桐生通信
坂口安吾


     田舎のメインストリートから


 私の住居は田舎の小都市ながらメインストリートに位している。この生活は少々の騒音を我慢すれば、かゆいところに手が届いて便利である。たとえば消防車のサイレンが行きすぎると、広告塔が間髪をいれず、

「ただいまの火事はどこぞこでございます」

 と叫んでくれる。この広告塔ははなはだ、し(斯)道に熱心で、深夜でも報告を怠らない。四隣みな商店だから急場の必要品にも手間ヒマがかからず、居ながらにして街の呼吸が伝わってくる。

 けれども私が本当に呼吸しているのは東京の空気である。私はこの小都市に住んで、年に二度ぐらいしか上京しないが、日々の読み物、そして心の赴く物は人の世の中心的なもの、本質的なものからそれることはできない。私の目や呼吸が東京の空から離れることはあり得ないのである。

 私は毎日この町のメインストリートを散歩する。その目に映じるものは風景にすぎない。心の住む場所はまた別で、それはどこに住んでも変りがないものだ。


          


 小工業と商業でもつ桐生はおのずから個人的な都市で、したがって商魂もたくましい。ウカウカすれば隣人の目の玉もぬく機敏さが露骨で、むしろ好感がもてるのである。だからこのダンナ方の共同作業の場に関する限り、諸事安あがりはなはだしい。

 昨年この町にゴルフクラブができ、私もすすめられて入会した。私がゴルフを覚えたのはこの町のおかげであるが、この会費が月に百円である。しかるべきインドアの練習場が新設され、備えつけのクラブとボールがあって、手ブラででかけて毎日存分に練習することができる。それで月に百円だ。ゴルフが金持の遊びだなぞとはよその国の話で、この町ではパチンコの方がよほど金がかかる。

 この市の中心に小さいながらも完備した市営の子供遊園地があって外来者の感服の的であり私も大そう感服していたが、桐生のダンナに言わせると、必ずしもそうでないらしく「子供を二人つれて行くと、あれにいくらかかって、これにいくらかかって、合計三百円、高くついて困るよ」

 ダンナのゴルフから見れば諸事高くついて困るのは当り前だ。

 去年公園へ花見に行ったら何かの団体が紅白の幕をはりめぐらして盛大にお花見をやっていた。幕のすき間からのぞくと二百人ほどのダンナが折詰に二合ビンで打ち興じ、酒席を往復する芸者の数のおびただしさ、目まぐるしいばかりである。同行の女房は仰天して、

「芸者総あげね。こんなすごいお花見はじめて見た。桐生のダンナ方のことだから、これで千円ぐらいの会費であげてるんでしょうね」

「そんな他国なみの入費をかけるものか。しかし、七百円以下には値切れそうもないが、案外五百円ぐらいかも知れないぜ」

「まさか」

 あとでダンナの一人にきいてみると、

「ああ、あの会費、四百円」


          


 アンマの家から電話がかかってきた。ウチのアンマはまだそちらですかときく。二時間も前に私の家をでたのだ。盲人のアンマだから私も心配になって、散歩がてら出てみると、パチンコ屋からツエをたよりに出てくるアンマにぶつかった。私もあきれて、

「お前さん、パチンコやるのかい」

「通りすがりにあの音をきくと、ついね」

 全然人なみの涼しい返事である。

「今日は何列目の左側の何番がよくでるね」

 と私に伝授よろしくゆうゆう御帰館だ。とかくアンマが目アキの口をききたがるのは承知の上だが、実際にパチンコをやるとは知らなかった。

 私がこの話を人に物語ると、これがまた意外の衝動をまき起したのである。

「なるほどねえ。アンマは指さきの商売だし、むしろカンだけをたよりにはじくから、これは出るかも知れないね」

 こう言って武芸者のように考えこんでしまう人物もいる。いかにも真剣そのものである。

「そうだ。こいつはいいことをきいたね。オレも目を閉じてやってみよう」

 生き生きと目をかがやかせてヒザをうつ人物もいる。いずれも私の本意たる風流を解せざることはなはだしく、深刻きわまる反応であった。

 しかし、アンマのパチンコが彼らをかくも感奮せしめるところを察するに、彼らはすべて敗軍の将なのだろう。私はパチンコをやらない。月に百円のゴルフをたのしむ私は、茶道をたのしむこじきのようなものであろう。


     いつも大投手がいない町


 桐生は四百年前に織物都市として計画的につくられた時から小大名の支配をうけない天国で、日本全土を相手に取引と金勘定で明け暮れしてきた都市である。町ができた時から東における最も大阪的なところで、今日に至っても全くの小商工業都市で各人腕にヨリをかけ隣人親友を裏切って取引と金勘定に明け暮れしているところだ。

 物価は物すごく高い。それを知らないのは土地の人だけだ。私が伊東からここへ移ったとき、温泉に比べれば物価が安くて生活は楽だろうと土地の人々が言ってくれたが、米や薪や炭のヤミ値すら実は温泉の倍ちかく高かった。そして品質がわるかった。

 この商魂たくましい町に住んで何かこの町の特色的なものを見たかときかれると、私は小学校中学校の校庭がそろって広大なのにビックリしたと答えたい。せちがらいこの都市で小学校中学校の校庭だけがマがぬけたように広いのである。

 私の住む本町二丁目はこの都市ができた時からの中心地で、そこの横町は四百年前からの歴史ある横町だから、そこにある北小学校だけは広い校庭をとる余地がなかったらしく、他と比較してここの生徒が気の毒なほど特別に小さい校庭だ。しかし、それですら他の都市の小学校に比べれば小さい校庭とはいえない。立派に運動会をひらくこともできる。


          


 私の生れた新潟市はこれも昔からにぎわった港町で遊興と女の町だ。ところがここの特色は小学校の校庭が小さいことで、小さくともあればよいがないのである。私の育った尋常学校は代表的な小学校だが、先生のテニスコートを辛うじて一ツつくる広さがあるだけで、生徒の野外運動場は完全にない。他も大同小異で、お手々つないでワをつくる校庭があればよい方だった。

 新潟の小学校が子供の野外遊戯を無視するのもひどすぎるが、それに比較してという以上に、桐生の小中学校の校庭は雄大である。その半数は市営野球場のタップリ倍あるぐらいの運動場をもっている。

 ここの子供は幸福だ。どの校庭でも幾組も野球にバレーにハンドボールと混線もせずに遊んでいる。力いっぱいバットをふってもガラスをわる心配もない。タマ拾いの疲れすぎが玉にキズというところだ。

 どの校庭でも力いっぱい打撃練習ができるから、小学校や中学校の野球でもポンポンよく打ってビックリするほどだ。

 したがって桐生が高校野球では関東きっての名門なのも当然で、小学校から中学校と自然にポンポン打ってきた中から選んで高校一年生のチームをつくっても、それでもう相当なものだ。いつでも平均して強い。平均的なのがいつでもそろっている。つまりドングリ名人の十人十五人に事欠くことがない。ただ一人の名投手が現われればいつでも甲子園へ行けるだけの実力は常にある。ところが一人の名投手がめったに現われてくれないのである。

 もっとも、それは桐生だけの話ではなかろう。一人の名投手というものは結局カネやタイコで探す性質のものらしい。大阪や名古屋はその一人の投手をカネやタイコで探すところのようだ。したがって彼らは常に甲子園でケンランたる活躍をする。桐生は地方予選の花形であるが甲子園では弱小チームだ。高校野球においてそうであるばかりでなく、商魂商策においても似た地位にあるようだ。押しと力が足らないのである。筋金の大事なところが一本だけ不足しているのである。


          


 新潟は高校野球もノンプロ野球も全国的に最も弱いので有名であるが、それを雪国のせいにするのは大マチガイで、小学校にお手々つないでワをつくるだけの校庭すらもないせいだ。女の子の遊びや運動がよい子の標準で、男の子の野生遊戯はランボウ者の悪行という気風があの校庭のない小学校をつくらせたのである。高校になってやっと桐生の小学校の中ぐらいの運動場をつくってみても野球のように小さい時からの身体の慣れが必要なスポーツはマにあわないのが当然だ。

 新潟市のように女の子の性行を男の子の標準にした都市も珍しいが、カラッ風と商魂と浮き沈みを生きぬく力が町の魂のような桐生も、実は案外女性的な町だ。織姫の町で、女の方が金銭的に主役であるというばかりでなく、織物業という浮草家業の性格が本質的に女性的なのである。景気不景気の変動が激しく、浮き沈みがはなはだしい。それを生きぬく力が女性的なのだ。男はヤケ酒をのんだり自殺したりするが、女は平然と生きぬく力がある。その女の力が男の力よりも勝っているのが桐生である。その女の力に反逆してメカケをかこったり女をひっぱたいたりして男らしくふるまうけれども、この一番という男の力、最後の筋金が足りない町という感が深い。


     ヘプバーンと自転車


 桐生市には自転車が多い。通りがせまいから、それが一そう目だつ。ある時間には歩行者よりも自転車の通行人が多いような感じである。この市における人口と自転車の比率なぞをふと考えてみる気持になるほど自転車が多いのである。

 パチンコ屋の前にズラリと並んだ自転車。東京では見ることのできない壮観だ。ハイカラなレストランができた。そのとき町の若者の一人が私にこうつぶやいた。

「自転車を横づけにしてはいるのにグアイがわるいから、はやらないだろうな」

 映画館には必ず自転車の駐車場がある。その自転車の数を見ると、今日はどれぐらいの入りかということが切符を買う前にわかるから、自転車が多すぎる時は敬して遠ざかり、よそへ行くことができる。この自転車数と館内の人員数との比率は一定していて、狂ったことがなかったのである。

 せんだって「ローマの休日」を見に行った。この映画に限り一週間中午前十時開館というハナバナしさであるから、人気のほどがわかる。早めに行くに限ると考えて映写開始十五分前の朝っぱらに映画館へ到着した。

 さすがに自転車がまだ十台ぐらいしかない。すると中の人間は二三十人ぐらいだ。早すぎたかとテレながら切符をもとめて館内にはいると、ほぼ満員ではないか。

 私は息をのんだ。みんな女だ。まれに男がいる。アベックだ。私のように一人の男、まして年配の男なんていやしない。敵のように見つめられた。私は幸に座ることができたが、私の右も左も赤チャンをだッこした若奥サンであった。赤チャンを泣かさぬためにおびただしい食糧その他をケイタイし、用意オサオサ怠るところがなかったのである。

 私の知る限り、ヘプバーンは桐生市の映画館において人間と自転車の比率を狂わせた最初の人である。


          


 私の読んだヘプバーン批評のうち、最も的に当っているように思ったのは日比谷映画劇場の報告だ。それによると、ヘプバーンは少女歌劇の男役の人気だというのである。観客の多くが少女歌劇の愛好者層であったと報じられている。

「ローマの休日」の筋そのものがそっくりタカラヅカではないか。女王さまが平民の娘になりすまして催眠薬でフラフラしながら男の部屋で「着物ぬがせてえ」「もう、さがってよろしい」なぞと言う。見物の娘サン若奥サン方はドッとドヨメキを起して大よろこびであるし、老人の私はやや情なくなって孤独を感じる。

 どうやら西洋にもタカラヅカ時代がきたらしい。敗戦国の文化が戦勝国を征服するという先例は少なくないが日本少女歌劇はあちらで成功する可能性はあるようだ。


          


 私はヘプバーンは好きではないが、マリリン・モンローは大好きである。モンローウォークという歩き方を取去ると残るものは清潔なあどけなさで、モンローぐらい不潔感の感じられない女優はめッたにないように思う。

 モンローウォークというもので人の世の怪しさ醜さの底をついているから、その残りのあどけなさ無邪気さが安定していて、危ッかしさが感じられないのだ。

 ヘプバーンのようなのッけからのあどけなさ無邪気さには安定感がない。いつくずれるか分らない危ッかしさがつきまとっている。それは少女歌劇のファンそのものにつきまとっている危ッかしさでもある。

 マリリン・モンローは大人に無邪気な安らぎを与えてくれる女性美で、そしてそこに性欲は感じられないのである。たとえ彼女自身の正体がどうあろうとも。


          


 私の家の裏に小学校がある。そこに特殊児童の特別教室がある。つまり知能が低くて学問のできない子供たちの教室だ。彼らには運動場はいらない。なぜならスポーツをする能力もないからだ。悪事をする能力もない。ただ無邪気で、かわいい。私はその教室へ散歩に行くのが好きだが、鏡子チャン事件以来、怪しまれそうで何となく小学校の門がくぐりづらいのは情ない。

 カタワの子ほどかわいいというが、その子らの親たちもかわいくて仕方がないらしく、みんなまるまるふとっているので、親の心も察せられて悲しいのである。

 この教室に飾られている彼らの絵は清クンと同じ流儀の絵である。他の画風を教えてみると他の描き方もするように思うがどうだろうか。清クンの絵はアンリ・ルッソオの作風によく似ているが、ここの特殊児童のまるまるふとった風ぼう容姿がどことなくアンリ・ルッソオその人にホウフツたるオモムキがあって笑いたくなるのである。

 現代の絵は五千年も昔のお墓の壁画や、なおそれ以上に白痴の作品に似ているが、現代人の美の好みも美人の好みも白痴美一辺倒的のオモムキがあるようだ。マリリン・モンローやヘプバーンへの圧倒的な人気などがそれである。白痴美だ。そして、あるいは美というものの限界もそのへんにあるのではないかと私は思った。

 真善美の三位一体を人間そのものに求めると、白痴にでも突き当る以外に手がなさそうだ。真善美などと大そうなことを言ってみても、その具体的な限界は案外そのへんにしかないように思う。

 しかし文学の宿題は白痴美を探すことではない。偽悪醜にモミクチャの人間をはなれるわけにいかないのである。


     存在しない神社のお祭り


 日本人は大体においてお祭好きである。キリストを拝んだことがなくてもクリスマスのお祝は盛大にたのしむ。何神サマでもかまわない。お祭には目がないというヤジウマぞろいである。この七月十四日に田舎の高校生がパリ祭シャンソンパーティーというのをやってフランスの革命記念日を祝っていた。お祭騒ぎをとりいれることにかけては島国根性というものが完全にない。それは私自身の性分でもある。

 ところで桐生のお祭好きはまた格別のようだ。この徹底的なバカらしさは報告の値うちがあるようである。

 だいたいこの市ではお盆というものをやらない。坊主がお経をよんで線香のにおいが全市をとざすようなマッコウくさい行事はこの町の性に合わないのであろう。お盆の代りに七夕をやる。織物地に七夕は当然かも知れないが、男女の星が年に一度あうという七夕は先祖の霊が年に一度もどってくるという盆に似ているし、桐生では七夕の竹飾りを川に流す。これも盆の行事に似ている。桐生が盆をやらないのは七夕で間に合わしているように思う。仏教の盆が七夕の行事に似せたのかも知れない。

 とにかく迎え火だの先祖の霊がもどってくるなぞという怪談じみた行事は敬遠いたしましょうという桐生の気風はアッパレで、陰にこもったことは一切やりたがらない代りに、お祭とくると目がないのである。

 七月にやるギオン祭はこの市のメーンストリート本町通りの祭礼だ。祭礼の数日間はこのメーンストリートが道路でなくて祭礼の会場となる。

 一丁目から六丁目まで、各丁目ごとに道路の幅の半分を占める屋台をすえて、まためいめいのミコシをすえる神殿を造って鳥居を立てる。鳥居から神殿まではトラックが砂をはこんできて四、五間がとこ敷きつめる。道の幅半分を占領してメーンストリートにこれができるばかりでなく、各丁目それぞれ手前の都合があって、道の右側に屋台と神社をつくるもの、左側につくるもの、入り乱れていて全然道の用をなさなくなってしまう。

 桐生の警察の交通整理ぐらい根気がよくてコマメなところはめったにない。人は右、車は左、これを破るとかならずお巡りさんに注意されるから、東京からくる人はかならずこれをやられて、

「桐生の町を歩くのはユダンができねえや」

 とシャッポをぬぐ例になっている。これほど交通整理に熱狂的な執念をもっている桐生警察もギオン祭には歯が立たないのである。それも仕方がない。祭の期間中、メーンストリートは道路でなくて会場だからだ。昼は行列とミコシのねり歩く会場であるし、夜は芝居や音楽や踊の会場だ。自動車はおろか自転車も通れない。

 おのおのの屋台でやるカブキ芝居は日没から夜明けまでつづく。道路の上は見物席で、めいめいのゴザとザブトンで昼から席を占領した人々でギッシリつまってしまう。私が夜明けに行ってみたら、役者よりも見物人の方が疲れきっていた。

 今年のお祭衣装は一万三千円だったそうだ。織物はお手の物だから生地も柄もソツがない。今年のはチリメンのおそろいだそうで、朝昼晩と装束を変える例になっている。このおそろいをきているかぎり、お祭中はどこで飲んでも芸者をあげても金を払う必要はない。ツケは町会へ行くのである。織物業は目下はなはだ不振で、桐生の町はデフレの上にも不景気らしく、メーンストリートの古いデパートまでパチンコ屋に身売りという昨今であるが、警察の交通整理同様に不景気もこのお祭にだけは歯がたたないのである。


          


 さて、この祭の神社であるが、これが何より珍しいのである。

「桐生のギオン祭は何神社のお祭だい」

「祭礼のチョウチンにちゃんと書いてあるだろう。八坂神社のお祭だ」

 ところが私がいくら探しても八坂神社というのが近所に存在しない。よってミコシのあとをつけたところが、すぐ私の家の裏の神社へ御神体を迎えに行き、祭の終りにもまたそこへ納めに行った。その神社は美和神社というのである。大国主のミコトの神社だ。八坂神社ならスサノオのミコトである。この美和神社は平安朝の神名帳にも記載のあるユイショある神社であった。そこで私はチリメンのおそろいをきているダンナにきいた。

「これは八坂神社じゃないぜ」

「八坂神社とよぶことになってるんだ」

「ちゃんと高札をたてて平安朝から名のある美和神社だと断り書きまであるじゃないか」

「社が三ツあるから一ツが八坂神社だろう」

「美和神社の隣はコンピラサマ、そのまた隣はエビスサマだ」

「うるせえな。とにかく八坂神社ともよぶんだよ。だから八坂神社だ」

 このギオン祭は今から二百四、五十年前に京都のギオン祭をまねて盛大にやりだしたものらしい。祭はギオンにかぎるというので祭に目のない連中が新規ににぎにぎしくやりだしたのはよかったが、あいにく八坂神社がなかったのである。大国主のミコトはスサノオのミコトの孫だか子だか弟だかで、また物の本によると同一神の表と裏で、キゲンのよい時が大黒サマ、怒ってる時がスサノオだという説もあるから、美和神社で間に合わしちまえ、ということになったのかも知れない。神サマだの神社なぞはなんでもかまわねえ、大事なのはお祭でいゝというのが桐生のギオン祭発祥の縁起ではないかと私は結論するに至ったのである。とにかく神社がないのに底ぬけのお祭をやってるところは、ほかに類がないように思う。


     山の娘たちとラジオ


 夏に仕事ができなくなるのが例であったが、今年は人のすすめで大半伊香保ですごしたせいで仕事ができた。

 一般に山中の温泉は山また山にかこまれた谷川沿いにあるものだが、伊香保は山の斜面にあって前面は空間のひろがりだから、はるばる空を渡って流れこむ風がさわやかだ。その代り町全体が石段の斜面だからデブの私には町の散歩が苦手だ。車で榛名湖へ行って歩くのが仕事のあとのたのしみであった。かん木ばかりのせいか、榛名は山の道も湖もきわだって明るいのが特色だ。


          


 仕事のあいまに家から生後一年の子供をよぶ。子供は温泉で遊ぶのが好きだ。ある日宿の水差しのフタをオモチャに遊んでいてこわしたので女中にわびると、女中が言下に「ハア、先日水差しの下の方をこわしたお客さまがありましてね、ちょうどよろしゅうございます」

 と言った。あまりのことにメンくらったが、窓から吹きこむ山の冷気にもましてそう快でもあった。

 こういう海からはなれた温泉地や私の住む桐生などでも今年の特色はマグロのややマシなのがフンダンにあることだ。去年など桐生ではお祭の時でもなければ本マグロが見られなかった。今年は常に本マグロがある。田舎がマグロを食う年らしい。私もガイガー計数管を信用して大いに食っているのである。伊香保では一晩だけだったが、すてきなトロにめぐりあってお代りした。


          


 桐生で生きている魚がたべられるのはウナギのほかには夏のアユだけだ。したがって夏の来客へのゴチソウはもっぱらアユだ。去年から桐生川にヤナができたので、ヤナから直接買うことにしたが、焼くとサンマのようにアブラが強くてモウモウと黒煙がたつ。食ってみるとほとんどアユの香がない。へんなアユだが、仕方がないので、友人には

「桐生のサンマアユというやつでね。日本一まずいところが値打なんだ。モウモウとケムがでてアユの香のしないのが珍しい」

 といってすすめた。友人たちも食ってみて

「なるほど珍しいアユだ」

 とおもしろがってくれた。私は考えたのである。桐生川の川底の石にはこのあたりの子供たちがチョロとよんでいる虫が無数についている。ゴカイを小さくして透明にしたような虫だ。ここのアユはそれを食ってるせいでサンマになるんじゃないかと思ったのである。伊東のアユが温泉旅館のカスで育つせいかエサをつけないと釣れないようなものだ。ところが先日漁業組合員の魚屋がきて

「桐生川のアユは日本一ですよ。これがそうですから食ってみて下さい」

「食わなくともわかってるよ。モウモウとケムがでてサンマの味がするんだろう」

「いえ、あれはね、去年はヤナがはじめての仕掛けですからちょっとの出水でしょっちゅうこわれてアユがとれなかったんです。仕方なしに前橋から養殖アユをとりよせてごまかしてたんで。サナギで育ったアユだからケムがでるのは当り前でさア」

 正体がわかってみるとつまらない。チョロをくって日本一まずいアユという方がゴアイキョウのような気がした。


          


 お医者のYさんが女房にすすめた。女中はこの土地の娘にかぎるからとサラサラとソラで三つの中学校の所を書いて学校へ依頼状をだしなさいとすすめてくれたのである。ちょうど卒業期に当っていたのが幸運で、二つの中学からそれぞれ一名の新卒業生を世話してくれて、母親と先生がつきそってつれてきてくれたのである。先生がくりかえしいうには

「本当に何も知らないのですから、それだけはカクゴして下さい」

 見るからに小さい少女たちであった。こんな小さい子供に何かやらせてよいのかと心配になったほどだ。

 私もその村々は一度バスで通ったので知っていた。桐生からバスで一時間半から二時間ぐらい渡良瀬川をさかのぼったところだ。人は飛騨を山奥の国というが、飛騨だって車窓から見る山々には段々畑が見える。渡良瀬山峡の村々には完全に段々畑すら見ることができないので、この土地の人々は昔は何をたべていたろうと不思議に思った村々であった。このあたりの女中が一番長くいつくというのはさもあろうと私も思った。

 電話のかけ方も知らないし、ガスのつけ方も知らない。電話のベルがなると静かに戸をあけて、一礼して

「ただいま電話が鳴っております」

 と報告する。報告しなくたってベルの音はきこえるよ。ゆうゆうたる物腰、雅致があってよかったが、不便でもあった。山の中にも電灯だけはあるから、ガスも電灯なみにセンをひねるだけでよいと心得たのは当然で、殺されかけたこともあったが、これくらい何も知らずに働きにきてくれる子は、かえっていじらしく、かわいいものだ。わが家にいるうちに一人前のオヨメになれるだけのことをしてやりたいという責任を感じるものである。

 この子たちが都会の子供なみに知っていたのは流行歌である。ラジオのせいだ。どんな歌でも、むしろ都会の子以上に知っている。ラジオのほかに何もないせいだろう。先日も冗談音楽の主題歌をうたっているのをふと聞いたが、なるほどワンマン政府がラジオを気に病むのは自然だなと思ったのである。


     デフレを活用した男


 私の家から百メートルもないところで珍しい事件が起った。Sという買継商が倒産してつるし上げにあったのである。買継商というのは町のメーカーから織物を仕入れて全国の小売業者に卸す店のことである。Sは戦後の新興業者で商運は好調だった。好調なら倒産はしないはずだが、好調倒産という変ったこともありうることがわかったのである。

 Sはさらに一大躍進をねらって計画的に倒産した。折しもデフレの声に、これぞ天の与え、倒産の機会と実行にかかり、この春から着々財産隠匿につとめ、ついに家財道具まで運び去り家族も疎開させたそうだ。こうしておいて五月ごろから不渡手形を乱発しておいて夏の終りに当人も行方をくらましたのである。

 不渡手形をつかまされた業者は約百人、一人四、五万から五十万まで、合計千二百万円であったが、Sは小さな個人商店だからそこへ製品をおさめていた被害者も家庭工業的な小さなメーカーが主であった。

 デフレだ不景気だという時節には倒産や休業の続出するのが機屋町の例で、中には計画的なのもよくある例だそうだが、それは多くの従業員をかかえて営業をつづけるよりも休業する方が損害が少ないというような場合で、Sのように計画的なのは珍しいそうだ。デフレを利用した犯罪である。被害者にしてみれば「デフレをも活用したか」とかか(呵々)大笑するわけにいかないのは当然で、そこで次のようないっそう珍しい事件が起ったのである。

 被害者は告訴しないことを申合わせ、順に数名ずつの当番をSの店に泊まりこませて帰宅を待った。Sはある日の深夜二時にフラリ、店へ姿を現わした。それを捕えた当番の知らせで深夜というのに被害者が参集、隠匿財産を白状しろとつるし上げがはじまったのだ。

 夜が明けるとヤジ馬が店の前に雲集したが、被害者が百人だから店内がまた立入りの余地もない。つるし上げる者、ソロバンをはじく者、毛布にくるまって眠る者、炊きだしの者、ごったがえしている。その日も夜を徹してつるし上げた。つるし上げる方は交代で存分に眠っているが、つるし上げられる方は眠らせてもらえない。しかしデフレを活用するほどの人物だからよく応戦したようである。これこれの銀行へこれこれの名義でいくらいくら預金したと渋々白状に及んだのが、はじめのうちはみんなデタラメだったそうである。

「桐生一の悪党はこんな顔の男だ」

 と時々ヤジ馬の中へ突きとばし往来でも尋問したが、S君にとっては何より寝せてもらえないのがこたえたらしい。そしてとうとう七、八百万がとこ隠匿財産を白状したが、翌朝病気だから医者へ行かせてくれと監視人につきそわれて外出、警察へ駆けこんで保護をもとめた。その後、この事件はつるし上げ側の行過ぎ、人権侵害という問題に発展した。

 つるし上げはたしかに行過ぎだがここに私が一つ納得できないことがある。それは彼らが告訴をしない申合せをしなければならなかった同情すべき事実についてである。告訴すれば不渡手形発行の罪によって懲役一年たらずの罪人を製造するが、かたられた金は戻ってこないからである。S君は告訴されることを期待していた模様であった。そしてちょっと服役することによってまんまとデフレを活用しうる予算であったらしい。しかるにシシフンジンのつるし上げにかゝり七、八百万がとこ白状せざるを得なくなってしまった。もしも法律というものがS君の隠匿財産をあばいて被害者に返してやることができるなら人権侵害もあるだろうが、単に罪人をつくるだけで実利は罪人に属すというのでは、悪人栄え、正直者は泣き寝入りの一途ではないか。法律自身のぬけ道や不備や無力さをまず猛省すべきであろう。

 私にこの事件の裏話をいろいろ語ってきかせた消息通は、突然言葉をかえて私にこんなことを言った。

「キミはこの町の人々がどんなことを望んでいるか知っているかね」

「知らないね」

「まず百人のうち九十人までは夕食後のひとときを自宅の茶の間でテレビをたのしむような生活がしたいと望んでいるのだよ。ところがテレビは二十万円もして手が出ないから、ビールかコーヒーをのんで喫茶店のテレビでまにあわせたいが、その金も不足がちだ。そこでテレビの時間になると子供遊園地が大人で押すな押すなだよ。無料のテレビがあるからさ」

 ちまたの消息通だけあって、うまいことをいう。これは桐生に限らないだろう。日本人の多くの人々がせめて自宅の茶の間でテレビをたのしむ生活がしたいと考えているに相違ない。しかし思えば文明も進んだ。自宅に好むがままの芸人や競技士をよんで楽しむことができたのは王侯だけであったが、いまやスイッチをひねるだけで王侯の楽しみができる。天下の王侯も今ではたった二十万円かといいたいが、あいにく拙者もまだ王侯の域に達していないのである。

「数年のうちにすべての家庭にテレビを」

 と約束してくれるような大政治家が現われてくれないものかと思う。民衆の生活水準を高めることを政治家の最上の責務と感じる人の出現ほど日本に縁のなかったものはない。

 しかしフハイダラクの底をついた現代はかかる大政治家を生み育てる温床ともなりうる時代なのである。歴史がそう語っている。しかし日本だけはフハイダラクのしっ放しの感なきにしもあらずか。


     スコア屋でないゴルフ


 足利市に東京繊維という工場がある。その庭では野球やサッカーと一緒にゴルフもやれるようになっている。といったところで、もともと工場の庭にすぎないのだから、全部で高校の運動場ぐらいの広さしかない。そこへ百五十ヤードを筆頭に、百ヤード前後のコースを六つもつくっているのだ。それでもアプローチという近距離の打ち方やバンカーという障害物からの打つけいこはできるから、私も仲間にいれてもらった。この会費は月に二百円である。

 三時のポーが鳴ると工員たちが手に手にゴルフの棒を三本ないし一本握ってかけつける。三、四名ずつそれぞれの芝生をとりまいて、近距離打と芝生の穴へタマをころがしこむ練習をはじめる。全力でかっとばすには先生についてフォームを習う必要があるが、このコースではその必要がない。なまじ私などがかっとばすと障害に落ちる率が多いのだ。彼らははじめからころがす。どうころがしても次には近距離打になり、その方が障害に落すことも少ないのである。タマをころがすのや、近距離打や、芝生の穴へ落すのは自我流でできる。練習量だけで結構いけるものである。だから、このコースでやる限り、彼らのうまさはすばらしい。プロも勝てないのである。なぜならプロは障害へ落すが彼らは二度ころがして三度目にたいがい穴へ落すことができるからである。それは完全にゴルフというオハジキである。しかし彼らは結構ゴルフをたのしんでいる。

「チェッ! ソケットしたか!」

 とか

「チェッ! トップした!」

 などとゴルファーらしい英語をしゃべることも心得ているが、タマをころがすのにソケットもトップもありゃしない。見物している方もとてもたのしいのである。工員ゴルフ大会というのも時々あるらしく彼らの練習は熱心である。

 ここではキャデー(ゴルフの棒をかついでくれる少年)が一時間十円である。私がここの会員になったとき、世話役の人から

「子供にお金をよけいやって値段をつりあげないように」

 と厳重な訓令をうけた。しかし私はお金をよけいやるどころか、なるべくキャデーを使わないことにしている。なぜなら棒は三、四本ですむのだし、子供たちは十円のアルバイトに情熱をいれていないから、タマの行方なぞ見ていない。彼らをあてにしているとタマが行方不明になる率が多いのだ。タマは五百円もするのだから、これほど割に合わないことはない。そのうえ

「夕刊配達の時間だよオー」

 と母親が門の外から声をかけると、子供は棒を投げすてて走り去るので、ここでキャデーを使うのはむしろ悪趣味にすぎないのである。

 工員ゴルフと別に、足利ゴルフ会というだんなの会もここにあって、だんなはだんなで時々ゴルフ大会をやる。中には正式のレッスンをうけた正しいゴルファーもいるけれども、大会にでてくる人々の多くはここでたたきあげただんなであるから、ものすごい。

「ワー、タマが上へあがったね」

 とほめられているだんなもいる。もちろんゴルフのエチケットなぞここでは無意味なばかりか、スコアの勘定も無意味である。なんべんカラ振りしても、そんなのは勘定にいれないし、打った数も一コースにつき二つ三つごまかすのは商業上の道徳と同じように公然と行われているのである。だから田舎のだんなゴルフ大会にはでるものではない。腹が立つばかりである。しかし、大会にさえでなければ腹の立つこともなく、工員ゴルフもだんなゴルフも味わい豊かでよろしいものだ。私のゴルフはへたで有名な方であるが、ここでだけは

「さすがに習ったゴルフだね」

 とほめられることが多い。

 桐生における私のゴルフの相棒は書上左衛門という私の家主に当る人である。自宅の裏庭にインドアの練習場をつくって二十数年もゴルフ一つに凝りに凝っている人だ。私はこの人の手ほどきでゴルフをはじめた。私の相棒としてはまことに好適で、世にこれほど風変りで裕然たるゴルファーはめったにいないと思われる。

 この人はゴルフをはじめて二十数年、ああでもない、こうでもないと、フォームの研究だけに日夜心をこめている。したがって、ほぼ一週間ごとにフォームがガラリと一変する。いかほどプロについても独自の研究に怠ることがなさすぎるから、一週間ごとにガラリとフォームが一変することは変りがないのである。この人にとっては少ないスコアでコースをまわることは問題ではない。ただ最初の大振りでタマが遠くへとべばうれしいのである。

「ゴルフの快味はドライバーショットです」

 と確信をもって断言し、制規のコースへ行っても、キャデーにタマをひろわせてドライバーショットだけ半日でも一日でもあきずにやっているのである。私がさそえば一緒にコースをまわりもするが他の人の多くに対しては

「あの人のゴルフはスコア屋だから」

 ときらって一緒にまわりたがらない。つまり私のゴルフはスコア屋でないと彼が認めてくれたわけだ。したがって彼と私は力いっぱいクラブをふって、彼は左、私は右のヤブへ主としてタマをとばし、別れ別れにヤブからヤブを歩いてコースを一周する習慣だ。

 先日読売の文壇ゴルフ大会で、主催者が小生をあわれんで宮本留吉大先生をつけて一緒に川奈コースをまわらせてくれた。

「そんなに力いっぱいふる人がありますか」

 と私のスコア屋ならざる猛ゴルフは日本一の大先生にさんざんしかられたのである。実際においてスコア屋でないゴルフはありえないのだ。そこで心を入れかえて留さんに入門することになったのである。


     新しい雪国の誕生


 戦後今年になって秋と冬ちょっとの間をおいて二度新潟へ行った。冬の旅にでる前に、ある雑誌へ雪国の冬の暗さについて随筆を書いた。秋のなかばから冬の終るまで太陽を見ることのできない雪国では小学校の子供たちまであきらめきった考え方や話し方をするようになるものだと書いたのである。それを速達で送って旅行に出発したが車中で落ちあった同行の友人に

「この清水トンネルをこえたとたんにガラリと天候が一変しているのだよ。トンネルの向こう側にはもう太陽がないのだ。暗いたれこめた空、窓をたたくみぞれ、来る日も来る日も清水トンネルの向こう側は一冬中そうなんだよ。うそのように思えるけど、トンネルを境にこの太陽が必ずおさらばなんだからね」

 と念をおして言いきかせ、また

「冬の新潟のもう一つの特色は見はるかす水田が満目の湖水と化していることだ。農民たちは小舟に乗ってとりいれするものだよ」

 と説明に及んでいたものだった。ところがトンネルをでても太陽がかがやいている。関東側よりもむしろ澄みきった太陽が雲一つない青空にさんさんとかがやいている。また越後平野の水田は湖水どころか一滴の水もない。秋の旅も冬の旅もそうだった。そして旅行中の連日にわたっていつも頭上にまぶしい太陽がかがやいていたのだ。

「昭和二十三年以来こうなんです。一月のなかばまでは東京の冬と同じようにいつも太陽がかがやいています。雪が降りだすのは一月なかばすぎてからですね」

 土地の人々がこう教えてくれた。私がこの土地で育ったころは一冬中海鳴りが町まできこえていたものだ。その海も波一つない湖水のようで一冬吹きつける北風すらもなくただ海も浜も砂丘も一面にまぶしく光っているだけであった。

 私が育ったころでも大雪の降りだすのは一月なかばをすぎてからでそれだけは変りがないが、十月なかばからそれまでというものはずっとしぐれとみぞれが降りつづき、空は低くたれこめて太陽が連日失われているのが例であった。まれに太陽が顔を出すとそれは雪のあとで、ちょっとの時間で町中をドロンコにしてしまう。冬の太陽というものはそういう悪作用をのこすためにちょっと顔を見せるだけのものであった。そして子供たちにすらあきらめきった考え方や話の仕方を植えつけたものだ。

 十月なかばから一月なかばまで関東と同じように太陽が照っているなら、雪国の冬の暗さの根本条件がなくなったようなものではないか。海岸線にある新潟は関東平野も奥地の桐生よりはむしろ暖かいような陽気であったし、関東平野だって一月なかばをすぎると年に二度か三度は一尺前後の雪が降るのだ。桐生の雪は新潟の雪と違って水気のすくない粉雪で、したがって少しの雪でもなかなか消えない。新潟の雪よりも桐生の雪の方がスキーに適している。

 越後平野と関東平野は諸条件においてほゞ同じようになったと見ることはできないのだろうか。すくなくとも私が雪国で生れて一番閉口したのは秋なかばから一冬中太陽を見ることのできないせつなさであった。その太陽を一月なかばまで東京の空と同じように見ることができるなら、私にとってはもう雪国が雪国でなくなったとしか考えられない。太陽の光をもとめてイタリアへ馬車をいそがせたゲーテにはなはだしく同感したりした雪国の少年の悲しさももうなくなったと見るべきであろう。すくなくとも連日私の頭上にまぶしくのどかにかゞやいていた雪国の秋と冬の太陽を見あげて、私はそれを痛感せずにいられなかった。

 この天候異変が新潟ばかりでなく雪国全体のものだとすれば、そして新潟ばかりでなく秋田や山形の水田にも二毛作ができるようになれば、日本の食糧事情も一変するようになるだろう。しろうと考えというものかも知れないが、雪国で生れて秋なかばからの一冬にかけて、太陽を見ることのできないせつなさにしょうすいするような思いで育った私が、冬の頭上に連日かがやいているのどかな太陽を見れば、もう雪国は終ったと考え、越後平野を関東平野と同じように考えてしまうのも当然だと思うのである。関東の水田はいま掘りかえされて麦畑に変りつつありこれから麦ふみが始まるのだが、新潟のあの太陽の下で同じことができないというのが私には奇妙に見えて仕方がなかったのだ。

 なにぶんにも旅の出発直前に雪国の冬の暗さについて書いたばかりであったから、約束の違う明るさに戸惑うのも当然で、オレの心にしみこんでいた雪国、オレが今まで考えなれていた雪国はもう終った、とそういうことを極度に強く感じさせられたのだ。新たな明るい豊かな雪国の誕生を心から祈りたい気持になったのである。

底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房

   1999(平成11)年620日初版第1刷発行

底本の親本:「読売新聞 第二七七五五号~第二八〇二五号」

   1954(昭和29)年311日~126

初出:「読売新聞 第二七七五五号~第二八〇二五号」

   1954(昭和29)年311日~126

入力:tatsuki

校正:noriko saito

2009年418日作成

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