竹の木戸
国木田独歩



        上


 大庭おおば真蔵という会社員は東京郊外に住んで京橋区辺の事務所に通っていたが、電車の停留所まで半里はんみち以上もあるのを、毎朝欠かさずテクテク歩いて運動にはちょうどいと言っていた。温厚おとなしい性質だから会社でも受がかった。

 家族は六十七八になる極く丈夫な老母、二十九になる細君、細君の妹のおきよ七歳ななつになる娘の礼ちゃんこれに五六年前から居るお徳という女中、以上五人に主人あるじの真蔵を加えて都合六人であった。

 細君は病身であるから余り家事に関係しない。台所元の事はおもにお清とお徳がっていて、それを小まめな老母が手伝ていたのである。けても女中のお徳は年こそだ二十三であるが私はおうちに一生奉公をしますという意気込で権力が仲々強い、老母すら時々この女中の言うことを聞かなければならぬ事もあった。我儘わがまま過るとお清から苦情の出る場合もあったが、何しろお徳はお家大事と一生懸命なのだから結極つまりはお徳の勝利かちに帰するのであった。

 生垣いけがき一つ隔てて物置同然の小屋があった。それに植木屋夫婦が暮している。亭主が二十七八で、女房はお徳と同年輩位、そしてこの隣交際となりづきあい女性にょしょう二人は互に負けず劣らず喋舌しゃべり合っていた。

 初め植木屋夫婦が引越して来た時、井戸がないので何卒どうか水を汲ましてくれと大庭家に依頼たのみに来た。大庭の家ではそれは道理もっともなことだと承諾ゆるしてやった。それからかれこれ二月ばかりつと、今度は生垣いけがきを三尺ばかり開放あけさしてくれろ、そうすれば一々御門へ迂廻まわらんでも済むからと頼みに来た。これには大庭家でも大分苦情があった、ことにお徳は盗棒どろぼうの入口をこしらえるようなものだと主張した。が、しかし主人あるじ真蔵の平常かねての優しい心から遂にこれを許すことになった。其方そちらで木戸を丈夫に造り、開閉あけたてを厳重にするという条件であったが、植木屋は其処そこらのやぶから青竹を切って来て、これに杉の葉など交ぜ加えて無細工ぶさいくの木戸を造くって了った。出来上ったのを見てお徳は

「これが木戸だろうか、掛金かけがね何処どこるの。こんな木戸なんか有るも無いも同じことだ」と大声で言った。植木屋の女房のお源は、これを聞きつけ

「それで沢山だ、どうせ私共の力で大工さんの作るような立派な木戸が出来るものか」

 と井戸辺いどばたかまの底を洗いながら言った。

「それじゃア大工さんを頼めば可い」とお徳はお源の言葉がしゃくさわり、植木屋の貧乏なことを知りながら言った。

「頼まれる位なら頼むサ」とお源は軽く言った。

「頼むと来るよ」とお徳は猶一もひとつ皮肉を言った。

 お源は負けぬ気性だから、これにはむっとしたが、大庭家にけるお徳の勢力を知っているから、さからっては損と虫をおさえて

「まアそれで勘弁しておくれよ。出入ではいりするものは重にあたしばかりだから私さえ開閉あけたてに気を附けりゃア大丈夫だよ。どうせ本式の盗棒なら垣根だって御門だって越すから木戸なんか何にもなりゃア仕ないからね」

 と半分折れて出たのでお徳

「そう言えばそうさ。だからお前さんさえ開閉あけたてを厳重に仕ておくれならア安心だが、お前さんも知ってるだろうはコソコソ泥棒や屑屋くずやの悪いやつ漂行うろうろするから油断も間際すきもなりや仕ない。そら近頃このごろ出来たパン屋の隣に河井さんて軍人さんがあるだろう。彼家あそこじゃア二三日前に買立のあかの大きな金盥かなだらいをちょろりとられたそうだからねえ」

「まアどうして」とお源は水を汲む手を一寸ちょっと休めて振り向いた。

井戸辺いどばたに出ていたのを、女中が屋後うらに干物にったぽっちりられたのだとサ。矢張やっぱり木戸が少しばかしいていたのだとサ」

「まア、真実ほんとに油断がならないね。大丈夫私は気を附けるが、お徳さんもられそうなものは少時ちょっとでも戸外そと放棄うっちゃって置かんようになさいよ」

あたしはまアそんなことは仕ない積りだが、それでも、ツイ忘れることが有るからね、お前さんも屑屋なんかに気を附けておくれよ。木戸から入るにゃ是非お前さんうちの前を通るのだからね」

「ええ気を附けるともね。られる日にゃまき一本だって炭一片ひときれだって馬鹿々々しいからね」

「そうだとも。炭一片とお言いだけれど、どうだろうこの頃の炭の高価たかいことは。一俵八十五銭の佐倉さくらがあれだよ」とお徳は井戸から台所口へ続く軒下に並べてある炭俵のひとつを指して、「幾干いくらはいってるものかね。ほんとに一片何銭にくだろう。まるでおかね涼炉しちりんで燃しているようなものサ。土竈どがまだって堅炭かたずみだってみんな去年の倍と言っても可い位だからね」とお徳は嘆息ためいきまじりに「真実ほんとにやりきれや仕ない」

「それに御宅は御人数ごにんずも多いんだから入用いることも入用サね。あたしのとこなんか二人きりだから幾干いくら入用いりゃア仕ない。それでも三銭五銭と計量炭はかりずみを毎日のように買うんだからね、全くやりきれや仕ない」

「全く骨だね」とお徳は優しく言った。

 以上炭のうわさまで来ると二人は最初の木戸の事は最早もう口に出さないで何時いつしか元のお徳お源に立還たちかえぺちゃくちゃと仲善く喋舌しゃべり合っていたところはらちも無い。

 十一月の末だから日は短いさかりで、主人真蔵が会社から帰ったのは最早暮れがかりであった。木戸が出来たと聞いて洋服のまま下駄を突掛け勝手元の庭へ廻わり、暫時しばらくは木戸を見てただ微笑していたが、お徳がそばから

旦那様だんなさま大変な木戸で、御座いましょう」と言ったので

「これは植木屋さんがこしらえたのか」

「そうで御座います」

「随分妙な木戸だが、しかし植木屋さんにしちゃア良く出来てる」と手を掛けて揺振ゆすぶってみて

「案外丈夫そうだ。まアこれでもい、無いよりかましだろう。その内大工を頼んで本当に作らすことに仕よう」と言って「竹でこしらえても木戸は木戸だ、ハ、ハハハハ」と笑いながら屋内うちへ入った。

 お源はこれを自分のうちで聞いていて、くすくすとひとりで笑いながら、「真実ほんとく物の解る旦那だよ。第一あんな心持の優い人ったらめったに有りや仕ない。彼家あそこじゃ奥様おくさんも好いかただし御隠居様も小まめちょこまかなさるが人柄ひとは極く好い方だし、お清さんは出戻りだけに何処どこ執拗ひねくれてるが、然し気質きだては優しい方だし」と思いつづけて来てハタとお徳の今日昼間の皮肉を回想おもいだして「水の世話にさえならなきゃ如彼あんな奴に口なんかかしや仕ないんだけど、房州の田舎者奴いなかものめが、可愛がって頂だきゃ可い気になりゃアがってどうだろうあの図々ずうずうしい案梅あんばいは」とお徳の先刻さっきの言葉を思い出し、「大変な木戸でしょうだって、あれで難癖を附ける積りが合憎あいにくと旦那がお取上に相成らんから可い気味だ。愚態ざまア見やアがれだ」と又つと気を変えて「だけど感心と言えば感心だよ。容色きりょうも悪くはなし年だって私とおんなじなら未だいくらだって嫁にいかれるのに、ああやって一生懸命に奉公しているんだからね。全く普通なみものにゃ真似まねが出来ないよ。それに恐しい正直者しょうじきもんだから大庭さんでも彼女あれに任かして置きゃ間違まちがえはないサ……」

 こんな事を思いながらお源は洋燈ランプ点火つけて、火鉢ひばちに炭を注ごうとして炭が一片ひときれもないのに気が着き、舌鼓したうちをして古ぼけた薬鑵やかんに手をさわってみたが湯はめていないので安心して「お湯の熱いうちに早く帰って来れば可い。然し今日もしか前借して来てくれないと今夜も明日も火なしだ。火ぐらい木葉こっぱを拾って来ても間に合うが、明日あした食うお米が有りや仕ない」と今度は舌鼓のかわりに力のない嘆息ためいきもらした。頭髪かみを乱して、のない顔をして、薄暗い洋燈の陰にしょんぼり坐っているこの時のお源の姿は随分あわれな様であった。

 其所そこのっそり帰って来たのが亭主の磯吉である。お源は単直いきなり前借の金のことをいた。磯は黙って腹掛から財布を出してお源に渡した。お源は中をあらためて

「たった二円」

「ああ」

「二円ばかし仕方が無いじゃアないか。どうせ前借するんだもの五円も借りて来れば可いのに」

「だって貸さなきゃ仕方がない」

「それゃそうだけど能く頼めば親方だって五円位貸してくれそうなものだ。これを御覧」とお源は空虚からっぽ炭籠すみとりを見せて「炭だってこれだろう。今夜お米を買ったら幾干いくらも残りや仕ない。……」

 磯は黙って煙草をふかしていたが、煙管きせるをポンと強くはたいて、ぜんを引寄せ手盛てもりで飯を食い初めた。ただ白湯さゆぶっかけてザクザク流し込むのだが、それが如何いかにも美味うまそうであった。

 お源は亭主のこの所為しょさに気をのまれて黙って見ていたが山盛五六杯食って、未だめそうもないのであきれもし、可笑おかしくもなり

「お前さんそんなにおなかいたの」

 磯は更に一椀いっぱいけながら「おれは今日半食おやつを食わないのだ」

「どうして」

「今日彼時あれからったら親方がいやな顔をしてこの多忙いそがしい中を何で遅く来ると小言こごとを言ったから、実はこれこれだって木戸の一件を話すと、そんな事は手前てめえの勝手だって言やアがる、糞忌々くそいまいましいからそれからグングン仕事に掛って二時過ぎになるとお茶飯やつが出たが、俺は見向みむきも仕ないんだ。お女中が来て今日はお美味いし海苔巻のりまきだから早やく来て食べろと言ったが当頭とうとう俺は往かないで仕事を仕続けてやったのだ。そんなこんなで前借のこと親方に言い出すのは全くいやだったけど、言わないじゃおられんから帰りがけに五円貸してくれろと言うと、へん仕事は怠けて前借か、俺も手前てめえの図々しいのにはかなわんよ、そらこれでかろうって二円出してこしたのだ。仕方が無いじゃアないか」と磯は腹のいた訳と二円ほか前借が出来なかった理由わけを一遍に話してしまった。そして話しおわったころやっはしを置いた。

 全体磯吉は無口の男で又た口のきようも下手へただがどうかすると啖火交たんかまじりで今のように威勢の可い物の言いぶりをすることもある、お源にはこれがすこぶうれしかったのである。然しお源には連添つれそってから足掛三年にもなるが未だ磯吉は怠惰者なまけものだか働人はたらきにんだか判断が着かんのである。東京女の気まぐれ者にはそれですんでゆくので、三日も四日も仕事を休む、どうかすると十日も休む、けれどサアとなれば人三倍も働くのがうちの磯さんだと心得ている、だからサアとなれば困りや仕ないと信じている。然し何処どこまで行ったらその「サア」だかそんなことはお源も考えたことはない。又たお源は磯さんはイザとなれば随分人の出来ない思きった大胆なことをする男だとたのもしがっている。けれどそうばかし思えんこともある。その実案外意久地いくじのない男かしらと思う場合もあるが、それは一文なしになって困りぬいた時などで、そう思うとなさけなくなるからなるべくそれは自分で打消していたのである。

 実際磯吉は所謂いわゆる「解らん男」で、大庭の女連おんなれんは何となく薄気味うすきび悪く思っていた。だからお徳までが磯にははばかる風がある。これがお源には言うに言われない得意なので、お徳がこの風を見せた時、お清が磯に丁寧な言葉を使った時などうれしさが込上げて来るのであった。

 それで結極のべつ貧乏の仕飽しあきをして、働き盛りでありながら世帯らしい世帯も持たず、何時いつも物置か古倉のすみこのような所ばかりに住んでいる、従ってお源も何時しか植木屋の女房連かかあれんから解らん女だ、つまり馬鹿だとせられていたのだ。

 磯吉の食事めしが済むとお源はざるを持て駈出かけだして出たが、やがて量炭はかりずみを買て来て、火を起しながら今日お徳と木戸のことで言いあったこと、旦那が木戸を見て言った言葉などをべらべら喋舌しゃべって聞かしたが、磯は「そうか」とも言わなかった。

 そのうち磯が眠そうに大欠伸おおあくびをしたので、お源は垢染あかじみ煎餅布団せんべいぶとんを一枚敷いて一枚けて二人一緒に一個身体ひとつからだのようになって首を縮めて寝て了った。壁の隙間すきまや床下から寒い夜風が吹きこむので二人は手足も縮められるだけ縮めているが、それでも磯の背部せなかは半分外に露出はみだしていた。


        中


 十二月にると急に寒気が増して霜柱は立つ、氷は張る、東京の郊外は突然だしぬけに冬の特色を発揮して、流行の郊外生活にかぶれて初て郊外に住んだ連中れんじゅう喫驚びっくりさした。然し大庭真蔵は慣れたもので、長靴を穿いて厚い外套がいとうを着て平気で通勤していたが、最初の日曜日は空青々と晴れ、日が煌々きらきらと輝やいて、そよ吹く風もなく、小春日和こはるびよりが又立返たちもどったようなので、真蔵とお清は留守居番、老母と細君は礼ちゃんとお徳を連て下町に買物に出掛けた。

 郊外から下町へ出るのは東京へ行くと称して出慣れぬ女連は外出そとでの仕度に一騒ひとさわぎするのである。それで老母を初め細君娘、お徳までの着変きかえやら何かに一しきりさわがしかったのが、出てったあとは一時にしんとなって家内やうち人気ひとげが絶たようになった。

 真蔵は銘仙の褞袍どてらの上へ兵古帯へこおびを巻きつけたまま日射ひあたりの可い自分の書斎に寝転ねころんで新聞を読んでいたがお午時ひる前になると退屈になり、書斎を出て縁辺えんがわをぶらぶら歩いていると

兄様にいさま」と障子越しにお清が声をかけた。

「何です」

「おホホホホ『何です』だって。お午食ひるは何にも有りませんよ」

「かしこ参りました」

「おホホホホ『かしこ参りました』だって真実ほんとに何にもないんですよ」

 其処そこで真蔵はお清の居る部屋へやの障子を開けると、なかではお清がせっせと針仕事をしている。

「大変勉強だね」

「礼ちゃんの被布ひふですよ、い柄でしょう」

 真蔵はそれにはこたえず、其処辺そこらを見廻わしていたが、

「も少し日射ひあたりの好い部屋でったら可さそうなものだな。そして火鉢ひばちもないじゃないか」

「未だ手が凍結かじけるほどでもありませんよ。それにこの節は御倹約ということに決定きめたのですから」

「何の御倹約だろう」

「炭です」

「炭はなるほど高価たかくなったに違ないがうちで急にそれを節約するほどのことはなかろう」

 真蔵は衣食台所元のことなど一切いっせつ関係しないから何も知らないのである。

「どうして兄様にいさん、十一月でさえ一月の炭の代がお米の代よりか余程よっぽど上なんですもの。これから十二、一、二とず三月が炭のさかりですから倹約出来るだけ仕ないと大変ですよ。お徳が朝から晩まで炭が要る炭が高価たかいて泣言ばかり言うのも無理はありませんわ」

「だって炭を倹約して風邪かぜでも引ちゃ何もなりや仕ない」

「まさかそんなことは有りませんわ」

「しかし今日は好い案排あんばいに暖かいね。母上おっかさんでも今日は大丈夫だろう」と両手を伸して大欠伸おおあくびをして

「何時かしらん」

最早もう直ぐ十二時でしょうよ。お午食ひるにしましょうか」

「イヤ未だ腹が一向かん。会社だと午食ひるの弁当が待遠いようだけどなア」と言いながら其処を出て勝手の座敷から女中部屋までのぞきこんだ。女中部屋など従来これまで入ったことも無かったのであるが、見ると高窓が二尺ばかり開け放しになってるので、何心なく其処から首をひょいと出すと、直ぐ眼下に隣のお源が居て、お源が我知らず見上た顔とぴたり出会った。お源はサと顔を真赤にして狼狽うろたえきった声をやっと出して

「お宅ではこういう上等の炭をお使いなさるんですもの、たまりませんわね」と佐倉の切炭を手に持ていたが、それを手玉に取りだした。窓の下は炭俵が口を開けたまま並べてある場処で、お源が木戸から井戸辺いどばたにゆくには是非このそばを通るのである。

 真蔵も一寸ちょっと狼狽まごついて答に窮したが

「炭のことは私共に解らんで……」と莞爾にっこり微笑わらってそのまま首を引込めて了った。

 真蔵は直ぐ書斎に返ってお源の所為しょさに就て考がえたが判断が容易につかない。お源は炭を盗んでいるところであったとは先ず最初に来る判断だけれど、真蔵はそれをそのまま確信することが出来ないのである。実際ただ炭を見ていたのかも知れない、通りがかりだからツイ手に取って見ているところを不意に他人ひとから瞰下みおろされて理由わけもなく顔を赤らめたのかも知れない。まして自分が見たのだから狼狽うろたえたのかも知れない。と考えれば考えられんこともないのである。真蔵はなるべくのちの方に判断したいので、遂にそう心で決定きめてともかく何人だれにもこの事は言わんことにした。

 しかし万一ひょっともし盗んでいたとすると放下うっちゃって置いてはあとが悪かろうとも思ったが、一度見られたら、とても悪事を続行つづけることはすまいと考えたからお更らこの事は口外しない方が本当だと信じた。

 どちらにしてもお徳が言った通り、彼処あそこへ竹の木戸を植木屋に作らしたのは策の得たるものでなかったと思った。

 午後三時過ぎて下町行の一行はぞろぞろ帰宅かえって来た。一同が茶の間に集まってがやがやと今日の見聞を今一度繰返して話合うのであった。お清は勿論もちろん、真蔵も引出されて相槌あいづちを打って聞かなければならない。礼ちゃんが新橋の勧工場かんこうばで大きな人形を強請ねだって困らしたの、電車の中に泥酔者よっぱらいが居て衆人みんなを苦しめたの、真蔵に向て細君が、所天あなたは寒むがり坊だから大徳で上等飛切とびきりの舶来のシャツを買って来たの、下町へ出るとどうしても思ったよりか余計にお金を使うだの、それからそれと留度とめどがない。そして聞く者よりか喋舌しゃべっている連中の方が余程よっぽど面白そうであった。

 先ずこのがやがやが一頻ひとしきりむとお徳は急に何か思い出したようにたって勝手口を出たが暫時しばらくして返って来て、妙に真面目まじめな顔をして眼をまるくして、

「まア驚いた!」と低い声で言って、人々みんなの顔をきょろきょろ見廻わした。人々みんなも何事が起ったかとお徳の顔を見る。

「まア驚いた!」と今一度言って、「お清様は今日屋外そとの炭をお出しになりや仕ませんね?」といた。

いいえ、私は炭籠すみかごの炭ほか使つかわないよ」

「そうら解った、わたくし去日このあいだからどうも炭の無くなりかたが変だ、如何いくら炭屋が巧計ずるをして底ばかし厚くするからってこうも急に無くなるはずがないと思っていたので御座いますよ。それで私は想当おもいあたってる事があるから昨日きのうお源さんの留守に障子の破目やぶれめからなかちょいのぞいて見たので御座いますよ。そうするとどうでしょう」と、一段声を低めて「あの破火鉢やぶれひばちに佐倉が二片ふたつちゃんといかって灰がけて有るじゃア御座いませんか。それを見て私は最早もう必定きっとそうだと決定きめて御隠居様に先ず申上げてみようかと思いましたが、一つ係蹄わなをかけて此方こっちめした上と考がえましたから今日ってたので御座いますよ」とお徳はにやり笑った。

「どんな係蹄わなをかけたの?」とお清が心配そうにいた。

「今日出る前に上に並んだ炭に一々符号しるしを附けて置いたので御座います。それがどうでしょう、今見ると符号しるしを附けた佐倉が四個よっつそっくり無くなっているので御座います。そして土竈どがまは大きなのを二個ふたつ上に出して符号を附けて置いたらそれも無いのです」

「まアどうしたと云うのだろう」お清はあきれて了った。老母と細君は顔見合して黙っている。真蔵はさて愈々いよいよと思ったが今日見た事を打明けるだけは矢張やはり見合わした。つまり真蔵にはそうまでするに忍びなかったのである。

「で御座いますから炭泥棒は何人だれだか最早もう解ってます。どう致しましょう」とお徳は人々みんながこの大事件を喫驚びっくりしてごうごうと論評を初めてくれるだろうと予期していたのが、お清が声を出してくれた外、旦那だんなを初め後の人は黙っているので少し張合が抜けた調子でこう問うた。暫時しばらく誰も黙っていたが

「どうするッて、どうするの?」とお清が問い返した、お徳は少々焦急じれったくなり、

「炭をですよ。炭をあのままにして置けばこれから幾干いくらでも取られます」

「台所の縁の下はどうだ」と真蔵は放擲うっちゃって置いてもお源が今後容易に盗み得ぬことを知っているけれど、その理由わけを打明けないと決心きめてるから、仕様事なしにこう言った。

充満いっぱいで御座います」とお徳は一言で拒絶した。

「そうか」真蔵は黙って了う。

「それじゃこうしたらどうだろう。お徳の部屋の戸棚とだなの下を明けて当分ともかく彼処あそこへ炭を入れることにしたら。そしてお徳の所有品ものは中の部屋の戸棚とだな整理かたづけて入れたら」と細君が一案を出した。

「それじゃアそう致しましょう」とお徳は直ぐ賛成した。

「お徳には少し気の毒だけれど」と細君は附加つけたした。

いいえわたくしは『中の部屋』のお戸棚とだな衣類きものを入れさして頂ければお結構で御座ございます」

「それじゃあそう決定きめるとして、全体物置を早く作れというのに真蔵がぐずぐずしているからこういうことになるのです。物置さえあれば何のこともないのに」と老母がやっと口をきいたと思ったら物置の愚痴。真蔵は頭をいて笑った。

いいえ、こういうことになったのも、竹の木戸のお蔭で御座いますよ、ですから私は彼処あそこを開けさすのは泥棒の入口をこしらえるようなものだと申したので御座います。今となれゃ泥棒が泥棒の出入口ではいりぐちこしらえたようなものだ」とお徳が思わず地声の高い調子で言ったので老母は急に

「静に、静に、そんな大きな声をしてきかれたらどうします。わしも彼処を開けさすのはいやじゃッたが開けて了った今急にどうもならん。今急に彼処をふさげば角が立て面白くない。植木屋さんも何時いつまであんな物置小屋ものおきごやみたような所にも居られんで移転ひっこすなりどうなりするだろう。そしたら彼所あそこを塞ぐことにして今はだ何にも言わんで知らん顔を仕てる、お徳も決してお源さんに炭の話など仕ちゃなりませんぞ。現に盗んだところを見たのではなし又高が少しばかしの炭をられたからってそれを荒立てて彼人者あんなものだちに怨恨うらまれたらお損になりますぞ。真実ほんとに」と老母は老母だけの心配を諄々じゅんじゅんといた。

真実ほんとにそうよ。お徳はどうかすると譏謔あてこすりを言い兼ないがお源さんにそんなことでもすると大変よ、反対あべこべ物言ものいいを附けられてどんな目にうかも知れんよ、私はあの亭主の磯が気味が悪くって成らんのよ。変妙来へんみょうらいな男ねえ。あんな奴に限って向う不見みずに人にってかかるよ」とお清も老母と同じ心配。老母も磯吉のことは口には出さなかったが心には無論それが有たのである。

「何にあの男だって唯の男サ」と真蔵は起上たちあがりながら「けれども関係かかりあわんが可い」

 真蔵は自分の書斎に引込み、炭問題も一段落着いたので、お徳とお清は大急で夕御飯の仕度に取掛った。

 お徳はお源がどんな顔をして現われるかと内々待ていたが、平常いつも夕方には必然きっと水を汲みに来るのが姿も見せないので不思議に思っていた。

 日が暮て一時間もたってから磯吉が水を汲みに来た。


        下


 お源は真蔵に見られてもうまく誤魔化し得たと思った。ちょうど真蔵が窓から見下みおろした時は土竈炭どがまずみたもとに入れ佐倉炭さくらを前掛に包んで左の手でおさえ、更に一個ひとつ取ろうとするところであったが、元来性質ひとの良い邪推などの無い旦那だんなだから多分気が附かなかっただろうと信じた。けれど夕方になってどうしても水を汲みにゆく気になれない。

 そこで磯吉が仕事から帰る前に布団ふとんかぶって寝てしまった。寝たって眠むられは仕ない。垢染あかじみ煎餅布団せんべいぶとんでも夜は磯吉と二人で寝るから互の体温で寒気もしのげるが一人では板のようにしゃちっ張って身に着かないで起きているよりも一倍寒く感ずる。ぶるぶるふるえそうになるので手足を縮められるだけ縮めて丸くなったところを見ると人が寝てるとは承知うけとれん位だ。

 色々考えると厭悪いや心地きもちがして来た。貧乏には慣れてるがお源も未だ泥棒には慣れない。先達せんだってからちょくちょく盗んだ炭の高こそ多くないが確的あきらかに人目を忍んでひとの物を取ったのは今度が最初はじめてであるから一念其処そこへゆくと今までにない不安を覚えて来る。この不安の内には恐怖おそれ羞恥はじこもっていた。

 眼前めのさきにまざまざと今日の事が浮んで来る、見下した旦那の顔が判然はっきり出て来る、そしてテレ隠しに炭を手玉に取った時のことを思うと顔から火が出るように感じた。

真実ほんとうにどうしたんだろう」とお源は思わず叫んだ。そして徐々そろそろ逆上気味になって来た。「もしか知れたらどうする」。「知れるものかあの旦那は性質ひとが良いもの」。「性質ひとの良いは当にならない」。「性質ひとのは魯鈍のろまだ」。と促急込せきこんでひとり問答をしていたが

魯鈍のろまだ、魯鈍だ、大魯鈍だ」と思わず又叫んで「フン何が知れるもんか」と添足つけたした。そして布団から首を出して見ると日が暮れて入口の障子戸に月が射している。けれども起きて洋燈ランプけようとも仕ないで、直ぐ首を引込ひっこめて又た丸くなって了った。そこへ磯吉が帰って来た。

 頭が割れるように痛むので寝たのだと聞いて磯は別に怒りもせず驚きもせず自分でけ、薬罐やかん微温湯ぬるまゆだから火鉢に炭を足し、水も汲みに行った。湯の沸騰たぎるを待つ間は煙草をパクパクふかしていたが

「どう痛むんだ」

 返事がないので、磯は丸く凸起もちあがった布団を少時しばらじっていたが

「オイどう痛むんだイ」

 相変らず返事がないので磯は黙って了った。そのうち湯が沸騰わいて来たから例の通り氷のようにひえた飯へ白湯さゆけて沢庵たくあんをバリバリ、待ち兼た風に食い初めた。

 布団の中でお源が啜泣すすりなきする声が聞えたが磯には香物こうのものむ音と飯を流し込む音と、美味うまいので夢中になっているのとで聞えなかった、そして飯を食い終ったころには啜泣の声もんだのである。

 磯が火鉢のふち忽々こつこつたたき初めるや布団がむくむく動いていたが、やがてお源が半分布団に巻纏くるまって其処へ坐った。前があい膝頭ひざがしらが少し出ていても合そうとも仕ない、見ると逆上のぼせて顔を赤くして眼は涙に潤み、しきりに啜泣をている。

「どうしたと云うのだ、え?」と磯は問うたが、この男の持前として驚いて狼狽うろたえた様子は少しも見えない。

「磯さん私は最早もうつくづくいやになった」と言い出してお源は涙声になり

「お前さんと同棲いっしょになってから三年になるが、その間真実ほんとうに食うや食わずで今日はと思った日は一日だって有りやしないよ。私だって何も楽を仕様しようとは思わんけれど、これじゃあんまりだと思うわ。お前さんこれじゃ乞食も同然じゃ無いか。お前さんそうは思わないの?」

 磯は黙っている。

「これじゃだ食って生きてるだけじゃないか。饑死かつじにする者は世間に滅多にありや仕ないから、食って生きてるだけならだれだってするよ。それじゃあんまり情ないと私は思うわ」涙をそでふいて「お前さんだって立派な職人じゃないか、それにたった二人きりの生活くらしだよ。それがどうだろう、のべつ貧乏の仕通しでその貧乏も唯の貧乏じゃ無いよ。満足な家には一度だって住まないで何時いつでもこんな物置か──」

「何を何時までべらべら喋舌しゃべってるんだい」と磯は矢張やはりお源の方はむかないで、手荒く煙管きせるはたいて言った。

「お前さん怒るなら何程いくらでもお怒り。今夜という今夜は私はどうあっても言うだけ言うよ」とお源は急促込せきこんで言った。

「貧乏が好きな者はないよ」

「そんなら何故なぜお前さん月のうち十日は必然きっと休むの? お前さんはお酒はのまないし外に道楽はなし満足に仕事に出てさえおくれなら如斯こんな貧乏は仕ないんだよ。──」

 磯は火鉢の灰を見つめて黙っている。

「だからお前さんがも少し精出しておくれならこの節のように計量炭はかりずみろくかえないような情ない……」

 お源は布団へ打伏して泣きだした。磯吉はふいと起って土間に下りて麻裏あさうらを突掛けるや戸外そとへ飛び出した。戸外は月冴えて風はないが、骨身にこたえる寒さに磯は大急ぎで新開の通へ出て、七八丁もゆくと金次という仲間が居る、其家そこたずねて、十時過まで金次と将棋を指して遊んだが帰掛かえりがけに一寸一円貸せと頼んだ。明日なら出来るが今夜は一文もないと謝絶ことわられた。

 帰路かえりみちに炭屋がある。この店は酒もまき量炭はかりずみも売り、大庭もこの店から炭薪を取り、お源もへ炭を買いに来るのである。新開地は店を早くしまうのでこの店も最早もう閉っていた。磯は少時しばらの前を迂路々々うろうろしていたが急に店の軒下に積である炭俵の一個ひとつひょいと肩に乗て直ぐ横の田甫道たんぼみちそれて了った。

 大急で帰宅かえって土間にどしりと俵を下した音に、泣き寝入ねいりに寝入っていたお源は眼を覚したが声をださなかった。そして今のは何の響とも気に留めなかった。磯もそのままお源の後から布団の中にもぐり込んだ。

 翌朝になってお源は炭俵に気が着き、喫驚びっくりして

「磯さんこれはどうしたの、この炭俵は?」

「買って来たのサ」と磯は布団をかぶってるまま答えた。朝飯めしが出来るまでは磯は床を出ないのである。

何店どこで買ったの?」

何処どこだって可いじゃないか」

「聞いたって可いじゃないか」

「初公の近所の店だよ」

「まアどうしてそんな遠くで買ったの。……オヤお前さん今日お米を買うおあしつかってしまやアしまいね」

 磯は起上って「お前がやれ量炭も買えんだのッてしく言うから昨夜ゆうべ金公の家へって借りようとしてないってやがる。それから直ぐ初公のとこへ往ったのだ。炭を買うからすこしばかり貸せといったら一俵位なら俺家おれんとこの酒屋で取って往けとおおきなこと言うから直ぐ其家そこうちで初公の名前で持て来たのだ。それだけあれば四五日はるだろう」

「まアそう」と言ってお源はよろこんだ。直ぐ口を明けて見たかったけれど、ア後の事と、せっせと朝飯の仕度をしながら「え、四五日どころか自宅うちなら十日もあるよ」

 昨夜ゆうべ磯吉が飛出した後でお源は色々に思いなやんだ末が、亭主に精出せと勧める以上、自分も気を腐らして寝ていちゃ何もならない、又たお隣へも顔を出さんとかえって疑がわれるとこう考えたのである。

 其処そこ平常いつもの通り弁当持たせて磯吉を出してやり、自分も飯を食べて一通ひととおり片附たところでバケツを持って木戸を開けた。

 お清とお徳が外に出ていた。お清はお源を見て

「お源さん大変顔色が悪いね、どうかたの」

昨日きのうから少し風邪かぜを引たもんですから……」

「用心なさいよ、それは不可いけない」

 お徳は「お早う」と口早に挨拶あいさつしたきり何も言わない、そしてお源が炭俵の並べてないのに気が着き顔色を変えて眼をぎょろぎょろさしているのを見て、にやり笑った。お源は又た早くもこれを看取みてとりお徳の顔をにらみつけた。お徳はこう睨みつけられたとなると最早もう喧嘩けんかだ、何かひどい皮肉を言いたいがお清がそばに居るので辛棒していると十八九になる増屋の御用聞が木戸の方から入て来た。増屋とは昨夜ゆうべ磯吉が炭を盗んだ店である。

皆様みなさんお早う御座います」と挨拶するや、昨日きのうまで戸外そとに並べてあった炭俵が一個ひとつ見えないので「オヤ炭は何処どっかへ片附けたのですか」

 お徳は待ってたという調子で

「あア悉皆みんな内へいれちゃったよ。外へ置くとどうも物騒だからね。今の高価たかい炭を一片ひときれだって盗られちゃ馬鹿々々しいやね」とお源を見る、お清はお徳を睨む、お源は水を汲んで二歩ふたあし三歩みあし歩るき出したところであった。

「全く物騒ですよ、わたしところでは昨夜ゆうべ当到とうとう一俵盗すまれました」

「どうして」とお清が問うた。

戸外そとに積んだまま、平時いつも放下うっちゃって置くからです」

何炭なにを盗られたの」とお徳は執着しゅうねくお源を見ながら聞いた。

「上等の佐倉炭さくらです」

 お源はこれ等の問答を聞きながら、歯を喰いしばって、踉蹌よろめいて木戸の外に出た。

 土間に入るやバケツをほうるように置いて大急ぎで炭俵の口を開けて見た。

「まア佐倉炭さくらだよ!」と思わず叫んだ。


 お徳は老母からも細君からも、みっしりしかられた。お清は日の暮になってもお源の姿が見えないので心配して御気慊ごきげん取りと風邪見舞とを兼ねてお源をたずねた。内が余り寂然ひっそりしておるので「お源さん、お源さん」と呼んでみた。返事がないので可恐々々こわごわながら障子戸を開けるとお源は炭俵を脚継あしつぎにしたらしく土間の真中まんなかはりへ細帯をかけて死でいた。

 二日って竹の木戸が破壊こわされた。そして生垣いけがき以前もとさま復帰かえった。

 それから二月経過たつと磯吉はお源と同年輩おなじとしごろの女を女房に持って、渋谷村に住んでいたが、矢張やはり豚小屋同然の住宅すまいであった。

底本:「牛肉と馬鈴薯・酒中日記」新潮文庫、新潮社

   1970(昭和45)年530日初版発行

   1983(昭和58)年7月3022

※「促急込せきこんで」と「急促込せきこんで」の混在は底本通りにしました。

入力:Nana Ohbe

校正:門田裕志、小林繁雄

2004年61日作成

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