研究的態度の養成
寺田寅彦



 理科教授につき教師の最も注意してほしいと思うことは児童の研究的態度を養成することである。与えられた知識を覚えるだけではその効は極めて少ない。今日大学の専門の学生でさえ講義ばかり当てにして自分から進んで研究しようという気風が乏しく知識が皮相的に流れやすいのは、小学校以来の理科教授がただ与えられた知識を覚えればよいというように教えこまれている結果であろう。これには最も必要なことは児童に盛んに質問させることである。何の疑問も起さないのは恥だという風に、訓練することが必要である。そうして児童の質問に対して教師のとるべき態度について二つの場合があると思う。その一は児童の質問に答うることの出来なかった場合である。その二は教師がよく知って答え得る場合である。

 前者の時には往々いな多くの場合に教師はよい加減に誤間化ごまかして答えようとする傾きがある。これは甚だよくないことはいうまでもない。かくて児童が誤った、また全然誤っていないにしても浅薄な解釈しか出来ないことになる。この時はむしろ進んで、先生はこれを知らない、よく調べて来ましょう、皆さんもまたよく考えてお出でなさい、いろいろむつヶしいまた面白いことがあるだろうと思いますといった風に取扱ってほしい。とにかく児童には、知らないことが恥でない、疑いを起さないこと、またこれを起しても考えなかったり調べなかったりすることが大なる恥である、わるいことであるといった精神を充分鼓吹こすいしてほしいと思う。教師がこの態度になることの必要は申すまでもなかろう。

 第二の場合には、教師は、そんなことを知らないのか、それはこうだといった風に事もなげに答えてしまう傾きがまた少なくないように見受ける。これはまた理科教育上極めて悪いことである。何となれば児童は知らないという事が大変悪い事と思って恥じ恐れて、それきり更になんらの疑問を起したり調べたりしないようになってしまうからである。ところが如何なる簡単なることでも実際よく調べてみるとなかなか六ヶしいことが多く、世界中の学者がよっても解決の出来ないようなことが少なくはないのである。たとえばビーカーをアルコールランプで下から熱すると水蒸気が出てそれがビーカーの外側にあたって冷却され、水粒がビーカーに附着する。これを見て児童はどうして出来るかと質問したときに、教師がそれをいいかげんに答えるのはいうまでもなく悪いが、これを知っている場合に、何でもないことだ、アルコールの燃える際に生ずる水蒸気がビーカーにあたって露になって着くのだといって、あまり無造作に片づけてしまうのは面白くないと思う。この時でも水蒸気が露のごとく水滴になるには何か塵のごとき微細ないわゆる凝縮核が必要であるし、ガラスの表面の性質によってつきかたにいろいろ異なった状態があったり、その他いろいろこの水に聯関した面白い問題があるのである。これらのことを全く考えないでいて、ただ一口ですべての現象を説明し得るというような感じを起させるのはよくない。そこでこういう場合は、いろいろ六ヶしいことがあるが、簡単に説明すればこうだ、皆さんこの外どういうことがあるか考えて御覧なさいといった風にして、彼等の求知心を強からしめ、研究的態度に出でしむるようにありたい。科学的の知識はそうそうたやすく終局に達せらるるものではない事を呑み込ませて欲しいものである。時には更に反問して彼等に考えさせることも必要である。勿論児童の質問があるごとにかように話しているわけにはゆかないが、教師の根本態度が、この考えであってほしいのである。

 それから小学校では少し無理かも知らないが、科学の教え方に時々歴史的の色彩を加味するのも有益である。勿論科学全体の綜合的歴史はとても教えることは出来ないが、ある事項に関する歴史でよろしい。たとえば太古では世界は地(土)、水、火、風の四からなりたっていると考えたが、その後化学的元素というものが確定され、漸次に新元素が発見され今は八十余の元素がいろいろ組合わされてあらゆる物質を構成していると考うるようになった、つい近頃までは元素は永久不変なものと考えられていたが、ラジウムのような物質が発見され研究された結果、元素もまた変化し得る事が明らかになり、同時に元素の原子の内部の構造も考えなければならぬようになった、そしてその構造は今日のところ未解決の問題でこれも今後学者の研究によって追々に明らかになるであろう、皆さんも一つ大きくなったら先人未発の新事実でも発見するくらいに勉強してほしいといった風にすれば、彼等の研究心は起すまいと思っても起るであろう。また光というものでも、昔は人の眼から何物か飛び出して物体に当るから見えると思った時代もある。ニュートンは物体から微粒子が飛んで来るのが光だと考えたが、ハイゲンスが出て来て波動説をとなえこれが承認されるに幾多の年月がかかった。それも始めはエーテルの弾性的の波であると考えられたのが、後には電磁気波でなければならぬと考えられることになった。しかし物理学の非常に進歩した今日でも、光の本性についてはまだ解決のつかない事はいくらもある。これらの歴史を幾分でも児童に了解させるように教授する事はそれほど困難ではあるまい。かようにしていって、科学は絶対のものでない、なおいくらも研究の余地はある、諸子の研究を待っているという風にしたいと思うのである。ただ一つ児童に誤解を起させてはならぬ事がある。それは新しい研究という事はいくらも出来るが、しかしそれをするには現在の知識の終点を究めた後でなければ、手が出せないという事をよく呑み込まさないと、従来の知識を無視して無闇むやみ突飛とっぴな事を考えるような傾向を生ずる恐れがある。この種の人は正式の教育を受けない独創的気分の勝った人に往々見受ける事で甚だ惜しむべき事である。とにかく簡単なことについて歴史的に教えることも幾分加味した方が有益だと確信するのである。

(大正七年十月『理科教育』)

底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店

   1997(平成9)年44日発行

底本の親本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店

   1985(昭和60)年75日第3刷発行

初出:「理科教育 第一巻第七号」

   1918(大正7)年101

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:Nana ohbe

校正:浅原庸子

2005年57日作成

2016年225日修正

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