安吾巷談
天光光女史の場合
坂口安吾



 松谷事件は道具立が因果モノめいていて、世相のいかなるものよりも、暗く、陰惨、蒙昧、まことに救われないニュースであったが、骨子だけを考えれば、昔からありきたりの恋の苦しみの一つで、当事者の苦しみも察せられるのである。

 骨子は何かと云えば、

一、政治意見の対立する男女が円満に結婚生活と政治生活を両立せしめうるか。

二、男には妻子がある。

 悲しい恋の骨子というものは、何千年前から、似たようなものだ。親父同志が敵味方であるのに、そのせがれと娘が恋に落ちたという話なら、何千年前のギリシャにも、何百年前の日本にも、又、類型はいたるところに在ったことは、私が今さら例をあげるまでもない。異教徒の恋、異人種の恋、悩みに上下はない。兄妹の恋、近親の恋、いずれも世に容れられず、世の指弾と闘わなければ生きぬくことができない。

 骨子としては、そう珍しいものではないし、変ったところはないのであるが、道具立が珍妙、陰惨、蒙昧、何千年来の恋の茶番劇にも、これほど因果モノめいた脚色は先ず見ることができない。ピエロや、アルカンや、コロンビーヌや、ジャンダルムが活躍し、スガナレルやフィガロが登場しても、これほどの因果モノ的ナンセンスを生みだすことはできなかったのである。事実は小説よりも奇なりというが、これを又、一生ケンメイに報道している例えば朝日新聞の朝五時十五分脱出、墓参の記というあたり、読んでごらんなさい。

「月明りの中にポカリと黒い人影が二つ……ザクザクザクと霜柱をふみしめながら寂しい松林をすすんで……東天かすかに白み細々と立ちのぼる線香の煙……一分、二分、……五分……この朝の劇的な門出を母の墓前に報告し、その許しを乞う姿なのである……」

「機関銃はダダダ……爆弾はヅシンヅシン、アッ日の丸の感激、思わず目頭があつくなり……」

 戦争という言論ダンアツのせいで文章がヘタになったというのはウソの骨頂で、言論自由、もっとも文才華やかなるべき当節に於て、右の二つ、変るところなし。

 文章は綴り方だけではない。作者の思想が品格を決定する。右の二つの文章から、作者の思想をさがせ。

(試験問題)

 だから、新聞というものは、事実の正確な報道だけをムネとして、記者の感情や批判をミジンも出さないようにすれば、私のような三文文士にケチをつけられる筈はないのである。

 二三カ月前、読売新聞だけがこの恋愛をスクープしたとき、女史の父正一氏が狂的な怒りをあらわして、天光光は自分が育てた子供だから自分の意志の通りに行動させる。きかなければ天光光を殺して一家心中する、という大変な見幕であった。呆気にとられたのは私一人ではなかった筈だが、これとても、骨子は狂ってはいない。つまり正一氏が結婚反対の理由としてあげている骨子は、

一、政治意見の異る二人に結婚生活は両立しない。

二、男には妻子があり、天光光のために妻子をすてた。したがって、他の女のために天光光をすてる危険がある。

 いかにも当然な心配だ。

 この二つの事柄については大いに論議の余地があるが、娘の父たる者が、最も常識的な立場で不安を感じるのに不思議はない。

 けれども、他の道具立てが、ギリシャのファルスよりもナンセンスで、因果モノで、救いがないのである。

 私は日本中の新聞が発狂しているのではないかと考えた。これは多分に好意的な見方なのである。もしも発狂ではないとしたまえ。蒙昧。いくら負けた国の話にしても、やりきれないじゃないか。

 どの新聞も、あたり前のように、否、父正一氏の立場をむしろ是認して書いている。父が一生かかって果せなかった政治活動を娘にやらせているのだ、と。

 天光光氏は、公人として恋愛は不可能だと妙な声明書を発表したことがあったが、右の新聞の筆法だと、天光光なる娘は、私人のほかに公人として行動し、もう一つ、父の身代りとして、三重に生きているヤヤコシイ因果娘なのである。

 この国の憲法でも、二十になれば独立独歩の人格として、認められることになっている。

 そんな約束は別としても、何万人という人々によって選ばれた松谷天光光という代議士が、架空の人物で、親父の身代り、代弁者にすぎない、などという怪談を信じていいのだろうか。

 こんな事実が有ったとすれば、日本の悲劇、日本の蒙昧、きわまれり、というべきではないか。こんな因果娘を代議士にもつ国民の顔が見たいネ。田舎のお祭の因果モノの見世物小屋の話ではないよ。現在日本のホンモノの代議士ですよ。こんなバカらしい茶番は、モリエールでも思いつかなかった。ギリシャの天才もこんなギャグに思い至ることができなかった。茶番が発生する地盤には、もっと高い文化生活があって、これほどの蒙昧を許すことができないのだ。総理大臣がキチガイだったというようなナンセンスは可能であるが、困果モノは文化の世界には容れられない。あくまで田舎まわり専門なのである。キチガイは人間の世界であり、これを治す精神病院というものが確立されているが、因果モノは人間の領域ではない。これに対処するには教育という根本問題があるだけで、因果モノや迷信を治す病院などはないのである。

 父一代で不可能な事業を子供に継承させるということは大いに有りうることだ。特に、学術に於ては、そうだ。しかし、そこには、発展ということが当然約束されていることを忘れてはならない。

 つまり、人間というものが、本来、過去を継承して、発展する動物なのである。その人間本来の関係が、父子の場合に行われるだけの話で、その子に課された役割は、単なる継承や身代りではなく、発展なのだ。言うまでもなく、子は父から独立している。

 自分で果し得なかったことを人にやらせる。追放の政治家が黒幕となってロボットを立てる。天皇をロボットにして、号令を行う。そういうロボットを政治の前提として承認し、これを疑り、改良することを忘れている日本人の蒙昧が、この事件の性格でもあるのかも知れない。天光光正一の因果モノ的関係は、日本人本来の因果モノ性に由来しているのかも知れない。すくなくとも、新聞の筆法を見れば、松谷父子の因果モノ的蒙昧さは、新聞人の頭のレベルでもあることが分る。黒幕だのロボットが公認されている日本の政治の悲しさ貧しさ。日本の政治というものが、因果モノでしかない、という悲しい断定も詭弁ではないのである。

 天光光を殺して一家心中するという。まことに狂的で不穏であるが、一家心中というのが日本によくあるのだから、笑うわけに行かない。代議士の一家だといっても特別なものではない。日本がそれだけなのである。

 見たまえ。この父に対処する天光光嬢は、身は代議士でありながら、少しずつフロシキ包みにして身の廻りの物を持ちだし、みんな持ちだしてしまうと、父の寝しずまるを待って家出して、結婚した。

 代議士がミーちゃんハーちゃんと同じことをやってはイカンという規則はない。否。代議士もミーちゃんハーちゃんも同じ人間にすぎないのである。それをハッキリ自覚しておれば、天光光氏も因果モノにはならないのである。

 五時十五分。家出して、男の車に迎えられて、走り行く先は墓地とくる。墓前にぬかずき、結婚式場では泣いて……大マジメというのは困るよ。どこにもウイットがない。明るく軽快なところはミジンもなく、自分を客観している理性が欠如しているのである。だから彼女の一挙手一投足、因果モノをぬけだしている要素が根抵的に欠如している。救いがないのである。

 これを良く云えば、彼女はあくまで日本的だ。松谷家は代表的な日本人の家でもある。封建時代さながらの、何の理知もない、暗い日本の家なのだ。天光光嬢の行為は、そのような原始日本の一番低い感情や生活を地で行っているだけのことで、その限りに於て、代表的な日本人でもあるわけだ。

 ただ我々が、新しい生活、より良い生活というものを考えることを知らない人間でありさえすれば、天光光嬢の武家時代さながらの家出結婚をとりあげる必要はないだけの話なのである。


          


 天光光嬢に関する限りは、その因果モノ的性格が気になるだけのことであるが、園田氏の場合になると、様相はガラリと一変する。

 天光光嬢はフロシキ包みを連日にわたって持ちだし、墓前にぬかずき、結婚式場では泣いているが、これをリードする園田氏は徹頭徹尾理知的だ。すべてを客観し、構成しているようである。

 この家出結婚をスクープした記者は、偶然の情報で、園田氏とレンラクがあったワケではないと云っているが、その情報というものをトコトンまで追求して行けば、正体はおのずから現われてくる。記者の云っていることは、情報は直接園田氏又はその近親から受けとっていない、というだけのことだ。

 恋愛というものは、タッタ二人でやる性質のものだ。家出結婚というものも、二人だけの秘密ですむべきものだ。作為がなければ、決して洩れる性質のものではない。まして、女の父は一家心中するとまで云っている危険人物ではないか。その父の寝息をうかがうに、脱出の時間まで、きまっているとは、都合のよすぎる話であるが、もし、読者諸君にして冷静に考えれば、先ず第一に、カゴの鳥ではあるまいし、三十女の、レッキとした代議士が、なんで未明に家出する必要があるか、と疑えば、足りる。午前八時でも十時でも、買物に行ってきます、と云って家を出れば足ります。

 未明五時十五分に家出して、墓前へぬかずく、それを追跡する記者がある、芝居じみたことをやるものだ。そんな危険をおかす必要は毛頭ない。ただ、政治的カラクリをのぞいては。

 こんな人の理性をなめたことをやらず、真剣に、恋愛一途に没頭し、同じ家出をやるにしても、ミーちゃんハーちゃんと同じように、買い物に行ってきますと云って家出して、つつましく結婚していれば、どれぐらい素直で、人の反感を刺戟しなかったか知れないであろう。

 連日にわたってフロシキ包みを持ちだして、ミーちゃんハーちゃんと同じことをやっていながら、家出という一事のみに、代議士なみの効果を利用し、午前五時、ヘッド・ライト、墓前、線香、このイヤミは、人間がその一途の恋に於て当然そうあるべき素直さを汚すこと万々である。

 この茶番をマトモにとりあげて疑うことを知らない大新聞の推理力の不足さは決定的で、拙者の探偵小説でも読んで、大いに勉強することである。

 御両氏が政治的に失脚することを怖れての努力は当然であるが、その方法に於て、理性の低さということは、ここでも見逃せない。恋愛というものは、恋愛に一途でありさえすれば、他のいかなるカラクリにも勝ること万々で、必ず人をうつ性質のものである。恋愛に一途であって、世の悪評をしりぞけることが出来なかったタメシはない。すてられた女房や亭主に対する同情よりも、一途の恋人の方が必ず世評に於ても勝つのである。

 多少の道学者はすてられた女房や亭主に同情するが、ミーちゃんハーちゃんは常に恋人の味方であり、それがほゞ全般的な大衆の気分でもあること、古今東西、殆ど変りはない。

 彼らがもし恋愛に一途であり、恋愛のためにすべてを怖れざるの勇気がありさえすれば、彼らは政治的にも救われたのだ。カラクリを弄する必要はない。人間万事、そうだ。事に処してそれに殉ずるのマゴコロがあれば、すべてに於て救われる。

 大衆は正直であり、正義派だ。彼らはマゴコロに対しては常に味方で、一つのマゴコロを成就するために多少の罪を犯しても、マゴコロの純一なるによって他の罪を許してくれるほど寛大で、甘いのである。

 この点に於て、御両氏は策をあやまっている。

 御両氏の結婚を成就せしめんと努力した堤マサヨ代議士に至っては、さらにフンパンの至りで、文士と代議士では、考えること、為すこと、アベコベのようだ。私だったら、こういう友人の激励はゴメン蒙って、どうかお引きとり下さい、と頼む。

 厳粛なる事実があったから結婚させた、という。そんなもの、有っても無くても、いいじゃないか。ボクらにとって、問題は、二人が結婚せずにいられないか、いられるか、結婚せずにすむなら、結婚する必要はないだけの話である。情熱の問題である。

 厳粛な事実、とは何ですか。ニンシンのことですか。そんなものが結婚を余儀なくせしめる理由になるなら、すでに結婚して何人も子供を生んでいる先夫人の方が、より大きな厳粛な事実じゃないか。この女代議士は何を言うつもりなのだろう。

 一時のアヤマリということがある。若気のアヤマチというが、年をとってもアヤマチは絶えないものだ。まして未婚の天光光氏がアヤマチを犯すのは有りがちで、フシギはないのである。

 アヤマチは仕方がない。これを繰りかえさぬ分別が大切で、一度のアヤマチを生かして前途の指針の一つとし、二度と同じ愚を犯さぬように利用できれば、充分で、かかる工作を理性の力というのである。

 ニンシンぐらい、何でもない。この結婚が不適当と分ったら、ニンシンぐらいにこだわらず、結婚をとりやめるのを理性といい、そこに進歩もあるのである。ニンシンにひきずられて、不適当と知りながら結婚するなどゝは、新派悲劇以前で、ヨタモノだったら、女をニンシンさせて抑えつけて、ゆすったりするが、理性ある人間の社会では、こんな悲劇はもう存在しない。ニンシンにひきずられて不適当な結婚をするよりも、私生児をかかえて不適当な結婚を避ける方が、どれぐらい理にかなっているか知れない。

 だいたい女が不適当な結婚と知りながらニンシンにひきずられて結婚するのは、女に独立の生活が出来ないからで、男と結婚しなければ生きられず、又、私生児を抱えては他の男と結婚するチャンスもない。そういう場合の悲劇だ。

 天光光氏の場合には、あてはまらない。もし私生児を抱えて結婚しないことが不都合であるとすれば、政治的な意味に於てで、選挙対策として不都合だというに尽きるであろう。

 生活の手段としての結婚はほゞ絶対的なものであるが、選挙対策としてならば、結婚は必ずしも絶対的のものではない。

 堤氏の言う如く、この結婚はまちがっているが、厳粛なる事実があるから、仕方がなかった、などゝいうのは、本末テントウも甚しいものだ。厳粛なる事実などはどうあろうとも、結婚の適、不適、二人の愛情の問題が常に主となるのが当然だ。

 天光光氏がすぐれた政治家であるなら、私生児を抱えたって、なんでもない筈なのである。しかしながら、このようにキメつけるのは残酷である。どんなに実質的に偉い政治家でも、人気商売であるから、額面通りにいかない。ちょッとした悪評で、落選する危険は総理大臣たりとも有るのだから、仕方がない。

 しかし、選挙対策として、結婚することが絶対にさけがたいものであったか、これは問題のあるところだ。

 すくなくとも、天光光氏の場合は、結婚しない方が、よかったかも知れない。そして、天光光氏は、選挙対策よりも、恋愛自体を、より重大に考えていたかも知れない。

 私は恋愛だとか結婚というものを処世の具に用いることを必ずしも悪いとは思わない。なぜなら、どんな熱烈な恋心でも、決して永遠のものでは有り得ないからだ。恋心は必ずさめる。きまりきっているのだ。もしも人間が自分の情熱に忠実でなければならないとすれば、なんべん恋愛し、なんべん離婚し、結婚しても、追いつきはしない。結婚などゝいうものは、その出発の時はとにかくとして、あとは約束事であり、世間並のものであり、諦めの世界でもある。だから、結婚を処世の具に用いるぐらい、当然なことでもある。

 この自覚がハッキリしておれば、よろしいのである。

 かと云って、私は選挙対策のために結婚しました、とも云えなかろう。別に云う必要もないのである。

 しかし、処世の具でもあり、一途の恋心によってでもある、ということは成り立たない。二者併存しておれば、何のナヤミ、何の面倒があろうか。

 もしもナヤミと面倒があったとすれば、天光光氏の場合に於ては、

一、政治的に対立するものの結婚生活が成り立つか。

二、男には妻子があった。

三、以上の理由で父が反対している。

 ということで、すでに前々から云う通り、この骨子に関する限り、珍奇なところはないのである。骨子だけで云えば、これは一応悩むのが当然だ。当事者として、この三つに対処するナヤミのほどは、相当にもつれざるを得なかったであろう。

 一番軽率で、イイ加減なのは、厳粛なる事実の先生で、以上の問題が厳粛なる事実などで割り切られては助からんのである。

 こういうチンプンカンプンの道義感よりは、選挙対策で恋愛問題を割りきる方がむしろ清潔でサッパリしている。厳粛なる事実などを持ちだす限り、園田氏は妻子を離別すべからず、これが鉄則でなければならない。この厳粛なる事実の前では、天光光氏の厳粛なる事実は問題とならないのである。

 もっとも、堤女史が厳粛なる事実を持ちだしたのは、その道義感によってではなく、又、自らの選挙対策によってである、というなら、何をか云わんや。これは論議のほかである。天光光氏の問題とは関係のないことだ。


          


 政党を異にするものの結婚生活が成立するか。

 この問題に関して、世は挙げて懐疑派がいないらしいから、フシギである。そんなにハッキリきまったもんかね。政党の異なる人種は結婚できんときまっていますか。

 政党とは何ぞや。党員とは何ぞや。選挙に於て、民衆が政党を選ぶか、個人を選ぶか、まア、政党を選ぶ方が本当だろう。民衆は自由人である。党員とは違う。時に際して、時に適した政党を自由に選ぶだけである。

 しかし、政党員は政党のロボットで、自由人では有り得ないか、そんなバカなことはない。党員とても自由人で結構ではないか。党員の節操はロボットたることではなかろう。

 しかし、まア、そういう論議は政治とは何ぞやということになって始末に負えなくなるから、いゝ加減で切りあげて、問題を、結婚へ移そう。

 政党といっても、根は思想であるが、思想の異る二人の自由人が結婚生活を持続することが出来ないか、どうか。

 ボクら文士の場合、文士というものは、徒党的に一括することのできないものだ。一人一人立場が違う。しかし、結婚生活は不可能ではない。

 文士二人結婚して、作風を似せ合うということもない。

 結婚はとにかくとして、恋愛について云えば、尚更のこと、ショパンはジョルジュ・サンドに惚れたが、この二人は凡そ思想的に通じたところはない。しかし、思想の異質の人間が、惹かれ合い、恋し合うことは不自然ではなく、世上ザラにあることだ。天光光氏の場合も、ちッとも怪しむに足らないし、又、それだからその恋愛が不純だなどゝいうバカな理屈はありうべきことではない。

 恋愛にして、しかりとすれば、結婚はその延長にすぎないもので、なにも屁理窟を弄するところはない。

 結婚生活というものは、屁理窟の世界ではないのである。思想が違うから、とか、人種が違うから、とか、そういう一般論では割りきれないもので、男女二人の関係は、いつの世に限らず、男女二人だけの独特の世界だ。各人の個性と個性によって均衡を保つか破れるかする世界で、つまり二人だけで独特の世界を生ずるもの、決して公式によって割りだすことができない。だいたい男女関係が公式で算定できるなら、万事占師にまかせてよろしく、小説家など存在する必要はないのである。

 立場も思想も育った環境も違う二人が結婚することはザラにあることだが、恋愛とか結婚は先入主を持つ必要はないのである。二人の愛情が結婚まで延長せざるを得ない思慕によってつながる故に、結婚するというのが、結婚の第一義だ。

 私に一番不可解なのは、政党の違う男女が結婚できないときめこんでいる人々の頭で、そんなルールをどこから見つけてきたのですか。

 夫婦円満というのは、アナタの云うことゴモットモ、ゴモットモ。バカバカしい。ゴモットモが円満の証拠ではないです。

 各人独立独歩の男女なら、みんな各々自ら独自の見解があり、ゴモットモでは、すみませんよ。どこの家庭にも論争のあるのは当然で、ゴモットモの方が、どうかしているのである。

 独自の見解をまげる必要はないではないか。あらゆる意見が同一でなければ夫婦とは申されないというなら、先ず夫婦というものは、この世に有りうべからざるものだと考えてマチガイはない。

 小さな好みの問題ではなく、両人ともに政治家であり、表看板の政治的見解が相違していては致命的だという見方が多いのであるが、だいたいに於て見解の一致ということは一方を奴隷として見る場合にのみ有りうることで、理知というものは、各人の立場の相違というものを基本的に認めているものである。

 人格を認め合い、信頼し合えば、友情はなりたつ。結婚生活も同じことで、友情がなりたてば、足りる。両々軽蔑し合えば、もうダメであるが、敵と味方でも尊敬し合うことはできるもので、その限りに於て、政見を異にする故に、夫婦生活が持続できないということはない。

 二人の政治意見がおのずから歩み寄ってもよいが、歩み寄らなくともよい。

 男女二人のツナガリは常に独自のものであるから、どういう意想外の二人が結びつくのもフシギではなく、その二人が現に在りうれば、そういう関係が有りうることになるだけなのである。

 私はしかし御両氏の関係は、かなり前途多難だと考えている。

 その第一は、天光光氏は理知性が低い。自分を客観的に眺めるという態度が本質的に欠けている。彼女は純情であり、恋愛に対してはヒタムキであるが、その政治行動が父のウケウリであったように、自分の判断というものが乏しいのである。これも父正一氏のウケウリであろうが、夫婦は政見を同じくしなければならない、ということを疑ぐるべからざる前提としているのである。

 これに対して園田氏は、政見を異にしても夫婦関係は成立するということを見きわめている。この点は、はるかに大人の態度である。

 しかし問題は、いつでもサリゲなく家出できる筈の三十女を朝の五時ごろ家出させ、墓地へ運んだり、これを新聞記者に追跡させたり、いろいろとカラクリしていることだ。以上の点を考えれば、氏に於ける愛情の熱度はこれによって量りがたいが、氏が結婚を政治的に利用していることは確実だ。これが前途多難を暗示するその二である。

 両々これだけのユトリがあれば、まだ救われている。しかるに一方の天光光氏は、因果モノ的にヒタムキで、園田氏のユトリや策略とツリアイがとれていないのである。

 この不ツリアイなところに偶然の妙味が生れて二人の均衡がシックリ行けば結構であるが、天光光氏が単にヒタムキな白紙の魂とちがって、夫婦は政見を同じくしなければいけない、などゝ色々と父の狂信的なシメールを背負っている。理知的な内省が乏しく、単に背負ったシメールだけが大きく重いから、これを突きつけられると、たいがい男の方もウンザリしてくるだろうと思う。

 おまけに、天光光氏を家出させるに、これだけの芝居を打つ以上、園田氏が政治生命をこの結婚に賭けていることは大であろうから、フタをあけてみて、その政治生命がうまいようにいかないと、血路を他にもとめるのは自然であろう。

 天光光氏も理知の低い人で、恋愛に当って、公人だからどうのと云う。こまったガンメイさである。公人もヘッタクレもあるものではない。ミーちゃんもハーちゃんも代議士も恋に変りはないのである。それだけの見解すらも持たないこの人の貧しさが悲しい。

 恋にヒタムキであっても、どこかヒタムキのピントが外れているのである。ヤブニラミなのである。代議士というユーレイに憑かれて、足が宙にういているのだ。

 ヒタムキであり、純情ではあるが、私はこういう理知の足りないピント外れのものは好ましく思わない。

 園田氏は太々しく、一向に純情なところがなく、この恋愛を利用することを主にしているが、私は因果モノ的にヒタムキな純情よりも、園田氏の計算的な方を、むしろその理知的の故に、とるものである。

 しかしながら、恋愛というものは、むしろ計算の念がない方が勝利を占めるのである。これを政治的に利用することを考えず、恋愛一途に生きぬこうとする方が、結局、政治的にも勝利を占めることになるのである。

 イギリスの前皇帝の場合を考えてみたまえ。帝位をなげうって恋に生きる。まことに明朗で、誰もこのお方を軽蔑などしない。むしろ万人の敬愛をうけるであろう。

 恋愛とは、こういうものだ。

 あとで失敗してもかまわないものだ。帝位を投げうとうが、妻子亭主をなげうとうが、それ自身ヒタムキであれば救われる。少数の道学者はとにかくとして、多くの凡人はこれに対して決して不快を感ぜず、むしろそのヒタムキの故に、敬愛の念を寄せてくれるものである。

 園田氏が、もし、もう何級か上の、第一級の政治家であるなら、こんなケチな術策は弄せず、ヒタムキに恋愛に突入したであろう。

 すべて第一級の人物とは、事に処してヒタムキであり、高い理知と同時に、常に少年の如く甘い熱血にあふれているものだ。

 ナポレオンを見たまえ。世界をあらかた征服しながら、なッとらんラヴレターをかいて千々にみだれているではないか。

 だいたい代議士諸公は、策が多すぎるよ。政策が乏しいくせに、生活上の策が多すぎるのだ。

 ナポレオンをひきあいに出しては気の毒であるが、彼は戦争は巧みで、政治に又、手腕があったが、生活上には無策で、諸氏の足もとには遠く及ばなかった。

 生活上の策などは、いくら巧妙でも、政治のプラスには全然ならない。こういう生活上のカラクリを政治的手腕だと思う日本の政界のレベルの低さは、度しがたいものがある。

 しかし、ともかく、茶番は終った。

 御両人の政治上の生命も、結婚生活の生命も、今後にかかっているだけのことだ。今からでも、おそくはないのである。

 恋愛に生きることは、政治に生きることである。同時に、不本意な恋愛ならば、解消するのが、政治的に生きる方法でもある。恋愛自体はカラクリがなく、スッキリしていれば、おのずから救いがあるものだ。

底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房

   1998(平成10)年920日初版第1刷発行

底本の親本:「文藝春秋 第二八巻第二号」

   1950(昭和25)年21日発行

初出:「文藝春秋 第二八巻第二号」

   1950(昭和25)年21日発行

入力:tatsuki

校正:宮元淳一

2006年110日作成

青空文庫作成ファイル:

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