石の思ひ
坂口安吾



 私の父は私の十八の年(丁度東京の大地震の秋であつたが)に死んだのだから父と子との交渉が相当あつてもよい筈なのだが、何もない。私は十三人もある兄弟(尤も妾の子もある)の末男で下に妹が一人あるだけ父とは全く年齢が違ふ。だから私の友人達が子供と二十五か三十しか違はないので子供達と友達みたいに話をしてゐるのを見ると変な気がするので、私と父にはさういふ記憶が全くない。

 私の父は二三流ぐらゐの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらゐ代議士に当選して地方の支部長といふやうなもの、中央ではあまり名前の知られてゐない人物であつた。しかし、かういふ人物は極度に多忙なのであらう。家にゐるなどといふことはめつたにない。ところが私の親父は半面森春涛門下の漢詩人で晩年には「北越詩話」といふ本を三十年もかゝつて書いてをり、家にゐるときは書斎にこもつたきり顔をだすことがなく、私が父を見るのは墨をすらされる時だけであつた。女中が旦那様がお呼びですといつて私を呼びにくる、用件は分つてゐるのだ、墨をするのにきまつてゐる。父はニコリともしない、こぼしたりすると苛々いらいら怒るだけである。私はたゞしやくにさはつてゐたゞけだ。女中がたくさんゐるのに、なんのために私が墨をすらなければならないのか。その父とは私に墨をすらせる以外に何の交渉関係もない他人であり、その外の場所では年中顔を見るといふこともなかつた。

 だから私は父の愛などは何も知らないのだ。父のない子供はむしろ父の愛に就て考へるであらうが、私には父があり、その父と一ヶ月に一度ぐらゐ呼ばれて墨をする関係にあり、仏頂面を見て苛々何か言はれて腹を立てゝ引上げてくるだけで、父の愛などと云へば私には凡そ滑稽な、無関係なことだつた。幸ひ私の小学校時代には今の少年少女の読物のやうな家庭的な童話文学が存在せず、私の読んだ本といへば立川文庫などといふ忍術使ひや豪傑の本ばかりだから、さういふ方面から父親の愛などを考へさせられる何物もなかつた。父親などは自分とは関係のない存在だと私は切り離してしまつてゐた。そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思つた。威張りくさつた奴だと思つた。そしてともかく父だからそれだけは仕方がなからうと考へてゐたゞけである。

 子供が十三人もゐるのだから相当うんざりするだらうが、然し、父の子供に対する冷淡さは気質的なもので、数の上の関係ではなかつたやうだ。子供などはどうにでも勝手に育つて勝手になれと考へてゐたのだらうと思ふ。

 たゞ田舎では「家」といふものにこだはるので、「家」の後継者である長男にだけは特別こだはる。父も長兄には特別心を労したらしいが、この長兄は私とは年齢も違ひ上京中で家にはをらなかつたから、その父と子の関係もよく知らない。たゞ父の遺稿に、わが子(長男)を見て先考を思ひ不孝をわびるといふやうな老後の詩があり、親父にそんな気持があつたかね、これは詩の常套の世界にすぎないのだらうと冷やかしたくなるのだが、然し、父の伝記を読むと、長男にだけはひどく心を労してゐたことが諸家によつて語られてゐる。父の莫逆ばくげきの友だつた市島春城翁、政治上の同輩だつた町田忠治といふやうな人の話に、長男のことを常に呉々くれぐれも頼んでをり、又、長男のことを非常によく話題にして、長男にすゝめられて西洋の絵を見るやうになつたとか、登山に趣味を持つやうになつたとか、そんなことまで得々と喋つてゐるのであつた。これは私にとつては今もつて無関係の世界であり、父はともかく「家」として兄に就て考へてをつたが、私にとつては、父と子の関係はなかつた。私にとつては、父のない子供より父が在るだけ父に就て無であり、たゞ墨をすらせる不快な老人を知つてゐただけであつた。

 私の家は昔は大金満家であつたやうだ。徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言はれたさうだが、父が使ひ果して私の物心ついたときはひどい貧乏であつた。まつたくひどい貧乏であつた。借金で生活してゐたのであらう。尤も家はひろかつた。使用人も多かつた。出入りの者も多かつたが、それだけ貧乏もひどかつたので、母の苦労は大変であつたのだらう。だから母はひどいヒステリイであつた。その怒りが私に集中してをつた。

 私は元来手のつけられないヒネクレた子供であつた。子供らしい可愛さなどの何一つない子供で、マセてゐて、餓鬼大将で、喧嘩ばかりしてゐた。私が生れたとき、私の身体のどこかゞ胎内にひつかゝつて出てこず母は死ぬところであつたさうで、子供の多さにうんざりしてゐる母は生れる時から私に苦しめられて冷めたい距離をもつたやうだ。おまけに育つにつれて手のつけられないヒネクレた子供で、世間の子供に例がないので、うんざりしたのは無理がない。

 私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでゐた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでゐるのではないので、書いてあることが面白いから熟読してをり、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載つてゐた。私は小説は読まなかつた。面白くなかつたのだ)を読み、角力すもうの記事を読む。この角力の記事には当時は必ず四十八手の絵がはいつてをり、この絵がひどく魅力であつたのを忘れない。私は小学校時代は一番になつたことは一度もない。一番は必ず山田といふお寺の子供で二番が私か又は横山(後にペンネームを池田寿夫といふ左翼の評論家か何かになつた人である)といふ人で、私はたいがい横山にも負けて三番であつたやうに記憶する。私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであつた。外の町内の子供と喧嘩をする。すると喧嘩のやり方が私のやることは卑怯至極でとても子供の習慣にない戦法を用ひるから、いつも憎まれ、着てゐる着物は一日で破れ、いつも乞食の子供のやうな破れた着物をきてゐた。そして、夜になつて家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合ふことであつた。

 私の母を苦しめたのは貧乏と私だけではないので、そのころは母に持病があつて膀胱結石といふもので時々夜となく昼となく呻り通してゐる。そのうへ、私の母は後妻で、死んだ先妻の子供に母といくつも年の違はぬ三人の娘があり(だから私の姉に当るこの三人の人達の子供、つまり私には姪とか甥に当る人達が実は私よりも年上なのである)この三人のうち上の二人が共謀して母を毒殺しようとしモルヒネを持つて遊びにくる、私の母が半気違ひになるのは無理がないので、これがみんな私に当ることになる。私は今では理由が分るから当然だと思ふけれども、当時は分らないので、極度に母を憎んでゐた。母の愛す外の兄妹を憎み、なぜ私のみ憎まれるのか、私はたしか八ツぐらゐのとき、その怒りに逆上して、出刃庖丁をふりあげて兄(三つ違ひ)を追ひ廻したことがあつた。私は三つ年上の兄などは眼中に入れてゐなかつた。腕力でも読書力でも私の方が上である自信をもち、兄のやうな敬意など払つたことがなかつた。それほど可愛らしさといふものゝない、たゞ憎たらしい傲慢なヒネクレ者であつた。いくらか環境のせゐもあつても、大部分は生れつきであつたと思ふ。そのくせ卑怯未練で、人の知らない悪事は口をぬぐひ、告げ口密告はする、しかも自分がそれよりも尚悪いことをやりながら、平然と人を陥入れて、自分だけ良い子になり、しかも大概成功した。なぜなら、子供のしわざと思へぬほど首尾一貫し、バレたときの用心がちやんと仕掛けてあり、大概の人は私を信用するのであつた。私は大概の大人よりも狡猾であつたのである。

 八ツぐらゐの時であつたが、母は私に手を焼き、お前は私の子供ではない、貰ひ子だと言つた。そのときの私の嬉しかつたこと。この鬼婆アの子供ではなかつた、といふ発見は私の胸をふくらませ、私は一人のとき、そして寝床へはいつたとき、どこかにゐる本当の母を考へていつも幸福であつた。私を可愛がつてくれた女中頭の婆やがあり、私が本当の母のことをあまりしつこく訊くので、いつか母の耳にもはいり、母は非常な怖れを感じたのであつた。それは後年、母の口からきいて分つた。母と私はやがて二十年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変つたのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。私ほど母を愛してゐた子供はなかつたのである。母のためには命をすてるほど母を愛してゐた。その私の気質を昔から知つてゐたのは先妻の三番目の娘に当る人で、上の二人は母を殺さうとしたが、この三番目は母に憎まれながら母に甘えよりかゝつてゐた。その境遇から私の気質がよく分り、私が子供のとき、暴風の日私が海へ行つて荒れ海の中で蛤をとつてきた、それは母が食べたいと言つたからで、母は子供の私が荒れ海の中で命がけで蛤をとつてきたことなど気にもとめず、ふりむきもしなかつた。私はその母を睨みつけ、肩をそびやかして自分の部屋へとぢこもつたが、そのときこの姉がそッと部屋へはいつてきて私を抱きしめて泣きだした。だから私は母の違ふこの姉が誰よりも好きだつたので、この姉の死に至るまで、私ははるかな思慕を絶やしたことがなかつた。この姉と婆やのことは今でも忘れられぬ。私はこの二人にだけ愛されてゐた。他の誰にも愛されてゐなかつた。


          


 私は私の気質の多くが環境よりも先天的なもので、その一部分が母の血であることに気付いたが、残る部分が父からのものであるのを感じてゐた。私は父を知らなかつた。そこで私は伝記を読んだ。それは父の中に私を探すためであつた。そして私は多くの不愉快な私の影を見出した。父に就て長所美点と賞揚せられてゐることが私にとつては短所弱点であり、それは私に遺恨の如く痛烈に理解せられるのであつた。

 父は誠実であつた。約をまもり、嘘をつかなかつた。父は人のために財を傾け、自分の利得をはからなかつた、父は人に道をゆづり、自分の栄達をあとまはしにした。それは全て父の行つた事実である。そしてそれは私に於てその逆が真実である如く、父に於ても、その逆が本当の父の心であつたと思ふ。父は悪事のできない男であつた。なぜなら、人に賞揚せられたかつたからである。そしてそのために自分を犠牲にする人であつたと私は思ふ。私自身から割りだして、さう思つたのである。

 私は先づ第一に父のスケールの小さゝを泣きたいほど切なく胸に焼きつけてゐるのだ。父は表面豪放であつたが、実はうんざりするほど小さな律義者でありながら、実は小さな悪党であつたと思ふ。

 私がなぜ殆ど私の無関係なこの老人をスケールの小さゝで胸に焼きつけてゐるかといふと、私は震災のとき、東京にをり、父はもう死床に臥したきり動くことができなかつた。私は地震のときトラムプの一人占ひをやつてゐると、ガタ〳〵ゆれて壁がトラムプを並べた上へ落ちた。立上つて逃げだすと戸が倒れ、唐紙、障子が倒れ、それをひよろ〳〵とさけながら庭へ下りると瓦が落ちてくる、私は父を思ひだして寝室へはいると、床の間の鴨居が落ちてをり、そこで父の枕元の長押なげしを両手で支へてゐたことを覚えてゐる。

 その翌日であつたと思ふ。私は父に命ぜられて火事見舞に行つた。加藤高明と若槻礼次郎を訪れたのである。若槻礼次郎邸では名刺を置いてきたゞけだつたが、加藤高明のところでは招ぜられて加藤高明に会ひ、一中学生の私に丁重極まる言葉で色々父の容態を質問された。私はもう会話も覚えてをらぬ。全てを忘れてゐるが、私はこの大きな男、まつたく、入道のやうな大坊主で、顔の長くて円くて大きいこと、海坊主のやうな男であつたが、ひどく大袈裟な物々しい男のくせに、私と何の距てもない心の幼さが分るやうであつた。私の父は頑固で物々しく気むづかしく、そのへんの外貌は似たところもあつたが、私の父の方がもつと子供つぽいところがあつた。然し私の父の本当の心は私と通じる幼さは微塵もなかつた。父は大人であつた。夢がなかつた。加藤高明には、妙な幼さが私の心にやにはに通じてきた。私はすぐホッとした気持になつてゐた。そして私の父のスケールの小さゝを痛切に感じたのである。私はそのとき十八であつた。

 父は客間に「七不堪」といふ額をかけて愛してゐたが、誰だか中国人の書いたもので、七の字が七と読めずに長の字に見え、誰でも「長く堪へず」と読む。客がさう読んで長居をてれるからをかしいので父は面白がつてゐたが、今では私がたつた一つ父の遺物にこれだけ所蔵して客間にかけてゐる。又父はその蔵書印に「子孫酒に換ふるもまた可」といふのを彫らせて愛してをり、このへんは父の衒気げんきではなく多分本心であつたと思ふが、私も亦、多分に通じる気持があり、私にとつてもそれらが矢張り衒気ではないのだが、決して深いものではなく、見様によつては大いに空虚な文人趣味の何か気質的な流れなので、私はいつも淋しくなり、侘しくなり、そして、なさけなくなるのである。

 私の父は代議士の外に新聞社長と株式取引所の理事長をやり、私慾をはかればいくらでも儲けられる立場にゐたが全く私慾をはからなかつた。又、政務次官だかに推されたとき後輩を推挙して自分はならなかつた。万事やり方がさうで、その心情は純粋ではなかつたと思ふ。本当の素直さがなかつたのだと私は思ふ。その子供のそしてさういふ気質をうけてゐる私であるゆゑ分るのだ。私の父は酒間に豪快で、酔態淋漓りんり、然し人前で女に狎れなかつたさうであるから私より大いに立派で、私はその点だらしがなくて全く面目ないのだが、私は然し酒間に豪放磊落らいらくだつたといふ父を妙に好まない。

 私は父の伝記の中で、父の言葉に一つ感心したところがあつて、それは取引所の理事長の父がその立場から人に言ひきかせたといふ言葉で、モメゴトの和解に立つたら徹夜してでも一気に和解させ、和解させたらその場で調印させよ、さもないと、一夜のうちに両方の考へがぐらつき又元へ逆戻りするものだ、と言ひきかせてゐたさうだ。私は尾崎士郎と竹村書房のモメゴトの時、私が間に立つて和解させたが、その場で調印を怠つたために翌日尾崎士郎から速達がきて逆戻りをし、親父の言葉が至言であるのを痛感したことがあつた。そして私は又しても親父の同じ道を跡を追つてゐる私を見出して、非常に不愉快な思ひがしたものであつた。

 父の伝記の中で、私の父が十八歳で新潟取引所の理事の時、十九歳で新潟新聞の主筆であつた尾崎咢堂がくどうが父のことを語つてゐる話があり、私の父は咢堂の知る新潟人のうち酔つ払つて女に狎れない唯一の人間だつたさうだが、それにつけたして「然し裏面のことはどうだか知らない」と咢堂は特につけたしてゐるのである。咢堂といふ人は何事につけても特にかういふ注釈づきの見方をつけたさずにゐられぬ人で、その点政治家よりも文学者により近い人だ。見方が万事人間的、人性的なので、それを特につけたして言ひ加へずにゐられぬといふ気質がある。私の親父にはそれがない。ところが私にはそれが旺盛で、その点では咢堂の厭味を徹底的にもつてゐる。自分ながらウンザリするほど咢堂的な臭気を持ちすぎてゐる。そして私は咢堂によつて「然し裏面のことは知らない」とつけたされてゐる父が、まるで私自身の不愉快な気質によつて特に冒涜されてゐるやうで、私は父に就て考へるたびに咢堂の言葉を私に当てはめて思ひ描いて厭な気持になるのであつた。だから私は、私自身の体臭を嫌ふごとくに咢堂を嫌ふ気持をもつてゐる。私の父は咢堂の辛辣さも甘さも持たなかつた。咢堂が二流の人物なら、私の父は三流以下のボンクラであつた。

 私は父の気質のうちで最も怖れてゐるのは、父の私に示した徹底的な冷めたさであつた。母と私は憎しみによつてつながつてゐたが、私と父とは全くつながる何物もなかつた。それは父が冷めたいからで、そして父が、私を突き放してゐたからで、私も突き放されて当然に受けとつてをり、全くつながるところがなかつた。

 私は私の驚くべき冷めたさに時々気づく。私はあらゆる物を突き放してゐる時がある。その裏側に何があるかといふと、さういふ時に、実は私はたゞ専一に世間を怖れてゐるのである。私が個々の物、個々の人を突き放す時に、私は世間全体を意識してをり、私は私自身をすら突き放して世間の思惑に身売しようとする。私は父がさうであつたと思ふ。父は私利、栄達をはからなかつたとき、自分を突き放して、実は世間の思惑に身売りしてゐたやうに思ふ。私の親父は田舎政治家の親分であり、そしていゝ気になつてゐた。


          


 私の冷めたさの中には、父の冷めたさの外に母からの冷めたさがあつた。私の母方は吉田といふ大地主で、この一族は私にもつながるユダヤ的な鷲鼻をもち、母の兄は眼が青かつた。母の兄はまつたくユダヤの顔で、日本民族の何物にも似てゐなかつた。この鷲鼻の目の青い老人は十歳ぐらゐの私をギラ〳〵した目でなめるやうに擦り寄つてきて、お前はな、とんでもなく偉くなるかも知れないがな、とんでもなく悪党になるかも知れんぞ、とんでもない悪党に、な、と言つた。私はその薄気味悪さを呪文のやうに覚えてゐる。

 私の母は継娘に殺されようとし、又、持病で時々死の恐怖をのぞき、私の子供の頃は死と争つてヒステリーとなり全く死を怖れてゐる女であつたが、年老いて、私と和解して後は凡そ死を平然と待ちかまへてゐる太々ふてぶてしい老婆であつた。私には死を突き放した太々しさは微塵もなく、凡そ死を怖れる小心だけが全部の私の思ひなのだが、私は然し、母から私へつながつてゐる異常な冷めたさを知つてゐる。

 私の母は凡そ首尾一貫しない女で、非常にケチなくせに非常に豪放で、一銭を惜しむくせに人にポン〳〵物をやり、一枚の瀬戸物を惜しむ反面、全部の瀬戸物をみんな捨てゝ突然新調したりする、移り気とも違ひ、気分屋とも違ふ、惜しむ時と捨てる時と心につながりがないので、惜しむ時はケチで、捨てる時は豪快で、その両方を関係させずに平然としてゐられる女であつた。人に気前よく物を呉れてやる時にも別に相手の人に愛情はないので、それはそれだけで切り離されてをり、二度目を当にしてももう連絡はないので、今度はひどくケチな反面を見せられてウンザリさせられたりするのである。人のことなど考へてやしないのだ。何でも当然と思つて受け入れる。どうでもいゝやと底で思ひ決してゐるからで、凡そ根柢的に冷めたい人であつた。私の家には書生がたくさんゐた。今は社長だの重役だの市長だの将軍だのになつてゐるが、みんな親父の人柄はのみこめても、母の人柄は今でも怪物のやうにわけが分らなく思つてゐる。本当は微塵も甘さがない。そのくせ疑ることも知らない。なんでもそのまゝ受け入れる。

 かういふ茫洋たる女だからめつたに思ひつめて憎んだりしないが、二人の継娘と私のことだけは憎んだので、かういふ女に憎まれては、子供の私がほと〳〵難渋したのは当然であり、私は小学校のときから、家出をしようか自殺しようか、何度も迷つたことがあつた。私が本来ヒネクレた上にもヒネクレたのは当然で、私は小学校の時から一文の金も貰へず何も買つて貰へないので、盗みを覚えた。中学へ行つても一文の小遣ひも貰へない。私は物を持ちだして売り、何でも通帳で買つてヂャン〳〵人にやつた。欲しくない物まで買つた。私が使ふ為でなく人にやるためだ。人に物をやるのは人に愛されたい為ではなく、母を嘆かせるためで、母に対する反抗からであつた。したがつて、私の胸の真実は常にはりさけるやうであつた。

 私は小学校の時から近眼であつたが、中学へはいつたときは眼鏡なしでは最前列へでても黒板の字が見えない。私の母は眼鏡を買つてくれなかつた。私は眼が見えなくて英語も数学も分らなくなり、その真相が見破られるのが羞しくて、学校を休むやうになつた。やうやく眼鏡を買つて貰へたので天にも昇る心持で今度は大いに勉強しようと思つたのに、私が又不注意でどういふわけだか黒眼鏡を買つてしまつたのだ。私は決して黒眼鏡を買つたつもりではないので、こればかりは今もつて分らない。多分眼鏡屋が間違へたのだと思ふ。私は黒眼鏡だとは知らずにかけて学校へ行つた。友達がめづらしがつてひつたくり買つたその日、眼鏡がこはれてしまつた。

 元より私は再び買つてもらへる筈がないのは分りきつてをり、幸ひ、黒眼鏡であつた為友人達は元々私は目が悪くないのに伊達でかけてきたのだらうと考へて、翌日から眼鏡なしでも買つて貰へないせゐだと思はれないのが幸せであつた。私は仕方がないので本格的に学校を休んで、毎日々々海の松林でねころんでゐた。そして私は落第した。然し私は学校を休んでゐても別に落第する必要はなかつたのだ。私は然し母を嘆かせ苦しめ反抗せずにゐられないので、わざ〳〵答案に白紙をだしたのである。先生が紙をくばる。くばり終ると私は特に跫音あしおと高く道化た笑ひを浮べて白紙の答案をだす。みんな笑ふ。私は英雄のやうな気取つた様子でアバヨと外へ出て行くが、私の胸は切なさで破れないのが不思議であつた。

 私が落第したので私の家では私に家庭教師をつけた。医科大学の秀才で、金野巌といふ人で、盛岡の人であつた。然し、私が眼鏡がなくて黒板の字が見えないから学校へ行かないといふことは金野先生も知らないし、意地つ張りで見栄坊の私はそれを白状することが出来ないので、相変らず毎日学校を休み、天気の良い日は海の松林で、雨の日は学校の横手のパン屋の二階でねころんでゐた。そして学校を追ひだされたのである。そして私は東京の中学へ入学したが、母と別れることができる喜びで、そして、たぶん東京では眼鏡を買ふことができ、勉強することが出来る喜びで、希望にかゞやいてゐた。私は然し母と別れてのち母を世の誰よりも愛してゐることを知つた。


          


 新潟中学の私は全く無茶で、私は無礼千万な子供であり、姓は忘れてしまつたがモデルといふ渾名の絵の先生が主任で、欠席届をだせといふ。私は偽造してきて、ハイヨといつて先生に投げて渡した。先生は気の弱い人だから恨めしさうに怒りをこめて睨んだだけだが、私は今でも済まないことだと思つてゐる。先生にバケツを投げつけて窓から逃げだしたり、毎日学校を休んでゐるくせに、放課後になると柔道だけ稽古に行く。先生に見つかつて逃げだす。そして、北村といふチョーチン屋の子供だの大谷といふ女郎屋の子供と六花会といふのを作り、学校を休んでパン屋の二階でカルタの稽古をしてゐた。カルタといふのは小倉百人一首のことで、正月やるあの遊びで、これを一年半も毎日々々学校を休んで夢中で練習してゐたのだから全く話にならない。大谷といふ女郎屋の倅は二年生のくせに薬瓶へ酒をつめて学校で飲んでゐる男で、試験のとき英語の先生のところへ忍んで行つて試験の問題を盗んできたことがあつた。私が家から刀を盗んできて売つて酒をのんだこともあり、一度だけだが、料理屋でドンチャン騒ぎをやらかしたことがある。かういふことは大谷が先生であつたやうで、外に渡辺といふ達人もゐた。これが中学二年生の行状で、荒れ果てゝゐたが、私の魂は今と変らぬ切ないものであつた。この切なさは全く今と変らない。恐らく終生変らず、又、育つこともないもので、怖れ、恋ふる切なさ、逃げ、高まりたい切なさ、十五の私も、四十の私も変りはないのだ。

 尤も私は六ツの年にもう幼稚園をサボつて遊んでゐて道が分らなくなり道を当てどなくさまよつてゐたことがあつた。六ツの年の悲しみも矢張り同じであつたと思ふ。かういふ悲しみや切なさは生れた時から死ぬ時まで発育することのない不変のもので、私のやうなヒネクレ者は、この素朴な切なさを一生の心棒にして生を終るのであらうと思つてゐる。だから私は今でも子供にはすぐ好かれるのはこの切なさで子供とすぐ結びついてしまふからで、これは愚かなことであり、凡そ大人げない阿呆なことに相違ないが、悔いるわけにも行かないのである。

 私の父には、すくなくとも、この悲しみはなかつた。然し、この悲しみの有無は生れつきの気質ではなく、人は本来この悲しみが有るものなので、この悲しみは素朴であり、父はそれを抑へるか、抑へることによつて失ふか、後天的に処理したもので、さういふ風に処理し得たことには性格的なものがあつたかも知れない。

 私はだから子供の頃は、大人といふものは子供の悲しさを知らないものだときめこんでゐた。私は然し後年市島春城翁と知つたとき、翁はこの悲しみの別して深い人であり、又、会津八一先生なども父の知人であるが、この悲しみは老後もつきまとうて離れぬ人のやうである。だから父も今の私が見ればこの悲しみを見出すことが出来るかも知れないとも思ふのだが、然し、さうではない、と私は思ふ。なぜなら、私の長兄は父に最も接触してゐた子供であり、この長兄にはこの悲しみが微塵もないからである。この悲しみは血液的な遺伝ではなくて、接触することによつて外形的に感化され同化される性質の処世的なものであるから、長兄の今日の性格から判断しても、父にはたしかにこの悲しさがなかつたんだと思はれるのである。

 私は父に対して今もつて他人を感じてをり、したがつて敵意や反撥はもつてゐない。そして、敵意とは別の意味で、私は子供のときから、父が嫌ひであつた如く、父のこの悲しみに因縁のない事務的な大人らしさが嫌ひであり、なべてかゝる大人らしさが根柢的に嫌ひであつた。

 私が今日人を一目で判断して好悪を決し、信用不信用を決するには、たゞこの悲しみの所在によつて行ふので、これは甚だ危険千万な方法で、そのために人を見間違ふことは多々あるのだが、どうせ一長一短は人の習ひで、完全といふものはないのだから、標準などはどこへ置いてもどうせたかゞ標準にすぎないではないか。私はたゞ、私のこの標準が父の姿から今日に伝流してゐる反感の一つであることを思ひ知つて、人間の生きてゐる周囲の狭さに就て考へ、そして、人間は、生れてから今日までの小さな周囲を精密に思ひだして考へ直すことが必要だと痛感する。私は今日、政治家、事業家タイプの人、人の子の悲しみのかげをもたない人に対しては本能的な反撥を感じ一歩も譲らぬ気持になるが、悲しみの翳に憑かれた人の子に対しては全然不用心に開け放して言ひなり放題に垣を持つことを知らないのである。

 父は幼い心を失つてゐた。然しそれは健康な人の心の姿ではないので、父は晩年になつて長男と接触して子供の世界を発見しその新鮮さに驚くやうになつた。洋画を見たり、登山趣味だの進歩的な社会運動だの、さういふものに好奇の目を輝やかせるやうになつたのだが、それはもうたゞ知らない異国の旅行者の目と同じことで、同化し血肉化する本当の素直さは失つてゐる。彼自らの本質的な新鮮さはなかつたのである。

 私は私の心と何の関係もなかつた一人の老人に就て考へ、その老人が、隣家の老翁や叔父や学校の先生よりも、もつと私との心のつながりが稀薄で、無であつたことを考へ、それを父とよばなければならないことを考へる。墨をすらせる子供以外に私に就て考へてをらず、自分の死後の私などに何の夢も托してゐなかつた老人に就て考へ、石がその悲願によつて人間の姿になつたといふ「紅楼夢」を、私自身の現身うつしみのやうにふと思ふことが時々あつた。オレは石のやうだな、と、ふと思ふことがあるのだ。そして、石が考へる。


          


 私は「家」といふものが子供の時から怖しかつた。それは雪国の旧家といふものが特別陰鬱な建築で、どの部屋も薄暗く、部屋と部屋の区劃が不明確で、迷園の如く陰気でだだつ広く、冷めたさと空虚と未来への絶望と呪咀の如きものが漂つてゐるやうに感じられる。住む人間は代々の家の虫で、その家で冠婚葬祭を完了し、死んでなほ霊気と化してその家に在るかのやうに形式づけられて、その家づきの虫の形に次第に育つて行くのであつた。

 私の生れて育つた家は新潟市の仮の住宅であつたから田舎の旧家ほどだだつ広い陰鬱さはなかつたけれども、それでも昔は坊主の学校であつたといふ建築で、一見寺のやうな建物で、二抱へほどの松の密林の中にかこまれ、庭は常に陽の目を見ず、松籟のしゞまに沈み、鴉と梟の巣の中であつた。

 私は母のゐる家が嫌ひで、学校から帰ると夜まで外で遊ぶけれども雨が降れば仕方がないので、さういふときは女中部屋へもぐりこむ。女中部屋は屋根裏で、寺の建築の屋根裏だから、どの部屋よりも広く陰気で、おまけに梁の一本が一間あまり切られたところがあり、これは坊主の学校のとき生徒の一人が首をくゝり、不吉を怖れてその部分だけ梁を切つたといふ因縁のものだ。尤もその切口もまつたく煤けて同じ色の黒さで、切つた年代の相違などといふものもすでに時間の底に遠く失はれてゐるのであつた。この屋根裏は迷路のやうに暗闇の奥へ曲りこんでをり、私は物陰にかくれるやうにひそんで、講談本を読み耽つてゐたのである。雪国で雪のふりつむ夜といふものは一切の音がない。知らない人は吹雪の激しさを思ふやうだが、ピュウ〳〵と悲鳴のやうに空の鳴る吹雪よりも、あらゆる音といふものが完全に絶え、音の真空状態といふものゝ底へ落ちた雪のふりつむ夜のむなしさは切ないものだ。あゝ、又、深雪だなと思ふ。そして、さう思ふ心が、それから何か当のない先の暗さ、はかなさ、むなしさ、そんなものをふと考へずにゐられなくなる。子供の心でも、さうだつた。私は「家」そのものが怖しかつた。

 私の東京の家は私の数多い姉の娘達、つまり姪達が大きくなつて東京の学校へはいる時の寄宿舎のやうなものであつたが、この娘達は言ひ合したやうに、この東京の小さな部屋が自分の部屋のやうで可愛がる気持になるといふ。田舎の家は自分の部屋があらゆる部屋と大きくつながり、自分だけの部屋、といふ感じを持つことができないのだ。そしてその大きな全部、家の一つのかたまりに、陰鬱な何か漂ふ気配があつた。それは家の歴史であり、家に生れた人間の宿命であり、溜息であり、いつも何か自由の発散をふさがれてゐるやうな家の虫の狭い思索と感情の限界がさし示されてゐるやうな陰鬱な気がする。

 別して少年の私は母の憎しみのために、その家を特別怖れ呪はねばならなかつた。

 中学校をどうしても休んで海の松林でひつくりかへつて空を眺めて暮さねばならなくなつてから、私のふるさとの家は空と、海と、砂と、松林であつた。そして吹く風であり、風の音であつた。

 私は幼稚園のときから、もうふら〳〵と道をかへて、知らない街へさまよひこむやうな悲しさに憑かれてゐたが、学校を休み、松の下の茱萸ぐみの藪陰にねて空を見てゐる私は、虚しく、いつも切なかつた。

 私は今日も尚、何よりも海が好きだ。単調な砂浜が好きだ。海岸にねころんで海と空を見てゐると、私は一日ねころんでゐても、何か心がみたされてゐる。それは少年の頃否応なく心に植ゑつけられた私の心であり、ふるさとの情であつたから。

 私は然し、それを気付かずにゐた。そして人間といふものは誰でも海とか空とか砂漠とか高原とか、さういふ涯のない虚しさを愛すのだらうと考へてゐた。私は山あり渓ありといふ山水の風景には心の慰まないたちであつた。あるとき北原武夫がどこか風景のよい温泉はないかと訊くので、新鹿沢温泉を教へた。こゝは浅間高原にあり、たゞ広茫たる涯のない草原で、樹木の影もないところだ。私の好きなところであつた。ところが北原はこゝへ行つて帰つてきて、あんな風色の悪いところはないと言ふ。北原があまり本気にその風景の単調さを憎んでゐるので、そのとき私は始めてびつくり気がついて、私の好む風景に一般性がないことを疑ぐりだしたのである。彼は箱根の風景などが好きであるが、なるほどその後気付いてみると人間の九分九厘は私の好む風景よりも山水の変化の多い風景の方が好きなものだ。そして私は、私がなぜ海や空を眺めてゐると一日ねころんでゐても充ち足りてゐられるか、少年の頃の思ひ出、その原因が分つてきた。私の心の悲しさ、切なさは、あの少年の頃から、今も変りがないのであつた。

 私は「家」に怖れと憎しみを感じ、海と空と風の中にふるさとの愛を感じてゐた。それは然し、同時に同じ物の表と裏でもあり、私は憎み怖れる母に最もふるさとゝ愛を感じてをり、海と空と風の中にふるさとの母をよんでゐた。常に切なくよびもとめてゐた。だから怖れる家の中に、あの陰鬱な一かたまりの漂ふ気配の中に、私は又、私のやみがたい宿命の情熱を托しひそめてもゐたのであつた。私も亦、常に家を逃れながら、家の一匹の虫であつた。

 私の家から一町ほど離れたところに吉田といふ母の実家の別邸があつた。こゝに私の従兄に当る男が住んでをり、女中頭の子供が白痴であつた。私よりも五ツぐらゐ年上であつたと思ふ。

 小学校の四年のとき白痴になつたのであるが、そのときは碁が四級ぐらゐで、白痴にならなければ、いつぱし碁打の専門家になれたかも知れない。白痴になつてからは年毎に力が劣へ、従兄に何目か置かせてゐたのが相先になり、逆に何目か置くやうになつてゐた。白痴は強情であつたが臆病であつた。この別邸の裏は新潟の刑務所だが、碁を打つてお前が負けたら刑務所へ入れるとか、土蔵へ入れると云つて脅かす。白痴の方では何年か前には何目か置かせて打つてゐた自信が今も離れないから、せゝら笑つて(まつたくせゝら笑ふのである。呆れるばかり一徹で強情であつた)やりだすのだが、白痴の方は案に相違、いつも負けてしまふ。はてな、と云つて、石が死にかけてから真剣に考へはじめ、どうして自分が負けるのか原因が分らなくて深刻にあわてはじめる、それが白痴の一徹だから微塵も虚構や余裕がなくて勝つ方の愉しさに察せられるものがある。けれども従兄はそれだけで満足ができないので、本当に土蔵へ入れて一晩鍵をかけておいたり、裏門から刑務所の畑の中に突きだして門を閉ぢたりしたものだ。白痴は一晩ヒイ〳〵泣いて詫びてゐる。そのくせ懲りずに、翌日になると必ずせゝら笑つてやりだすので、負けて悄然今日だけは土蔵へ入れずに許してくれ、へいつくばつて平あやまりにあやまるあとでせゝら笑つて、本当は負ける筈がないのだと呟いて、首を傾けて考へこんでゐる。

 毎晩負けて土蔵へ入れられるらさに、たうとう家出をした。街のゴミタメを漁つて野宿して乞食のやうに生きてをり、どうしても掴まらなくなり、一年ぐらゐ彷徨してゐるうちに、警察の手で精神病院へ送られた。そのときはもう長い放浪で身体が衰弱してをり、冬の暮方、病院で息をひきとつた。

 それはまだ暮方で、別邸では一家が炉端で食事を終へたところであつたが、突然突風の音が起つて先づ入口の戸が吹き倒れ、突風は土間を吹きぬけて炉端の戸を倒し、台所から奥へ通じる戸を倒し、いつも白痴がこもつてゐた三畳の戸を倒して、とまつた。すべては瞬間の出来事で、けたゝましい音だけが残つてゐた。それは全くある人間の全身の体力が全力をこめて突き倒し蹴倒して行つたものであり、たゞその姿が風であつて見えないだけの話であつた。そこへ病院から電話で、今白痴が息をひきとつたといふ報せがあつたのである。

 私は白痴のゴミタメを漁つて逃げ隠れてゐる姿を見かけたことがあつた。白痴の切なさは私自身の切なさだつた。私も、もしゴミタメをあさり、野に伏し縁の下にもぐりこんで生きてゐられる自信があるなら、家を出たい、青空の下へ脱出したいと思はぬ日はなかつた。私はそのころ中学生で、毎日学校を休んで、晴れた日は海の松林に、雨の日はパン屋の二階にひそんでゐたが、私の胸は悲しみにはりさけないのが不思議であり、罪と怖れと暗さだけで、すべての四囲がぬりこめられてゐるのであつた。青空の下へ自分一人の天地へ! 私は白痴の切なさを私自身の姿だと思つてゐた。私はこの白痴とは親しかつた。私は雨の日は別邸へ白痴を訪ねて四目置いて碁を教へてもらふことが度々あつたのである。

 ゴミタメを漁り野宿して犬のやうに逃げ隠れてどうしても家へ帰らなかつた白痴が、死の瞬間に霊となり荒々しく家へ戻つてきた。それは雷神の如くに荒々しい帰宅であつたが、然し彼は決して復讐はしてゐない。従兄の鼻をねぢあげ、横ッ腹を走るついでに蹴とばすだけの気まぐれの復讐すらもしてゐない。彼はたゞ荒々しく戸を蹴倒して這入つてきて、炉端の人々をすりぬけて、三畳のわが部屋へ飛びこんだだけだ。そしてそこで彼の魂魄は永遠の無へ帰したのである。

 この事実は私の胸に焼きついた。私が私の母に対する気持も亦さうであつた。私は学校を休み松林にねて悲しみに胸がはりさけ死ねときがあり、私の魂は荒々しく戸を蹴倒して我家へ帰る時があつても、私も亦、母の鼻すら捩ぢあげはしないであらう。私はいつも空の奥、海のかなたに見えない母をよんでゐた。ふるさとの母をよんでゐた。

 そして私は今も尚よびつゞけてゐる。そして私は今も尚、家を怖れる。いつの日、いづこの戸を蹴倒して私は死なねばならないかと考へる。一つの石が考へるのである。

底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房

   1998(平成10)年522日初版第1刷発行

底本の親本:「光 LACLARTE 第二巻第一一号」

   1946(昭和21)年111日発行

初出:「光 LACLARTE 第二巻第一一号」

   1946(昭和21)年111日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:宮元淳一

2006年55日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。