続戦争と一人の女
坂口安吾



 カマキリ親爺は私のことを奥さんと呼んだり姐さんと呼んだりした。デブ親爺は奥さんと呼んだ。だからデブが好きであつた。カマキリが姐さんと私をよぶとき私は気がつかないふうに平気な顔をしてゐたが、今にひどい目にあはしてやると覚悟をきめてゐたのである。

 カマキリもデブも六十ぐらゐであつた。カマキリは町工場の親爺でデブは井戸屋であつた。私達はサイレンの合間々々に集つてバクチをしてゐた。野村とデブが大概勝つて、私とカマキリが大概負けた。カマキリは負けて亢奮してくると、私を姐さんとよんで、厭らしい目付をした。時々よだれが垂れさうな露骨な顔付をした。カマキリは極度に吝嗇であつた。負けた金を払ふとき札をとりだして一枚一枚皺をのばして手放しかねてゐるのであつた。唾をつけて汚いぢやないの、はやくお出しなさい、と言ふと泣きさうなクシャ〳〵な顔をする。

 私は時々自転車に乗つてデブとカマキリを誘ひに行つた。私達は日本が負けると信じてゐたが、カマキリは特別ひどかつた。日本の負けを喜んでゐる様子であつた。男の八割と女の二割、日本人の半分が死に、残つた男の二割、赤ん坊とヨボ〳〵の親爺の中に自分を数へてゐた。そして何百人だか何千人だかの妾の中に私のことを考へて可愛がつてやらうぐらゐの魂胆なのである。

 かういふ老人共の空襲下の恐怖ぶりはひどかつた。生命の露骨な執着に溢れてゐる。そのくせ他人の破壊に対する好奇心は若者よりも旺盛で、千葉でも八王子でも平塚でもやられたときに見物に行き、被害が少いとガッカリして帰つてきた。彼等は女の半焼の死体などは人が見てゐても手をふれかねないほど屈みこんで叮嚀に見てゐた。

 カマキリは空襲のたびに被害地の見物に誘ひに来たが、私は二度目からはもう行かなかつた。彼等は甘い食物が食べられないこと、楽しい遊びがないこと、生活の窮屈のために戦争を憎んでゐたが、可愛がるのは自分だけで、同胞も他人もなく、自分のほかはみんなやられてしまへと考へてゐた。空襲の激化につれて一皮々々本性がむかれてきて、しまひには羞恥もなくハッキリそれを言ひきるやうになり、彼等の目附は変にギラ〳〵して悪魔的になつてきた。人の不幸を嗅ぎまはり、探しまはり、乞ひ願つてゐた。

 私はある日、暑かつたので、短いスカートにノーストッキングで自転車にのつてカマキリを誘ひに行つた。カマキリは家を焼かれて壕に住んでゐた。このあたりも町中が焼け野になつてからは、モンペなどはかなくとも誰も怒らなくなつたのである。カマキリは息のつまる顔をして私の素足を見てゐた。彼は壕から何かふところへ入れて出て来て、私の家へ一緒に向ふ途中、あんたにだけ見せてあげるよ、と言つて焼跡の草むらへ腰を下して、とりだしたのは猥画であつた。ちつにはいつた画帖風の美しい装釘だつた。

「私に下さるんでせうね」

「とんでもねえ」

 とカマキリは慌てゝ言つた。そして顔をそむけて何かモジ〳〵してゐる隙に、私は本を掴んで自転車にとびのつた。よぼ〳〵してゐるカマキリは私がゆつくり自転車にまたがるのを口をあけてポカンと見てゐて立ちあがるのが精一杯であつた。

「おとゝいおいで」

「この野郎」

 カマキリは白い歯をむいた。

 カマキリは私を憎んでゐた。私はだいたい男といふものは四十ぐらゐから女に接する態度がまるで違つてしまふことを知つてゐる。その年頃になると、男はもう女に対して精神的な憧れだの夢だの慰めなど持てなくなつて、精神的なものはつまり家庭のヌカミソだけでたくさんだと考へるやうになつてゐる。そしてヌカミソだのオシメなどの臭ひの外に精神的などゝいふものは存在しないと否応なしに思ひつくやうになるのである。そして女の肉体に迷ひだす。男が本当に女に迷ひだすのはこの年頃からで、精神などは考へずに始めから肉体に迷ふから、さめることがないのである。この年頃の男達になると、女の気質も知りぬいてをり、手練手管も見ぬいてをり、なべて「女的」なものにむしろ憎しみをもつのだが、彼等の執着はもはや肉慾のみであるから、憎しみによつて執着は変らず、むしろかきたてられる場合の方が多いのだ。

 彼等は恋などゝいふ甘い考へは持つてゐない。打算と、そして肉体の取引を考へてゐるのだが、女の肉体の魅力は十年や十五年はつきない泉であるのに男の金は泉ではないから、いくらも時間のたゝないうちに一人のおいぼれ乞食をつくりだすのはわけはない。

 私はカマキリを乞食にしてやりたいと時々思つた。殆ど毎日思つてゐた。牡犬のやうに私のまはりを這ひまはらせたあげく毛もぬき目の玉もくりぬいて突き放してやらうかと思つた。けれども実際やつてみるほどの興味がなかつた。カマキリはよぼ〳〵であんまり汚い親爺なのだ。そして死にかけてゐるのだから、いつそ、ひと思ひに、さう思ふこともあるけれども、いざやつて見る気持にもならなかつた。

 それはたぶん私は野村を愛してをり、そして野村がさういふことを好まないせゐだらうと私は思つた。然し野村は私が彼を愛してゐるといふことを信用してをらず、戦争のせゐで人間がいくらか神妙になつてゐるのだらうぐらゐに考へてゐる様子であつた。

 私はむかし女郎であつた。格子にぶらさがつて、ちよつと、ちよつと、ねえ、お兄さん、と、よんでゐた女である。私はある男に落籍ひかされて妾になり酒場のマダムになつたが、私は淫蕩で、殆どあらゆる常連と関係した。野村もその中の一人であつた。この戦争で酒場がつゞけられなくなり、徴用だの何だのとうるさくなつて名目的に結婚する必要があつたので、独り者で、のんきで、物にこだはらない野村と同棲することにした。どうせ戦争に負けて日本中が滅茶々々になるのだから、万事がそれまでの話さ、と野村は苦笑しながら私を迎へた。結婚などゝいふ人並の考へは彼にも私にもなかつた。

 私は然し野村が昔から好きであつたし、そしてだん〳〵好きになつた。野村さへその気なら生涯野村の女房でゐたいと思ふやうになつてゐた。私は淫奔だから、浮気をせずにゐられない女であつた。私みたいな女は肉体の貞操などは考へてゐない。私の身体は私のオモチャで、私は私のオモチャで生涯遊ばずにゐられない女であつた。

 野村は私が一人の男に満足できない女で、男から男へ転々する女だと思つてゐるのだけれども、遊ぶことゝ愛すことゝは違ふのだ。私は遊ばずにゐられなくなる。身体が乾き、自然によぢれたり、私はほんとにいけない女だと思つてゐるが、遊びたいのは私だけなのだらうか。私は然し野村を愛してをり、遊ぶことゝは違つてゐた。けれども野村はいづれ私と別れてあたりまへの女房を貰ふつもりでをり、第一、私と別れぬさきに、戦争に叩きつぶされるか、運よく生き残つても奴隷にされてどこかへ連れて行かれるのだらうと考へてゐた。私もたぶんさうだらうと考へてゐたので、せめて戦争のあひだ、野村の良い女房でゐてやりたいと思つてゐた。

 私達の住む地区が爆撃をうけたのは四月十五日の夜だつた。

 私はB29の夜間の編隊空襲が好きだつた。昼の空襲は高度が高くて良く見えないし、光も色もないので厭だつた。羽田飛行場がやられたとき、黒い五六機の小型機が一機づゝゆらりと翼をひるがへして真逆様まつさかさまに直線をひいて降りてきた。戦争はほんとに美しい。私達はその美しさを予期することができず、戦慄の中で垣間見ることしかできないので、気付いたときには過ぎてゐる。思はせぶりもなく、みれんげもなく、そして、戦争は豪奢であつた。私は家や街や生活が失はれて行くことも憎みはしなかつた。失はれることを憎まねばならないほどの愛着が何物に対してもなかつたのだから。けれども私が息をつめて急降下爆撃を見つめてゐたら、突然耳もとでグアッと風圧が渦巻き起り、そのときはもう飛行機が頭上を掠めて通りすぎた時であり、同時に突き刺すやうな機銃の音が四方を走つたあとであつた。私は伏せる才覚もなかつた。気がついたら、十メートルと離れぬ路上に人が倒れてをり、その家の壁に五センチほどの孔が三十ぐらゐあいてゐた。そのとき以来、私は昼の空襲がきらひになつた。十人並の美貌も持たないくせに、思ひあがつたことをする、中学生のがさつな不良にいたづらされたやうに、空虚な不快を感じた。終戦の数日前にも昼の小型機の空襲で砂をかぶつたことがあつた。野村と二人で防空壕の修理をしてゐたら、五百米ぐらゐの低さで黒い小型機が飛んできた。ドラム缶のやうなものがフワリと離れたので私があらッと叫ぶと野村が駄目だ伏せろと言つた。防空壕の前にゐながら駈けこむ余裕がなかつたが、私は野村の顔を見てゆつくり伏せる落付があつた。お臍の下と顎の下で大地がゆら〳〵ゆれてグアッといふ風の音にひつくりかへされるやうな気がした、砂をかぶつたのはそれからだ。野村はかういふ時に私を大事にしてくれる男であつた。野村が生きてゐれば抱き起しにきてくれると思つたので死んだふりをしてゐたら、案の定、抱き起して、接吻して、くすぐりはじめたので、私達は抱き合つて笑ひながら転げまはつた。この時の爆弾はあんまり深く土の中へめりこんだので、私達の隣家の隣家をたつた一軒吹きとばしたゞけ、近所の家は屋根も硝子ガラスも傷まなかつた。

 夜の空襲はすばらしい。私は戦争が私から色々の楽しいことを奪つたので戦争を憎んでゐたが、夜の空襲が始まつてから戦争を憎まなくなつてゐた。戦争の夜の暗さを憎んでゐたのに、夜の空襲が始まつて後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのやうな深い調和を感じてゐた。

 私は然し夜間爆撃の何が一番すばらしかつたかと訊かれると、正直のところは、被害の大きかつたのが何より私の気に入つてゐたといふのが本当の気持なのである。照空燈の矢の中にポッカリ浮いた鈍い銀色のB29も美しい。カチ〳〵光る高射砲、そして高射砲の音の中を泳いでくるB29の爆音。花火のやうに空にひらいて落ちてくる焼夷弾、けれども私には地上の広茫たる劫火ごうかだけが全心的な満足を与へてくれるのであつた。

 そこには郷愁があつた。父や母に捨てられて女衒ぜげんにつれられて出た東北の町、小さな山にとりかこまれ、その山々にまだ雪のあつた汚らしいハゲチョロのふるさとの景色が劫火の奥にいつも燃えつづけてゐるやうな気がした。みんな燃えてくれ、私はいつも心に叫んだ。町も野も木も空も、そして鳥も燃えて空に焼け、水も燃え、海も燃え、私は胸がつまり、泣き迸しらうとして思はず手に顔をおおふほどになるのであつた。

 私は憎しみも燃えてくれゝばよいと思つた。私は火をみつめ、人を憎んでゐることに気付くと、せつなかつた。そして私は野村に愛されてゐることを無理にたしかめたくなるのであつた。野村は私のからだゞけを愛してゐた。私はそれでよかつた。私は愛されてゐるのだ。そして私は野村の激しい愛撫の中で、色々の悲しいことを考へてゐた。野村の愛撫が衰へると、私は叫んだ。もつとよ、もつと、もつとよ。そして私はわけの分らぬ私ひとりを抱きしめて泣きたいやうな気持であつた。

 私達の住む街が劫火の海につゝまれる日を私は内心待ち構えてゐた。私はカマキリから工業用の青酸加里を貰つて空襲の時は肌身放さず持つてゐた。私は煙にまかれたとき悶え死ぬさきに死ぬつもりであり、私はことさら死にたいと考へてもゐなかつたが、煙にまかれて苦しむ不安を漠然といだいてゐた。

 いつもはよその街の火の海の上を通つてゐた鈍い銀色の飛行機が、その夜は光芒の矢のまんなかに浮き上つて私達の頭上を傾いたり、ゆれたり、駈けぬけて行き、私達の四方がだん〳〵火の海になり、やがて空が赤い煙にかくされて見えなくなり、音々々、爆弾の落下音、爆発音、高射砲、そして四方に火のはぜる音が近づき、がう〳〵いふ唸りが起つてきた。

「僕たちも逃げよう」

 と野村が言つた。路上を避難の人達がごつたがへして、かたまり、走つてゐた。私はその人達が私と別な人間たちだといふことを感じつゞけてゐた。私はその知らない別な人たちの無礼な無遠慮な盲目的な流れの中に、今日といふ今日だけは死んでもはいつてやらないのだと不意に思つた。私はひとりであつた。たゞ、野村だけ、私と一しよにゐて欲しかつた。私は青酸加里を肌身放さずもつてゐた漠然とした意味が分りかけてきた。私はさつきから何かに耳を傾けていた。けれども私は何を捉へることもできなかつた。

「もうすこし、待ちませうよ。あなた、死ぬの、こはい?」

「死ぬのは厭だね。さつきから、爆弾がガラ〳〵落ちてくるたびに、心臓がとまりさうだね」

「私もさう。私は、もつと、ひどいのよ。でもよ、私、人と一しよに逃げたくないのよ」

 そして、思ひがけない決意がわいてきた。それは一途な、なつかしさであつた。自分がいとしかつた。可愛かつた。泣きたかつた。人が死に、人々の家が亡びても、私たちだけ生き、そして家も焼いてはいけないのだと思つた。最後の最後の時までこの家をまもつて、私はそしてそのほかの何ごとも考へられなくなつてゐた。

「火を消してちやうだい」と私は野村に縋るやうに叫んだ。「このおうちを焼かないでちやうだい。このあなたのおうち、私のうちよ。このうちを焼きたくないのよ」

 信じ難い驚きの色が野村の顔にあらはれ、感動といとしさで一ぱいになつた。私はもう野村にからだをまかせておけばよかつた。私の心も、私のからだも、私の全部をうつとりと野村にやればよかつた。私は泣きむせんだ。野村は私の唇をさがすために大きな手で私の顎をおさへた。ふり仰ぐ空はまッかな悪魔の色だつた。私は昔から天国へ行きたいなどゝ考へたゝめしがなかつた。けれども、地獄で、こんなにうつとりしようなどゝ、私は夢にすら考へてゐなかつた。私たち二人のまはりをとつぷりつゝんだ火の海は、今までに見たどの火よりも切なさと激しさにいつぱいだつた。私はとめどなく涙が流れた。涙のために息がつまり、私はむせび、それがきれぎれの私の嬉しさの叫びであつた。

 私の肌が火の色にほの白く見える明るさになつてゐた。野村はその肌を手放しかねて愛撫を重ねるのであつたが、思ひきつて、蓋をするやうに着物をかぶせて肌を隠した。彼は立上つてバケツを握つて走つて行つた。私もバケツを握つた。そしてそれからは夢中であつた。私達の家は庭の樹木にかこまれてゐた。風上に道路があり、隣家が平家であつたことも幸せだつた。四方が火の海でも、燃えてくる火は一方だけで、一つづゝ消せばよかつた。そのうへ、火が本当に燃えさかり、熱風のかたまりに湧き狂ふのは十五分ぐらゐの間であつた。そのときは近寄ることもできなかつたが、それがすぎるとあとは焚火と同じこと、たゞ火の面積が広いといふだけにすぎない。隣家が燃え狂ふさきに私達は家に水をざあ〳〵かけておいた。隣家が燃え落ちて駈けつけるとお勝手の庇に火がついて燃えかけてゐたので三四杯のバケツで消したが、それだけで危険はすぎてゐた。火が隣家へ移るまでが苦難の時で、殆ど夢中で水を運び水をかけてゐたのだ。

 私は庭の土の上にひつくりかへつて息もきれぎれであつた。野村が物を言ひかけても、返事をする気にならなかつた。野村が私をだきよせたとき、私の左手がまだ無意識にバケツを握つてゐたことに気がついた。私は満足であつた。私はこんなに虚しく満ち足りて泣いたことはないやうな気がする。その虚しさは、私がちやうど生れたばかりの赤ん坊であることを感じてゐるやうな虚しさだつた。私の心は火の広さよりも荒涼として虚しかつたが、私のいのちが、いつぱいつまつてゐるやうな気がした。もつと強くよ、もつと、もつと、もつと強く抱きしめて、私は叫んだ。野村は私のからだを愛した。鼻も、口も、目も、耳も、頬も、喉も。変なふうに可愛がりすぎて、私を笑はせたり、怒らせたり、悩ましたりしたが、私は満足であつた。彼が私のからだに夢中になり喜ぶことをたしかめるのは私のよろこびでもあつた。私は何も考へてゐなかつた。私にはとりわけ考へねばならぬことは何一つなかつた。私はたゞ子供のときのことを考へた。とりとめもなく思ひだした。今と対比してゐるのではなかつた。たゞ、思ひだすだけだ。そして、さういふ考へごとの切なさで、ふと野村に邪険にすることもあつた。私は野村に可愛がられながら、野村でない男の顔や男のからだを考へてゐることもあつた。あのカマキリのことすら、考へてみたこともあつた。何事でも、考へることは、一般に、退屈であつた。そして私は、ともかく野村が私のからだに酔ひ、愛し溺れることに満足した。

 私は昔から天国だの神様だの上品にとりすましたものが嫌ひであつたが、自分が地獄から来た女だといふことは、このときまで考へたことはなかつた。私たちの住む街は私たちの一町四方ほどの三ツの隣組を残して一里四方の焼野原になつたが、もうこの街が燃えることがないと分ると、私は何か落胆を感じた。私は私の周囲の焼け野原が嫌ひであつた。再び燃えることがないからだつた。そしてB29の訪れにも、以前ほどの張合ひを持つことができなくなつてゐた。

 けれども、敵の上陸、日本中の風の中を弾の矢が乱れ走り、爆弾がはねくるひ、人間どもが蜘蛛の子のやうに右往左往バタ〳〵倒れる最後の時が近づいてゐた。その日は私の生き甲斐であつた。私は私の街の空襲の翌日、広い焼跡を眺め廻して呟いてゐた。なんて呆気ないのだらう。人間のやること、なすこと、どうして何もかも、かう呆気なく終つてしまふのだらう。私は影を見たゞけで、何物も抱きしめて見たことがない。私は恋ひこがれ、背後にヒビがわれ、骨の中が旱魃かんばつの畑のやうに乾からびてゐるやうだつた。私はラヂオの警報がB29の大編隊三百機だの五百機だのと言ふたびに、なによ、五百機ぽつち。まだ三千機五千機にならないの、口ほどもない、私はぢり〳〵し、空いつぱいが飛行機の雲でかくれてしまふ大編隊の来襲を夢想して、たのしんでゐた。


          


 カマキリも焼けた。デブも焼けた。

 カマキリは同居させてくれと頼みにきたが、私は邪険に突き放した。彼はかねてこの辺では例の少い金のかゝつた防空壕をつくつてゐた。家財の大半は入れることができ、直撃されぬ限り焼けないだけの仕掛があつた。彼は貧弱な壕しかない私達をひやかして、家具は疎開させたかね、この壕には蓋がないね、焼けても困らない人達は羨しいね、などゝ言つたが、実際は私達の不用意を冷笑してをり、焼けて困つてボンヤリするのを楽しみにしてゐたのだつた。カマキリは悪魔的な敗戦希願者であつたから、B29の編隊の数が一万二万にならないことに苛々いらいらする一人であつた。東京中が焼け野になることを信じてをり、その焼け野も御叮嚀に重砲の弾であばたになると信じてゐた。その時でも、自分の壕ならともかく直撃されない限り持つと思つてをり、手をあげて這ひだして、ヨボ〳〵の年寄だから助けてやれ、そこまで考へて私達に得意然と吹聴して、金を握つて、壕に金をかけない人間は馬鹿だね、金は紙キレになるよ、紙キレをあつためて、馬鹿げた話さ、さう言つてゐた。だから私はカマキリに言つてやつた。この時の用意のために壕をつくつておいたのでせう。御自慢の壕へ住みなさい。

「荷物がいつぱいつまつてゐるのでね」

 と、カマキリは言つた。

「そんなことまで知りませんよ。私達が焼けだされたら、あなたは泊めてくれますか」

「それは泊めてやらないがね」

 と、カマキリは苦笑しながら厭味を言つて帰つて行つた。カマキリは全く虫のやうに露骨であつた。焼跡の余燼の中へ訪ねてきて、焼け残つたね、と挨拶したとき、あらはに不満を隠しきれず、残念千万な顔をした。そして、焼け残つたね、とは言つたが、よかつたね、とも、おめでたう、とも言ふ分別すらないのであつた。いくらか彼の胸がをさまるのは、どうせ最後にどの家も焼けて崩れて吹きとばされるにきまつてゐるといふことゝ、焼け残つたために目標になつて機銃にやられ、小型機のたつた一発で命もろとも吹きとばされるかも知れない、といふ見込みがあるためであつた。俺の壕は手ぜまだからネ、いざといふとき、一人ぐらゐ、さうだね、せゐぜゐ、あんた一人ぐらゐ泊めてやれるがネ、とカマキリは公然と露骨に言つた。

 私は正直に打開けて言へば、もし爆弾が私たちを見舞ひ、野村と家を吹きとばして私一人が生き残つても、困ることはなかつた。私はそのときこそカマキリの壕へのりこんで、カマキリの家庭を破滅させ、年老いた女房を悶死させ、やがてカマキリも同じやうに逆上させ悶死させてやらうと思つてゐた。それから先の行路にも、私は生きるといふことの不安を全然感じてゐなかつた。

 私は然し野村と二人で戦陣を逃げ、あつちへヨタ〳〵、こつちへヨタ〳〵、麦畑へもぐりこんだり、河の中を野村にだいて泳いでもらつたり、山の奥のどん底の奥へ逃げこんで、人の知らない小屋がけして、これから先の何年かの間、敵のさがす目をさけて秘密に暮すたのしさを考へてゐた。

 いくさのすんだ今こそ昔通りの生活をあたりまへだと思つてゐるけど、戦争中はこんな昔の生活は全然私の頭に浮んでこなかつた。日本人はあらかた殺され、隠れた者はひきづりだして殺されると思つてゐた。私はその敵兵の目をさけて逃げ隠れながら野村と遊ぶたのしさを空想してゐた。それが何年つづくだらう。何年つゞくにしても、最後には里へ降りるときがあり、そして平和の日がきて、昔のやうな平和な退屈な日々が私達にもひらかれると、やつぱり私達は別れることになるだらうと私は考へてゐた。結局私の空想は、野村と別れるところで終りをつげた。二人で共しらが、そんなことは考へてみたこともない。私はそれから銘酒屋で働いて親爺をだまして若い燕をつくつてもいゝし、どんなことでも考へることができた。

 私は野村が好きであり、愛してゐたが、どこが好きだの、なぜ好きだの、私のやうな女にそれはヤボなことだと思ふ。私は一しよに暮して、ともかく不快でないといふことで、これより大きな愛の理由はないのであつた。男はほかにたくさんをり、野村より立派な男もたくさんゐるのを忘れたためしがない。野村に抱かれ愛撫されながら、私は現に多くはそのことを考へてゐた。しかし、そんなことにこだはることはヤボといふものである。私は今でも、甘い夢が好きだつた。

 人間は何でも考へることができるといふけれども、然し、ずいぶん窮屈な考へしかできないものだと私は思つてゐる。なぜつて、戦争中、私は夢にもこんな昔の生活が終戦匆々そうそう訪れようとは考へることができなかつた。そして私は野村と二人、戦争といふ宿命に対して二人が一つのかたまりのやうな、そして必死に何かに立向つてゐるやうな、なつかしさ激しさいとしさを感じてゐた。私は遊びの枯渇に苛々し、身のまはりの退屈なあらゆる物、もとより野村もカマキリもみんな憎み、呪ひ、野村の愛撫も拒絶し、話しかけられても返事してやりたくなくなり、私はそんなとき自転車に乗つて焼跡を走るのであつた。若い職工や警防団がモンペをはかない私の素足をひやかしたり咎めたりするとムシャクシャして、ひつかけてやらうかと思ふのだつた。

 けれども私の心には野村が可哀さうだと思ふ気持があつた。それは野村がどうせ戦争で殺されるといふことだつた。私は八割か九割か、あるひは十割まで、それを信じてゐたのだ。そして女の私は生き残り、それからは、どんなことでもできる、と信じてゐた。

 私は一人の男の可愛い女房であつた、といふことを思ひ出の一ときれに残したいと願つてゐた。その男は私を可愛がりながら戦争に殺され、私は敗戦後の日本中あばたゞらけ、コンクリートの破片だの石屑だらけの面白さうな世の中に生き残つて、面白いことの仕放題のあげくに、私の可愛い男は戦争で死んだのさ、と呟いてみることを考へてゐた。それはしんみりと具合がとても良さゝうだつた。

 私は然し野村が気の毒だと思つた。本当に可哀さうだと思つてゐた。その第一の理由、無二の理由、絶対の理由、それは野村自身がはつきりと戦争の最も悲惨な最後の最後の日をみつめ、みぢんも甘い考へをもつてゐなかつたからだつた。野村は日本の男はたとひ戦争で死なゝくとも、奴隷以上の抜け道はないと思つてゐた。日本といふ国がなくなるのだと思つてゐた。女だけが生き残り、アイノコを生み、別の国が生れるのだと思つてゐた。野村の考へはでまかせがなく、慰めてやりやうがなかつた。野村は私を愛撫した。愛撫にも期限があると信じてゐた。野村は愛撫しながら、憎んだり逆上したりした。私は日本の運命がその中にあるのだと思つた。かうして日本が亡びて行く。私を生んだ日本が。私は日本を憎まなかつた。亡びて行く日本の姿を野村の逆上する愛撫の中で見つめ、あゝ、日本が今日はこんな風になつてゐる、とりのぼせてゐる、額に汗を流してゐる、愛する女を憎んでゐる。私はさう思つた。私は野村のなすまゝに身体をまかせた。

「女どもは生き残つて、盛大にやるがいゝさ」

 野村はクスリと笑ひながら、時々私をからかつた。私も負けてゐなかつた。

「私はあなたみたいに私のからだを犬ころのやうに可愛がる人はもう厭よ。まぢめな恋をするのよ」

「まぢめとは、どういふことだえ?」

「上品といふことよ」

「上品か。つまり、精神的といふことだね」

 野村は目をショボ〳〵させて、くすぐつたさうな顔をした。

「俺はどこか南洋の島へでも働きに連れて行かれて、土人の女を口説いたゞけでも鞭でもつて息の根のとまるほど殴りつけられるだらうな」

「だから、あなたも、土人の娘と精神的な恋をするのよ」

「なるほど。まさか人魚を口説くわけにも行くまいからな」

 私たちの会話は、みだらな、馬鹿げたことばかりであつた。

 ある夜、私たちの寝室は月光にてらされ、野村は私のからだを抱きかゝへて窓際の月光のいつぱい当る下へ投げだして、戯れた。私達の顔もはつきりと見え、皮膚の下の血管も青くクッキリ浮んで見えた。

 野村は平安朝の昔のなんとか物語の話を語つてきかせた。林の奥に琴の音がするので松籟しようらいの中をすゝんで行くと、楼門の上で女が琴をひいてゐた。男はあやしい思ひになり女とちぎりを結んだが、女はかつぎをかぶつてゐて月光の下でも顔はしかとは分らなかつた。男は一夜の女に恋ひこがれる身となるのだが、琴をたよりに、やがてその女が時の皇后であることが分り……そんな風な物語であつた。

「戦争に負けると、却つてこんな風雅な国になるかも知れないな。国破れて山河ありといふが、それに、女があるのさ。松籟と月光と女とね、日本の女は焼けだされてアッパッパだが、結構夢の恋物語は始まることだらうさ」

 野村は月光の下の私の顔をいとしがつて放さなかつた。深いみれんが分つた。戦争といふ否応のない期限づきのおかげで、私達の遊びが、こんなに無邪気で、こんなにアッサリして、みれんが深くて、いとしがつてゐられるのだといふことが沁々わかるのであつた。

「私はあなたの思ひ通りの可愛いゝ女房になつてあげるわ。私がどんな風なら、もつと可愛いゝと思ふのよ」

「さうだな。でも、マア、今までのまゝで、いゝよ」

「でもよ。教へてちやうだいよ。あなたの理想の女はどんな風なのよ」

「ねえ、君」

 野村はしばらくの後、笑ひながら、言つた。

「君が俺の最後の女なんだぜ。え、さうなんだ。こればつかりは、理窟ぬきで、目の前にさしせまつてゐるのだからね」

 私は野村の首つたまにかじりついてやらずにゐられなかつた。彼はハッキリ覚悟をきめてゐた。男の覚悟といふものが、こんなに可愛いゝものだとは。男がいつもこんな覚悟をきめてゐるなら、私はいつもその男の可愛いゝ女でゐてやりたい。私は目をつぶつて考へた。特攻隊の若者もこんなに可愛いゝに相違ない。もつと可愛いゝに相違ない。どんな女がどんな風に可愛がつたり可愛がられたりしてゐるのだらう、と。


          


 私は戦争がすんだとき、こんな風な終り方を考へてゐなかつたので、約束が違つたやうに戸惑ひした。格好がつかなくて困つた。尤も日本の政府も軍人も坊主も学者もスパイも床屋も闇屋も芸者もみんな格好がつかなかつたのだらう。カマキリは怒つた。かんかんに怒つた。こゝでやめるとは何事だ、と言つた。東京が焼けないうちになぜやめない、と言つた。日本中がやられるまでなぜやらないか、と言つた。カマキリは日本中の人間を自分よりも不幸な目にあはせたかつたのである。私はカマキリの露骨で不潔な意地の悪い願望を憎んでゐたが、気がつくと、私も同じ願望をかくしてゐるので不快になるのであつた。私のは少し違ふと考へてみても、さうではないので、私はカマキリがなほ厭だつた。

 アメリカの飛行機が日本の低空をとびはじめた。B29の編隊が頭のすぐ上を飛んで行き、飛んで帰り、私は忽ち見あきてしまつた。それはたゞ見なれない四発の美しい流線型の飛行機だといふだけのことで、あの戦争の闇の空に光芒の矢にはさまれてポッカリ浮いた鈍い銀色の飛行機ではなかつた。あの銀色の飛行機には地獄の火の色が映つてゐた。それは私の恋人だつたが、その恋人の姿はもはや失はれてしまつたことを私は痛烈に思ひ知らずにゐられなかつた。戦争は終つた! そして、それはもう取り返しのつかない遠い過去へ押しやられ、私がもはやどうもがいても再び手にとることができないのだと思つた。

「戦争も、夢のやうだつたわね」

 私は呟やかずにゐられなかつた。みんな夢かも知れないが、戦争は特別あやしい見足りない取り返しのつかない夢だつた。

「君の恋人が死んだのさ」

 野村は私の心を見ぬいてゐた。これからは又、平凡な、夜と昼とわかれ、ねる時間と、食べる時間と、それ〴〵きまつた退屈な平和な日々がくるのだと思ふと、私はむしろ戦争のさなかになぜ死なゝかつたのだらうと呪はずにゐられなかつた。

 私は退屈に堪へられない女であつた。私はバクチをやり、ダンスをし、浮気をしたが、私は然し、いつも退屈であつた。私は私のからだをオモチャにし、そしてさうすることによつて金に困らない生活をする術も自信も持つてゐた。私は人並の後悔も感傷も知らず、人にほめられたいなどゝ考へたこともなく、男に愛されたいとも思はなかつた。私は男をだますために愛されたいと思つたが、愛すために愛されたいと思はなかつた。私は永遠の愛情などはてんで信じてゐなかつた。私はどうして人間が戦争をにくみ、平和を愛さねばならないのだか、疑つた。

 私は密林の虎や熊や狐や狸のやうに、愛し、たはむれ、怖れ、逃げ、隠れ、息をひそめ、息を殺し、いのちを賭けて生きてゐたいと思つた。

 私は野村を誘つて散歩につれだした。野村は足に怪我をして、やうやく歩けるやうになり、まだ長い歩行ができなかつた。怪我をした片足を休めるために、時々私の肩にすがつて、片足を宙ブラリンにする必要があつた。私は重たく苦しかつたが、彼が私によりかゝつてゐることを感じることが爽快だつた。焼跡は一面の野草であつた。

「戦争中は可愛がつてあげたから、今度はうんと困らしてあげるわね」

「いよいよ浮気を始めるのかね」

「もう戦争がなくなつたから、私がバクダンになるよりほかに手がないのよ」

「原子バクダンか」

「五百封度ポンドぐらゐの小型よ」

「ふむ。さすがに己れを知つてゐる」

 野村は苦笑した。私は彼と密着して焼野の草の熱気の中に立つてゐることを歴史の中の出来事のやうに感じてゐた。これも思ひ出になるだらう。全ては過ぎる。夢のやうに。何物をも捉へることはできないのだ。私自身も思へばたゞ私の影にすぎないのだと思つた。私達は早晩別れるであらう。私はそれを悲しいことゝも思はなかつた。私達が動くと、私達の影が動く。どうして、みんな陳腐なのだらう、この影のやうに! 私はなぜだかひどく影が憎くなつて、胸がはりさけるやうだつた。

(新生特輯号の姉妹作)

底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房

   1998(平成10)年522日初版第1刷発行

底本の親本:「サロン 第一巻第三号」

   1946(昭和21)年111日発行

初出:「サロン 第一巻第三号」

   1946(昭和21)年111日発行

入力:tatsuki

校正:宮元淳一

2006年55日作成

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