日本小説の支那訳
芥川龍之介



 上海シヤンハイの商務印書館から世界叢書と云ふものが出てゐる。その一つが「現代日本につぽん小説集」である。これにあつめてあるのは国木田独歩くにきだどつぽ夏目漱石なつめそうせき森鴎外もりおうぐわい鈴木三重吉すずきみへきち武者小路実篤むしやのこうぢさねあつ有島武郎ありしまたけを長与善郎ながよよしを志賀直哉しがなほや千家元麿せんけもとまろ江馬修えましう江口渙えぐちくわん菊池寛きくちくわん佐藤春夫さとうはるを加藤武雄かとうたけを、僕、この十五人、三十篇である。このうち、夏目漱石、森鴎外、有島武郎、江口渙、菊池寛の五人のは、魯迅ろじん君の訳で、そのほかは皆、周作人しうさくじん君の訳である。そして、胡適こてき校としてある。

 千九百二十二年五月於北京ペキンにおいて、──と云ふ周作人君の序文によれば、「日本につぽんの小説は、二十世紀において驚異すべき発達をし、国民的文学の精華となつたばかりでなく、幾多の有名な著作は又、世界的価値を持つやうになつた。その点は欧洲現代の文学と比較するにる位であるが、唯文字もじの関係によつて、日本の小説を翻訳することは、欧洲人には甚だ容易でない。その為めにあまり世界に知られずにゐる。しかし支那は日本と種々の関係があり、支那人は日本を知る必要もあれば、また、日本を知る便利もある。そこでこの翻訳集を出した」と云ふことである。猶又なほまた「これ等の小説を選択した標準へうじゆんは、日本の現代の小説を紹介すると云ふ点にあるけれども、十五人の作家を選んだのは、大半個人的趣味によつた」とも云つてゐる。も一つ次手ついでに紹介すれば「この外にもまだ、島崎藤村しまざきとうそん里見弴さとみとん谷崎潤一郎たにざきじゆんいちらう加能作次郎かのうさくじらう佐藤俊子さとうとしことうの如き幾多の作家があつて、本来選に入るべきであるけれども、時間と能力との関係によつてこの集に収めることの出来なかつたのは甚だ遺憾ゐかんである」とも云つてゐる。

 翻訳は、僕自身の作品にちようすれば、中々正確に訳してある。その上、地名、官名、道具の名とうには、ちやんと註釈をほどこしてある。

 例へば、「羅生門らしやうもん」の中では、

 帯刀──古時的官、司追捕、糾弾きゆうだん、裁判、訴訟等事。

 平安朝──西暦七九四年以後約四百年。

とうの類である。もつともこの註には、多少妥当だたうを欠いたものもないではない。

 例へば、加藤武雄君の「郷愁きやうしう」のうちに、デコ坊(凸哥児)を註して、

 Dekkobō──原意是前額凸出的小児、後来只当作一種親愛的諢名。

と云ふのはい。しかし「やま」を註して、

 山手──原意是近山的地方、此処却専指東京本郷一帯高地、……云々

と云ふのは少し大雑把おほざつぱである。牛込うしごめ矢来やらいは、本郷ほんがう一帯の高地にははひらない筈である。けれどもこれは、白壁はくへき微瑕びかを数へる為めにあげたのではない。たとひ妥当を欠いたとしても、これ程僅かしか欠かないと言ふことを示す為めにあげたのである。

 巻頭に周作人しうさくじん君の序文のあることはすでに述べたが、巻末には各作家に関する短かい紹介を附録として添へてある。これも先づ要領を得てゐると言はなければならぬ。

 例へば、武者小路実篤むしやのこうぢさねあつは──千八百八十五年に生れ、「白樺派しらかばは」の中心人物となり、近来日向ひうがに「新しき村」を建設し、耕読こうどく主義を実行す。彼の著作は単純真率しんそつ、技巧をほどこさず、おのづから清新の気をそなふ。極めて人を感動せしむる力量あり。彼は「彼が三十の時」(千九百十五年)の序の中に、つてかう言つてゐる。下略げりやく。等の類である。

 これを現代の日本に行はれる西洋文芸の翻訳書にくらべてもあまり遜色そんしよくはないのに違ひない。もつと詳しく紹介すれば面白いかも知れないが、少し面倒くさくなつたからこれだけにとどめることにする。

(大正十四年三月)

底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房

   1971(昭和46)年65日初版第1刷発行

   1979(昭和54)年410日初版第11刷発行

入力:土屋隆

校正:松永正敏

2007年626日作成

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