郊外
国木田独歩



       ⦅一⦆


 時田ときだ先生、名は立派なれど村立そんりつ小学校の教員である、それも四角な顔の、太いまゆの、大きい口の、骨格のたくましい、せいの低い、言うまでもなく若い女などにはあまり好かれない方の男。

 そのくせ生徒にも父兄にも村長にもきわめて評判のよいのは、どこか言うに言われぬ優しいところがあるので、口数の少ない代わりにはうそを言うことのできない性分、それは目でわかる、いつも笑みを含んでいるので。

 嫁を世話をしよう一人ひとりいいのがあると勧めた者は村長ばかりではない、しかしまじめな挨拶あいさつをしたことなく、今年三十一で下宿住まい、このごろは人もこれを怪しまないほどになった。

 むめちゃん、先生の下宿はこの娘のいるうちの、別室はなれちゅう二階である。下は物置で、土間どまからすぐ梯子段はしごだんが付いている、八畳一間ぎり、食事は運んで上げましょというのを、それには及ばないと、母屋おもやに食べにく、大概はみんなと一同いっしょぜんを並べて食うので、何を食べささりょうと頓着とんちゃくしない。

 梅ちゃんは十歳とおの年から世話になったが、卒業しないで退校ひいても先生別に止めもしなかった、今は弟の時坊が尋常二年で、先生の厄介になっている、うちへ帰ると甘えてしかたがないが学校ではおそれている。

 先生の中二階からはその屋根が少しばかりしか見えないが音はよく聞こえる水車すいしゃ、そこにこうちゃんという息子むすこがある、これも先生の厄介になッた一人で、卒業してから先生のうち夜分やぶん外史を習いに来たが今はよして水車の方を働いている、もっとも水車といっても都の近在だけに山国の小さな小屋とは一つにならない。月に十四、五両も上がるうす幾個いくつとかあって米を運ぶ車をく馬の六、七頭も飼ッてある。たいしたものだと梅ちゃんの母親などはしょっちゅううらやんでいるくらいで。

『そんならこちらでも水車をやったらどうだろう、』と先生に似合わないことをある時まじめで言いだした。

こうちゃんとこのようにですか、だってあれは株ですものう、水車がそういつだってできるもんならたれだってやりますわ。』おかみさんは情けなそうに笑って言った。

『なるほど場処がないからねエ。』先生はまじめに感心してそれで水車の話はやんで幸ちゃんのうわさに移ッた。

 おかみさんはしきりと幸ちゃんをほめて、実はこれは毎度のことであるが、そして今度の継母ままはははどうやら人が悪そうだからきっと、幸ちゃんにはつらく当たるだろうと言ッた。

『いいとしをしてもう今度で三度めですよ、第一小供こどもがかあいそうでさア。』

『三度め!』先生は二度めとばかり思ッていたのである。

『もっとも幸ちゃんの母親おふくろくなッたんですけれども。』

 この時、のそり挨拶あいさつなしに土間に現われたのが二十四、五の、小づくりな色の浅ぐろい、目元の優しい男。

『オヤ幸ちゃんが! 今お前さんのうわさをしていたのよ。』実はお神さん少し驚いてまごついたのである。

『先生今日は。』

『この二、三日見えないようであったね。』

『相変わらず忙しいもんですから。』

『マアお上がんなさいな、今日こんにちはどちらへ。』お神さんは幸吉こうきち衣装なりに目をつけて言った。

神田かんだ叔父おじの処へちょっと行って来ました、先生今晩お宅でしょうか。』幸吉の言葉は何となく沈んでいる。

在宅るとも、なんか用だろうか。』

『ナニ別に、ただ少しばかし……』

『今夜うち浪花節なにわぶしをやらすはずだから幸ちゃんもおいでなさいな、そらいつかの梅竜ばいりゅう』お神さんは卒然言葉をはさんだ。

『そうですか、来ましょう、それじゃあまた晩に』と言って幸吉は帰ってしまった。

『幸ちゃん今日きょうはどうかしているよ』とお神さんは言ったが、先生別に返事をしないで立てひざをしながらお神さんの手元をながめていた。お神さんは時田のシャツの破綻ほころびを繕っている。

 夜食が済むと座敷を取り片けるので母屋おもやの方は騒いでいたが、それが済むと長屋の者や近所の者がそろそろ集まって来て、がやがやしゃべるのが聞こえる。日はとっぷり暮れたが月はまだ登らない、時田は燈火けないで片足を敷居の上に延ばし、柱にりかかりながら、茫然ぼんやり外面そとをながめている。

『先生!』梅ちゃんの声らしい、時田は黙って返事をしない。『オヤいないのだよ』とってしまった、それから五分もったか、その間身動きもしないで東の森をながめていたが、月の光がちらちらともれて来たのを見て、彼は悠然やおら立って着衣きものの前を丁寧に合わして、とこ放棄ほうってあった鳥打ち帽を取るや、すたこらと梯子段はしごだんりた。

 生垣いけがきを回ると突然だしぬけに出っくわしたのがお梅である。お梅はきゃんな声で

『知らないよ。いいジャアないかあたしがだれのうわさをしようがお前さんのかまった事ジャアないよ、ねエ先生!』

 時田は驚いて下闇したやみを見ると、一人の男が立っていたが、ツイと長屋の裏の方へ消えてしまった。

『だれ。』時田はたずねた。

『源公の野郎やろう、ほんとにこの節は生意気になったよ。先生散歩?』お梅は時田のそばに寄って顔をのぞくようにして見た。

『あの幸ちゃんが来たら散歩に行ったって、そしてすぐ帰るからッて言っておくれ、』と時田は門を出た。お梅はあとについて来て、

『すぐお帰んなさいナもう梅竜ばいりゅうが来ましたから。あらお月さま!』お梅は立ち止まった。時田は橋を渡って野の方へと行ってしまった。

 二時間もったろうか、時田の帰って来たのは。月影にすかして見ると橋の上に立っているのはお梅である。

『先生どこを歩いていました今まで、幸ちゃんがさっきから待っていますよ。』

『梅ちゃんここで何してたの。』

『先生を待っていました、幸ちゃんの用ッて何でしょう。』

『何だか知らない。何だってよいジャあないか。』

『だって何だか沈鬱ふさいでいるようだから……もしかと思って。』

『ああ少し寒くなって来た。』

 二人ふたりは連れだって中二階の前まで来たが、母屋おもやでは浪花節なにわぶし二切ふたきりめで、大夫たゆうの声がするばかり、みんな耳を澄ましていると見えて粛然しんとしている。

『幸ちゃんに今帰ったからッて、そ言っておくれ、』と時田は庭の耳門くぐりはいった、お梅はばたばたと母屋おもやの方へけ出して土間へそっと入ると、幸吉が土間の入口に立っている。

『帰って?』幸吉は低い声で言った。

『今帰ってよ、用が済んだらまたお寄んなさいナ。』お梅の声もささやくよう。

『ありがとう。』幸吉は急いで中二階の方へ行った、しかし頭をれたまま。お梅は座敷のすみの方の薄暗い所に蹲居つくなんで浪花節を聞いていたが、みんなが笑う時でも笑顔えがお一つしなかった。二切りめが済むと座敷はにわかににぎやかになって、煙草たばこを吸うやら便所に立つやら大騒ぎ。

『お梅。』母親おふくろがきょろきょろと見回すと、

『なに。』お梅は大きな声で返事をした。

『どこにいたのさっきから。』

『ここでいていたのよ、そして頭が痛くって……』と顔をしかめて頭をこつこつと軽くたたく。

『奥へ行って、やすみな、寝てたッて聞こえるよ。』母親おふくろは心配そうに言う。それでもお梅は返事をしないでそのまま蹲居つくなんでいた。そのうち三切みきりめが初まるとお梅はしばらく聴いていたが、そッと立って土間へ下りると母親おふくろが見つけて、低い声で、

『奥でおやすみな。』半ばしかるように言った。お梅は泣き出しそうな顔をして頭を振って外面そとへ出た。月はえに冴え、まるで秋かとも思われるよう。庭木の影がはっきりと地にいんしている。足を爪立つまだてるようにして中二階の前の生垣いけがきのそばまで来て、垣根しに上を見あげた。二階はしんとしている。この時母屋おもやでドッと笑い声がした。お梅はいまいましそうに舌うちをして、ほんとにいつまでやってるんだろうとつぶやきながら道へ出た。橋の上で話し声が聞こえるようだから、もしかと思って来ると先生一人、欄干にっかかッて空を仰いでいた。

『オヤお一人?』

『あア。』気のない返事。

『幸ちゃん帰りましたの?』お梅も欄干にって時田の顔をじっと見ている。

『今帰ったよ、』と大あくびをして『梅ちゃんどうして浪花節聴かないの、僕一つ聴いて来ようか。』

『およしなさいよつまらない! あたし聴いてたけど頭が痛くなって逃げ出したの。』

 二人はしばし黙っていた。水車へ水を取るので橋から少し下流に井堰いせきがある、そのため水がよどんで細長い池のようになっている、その岸は雑木ぞうきが茂って水の上に差し出ているのが暗い影を映しまた月の光が落ちているところは鏡のよう。たぶん羽虫はむしが飛ぶのであろう折り折り小さな波紋が消えてはまた現われている、お梅はじっと水を見ていたが、ついに

『幸ちゃんの話は何でした。』

『神田の叔父の方へしばらくっていたいがどうしたもんだろうと相談に来たのサ。』

『先生何と言ってやりました。』お梅は時田の顔を見て言ったがその声は少し震えていた、しかし時田はそんなことには気がつかないかして、すこぶる平気で、

『なるべくはうちにいた方がよかろう、そうしないとなおの事継母おふくろとの間がむずかしくなるからッて、留めてやった、かあいそうに泣いていたよ。』

『泣いて? まアかあいそうに。』お梅は涙ぐんで黙ってしまった。それも時田には気が付かない、

『なんでも詳しい事は聞かなんだが、今度の継母おふくろに娘があってそれが海軍少将とかに奉公している、そいつを幸ちゃんの嫁にしたいと思っているらしい、幸ちゃんはそれがいやでたまらない、それを継母おふくろが感づいてつらく当たるらしい、だから幸ちゃんの身になって見るとたまらないサ。』

『そうなのよ、わたしもその事はちょっと聞いてよ、そうなのよ、だってあんまりそれは無理だわ……』まだ何か言いそうな時、突然橋の上に通り掛かった男、お梅の顔をのぞき込んで

『オヤ梅ちゃん、今晩は、』と意味ありげに声を掛けて行き過ぎた。橋を渡ったと思うとちょっと振り向いて、

『忘れていた、幸ちゃんによろしく。』

『知らないわ、お菊さんが待ってるよ。』

『ハハハハありがとう。』いううち姿が見えなくなった。

『お菊さんて踏切の八百屋やおやの娘だろうか。』時田はたずねた。お梅はうなずいたぎり黙っていた。


       ⦅二⦆


 この日は近ごろ珍しいいい天気であったが、次の日は梅雨つゆ前のこととて、朝から空模様怪しく、午後はじめじめ降りだした。普通の人ならせっかくの日曜をめちゃめちゃにしてしまったと不平を並べるところだが、時田先生、全く無頓着むとんじゃくである。机の前に端座して生徒の清書を点検したり、作文をたり、出席簿を調べたり、くたぶれた時はごろりとそこに寝ころんで天井をながめたりしている。

 午後二時、この降るのにたずねて来て、中二階の三段目から『時田!』と首を出したのは江藤えとうという画家えかきである、時田よりは四つ五つ年下の、これもどこか変物へんぶつらしい顔つき、語調ものいい体度みのこなしとが時田よりも快活らしいばかり、共に青山御家人あおやまごけにん息子むすこで小供の時から親の代からの朋輩ほうばい同士である。

 時田は朱筆しゅふでを投げやって仰向けになりながら、

『君せんだって頼んで置いたのはできたかね。』

 江藤は火鉢ひばちのそばにすわって勝手に茶を飲み、とぼけた顔をして、

『なんだッたかしら。』

『そら手本サ。』

『すっかり忘れていた、失敬失敬、それよりか君に見せたい物があるのだ、』と風呂敷ふろしきに包んでその下をまた新聞紙で包んである、画板がはんを取り出して、時田に渡した。時田は黙って見ていたが、

『どこか見たような所だね、うまくできている。』

『そら、あの森のところサ御料地の、あそこから向こうの畑と林とを見たところサ。』

『なるほどそうだ、』といいながら時田は壁に下げてある小さな水彩画と見比べている。

『無論この方がまずいサ。ところがこの絵にはおもしろい話があるからそれで持って来たがこれからまたこれを持って行くところがあるのだ。』

 時田は起ち上がって火鉢のそばへ来て、『ふうン』とはなはだ気のない返事をして聞いている、これはこの人の癖だから対手あいてはなんとも感じない。

昨日きのうはあのいい天気だからいつものように出かけて例の森、僕はまだあそこはいたことがないからどうせろくなものはできまいが、一ツ試みて見ようと、いつもの細いみちを例のごとく空想にふけりながら歩いた。実は──もう白状してもいいから言うが──実は僕近ごろ自分で自分を疑い初めて、果たしておれに美術家たるの天才があるのだろうか、果たしておれは一個の画家として成功するだろうかなんてしきりと自脈を取っていたのサ。断然この希望をなげうってしまうかとも思ったがその時思い当たッたのは君の事だ。君がこうやッて村立尋常小学校の校長それも最初はただの教員から初めて十何年という長い間、汲々乎きゅうきゅうことして勤めお互いの朋輩ほうばいにはもう大尉たいいになッたやつもいれば法学士で判事になった奴もいるのを知らん顔でうらやましいとも思わず平気で自分の職分を守っている。もちろんこれは君の性分にもよるだろう、しかしそれはどちらでもいい、ともかく一心専念にやっているという事が僕は君の今日成功している所以ゆえんだと信ずる、成功とも! 教育家としてこの上の成功はないサ。父兄からは十二分の信用と尊敬とを得て何か込み入ったことはみんな君のところへ相談に来て君の判断を仰ぐ。僕は今の教育家にこういう例はあまりなかろうと思う。そこで僕は思った、僕に天才があろうがなかろうが、成功しようがしなかろうがそんな事は今顧みるに当たらない何でもこのままで一心不乱にやればいいんだ、というふうに考えて来ると気がせいせいして来た。

 昨日きのうもちょうどそんな事を考えながら歩いて、つまるところがペンキの看版かんばんかきになろうが稲荷いなり八幡様はちまんさまの奉納絵を画こうがかまわない。やるところまでやると決心したからには、わき目もふれないなどしきりに思い続けて例の森まで行った。

 どこを画こうかとえらんで見たが、森その物は無論画いたところでとしてはかえっておもしろくないから、何でも森をはすに取って西北の地平線から西へかけて低いところにもしゃもしゃとえてる楢林ならばやしあたりまでを写して見ることに決めた。

 道は随分暑かッたが森へ来て少し休むと薄暗い奥の方から冷たい風が吹いて来ていい心持こころもちになった、青葉の影の透きとおるような光を仰いで身体からだを横に足を草の上に投げ出してじっと向こうを見ていると、何という静かな美しい、のびのびした景色だろう! 僕はなんもかも忘れてしばらくながめていた。

 でき上がったのがこれだ。われながらお話にはならないまずサ加減、しかし僕は幾度でもこれをく、まず僕の力でこれならと思うやつができるまでは何度でも写しにくると決心してかかったのだ。ところでこのまずいやつをここまでき上げるのに妙なことがあったのサ。

 しきりと画いていると、実景があまりよくッて僕の手がいかにもまずいので、画いていながらまたもや変な気になって何というまずサだろう、これが画といわりょうかおれはとてもだめなのかしらん、と思うと画くのがいやになってもうよそうかもうよそうかと思いながらやっていた。すると後ろの森の方でガサゴソと妙な音がした。この時サ、僕は振り向いて見ようとしたが、待て! こんな事では到底だめだ、たといまずかろうがまずいからこそ勉強してくのだ、奉納絵を画いてもいいという決心はどうした、一心不乱とはここの事だ、たとい耳のそばでおおかみがほえようが心を取り乱し気を散じないくらいでなければならないのが、森の奥でちょっと音がしたって、すぐそれに気を取られるようでどうするかと、今度はまずくても何でもずんずん画いていると、ゴソッ、ガサッという音がだんだん近づいて来るようで気になってならない、その音がまたすこぶる妙なので、ちょうど僕が一心にいているのをつけこんで後ろから何者か、忍び足に僕をねらうように思われる。さアそう思うと振り向いて見たくッてたまらない。しかし一たん見まいと決心したからには意地いじが出て振り向くのがはずかしく、また振り向くと向かないのとで僕の美術家たりるやいなやの分かれ目のような気がして来た。

 またこうも思った、見る見ないは別問題だ、てんであんな音が耳にはいるようでそれが気になるようでそのために気をもむようではだめなんだ。もし真にわが一心をこの画幅とこの自然とに打ち込むなら大砲の音だって聞こえないだろうと。そこで画板にかじりつくようにしてきはじめた。しかし何のやくにも立たない、僕の心は七がた後ろの音に奪われているのだから。

 そこでまたこうも思った、何もそう固まるには及ばない、気になるならなるで、ちょっと見てからすきつねか盗賊か鬼かじゃかもしくは一つ目小僧か大入道おおにゅうどうかそれを確かめて、安心して画いたがよサそうなものだ、よろしいそうだと振り向こうとしたが、残念でたまらない、もしここでおれが後ろへ振り向くならもう今日きょうかぎり画家はやめるのだゾ、よしか、それでよければ向け、もしこの森にいるとかうわさのある狂犬であっておれの後ろからいきなり頸筋くびすじへ食らいつくなら着いてもいいではないか。それで死んでもかまわない、こうなればもう意地だ! この意地が通されないくらいなら美術家たるはおろか、何一ツしでかすものかと、今度はけんか腰になッて、人を後ろへ向かそうッて、たれが向くか、ざまを見ろと今から思えばおかしいがほんとにそう独語ひとりごとを言いながら画き続けた。

 音が近づくにつけて大きくなる、下草や小藪こやぶを踏み分ける音がもうすぐ後ろで聞こえる、僕の身体からだ冷水ひやみずを浴びたようになって、すくんで来る、それでわきの下からは汗がだらだら流れる、何のことはない一種の拷問サ。

 僕はただ夢中になって画いていたが目と手は器械的に動くのみで全身の注意は後ろに集まっていた。すると何者かが確かに僕の背なかにくっつくようにして足を止めた。そして耳のそばで呼吸の気合けはいがする。天下何人なんびとか縮み上がらざらんやだ。君のような神経の少し遅鈍の方なら知らないこと──失敬失敬──僕はもう呼吸がふさがりそうになって、目がぐらぐらして来た。これが三十分も続いたら僕は気絶したろう。ところが間もなく、旦那だんなはうめえなアと耳元で大声に叫んだやつがある。

 びっくりして振り向くと六十ばかりの老爺おやじが腰をかがめて僕の肩越しにのぞき込んでいるんだ。僕はあまりのことに、何だびっくりしたじゃアないかと怒鳴ってやッた。きゃつ一向平気で、背負っていた枯れ木の大束をそこへ卸して、旦那は絵の先生かときくから先生じゃアないまだ生徒なんだというとすこぶる感心したような顔つきで絵を見ていた。』

 ここまで話して来て江藤は急に口をつぐんで、対手あいての顔をじっと見ていたが、思い出したように、

『そうだッけ、あの老爺おやじさんを写生するとよかッた、』と言ってひざった。この近在の百姓が御料地の森へはいって、枯れ枝を集めるのは、それは多分禁制であろうが、彼らは大びらでやっているのである。その事は無論時田も江藤も知っていたので、江藤もよく考えたら森の奥のガサガサする音は必ずそれと気の付くはずなんだ。

『それはそうとして君、それから僕は内心すこぶるはずかしく思ったから、今度は大いに熱心になってきだしたが、ほぼできたから巻煙草まきたばこを出して吸い初めたら、それまで老爺おやじさん黙って見ていたが、何と思ったか、まじめな顔で、その絵をくれないかと言いだした。その言い草がおもしろいじゃアないか、こういうんだ、今度代々木よよぎ八幡宮はちまんぐうが改築になったからそれへ奉納したいというんだ。それから老爺おやじしきりと八幡の新築の立派なことなんかしゃべっているから、僕はきながら考えた、この画はともかくもわがためには紀念すべきものである、そして、この老爺おやじもわがためには紀念すべき人である、だからこの画をこの老爺おやじにくれてやって八幡に奉納さすれば、われにもしこの後また退転の念が生じたとき、その八幡に行ってこの画を見て今日のことを思い出せば、なるほどそうだとまた猛進の精神を喚起さすだろう。そうだとこう考えて老爺おやじにくれてやることにした。老爺大変よろこんですぐ持って帰るというから、それは困る明日あすまで待ってくれろ今日は自宅うちへ持って帰って少しは手を入れたいからと言うと、そんならちょっとわしがうちへ寄ってくれろじきそこだからッて、僕が行くとも言わないに先に立ってずんずんゆくから、僕もおもしろ半分についていったサ。思ったより大きなうちで庭に麦が積んであって、ばあさんと若夫婦らしいのとがしきりにいでいたが、それからみんな集まって絵を見るやら茶を出すやら大騒ぎを初めた。それで僕は明日あす自分で持って来てやると約束して来たんだ。今日は降るから閉口したが待っていると気の毒だから、これから行って来ようと思う。』

 時田はほとんど一口も入れないで黙って聴いていたが、江藤がやっとやめたので、

『その百姓家に娘はいなかったか、』と真顔で問うた。

『アアいたいた八歳やつばかしの。』何心なく江藤は答える。

『そいつは惜しかった十六、七で別品べっぴんでモデルになりそうだと来ると小説だッたッけ、』と言って『ウフフフ』と笑った。この先生に不似合いなことを時々言ってそうして自分でこんなふうな笑いかたをするのがこの人の癖の一つである。

『そううまくはかないサ、ハハハハ、イヤそんなら行って来ようか、ご苦労な話だ、』と江藤が立ち上がろうとする時、生垣いけがきの外で、

昨夜ゆうべまたやったよ、聞いたかねもう。今度は三十ばかしの野郎よ、野郎じゃアねッからお話になんねエ、十七、八の新造しんぞなきゃア、そうよそろそろ暑くなるから逆上のぼせるかもしんねエ。』と大きな声で言うのは『踏切の八百屋やおや』である。

『そうよふところが寒くなると血がみんな頭へ上って、それで気がちがうんだろうよ』と言ったのは長屋の者らしい。

『うまいことをいってらア』と江藤はつぶやいた。

『おいらは毎晩逆上のぼせる薬を四合びんへ一本ずつ升屋ますやから買って飲むが一向鉄道往生おうじょうをやらかす気にならねエハハハハ』

『薬が足りないのだろうよ、今夜あたりお神さんにそう言って二合もやしておもらいな。』

『違えねえ、ふところが寒くならアヒヒヒヒ』と妙な声で笑った。


       ⦅三⦆


 その夜八時過ぎでもあろうか、雨はしとしと降っている、踏切の八百屋やおやでは早く店をしまい、主人あるじ長火鉢ながひばちの前で大あぐらをかいて、いつもの四合の薬をぐびりぐびりっている、女房はその手つきを見ている、娘のお菊はそばで針仕事をしながら時々頭を上げて店の戸の方を見る。

『なるほど四合では足りねエ。』

『何がなるほどだよ。』女房はもう不平らしい。

逆上のぼせの薬が足りないッてことよ。』

『ばか言ってらア。』女房には何のことだかわからない。

『お菊、もう二合取って来てくんねエ。』

『およしようそだよ、ばかばかしい。』女房はしかるように言って、燗徳利かんどくりをちょっと取って見て、『まだあるくせに。』

『あってもいいよ、二合取って来てくんねエ。明日あした口がきけねえから。』

『だれにさ、だれに口がきけねえんだよ。ばかばかしい。』

『なるほどうまいことを言うじゃアないか、今日おいらが蔦屋つたやへ行って今朝けさの一件を話すと、長屋の者が、ふところが寒くなるから頭へ逆上のぼせるだッて言やアがる。うまいことを言うじゃアないか。そいでおいらア四合ずつ毎晩逆上薬のぼせぐすりを飲むが鉄道往生する気になんねえッて言ったら、お神さんにそう言ってもう二合も買ってもらえッてやアがる。』

『大きにお世話だッて言ってやればいいに。』と女房は言って見たが、笑わざるを得なかった、娘も笑った。

『だから二合取って来てくんねえッてんだ。』

『ほんとに今夜はおよしよ、道が悪くってお菊がかあいそうだから。』女房は優しく言った。

『いいよわたし行って来ても。』娘は針を置いた。

 主人あるじは最後の酒杯さかずきをじっと見ていたが、その目はとろんこになって、身体からだがふらふらしている。

『やっぱり四合かな。』

 三人とも暫時無言。外面そとはしんとして雨の音さえよくは聞こえぬ。

『お前さん薬がいたじゃアないか。』

『ハハハハハ』主人あるじは快く笑って『しかしおいらアいくら逆上のぼせても鉄道往生はご免だ。ドラとこうちで朝まで安楽成仏あんらくじょうぶつとしようかな。今朝けさの野郎なんかまだ浮かばれねエでレールの上を迷ってるだろうよ。』

『チョッ薄気味の悪イ! ねエもうこんなところは引っ越してしまいたいねエ。』女房は心細そうに言った。

『ばか言ってらア、死ぬるやつは勝手に死ぬるんだ、こっちのせえじゃアねエ。踏切の八百屋で顔が売れてるのを引っ越してどこへ行くんだイ。死にたい奴はこの踏切で遠慮なしにやってくれるがいいや、方々へ触れまわしてやらア、こっちの商売道具だ。』

 あくまで太い事をいって、立ち上がって便所へ行きながら、『その代わり便所の窓から念仏の一つも唱えてやらア。』

『あれだもの』女房は苦い顔をして娘と顔を見合した。娘はすこぶるまじめで黙っている。主人あるじは便所の窓を明けたが、外面そとは雨でも月があるから薄光うすあかりでそこらがおぼろに見える。窓の下はすぐ鉄道線路である。この時かさをさしたる一人ひとりの男、線路のそばに立っていたのが主人あるじの窓をあけたので、ソッとけて家の壁に身を寄せた。それを主人はちらと見て、

『何を言っても命あっての物種ものだねだ、』と大きな声で独言ひとりごとを初めた、『どうせ自分から死ぬるてエなアよくよくだろうが死んじまえば命がねえからなア。』

 この時クスリと一声、笑いを圧し殺すような気勢けはいがしたが、主人あるじはそれには気が付かない。

『命せえあればまたどんな事でもできらア。銭がねえならかせぐのよ、情人いろ不実ふじつなら別な情人いろを目つけるのよ。命がなくなりゃア種なしだ。』

 娘が来て、

『何言ってるの?』気味わるそうに言う。

『命あっての物種だてエ事よ、そうじゃアねえか、まアまア今夜なんか死神しにがみに取っ付かれそうな晩だから、早く帰ってよく気を落ち着けて考えるんだなア。』

『何言ってるの。』

『まア出直した方がいいねエ、どうせ死ぬなら月でもいい晩の方がまだしゃれてらア。』

『いやな、』と娘は言って座敷の方へどたばたと逃げ出してしまった。

『出直した、出直した。その方がいい、あばよ、』と言って主人あるじはよろめきながら出て来たが、火鉢の横にころりと寝たかと思うとすぐ大いびきをかいている。

『ほんとにこんなとこア早く越してしまいたいねえ、薄気味の悪い。しまいにはろくなことはないよ、ねえお菊。』母親おふくろはやはり針仕事を始めながら、それも朝が早いからもうそろそろ眠そうな目つきでいう。

『そうねえ。』娘はさほどにも思わぬよう。

『この月になってからでも今朝けさのが三人目だよ、よくよくこの踏切はけちがついていると見える。』

 娘は黙って相手にならない。二人は無言で仕事をしていたが、母の手は折り折りやんで、そのたびごとにこくりこくりと居眠りをしている。娘はこのさまを見て見ないふりをしていたが、しばらくしてソッと起き上がって土間をりた。表の戸は二寸ばかり細目にけてあるのを、音のせぬように開けて、身体からだを半分出して四辺あたりを見まわすようであったが、ツと外に出た。軒下に立っているのが昨夜ゆうべお梅から『お菊さんによろしく』と冷やかされた男。

『オヤいそさん? なぜそんなところに立ってるの、おはいりな、』と娘は小声でいう。

はいりそこねて変だから今夜はよそうよ、さっき親父とっさんが出直せッて言ったから、』とにやにや笑いながら言う。

『アラお前さんだったの? 何だか妙なことを言ってたと思ったよ。まアお入りな、かまわないから。』

『出直そうよ、ぐずぐずしてるとまた鉄道往生と間違えられるから、』と行きかける、

『人をばかばかしい、』と娘はまだ何か言いかけると内から母親おふくろがあくび声で、

『お菊もう寝るから外をおめ。』

『何だか雲ぎれがして晴れそうだよ、』とうそを言ってだまかす。

『オヤ外にいたの、何してるんだねえ、早くお閉めよ、』と険貪けんどんに言う。

『星が見えるよ、』と言って娘は肩をすぼめて、男の顔を見てにっこり笑う。

『早くお入りよ、』と言って男は踏切の方へすたこら行ってしまったが、たちまち姿が見えなくなった。娘は軒の外へ首を出して、今度はほんとに空を仰いで見たが、晴れそうにもない。霧のような雨がひやひやと襟頸えりくびに入るので、舌打ちして『星どころか』とかすかに言ったが、荒々しく戸を閉めたと思うと間もなく家の内ひっそりとなってしまった。

(明治三十三年七月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店

   1939(昭和14)年215日第1刷発行

   1972(昭和47)年816日第37刷改版発行

   1983(昭和58)年410日第47刷発行

底本の親本:「武蔵野」民友社

   1901(明治34)年3月発行

初出:「太陽」

   1900(明治33)年10月発行

入力:h.saikawa

校正:noriko saito

2004年925日作成

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