太郎坊
幸田露伴



 見るさえまばゆかった雲のみねは風にくずされて夕方の空が青みわたると、真夏とはいいながらお日様のかたむくに連れてさすがにしのぎよくなる。やがて五日ごろの月は葉桜はざくらしげみからうすく光って見える、その下を蝙蝠こうもりたり顔にひらひらとかなたこなたへ飛んでいる。

 主人あるじ甲斐甲斐かいがいしくはだし尻端折しりはしょりで庭に下り立って、せみすずめれよとばかりに打水をしている。丈夫じょうぶづくりの薄禿うすっぱげの男ではあるが、その余念よねんのない顔付はおだやかな波をひたいたたえて、今は充分じゅうぶん世故せこけた身のもはや何事にも軽々かろがろしくは動かされぬというようなありさまを見せている。

 細君は焜炉しちりんあおいだり、庖丁ほうちょうの音をさせたり、いそがしげに台所をゴトツカせている。主人が跣足はだしになって働いているというのだから細君が奥様然おくさまぜんすましてはおられぬはずで、こういう家の主人あるじというものは、俗にいうばち利生りしょうもある人であるによって、人の妻たるだけの任務は厳格に果すようにらされているのらしい。

 下女は下女でうすのような尻を振立ふりたてて縁側えんがわ雑巾ぞうきんがけしている。

 まずいやしからずとうとからずらす家の夏の夕暮れの状態としては、生き生きとして活気のある、よい家庭である。

 主人は打水をえて後満足げに庭の面を見わたしたが、やがて足を洗って下駄げたをはくかとおもうとすぐに下女をんで、手拭てぬぐい石鹸シャボン、湯銭等を取り来らしめて湯へいってしまった。返って来ればチャンと膳立ぜんだてが出来ているというのが、毎日毎日版にったようにまっている寸法と見える。

 やがて主人はまくりをしながら茹蛸ゆでだこのようになって帰って来た。縁に花蓙はなございてある、提煙草盆さげたばこぼんが出ている。ゆったりとすわって烟草たばこを二三服ふかしているうちに、黒塗くろぬりの膳は主人の前にえられた。水色の天具帖てんぐじょうで張られた籠洋燈かごランプ坐敷ざしきの中に置かれている。ほどよい位置につるされた岐阜提灯ぎふぢょうちんすずしげな光りを放っている。

 庭は一隅ひとすみ梧桐あおぎりの繁みから次第に暮れて来て、ひょろまつ檜葉ひばなどにしたた水珠みずたまは夕立の後かと見紛みまごうばかりで、その濡色ぬれいろに夕月の光の薄く映ずるのは何ともえぬすがすがしさをえている。主人は庭をわた微風そよかぜたもとを吹かせながら、おのれの労働ほねおりつくり出した快い結果を極めて満足しながら味わっている。

 ところへ細君は小形の出雲焼いずもやき燗徳利かんどくりを持って来た。主人にむかって坐って、一つしゃくをしながら微笑えみうかべて、

「さぞお疲労くたびれでしたろう。」

と云ったその言葉は極めて簡単であったが、打水の涼しげな庭の景色けしきを見て感謝の意をふくめたような口調くちぶりであった。主人はさもさもうまそうに一口すすって猪口ちょくを下に置き、

「何、疲労くたびれるというまでのことも無いのさ。かえって程好ほどよい運動になって身体からだの薬になるような気持がする。そして自分が水をったので庭の草木の勢いが善くなって生々いきいきとして来る様子を見ると、また明日あした水撒みずまきをしてやろうとおもうのさ。」

と云いおわってまた猪口を取り上げ、しずかに飲みしてさらに酌をさせた。

「その日に自分がるだけの務めをしてしまってから、適宜いいほど労働ほねおりをして、湯にはいって、それから晩酌に一盃いっぱいると、同じ酒でも味がちがうようだ。これを思うと労働ぐらい人を幸福にするものは無いかも知れないナ。ハハハハハ。」

と快げに笑った主人の面からは実に幸福があふるるように見えた。

 膳の上にあるのは有触ありふれたあじの塩焼だが、ただ穂蓼ほたでを置き合せたのに、ちょっと細君の心の味が見えていた。主人ははしくだして後、再び猪口を取り上げた。

「アア、酒も好い、下物さかなも好い、お酌はお前だし、天下泰平たいへいという訳だな。アハハハハ。だがご馳走ちそうはこれっきりかナ。」

「オホホ、いやですネエ、お戯謔ふざけなすっては。今鴫焼しぎやきこしらえてあげます。」

と細君は主人がななめならず機嫌きげんのよいので自分も同じく胸が闊々ひろびろとするのでもあろうか、極めて快活きさくに気軽に答えた。多少は主人の気風に同化されているらしく見えた。

 そこで細君は、

「ちょっとごめんなさい。」

と云って座を立って退いたが、やがて鴫焼を持って来た。主人は熱いところに一箸つけて、

豪気ごうぎ豪気。」

賞翫しょうがんした。

「もういいからお前もそこで御飯ごぜんを食べるがいい。」

と主人は陶然とうぜんとした容子ようすで細君の労を謝して勧めた。

「はい、有り難う。」

と手短に答えたが、思わず主人の顔を見て細君はうち微笑ほほえみつつ、

「どうも大層いいお色におなりなさいましたね、まあ、まるで金太郎のようで。」

しん可笑おかしそうに云った。

「そうか。湯が平生いつもに無く熱かったからナ、それで特別に利いたかも知れない。ハハハハ。」

と笑った主人は、真にはや大分とろりとしていた。が、酒呑さけのみ根性こんじょうで、今一盃と云わぬばかりに、猪口の底に少しばかり残っていた酒を一息に吸い乾してすぐとその猪口を細君の前にき出した。その手はなんとなくあやうげであった。

 細君が静かに酌をしようとしたとき、主人の手はややふるえて徳利の口へカチンと当ったが、いかなる機会はずみか、猪口は主人の手をスルリとけて縁に落ちた。はっと思うたが及ばない、見れば猪口は一つおどって下の靴脱くつぬぎの石の上に打付ぶつかって、大片おおきいのは三ツ四ツ小片ちいさいのは無数にくだけてしまった。これは日頃主人が非常に愛翫あいがんしておった菫花すみれの模様の着いた永楽えいらくの猪口で、太郎坊太郎坊と主人が呼んでいたところのものであった。アッとあきれて夫婦はしばし無言のまま顔を見合せた。

 今まで喜びに満されていたのに引換ひきかえて、大した出来ごとではないが善いことがあったようにも思われないからかして、主人は快くうていたがせっかくのよいも興もめてしまったように、いかにも残念らしく猪口の欠けを拾ってかれこれとぎ合せて見ていた。そして、

「おれがっていたものだから。」

だれむかって云うでも無く独語ひとりごとのように主人は幾度いくどくやんだ。

 細君はいいほどに主人をなぐさめながら立ち上って、更に前より立優たちまさった美しい猪口を持って来て、

「さあ、さっぱりとお心持よく此盃これあがって、そしてお結局つもりになすったがようございましょう。」

慇懃まめやかに勧めた。が、主人はそれを顧みもせずやっぱりこわれた猪口の砕片かけらをじっと見ている。

 細君は笑いながら、

「あなたにもお似合いなさらない、マアどうしたのです。そんなものは仕方がありませんから捨てておしまいなすって、サアーツ新規に召し上れな。」

という。主人は一向言葉に乗らず、

「アア、どうもまらないことをしたな。どうだろう、もう継げないだろうか。」

となお未練みれんを云うている。

「そんなにこまかく毀れてしまったのですから、もう継げますまい。どうも今更仕方はございませんから、あきらめておしまいなすったがようございましょう。」

という細君の言葉は差当って理の当然なので、主人は落胆がっかりしたという調子で、

「アア諦めるよりほか仕方が無いかナア。アアアア、物の命数には限りがあるものだナア。」

悵然ちょうぜんとしてたんじた。

 細君はいつにない主人が余りの未練さをややいぶかりながら、

「あなたはまあどうなすったのです、今日に限って男らしくも無いじゃありませんか。いつぞやおなべ伊万里いまり刺身皿さしみざらの箱を落して、十人前ちゃんとそろっていたものを、毀したり傷物にしたり一ツも満足の物の無いようにしました時、そばで見ていらしって、過失そそうだから仕方がないわ、と笑って済ましておしまいなすったではありませんか。あの皿は古びもあれば出来もい品で、価値ねうちにすればその猪口とは十倍もちがいましょうに、それすら何とも思わないでお諦めなすったあなたが、なんだってそんなに未練らしいことをおっしゃるのです。まあ一盃ひとつし上れな、すっかり御酒ごしゅめておしまいなすったようですね。」

はげまして慰めた。それでも主人はなんとなく気が進まぬらしかった。しかし妻の深切しんせつを無にすまいと思うてか、重々しげに猪口を取って更に飲み始めた。けれども以前のように浮き立たない。

「どうもやはり違った猪口だと酒もうまくない、まあ止めてめしにしようか。」

とやはり大層しずんでいる。細君は余り未練すぎるとややたしなめるような調子で、

「もういい加減にお諦らめなさい。」

ときっばり言った。

「ウム、諦めることは諦めるよ。だがの、別段未練を残すのなんのというではないが、茶人は茶碗ちゃわん大切だいじにする、飲酒家さけのみは猪口を秘蔵にするというのが、こりゃあ人情だろうじゃないか。」

「だって、今出してまいったのも同じ永楽ですよ。それに毀れた方はざっとした菫花すみれの模様で、焼も余りよくありませんが、こちらは中は金襴地きんらんじで外は青華せいかで、工手間くでまもかかっていれば出来もいいし、まあ永楽といううちにもこれ極上ごくじょうという手だ、とご自分でおっしゃった事さえあるじゃあございませんか。」

「ウム、しかしこの猪口は買ったのだ。去年の暮におれが仲通の骨董店どうぐやで見つけて来たのだが、あの猪口は金銭おあしで買ったものじゃあないのだ。」

「ではどうなさったのでございます。」

「ヤ、こりゃあ詰らないことをうっかり饒舌しゃべった。ハハハハハ。」

まぎらしかけたが、ふと目をげて妻の方を見れば妻は無言で我が面をじっとまもっていた。主人もそれを見て無言になってしばしは何か考えたが、やがて快活きさくな調子になって、

「ハハハハハハ。」

と笑い出した。その面上にははや不快の雲は名残なごり無く吹きはらわれて、そのまなこは晴やかにんで見えた。この僅少わずかの間に主人はその心のかたむきを一転したと見えた。

「ハハハハ、云うてしまおう、云うてしまおう。一人で物をおもう事はないのだ、話して笑ってしまえばそれで済むのだ。」

と何か一人で合点がてんした主人は、言葉さえおのずと活気を帯びて来た。

「ハハハハハ、お前を前に置いてはちと言いにくい話だがナ。実はあの猪口は、むかしおれが若かった時分、アア、今思えば古い、古い、アアもう二十年も前のことだ。おれが思っていた女があったが、ハハハハ、どうもちッと馬鹿ばからしいようで真面目まじめでは話せないが。」

と主人は一口飲んで、

「まあいいわ。これもマア、酒に酔ったこの場だけの坐興で、半分位も虚言うそぜてはなすことだと思って聞いていてくれ。ハハハハハ。まだ考のさっぱり足りない、年のゆかない時分のことだ。今思えば真実ほんとゆめのようなことでまるで茫然ぼんやりとした事だが、まあその頃はおれの頭髪あたまもこんなに禿げてはいなかったろうというものだし、また色も少しは白かったろうというものだ。何といっても年が年だから今よりはまあしだったろうさ、いや何もそう見っともなく無かったからという訳ばかりでも無かったろうが、とにかくある娘に思われたのだ。思えば思うという道理で、しょうが合ったとでもいう事だったが、先方さきでも深切にしてくれる、こっちでもやさしくする。いやらしい事なぞはちっとも口にしなかったが、胸と胸との談話はなしは通って、どうかして一緒いっしょになりたい位の事はたがいに思い思っていたのだ。ところがその娘の父にばれて遊びに行った一日あるひの事だった、この盃で酒を出された。まだその時分は陶工やきものしの名なんぞ一ツだって知っていた訳では無かったが、ただ何となく気に入ったのでしきりとこの猪口を面白おもしろがると、その娘の父がおれにむかって、こう申しては失礼ですが此盃これがおもしろいとはお若いに似ずお目が高い、これは佳いものではないが了全りょうぜんの作で、ざっとした中にもまんざらの下手へたが造ったものとはちがうところもあるように思っていました、とよろこんで話した。そうするとそばに居た娘が口を添えて、大層お気に入ったご様子ですが、お気に召しましたのは其盃それの仕合せというものでございます、よろしゅうございますからお持帰下さいまし、失礼でございますけれど差上げとうございます、ねえお父様、進上げたっていいでしょう、と取りなしてくれた。もとより惜むほどの貴いものではなし、差当っての愛想あいそにはなる事だし、また可愛かわいがっている娘の言葉を他人ひとの前でくじきたくもなかったからであろう、おやただちに娘の言葉に同意して、自分の膳にあった小いのをもあわせておくってくれた。その時老人の言葉に、すみれのことをば太郎坊次郎坊といいまするから、この同じような菫の絵の大小二ツの猪口の、大きい方を太郎坊、小さい方を次郎坊などと呼んでおりましたが、一ツはなしてげるのも異なものですから二つともに進じましょう、というのでついに二つともれた。その一つが今こわれた太郎坊なのだ。そこでおれは時々自分の家で飲む時には必らず今の太郎坊と、太郎坊よりは小さかった次郎坊とを二ツならべて、その娘と相酌あいじゃくでもして飲むような心持で内々ないない人知らぬ楽みをしていた。またたまにはその娘にった時、太郎坊があなたにお眼にかかりたいと申しておりました、などと云ってたわむれたり、あの次郎坊が小生わたくしに対って、早く元のご主人様のお嬢様じょうさまにお逢い申したいのですが、いつになれば朝夕お傍に居られるような運びになりましょうかなぞと責め立てて困りまする、と云ってあかい顔をさせたりして、真実ほんとうに罪のない楽しい日を送っていた。」

いにしえのしず苧環おだまきり返して、さすがに今更今昔こんじゃくの感にえざるもののごとくれと我が額に手を加えたが、すぐにその手を伸して更に一盃を傾けた。

「そうこうするうち次郎坊の方をふとした過失そそうで毀してしまった。アア、二箇ふたつ揃っていたものをいかに過失とは云いながら一箇ひとつにしてしまったが、ああ情無いことをしたものだ、もしやこれが前表ぜんぴょうとなって二人が離ればなれになるような悲しい目を見るのではあるまいかと、いたくその時は心をなやました。しかし年はわかいし勢いは強い時分だったからすぐにまた思い返して、なんのなんの、心さえたしかなら決してそんなことがあろうはずはないと、ひそかにみずから慰めていた。」

と云いかけて再び言葉をよどました。妻は興有りげに一心になって聞いている。庭には梧桐を動かしてそよそよとわたる風が、ごくごく静穏せいおんな合の手をいている。

「頭がそろそろ禿げかかってこんなになってはおれもかなわない。過般こないだ宴会えんかいの席で頓狂とんきょう雛妓おしゃくめが、あなたのお頭顱つむりとかけてお恰好かっこう紅絹もみきますよ、というから、その心はと聞いたら、地がいて赤く見えますと云って笑いころげたが、そう云われたッてはらも立てないような年になって、こんなことを云い出しちゃあ可笑いが、難儀なんぎをした旅行たびはなしと同じことで、今のことじゃあ無いからなにもかも笑ってむというものだ。で、マア、その娘もおれの所へ来るという覚悟かくご、おれも行末はその女と同棲いっしょになろうというつもりだった。ところが世の中のお定まりで、思うようにはならぬ骰子さいという習いだから仕方が無い、どうしてもこうしてもその女と別れなければならない、強いて情を張ればその娘のためにもなるまいという仕誼しぎ差懸さしかかった。今考えてもひやりとするような突き詰めた考えもおこさないでは無かったが、待てよ、あわてるところで無い、と思案に思案して生きは生きたが、女とはとうとう別れてしまった。ああ、いつか次郎坊が毀れた時もしやと取越苦労とりこしぐろうをしたっけが、その通りになったのは情け無いと、太郎坊を見るにつけては幾度いくたびとなく人には見せぬなみだをこぼした。が、おれは男だ、おれは男だ、一婦人いっぷじんのために心を労していつまで泣こうかと思い返して、しい心を捨ててしきりに男児おとこがって諦めてしまった。しかしとしっても月が経っても、どういうものか忘れられない。別れた頃の苦しさは次第次第に忘れたが、ゆかしさはやはり太郎坊や次郎坊の言伝ことづてをして戯れていたその時とちっとも変らず心に浮ぶ。気に入らなかったことはみな忘れても、いいところは一つ残らず思い出す、未練とはさとりながらも思い出す、どうしても忘れきってしまうことは出来ない。そうかと云ってその後はどういう人に縁付いて、どこにその娘がどう生活くらしているかということも知らないばかりか、知ろうとおもうこころも無いのだから、無論その女をどうこうしようというような心はゆめにも持たぬ。無かった縁にまよいはかぬつもりで、今日に満足して平穏へいおんに日を送っている。ただ往時むかし感情おもいのこした余影かげが太郎坊のたたえる酒の上に時々浮ぶというばかりだ。で、おれはその後その娘を思っているというのではないが、何年後になっても折節は思い出すことがあるにつけて、その往昔むかし娘を思っていたおもいの深さを初めて知って、ああこんなにまで思い込んでいたものがよくあの時に無分別をもしなかったことだとよろこんでみたり、また、これほどに思い込んでいたものでも、無い縁は是非が無いで今に至ったが、天のこころというものはさて測られないものではあると、なんとなく神さまにでもたよりたいような幽微かすかな感じを起したりするばかりだった。お前が家へ来てからももうかれこれ十五六年になるが、おれが酒さえ飲むといえばどんな時でも必らずあの猪口で飲むでいたが、はなすにはおよばないことだからこの仔細しさいは談しもしなかった。このはなしおまえさえ知らないのだものだれが知っていよう、ただ太郎坊ばかりが、太郎坊の伝言ことづてをした時分のおれをよく知っているものだった。ところでこの太郎坊も今宵こよいを限りにこの世に無いものになってしまった。その娘はもう二十年も昔から、存命ながらえていることやら死んでしもうたことやらも知れぬものになってしまう、わずかに残っていたこの太郎坊も土に帰ってしまう。花やかで美しかった、暖かで燃え立つようだった若い時のすべての物の紀念かたみといえば、ただこの薄禿頭、お恰好の紅絹もみのようなもの一つとなってしもうたかとおもえば、ははははは、月日というものの働きの今更ながら強いのに感心する。人の一代というものは、思えば不思議のものじゃあ無いか。頭が禿げるまで忘れぬほどに思い込んだことも、一ツ二ツとくさびけたりれたりして車がくなって行くように、だんだん消ゆるに近づくというは、はて恐ろしい月日の力だ。身にもえまいとまでにしたったり、浮世をいとまでに迷ったり、無い縁は是非もないと悟ったりしたが、まだどこともなく心が惹かされていたその古い友達の太郎坊も今宵はくだけて亡くなれば、こいも起らぬ往時むかしに返った。今の今まで太郎坊を手放さずおったのも思えば可笑しい、その猪口を落して摧いてそれから種々いろいろ昔時むかしのことを繰返して考え出したのもいよいよ可笑しい。ハハハハ、氷をもてあそべば水を得るのみ、花のにおい虚空そらに留まらぬと聞いていたが、ほんとにそうだ。ハハハハ。どれどれめしにしようか、長話しをした。」

と語りおわって、また高く笑った。今は全く顔付も冴えざえとした平生つねの主人であった。細君は笑いながら聞き了りて、一種の感に打たれたかのごとく首を傾けた。

「それほどまでに思っていらしったものが、一体まあどうして別れなければならない機会はめになったのでしょう、何かそれには深い仔細があったのでしょうが。」

とは思わず口頭くちさきはしった質問で、もちろん細君が一方ひとかたならず同情を主人の身の上に寄せたからである。しかし主人はその質問には答えなかった。

「それを今更話したところで仕方がない。天下は広い、年月つきひ際涯無はてしない。しかし誰一人おれが今ここで談す話を虚言うそだとも真実ほんとだとも云い得る者があるものか、そうしてまたおれが苦しい思いをした事を善いとも悪いとも判断してくれるものが有るものか。ただ一人遺っていた太郎坊は二人の間の秘密をもくわしく知っていたが、それも今むなしくなってしまった。水を指さしてむかしの氷の形を語ったり、空を望んで花の行衛ゆくえを説いたところで、役にも立たぬ詮議せんぎというものだ。昔時むかしを繰返して新しく言葉をついやしたって何になろうか、ハハハハ、笑ってしまうに越したことは無い。云わば恋の創痕きずあとかさぶたが時節到来してはがれたのだ。ハハハハ、大分いい工合ぐあいに酒もまわった。いい、いい、酒はもうたくさんだ。」

と云い終って主人は庭を見た。一陣いちじんの風はさっとおこって籠洋燈かごランプの火をまたたきさせた。夜の涼しさは座敷に満ちた。

(明治三十三年七月)

底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房

   1992(平成4)年320日第1刷発行

底本の親本:「現代日本文学全集4」筑摩書房

入力:林 幸雄

校正:門田裕志

2002年125日作成

2003年720日修正

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