自然現象の予報
寺田寅彦



 自然現象の科学的予報については、学者と世俗との間に意志の疎通を欠くため、往々に種々の物議をかもす事あり。また個々の場合における予報の可能の程度等に関しては、学者自身の間にも意見は必ずしも一定せざる事多し。左の一篇は、一般に予報の可能なるための条件や、その可能の範囲程度並びにその実用的価値の標準等につきて卑見を述べ、先覚者の示教を仰ぐと同時に、また一面には学者と世俗との間に存する誤解の溝渠みぞを埋むる端緒ともなさんとするものなり。元来この種の問題の論議は勢い抽象的に傾くが故に、外観上往々形而上的の空論と混同さるるおそれあり。科学者にしてかくのごとき問題に容喙ようかいする者は、その本分を忘れて邪路に陥る者として非難さるる事あり。しかれども実際は科学者が科学の領域を踏み外す危険を防止するためには、時にこれらの反省的考察がかえって必要なるべし。特に予報の問題のごとき場合においてはしかりと信ず。余が不敏を顧みずここに二、三の問題を提起して批判を仰ぐ所因ゆえんもまたこれに外ならず。ただいたずらに冗漫の辞を羅列して問題の要旨に触るるを得ざるは深く自らずる所なり。これに依って先覚諸氏の示教に接する機を得ば実に望外の幸いなり。



 ある自然現象の科学的予報と云えば、その現象を限定すべき原因条件を知りて、該現象の起ると否とを定め、またその起り方を推測する事なり。これは如何なる場合に如何なる程度まで可能なりや。この問題が直ちにまた一般科学の成立に関する基礎問題に聯関する事は明らかなり。しかし因果律の解釈や、認識論学者の取扱うごとき問題は、余のここに云為うんいすべき所にあらず。ただ物理学上の立場より卑近なる考察を試むべし。

 厳密なる意味において「物理的孤立系」なるものが存せず、すなわち「万物相関」という見方よりすれば、一つの現象を限定すべき原因条件の数はほとんど無限なるべし。それにかかわらず現に物理学のごときものの成立し、且つ実際に応用され得るは如何いかん。これは要するに適当に選ばれたる有限の独立変数にてある程度までいわゆる原因を代表し、いわゆる方則によりて結果の一部を予報し得るに依る。これにはいわゆる原因と称するものの概念の抽象選択の仕方が問題となる。これは結局経験によって定まるものにして、原因の分析という事自身が既に経験的方則の存在を予想する事は明らかなり。物理的科学発展の歴史にさかのぼれば、到る処かくのごとき方則の予想によって原因の分析、すなわち最も便宜なる独立変数の析出につとめたる痕跡を見出し得べし。しかしこの試みが成効して今日の物理的自然科学となれり。力学における力、質量等のごとき、熱力学における温度エントロピーのごときこれなり。これらの概念と定義とが方則の云い表わしと切り離し難きはこのためなり。物理的自然現象を限定すべき条件等がすべてこれらの有限なる独立変数にて代表され得るや否やは別問題として、現在の物理学的科学の程度において、従来の方法によりて予報をなし得る範囲は如何なるべきかが当面の問題なり。

 先ず従来の既知方則の普遍なる事を仮定せば、すべての主要条件が与えらるれば結果は定まると考えらる。しかしながら実際の自然現象を予報せんとする場合に、この現象を定むべき主要条件を遺漏なく分析する事は必ずしも容易ならず。故に各種原因の重要の度を比較して、影響の些少なるものを度外視し、いわゆる「近似」を求むるを常とす。しかしてこれら原因の取捨の程度に応じて種々の程度の近似を得るものと考う。この方法は物理的科学者が日常使用する所にして、学者にとりてはおそらく自明的の方法なるも、世人一般に対しては必ずしもしからず。学者と素人しろうととの意思の疎通せざる第一の素因は既にここに胚胎はいたいす。学者は科学を成立さする必要上、自然界に或る秩序方則の存在を予想す。従ってある現象を定むる因子中より第一にいわゆる偶発的突発的なるものを分離して考うれども、世人はこの区別に慣れず。一例を挙ぐれば、学者は掌中の球を机上に落す時これが垂直に落下すべしと予言す。しかるに偶然窓より強き風が吹き込みて球が横に外れたりとせよ。俗人の眼より見ればこの予言は外れたりと云う外なかるべし。しかし学者は初め不言裡ふげんりに「かくのごとき風なき時は」という前提をなしいたるなり。この前提が実用上無謀ならざる事は数回同じ実験を繰返す時はおのずから明らかなるべきも、とにかくここに予言者と被予言者との期待に一種の齟齬そごあるを認め得べし。

 次には近似の意義に関する意見の齟齬が問題となる。学者が第一次近似をもって甘んずる時、世人は却って第二次近似あるいは数学的の精確を期待する場合もあり。これは後に詳説する天気予報の場合において特に著し。かくのごとき見解と期待との相違より生ずる物議は世人一般の科学的知識の向上とともに減ずるは勿論なれども、一方学者の側においても、科学者の自然に対する見方が必ずしも自明的、先験的ならざる事を十分に自覚して、しかる後世人に対する必要もあるべし。(この点は、単に予報のみの問題に限らず一般科学教育を施す人の注意すべき点なるべしと信ず。中学校にて始めて物理学を学ぶ際に「何故なにゆえにかくのごとく考えざるべからざるか」との疑問が暗々裡に学生の脳裡に起りて何人なんびともこれが解決を与えざるが故に、力と云い、質量と云い、仕事と云うがごとき言葉は、あたかも別世界の言葉のごとく聞え、しかもこれらの考えが先験的必然のものなるにかかわらず自分はこれを理解し得ずとの悲観をいだかしむる傾向あり。世人一般の科学に対する理解と興味とを増進するには、少なくも中等教育において科学的認識論方法論の初歩を授くるも無用にはあらざるべし。)



 さて従来の科学の立場より考えて、すべての主要原因が与えられたりと仮定すれば結果は常に単義的ユニークに確定すべきか。これはやや注意深き考慮を要する問題なり。

 いわゆる精密科学においても吾人は偶然と名づくるものを許容す。これ一般に部分的の無知を意味す。すなわち条件をことごとく知らざる事を意味す。いかなる測定をなす際にも直接間接に定め得る数量の最後の桁には偶然が随伴す。多くの世人は精密科学の語に誤られてこの点を忘却するを常とす。

 一層偶然の著しき場合は、例えば鉛筆を尖端にて直立せしめ、これがいずれの方向に倒るるかという場合、あるいはさいを投げて何点が現わるるかというごとき場合なり。これらの場合においても、もしすべての条件がどこまでもくわしく与えられおれば結果は必ず単義的に定まるべしというがいわゆる科学的定数論者の立場なり。これはおそらく大多数の科学者の首肯する所なるべし。しかし実際にはこれらのすべての条件が知り難き故に結果の単義性は問題となる。

 抽象的、数学的に考うれば複義性なる函数は無数に存在す。例えばファン・デル・ワール等の理論に従えば、ガス体の圧を与うればその体積には三種の可能価ある事となる。この理論の当否は問わざるも、抽象的にこの事は可能なるべし。今かくのごとき場合にも天然現象は必ず単義的に起るとすれば、それは如何なる理由によるべきか。ここに「安定度」とか「公算」とかいう言葉が科学者の脳裡に浮ぶべし。ここに吾人は科学と形而上学との間のきわどき境界線に逢着すべし。熱力学にエントロピーの観念の導入され、またエントロピーと公算との結合を見るに至りし消息もまたここに至って自ずから首肯さるべし。

 安定や公算の意味に関する議論はしばらくき、種々の可能法ある場合におのおのの公算を比較する時、吾人の経験はその中の一つが特に大なるべしと期待せしむる傾向を有す。実際多くの場合にこの期待は吾人を欺かず。しかれども予報という事に聯関して重大なる問題はそれが「常にしかるか」という事なり。

 単義性という言葉にも種々の意味あり。数学的絶対的の単義性といえば、一はどこまでも一にて二は必ず二なるべし。しかし自然現象に偶然を許容すれば吾人の当面の問題は公算的単義性なり。すなわち公算曲線の山が唯一なりやという事が刻下の問題なり。さてすべての場合にこれは唯一なりや。然らざる場合は一般には多数あるべし。例えば馬のくらの形をなせる曲面の背筋の中点より球を転下すれば、球の経路には二条の最大公算を有するものあるべし。またある時間内に降れる雨滴の大きさを験する時は、その大きさの公算曲線には数箇の山を見出すべし。これらの場合を総括するに、いずれもかつてポアンカレーの述べしごとく「原因の微分的変化が結果の有限変化を生ずる場合」に当るを見る。自然現象予報の可能程度を論ずる際に忘るべからざる標準の一つはここに係る。後に更に実地問題につきて述ぶる事とせん。

 次に原因を定むる独立変数と称するものの性質が問題となる。変数が長さ、時間、あるいはこれらの合成によりて得らるるものならば比較的簡単なれども、例えば物体の温度、荷電等のごとき性質のものが与えられたりとせよ。もし物体の内部構造等に立ち入らざるマクロスコピックの見方よりすれば、これらの量は直ちに物体の状態を単義的に指定すれども、これに反し分子説、電子説の立場よりミクロスコピックの眼にて見れば、これらの量にては物体の内部状況は単義的には指定されずほとんど無限に複義的にして、吾人の知り得るは実にただその統計的単義性に外ならず。この場合に単に温度を与えても各分子箇々の運動を予報すべくもあらず。

 例えばまた過飽和の状態にある溶液より結晶が析出する場合のごとき、これがいつ結晶を始め、また結晶の心核が如何に分布さるべきかを精密に予報せんとする時、単に温度従って過飽和度を知るのみにては的中の見込は極めて小なるべし。ただ吾人は過飽和度の増加に伴うて結晶析出を期待する公算を増す事を知り、また結晶中心の数につきても公算的にある期待をなす事を得るに過ぎず。しかるにもし人間以上の官能を有するいわゆるマクスウェルの魔のごときものありて、分子一つ一つの排置運動を認めその運動や結合の方則を知りて計算するを得ば、少なくも吾人が日蝕を予報するくらいの確かさをもってこれらの現象を予報するを得べし。



 今天然の起る現象を予報せんとする際に感ずる第一の困難は、その現象を限定すべき条件の複雑多様なる事なり。

 実験室において行う簡単なる実験においてはこれら条件を人為的に支配し制限し得る便あり。しかも最も簡単なるデモンストレーション的実験においてすら、用意の周到ならざるため、条件のただ一つを看過すれば実験の結果は全く予期に反する事あるは吾人の往々経験する所なり。これらの失敗に際して実験者当人は、必要条件を具備すれば、結果は予期に合すべきを信ずるが故にあえて惑う事なしとするも、いまだ科学的の思弁に慣れず原因条件の分析を知らざる一般観者は不満を禁ずるあたわざるべし。また場合により実験の結果が半ばあるいは部分的に予期に合すれば、実験者たる学者はその適合せる部分だけを抽出して自己の所説を確かむれども、かくのごとき抽象的分析に慣らされざる世俗は了解に苦しむ事もあるべし。

 かくのごとき困難は天然現象の場合に最も著しかるべし。試みに先ず天気予報の場合を考えん。

 太古の時代より天気予報の試みは行われたれども、分析的科学の発達せざりし時代には、天気を限定すと考えられし条件、あるいは独立変数が極めて乱雑なる非科学的のものなりしなり。もっとも雲の形状運動や、風向、気温のごとき今日のいわゆる気象要素と名づくるものの表示に拠りたる事もあれど、同時にまた動物の挙動や人間の生理状態のごとき綜合的の表現をも材料としたり。かくのごとき材料も場合によりてはあえて非科学的とは称し難きも、とにかく物理学的方法を応用する場合の独立変数としては不適当なるものなりしなり。今日の気象学においていわゆる気象要素と称するものはこれに反して物理学の基礎の上に設定されたるものにして、これらを材料とせる予報は純然たる物理学的の予報に外ならず。従って物理学上の予報につきて感ぜらるる困難もまた同時に随伴し、ことに条件の多数なるためにその困難は一層増加すべし。かくのごとき場合にはいわゆる主要条件の選択が重要なるは既に述べたるがごとし。現今の物理学的気象学の立場より考えて、今日のいわゆる要素の数は大体において理論上主要の項をしっしたりと考えらる。しかるに実用上の問題は如何なる程度までこれらの要素を実測し得るかという事なり。測候所の数には限りあり、観測の範囲、回数にも限定あり。特に高層観測のごとき一層この限定を受くる事甚だし。それにもかかわらず現に天気予報がその科学的価値を認められ、実際上ある程度まで成効しおるは如何なる理由によるべきか。

 数十里、数百里をへだてたる測候所の観測を材料として吾人はいわゆる等温線、等圧線を描き、あるいは風の流線の大勢を認定す。この際吾人の行為に裏書きする根拠はいずこにありやというに、第一にこれら要素の空間的時間的分布が規則正しきという事なり。換言すれば、これら要素の時間的空間的微分係数が小なりという事なり。これが小なる時に等温線や等圧線は有意義となり、これに物理学上の方則が応用さるるなり。

 今鋭敏なる熱電堆をもって気温を測定する時は、如何なる場合にも一尺を距てたる二点の温度は一般に同じからず。この差は数秒あるいは数分の不定なる週期をもって急激に変化するを見出すべし。すなわち小規模、短週期の変化を特に注意すれば上の微分係数は決して小ならず。かくのごとき眼より見れば、実際の等温線は大小無数の波状凹凸を有しこれが寸時も止まらず蠢動しゅんどうせるものと考えざるべからず。かくのごとき状態を精密に予報する事はいかなる気むずかしき世人もあえて望まざるべし。しかし今少しく規模を大きくして一村、一市街の幅員と同程度なる等温線の凹凸やその時間的変化となれば、既に世人の利害に直接間接の交渉を生ずるに至る事あり。積雲の集団がある時間内にある村の上を多く過ぐるか少なく過ぐるかは、時にはその村民にとりてはかなり重大なる場合もあるべし。小区域の驟雨しゅううが某市街を通過するか、その近郊のみを過ぐるかはその市民にとりては無差別にはあらず。しかれどもかくのごとき小規模の現象の予報をなし得るためには、(この予報が可能としても)少なくも測候所の数を現在の数百倍数千倍に増加せざるべからず。

 現在の天気予報はかくのごとき要求を充たすためのものにあらず。各測候所の平均領域の幅員に比して微細なる変化は度外視し、定時観測期間の長さに比して急激なる変化をも省略して近似的等温線あるいは等圧線を引くに過ぎず。例えば土地山川の高低図を作る際に、道路の小凹凸、山腹の小さき崖崩れを省略するに同じ。これをはぶくとも鉄道運河の大体の設計にはなんらの支障を生ずる事なかるべし。これに反して荷車をく労働者には道路の小凹凸は無意味にあらず。墓地の選定をなさんとする人には山腹の崖崩れは問題となるべし。

 世人の天気予報に対する誤解と不平は畢竟ひっきょうこの点に係る。二十万分の一の地図を手にして道路の小凹凸をもとめ、物体の温度を知りてその分子各箇の運動を知らんとすると同様なる誤解に起因す。



 次に地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報は果して可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。

 地震が如何にして起るやは今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時に起る現象なるがごとし。これが起ると否とを定むべき条件につきては吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気の場合における気象要素のごときものがいまだ明らかに分析されず。この点においても既に天気の場合と趣を異にするを見る。

 地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せる時、適当なる第二次原因例えば気圧の変化のごときものが働けば地震を誘発する事は疑いなきもののごとし。故に一方において地殻の歪みを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉ちしつするを得れば地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は如何なる程度まで実現され得べきか。

 地下の歪みの程度を測知する事はある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知る事も可能なるべし。今仮りにこれらがすべて知られたりと仮定せよ。

 更に事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一箇所に止まり、地震が起るとせば必ずその点に起るものと仮定せん。且つまた第二次原因の作用はごうも履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的の場合においても地震の突発する「時刻」を予報する事はかなり困難なるべし。何となれば、この場合は前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は吾人の測知し得るマクロスコピックの状態よりは、むしろ吾人にとりては偶然なるミクロスコピックの状態に依りて定まると考えらるるが故なり。換言すればマクロスコピックなる原因の微分的変化は結果の有限なる変化を生ずるが故なり。この場合は重量を加えて糸を引き切る場合に類す。しかしともかくも歪みが増すに従って現象の発生を期待する公算の増加するは勿論にて、従って歪みがある程度に達するまでは現象は起らずと安心すべき根拠を与うべし。この場合に当り、時とともに現象の発生に対する期待の増加する状況を示す線が与えられたりとせよ。しかしてこの曲線の傾斜が甚だ緩やかにして十年二十年あるいは人間一代の間に著しき変化を示さぬごときものならば如何なるべきか。この場合には箇々の人間にとりての予報の実用的価値は極めて少なかるべし。

 次に上の仮想的の場合において現象の発生する時期がある程度まで知られたりと仮定せよ。この場合に起る地震の強弱の度を如何ほどまで予知し得べきか。単に糸を引き切る場合ならば簡単なれども、地殻のごとき場合には破壊の起り方には種々の等級あるべし。破壊がただ一回に終らず、数回の段階的変化によるとすれば、これらの推移中に歪みの変化は複雑に起り、場合によりては毎回地震の強度は微弱なる事もあるべく、また時にはその中に強震を生ずる事もあるべし。かくのごとき差別が偶然的局部的の異同に支配さるるとせば、広区域にわたるマクロスコピックの平均状態を知るのみにては信憑しんぴょうすべき実用的の予報は不可能に近し。

 上記のごとき地殻の弱点が一箇所に止まらず、多数に分布されいる場合には更に困難なり。この場合には第一にこれらの分布を知り、またすべての弱点に対する歪みの限界値を知り、同時にすべての弱点における歪みの刻々の現状を知るを要す。仮りにこれらが知られたりとするも、多数の弱点が同時に不安定に近づく時、そのいずれが先ず変化を始むべきかはいわゆる偶然の決する所なるべし。この場合においても予報の意味は世人の期待と甚だしく離反すべし。

 実際の地殻においてはその弱点の分布は必ずしも簡単ならず、しかもおのおのの弱点は相互に独立ならず、なんらかの関係を有すべく、特に一層事柄を複雑にするは、地殻岩石の弾性履歴効果の著しき事なり。これらがことごとく知られたりとするも、現象の性質上、原因の微分的変化に対して、結果の変化は有限にして且つその単義性も明らかならず。具体的に云えば地辷じすべり等がある限界内に止まれば、それだけにて止むも、少しにてもこれを超ゆれば他の弱点の破壊を誘起して更に大なる変動を起す事もあるべく、その際如何なる弱点が誘発さるるやはまた偶然的なる地下の局部的構造によると考えらる。

 かくのごとき場合に普通の簡単なる公算論の結果を応用せんとするには至大の注意を要する事は明らかなるべし。



 予報の可能不可能という事は、考え方によればあまりに無意味なる言葉なり。例えば今月中少なくも各一回の雨天と微震あるべしというごとき予報は何人も百発百中の成効を期して宣言するを得べし。ここに問題となるは予報の実用的価値を定むべき標準なり。

 予報によりて直接間接に利便を感ずべき人間の精神的物質的状態は時並びに空間とともに変化しつつあり。従って天然界のある状態がその人間に有利なるか不利なるかは時と場所とによりて変化す。例えば水草を追って移牧する未開人にとりては時とともに利害の係る土地の範囲を移動す。また一つの都府の市民というごとき抽象的の団体を考うる時はその要素たる各個人とは独立に時とともに不変なる標準も考えらるれども、一般には必ずしも然らず。例えば一般の東京市民にとりては、夜半の小雨はあえて利害を感ぜざるべきも昼間の雨には無頓着ならず。また平日一般の日本国民は京都市の晴雨に対しては冷淡なるも、御大典ごたいてん当時は必ずしも然らざるべし。

 数学的の言葉を借りて云えば、各個人、市民、あるいは国民がある現象に対して利害を感ずる範囲は時間と空間とより組成されたる四元空間中において、ある面にて囲まれたる部分にて示す事を得べし。この部分は単独なる場合も、数箇なる場合もあるべし。

 自然現象の予報もまた同様に、時と空間のある範囲内に指定する時に始めて意義あるものとなる。例えば明日中某々地方に降雨あるべしというがごとし。これらの予報が普通世人にとりて実用的価値を有するための条件は、思うに「その現象のために利害を感ずべき個人あるいは団体の利害を感ずる範囲領域の大きさに対して、予報の指定する範囲の大きさが比較的大ならず、且つ前者に対する後者の位置の公算的変化の範囲の小なる事」なり。

 具体的の例を挙ぐれば、東京市民にとりては「明日正午まで京浜地方西北の風晴」と云い、あるいは「本日午後驟雨模様あり」というがごときは多数の世人に有用有意義なり。またもし「一週間内に東海道の大部分に降雨あるべし」との予報をなし得たりとせば、東京市民にとりては極めて漠然たる印象を与うべし。これ予報の範囲が東京市民の日常生活上雨に関して利害を感ずる範囲に比してあまりに大なるが故なり。しかれども連日雨に渇する東海道の農民にとりては、この予報は非常の福音たるに相違なかるべし。

 次に地震の場合は如何。もし仮りに「来る六、七月の頃、東京地方に破壊的地震あるべし」との予報が科学的になし得られたりと仮定せよ。これが十分の公算を有する事が明らかなれば、市民は十分の覚悟をもって変に備うべし。次に「今後五十年内に日本南海岸のうち一部分に強震あるべし」という事がよほど確実なりと仮定せよ。この予報は各箇の市民にとりては幾分漠然たる予言者の声を聞くがごとき思いあるべし。五十年は個人の生命に対してあまりに短からず。その間に個人の生命も住所も如何になるべきか明らかならざるなり。しかれども日本政府の眼より見れば五十年は決して長からず、南海岸は邦土の一部分なり。この予報がなし得らるれば、これによりて国家がくべき直接間接の利益は少なからざるべし。

 噴火の場合もこれに同じ。仮りに科学的に信憑しんぴょうすべき根拠よりして、来る六十年ないし七十年間に某火山系に活動を予期し得るとせば、個人に対してはともかく、一県一道の為政者にとりては多大の参考となるべし。

 予報者と被予報者との意志の疎通せざる手近き原因は、予報の指定する範囲と被予報者の利害範囲の大きさの相違と、その公算的不整合を許容する程度の差異に帰すべしと思わる。

 最後に卑近なる例を挙げて所説を補わん。木の葉をつたい歩く蟻にとりては一粒一粒の雨滴の落つる範囲を方数ミリメートルの内に指定する事が必要なれども、吾人人間には多くの場合にただ雨量と称する統計的の数量が知らるれば十分なり。



 以上述べたる所に基づき、また現在科学の進歩程度にかんがみて天気予報と地震予報とを対照すれば、その間の多大の差異あるを認めざるを得ず。

 現在の気象観測制度をもってすれば各気象区域における大体の天気の推移を予知する事は十分可能にして、観測の範囲の拡張につれて的中の公算を増すべしと考えらる。しかれども毎平方里における雨量の異同を予言するがごときは望み難かるべし。

 地震の場合においては、いまだ気象要素に相当すべき条件さえ明白ならず。従って解析的の方法を取るべき材料いまだ具備せず。これらが一通り具備したる暁においても、現象の偶然性を除く程度まで精しくこれを知悉する困難は現象の性質上甚だ大なるべし。かくのごとき場合には公算論の指示する統計的方法を取る外なかるべきも、公算が変数の連続函数なりと断定し難く、また最大公算を有する場合が唯一ならざる場合には特別に慎重なる考慮を要すべし。

 地震予報をして天気予報のごとき程度まで有効ならしむるには如何なる方向に研究を進むべきかは重要なる問題なり。物理学上の問題としては、地殻岩石の弾性に関する各種の実験のごときは極めて肝要なるべし。一方においては統計的にいわゆる第二次原因の分析を試むるも有益なり。しかれども統計に信頼するためには統計の基礎を固むる必要あるべし。普通公算論の適用さるる簡単なる場合においても、場合の数が小なる時は自然の表現は理論の指示する所と大なる懸隔を示す事あり。これも忘るべからざる事なり。なお一般弾性体の破壊に関してその弱点の分布や相互の影響あるいは破壊の段階的進歩に関する実験的研究を行い、破壊という現象に関するなんらかの新しき方則を発見する事も必ずしも不可能ならざるべし。すなわち従来普通に考うるごとく、弾性体を等質なるものと考えず複雑なる組織体と考えて、その内部における弱点の分布の状況等に関し全く新しき考えよりして実験的研究を積むも無用にあらざるべきか。

(大正五年三月『現代之科学』)

底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店

   1997(平成9)年44日発行

底本の親本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店

   1985(昭和60)年75日第3刷発行

初出:「現代之科学 第四巻第三号」

   1916(大正5)年315

入力:Nana ohbe

校正:浅原庸子

2005年819日作成

2016年225日修正

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