その頃の赤門生活
芥川龍之介



     一


 僕の二十六歳の時なりしと覚ゆ。大学院学生となりをりしが、当時東京にぢゆうせざりしため、退学届を出す期限に遅れ、期限後数日をて事務所に退学届をいだしたりしに、事務の人は規則を厳守して受けつけず「既に期限に遅れし故、三十円の金ををさめよ」といふ。大正五六年の三十円は大金なり。僕はこの大金を出し難き事情ありしが故に「然らばやむを得ず除名処分を受くべし」といへり。事務の人は僕の将来を気づかひ「君にして除名処分を受けん、今後の就職口を如何いかんせん」といひしが、つひに除名処分を受くることとなれり。

 僕の同級の哲学科の学生、僕の為に感激していはく、「君もシエリングの如く除名処分を受けしか」と! シエリングもまた僕の如く三十円の金を出ししぶりしや否や、僕はいま寡聞くわぶんにしてこれを知らざるを遺憾ゐかんとするものなり。


     二


 僕達のイギリス文学科の先生は、ロオレンス先生なり、先生は一日いちじつ僕を路上にとらへ、数千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解することあたはざりし故、唯かみなりに打たれたるおしの如く瞠目だうもくして先生の顔を見守り居たり。先生もまた僕の容子ようすに多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如とつじよとして僕に問うて曰く、〝Are you Mr. K. ?〟僕、答へて曰く、〝No, Sir.〟先生は──先生もまた雷に打たれたる唖の如く瞠目せらるること少時しばらくのち、僕をうしろにして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは実にこの路上の数分間なるのみ。


     三


 僕等「新思潮しんしてう社」同人どうじんの列したるは大正天皇の行幸し給へる最後の卒業式なりしなるべし。僕等は久米正雄くめまさをと共に夏の制服を持たざりし為、はだかの上に冬の制服を着、恐る恐る大勢おほぜいの中にまじり居たり。


     四


 僕はケエベル先生を知れり。先生はいつもフランネルのシヤツを着られ、シヨオペンハウエルを講ぜられしが、そのシヨオペンハウエルの本の上等なりしことは今に至つて忘るること能はず。


     五


 僕は確か二年生の時独逸ドイツ語の出来のよかりし為、独乙大使グラアフ・レツクスよりアルントの詩集を四冊貰へり。然れどもこは真に出来のよかりしにあらず、一つには喜多床きたどこかみりに行きし時、独乙語の先生に順をゆづり、先に刈らせたる為なるべし。こは謙遜けんそんにあらず、今なほかく信じて疑はざる所なり。

 僕はこのアルントを郁文堂いくぶんだうに売り金六円にかへたるを記憶す、時来じらい星霜せいさうけみすること十余、僕のアルントを知らざることは少しも当時に異ることなし。知らず、天涯のグラアフ・レツクスはいまはた赭顔しやがん旧の如くなりや否や。


     六


 僕は二年生か三年生かの時、矢代幸雄やしろゆきを久米正雄くめまさを二人ふたりと共にイギリス文学科の教授方針を攻撃したり。場所はひとばしの学士会館なりしと覚ゆ。僕等はくわを以て衆にあたり、大いに凱歌がいかを奏したり。然れども久米は勝誇かちほこりたる為、忽ち心臓に異状を呈し、本郷ほんがうまで歩きて帰ることあたはず。僕は矢代と共に久米をかつぎ、人跡じんせき絶えたる電車通りをやつと本郷の下宿げしゆくへ帰れり。(昭和二・二・一七)

底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房

   1971(昭和46)年65日初版第1刷発行

   1979(昭和54)年410日初版第11刷発行

入力:土屋隆

校正:松永正敏

2007年626日作成

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