硯友社の沿革
尾崎紅葉



かね硯友社けんいうしや年代記ねんだいきを作つて見やうとかんがへつてるのでありますが、書いた物は散佚さんゐつしてしまふし、あるひ記憶きおくから消え去つてしまつた事実などが多いために、とても自分一人ひとりふでるのでは、十分な事を書くわけには行かんのでありますから、当時たうじ往来わうらいしてつた人達ひとたち問合とひあはせて、各方面かくはうめんから事実をげなければ、沿革えんかくふべき者を書く事は出来できません、

これつい不便ふべんな事は、其昔そのむかし朝夕あさいふ往来わうらいして文章を見せ合つた仲間の大半は、はじめから文章をもつて身をたてこゝろざしの人でなかつたから、今日こんにちでは実業家じつげふかつてるのも有れば工学家こうがくかつてるのも有る、其他そのた裁判官さいばんくわんも有る、会社員も有る、鉄道の駅長も有る、なかには行方不明ゆくへふめいなのも有る、物故ぶつこしたのも有る、で、銘々めい〳〵げふちがふからしておのづから疎遠そゑんる、長い月日には四はうさんじてしまつて、此方こちらも会ふのが億劫おくゝふで、いつか〳〵と思ひながら、今だに着手ちやくしゆもせずにると始末しまつです、今日こんにちお話をるのはほん荒筋あらすぢで、年月ねんげつなどはべつして記憶きおくしてらんのですから、随分ずゐぶんわたし思違おもひちがひも多からうと思ひます、それ他日たじつたゞします、

そもそ硯友社けんいうしやおこつたについては、わたし山田美妙やまだびめうくん其頃そのころ別号べつがう樵耕蛙船せうかうあせんひました)と懇意こんいつたのが、動機どうきでありますから、一寸ちよつと交際かうさい大要たいえう申上まをしあげて置く必要が有る、明治十五年のころでありましたか東京府の構内かうないに第二中学とふのがりました、ひとばしうちの第一中学に対して第二とつたので、それがわたしが入学した時に、わたしより二級上に山田武太郎やまだたけたらうなる少年がつたのですが、この少年は級中きふちう年少者ねんせうしやりながら、漢文かんぶんでも、国文こくぶんでも、和歌わかでも、でも、戯作げさくでも、字もく書いたし、も少しはるとつたやうな多芸たげい才子さいしで、学課がくくわ中以上ちういじやう成績せいせきであつたのは、校中かうちう評判ひやうばんの少年でした、わたしは十四五の時分じぶんはなか〳〵のあばれ者で、課業くわげふの時間をげては運動場うんどうばへ出て、瓦廻かはらまわしをる、鞦韆飛ぶらんことびる、石ぶつけでも、相撲すまふでも撃剣げきけん真似まねでも、悪作劇わるいたずらなんでもすきでした、(もつと唯今たゞいまでもあまきらひのはうではない)しかるに山田やまだごく温厚おんこうで、運動場うんどうばへ出て来ても我々われ〳〵の仲間にはいつた事などは無い、超然てうぜんとしてひとしづかに散歩してるとつたやうなふうで、今考へて見ると、成程なるほど年少詩人ねんせうしじんつた態度たいどがありましたよ、それ甚麼どんなはずみ相近あひちかづく事につたのであるか、どうも覚えませんけれど、いつかフレンドシツプが成立なりたつたのです、

もつと段々だん〴〵話合はなしあつて見ると、五六さい時分じぶんにはおな長屋ながや一軒いつけんいた隣同士となりどうしで、なんでも一緒いつしよに遊んだ事も有つたらしいので、那様そんな事から一層いつそう親密しんみつつて、帰路かへりみちも同じでありましたから連立つれだつても帰る、うちたづねてく、さきも来る、そこで学校外がくかうぐわいまじはりむすぶやうにつたのです、

わたし程無ほどなく右の中学を出て、しば愛宕下町あたごしたまちつた、大学予備門だいがくよびもん受験科じゆけんくわ専門せんもん三田英学校みたえいがつこうふのに転学てんがくしました、それから大学予備門だいがくよびもんに入つて二ねんまで山田やまだとは音信不通いんしんふつうかたちたのです、それにはべつ理由りいうなにも無い、究竟つまり学校が違つてしまつた所から、おたがひ今日こんにちあつて昨日さくじつ明日みやうにちも無い子供心こどもごゝろに、漠然ぼうつわすれてしまつたのです、すると、わたしが二きふつたとき山田やまだが四きふに入つて来たのです、実に這麼こんな意外なおもひをした事が無い、第二中学にた時はわたしより二きふうへ山田やまだが、予備門よびもんでは二きふしたくみに入つて来たのでせう、わたし何為どうした事かと思ひました、しかし、実に可懐なつかしかつたのです、顔を見ると手をつて、たゞち旧交きふこうあたゝめられるとわけで、其頃そのころ山田やまだわたし猶且やはり第二中学時代とかはらずしばんでましたから、往復わうふくともに手をたづさへて、議論ぎろん上下じやうげするも大きいが、おたがひはなし数年前すうねんまえよりは真面目まじめつた、さて話をして見ると、山田やまだは文章をつて立たうと精神せいしんわたし同断どうだんだ、わたしこのこゝろざしいだいたのは、予備門よびもんに入学して一年いちねんばかりぎての事であるが、山田やまだの第二中学にる時分から早くすで那様こんな了見りやうけんが有つたらしいのです、一年いちねんぜん其志そのこゝろざしいだいたわたしだ小説のふでつて見なかつたのであるが、おそかなおのれより三歳みつわか山田やまだすで竪琴草子たてごとざうしなる一篇いつぺんつゞつて、とうからあたへつ者であつたのは奈何どうです、さうふ物を書いたから、是非ぜひ一読いちどくして批評ひゝやうをしてくれと言つて百五六中まいも有る一冊いつさつ草稿そうかうわたしに見せたのでありました、の小説はアルフレツド大王だいわう事蹟じせき仕組しくんだもので文章ぶんしやう馬琴ばきんまなんで、実にく出来てて、わたししたきました、なか〳〵批評ひゝやうどころではない、敬服けいふくしてしまつたのです、そこで考へた、かれが二ねんおくれて予備門よびもんに入つて来たのは、意味いみ無くして遅々ぐづ〳〵してたのではない、其間そのあひだ余程よほど文章を修行しゆぎやうしたものらしい、増上寺ぞうじやうじ行誡上人ぎやうかいしやうにん石川鴻斎翁いしかはこうさいおうの所へ行つたのはすべ此間このあひだの事で、してもつぱ独修どくしうをした者と見える、なんでも西郷隆盛論さいごうたかもりろんであつたか、松島まつしまにあそぶきであつたか鴻斎翁こうさいおうはじめかれの文章を見た時、年の若いに似合にあはぬふでつきをあやしんで、剽窃へうせつしたのであらうととがめたとふ話を聞きましたが、漢文かんぶんく書いたのです、

つぎ硯友社けんいうしやるにいて、第二の動機だうきとなつたのは、思案外史しあんがいし予備門よびもん同時どうじ入学生にふがくせい相識あいしつたのです、其頃そのころ石橋雨香いしばしうかうつてました、これわたし竹馬ちくばとも久我くがぼう石橋いしばしとはおちやみづ師範学校しはんがくかう同窓どうそうであつたためわたし紹介せうかいしたのでしたが、の理由は第一わたしこのみおなじうするし、かつ面白おもしろ人物じんぶつであるから交際かうさいして見給みたまへとふのでありました、これからわたしまた山田やまだ石橋いしばしとを引合ひきあはせて、桃園とうゑんむすんだかたちです、

其内そのうち山田やまだしばからひとばしまで通学つうがくするのはあまとほいとふので、駿河台するがだい鈴木町すずきちやう坊城ばうじやう邸内ていない引越ひつこした、石橋いしばし九段坂上くだんさかうへの今の暁星学校ぎやうせいがくかうところたのですが、わたし不相変あひかはらずしばからかよつてた、山田やまだます〳〵親密しんみつになるにけて、遠方ゑんぱうから通ふのは不都合ふつがふであるから、ぼくうち寄宿きしゆくしては奈何どうです、と山田やまだつてくれるから、ねがうても無きさいわひと、すぐきふをつて、郷関きやうくわんを出た、山田やまだ書斎しよさいは八ぢやうでしたが、それつくゑ相対さしむかひゑて、北向きたむきさむ武者窓むしやまど薄暗うすぐら立籠たてこもつて、毎日まいにち文学の話です、こゝ二人ふたりはなならべてるから石橋いしばししげく訪ねて来る、山田やまだ出嫌でぎらひであつたが、わたし飛行自由ひぎやうじざいはうであるから、四方しはうまじはりむすびました、ところ予備門よびもんないあまねたづねて見ると、なか〳〵斯道しだう好者すきしや潜伏せんぷくしてるので、それを石橋いしばしわたしとでしきり掘出ほりだしにかゝつた、すると群雄ぐんいう四方しはうよりおこつて、ひゞきの声におうずるがごとしです、これ硯友社けんいうしや創立さうりつ導火線だうくわせんつたので、

さて其頃そのころ三人さんにん有様ありさま如何いかにとふに、山田やまだ勉強家べんきやうかであつたが、学科がくくわはうはお役目やくめつてて、雑書ざつしよのみを見てた、石橋いしばし躰育たいいく熱心ねつしんの遊ぶはうで、競争きやうそうる、器械躰操きかいたいさうる、ボートはぐ、水練すゐれんる、自転車で乗廻のりまはす、うまる、学科には平生へいぜい苦心くしんせんのであつたが、く出来ました、試験しけん成績せいせき相応さうおうよろしかつた、わたしと来ると、山田やまだともかず石橋いしばしとも付かずでお茶をにごしてたのです、其頃そのころ世間せけん持囃もてはやされた読物よみものは、はるのやくん書生気質しよせいかたぎ南翠なんすゐくんなんで有つたか、社会小説しやくわいせうせつでした、それから、篁村翁くわうそんおう読売新聞よみうりしんぶん軽妙けいめう短編たんぺんさかんに書いてました、其等それらを見て山田やまだく話をした事ですが、此分このぶんなら一二年内ねんないには此方こつちも打つて出て一合戦ひとかつせんして見やう、さうしてすゑには天下てんかを…………などゝ大気焔だいきえんも有つたのです、

ところ或日あるひ石橋いしばしが来て、たゞかうしてるのもつまらんから、練習のために雑誌をこしらへては奈何どうかとふのです、いづれも下地したぢすきなりで同意どういをした、ついては会員組織くわいゝんそしきにして同志どうしの文章をつのらうと議決ぎけつして、三人さんにん各自てんで手分てわけをして、会員くわいゝん募集ぼしうする事につた、学校にる者、ならび其以外それいぐわいの者をも語合かたらつて、惣勢そうぜい二十五にんましたらうか、其内そのうち過半くわはん予備門よびもんの学生でした、

今日こんにちになつて見ると、右の会員の変遷へんせんおどろもので、其内そのうち死亡しばうしたもの行方不明ゆくへふめいもの音信不通いんしんふつうものなどが有るが、知れてぶんでは、諸機械しよきかい輸入ゆにふ商会しやうくわいもの一人ひとり地方ちはう判事はんじ一人ひとり法学士はふがくし一人ひとり工学士こうがくし二人ふたり地方ちはう病院長びやうゐんちやう一人ひとり生命保険せいめいほけん会社員くわいしやいん一人ひとり日本鉄道にほんてつだう駅長えきちやう一人ひとり商館番頭しやうくわんばんたう築地つきぢ諸機械しよきかい)と横浜よこはま生糸きいと)とで二人ふたり漁業者ぎよげふしや建築家けんちくかとで阿米利加あめりかもの二人ふたり地方ちはう中学教員ちうがくけういん一人ひとり某省ぼうせう属官ぞくくわん二人ふたり大阪おほさか横浜よこはまとで銀行員ぎんかういん二人ふたり三州さんしうざいかくれてゑてるのが一人ひとり石炭せきたん売込屋うりこみや一人ひとりだ〳〵有るがちよつと胸にうかばない、這麼こんなふう業躰げふていが違つてるのです、さうして、後〻のち〳〵硯友社員けんいうしやいんとして文壇ぶんだんに立つた川上眉山かはかみびさん巌谷小波いはやせうは江見水蔭えみすゐいん中村花痩なかむらくわさう広津柳浪ひろつりうらう渡部乙羽わたなべおとは、などゝ面々めん〳〵は、創立さうりつさいにはこと〴〵未見みけんの人であつたのもまた一奇いつきふべきであります、

そこの雑誌とふのは、半紙はんし両截ふたつぎり廿枚にぢうまい卅枚さんぢうまい綴合とぢあはせて、これ我楽多文庫がらくたぶんこなづけ、右の社員中から和歌わか狂歌きやうか発句ほつく端唄はうた漢詩かんし狂詩きやうし漢文かんぶん国文こくぶん俳文はいぶん戯文げぶん新躰詩しんたいしなぞも有れば画探ゑさがしも有る、はじめはうには小説をかゝげて、口画くちゑ挿画さしゑも有る、これすべて社員の手からるので、筆耕ひつこう山田やまだわたしとで分担ぶんたんしたのです、山田やまだ細字さいじ上手じやうづに書きました、わたしのははなはきたない、で、小説のるいあま寄稿者きかうしやが無かつたので、おも山田やまだ石橋いしばしわたしとのをせたのです、三人さんにん以外いぐわい丸岡九華まるおかきうくわふ人がありました、この人は小説も書けば新躰詩しんたいしも作る、当時たうじすで素人芸しろうとげいでないと評判ひやうばん腕利うできゝで、新躰詩しんたいしこと其力そのちからきはめて研究けんきふする所で、百枚ひやくまいほどの叙事詩じよじしをも其頃そのころ早く作つて、二三の劇詩げきしなどさへ有りました、依様やはり我々われ〳〵同級どうきふでありましたが、のち商業学校せうげふがくかうてんじて、中途ちうとから全然すつかりふでたうじて、いまでは高田商会たかだせうくわいに出てりますが、硯友社けんいうしやためにはをしい人をころしてしまつたのです、もつとも本人の御為おためには其方そのはう結搆けつかうであつたのでせう、

それで、右の写本しやほん一名いちめいつき三日間みつかかん留置とめおきおきてで社員へまわしたのです、すると、見た者は鉛筆えんぴつ朱書しゆがき欄外らんぐわいひやうなどを入れる、其評そのひやうまた反駁はんばくする者が有るなどで、なか〳〵面白おもしろかつたのであります、第壱号を出したのが明治十八年の五月二日です、毎月まいげつ壱回いつくわい発行はつかう九号くがうまで続きました、すると、社員は続々ぞく〴〵ゑる、川上かはかみ同級どうきふりましたので、此際このさい入社したのです、この人は本郷ほんごう春木町はるきちやうて、石橋いしばしとは進文学舎しんぶんがくしや同窓どうそうで、予備門よびもんにも同時どうじに入学したのでありましたが、同好どうこうひとであることは知らなかつたと見えて、これまで勧誘くわんいうもしなかつたのでありました、眉山人びさんじんふのははるのちあらためた名で、其頃そのころ煙波散人えんばさんじんつてました、

写本しやほん挿絵さしゑ担当たんたうした画家ぐわか二人ふたりで、一人ひとり積翠せきすゐ工学士こうがくし大沢三之介おほさはさんのすけくん一人ひとり緑芽りよくが法学士はうがくし松岡鉦吉まつをかしやうきちくん積翠せきすゐ鉛筆画えんぴつぐわ得意とくいで、水彩風すゐさいふうのもき、器用きよう日本画にほんぐわつた、緑芽りよくが容斎風ようさいふういたが、素人画しろうとゑでは無いのでありました、

さて我楽多文庫がらくたぶんこの名がやうや書生間しよせいかんに知れわたつて来たので、四方しはうから入会を申込まをしこむ、社運隆盛といふことば石橋いしばし口癖くちぐせのやうに言つてよろこんでたのは此頃このころでした、一冊いつさつの本を三四十人して見るのでは一人ひとり一日いちにちとしても一月余ひとつきよかゝるので、これでは奈何どうもならぬとふので、じゆくしたのであるから、印行いんかうして頒布はんぷする事にたいとせつ我々われ〳〵三名さんめいあひだおこつた、そこで、今迄いまゝで毎月まいげつ三銭さんせんかの会費くわいひであつたのが、にはかに十せん引上ひきあげて、四六ばん三十二ページばかり雑誌ざつしこしらへる計画けいくわくで、なほひろく社員を募集ぼしうしたところ、やゝめいばかりたのでした、この時などは実に日夜にちやねむらぬほどの経営けいえいで、また石橋いしばし奔走ほんそう目覚めざましいものでした、出版の事は一切いつさい山田やまだ担任たんにんで、神田かんだ今川小路いまがはかうぢ金玉出版会社きんぎよくしゆつぱんくわいしやふのに掛合かけあひました、これ山田やまだ前年ぜんねんすでに一二の新躰詩集しんたいししうおほやけにして、同会社どうくわいしやつてえんからこゝ持込もちこんだので、この社はさき稗史出版会社はいししゆつぱんくわいしや予約よやく八犬伝はつけんでん印刷いんさつした事があるのです、山田やまだすで其作そのさく版行はんかうしたあぢを知つてるが、石橋いしばしわたしとは今度こんど皮切かはきりなので、もつと石橋いしばしは前から団珍まるちんなどに内々ない〳〵投書とうしよしてたのであつたが、かくして見せなかつた、山田やまだ読売新聞よみうりしんぶんへは大分だいぶ寄書きしよしてました、わたしは天にも地にもたゞ一度いちど頴才新誌えいさいしんしふのにやなぎえいじた七言絶句しちごんぜつくを出した事が有るが、其外そのほかにはなにも無い、

さて雑誌を出すについては、前々ぜん〳〵から編輯へんしうはう山田やまだわたしとが引受ひきうけて、石橋いしばしもつぱ庶務しよむあつかつてたので、三人さんにん署名人しよめいにんとして、明治十九年の春にあらためて我楽多文庫がらくたぶんこ第壱号だいいちがうとして出版した、これ写本しやほんの十がうあたるので、表題ひやうだい山田やまだ隷書れいしよで書きました、これせた山田やまだの小説が言文一致げんぶんいつちで、わたしの見たのでは言文一致げんぶんいつちの小説はこれ嚆矢はじめでした、

の雑誌も九号くがうまでは続きましたが、依様やはり十号からよくが出て、会員に頒布はんぷするくらゐでは面白おもしろくないから、あたひやすくしてさかん売出うりだして見やうとふので、今度こんどは四六ばい大形おほがたにして、十二ページでしたか、十六ページでしたか、定価ていかが三せん、小説の挿絵さしゑを二めん入れました、これよりさき四六ばん時代じだいいま一人ひとり画家ぐわかくはゝりました、横浜よこはま商館番頭しやうくわんばんとうゆめのやうつゝとふ名、実名じつめいわすれましたが、素人しろうとにしてはきました、其後そのご独逸どいつへ行つて、今では若松わかまつ製鉄所せいてつじよとやらにると聞いたが、消息せうそくつまびらかにしません、

四六ばんから四六ばいの雑誌にうつまでには大分だいぶ沿革えんかくが有るのですが、今はく覚えません、印刷所いんさつじよ飯田町いひだまち中坂なかさか同益社どうえきしやふのにへて、其頃そのころわたし山田やまだうちを出て四番町よんばんちやう親戚しんせき寄寓きぐうしてましたから、石橋いしばしはかつて、同益社どうえきしや真向まむかう一軒いつけんいへりて、これ我楽多文庫がらくたぶんこ発行所はつかうしよ硯友社けんいうしやなる看板かんばんを上げたのでした、雑誌もすで売品ばいひんつた以上いじやうは、売捌うりさばき都合つがふなにやで店らしい者が無ければならぬ、そこ酷算段ひどさんだんをして一軒いつけんりて、二階にかい編輯室へんしうしつ、下を応接所おうせつしよけん売捌場うりさばきぢやうてゝ、石橋いしばしわたしとがかはる〴〵める事にして、べつ会計掛くわいけいがゝりを置き、留守居るすゐを置き、市内しない卸売おろしうりあるく者をやとそのいきほひあさひのぼるがごとしでした、ほかるゐが無かつたのか雑誌もく売れました、毎号まいがう三千さんぜんづゝもるやうなわけで、いまつとめて拡張かくちやうすれば非常ひじやうなものであつたのを、無勘定むかんじやう面白半分おもしろはんぶんつてために、つひ大事だいじらせたとはのちにぞ思合おもひあはされたのです、今だにひとばなしのこつてるのは、此際このさいの事です、なんでも雑誌を売らなければかんとふので、発行日はつかうびには石橋いしばしわたしかばんの中へ何十部なんじふぶんで、さうして学校へ出る、休憩時間きふけいじかんには控所ひかえじよ大勢おほぜいの中を奔走ほんそうして売付うりつけるのです、其頃そのころ学習院がくしうゐん類焼るいしやうして当分たうぶん高等中学こうとうちうがく合併がつぺいしてましたから、こゝへも持つて行つて推売おしうるのです、学生時代がくせいじだい石橋いしばしふ者は実に顔が広かつたし、かつぜん学習院がくしうゐんた事があるので、く売りました、第一だいいちかたちふものが余程よほど可笑をかしい、石橋いしばし鼻目鏡はなめがねけて今こそ流行はやるけれど、其頃そのころ着手きての無いインパネスのもう一倍いちばいそでみじかいのをて雑誌を持つてまわる、わたしまたむらさきヅボンといはれて、柳原やなぎはら仕入しいれ染返そめかへしこんヘルだから、日常ひなたに出ると紫色むらさきいろに見えるやつ穿いて、外套ぐわいたう日蔭町物ひかげちやうもの茶羅紗ちやらしやかへしたやうな、おもいボテ〳〵したのを着て、現金げんきんでなくちやかんよとなどゝ絶叫ぜつけうするさまは、得易えやすからざる奇観きくわんであつたらうとおもはれる、這麼こんなふう中坂なかさかしやまうけてからは、石橋いしばしわたしとが一切いつさい処理しよりして、山田やまだ毎号まいごう一篇いつぺんの小説を書くばかりで、前のやうに社にたいしてみつなる関係くわんけいを持たなかつた、とふのが、山田やまだ元来ぐわんらい閉戸主義へいこしゆぎであつたから、からだかう雑務ざつむ鞅掌わうしやうするのをゆるさぬので、おのづからとほざかるやうにつたのであります、

漣山人さゞなみさんじん此頃このごろ入社したので、かね一六翁いちろくおう三男さんなん其人そのひと有りとは聞いてたが、顔を見た事も無かつたのであつた所、社員のうち山人さんじんる者が有つて、この人の紹介せうかい社中しやちうに加はる事になつたのでした、其頃そのころ巌谷いはや独逸協会学校どいつけふくわいがくかうまして、おばうさんの成人せいじんしたやうな少年で、はじめ編輯室へんしうしつに来たのは学校の帰途かへりで、黒羅紗くろらしや制服せいふくを着てました、この人はなんでも十三四のころから読売新聞よみうりしんぶん寄書きしよしてたので、文章ぶんしやうを見た目でこの人をると、まるうそのやうなおもひがしました、のち巌谷いはや初対面しよたいめんの時の事を言出いひだして、わたし人物じんぶつまつた想像さうざうはんしてたのにおどろいたとひます、甚麼どんなはんしてたか聞きたいものですが、ちと遠方ゑんぱうで今問合とひあはせるわけにもきません、

巌谷いはや紹介せうかいで入社したのが江見水蔭えみすゐいんです、この人は杉浦氏すぎうらし称好塾せうこうじゆくける巌谷いはや莫逆ばくぎやくで、素志そしふのが、万巻ばんくわんの書を読まずんば、すべから千里せんりの道をくべしと、つねこのんで山川さんせん跋渉ばつせふし、うちればかならふでを取つて書いて好者すきものと、巌谷いはやからうはさの有つたその人で、はじめて社にとはれた時は紺羅紗こんらしや古羽織ふるばおり托鉢僧たくはつそうのやうな大笠おほがさかぶつて、六歩ろつぱうむやうな手付てつきをして振込ふりこんで来たのです、文章を書くとふよりは柔術やはらを取りさうな恰好かつかうで、其頃そのころ水蔭亭主人すゐいんていしゆじん名宣なのつてました、

さて雑誌は益〻ます〳〵売れるのであつたが、会計くわいけい不取締ふとりしまりひとつには卸売おろしうりあるかせた親仁おやじ篤実とくじつさうに見えて、実ははなはふとやつであつたのを知らずにために、此奴こいつ余程よほどいやうな事をれたのです、畢竟つまり売捌うりさばきの方法が疎略そりやくであつたために、勘定かんじやう合つてぜにらずで、毎号まいがう屹々きつ〳〵印刷費いんさつひはらつて行つたのが、段々だん〳〵不如意ふによいつて、二号にがうおくれ三がうおくれとおはれる有様ありさま、それでも同益社どうえきしやでは石橋いしばし身元みもとを知つてるから強い督促とくそくず、続いて出版を引受ひきうけてたのです、の雑誌は廿にぢう一年の五月廿にぢう五日の出版しゆつぱんで、月二回の発行で、これも九がうまで続いて、拾号じふがうからはまた大いに躰裁ていさいあらためて(十月廿にぢう五日出版しゆつぱん頁数ページすうばいにして、別表紙べつびやうしけて、別摺べつずり挿画さしゑを二まい入れて、定価ていかを十せんに上げました、表紙は朱摺しゆずり古作者印譜こさくしやいんぷ模様もやうで、かたちは四六ばいして紙数しすうは無かつたけれど、素人しろうと手拵てごしらえにした物としては、すこぶ上出来じやうできで、好雑誌こうざつしひやうが有つたので、これ我楽多文庫がらくたぶんこの第四期です、

第三期に小説の筆をつた者は、美妙斎びめうさい思案外史しあんぐわいし丸岡九華まるをかきうくわ漣山人さゞなみさんじんわたし五人ごにんであつたが、右の大改良後だいかいりやうご眉山人びさんじん新手あらてくはゝつた、其迄それまで川上かはかみ折〻をり〳〵俳文はいぶんなどを寄稿きかうするばかりで、とんと小説は見せなかつたのであります、ところが十三号の発刊はつかんのぞんで、硯友社けんいうしやためながわするべからざる一大変事いちだいへんじおこつた、それは社の元老げんらうたる山田美妙やまだびめう脱走だつそうしたのです、いや、石橋いしばしわたしとのこの時の憤慨ふんがいふ者は非常ひじやうであつた、何故なにゆゑ山田やまだ鼎足ていそくちかひそむいたかとふに、これよりさき山田やまだ金港堂きんこうどうから夏木立なつこだちだいする一冊いつさつを出版しました、これ大喝采だいくわつさい歓迎くわんげいされたのです、此頃このごろ軟文学なんぶんがく好著こうちよふ者は世間せけんに地をはらつて無かつた、(書生気質しよせいかたぎの有つた外に)其処そこ山田やまだ清新せいしんなる作物さくぶつ金港堂きんこうどう高尚こうせう製本せいほんで出たのだから、読書社会どくしよしやくわいふるいたらうとふものです、そこで、金港堂きんこうどうはじめ年少詩人ねんせうしじん俊才しゆんさいつて、おももちゐやうとこゝろざしおこしたものと考へられる、この金港堂きんこうどう編輯へんしうには中根淑氏なかねしゆくしたので、すなはこの人が山田やまだ詞才しさいつたのです、それとも一方いつぱうには小説雑誌の気運きうん日増ひましじゆくして来たので、此際このさいなにか発行しやうと金港堂きんこうどう計画けいくわくが有つたのですから、早速さつそく山田やまだ密使みつしむかつたものと見える、

此方こちら暢気のんきなものだから那様こんなこととはちつとも知らない、山田やまだまた気振けぶりにも見せなかつた、けれどもさきにも言ふごとく、中坂なかさかに社をまうけてからは、山田やまだまつた社務しやむあづからん姿であつたから、社の方でも山田やまだ平生へいぜい消息せうそくつまびらかにせんと具合ぐあひで、すき金港堂きんこうどうはかりごともちゐる所で、山田やまだまた硯友社けんいうしやであつたため金港堂きんこうどうへ心が動いたのです、当時たうじじつ憤慨ふんがいしたけれど、考へて見れば無理むりの無い所で、さうして此間このかんの事は硯友社けんいうしやのヒストリイからふと大いにあぢは一節いつせつですよ、

其内そのうち金港堂きんこうどう云々しか〴〵の計画が有るとふ事が耳につた、其前そのぜんから達筆たつぴつ山田やまだが思ふやうに原稿げんかう寄来よこさんとあやしむべき事実が有つたので、捨置すておがたしと石橋いしばしわたしとで山田やまだあひきました、すると金港堂きんかうどうけんの話が有つて、硯友社けんいうしやとの関係をちたいやうな口吻くちぶりそれよろしいけれど、文庫ぶんこ連載れんさいしてある小説の続稿ぞくかうだけは送つてもらひたいとたのんだ、承諾しようだくした、しかるに一向いつかう寄来よこさん、石橋いしばしひに行つてもはん、わたしから手紙を出しても返事が無い、もう是迄これまでふので、わたしが筆を取つて猛烈まうれつ絶交状ぜつかうじやうを送つて、山田やまだ硯友社けんいうしやとのえんみやこはなの発行とともたゝれてしまつたのです、刮目くわつもくして待つてると、みやこはななる者が出た、本も立派りつぱなれば、手揃てぞろひでもあつた、さうして巻頭くわんたう山田やまだの文章、にくむべきてきながらも天晴あつぱれ書きをつた、かれの文章はたしかに二三だん進んだと見た、さあいたところみやこはなの評判で、しも全盛ぜんせいきはめたりし我楽多文庫がらくたぶんこにはか月夜げつや提灯てうちんつた、けれども火はえずに、十三、十四、十五、(よく二十二年の二月出版しゆつぱん)と持支もちこたへたが、それで到頭たう〳〵落城らくじやうしてしまつたのです、滅亡めつばういては三つの原因げんいんが有るので、(一)は印刷費いんさつひ負債ふさい、(二)は編輯へんしうと会計との事務じむ煩雑はんざつつて来て、修学しうがく片手業かたてまあまるのと、(三)は金港堂きんこうどう優勢いうせいおされたのです、それでも経済けいざいの立たんやうな事は無かつたのです、しからうおほくしてをさむる所がきはめて少いから可厭いやつてしまつたので、石橋いしばしわたし連印れんいんで、同益社どうえきしやへは卅円さんぢうゑん月賦げつぷかにした二百円ひやくゑん借用証文しやくようしやうもんを入れて、それで中坂なかさかの店を閉ぢて退転たいてんしたのです、

前年ぜんねんすゑわたしたづねて来たのが、神田かんだ南乗物町みなみのりものちやう吉岡書籍店よしをかしよじやくてん主人しゆじん理学士りがくし吉岡哲太郎よしをかてつたらうくんです、わたし文壇ぶんだんに立つにいては、前後ぜんご三人さんにん紹介者せうかいしやわづらはしたので、の第一が吉岡君よしをかくんすなは新著百種しんちよひやくしゆ出版元しゆつぱんもとです、第二は文学士ぶんがくし高田早苗たかださなゑくんわたし読売新聞よみうりしんぶんすゝめられた、第三は春陽堂しゆんやうどうの主人和田篤太郎わだとくたらうくんわたしの新聞に出した小説をかなら出版しゆつぱんした人、吉岡君よしをかくんが来て、毎号まいがう一篇いつぺんせる小説雑誌を出したいとふ話、そこで新著百種しんちよひやくしゆなづけて、わたし初篇しよへんを書く事につて、二十二年の二月に色懺悔いろざんげを出したのです、わたしはるのやくん面会めんくわいしたのも、篁村君くわうそんくんつたのも、新著百種しんちよひやくしゆ編輯上へんしうじやうの関係からです、それからまた編輯時代へんしうじだい四人よにん社中しやちうた、武内桂舟たけのうちけいしう広津柳浪ひろつりうらう渡部乙羽わたなべおとはほか一人ひとり故人こじんつた中村花痩なかむらくわさうこの人は我楽多文庫がらくたぶんこだいころすでに入社してたのであるが、文庫ぶんこには書いた物を出さなかつた、俳諧はいかい社中しやちう先輩せんぱいであつたから、たはむれ宗匠そうせうんでた、神田かんだ五十稲荷ごとふいなりうらんで、には古池ふるいけつて、そのほとりおほきな秋田蕗あきたふきしげつてたので、みな無理むりふき本宗匠もとそうせうにしてしまつたのです、前名ぜんめう柳園りうゑんつて、中央新聞ちうわうしんぶん創立そうりつころ処女作しよぢよさくを出した事が有る、それいでは新著百種しんちよひやくしゆ末頃すゑごろ離鴛鴦はなれをしふのを書いたが、それが名を端緒たんちよであつたかと思ふ、

武内たけのうちつたのは、新著百種しんちよひやくしゆ挿絵さしゑたのみに行つたのがゑんで、ひど懇意こんいつてしまつたが、其始そのはじめより人物にれたので、其頃そのころ武内たけのうち富士見町ふじみちやう薄闇うすぐら長屋ながやねづみ見たやうなうちくすぶつてながら太平楽たいへいらくならべる元気がぼんでなかつた、

広津ひろつと知つたのは、廿にぢう一年の春であつたか、少年園せうねんゑん宴会ゑんくわい不忍池しのばず長酡亭ちやうだていつて、席上せきじやう相識ちかづきつたのでした、其頃そのころ博文館はくぶんくわん大和錦やまとにしきふ小説雑誌を出してて、広津ひろつ編輯主任へんしうしゆにんでありました、乙羽庵おとはあんは始め二橋散史にけうさんしなのつて石橋いしばし便たよつて来たのです、その時は累卵之東洋的るいらんのとうやうてき悲憤文字ひふんもんじを書いてたのを、石橋いしばしから硯友社けんいうしや紹介せうかいして、のち新著百種しんちよひやくしゆ露小袖つゆこそでふのをせました、

それから一時いちじ中絶ちうぜつした我楽多文庫がらくたぶんこです、吉岡書籍店よしをかしよじやくてん引受ひきうけて見たいとふので、ぢき再興さいこうさせて、文庫ぶんこ改題かいだいして、かた菊版きくばんなほしました、これ新著百種しんちよひやくしゆ壱号いちがうが出るとも無く発行はつかうしたので、我楽多文庫がらくたぶんこ第五期だいごきる、表画ひやうぐわ穂庵翁すゐあんおうの筆で文昌星ぶんしやうせいでした、これさき廃刊はいかんした号を追つて、二十二がうまで出して、二十二年の七月廿にぢう三号の表紙をへて(桂舟けいしうひつ花鳥風月くわてうふうげつ大刷新だいさつしんわけつた、しきり西鶴さいかく鼓吹こすゐしたのはの時代で、柳浪りうらう乙羽おとは眉山びさん水蔭すゐいんなどがさかんに書き、寒月かんげつ露伴ろはん二氏にし寄稿きかうした、さうして挿絵さしゑ桂舟けいしう担当たんとうするなど、前々ぜん〳〵の紙上から見るとすこぶ異色いしよくを帯びてました、ゆえこれだいる、我楽多文庫がらくたぶんこ生命せいめいだいまたしばら絶滅ぜつめつしたのです、二十二年の十月発行の廿にぢう七号を終刊しうかんとして、一方いつぱうにはみやこはなが有り、一方いつぱうには大和錦やまとにしきが有つて、いづれもすこぶ強敵きやうてき版元はんもと苦戦くせんのちたふれたのです、しかし、十一月にまた吉岡書籍店よしをかしよじやくてんもよふしで、柳浪子りうらうし主筆しゆひつにして小文学せうぶんがく小冊子せうさつしを発行した、これとてもはゞ硯友社機関けんいうしやきくわんでありました、そもそも九とすう硯友社けんいうしやに取つては如何いかなる悪数あくすうであるかこの小文学せうぶんがくまた九号にして廃刊はいかんする始末しまつ、(二十三年四月)廿にぢう二年の十二月でした、篁村翁くわうそんおう読売新聞社よみうりしんぶんしや退いたにいて、わたしに入社せぬかと高田氏たかだしからの交渉かうしやうでしたから、すぐおうじて、年内ねんない短篇たんぺんを書きました、よく廿にぢう三年の七月になると、妄執まうしうれずして、又々また〳〵江戸紫えどむらさきふのを出した、これが九号の難関なんくわんへたかと思へば、あはれむべし、としくれ十二号にして、また没落ぼつらくこれために無けなしの懐裏ふところを百七十円ほどいためて、うんと参つた、かり小文学せうぶんがくをも硯友社けんいうしや機関きくわんかぞへると、それが第七期、これが第八期で、だ第九期なる者が有る、

あまり人は知らぬが、千紫万紅せんしばんこうつて、会員組織くわいゝんそしきにして出した者で、硯友社けんいうしや機関きくわんふのではなく、青年作家せいねんさくかためであつたから、社名も別に盛春社せいしゆんしやとして、わたし楽半分たのしみはんぶんに発行した、これ廿にぢう四年の六月が初刊しよかんであつたが、例の九号にもおよばずしてまためてしまつたのです、小栗風葉をぐりふうえふの会員のうちから出たので、たくに来たのは泉鏡花いづみきやうくわさきですが、わたしが文章をあつかつたのは風葉ふうえふ其頃そのころ拈華坊ねんげぼう)の方が早い、

廿にぢう四年中に雑誌編輯ざつしへんしうの手を洗つてから、こゝとしること九年になります、ところの九の字がまた不思議ふしぎで、実は来春らいしゆんにもつたら、又々また〳〵手勢てぜいひきゐ雑誌界ざつしかいに打つて出やうとふ計画も有るのです、第九期まで有つて十期の無いのははなは勘定かんじやうが悪いから、是非ぜひ第十期をつくりたいとかんがへも有るので、

段々だん〳〵追想つひさうして見ると、の九年間の硯友社けんいうしやおよ社中しやちう変遷へんせんおびたゞしいもので、書くき事も沢山たくさん有れば書かれぬ事も沢山たくさんある、なか〳〵面白おもしろい事も有れば、面白おもしろくない事も有る、成効せいかうあり、失敗しつぱいあり、喜怒きど有り哀楽あいらくありで、一部の好小説こうせうせつが出来るのです、でまた今後の硯友社けんいうしや如何いかにふのも面白おもしろい問題で、九年の平波へいはさをさしてわたし気運きうんも、来年以後は変動へんどうしやうずるであらうとおもはれるのです、

硯友社けんいうしや沿革えんかくいては、他日たじつすこぶくはしく心得こゝろえこゝにはわづか機関雑誌きくわんざつし変遷へんせん略叙りやくじよしたので、それも一向いつかう要領えうりやうませんが、お話をる用意が無かつたのですから、這麼こんなこと御免ごめんかふむります、

(明治34年1月1日「新小説」第6年第1巻)

底本:「明治の文学 第6巻 尾崎紅葉」筑摩書房

   2001(平成13)年220日初版第1刷発行

底本の親本:「紅葉全集 第十巻」岩波書店

   1994(平成6)年11

※佃速記事務所員筆記

※文字遣い・仮名遣いの誤用・不統一は底本のままとしました。

入力:門田裕志

校正:多羅尾伴内

2004年1124日作成

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