安吾巷談
ストリップ罵倒
坂口安吾



 私はストリップを見たのは今度がはじめてだ。ずいぶん手おくれであるが、今まで見る気持がうごかなかったから仕方がない。

 悪日であった。翌日の新聞の報ずるところによると、本年最高、三十度という。むしあつい曇天なのだ。汗にまみれてハダカの女の子を睨んでいるのはつらい。しかし、先方も商売。又、私も商売。

 日劇小劇場、新宿セントラル、浅草小劇場と三つ見てまわって、一番驚いたのは何かというと、どの小屋も女のお客さんが御一方もいらッしゃらんということであった。完全にいなかった。一人も。

 裸体画というものがあって、女の裸体は美の普遍的な対象だと思いこんでいたせいで、ストリップに女のお客さんもたくさん居るだろうと軽く考えていたのがカンちがいというわけだ。

 エカキさん方がすばらしいモデル女だというオッパイ小僧もセントラルにでていたが、美しくなかった。なるほど前から見ると、胸が全部オッパイだが、横から見ると、肩からグッとビラミッド型に隆起しているわけではなくて、肩から垂直にペシャンコである。お乳だけふくらんでいて、美しい曲線は見られない。

 画家はこのモデルから自分の独特の曲線を感じ得るのかも知れないが、その人自体は美の対象ではないようだ。

 裸体の停止した美しさは裸体写真などの場合などは有りうるが、舞台にはない。舞台では動きの美しさが全部で、要するに踊りがヘタならダメなのである。昔の場末の小屋のショオには大根足の女の子が足をあげて手を上げたり下げたりするだけの無様ぶざまなものであったが、それにくらべると、今のストリップは踊りも体をなしているし、そろって裸体が美しくなってることは確かであるが、裸体美というものはそう感じられない。

 むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

 ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。

 やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。

 まず程々にすべし。裸体が許されたからといって、やたらに裸体を見せるのが無芸の至り。美は感情との取引だ。見せ方の問題であるし、最後の切札というものは、決してそれを見せなくとも、握っているだけで効果を発揮することができる。

 だいたい女の子の裸体なんてものは、寝室と舞台では、そこに劃された一線に生死の差がある。阿部定という劇にお定当人が登場することが、美の要素であるか、どうか、ということ。生きた阿部定が現れることによって美は死ぬかも知れず、エロはグロとなり、因果物となるかも知れない。

 歌舞伎の名女形おやまといわれる人の色ッぽさは彼らが舞台で女になっているからだ。ところが、ホンモノの女優は、自分が女であるから舞台で女になることを忘れがちである。だから楽屋では色ッぽい女であるが、舞台では死んだ石の女でしかないようなのがタクサンいる。ストリップとても同じことで、舞台で停止した裸体の美はない。裸体の色気というものは芸の力によって表現される世界で、今のストリップは芸を忘れた裸体の見世物、グロと因果物の領域に甚しく通じやすい退屈な見世物である。

 いくらかでも踊りがうまいと、裸体もひきたつ。私が見た中ではヒロセ元美が踊りがよいので目立った。顔は美しくないが、色気はそういうものとは別である。裸体もそう美しくはないのだが、一番色ッぽさがこもっているのは芸の力だ。吾妻京子がその次。しかし、生の裸体にたよりすぎているから、まだダメである。舞台の上の女に誕生することを知らないと、せっかくの生の裸体の美しさも死んだものでしかない。

 セントラルのワンサの中で、小柄の細い子で、いつもニコニコ笑顔で踊ってるのが、私は好きであった。浅草小劇場で、踊りながら表情のクルクルうごく子が可愛らしかった。ニコニコしたり、表情がクルクル動いたり、たったそれだけでも、無いよりもマシなのである。たったそれだけで引き立つのだから、ほかの裸体はみんな死んでるということで、芸なし猿だということだ。

 女の美しさというものは、色気、色ッぽさが全部、それでつきるものである。裸体とても同じことで、生のままの裸体を舞台へそのまま上げたって、色っぽさは生れやしない。脚本がうまくても、どうにもならない。舞台の上の色ッぽさというものは、芸の力でしか表現のできないものだ。

 顔も裸体も決して美しいとは云われないヒロセ元美に人気があるというのは、見物人が低脳でないことを示している。舞台の色気というものは、誰の目にもしみつくはずだ。とにかくヒロセ元美の裸体にだけは色気がこもっている。舞台の上で、一人の女に誕生すること、それは芸術の大道で、ストリップも例外ではない。生のままの裸体の美などというものは、これから一しょに寝室へはいるという目的や事実をヌキにして美でありうる筈はなく、その目的や事実をヌキに、単に裸体をやたらにさらけだされては、ウンザリするばかり、この両者のバラバラの結びつきは、因果物の領域だ。見る方も、見せる方も、因果物なのである。

 しかし、因果物というものは、いつの世にも場末に存在するもので、私も因果物を見るのがキライではない。しかし、ストリップは因果物になりきってもいない。誰も好んで因果物になりたくはなかろう。困果物というものは、それを見る方も一匹の困果物に相違ないから、因果物になるには覚悟や心構えがいるように、因果物を見る方にも、覚悟も心構えもいるものだよ。誰だって、自分自身が一匹の因果物だなどと好んで思いたくはないが、こうむやみに芸なし猿の裸体ばかり押しつけられると、自分まで因果物に見えて、気が悪くなるよ。

 阿部お定女史が舞台に立ちたいというから、あのときは私が半日がかりでコンコンと不心得をいさめたのである。本人が舞台へでるというのは、因果物だからである。生の裸体が舞台へあがるのも、それと同じことである。美や芸術は見る人を救うが、ストリップは因果物の方へ突き落してくれる。


          


 8888という自動車は浮気のできない車だ。この車の持主は文藝春秋新社。私はこの車にのっている。半死半生である。私がこの車にのるときは、銀座から、新宿、上野、浅草へと駈けまわる運命にあるようである。今度もそうであった。

 浅草の染太郎へたどりつく。

「ちょッと淀橋タロちゃん呼んで下さい。どッこいしょ。死にそうだ」

「それが、先生。タロちゃん、出世しやはりましてん。撮影所へ行ってはりますわ」

「ヤヤ。タロちゃん、スターになりましたか」

「いいえ。脚本どすわ。このところ、ひッぱりだこや。忙しそうにしてはりますわ。身持もようなって、感心なもんや」

 浅草で大阪弁とはケッタイな。こう思うのは素人考えというものである。浅草は大阪と直結しているところだ。この店の名が染太郎、オコノミ焼の屋号であるが、元をたずねれば漫才屋さんのお名前。種をあかせば、納得されるであろう。浅草人種は千日前や道頓堀と往復ヒンパンの人種でもある。

 淀橋太郎は浅草生えぬきの脚本家であるが、終戦後突如銀座へ進出して銀座マンの心胆を寒からしめた戦績を持っている。今から三年ほど前、日劇小劇場にヘソ・レビュウというのが現れて人気をさらったのを御記憶かな。このヘソ・レビュウの発案者、ならびにヘソ脚本の執筆者が淀橋太郎であった。つまりストリップの元祖なのである。

「ヘソをだしゃ、お客がきやがんだからな。バカにしやがる」

 元祖は酔っ払って嘆いていた。長い年月軽演劇というものに打ちこんできた彼にしてみれば、女の子がヘソをだすや千客万来とあっては残念千万であったろう。

「こうなりゃア、お定ですよ。もう、ヤケだよ。ホンモノのお定を舞台へあげますよ」

「因果モノはよろしくないよ。よしなさい」

「いえ。ヤケなんだ」

 三年前といえば、浅草人種は何が何だか分らない時代であった。お客が何に喰いつくか、好みの見当がつかなかったのである。てんで分らねえや、と云って、淀橋太郎と有吉光也が渋面を寄せてションボリしていたものだが脚本家にとって、お客の好みが分らないぐらい困ったことはなかろうから、当時の彼らの苦しみは深刻であった。

「どうも純文学ものが、うけるらしいですよ」

 当時彼らはそんなことも言っていた。そして私の小説などもとりあげてやったが、一時はそれで成功したようである。しかし、それも短い期間で、淀橋太郎らの新風俗は解散し元祖が一敗地にまみれて、映画に転向してから、ストリップの全盛時代がきたという、めぐり合せの悪い男である。

 お定をひッぱりだす、という時には、もうヤケクソであったようだ。けれども、お定劇の主役にするというような大ゲサなものではなくて、幕間にちょッと挨拶するというプランであった。淀橋太郎は、そうあくどいことのできないタチで、ヘソの元祖でありながらアブハチとらずの因果な男だ。

 お定はこれを断って、別口のお定劇の主役の方をやった。これは大失敗が当然で、去年彼女に会ったとき、

「淀橋さんの方でしたら、きっとよかったでしょうね」

 と言っていたが、淀橋太郎の方でもダメだったろうと私は思う。因果物は、そう長つづきはするはずがない。阿部お定自身はダテや酔狂でなく役者になりたがっていて、芝居をしこなす自信があったようだし、相当芸が達者だったという話であるが、見物の方は因果物としか受けとらないから、どうにもなりやしない。

「タロちゃんをヘソの元祖とみこんで、わざわざやってきたのだが、さりとは残念な。今日は一日ストリップショオの見物に東京をグルグル駈けまわってきたのだよ。最後に浅草でタロちゃんに楽屋裏を見せてもらいたいと思ってね」

「それでしたら、都合のいい人が来合してはりますわ。隣りの部屋にヒルネしてござるのは浅草小劇場の社長さんや」

 ヒルネの社長はニヤリニヤリとモミ手しながら現れた。イヤ、どうも。さすがに浅草。奇々怪々なる人物が棲息しているものだ。相当な御年配だが、ストリップの相棒の男優が舞台できるのと同じハデな洋服を、リュウと又、ダブダブと、着こんでいらッしゃる。

「さ、ビールを、一ぱい」

「ヤ。私は一滴もいただけないのでして」

 社長は辞退して、おもむろに上衣をぬぎ、満面に微笑をたたえて、

「浅草小劇場は家族的でして、私が社長ですが、社長も俳優も切符売りも区別がないのですな。私が切符の売り子もやる。手のすいてる子が案内係りもやるというわけで、お客様にも家族的に見ていただこうという、舞台は熱演主義で、熱が足りない時だけは、私が怒ることにしております。ストリップは専属の踊り子が十二名おりまして、数は東京一ですが、目立った踊り子はいません。しかし、ストリップ時代ですな。浅草におきましては、日本趣味がうける。和服からハダカになる。これが、うけます」

「踊り子の前身は」

「それぞれ千差万別でして、女子大をでたのが居たこともありますが、概して教養はひくいですな。ところが、ストリップの踊り子はハダカより出でてハダカにかえる、と申しまして、相当の給料をかせぎながら、常にピイピイしておる。ストリップの踊り子に後援者はつきません。当り前のことですな。自分の女をハダカにして人目にさらすバカはいません。踊り子は自分で男をつくる。男の方を養ってる。そこでストリップの踊り子の情夫は最も低脳無能ときまっております。女の方が威張っておりまして、情夫への口のきき方のひどいこと、きいていられないあさましい情景で、腹のたつときがありますな」

「給料は」

「ワンサで、日に五百円。一流の子で二千円から二千五百円ぐらいのようです。ところが奇妙に、踊りのうまい子はハダがきたない。必ずそうきまっているから、ジッと見てごらんなさい。よく見るとシミがある。フシギにそう、きまったものです」

 この御当人の方がフシギであるから、お言葉を真にうけていられない。

 案内されて、浅草小劇場へのりこむ。おどろいたね。

 焼跡にバラックのミルクホールがあったと思いなさい。それがこの小屋の前身なのである。そこへ舞台をくッつけて浪花節をかけてたのがつぶれたあとへ、この社長氏がたてこもったのである。彼は骨の髄からの浅草狂で、軽演劇とバラエテ、浅草の古い思い出が忘れられないのである。

 見物席の横ッちょに音楽と照明席をとりつける。ミルクホール、浪花節、レビュウ小屋と、たてますたびにデコボコにふくれる。ツギハギだらけのデコボコである。はじめは一日に五十人という悲しい入りが何ヵ月かつづいたそうだ。

 役者も踊り子も食えない。二日ぐらいずつ御飯ぬきで、ヒロポンを打って舞台へでる。メシを食うより、ヒロポンが安いせいで、腹はいっぱいにならないが、舞台はつとまるからだという。それでも浅草と別れられない。それが浅草人種の弱身でもあり、強味でもある。

 ストリップをやりだしたら、にわかに客がふえた。そこで舞台をひろげて、楽屋をくッつける。又、デコボコがふえたのである。うしろはズッと焼跡だから、もうかり次第、まだデコボコのふえる余地は甚大である。表から見たところでは、とにかく便所はあるだろうが、楽屋などゝいうものが在るようには見えないが、三畳ぐらいの小部屋が六ツぐらいも、くッついている。ちゃんと一通りそろっているのが手品のようなグアイで、おもしろい。しかし、客席から楽屋へ行くというような器用なことはできなくて、外をグルッと一周しなければ行かれない。

 この小屋はデコボコ・バラックの雰囲気によって、おのずから成功の第一条件をにぎったといえる。このデコボコは、たくんで出来る性質のものではない。社長、従業員、支配人、案内係りなどゝキチンと取り澄まそうたって、このデコボコが承知しやしない。イヤでも家族的にならざるを得んじゃないか。見物人も他人のウチへ来たような気はしなかろう。お膝を楽に、などゝ云われなくたって、お膝を楽にする以外に手がないという小屋だからである。この効果はマグレ当りであるがこの小屋の強みであることに変りはない。

 ここのストリップは、表情のクルクルうごく子が、変に新鮮で可愛らしい。素人あがりで、見よう見マネで一人でやってるのだそうだから、天分があるのだろう。あとの子は昔ながらの浅草レビュウで、体をなしていない。

 男と女が現れ、クロール、ブレスト、バタフライ、水泳をまねた踊りをはじめた。ストリップの踊りとしては新鮮な思いつきだと思って、見ていると、踊りがダメで、ハシにも棒にもかからぬものになってしまった。

 芸である。ほかの文句は無用、芸が全部だ。こういうデコボコ・バラックで見るにたえる芸人をとりそろえると、時代の名物になる可能性は甚だ多い。旅の心、ノスタルジイとか、ふるさと、などゝいうものに、小屋自体の雰囲気が通じているからである。


          


 気がつかないと、なんでもないが、ズラッとみんな男だけ、それも相当の年配なのが、目玉をむいてギッシリつまっているというのは、それに気がつくと、どうもタダゴトならぬ気配である。

 見物人の一人としてこの気配の中に立ちまじっていても胸騒ぎがするぐらいだから、経営者側には、これが頭痛のタネなのは当り前だ。GIはキャア〳〵喚声をあげ、女の子のハダをなでたり、一心同体のうちとけぶりを現すが、日本人の観客は拍手ひとつ送らないのである。これに気がつくと凄味がある。音もなく、反応もなく、ただ目の玉が光っているのである。タメイキをもらすわけでもない。実にただ黙々と、真剣勝負のような穏かならぬ静かさである。

 そこでかの浅草小劇場の社長先生が考えたのである。GIだけ人種がちがうというわけはない。日本人だって酔っ払えばGIなみなハデな喚声をあげる仁もある。素質がないわけではないのだから、こっちのやり方ひとつで、日本人をGIなみの見物態度に誘導できないはずはない。

 そこでストリッパーを踊りながら客席へ降ろすことを考えた。踊りながらタバコをすう。口紅のついたタバコを見物人にさしあげる。

 ところが、もらってくれないのである。三人のうち二人は身体をねじむけて、ソッポをむいてしまう。一人はわざと渋々うけとり、まずそうに吸ってペッペッとやる。そうかと思うと一人は三分の一だけ吸い、残りをうやうやしく紙にくるんで胸のポケットへ大事にしまいこんでしまった。拒諾いずれにしても沈々として妖気がこもってることに変りはない。

 日本のストリップショオの見物人を家族的にうちとけさせるのは実に一大難事業であるというのが彼氏の結論であるが、これも、一方的な、手前勝手な言い分なのである。

 踊り子が生きとらんじゃないか。彼女は踊り子ではなくて、生の裸体にすぎんじゃないか。沈々として妖気ただよう見物人と全く同質の単なる肉体にすぎないのである。

 肉体がタバコをすって、ギコチないモーションで口紅だらけのタバコをつきだせば、誰だってギョッとすらあ。これにスマートな応対をしてくれたって、ムリのムリですよ。

 お客をうちとけさせるには明るく軽快でなければならず、これも芸を必要とする。芸なし猿が口紅だらけのタバコの吸いさしを突きだすなどゝは、アイクチを突きだすぐらい穏かならぬ怪事としるべし。生き生きとした笑顔ひとつ出来ないというデクノボーのような肉塊にすぎないのだもの。

 見物人にインネンをつけるよりも、踊り子の芸を考えてみることである。

 先般、文藝春秋だかに、メリー松原と笠置山の対談があって、メリーさん曰く、肉体が衰えてはいけないから情事をつつしまねばならぬ、とある。こんな物々しい考え方もしてみたいのだろうが、ムダなことだよ。芸だけ考えればタクサンなのである。芸というもの、舞台の上で女に生れるということを本当に心得ていないから、肉体の衰えだの、情事だのくだらぬことを考える。むしろ正確に情事を学ぶ方がいくらか芸のタシにはなるだろうさ。

 私がストリップ見物に出発とあって、迎えにきた8888にのりこむと、旅館のオカミサンや女中サン大変なよろこびようで、

「ストリップ見せてえ! つれてきて下さいよう!」

 歓呼の声に送られて出たのである。

 内職の座敷の踊り、その道で「全スト」という。さすがにゼネストとまぎらわしい穏かならぬ言葉であるが、一糸まとわぬストリップの意味なのである。

 しかし舞台のストリップを見れば一目瞭然であるが、このうえ全ストなどゝいうものはそればッかりはゴカンベンという気持になる。もっとも、全ストから寝室へ直結するという意味だったら、通用する。寝室へ直結するだけの生の裸体でしかないのだから。そして、もし、寝室へ直結しないとしたら、全スト見物などゝいうことは、一番みすぼらしく哀れな自分自身を見物することでしかないのである。全ストは踊り子よりも見物人の方が見物であろう。踊り子の方は、まだしも、商売だからな。

 しかし、この商売ということで、生の裸体を売る稼業はパンパンであって、舞台で売るものではないはずなのだが、踊り子さんの大多数はパンパン・ストリップでしかない。寝室へ直結するだけの生の裸体でしかないのである。こんなストリップは、とても春画に勝てない。春画の方は超現実的な構成が可能だからである。

 春画を見るとき、どんな顔付をすべきか、というようなことは、どこの大学校でも教えてくれないだろうが、大人物ともなれば、悠揚せまらぬ春画の見方というような風致あふるゝ心構えがあるのかも知れない。しかし春画を見るに際して、悠々として雅趣に富んだ顔付をしてみたって、救われるものではないだろうね。だいたい、悠揚せまらぬ顔付をすることだけでも、たいへん顔に心を使っていることがわかる。

 ストリップもそうで、たいへん顔に心を使う。顔に心を使わせるようでは、芸ではない。いくらか芸のうまい子、ニコニコした子、クルクル顔のうごく子などだと、顔に心を使わずに打ちとけることができるのである。見物人に大人物の心構えを思いださせるようでは、とてもダメだ。だいたい、拍手も、タメイキも起らぬ。いかなる物音も起らぬという劇場は、妖怪屋敷のたぐいにきまっているな。

 私も商売であるから、日劇小劇場では、一番前のカブリツキというところへ陣どり、沈々としてハダカを睨んでいる。女の子のモモが私の鼻の先でブルン〳〵波うち、ふるえるのである。決して美というようなものではない。モモの肉がブルン〳〵波うつなどゝは、こっちは予測もしていない。ギョッとする。そのとき思いだすのは、大きな豚のことなどで、美人のモモだというようなことは、念頭をはなれているのである。

 わざわざ仮面をかぶり、衣裳をつけて、現れる。これを一つ一つ、ぬいでいく。ぬぐという結論が分っているから、実につまらん。どうしたって脱がなきゃ承知しないんだというアイクチの凄味ある覚悟のほどをつきつけられている見物人は、ただもう血走り、アレヨと観念のマナジリをむすんでいるのである。どうしたって、脱がなきゃならんのか。コラ。

 それは約束がちがいましょう、というようなことは、どこにでもある手練手管であるがストリップショオに限って、コンリンザイ約束をたがえることがない。こう義理堅いのは悪女の深情けというもので、ふられる女の性質なりと知るべし。

 かの社長さんが満面に笑みをたたえて、こうおっしゃった。

「しかし、ストリップはつまらんですな。熱海かなんかで、男女混浴の共同ブロへはいる方が、もっと、ええでしなア」

 御説の通りである。芸のない裸体を舞台で見るよりは、共同ブロへはいった方がマシであろう。

 私は浅草小劇場から、座長の河野弘吉をひっぱりだして、ヤケ酒をのんだ。

「私は芸にうちこんできたつもりですが、ハダカになりゃ、お客がくるんですからな」

 まア、あきらめろよ。しかし、芸というものは、誰かが、きっとどこかで見ていてくれるものだ。

底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房

   1998(平成10)年920日初版第1刷発行

底本の親本:「文藝春秋 第二八巻第一〇号」

   1950(昭和25)年81日発行

初出:「文藝春秋 第二八巻第一〇号」

   1950(昭和25)年81日発行

入力:tatsuki

校正:宮元淳一

2006年110日作成

青空文庫作成ファイル:

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