炎天汗談
太宰治



 暑いですね。ことしは特に暑いようですね。実に暑い。こんなに暑いのに、わざわざこんな田舎にまでおいで下さって、本当に恐縮に思うのですが、さて、私には何一つ話題が無い。上衣をお脱ぎになって下さい。どうぞ。こんな暑いのに外を歩くのはつらいものです。パラソルをさして歩くと、少したすかるかも知れませんが、男がパラソルをさして歩いている姿は、あまり見かけませんね。

 本当に何も話題が無くていけません。画の話? それも困ります。以前は私も、たいへん画が好きで、画家の友人もたくさんあって、その画家たちの作品を、片端からけなして得意顔をしていた事もあったのですが、昨年の秋に、ひとりでこっそり画をかいてみて、その下手へたさにわれながら呆れてそれ以来は、画の話は一言もしない事にきめました。このごろは、友人の作品にも、ひたすら感服するように心掛けています。

 これは、画の話ではありませんが、先日、新橋演舞場へ文楽を見に行きました。文楽は学生時代にいちど見たきりで、ほとんど十年振りだったものですから、れいの栄三、文五郎たちが、その十年間に於いて、さらに驚嘆すべき程の円熟を芸の上に加えたであろうと大いに期待して出かけたわけですが、拝見するに少しも違っていない。十年前と、そっくりそのまま同じでした。私の期待は、はずれたわけですが、けれども、私は考え直しました。この変っていないという一事こそ、真に驚嘆、敬服に価すべきものではないか。進歩していない、というと悪く聞えますが、退歩していないと言い直したらどうでしょう。退歩しないという事は、之はよほどの事なのです。

 修業という事は、天才に到る方法ではなくて、若い頃の天稟てんぴんのものを、いつまでも持ち堪へる為にこそ、必要なのです。退歩しないというのは、これはよほどの努力です。ある程度の高さを、いつまでも変らずに持ちつづけている芸術家はよほどの奴です。たいていの人は年齢と共に退歩する。としをとると自然に芸術が立派になって来る、なんてのは嘘ですね。人一倍の修業をしなけれあ、どんな天才だって落ちてしまいます。いちど落ちたら、それっきりです。

 変らないという事、その事だけでも、並たいていのものじゃないんだ。いわんや、芸の上の進歩とか、大飛躍とかいうものは、ほとんど製作者自身には考えられぬくらいのおそろしいもので、それこそ天意を待つより他に仕方のないものだ。紙一重のわずかな進歩だって、どうして、どうして。自分では絶えず工夫して進んでいるつもりでも、はたからはまず、現状維持くらいにしか見えないものです。製作の経験も何もない野次馬たちが、どうもあの作家には飛躍が無い、十年一日の如しだね、なんて生意気な事を言っていますが、その十年一日が、どれだけの修業に依って持ち堪えられているものかまるでご存じがないのです。権威ある批評をしようと思ったら、まず、ご自分でも或る程度まで製作の苦労をなめてみる事ですね。

 どうも暑いですね。こんな暑い日にはいっそドテラでも着てみたら、どうかしら。かえって涼しいかも知れない。なにしろ暑い。

──「芸術新聞」昭和十七年八月──

底本:「道化の精神」大和出版

   1969(昭和44)年228日初版発行

   1992(平成4)年630日新装1刷発行

初出:「芸術新聞」

   1942(昭和17)年8

入力:青空文庫

校正:土屋隆

2005年115日作成

2011年131日修正

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