちの関心を完全にとらえていたという驚くべき充実した用意や実力によれば、すくなくとも貴婦人の魅力を相当の年月にわたって支える用意も実力も当然あるべき筈のものです。前後二ツの性格があまりかけ離れて違っているから、二ツの性格の共通点を見出すことによって、ロッテナム美人術の支配者の性格を知り目的を知ることが誰にもできませんでした。できなかったわけですよ。前後二ツの共通点を探していては分る筈がないのです。そして両者に共通するものが存在しなくて、両者全くかけ離れているという事実の方に、その真実の性格も目的も表されていたのですが、たとえそこまで分りかけた人でも、大伴家の秘密を知らない限りは、ロッテナム美人術の目的を知りうる筈はありません。即ち、ロッテナム美人術は貴婦人の心を完全に握って開店することが必要であった。つまり、開店することだけが目的でした。むしろ目的通りの開店に成功した後は、最も速やかに不評を浴びて没落する方が総てに都合がよかったのかも知れません。そして予定通りの開店に成功しましたが、その目的は何であったかと云えば、シノブ夫人がロッテナム美人術の大愛好者になることが不自然でないこと、その結果としてあらゆる知人をロッテナム美人術に誘い、遂には良人の大伴侯爵をもひそかにロッテナム美人館へ誘いだす目的のためにです。これが本当の目的でした。シノブ夫人は唯一の見物人たる良人の眼前で、美人術の実演をうけるモデル女として寝台の上に横たわりましたが、その部屋は他の貴婦人たちが美人術をうけた階下の手術室ではなくて、シノブ夫人がひそかに二階に借りていた、自分の寝室に於てです。そして、シノブ夫人が横たわった手術用の寝台は、階下の物とはちがって、もっと型が大きかったし、その上、全部が板によって出来ていました。即ちそれは元来が美人術用の物ではなくて、実際は奇術用のもの、底が三重になっているものでした。その寝台の板の下には、すでに二人の侍女たちがひそんでいたのです。皆さんが西洋奇術をごらんになると、稀に同類のものが目にとまる筈ですが、奇術とは申しても、ここに必要なのは主として道具の構造だけで、演技の熟練に要する時間は多くを必要としません。シノブ夫人はロッテナム美人術へ毎日通ったそうですが、概ねこの寝室にひそかにこもり、侍女たちと三人でたった一度実演するだけの奇術のために練習を重ねていたのです。ロッテナム美人術がつぶれるまでの一ヶ月間も練習したとすれば、ロンドンや巴里パリの劇場で実演している奇術師と同じぐらい完全に行う技術は楽々習得したでしょう。こうして、お兄上が見物している眼前で行われた美人術は、肌をなめらかに顔のシワをとる美人術ではなくて、シノブ夫人がキミ子となり、キミ子がカヨ子となり、カヨ子がシノブ夫人にもどるという奇妙な変身術でありました。ロッテナム美人術によって同一人が三体に変化しうるという実験が行われそれが眼前に確かに証明されましたから、お兄上は三位一体を信ぜざるを得なかったのです。陰謀者たちは最後の実演によって仕上げを行うに先立って、ロッテナム美人術というものをお兄上に物語り、徐々に興味を持たせるために努めたでしょう。それと同時に三人の女たちは決して同時に姿を現すことがないように注意深く行動しはじめていたでしょう。またこの実演にとりかかる前には、奥様が結婚あそばして婚家へ立ち去ることも必要でした。ロッテナム夫人は奥様の御婚礼の一ヶ月ほど前に開店したのですが、そして御婚礼の数日後には閉店したのですが、つまりロッテナム美人術の本当の目的たる奇術の実演を行うに当って唯一の妹たる奥様ほど邪魔な存在はなく、その実演はどうしても御婚礼後の必要があった。しかし奥様の婚礼後数日もあれば充分で、その日まで営業するだけで足りたのです。御婚礼後、お兄上の発作がたちまちはじまったのは、そのとき実演が行われたのでしょう。そして、お兄上の精神鑑定の物々しい席で、最後にお兄上が卒倒されたのは、有りうべからざる奇怪を見たからでありました。三人の異る女が同一人であるためには、いかに外見が異っても、その存在は眼前の実在としては常に一でなければならない。しかるに同一人が同時に異る三体となって眼前に姿を示したから、お兄上はその奇怪さに逆上して卒倒されたのでしたろう。ロッテナム美人術とは実にこの一ツの目的のために仕組まれて地球の半周の彼方から演技者の一部分が呼びよせられたほどの地上に最大の構成をもった芝居と奇術の混合物でもあったのです」

 こう説明を終えた新十郎は驚くべき早さで立ち去る構えに転じていた。

「私が突き止めたのはカラクリの筋だけです。これを人々に納得させるに足る私自身の実演は果してどの地から人や設備が得られるでしょうか」

 こう呟くと彼はすでにふりむいて歩いていた。彼の一生に、この時ほど悲しい時はある筈がないのだ。

 しかし、それから三日後には大伴宗久の死が報ぜられた。三日間はやまったと彼は唇をかんだが、しかし、いくらか救われたような軽い気持をとりもどすこともできたようだった。

底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房

   1998(平成10)年1120日初版第1刷発行

底本の親本:「小説新潮 第六巻第一号」

   1952(昭和27)年11日発行

初出:「小説新潮 第六巻第一号」

   1952(昭和27)年11日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※表題は底本では、「明治
開化
安吾捕物」となっています。

※初出時の表題は「明治
開化
安吾捕物 その

十四」です。

入力:tatsuki

校正:松永正敏

2006年523日作成

2016年331日修正

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