太宰治との一日
豊島与志雄


 昭和二十三年四月二十五日、日曜日の、午後のこと、電話があった。

「太宰ですが、これから伺っても、宜しいでしょうか。」

 声の主は、太宰自身でなく、さっちゃんだ。──さっちゃんというのは、吾々の間の呼び名で、本名は山崎富栄さん。

 日曜日はたいてい私のところには来客がない。太宰とゆっくり出来るなと思った。

 やがて、二人は現われた。──考えてみるに、太宰は三鷹にいるし、私は本郷にいるので、時間から推して、お茶の水あたりからの電話だったらしい。伺っても宜しいかというのは一応の儀礼で、実は私の在否を確かめるためのものであったろうか。

「今日は愚痴をこぼしに来ました。愚痴を聞いて下さい。」と太宰は言う。

 彼がそんなことを言うのは初めてだ。いや、彼はなかなかそんなことを言う男ではない。心にどんな悩みを持っていようと、人前では快活を装うのが彼の性分だ。

 私は彼の仕事のことを聞いた。半分ばかり出来上ったらしい。──彼はその頃、「展望」に連載する小説「人間失格」にとりかかっていた。筑摩書房の古田氏の世話で、熱海に行って前半を書き、大宮に行って後半を書いたが、その中間、熱海から帰って来たあとで私のところへ来たのである。私は後に「人間失格」を読んで、あれに覗き出してる暗い影に心打たれた。あの暗い影が、彼の心に深く積もっていたのだろう。

 然し、愚痴をこぼしに来たと言いながら、それだけでもう充分で、愚痴らしいものを太宰は何も言わなかった。──その上、すぐ酒となった。

 だいたい吾々文学者は、少数の例外はあるが、よく酒を飲む。文学上の仕事は、我と我身を切り刻むようなことが多く、どうにもやりきれなくて酒を飲むのだ。または、頭の中、心の中に、いやな滓がたまってきて、それを清掃するために酒を飲むのだ。太宰もそうだった。その上、太宰はまた、がむしゃらな自由奔放な生き方をしているようでいて、一面、ひどく極りわるがり恥しがるところがあった。口を開けば妥協的な言葉は言えず、率直に心意を吐露することになるし、それが反射的に気恥しくもなる。そして照れ隠しに酒を飲むのだ。人と逢えば、酒の上でなければうまく話が出来ない。そういうところから、つまり、彼は二重に酒を飲んだ。彼と逢えば私の方でも酒がなくては工合がわるいのだ。

 折よく、私のところに少し酒があった。だが、私のこの近所、自由販売の酒類はすぐに売り切れてしまう。入手に甚だ困難だ。太宰はさっちゃんに耳打ちして、電話をかけさせる。日曜日でどうかと思われるが、さほど遠くないところに、二人とも懇意な筑摩書房と八雲書店とがある。

「もしもし、わたし、さっちゃん……。」そう自分でさっちゃんは名乗る。太宰さんが豊島さんところに来ているが、お酒が手にはいるまいかとねだる。お代は原稿料から差引きにして、と言う。──両方に留守の人がいた。八雲から上等のウイスキーが一本届けられ、夜になって、筑摩からも上等のウイスキーを一本、臼井君が自分で持参された。

 元来、太宰はひとに御馳走することが好きで、ひとから御馳走になることが嫌いだ。旧家大家に育った生れつきの心ばえであろうか。──嘗て、生家と謂わば義絶の形となり、原稿もまだあまり売れず、困窮な放浪をしていた頃、右の点について、彼はずいぶん屈辱的な思いをしたことであろう。

 私は太宰と懇意になったのは最近のことだが、私のところへ来ても、彼はいつも私へ御馳走しようとした。貧乏な私に迷惑をかけたくないとの配慮もあったろう。年長の私に対して礼をつくすという気持ちもあったろう。──彼が甘んじて世話になったのは、恐らく、死後も面倒をみて貰うことになった三社、新潮と筑摩と八雲とであったろうか。

 あの日も太宰は酒を集めてくれた。ばかりでなく、さっちゃんをあちこちに奔走さして、いろいろな食物を買って来さした。私の娘が結婚後も家に同居していて、その頃病気で伏せっていたのへも、お見舞として、バタや缶詰の類を買って来さした。

 おかしいのは、鶏の料理だ。だいぶ前、太宰が来た時、私は彼の前で鶏を料理してみせたことがある。へんな鶏で、雌雄がわからず、つまり、子宮も睾丸も摘出できなかったという次第で、大笑いとなった。こんな血腥いこと、太宰としては厭だったろうと思われるのに、案外、彼は興味を持って、其後、よそで、自ら執刀し、そこら中を血だらけにしたという。私はそれを聞いていたし、前回の失敗を取返したくも思い、丸のままを一羽求めて来さして、食卓の上で手際よく解剖してみせた。ところがその鶏、産むまぎわの卵を一つ持っていて、まだ殼がぶよぶよしてる大きいのが出て来て、私も、むろん太宰も、ちょっと面喰った。

 酒の席でまで文学論をやることは、太宰も私も嫌いだ。政治的な時事問題なども面白くない。話はおのずから、天地自然のこと、つまり山川草木のことが主となる。以前に、太宰と近所を歩いて、雀の巣だった銀杏の樹のあたりを通りかかったことがある。今ではその辺は戦災の焼跡になっているが、その銀杏の樹に嘗て、数百数千の雀が群がって囀ずり、付近の人々は払暁から眼を覚まされたという。その銀杏の樹が五本立ち並んでると私が言ったところ、三本しか見えないと太宰に指摘された。見ると、なるほど三本のようである。豊島さんの話、まったく出たらめで、五本だと言うが、なあに三本しかない、と太宰は大笑いするのだ。酔うとそれが彼の口癖になった。雌雄の分らない鶏も、酔後の彼の口癖だ。──そんなことで、その日も大笑いした。胸に憂悶があればこそ、こんな他愛もないことに笑い興じるのだ。

 夜になって、臼井君が見えたので、だいぶ賑かになった。私はもう可なり酔って、どんなことを話したかあまり覚えていない。ただ、私の酔後の癖として、眼の前にいる人の悪口を言ってそれを酒の肴にすることが多いので、或は臼井君に失礼なことばかり言ったかも知れない。

 臼井君は、酒は飲むが、あまり酔わない。程よく帰って行った。

 太宰も私も、だいぶ酒にくたぶれた。太宰はビタミンB1の注射をする。なんどか喀血したし、実は相当に体力も弱っているので、ビタミン剤などを常に飲んだり注射したりしているのである。注射はさっちゃんの役目だ。勇敢にさっとやってのける。ビタミンB1は、アンプル中の薬液の変質を防ぐために、酸性になされていて、それが可なり肉にしみる。さっちゃんが注射すると、痛い、と太宰は顔をしかめる。

「僕にさしてみたまい。痛くないようにしてみせる。」

 皮下に針をさして、極めて徐々に薬液を注入する。

「どうだ、痛くないだろう。」

「うん。」太宰は頷く。

 そこで私は、終り頃になって、急に強く注入する。

「ち、痛い。」そして大笑いだ。

 さっちゃんは勇敢に注射するが、ただそれだけで、他事はもう鞠躬如として太宰に仕えている。太宰がどんなに我儘なことを言おうと、どんな用事を言いつけようと、片言の抗弁もしない。すべて言われるままに立ち働く。ばかりでなく、積極的にこまかく気を配って、身辺の面倒をみてやる。もし隙間風があるとすれば、その風にも太宰をあてまいとする。それは全く絶対奉仕だ。家庭外で仕事をする習慣のある太宰にとって、さっちゃんは最も完全な侍女であり看護婦であった。──家庭のことは、美知子夫人がりっぱに守ってくれる。太宰はただ仕事をすればよかったのだ。

 そういう風で、太宰とさっちゃんとの間に、愛欲的なものの影を吾々は少しも感じなかった。二人の間になにか清潔なものさえ吾々は感じた。この感じは、誤ってるとは私は思わない。だから私は平気で二人を一室に宿泊させるのだった。──その夜も宿泊させた。

 翌朝、すべての用事をさっちゃんに言いつける太宰が、珍らしく、自分で出かけて行った。だいぶたってから、一束の花を持って戻って来た。白い花の群がってる数本の強い茎を中軸にして、芍薬の美しい赤い花が二輪そえてある。

「どうだ、これは僕でなくちゃ分らん、お嬢さんに似てるだろう。」

 さっちゃんを顧りみて太宰は言う。照れ隠しらしい。これだけは自分で買って来たいと思ったのだ。そしてそれを、お嬢さんへと言って私に差出した。

 私たちは残りのウイスキーを飲みはじめた。女手は女中一人きりなので、さっちゃんがまたなにかと立ち働く。そこへ、八雲から亀島君がやって来、筑摩の臼井君もまた立ち寄った。暫くして、太宰は皆に護られて帰っていった。背広に重そうな兵隊靴、元気な様子はしているが、後ろ姿になにか疲れが見える。疲れよりも、憂欝な影が見える。

 それきり、私は太宰に逢わなかった。逢ったのは彼の死体にだ。──死は、彼にとっては一種の旅立ちだったろう。その旅立ちに、最後までさっちゃんが付き添っていてくれたことを、私はむしろ嬉しく思う。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社

   1967(昭和42)年1110日第1刷発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2006年427日作成

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