売色鴨南蛮
泉鏡花



       一


 はじめ、目に着いたのは──ちと申兼ねるが、──とにかく、緋縮緬ひぢりめんであった。その燃立つようなのに、朱で処々ところどころぼかしの入った長襦袢ながじゅばんで。女はすそ端折はしょっていたのではない。つまを高々と掲げて、膝で挟んだあたりから、くれないがしっとり垂れて、白い足くびをまとったが、どうやら濡しょびれた不気味さに、そうして引上げたものらしい。素足に染まって、そのあかいのが映りそうなのに、藤色の緒の重い厚ぼったい駒下駄こまげた、泥まみれなのを、弱々と内輪に揃えて、またを一つよじった姿で、ふりしきる雨の待合所の片隅に、腰を掛けていたのである。

 日永ひながの頃ゆえ、まだくれかかるまでもないが、やがて五時も過ぎた。場所は院線電車の万世橋まんせいばしの停車じょうの、あの高い待合所であった。

 柳はほんのりとえ、花はふっくりとつぼんだ、昨日今日、緑、くれない、霞の紫、春のまさにたけなわならんとする気をめて、色の濃く、力の強いほど、五月雨さみだれか何ぞのような雨の灰汁あくに包まれては、景色も人も、神田川の小舟さえ、皆黒い中に、紅梅とも、緋桃とも言うまい、横しぶきに、血の滴るごとき紅木瓜べにぼけの、濡れつつぱっと咲いた風情は、見向うものの、おもてのほてるばかり目覚しい。……

 この目覚しいのを見て、話の主人公となったのは、大学病院の内科に勤むる、学問と、手腕を世に知らるる、最近留学して帰朝した秦宗吉はたそうきち氏である。

 辺幅へんぷくを修めない、質素な人の、住居すまいが芝の高輪たかなわにあるので、毎日病院へ通うのに、この院線を使って、お茶の水で下車して、あれから大学の所在地まで徒歩するのがならいであったが、五日も七日もこう降り続くと、どこの道もまるで泥海のようであるから、勤人つとめにんが大路の往還ゆききの、茶なり黒なり背広で靴は、まったく大袈裟おおげさだけれど、狸が土舟というていがある。

 秦氏も御多分に漏れず──もっとも色が白くて鼻筋の通った処はむしろ兎の部に属してはいるが──歩行あるき悩んで、今日は本郷どおりの電車を万世橋で下りて、例の、銅像を横に、おおき煉瓦れんがくぐって、高い石段を昇った。……これだと、ちょっと歩行あるいただけで甲武線は東京の大中央を突抜けて、一息に品川へ……

 が、それは段取だけの事サ、時間が時間だし、雨は降る……ここも出入ではいりがさぞ籠むだろう、と思ったよりおびただしい混雑で、ただ停車場などと、宿場がってすましてはおられぬ。川留かわどめか、火事のように湧立わきた揉合もみあう群集の黒山。中野行を待つ右側も、品川の左側も、二重三重に人垣を造って、線路の上まで押覆おっかぶさる。

 すぐに電車が来た処で、どうせ一度では乗れはしまい。

 宗吉はそう断念あきらめて、洋傘こうもりしずくを切って、軽く黒の外套がいとうの脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へしごいて、割合に透いて見える、なぜか、硝子囲がらすがこいの温室のような気のする、雨気あまけと人の香の、むっとこもった待合のうちへ、コツコツと──やはり泥になった──わびしい靴のさきを刻んで入った時、ふとその目覚しい処を見たのである。

 たしか、中央の台に、まだおおきな箱火鉢が出ていた……そこで、ハタと打撞ぶつかったその縮緬の炎から、急に瞳をわきらして、横ざまにプラットフォームへ出ようとすると、戸口の柱に、ポンと出た、も一つ赤いもの。


       二


 おどかしては不可いけない。何、黒山の中の赤帽で、そこに腕組をしつつ、うしろ向きに凭掛もたれかかっていたが、宗吉が顔を出したのを、茶色のちょんぼりひげはやした小白い横顔で、じろりとめると、

「上りは停電……下りは故障です。」

 と、人の顔さえ見れば、返事はこう言うものとめたようにほとんど機械的に言った。そして頸窪ぼんのくぼをその凭掛った柱で小突いて、超然とした。

「へッ! 上りは停電。」

「下りは故障だ。」

 ひびきの応ずるがごとく、四五人口々に饒舌しゃべった。

「ああ、ああ、」

たまらねえなあ。」

「よく出来てら。」

「困ったわねえ。」と、つい釣込まれたかして、つれもない女学生が猪首いくびを縮めてつぶやいた。

 が、いずれも、今はじめて知ったのでは無さそうで、赤帽がしかく機械的に言うのでも分る。

 かかる群集の動揺どよむ下に、冷然たる線路は、日脚に薄暗く沈んで、いまにはぜが釣れるから待て、と大都市の泥海に、入江のごとく彎曲わんきょくしつつ、伸々のびのびと静まり返って、その癖底光そこびかりのする歯の土手を見せて、冷笑あざわらう。

 赤帽の言葉を善意に解するにつけても、いやしくも中山高帽やまたかかぶって、外套も服も身に添った、洋行がえりの大学教授が、端近はしぢかへ押出して、その際じたばたすべきではあるまい。

 宗吉は──煙草たばこまないが──その火鉢のそば引籠ひきこもろうとして、靴を返しながら、爪尖つまさきを見れば、ぐしょぬれの土間に、ちらちらとまたくれないの褄が流れる。

 緋鯉ひごいが躍ったようである。

 思わず視線の向うのと、肩を合せて、その時、腰掛を立上った、もう一人の女がある。ちょうど緋縮緬のと並んでいた、そのつれかとも思われる、大島の羽織を着た、丸髷まるまげの、脊の高い、面長な、目鼻立のきっぱりした顔を見ると、宗吉は、あっと思った。

 再び、おや、と思った。

 と言うのは、このごろ忙しさに、不沙汰ぶさたはしているが、知己ちかづきも知己、しかもその婚礼の席につらなった、従弟いとこの細君にそっくりで。世馴よなれた人間だと、すぐに、「おお。」と声を掛けるほど、よく似ている。がその似ているのを驚いたのでもなければ、思い掛けず出会ったのを驚いたのでもない。まさしくその人と思うのが、近々ちかぢかと顔を会わせながら、すっと外らして窓から雨の空をた、取っても附けない、赤の他人らしい処置ぶりに、一驚をきっしたのである。

 いや、全く他人に違いない。

 けれども、脊恰好せいかっこうから、形容なりかたち生際はえぎわの少し乱れた処、色白な容色きりょうよしで、浅葱あさぎ手柄てがらが、いかにも似合う細君だが、この女もまた不思議に浅葱の手柄で。びんの色っぽい処から……それそれ、少し仰向あおむいている顔つき。他人が、ちょっと眉をひそめる工合ぐあいを、その細君は小鼻から口元にしわを寄せる癖がある。……それまでが、そのままで、電車を待草臥まちくたびれて、雨にわびしげな様子が、小鼻に寄せた皺に明白あからさまであった。

 勿論、別人とは納得しながら、うっかり口に出そうな挨拶こんにちはを、唇で噛留かみとめて、心着くと、いつの間にか、足もやや近づいて、帽子に手を掛けていたきまりの悪さに、背を向けて立直ると、雲低く、下谷したや、神田の屋根一面、雨も霞もみなぎって濁ったなかに、神田明神の森が見える。

 と、緋縮緬の女が、同じ方をじっていた。


       三


 鼻のたかいその顔が、ひたひたと横に寄って、胸に白粉おしろいの着くように思った。

 宗吉は、愕然がくぜんとするまで、再び、似た人の面影をその女に発見みいだしたのである。

 緋縮緬の女は、櫛巻くしまきに結って、黒縮緬の紋着もんつきの羽織を撫肩なでがたにぞろりと着て、せた片手を、力のない襟に挿して、そうやって、引上げたつまおさえるように、膝に置いた手に萌黄色もえぎいろのオペラバッグを大事そうに持っている。もう三十を幾つも越した年紀としごろから思うと、小児こどもの土産にする玩弄品おもちゃらしい、粗末な手提てさげを──大事そうに持っている。はきものも、襦袢じゅばんも、素足も、櫛巻も、紋着も、何となくちぐはぐな処へ、色白そうなのが濃い化粧、口の大きく見えるまで濡々ぬれぬれべにをさして、細いえりの、真白な咽喉のどを長く、明神の森の遠見に、伸上るような、ぐっと仰向いて、大きな目をじっみはった顔は、首だけ活人形いきにんぎょういだようで、綺麗きれいなよりは、ものすごい。ただ、美しく優しく、しかもきりりとしたのはたぐいなきその眉である。

 眉は、宗吉の思う、忘れぬ女と寸分違わぬ。が、この似たのは、もう一人の丸髷の方が、従弟の細君に似たほど、適格しっくりしたものでは決してない。あるいはそれが余りよく似たのに引込まれて、心に刻んだ面影が緋縮緬の方に宿ったのであろうも知れぬ。

 よし、眉の姿ただ一枚でも、秦宗吉の胸は、夢に三日月を呑んだように、きらりと尊く輝いて、時めいて躍ったのである。

 ──お千と言った、その女は、実に宗吉が十七の年紀とし生命いのちの親である。──

 しかも場所は、面前まのあたり彼処かしこに望む、神田明神の春のの境内であった。

「ああ……もう一呼吸ひといきで、剃刀かみそりで、……」

 と、今ながめても身の毛が悚立よだつ。……森のめぐりの雨雲は、陰惨な鼠色のくまを取った可恐おそろしい面のようで、家々の棟は、瓦のきばを噛み、歯を重ねた、その上に二処ふたところ三処みところ赤煉瓦あかれんがの軒と、亜鉛トタン屋根の引剥ひっぺがしが、高い空に、かっと赤い歯茎をいた、人をう鬼の口に髣髴ほうふつする。……その森、その樹立こだちは、……春雨のけぶるとばかり見る目には、三ツ五ツ縦に並べた薄紫の眉刷毛まゆばけであろう。死のうとした身の、その時を思えば、それもさかしまに生えた蓬々おどろおどろひげである。

 その空へ、すらすらとかりがねのように浮く、緋縮緬の女の眉よ! 瞳もすわって、まばたきもしないで、恍惚うっとりと同じ処を凝視みつめているのを、宗吉はまたちらりと見た。

 ああその女?

 と波を打ってとどろく胸に、この停車場は、おおいなる船の甲板の廻るように、みよしを明神の森に向けた。

 手に取るばかりなお近い。

「なぞえに低くなった、あそこが明神坂だな。」

 その右側の露路の突当りの家で。……

 ──死のうとした日の朝──宗吉は、年紀上としうえかれの友達に、顔をあたってもらった。……その、明神の境内で、アワヤ咽喉のんどに擬したのはその剃刀であるが。

(ちょっと順序をつけよう。)

 宗吉は学資もなしに、無鉄砲に国を出て、行処ゆきどころのなさに、その頃、ある一団の、取留めのない不体裁なその日ぐらしの人たちの世話になって、辛うじて雨露うろしのいでいた。

 その人たちというのは、主に懶惰らんだ放蕩ほうとうのため、世に見棄てられた医学生の落第なかまで、年輩も相応、女房持にょうぼうもちなどもまじった。中には政治家の半端もあるし、実業家の下積、山師も居たし、真面目まじめに巡査になろうかというのもあった。

 そこで、宗吉が当時寝泊りをしていたのは、同じ明神坂の片側長屋の一軒で、ここには食うや食わずの医学生あがりの、松田と云うのが夫婦で居た。

 その突当りの、柳の樹に、軒燈の掛った見晴みはらしのいい誰かの妾宅しょうたくの貸間に居た、露の垂れそうな綺麗なのが……ここに緋縮緬の女が似たと思う、そのお千さんである。


       四


 お千は、世を忍び、人目をはばかる女であった。宗吉が世話になる、渠等かれらなかまの、ほとんど首領とも言うべき、熊沢という、おって大実業家となると聞いた、絵に描いた化地蔵ばけじぞうのような大漢おおおとこが、そんじょその辺のを落籍ひかしたとは表向おもてむき、得心させて、連出して、内証で囲っていたのであるから。

 言うまでもなく商売人くろうとだけれど、芸妓げいしゃだか、遊女おいらんだか──それは今において分らない──何しろ、宗吉には三ツ四ツ、もっとかと思う年紀上の綺麗な姉さん、婀娜あだなお千さんだったのである。

 前夜まで──唯今ただいまのような、じとじとぶりの雨だったのが、花の開くようにあがった、彼岸前の日曜の朝、宗吉は朝飯前あさはんまえ……というが、やがて、十時。……ここは、ひもじい経験のない読者にも御推読を願っておく。が、いつになってもその朝の御飯はなかった。

 妾宅では、前の晩、宵に一度、てんどんのおあつらえ、夜中一時頃に蕎麦そばの出前が、ぷん枕頭まくらもとを匂って露路を入ったことを知っているので、けば何かあるだろう……天気がいとなお食べたい。空腹すきばらを抱いて、げっそりと落込むように、みぞの減った裏長屋の格子戸を開けた処へ、突当りの妾宅の柳の下から、ぞろぞろと長閑のどかそうに三人出た。

 肩幅の広いのが、薄汚れた黄八丈の書生羽織を、ぞろりと着たのは、この長屋の主人あるじで。一度戸口へ引込ひっこんだ宗吉を横目で見ると、小指を出して、

「どうした。」

 と小声で言った。

「まだ、おってです。」

 起きるのに張合がなくて、細君の、まだ裸体はだか柏餅かしわもちくるまっているのを、そう言うと、主人はちょっと舌を出して黙ってく。

 次のは、りたての頭の青々とした綺麗な出家。細面ほそおもての色の白いのが、鼠の法衣下ころもしたの上へ、黒縮緬の五紋いつつもん、──お千さんのだ、ふりあかい──羽織を着ていた。昨夜ゆうべ、この露路に入った時は、紫の輪袈裟わげさを雲のごとく尊くまとって、水晶の数珠じゅずを提げたのに。──

 と、うしろから、拳固げんこで、前の円い頭をコツンとたたく真似して、宗吉を流眄ながしめで、ニヤリとして続いたのは、頭毛かみのけ真中まんなかに皿に似た禿はげのある、色の黒い、目のくぼんだ、口のおおきな男で、近頃まで政治家だったが、飜って商業に志した、ために紋着もんつきを脱いで、綿銘仙の羽織を裄短ゆきみじかに、めりやすの股引ももひき痩脚やせずね穿いている。……小皿の平四郎。

 いずれも、花骨牌はちはちで徹夜の今、明神坂の常盤湯ときわゆへ行ったのである。

 行違いに、ぼんやりと、宗吉が妾宅へ入ると、食う物どころか、いきなり跡始末の掃除をさせられた。

「済まないことね、学生さんに働かしちゃあ。」

 とお千さんは、伊達巻一つのえん蹴出けだしで、お召の重衣かさねすそをぞろりと引いて、黒天鵝絨くろびろうど座蒲団ざぶとんを持って、火鉢の前をげながらそう言った。

「何、目下はあっしたちの小僧です。」

 と、甘谷あまやという横肥よこぶとり、でぶでぶと脊の低い、ばらりと髪を長くした、太鼓腹に角帯を巻いて、前掛まえかけ真田さなだをちょきんと結んだ、これも医学の落第生。追って大実業家たらんとする準備中のが、笑いながら言ったのである。

 二人が、この妾宅の貸ぬしのおめかけ──が、もういい加減な中婆さん──と兼帯に使う、次のへ立ったに、宗吉が、ひょろひょろして、時々浅ましく下腹をぐっと泣かせながら、とにかく、きれいに掃出すと、

「御苦労々々。」

 と、調子づいて、

「さあ、貴女あなた。」

 と、甘谷が座蒲団を引攫ひっさらって、もとの処へ。……身体からだに似ない腰の軽い男。……もっとも甘谷も、つい十日ばかり前までは、宗吉と同じ長屋に貸蒲団の一ツ夜着よぎで、芋虫ごろごろしていた処──事業の運動に外出そとでがちの熊沢旦那が、お千さんの見張兼番人かたがた妾宅の方へ引取って置くのであるから、日蔭ものでもお千は御主人。このくらいな事は当然で。

 ついの蒲団を、とんとんと小形の長火鉢の内側へ直して、

「さ、さ、貴女。」

 と自分は退いて、

「いざまず……これへ。」と口も気もともに軽い、が、起居たちい石臼いしうす引摺ひきずるように、どしどしする。──ああ、無理はない、脚気かっけがある。夜あかしはしても、朝湯には行けないのである。

可厭いやですことねえ。」

 と、婀娜な目で、襖際ふすまぎわからのぞくように、友染のすそいた櫛巻の立姿。


       五


 桜にはちと早い、木瓜ぼけか、何やら、枝ながら障子に映る花の影に、ほんのりと日南ひなたかおりが添って、お千がもとの座に着いた。

 向うには、旦那の熊沢が、上下大島の金鎖、あの大々したので、ドカリと胡坐あぐらを組むのであろう。

「お留守ですか。」

 宗吉が何となく甘谷に言った。ここにも見えず、湯に行った中にも居なかった。その熊沢をいたのである。

 縁側の片隅で、

「えへん!」と屋鳴りのするような咳払せきばらいを響かせた、便所のなかで。

「熊沢はここにるぞう。」

「まあ。」

「随分ですこと、ほほほ。」

 と家主いえぬしのお妾が、次のを台所へとおりがかりに笑ってくと、お千さんが俯向うつむいて、莞爾にっこりして、

あんまり色気がなさ過ぎるわ。」

「そこが御婦人の毒でげす。」

 と甘谷は前掛をポンポンとたたいて、

「お千さんは大将のあすこン処へ落ッこちたんだ。」

「あら、随分……ひどいじゃありませんか、甘谷さん、あんまりだよ。」

 何にも知らない宗吉にも、この間違は直ぐ分った、汚いに相違ない。

「いやあ、これは、失敗、失敬、失礼。」

 甘谷は立続けに叩頭おじぎをして、

「そこで、おわびに、一つ貴女の顔をあたらして頂きやしょう。いえ、自慢じゃありませんがね、昨夜ゆうべッから申す通り、野郎図体ずうたいは不器用でも、勝奴かつやっこぐらいにゃたしかに使えます。剃刀かみそりを持たしちゃたしかです。──秦君、ちょっと奥へ行って、剃刀を借りて来たまえ。」

 宗吉は、お千さんの、湯にだけはそっと行っても、床屋へはけもせず、呼ぶのも慎むべき境遇をうなずきながら、お妾に剃刀を借りて戻る。……

「おっと!……ついでに金盥かなだらい……気を利かして、気を利かして。」

 この間に、いま何か話があったと見える。

「さあ、君、ここへ顔を出したり、一つ手際を御覧に入れないじゃ、奥さん御信用下さらない。」

「いいえ、そうじゃありませんけれどもね、私まだ、そんなでもないんですから。」

「何、御遠慮にゃあ及びません。間違った処でたかが小僧の顔でさ。……ちょうど、ほら、むく毛が生えて、饀子あんこ撮食つまみぐいをしたようだ。」

 宗吉は、可憐あわれやゴクリとを呑んだ。

「仰向いて、ぐっと。そら、どうです、つるつるのつるつると、鮮かなもんでげしょう。」

「何だかあぶなッかしいわね。」

 と少し膝を浮かしながら、手元を覗いて憂慮きづかわしそうに、動かす顔が、鉄瓶の湯気の陽炎かげろうに薄絹を掛けつつ、宗吉の目に、ちらちら、ちらちら。

「大丈夫、それこの通り、ちょいちょいの、ちょいちょいと、」

「あれ、して頂戴、止してよ。」

 と浮かした膝を揺ら揺らと、袖が薫って伸上る。

「なぜですてば。」

「危いわ、危いわ。おとなしい、その優しい眉毛まみえを、落したらどうしましょう。」

「その事ですかい。」

 と、ちょっと留めた剃刀をまた当てた。

「構やしません。」

「あれ、目の縁はまだしもよ、上は止して、後生だから。」

「貴女の襟脚をろうてんだ。何、こんなものぐらい。」

「ああ、ああああ、ああーッ。」

 と便所のなかで屋根へ投げた、筒抜けな大欠伸おおあくび

「笑っちゃあ……不可いけない不可い。」

「ははははは、笑ったって泣いたって、何、こんな小僧ッ子の眉毛まゆげなんか。」

いや、厭、厭。」

 と支膝つきひざのまま、するすると寄る衣摺きぬずれが、遠くから羽衣の音のちかづくように宗吉の胸に響いた……畳の波に人魚の半身。

「どんなおっかさんでしょう、このお方。」

 雪を欺くかいなを空に、甘谷の剃刀の手を支え、突いて離して、胸へ、抱くようにしてじった。

うらやましい事、まあ、何て、いい眉毛まみえだろう。親御はさぞ、お可愛いだろうねえ。」

 乳も白々と、優しさと可懐なつかしさが透通るようにえながら、きぬあや衣紋えもんの色も、黒髪も、宗吉の目の真暗まっくらになった時、肩に袖をば掛けられて、おもてを襟に伏せながら、忍び兼ねた胸を絞って、思わず、ほろほろと熱い涙。

 お妾が次のから、

「切れますか剃刀は……あわせにろう遣ろうと思いましちゃあ……ついね……」


 自殺をするのに、宗吉は、床屋に持ってきましょう、と言って、この剃刀を取って出た。それは同じ日のってからである。

 仔細しさいは……


       六


 ……さて、やがて朝湯から三人が戻って来ると、長いこと便所に居た熊沢も一座で、また花札をもてあそぶ事になって、朝飯はすしにして、湯豆腐でちょっと一杯、と言う。

 この使つかいのついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの切立きったての段を下りた宮本町の横小路に、相馬そうま煎餅せんべい──塩煎餅の、焼方の、醤油したじに、何となくくつわの形の浮出して見える名物がある。──茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉がこれを買いに遣られたのが事の原因おこりであった。

 何分にも、十六七の食盛くいざかりが、毎日々々、三度の食事にがつがつしていた処へ、朝飯前とたとえにも言うのが、突落されるようにけわしい石段を下りたドン底の空腹ひもじさ。……天麩羅てんぷらとも、蕎麦そばとも、焼芋とも、ぷんと塩煎餅のこうばしさがコンガリと鼻を突いて、袋を持った手がガチガチと震う。近飢ちかがつえに、冷い汗が垂々たらたらと身うちに流れる堪え難さ。

 その時分の物価で、……忘れもしない七銭が煎餅の可なりかさのある中から……小判のごとく、数二枚。

 宗吉は、一坂ひとさか戻って、段々にちょっと区劃くぎりのある、すぐに手を立てたように石坂がまた急になる、平面な処で、銀杏いちょうの葉はまだ浅し、もみえのきこずえは遠し、たてに取るべき蔭もなしに、がけ溝端どぶばた真俯向まうつむけになって、生れてはじめて、許されない禁断のこのみを、相馬の名に負う、轡をガリリと頬張る思いで、馬の口にかぶりついた。が、うまさと切なさと恥かしさに、堅くなった胸は、おのずからどぶの上へのめって、折れて、煎餅は口よりもかえって胃の中でボリボリとれた。

 ト突出つきだしひさしに額を打たれ、忍返しのびがえしの釘に眼を刺され、かっと血とともに総身そうしんが熱く、たちまち、罪ある蛇になって、攀上よじのぼる石段は、お七が火の見を駆上った思いがして、こうべす太陽は、血の色して段に流れた。

 宗吉はかくてまた明神の御手洗みたらしに、更に、氷にとじらるる思いして、悚然ぞっと寒気を感じたのである。

「くすくす、くすくす。」

 花骨牌はちはちの車座の、輪に身をかるる、あやうさを感じながら、宗吉が我知らずおもてを赤めて、煎餅の袋を渡したのは、甘谷の手で。

「おっと来た、めしあがれ。」

 と一枚めくって合せながら、袋をお千さんの手に渡すと、これは少々疲れた風情で、なかまへは入らぬらしい。火鉢を隔てたのが請取って、膝でのぞくようにして開けて、

「御馳走様ですね……早速お毒見。」

 と言った。

 これにまた胸が痛んだ。だけなら、まださほどまでの仔細はなかった。

「くすくす、くすくす。」

 宗吉がこの座敷へ入りしなに、もうその忍び笑いの声が耳に附いたのであるが、この時、お千さんの一枚つまんだ煎餅を、見ないように、ちょっとわきへかわした宗吉の顔に、横から打撞ぶつかったのは小皿の平四郎。……頬骨の張った菱形のつらに、くぼんだ目を細く、小鼻をしかめて、

「くすくす。」

 とまた遣った。手にわるさに落ちたと見えて札は持たず、鍍金めっき銀煙管ぎんぎせるを構えながら、めりやすの股引ももひきを前はだけに、片膝を立てていたのが、その膝頭に頬骨をたたき着けるようにして、

「くすくすくす。」

 続けて忍びわらいをしたのである。

 立続たてつけて、

「くッくッくッ。」


       七


「こっちは、びきを泣かせてやれか。」

 と黄八丈が骨牌ふだめくると、黒縮緬の坊さんが、あかい裏を翻然ひらりかえして、

「餓鬼め。」

 と投げた。

「うふ、うふ、うふ。」と平四郎の忍び笑が、歯茎をれて声に出る。

「うふふ、うふふ、うふふふふふ。」

「何じゃい。」と片手に猪口ちょくを取りながら、黒天鵝絨くろびろうど蒲団ふとんの上に、萩、菖蒲あやめ、桜、牡丹ぼたんの合戦を、どろんとした目で見据えていた、大島揃おおしまぞろい大胡坐おおあぐらの熊沢が、ぎょろりと平四郎を見向いて言うと、笑いの虫は蕃椒とうがらしを食ったように、赤くなるまでかっ競勢きおって、

「うはははは、うふふ、うふふ。うふふ。えッ、いや、あ、あ、チ、あははははは、はッはッはッはッ、テ、ウ、えッ、えッ、えッ、えへへ、うふふ、あはあはあは、あは、あはははははは、あはははは。」

「馬鹿な。」

 と唇を横舐よこなめずって、熊沢がぬっと突出した猪口に、酌をしようとして、銅壺どうこから抜きかけた銚子ちょうしの手を留め、お千さんが、

「どうしたの。」

「おほほ、や、お尋ねでは恐入るが、あはは、テ、えッ。えへ、えへへ、う、う、ちえッ、たまらない。あッはッはッはッ。」

「魔がしたようだ。」

 甘谷があきれてつぶやく、……と寂然しんとなる。

 寂寞しんとなると、わらいばかりが、

「ちゃはははは、う、はは、うふ、へへ、ははは、えへへへへ、えッへ、へへ、あははは、うは、うは、うはは。どッこい、ええ、チ、ちゃはは、エ、はははは、ははははは、うッ、うッ、えへッへッへッ。」

 と横のめりに平四郎、煙管の雁首がんくび脾腹ひばらつついて、身悶みもだえして、

「くッ、苦しい……うッ、うッ、うッふふふ、チ、うッ、うううう苦しい。ああ、切ない、あはははは、あはッはッはッ、おお、コ、こいつは、あはは、ちゃはは、テ、チ、たッたッ堪らん。ははは。」

 と込上げ揉立もみたて、真赤まっかになった、七てんとう息継いきつぎに、つぎざましの茶を取って、がぶりと遣ると、

「わッ。」とせて、灰吹をつかんだが間に合わず、火入の灰へぷッと吐くと、むらむらと灰かぐら。

「ああ、あの、障子を一枚開けていな。」

 と黒縮緬の袖で払って出家が言った。

 宗吉は針のむしろを飛上るように、そのもう一枚、肘懸窓ひじかけまどの障子を開けると、さっと出る灰の吹雪は、すッと蒼空あおぞらに渡って、はるかに品川の海に消えた。が、蔵前の煙突も、十二階も、睫毛まつげ一眸ひとめの北のかた、目の下、一雪崩ひとなだれがけになって、崕下の、ごみごみした屋根を隔てて、日南ひなたの煎餅屋の小さな店が、油障子も覗かれる。

 トななめに、がッくりとくぼんで暗い、崕と石垣の間の、遠く明神の裏の石段に続くのが、大蜈蚣おおむかでのように胸前むなさきうねって、突当りにきば噛合かみあうごとき、小さな黒塀の忍びがえしの下に、どぶから這上はいあがったうじの、醜い汚い筋をぶるぶると震わせながら、めるような形が、歴然ありありと、自分おのが瞳に映った時、宗吉はもはや蒼白まっさおになった。

 ここからられたに相違ない。

 と思う平四郎は、よだれと一所に、濡らした膝を、手巾ハンケチで横撫でしつつ、

「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ。」……大歎息おおためいきとともに尻をいたなごりのわらいが、更に、がらがらがらと雷の鳴返すごとく少年の耳を打つ!……

「おせんをめしあがれな。」

 目の下の崕が切立きったてだったら、宗吉は、お千さんのその声とともに、さかしまに落ちてその場で五体を微塵みじんにしたろう。

 うみの親を可懐なつかしむまで、眉の一片ひとひらかばってくれた、その人ばかりに恥かしい。……

「ちょっと、うちまで。」

 と息を呑んで言った──宅とは露路のその長屋で。

 宗吉は、しかし、その長屋の前さえ、遁隠にげかくれするように素通りして、明神の境内のあなたこなた、人目のすきの隅々に立って、うえさえ忘れて、半日を泣いて泣きくらした。

 星も曇った暗きに、

「おかみさん──床屋へ剃刀を持って参りましょう。ついでがございますから……」

 宗吉はわざと格子戸をそれて、蚯蚓みみずの這うように台所から、そっと妾宅へおとずれて、家主の手から剃刀を取った。

 を隔てた座敷に、あでやかな影が気勢けはいに映って、香水のかおりは、つとはしりもとにも薫った。が、寂寞ひっそりしていた。

 露路の長屋の赤いあかりに、珍しく、大入道やら、五分刈やら、中にも小皿で禿かむろなる影法師が動いて、ひそひそと声の漏れるのが、目を忍び、はばかる出入りには、宗吉のために、むしろ僥倖さいわいだったのである。


       八


「何をするんですよ、何をするんですよ、お前さん、串戯じょうだんではありません。」

 社殿の裏なる、空茶店あきちゃみせ葦簀よしずの中で、一方の柱に使った片隅なる大木の銀杏いちょうの幹に凭掛よりかかって、アワヤ剃刀を咽喉のどに当てた時、すッと音して、滝縞たきじまの袖で抱いたお千さんの姿は、……宗吉の目に、高い樹の梢からさっと下りた、美しい女の顔した不思議な鳥のように映った──

 剃刀をもぎ取られて後は、茫然ぼうぜんとして、ほとんど夢心地である。

「まあ! かった。」

 と、身をじて、肩を抱きつつ、やしろの方を片手拝みに、

「虫が知らしたんだわね。いま、お前さんが台所で、剃刀を持ってくって声が聞えたでしょう、ドキリとしたのよ。……秦さん秦さんと言ったけれど、もう居ないでしょう。何だかね、こんな間違がありそうな気がしてならない、私。私、でね、すぐに後から駆出したのさ。でも、どこってあてはないんだもの、鳥居前のあすこの床屋で聞いてみたの。まあね、……まるでお見えなさらないと言うじゃあないの。しまった、と思ったわ。半分夢中で、それでも私がここへ来たのは神仏かみほとけのお助けです。秦さん、私が助けるんだと思っちゃあ不可いけない。うござんすか、いかえ、貴方あなた。……親御さんが影身に添っていなさるんですよ。ようござんすか、分りましたか。」

 と小児こどものように、柔い胸に、帯も扱帯しごきもひったりと抱き締めて、

「御覧なさい、お月様が、あれ、仏様ののさんが。」

 忘れはしない、半輪の五日の月が黒雲を下りるように、荘厳なる銀杏の枝に、梢さがりにかかったのが、可懐なつかしい亡き母の乳房の輪線の面影した。

「まあ、これからという、……女にしてもつぼみのいま、どうして死のうなんてしたんですよ。──私に……私……ええ、それが私に恥かしくって、──」

 そのふるえが胸に響く。

「何の塩煎餅の二枚ぐらい、貴方が掏賊ちぼでも構やしない──私はね、あの。……まあ、とにかく、内へきましょう。塩梅あんばいに誰も居ないから。」

 促して、急いで脱放しの駒下駄をさぐる時、白脛しらはぎが散った。お千もあわただしかったと見えて、宗吉の穿物はきものまでは心着かず、可恐おそろしい処をげるばかりに、息せいて手を引いたのである。

 魔をけ、死神を払う禁厭まじないであろう、明神の御手洗みたらしの水をすくって、しずくばかり宗吉の頭髪かみを濡らしたが、

「……息災、延命、息災延命、学問、学校、心願成就。」

 と、手よりも濡れた瞳を閉じて、えり白く、御堂みどうをば伏拝み、

「一口めしあがれ、……気を静めて──私も。」

 と柄杓ひしゃくを重げに口にした。

動悸どうきを御覧なさいよ、私のさ。」

 その胸のとどろきは、今より先に知ったのである。

「秦さん、私は貴方を連れて、もうあすこへは戻らない。……身にも命にもかえてね、お手伝をしますがね、……実はね、今明神様におわびをして、貴方のおつむを濡らしたのは──実は、あの、一度内へ帰ってね。……この剃刀で、貴方を、そりたての今道心にして、一緒に寝ようと思ったのよ。──あのね、実はね、今夜あたり紀州のあの坊さんに、私が抱かれて、そこへ、熊沢だの甘谷だのが踏込んで、不義いたずらの罪に落そうという相談に……どうでも、と言って乗せられたんです。

 ……あの坊さんは、高野山とかの、金高かねだかなお宝ものを売りに出て来ているんでしょう。どことかの大金持だの、何省の大臣だのに売ってやると言って、だまして、熊沢が皆質に入れて使ってしまって、催促される、苦しまぎれに、不断、何だか私にね、坊さんが厭味いやみらしい目つきをするのを知っていて、まあ大それた美人局つつもたせだわね。

 私が弱いもんだから、身体からだも度胸もずばぬけて強そうな、あの人をたよりにして、こんな身裁しだらになったけれど、……そんな相談をされてからはね……その上に、この眉毛まみえを見てからは……」

 と、お千はそっと宗吉の肩を撫でた。

「つくづく、あんな人が可厭いやになった。──そら、どかどかと踏込むでしょう。貴方を抱いて、ちゃんと起きて、居直って、あいそづかしをきっぱり言って、夜中に直ぐに飛出して、溜飲りゅういんを下げてやろうと思ったけれど……どんな発機はずみで、自棄腹やけばらの、あの人たちの乱暴に、貴方に怪我でもさせた日にゃ、取返しがつかないから、といま胸に手を置いて、分別をしたんですよ。

 さ、このままどこかへきましょう。私に任して安心なさいよ。……貴方もきっとあの人たちに二度とつき合っては不可いけません。」

 裏崕うらがけの石段を降りる時、宗吉は狼の峠を越して、花やかな都を見る気がした。

「ここ……そう……」

 お千さんが莞爾にっこりして、塩煎餅を買うのに、昼夜帯をいたのが、安ものらしい、が、萌黄もえぎ金入かねいれ

「食べながら歩行あるきましょう。」


「弱虫だね。」

 大通おおどおりへ抜ける暗がりで、甘く、且つかんばしく、皓歯しらはでこなしたのを、口移し……


       九


 宗吉が夜学から、徒士町おかちまちのとある裏の、空瓶屋と襤褸屋ぼろやの間の、貧しい下宿屋へ帰ると、引傾ひきかしいだ濡縁ぬれえんづきの六畳から、男が一人摺違すれちがいに出てくと、お千さんはパッと障子を開けた。が、もう床が取ってある……

 枕元の火鉢に、はかり炭を継いで、目の破れた金網をはすに載せて、お千さんが懐紙ふところがみであおぎながら、豌豆餅えんどうもちを焼いてくれた。

 そして熱いのを口で吹いて、嬉しそうな宗吉に、浦里の話をした。

 お千は、それよりも美しく、雪はなけれど、ちらちらと散る花の、小庭の湿地しけちの、石炭殻につもる可哀あわれさ、痛々しさ。

 時次郎でない、頬被ほおかぶりしたのが、黒塀の外からヌッと覗く。

 お千が脛白はぎしろく、はっと立って、障子をしめようとする目の前へ、トンと下りると、つかつかと縁側へ。

「あれ。」

「おい、気の毒だがちょっと用事だ。」

 と袖から蛇の首のように捕縄とりなわをのぞかせた。

 膝をなえたようにきながら、お千は宗吉を背後うしろに囲って、

「……この人は……」

「いや、小僧に用はない。すぐおいで。」

「宗ちゃん、……朝の御飯はね、煮豆が買ってふたものに、……紅生薑べにしょうがと……紙のおおいがしてありますよ。」

 風俗係は草履を片手に、もう入口のふすまを開けていた。

 お千が穿はきものをさがすうちに、風俗係は、内から、戸の錠をあけたが、軒を出ると、ひたりと腰縄を打った。

 細腰はふっと消えて、すぼめた肩が、くらがりの柳に浮く。

 ……そのお千には、もうとうに、羽織もなく、下着もなく、はだえただ白くしまの小袖のえたるのみ。

 宗吉は、跣足はだしで、めそめそ泣きながら後を追った。

 目も心も真暗まっくらで、町も処も覚えない。さっと一条の冷い風が、電燈の細い光に桜を誘った時である。

「旦那。」

 とお千が立停たちどまって、

「宗ちゃん──宗ちゃん。」

 振向きもしないで、うなだれたのが、気を感じて、眉を優しく振向いた。

「…………」

「姉さんが、魂をあげます。」──辿たどりながら折ったのである。……懐紙の、白い折鶴がにあった。

「この飛ぶ処へ、すぐおいで。」

 ほっと吹く息、薄紅うすくれないに、折鶴はかえって蒼白あおじろく、花片はなびらにふっと乗って、ひらひらと空を舞って行く。……これが落ちたおおきな門で、はたして宗吉は拾われたのであった。


 電車が上り下りともほとんど同時に来た。

 宗吉は身動きもしなかった。

 と見ると、丸髷まるまげの女が、その緋縮緬ひぢりめんそばと寄って、いつか、肩ぬげつつ裏のすべった効性かいしょうのない羽織を、上から引合せてやりながら、

「さあ、来ました。」

「自動車ですか。」

 と目をみはったまま、緋縮緬の女はきょろんとしていた。


       十


 年若としわかい駅員が、

「貴方がたは?」

 と言った。

 乗り余った黒山の群集も、三四輛立続けに来た電車が、泥まで綺麗にさらったのに、まだ待合所を出なかった女二人、(別に一人)と宗吉をいぶかったのである。

 宗吉は言った。

「この御婦人が御病気なんです。」

 と、やっぱり、けろりと仰向あおむいている緋縮緬の女を、外套がいとうひじかばって言った。

 駅員の去ったあとで、

唯今ただいま、自動車を差上げますよ。」

 と宗吉は、優しく顔をのぞきつつ、丸髷の女に瞳を返して、

「巣鴨はお見合せを願えませんか。……きっと御介抱申します。わたくしはこういうものです。」

 なふだに医学博士──秦宗吉とあるのを見た時、……もう一人居た、散切ざんぎりで被布の女が、P形に直立して、Zのごとく敬礼した。これは附添の雑仕婦ぞうしふであったが、──博士が、その従弟の細君に似たのをよすがに、これよりさき、丸髷の女にことばを掛けて、その人品のゆえに人をして疑わしめず、つれは品川の某楼の女郎で、気の狂ったため巣鴨の病院に送るのだが、自動車で行きたい、それでなければいやだと言う。そのつもりにして、すかして電車で来ると、ここで自動車でないからと言って、何でも下りて、すねたのだと言う。……丸髷は某楼のその娘分。女郎の本名をお千と聞くまで、──この雑仕婦は物頂面ぶっちょうづらしてにらんでいた。


 不時の回診に驚いて、ある日、その助手たち、その白衣の看護婦たちの、ばらばらと急いで、しかも、静粛に駆寄るのを、おもむろに、左右に辞して、医学博士秦宗吉氏が、

「いえ、個人で見舞うのです……皆さん、どうぞ。」

 やがて博士は、特等室にただ一人、膝も胸も、しどけない、けろんとした狂女に、何と……手に剃刀かみそりを持たせながら、臥床ベッドひざまずいて、その胸に額を埋めて、ひしとすがって、潸然さんぜんとして泣きながら、微笑ほほえみながら、身も世も忘れて愚に返ったように、だらしなく、涙をひげに伝わらせていた。

大正九(一九二○)年五月

底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房

   1995(平成7)年124日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第二十巻」岩波書店

   1941(昭和16)年520日第1刷発行

入力:門田裕志

校正:今井忠夫

2003年831日作成

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