業平文治漂流奇談
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂編纂



 むかしおとこありけるという好男子に由縁ゆかりありはらの業平文治なりひらぶんじがお話はいざ言問わんまでもなくひなにも知られ都鳥の其の名に高く隅田川すみだがわ月雪花つきゆきはなつに遊ぶ圓朝えんちょうぬしが人情かしら有為転変ういてんぺんの世のさま穿うがち作れる妙案にて喜怒哀楽の其の内に自ずと含む勧懲の深き趣向を寄席よせせきへ通いつゞけて始めから終りを全く聞きはつることのいと〳〵れなるべければ其の顛末もとすえを洩さずにく知る人はありやなしやと思うがまゝ我儕おのれが日ごろおぼえたるかの八橋やつはし蜘手くもでなす速記法ちょうわざをもて圓朝ぬしが口ずからと滑らかに話しいだせる言の葉をかき集めつゝ幾巻いくまきふみにものしてつぎ〳〵に発兌うりだすこととはなしぬ

 明治十八年十一月   若林〓(「※」は「おうへん+甘」)藏識


  一


 此のたびお聞きに入れまするは、業平文治漂流奇談と名題なだいを置きました古いお馴染なじみのお話でございますが、何卒なにとぞ相変らず御贔屓ごひいきを願い上げます。頃は安永年中の事で、本所ほんじょ業平村なりひらむら浪島文治郎なみしまぶんじろうと云う侠客きょうかくがありました。此の人は以前下谷したや御成街道おなりかいどう堀丹波守ほりたんばのかみ様の御家来で、三百八十石頂戴した浪島文吾なみしまぶんごと云う人の子で、仔細あって親諸共もろともに浪人して本所業平村に田地でんじを買い、何不足なく有福に暮してりましたが、父文吾相果てましたのち、六十に近い母に孝行を尽し、剣術は真影流しんかげりゅうの極意を究め、力は七人力にんりきあったと申します。悪人と見ればたちまこぶしを上げて打って懲らすような事もあり、又貧乏人で生活くらしに困ると云えば、どこまでも恵んでやり、弱きを助け強きをくじくという気性なれども、至極なさけ深い人で無闇に人をつような殺伐の人ではございません。只今の世界にはございませんが、その頃は巡査と云う人民の安寧あんねいまもってくださる職務のものがございませんゆえに、強いもの勝ちで、無理が通れば道理引込ひっこむのたとえの通り、乱暴を云い掛けられても、弱い者は黙って居りますから文治のような者が出て、お前の方が悪いと意見を云っても、分らん者は仕方がありませんゆえ、七人力の拳骨げんこつで打って、向うのきもひしいでおいて、それから意見を加えて悪事をめさせ善人に仕立るのが極くすきで、一寸ちょっと聞くと怖いようでございますが、く〳〵見ると赤子も馴染むような美男びなんですから、綽名あざなを業平文治と申しましたのか、たゞしは業平村に居りましたゆえ業平文治と付けたのか、又は浪島を業平となまって呼びましたのか、安永年間の事でございますからわたくしにもとんと調べが付きませんが、文治は年廿四歳で男のよろしいことは役者で申さば左團次さだんじ宗十郎そうじゅうろうを一緒にして、訥升とつしょうの品があって、可愛らしい処が家橘かきつ小團治こだんじで、我童がどう兄弟と福助ふくすけの愛敬を衣に振り掛けて、気の利いた所が菊五郎きくごろうで、しっかりした処が團十郎だんじゅうろうで、その上芝翫しかんの物覚えのよいときているから実に申分もうしぶんはございません。文治が通りますと近所の娘さんたちがぞろ〳〵付いて参りまして、

 娘「きいちゃん、一寸今業平文治さんと云う旦那が入らしったから御覧なはいよ、い男ですわ、アラ今横町へ曲ってきましたわ、此方こっちのお芋屋の前を抜けて瀬戸物屋の前へ出れば逢えますよ」

 と云って娘子供が大騒ぎをするから、おばあさんもけむに巻かれて、

 婆「此方こっちへ参れば拝めますかえ」

 と遊行様ゆぎょうさまと間違えるくらいな訳であります。これはそのはずで、文治は品行正しく、どんな美人が岡惚おかぼれをしようとも女の方は見向きもしないで、常に悪人をこらし貧窮ものを助ける事ばかりに心を用いて居ります。その昔は場末の湯屋ゆうやは皆入込いれごみでございまして、男女なんにょ一つに湯に入るのは何処どこかに愛敬のあるもので、これは自然陰陽の道理で、男の方では女の肌へくっついて入湯を致すのが、色気ではござりませんが只なんとなくいゝ様な心持で、只今では風俗正しく、湯に仕切りが出来まして男女の別が厳しくなりましたが、近頃までは間が竹の打付格子ぶっつけごうしに成って居りまして、向うが見えるようになって居りますから、左の方を見たいと思うと右のほゝばかり洗って居りますゆえ、片面かたッつらあかぶちになっているお人があります。其の頃本所なかごうに杉の湯と云うのがありました。うちの前に大きな杉の木がありますから綽名して杉の湯〳〵と云いますので、此の湯へ日暮方になって毎日入湯に参りますのは、年のころ廿四五で、髪は達摩返だるまがえしに結いまして、あいの小弁慶の衣服きもの八反はったん黒繻子くろじゅす腹合はらあわせの帯を引掛ひっかけに締め、吾妻下駄あづまげた穿いて参りますのを、男が目を付けますが、此の女はたぎって美人と云う程ではありませんが、どこか人好きのする顔で、鼻は摘みッ鼻で、髪の毛のつやくて、小股こまた切上きれあがって居る上等物です。此の婦人に惚れて入湯の跡を追掛おいかけて来て入込みの湯の中で脊中せなかなどを押付おっつける人があります。その人は中の郷の堺屋重兵衞さかいやじゅうべえと云う薬種屋きぐすりやの番頭で、四十二になる九兵衞くへえと云う男で、湯に入るたびに変な事をするが、女が一通りの奴でないから、此奴こいつおれに岡惚れをしているなと思い、わざと男の方へくっついて乙な処置振りをしますから、男の方は尚更増長致します。丁度九月二日の事で、常の如く番頭さんが女の方へ摺寄すりよって来るとき、女の方で番頭の手へ小指を引掛ひっかけたから、手を握ろうとすると無くなって仕舞うから、まるで金魚を探すようで、女の脊中を撫でたりおしりつねったりします。の女は悪党でございますから、突然いきなりに番頭の手拭を引奪ひったくって先へ上って仕舞いましたゆえ、番頭はの手拭を八つに切って一ツはお守へ入れてくれるだろうと思っていると大違いで、女は衣類きものを着て仕舞い、番台の前へ立ちましたが、女の癖にいれずみがあります。元来此の女はやま浮草うきくさと云う茶見世へ出て居りました浮草うきくさのおなみという者で、黥再刺いれなおしで市中お構いになって、島数しまかずの五六たびもあり、小強請こゆすりかた筒持つゝもたせをする、まかな國藏くにぞうという奴の女房でございますからたまりません、

 浪「一寸ちょっと番頭さん」

 番「へい、なんでございます」

 浪「あの少し其処そこではお話が出来ないから此処こゝへ下りておくれよ、毎晩私に悪戯いたずらをする奴があるよ、私のしりを抓ったり脊中を撫でたりするのはいゝが、今日は実に腹が立ってたまらないから、其奴そいつを此処へ引摺り出しておくれ、私も独身ひとりみじゃアなし、亭主ていしゅもあるからそんな事をされては亭主に対して済みません、引出しておくれよ」

 番「誠にお気の毒様でございますが、込合う湯の中でございますから、あなたがその人の顔を覚えて入らっしゃらないでは、此処へ出ておくんなさいと云っても、たれも出る者はありませんから分りません、へい」

 浪「さア証拠のない事は云わないよ、其奴の手拭を引奪って来たから手拭のない奴を出しておくれ」

 番「へい、誰方どなたですか、そんな悪戯をして困りますなア、どうか皆さんのうちで手拭のない方はお出なすって下さい」

 男「おい番頭さんおれは手拭を持ってるよ」

 番「よろしゅうございます」

 男「己のもあるよ〳〵」

 番「宜しゅうございます」

 と云ってみんな出て仕舞ったが、中に一人九兵衞さんと云う人ばかりは出られませんから、そっ柘榴口ざくろぐちくゞって逃げようと思うと、水船の脇ですべって倒れました。

 男「おい〳〵番頭さん見てやれ〳〵、長く湯にへえっていたものだから眼がまわって顛倒ひっくりかえったのだろう」

 番「誰方どなた様ですな」

 と云いながら頭からザブリッと水を打掛ぶっかけましたから、

 九「あゝ〳〵有難うございます、余り長く入って居りましたものですから湯気にあがりました」

 番「う云う御様子でございます、大丈夫ですか」

 九「お前さんは湯屋ゆうやの番頭さんなら内証ないしょで手拭を持って来ておくんなさい、お願いです」

 番「へー、それではお前さんは手拭がありませんか」

 と番頭はおかしさをこらえながら、

 番「それでは今そっと持って来て上げますからお待ちなさいまし」

 と云うのをお浪が見てツカ〳〵ッと側へ来て、

 浪「おゝ此奴こいつだ、さア此方こっちへ来ねえ」

 と云いながらズル〳〵ッと引摺って来て箱の前へ叩きつけました。

 九「あゝ申し誠に相済みません、どうぞ御勘弁を願います」

 浪「御勘弁じゃアないよ、呆れかえって物が云えないよ、斯様こんなお多福でも亭主のあるものにんな馬鹿な事をされちゃア亭主に済まねえ、おめえうちへ行くから一緒に行きねえ」

 九「実はあんたによう似たお方があるので、そのお方だと思うて、実に申そうようない事をいたし、申し訳がありまへん、どうぞ御勘弁を」

 浪「なんだえ、人違いだえ、巫山戯ふざけた事を云っちゃアいけねえぜ、毎日めえにち人違ひとちげえをする奴があるかえ、さア主人のある奴なら主人に掛合うし、主人がなけりゃアおめえだって親か兄弟があるだろう、一緒に行きなよ」

 と云いながら平ッ手でピシャーリ〳〵とちます。寒い時に板の間へ長く坐ってふるえて居る処を打たれますから、身体へ手の跡が真赤につきます。表へは黒山のように人が立ちまして、

 男「なんです〳〵」

 乙「なんだか知りませんがひどい女ですなア」

 丙「なんでも盗賊どろぼうでございましょう、残らず取られて裸体はだかになったようですなア」

 甲「何を取られました」

 丙「んでも初めは手拭を取られたんだそうですが、仕舞には残らず取られたと見えて素裸すっぱだかになって、男の方で恐入おそれいってヒイ〳〵云って居ますなア」

 甲「へーそれでは取った女が取られた人をって居るのですか」

 丙「そうですなア、成程それにしちゃア妙ですなア、なんでも評判の悪人でございましょう、女でこそあれズウ〳〵しい奴でしょう」

 丁「なアに、そうじゃアありません、全くはお湯の中へ灰墨へいずみを流したのだそうですが、大方恋の遺恨でございましょう、灰墨を手拭へくるんで湯の中へ流して、手拭がないから彼奴あいつに違いないと云っているんでしょう」

 戊「なアに、そうじゃありません、小児あかんぼうんこを流したんだって」

 乙「へーそうですか」

 癸「なに、そうじゃありません、湯の中でお産をしたんだそうです」

 などといろ〳〵評議をしているが、なんだか訳が分りません。処へ参ったのは業平文治で、姿なり黒出くろで黄八丈きはちじょうにお納戸献上なんどけんじょうの帯をしめ蝋色鞘ろいろざや脇差わきざしをさし、さらしの手拭を持って、ガラリッと障子を開けますと、

 番「へー旦那だんないらっしゃいまし」

 文「はい、何か表へ人立ひとだちがして居るが間違いでもあったのか」

 番「どうかお構いなく、文庫へお脱ぎなさいまし」

 文「いや〳〵、人立がすれば往来の者も困りますし、お前も困るだろうが、一体どうした間違いだえ」

 番「旦那様、山の浮草に出て居たお浪と云う悪党女と知らない者ですから、堺屋の番頭さんが湯の中で度々たび〳〵冗談を致し、今日もしからん事を致したものですから、番頭さんの手拭を引奪って置いて、番頭さんが湯から上るのを待っていて、の通りわびるのを聴かないで主人へ掛合うと云うから、主人が五六十両も強借ゆすられて、番頭さんも追出されますのでしょう」

 文「それは気の毒な事だ、わしが中へ入って詫をしてやりましょう」

 番「旦那様が中へ入って下されば宜しゅうございますが、貴方あなたの御迷惑になるといけませんから、おしなすった方が宜しゅうございます」

 文「いや〳〵入って見ましょう」

 と云いながらツカ〳〵とお浪の側へ参り、

 文「おい〳〵姉さん何だかくわしい訳は知りませんが、聞いていれば此の人は人違いでお前さんに悪戯じょうだんをしたのだそうだから、腹も立とうが成り替ってわしが詫びましょうから、勘弁して此の人を帰して下さい、そうお前さんのように無闇に人をつものではありません」

 浪「どなたか知りませんが手を引いて下さい、私も亭主のある身で、姦通まおとこでもしていると思われては困ります、私の亭主も男を売る商売ですから、どんなにおこって私を女郎に売るか何だか知れません、亭主に対して打捨うっちゃって置けませんから手を引いておくんなさい」

 文「そういうことをすりゃア御亭主が無理というもの、湯の中で何程の事が出来るものではない、それを怒って女郎にするのなんのと云えば、それ程大切な女房なら、入込みの湯へよこさなければいゝというようなものだから、まア〳〵そんな事を云わないで堪忍してやっておくんなさい」

 浪「おい、何をいやアがるのだ、湯に遣そうが遣されめえがおめえの構った事じゃアねえ、生意気な事を云わねえで引込ひっこんでろい」

 文「ホイ〳〵堪忍しておくれ、わしが粗忽を云いました」

 浪「これさ、おめえなんだ生若なまわけえ身で耳抉みゝっくじりを一本差しゃアがって、太神楽だいかぐら見たようなざまをして生意気な事を云うねえおッちゃア青二せいだ、鳥なら雛児ひよっこだ、手前達てめえたちに指図を受けるものか、青い口喙くちばしでヒイ〳〵云うな、引込んでろい」

 文「はい〳〵悪い処は重々詫をしますが、大の男が板の間へ手をついて只管ひたすら詫をすれば御亭主の御立腹も解けましょうから幾重にも当人に成替なりかわって」

 浪「いけねえよ、愚図々々口をきかねえで引込みなせい」

 と云いながらズッと番頭を引立ひきたてに掛るから、

 文「あゝ待ちなさい〳〵、それでは是程云っても聞き入れませんかえ」

 浪「聴かれませんよ」

 文「いよ〳〵聴かれなければ此方こっちにも了簡りょうけんがある」

 浪「聴かなければどうする」

 文「聴入きゝいれなければ斯様かよう致す」

 と云いながら突然いきなりお浪のたぶさを取って引倒ひきたおし、拳骨げんこつを固めて二ツちましたが、七人力ある拳骨ですから二七十四人に打たれるようなもので、痛いのんのと申して、悪婆あくばのお浪も驚きました。なれども急所をけて打ちます。

 文「これ、われ不届ふとゞきものだ、手前の亭主はお構い者で、聞けば商人あきんどや豪家へ入り、強請ゆすりかたりをして衆人を苦しめると云う事はかねて聞いてったが、此の文治郎が本所にうち捨置すておく訳にはいかん、それに此の文治の事を青二才などと云おうようなき悪口あっこうを申したな、手前のような奴をかして置いては大勢の人の難儀になるから打殺ぶちころすのであるが、女の事ゆえ助けてやる、早くうちへ帰って亭主の國藏という奴に、おれは業平橋に居る浪島文治郎と云うものだから、たれたのを残念と思うならいつでも仕返しに来いときっと申せよ」

 と云いながらトーンと障子を明けて、表へ突き出したから、お浪は倒れて眼がくらみましたが、ようやくの事でうようにしてうちへ帰って、國藏に此の事を話そうと思うと、其の晩は帰りませんで、翌日の昼時分に帰って来まして、

 國「お浪今けえったよ、寝てえちゃアいけねえ、火も何も消えて居るじゃアねえか」

 浪「起きられやしねえよ、頭が割れそうだア」

 國「なんだ頭が割れそうだ、頭が痛けりゃア按摩あんまでも呼んでんで貰いねえナ」

 浪「拳骨げんこつで廿ばかりたれたよ」

 國「なに打たれて黙ってけえって来るような手前てめえじゃアねえじゃねえか、何奴どいつが打ったのだ」

 浪「夕べお前がけえって来たらばぐに仕返しけえしに行こうと思っていたが、いつでも杉の湯に来る奴が来たから、おめえに教わった通りにして、向うへ強請にこうと思うと、業平橋にいる文治と云う奴が来て、突然いきなりに私を打って、打殺して仕舞しまうんだが助けてやるからうちけえって亭主の國藏と云う奴に云って、いつでも仕返しけえしに来いと云って、人を蚰蜒げじ〳〵見たようにつまみ出しゃアがったよ、悔しくって〳〵仕様がねえから、仕返しに往っておくれよ」

 國「静かにしろい、業平文治と云う奴は黒い羽織を着ている奴だな、結構だ」

 浪「何が結構だ」

 國「寒さの取付とっつきに立派な人にたれて仕合せよ、悪い跡はいゝやい」

 と云いながら落着き払って出てきましたが、何処どこで買ったか膏薬こうやくを買って来まして、お浪の身体へベタ〳〵とたれもしない手や何かへも貼付け、四つ駕籠かご一挺いっちょう頼んで来て、襤褸ぼろの〓(「※」は「「褞」で「ころもへん」のかわりに「いとへん」をあてる」)どてらを着たなりで、これにお浪を乗せ業平文治の玄関へ参りまして、

 國「お頼み申します〳〵」

 男「オヽイ」

 と返事をして台所の方から来たのは、本所の番場で森松もりまつと云う賭博兇状持ばくちきょうじょうもちで、畳の上では生きていられないのが、文治の意見を聞いて改心して、今では文治の所にいる者です。

 森「だれだえ」

 國「えゝ浪島文治郎様のお宅はこちらですか」

 森「此方こちらだがおめえはなんだえ、〳〵」

 國「少し旦那にお目に懸ってお話し申したいことがあって来ました」

 森「生憎あいにく今日は旦那はいねえや、なんの用だか知らねえが日暮方にでも来ねえ」

 國「旦那がお留守なら御新造ごしんぞさんにでもお目に懸りたいもんです」

 森「御新造さんはねえや、おっかさんばかりだ」

 國「おふくろさんでも宜しゅうございます、へい、これは病人でございますから、おい〳〵ソーッと出ねえといけねえよ、骨が逆にねじれると不具かたわになって仕舞うよ」

 森「おい〳〵おらの処は医者様じゃアねえよ、これは浪島文治郎さんと云う人の宅だよ」

 國「そりゃア存じて居ります、おい若衆わけいしゅさんえってもいゝよ」

 と駕籠屋を帰し、お浪の手をとりまして、

 國「少し此処こゝへおおきなすっておくんなせえ」

 森「おい、少し待っていねえ、おふくろさんに話すから」

 と奥へ参り、

 森「申しおふくろさんえ、なんだか知れませんが膏薬だらけの女を連れて旦那にお目に懸りてえと云って来ましたから、旦那が留守だと云ったら、おふくろさんにお目に懸りたいと申しますが、うしましょう」

 母「此方こちらへお通し申せ〳〵」

 森「さア兄イ此方こっちへ来ねえ」

 國「えゝおはつうにお目に懸りました、わっちは下駄職國藏と申すものでごぜえやすが、お見知り置かれまして此の後とも御別懇に願います」

 母「はい、わたくしは文治郎の母でございますが、生憎今日は他出致しましたが、誠に年を取って居りますからせがれ余所よそ様でお交際つきあいを致しましたお方は一向存じませんから、おっしゃりおいて宜しい事ならどうか仰しゃりおきを願います」

 國「ちっとあなたのお耳へ入れては御心配でございましょうが、彼処あすこに寝て居りますのはわっちかゝあで、昨晩間違いが出来ましたと云うのは、湯の中でけつを撫でたとかお情所なさけどころうとかしたと云うので、亭主のある身でそんな真似をされちゃア亭主のめえへ済まねえと云って、其の男に掛合って居る処へ、此方こちらの旦那が来てわっちの嚊を拳骨げんこつで廿とか三十とかって、筋が抜けたとか骨が折れたとか、なアにサ、なんだかこんな事を申しやすと強請騙りにでも参った様に思召おぼしめすだろうが、そう云う訳ではありませんが、お恥しい話ですが、其の日〳〵に下駄を削って居ります身分ですから、わっちが看病をすれば仕事をする事が出来ねえ、仕事をする事が出来なけりゃア食う事が出来ねえが、此方こちらは御身分もありお宅も広うございやすから、どうかお台所の隅へでも女房を置いて重湯でも飲ましておいてくれゝば、わっちも膏薬の一貼ひとはりぐれえは買って来ますから、どうかお預りを願います」

 母「はい〳〵、それは誠にお気の毒様な訳で、さぞ御立腹な訳でございましょう、仮令たとえどのような事がありましても人様ひとさまの御家内を打擲ちょうちゃくするとはけしからん訳でございます、若年の折柄おりから人様に手を掛ける事が度々たび〳〵ありまして意見もしましたが、どうも性分でだ直りません、どのようにも御看病もしとうございますが、わたくしも寄る年で思うようにも御看病が届きませんと、御病人のかんが起りますものでございますから、お医者も此方こちらからお附け申しましょうし、看病人も附けましょう、又あなたがお仕事をお休みになれば日々どれだけのお手間料が取れますか知りませんが、お手間料だけはわたくしの方から」

 國「いえ〳〵飛んでもねえ事を仰しゃる、此方からお手当を戴き嚊をうちへ置いて看病をすると、わっちも堅気の職人ですから、そんな事が親方の耳へでもへえれば、手前てめえあすんでいて他から銭を貰う、飛んでもねえ奴だ、向後きょうこう稼業かぎょうを構うと云われては困ります、何も銭金をお貰い申しに参った訳ではありませんから、当期此方の台所だいどこの隅へ置いて下さい、五年掛るか十年掛るか知れませんが、どうかなおるまでおいておくんなせえ」

 母「御立腹でもございましょうが、そんな事を仰しゃらないでお手当は十分に致しますからお連れ帰りを願います」

 國「いえなに、銭金は入りません、医者もわっちが頼んで来ます」

 母「どうかそう仰しゃらないで」

 と只管ひたすら頼めど悪党の強請騙りをすることをもくさんと申して、安い金では中々云う事を聞きませんから、

 森「兄イ兄イ…おっかさん黙っておいでなさい…兄イじゃア話が出来ねえから台所へ往って話をしよう、おれは番場の森松と云う者で、悪い事は腹一杯いっぺえやって、今は此方の旦那のうち食客いそうろうだ、旦那は無闇に弱い女や人をつような方じゃアねえ、おめえとこ姐御あねごが何か悪い事をしたのだろうが、銭を貰っちゃア親方に済まねえと云うが、そんな事を幾ら云っても果てしはつかねえ、サックリ話をするから台所へ来ねえ」

 國「何もおめえさんに云うのじゃアありませんから手を引いておくんなせえ」

 森「手を引くも引かねえもねえや、己も番場の森松だ、おめえの帰りはのいゝようにしてるから云う事を聞きねえな、己も是れ迄そんな事は度々たび〳〵やった事があるんだナ」

 國「おい、おかしな事を云いなさるぜ、おめえさんはこんな事が度々ありましたか、わっちア骨の折れる程嚊をたれたのは初めだ、おめえさんは森松さんか何か知らねえが、お母様ふくろさんに願っているのにおめえさんのような事を云われると、わっちア了簡がちいせえからすくんで仕舞って、ピクーリ〳〵としてなんにも云えないよ」

 森「おい、大概たいげいにしねえな、そんな事をいつまで云ってもはてしが付かねえから、おいこう、まア台所へ来ねえって事よ」

 母「森松黙っていな」

 森「まアお待ちなさい、おまえさんは知らないのだから、おい兄イそんな事を云っても仕方がねえ、人間を打殺して下手人になっても人がへえれば内済ねえせいにしねえものでもねえから、おめえの方へ連れてけば話の付くようにするから台所へ来な」

 國「おい兄さん、人を擲殺たゝッころして内済ねえせいで済みますかえ、そりゃア済ます人もあるか知れませんが、わっちアいやだ、おっかねえ事を仰しゃるねえ、おふくろさん、こんな事を云われるとわっち臆病おくびょうものですからピクーリ〳〵としますよ」

 森「台所へ来いよ〳〵」

 と森松はれこんでいくらいっても動きません。其の筈で森松などから見ると三十段も上手うわての悪党でござりますから、長手の火鉢ひばちすみの所へ坐ったらてこでも動きません。ところへ業平文治が帰って来まして、

 文「森松を片付けろ」

 と云うから、森松は次の間の所へ駆出かけだして、

 森「あなたは大変な事をやりましたねえ」

 文「何を」

 森「杉の湯で國藏の嚊を打擲ぶんなぐりましたろう」

 文「来たか、昨夜ゆうべ打擲った」

 森「打擲ったもねえものだ、笑い事じゃごぜえやせん、彼奴あいつト通りの奴じゃアありませんから、襤褸褞袍ぼろどてらを女に着せて、膏薬を身体中へ貼り付けて来て、いごけねえから此方こっちうちへおいて重湯でもすゝらせてくれろと云って、中々手強てごわいことを云ってるから、四五両ではけえりませんぜ、四五十の金は取られますぜ」

 文「宜しい、心配するな」

 森「宜しいじゃありませんやね」

 文「おっかさんが御心配だろうな」

 森「お母さんは無闇に謝まってばかりいますから、なお付込みやアがるのさ」

 文「お母さんを此方こっちへお呼び申しな」

 と云うから小声で、

 森「お母さん〳〵、此方へ〳〵」

 と云って親指を出して知らせると、母も承知して次の間へ参りまして、

 母「お前飛んだ事をおしだねえ」

 文「あなたのお耳へ入れて誠に相済みません」

 母「済まないと云って無闇に人をつと云う法がありますか、先方様さきさまは素直に当家へ病人を引取って看病さえしてくれゝば宜しいと云うから、どうも仕方がないわな」

 文「彼奴あいつは悪い奴ですから只今わたくしが話をしてすぐに帰します、誠に相済みません、あなたはしばらくお居間の方へいらっしゃいまし」

 母「おや〳〵あれは悪党かえ」

 森「申し、お母さんは知らないのだがね、彼奴は悪党で、わっちが何か云うといやにせゝら笑やアがるから、小癪こしゃくにさわるからなぐり付けようと思いましたがね、今こゝで彼奴をつとウーンと云って顛倒ひっくりけえって仕舞うから、わっちこらえていたのです。お母さん心配しないで此方こっちへおいでなさい」

 と隠居所の方へ連れてきまして、

 森「もし旦那え彼奴あいつ打擲ぶんなぐると顛倒ひっくりかえるから、そうすると金高きんだかのぼりますよ」

 文「宜しい〳〵」

 と云って脇差わきざしを左の手へ提げて座敷へ入って参りまして、

 文「初めてお目に懸ります、わしは浪島文治郎と云う者です、只今母から聞きましたが、昨夜お前の御家内を打擲した処、今日其の御家内を連れて来て、此方こっちで看病をしてくれろとのお頼み、又母が連れ帰ってくだされば金子きんす何程なにほどでも差上げると云うと、お前は親分や友達に済まんと云えば、いつまでもお話は押付おっつかんが、った処は文治郎が重々悪いから、飽くまで詫びたならばお前も男の事だから勘弁するだろうね、勘弁してくれたら互に懇意になり、懇意ずくなら金を貸してもお前の恥にもわしの恥にもならないから、心が解けたら懇意になって懇意ずくでお内儀かみさんの手当となしに金を五十両やるからそれで帰って下さいな」

 國「へゝ、こりゃアどうも、もし旦那え、おめえさんのようにサックリと話をされちゃア何も云えない、と申すのは、貴方あなたのような立派な方がわっちのようなものに謝まると仰しゃれば、宜しいと云わなければなりません、そうなれば懇意ずくで金を貸せば恥になるめえから五十両やると云う、実に何とも申そうようはござえません、実はお母さんのお耳へ入れまいと思ったが、つい貧乏に暮していますから苦しまぎれに申上げたのでございます、それではどうか五十両拝借したいものでございます」

 文「五十両でいゝかえ」

 國「宜しゅうございます〳〵」

 と云うと文治は座を正して大声たいせいに、

 文「黙れ悪人、其のほうは此の文治を欺き五十両強請ろうとして参ったか、其の方は市中おかまいの身の上で肩書のある悪人でありながら、夫婦づれにて此の近傍かいわいの堅気の商家あきんどへ立入り、強請騙りをして人を悩ます奴、何処どこぞで逢ったらこらしてくれんと思っていた処、幸い昨夜其の方の女房に出会いしにより打殺そうと思ったが、お浪を助けて帰したは手前を此のうちに引出さん為であるぞ、其のわなへ入って能くノメ〳〵と文治郎の宅へ来たな、さア五十両の金を騙り取ろうなどとは申そうようなき大悪人、かく申さば立処たちどころひねり潰して仕舞うぞ」

 とって変った文治郎の権幕けんまくは、肝に響いて、流石さすがの國藏もびっくり致しましたが、

 國「もし旦那え、それじゃア、からどうも弱い者いじめじゃアありませんか、わっちの方で金をくれろと云ったわけじゃアありません、おめえさんの方で懇意ずくになって金を貸すと云うから借りようと云うのだが、又亭主に無沙汰ぶさたで人の女房をって済みますかえ、其の上わっちを打殺すと云やア面白い、さアお打ちなせえ、わっちも國藏だア、打殺すと云うならお殺しなせえ」

 文「不届き至極な奴だ」

 と云いながら、突然いきなり國藏のむなぐらを取って、奥座敷の小間へ引摺り込みましたが、此の跡はどう相成りましょうか、明晩申し上げます。


  二


 男達おとこだてと云うものは寛永かんえい年間の頃から貞享ていきょう元禄げんろくあたりまではチラ〳〵ありました。それに町奴まちやっことか云いまして幡隨院長兵衞ばんずいいんちょうべえ、又は花川戸はなかわど戸澤助六とざわすけろくゆめ市郎兵衞いちろべえ唐犬權兵衞とうけんごんべえなどと云う者がありまして、其の町内々々を持って居て、喧嘩けんかがあればすぐに出て裁判を致し、非常の時には出て人を助けるようなものがございましたが、安永年間には左様なものはございません。引続きお話申します業平文治は町奴親分と云うのではありません、浪人で田地でんじも多く持って居りますから活計くらしに困りませんで、人を助けるのが極く好きです。もっとも仁を為せば富まず、富を為せば仁ならずと云って、慈悲も施し身代しんだいも善くするというは中々むずかしいことでありますが、文治は身代もよく、人も助け、其の上老母へ孝行を尽します。兎角とかく男達に孝子と云うはまれなもので、成程男達では親孝行は出来ないだろう、自分の身をすてても人を助けるというのであるから、親に対しては不孝になるだろうと仰しゃった方がありましたが、文治は人に頼まれる時は白刃しらはの中へも飛び込んで双方をなだめ、黒白こくびゃくを付けて穏便おんびんはからいを致しまする勇気のある者ですが、母に心配をさせぬため喧嘩のけの字も申しませず、孝行を尽して優しくする処は娘子むすめっこの岡惚れをするような美男でございますが、いかると鬼をもひしぐという剛勇で、突然いきなりまかなの國藏の胸ぐらをとりまして奥の小間に引摺り込み、ふすまをピッタリとって國藏の胸ぐらを逆にねじって動かさず、

 文「やい國藏、われは不届な奴である、これく承われ、手前てめえも見た処は立派な男で、今盛りの年頃でありながら、心得違いをいたし、人の物をむさぼり取り、強請騙りをして道に背き、それで良いものと思うか、かみの御法を破り兇状を持つ身の上なれば此の土地へ立廻る事はなるまい、しかるに此の界隈で悪い事を働き、官の目に留れば重き処刑になる奴だにって、官の手を待たずして此の文治郎が立所たちどころ打殺うちころすが、われは親兄弟もあるだろうが、これ手前てまえ親達おやたちは左様な悪人に産み付けはせまい、どうか良い心掛けにしたい、善人にしたいと丹誠たんせいして育てたろうが、わりゃア何か親はないかえ、われは天下の御法を破り、強請騙りを致すのをよも善い事とは心得まいがな、手前のような奴は、何を申し聞かせても馬の耳に念仏同様でやくに立たんから、死んで生れ替って今度は善人に成れ、われは下駄屋職人だそうだが、下駄を削って生計くらしを立てゝも其の日〳〵に困り、どうか旦那食えないから助けて下さいと云っておれの処へ来れば米の一俵位は恵んでやる、しかるを五十両強請ゆすろうなどとは虫よりも悪い奴である、われの親に成代なりかわって意見をするから左様心得ろ、人間の形をしている手前だから親が腹を立てゝつ事があろう、其の代りに折檻せっかんしてやる」

 と云いながら拳骨を固め急所をけてコーンとちました。

 國「あゝいたた」

 文「さア改心しなければ立所に打殺ぶちころすぞ、どうだ」

 國「どうか助けて下さいまし」

 文「イヽヤ元より殺そうと思うのだから助けはせん、手前も命を賭けて悪事をするのじゃアないか、畳の上で殺すのは慈悲を以てするのだ」

 と云いながら又胸ぐらを締上げたから、

 國「ア痛た〳〵、改心致しやすから助けて下せえ、改心します〳〵」

 文「弱い奴だなア、改心するなどと申して此の場を逃延にげのびて、又候またぞろ性懲しょうこりもなく悪事をした事が文治郎の耳に入れば助ける奴でない、天命と思って死ね」

 國「ア痛た〳〵、そう締めると死んで仕舞います、屹度きっと改心しますから何卒どうぞ放して下せえ〳〵」

 文「屹度改心致すか、改心致せ」

 と云って突放つきはなされた時は身体が痺れて文治の顔を呆気に取られ暫く見て居りましたが、

 國「旦那え〳〵おめえさんは噂にゃア聞いて居りやしたが、きついお方ですねえ、滅法な力だ、わっちも旧悪のある國藏で、お奉行ぶぎょうがどんな御理解を仰しゃろうと、ほうきじりで破綻ひゞだけのいるほどたれても恐れる人間じゃアねえが、おめえさんの拳骨で親に代ってつと云う真実な意見のうちに、手前てめえは虫よりも悪い奴だ、又堅気の下駄屋で稼いでいて足りねえと云えば米の一俵ぐれえは恵んでやると云う言葉が嘘で云えねえ言葉だ、成程そう云われて見れば虫より悪い事をしやした、旦那え、実アわっちア寒さの取付とっつきで困るから嚊をだしに二三両強請ろうと思って来たんだが、おめえさんの拳骨で打たれた時は身体が痺れて口も何も利けなくなったが、妙な所を打つんだねえ、どうも変に痛いねえ、旦那え、屹度これから改心して國藏が畳の上で死なれるようになった時にゃア旦那へ意趣返しのしようはねえが、わっちが改心した上で鼻の曲ったしゃけでも持って来たらば、おめえさんもちっとア胆魂きもったまが痛かろうと思うが、其の時はなんと仰しゃいますえ」

 文「これは面白い事を云う、其の時は無闇に人を打擲して済むものでないから、文治が土間へ手を付いて重々悪かったと云って屹度謝ろうが、善人になってくれるか」

 國「そりゃア屹度善人になりやす」

 文「大悪だいあくのものが改心すればかえって善人になると云うから屹度善人になってくれ、しか手前てまえが善人になると云っても借金があって法が付くまい、こゝに廿両あるからこれで借金の目鼻を付けた上で、稼いでも足りぬ時は手前をった印に生涯しょうがいでも恵んでやるから、これを持って往って稼げ」

 國「旦那それじゃア此の金をわっちにくれますかえ、えらいなア、どうも驚いた、わっちにくんでったのだから、大抵の者ならくれた処が五両か七両、それを廿両るから善人になれと云うおめえさんの気象に惚れた、これから屹度改心して仕事を致します」

 文「能く云ってくれた、いては手前に能く申し聞けて置く事があるが、悪人と云うものは、善人になると口で云って、其の金を持って往って、博奕場ばくちばへでも引掛ひっかゝり、遣果つかいはたして元の國藏のように悪事をすれば文治は許さぬぞ、うっかり持ってくな、香奠こうでんにやるのだ、手前の命の手付にやるのだからそう心得ろ」

 國「おっかねえ、死んでも忘れません、向後きょうこう悪事はふッつりと」

 と横に首をふり、「あゝ痛い〳〵首を振りゃア頭へ響けて痛いねえ、お浪や〳〵こけへ来て旦那様へお礼を申せ」と云ったが、どうしてお浪は國藏のたれるのを見て、とっくに跣足はだし逃出にげだして仕舞って居りませんから、國藏は文治に厚く礼を述べて立帰たちかえりましたが、此の國藏が文治の云う事を真に感じ、改心致して、後に文治の為に命を惜まず身代りに立つのでございます。これは九月の三日の事で、これから十二月の三日のの事でございます。文治が助けた田舎の人が、江戸へ来て文治に馳走をすると云うので浅草辺で馳走になって帰る途中、チラリ〳〵と雪が降出ふりだしましたから、かさを借り、番場の森松と云う者が番傘を引担ひっかついで供をして来ますと、雪は追々積って来ました。

 文「大層降って来たなア」

 森「大層降り出して来ましたねえ」

 文「一面の銀世界だなア」

 森「へい、銀が降って来ましたか」

 文「なアに景色けしきだと云う事よ」

 森「雪が降りますと貧乏人は難渋しますなア」

 文「だがのう、雪は豊年のみつぎと云って、雪の沢山降る年は必ず豊年だそうだ」

 森「へー法印様がどうしますとえ」

 文「なアに雪が降ると麦作が当るとよ」

 森「八朔はっさくに荒れがないと米がとれやすとねー、どう云う訳でしょうなア、雨が氷っているのを天でちっとずつ削り落すのかね」

 文「馬鹿云え、くだあめじゃアあるまいし、これは天地積陰せきいん温かなる時は雨ふり寒なる時は雪と成る、陰陽こって雪となるものだわ、それに草木の花は五片ごひら雪の花は六片むひらだからむつの花というわさ」

 森「なんだかむずかしくって分らねえが、今日の客は気の利かねえ奴だ、けえる時に大きい物でグーッと飲ませればいゝに、小さいもので飲ませたから直ぐ醒めて仕舞って仕様がありゃアしねえ、あれだから田舎者は嫌いだ」

 文「これ、人の御馳走になっていながら悪口あっこうを云ってはいかんよ」

 森「成程こいつアわるかった、時々失策しくじりますなア」

 と話をしながら天神の所まで来ますと、手拭をかぶって女が往ったり来たりしているから、

 文「森松や、彼処あすこに女が居るようだなア」

 森「へー雪女郎ゆきじょうろじゃアありませんかえ」

 文「なアに雪女郎は深山しんざん雪中せっちゅうで、まれに女のかおをあらわすは雪の精なるよしだが、あれは天神様へお百度でも上げているのだろう」

 森「それじゃア大方縁遠いのでしょう」

 文「何故え」

 森「寝小便か何かして縁付く事が出来ないから、それでお百度を上げているんでしょう」

 と云ううちにプーッと垣際へと吹雪吹き付けますると、の娘は凍えたと見えまして、差込んで来るしゃくに、ウーンと云って胸を押えて、天神様のへいの所へ倒れましたから、

 文「あれ〳〵女が倒れたな」

 森「うっかり側へ往って尻尾しっぽでも出すといけませんぜ」

 文「おゝ是は冷えたと見えて、可愛そうに、何所どこぞへ往って温ためてやればいゝだろう、手前の傘をつぼめておれの傘を差掛けろ、の女を抱いて往ってやろう」

 森「お止しなさい、掛合かゝりあいにでもなるといけませんぜ」

 文「なアに捨置く訳にはいかん」

 と云って力は七人力あるから軽々と其の娘を抱いて立花屋たちばなやと云う小料理屋へ来ました。

 文「森松や、起して呉れ」

 と云うからトン〳〵トン〳〵と戸を叩き、

 森「おい立花屋さん起きねえか〳〵オイ〳〵」

 文「これ〳〵そんなに粗末に云うなよ」

 森「粗末たって起すんでさア、オイ〳〵火事だ〳〵」

 料「はい〳〵〳〵」

 とばかり云って居ります。

 森「ちょうど馬を追っているようだ」

 料「何方どなたか知りませんがねえ、此の雪でお肴がありませんから、どうか明日みょうにちになすって下さい」

 文「私だよ、業平橋の文治郎だア」

 亭「はい〳〵明けますよ、これ婆さん、旦那様だよ、これサ寝惚けちゃアいけねえぜ、行燈あんどんを提げてぐる〳〵廻っちゃアいけねえって事よ」

 と云いながら戸を開けて、

 亭「おー大層降りましたなア」

 文「余程よっぽど積った」

 と云うのを見ると女を抱いて来ましたが、平常ふだん堅い文治の事だから変だと思ったが、

 亭「へゝゝゝゝ御心配はありませんから、奥の六畳は伊勢屋いせやの蔵の側で彼処あすこは誰にも知れませんから彼処にしましょう」

 森「フム何を云うのだ、いま女が雪の中へ顛倒ひっくりけえっていたのを、旦那が可愛そうだと云って連れて来たのだ、出合いじゃアねえぜ」

 亭「左様ですか、それじゃアさア〳〵此方こっちへ〳〵」

 と間の悪そうな顔をして座敷へ案内を致しまして、これから娘の介抱致すと、元より凍えたのですから我に返って目を開き、側を見ると燈火あかりいて、見馴れぬ人計りいるから、びっくりしてキョト〳〵して居りますのを文治が見ると、年齢としごろ十六七で、目元に愛敬のある色の白い別嬪べっぴんですが、髪などは先々月の六日にったまゝで、それも髪結かみゆいさんが結ったのではない、自分でもちのよいように結ったのへごみが付いた上をコテ〳〵と油を付け、撫付なでつけたのが又こわれましたからびんの毛が顔にかゝり、湯にも入らぬと見えて襟垢えりあかだらけで、素袷すあわせ一つにむすびっ玉の幾つもある細帯に、焼穴やけあなだらけの前掛を締めて、きたないともなんとも云いようのない姿なりだが、生れ付の品と愛敬があって見惚みとれるような女です。

 文「い女だのう」

 森「なぜ此のくれえな顔を持っていて、穢ない姿なりをしているでしょう、二つきしばりぐれえめかけにでも出たらばさそうなものですなア」

 文「姉さん心配しちゃアいけません、は立花屋と云う料理屋で、わしはつい此の近辺の者で浪島文治郎と云う者だが、お前が天神様の前に雪に悩んで倒れている所へ通り掛って、お助け申して来て、介抱したしるしがあって漸々よう〳〵気がついてわしも悦ばしゅうございますが、決して心配をなさいますなよ」

 森「おい姉さん、本当に旦那が介抱してやったのだから、有難いと云って礼を云いな」

 文「なぜそんな事を云うのだ、恩にかけるものじゃないわサ、もしお前さんは何処どこのお方だえ」

 と問われて娘は「はい」とはずかしそうに顔を上げて、

 娘「わたくしは本所松倉町まつくらちょう二丁目に居ります者でございます」

 文「お前さんは此の雪の中を何の願掛がんがけくのだえ、よく〳〵の事だろうね」

 森「姉さんなんで願掛をするんだえ、縁遠いのかえ」

 文「黙っていろよ……してどう云う訳か知らないが夜中に娘一人でう云う所へ来るのは宜しくないよ」

 娘「はい、親父おやじが長々の眼病で居りまして、お医者様にもて貰いましたが、とても療治は届かないと申されましたから、めて片方かた〳〵だけでも見えるように致したいと思って御無理な願いを天神様へ致しました、それ故に寒三十日の間、毎晩お百度に参りますのでございます」

 文「へー感心な事だねえ、さぞ御心配だろうね……それ見ろ森松、おとっさんがお眼が悪いのだって、感心じゃアないか」

 森「眼の悪いのなら多田たゞの薬師がかろうに、天神様が眼に利きますかえ」

 文「姉さん、お前さんが斯うしてお百度に出なさる間お父さんの看病は誰がしますか、おっかさんでもありますかえ」

 娘「いゝえ親一人子一人でございます、長い間の病気で薬代や何かの為に何もかも売り尽しまして、只今では雇人も置かれません故、親父をねかしつけておいて一人で参ります」

 文「それじゃ一人のお父さんを寝かしてお前一人で此処こゝへ来るのかえ、そりゃア孝行がかえって不孝になる、お前の留守にどんな非常の事があるまいものでもない、し其の裏から火事でも出たらどうするえ、中々お前が余所よそから駈付けても間にあうまい、其の時お長屋のかたわが荷物は捨置き、お前のお父さんを助け出す人はなかろう、混雑の中だからどんな怪我がないものでもない、さすれば却って不孝になりますよ、神仏かみほとけと云うものはうちにいて拝んでも利益りやくのあるものだから、夜中に来てお百度を踏むのは止したほうがよろしい、だそればかりじゃアない、お前さんのような容貌みめよい女中が、深夜にあんな所に居て、悪者にはずかしめられたらどうするえ、又先刻さっきのように雪に悩んで倒れていて誰も人が来なかったらどうするえ、それ故どうかお百度に出るだけは止して下さい、信心ばかりで親父おとっさんの眼は治らん、名医にかけて薬をませなければならんから、薬を服まして信心をするが宜しい、何処どこのお医者に診て貰ったえ」

 娘「はい、荒井町あらいまち秋田穗庵あきたすいあんさんと云うお医者様に診て戴きましたが、真珠の入る薬を付ければ治るけれども、それは高いお薬で貧乏人には前金ぜんきんでなければられないと仰しゃいましたけれど、四十金もなければなりませんそうでございます」

 文「フム、それでは四十金で必ず治ると医者が受合いましたかえ、それじゃアこゝに四十金持合せがありますから、これをお前さんに上げましょう」

 森「旦那、何をするのです、およしなせえ、おまえさんは知らないが斯う云うものには贋物にせものが多い、貧乏人の子供が表に泣いていて、親父ちゃんもおかあもいない、腹がへっていけねえと云ってワーッと泣くから、可愛そうだと思って百もやると材木の間に親爺おやじが隠れていて、此方こっちへ来い〳〵と云って、又人が来ればワーッと泣き出す奴があります、又びっこだと思った乞食こじきが雨が降って来ると下駄を持って駈出かけだしやす、世間にはいくらもある手だから、これも矢張やっぱり其の伝でしょう、お止しなせえ〳〵」

 文「まア宜しい、黙っていろ、姉さん爰に四十金あるからこれをお前に上げましょう、其の代りお百度に出る事はお止め申すよ」

 娘「はい、どう致しまして、見ず知らずの方に四十金と云う大金を戴く事は出来ません」

 亭「折角せっかくだから戴いてきな、これは業平橋にお住居すまいなさる文治様と云う旦那だよ」

 娘「有り難うございますが、親父が物堅うございますから、仮令たとえ手拭一筋でも人様からいわれなく物を戴いて参るとすぐに持って往って返えせと申しますくらいでございますから、金子などを持ってけば立腹致してわたくしを手打にすると申すかも知れません、戴きたい事は山々でございますが、わたくしが持って帰ってはとても受けませんから、お慈悲ついでに恐れ入りますが、貴方が持って往ってじかに親父にお渡し下されば親子の者が助かります、眼さえ治ればすぐにお返し申しますから何卒どうぞそう為すって下さいまし」

 文「はい〳〵これはお前さんに遣るのは悪るかった」

 森「これは真物ほんものですなア、贋物ならすぐに持ってくのだが、こりゃア真物だ」

 文「姉さんお前は何処どこだえ」

 娘「はい、松倉町二丁目でございます」

 文「それは聞いたがお前のうちは松倉町のの辺だえ」

 娘「はい、葛西屋かさいやと云う蝋燭屋ろうそくやの裏でございます」

 森「フム、けちな蝋燭屋だ」

 文「お父さんは何をしておいでだえ」

 娘「筆耕書ひっこうかきでございます」

 森「なんだとシッポコかきだとえ」

 文「なアに版下はんしたを書くんだ、お父さんの御尊名は何と仰しゃいますえ」

 娘「はい小野庄左衞門おのしょうざえもんと申します」

 文「何処どちらの御藩中ですか」

 娘「中川山城守なかがわやましろのかみの藩中でございます」

 文「士気質さむらいかたぎではうっかりお受取うけとりなさいますまいから、明日みょうにち私が持って往って上げましょう、気を付けてお帰んなさいよ」

 娘「有難うございます、左様なら」

 文「此処にお茶受に出たお菓子があるから持っておいで、あれさ、食物たべものは宜しい」

 と紙へ沢山包んで、

 文「さアお持ちなさい」

 と出された時は孝行な娘だから親に旨い物を食べさせたいが、窮して居りますから何一つ買って食べさせられないから、

 娘「有難うございます」

 と云って手に取って貰う時に、始めて文治の顔を見ますと、美男の聞えある業平文治でござります、ことに見ず知らずの者に四十金恵んで下さるとは何たる慈悲深い人だろうと、我を忘れて惚れ〴〵と見惚みとれて居りまして、思わず知らず菓子の包みをバタリッと下に落しました。

 森「ねえさん落しちゃアいけねえぜ、折角お呉れなすッたのだから」

 娘「はい」

 と云って羞かしいから真赤になって立上るを、

 文「姉さん、帰るんならどうせ通道とおりみちだから送って上げよう、大きに御厄介ごやっかいになりました、明日あした来て奉公人や何かへわびをしましょう」

 亭「どう致しまして、明日みょうにちまたお母様っかさまへお肴を上げますから」

 文、森「左様なら」

 と娘と連れ立って松倉町のかどまで来ました。

 娘「有難うございます」

 文「それでは明日あしたきますよ」

 娘「有り難うございます〳〵」

 と云って幾度も跡を振り返って見ますのは、礼が云いたいばかりではない、文治の顔が見たいからでございます。

 娘「有り難うございます〳〵」

 と云いながら曲り角などはグル〳〵廻りながら礼を云いますから、

 森「旦那い女ですなア」

 文「貴様は女の美いのばかりめているが、顔色容貌かおかたちばかりではない、親に孝行をすると云う心掛がいなア」

 森「そうですなア、心がけがいゝねえ」

 文「どうも屋敷育ちは違うなア」

 森「屋敷育ちは違いますなア」

 文「金も受けない所がえらい」

 森「金を受けないところがえらい」

 文「感心だ」

 森「感心だ」

 文「同じ事ばかり云うな」

 と話をしながら橋を渡って来ると、向うから前橋まえばし竪町たつまち商人あきんどが江戸へ商用で出て来て、其の晩亀戸かめいど巴屋ともえやで友達と一緒に一杯飲んで、おりを下げていたが酔っているから振り落して仕舞って、九五縄くごなわばかり提げ、相合傘あい〳〵がさよろけながら雪道の踏堅めた所ばかり歩いて来ますが、ヒョロリ〳〵として彼方あっちへ寄ったり此方こっちへ寄ったり、ちょうど橋詰まで来ると、此方から参ったのは剣術つかいのお弟子と見えてやっこじゃの傘をさして来ましたが、其の頃町人と見るとひどい目に合わせます者で、

 士「さアけ〳〵素町人すちょうにん除け」

 と云うから見るとさむらいだから慌てゝけようと思うと、除けるはずみにヒョロ〳〵ところがります途端に、下駄の歯で雪と泥を蹴上はねあげますと、前の剣術遣いのえりの中へ雪の塊が飛込みましたから、

 士「あゝ冷たい、なんたる奴だ、あゝ冷たい〳〵、これ町人倒れたぎりで詫を致さんな、無礼至極な奴だ、なんと心得る、返答致せ」

 と云われようやく頭を挙げて向うを見てもドロンケンだから分りません。

 商「誠に大変酔いまして、エーなんとも重々恐れ入りやした、田舎者で始めて江戸へめえりやして、亀井戸へ参詣して巴屋で一ぺい傾けやした処が、料理がいので飲過ぎて大酩酊おおめいていを致し、足元のさだまらぬ処から無礼を致しやして申し訳がありやせん、どうか御勘弁を願いやす」

 士「なんだ言訳に事を欠いて巴屋でやり過ぎたとはなんだ」

 商「とやり過ぎやした、どうも巴屋はなか〳〵旨く食わせやすなア」

 士「言訳をするのに巴屋はなか〳〵旨く食わせるなどとは不埓ふらち申分もうしぶん、やい其処そこに転がっているのは供か連れかなんだ」

 商「ヒエイ」

 と頭は上げましたが舌が少しも廻りません。

 商「エーイ主人がね此方こっひえようとすう、てもえ此方ほっひけようとする時にほろがりまして、主人の頭とうわしの頭とぼつかりました処が、石頭ゆいあさまいさかった事、アハアしべてえや」

 士「こんな奴はしょうのつくように打切ぶったぎった方が宜しい、雪へ紅葉もみじを散してやりましょう」

 士「それが宜しい、遣って仕舞いましょう」

 と云う声を聞いて両人ふたりとも真青になって、雪の中へ頭を摺り付け、

 商「何卒どうぞ御勘弁なすって下さいまし〳〵」

 士「勘弁はならん、切って仕舞う」

 と云うのを文治が塀のところで見て居りましたが、

 文「森松悪い奴だのう」

 森「なんです、雪の中へ紅葉とは何の事です」

 文「の二人を切ると云うからおれ鳥渡ちょっと詫びてやろう」

 森「お止しなさい〳〵」

 文「どうも見れば捨置く訳にはいかんから」

 と織色おりいろ頭巾ずきんお深くかぶって目ばかり出してさむらいの中へ入り、

 文「えー御両所、此の者どもは二人共酔って居りますから、どうかゆるしてやって下さい、そんなに人を無闇に切るものでは有りません」

 士「貴公はなんだ、捨ておけ、武士に向って不礼ぶれい至極、手打に致すは当然あたりまえだわ、それとも貴公は此の町人のつれか」

 文「いゝえ通り掛りの者ですが、此の者どもを切るのは人参にんじんや大根を切るよりやすいではござらぬか、夜中やちゅう帯刀して此の市中を歩いて、無闇に刀を抜いて人を切るなどと云う事を仰しゃれば、先生のお名前にもかゝわりましょうから、サッサとお宅へお帰んなさい」

 士「無礼至極、不届至極な事を云う奴だ」

 文「何が不届です、斯様かような弱い奴を切るのは犬を切るのも同じ事でござる、さむらいと云う者は弱い者を助けるのが真の武士、お前さん方は犬でも切って歩きそうな顔付だ」

 士「最前から聞いて居れば手前は余程よっぽど付け上ってるな、此の町人はいわれなく切るのではない、余り無礼だにって向後きょうこういましめの為切捨きりすてるのだ、しかるに手前は仲人ちゅうにんのくせに頭巾を被ってるとは失礼な奴だ、頭巾を取れ」

 文「お前さんが頭巾を取って宜しかろう、仲人がきたらば其方そっちから頭巾を取って斯様々々な訳で有るからと話をすれば、仲人も頭巾を取るが、喧嘩の当人の方で被っているから仲人の方でも被っているのは当然あたりまえだ」

 士「不届至極な奴だ、素町人を切るより此奴こやつを切ろう」

 士「それが宜しい」

 文「これは面白い、わしを代りに切って此の両人を助けて呉れゝば切られましょう、さア〳〵田舎のお方、早くきなさい〳〵」

 と云うと生酔なまよいも酔が覚め、腰が抜けてげる事が出来ませんで、いながら板塀の側にふるえておりますと、剣術遣いはジリ〳〵ッと詰寄って参ったから、文治は油断をしませんでプツリッと長脇差の鯉口こいぐちを切って、

 文「さア代りに切られますが、今の両人と違って切るのはちっとお骨が折れましょう、手が二本足が二本あって動きますから気を付けて切らんと貴方あなたの方の首が落ちましょう」

 士「やア此奴こいつ悪々にく〳〵しい奴だ、此方こっちで切ろうとも云わないに切られようとする馬鹿な奴だなア」

 文「さア切れる腕があるなら切って見ろ」

 士「さア切るぞ」

 との士が大刀の〓(「※」は「てへん+丙」)へ手を掛けて詰め寄りますから、文治は半身はんしんさがって身構えを致しましたが、一寸ちょっとと息きましてすぐあとを申し上げます。


  三


 浪島文治が本所ほんじょう業平橋に居りましたゆえに人綽名あだなして業平文治と申しましたとも云い、又男がいから業平文治と申したとも仰しゃる方があります。もっとも業平朝臣あそんと云うお方は美男と見えまして、男の好いのは業平のようだといい女で器量の好いのを小町こまちのようだと申しますが、業平朝臣は東国あずまへお下りあって、しばらく本所業平村に居りまして、業平橋の名もそれゆえに起りましたそうでございますが、都へお帰りの時船がくつがえって溺死できしされましたにより、里人さとびとあわれと思って業平村につかを建てゝ祭りました、それゆえに前には船の形を致しました石塚でありましたそうで、其の頃は毎月まいげつ廿五日は御縁日で大分だいぶにぎわいました由にございます。其の天神前で文治は計らずも助けました娘は、親父おやじが眼病ゆえ毎夜親の寝付くを待ってうちを抜け出して来て、天神様へ心願を掛けましたと云う事を聞いて、文治が不憫ふびんと思って四十両の金をりましたけれども、娘は堅いからとんと受けませんで、親父に手渡しにしてくれと云うから、文治も感心し、介抱して松倉町の角まで送って来ると、ぜん申しました剣術遣いの内弟子でございましょう、荒々しいさむらいが無法にも商人あきんどを斬ろうとする所ですから、文治が中へ入ってやわらかに詫をすると、付けあがり、容赦はしない、ち斬って仕舞うと云いながら長柄ながつかへ手を掛けたから、文治もプツリッと親指で鯉口を切り、一方かた〳〵の手には蛇の目の傘を持ち、高足駄たかあしだ穿いた儘両人の中へ割込むと、

 士「此奴こやつ中々出来そうな奴だ」

 と云いながら刀を抜うとする処を、文治が蛇の目の傘を以て一人のひざを打ちますと、前へドーンと倒れるのを見て、一人の士は真向まっこう上段に一刀を振りかざして、今打ちおろそうとする奴を突然いきなり傘の轆轤ろくろで眼と鼻の間へ突きをいれまして、倒れる処を其の者の抜きました長物ながもの刀背打むねうちに二ツ三ツちましたが、七人力ある人にぶたれたのですからたまりません、

 士「まえった、御免をこうむる、酩酊たべよっしからん訳でござる、お詫を致す、おゆるし下さい」

 文「お前さん方は長い物をさして、人をおびやかすのは宜しくありません、お師匠様の御名儀にもかゝわります、以後たしなまっしゃい」

 士「恐れ入ります」

 と云いながら刀を拾って逃出にげだしましたから、

 文「そんな鈍刀なまくらでは人は斬れません」

 と笑いながら文治は跡を見送って、

 文「只今のお方は何処どちらにおいでなさるな」

 商「へーこれに居ります、貴方あんたの御尊名はなんと仰しゃいますか、手前は上州じょうしゅう前橋竪町たつまち松屋新兵衞まつやしんべえと申しますが、貴方の今の働きは鎮守様かと思いやした」

 文「いや〳〵名なんどを名告なのるような者ではありません、無禄むろく無官の浪人で業平橋にる波島文治郎と申すものでございます」

 商「明日みょうにち早速お礼に参りますから」

 文「いゝえたくへ来てはいけません、私が喧嘩の中へ入ったなどと云う事を母が聞きますと心配致しますから、おいでは御無用です、貴方あなた御旅宿ごりょしゅく何処どちらでございますえ」

 商「はい、山の宿しゅく山形屋やまがたやに泊って居ります」

 文「左様なら明日ついでがあれば私の方からお尋ね申します」

 と云い棄てゝ文治は森松を連れて帰りましたが、母には喧嘩のけの字も申しません。翌日は雪の明日あしたで暖かな日ですから、昨夜の女に四十金恵もうと、本所松倉町の裏家住居うらやずまい小野庄左衞門の宅へ尋ねて参りました。此の庄左衞門はと中川山城守の家来で、二百石取りましたものでございますが、仔細あって浪人致し、眼病をわずらい、一人の娘が看病をして居りますが、娘は孝行で、寒いのに素袷すあわせ一枚で、寒さもいとわずき掃除をして居りますと、つえいて小野庄左衞門が門口から、

 庄「今帰って来たよ」

 町「おやお父様とっさま、お帰り遊ばせ」

 庄「雪の翌日あしたで大きにしのいのう」

 町「はい、今日こんにちはお外でもお暖かでございましょう」

 庄「あゝ医者が外へ出るのはくないと云うからうちにいてお茶でも入れようかな」

 町「あの、生憎あいにくお茶が切れました」

 庄「茶を買ったら宜かろう」

 町「はい、生憎お鳥目ちょうもくが切れました」

 庄「いやそれは困りました、屑屋くずやでも来たら何か払っておいたら宜かろう」

 町「さア払う物もございません、それにお天気都合が悪いので二三日参りませんから、せんのお鳥目が切れましたから、お茶を買いますお鳥目がございません」

 庄「紙屑買などが来ないと貧乏人は困るなア、おれ細字さいじは書けないが大字だいじなら書けるから少しでも見えるようになればよいのう」

 町「お父さまは少しお見え遊ばすときお外出そとでをなすっていけませんから、いっそお見え遊ばさない方が宜しゅうございます」

 庄「何故なぜえ」

 町「先達せんだっても少しお見え遊ばすと云って、つい其処そこまでおいでなさると仰しゃいますから、わたくしそっとお跡をけて参りますと、知れない横町からお頭巾をお被り遊ばし、たもとから笛をお出し遊ばして、導引揉療治どういんもみりょうじと仰しゃってお歩き遊ばしましたから、わたくしびっくりしてうちへ帰り、お父さまが人の足腰を揉んでもわたくしに苦労をさせないように遊ばして下さる其の御膳ごぜんを戴いて食べるのは実に勿体ない事だと思って、あの時は御膳がとげのようにのどへたって戴けませんでした、わたくしが男ならお父様にあんな真似はさせませんが、悔しい事には女でございますから、お父様のお手助けも出来ず、誠に不孝でございますと思って泣いてばっかり居りました」

 庄「あゝもう〳〵そんなことを云うな、中々わしの方がお前に気の毒だ、用がないからそんな真似をするのだから悪く思って呉れるな、わしも屋敷に居れば手前にも不自由はさせず、好きなかんざしを買ってやられるが、わしが重役と中の悪い処から此の様に浪人致し、お前は何も知らない身分で、住み馴れぬ裏家住居、わし内証ないしょう肌着はだぎまでも売ったようだが、腹のった顔も見せず、孝行を尽して呉れるに、なんたる因果のことか、此の貧乏の中へ眼病とは実に神仏かみほとけにも見放されたことかと、たゞわしの困る事よりお前に気の毒でならない」

 町「あゝお父様勿体ないことを仰しゃって下さいますな」

 庄「まア〳〵そんなことを云うな、清貧と云って清らかな貧乏は宜しいが、けがれた金をもって金持と云われても詰らん、あゝ清貧と云えば昨夜天神の前でお前が癪の起った時、御介抱なすって下すった御仁は御親切な方だなア」

 町「お父様、其のお方は実に御親切な方でございます、業平橋にらっしゃる文治郎様と仰しゃいます方だそうですが、わたくしがお父様の御眼病の事をお話し申しました処が、そういう訳ならこれを持ってけと仰しゃってお金をお出し遊ばしまして」

 庄「そうだってのう、見ず知らずの者に四十金を恵むと云うのは感心な方だのう」

 町「其の方は屹度きっと今日うちいらっしゃいますよ」

 庄「来られちゃア困るなア、そんな方が入らしっては実に赤面だ」

 町「それでも屹度来ますよ」

 庄「困るなアお茶でも入れて上げな」

 町「お茶はございませんよ」

 庄「それではお菓子でも」

 町「お菓子は昨夜ゆうべ戴いたのを貴方あなたが三つあがって、あとは仏様に上げてありますから、あれを上げましょうか」

 庄「それでも戴いたものを又上げるのは変だのう」

 町「あれ入っしゃいましたよ」

 庄「文治郎様が入っしゃいましたと」

 町「なアにそうじゃアございませんでした、秋田穗庵さまが入しったのでした」

 庄「まア此方こっちへお上りなさい」

 秋「はい今日こんち番町ばんちょうへんに病人があって参り、帰りがけですが貴方のお眼はうでございますな」

 庄「っともなおりません、少しもげんが見えません、どうもいけませんから、これじゃア薬もめようかと思って居ります」

 秋「それがナ貴君あなたのお眼は外障眼がいしょうがんと違い内障眼ないしょうがんと云ってがたい症ですから真珠しんじゅ麝香じゃこう竜脳りゅうのう真砂しんしゃ四味しみを細末にして、これを蜂蜜はちみつで練って付ける、これが宜しいが、真珠は高金こうきんだから僕のような貧乏医者は買って上げる訳にいかん、それに就いてかねて申上げました此方こちらのお娘子むすめごがお美しいと云うことを、北割下水きたわりげすい大伴おおともと云う剣客けんかくへ話した処が、是非世話をしたいから話しをして呉れと云うから、先日貴方へ申上げた事がありますが、お堅いからお聞済きゝずみがないが、時世で仕方がないから、諦めて貴方がうんと云えば僕が先方へ参って話をすれば、お目薬料ぐらいはじきに出ますからそうなさいな」

 庄「いゝえ、そんな話はめて呉れ、お前が来るとそんな事ばかり云うが、わしには一人の娘をめかけ手掛てかけに遣るくらいなら裏家住居はしません、そんな話をされると耳がけがれるから止して呉れ」

 秋「貴君あなたはお堅いがね小野うじ、僕もいろ〳〵丹誠して癒らんければ名にもかゝわるから、おいやでもお娘子をおつかわしになれば、目薬料が出て御全快になって、しこうしてのちのことでございます」

 庄「いや眼はつぶれても宜しい、お前さんの薬はもう呑まないよ」

 秋「それじゃア無理には申さんから宜しいが、お嬢さま、お父様とっさまはあの通りお聞入れはないが、わたくしの帰ったあとで能くお父様と御相談なさいよ、お父様がいやと仰しゃっても貴女あなたがおいでなさると云えば、お父様のお眼も癒るから、いやでも承知しなければなりません、いずれ又出ますよ、左様なら」

 庄「いやな奴だ、来ると彼奴あいつあんなことばかり云っている、医者が下手だから桂庵けいあんをしているのだろう」

 と云っている処へ参りましたのは、あい衣服きものに茶献上の帯をしめ、年齢は廿五歳で、実に美しい男で、かどへ立ちまして、

 文「御免なさい」

 町「お父様とっさま入っしゃいましたよ」

 庄「誰方どなたかえ」

 町「文治郎様が」

 庄「さア何卒どうぞこれへお上り遊ばしませ」

 文「昨夜はどうも、これはお礼で恐れ入ります、貴女あなたが御無事でお帰りかとあとで大きにお案じ申しました、あれから直ぐにお帰りでしたか、へー此方こなたがお父様とっさまでございますか、初めてお目に懸りました、手前は業平橋に居ります浪島文治郎と申す武骨ものでございます、お見知りおかれて以後御別懇に願います」

 庄「へー、手前は小野庄左衞門と申す武骨の浪人御別懇にねがいます、さて昨夜は娘まちが計らず御介抱を戴き、ことにお菓子まで頂戴致し、帰って参ってこれ〳〵と申しますから、有難く存じ、只今も貴方あなたのお噂をして居りました……これ町やお茶を、あイヤお茶は無かったッけ、お湯をあげな、まアこれへお進み下さい」

 文「始めてお目に懸って誠に御無礼なことを申して、お気に障るか知れませんが、昨夜お嬢様に段々御様子を伺った処が、御運悪くお屋敷をお出になって御浪人遊ばした処が、御眼病をお煩いのよし、それを嬢様が御心配遊ばして、お感心にかん三十日の間跣足はだし参りをなさる、手前も五十八歳になる母が一人ございますが、少し風を引いて頭痛がすると云われても、しものことがありはしないかと思って心配するのは、子の親を思う情合じょうあいですから、嬢様のお心もお察し申して段々お尋ね申した処、秋田穗庵とか云う医者が真珠の入った薬なれば癒るが、それをあげるには四十金前金まえきんによこせと申したそうで、ついては誠に失礼でございますが、持合もちあわせている四十金を差上げますから、これでその真珠とやらをい整え、御全快になれば手前においても悦ばしく存じ、又お嬢様に於ても御孝行が届きますから、誠に失礼でございますが、此の金は明いてる金でございます、お遣い遊ばして下さいまし」

 庄「へい〳〵かたじけのうございます」

 と片手を突いて見えない眼で文治を見まわして、

 庄「あゝ貴方様は判然はっきりは見えませんから分りませんが、お若いお立派な方で、殊に御発明で御孝心の深いことはおことばの上に見えすくようで、わしも五十八になる母があるが、少し加減が悪いとびっくりすると仰しゃるのは御孝心な事で感心でござる、それに見ず知らずのものに四十金恵んで下さるのは誠に有難うございます、お志ばかり頂戴いたしますが、金はお返し申しますから、どうかお持ち帰りを願います」

 文「それでは困ります、折角持って参った金ですからどうかお受け下さいまし」

 庄「いや〳〵受けません、見ず知らずのお方に四十金戴く訳がございません」

 文「見ず知らずでございますが、昨夜お嬢様にお目に懸ったのが御縁でございます、つまずく石も縁のはしとやら、貴方の御難儀を承っては其の儘にはおけません、どうかお受け下さいまし」

 庄「どう致して、とても受けられません」

 文「左様なら此の金を上げると云っては失礼でございますが、かく明いてる金でございますからお遣い下さい」

 庄「いや〳〵かりても今の身の上では返えせる目途もくとがありませんからお借り申すことは出来ません」

 文「それではお嬢様に」

 庄「いや〳〵娘も戴く縁がありません」

 文「さア貴方はお堅いが、能くお考えなすって御覧なさい、貴方がいつまでもお眼が悪いとたった一人のお嬢様が夜中やちゅうに出て神詣かみまいりをなさるのは宜しいが、深夜に間違いでもあれば、これ程お堅い結構な方にきずを付けたらうなさる、わたくしが金を上げると申したら御立腹でござろうが、子の心を休めるのも親の役でございます、文治郎が失礼の段は板の間へ手を突いてお詫をします、他人と思召おぼしめさずにおうけを願います」

 庄「あゝこれ〳〵お手をお上げ下さい、貴方はなんたるお方かなア、大金を人に恵むに板の間へ手を突いて、失礼の段は詫ると云う、誠に千万かたじけのうござる、只今の身の上では一両の金でも貸人かしてのない尾羽おは打枯うちからした庄左衞門に、四十金恵んで下さるは、屋敷に居りました時千石加増したより忝けのうござるがナ、手前強情我慢で、これまでは涙一滴こぼさんが、今日こんにち只今嬉し涙と云うことを始めて覚えました、なれども此の金は受けられませんから、どうかお持帰りを願います、それを貴方がいつまでも手を突いておっしゃれば致し方がないから切腹致します」

 文「あゝそれは困ります、成程お堅いから仕方がないが、しからば金で持って参ったから受けて下さるまいが、薬なら受けて下さるだろうな」

 庄「薬も廿四銅か三十銅の品なら受けますが高金こうきんの品では受取れません」

 文「左様なら致し方がないが、どうかお気にえられて下さるな」

 庄「どう致しまして、これお茶を、お茶も上げられません、貴方に戴いたお菓子が二ツ残って居ります、れをお上げ申せ」

 文「どう致しまして、左様ならおいとま申します」

 町「親父は頑固いっこくものですから、お気に障りましたろうが、どうか悪く思召さないで下さいまし、御機嫌ごきげん宜しゅう」

 と板の間まで出て見送ります。文治もどうかして金を遣りたいが、所詮金では受けないから薬にして持って往って遣ろうかと、いろ〳〵に工夫をしながらうか〳〵と路地を出に掛りますと、入って来たのはまかなの國藏と云う奴で、九月の四日に文治に拳骨でり倒されまして、目が覚めたようになってしきりにかせいで、此の長家ながやへ越して来たと見えて、夜具縞やぐじま褞袍どてらを着て、刷毛はけを下げまして帰って来まして、文治と顔を見合せてびっくりしました。

 國「おや旦那」

 文「おう國藏か、どうした」

 國「こりゃア不思議だ、貴方あんたうして此処こゝへ」

 文「少し知己しるべがあって来たが、此の節は辛抱するか」

 國「えいようやく辛抱するようになって、わっちが仕事をするようになって、せんうちでは狭いから此処へ越して来たが、うちのお浪はお前さんを有難がって、お目に懸りたいと云っても、貴方の処へはう上れねえが、幸い今日は店振舞たなぶるまいで障子が破れていて仕様がねえから刷毛を借りて来て張る処だ、鳥渡ちょっとうちへ往って蕎麦そばのおはつうを食ってやっておくんなせえ、お浪〳〵業平橋の旦那にお目に懸ったからお連れ申したよ」

 浪「おやまア不思議じゃアないか、此方こっちの心が届いて旦那にお目に懸られるのだねえ、さア〳〵此方こちらへ〳〵」

 國「さア此方こちらへ上って下せえ」

 文「うちだの」

 國「えゝせんうちより広いのは長家を二軒借りたから広くなりやした、なアに家なんざアうでもいゝが、わっちも畳の上で死なれるようになったのは旦那のお蔭です、忘れもしねえ九月の四日、わっちが嚊を連れて旦那の処へ強請ゆすりに往った処がわっち襟首えりっくびつかめえての御意見が身にみて、お奉行様の御理解でもつんぼ程も聞かねえ國藏が改心して、これから真人間になって稼ごうと思ったけれども、借金があって真面目になることが出来ねえと思っていると、おめえさんが金を下すったから、それで借金の目鼻を付け、四ツ目の親分の所へ往って、これから仕事をすると云った処が、親分も大層悦んで仕事をよこしてくれやしたが、先の家じゃア狭くって仕事が出来ねえから、今日此処へ移転ひっこして来て、蕎麦を配るからどうか旦那にお初うを上げたいと思っていたが、丁度いゝ処でのうお浪」

 浪「本当ですよ、旦那様にお目に懸ってお礼を申し上げたいと思っても、着てくものがありませんから損料でも借りて着てこうと思って」

 國「黙ってろ、おい〳〵お浪、何方どこの蕎麦屋へでも早く往って大蒸籠おおぜいろか何かそう云って来な、駈け出して往って来い、コヽ跣足はだしで往け、へい申し旦那、お浪の云う通り損料を借りて紗綾羽二重さやはぶたえを着て往ってもお悦びなさる旦那じゃねえ、損料を着て往けば立派だが、その時限りのことで、うちけえって来れば直ぐなくなって仕舞うから、それよりゃアその金を借金方へめて精出し、働らいてもうけた銭で買った着物を着て往かなけりゃアならねえと思って居りやす、旦那え不思議なことにゃアお浪が此の頃神信心かみしんじんを始めやした、彼奴あいつは男を七人殺しやした奴ですぜ、それが手で殺すのじゃアねえのさ、みんな口でだまして殺すというのは、欺された男が身を投げたり首をくゝったりしやしたのさ、そう云う奴が観音様を拝むようになったから、観音様を拝んでも御利益ごりやくがあるものか、それよりも首を継いでもらった旦那を拝めってなアお浪、あ、今彼奴は蕎麦屋へ行ったっけ」

 文「そりゃア悦ばしいのう、おれの云うことを聞いて手前が改心すれば、の時打擲したことは文治郎が詫るぞ」

 國「勿体もってえねえことをお云いなさる、此間こないだ親父の墓場へ往って石塔へ向って、業平橋の旦那のお蔭でおめえの下へへいれるようになったよと云ったが、親父も草葉の蔭で安心しましたろうと思いますのさ」

 文「これは誠に少しばかりだが、家見舞だから取って置いてくれ」

 國「旦那こんなことをなすッちゃアいけねえやね」

 文「手前の身祝いだから取って置いてくれ」

 國「あれサ、これを戴くと身を苦しめねえで貰った銭だから、折角戴いても軍鶏鍋しゃもなべでも食って寝て仕舞ったり何かして為にならねえからしておくんなせえ」

 文「それはそうだろうが、これはおれの志だから受けてくれ、また炭まきや何か入用いりようならいつでも取りに来るがいゝよ」

 國「有難うございます」

 と云われ文治も嬉しく思って居りますと、その内蕎麦が参りましたから馳走ちそうになって、四方山よもやまの話をして居りますと、一軒置いて隣りの小野庄左衞門の所へ秋田穗庵が剣術遣いを連れて来て、

 秋「さアこれへ〳〵」

 町「お父様とっさま又穗庵様が入っしゃいましたよ」

 庄「よく来るな、蒼蠅うるさいなア」

 秋「先刻は誠に失敬を申して相済みません、あれから帰りがけに割下水の先生の所へ寄りますと、大呵おおしかられ、貴様の云いようが悪いから出来る縁談も破談になる、った一人の御息女を妾手掛にほしいと云うから御立腹なすったのだ、此方こちらでは御新造ごしんぞに貰い受けたいのだ、御縁組を願いたいのだ、手前では分らんから此の方を御同道いたすようにと云って、これにお代稽古だいげいこをなさる和田原八十兵衞わだはらやそべえ先生をお連れ申しました、さア先生これへ〳〵」

 八十「手前は和田原八十兵衞と申すもので、先程穗庵が参って御様子を伺うと、先生が殊のほか御立腹で、早速手前に参って申し開きをして参れと云い付けられて参ったが、先程穗庵が妾に貰い受けたいと申したのは全くの間違で、実は御新造にお貰い申したいと云うので、媒妁なこうどもお気に入らんければどのようにも致しますが、先生はう御息女をお貰い申したように心得て居って、貴方を御舅公ごしゅうとごのように心得て、御眼病がおなおりにならんければ困るからと云って、これへお目薬料として五十金持って参ったが、これではお少ないと思し召すかも知れませんが、暮のことでござれば春の百両とも思し召されて」

 庄「お黙んなさい、なんだ五十両では少いが春の百両とも思ってとはなんの事だ、穗庵わしの娘をいつ此の先生の所へ遣りたいと申しました、遣るとも遣らんともきまらん内に金を持って来るとはなんだ、お前は媒妁口をいてい加減のことを云ったのか、小野庄左衞門が貧乏してるから金にふるえ付くかと思って金を持って来たか」

 秋「これサ御立腹では恐入ります、実は」

 庄「黙んなさい、嫁に貰いようを知らんものがあるかえ、仮令たとえ浪人者でも、一人の娘を妾にはせん、婚礼の式は正しゅうしなければならん、お前の先生は嫁の貰いようを御存じないか、見合いも致さず、結納ゆいのう取交とりかわさず、媒妁も入れなければ婚姻にはならん、汚らわしい金なんぞは持って帰らっしゃれ」

 と膝の所へ金を打付うちつけました。

 八十「これはしたり、何も金を持って来る訳ではござらんが、師匠が申したから持って参ったので」

 庄「師匠が金を持ってけと云ったら何故止めん、金を持って往けば先方で立腹するだろうとかなんとか云って、止めなければならんのが弟子の道であるに、師匠が申付もうしつけだと云って、それをいゝ事と心得、何故持って参った、師匠が馬鹿なら弟子まで馬鹿だ、馬鹿ざむらいとはなんじのことだわい」

 八十「此奴こいつなんだ、しからん、無礼至極」

 と云いながら長柄ながつかへ手をかけて抜こうとすると、小野は丸で見えんのではないから持って居った煙管きせるひじを突きますと、八十兵衞は立上ろうとする途端にひょろ〳〵として尻餅を突くと、うちが狭いから上流うわながしへ落ちに掛りますと、上流しが腐って居りますから、ドーンと下流しへ落ちました、丸で馬陸やすでを見たようです。八十兵衞は愈々いよ〳〵立腹致し、刀を振上げて斬ろうとするから、穗庵もぴかりっと抜きましたがこれはぴかりっとは参りません、びて居りますから赤い粉がバラ〳〵と出て、ガチ〳〵〳〵となたのようなものを抜いて今斬ろうとする。庄左衞門はれた戸棚とだなからたしなみの刀を出してさア来いと云う。娘はふるえながら両手をついて、

 町「何卒どうぞお願いでございます、親父は眼病でございますから御勘弁なすって下さいまし」

 と云って泣いている騒ぎを、長屋の者が聞付け、一同心配していると、國藏も引越したばかり故驚きましたが、此の騒ぎを見て帰って来て、

 國「お浪、旦那をおけえし申して、怪我をなすっちゃアいけねえからおけえし申しな」

 文「んだ」

 國「今隣りのばあさんに聞くと、隣の娘を剣術遣いが妾にしてえ、銭も遣るから云う事を聞いてくれと云うと、その浪人者が飛んでもねえことを云うな、金に目をくれて娘を遣る奴があるものか、見損なやアがったか間抜野郎と云うと、剣術遣いが、おや畜生ちくしょうなんだ此の唐偏木とうへんぼくめ、貧乏をしているから助けて遣ろうというのだ、生意気な事をぬかしゃアがるなと云うので打合たゝきあいが始まる、剣術遣いがその親父を斬ろうとする、娘が泣き出す、親父は眼こそ見えねえが中々聞かねえで、斬るなら斬れと云う喧嘩の最中だから旦那出ちゃアいけませんぜ」

 文「なに、一軒いて隣は小野うじの家に相違ないが、小野に怪我があっては相成らんゆえ、わしが往って取鎮とりしずめて遣ろう」

 國「旦那が怪我をしちゃアなりませんからお止しなせえ」

 文「捨置く訳にはいかん、そこを放せ」

と云いながら日和ひより下駄を穿いたなりで駈出かけだし、突然いきなり喧嘩の中へ飛込みますると云うお話に相成りますのでございますが、一寸ちょっと一服致します。


  四


 さて本所松倉町なる小野庄左衞門の浪宅へ、大伴蟠龍軒おおともばんりゅうけんと申しまする一刀流の剣術遣いの門弟和田原八十兵衞と、秋田穗庵という医者が参り、娘お町をくれろとの掛合かけあいになりましたが、庄左衞門は堅いから向うで金を出したのを立腹して、一言二言ひとことふたことあらそいより遂にぴかつくものを引抜き、狭い路地の中で白昼に白刃はくじんひらめかし、斬合うという騒ぎに相成りましたから、裏長屋の者はびっくり致し、跣足はだしで逃げ出す者もあり、洗濯ばあさんは腰を抜かし、文字焼もんじやきじいさんはどぶへ転げ落るなどという騒ぎでございます。文治郎は短かいのを一本差し日和下駄を穿き、樺茶色かばちゃいろの無地の頭巾を眉深まぶかかぶって面部を隠し、和田原八十兵衞の利腕きゝうでうしろからむずと押え、片手に秋田穗庵が鉈のような恰好かっこうで真赤に錆びたる刀を振り上げた右の手を押えながら、

 文「暫く〳〵何卒どうぞ暫くお待ちください、何事かは存じませんが、まア〳〵お話はあとで分りまする事ですから、手前へお免じください、暫くお待ちください、まア〳〵」

 とうしろから押しまする。和田原八十兵衞は長いのを振上げたなり、

 八十「邪魔致すな其処そこ放せ」

 と云いながらこちらを振り向うとすると、ギュッと手を逆にねじる、七人力も有ります人にひどく利き処を押えられ、痛くて向く事が出来ませんから、又左方こちらへ向うとすると、右へ捻りまするから八十兵衞は右と左へぐる〳〵して居ります。文治郎は、

 文「暫く〳〵」

 といいながら狭い路地を押し出して、表へ連れて参りました。あとには娘お町が有難いお人だと悦んで居りました。國藏は又しきりに心配して、ぐる〳〵駈廻かけまわって居りまする処へ文治郎が立帰たちかえって参り、

 文「ずお怪我がなくてお目出とうございました」

 町「おや、あなたは先程の文治郎さま、だお帰りにはなりませんでしたか」

 文「御同長家ごどうながやの内に懇意な者が居りますので、おゝこれ此処こゝに居ります此の國藏の宅に今まで居りました処、此の騒ぎ、しからん奴でございましたなア」

 町「お父様とっさま、先程の文治郎様が今の人達を連れ出してくださいましたとの事、お礼を仰しゃいまし」

 庄「誠に種々いろ〳〵御厄介に相成りました、余り不法を申しますから残念に心得、一言二言云うと貴方あなた白刃はくじん振廻ふりまわし、此の狭い路地を荒す無法の奴でございます」

 國「もし旦那、彼奴等あいつら何処どこへ連れておでなさいやしたえ」

 文「ウン、表の割下水わりげすいどぶの中へほうり込んで来た」

 國「えゝ溝の中へ投り込んで来たとえ、ひどい事をおりなすったねえ、今に上ってきやアしませんか」

 文「上っても腕は利かん、逆に捻って胴を下駄でひどて、手足をくじいて置いたから這い上って帰るだろう」

 國「へえ苛い事をなさるねえ、わっちは又何処どっかの待合茶屋まちあいぢゃやへでも連れてって、さて如何いかゞの次第でございますか、兎に角任せて下さいと云って、おめえさんが仲人ちゅうにんに入って、茶か何か呑ませているんだろうと思って居りました」

 文「茶などを呑ませてたまるものか、彼奴等あいつらどぶの水で沢山だ」

 國「だがねえ旦那え、それはいが、おめえさんやぶつッついて蛇を出してはいけませんぜ、是りゃアとんでもない喧嘩になりますぜ」

 文「なぜ」

 國「何故ったっておめえさん、どぶの中へほうり込まれて黙っている奴はねえ、殊に相手は剣術遣い、兄弟弟子も沢山有りましょう、構ア事はねえ押込んでけと二十人もって来られた日にゃ大騒ぎですぜ」

 文「それは来る気遣きづかいはない、心あるものなら師匠が止める、わしは顔を隠して置いたから相手は知れない、そこで溝へ投り込んだのはわしだかなんだか訳が分らないから、心ある師匠なら一時いちじ止まれと言って止めるなア」

 國「師匠に心が有るか無いか知りませんけれども、おめえさん喧嘩に往くのに断って出るものが有りますか、私達わっちたちが湯屋で間違まちげえをして拳骨の一ツもくらって来て、友達がこれを聞いて外聞が悪いから押して往けと言う時に、親方へ一寸ちょっと喧嘩に往って来ますと断って出る者は有りますめえ、密々こそ〳〵と抜け出して出しぬけにわッと云って、大勢が長いのを振舞わして此処こゝへ遣って来られた日にゃ大変じゃありませんか」

 文「もしや来たらお浪をよこしてわしに知らせろ、そうしてわしの来る間手前てめえは路地口の処へ出て掛合っていろ、手前てまえは此の長屋の行事でございますが、ういう訳で左様に長い物をふるって町家ちょうかをお荒しなさいまする、その次第を一応手前にお告げ下さいと云って出ろ」

 國「そりゃいやだね、行事だ詰らねえ事を云う、面倒臭いと斬られてしまいましょう、やだアねえ」

 文「し来たら知らせればい、左様なら」

 と足を早めてきますから、

 國「もし旦那、もし、あれだもの仕様がない、あれ旦那」

 と云うを耳にも止めず文治郎は平気すまして帰ってきます。國藏はしきりに心配して大家さんへ届けたり、自身番を頼んだりぐる〳〵騒いで居りますると、文治郎の鑑識めがねたがわず、それっ切り仕返しにも来ませんでしたが、のちに小野庄左衞門は蟠龍軒からうらみを受け、遂に復讎ふくしゅうの根と相成りまするが、お話変ってこれは十二月二十三日の事で、両国りょうごく吉川町よしかわちょうにお村と云う芸者がございましたが、その頃柳橋やなぎばしに芸者が七人ありまする中で、重立おもだった者が四人、葮町よしちょうの方では二人、あとの八人はい芸者では無かったと申します。丁度深川の盛んな折でございます、その頃佐野川市松さのがわいちまつという役者が一と小間置こまおきに染め分けた衣裳へ工夫致しましてそのしまを市松となづけて女方おんながたの狂言を致しました時に、帯を紫と白の市松縞にして、着物をあいの市松にしたのが派手で、とんだ配合うつりいと柳橋の芸者が七人とも之を着ましたが中にも一際ひときわ目立って此のお村には似合いました処から、人之を綽名あだなして市松のお村と申しました。年は十九歳で親孝行で、器量はたぎっていと云うのではありませんが、何処どこ男惚おとこぼれのする顔で、愛敬靨あいきょうえくぼが深く二ツいりますが、ものさし突込つッこんで見たら二分五厘あるといいますが、たれか尺を入れたと見えます。其の上しとやかで物数ものかずを云わず、偶々たま〳〵口をきくと愛敬があってお客の心を損ねず、芸はもとよりし、何一つ点を打つ処はありませんが、朝は早く起きて御膳焚ごぜんたき同様におまんまを炊き、拭掃除ふきそうじを致しますから、手足はひゞが絶えません、朝働いて仕まってからお座敷へ出るような事ですから、世間の評が高うございます、此の母親おふくろはおさきばゞあと申しまして慾張よくばりの骨頂でございます、慾の国から慾を弘めに参り、慾の新発明をしたと云う、慾でかたまってふとって居りまする。慾肥よくぶとりと云うのはこれから始まりました。娘お村に稼がせて自分は朝から酒ばかりぐび〳〵飲んで居りますると、矢張り此の頃の老妓あねえで、年は二十七歳に相成りまする、お月と申しますせいはすっきりとして芸がく、お座敷でお客と話などをして居ります間に取持とりもちが上手と評判の芸者でありました。此の頃の老妓は中々見識のあったもので、只今湯に出かけまする姿ゆえ、平常着ふだんぎの上へ黒縮緬くろちりめんの羽織を引ッかけ、糠袋に手拭を持ってお村のうちの門口へ立ちまして、

 つき「お村はん在宅うちかえ」

 さき「おやおつき姉さん、まアお入りよ、あれさお入りよ、湯かえ、いゝじゃないか、種々いろ〳〵お前さんにお礼の云いたい事もあるから一寸ちょっとお入りよ」

 月「寒いじゃないか、おっかさん、御無沙汰をしました」

 さ「お寒くなりました、段々押詰おしつまって来るからなんだか寒さがめっきり身にみますよ、今一杯始めた処サ」

 月「朝からお酒で大層景気がい事ねえ」

 さ「一つお上りなはいな」

 月「昨宵ゆうべね少し飲過ぎてお客のお帰んなすったのも知らないくらいに酔いつぶれたが、いつものきまりだから仕方がない」

 さ「失礼だが一杯お上りよ、私がお酌をするよ、本当に姉さんはお村を彼此かれこれ云ってくださるから有難い事だって、平常ふだんそう云っているのだよ、なんでも姉さんの云う事をかなけりゃいけねえって、そう云っているのだから、何事も差図をしてお貰い申す積りさ、なんてってもだ年がいかねえから、時々跣足はだしでお座敷から駈け出して帰って来たりするから、なんとかお思いかと心配してるのサ」

 月「おっかさんは何時いつ壮健たっしゃだねえ」

 さ「えゝあたしア是まで寸白すばくを知りませんよ、それに此間こないだは又結構なお香物こう〳〵をくだすって有難うございました、あれさ、お重ねよう」

 月「お母さん、あのお村はんはるかえ」

 さ「あゝ今二階で化粧みじめえしてりますの、どうせ閑暇ひまだが又何時いつ口が掛るかも知れないから、湯にって化粧けしょうをさせて置くのサ……二階に居りますが何か用が有るのかえ」

 月「そうかえ、少しお村はんの事にいて話があるんだが、あの三浦屋から十二三度呼びによこした本所割下水の剣術の先生の御舎弟ごしゃていさんだというから、御舎さん〳〵という人は、取巻とりまきくって金が有るので、一寸様子がいから、浮気な芸者は岡惚れをするくらいだが、の人がお村はんに大変惚れてゝ、私にお月取持ってくれ〳〵と種々いろ〳〵云うから、私があのは堅くて無駄だからお止し、いけないと云っても中々かないで逆上のぼせ切ってるのサ、芸者を引きたければはなやかにして箱屋には総羽織そうばおりを出し、赤飯をふかしてやる、又芸者をしていたいのならば出の着物から着替から帯から頭物あたまのものまで悉皆そっくりこしらえて、お金は沢山たんとは出来ねえが、三百両や四百両ぐらいはまとめてるとういう旨い口だ、私などは願っても出来やしない、あんまい口だから、いやでもあろうがうんとさえ云えばたいした事に成るのだから話をして見るんです」

 さ「おや〳〵それは誠に有難い事ねえ、本当に私は夢のような心持がします、今時そんな方が出て来るものではないのだが、全く姉さんのお取做とりなしが宜いからで、乙なものでなんでも太鼓の叩き次第だからねえ、早速お村に申しましょう、お村や〳〵一寸降りてなよ」

 村「あい」

 と優しい声で返辞をして、しとやかに二階から降りて参り、長手の火鉢の角の処へ坐り、首ばかり極彩色ごくざいしきが出来上り、これから十二一重ひとえを着るばかりで、お月の顔を見てにこりと笑いながら、ジロリと見る顔色かおいろ遠山えんざんまゆみどりを増し、桃李とうりくちびるにおやかなる、実に嬋妍せんけんたおやかにして沈魚落雁ちんぎょらくがん羞月閉花しゅうげつへいかという姿に、女ながらもお月は手を突いてお村の顔に見惚みとれる程でございます。

 村「姉さんおいでなはい」

 月「お村はん、今おっかはんに三浦屋の御舎さんの事を話したのだが、うんとさえ云えば大した事になるのだよ、さぞ此間こないだからお前に種々いろ〳〵な事を云うだろうね」

 村「あゝ、来るたんびに変な事を云って困るよ」

 月「私にも種々云ってしょうがないから、だまかして云い延べて置いたが、せめられてしょうがないよ」

 さ「お村や、うんとお云いよ、有難い事だ、姉さんが何とか、日光にっこう御社参ごしゃさんとかいうお方が妾になれと仰しゃるのは有り難い事だから、諾とお云いよ」

 村「姉はん、それは男も醜くはなし綺麗なような人だが、何だか私は虫が好かない、の人のそばに坐ると厭な心持になりますよ、そうして反身そっくりかえって煙管きせるを手の先で振廻し、落してお皿を欠いたり、鼻屎はなくそをほじくっては丸薬にしたりしてなんだか厭だよ」

 月「そうサ、変な処があるよ、気には入るまいが持物になって仕舞えば又好きな事も出来るわねえ」

 さ「有難いことだからうんとお云いよ、おい諾と云わないかよ」

 村「厭な事、私は死んでも厭だよ」

 さ「馬鹿な事をお云いでない、お前が諾と云えば私までが楽になるのだから親孝行だよ、それにお前は春の出の姿なりに気を揉んで居て一から十まで新しい物にしたがり、縮緬ちりめんのお前さんが知ってる紋付さ、あれを色揚げをして置けば結構だと言えば、紋が黒くなると言うから、そうしたら薄い昇平しょうへいを掛ければ知れやしないと云うのに、なんでも新しい姿なりばかりしたがる癖にさ、私などの若い時分と違って姿なり計りしたがったり、芝居へもき、したいこともしたければ、諾と云って其の人を取らないとかないよ」

 村「でも柳橋の芸者が旦那取りをしたと云っては第一姉さん達の恥になり、私も外聞が悪いから、くは出来ないが私だけは芸一方で売る心持でいますから、どうかそんな色めえた事を云うお客はぴったり断って下さいまし」

 月「お村はんがいやだと云うならどうもしようがない」

 さ「おい本当にいけない餓鬼だよ、サ諾と云いな、否か、どうあっても否か、下を向いて返辞をしないのは否なのか、否だなどと云えばたゞは置かねえよ」

 と云いながら手に持った長羅宇ながらおを振上げさまゆいたての嶋田髷しまだまげ打擲ちょうちゃく致しましたからくしは折れて飛びまする。

 月「あゝ危いよ、あれさ怪我でもさしたらどうする積りだよ」

 さ「お止めなさるな、止めると癖になります、太い阿魔でございます、これなんだと、芸一方で売りたいと、それはお月姉さんのような立派なお方の云う事だ、お前なんぞは今日此の頃芸者になり、一人前いちにんめえになったのは誰のお蔭だ、お前が七歳なゝつの時、親兄弟もない餓鬼を他人の私が七両の金を出して貰い切り世話をしたのだが、其の時は青膨あおぶくれだったが、私の丹誠で段々とお前さん胎毒くだしばかりもの位飲ましたか知れやしません、芸を仕込めば物覚えが悪く、其の上感所かんどころが悪いもんだから、ばちのせいじりで私は幾つったか知れません、おどりを習わせれば棒を呑んだ化物ばけものを見たように突立つッたッてゝしょうが無かったのを、漸々よう〳〵此の位に仕上げたから、これから私が楽をしようと思ってるに、いやおうもあるものか、親の言葉を背く餓鬼ならば女郎じょうろにでも叩き売って仕舞います、いたふうな、芸一方で売るって私は知らねえ振りをしていれば、手前てめえの好いた男なら上流うわてくんだりまで往って寝泊りをして来やアがるだろう、私は知るめえと思ってようが、芝口しばぐちの袋物屋の番頭に血道を揚げて騒いでいやアがる癖に」

 月「まアしずかにおしよ、世間へ聞えるとみっともない、お村はんは私がとっくり意見をして得心させるから私にお任せよ」

 と泣いて居りまするお村の手を取って二階へ連れて上り、

 月「お村はん勘忍しておくれよ、本当に邪慳じゃけんなおっかさんだ、太い煙管でお前の顔を無茶苦茶にって怪我でもしたらうする積りなんだろう、怖いお母さんだねえ、今までお前はまア能くあのお母さんの機嫌を取っておいでたねえ」

 村「姉さん、誠にお前さんの云う事をかないで済みませんが、私も七歳なゝつから育てられ、お母さんの気性も知っていますが、彼様あんな邪慳な人は世にあんまり有りません、此の頃のように寒い時分に夜遅く帰って来れば、寝衣ねまき炬燵こたつに掛けて置いて寒かろうからまア一ト口飲めと、義理にも云うのが当然あたりまえだのに、私が更けて帰ると、お母さんは寝酒に旨い物をべてグウ〳〵大鼾おおいびきで寝て仕舞い、火が一つおこってないから、冷たい寝衣を着て寝てしまい、夜が更けるからつい朝寝をすると、起ろ〳〵と足で蹴起けおこして、おまんまを炊けと云って御膳を炊くやらお菜拵かずごしらえをして仕舞うと、起きて来て朝から晩まで小言三昧ざんまい、ヤレの旦那を取れ、此の旦那の妾になれと今まで云われた事は何度あるか知れやしないが、漸々よう〳〵云抜けては置いたが、辛くって〳〵今日は駈出そうか、明日はげようかと思った事もあったけれど、ほかに身寄親類もないから駈出してもどこがない私ゆえこらえてはいましたが、今日という今日は真に辛いから私は駈出して、身を投げて死にますよ」

 月「馬鹿な事をお云いでないよ、私が悪かった、お母さんの前ですぐの事を云わなければかった、私は蔭でチラリと聞いたのだが、お前は友之助とものすけさんとは深い中で、それがため義理の悪い借金も出来ているから、結局つまり二人で駈落かけおちなどいう軽卒かるはずみな事でもしやしないか、困ったものだと云う事が私の耳に入っているが、私も兄弟は無し、心細いから平常ふだん親切にしておくれのお前と、末々まで姉妹分きょうだいぶんになりたいと思う心から案じているのだが、それは厭に違いはないが、友さんの為なら厭な旦那もお取りかと私は考えてるが、友之助さんの為だと諦めて舎弟の云う事を聞けば、まとまったお金を幾らか私が貰って上げるから、それで内証ないしょの借金を払い、二百両か三百両の金を友さんにも遣り、借金のかたを附け、可なり身形みなりこしらえ、時々は私がだまかしてよんどころないお座敷で帰りが遅くなると云って上げるから、厭でもあろうがたった一度、舎弟とまくらを並べて寝て遣れば、どんなに悦ぶか知れない、それは厭だろうが、其の時は私がそっと友さんをほかに呼んで置いてお前に逢わせ、口直しを拵えて置くからねえ、私も責められて困るからよ」

 村「はい〳〵姉さん私も友之助さんに対して旦那を取っては済まず、又私が身を斬られるほど辛いけれども、姉さんの折角のお頼みと云い、お母さんの様子では女郎じょうろにも売り兼ねやアしまいから、死んだ心になって旦那を取りましょうよ」

 月「おや本当に、どうもまアく諦らめておくれだ、本当に可愛そうだけれども、じゃア其の積りだよ」

 と云いながら慌てゝ音のするように梯子はしごを降りて参り、おさきに向い、

 月「私が段々話をした処が、済まなかった、随分い人だと思っていたが、まさかにお母さんの前で旦那が取りたい惚れているとも云いにくいから、しぶ〳〵していて、たれるだけが損だったと云っているから、お前も機嫌を直して可愛相だから優しく云っておりよ」

 さ「おや〳〵そうかえ、まア誠に有難いこと、姉さんの云う事はき、私の云う事は肯かないのだもの、それも姉さんのお蔭さ、お前はいつも若いよ、お月さん幾つ」

 月「十三七ツが聞いて呆れる」

 さ「お湯にくなら私も一緒に往こう」

 と嬉し紛れにおさきはお月と諸共もろともに出てく。あとにお村は硯箱すゞりばこを引寄せまして、筆を取り上げ、細々こま〴〵と文をしたゝめ、旦那を取らなければ母が私を女郎じょろうにしてしまうと云うから、仕方なしに私は吾妻橋から身を投げて死にますから、其の前に一目逢いたいから、おたなを首尾して廿五日の昼過に、知らない船宿から船に乗り、代地だいち川長かわちょうさんの先の桐屋河岸きりやがしへ来て待っていてくれろという手紙をしたゝめて出しましたから、友之助は大きに驚き、主人の家を首尾して抜け出し、廿五日の昼頃船を仕立てゝ桐屋河岸に待って居りました。


  五


 引続きまする業平文治のお話はと流行遅れでございまして、只今とは何かと模様が違います。当今は鉄道汽車が出来、人力車があり、馬車があり、又近頃は大川筋へ川蒸気が出来て何もかも至極便利でありますが、前には左様なものがありませんから、急ぐ時はおかでは駕籠かごに乗り川では船に乗ることでありましたが、お安くないから大抵の者は皆歩きました。只意気な人は多く船で往来致しましたから、舟が盛んに行われました。さて友之助は乗りつけの船宿から乗っては人に知られると思うから、知らない船宿から船に乗って来て桐屋河岸に着けて船首みよしの方を明けて、今に来るかと思って煙草を呑みながら時々亀の子のように首を出して待ちあぐんでいると、お村はもとより死ぬ覚悟でございますから、鳥渡ちょっとお参りの姿なりで桐屋河岸へ来て、船があるかとのぞいて見ると、一艘いっそうつないであって、船首の方が明いていて、友之助が手招ぎをするから、お村はヤレ嬉しと桟橋さんばしから船首の方へズーッと這入はいると、すぐに船頭さん上流うわてへ遣っておくれと云うので河岸を突いて船がズーッと右舷おもかじを取って中流へ出ます。そうするとお村はなんにも言わずに友之助のひざに取付き、声を揚げて泣きますから、友之助は一向何事とも分らぬから、兎も角も早く様子が聞きたいと云うので、向島むこうじま牛屋うしや雁木がんぎから上り、船を帰して、是から二人で其の頃流行はやりました武藏屋むさしやと云ううちがありました、其の家は麦斗ばくとと云って麦飯に蜆汁しゞみじるで一猪口ちょく出来ます。其の頃馴染なじみでございますから人に知れないように一番奥の六畳の小間を借りまして、様子を聞こうと思うと、お村は云う事もあとやさきで只泣く計りでございますから、

 友「どうもなんだか唯泣いてばかりいては訳が分らないじゃアないか、冗談じゃない、又おっかあと喧嘩でもしたのだろう、お前のお母のあの通りの気性はちいさい時分から知ってるじゃアないか、能く考えて御覧、都合のい時分に何か買って行って、これをおたべ、これをお着と云って菓子のおり反物たんものの一反も持ってけばニコ〳〵笑顔わらいがおをするけれども、少し鼻薬が廻らなければ、脹面ふくれッつらをして寄せ付けねえと云う不人情なお母だから、どうせお前は喰物くいものになるので可愛そうな身の上だが、これも仕様がないが、まアどう云う喧嘩をしたのだか、手紙に死ぬと書いてあったが、死ぬなどゝ云うのは容易な事じゃアないが、一体どう云う訳だえ」

 村「此の間話したが、アノーお客の御舎ごしゃさんと云う人が手を廻して、お月姉さんから色々私の方へ云ってくれたが、お月姉さんが其の事をじきにお母に云って仕舞ったから、お母はなんでもお客に取れと云うけれども、私は厭だから厭だと云ったら怖ろしく腹を立って、私の結いたての頭髪あたまを無茶苦茶にって、其の上こんな傷をつけて、お客を取らなければ女郎に売って仕舞うと云うのだが、随分売りかねない気性だから、し勤めに入れば、もう逢える気遣きづかいはなし、義理のわるい借金もあり、私もお前さんと一緒にならなければほかの芸者しゅにも外聞がわるいから、いっそ死んで仕舞おうと覚悟をしたが、一目逢って死にたいと思うばッかりに忙がしいお前さんにお気の毒をかけましたが、今日は能く来ておくんなさいました、私の死ぬのは私の心がらで仕方がないのだが、私ののちにはお前さんは情婦いろも出来ようし、いお内儀かみさんも持ちましょうけれども、私はどんな事をしたって思いを残す訳じゃアないが、余所よそは仕方がないが、どうか柳橋では浮気をしておくれでない、若し柳橋で浮気をなさると、友さん私は死んでも浮ばれませんよ」

 友「詰らない事を云うぜ、お前ほんとうに死なゝけりゃア行立ゆきたたないかえ」

 村「あゝ私ゃ本当に死のうと思い詰めたから云いますが、こんな事が嘘に云われますか」

 友「そうか、そんなら話すが実はおれも死のうと思っている、という訳は、旦那の金を二百六十両をつかい込んで、払い月だがまださがりませぬ〳〵と云って、今まで主人を云いくろめたが、もう十二月の末で、大晦日おおみそか迄には是非とも二百六十両の金を並べなければ済まねえから、種々いろ〳〵考えたが、此の晦日前ではい工夫もつかず、主人に対して面目ないし、自分のたのしみをして主人の金を遣い果たして、高恩を無にするような事をして実に済まねえ、どうも仕方がないから死のうと覚悟はしても、死にきれねえと云うのは、おめえを残してくのはいやだ、と思って七所借なゝとこがりをしても、鉄の草鞋わらじ穿いて歩いても、押詰おしつまった晦日前、出来ないのは暮の金だ、おめえ本当に覚悟を極めたら己と一緒に死んでくれないか」

 村「えー本当、どうも嬉しいじゃアないか、私も実は一緒に死にたいと思っても、お前さんに云うのが気の毒で遠慮していたが、お前さんと一緒なら私ゃ本当に死花しにばなが咲きます、友さん本当に死んで下さるか」

 友「静かにしねえ、死ぬ〳〵と云って人に知れるといけないから、う云う事なら金でも借りて来て総花そうばなでもして華々しくして死ぬものを、たんとは無いが有りッたけって仕舞おうじゃないか、お前も遣ってお仕舞い」

 村「死ぬにはなんにも入らないからかんざし半纒はんてんみんな遣って仕舞います」

 友「それでは其の積りで」

 村「本当かえ、嬉しいねえ」

 とまよいの道は妙なもので、死ぬのが嬉しくなって、お村は友之助の膝に片手を突いて友之助の顔を見詰めて居りましては又ホロリ〳〵と泣きます。其の時に廊下でパタ〳〵と音がするから、人が来たなと思い、それと気を付ける時、ふすまを明けて女中が見えました。

 女「お銚子がお熱くなりました、誠に大層お静かでございます…お酌を致しましょう」

 友「はい願いましょう、毎度御厄介を掛け、世話をやかしてお気の毒さま、もう私もこれぎり来られまい、遠方へきますから、姉さんの顔も是が見納めでしょう」

 女「まア厭でございますねえ、そんな事を仰しゃると心細うございますよ、此の間も久しいお馴染になったお客様がお役で御遠方へおいでになるゆえ、お送り申して胸が一ぱいになりました、いけませんねえ、お村姉さんは度々たび〳〵お客様をお連れ下すって、柳橋にはお村さんよりほかい芸者しゅは無いとうちのお内儀かみさんも云って居りました、お村さんいけませんねえ」

 村「私も一緒にくような事になりました」

 女「うらやましい事ねえ、結句どんな所でも思う人と行っていれば辛いと思うものでございませんよ」

 友「これはほんの心ばかりだが、どうぞ親方とお内儀に上げて下さい、これは女中しゅ八人へ、これは男しゅへ、たしか出前持とも六人でしたねえ」

 女「毎度どうも、御心配なすってはいけません、誠に恐入おそれいりますねえ、只今親方もお内儀もお礼に出ますからお村さん宜しく」

 友「此の羽織はいらない羽織で、だいなしになって居りますが、毎度板前さんにねえ我儘わがまゝを云いますから、何卒どうか上げて下さい」

 女「誠にどうも有難うございます」

 友「此の烟草入たばこいれはくだらないがいつも頼む使つかいの方に」

 村「此の羽織はいけないのですがあのお金どんに、此の笄は詰らないのですがお前さんに上げるから私の形見と思ってして下さい」

 女「形見だなんぞと仰しゃると心細うございますねえ、本当に嘘でしょう、本当、まアどうもびっくりしますねえ、珊瑚樹さんごじゅ薄色うすいろで結構でございますねえ、私などはとても指す事は出来ませんねえ、これを頭へ指そうと思うと頭を見て笄が駈出してしまいますよ、笄には足がありますから、おやこれも、恐れ入りますねえ、少し横におなりなさいまし」

 と屏風びょうぶ立廻たてまわし、枕元に烟草盆を置いて、床を取って、

 女「お休みなさいまし」

 と云って襖を締めてきましたが、二人は今夜死のうというのですから寝ても寝られません。種々いろ〳〵思返おもいかえして見たが、死神に取付かれたと見えまして、思い止ることが出来ません。其の内にも段々更けて世間がしんとして来ましたから、時刻はよしと二人はそっと出まして、牛屋の雁木へ参りますと、暮の事でございますから吾妻橋の橋の上には提灯ちょうちんがチラリ〳〵見えます。

 村「友さん」

 友「えゝ」

 村「まだ吾妻橋を提灯が通るよ」

 友「余程よっぽど更けた積りだが、そうでもなかったか」

 村「これから二人でくのだが、私も今日昼過からうちを出たから屹度きっとっかあが捜しているに違いない、し人目に懸って引戻されるともう逢う事は出来ないから、迂濶うっかりとは行かれないから、此の牛屋の雁木からでいゝから飛込んでおくれな」

 友「此処こゝはねえ浪除杭なみよけぐいが打ってあって、杭の内は浅いから外へ飛込まなければならんが飛べるかえ」

 村「飛べますよ、一生懸命に飛込みますから」

 友「浪除杭の外はごく深い所だ」

 村「じゃア、さア此処から飛込みましょう、お前さん一生懸命に私の腰をトーンと突いて下さいよ」

 友「さア」

 村「さア是で別れ〳〵にならないように帯の所へ縛り付けて下さい」

 と絹縮きぬちゞみ扱帯しごきを渡すから帯に巻付けまして、互に顔と顔を見合せると胸が一杯になり、

 友「あゝ去年の二月参会の崩れから始めて逢ってお前とう云う訳になろうとは思わなかったなア」

 村「私のようなものと死ぬのは外聞がわるかろうけれども、友さんさだまる約束と諦めて、どうぞ死んで彼世あのよとかへ行っても、どうぞ見捨てないで女房にょうぼと思っておくんなさいよ」

 友「あいよ〳〵主人の金をつかい果たして死ぬのは、十一の時から育てられた旦那様に済まねえけれど、どうか御勘弁なすって下さい、己もお前も親はなし、親族みよりも少い体で斯うなるのは全く宿世すぐせの約束だなア」

 村「あい、さア、友さん早く私を突飛つきとばしておくんなさい」

 と二人共にを合せて南無阿弥陀仏なむあみだぶつ〳〵と唱えながら、友之助がトーンと力に任せてお村の腰を突飛すと、お村はもんどりを打って浪除杭の外へドボーンと飛込んだから、続いて友之助も飛びましたが、お村を突飛ばして力が抜けましたか、浪除杭の内へ飛込んだから死ねません、丁度深さは腰切こしっきりしかありませんから、横になって水をがば〳〵飲みましたが、苦しいから杭にすがって這上はいあがりますと、扱帯は解けて杭にからみ、どう云うはずみかお村の死骸が見えませんで、扱帯のみ残ったから、

 友「おいお村〳〵、おいお村もう死骸が見えなくなったか、勘忍してくんな、己だけ死におくれたが、とても此処じゃアしねねえから吾妻橋から飛込むから、今は退潮ひきしお上汐あげしおか知らないが、潮に逆らっても吾妻橋まで来て待ってくんな、勘忍してくんな、死におくれたから」

 と愚痴を云いながらようやどてのぼりましたが、頭髪あたまもとよりさんばらになって居り、月代さかやきりこわしたなりでひょろ〳〵しながら吾妻橋まで来たが、昼ならどのくらい人が驚くか知れません。其の時まだチラ〳〵提灯が見えて人通りがあるから、人目に懸ってはならんと云うので吾妻橋を渡り切ると、海老屋えびやという船宿があります。其処そこへ来てトン〳〵〳〵〳〵、

 友「親方々々私だ明けておくんなさい〳〵、親方私だよ」

 親方「何方どなたです」

 友「私だよ」

 親「何方です」

 友「芝口しばぐち紀伊國屋きのくにやの友之助ですよ」

 親「友さんお上りなさい、誠にお珍しゅうございます、おやどうなすった」

 友「もうねえ、余所よそのねえ、知らない船宿から乗って上ろうとして船を退ずらかしたものだから川の中へおっこって、ビショ濡れでようやく此の桟橋から上りました」

 親「まアしからねえ奴だねえ、無闇とお客を落すなどゝはひどい奴です、さぞお腹が立ちましたろう、何しろ着物を貸して上げましょう、風を引くといけません、なんですあかい扱帯が垂下ぶらさがっていますねえ」

 友「船頭がこんな物を垂下げやがって、仕様のねえ奴です…親方、なんでも宜しゅうございますが気の付くように飲まない口だが一杯出しておんなさい」

 親「宜しゅうございます、おい己の〓(「※」は「「褞」で「ころもへん」のかわりに「いとへん」をあてる」)どてらを持って来な」

 と着物を着替きかえ、友之助は二階の小間こまに入って、今に死のう、人が途断とぎれたら出ようと思って考えているから酒ものどへ通らず、只お村は流れたかと考えて居りますと、広間の方で今上って来たか、前からいたのかそれは知りませんが、がや〳〵と人声がするから、能く聞いてみると、どうもお村の声のようだから、はてなと抜足ぬきあしをして廊下伝いに来て襖に耳を寄せると、中にはかん〳〵燈火あかりきまして大勢人が居ります。

 文治「姉さん、お前能く考えて御覧なさい、お前さんは義理を立って又飛込とびこもうと云うのは誠に心得違いと云うものだ、と云うはお前さんの寿命が尽きないので、私共の船の船首みよしはな突当つきあたって引揚げたのは全く命数の尽きざる所、其の友さんとかは寿命が尽きたから流れて仕舞ったのだに、それをお前さんが義理を立って又飛込とびこもうと云うのは誠に心得違いだ、それよりは友さんも親族みよりのない人なら其の人の為には香花こうはなでも手向たむけた方が宜しい、またおっかさんもお前さんを女郎に売るとか旦那を取れとか、お前さんの厭な事をしろと云う訳はないから、それは私がどうか話を付けて上げよう、左様ではございませんか」

 田舎客「左様でがんすとも死のうと云うははなはだ心得違い、若い身そらと云うは差迫りますと川などへ飛込んでおっんで仕舞うが、そんな駄目な事はがんせん、能く心を落付けてお頼み申すがい」

 森松「本当です、お前は芸者じゃアないか、お前は芸者だから先が惚れたんだ、いゝかえ、うぬが勝手に主人の金をつかやアがって言い訳がないから死ぬのだが、それに附合つきあって死ぬやつがあるものか、死んだ奴は自業自得じごうじとくだ、お前は身の上を旦那に頼んできまりを付けて仕舞って、跡へ残って死んだ人の為に線香の一本も上げねえ、ウンと云って仕舞いねえ、旦那に任せねえ」

 村「はい、有難う存じます、どうぞおふくろの方さえい様にして下されば、折角の御親切でございますから、私の身の上は貴所方あなたがたにお任せ申します」

 と云うのが耳に入ると、友之助はおこったの怒らないのじゃアない、借着の〓(「※」は「「褞」で「ころもへん」のかわりに「いとへん」をあてる」)どてら姿なり突然いきなり唐紙からかみを明けて座敷へ飛込みまして物をも云わせずお村のたぶさを取って二つ三つ打擲致しましたから、一座の者は驚いて、

 森「なんだ〳〵〳〵何だ〳〵何処どこの人だか此処こゝへ入ってはいけません」

 友「はい〳〵此のお村にばかされまして、今晩牛屋の雁木で心中致しました自業自得のくたばぞこないでございます」

 文「それじゃアお前さんがお村さんと約束をして飛込んだ友之助さんと云う人かえ」

 友「へいそうです…これお村、能く聞け、手前のような不実な奴が世の中にあるか、手前の方で一人で死ぬと云って愚痴を云い、おれも死のうと云うと一緒なら死花しにばなが咲くと云ったじゃないか、己は死後しにおくれて死切しにきれないからようやどてへ上って、吾妻橋から飛込もうと思って来た処が、まだ人通りがあって飛こむ事もならねえから、此の海老屋へ来てひそんでいたから手前が助かって来た事を知ったのだ、し知らずに己が吾妻橋から飛こんで仕舞ったら手前は跡で此の方に身を任せて、線香一本で義理をたて了簡りょうけんだろう、そんな不人情と知らずに多くの金をつかい果たして実に面目ない」

 文「まア〳〵待ちなさい、しばらく待っておくんなさい、どうか待って下さい、腹を立ってはいかない、お村さんはお前さんが死んで仕舞ったと思って義理がわるいから是非死のうと云うのを、わし種々いろ〳〵と云って止めたからで、決して心が変ったと云う訳ではないから落付いて話が出来ます」

 友「宜しゅうございます、そう云う腹の腐った女でございますなら思いきりますから、女房にょうぼにでも情婦いろにでも貴方あなたの御勝手になさい、左程さほど執心しゅうしんのあるお村なら長熨斗ながのしをつけて上げましょう」

 文「わしはお村さんとやらに初めてお目に懸ったので、此の上州前橋の松屋新兵衞さんと云うお方と一緒に、今日上流うわてで一杯飲んで帰る時、船首みよしにぶつかった死骸を引揚げて見ると、すぐに気が付いたから、塩梅あんばいだと思って段々様子を聞くと、これ〳〵だと云って又飛込もうとするから、一旦助けたものを、そんなら死になさいとは云われないから、種々いろ〳〵異見をして死ぬ事を止めたのだが、お前さんが助かって来ればこんな目出たいことはない、元々二人とも夫婦になればいのでしょう、わしが惚れてゞもいると思われちゃア困りますが、うちの一軒も持たせる工夫をして上げましょう、そうしたらお前さんのうたぐりも晴れましょう」

 友「へー、それはどうも有がとうございます、此のかたは本所の剣術の先生かえ」

 村「いゝえ何処どこの方か初めての方が、実に親切に介抱をして下すったから、お礼を云うのを彼様あんな悪たいをついて済まないじゃないか、謝まっておくんなさい」

 友「誠にわたくしがあやまった、誠にどうも相済みません、わたくし取上とりのぼせていて貴所方あなたがたはお村の身請みうけをするお客と存じまして、とんでもない事を申しましたが、どうか御勘弁を願います、貴方は何方どちらの方でございます」

 文「私も取紛とりまぎれてお近付きになりませんが、私は浪島文治と云う浪人でございます、不思議な御縁で今晩お目に懸りました、どうか幾久しゅう」

 友「お村とわたくしを本当に媒人なこうどになって夫婦にして下さいますか、どうぞ願います、拝みますから」

 文「無闇に拝んでも行けませんが、どうすれば夫婦になれるか、其の様子を伺いたい」

 友「別にむずかしい事はございません、わたくしは主人の金を二百六十両余遣い果たして居りますから、これはどうしても大晦日までに返さんければ主人の前が立ちません、其のほかにもありますが、ず二百六十両なければどうしても生きてはいられない義理になって居りますから此の世で添えないくらいなら死ぬ方がましと覚悟を致しました、お村も義理のわるい借財があって、旦那を取らんければどうしても女郎じょうろに売られるから死んで仕舞うと覚悟を致した処から、ついに心中する事になりました、どうか大晦日までに二百六十両を貴方御才覚下すって、返して下さいまして、其の外に百両程ありますから其の借を返して下さいまして、お村のおふくろは慾張った奴でございますから、貰いきりにするには三百両とも申しましょう、それをお母に遣って下さいまして、店の一軒も持たせて下さるように願います」

 文「莫大ばくだいに金がる、それは困ります、中々わし無禄むろくの浪人で金のる木を持たんから六七百両の金はない。こと押詰おしつまった年の暮でしようがないが、金をよしにしてどうか助ける工夫はありませんか」

 友「それがいけない故に死ぬ了簡にもなったのでございますから、若し金が出来なければどうでもこうでも死にまする覚悟でございます」

 文「そんな事とは知りませんから、うっかりお助け申そう夫婦にして上げようと云ったのはあやまりだ、飛んだ事をしましたねえ、しかし一旦助けようと云って、そんなら金が出来ん手を引くから死になさいと云うのも男が立たず、新兵衞さん当惑致しましたねえ」

 新「文治郎様それは御心配なさいますな、松屋新兵衞が附いて居ります、二人には何も縁はねいが、貴方あんたにはなんでアノ業平橋で侍に切られる処を助かった大恩があるから、お礼をしていと思っても受けないから、なんぞと思っていた処、さいわいだから金ずくで貴方の男が立つなら金を千両出しましょう、えー出しやす」

 文「いゝや」

 新「いや出します」

 文「でも」

 新「金は千両ぐらい出します、足りなければ三千両出しやす」

 文「お前さん方は仕合しやわせだ、此の方がねえ金を出して下さると云うから命の親と思うが宜しい、こんな目出たい事はない」

 友「有難うございます、松屋さまどうぞ決して御損はかけません、稼ぎますればどうかしてお返し申しますから、只今の処一時お助けを願います」

 村「有がたい事、って二人で助かる訳なら笄なども遣って仕舞わなければよかった」

 とこれから松屋新兵衞は山の宿しゅくの宿屋へ帰り、お村と友之助は海老屋へ預けまして、翌日紀伊國屋の主人からお村のおふくろへ掛合に参りますのが一つの間違いになると云うお話になります。


  六


 文治が友之助を助けた翌日、お村の母親の所へ掛合かけあいに参りまして、帰りがけに大喧嘩の出来る、一人の相手は神田かんだ豊島町としまちょうの左官の亥太郎いたろうと申す者でございます。其の頃婀娜あだは深川、勇みは神田と端歌はうたの文句にも唄いまして、婀娜は深川と云うのは、其の頃深川は繁昌で芸妓げいぎが沢山居りました。夏向座敷へ出ます姿なりでも縮緬ちりめんでも繻袢じゅばんなしの素肌すはだへ着まして、汗でビショぬれになりますと、直ぐに脱ぎ、一度りであとは着ないのが見えでございましたと申しますが、婀娜な姿なりをして白粉気おしろけなしで、つぶしの島田に新藁しんわら丈長たけながを掛けて、こうがいなどは昔風の巾八分長さ一尺もあり、狭い路地は頭を横にしなければ通れないくらいで、立派を尽しましたものでございます。又勇みは神田にありまして皆腕力があります、ワン力と云うから犬の力かと存じますとそうではない、腕に力のあるものだそうでございます。腕を突張つッぱおれは強いと云う者が、開けない野蛮の世の中には流行はやりましたもので、神田の十二人のいさみは皆十二支を其の名前に付けて十二支の刺青ほりものをいたしました。大工の卯太郎うたろううさぎの刺青をれば牛右衞門うしえもんは牛を刺り、寅右衞門とらえもんは虎を刺り、皆紅差べにざしの錦絵にしきえのような刺青を刺り、亥太郎は猪の刺青を刺りましたが、此の亥太郎は十二人のうちでも一番強く、今考えて見れば馬鹿々々しい訳ですが、実に強い男で「これは亥太郎には出来まい」と云うと腹をたって、「何でも出来なくって」と云い、人が蛇や虫を出して、「これが食えるか」と云うと「食えなくって」と云って直ぐに食い、「亥太郎幾ら強くってもこれは食えめえ」と云うと「食えなくって」と云いながら小室焼こむろやきの茶碗や皿などをぱり〳〵〳〵と食って仕舞い、気違いのようです。ある時亥太郎が門跡様もんぜきさま家根やね修復しゅふくしていると、仲間の者が「亥太郎何程なにほど強くっても此の門跡の家根から転がりおちることは出来めえ」と云うと「出来なくって」と云っての家根からコロ〳〵〳〵と堕ちたから、友達は減ず口を利いて飛んだ事をしたと思って冷々して見ていると、ひらりっとたいをかわして堕際おちぎわで止ったから助かりましたが危い事でした。門跡様では驚いて、これから屋根へ金網を張りました。あれはこうの鳥が巣をくう為かと思いました処が、そうではない亥太郎から初まった事だそうでございます。此の亥太郎が大喧嘩をいたしますのは後のお話にいたしまして、さて文治はお村を助けました翌日、友之助の主人芝口三丁目の紀伊國屋善右衞門ぜんえもんの所へ参り、友之助は柳橋の芸者お村と云うものに馴染み、主人の金をつかい込み、申訳がないから切羽詰って、牛屋の雁木からお村と心中するところを、計らずもわしが通り掛って助けたが、何処までもお前さんがやかましく云えば、水の出花の若い両人ふたりた駈出して身を投げるかも計られないから、うかわしに面じて勘弁してくれまいか、そうすれば思い合った二人が仲へわしが入り、媒妁なこうどとなって夫婦にして末永く添遂そいとげさせてやりたいから、と事を分けて話しました処が、紀の善も有難うございます、左様おっしゃって下さるなら遣い込の金子は、当人が見世を出し繁昌の後少々ずつ追々に入金すれば宜しい、しか暖簾のれんはやる事は出来ないが、貴方あなたが仰しゃるなら此の紀伊國屋の暖簾も上げましょう、代物しろものも貸してやりますが、当人の出入でいりほかの奉公人に対して出来ませんから止める。と事を分けての話に文治もおおいに悦んで、帰り掛けに柳橋の同朋町どうぼうちょうに居るお村の母親お崎ばゞあの所へ参りました。

 文「森松、おれう云う所へ来たことはないから手前が先へけ、此処こゝじゃアないか」

 森「此処です……御免ない、お村さんのうち此方こっちかえ」

 文「なんだ愚図々々分らんことを云って、丁寧に云えよ」

 森「丁寧に云い付けねえから出来ねえ……お村さんの処は此方こちらかね」

 さき「はい、誰だえ、お入りよ、えいどんかえ」

 森「箱屋と間違えていやアがらア」

 と云いながら、つが面取格子めんとりごうしを開けると、一けんの叩きに小さい靴脱くつぬぎがありまして、二枚の障子が立っているから、それを開けて文治が入りました。其の姿なり藍微塵あいみじんの糸織の着物に黒の羽織、絽色鞘ろいろざや茶柄ちゃつかの長脇差を差して、年廿四歳、眼元のクッキリした、眉毛まゆげの濃い、人品骨柄こつがらいやしからざる人物がズーッと入りましたから、ばゞあはお客様でも来たのかと思って驚き、

 婆「さア此方こちらへ、うもきたない処へ能く入っしゃいました」

 文「御免なさい、始めてお目に懸りました、お前さんがお村さんのおっかさんですか」

 さ「はい、お村の母でございますよ、毎度御贔屓ごひいきさまになりまして有難うございます、宅にばかり居りますから、お座敷先は分りませんで、おっかさん斯う云う袂落たもとおとしを戴いたの、ヤレ斯う云う指環ゆびわを戴いたのと云いましても、わたくしにはお顔を存じませんから一向お客様の事は存じませんが、の通りの奴で何時いつまでも子供のようですから、冗談でもおっしゃる方がありますと駈け出して仕舞う位で、お客様に戴いた物でも持栄もちばえがございません、指環をめてお湯などへ往ってはげるといけないと云うと、はげやアしない真からきんだものなどと申して誠にわたくしも心配致します、オホヽヽヽヽ、貴方様あなたさまは番町の殿様で」

 文「いや手前は本所業平橋にる浪島文治郎と申す至って武骨者、以後幾久しくお心安く」

 さ「はい、業平橋と云う所は妙見様みょうけんさまく時通りましたが、あゝ云う処へお住いなすっては長生ながいきをいたしますよ、彼処あすこがお下屋敷しもやしきで」

 文「いえ〳〵、わしは屋敷などを持つ身の上ではありません、無禄の浪人です、おっかさん実はお村さんのことにいて話があって来ましたが、お村さんはわしの処へ泊めて置きましたが、お知らせ申すのが遅くなりましたから、さぞお案じでございましょうと存じまして」

 さ「おや、お村があなたの所に、そんなら案じやしませんが、朝参りに平常ふだん姿なりで出ましたり帰りませんから、方々探しても知れませんでしたが、貴方様の所へっていると知れゝば着替えでも届けるものを、何時いつまでもお置きなすって下さいまし、安心して居りますから」

 文「いやそう云う訳ではない、お母さんが聞いたら嘸お腹立でしょうが、実は芝口の紀の善の番頭友之助がお村さんと昨年来深くなり、其の友之助もお村さんゆえ多くの金を遣い果し、お村さんも借財が出来、互いに若い同士で心得違いをやって、実は昨夜牛屋の雁木で心中する所を、計らずわしが助けたから、直ぐにお村さんばかり連れて来ようとも存じましたが、若い者が何か両人ふたりでこそ〳〵話をしているのを、無理に生木なまきを裂くのも気の毒だから、昨夜はわしうちへ両人を泊めて置いて、相談に参った訳です」

 さ「あらまア呆れますよ、心中するなんて親不孝な餓鬼ですねえ、まアなんてえ奴でしょう、そうとも存じませんで方々探して居りました、何卒どうぞ直ぐにお村を帰して下さい」

 文「それは帰すことは帰すが、そこが相談です、それ程までに思い合った二人だから、夫婦にしないと又二人とも駈出して身を投げるかも知れないから、わしが中へ入って二人共末長く夫婦にしてやりたい心得だから、うかたった一人のお娘子だが、友之助にやっては下さらんか、わし媒妁なこうどになります、紀の善でも得心してわしような者でもお前さんに任せると云って、見世を出し、代物しろものまで紀の善から送ってくれるから、商売を始めれば当人も出世が出来、お前さんがお村さんをやってくれゝば、事おだやかにおさまりますからうかって下さいな」

 さ「いえ〳〵、飛んでもない事を云う、お気の毒だが遣れません、たった一人の娘です、それを遣っては食うことに困ります」

 文「それは遣り切りではない、嫁にやるのだからお前さんは何処までもしゅうとだによって引取っても宜しいのだが、お前さんも斯う云う処にすいな商売をしている人だから、矢張り隠居役に芸者屋をして抱えでもして楽にお暮しなさい、其の手当として友之助の方からは一銭も出来ませんが、私の懐から金子五十両出して上げますから、それで抱えでもして気楽におでなさる方が宜しかろうと考える、又毎月まいげつ小遣こづかいも多分は上げられないが、友之助に話して月々五両ずつ送らせるようにするからうか得心して下さい」

 さ「お気の毒だが出来ません、能く考えて下さい、なんだとえお前さんなんぞは斯う云う掛合を御存じないのだねえ、お前さんは生若いお方だから、斯う云う中へ入ったことがないから知らないのだろうが、お村はこれから私が楽をする大事の金箱娘かねばこむすめです、それを他所よそへ遣って代りを置けなんて、流行はやるか流行らないか知れもしない者に芸を仕込んだり、いゝ着物を着せておかれるものか、それでわずか五両ばかりの小遣を貰って私が暮されると思いますかえ、お前さんは柳橋の相場を御存じがありませんからサ、朝戸を開ければ会の手拭の五六本も投げこまれて交際つきあいの張る事は知らないのだろう、お前さんじゃア分らないから、分る者をおよこしなさい、お村は直ぐに帰しておくれ」

 文「だがおっかさん、五両と極めても当人が店を出して繁昌すれば、十両でも廿両でも多く上げられるようになるのが友之助の仕合せと申すもの、無理に二人の中を裂いて、又駈出して身でも投げると、かえってお前さんの心配にもなるから、昨夜ゆうべ牛屋の雁木で心中したと思って諦めて下さい」

 さ「死んで見れば諦めるかもしれねえが、あのおむらが生きているうちは上げられません、七歳なゝつのときに金を出して貰い、芸を仕込んで今になってポーンと取られてたまるものかね、出来ません、おけえしなすって下さい、いけぶてい餓鬼だ、私を棄てゝ心中するなんて、そんな奴なら了簡があります、愚図々々すれば女郎じょうろにでもたゝき売って金にして埋合うめあわせをするのだ」

 文「それじゃアわしの顔に障るからどうかわしに面じて」

 さ「出来ませんよ、お前さんなんざア掛合をしらねえ小僧子こぞっこだア、青二才あおにせいだ、もっと年を取った者をおよこし、なんだ青二才の癖に、何だ私の目から見りゃアおめえなんざア雛鳥ひよっこだア、卵の殻がけつに付いてらア、直ぐにけえしてくんな、けえしようが遅いと了簡があるよ、親に無沙汰で何故娘を一晩でも泊めた、そのかど勾引かどわかしにするからそう思え」

 森「旦那黙っておいでなせえ、此のばゞあこん畜生、今聞いていりゃア勾引だ、誰の事を勾引と云やアがるんだ、娘の命を助けて話を付けてやるに勾引たアなんだ」

さ「ぐず〳〵云わずに黙って引込ひっこんでいろ、兵六玉屁子助ひょうろくだまへごすけめ」

 森「おや此の畜生屁子助たアなんだ」

 文「これさ黙っていろ、それではうあっても聞入れんか」

 さ「かれなけりゃアどうするのだ」

 文「肯かれんければうする」

 と云いながら、ばゞあの胸ぐらを取ってギューッと締めましたから、

 婆「あた〳〵どうするのだ」

 文「何うもしない、手前のような強慾ごうよく非道な者を生かして置くと、生先おいさき長き両人の為にならん、手前一人をくびり殺して両人を助ける方が利方りかただからナ、此の文治郎が縊り殺すから左様心得ろ」

 さ「あいたた〳〵恐れ入りました、上げますよ〳〵、上げますから堪忍して下さい、娘の貰引もらいひきのどを締る奴がありますか、軍鶏しゃもじゃアあるまいし、上げますよ」

 文「屹度きっとくれるか、これ〳〵森松、此の婆の云う事はグル〳〵変るから店受たなうけか大屋を呼んで来い」

 と云うから森松は急いで大屋を呼んで来ました。

 大「道々御家来様から承りますれば、お村を助けて下すった其の御恩人の貴方様へ此の婆が何か分らんことを申すそうで、此奴こいつひどい婆です、貴方様の御立腹は御尤ごもっともの次第です」

 と此の家主いえぬしが中へ入りまして五十両の金子を渡しまして、娘を確かに友之助に嫁に遣ったと云う証文を取り、懐中へ入れて文治はお村の宅を出まして、

 文「森松うだ、ひどい婆だなア」

 森「苛い奴です、咽を締めたから死ぬかと思って婆が驚きやアがった」

 文「なアにあれはおどしたのサ、あゝ云う奴はこらさなければいかん、しか大分だいぶ空腹になった」

 森「くうふくてえなアんで」

 文「腹が減ったから飯を喰おうと云う事よ、何処どこか近い処にないか」

 森「馬喰町ばくろちょう三丁目の田川たがわきましょう」

 と二人連れで馬喰町四丁目へ掛ると、其の頃吉川よしかわと申す居酒屋がありました。其の前へ来ると黒山のように人立ひとだちがしているのは、の左官の亥太郎ですが、此の亥太郎は変った男で冬は柿色の〓(「※」は「「褞」で)どてらを着、夏は柿素かきそ単物ひとえものを着ていると云う妙な姿なりで、何処で飲んでも「おい左官の亥太郎だよ、銭は今度持って来るよ」と云うと、棟梁とうりょうさん宜しゅうございますと云って何処でも一文なしで酒を飲ませる。其の代りには堅いから十四日晦日に作料を取れば直ぐにチャンと払いまして、今度又借りて飲むよと云うから、何時いつでも棟梁さん宜しいと云われ、随分売れた人でした。それが吉川では番頭が代って亥太郎の顔を知らなかったのが間違いの出来るもとで、

 亥「番頭さん相変らず銭がないから今度払いを取った時だぜ」

 番「誠に困りやす、代を戴かなくちゃア困りますなア」

 亥「困るって左官の亥太郎だからいゝじゃアねえか」

 番「亥太郎さんとおっしゃるか知れませんが銭がなくっては困ります」

 亥「左官の亥太郎だよ」

 番「誰様どなたさまかは存じませんが、飲んで仕舞ってから払いをしなければ食逃げだ」

 亥「ナニ食逃げとは何をぬかす」

 と云いながら職人で癇癖かんぺきに障ったから握りこぶしもって番頭をなぐりましたが、右の腕に十人力、左の手に十二人力あります、うして左の手に余計力があるかと云うに、これは左官のせいで、左官と云う者は刺取棒さいとりぼうで土を出すのを左の手の小手板で受けるのは何貫目なんがんめあるか知れません、それゆえに亥太郎の左手が力が多いので、その大力無双だいりきぶそうの腕で撲られたから息の根が止るばかりです。

 亥「これ、能くおれの顔を見て覚えて置け、豊島町の亥太郎だぞ」

 と云う騒ぎに亭主が奥から駈出して来て、

 主人「申し棟梁さん、腹を立たないでおくんなさい、これは一昨日おとゝい来た番頭でお前さんの顔を知らないのですから」

 亥「己は弱い者いじめはきれえだが食逃げとはなんでえ」

 主「棟梁さん勘忍しておくんなさい」

 としきりに詫をしている。只今なればきに棒を持って来てこれ〳〵と人を払って、詰らぬものを見ていて時間をついやすより早く往ったが好かろうと保護して下さるが、其の頃は巡査がありませんから追々人立がして往来が止るようになりました。文治は斯う云う事を見ると捨てゝ置かれん気性でございますから心配して、

 文「大分だいぶ人立がしているがなんだえ」

 森「生酔なまよいが銭がねえと云うのを、番頭が困るって云ったら番頭を撲りやアがって」

 文「可愛そうに、商売の障りになるから其の者が銭がなければ払ってやって早く表へ引出してやれ」

 森「え、御免ねえ〳〵、おい兄い々々こゝでそんな事を云っちゃア商売の障りにならア表へ人が黒山のように立つから此方こっちへ来ねえ〳〵」

 と引出して、今ではありませんが浅草見附あさくさみつけ石垣いしがきの処へ連れて来て、

 森「兄い々々腹ア立っちゃアいけねえ、彼処あすこでごた〳〵しちゃア外聞げいぶんが悪いやア」

 亥「おいよ、有難ありがてえ、己は弱い者いじめは嫌いだが食逃と云ったから撲ったのだ、商売の妨げをして済まねえがあとで訳を付ける積りだ、おめえ誰だっけ」

 森「己は本所の番場の森松よ」

 亥「そうか、本所の人か、おらア又豊島町のわけしゅかと思った、見ず知らずの人に厄介やっかいになっちゃア済まねえ」

 森「これサ、銭があるのねえのと外聞げいぶんが悪いじゃアねえか、銭がなけりゃア己が払ってやるからあとに構わず往って仕舞いねえ」

 亥「なに、銭がなけりゃア払って置くと、んだこれ、知りもしねえ奴に銭を払って貰うような亥太郎と思ってやアがるか」

 森「おや生意気な事を云うな、銭がねえってから己が払ってやろうってんだ、なんでえ」

 亥「なに此の野郎め」

 と力に任せてポーンと森松の横面よこっつらちましたから、森松はひょろ〳〵石垣の所へ転がりました。文治は見兼てツカ〳〵とそれへ参り、

 文「これ〳〵なんだ、何も此の者を打擲する事はない、これは己の子分だ、少しの云い損いがあったればとて、手前が喧嘩をしている処へ仲人に入った者を無闇に打擲すると云うのは無法ではないか、今日こんにちの処は許すが以後は気をけろ、さっさとけ」

 亥「なに手前てめえなんだ、これ己の名前目なめえもくを聞いて肝っ玉を天上へ飛ばせるな、神田豊島町の左官の亥太郎だ、己を知らねえかい」

 亥「そんな奴は知らん、己は業平橋の文治郎を知らんか」

 亥「なにそんな奴は知らねえ、此の野郎」

 と文治郎の胸ぐらを取って浅草見附の処へとつゝゝゝゝと押してきました。廿人力ある奴が力を入れて押したから流石さすがの文治もよろめきながら石垣の処へ押付けられましたが、そこは文治郎柔術やわらを心得て居りますから少しも騒がず、懐中から取出した銀の延煙管のべぎせるを以て胸ぐらを取っている亥太郎の手の上へ当てゝ、ヤッと声を掛けて逆にねじると、力を入れる程腕の折れるようになるのが柔術じゅうじゅつの妙でありますから、亥太郎はもろくもばらりっと手を放すや否や、ういうはずみ其処そこへドーンと投げられました。力があるだけにお強く投げられましたが、柔術で投げられたから起ることが出来ません。流石の亥太郎も息が止ったと見えましたが、しばらくすると、

 亥「此の野郎、己を投げやアがったな、覚えていろ」

 と云いながら立上ってばら〳〵〳〵と駈出しましたから、彼奴あいつ逃げるかと思って見て居りますと、亥太郎は浅草見附へ駈込みました。只今見附はございませんが、其の頃は立派なもので、見張所には幕を張り、鉄砲が十ちょうやりが十本ぐらい立て並べてありまして、此処こゝは市ヶ谷長円寺谷ちょうえんじだに中根大隅守様なかねおおすみのかみさま御出役ごしゅつやくになり、はかまを付けた役人がずーっと並んでいる所へ駈込んで、

 亥「御免なせえ、今喧嘩をしたが、空手からってつ物がねえから此処にある鉄砲を貸しておくんねえ」

 役人「なんだ、手前狂人きちがいか」

 亥「狂人きちげえも何もねえ、貸しておくんねえ」

 と云いながら突然いきなり鉄砲をひっさげ飛ぶが如くに駈出しましたが、無鉄砲と云うのはこれから始まったのだそうでございます。文治郎はこれを見て驚きました。今迄随分乱暴人も見たが、見付の鉄砲を持出すとはしからぬ奴だが、鉄砲に恐れて逃げる訳にはかず、よんどころないから刀の柄前つかまえへ手を掛け、亥太郎の下りて来るのを待って居りました。これが其の頃評判の見附前の大喧嘩でございますが、これより如何いかゞ相成りましょうか、次回つぎに申し上げます。


  七


 さて前回にべました文治郎と亥太郎の見附前の大喧嘩は嘘らしい話ですが、神田川かんだがわ近江屋おうみやと云う道具屋のうちに見附前の喧嘩の詫証文あやまりじょうもんと、鉄ごしらえの脇差と、柿色の単物が預けてあります。これは現にわたくしが見たことがございますので、左官の棟梁亥太郎の書いたものであります。幾ら乱暴でも公儀のお道具を持出すと云うのはひどい奴で、此の乱暴には文治郎も驚きましたが、鉄砲を持って来られては何分なにぶん逃げる訳にもゆかんから、關兼元せきかねもと無名擦むめいすりあげの銘剣のつかへ手を掛け、居合腰いあいごしになって待って居りましたが、これはうしても喧嘩にはなりません。見付の役人がすてておきません。馬鹿だか気違いだか盗賊だか分りませんが、飾ってある徳川政府のお道具を持出しては容易ならんから、見附に詰め合せたる役人が、突棒つくぼう刺股さすまた(「※」は「かねへん+「戻」で中に「大」のかわりに「犬」をあてる」)などを持って追掛おっかけて来て、折り重り、亥太郎を俯伏うつぶせに倒して縄を掛け、すぐに見附へ連れて来て調べると、亥太郎の云うには、

 亥「わっちが黙って持って往ったら泥坊でしょうが、喧嘩をするのに棒がねえから貸しておくんねえって断って持って往ったから縛られるこたアねえ、天下てんがの道具だから貸してもいだろう、わっち天下てんかの町人だ」

 と云って訳が分らないが、天下の町人と云うかどで見附から町奉行まちぶぎょうへ引渡しになって、別にとがはないが、天下の飾り道具を持出した廉で吟味中入牢じゅろうを申し付けると云うので、暮の廿六日に牢ゆきになりました。此の事を聞いて文治郎は気の毒に思い、段々様子を聞くに、亥太郎には七十に近い親父おやじがあると云う事が分り、義のある男ですからうか親父を助けてやりたい、稼人かせぎにんが牢へき老体の身で殊に病気だと云うからさぞ困るだろう、見舞に往ってやろうと懐中へ十両入れて出掛けました。其の頃の十両はたいした金です。森松を供に連れて神田豊島町二丁目へ参り、大坂屋おおさかやと云う粉屋こなやの裏へ入り、

 文「森松こゝらかな」

 森「へえこゝでしょう、腰障子に菱左ひしさに「い」の字が小さくすみの方に書いてあるから」

 文「こゝに違いない、手前先へ入れ」

 森「御免なさい」

 と腰障子を開けるとやっと畳は五畳ばかり敷いてあって、一間いっけん戸棚とだながあって、壁とへッついは余り漆喰じっくいで繕って、商売手だけに綺麗に磨いてあります。此処こゝに寝ているのが亥太郎の親父おやじ長藏ちょうぞうと申して年六十七になり、頭は悉皆すっかり禿げて、白髪の丁髷ちょんまげで、頭痛がすると見え手拭で鉢巻はちまきをしているが、時々け出すのを手ではめるからおけのたがを見たようです。

 森「御免なせえ」

 長「へえおいでなせえ、なんです長屋なら一番奥の方が一軒明いている、彼所あすこ借手かりてがねえようだが、それから四軒目のうちが明いているが、ちっとばかり造作があるよ」

 森「なんだ、長屋を借りに来たのだと思ってらア、旦那おあがんねえ」

 文「初めてお目に懸りました、貴方あなたが亥太郎さんの御尊父さまですか」

 長「へえおいでなさい、誠に有難う、御苦労様です、なにたいしたことはありませんが、うもお寒くなると腰が突張つっぱっていけません、奥のきんさんがわっちの懇意のお医者様があるから診て貰ったら宜かろうと云ったから、なアにお医者を頼む程じゃアねえと云っておいたが、それで来ておくんなすったのだろう、早速ながら脈を診ておくんなさい」

 森「何を云ってるんでえ」

 文「医者ではない、お前さんは亥太郎さんの親父おとっさんかえ」

 長「へえ、わしは亥太郎の親父おやじです」

 文「わしは本所の業平橋にいる浪島文治郎と云う至って粗忽者そこつもの、此のとも御別懇に願います」

 長「なに、そう云う訳ですか、生憎あいにく亥太郎が居りませんが、もう蔵は冬塗る方がもちがいゝが、今からじゃア遅い、土が凍りましょう」

 森「何を云うのだ、つんぼだな…そうじゃアねえ、おめえさんは左官の亥太郎さんの親父おとっさんかと聞くのだ、此方こなたは本所の旦那で浪島文治郎と云うお方だ」

 長「なに、江島えじまの天神さまがどうしたと」

 森「分らねえっさんだ、旦那が声が小せいから尚お分らねえのだ、もっと大きな声でお話なせえ」

 文「わしは本所業平橋の浪島文治郎と申すものです」

 長「はア、本所業平橋の浪島文治郎とおっしゃるのか、亥太郎の親父おやじ長藏と申します、お心やすく」

 文「此のたびは誠にお前さんにお気の毒で」

 長「なアに此の度ばかりじゃアない、これは時々起るので、腰が差込んでいけません」

 森「そうじゃアねえ、旦那がお前に近付ちかづきに来たのだよ」

 文「亥太郎さんとわしと見附前で喧嘩を致しましてねえ」

 長「へえ五時いつゝ前に癲癇てんかんが起りましたえ」

 森「そうじゃアねえ、亥太郎あにいと此の旦那と見附前で喧嘩をして、牢ゆきになったから気の毒だって、とっさんお前の所へ此の旦那が見舞みめえに来たのだ」

 長「はあお前さん、うも貴方の様に人柄の優しい人と喧嘩をするとは馬鹿な野郎で、大方くれよって居たのでございましょう、子供の時分から喧嘩早けんかッぱようございまして、番毎ばんごと人にきずを付け、自分も疵だらけになって苦労ばかりさせるが、貴方は能くまア腹立もなく見舞みめえに来て下すって、誠に有難うございます、亥太郎が牢から出れば是非お詫事に連れて出ますから、何うかわしに免じて勘弁しておくんなさい」

 文「何う致しまして、これは心計りですが、亥太郎さんも御気性だからすこやかですみやかに御出牢になりましょうが、それまでの助けにもなるまいが、ほんの土産のしるしに上げますから、何かあったかい物でも買ってあがって下さい」

 長「これはなんです」

 森「これは亥太郎さんが牢へ行っているから、旦那が見舞に下すったのだ、金が十両あるのだ」

 文「そんなことは云わんでも宜しい」

 森「聾的つんてきで分らねえな、おめえに土産にやるんだよ」

 長「なに十両私に下さるとは何たる慈悲深なさけぶけいお方ですかねえ、亥太郎は交際つきあいが広いから牢へ差入れ物をしてくれる人は幾らもありますが、老耄ろうもうしている親爺おやじの所へ見舞に来て下さる方はありません、本当に貴方はお若いに似合にあわない親切な方です、暮に差掛さしかゝってせがれはいず、ようかと思っている処へ、十両とまとまった金を下さるとは有難いことで、御恩の程は忘れません、旦那様何卒どうぞ御勘弁なすって下さい」

 文「なに誠にいさゝかですよ」

 長「赤坂へおいでなさるとえ」

 森「つんぼだからしょうがねえ、きましょう〳〵」

 文「さア帰ろう」

 と森松を連れて宅へ帰りまして、其の年の内にお村と友之助に世帯を持たせなければならんから、諸方を探すと、浅草駒形こまかたに小さいうちだが明家あきやがありましたかられを借受け、造作をして袋物屋の見世を出しました。袋物屋と云うものは店が小さくても金目の物が置けますからい商売でございます。友之助は荷を脊負出しょいだして出入先を歩く、うちにはお村が留守居ながら商売が出来ます。お村が十九で友之助が二十六ですから飯事まゝごと暮しをするようでございます。其の年も暮れ、翌年になり、安永九年二月の中旬なかばに、文治郎の母が成田山なりたさんへ参詣に参りますにき、おかやと云う実のめい清助せいすけと云う近所の使早間つかいはやまをする者を供に連れて出立しゅったつしました。跡には文治郎と森松の両人切ふたりぎりで、男世帯にうじがわくというたとえの通り台所なども手廻りませんで、おまんまを炊くと柔かくっておかゆのようなのが出来たり、こわくって焦げたのなどが出来たりします。友之助はお村に云い付けて、斯う云う時に御恩を返さなければならん、お前おかずこしらえるのが面倒なら、料理屋からかってゞもいゝから毎日何か旦那の所へ持っていってお上げ。と云うので毎日昼頃になると、お村が三組みつぐみ葢物ふたものに色々な物を入れて持って参ります。文治は「お前がそうやって毎日長い橋を渡って持って来るのは気の毒だから来てくれないように」と断っても此方こちらは友之助に云い付けられたから、毎日々々雨が降っても風が吹いても吾妻橋を渡って参ります。或日の事文治郎は森松を使つかいに出して独りで居りますと、空はどんよりとして、梅もう散り掛ってあったかい陽気になって来ました。お村の姿なりは南部の藍の乱竪縞らんたつじま座敷着ざしきぎ平常着ふだんぎおろした小袖こそでに、翁格子おきなごうし紺繻子こんじゅすの腹合せの帯をしめ、髪は達摩返しに結い、散斑ばらふくし珊瑚珠さんごじゅ五分玉ごぶだまのついた銀笄ぎんかんし、前垂まえだれがけで、

 村「旦那、今日こんにちは遅くなりまして」

 文「また来たか、誠に心にかけて毎度旨い物を持って来てくれて気の毒だ、商売をしていればさぞせわしかろうから態々わざ〳〵持って来てくれなくもいゝのに」

 村「おいしくなくってもわたくし手拵てごしらえにして持って参りますが、其の代りには甘ったるい物が出来たり塩っ辛い物が出来たりしますが、旦那に上げたい一心で持って参りますのですから召上って下さいまし」

 文「お前の手拵えとはかたじけない、日々にち〳〵の事で誠に気の毒だ、今日は丁度森松を使つかいにやったから、今自分で膳立ぜんだてをして酒をつけようと思っていた処で、丁度いゝから膳を拵えてかんをつけておくれ、手前と一杯やろう」

 と云うので、お村は立って戸棚から徳利とくりを出して、利休形の鉄瓶てつびんへ入れて燗をつけ、膳立をして文治が一杯飲んではお村にし、お村が一杯飲んで又文治にし、さしつ押えつ遣取やりとりをする内、互いにほんのり桜色になりました。色の白い者がほんのりするのは誠にいゝ色で、色の黒い人が赤くなると栗皮茶のようになります。

 文「お村や、手前は柳橋でも評判の芸者であったが、わし無意気ぶいきもので芸者を買ったことはないが、手前に恩にかける訳ではないが、牛屋の雁木で心中する処を助けて、海老屋へ連れて来て顔を見たのが初めてゞ、あゝ美しい芸者だと思った其の時の姿は今に忘れねえが、の時の乱れた姿はかったなア」

 村「おや様子のいゝ事を仰しゃること、うちにいると私のような無意気者はないと姉さんに云われましたのを、美くしいなどと仰っては間がわるくって気がつまりますよ」

 文「いや真に美くしい女だ、手前が毎日路地を入って来ると、文治郎のうちには母が留守だから隠し女でも引入れるのではないかと、長屋で噂をするものがあるから、それで手前に来てくれるなと云うのだ、友之助も母の留守へ度々来るのは快くあるまいから、もう今日り来てくれるなよ」

 村「あら、参りませんと叱られますから来ない訳には参りません、旦那様は大恩人ですから斯う云う時に御恩返しをして上げろと申し、わたくしも来たいからおいしくなくっても何か拵えてお邪魔に上ります」

 文「手前が来てくれゝば己は有難いが、心中する程思い込んだ同士が夫婦になり、女房が無闇に一人で出歩けば亭主の心持は余りよくあるまい、己は独り者でいる所へ手前が毎日来て、ひょっと悋気りんきでも起しはしないかと思って、それが心配だ」

 村「彼様あんなことをおっしゃる、悋気などはございません、何時いつでも往って来い、彼様あゝやって心中する処を旦那のお蔭で助かったのだから、浪島の旦那がお前をてかけよこせと仰ゃれば直ぐに上げると云って居ります」

 と一寸ちょっと云う口も商売柄だけに愛敬に色気を含んで居ります。まさか友之助がお村をめかけにやるとも申しますまいが、自然と云いように色気があるので、んなものでも酒を飲むと少しは気が狂って来るものと見え、文治もお村をい女だと思った心が失せないか、

 文「手前と斯うやって酒を飲むのが一番いゝ心持だが、し己が冗談を云いかけた時は手前はうする」

 村「おや旦那旨いことばかりおっしゃって私などに冗談を仰ゃる気遣きづかいはありませんが、本当に旦那様の仰ゃることなら私は死んでも宜しい、有難いことだと思って居ります」

 文「それだから手前は世辞を云ってはいかんと云うことよ」

 村「お世辞でもなんでもありません、有難いことゝ思っても仕方がないが、旦那様のような凛々りゝしくって優しいお方はありませんよ」

 文「それそう云うことを云うから男が迷うのだ、罪作りな女だのう」

 と常にない文治郎は微酔ほろよい機嫌きげんで、お村の膝へ手をつきますから、お村は胸がどき〳〵して、平常ふだんからお村は文治郎に惚れて居りましたが、何時いつでも文治はきりりっとしているから云い寄るすべもなくっていたのが、常に変って色めきました文治郎の様子に、

 村「旦那、本当に左様そうなら私は死んでもうございますよ」

 と云いながらっと文治郎の手を下へ置いて立上り、外をのぞいて見てぴったりいり□□□□□□□、□□□□□□□□、□□□□□□て、薄暗くなった時、文治の側へぴったり坐って、

 村「旦那、貴方は本当に私の様なものをそう云って下されば、私は友之助に棄てられても本望ほんもうでございますが、其の時は貴方私のような者でも置いて下さいますか」

 と文治郎の□□□□□□□□□□□が、こんな美しい女に手を取られてもたかゝられてはんな者でもでれすけになりますが、文治郎はにやりと笑い、お村の手を払って立上り、九尺四枚の襖を開け、小窓の障子を開け、表の障子も残らず開け払って元の席へ坐り、

 文「お村もう己の所へ来てくれるな、能く考えて見ろ、去年の暮友之助と牛屋の雁木から心中する所を計らずも助けて、両人ふたりの主人と親に掛合い、世帯しょたいを持たせ、己が媒妁なこうどになって夫婦にした処、友之助も手前も働き、店が繁昌すると云うから目出たいと思い、蔭ながら悦んでいた処、母が留守になり、毎日旨い物を持って来てくれるから、友之助の云い付けもあろうが斯うやって一人でいる文治郎の所へ若い女が毎日来ては、世間に悪評を立てられるかも知れんし、友之助にも済まんと云うのをかずに毎日来るが、今手前の云った言葉はうしたのだ、命を助けられた文治郎の云うことだからいやと云うことが出来ず、世辞に云ったか知らんが、仮令たとえ世辞にもそれは宜しくない、手前がそう云う心得違いでは友之助に言訳が立つまい、今日のは手前が世辞で云ったのであろうけれども宜しくないことだ、此の程も噂に聞けば、友之助の留守には芸者や幇間たいこもちが遊びに来るのをよいことゝし、酒を飲んで三味線さみせんなどを弾いて遊んでいると云うことだが、それはせよ、商人あきんどの女房になって其様そんなことをしては宜しくない、今までの芸者屋とは違うぞ、世間の評もよろしくないから、友之助の留守にはんな男が来ても留守だから上げることは出来んと云ってすみやかに帰せよ、必ず浮いた心を出すな、手前は今のような世辞を云うのが持前であるが、若し誰か手前に惚れて今のようにもたれ掛り、手前のような挨拶あいさつをすれば、それは男だからんな間違いが出来るか知れん、其の時は友之助に対してみさおを破らなければなるまい、己が冗談を云ったら己の手を払いけ、旦那貴方はくないお方だ、私共わたくしども両人ふたりを助けて夫婦にして下すった恩人でありながら、かりそめにも宜くない、此ののちは貴方の所へは参りませんときっぱり云ってくれるくらいな心があれば、己も嬉しく思う、今日の処は冗談にするが以後はならんぞ、さ一杯飲んで帰えれ〳〵」

 と云われてお村はが悪いから真赤になって、猫が紙袋かんぶくろかぶったように逡巡あとびさりにして、こそ〳〵と台所から抜出して仕舞いましたが、さアもう文治郎の所へくことは出来ません。友之助はそんなことは少しも知りませんから、

 友「お村、此の頃は旦那の所へかないがうしたのだえ」

 村「旦那は機嫌かいで、機嫌のいゝ時と悪い時とは大変違いますよ、そうして幾ら堅いと云っても若いから、時々厭なことを云うからあんまり近くかない方がいゝよ、何処どこか離れた所へ越そうじゃないか」

 と云われ、友之助はもとより気のいゝ人だから、

 友「そうか、そんなことがあるのか、それなら他へ越そう」

 と女房の云いなり次第になり、遂に文治郎に無沙汰むさたで銀座三丁目へ引越しましたが、後に文治郎が無名国へ漂流するのもお村の悪い為でありますから、女と云う者は恐るべきものでございます。さてお話二つにわかれまして、の喧嘩の裁判は亥太郎が入牢じゅろうを仰せ付けられ、翌年の二月二十六日に出牢致しましたが、別にとがはないから牢舎ろうやの表門で一百の重打おもたゝきと云うので、むしろを敷き、腹這はらんばいに寝かして箒尻ほうきじりで脊中をつのです。其の打人うちてたゝき役小市こいちと云う人が上手です。此の人のつのは痛くって身体に障らんように打ちますが、刺青ほりもののある者はうしても強そうに見えるからひどく打ちまして、弱そうな者は柔かにちます。亥太郎は少しも恐れないで「早くっておんねえ」などと云い、脊中に猪の刺青がってあり、悪々にく〳〵しいからぴしーり〳〵とちます。大概たいがいの者なら一百打つとうーんと云って死んで仕舞うから五十打つと気付けを飲まして、又あとを五十打つが、亥太郎は少しも痛がらんから、

 獄吏「気付けを戴くか」

 亥「気付なんざア入らねえ、さっさとやって仕舞ってくんねえ」

 と云うから尚お強く打つが、少しもよわりませんで、打って仕舞うとずーっと立って衣服きものをぽん〳〵とはたいて、

 亥「小市さん誠にお蔭様で肩のこりなおりました」

 と云ったが、脊中の刺青がれましてしゝ滅茶めっちゃになりましたから、直ぐ帰りに刺青師ほりものしへ寄って熊にほりかえて貰い、これからくまの亥太郎と云われました。其ののち小市さんの所へ酒を二升持って礼に参り「あなたのお蔭で脊中の刺青が熊になった」と云われた時は流石さすがの小市も驚いたと云う程強い男ですから、牢から出ると、喧嘩の相手の文治郎のどてっ腹をえぐらなければならんと云うので胴金どうがね造りの脇差を差して直ぐにこうと思ったが、そんな乱暴の男でも親の事が気に掛ると見えまして、うちへ帰って見ると、親父はすや〳〵と能く寝て居りますから、

 亥「ちゃん能く寝ているな、勘忍してくんねえ、おらた牢へくかも知れねえ、業平橋の文治を殺して亥太郎のつらを磨くから、おれが牢へ往って不自由だろうが勘忍して呉んねえ」

 と云われ長藏は目を覚し、

 長「手前てめえは牢から出て来てもうちに一日も落付いていず、やれ相談だの、やれなんだのと云ってひょこ〳〵出歩きやアがって、なん権幕けんまくを変えて脇差なんどをげて、また喧嘩にくのだろうが、喧嘩に往くと今度は助かりゃアしねえぞ、喧嘩に往くのならおらア見るのがつれえから、手前てめえ今度出たら再び生きてけえるな」

 亥「ちゃんおらア了簡があって業平橋の文治郎のどてっ腹を抉って腹癒はらいせをして来るのだ」

 長「何だ、腹がいてえと」

 亥「そうじゃアねえ、業平橋の文治郎をたゝっ斬って仕舞うのだ」

 長「此の野郎とんでもねえ奴だ、業平橋の文治郎様の所へはおれがやらねえ、死んでもやらねえ、業平文治郎さまと云うのは見附めえの喧嘩の相手だろう、其のかたを斬りにくんなら己を殺して往け」

 亥「なんだって文治郎を殺すのにおめえを殺して往くのだ」

 長「何もあるものか、手前てめえは知るめえが、去年の暮の廿六日に手前てめえが牢へ往って其の留守に、忘れもしねえ廿八日、業平橋の文治郎様が来て金を十両見舞に持って来てくれた、手前てめえが牢へ往って己が煩っていて気の毒だ、勘忍してくれと云って十両の金をくれた、其の金があったればこそ己が今まで斯うやって露命をつないで来た、其の大恩ある文治郎様に刃物を向けて済もうと思うか、さアくなら己の首を斬って往け、殺して往け、恩をあだけえすのは済まねえから殺して往け、さア殺せ」

 亥「待ちねえちゃん、何か全く文治郎さんがおめえの所へ金を持って来てくれたにちげえねえか、爺」

 長「暮になってうも仕様のねえ所へ十両の金をくれて、それで己が今まで食っていたのだよ」

 亥「そうとは知らずにどてっ腹をえぐろうと思っていた」

 長「なに小塚原こづかっぱらへ往くと、己やらねえ」

 亥「そうじゃアねえ、己が知らねえからよ」

 長「なに不知火関しらぬいぜきを頼むと」

 亥「全く金を十両くれたかよ」

 長「そうよ」

 亥「あゝ後悔した」

 長「なにそんな事を云ってもおれアやらねえ」

 亥「本所から度々名の知れねえ差入物が来ると云ったが、それじゃア文治郎が送ってくれたか、又己の留守に金を十両持って見舞みめえに来てくれたとは己は済まねえ」

 長「何をぐず〳〵云っている、己出さねえ、やらねえ」

 亥「ちゃん、知らねえと云って済まねえなア」

 長「うん済まねえ」

 亥「知らねえからよ」

 長「牢から出たら手前てめえを連れて詫にこうと思っていた」

 亥「直ぐに詫に往くよ」

 長「嘘をつけ、そんなことを云ってまた喧嘩に往くんだろう、己やらねえ」

 亥「大丈夫だよ、案じねえように脇差をおめえに預けるから」

 長「何処どこでこんな物を買ってやがった、詫に往かなければ己を殺せ」

 亥「何か土産を持って往きてえが何がいゝだろう、本所は酒がよくねえから鎌倉河岸かまくらがし豐島屋としまやで酒を半駄かたうま買って往こう」

 長「なんだ、年増と酒を飲みに往く、そんなことはしねえでもいゝ」

 亥「そうじゃアねえ、済まねえから詫にくのだ、安心して寝ていねえ」

 長「己も往きてえが腰が立たねえからとそう云ってくれ」

 亥「それじゃア往って来るよ」

 と正直の男だから鎌倉川岸がしの豐島屋へ往って銘酒を一たる買って、力があるから人に持たせずに自分でかついで本所業平橋の文治の宅へ参り、玄関口から、

 亥「御免なせえ〳〵」

 森「おゝ、こりゃアおいでなせえ」

 亥「いやなんとか云ったっけ、森松さんか、誠に面目ねえ」

 森「己の所の旦那が阿兄あにきのことをア云う気性だから大丈夫だと安心していたがねえ、まア出牢で目出度めでてえや」

 亥「去年の暮おめえ手込てごめにして済まなかった、面目次第もねえ、勘忍してくんねえ、おらア知らねえで旦那のどてっ腹をえぐりにようと思ったら、己のとことっさんのところへ旦那が見舞みめえをくれたと云うことを聞いて面目次第もねえ、旦那にそう云ってくんねえ、土産を持って来るのだが、本所にはろくな酒はあるめえと思って」

 森「ひどい事を云うぜ」

 亥「豐島屋の酒を持って来た、旦那に一ぺい上げて盃をもれえてえってそう云ってくんねえ」

 森「少し待っていねえ、お母様ふくろさんに喧嘩の事なんぞを云うとくねえから、旦那に内証ないしょで話して来るから」

 と森松は奥へ往きますと、文治は母親に孝行を尽して居りますから、森松はそっと、

 森「旦那え〳〵」

 文「なんだ」

 森「見附めえの鉄砲が来ましたよ」

 文「亥太郎が来たか」

 森「来ました、驚きましたねえ、酒を一樽かついで来て旦那に上げてくれって来ました」

 文「逢いたいが、お母様っかさんの前であんな荒々しい奴が話をしては、お驚きなさるといけないから、かど立花屋たちばなやつれって往って、酒肴さけさかなを出して待遇もてなしてくれ、己があとからお暇を戴いてくから」

 森「へー」

 と云って森松は亥太郎を連れて立花屋へ参り、酒肴をあつらえ待っている所へ文治郎が参りまして、

 文「さア此方こちらへ〳〵」

 亥「誠にどうも旦那面目次第しでえもございません、去年の暮はくれえ酔って夢中になったものだから、おめえさんに理不尽なことを云いかけてさぞお腹立でござえやしょう、御勘弁なすって下せえ」

 文「どう致して、目出度めでたく御出牢で御祝ごしゅくし申す、どうしても気性だけあって達者でお目出たい」

 亥「へーどうも」

 文「先刻は又お土産を有難うございます」

 亥「いやうも、誠につまらねえ品でござえやすが、本所にはいゝ酒がねえと思って豐島屋のを一本持って来て、旦那に詫をして盃をもれえてえと思って来ました」

 文「わし衆人しゅうじんと附合うが、お前のような強い人に出会ったことはない、どうも強いねえ」

 亥「わっちも旦那のような強い人に出会ったことはねえ、初めてだ」

 文「見張所の鉄砲を持ち出したのはえらい」

 亥「どうも面目もございません、旦那は喧嘩の相手を憎いとも思わず、わっちちゃんの所へ金を十両持って来てくれたそうで、随分牢へは差入物をよこす人もあるが、爺の所へ見舞みめえに来て下すったはおめえさんばかりで、わっちのような乱暴な人間でも恩を忘れたことはねえから、旦那え、これから出入でいりの左官と思って末長く目をかけておくんなせえ、おめえさんに金を貰ったから有難いのじゃアねえ、おめえさんの志に感じたからどうか末長く願います」

 と云うので、文治郎が盃を取って亥太郎にして、しゅう家来同様の固めの盃を致しましたが、人は助けておきたいもので、後に此の亥太郎が文治の見替りに立ってお奉行と論をすると云うお話でありますが、次回つぎにたっぷりべましょう。


  八


 業平文治が安永の頃小笠原島おがさわらじまへ漂流致します其の訳は、文治が人殺しのとが斬罪ざんざいになりまする処を、松平右京まつだいらうきょう様が御老中ごろうじゅうの時分、其の御家来藤原喜代之助ふじわらきよのすけと云う者を文治が助けました処から、其の藤原に助けられまするので、実になさけは人の為ならでと云う通り、人に情はかけたいものでございます。男達おとこだてなどは智慧もあり又身代しんだいも少しはくなければなりませんし無論弱くては出来ませぬが、文治の住居すまいは本所業平村の只今植木屋の居ります所であったと云うことでございます。文治の居ります裏に四五軒の長屋があります、此処こゝこして来ましたのはぜん申上げました右京様の御家来藤原喜代之助で、若気わかげの至りに品川のあけびしのおあさと云う女郎にはまり、御主人のお手許金てもときんつかい込み、屋敷を放逐ほうちく致され、浪人してしばら六間堀ろっけんぼり辺に居りました其のうちは、蓄えもあったからうやら其の日を送って居りましたが、き詰って文治の裏長屋へ引越ひきこし、毎日弁当をさげては浅草の田原町たわらまちへ内職に参ります。留守は七十六歳になる喜代之助の老母とおあさと云う別嬪べっぴん、年は廿六ですが一寸ちょっと見ると廿二三としか見えない、うすでのたちで色が白く、笑うとえくぼがいります。此の靨と云うものは愛敬のあるものでわたくしなどもやって見たいと思って時々やって見ましたが、顔がしわくちゃだらけになります。おあさは小股こまたの切り上った、おしりの小さい、横骨の引込ひっこんだ上等物で愛くるしいことは、赤児あかごも馴染むようですが、腹の中は良くない女でございますけれど、器量のよいのに人が迷います。所で森松が岡惚おかぼれをしましてちょく〳〵うちの前を通りまして、

 森「えー今日こんちは」

 などとことばをかけたり水を汲んでやったり致しますが、妙なもので若い女が手桶ておけを持ってくと「姉さん汲んで上げましょう」と云いますが、これがおばあさんが行って「一つ汲んでおくんなさい」と云うと、井戸を覗いて見て「塩梅あんばいに水があればいゝが」と云うくらいなことで。森松がちょく〳〵水を汲んでくれたり、買物や何かしてりますから、おあさは手拭の一筋もやったりなどして居りますと、或日のことおあさが云うに、

 あさ「おっかさんが煩っていてじゞむさくって仕様がないよ、何かする側で御膳をべるのはいやだから、森さんお前さんの知っている所でおまんまを喫べよう」

 と云われた時は森松は嬉しくって、

 森「参りやすとも、角の立花屋へ往って待っておいでなせえ」

 と約束して、これから森松は借物の羽織で小瀟洒こざっぱりした姿なりをして出掛けてき、立花屋の門口から、

 森「親方今日こんちやあ」

 立「いや森さんかえ」

 森「二階に(こゆびを見せる)こりゃアいやアしませんか」

 立「なんだい小指を出して、お前さんのおつれかえ、先刻さっきから来ているよ」

 と云われ、森松はニコ〳〵しながらとん〳〵〳〵と二階へあがると、種々いろ〳〵酒肴さけさかなを取っておあさが待って居りまして、

 あ「ちょいと遅いことねえ、おはんが来ないから私は極りが悪くって仕様がないよ」

 森「うちを胡麻化して来ようと思ってつい遅くなりやした」

 あ「あら髪なんぞを結って来るんだものを」

 森「なアにうちを出る時髪を結って来ると云って出ねえと極りが悪いから」

 あ「気にも入るまいが色か何かの積りでゆっくり飲んでおくれな」

 森「大層お肴がありやすねえ」

 あ「さアおあがりよ」

 森「戴きやす、御新造ごしんぞのお酌で酒を飲むなんて勿体もってえねえことです、えーどうも旨いねえ」

 あ「ちょいと種々いろ〳〵森さんのお世話になり、買物をするにも勝手が知れないから聞くと、私が買って上げようと云ってお世話になるから、何か買って上げようと思ったが、うちへ知れると年寄におかしく思われるから思うようにいけないが、これは少しだがお前さんに上げるから」

 森「こんな事をなすっちゃアいけませんよ」

 あ「ちょいと私が、お前さんにあわせの表を上げたいと思って持って来たよ、じゃがらっぽいがねえ銘仙めいせんだよ、ぼつ〳〵してきたならしいけれども着ておくれでないか」

 森「戴く物は夏もお小袖と云うから結構でござえやす」

 あ「斯うしよう、お前の着物の寸法を書いておよこし、良人うちの留守の時縫って上げよう」

 森「こりゃア有難い、これはどうもお前さんのような御気性な人はねえや、ちょくで人をそらさないようにして…あなたのとこの旦那はお堅うござえやすねえ」

 あ「屋敷者だもの、だから不意気ぶいきだよ」

 森「朝ね、黒い羽織を着て出る時、何時いつも路地で逢うから、旦那お早うと云うと、い天気でござるなんかんて云うが、あんな堅い方はありません、一杯戴きやしょう、好い酒だ、わっちアね何時でもうちを出る時、極りが悪いからちょっと往ってやすよと云うと、旦那ア知ってるから森やア酔わねえように飲めよと云われるが、宅じゃア気が詰って飲めねえし、どうも酔えねえようには出来ねえが、宅の旦那は妙ですねえ…どうも有難うござえやす」

 あ「わたしアあねえ気が合わないからうちの藤原と別れ話にして、独り暮しになるからちょく〳〵遊びに来ておくれよ」

 森「へーくくらいじゃア有りやせん、へえ別れるねえ」

 あ「別れるとうちのも屋敷へ帰るし、私もいゝから別れようと思うのさ」

 森「成程気が合わねえ、へえ成程、へえお前さんが独りになればポカ〳〵遊びにきますよ」

 あ「こんな事を云って、私が一生懸命の事を云うが、お前かなえておくれか」

 森「なんの事ですか、あなたの云う事なら聴きますともさ」

 あ「女の口からこんな事を云って聴かないと恥をかくからさ」

 森「聴きますよ、えゝ聴きますとも」

 あ「さげすんじゃアいけないよ」

 森「蔑すむどころか上げにごしますよ」

 あ「本当に無理な事を云って蔑んではいけないよ」

 森「それとも…わっちのような者に惚れる訳はないもの」

 あ「あれさお前じゃアないよ」

 森「わっちじゃアねえ、うだろうと思った」

 あ「お前のとこの文治さんにさ」

 森「こりゃアあきれたねえ、こりゃア惚れらア、男でも惚れやすねえ」

 あ「男振おとこぶりばかりじゃアないよ、世間の様子を聞くと、お前の所の旦那はしもの者へ目をかけ、親に孝行を尽すと云うことだから私アつく〴〵惚れたよ、うせ届かないが森さん、私が一人で暮すようになれば旦那を連れて来ておくれ、お酒の一杯も上げたいから」

 森「こりゃア惚れますねえ、うちの旦那には女ばかりじゃアねえ男が惚れやすが、堅いからねえ、うとかして連れてきましょう、わっちが旦那を連れて新道しんみちを通る時、お前さんが森さんお寄んないと云うと、わっちが旦那こゝはせんうちの裏にいた藤原の御新造ごしんぞうちだから鳥渡ちょっと寄りましょうと云うので連れ込むから」

 あ「私ア素人っぽい事をするようだが、手紙を一本書いておいたから、旦那の機嫌のい時届けておくれ」

 森「大形おおぎょうになりやしたなア、こりゃアお前さんが書いたのかね」

 あ「艶書いろぶみが人に頼まれるものかね」

 森「それじゃア機嫌の好い時に届けやしょう」

 と云って互いに別れてうちへ帰って、森松は文治に云おうかと思ったが、正しい人ゆえ、うちにいても品格を正しくしているから口をきく事が出来ません。或日の事母が留守で、文治が縁側へ出て庭をながめて居りますから、

 森「旦那え」

 文「なんだの」

 森「今日こんちは誠に結構なお天気で」

 文「何だうちの内で常にないあらたまってそんな事を云うものがあるものか」

 森「何時いつでも御隠居さんが、文治に女房にょうぼを持たせて初孫ういまごの顔を見てえなんて云うが、あんたは御新造をお持ちなせえな」

 文「御新造を持てと云ってもおれのような者には女房にょうぼになってくれがないや」

 森「えゝ、旦那が道楽の店でも出せば娘っ子がぶつかって来ますが、旦那はいまだに女の味を知らねえのだから仕方がねえや、どんなのがうごぜえやすえ、長いのが宜うがすかえ、丸いのが宜うがすかえ」

 文「それは長いのがいと思っても丸いのを女房にょうぼにするか皆縁ずくだなア」

 森「裏へ越して来た藤原の御新造はうです」

 文「左様々々、あれは美人だの」

 森「なアに、そうじゃアありやせん、彼はうです」

 文「大層世辞がいゝの」

 森「彼は何うです、彼になせえな」

 文「彼になさいと云っても彼は藤原の女房にょうぼうだ」

 森「女房じゃアありません、来月別れ話になって、これから孀婦やもめ暮しにでもなったら、旦那を連れて来てくれってんです」

 文「嘘をいうな」

 森「嘘じゃアねえわっちを立花屋へ連れて往って御馳走をして、金を二くれて、旦那をうと云うのです」

 文「嘘をけ」

 森「嘘じゃアありやせん、このふみを出して、うか返事を下さいってんでさア、返事が面倒なら発句ほっくとかんとか云うものでもおやんなせえ」

 文「これはの女の自筆か」

 森「痔疾じしつなんざアありやせんや、瘡毒とやついて仕舞っているから」

 文「そうじゃアない彼の女の書いたのか」

 森「せんにゃア人に頼んだろうが、今じゃア人には頼めやせんや」

 文「なんだってこれを持って来た」

 森「なんだってって旦那に返事を書いて貰ってくれと云うから」

 文「痴漢たわけめ」

 森「あゝいてい、何をするんで」

 文「かりそめにもぬしある人のものから艶書を持って来て返事をやるような文治と心得てるか、なんの為に文治の所へ来て居る、わりゃア畳の上じゃアしねねえから、これから真人間になって曲った心を直すからと云うので、己の所へ来ているのじゃアないか、人の女房から艶書を貰うような不義の文治郎の所に居ては貴様の為にもならん、さア大事は小事より起るのたとえで、片時かたときも置くことは出来ん、出てけ」

 森「うか御勘弁を」

 文「ならん、二ごんは返さん、只今出て往け」

 森「大失策おおしっさくをやった、大違おおちげえをやったなア、考えて見りゃア成程うもぬしある女の処から艶書ふみなんぞを持ってちゃア済まねえ、旦那には御恩になっても居りますし、人中ひとなかへ出て森あにいと云われるのも旦那のお蔭でござえやすからうか人間になりてえと思って、旦那の側に居りやすが、御恩送りは出来ねえから身体のきくだけはかせいで御恩返ごおんげえしをしようと思って、親爺おやじ葬式とむらいまで出してくだすった旦那の側を離れたくねえから、し知らねえ御新造が来て、森松なんぞのような働きのねえものを置いちゃアいけねえと云われて、逐出おいだされでもするかと思うから、うかいゝ御新造をお持たせ申してえと思っている処へ、話があったからうっかりやったんで、今逐出されるとき処がねえから、仕方なく又悪い事を始めて元の森松になるとしょうがねえから、堪忍して置いておくんなせえ、これから気をけやすから」

 文「往き処のない者を無理に出て往けとは云わんが、く考えて見ろ、藤原の女房をわしが家内にして為になると心得てるか、それが分らんと云うのだ、藤原が右京の屋敷を出たのもの女の為に多くの金をつかい果し今は困窮してあしたに出てゆうべに帰る稼ぎも、女房にょうぼや母をすごしたいからだ、其の夫の稼いだ金銭をくすねて置けばこそ、手前に酒を飲ませたりすると云う事が分らんかえ、痴漢たわけめ」

 森「分らねえからあわアくって仕舞ったので、そのふみけえしましょうか」

 文「これは己が心あるから取り置く」

 と文治の用箪笥ようだんすの引出へ仕舞い置きましたのは親切なのでございます。左様なことは知らんから、おあさの方では返事が来るかと思って何をするにも手に付かず、母に薬もやらず、おまんまも碌々食べさせないからひもじくなって、私におまんまを食べさせておくれと云うと皿小鉢さらこばちを叩き付ける。藤原が帰って来て其の事を母が話すと、

 あ「いゝえおっかさんは今日は五度いつたび御膳をあがって、しまいにはお鉢の中へ手を突込つッこんであがって、仕損しそこないを三度してお襁褓しめを洗った」

 などと云うと、元よりたぶらかされているから、

 藤「おっかさん、そんな事をなすっては宜しくありません、えゝ」

 と云って少しも構いませんから、隣近所から恵んでくれる食物たべものようやく命をつないで居ります。或日の事、おあさが留守だから隣にいる納豆売の彦六ひころく握飯むすびこしらえて老母の枕許まくらもとへ持って来て、

 彦「御隠居さま、長らく御不快でさぞお困りでしょう、今おまんまを炊いた処が、こげが出来たから塩握飯しおむすびにして来ましたからおあがんなさい」

 母「有難うございます、あなた様、あれが私を〓(「※」は「しょくへん+曷」)殺そうと思って邪慳じゃけんな奴でございます、藤原もんな奴ではございませんでしたが、此の頃は馴合なれあいまして私を責め折檻せっかん致します、あんまり残念でございますから駈け出して身でも投げたいと思っても足腰が利かず、匕首あいくちを取出して自害をしようと思いましても、私の匕首までも質に入れてございません、舌を食い切って死のうと思っても歯はございませんし、こんな地獄のせめはございませんから私はべずに死にます」

 彦「そんなことを云ってはいけません、さアおあがんなさい」

 と云われ元は二百六十石も取りました藤原の母ががつ〳〵して塩握飯を食べて居ります処へ、帰って来たのはおあさで、

 あ「おいでなさい」

 彦「いやこれは」

 あ「おっかさん又お鉢の中へ手を突込んで仕損しそこないをすると私が困りますから」

 彦「あゝ御新造さんこれはわしが持って来たので、おっかさんがお鉢から食べたのではありません」

 あ「へえお前さんは能く持って来て下さるが、仕損いをするとしょうがないから上げないのに、何故なぜ持って来て食わせるんだえ、私共は浪人しても武士だよ、納豆売風情ふぜい握飯にぎりめしを母へくれるとは失礼な人だ」

 彦「これは失礼しました、うやって同じ長屋にいれば、節句銭せっくせんでもなんでも同じにして居ります、お前さんの所が浪人様でも、引越ひっこして来た時は蕎麦そばは七つは配りゃアしない、矢張やっぱり二つしか配りはしないじゃないか、お母さんは仕損いも何もなさりはしないのに、旦那が知らないと思って、種々いろ〳〵な事を云って旦那を困らして、お前さんはお顔に似合わない方です」

 あ「顔に似合うが似合うまいが大きにお世話だ、さっさと持ってお帰り」

 と云いながら、握飯むすびをポカーリッとほうり付けました。

 彦「何をするんです、勿体もってえねえや、ムニャ〳〵〳〵持って来たってなんでえ」

 あ「お母様っかさま、あなたは納豆売風情に握飯を貰ってあがりとうございますか、それ程食りたければ皿ごと食れ」

 と云いながら入物いれものごとほうり付けましたが、此の皿は度々たび〳〵焼継屋やきつぎやの御厄介になったのですから、おふくろ禿頭はげあたま打付ぶッつかってこわれて血がだら〳〵出ます。口惜くやしくってたまらないからおあさの足へかじり付きますと、ポーンとられたから仰向あおむけ顛倒ひっくりかえると、頬片ほっぺたを二つちました。

 彦「あゝ驚いた、こんな奴を見たことはない、鬼だ〳〵」

 と云いながら彦六はにげ帰って此の事を長屋中へ話して歩きまして、長屋中で騒いでいるのが文治の耳へ入ると、聞捨てになりませんから、日の暮々くれ〴〵に藤原の所へ来て、

 文「はい御免なさい」

 と云われおあさは惚れている人が来たから、母を折檻した事を取隠とりかくそうと思って、急に優しくなって、

 あ「おっかさん浪島の旦那様が入っしゃいましたよ、能く入っしゃいました、能くどうも、さア此方こちらへ」

 と云うおあさの方を見返りも致さんで、老母の枕許まくらもとへ来て、

 文「御老母様、手前は浪島文治でございます、あなたは鬼のような女にひどい目にって、さぞ御残念でございましょう、只今私がかたきを討って上げます」

 と云っておあさの方を向き、

 文「姦婦かんぷこれへ出ろ」

 と云う文治の権幕けんまくを見ると、平常へいぜいごく柔和の顔が、いかり満面にあらわれて身の毛のよだつ程怖い顔になりました。

 文「姦婦助けは置かん」

 と云いながらツカ〳〵と立って表の戸を締めたから、

 あ「アレー」

 と云って逃げようとするおあさのたぶさを取って、二畳の座敷へ引摺ひきずり込み、へだてふすまてましたが、これから如何いかゞなりましょうか、次回つぎに述べます。


  九


 文治は突然いきなりおあさのたぶさを取って二畳の座敷へ引摺り込み、此の口で不孝をほざいたか、と云いながら口を引裂ひっさ肋骨あばらぼね打折ぶちおひどい事をしました。しばらくすると障子を開け、顔色を変えて出て参り、老母の前に手をついて、

 文「おっかさま、あなたのわざわいは文治郎が只今断ちました、喜代之助殿お帰りがあったら、文治郎が参って御家内を手込みに殺しましたと左様おっしゃって下さい、さぞ貴方あなたは御残念でございましたろう、早く御全快になってとお遊びに入っしゃい、左様なら」

 と云って帰ったから、母親は驚いている処へ藤原喜代之助が帰って参り、右の次第を聞き、おこったの怒らないのと云うのではありません。かねて文治と云う奴は、腕を突張つッぱって喧嘩の中や白刃はくじんの中へ飛込むと云う事は聞いてったが、仮令たとえのような儀があっても人の女房を手ごめに殺すとは捨置きにならん、拙者も元は右京の家来、二百六十石を取った藤原喜代之助、此の儘捨置きにはならん、と云って大小を取出し、黒ペラの怪しい羽織を着、顔色変えて文治郎方の玄関へ係り、

 喜「頼む〳〵」

 森「お出でなせい、なんでげす」

 と藤原の顔を見ると様子が違っているから、少し薄気味が悪くなり、あとに下って、

 森「あの〳〵生憎あいにく旦那はお留守でござえやすが、なんの御用ですか」

 喜「御不在とあらばむを得ん、御老母様にお目に懸りたい、藤原喜代之助でござる、御免をこうむる」

 と云いながらひっさがたなでズーッと通りましたから、森松はふみの取次をした事が露顕したか、立花屋で御馳走になって二分貰った事があらわれやしないかと思って気をんでいると、喜代之助は老母の前へピタリッと坐ったが、老母には様子が分りませんから、

 母「おや〳〵これはくいらっしゃいました、生憎文治郎は不在でございますが、何御用でございますか、わたくし迄御用向を仰しゃり聞けを願います、お母様かゝさまも御不快の御様子でございまして、一寸ちょっと伺いたく思いましたが、わたくしも寄る年で出無性でぶしょうになりまして、つい〳〵伺いませんがお加減は如何いかゞでございます」

 喜「はい、御老母様のお耳に入れるのもとお気の毒だが、今日こんにち手前家内あさが母に対して不孝を致したでござる、しかるところ文治郎殿がおいでになって、不孝な奴だと云って口を引裂ひっさき、肋骨を打折ぶちおり、打殺うちころしてお帰りになったがしからぬ訳じゃアございませんか」

 母「はい、それはまア飛んだ訳で、なんとも申そうようがございません」

 喜「手前も驚きました、なにそれは殺しても宜しい、はい殺しても宜しい訳があればこそ殺したろう、文治郎殿も気狂きちがいでないから主意があって殺したろうから、主意が立てば宜しいが、主意が立たんければ手前も武士でござる、文治郎殿の首を申受ける心得で参った、はい」

 母「誠になんとも申そう様もございません、さぞ御立腹でございましょう、の通りの者で、やゝも致しますると人様に手出しを致す事がございまして、若年じゃくねん折柄おりからしかと意見を致したことはございましたが、此のたびの事には実にあきれ果てましてなんともお詫のしようがございません、の様な乱暴な子を持った母は嘸心配であろうとわたくしの心を御不愍ごふびん思召おぼしめして、御内聞のお話にして下されば多分のたくわえもございませんが、所持して居ります金子は何程でもあなた様へ」

 喜「いえ〳〵お黙りなさい、お前さんも武士の家にお生れなすった方ではないか、金を貰って内済に出来ますか、只主意が立てば宜しい、はい主意が立たんければ家内あさの命と文治郎殿の命と取換とりかえるばかりで、はい」

などと顔色を変えている処へ文治郎が帰って参りました。

 森「旦那、うっかりへいっちゃアいけませんよ」

 文「何を」

 森「お前さんは大変な事をやって、驚きましたねえ、わっちゃアまご〳〵しているんだ、お前さんは藤原のお内儀かみさんの口を引裂ひッつァいて殺しましたかえ」

 文「うん、先程さきほど殺した」

 森「そんな手軽く云っちゃア困りやすねえ、藤原さんが顔色を変えて来て、どう云う訳で殺した、お前も武士、おれも武士だ、己の女房を殺されて此の儘じゃアけえられねえ、男が立たねえから文治郎の命と取換とりけえるぶんだ、仕事は早いのがいゝって奥へ坐り込んで動かねえから、おっかさんが金を出して内済ねいせいにしようというと、さむらいに内済はねえって、取っても付けねえ処だから、今お前さんが顔を出すとすぐに斬り掛けるにちげえねえ、斬り掛られ黙って引込ひっこんでる人じゃアねえからちゃん〳〵斬合きりあいを初めるでしょう、そうしておっかさんの身体へきずでも付けると大変だから、お前さんは二三身を隠して下せえ」

 文「身を隠す訳にはいかん」

 森「そうして気の落著おちついた時分、どうせ仕舞しめえ内済ないせいだから人を頼んで訳を付けやしょう」

 文「そんな事は出来ん、おっかさんをこれへお呼び申せ」

 森「お母さん〳〵」

 文「もっと大きな声をして」

 森「お母さん〳〵これが帰りました」

 と親指を出して招くから、母は文治郎が帰ったなと思ってそれへまいり、

 母「能くのめ〳〵と私の前へ来た、只今帰ったと云います」

 文「飛んだ事がお耳に入って文治郎も申し訳がございません、藤原親子の為を思いまして、おっかさまには不孝でございますが、文治郎命を捨てゝ悪婦の命を断ちました、決して逃げ隠れは致しません、一言いちごん藤原に申し聞けたい事があります、あなたがこれにおいでになると御心配になりますから、おかやを連れてばあやの所へでもおいでなすって」

 母「いや参りません、人を殺して云訳いいわけが立ちますか、なぜ悪い事があれば喜代之助殿に届けて事をせん、それでは云訳は立ちません、はい先方むこう様が捨て置かんで、私も武士だと云って抜いて斬り付ければお前も引抜いて立合うだろう、お前が斬り殺されるのは自業自得だが、又先方様を殺せば二人の人殺しだから手前の命はあるまい、手前は匹夫ひっぷの勇をふるって命をくしても仕方がないが、跡はどうする」

 文「重々相済みません、一応申聞もうしきけた上で存分になる心得でございます、御立腹ではございましょうが少々の間彼方あちらへ、森松やお母様っかさまをお連れ申せ」

 森「お母さん、旦那だって馬鹿でも気狂いでもねえから無闇に人を殺す気遣いはねえ、何か云訳があるんでしょうから鳥渡ちょっと此方こっちへおいでなせえ」

 と無理無体に森松とおかやが手をって次の間へ連れて参ります。文治は左の手にあった小脇差を右の手に持替えて奥座敷へ入りますから、

 森「旦那え〳〵」

 文「なんだ、騒々しい」

 森「癇癪かんしゃくを起しちゃアいけませんよ、彼奴あいつが抜いたらホカと逃げてお仕舞いなせえ、なんでも逃げるが勝だ、うしてむこうの気が落著おちついた処で人をもって話をすりゃア、とゞの詰りは金だ〳〵」

 文「宜しい、黙っていろ」

 と少しも騒がず藤原の前へ出まして、

 文「さぞお待兼ね、只今逐一母から承りました処、重々の御立腹、なれども人様の御家内を手込みに殺すには段々の訳があっての事、貴方においても左様思召すでござろうが、たった一人の御老母とあなたの為に文治郎命を捨てゝ致しました、あなたは毎日田原町へお内職においでになって御存じあるまいが、あなたのお留守中に御家内が御老母を打ち打擲するのみならず、此の程はしょくを上げないことを御承知はあるまいがな」

 喜「黙れ、仮令たとえ何様なにようなる事があろうとお前方の指図は受けん、悪い事があればわしの家内だからわしが手打に致そうとねじり首にしようとわしがする、なんわしに断らんでなすった」

 文「まア〳〵、それは至極御尤ごもっともの話で、文治郎も気狂いでないから貴方に断らんでする訳はないが、此の程は御老母にとんとしょくを与えぬので、御老母は餓死なさるよりほかに仕方がない、貴方がお宅へ帰って見れば御老母が食べ過ぎて困ると云って親子の間中あいなかを裂くようにするから、御老母は堪えかねて、喜代之助はそれ程ではないが、ともわしひどく扱い折檻するゆえ、此の上は死ぬより外はないと仰しゃるのを聞いて、長家中の者がお気の毒に思い、折々おり〳〵食物たべものを進ぜました、今日こんにちも納豆売の彦六おやじ握飯むすびを御老母に上げてる処へ、おあさ殿が帰って来て、其の握飯を御老母に投付け、彦六爺に悪口あっこうを云い、遂に御老母に皿を投付け、おつむりに疵が出来ました、だそれにても飽き足らず御老母を足蹴あしげに致すのを文治郎見ました故に、あゝしからん不孝非道な女とかっと致して飛込み、殺す気はなかったが、怒りに乗じ思わず殺す気になったのはわしが殺したのではなく全く天がの悪婦の行いをゆるさず、文治郎の手を借りて殺させたので、天のしからしむる事かと存じます」

 喜「黙れ、天が殺したとはなんだ、左様な云いわけで済むか、し左様な事があったら何ゆえわしに其の事を忠告致さん、わしも浪人しても大小はたばさんでる、お前の手は借らん」

 文「いや〳〵あなたには殺せない、何故殺せんと云うに、あなたが殺すなれば三年連添つれそってるからとっくに殺さなければならんに、貴方はだまされてるから、わしが其の事を忠告してうちへ帰れば、おあさどのが又いつもの口前くちまえで、それはう云う訳でれは斯う云う訳で文治郎が聞違えたのだ、私はおっかさまに孝行を尽していると旨く云いくるめると、あなたは毎もの如くあゝ左様かと又欺されて殺すことは出来ない、そうすると御老母は餓死致され、仮令たとえ手を下さなくも貴方が御老母を殺したと同じことになるから、右京様のお屋敷に聞えても能くない、浪人者の文治郎が身を捨てゝも藤原母子おやこを助けたいと思って斯様かように致しました、元より人を殺せば命のないのは承知して居ります、ついては老体の母をのこして死にますから何卒どうぞ不愍ふびんと思召して目を掛けて下さい、おあさどのゝ悪い事は未だそればかりではない、私に附けぶみをした事は貴方は知りますまい、いやさ艶書えんしょを送った事は知りますまいがな」

 喜「なんと仰しゃる」

 文「森松、此の間のふみを持って来い」

 森「はい、お前さんの所の御新造を悪く云うのじゃアねえが、わっちに手拭や何かくれて此の間立花屋へ連れて行って、お前さんと別れて寡婦やもめ暮しになったら文治郎さんを連れて来てくれと云ってふみを頼まれたから、旦那の所へ持って来るとポカ〳〵と二つ殴られました」

 文「しゃべるな…此のふみは開封致さずに置きましたから御覧下さい」

 と云われ藤原は手に取って見ると、文治郎さま参るあさより、とずう〳〵しく名宛なあてが書いてあり、以前は勤めをしたあけびしのおあさですから手はよくはありませんが、書馴れて居りますから色気があって綺麗に書いてあります。其のふみ此方こちらへ越して来た時からお前さんを見染めて忘れる暇はないゆえ、藤原と別れて独りものになりましたらば、めてお盃の一つも戴きたい、亭主のある身の上で斯様かような事を申すのは浮気な女と思召しもありましょうが、喜代之助は真実ほんとうの亭主ではない、只今まで藤原母子おやこの者はわたくしから貢いで居りました、藤原の不実はこれ〳〵おふくろの心の悪い事はこれ〳〵で、一体喜代之助が屋敷を逐出おいだされたのはわたくし故ではなく、全体了簡がけちんぼで、意地が悪くって、野呂間のろまだからとかなんとかこと〴〵く書いてあるから、藤原はふみ読下よみくだして膝へついた手がぶる〳〵とふるえて居りました。


  十


 藤原喜代之助は女房おあさより文治に送ったふみを見詰めて居りましたが、真に口惜くやしかったと見えます。

 文「なんと書いてありますかな」

 喜「なんともかとも重々面目次第もない、斯様かようなる不埓ふらちな奴とも心得ず、三年以来このかた連れ添ってる手前へ対し、斯様などうもなんとも申そうようござらぬ不人情な奴でござる、母へしょくを与えず、打ち打擲致したに相違ござらぬ、手前は兎角貧乏にかまけ留守がちゆえ、其の不孝も存じませんでした、手前の殺せん処を見抜いて天が殺したとは能くおっしゃって下すった、成程これは天が捨て置きません、わたくしに殺せませんから貴方様が天になり代り、一命を捨てゝも喜代之助を助けて下さると云う其の御親切は驚き入りました、あなたは天下の英雄だ、人の女房を手込めに殺すなどと云うことは他人には出来る訳のものでない、く殺して下すった、かたじけない、宜しい手前是れから女房おあさが母に食を与えず、面部へ傷を付けたるかどもって捨置きがたく手打に致したと、手前引受けて訴えで、あなたのお名前はこればかりも出しません、誠に善く殺して下さいました、忝けない」

 と女房を殺した人に礼を云って居りますから、母は気の毒に思い、五十両の金を内済として贈ると、喜代之助はどうしても受けませんで、

 喜「どうしてわたくしの為に命を掛けて助けて下すったに、金子を戴く訳はありません、実に文治郎殿の気性には手前感服致した、此のようなる方と御懇意にしたら此方こっちの曲った心も直ろうと思いますから、以後御別懇に願いたい、ついては母も老体でわたくしが内職にくことが出来ませんから、文治郎殿の鑑識めがねかなった女房を世話をして下さい、成るべくお親戚みよりなれば尚更忝けない」

 との頼みに文治郎も捨置かれませんから、母のめいのおかやと云う年二十六になる、器量は余り宜しくないが屋敷育ちで人柄な心掛のよい女を嫁にやろうと云うと、喜代之助は大きに喜びまして、何しろおあさを殺したことを届けようと云うので届出ますと、岡ッぴき御用聞などが段々探索になりましたなれども、の女は元より母親に食物を与えず、不孝邪慳の女で悪い者だということが明白になったから、何事もなく相済み、おあさの死骸しがいは野辺の送りを済ませた上で、文治郎の母は内済金五十両をおかやの持参金として贈りましたから、以前と違っておかやは母親を大切に致しますから、喜代之助は喜び、夫婦中睦なかむつましく、ともに文治郎の宅へ出入りをするようになりました。するとう云う訳か文治郎の母がおまんまを食べなくなりましたから、文治もこれには驚きまして、

 文「これ森松」

 森「へい」

 文「お母様っかさまは御膳をあがらんではないか」

 森「へー喰いませんよ」

 文「喰いませんよではない、昨日きのうも食べないではないか」

 森「一昨日おとゝいも喰いません」

 文「何故三日もあがらんのにわしに知らせん」

 森「それでも喰いたくねえって」

 文「馬鹿を云え、三日もあがらずにられるものか、お加減が悪いのだから医者を呼ばなければならん、医者を呼んで来い」

 森「なんだか腹がくちいって」

 文「三日も召上らんでは困ります…御免下さい」

 と障子をあけると母親は座蒲団の上に行儀正しく坐っているのを見て、

 文「此の程はおしょくとんとおすゝみにならぬそうで、文治郎も驚き入りました、三日もあがらんと云うことはさっぱり存じませんでした、お加減が悪ければそれ〴〵医者を呼びますものを、大層おやつれの御様子、何か御意ぎょいに入らんことがござれば、これ〳〵とおっしゃり聞けまするように願います」

 母「はい、私はべません、餓死致します、お前の様な匹夫の勇を奮って浪島の家名をけがす者の顔を見るのが厭だから私は餓死致します、親父おとっさまは早く此の世をおなくなり遊ばし、母親が甘う育てたからお前が左様なる身持になり、親分とか勇肌いさみはだの人と交際つきあいをして喧嘩の中へ入り、男達おとこだてとかなんとか実にどうもしからん致方いたしかた、不埓者め、手前も天下の禄をんだ浪島の子ではないか、左様なる不孝不義の子の顔を見るのは厭でございますからべずに死にますが、私が死ぬのは私が勝手に餓死致すのではなく、手前が乱暴を働くのを見てるのが辛いからしょくとゞめて死ぬのじゃによって、仮令たとえ手を下さずとも其方そなたが親をし殺すも同じじゃによって左様心得ろ」

 文「へえ、それは重々恐れ入りました、お母様っかさま真平まっぴら御免遊ばして下さいまし、是れまで余儀ない人に頼まれ、喧嘩の中へ入りましたのは宜しくないとは心得ながら、むを得ず人の為に身をなげうって事を致しましたことが再度ございましたが、お母様の只今の御一言で文治郎実になんともかともお詫の致し様がございません、只今のお小言に懲りまして決してへ出ません、お母様のお側を離れません、喧嘩のけの字も申しませんゆえ何卒どうぞお許し遊ばして、御飯ごぜんあがって下さいまし、手を下さずとも親を乾し殺すも同様であるとの御一言は、文治郎身を斬られるよりつろうございます」

 母「べんと云ったら喰べん、文五右衞門ぶんごえもん殿の亡いのちわし親父様おとっさまの代りでございます、武士に二言はない、決して勧めるときかんぞ」

 文「へえ〳〵〳〵〳〵」

 森「おっかさん食べておくんなせい、お願いだ、旦那も心配していらア、旦那だって喧嘩はしたくはねえがよんどころなく頼まれて人を助けるのだから、まア堪忍してっておくんねえ」

 母「なんの、手前まで喧嘩があると悦んで飛出す癖に、其方そっちけ」

 森「お母さん、じれちゃアいけませんよ」

 母「手前の知ったことではない」

 と叱られて、文治郎と一緒に次の間へ来まして、

 森「どうしたのでござえますね」

 文「はてわし仕置しおきのため御膳をあがらんのだわ」

 森「へえ変ですねえ、仕置におまんまを喰わせねえというのは聞きやしたが、自分の方で喰わねえのは妙だねえ」

 文「お母さまは茶椀蒸がおすきだが、いつでも、料理屋でこしらえたのよりは、文治郎の拵えたのが宜しいと仰ゃってあがるから、むしを拵えましょう…蒲焼かばやき小串こぐしの柔かいのと蒲鉾かまぼこの宜しいのを取ってこい、御膳はわしがといで炊くから」

 とこれから文治郎自分で料理をして膳を持って障子を開け、

 文「お母様、先程の御一言は文治郎の心魂に銘じました、御一命を捨てゝの御意見なんとも申そう様ござらぬ、此のは慎みますから何卒どうぞ御勘弁遊ばして召上って下さいまし、三日も召上らんから大分だいぶやつれも見えまして誠に心配致します、文治郎手づから茶椀蒸を拵え、御飯も自分で炊きましたから、何卒召上って下さいまし、お母さま、これからは決してお側を離れません、何卒御勘弁を」

 と文治郎涙を浮べ茶椀蒸のふたを取って恐る〳〵母の前へっと差出しました。

 母「べんと云うのに何故面前へ膳を突附つきつけたのじゃ、手前は母へ逆らうか、喰べんと云ったら喰べやアしません、其方そっちへ持ってけ」

 と云いながらポーンと膳を片手で突きましたから、膳は転覆ひっくりかえる、茶椀蒸はこぼれる。

 文「これ〳〵森松や雑巾ぞうきんを持ってこい」

 森「へえこれは大変々々、お母さん堪忍して食っておくんなせい、旦那がお前さんにべさせていと云って拵えたのだ、食わなければ食わないで宜しいじゃアねえか、わっちが食いやす、うやって旦那が詫るのだから好加減いゝかげんに勘忍しておくんねえ、親孝行だって相手が悪くっちゃア仕様がねえなア」

 文「これ何を云う、其方そっちけ、なぜお母さまの前でそんな事を云うのだ」

 森「それだってあんまりだア、旦那自暴やけを起しちゃアいけねえ、お前さんの様な親孝行な人はねえ、旦那が自分でおまんまを炊いておかずまでこせえて食わせようと云うに…そんな人がある訳のものじゃアねえ、わっちなんぞが道楽をする時分にゃア、おふくろが飯を炊いてお菜をこせえて、さア森やお飯が出来たから起ろよ、と云われて膳に向い、お菜が気に入らねえと膳を足で蹴ったものだ、それを一軒の立派な旦那がお飯を炊いて食わせるのは一と通りの訳じゃアねえ、おこらねえでもいじゃアねえか」

 文「これ〳〵手前の知ったことではない、此のお詫ごとは藤原喜代之助に限るな」

 森「へえ〳〵」

 文「藤原の女房を殺したことが今出て来たのだな」

 森「へえ〳〵成程、藤原のせんの女房はの婆さんに飯を食わせずにいて殺されたから、それでお母さんが食わなくなったのだ」

 文「そうじゃアないわ、喜代之助でなければ」

 と文治郎はすぐに藤原の宅へ参り。

 文「はい御免」

 喜「おや〳〵さア此方こっちへお上り、おかやや文治郎殿がおいでなすった、鳥渡ちょっとお茶を入れて」

 か「はい」

 喜「鳥渡あがろうと存じて居りましたが、今日は内職を休んでうちにいた処で、丁度宜しい、まア此方へ」

 文「少々おねがいがあって参りました、母が立腹を致して三日程食事をしません、種々いろ〳〵詫を致してもきません、手前が喧嘩の中へ入り、匹夫の勇を奮い、不孝の子を見るのが厭だから餓死して意見をすると申して肯きません、此の詫ことは貴方あなたよりほかにない、どうか貴方お詫ことを願います」

 喜「いやそれは、お母様っかさまが御膳が進まんと云う事はきゝましたが全くですか、昨日きのうお見舞に出た時、お食は如何いかゞですと申した処が、なに御飯ごはんは三ばいべられて旨いと仰ゃったが、それでは嘘ですか、命を捨てゝも浪島の苗字みょうじが大切と思召おぼしめし、御老体の身の上で我子わがこを思う処から、餓死しても貴方の身を立てさせたいと思召す、それに貴方が御孝心ゆえ左様に御心配なさるのでしょう、宜しい、お詫に出ましょう、かやがお母様の御意ぎょいかなって居りますから、かやも同道致してお詫に上りましょう」

 と直ぐに羽織を引掛ひきかけ、一刀して女房おかやを連れ、文治郎の台所口から、

 喜「はい御免なさい」

 森「藤原さんですか、お母さんが膳を転覆ひっくりけえして旦那もお困りですが、お母さんは〓(「※」は「箍」で「てへん」のかわりに「きへん」をあてる)がゆるんだのだ」

 喜「これ大きな声をしてはいけません」

 と母親の居間へ通り、

 喜「お母様御機嫌宜しゅう」

 母「おやおそろいで」

 喜「只今承わりましたが、文治郎殿がお失策しくじりで中々お聞入れがないから、手前に代ってお詫をしてくれと、何事にも恐れぬ文治郎殿が驚かれ、顔色かおいろ変えて涙を浮べ頼みに参ったから直様すぐさま出ましたが、どうか御了簡遊ばして、御飯を召上るように願います」

 母「決して詫などをして下さるな」

 か「お母様、そんなことを御意遊さずに御免下さい、の文治郎さまの御気性でお驚き遊ばしたのはよく〳〵のことでございますから、何卒どうぞお許し遊ばして、御飯を召上って下さいまし」

 母「いやべんと云ったら二ごんとは申しません」

 喜「宜しい、あなたの御気性で、食をとゞめ餓死しても文治郎殿の為に遊ばすと云うのは、子が可愛いからでしょうが、うか文治郎殿に代ってお詫を申上げます、おゆるし下さい」

 母「いゝえ、お置き下さい」

 か「どうかわたくしに免じて御飯をあがって下さいまし」

 母「なりません、すゝめるときません」

 喜「それではどうも致し方がない、死を極めておいでなすって見れば仕方がないによって、手前此の場で割腹致しお先供さきともを致す」

 か「わたくしともにお先供致します」

 と云いながらさやを払ってすでうと覚悟致しますから、

 母「まアお待ちなさい」

 喜「いゝえ待ちません」

 母「これかや、まア待ちな……命を捨てゝ詫ことをして下さる、赦し難い奴なれども、お前方両人に免じて一とたびは赦しますから、文治郎をこれへお呼び下さい」

 喜「なに、御勘弁下さると、それは有難い、文治郎殿、お詫ごとがかないましたから此方こっちへ入っしゃい」

文「はい、う御勘弁下され文治郎誠に有難く心得ます」

母「赦し難いやつなれども御両人に免じて赦すから此方へ来なさい、仕置を申付けるから」

 文「どの様なるお仕置でも遊ばして下さいまし、文治郎いさゝかもおうらみとは心得ません」

 母「手を出しなさい、二の腕を出しな」

 文「へい」

 と腕をまくって出すと母は文治郎の腕をしっかり押え、

 母「かやや、其処そこすゞりがあるから朱墨しゅずみを濃くって下さい、そうして木綿針もめんばりの太いのを三十本ばかり持ってな」

 喜「お母様何をなさる」

 母「仕置を致す」

 と云いながら文治郎の二の腕へ筆太ふでぶとに「母」と云う字を書きまして、針でズブ〳〵突き、刺青ほりものを初めましたが、素人彫りで無闇に突きますから痛いの痛くないのって、

 母「さア、これで宜しい、私が父親てゝおやなればとくに手打にして命はないのだから、手前の命は亡いものと心得ろ。これからは母の身体からだだによって、し私の意見に背き、喧嘩をして身体へ傷を付ければ母の身体へ傷を付けたも同じだから、左様心得て以後はたしなめ」

 文「はゝかしこまりました」

 喜「成程、お母様の御意見感服致した、文治郎殿、以後は気をお付けなさい、万一湯に行って転んで傷を付けても、お母様の身体へ傷を拵えたのも同じになるから気を付けないといけません、さア、それではお母様御飯を上るように願います」

 と云われ、そこは親子のじょうでございますから、喜代之助夫婦と四人で一と口飲んで食事も済ませ、藤原夫婦も嬉しく思って帰りましたが、これよりのちは文治郎は親の慈悲を反故ほごにしてはならんと云うので、とんへ出ません。母の側に附きりで居りまして、母の機嫌を取るばかりでなく、足腰を撫擦なでさすり、又は枕元に本を持って参りまして、読んで聞かせたりして、外出そとでを致しませんから、また母も心配して、

 母「文治郎、此の頃は久しく外出そとでをしないのう」

 文「左様でございます、お母様もわたくしをお案じなすってお外出をなさいませんが、たまには御遊歩ごゆうほ遊ばした方がお身体の為にも宜しゅうございます」

 母「左様さ、今日は幸い天気もいからお父様とっさまのお墓まいりにきましょう」

 文「へえお供いたしましょう」

 と其の日は墓詣りに行き、今日は観音かんおん明日あす何処どこと遊歩にまいり、帰りにお汁粉でも食べて帰る位でございます。廿五六の壮年さかりどしのものがおっかさんの手を曳いて歩き、帰りに達摩汁粉を食って帰って来る者は世間にはありませんが、文治郎は母の云うなり次第になって、五月までは決して一人いちにん外出そとでを致しませんでしたが、安永九年に本所五目いつゝめ羅漢堂らかんどう建立こんりゅう栄螺堂さざえどうが出来ました。只今では本所の割下水へ引けましたが、其の頃はたいした立派な堂でございました。文治郎母子おやこも五百羅漢寺へ参詣して帰って参りました。丁度日の暮方くれがた、北割下水へ通り掛りますと、向うの岸が黒山のような人立で、剣客者けんかくしゃの内弟子らしい、はかまをたくしあげ稽古着けいこぎを着て、泡雪あわゆき杓子しゃくしを見た様な頭をした者が、大勢で弱い町人をつかまえて打ち打擲致し、割下水の中へ打込ぶちこんで、踏んだり蹴たりします。の町人は口惜くやしいから、

 町「殺せ、さア殺して仕舞えあゝ口惜しい」

 と泣声も絶え〴〵になりましたが、遠くに立って居ります者も、相手が侍で屋敷の前でございますから、逡巡あとずさりをして唯騒いでいるのみでございます。

 「なんでございます」

 「何ですか分りませんが、向うは大伴おおとも蟠龍軒ばんりゅうけんと云う剣客者だそうでございます、其の内弟子が町人体ちょうにんていの者を捕まえて打ち打擲しますが、余程悪いことをしたのでしょう」

 「もしあれなんでございます」

 「泥坊で縁の下に隠れていたのだそうです」

 「縁の下から刀とやりが出たそうです」

 「へー剣術つかいのうちへ泥坊が入ったのですか」

 「そうじゃアない、火をけたのだそうです、火を放けて燃え上ろうとする処を揉消もみけしたんだそうです」

 「火を放けたんですか、物にならなくってお互に塩梅あんばいでした」

 「なアにめかけを盗んだそうです、剣術遣いの妾を町人が盗んだのだと云うことです」

 「なアに借のある奴がしらばっくれて表を通る処を捕えたのだそうです」

 「なアに、そうじゃアない、出入の町人の女房を取られたのだとね、金を取られた上にあんな目に逢うのだとね」

 「そうじゃアない巾着切きんちゃくきりだと」

などと少しも分りません。処へ文治郎が通り掛りますと、向うから知ってる者が参りまして、

 「旦那今日こんちは」

 文「これはしばらく」

 「今日こんち何方どちらへ」

 文「母と羅漢寺へ参詣に参りました…向うに人立ちのしてるのはなんです」

 「あれはたしか旦那様御存じでございましょう、もと駒形にいて今は銀座に店を出している袋物屋だそうです、彼処あすこへ出入中に金の抵当かたに女房を取られ、金を返しに行ったところが、金を取られ、女房は返えさず打ち打擲したそうです、口惜しいから悪態を云うと門弟が引出して、の通りったりどぶの中へ突込つきこんだりして、丸で豚を見たようです、ふてい奴ですなア」

 文「なんですか、あの紀伊國屋の友之助ですか」

 「わたくしは知りませんが隣り屋敷の家来が塀へのぼって見たらの男だと云う話ですが、非道ひどい奴ですなア」

 文「女房を取られ、さかさまになっているのは友之助ですか、ふゝん」

 と怒りに堪えず二歩ふたあし三歩みあしきに掛りますと、

 母「あゝ文治郎お前はまア見相けんそうを変えて何処どこくのだえ」

 文「へー〳〵……鳥渡ちょっと手水ちょうずを致そうと存じまして」

 母「フーム、少し余熱ほとぼりさめるとすぐに持った病が出ます、二の腕の刺青ほりものを忘れるな」

 文「はい」

 と母と一緒だからどうにも出来ません、仕方がないから其の儘見捨てゝ母と共に宅へ帰りました。これから母の教えが守り切れず、大伴の道場へ切込む達引たてひきのお話、一寸ちょっと一と息つきまして申し上げます。


  十一


 さて友之助が斯様かようひどい目に逢うのはう云う訳かと云うと、友之助はおむらに勧められて文治郎の近所にいるのは気詰りだから、へ越せ〳〵と云うので、銀座三丁目へ引越ひきこしたのは二月の二十一日でございます。店開きを致してわずか十日ばかりうちに、友之助は店に坐って商いをして居ります。袋物店ふくろものみせでございまして、間口は狭くも良い代物しろものがあります。おむらは台所廻り炊事かしぎわざなどをいたして居ります。ふと通り掛った武士、黒羅紗くろらしゃ山岡頭巾やまおかずきん目深まぶかかぶり、どっしりとしたお羽織を着、金造きんづくりの大小で、紺足袋に雪駄せった穿き、今一人いちにんは黒の羽織に小袖を着て、お納戸献上なんどけんじょうの帯をしめて、余りしょうは宜しくないと見えて、何か懐中へ物を入れてると帯が皺くちゃになって、かけ頂垂うなだれて、雪駄穿せったばきと云うとていは良いが、日勤草履にっきんぞうりかねが取れ、鼠の小倉こくらの鼻緒が切れて、雪駄の間から経木きょうぎなどが出るのを、かゝとでしめながら歩くという剣呑けんのんな雪駄です。微酔ほろよい機嫌で赤い顔をして友之助の店先へ立ち、

 士「こう阿部氏あべうじ大分だいぶこの袋物屋には良い品がある様だ」

 阿「左様でげすか、貴方は今迄のお出入がありながらおすきだから良い店へ立寄ると買いたくなりますと見えますね」

 士「妙なもので丁度婦人が小間物屋の店へ立った様なものだ」

 阿「良い物がありますかね」

 士「これ〳〵亭主、其の袂持たもともち莨入たばこいれを見せろ」

 友「まアお掛け遊ばせ、いお天気様で、エー新店しんみせの事で、エー働きますが御贔屓ごひいきを願います」

 士「あゝ、草臥くたびれたから少し腰を掛けさせてくれ…其の金襴きんらんの莨入を遣物つかいものにしたいと思うが見せろ」

 友「へい〳〵〳〵御進物にはこれは飛んだお見附みつきも宜しく、出した処も宜しゅうございます、この方は二段口になって、これは更紗形さらさがたで、表は印伝になって居りますから」

 士「大分良い物がある……阿部氏何んぞ買わぬか」

 阿「どうもいけません……手前煙草がいけませんから欲しくございません……御亭主大層良い品があるね」

 友「どうも品物がそろいませんで……これお茶を上げなよ」

 むら「はい」

 と奥から出ましたお村は袋物屋の女房には婀娜あだ過ぎるが、達摩返しに金のかんざし、南部のあい子持縞こもちじま唐繻子とうじゅす翁格子おきなごうしを腹合せにした帯をしめ、小さな茶盆の上へ上方焼かみがたやきの茶碗を二つ載せ、真鍮しんちゅう象眼ぞうがん茶托ちゃたくがありまして、鳥渡ちょっとしまった銀瓶ぎんびん七兵衞しちべえ急須きゅうすを載せて、

 むら「お茶を召し上れ」

 士「はい」

 とさむらいは茶碗を取りながらお村の顔を見て、顔を少し横にそむける。阿部は酔っているから心付きません。

 阿「いよ、これはどうも有り難いが、願わくは手前は大きいもので水を一杯戴きたいもので」

 士「御亭主」

 友「へい〳〵」

 士「貴公は本所辺で出入の処がありはせんか」

 友「へい二三軒様お出入があります」

 士「本所の宅へ来て貰いたいのだがうだね、多分の物は買わぬが、ついでに来て貰いたい」

 友「へい〳〵、どういたしまして新店しんみせのことで、何方様どちらさまへでも参ります、う云う物が御入用様でげすか、えー宅にありませんでも取寄せて御覧に入れます」

 士「提物さげものが欲しいと思うが胴乱どうらんの様な物はないか」

 友「左様でげす、丁度良い塩梅あんばいのは仕上げになって居りませんが、これは高麗青皮こうらいせいひと申しまして余り沢山ないもので、高麗国の亀の皮だと申しますが、珍しいもので、しべが立って此の様に性質の良いのは少ないもので、へえ、これはお提物には丁度いと思います」

士「成程、大きさも飛んだ良いが、何か金物かなものがあるか」

 友「左様で、お金物はこれは目貫物めぬきもので飛んだ面白いもので、さく宗乘そうじょうと申しますが、銘はございませんが宗乘と云うことでございます、これは良いほりでげす」

 士「成程これは良く彫った、趙雲ちょううん円金物図まるがなものずいな、緒締おじめの良いのはありませんか」

 友「へゝお珊瑚さんごにいたして、へえ〳〵かえって大きいとう云うお提物にはいけませんから、六半ぐらいにいたして、へい只今宅にございませんが、お出入先へ参って居りますから持参致します、これは古渡こわたりの無疵むきず斑紋けらのない上玉じょうだまで、これを差上げ様と存じます……お根付、へい左様で、鏡葢かゞみぶたで、へい矢張り青磁せいじか何か時代のがございます、琥珀こはくの様なもの、へえかしこまりました、取寄せて持参致しますが何方様どちらさまで」

 士「えー名札を失念したが硯箱すゞりばこを」

 友「へえ〳〵畏りました」

 …すら〳〵と書いて、

 士「本所だよ」

 友「成程、本所北割下水大伴様、へえ明後日ではお遅うございましょうか」

 士「宜しい、朝来ては困るからねがわくは夕景から来れば他へ出ずに待っているよ」

 友「へえ〳〵畏りました」

 士「此の莨入を二つ買うが如何程いかほどだえ、左様か、つりは宜しい、宅へ来た時ついでに持って来てくれ」

 友「有難うございます、恐入おそれいります、お茶も碌々ろく〳〵差上げませんで、明後日は相違なく夕方までに持参いたします、へえ〳〵有難うございます、左様ならお帰り遊ばせ」

 阿「御舎弟」

 士「えー」

 阿「あなたは本所にも浅草にもお出入があるに、態々わざ〳〵銀座に、お出入をこしらえるには及びますまい」

 士「そこに少し訳ありさ」

 阿「訳ありとは」

 士「彼処あすこで茶をんで出した婦人を見たかえ」

 阿「いゝえ見ませんよ、婦人には少しも気が付きませんでしたが、あの袋物屋に種々いろ〳〵見て居りましたうちに、家内が茶を酌んで出した様でしたな」

 士「かねて貴公に話した柳橋の芸者のお村の為には、手前は兄にも叱られる程散財して、手に入れようと思ったが、袋物屋に色男があって其の者の方へ縁付いたと聞いたが、先刻さっき茶を酌んで出したのは柳橋のお村だよ」

 阿「えーあれが、左様ですか、残念のことを致しました、手前見たいと思っていたが柳橋へおうかれの折には生憎あいにくとも致しませんで、其の美人を拝見致しませんが、見たかった、残念なことをした、女房と思って気が付かんで居りました、あゝ見たかった」

 士「往来で大きな声をしてはいかぬよ、まア道々話しながら」

 とつれの阿部と云う男と話しながら帰りました。友之助は左様なことゝは存じません、翌々日は整然ちゃんと結構な品物ばかり取揃とりそろえて風呂敷に包み、大伴蟠龍軒の名前を聞いてるから、本所割下水へくと、結構なあつらえ物をした上に始めての交際つきあいだと云うので、多分の目録をくれ、馳走をして帰しました。大分だいぶ調子がいから友之助はちょい〳〵くと、帰りにった時は、大儀だろう駕籠かごに乗って帰るがいと云って、駕籠へ乗せて帰す。友之助は結構な出入先が出来たと喜んで足を近く行って見ると、何時いつも能く来たと云って大伴蟠龍軒も蟠作ばんさくも兄弟揃って友之助をヤレコレと云う。友之助は一体い人でございますから、二なき出入が出来たと心得て、しば〳〵参ります。其のうち四月十一日の丁度只今なれば午後二時少々廻った時分で、日長ひながの折から門弟衆は遊びに出て仕舞って、お中口なかぐちはひっそりと致して居ります。

 友「お頼み申します〳〵〳〵何方様どなたさまも入っしゃいませんか、御免をこうむります」

 と次の間へ荷を置きまして、

 友「御免下さい」

 蟠龍軒「たれだ」

 友「へー紀伊國屋で」

 蟠「能く来た、お前が三日も来ぬと一月ひとつきも来ぬ様な心持で合縁奇縁あいえんきえんで妙なものだ、どうも懐かしいな」

 友「恐入ります、先日は又多分の頂戴物ちょうだいものをいたして、ことに御馳走になり酩酊いたして有難いことで、何時いつも酔って帰りまして家内に叱られます」

 蟠「どうも可愛い男だ、今阿部あべ忠五郎ちゅうごろうと舎弟と碁をり初めたが、わしは一杯遣ってるが誠に陰気でいかぬ、どうもすきだからの通りだ」

 友「へー大層夢中になって入っしゃいます……御舎弟様、御機嫌宜しゅう…阿部様御機嫌宜しゅう…少しもお耳に這入はいりませんな」

 蟠「これ蟠作、紀伊國屋が来た」

 蟠作「いや、これはどうも久しく逢わぬが、余り来ないと云って兄と案じていた、今阿部と初めた処だが碁に掛ると他に念なしで夢中になるから」

 阿「さアむずケしくなって来ました、此処こゝすみだけは取られた塩梅あんばいだ」

 友「阿部様、少しお悪い様で」

 阿「これはどうも、誠に先日はお互いに酔って御無礼を致しました、御舎弟には中々かなわぬ、今一生懸命の処で御挨拶ごあいさつは出来ません……置いては悪いと云う、紀伊國屋が来ればとく……成程これは悪い、あッと切れてることを知りませんでした、これはどうも大ごと二十五もくと云う仕事、これは弱りましたな……ると向うへ登ると、えゝ紀伊國と斯うやる、紀伊國屋と突くと向うが紀伊國と跳上はねあげられる、弱るね、紀伊國屋と斯う突くと向うが紀伊國とやる」

 友「はゝゝゝどうも紀伊國屋づくしの碁は初めて見ました」

 蟠「紀伊國屋は碁はすきだそうだな」

 友「へえわたくしは碁で十六たび失錯しくじりました」

 蟠「大層失錯りましたね」

 友「御膳より好で、目の先へ斯う始終碁が並んでいる様で、あきないの邪魔になりますからピッタリめました」

 蟠「どうだ、阿部は下手の横好きで舎弟に七もく負けたが、どうだ阿部と一石いっせきやりなさい」

 蟠作「紀伊國屋遣りなさい、自分の身代しんだいになれば碁に勝ってもいじゃアないか、よう遣りなさい」

 友「じゃアお相手致しましょうか」

 ともとより好きだから紀伊國屋は心嬉しく、

 阿「あれさ黒はいかぬ、白を持ちな」

 友「どう致しまして」

 阿「手前てまいは白を持ったことはない、お前は上手らしいからわしは黒が宜い」

 友「じゃア参りましょう」

 とパチリ〳〵と根が好だから夢中になって二番ばかり打ちますと、阿部はばた〳〵と負けた。

 蟠「どうしたの」

 阿「へえうも紀伊國屋強うございます」

 蟠「かったか」

 友「阿部様はほんのあめでしょう」

 阿「なか〳〵飴でない」

 蟠「どうして阿部はとてもいかぬ、へぼだ、へぼで飴を食わせることは出来ぬ」

 阿「じゃアうしましょう、張合はりあいになりませんから負けたら大きいもので一杯グーッと飲んではどうでしょう」

 蟠「ずるい事を考えるな、阿部は自分が酒が飲みたいものだから」

 阿「そうでない、さア遣りましょう」

 蟠「これ〳〵友之助、阿部はむかっ腹を立てゝ面白いから一両ばかりけて遣りなさい、慾張ってるから取られるとひたえへ筋を出して面白いから、阿部、紀伊國屋と一両賭けて賭碁かけごうだ」

 阿「どうも勝って来たものだからすぐ附込つけこんで来る、どうも敵にうしろを見せる訳にもいかぬから遣りましょう」

 とそれからパチリ〳〵と遣りますと紀伊國屋が勝ちます。

 阿「此度こんどは倍賭けで二両で」

 と出ると又紀伊國屋が勝つ。又四両八両と云うので段々大きくなり十両が二十両となり幾度いくたび遣っても阿部が負ける。

 友「もういけませんよ」

 阿「ウーン紀伊國屋、まア其処そこへ置きな、遣らぬではない、遣るが残念だから一時いちどきに思い切って五十両がけよう」

 蟠「阿部大層大形おおぎょうになったな、そう腹を立ってはいかぬ」

 阿「いや余り残念だから、紀伊國屋逃げてはいかぬ」

 友「逃げやアしませんが、お気の毒様です、阿部様の五十両を唯頂戴致しますと恐入おそれいりますからな」

 阿「唯なんてそう云うことを云うから残念だと云うので」

 と又遣ると今度はたった二目の違いで紀伊國屋が負けました。

 友「さア遣られました」

 蟠「どうした負けたか」

 友「負ける碁ではないが二目の違いで負けました、残念です」

 蟠「紀伊國屋は先に勝ったから宜しい、今度はまけずにやれ」

 友「残念です、今度は百両賭で遣りましょう」

 阿「百両賭、面白い、遣りましょう」

 友「旦那様恐入りますが百金拝借致したいもので」

 蟠「百金わしの手もとにはないが…どうだえ貸すかのう」

 蟠作「左様です、紀伊國屋だから兄上が証人なれば貸しましょう」

 蟠「じゃア貸して遣ろう」

 友「負ける碁ではないのですから百金としてせんのを皆取返して、阿部さんの鼻から汗を出させます」

 阿「しからぬ、さア参りましょう」

 蟠「紀伊國屋百両とまとまった金だ、貴様は堅い商人あきんどだから間違はあるまいが、鳥渡ちょっと証文を書かぬとわしが証人になって困るから」

 友「宜しい、印形いんぎょうを持参しましたから書きます」

 蟠「なにを書入れる、馬鹿な、そんなことをしなくってもいのう蟠作」

 蟠作「なに兄上、紀伊國屋は土蔵よりなにより大事なものは女房のお村だと云って度々たび〳〵のろけを言いますが、し此の三十日みそかまでに金が出来んで返金の出来ぬときは女房お村を貴殿方きでんかたへ召使に差上げましょうと云う証文はどうです」

 蟠「それは至極面白い、酒の座敷ではそう云う洒落しゃれた証文は面白い、それじゃア紀伊國屋、若し金が返せぬときは女房を貴殿方へ召使に差上さしあげるという証文はどうだ」

 友「成程それはどうも」

 蟠「面白かろう」

 友「飛んだお面白い洒落で」

 友之助は根が善人ですから、よもやと思って得心しますと、

 阿「わたくしが書きましょう」

 と阿部忠五郎がすら〳〵と書きましたのを知らずにピタ〳〵印形をして向うへ渡しました。阿部忠五郎と云う男は元より碁に負ける様な者ではない、碁は三段から打ちまして田舎廻りの賭碁で食っている。忠五郎たくみも企んだ証文を書いて百両賭で遣ると、たちまちにパタリと紀伊國屋が取られました。

 蟠「どうした」

 友「取られました、残念でございます、これは負切まけきりにはしません」

 蟠「まア〳〵そうあせるな、心配すると面白くない、互いに熱くなって筋を出しては面白くない、金はどうでも宜い、まア〳〵一杯飲んで機嫌く帰れ」

 とこれからお酒になって紀伊國屋を機嫌く帰しましたが、友之助は正直な男だから気に掛りますが、四月三十日みそかに金子を返す訳にかぬから言訳に参りますと、

 蟠「馬鹿ア言え、貴様に貸す金を取ろうとは思わぬ、又是れから買う品物で段々差引くから宜しい」

 と云うからそうと心得て居りますと、五月十五日にお客があるから女房のお村を働きに貸してくれとの頼みです。以前芸妓だそうで定めて座の取廻わしも好かろう、当家には三味線さみせんがないから持参で夫婦揃って来て、客の待遇あしらいを頼むと云うから、友之助は余儀なく女房自慢でお村を立派に着飾らせ、自分も共々行ってお客の待遇を為し、其の晩はも更けましたから今夜は一泊するがいと云うので、夫婦諸共に一泊いたし、翌朝よくあさになりますと友之助は商いにき、お村は跡に片附かたづけものもあるから、もう一日貸せと云うので、友之助は商いを仕舞って迎いに来ようと思ったが、そこは外見みえで女房の跡を追掛おいかけるようでいかぬから、銀座へ泊って翌日行くと種々いろ〳〵跡に取込とりこみがあり、親類の客があるし、お村の清元を聴かせたいから、もう少しと云うので、又お村を引上げられ、又二晩置いて行くと、もう向うの様子が違って、たくみわなに掛りました。此方こっちはそんなことは知りませんから、

 友「御機嫌よう」

 蟠「いや紀伊國屋か、能く来たね」

 友「御無沙汰いたしました」

 蟠「大分だいぶ暑くなった」

 友「誠に長々お村を有がとうございます、もう御用済になりましたら、わたくしも商いに参りますに、うちは錠をおろして出ますのも誠に不都合でございますから、今日はお村を連れて帰りとう存じます」

 蟠「たれを」

 友「お村を」

 蟠「お村を連れて帰るとはどう云う訳で」

 友「へいお村を連れてまいるので」

 蟠「何を言うのだ、お村は舎弟の蟠作に貴様は妾につかわしたではないか」

 友「へいなんで、何を仰しゃる」

 蟠「手前忘れてはいかぬ、先月阿部と賭碁をして、金がないからわしに百両貸せと云うから、手許てもとにないにって弟の手から貸して、わし請人うけにんになって、証文の表には返金の出来ぬ時は女房お村を貴殿方へ召使に差上げると云うことが書いてあって、首と釣換つりかえの印形をしたではないか、えゝ、それ故蟠作がもう妾に致した心得で毎晩抱いて寝ますよ」

 友「しからぬ乱暴なことを云って、御冗談を仰しゃるが、手前跡月あとげつ三十日みそかに少々金子に差支さしつかえがあると申したら、何時いつでもいと仰しゃるから宜いと心得て居りましたが、そう云うことなら返金致すので、人の女房をそんなどうもお愚弄からかいなすっちゃアいけません、驚きますよ」

 蟠「何を云う、なんぼ兄弟の中でも金銭は他人と云うたとえ通りだ、なぜ金を返さぬ、貴様は正直な商人あきんどだからよもや倒しゃせまいと思い、催促しなければい気になってこれまで返金に及ばぬから此方こっちおとゝが抱いて寝るは当然ではないか」

 友「先生それは貴方あなた本当に仰しゃるのですか」

 蟠「武士たる者が嘘を云うか」

 友「これは呆れた、呆れましたねえ、先生、貴方は立派な門弟しゅも沢山ある大先生のお身の上で、なんと弱い町人を貴方ごまかす様なことをなさらんでも宜しいじゃございませんか、の時はほんの酒の場で洒落だと仰しゃるから印形をしましたが、そうでなければ女房を書入かきいれの証文に印形を突きは致しません」

 蟠「黙れ、手前洒落に首と釣換えの印形を捺すか、誰が洒落に金を貸す奴があるか、出入の町人に天下の通用金百両と云う大金を貸すはかたじけないと思え、洒落に貸す奴があるか、痴漢たわけめ、お村が欲しければ金を返せ、おれが間へはさまって迷惑に及ぶぞ、痴漢め」

 友「これは驚きましたな、どうも余りと云えば呆れ果てた仰しゃり分でげす、宜しい、私も紀伊國屋です何も金を返せなら返せで催促を遊ばして、女房を取上げんでもい、お村を鳥渡ちょっと貸せと仰しゃるから上げたので何もそれを抱いて寝る事はありません、お村もまた抱かれて寝ることはありません、金を持って参ります」

 蟠「当然あたりまえで」

 友「金をこしらえて持って参ります」

 と真青まっさおな顔をして涙を浮べ唇の色も変えて友之助飛出したが、只今と違い其の頃百金と云うは容易に人が貸しません。正直な者でも明後日あさって来いとか明日あした来いとか云う人ばかりでございます。翌日になりようや七所借なゝとこがりをして百両まとめて、日の暮々くれ〴〵に大伴蟠龍軒の中の口から案内もなしで通りましたが、前と違い門弟しゅ待遇あしらいが違う。

 門弟「これ〳〵紀伊國屋、無沙汰で中の口から通る奴があるか」

 友「へえ先生にお目に懸りたい」

 門弟「取次いで遣るから其処そこに居れ、なんの用だ」

 友「いゝえ、来いとおっしゃるから参ったので、金を持って来たのです」

 蟠「誰か来たか……なに紀伊國屋が来た、余り小言を云わぬがい、さア這入はいれ、宜しいから此処こゝへ来い」

 友「先生、金子百両たしかにお返し申しますから証文とお村を引換ひきかえにどうぞお返しなすって下さい」

 蟠「なんと、そんなに顔色を変えて泣面なきつらをするな、これは百金だな」

 友「左様で、百両借りたから百両持って参ったのです」

 蟠「痴漢たわけ、手前は三百両借りたのではないか」

 友「何を仰しゃる、私は百金しか借りた覚えはありません」

 蟠「黙れ、手前はのぼせてるな」

 友「お前さんが上せている町人をだましてそんな」

 蟠「これ〳〵何を大きな声をする……これ此の通り「金三百両但通用金也たゞしつうようきんなり」どうだ、これを見ろ」

 友「へえ……おや〳〵」

 と友之助は証文を見ると阿部忠五郎が金の字と百の字の間を少し離して書いて、其の間へ無理に三の字をひらったく篏込はめこんで入字いれじをした百両の証文が三百両だから、

 友「これは〳〵三百両」

 蟠「ソーレ見ろ、三百両どうだ、手前得心で印形をしたではないか、痴漢たわけめ……蟠作これへ出ろよ、百金を持って来たからお村を返せと云うが返して遣るか」

 蟠作「しからぬことでげす」

 と云いながらスラリッとふすまを開けると蟠作に続いて出ましたのがお村、只今で云う権妻ごんさいです。お妾姿で髪はに結い、帯をお太鼓にしめてお妾然として坐りました。続いて柳橋のお村の母お崎ばゞあが隠居らしく小紋の衣物きもので前帯にしめて、前へのこ〳〵出て来た。

 友「おやお村、おっかあも」

 お崎「誠に貴方方あなたがたには相済みませんがわたくしも友之助には云うだけの事は申しますから、はい……おれが云うことを能く聞け」

 とお村の前へ進み出まして、友之助を捕まえ悪口あっこうを云う、これが大間違いになります初めでございます。


  十二


 慾深き人の心と降る雪は積るにつけて道をわするゝと云う、慾の世の中、慾の為には夫婦の間中あいなかも道を違えます人心ひとごゝろで、其の中にもまた強慾ごうよくと云うのがございます。大慾は無慾に似たりと云って余り慾張り過ぎまして身をはたす様なる事が間々まゝございます。お村のおふくろなどは強慾に輪をかけましたので、実に慾の国から慾を弘めに来たと云う、慾の学校でも出来ますれば教師にも成ろうと云う強慾張ごうよくばりで、筋と肉の間へ慾がからんで慾でふとる慾肥りと云うのは間々あります。頭の真中まんなか河童かっぱしりのように禿げて居ります、若いうちちと泥水を飲んだと見えて、大伴蟠龍軒のえりに附きまして友之助の前へ憎々しく出て来まして、

 崎「おい友之助、お前は本当にひどい人だのう、私のたった一人の娘をたってくれと云うので、お前は業平橋の文治郎と云う奴を頼んで掛合いに来た其の時、私はることは出来ねえと云ったら、文治郎と云う奴は友之助の所へお村を遣らなければ縊殺くびりころすと云って理不尽に咽喉のどを締めて、苦しくって仕方がねえから、はいと云ったが、其の時の掛合にのう、おっかあには月々五両ずつ小遣こづかいを贈ろうと云ったが、毎月々々まいげつ〳〵送ったことがあるか、やれうちを越したの、やれ品物を仕入れるの、店を造作ぞうさくするのと云って丁度金を送ったことはありゃアしねえ、大事な一人娘を何故親に無沙汰で、此方様こちらさまへ来て博奕ばくち同様な賭碁に書入れた、三百両と云う大金でお前は碁を打って楽しんだろうが、親に無沙汰で書入れて仕舞って、此方様だからい、おふくろぐるみ引取るから心配するなと仰しゃるが、若し悪い者の手に掛れば女郎に売られるか知れやしねえ、ふてい奴だ、縁切えんきりで遣った娘ではねえ、嫁に遣ればしゅうとだよ、おれに一応の話もしねえで、沙汰なしに金の抵当かたに書入れられてたまるものか、手前てめえのような奴になんと言ったって再び娘は遣りゃアしねえからそう思いなよ」

 友「おっかあそれはねお前が腹を立つのはもっともだけれども、是には種々いろ〳〵な深い訳のあることで、私も此方様へ二月からお出入して、初めはやれこれ云って有難い花主とくいと思って、此様こんなに人をだますようなことをなさろうとは思わなかったが、後月あとげつ来たら碁を打て〳〵と先生が勧めるから、お相手の積りで碁を打って、初めは私に飴を食わせ、勝たして置いて賭碁をしろと仰しゃり、向うのたくみとは知らず、洒落と思ってうっかり証文を書いたのが私のあやまりだ、過りだけれども金は百両しか借りはしない、だが三百両でなければお村は返さないと仰しゃるから、どんなにも才覚してお村を取返しに来ようし、あとでお前に話をするからお村だけは何卒どうぞ私の方へ返して下さい」

 母「誰が手前てめえに返す奴があるものか……これお村、手前てめえもこんな不人情な奴にくっついていたって仕様がねえ、諦めの着くように判然はっきりと云って仕舞いなよう、愚図々々するから此奴こいつがこけの未練で思い切れねえから、思い切って云って仕舞えったら云って仕舞いなよ、こんな意気地いくじなしの腰抜にくっついていたって仕様がねえ、食えなくならア、判然と云いなよ、縁を切って仕舞いなよ」

 村「あの友さん、私はね今度と云う今度はおっかあの云う通り呆れたよ、お前も新店のことだから是だけ代物しろものを仕入れなければならない、土蔵も建てなければならぬとか、店の造作ぞうさくするに金が入るとかの為に少しの間女郎になれとか、抵当かたに書入れるとか云うなれば、夫婦相談で出来まいものでもないけれども、私は本当に呆れたよ、私に話もしないで此方様こちらさまへ書入れにして金をかりるとはあんまりではないか、お前のような不人情な人に附いていても、どんな目に逢うか知れないから、何卒どうぞ夫婦の縁は是れりにしておくんなさい、私ばかりが女じゃアない、世界には幾らも女があるから、賭博ばくちをする時書入れられてもいと云う様な、お前に惚れている人を女房にお持ち、私はお前に愛想あいそが尽きていやだから、これから夫婦の縁はおっかあのいる前で切っておくれ」

 母「能く云った〳〵、諦らめなよ、お村の腹が変っては役に立たねえ、さア〳〵帰れ、遣らぬと云ったら遣りませんよ」

と云ううち友之助の眼は血走って、唇の色は紫色になり、

 友「お村、あんま愛想尽あいそづかしを云うじゃアないか、決してお前を書入にしたのではない、書入はほんの洒落だと云うから、うっかり書いたはあやまりだが、今になって金の有る大伴蟠作の襟に附いて己を振り付けては、去年の暮、牛屋の雁木で助けられた文治郎様へ済むめえ」

 蟠「これ〳〵お村とはなんだ、今までは手前の女房だろうが、もう当家へ来ては妾だ、お村様と云え」

 友「何を云うのだ、お村様も何もない、私の女房に違いございません、此方こっちへ出ろ、此の畜生め、どうも口惜くやしいたって、こんな証文などをこしらえて、お前さん立派な剣術の先生で、弟子子でしこもあり、大小をす身の上で、入字いれじをして証文を拵えるとは、これじゃアかたりだ」

 蟠「これ〳〵、騙りとはなんだ、かりそめにも一刀流の表札を出す蟠龍軒だ」

 友「騙りだ〳〵」

 と夢中になって友之助身を震わして騙り〳〵と金切声で言うと、ばら〳〵と内弟子が三四人来て、不埓至極な奴、先生を騙りなどと悪口雑言あっこうぞうごんをしては捨置かれぬ、出ろと襟髪えりがみを取って腕をつかまえて門前へ引摺り出し、打擲して、前に申し上げた通り割下水のみぞさかさまに突込つきこんで、踏んだり蹴たり、半死半生はんしはんしょう息も絶え〴〵になりましたが、口惜しいから、

 友「さア殺せ、さア殺して仕舞え〳〵」

 と云う声、実に悲鳴を放って苦しんでいるのでございます。処へ文治郎通り掛ったが、母が同道でございますから、何分なにぶんにも問うことも出来ません。宅へ帰って森松に耳こすりして、全く友之助が蟠龍軒の為にひどい目にっているなら、助けないでのまゝにして置けば必ず死ぬから、早く見て来いと云うから、森松は飛出して割下水へ来て見ると、四辺あたりはひっそりとしていたけれども、其の者はどぶから這上はいあがって這うようにして彼方あっちへ行った此方こっちへ行ったと人の話を聞いて、だん〳〵跡を追って吾妻橋へ掛りますと、ポツリ〳〵大粒の雨が顔に当ります。ピュウ〳〵と筑波下つくばおろしが吹き、往来はすこし止りましたが、友之助はびしょぬれの泥だらけ、元結もとゆいははじけて散乱髪さんばらがみ、面部は耳の脇から血が流れ、ズル〳〵した姿なりで橋の欄干に取付き、

 友「口惜しい、畜生め、町人と思って打ち打擲して、人を半死半生に殺しゃアがったな、あゝ己は口惜しい、己は此の橋から飛込んで三日たゝうちみんな取殺すからそう思え、エー口惜しい」

 と狂気致したようになって欄干に手を掛けると、バタ〳〵跡から来たは森松、

 森「友さん〳〵おい仕様がねえ、友さんしっかりしねえ」

 友「止めてはいけません、何卒どうぞ離しておくんなさい、生甲斐いきがいのない身体、殺しておくんなさい」

 森「何を云うのだ、おめえ能く考えちげえをしてはいかねえ、おめえ狼狽うろたえちゃアいけねえ、旦那が心配しているんだ、旦那は此のせつ外へ出られねえから己に行って見ろというから来たのだ」

 友「三日たゝうちに取殺します」

 森「そんなことを云ったって仕様がねえ、能く訳を云いねえ、えゝおい、如何どう云う訳だ」

 友「どう云う訳だってお村はスッパリ大伴の襟について、百両が三百両になった」

 森「百両が三百両になればえたのだから結構じゃアねえか」

 友「いゝえ私は半分死んで居ります」

 森「訳が分らねえ……人が立っていけねえよ、己に話して聞かせねえ、待ちねえよ、むこうの都鳥と云う茶店ちゃみせきねえ……何を見やアがる、狂気きちげえでもんでもねえ」

 とようやく都鳥の店へ来て、

 森「表は人が立つといけねえ、連れて来た人は少し怪我人の様な病人の様な変な者だが、薄縁うすべりか何か敷いてくんねえ……おい友さん腰を掛けねえ」

 友「へえ〳〵」

 森「しっかりしねえ」

 友「確りたって私は半分死んで居ります」

 森「そんな事を云ったって分らねえ、どうしたのだ」

 友「百両が三百両になりました」

 森「それは結構じゃアねえか、殖えたのだ」

 友「初めは私が勝ったので、二度目が負けたので、たくんだのだ、お村様と云えと云います」

 森「何を云うのか分らねえ、困るな、水を一杯いっぺい飲みねえ」

 友「どうせ川へ這入れば水は沢山たんと飲めますから入りません」

 森「しょうがねえな、どう云う訳だ、おめえも本所の旦那の子分、己も子分だ、旦那が表へ出られなくっているのに子分が本所へ来て恥辱けじめを食って、身を投げるとはどういう訳だ、旦那は子分が喧嘩でひけを取っては見てはいられねえ、おめえかたきは己が取るから相手を云いねえ」

 友「相手は剣術つかい」

 森「なに、それじゃア己にはいけねえが、誰だ」

 友「それはお村に惚れているので、前々ぜん〳〵から私をだまして百両を三百両にしてお村を取上げ、私は半分死んで居ります」

 森「分らねえな、……じいさん、旦那をんで来るから鳥渡ちょっと此の人を此処こゝへ置いてくんねえ」

 爺「貴方がおいでなすっては困ります、の人が駈出すと困りますよ」

 森「少しは駈出すかも知れねえが、じきだから」

 と云い捨てゝ、森松が業平橋へ来て文治郎に云うと、文治郎も心配してもほかに仕方がないから、お母様っかさまには上州前橋の松屋新兵衞が来て逢いたいから吾妻橋の海老屋で待っているとお母様に言ってくれと、こしらえ事ではありますが、人の為と思い、母に話しますると、外の者ではらぬが、松屋さんなら逢ってくるがいと云うので、森松と同道で都鳥と云う茶店へ来て、

 森「爺さんいるかえ」

 爺「ります、時々縁台から下りまして川をのぞいて居ります」

 森「心配しんぺいはねえ、旦那が来たから」

 爺「御苦労様、お医者様ですか」

 森「お医者様じゃねえ……旦那此方こっちへ」

 文「友さん、大分だいぶ面部へきずを受けたねえ、どうした、しっかりしなくてはいかぬ、身を投げて死ぬなどとそんな小さい根性を出してはいかぬ、どう云う訳か、心を落付けて話しなさい」

 森「旦那が来たよ、話しねえ」

 友「へゝ有難う、誰が来ても私は半分死んで居ります」

 森「あんなことを先刻さっきから云うので分りません、しっかりしねえ、旦那だよ」

 文「わしだが分るかえ」

 友「へー、お村様と云いますから、お村のおふくろまで向うに附いているので、へー」

 森「これは仕様がねえな、旦那が分らねえか」

 文「友さん、わしが分りませんか、業平橋の文治郎だが分りませんか」

 友「へー〳〵旦那で、有難い〳〵能く来て下さいました、旦那様口惜くやしゅうございます、うかかたきを討って下さい、私は半分死んで居ります」

 文「まア気を落付けなさい、さぞ残念であろうが、う云う訳でお前はひどい目にったか仔細を云いなさい」

 友「へい、私はね旦那様あなたよりほかかたきを取って戴く方はございません、貴方の処へ参りたいと思いましても、此の二月貴方に一言いちごんのお話もしませんで銀座三丁目へ越し、つい敷居が高くなり御無沙汰になりましたが、是れも皆お村の畜生が悪いからで、何卒どうぞ御勘弁なすって下さい」

 文「まア無沙汰の詫事わびごとはどうでもいが、お村はどうした」

 友「へい、お村は向うへ取られ、金も百両取られました上でたれました」

 文「女房と金を取られて打擲されるとはお前に何か悪い事があるだろう、自分の悪いことを隠してはいかぬ、かたきを取って貰いたければわしに話しなさい、又趣意にって話をつけてお前の顔の立つ様にもしよう、そうじゃないか」

 友「へー有難い〳〵、森松さんお出でなさい」

 森「今ようやわっちの顔が分ったのか、しょうがねえ、おい水を飲みなせえ」

 文「どう云う訳かえ」

 友「へー、この二月月末つきずえ、本所北割下水大伴蟠龍軒と云う剣術遣いの先生の舎弟の蟠作と云うものが店へ来て、あつらえ物があるから宅へ来いと云われるから、度々たび〳〵参りますと、結構な品々を買ってくれ、御馳走をして祝儀をくれ、有難い得意が出来たと思い、足を近く参りました、そうすると向うでも、度々参りますからわたくしの好き嫌いも知るようになりました、後月あとげつ十一日にわたしが参りますと、阿部忠五郎と云う人が舎弟の蟠作と碁を打って居りまして、私の碁の好きなのを知って、碁を打て〳〵と云いますから、私も相手になって一二番打つと、ついに賭碁にしろと云い、初めはわたくしが勝ちましたが、段々仕舞に負けまして、大伴蟠龍軒から金を借りましたので、すると百両とまとまった金だから証文にしろ、若し金がとゞこおったらば抵当かたに女房お村を召使に上げるということを証文おもてに書き、それもほんの洒落だからと申しますから、冗談の心持で阿部忠五郎と云う奴に証文を書いて貰って、うっかり印形をしたのです」

 文「それはまア飛んだ目に遇った、たくんでいたのだな」

 友「企んだって企まないってそれ程とは存じません、門弟衆にはお旗下はたもともあり、お歴々もあるから、よもやそんな真似はしようとは思いませんが、前々ぜん〳〵からお村に惚れていた故だましたのです」

 文「それからどうした」

 友「それで百両負けて仕舞って、晦日みそかに言訳にくと、宜しい、返さなくっても宜しいと申し、客があるから一両日お村を貸せと云うから働きに連れて行くと、昨日きのうまで返しません、あんまり返しませんから、お村を迎いに行くと、金を返さぬからお村を蟠作の妾にして毎晩抱いて寝て、手前の方へは返さぬから金を持って来いと云うから、私はどうもびっくり致しました、あんまりでございますから七所借なゝとこがりをして金を持って参り、突き付けまして、お村を返せと云うと、旦那様、お崎ばゞあも大伴へ参って居ります、其の上お村がお前のような意気地いくじなしの女房になるのは厭だと云い、ばゞあは手前には娘を遣らぬと申し、皆向うへ附いて口惜しゅうございますから、お村に文治郎様に義理が済むまいと申しますと、お村とはなんだ、お村様と云え、様を附けろと云うから、くそでもくらえ、それじゃア騙りだと云うと、わたくしの頭を鉄扇で打ち、門弟がたぶさを取って引摺り出し、打ち打擲するのみならず、割下水へさかさまに突込つきこまれてわたくしは半分死んで居ります」

 文「憎い奴だなア」

 友「憎いって憎くねえって、森松さん可愛そうと思って下さい」

 森「ひどい奴で、彼奴あいつは悪党でげすな、旦那」

 文「ふーん、それで百両返しにいって其の百両はどうなった」

 友「百両借りた証文が三百両となりました、百と云う字と金の字の間へ三の字を平ったく書いたのですから、騙りと云うのは当然あたりまえでげしょう」

 文「其の金はどうした」

 友「其の金は其処そこへ置いて掛合ったので」

 文「持って帰ったか」

 友「掛合中に突然いきなりに引摺り出されたから目の前にあっても取る事は出来ません」

 文「成程、至極尤もだ、友さん如何いかにもお前は善人だ、金と女房を取られた上にたれて気の毒千万だ、私は母にいましめられて喧嘩の中へ這入はいることは出来ません、もとより人の掛合に頼まれることはせぬ積りだが、どう云う訳か去年の暮から別懇になったからして如何にも気の毒だから、私がって百両の金だけは取返して上げまいものでもないが、女房お村の取返しは御免だ、其の位企みをして妾にしようとするお村を取返さんとすれば面倒になり、どのようなる理不尽なことをするか知れぬ、其の時は引くに退かれぬ場合になる故に、お村を取返すことはわしは頼まれぬ、お村は諦めな、あれはいかぬ、お前の為にならぬ女だ、あれが了簡の不実なのは見抜いて知っている」

 友「旦那様、そう仰しゃいますが、わたくしはあれは諦らめられません、わたし彼奴あいつ故主人を失策しくじり、友達には笑われ、去年牛屋の雁木で心中する処を助けられ、ようやく夫婦になった者を、取られた上に打ち打擲されて、これもお村故でございます、仮令たとえ一晩でも取返して女房にした上、表へ逐出おいだそうとも、彼奴がびんの毛を一本々々引抜いて鼻でも切って疵だらけにしなければ腹がえませんから」

 文「其様そんなことをしたって詰らぬから、わしの言うことを聞いて、あれは諦めな、負けたのはお前のあやまりだから、百両の金で不実な女房を売ったと思って、諦めた方が宜しい」

 友「わたくしは諦められません、わたくしとりかえして半年でも女房にして逐出します」

 文「出したり入れたりしては詰らぬから、それよりはお村よりもまさった立派な女房を文治郎が世話をしようから、あれは諦めな、為にならぬから」

 友「為にはならぬが、あの畜生、お村様と云えと云いました」

 文「諦めなよ」

 友「あきらめられません、三日でも宜しい、三日夫婦になって、彼奴あいつの顔を疵だらけにして逐出します」

 文「そんな奴があるものか、お村に未練があるなればお断りだ」

 森「しょうがねえ、友さん、旦那があきらめろと云うから諦めねえよ」

 文「諦めるなれば百両は取返してろう、だがそれ程企んで取った百両だから、返すかどうか知れぬ、元より取返そうとすれば喧嘩になり、退くに退かれなければ世間を騒がせなければならぬ、お前に気の毒だから、若し向うで百両を返さぬとなれば百金はわしつぐなってお前に上げる心得だ、お前の為に百両は損をする気で中へ這入るのだから、其の志をにしないで、お村を諦めなさいよ」

 友「へー〳〵わたくしはあきらめましょうが口惜くやしゅうございます、私は実に残念でございます」

 文「さぞ残念であろうが、其の代りあと幸福しあわせになる」

 友「彼奴あいつを諦めます代りには彼奴唯は置きません、走り大黒様へ針を打ちます」

 文「そんな詰らぬことを云ってはいかぬ、何処どこか近所に医者があるだろう」

 と茶店の亭主に医者を尋ねさせ、外科医者が来て頭の疵に膏薬こうやくを付け、駕籠に乗せて友之助を帰し、翌日夕景から、母の前は松新が迎いに来たていにして、文治郎は大伴蟠龍軒の玄関先へかゝり、

 文「頼む〳〵」

 大伴の表へは水を打って掃除も届き、奥には稽古を仕舞って大伴蟠龍軒兄弟が酒宴さかもりをしている。しばらくして「玄関に取次とりつぎがあるよ、安兵衞やすべえ

 安「へー」

 つか〳〵と和田安兵衞が取次に出ました。と見ると文治郎水色に御定紋染ごじょうもんぞめ帷子かたびら、献上博多の帯をしめ、蝋色鞘ろいろざやの脇差、其の頃流行はやったまさの下駄、さらしの手拭を持って、腰には金革きんかわの胴乱をげ、玄関に立った姿はたれが見ても千石以上取る旗下はたもとの次男、ひんと云い愛敬と云い、気高けだかいから取次の安兵衞は驚いて頭を下げ、

 安「何方様どなたさまから」

 文「手前は業平村に居ります浪島文治郎と申しますえー粗忽そこつの浪士でござるが、先生にお目通りを願いたく態々わざ〳〵出ました」

 安「少々お控え下さい」

 とつか〳〵奥へくと、しきりに酒を飲んでいる。

 安「先生、浪島文治郎という業平村に居ります者が先生にお目通り願いたいと申します」

 蟠「どんな奴だ」

 安「へー、誠にい男で、どうも色の白いことは役者にもありません、眼の黒い眉の濃い綺麗な男で、水色の帷子を着て旗下の次三男と云うひんでげす」

 蟠「そんな事はどうでも宜い…蟠作、浪島とはなんだ」

 蟠作「兄上、かねて聞きましたが浪島文治郎と云うは浪人者で、何か侠客きょうかくとか云う、町人をおどし、友之助のことに世話をする奴で、友之助の事にいて掛合に参ったのでございましょう」

 蟠「あゝそうか」

 崎「先生、それでございますよ、参ったら油断してはいけません、怖い奴です、見た処は虫も殺さぬような、しと〳〵ものを言うが、一つ反対返でんぐりかえると鬼を見たような奴です、お村を取還とりかえしに来たって貴方はいと云っては親子のものが困りますから、どうかして下さいよ、お村逃げな〳〵」

 蟠「はアそれは面白い、酒の肴になぶってやろう、呼べ〳〵」

 と悪い所へ参りました。文治郎は案内に連れられまして奥へ通りますと、道場の次の座敷のれこれ十畳もあります所へ、大いなる盃盤はいばんを置きまして、みんな稽古着に袴を着けまして酒宴をして居ります。大伴蟠龍軒の次に蟠作が坐り、其の次にお村が坐りまして、其の次にお崎ばゞあが猫脊になって坐ってる、ほかに門弟が四五人居ります。襖をへだって文治郎が両手を突いて叮嚀ていねいに挨拶を致します。

 蟠「さア、どうぞこれへ這入って下さい、其処そこじゃア御挨拶が出来ぬ故何卒どうぞ此方こっちへ這入って下さい、此の通り今稽古を仕舞って一杯初めた処で、甚だ鄙陋びろう体裁ていさいるが、どうぞ無礼の処はお許し下すって、これへお這入り下さい」

 文「へー初めまして、えー業平村に居ります浪島文治郎と申す至って粗忽の浪士、お見知り置かれて此ののちとも幾久しく御別懇に願います」

 蟠「御叮嚀の御挨拶、手前は大伴蟠龍軒と申す武骨者、此のとも御別懇に願う……これは手前の舎弟でござる、蟠作と申す者、どうぞお心安く願います」

 蟠作「初めまして、手前は蟠作と申す者、かねて雷名とどろく文治郎殿、どうかおりがあらばお目に懸りたいと思っていたが、縁なくして御面会しなかったが、うこそ御尊来で、予てお噂に聞きましたが、大分だいぶどうもなんだね、お噂よりは美くしいね」

 しからぬことを言う奴と思ったが文治郎は、

 文「えー、今日こんにちお目通りを願いたい心得でまかり出ましたが、御不在であるかお逢いはあるまいかと実は心配致して参りましたが、お逢い下すって誠に此の上も大悦たいえつに存じます、少々仔細あって申し上げたい儀がございまして罷り出ましたが、大分お客来きゃくらいの御様子、折角の御酒宴のお興をさましては恐入りますが、御別席を拝借致して先生に申し上げたいことがありまして」

 蟠「いゝえ、なに別席には及ばぬ、これは門弟だから心配には及びません、ぐにこれで逢う方がかえってい、なんなりと遠慮のう直ぐにお話し下すって」

 文「左様なれば申し上げますが、ほかの儀ではございませんが、紀伊國屋友之助の儀に付いてまかり出ました」

 蟠「成程、何しろ席が遠くて話が出来ぬ、遠慮してはいかぬ、此方こっちへ這入って下さい、剣術遣いでも野暮やぼに遠慮は入りません、丁度相手欲しやで居りました、どうかこれへ」

 文「御免下さい」

 と這入ろうとしたが、關兼元の脇差は次の間へ置いて這入らなければなりませんが、し向うが多勢たぜいで乱暴を仕掛けられた時は、むを得ず腰の物を取らんければならぬ、其の時離れていては都合が悪い、それゆえ襖の蔭へ置きまして、余程柄前つかまえ此方こっちへ見えるようにして、若し向うで愈々いよ〳〵斬掛きりかけるようなる事があると、坐ったなりでずうっとさがり、一刀を取って抜こうと云う真影流の坐り試合、油断をしませんで襖の所へ置いて掛合うという危険けんのんな掛合でございます。

 文「只今申上げました紀伊國屋友之助は図らずも御当家へお出入になりましたことは此度こんど始めて承わりましたが、不思議の縁で昨年来よりして手前店請たなうけになって駒形へ店を出させましたかどもございましたが、久しく音信いんしんもございません、銀座へ越します時もとんと無沙汰で越しました、しかる処、昨夜吾妻橋を通り掛りますると、友之助が吾妻橋の中央より身を投げようと致す様子、狂気の如く相成って居ります故、引留ひきとめて仔細を聞くと、御当家様へお出入になり、長らく御贔屓ごひいきを戴き先月御当家様で金子百両借用致して、其の証文おもてに金子滞る時は女房お村を妾に差上げると云うことが書いてあり、金子の返金滞ったによって女房お村をお取上とりあげになってお返しがない、それ故に驚き、金子才覚して持って参りました所が、金子もお村もお取上で、お返しならぬ上御打擲になり、あまつさえ御門弟しゅもとゞりを取って門外へ引出し、打ち打擲して割下水へさかさまに投入なげいれられ、半死半生にされても此方こっちは町人、相手は剣術の先生で手向いは出来ず、如何いかにも残念だから入水じゅすいしてお村を取殺とりころすなどと狂気きちがいじみたことを申し……それはまアしからぬこと、音に聞えたる大伴の先生故、町人を打ち打擲などをすることはないはず、又女房を金の抵当かたに取るなどとはしたないことはなさる筈がない、そんなことは下々しも〴〵ですること、先生はよもや御得心のことではあるまい、何か頓と分りませんから、一応先生に承わって当人へとくと意見を申し聞かせまする了簡で罷り出ました、えい友之助の悪いかどわたくし当人になり代りましてお詫を致しますが、どのような仔細あってでございますか一応仰しゃり聞けられますれば有難い事で」

 蟠「成程、片聞かたきゝではお分りもございますまいが、これはう云う訳で、これに蟠作も聞いてるが、此の二月から出入させます紀伊國屋友之助は至って正道しょうどうらしく、深く贔屓にして、蟠作も袋物がすきで、私も好だから詰らぬ物を買い、遂に馴染になり、心安だてが過ぎ、手前方へ来る阿部忠五郎と申す者が碁を打つと友之助は飯より好と云うので、酒の場で碁を打ってな陰気だから止せ〳〵と云うのもかず遂に勝負に時を移し、賭となり金を賭けた処友之助が負けたから、金を貸せ〳〵と云い、まとまった大金だからどうも貸しにくい、間違いもあるまいが証文を入れろと云ったら、別に書入れる物はござらぬから、手前命より大切なものは女房のお村でございますから、お村を書入れましょうと云い、馬鹿々々しい訳だけれども、まさか金を返さぬ気遣きづかいもあるまいが、蟠作に話しをし、証文は取るに足らぬが、人間は心と心を見ぬいた上金をり取りすべきであるから、どうでも宜しいと云うと、当人が阿部忠五郎に証文を書いて貰い、印形をして証文を置放おきぱなしにして帰ったが、金は返さず、当人もが悪いと心得たか、十五日に女房お村を連れて来て、置放しに帰った切り、とんと参りません、どうしたかと思ってると、昨日きのう突然参ってお村を返せと云うから、お村は返さぬでもないが金を返せと云うと、いゝえ金は返されません、お村を返せと云うから、お村を返すには金を取らぬければ、なんぼ兄弟の中でもわし請人うけにんだから金を出せと云う争いから、狂気きちがい見たようにたけり立って、わしかたりだ悪党だと大声たいせいを発して悪口あっこうを言うので、門弟どもが聞入れ、師匠を騙りだの悪党だのと云っては捨置れぬと、もとどりを取って引出し打擲したと聞いたから、あとでまア弱い町人を其様そんなにせぬでもいと小言を云い聞かせて置きました、何も仔細はない、しからぬことで」

 文「どうも御贔屓になりましたる先生のことを騙りなどと悪口あっこうするとは不埓至極な奴、大方おおかた友之助は食酔たべよって前後も打忘うちわすれ、左様なる悪口を申したに相違ございません、友之助の不埓は文治郎なり代りましてお詫申しますが、元々お出入のことでございますから、友之助のさいお村は友之助へお返し下さるようになりましょうか」

 蟠「あゝ返しますとも、ほかならぬ文治郎殿がおいでになったことだから、あいと二つ返事で返さなければならぬ、すみやかにお返し申します」

 さき「誠にどうも貴方困りますね、貴方方あなたがた左様そう仰しゃって下さると、私とお村が困ります、迷惑致します……えー文治郎さん、お前はなんぞと云うと友之助のことにひょこ〳〵出て来るが、どう云う縁か知りませんが、去年の暮お村を友之助に遣れというから、私は一人娘で困ると云ったら、私の胸倉むなぐらを取って咽喉のどをしめて、遣らぬと締め殺すと云ったが、何処どこの国に娘の貰いひきに咽喉を締める奴がありますか、私も命が欲しいからはいと云って遣ったら、五両ずつ月々小遣を送ると嘘ばかりいて、なんにも送りはしません、其の上友之助は大事の娘を何故此方様こちらさまへ金の抵当かたに置いた、今私が遣るの遣らぬのと云えばお前は咽喉を締めもするだろう、弱いばゞばかりなれば締めるだろうが、此処こゝでは締められまい、さア締めるなれば締めて見ろ、遣らぬと云ったら遣らぬ、締めるとも殺すともどうでもしなせえ」

 文「それはおっかあ、遣る遣らぬはあとの話、お前に相談するのではない、先生との話だからそれは後の話にして下さい」

 蟠「控えてれ、遣る遣らぬは当人同士の話にするがい、わしわしで文治郎殿と話をする、のう文治郎殿、さアお返し申すと云ったら一時いっときも待たぬ、すみやかに返す、其の代り友之助の借りた金は掛合人のお前が償って返すだろうね」

 文「昨日友之助が百金返金になって居ります筈で」

 蟠「百両ではありません三百両です、これ証文箱を出せ……これに書いてある此の証文を御覧ごろうじろ、此の通り書いたものが物を云う、三百両と書いてありましょう」

 文「少々拝見致します」

 と文治郎は手に取って見ると、成程友之助の云う通り金の字と百の字との間に無理に押込んだ三の字が平ったくなっている、不届至極の奴と文治郎ぐっと癇癪が高ぶりましたなれども顔をやわらめて

 文「成程、これは三百両、能くまア三百両という大金を友之助風情ふぜい御用立ごようだて下さいました、先生、これは三百両となりましては友之助にはとても返済にはなりませんが、万一返済の出来ぬ時はお村をお取上とりあげで、それで御勘弁に相成りますので」

 蟠「左様さ、金を返さぬければお村を上げると当人が云ったから抵当かたに取上げます」

 文「とても友之助には返済は出来ません、手前もつぐのう力もありません、お村をお取上で御勘弁になりますか、御舎弟様に一応お聞きを願います」

 蟠作「当然あたりまえのことだ、手前は掛合に来るに何故金を持って来ない、片々聞かた〴〵ぎきでは事柄は分らぬ、金を返さぬでお村を返せと云って誰が返す、お村を取返すなれば金をこしらえて持って来て云え、煙草一吹いっぷくむ間おくれゝばお村は返さぬから、左様心得ろ」

 文「へい、それでは三百金の抵当かたにお村をお取上で何処どこまでも御勘弁に相成るので」

 蟠「知れたことだ、どんなことがあっても返さぬぞ、ぜ言葉を返す、武士に二言にごんはないわ」

 文「へい、どうも恐入りましたことで、金が返せぬから女房お村を取上げて返さぬ、武士に二言はないと速かなおことば、当人にとくと申し聞けます、しかしながらお村をお取上げの上は三百両の証文はわたくしがお預かり申します」

 と文治郎証文を懐中へ入れました。其処そこぬかりのない男です。

 文「しからばそれで御承知の上からは友之助が昨日さくじつ持参致した百金は速かにお返しがありましょうな」

 蟠「なに百金請取うけとった覚えはない」

 文「いゝえ、昨日友之助が百金と心得て持参した処、三百金と云い、掛合中門弟しゅが引出して、眼前にあっても取るもございません、又門外で打擲になりましたの始末、お得心の上からはお隠しなく友之助が憫然びんぜん思召おぼしめしてお返し下さるよう願います」

 蟠「黙れ、それでは何か、大伴が弱い町人を欺いて百金取上げて返さぬと云うのか」

 文「いゝえ、左様ではございません、貴方は御存じがないかは知りませんが、又お働きの女中か御家来のしゅがお座敷のお掃除の時、ひょっとして引出へでもお取仕舞とりしまいになってろうかと心得申すので、どうかの様に弱い奴でございますから、不憫ふびんと思召して百両返して下さらぬでは友之助は立行たちゆきませんから」

 蟠「黙れ、かりそめにも一刀流の表札を掛けたる大伴蟠龍軒、町人風情ふぜいの金を欺いて取ったと云うは無礼な奴、不埓至極」

 と側にあった一合入りのさかずきりました。前には能くお屋敷で陶器やきもの薄出うすでの盃が出ました。上が娘の姿、中は芸妓の姿、一番仕舞が娼妓しょうぎの姿などがいてあり、周囲まわりは桜の花などが細かにいてあります。其の一番下の一合入の盃をとってポーンと投付けると文治郎も身をかわしてけたが、投げる者も大伴蟠龍軒、ねらたがわず文治郎の月代際さかやきぎわへ当ると、今とは違い毛がないからひたえの処へ三日月みかづきなりに瀬戸物の打疵うちきずが出来ました。するとポタ〳〵と血が流れ、水色染の帷子へぽたり〳〵と血が流れるを見て文治郎はっとひたえを押え、てのひらを見ると真赤にのりみましたから、此奴こやつ不埓至極な奴、文治郎の面部へ疵を付けるのみならず、重々じゅう〳〵悪口雑言あっこうぞうごんかゝる悪人を助けおかば旗下はたもとの次三男をして共に大伴の悪事にみて、非道の行いを見習わせれば実に天下の御為おんためにならぬ、捨置きがたき奴、此の兄弟は文治郎此処こゝおいてずた〳〵に斬り殺し、悪人の臓腑ぞうふを引出してろうと、虎も引裂ひっさく気性の文治郎、こらえ兼て次の間にあります一刀に目を付けるという、これからが喧嘩になります。


  十三


 申続もうしつゞきましたる浪島文治郎は、大伴蟠龍軒と掛合になり、只管ひたすら柔かに下からすがって掛合ますると、向うは元より文治郎が来たらばなぶって恥辱を与えて返そうとたくんでる処でございますから、悪口あっこうのみならず盃を取って文治郎のひたえに投付けましたから、眉間みけんへ三日月なりの傷が出来、ポタリ〳〵と染め帷子へ血の落ちるのを見ますると、真赤になり、常は虎も引裂ひっさく程の剛敵なる気性の文治郎ゆえ、捨置きがたき奴、彼を助けて置かば、此の道場へ稽古に来る近所の旗下はたもとの次男三男も此の悪事に染り、の様なる悪事を仕出しいだすか知れぬ此の大伴蟠龍軒を助けて置く時は天下の為にならぬから、彼を討って天下の為衆人の為にのちの害を除こうと、癇癖に障りましたから兼元の刀へ手を掛けようと身を動かすと、水色の帷子に映りましたのは前月あとげつ母が戒めました「母」という字の刺青ほりものを見て、あゝ悪い処へ掛合に来た、母が食を止めて餓死するというまでの強意見こわいけん向後こうご喧嘩口論を致し、あるいは抜身の中へ割って這入り、傷を受けることがあらば母の身体へ傷を付けたるも同じである、以後慎め、短慮功を為さずと此の二の腕へ母が刺青を為したは、わしが為を思召しての訳、其の母の慈悲を忘れ、義によって斯様かようなる処へ掛合に来て、父母の遺体へ傷を付けるのは済まぬ事である、母へ対して済まぬから此処こゝは此のまゝ帰って、母を見送ったるのちは彼等兄弟は助けては置かれぬと、癇癖をこう無理に押え付けてこらえまするはせつないことでございます。尚更此方こっちは高ぶりまして、

 蟠「やい〳〵此処こゝ何処どこと心得てる、大伴蟠龍軒の道場へ来て、手前達が腕を突張つっぱり、弱い町人や老人をおどかして侠客の男達おとこだてのと云う訳にはいかぬ、かりそめにも旗下はたもとの次男三男の指南をする大伴蟠龍軒をなんと心得る、帰れ〳〵」

 門弟がつか〳〵と来て、「さア帰らっしゃい、強情を張るとかえって先生の癇癖に障るから帰れ〳〵」

 さき「誠に有難うございます、あなた方の前では此の通りでございます、小さくなって碌に口もきけませんが、私のような弱いばゞあの前では、咽喉のどをしめるのなんのと云って脅しました、先生の前ではなんとも云えまい、咽喉をしめるなら締めて見ろ」

 和田原安兵衞というのが「帰れ〳〵」と云いながら文治郎の手を取って引こうとすると、七人力あるから中々動きません。

 安「なんだ、帰らぬかえ」

 文「先生、文治郎が能く事柄もわきまえませずにかゝるお席へ参り、不行届ふゆきとゞきの儀を申上げて、却ってお腹立の増すことに相成あいなり重々恐入ってござる、此のお詫言わびごとには重ねて参りますから左様御承知下され」

 とずっとあとさがって、兼元の脇差を左の手に提げたなりで玄関から下りようとすると、文治郎の柾の駒下駄が外にほうり出して、犬のくそなどが付けてあります。尚々なお〳〵癇癖に障りますが、跣足はだし其処そこで、近辺で履物はきものを借り、宅へ帰ったのは只今の七時頃でございます、母は心配して待って居ります。文治郎は中の口から上りますると、森松も案じて、

 森「あんまけえりが遅いから様子を聞きにこうと思って居りました、おっかさんのめえは仕方がねえから、前橋めえばしの新兵衞さんが来て海老屋で一猪口いっちょく始まって居りやすと云って置きやした、蟠龍軒は驚いて直ぐにきまりが付きやしたろう」

 文「心配せんでも宜しい、おっかさまに鳥渡ちょっとお目に懸ろう」

 母「文治が帰ったようではないか」

 森「おけえりでございます」

 母「さア此方こっちへお這入り」

 文「御免下さい、大きに遅なわりました、松屋新兵衞も御機嫌を伺います筈でございますが、繁多はんたでございまして、存じながら御無沙汰になりました、宜しく申上げてくれるようにと申し、大きに馳走になりました」

 母「大分だいぶ遅いから案じて居ったが、あの人は堅いからお前に助けられた恩を忘れず、江戸へ出さえすれば再度訪ねてくれます、殊に毎度手紙を贈ってくれて、あゝ云う人と遊んでると心配はありません、直ぐにお帰りかえ」

 文「直ぐに宿屋まで帰りました」

 母「それは宜かった、お前の帰りが遅いと案じてる……文治郎お前のひたえは」

 文「エ……」

 母「余程の疵だ、又喧嘩をしたのう」

 文「いえ喧嘩ではございません、つい曲り角でそげ竹をかついでる者に出逢い、突掛つきかゝりました、無礼な奴と申し叱りました処が、詫を致しますから捨置きました」

 母「いえ〳〵竹の疵ではない、お前の帰りが遅いから心配していた、つい先月お前の二の腕に刺青ほりものをしてお父様とっさまに代って私が意見をしたのを忘れておしまいか、お前は性来せいらいで人と喧嘩をするが、短慮功を為さずと云うお父様の御遺言ごゆいごんを忘れたか、母のいましめも忘れて、ひたいへ疵を拵えて来るような乱暴の者では致し方がない」

 文「いえ〳〵中々喧嘩口論などはは懲りてよそへも出ませんくらいでございますから決して致しません」

 母「いゝえなりません、男親なら手討にする処私も武士の家に生れ、浪島の家へかたづきましたが、親父様おやじさまのないのちは私がなり代って仕置をしなければならぬ、なんのことだか血の流るゝ程面部へ傷を付けて来るとはしからぬ、其の方の身体ではあるまい、母の身体であるぞ、其の母の身体へ傷を拵えて来るのは其の方が手をおろさずとも母の身体へ其の方が傷を付けたのも同じこと、又先方の者を手前が斬って来た様子」

 文「どう致しまして、なか〳〵人を害すようなことは先頃から致しません」

 母「いゝえ成りません、顔の色が青ざめて唇の色まで変ってる、先方の人を殺さなければ、これから斬込むという様子、だ殺さなければ母の身体に傷を付けた者をぜ斬らぬ、母のかたきと云って直ぐ斬ったろう」

 文「へー……」

 文治郎は癇癖に障った処へ聞取きゝとりを違いまするのは、成程自分の身体は母の身体である、あゝ母の身体へ傷を付けた大伴兄弟を捨置いて其の儘帰ったのは自分のあやまりである、よし〳〵今晩大伴蟠龍軒の道場へ斬込んで、皆殺しにしてやろうと云う念が起りました。これは聞き様の悪いので、母親は其の心持ではない、文治郎を戒める為にうっかり云いましたことを、此方こちらおこっているから聞違えたのでございます。母は立腹致しまして、

 母「次の間へいってつゝしんで居れ」

 文「へー」

 と文治郎は次の間へ来て慎んで居りましたが、腹のうちでは今晩大伴の道場へ踏込んで兄弟を殺し、あゝ云う悪人の臓腑はどういうものか臓腑を引摺り出してやろうと考えてる。母は文治郎が人を斬って来た様子もないが、今夜抜け出されては困ると思って、

 母「文治、少し気分が悪いから枕もとにいて下さい」

 文「へー、お脊中でもさすりましょうか」

 母「はい、来て脊中を擦って下さい、そうして読掛けた本を枕もとで読んで下さい」

 仕方がないから本を読んで居りますと、母はすや〳〵寝るようでございますから抜け出そうとすると、

 母「文治、何処どこきます」

 文「鳥渡ちょっとお湯を飲みとうございますから次の間へ参ります」

 母「私もお湯を飲みたいから此処こゝへ持って来て下さい」

 と云う。又少したって寝たようだから抜けようとすると文治々々と呼びます。夜徹よどおし起します。昼は文治郎を出さぬように付いて居りますから、仕方なく七日八日すごします。母も其のうちには文治郎の気が折れて来るだろうと思って居りました。お話し二つに分れまして、蟠龍軒はお村を欺き取って弟の妾にして、御新造ごしんぞとも云われず妾ともつかず母諸共もろともこゝに引取られて居ります。兄蟠龍軒は別間べつまに居りましたが、夕方になりましたから庭へ水を打って、涼んで居ります処へ来たのは阿部忠五郎という男でございます。七つ過ぎの黒の羽織にお納戸献上の帯を締め耳抉みゝくじりを差して居ります。

 忠「誠に存外御無沙汰を致しました、どうもきびしいことでございます」

 蟠「これは能く来た、誠に暑いことで、先頃は色々お世話になりました」

 忠「先頃は度々たび〳〵お心遣いを頂戴致して相済まぬことで、あゝ首尾こうとは心得ません、お村さんは御舎弟さまの御新造さまとお取極とりきまりになったのでございますか」

 蟠「何処どこからもしりみやも来ず、友之助は三百両持って取りに来ようという気遣いもない、わしも一と安心した」

 忠「御舎弟様の奥様が極って、おあにい様の奥様は何かきまったものはありませんか」

 蟠「どうも小意気なものは剣術つかいの女房になる者はない」

 忠「昨年の暮浪人者の娘を掛合にった処が、御門弟をはじしめて帰したことがございましたが、の儘でございますか」

 蟠「あれはの儘だ」

 忠「御門弟の方に聞きました処が、脇から妙な者が出て来て、先生のことを馬鹿士ばかざむらいとか申したと云って御門弟が残念がって居りました」

 蟠「丁度い幸いだ、貴公が来たのは妙だ、貴公の姿なりの拵えなら至極妙だ、少し折入おりいって頼みたいことがある、今に秋田穗庵が来るから穗庵から細かいことを聞いて、の浪人者の処へ往ってくれまいか」

 忠「何処どこでございます」

 蟠「松倉町二丁目の葛西屋かさいやという蝋燭屋ろうそくやの裏に小野庄左衞門という者がある、其の娘を貰おうとした処が、わしのことを馬鹿士とかなんとか云ったが其の儘になってる」

 忠「能く御辛抱でございましたねえ」

 蟠「そこで仕返しをするとの人がやってもわしのせいになるから、そんな小さい処へ取合わんで、時たってからと思って居った処が、去年の五月から今までったから丁度宜しい」

 忠「へー、あの時お腹立になれば仮令たとえほかでやっても貴方がしたと思いますが、それを今までお捨置すておきは恐入りますねえ、どう云う事になります」

 蟠「貴公が医者のつもりで往ってくれんではいかぬ」

 忠「何処どこへ」

 蟠「浪人者が眼が悪い、三年越しの眼病でるから、秋田穗庵が薬をやってる、そこへ貴公が往って向うが内職に筆耕を書くから、親から譲られた書物を版本にしたいから筆耕を書いてくれというと、むこうは目が悪いから、折角の頼みだが目が悪いから書けないという、わしは医者だ、眼病には家法で妙な薬を知ってるが、何処の医者に掛ってるかというと向うで秋田穗庵に掛ったという時けなすのだ、あれやぶ医者でいかぬ、わしの家伝に妙な薬があるからやる、礼はいらぬたゞやると云う、たゞは貰えぬと云うから、そんならなおったら書物を書いて貰いたいという、そこで目を治させるというじょうの処でやるのだ」

 忠「成程、恐入りましたねえ、あだのある者に仇をえさず、仇を恩で復えして置いて、娘をおれの処へ嫁にくれぬかというと、向うで感心して、手付かず貰えますな」

 蟠「そうではない、向うでも中々学問のある奴だから答が出来んではならぬ、それは穗庵に聞いて薬もあるが、早稲田わせだ鴨川壽仙かもがわじゅせんという針医がある、其の医者が一本の針を眼のわきへ打つと、其処そこからのうが出て直ぐ治る、丁度今日けば施しにたゞ打ってくれる、目は一時いっときを争うから直ぐ行くが宜しい、わしが手紙を書いても宜しいが、施しだからおいでなさいというと、勧めによってひょこ〳〵出て行くだろう、処が鴨川壽仙は浅草山の宿しゅくへ越したから、それを知らずに早稲田まで行くと空しくなる、これから貴公が往って勧めて早稲田まで行くと夜遅くなり、お茶の水辺りへ来ると、九ツになる、其処そこへ私が待合まちあわせて真二まっぷたつにするという趣向はどうだ」

 忠「是は御免をこうむりましょう、先生は御遺恨があるか知れませんが、わたくしは遺恨はございませんから、一刀のもとに斬って捨るのを心得て呼出すのは難儀でございます」

 蟠「貴公が殺すのではない、わしが殺すのだ」

 忠「殺すのではございませんが、蛇が出た時あゝ蛇が出たと云うと、殺した奴より教えた奴に取付くと云いますから止しましょう」

 蟠「そんならせ、首尾けば、先達せんだって貴公が欲しいと云った脊割羽織せわりばおりと金を廿両やる積りだ」

 忠「誠に有難うございます、頂戴致したいは山々でございますが、これはなんですなア」

 蟠「貴公だって真面目な人間ではない、先達て友之助を賭碁で欺いたときも同意して、貴公も礼を受けていようではないか、蟠作から礼を受ければ悪人の同類だ、悪事が露顕すれば素首すこうべのない人間だ、毒を喰わば皿までというから貴公もあくまでやりな」

 忠「やりましょう、やりましょうが、医者のことを心得ませんから」

 蟠「それは教われば宜しい」

 と話をしている処へ穗庵がつか〳〵と這入って参りました。

 穗「へー今日こんにちは」

 蟠「さア此方こっちへ」

 穗「先刻お人でございましたが、余儀ない用事で遅くなりました…いやこれは阿部うじ

 忠「これは久し振りでお目に懸りました、一昨日から飲過ぎて暑さにあたり、寝ていて、今日こんにちようやく出て参りました、今先生に聞いたが医者のことを聞かせてくれなくってはいかぬ」

 穗「阿部氏は得心しましたか」

 蟠「得心したから教えてくれぬではいかぬ」

 穗「宜しい、眼病には内障眼と外障眼と二つあるが、小野庄左衞門のは外障眼でない、内障眼というがたい眼病だ、僕も再度薬を盛りましたが治りません、真珠しんじゅ麝香じゃこう辰砂しんしゃ竜脳りゅうのう蜂蜜はちみつに練って付ければ宜しいが、それは金が掛るから、娘を先生の妾にくれゝば金を出してやると云うて掛合った処が、頑固なじゞいで、馬鹿よばわりをして先生もお腹立であったが、今までこらえてった、貴公がけば阿部忠庵ちゅうあんとでも云えば宜しい、向うは学者で医学の書物を読んでるから答えが出来ぬでは困るからね」

 忠「此方こっちちっとも知らぬから書いて呉れぬといけない」

 穗「宜しい、書きましょう」

 硯箱を取って細かに書きまして、

 穗「さアこれで宜しい、此の薬をめば必ず全快致す、服薬の法もあります」

 忠「医者の字は読めぬね、なんですえ、あきらかのたかどのはなぶさの」

 穗「そんな読みようはない、みん樓英ろうえいあらわした医学綱目いがくこうもくという書物がある、そのうち蘆膾丸ろかいがんというのが宜しい」

 忠「成程、蘆膾丸か、幾つも名がありますねえ」

 穗「それは薬の名だ」

 忠「成程、棒が二本書いてある」

 穗「蘆膾丸だから棒が二本あるのだ」

 忠「成程、それからウシのキモ」

 穗「ウシのキモでは素人臭い、牛胆ぎゅうたん

 忠「それからカシワゴ」

 穗「カシワゴではない柏子仁はくしじん

 忠「えー、アマクサ」

 穗「アマクサではない、甘草かんぞう

 忠「成程甘草」

 穗「羚羊角れいようかく人参にんじん細辛さいしんと此の七を丸薬にして、これを茶でませるのだ」

 忠「成程」

 穗「鴨川壽仙は針の名人だ、昼間からかさを差し掛けて其の下へ寝かして置いて、白目の処へ針を打つと、其の日に全快する」

 忠「えらいものだね、真珠に麝香に真砂しんしゃに竜脳の四細末さいまつにして、これを蜂蜜で練って付ける時は眼病全快する、成程、宜しい、これを持ってきましょう」

 穗「それを出して読むようではいかぬから暗誦して」

 忠「宜しい、先生恐入りましたが羽織がこれではいけませんから、無地のお羽織を願います」

 蟠「これをやろう」

 とこれから無地の羽織を着て阿部忠五郎が小野庄左衞門の宅へ参りました。庄左衞門の宅では、神ならぬ身のそんな事とは知りませんから、娘が親父おやじの側に居りまして内職を致して居ります。

 忠「御免下さい」

 ま「何方どちらからいらっしゃいました」

 忠「小野庄左衞門殿のお宅は此方こちらかな」

 ま「お父様とっさま何方どなたか入っしゃいました」

 庄「此方へお通り下さい……初めまして手前小野庄左衞門と申す武骨者、えー何方様どなたさまでございますか」

 忠「手前は医者で阿部忠いえなに忠庵という者で、親父から譲られた書物がござるが、虫が付きますから版本にしたいと思いまして、ついては貴方は筆耕の御名人と承わり筆耕をして戴きたいと思います」

 庄「それは折角のお頼みではございますが、手前眼病でな、誠にお気の毒ではございますが」

 忠「それはいけません、誰か医者に診て貰いましたか」

 庄「はい、新井町あらいまちの秋田穗庵という医者に診て貰いました」

 忠「あれはいけません、あんな医者に掛ると目をだいなしにして仕舞います」

 庄「わたくしの目は外障眼でありませんで内障眼でございます」

 忠「治らぬと申しましたか」

 庄「種々いろ〳〵やりましたが全快覚束おぼつかないということでございます」

 忠「それではわたくしの家法の薬がありますからたゞ差上げましょう、其の代りに全快の上は筆耕を書いて戴きたい」

 庄「有難いことで、唯薬を戴けば全快次第書いて上げるのは無論でございますが、どうか頂戴したいものでございます」

 忠「これは家伝の薬で功能は立処たちどころにある」

 庄「どういう薬法でございますか」

 忠「薬法、なんでございますな…」

 どうも教わりたてゞございますから能く分りません、向うは盲人めくらだから書いた物を出して見ても宜しいが、娘が居りますから、

 忠「ねえさん、お気の毒でございますが水が飲みとうございますから、冷たいお冷水ひやを一杯戴きたいもので」

 庄「これ水を上げるが宜しい」

 娘が水を汲みに出てきましたから、扇へ書いたのをそっと出して見まして、

 忠「家法の薬は蘆膾丸と申しまして」

 庄「ハー蘆膾丸と申しますか、どういうお書物にりましたか」

 忠「其の書物はあきらかのたかどのいえなにみんの樓英の著わした医学綱目という書物がある」

 庄「医学綱目、成程一二度見たことがありました、はゝアどういうお薬でございますか」

 忠「それはその七あります、これは蘆膾丸というのです」

 庄「お薬品は」

 忠「薬はウーン……ギュウ〳〵牛胆……それからカシワコではない柏子仁、それからあゝアマ甘草」

 庄「へー甘草」

 忠「それからえー羚羊角、人参、細辛、右七味がんじまして茶で服薬すれば一週ひとまわりもむと全快いたします」

 庄「有難いことで、それを戴きたいもので」

 忠「家伝でございますから上げましょう」

 ま「誠に有難うございます、おとっさまのお目の治る吉瑞きつずいでございましょう、秋田という医者も良くないようでございます」

 忠「あれは良くございません、それに就いて鴨川壽仙という医学ではない医者がございますね」

 庄「何処どこに居ります」

 忠「京の鴨川かもがわから来た人で、只今早稲田に居ります、早稲田の高田の馬場の下辺りで施しに針を打ちます、鍼治しんじの名人で、一本の針でいざりの腰が立ったり内障そこひの目が開きます」

 庄「成程、針医の壽仙というのは名高いえらい人で、なか〳〵頼みましても打ってくれますまい」

 忠「施しにしてくれます、医者も目が悪いと其処そこきます…二七あゝ今日は丁度宜しい、今日くと施し日だからたゞやってくれます、昼間からかさを差掛け其の下へ寝かして、目の脇へ針を打つとのうが出て直ぐ治ります」

 庄「左様ですか、しかし今日これからくと遅くなりましょう」

 忠「遅くも往って御覧なさい、目は一時いっときを争います、あなたが針を打った処へ蘆膾丸を上げる」

 庄「どうか其のお薬を頂戴したいもので」

 忠「直ぐに今日入っしゃい、おくれてはいけません、手前おいとま申す、後れてはいけませんよ、一時を争うから」

庄「誠に有難うございます」

 と上りはなまで送って参りました。阿部忠五郎はまんまと首尾よく往ったと思って振り返り〳〵く。此方こちらでは、

 ま「お父様とっさま、おいでなすったら宜しゅうございましょう、私がお附き申しましょうか」

 庄「いや〳〵仔細ない、かすかに見えるから心配には及ばぬ」

 と出掛けましたが、衣類は見苦しゅうございます、帯はしんが出て居りますが、たしなみの一本を差しまして、深編笠ふかあみがさかぶって早稲田へ尋ねてくと、鴨川壽仙は山の宿しゅくへ越したと云われてがっかり致しましたが、早稲田は遠路のことであるが、これから山の宿へ頼みにくのは造作もない、此の次は来月二日であるかと云いながら、神楽坂かぐらざかまで来ると、車軸を流すようにざア〳〵と降出ふりだして雨の止む気色けしきがございませんから、蕎麦屋そばやへ這入って蕎麦を一つ食べてしのいで居ります。夏の雨でございますから其のうち晴れた様子、代を払って出てきます。先へ探偵いぬに廻ったのは篠崎竹次郎しのざきたけじろうという門弟でございます。此の竹次郎がお茶の水の二番河岸にばんがしへ参りますと、其の頃お茶の水はピッタリ人が通りません。

 竹「先生々々」

 「おー」と答えて二番河岸から上って来たのは大伴蟠龍軒、暑いのに頭巾をかぶり、紺足袋雪駄穿きでございます。

 蟠「竹、どうした、目腐れ親父はどうした」

 竹「只今これへ参ります、今牛込うしごめの蕎麦屋から出ましたのを見届けました、水戸殿みとどのの前を通って参ります」

 蟠「もうほどのう参るか」

 竹「参ります」

 蟠「手前先へ帰れ」

 竹「宜しゅうございますか」

 蟠「かえって大勢ると目立って能くない」

 竹「はい〳〵」

 と竹次郎は帰ってきました。蟠龍軒は高い処へ上って向うから来るかと見下みおろす、処が人の来る様子がございませんから、神田の方から人が来て認められてはかなわぬと思いまして、二番河岸の根笹ねざさの処へしゃがんで居りますと、左官の亥太郎が来ました。これは強い人で、力が廿人力あって、不死身ふじみで無鉄砲で。其の頃は腕力家の多い世の中でございます。亥太郎は牛込辺へ仕事に参りまして、今日は仕舞仕事で御馳走が出まして、どっちり酔って、風呂敷の中は鏝手こてを沢山入れて、首っ玉へ巻付けまして、此の人は年中柿色の衣服きものばかり着て居ります。今日も柿色の帷子を着てひょろり〳〵と歩いて参り、雨がポツリ〳〵顔に当るのがい心持と見える、二番河岸の処へ来ますと丁度河岸の処に昼間は茶店が出て居ります、其処そこへどしりとしりを掛けて、

 亥「あゝいゝ心持だ、なんだ金太きんたの野郎が酒が強いからあにいもう一杯いっぺいやんねえと云った、いゝなアけんでは負けねえが酒では負けるな、もう一杯いっぺい大きいので、もう一杯いっぺえという、悔しいやん畜生かなわねえ、滅法やった、いゝ心持だ」

 とぐず〳〵独語ひとりごとを云ううちに居眠りが長じていびきになりました。スヤリ〳〵と寝付いている。その前を小野庄左衞門笠をかぶり杖で拾い道をして来るが、感が悪いゆえに勝手が少々もわからぬ。二番河岸から蟠龍軒が上って、新刀あらみを抜放し、やりすごした小野庄左衞門のうしろからプツーリッと剣客先生が斬りますと、右の肩から胴の処まで斬り込み、臀餅しりもちをついたが、小野庄左衞門、残念と思いまして脇差に手を掛けたばかり、ウーンと云う処へ、プツーリッとた一とかたなあびせ、胸元へとゞめを差して、庄左衞門の着物でのりぬぐって鞘へ納め、小野庄左衞門の懐へ手を入れて見ましたが何もございません、夜陰やいんでございますが金目貫きんめぬきが光りますから抜いて見ると、彦四郎ひこしろう貞宗さだむね

 蟠「なか〳〵良さそうだ」

 と云いながらそれを差しましてあとさがる時、鼻の先でプツーリッと云う音がして、面部を包んださむらいが人を殺して物を取るのが見えるから、亥太郎は心のうち此奴こいつ泥坊に相違ない、こういう奴が出るから茶飯ちゃめしあんかけ豆腐や夜鷹蕎麦よたかそばひまになる、一つ張りとばしてやろうと、廿人力の拳骨を固めてうしろへ下ろうとする蟠龍軒の横面よこずっぽうをポカーリッと殴ると、痛いの痛くないの、ひょろ〳〵とよろけました。これから蟠龍軒と亥太郎と暗仕合やみじあいに相成ります。


  十四


 亥太郎が拳骨を固めて大伴を打ちました時、流石さすがの大伴蟠龍軒もひょろ〳〵としてよろめきましたが、此方こちらも剣術の先生で、スーッと抜きました。亥太郎が逃げるかと思うと少しも逃げぬ、泥坊士どろぼうざむらいと云いながら、斬付けようとする大伴の腰へ組付こうとして胴乱へ左の手を掛け、ウーンと力を入れる時、えいと斬付けましたが、亥太郎は運の良い男で、首っ玉にこてと鏝板を脊負しょって居りました。それへ帽子先が当りましたからきずを受けませんでコロ〳〵と下へ落ちました、其の儘上りそうもないものが、此の野郎斬りやアがったな、と又上って来ました。亥太郎が二度目に上った時は、蟠龍軒は風をくらって逃げた跡で、手にのこったのは胴乱。

 亥「盗人ぬすっとげていた恰好かっこうの悪い煙草入、これはたゝき売って酒でもくらえ」

 と腹掛はらがけ突込つっこんで帰りましたが、悪い事は出来ないもので、これが紀伊國屋へあつらえた胴乱でございます、それが為にのちに蟠龍軒が庄左衞門を殺害せつがいしたことが知れます。これはのちのことで。さて庄左衞門の娘町は、何時いつまで待っても親父おやじが帰って来ません、これは大方お医者様に留められて療治をしているのではないかと心配して居ります。夜が明けると斯様かような者が殺害せつがいされている、心当りの者は引取りに来いという貼札はりふだが出る。家主いえぬしも驚きまして引取りに参り、御検視お立会たちあいになると、これは手のすぐれてる者が斬ったのであるゆえ、物取りではあるまい意趣斬りだろうという。なれども貞宗の刀が紛失ふんじつしている。八方へ手を廻して探しましたが分りません。娘は泣く〳〵野辺の送りをするも貧の中、家主や長家の者が親切に世話をしてくれます。お町は思い出しては泣いてばかり居ります。ふと考え付いたのは流石は武士の娘でございます、お父様とっさまを殺したのは意趣遺恨か知れないが、何しろ女の腕ではかたきを討つことが出来ない、自分も二百四十石取ったさむらいの娘、めては怨みを晴したいが兄弟もなし、別に親類もない、実になさけない身の上であるが、業平橋の文治郎さまという方は情深いお方、去年の暮もお父様とっさまが眼病でお困りであろうと、見ず知らずの者に恵んで下さり、結構な薬まで恵んで下さる、真の侠客じゃとお父様がおめ遊ばした、の家に奉公し、辛抱して親のあだが知れた時、お助太刀すけだちをねがうと云ったら、文治郎さまが助太刀をして下さるだろうと考えて居ります。その一軒置いて隣にまかなの國藏という者、今は堅気かたぎ下駄屋げたやをして居ります。一つ長家で親切でございますから、此の事を國藏に頼むと、國藏も根が悪党で、悪抜あくぬけたのでございますから親切がございますから、

 國「感心なお心掛けでございます、旦那も未だ御新造ごしんぞがないから貴嬢あなたが往って下されば私も安心だ、何しろ森松をよんで話して見ましょう」

 とこれから女房が往って森松を呼んで来ると、直ぐやって来ました。

 森「御無沙汰しました、丁度来ようと思っていた処だが、旦那をおふくろさんが出さねえ、旦那が出なけりゃア此方こっちも出られねえ、お母さんは旦那が好きで喧嘩でもすると思っているから困らア」

 國「わっちも御無沙汰したよ」

 森「馬鹿に暑いねえ、団扇うちわか何か貸してくんねえ……なんだい今日呼びに来た用は」

 國「少し相談がある、おめえも番場の森松、おれまかなの國藏、お互いに悪事を重ねて畳の上で死ねねえと思ったのを、旦那のお蔭で世間なみの人間になったのは有難いわけじゃねえか」

 森「実に有難ありがていよ、旦那のお蔭で森さんとかなんとか云われていらア」

 國「主人だね」

 森「主人だ」

 國「旦那に御新造ごしんぞうの世話をしたい、おっかさんも初孫ういまごの顔を見てえだろう」

 森「ちげえねえ、己もそう思っている、だがね旦那と揃う娘がねえ、器量は揃っても旦那と了簡の出会でっくわせる女がねえ」

 國「処がこれならばというお嬢さんがあるのだ」

 森「どこに〳〵どこだえ」

 國「ボヤ〳〵でも尋ねるようだ、此処こゝにおいでなさるお嬢さんよ、此のお嬢さんを知ってるか」

 森「知ってる、これは思掛おもがけねえ、知ってるとも、お前さんのとこのおとっさんが目が悪くって、おめえさんが天神様でお百度をふみ、雪に悩んで倒れている処へうちの旦那が通り掛り、薬をませて立花屋で薬をやった時、旦那がおめえさんは感心だ、裙捌すそさばきが違うと云って大変めた、そうして金をやった時、あなたは受けねえと云うと、旦那が満腹だと云った」

 國「満腹は腹のくちくなった時のことだ」

 森「なんとか云ったねえ」

 國「感服だろう」

 森「感服だ、感服だと褒めた、旦那が女を褒めたことはねえが、このねえちゃんばかりは褒めた、おとっさんはどうしましたえ」

 國「おかくれになった」

 森「お亡れになってどうしたね」

 國「死んだのだ」

 森「死んだえ、死んだ時はなんとか云うのだね」

 國「御愁傷さまか」

 森「御愁傷さまだろう」

 國「お父様とっさまくなってほかに親類はなし、き処のない心細い身の上、旦那様は情深い方だから不憫だと思って逐出おいだしもしめえから、旦那様の処へ御膳炊きに願いてえと云うのだが、御膳炊きには惜しいじゃねえか、旦那と並べれば一対いっついの御夫婦が出来らア」

 森「勿体もってえねえ〳〵、旦那の褒めたのはおめえさんばかりだ、これはしようじゃアねえか」

 國「しようったっておめえおれとしようと云う訳にゃいけねえ、おふくろさんに話をしてくれ」

 森「己はいけねえ、己がお母さんに話しても取上げねえ、森松の云うことは取留とりとまらねえと云って取上げねえからいけねえや」

 國「誰も話のしてがねえから」

 森「おめえきねえな」

 國「己は去年の暮強請ゆすりに往ったからいけねえ」

 森「そんなら藤原喜代之助さんという浪人者がある、此の人はお母さんの気に合っている、それにおかやさんという娘子むすめッこを嫁にやったから、旦那より藤原さんを可愛がらア、此の人に話して貰おう」

 國「ちげえねえ、それがいや」

 森「おめえきねえな」

 國「ってきよう。それじゃア往って来ますから」

 町「國藏さん、嫁のなんのと仰しゃらないで御膳炊きの方を願います」

 女房「貴方あなたそんなに御心配なさいますな、向うで嫁に欲しいと云ったら嫁においでなさいな、卑下ひげしておいでなさるからいけません、國藏にお任せなさいよ」

 これから両人で参りますと、藤原喜代之助という右京の太夫たゆうの家来でございますが、了簡違いから浪人して居りますが、今ではおかやという女房を持って不足なく暮して居ります。

 森「御免なせい〳〵」

 藤「森松か、あがれ」

 森「旦那にお目に懸りたいと云う者が参ったのですが、兄い此方こっちへ上れ」

 藤「此方へお上り」

 森「旦那、これは國藏と云うまかなの國、今は下駄屋ですが元は悪党で」

 國「何を云うのだ……わたくしは國藏という者で、表の旦那のお世話で今は堅気の職人になりました、旦那様を神とも仏とも思って居ります、旦那の処と御縁組になりました此方へは未だ一度もまいりません、此ののちとも幾久しく願います」

 藤「成程、かねて文治郎殿から聞きました、性善なるもので必ず心から悪人という者はない、かえって大悪なる者が、改心致す処が早いと云って居りました、能くお尋ね下すって……かやや、お茶を上げな」

 國「貴方から文治郎さまのおっかさまへお話を願いたいので出ました、旦那の方ではなんとも思わないでも、わっちの方では主人のように思って居りまして、良い御新造ごしんぞをと心掛けて居りましたがありません、処がこれならばおっかさんの御意ぎょいにもり、はずかしくない者があるんでございますが、わっちがお母さんに話悪はなしにくいから其の当人を御覧になっては如何いかゞでございます」

 藤「成程、それは御親切な、千万かたじけない、わしも心掛けてるが、大概たいがいの婦人が来ても気に入らぬ、能く心掛けてくれました、どういう女で」

 國「わっちの一つ長家にいる娘で、先達せんだって親が死んで、親類もなく、何処どこへ往っても置いてくれまい、旦那には御鴻恩ごこうおんになってお慈悲深いから、旦那の処へ御膳炊きに来たいと云います、処が惜しいのです、本所中一番という娘です、処で親孝行娘というものですが如何でございます」

 藤「成程、そんなら文治郎殿から聞いた、孝心の娘があって雪中せっちゅうに凍えてるのを救って、金をやったが受けぬ、今の世の中には珍らしいと云ってめた娘だろう、それは幸いだ」

 國「親里おやざとを拵えれば大家おおやでも頼むのでございますが、旦那が親になって上げてはいかゞです」

 藤「うございます、叔母に話をしましょう」

 と、これから文治郎の母に話すと、かねて文治郎から聞いているから、何しろと目見たいと云いますから、そんならばと云うので娘に話し、損料を借りて来る、湯に往って化粧おしまいをする、漸く出来上った。

 浪「ちょいと〳〵お嬢さんの支度が出来たのを御覧よ、こんな美くしいお嬢さんをへッついの前にくすぶらして置いたと思うと勿体ない」

 國「どう〳〵、これはどうも、こんな美くしい嬢さんを、どうもお屋敷様だア、紋付が能く似合う、頭のかんざしは山田屋か、損料はたけえがい物を持っているなア、これじゃアお母様ふくろさまの気に入らア、これからすぐきましょう」

 浪「あゝ貴嬢あなたそんな卑下したことを云わないで、嫁にすると云ったら嫁におなんなさいよ」

 國「手前てめえ一緒にきない」

 浪「わたしは衣服きものも何もないもの、いやだよ」

 國「手前てめえはめかすには及ばねえ、け〳〵」

 これから連れて参りますと、森松は路地の処に待って居ります。

 森「あにい々々どうした、お嬢様はどうした」

 國「お嬢さまはこゝへ連れて来た」

 森「これか、こりゃアお母様ふくろさまに気に入らア」

 國「気に入るだろう」

 森「気に入らなければ殴る……旦那、藤原さんえ、来ましたよ」

 藤「何が」

 森「どうもその頭が」

 藤「頭がれたか」

 森「腫れたのではありません嫁ッが来ましたよ」

 藤「これは〳〵」

 國「漸く支度が出来ました」

 藤「叔母も先程からたのしみにして待って居ります、さア此方こっちへ」

 浪「お初うにお目に懸りました、どうか國藏同様御贔屓を願います」

 藤「成程、これがお嫁さんで」

 國「なアに、これはわっちかゝあです、引込ひっこんでいな」

 藤「このお嬢様、さア〳〵これへ〳〵」

 しとやかに手を突いて、

 町「お初うにお目に懸りました」

 とやっと手を突いて挨拶をする物の云いよう裾捌すそさばき、この娘を飯炊きにと云ってもおのずから頭がさがる。

 藤「ハ……お初にお目に懸りました、不思議の御縁で、どうか此の事が届けば手前においても満足致す、今文治の母が参られます、此のとも御別懇に……國藏、これだけの御器量があって御膳炊きにしてくれと身を卑下した処に感服しますねえ」

 國「実にこんなお嬢さまはない、親孝行で、おとっさんのお達者の時分にはツ九ツまで肩をさすったり足を揉んだりして、実に感心致します」

 藤「おかやや叔母に早く来るように話しな」

 か「叔母さんがおいでになりました」

 文治郎の母が参りまして娘に会いますと、

 町「不束ふつゝかのもので何処どこへ参っても御意にらず逐出おいだされたとき宿やどがございません、どうかお見捨なく御膳炊きにお置き遊ばして下さい」

 と只管ひたすらすがるのを見て母は気に入り、

 母「心配おしでない、逐出しゃしない、文治郎が気に入らないでも私が貰う」

 と云ったからこれは安心なもので。母は宅へ取って返し、

 母「文治郎、此処こゝへ来な」

 文「お帰り遊ばせ、何か藤原で御馳走でも出ましたか」

 母「思掛おもいがけなくお前の嫁が見付かりましたから婚礼をなさい」

 文「三十にしてめとり、廿にしてすということがございます、して他人が這入りますとおっかさまに不孝なことでも致すと、浪島の名をけがしますから、お母様っかさまのお見送りを致しましてから嫁を貰うことに願います」

 母「早く嫁を貰って安心させるのが孝行だよ、唯の嫁ではない、あんな嫁を持ちたいと云っても持てない」

 文「何者でございます」

 母「お前も知っている去年金子きんすをやった小野の娘」

 文「へー庄左衞門の娘、あれは一人娘でほかへ縁付けることは出来ますまい」

 母「いえ庄左衞門が亡くなられたそうだ」

 文「へー亡くなられましたか、町はさぞ嘆いて居りましょう」

 母「可愛そうに、親類も身寄もない、他人へ奉公に往って逐出されてもく処がない、うちへ御膳炊きに置いてくれというが、御膳炊きどころでない、どこへ出しても立派なお嬢さまだから貰いなさい」

 文「嫁はいけません、く処がなければお側へ置いてお使い遊ばせ、御膳炊きにでもお使い遊ばせ」

 母「御膳炊きなどにはいけませんよ、お前がいやならお前を逐出しても貰いますよ」

 文「大層御意に入りましたな、しばらくお待ち下さい」

 と暫く考えて居りましたが、母が気をゆるさぬから大伴の道場へ斬込むことが出来ぬ、嫁を貰って母が安心して外へ出せば、彼等両人を殺害せつがいして仕舞う、婚礼の晩に大伴の道場へ斬込んで血の雨を降らせようという色気のない話で、嫁は親の仇を討ちたい一心で、此のに嫁に来るという似た者夫婦でございます。遂に六月廿八日の晩に婚礼を致しますというお話、鳥渡ちょっと一服息をきまして申上げます。


  十五


 さて文治郎とお町の婚礼は別に媒妁なこうども親もない。藤原喜代之助が親里なり媒妁なり致して、ほんの内輪だけでございまして、國藏夫婦が連なり、森松も末席に坐り、目出度めでたく三三九度の盃も済み、藤原が「四海なみしずかに」とうたい、媒妁はよいうちと帰りました。母も悦び、大いに酒をすごして寝ます。夏のことでございますから八畳の間へ一杯に蚊帳かやを釣りまして夫婦の寝る処がちゃんときまって居ります。娘お町は思掛おもいがけないことで、飯炊きの奉公に来ようと云ったのが嫁となり、世にたぐいなき文治郎のような夫を持つのは冥加みょうがに余ったことと嬉しいが一杯で、側へも寄ることが出来ず、行燈あんどうの側に蚊に食われるのも知らず小さくなって居ります。文治郎は蚊帳の中に風呂敷包を持って来ました。

 文「お町〳〵」

 町「はい」

 文「此処こゝへおいでなさい、其処そこにいると蚊がさしていかない、なか〳〵蚊の多い処だから蚊を能くうて這入んなさい、少しお前に話す事がある」

 お町は嬉しゅうございますから飛立つ程に思いましたが、しとやかにあおいで、ずっと横に這入らぬと蚊が這入ります。これが行儀の悪いものはそうは行きません。ばた〳〵と扇いで立ってひょいと蚊帳をまくって這入りますから蚊が飛込んでいけません。蚊帳の中に這入りましても蒲団の上に乗りませんで蚊帳の側にぴったり坐って居ります。

 文「此方こっちへ来なさい、縁あってお前はわしの処に嫁に来ようというは実におもいきや、今日こんにち三々九度の盃をすれば生涯しょうがい死水しにみずを取合う深い縁、お前は来たばかりであるが少し申し聞けることがある、浪島の家風がある、家風は背きはしまい」

 町「恐入りますことを御意遊ばす、わたくしは元より嫁に参りたいと願いました訳ではございません、御膳炊きに参りましたのでございます、親一人子一人の其の父が亡くなりまして、別に頼るべき親族もございませず、何処どこへか奉公に参りましょうと思いましても、不束ふつゝかもの逐出されてもき処がございません、心細う思うて居りました、旦那様へ御奉公に参ればお情深い旦那さま、見捨みすてては下さるまい、御膳炊きにでもと思うて居りましたに、思い掛なくお盃を下さいまして冥加に余りましたことでございます、何ごともおことばは背きませんが、一々うしろア致せと御意遊ばせば、届かぬながらも心に掛けて何ごとでも致し、お母様っかさまにも御孝行を尽します、どうか身寄り頼りのない不憫の者と思召して、旦那さまお情を掛けて下さるようお見捨なさらぬように」

 とポロリとこぼしずく、文治郎はこれを見て、あゝ嫁に来た晩に荒々しい身なりをして出てくのを見れば驚くであろうと思いましたけれども、癇癖が高ぶって居りますから気を取直とりなおして、

 文「夫婦は其の初見しょけんに在りと、初見参しょけんざんおりしかと申し聞ける事は、わしより母の機嫌を取り能く勤めてくれんではならぬ、又人間は老少不定ろうしょうふじょうということがある、明日にも親に先立ちわしが死ぬまい者でもない、其の折はわしになり代って母に孝行を尽してくれられるだろう、亭主が死んでしゅうとの機嫌を取るのがいやだと云って此の家を出る志はあるまい、念のため夫婦の道じゃにって教え置きます」

 町「それは御意遊ばすまでもございません、貴方はそんなことはございますまいが、おっかさまの御機嫌を取り、御介抱を致しますのはわたくしの役でございまするで、決して粗略には致しません」

 文「はい、わしは性質癇癖持ちで、詰らぬことに怒りを生じて打ち打擲することがある、弱い女や子供を打擲することは嫌いだが、意に逆らうと癇癖に障ります、決して逆らってくれまい」

 町「どう致しまして、おことばは背きません」

 文「それはかたじけない、それでは申し聞けるが、文治郎今晩これから直ぐに出てきます、今晩はお前が嫁に来たばかりだからとゞまりたいが、出てかなければならぬ、わしが出て往ったあとで、お母様っかさまがお目が覚めて文治郎はとお問い遊ばした時、文治郎は能く眠り付いて居ります、御用なればわたくしへ仰せ聞けられて下さいと云って、お前が引受けてくれぬでは困る」

 町「何処どこへおいでになります、何時いつお帰りになります」

 文「帰りは明方あけがたでございます、若し是非ない訳で帰れんければ四五十年は帰れぬ、たった一人の大切のお母様っかさまわしになり代って孝行を尽してくれぬでは困る」

 町「はい四五十年お帰り遊ばされぬというのは其りゃどういう訳でございますか」

 文「深く問われては困る、義に依ってかなければならぬ処がある、辞返ことばがえしをすることはなりませんよ」

 町「はい」

 とおど〳〵して見て居りますと、風呂敷包のなかから南蛮鍜なんばんきたえの鎖帷子くさりかたびら筋金すじがねの入りたる鉢巻をして、藤四郎とうしろう吉光よしみつの一刀にせき兼元かねもと無銘摺むめいすり上げの差添さしぞえを差し、合口あいくちを一本呑んで、まるで讐討かたきうちか戦争にでも出るようだからびっくりいたしまして、

 町「旦那さま、どういう御立腹のことがございますか存じませんが、おっかさまも取る年、あなたのお身にひょんなようなことでもございますれば、お母様っかさまはどのくらいお嘆きなさるか知れません、どうかわたくしに面じてお許し下さいまし」

 文「あーれ、それだから困る、それだからことばを返すことはならぬと申し聞けたではないか」

 町「お辞は返しません」

 文「そんなら宜しい」

 と庭へ下りて、無地の手拭を取って面部を包み、跣足はだしで出てきますからお町はおど〳〵しながらたもとすがり、

 町「申し、旦那さま、御機嫌よう」

 文「うん頼むぞ」

 三尺の開きを開けて出てきました。跡をてゝお町はあゝなさけないことだとこらえ兼て覚えず声が出ます。泣声がおっかさまに知れてはならぬと袂をみしめて蚊帳の外になき倒れます。れ此れあけ七つ頃に庭の開きをかち〳〵と静かにたゝきます。

 文「お町〳〵」

 町「はい、お帰り遊ばしたか」

 と其の儘飛石とびいし伝いに下りてきます。其の晩は大伴を斬り損ないまして癇癖に障ってなりません。これから風呂敷を解いて衣服きものを着替え、元のように風呂敷包を仕舞って寝ようと思いましたが、これまで思い付いた宿志しゅくしを遂げないから、目はさかさまにつるし上り、手足はふるえ、バターリッと仰向あおむけさまに寝て仕舞いました。仰向に寝たが寝られませんから、又此方こっちを向くと、それでも寝られませんから又起上おきあがって見たりいろ〳〵して居ります。お町はハラ〳〵して其の儘寝る事もなりませずうちに、カア〳〵と黎明しののめつぐる烏と共に文治郎は早く起きて来まして、

 文「おっかさまお早う、い天気になりました、お町やお母さまのお床を上げて手水盥ちょうずだらいへ水を汲むのだよ」

 と云って少しも平生へいぜいと変りはありませんから、夕べは玉つばきの八千代やちよまでと深く契ったようだと思い、お母さんも安心して居ります。唯気遣きづかいなのは嫁でございます。婚礼の晩に早くお床にはいらぬと縁が薄いという其の夫が夜中に出て行って荒々しくして居ります。其の日も暮れ、お母様もお静まりになると、又風呂敷包を持って来まして、

 文「町、昨夜ゆうべ云った通りお母さまのことは頼むぞ」

 町「はい、何時いつ頃お帰りになりましょう」

 文「多分明方までに帰る、若し明方までに帰らぬと頼むぞよ」

 と間違えば斬死きりじにするつもりでございます。大伴の道場には弟子子でしこもあります、飛道具もあります、危いから若し夫婦の交りをすれば、此の女は生涯みさおを立って後家ごけで通さなければならぬから、なさけを掛けて一つ寝をしないのでございます。お町は夫にお怪我がなければ良いと案じて居りますと、今度は直ぐに帰って来ました。

 文「明けろ」

 前のように鎖帷子を取って風呂敷に包んで寝ました。其の晩も大伴の道場へ斬込むことが出来ぬと見えてバターリッと仰向になって、又起上り、又寝て見たり、癇癖に障って寝られません。くすること五日ばかり続けました。其のうちにお町の心配はと通りでございません、五日目の朝でございます。

 文「お母さま御機嫌宜しゅう、お町〳〵」

 と云って居ります。藤原喜代之助も朝飯あさはんを食べて文治郎の家へ参り、お町の様子を文治郎に聞くと、心掛も良し、女も良し、結構だと云うから、昼飯ひるはんを食べて暑うございますから涼しい処へでも参ろうと云う処へ、森松が駈込んで参りまして、

 森「旦那、大変でございます」

 藤「どうした」

 森「だって大騒ぎでございます」

 藤「なんだあわたゞしい」

 森「表へ馬に乗ったさむらいが参りました」

 藤「どんな姿をして来た」

 森「抜身の槍でよろいを着て藤原喜代之助の宅は此の裏かと云いました」

 藤「どういう訳で…其の者はどうした」

 森「今来ますよ」

 藤「槍はさやを払ってあるか」

 森「抜身ではありません、鞘を取ると抜身になります」

 藤「誰が来たのだ」

 とのぞいて見ると、行儀霰ぎょうぎあられ麻上下あさがみしもを着て居ります、中原岡右衞門なかはらおかえもんと云う物頭役ものがしらやくを勤めた藤原と従弟いとこ同士でございます、別当も付きまして立派なさむらいがつか〳〵と来ました。

 中「藤原殿、思い掛けない訳でございます」

 藤「どうして、これは」

 中「存外御無沙汰今日こんにちは思いも掛けない吉事きちじで、早く知らせようと思って、重野しげの叔父おじことほか悦んで居りました」

 藤「どう云う訳で……森、あれは親族の者だ……此の通り見苦しい訳でお許し下さい」

 中「宜しい、番内ばんないは路地に待って居れ」

 藤「それへお上げ下さい」

 中「いや彼方あっちへやります、馬の手当を致せ」

 藤「御家来を此方こちらへ」

 余り狭くて親類の家というのはが悪いから遠ざけまして、

 中「誠に暫く、御壮健のことは下屋敷しもやしきおいて聞いて居りましたが、お尋ね申すはかみはゞかりがありますからお尋ね申しません、いやお懐かしゅうございました」

 藤「いや面目次第もございません、一時の心得違いから屋敷を出まして、尾羽おは打ち枯らした身の上、かゝる処へ中原うじが参ろうとは存じません、面目次第もございません」

 中「御先妻のあさという婦人がおっかさまに不孝を致し、の婦人の為に屋敷を出る位であったが、其の妻なる者が歿ぼっして二度目のさいは此の近辺にる浪島とか云う者の妹が参ったとか、それが叔母さまを大事にするという説が屋敷へもきこえ、それこれお悦び申す」

 藤「面目次第もございません」

 中「お母さまも御壮健でございますか」

 藤「はい、お母さま〳〵……年を取りまして……中原岡右衞門が参られました」

 母「おや〳〵誠に暫く、もうどうも年を取りまして身体もきかず、又目も悪くなり、お前の顔もはっきり分りません、お変りもなくまア〳〵立派なお身なりにお成りで、お前は若い時分から誠に気性が違い、正しい人だと云って褒めて居りましたが、相変らずお勤めで、お母さまも御機嫌いかね」

 中「母も無事でございます、あなたも御不自由でございましょうが、いお嫁が参って大切にすると云うことで、中原悦んで居りましたよ」

 母「誠に有難うございます、久し振りでいましてこんな嬉しいことはありません、久し振りで上下かみしもを見ましたよ、此の近所には股引もゝひき腹掛はらがけをかけた者ばかるから……かやや〳〵……これは嫁でございます」

 中「左様でございますか、中原岡右衞門と申す者、以後御別懇にねがいます…時に藤原うじ、此のたびは貴殿をお召し返しになります」

 藤「へー手前がお召し返しになりますか」

 中「はい、親族だけに手前へ此の役を仰せ付けられました、かみから仰せ付けでございますから、仰せ付けられがきと通り読上げた上でゆっくりお話し致しましょう」

 藤「お召し返し〳〵お母さまお召し返しになります」

 母「おや〳〵、それは有難いことでございます、もう一度お屋敷を見て死にたいと思って居りましたが、それは有難いことで」

 中原は上座へ直りまして、


其方儀そのほうぎ先達さきだっながいとま差遣さしつかわし候処そうろうところ以後心掛も宜しくよっ此度このたび新地しんち二百石に召し返され馬廻り役被仰付候旨おおせつけられそうろうむね被仰出候事おおせいだされそうろうこと   重  役


 藤「はア」

 と藤原は恐入って、思わずポロリと男泣に泣きました。

 藤「あゝ此の上もない有難いことでございます」

 中「誠に御恐悦、これは役だからず役だけ済んだ、これからゆっくり話しましょう……時にお差支さしつかえもあるまいが此の中には五十両あります、故郷へは錦を飾れという事でございますから、飾りは立派にして帰れば親族の手前も鼻が高い、こゝにあいてる金が五十きんあるから使って下さい」

 藤「はゝゝゝ誠に千万かたじけのうござる、親類なればこそ五十金という金を心掛けて御持参下さる、此の恩は忘却致しません」

 中「直ぐおいとま致します」

 藤「先ず〳〵宜しゅうございます」

 中「役目でござるから、家老に此の事を申さなければならぬ」

 と云って中原岡右衞門は屋敷へ帰ります。文治郎も悦びまして、母からはこれは先代浪島文吾左衞門なみしまぶんござえもんが差された大小でござる、これは中原岡右衞門という人の手前もあるからったら宜かろうという。又文治郎の方でも持合もちあわせた金がこれだけあるからやる。衣服きものをおっかさまの古いのをおかやにやるがかろうと衣類を沢山に長持に詰めてやりまして、藤原喜代之助は廿八日に松岡右京太夫の屋敷へ帰りました。文治郎は藤原が屋敷へ帰れば、われ斬死きりじにをして母一人になっても母の身の上は安心。大伴の家へ人を廻して様子を聞くに、今夜は兄弟酒をんで楽しむ様子だから、今夜こそ斬入きりいって血の雨を降らせ、衆人の難儀を断とうという、文治郎斬込きりこみのお話に相成ります。


  十六


 大伴蟠龍軒の家に連なる者、あるい朋輩ほうばいなどは目の寄る処へ玉と云って悪い奴ばかり寄ります。其の中に阿部忠五郎という奴は、見掛けは弱々しい奴で、腹の中は良くない奴で、大伴にへつらいまして金でも貰おうという事ばかり考えて居ります。丁度七つさがりになりまして大伴の処へ参りますと、幸い蟠作も居りません、蟠龍軒独りで小野庄左衞門を殺して取った刀へ打粉うちこを振って楽しんで居ります。

 蟠「たれだえ」

 忠「阿部でございます、只今お玄関へ参った処がたれも居りません、中の口へ参っても御門弟も居りませんから通りました、なんです、お磨きですか」

 蟠「さア此方こっちへ来な、たれも居らぬが、これは先達さきだってお茶の水で小野を殺害せつがい致して計らず手にった脇差だが、彦四郎貞宗だ、しょうが宜しい」

 忠「はア、の時の……又先達ては多分の頂戴物ちょうだいものをいたしまして有難うございます」

 蟠「縁頭ふちかしら赤銅七子しゃくどうなゝこに金で千鳥が三羽出ている、目貫めぬきにも千鳥が三羽出ている、後藤宗乘ごとうそうじょうの作だ」

 忠「大した物ですなア」

 蟠「柄糸つかいとも悪くもない、つば金家かねいえだ」

 忠「あの伏見の金家、結構でございますな」

 蟠「鞘は蝋色ろいろで別に見る処もないが、小柄こづかはない、貧乏して小柄を売ったと見える」

 忠「思い掛けない物がお手に這入るもので」

 蟠「久しく来ないからどうしたかと思った」

 忠「時に先生、申しかねましたが、市ヶ谷の親類の者に子供が両人あって、亭主が暫らくわずろうて、別に便たよる者もない、義理ある親類で嘆いて参って、助けてくれぬかと、よんどころなく金子を貸してやらなければなりません、手前も貧乏でございますから貸すどころではございません、誠に申上げ兼ますが、先生五十金拝借を願います」

 蟠「フーン、つい此の間廿金やった上に、又三十金というのでお前の云う通り五十両からやってある」

 忠「それは存じて居ります、再度お手数てかずを掛けて、こんなことを申し上げるのではございません、よんどころない訳で一時いちじのことで、九月……遅くも十月までには御返金致します、これは別に御返済致します」

 蟠「フン〳〵、今手許に金がない、お前にも穗庵にもやってある」

 忠「お貸し下さらぬか」

 蟠「はい」

 忠「宜しゅうございます、無理に拝借致そうという訳ではございませんが、先生拝借を願います、足元を見て申上げるように思召おぼしめすか知りませんが、左様な訳ではありません、此のたびは困るからでございますが、手前共のような者でお役には立ちますまいが、手前にこうしてくれぬかという時は先生に御懇命をこうむって居りますからいやとは申しません、はいと申します、事露顕致せば命にも係わることでもいやとは申しません、義理というものは仕方がございません、手前も義理だから先方に貸してやらなければならぬ、出来なければ仕方はございませんが、の時命懸けの事をして、其の上ならず貞宗の刀がお手にれば二百金ぐらいのものがあります、お金が出来なければ其の刀を拝借して質に入れましょう」

 蟠「無礼な事を云ってはならぬ、人の腰の物を借りて質に置くというのは無礼至極だろう」

 忠「そうですか、貴方の刀ではございますまい、小野庄左衞門の」

 蟠「これ〳〵大きな声をしてはならぬ」

 忠「お貸し下さらんければ宜しゅうございます、一旦金などを貸して下さいと云って貸して下さらぬというと来悪きにくくなりますから、御無沙汰になります、手前も一杯飲みますから、うっかり飲んで、口が多うございますから、打敲ぶちたゝきをされゝばお茶の水の事や何かしゃべれば貴方の御迷惑になろうと思います」

 蟠「フン、だが此の刀を持って質に入れられては困る、他から預ってる金を融通しよう、いろ〳〵それに付いて貴公に頼む事がある、貴公も私の悪事に左袒さたんして、それを喋って意趣返しをしようということもあるまい、お互いに綺麗な身体にはならないから、もう一と稼ぎしようじゃないか」

 忠「どういうことでございます」

 蟠「うちじゃア話が出来ないから、今に舎弟が帰るから亀井戸の巴屋ともえやで一杯やって吉原へこう」

 忠「取り急ぎますから金子を拝借します」

 蟠「押上おしあげの金座の役人に元手前が剣術を教えたことがある、其処そこけばどうにかなるから一緒にこう」

 忠「金さえ出来れば参りましょう」

 とこれから巴屋へ往って酒を飲みます。元より好きだから忠五郎どっさり飲みました。

 忠「もう酔いまして、帰りましょう、金子を拝借したい」

 蟠「これは五十金、わしが金座役人の所へ往って此の金は明日あしたまでに届けなければならぬ金だが、吉原へけば才覚が出来る、池田金太夫いけだきんだゆうという人を知っているだろう」

 忠「河内守かわちのかみの公用人の」

 蟠「そうよ、内証ないしょうで遊びに往っている金太夫に遇うまで貴公はへ往って、赤い切れを掛けた女を抱いて寝てれば百金は才覚する」

 忠「久しく遊びに参りませんよ、さいが歿して二年越し独身で居ります……参りたいな、金子を戴いて待っている間、赤い切れと寝ているなどは有難い」

 蟠「金を早く持って帰らんでは市ヶ谷の親類の方はどうする」

 忠「金を持ってけば明日あしたでも宜しゅうございます」

 蟠「現金な男だ、駕籠というのもなんだからぶら〳〵歩こう」

 と貸提灯かしぢょうちんを提げて雪駄穿きで、チャラリ〳〵と又兵衛橋またべえばしを渡って押上橋おしあげばしの処へ来ると、入樋いりひの処へ一杯水が這入って居ります。向うの所は請地うけじ田甫たんぼでチラリ〳〵と農家の燈火あかりが見えます、真の闇夜やみ

 蟠「阿部」

 忠「へえ」

 蟠「便をしたいが、少し向うから人が来るようだから」

 忠「宜しゅうございます、わたくしも出たいからお附合つきあいをしたい」

 蟠「左様そうか、そんならわしが提灯を持ってやろう」

 と元より貸提灯でございますから、

 蟠「ア、燈火あかりが消えるようだ」

 忠「消えましたか、困りましたな、一本道だから宜しいが燈火がなくては困りますな」

 蟠「うっかりしていた、困ったなア、何処どこかへ往って借りよう、通り道にうちがあるだろう、構わず便べんをしなよ」

 忠「左様そうでございますか、宜しゅうございます」

 とうっかり向うを向いて便をそうとする処をシュウと抜討ちに胴腹どうばらを掛けて斬り、又咽元のどもとを斬りましたから首が半分落るばかりになったのを、足下そっかに掛けてドブーンと溜り水の中に落して仕舞いました。懐中から小菊こきくを取出して鮮血のりを拭い、鞘に納め、おりや提灯を投げて、エーイと鞍馬くらまうたいをうたいながら悠々ゆう〳〵と割下水へ帰った。其の翌日文治郎が様子を見て大伴の道場へ斬込もうと致しますと、只今なれば丁度午後二時半頃、文治郎の宅の玄関の前を往ったり来たりしてるのは左官の亥太郎。

 森「どうしたえ」

 亥「森松かおお御無沙汰をした」

 森「旦那がどうしたって心配しんぺいをしていらア、うち間違まちげえたのか、往ったり来たりしている、どうも豊島町の棟梁のようだが、どうしたのかと思っていた」

 亥「うち間違まちげえるような訳で、大御無沙汰」

 森「おらうちに嫁が来た、い女だよ」

 亥「冗談じゃアねえ知らしてくれゝばくせ鰹節かつぶしの一本かすっぺい酒の一杯いっぺいでも持って、旦那お芽出度めでとうござえやすと云って来たものを」

 森「だ本当の祝儀をしねえから何処どこへも知らせねえのだ、大丈夫だ、心配しんぺいしなくもよろしい、祝いものは何処からも来やしねえ、表向おもてむきに婚礼をすりゃアおめえの所へも知らせらア」

 亥「旦那に云ってくんねえ、これは詰らねえ物だがって上げてくんねえ」

 森「旦那、亥太郎が来ました」

 文「そうか、此方こっちへお通し申せ……おっかさま、亥太郎が参りました」

 母「そうかえ、まア〳〵此方こちらへ」

 亥「御無沙汰致しまして、お変りもございませんで」

 母「お前さんも達者で、つい此の間も噂をして居りました、さア此方こっちへ」

 文「亥太郎さん、文治郎は大きに御無沙汰をした、少し取込んだことがあって」

 亥「今、森に聞けばお嫁さんが来たって、知らねえものだから、知らせておくんなされば詰らねえ祝物いわいものでも持って来なければならねえ身の上で、お祝いにも来ねえで、ぜ知らせて下さらねえ」

 文「いや〳〵未だ内輪だけのことで」

 母「只今文治の云う通り内輪だけのことで、改まって婚礼をするときは貴君方あなたがたにも知らせる積りでございます」

 亥「だってわっちは内輪でございやす、なアにこれは詰らねえものでございやす、お嫁さんにお目に懸りてい」

 母「町や……年がきませんから」

 亥「へえ、こりゃアどうも〳〵そんなに長くお辞儀をなすっちゃアいけねえ、わっちどもは二つずつお辞儀をしなければならねえ、こんないお嫁さんはございませんねえ、お姫様のようだ、わっちはぞんぜえ者でございやす、幾久しく願いやす」

 文「御尊父様は御壮健でございますか」

 亥「へえなんでごぜえやすか」

 文「御尊父様は御壮健でございますか」

 亥「わっちの近所の医者でごぜえやすか」

 文「いえ貴君あなた親御おやごさまは」

 亥「わっち親父おやじですか、ちっとも知らねえ……お芽出たい処へ来て、こんな事を云ってはなんですが、親父は此の二月お芽出度めでたくなりました」

 文「おや、さっぱり存ぜんで、お悔みにも参りません、ぜ知らせて下さらぬ」

 亥「わっち共のような半纒着はんてんぎの処へおめえさんが黒い羽織で来ちゃア気が詰って困るからお知らせ申さねえ」

 文「やれ〳〵御愁傷さま」

 母「お前さまのような薩張さっぱりした御気性だから口へはお出しなさらないが、腹のうちではさぞ御愁傷でございましょう」

 亥「此方こっちの旦那のように親孝行をして死んだのでございません、餓鬼のうちから喧嘩早けんかっぱやくってわっち故に心配して、あんな病身になって死にました、達者なうちすきな物でも食わせて死んだのなれば、いがと思って、死んで仕舞ってから気がついても仕方がねえ、わっちが今度泣くと友達が笑って亥太郎は鬼の目に涙だってねえ」

文「嘸々さぞ〳〵御愁傷のことで、お見送りもしなかったのは残念だ、頼母たのもしくない」

 亥「今のお嫁入りとえんだりにしましょう、わっち共は交際つきえゝひれいものだから裏店うらだなともれえでありながら、強飯こわめしが八百人めえというので」

 文「成程、嘸御立派でございましたろう」

 亥「それで豊島町の八右衞門はちえもんさんが一人の親だから立派にしろというので、組合くみえいの者がみんな供に立って、富士講ふじこう先達さんだつだの木魚講もくぎょこうだのが出るという騒ぎで、寺を借りて坊主が十二人出るような訳で」

 文「立派なことでございましたなア」

 亥「それもいが、蝋燭だの線香だの香奠こうでんだのと云ってうちうち一杯いっぺいに積んで山のようになりました、金でも持って来ればいに、食えもしねえ蝋燭なんぞを持って来て、其のけえしに茶の角袋かくぶくろでも附けなければならねえ、これが千軒あるような訳で」

 文「成程、しかしながら亥太郎さん、一人のおとっさんのことだから立派になさい」

 亥「へえ…なんだって豊島町の富士講の先達せんだつだの法印が法螺ほらの貝を吹くやら坊主が十二人」

 文「成程」

 亥「それもいが、蝋燭だの線香だの食えもしねえ物を貰ってけえしをしなければならねえ」

 文「成程、御孝行の仕納めだから立派になすった方が宜しい」

 亥「身に余ったともれえで仮寺かりでらを五軒ばかりしなければ追付おっつかねえ、酒が三たる開いて仕舞う、河岸かしや何かから魚を貰って法印が法螺の貝を吹く騒ぎ」

 文「成程」

 亥「それも仕方がねえが山のように線香だのなんだの、質にも置けねえ物を貰って、それもいがけえしに菓子と茶を附けなければならねえ」

 文「成程、立派にしてお上げなさい」

 亥「坊主を十二人頼むというので棺台などを二けんにして、無垢むくいのを懸けろというので、富士講に木魚講、法印が法螺の貝を吹く」

 文「成程立派なことで」

 亥「それもいけれども食えもしねえ線香や蝋燭などを山のように積んで、菓子や茶の袋を配るのが千軒もある」

 文「成程、亥太郎さん、貴方のことだからお差支さしつかえもあるまいが、余程のお物いりだね」

 亥「へえ、仕様がねえ」

 文「ほかの事とも違うから、御不足はあるまいが御入用なれば文治郎これだけ入ると、打明けて云うて下さるのが友達の信義だから、多分のことは出来まいが、少々ぐらいのことなら御遠慮なくお云いなさい」

 亥「へえ〳〵……からビッショリ汗をかいて仕舞った……実は金を借りに参ったので」

 文「道理でおかしいと思った、一つことばっかりおっしゃるから、お正直です」

 亥「今まで身上みじょうが悪いから菓子屋も茶屋も貸さねえ、仕方がねえから旦那の所へ来たが、玄関の所へ来て這入り切れねえ……旦那済みませんが貸して下せい」

 文「道理で……宜しい〳〵あなたが道楽につかうのでない立派なことです、何程なにほど御入用……それで済みますか五十金……おっかさまお貸し申しましょうか」

 母「御用達ごようだて申しなともさ」

 亥「有難うごぜえやす……わっちは証文を書くにも書けませんが、こういう詰らねえ物を持って居りやすが、百両の抵当かたに編笠ということもございやすから、これを預って下せえ」

 と出したのは高麗青皮こうらいせいひ趙雲ちょううん円金物まるがなもの、後藤宗乘の作でございます。

 文「立派な胴乱だ」

 亥「胴乱でごぜいますか」

 文「これは高麗国の亀の甲だというが、たぐい稀なる物……これは名作だ、結構な物、どうしてこれを御所持でございます」

 亥「それはなに、妙な、なに泥ぼっけになっていたのを拾ったのです」

 文「これはお前さんの手にってもるまい」

 亥「入りませんとも」

 文「抵当かたも何も入らぬが、これは預って置きましょう」

 文治郎の手にこれが這入るのは蟠龍軒の天運の尽きで、これが友之助の手に這入って、遂に小野庄左衞門のかたきが分るというお話、鳥渡ちょっと一吹いっぷく致しまして申し上げます。


  十七


 文治はかねて大伴の道場に斬入きりいるは義によっての事でございまして、身を棄て、義を採ります。命を棄てゝも信を全くする其の志がどう云う所から起りましたか、文治郎は何か学問が横へ這入り過ぎた処があるのではないかと或る物識ものしりが仰しゃったことがございます、余り人の為のなさけと云うものが深くなると、人を害することがあります「心ひくかたばかりにてなべて世の人になさけのある人ぞなき」と云う歌の通り「なさけさしはさんで害をす」と云う古語がございます。大伴を討って衆人を助け、殊には友之助を欺いて女房を奪い、百両の金も取上げて仕舞い、彼を割下水のどぶの中へ打込み、半殺しにしたは実に大逆非道な奴で、捨置かれぬと云う其の癇癖をこらえ〳〵て六月の晦日みそかまで待ちました。昼の程から様子を聞くと、今日は大伴兄弟も用達ようたしくことなし、晦日のことで用もあるから払方はらいかたを済ませ、うちで一杯飲むということを聞きましたから、今宵こよいこそ彼を討たんと、昼のうちから徐々そろ〳〵身支度を致します。お町は其の様子を知って居りますから、暮方くれがたになると段々胸がふさがりまして、はら〳〵致し、文治郎の側に附いて居りました。つを打つと只今の十時でございますから、何所どこでも退けます。母にもお酒を飲ませ、安心させるよう寝かし付け、彼是かれこれ九つと思う時刻になると、読みかけた本を投げ棄て、風呂敷包みを持出しましたから、お町はあゝ又風呂敷包みが出たかと思うと、包をほどいてぜん申し上げた通り南蛮鍛えの鎖帷子、筋金のったる鉢巻を致しまして、無地の眼立たぬ単衣ひとえものに献上の帯をしめて、其の上から上締うわじめを固く致して端折はしおりを高く取りまして、藤四郎吉光の一刀に兼元の差添さしぞえをさし、國俊くにとし合口あいくちを懐に呑み、覗き手拭で面部を深く包みまして、ぴったりととこの上へ坐りまして、

 文「お町やこれへお出で」

 町「はい、お呼び遊ばしましたか」

 文「毎夜云う通り今晩は愈々いよ〳〵かんければならぬことになりました、多分今宵は本意ほんいげて立帰る心得、明け方までには帰るから、どうか頼むぞよ、若し帰らぬことがあったらば文治郎亡き者と思い、わしに成り代って一人のお母様っかさまへ孝行を頼みますぞよ」

 町「はい、旦那様、わたくし此方こちらへ縁付いて参りましてから、毎夜々々荒々しいお身姿みなりでお出向でむきになりますが、どうしてのことか、余程深い御遺恨でもありますことか、果し合とやら云うようなお身姿でございますが、お遊ばすかと思えば又直ぐお早くお帰りのこともあり、誠にわたくしには少しも理由わけが分りません、元より此方こちらへ嫁に参りたいと願いました訳でもございませず、どうか便り少い者ゆえ貴方様へ御飯炊奉公ごぜんたきぼうこうに参って居りますれば、不調法を致しましても、お情深い旦那様、き所もない者と無理に出てけとおいとまも出まいと思い、旦那様をお力に親の亡いのちには此方様こなたさまばかりを命の綱と取縋とりすがって、御無理を願いましたことで、思い掛けなくお母様が嫁にと御意遊ばして、冥加に余ったことなれど、実は旦那様はさぞいやであろうと存じて居りました処が、御孝心深いあなた様、お母様の云うことをお背き遊ばさずに、親が云うからと不束ふつゝかわたくしを嫁にと仰しゃって下さりまして、わたくしは実に心が切のうございます、何卒どうぞ女房と思し召さず御飯炊の奉公人と思召してお置き遊ばして下さるよう願いとう存じます」

 文「それはお前分らぬことを云う、いやならいやと男だから云います、又気に入らぬ女房は持っている訳にはいかぬもの、一旦婚姻を致したからには決して飯炊奉公人とは思いません、文治郎何処どこまでも女房と心得ればこそ母の身の上を頼むではないか、ぜ左様なことを云う」

 町「ひょっと旦那様はほかにお母様に御内々ごない〳〵でお約束遊ばした御婦人でもございまして、お母様の前をお遊ばすにおが悪いから、わたくしのようなものでも嫁とめれば、まさか打明けてうだとお話も出来ないから、其の御婦人のかたへお逢い遊ばしに夜分お出向でむきになる事ではないかと、わたくし悋気りんきではございませんけれども、貴方のお身をお案じ申しますから、思い違えを致すこともございます、何卒どうぞそう云う事でございますならばお母様に知れませぬように、どのようにもわたくしり繕いますから、其の女中をお部屋までお呼び遊ばすようになすって下されば、お母様に知れないようはからいます、実は斯うと打明けて御意ぎょい遊ばして下さる方がかえってわたくしは有難いと存じます」

 文「つまらぬことを云うね、妾や手掛の所へくに鎖帷子を着てく者はありません、しかしお前が来てから盃をしたばかりで一度も添寝そいねをせぬから、それで嫌うのだと思いなさるだろうが、なか〳〵左様な女狂いなどをして家を明けるような人間ではございません、言うに云われぬ深い理由わけがあって、どうも棄て置かれぬ、お前が左様にうたぐるから話すが、私は義にってな〳〵忍び込んで、若し其の悪人を討てば、幾千人の人助けになる、天下のお為になる事もあろう、それ故に母に心配を掛けないよう隠して斯うやって参る、文治郎元より一命をなげうっても人の為だ、わしがお前と一度でも添臥そいぶしすればお前はもうへ縁付くことは出来ぬ、十七八の若い者、生先おいさき永き身の上で後家を立てるようなことがあっては如何いかにも気の毒、わしが死んでお母様がお前に養子なさると云えば、一旦文治郎の女房になったと他人ひとは思おうとも、お前の身にわし添臥そえぶしをせぬと云う心に力があるから、どのような養子も出来る、添寝をせぬのは実は文治郎がお前を思う故に、なさけの心からだ、又首尾為終しおおした上では、縁あって来た者故添い遂げらるゝこともあろうかと考える、何事も右京太夫の家来の藤原と相談してお母様を頼む、何卒どうぞつれない男と思いなさるな、天下のため命を棄てるかも知れぬから」

 町「はい能く打明けて仰しゃって下すった」

 とそでを噛んだなりで泣き倒れましたが、暫くあって漸々よう〳〵顔を上げまして、

 町「旦那様、そう云うことなら決してお止め申しませんが、何卒どうぞわたくしの申しますこともお聞き遊ばして下さいまし」

 文「なんでも聞きます、どう云うこと」

 町「はい、わたくし此方こちらへ参りましてから、貴方はお癇癖が起ってる御様子、寛々ゆる〳〵お話も出来ませんが、貴方にお恵みを受けました親父ちゝ庄左衞門は桜の馬場で何者とも知れず斬殺きりころされましたことは御存じございますまい」

 文「えー……それは知らねど……どうも思い掛けない、何時いつのことで……フーン後月あとげつ二十七日のに桜の馬場において何者に」

 町「はい、何者とも知れません、お検死の仰しゃるには余程手者てしゃが斬ったのであろうと、それに親父ちゝがたしなみの脇差をして出ましたが、其の脇差は貞宗でございますから、それを盗取ぬすみとりました者をたずねましたらかたきの様子も分ろうかと存じますが、仮令たとえ讐が知れましてもかぼそいわたくしが親の讐を討つことは出来ませんから、旦那様へ御奉公に上って居りましたら、讐の知れた時はお助太刀も願われようかと存じ、御飯炊の御奉公に願いましたことでございます、貴方のお身の上に若しもの事がありますれば、親の讐を討ちますのぞみも遂げられまいかと存じます……そればっかりが残念でございます」

 文「フーン、能く親の讐を討ちたいと云った、流石さすがは武士の娘だ、あゝそれでこそ文治郎の女房だ、宜しい、わしが附いていて、さがし当て屹度きっと討たせます、仮令たとえ今晩為終しおおせて来ようとも、ひそかに立帰ってお前の親の讐を討ったる上で名告なのって出てもい……しかし直ぐと手掛りもなかろう、彦四郎の刀を取られたのを手掛りとしても、それさえに類のあるものでもあり、脇差のこしらえや何かも女のことだから知るまい」

 町「いゝえ、親父おやじが自慢に人様が来ると常々見せましたが、縁頭ふちがしら赤銅七子しゃくどうなゝこに金の三羽千鳥が附きまして、目貫めぬきも金の三羽千鳥、これは後藤宗乘の作で出来のいのだそうで、さめはチャンパン、柄糸つかいと濃茶こいちゃでございます、つばは伏見の金家かねいえの作で山水につりをしてる人物が出て居ります、鞘は蝋色ろいろでございまして、小柄こづかは浪人中困りまして払いましたが、中身は彦四郎貞宗でございます」

 文「能く覚えてる、それが手掛りになりますから心配せぬが宜しい、屹度きっとかたきを討たせましょうが……今夜はどうしてもわしかなければならぬ、お母様に何卒どうぞ知れぬようにして下さい、決して心配するな、き往って来るから」

 町「はい、お止め申しませぬ……御機嫌宜しゅうお帰り遊ばして」

 と縁側まで送り出し、御機嫌宜しゅうと袖にすがって文治郎の顔を見上げる。文治郎は情深い者でございますから、あゝ可愛そうに、己は帰れるやら帰れぬやら知れぬに、気の毒なことゝ思うが、仕方がないから袖を払って三尺の開きをあけて、庭から出まして、これから北割下水へ掛って来ますると、森々しん〳〵と致して鼻をつままれるのも知れません。大伴蟠龍軒の門前まで来ると、締りは厳重で中へ這入る事は出来ません、文治郎は細竹をもってズーッと突きさえすれば、ヒラリと高い屋根へ飛上とびあがる妙術のある人でございますから、なんぞ竹はないかと四辺あたりを見ると、蚊を取ります袋の付きました竹の棒がある「本所に蚊が無くなれば師走しわすかな」と云う川柳の通り、長柄ながえに袋を付けて蚊を取りますが、仲間衆ちゅうげんしゅうが忘れでもしたか、そこに置いてありましたから、其の袋を取ってぱっと投げますると、風が這入って袋のよりが戻ったから、中からブウンと蚊が飛び出しました。文治郎は情深い人で、蚊まで助けましたから、今でもブウン〳〵と云って忘れずに文治郎の名を呼んで飛んで居ります。竹を突いて身軽に門番の家根へ飛上り、又竹を突いてさっと身軽に庭へ下りて、音のせぬように潜み、勝手を知った庭続き、ひのき植込うえごみの所から伝わって随竜垣ずいりゅうがきの脇に身を潜めて様子をうかゞうと、なが四畳で、次は一寸ちょっと広間のようの所がありまして、此方こちらに道場が一杯に見えます。酒を飲んでグダ〳〵に酔って弟の蟠作が、和田原安兵衞と云う内弟子と二人で話をして居りますが、話をする了簡だけれども、くらい酔って舌が廻りませんからちっとも分りません、酒の相手は仕倦しあきて妾のお村が浴衣ゆかた姿なりで片手に団扇うちわを持って庭の飛石とびいしへ縁台を置き、おふくろと二人で涼んで居ります。

 崎「さアお休みなさいよう、お村が早く寝たいと云いますよう……御舎弟様大概に遊ばせよう、お村がおこって居りますよ」

 村「若旦那お休みなさいよう」

 蟠「そんなことを云って、まア鬼のいないうちの洗濯じゃアないか……なア安兵衞、兄貴は分らぬてえものだ、此のどうも脇差を弟に内証ないしょうで時々ズーッと鞘を払い、打粉を振って磨き、又納め、袋へ入れて楽しんでいるからひどい、今日は留守だから引摺り出したが、わしに見せぬで隠してるのはひどい」

 安「何時いつの間にお手に入れたか、これは大先生おおせんせいより貴方のお持ち遊ばした方が宜しい」

 蟠「兄貴は分らぬ、隠して置くはどうもおかしい、それにぜ此の位の良い脇差に…小柄がないね」

 安「これはいずれ取りあわせてこしらえるのでしょう」

 村「早くお休みなさいよ、お願いでございますよ、おふくろも眠がって居りますから旦那」

 と云うのが庭へ響きます女の声、はア此処こゝにいるのはお村母子おやこだが、此奴こいつを逃してはならぬと藤四郎吉光の鞘を払って物をも云わずつか〳〵と来て、たれかと眼を着けるとお村ですから「友之助ならばかくの如く」とポーンと足を斬りました。

 村「あゝ人殺し」

 と言いながら前へ倒れる。其の刀でえいと斬るとバラリッとおふくろの首が落ちました。随竜垣に手を掛けて土庇どびさしの上へ飛上って、文治郎鍔元つばもとへ垂れるのりふるいながら下をこう見ると、腕が良いのに切物きれものが良いから、すぱり、きゃっと云うばかりでなんの事か奥では酒を飲んでいて分りません。

 蟠「なんだ〳〵」

 村「人殺し〳〵」

 安「それは飛んだこと」

 とひょろ〳〵よろけながら和田原安兵衞が来て、

 安「どう遊ばした、お母様ふくろさましからぬ……何者でござる、しっかり遊ばして」

 と言いながらお村を抱き起そうとする時、うしろから飛下りながら文治郎がプツリッと拝み討ちに斬りますと、脳をかすり耳を斬落きりおとし、肩へ深く斬り込みましたから、あっと仰様のけざまに安兵衞が倒れました。蟠作は賊ありと知って討とうと思いましたが、あわてる時はかぬもので、剣術の代稽古をもする位だから、刀を持って出ればいに、慌てゝ居りますから心得のない槍の鞘を払って「賊め」と突き掛る処を、はっと手元へ繰込くりこみ、一足踏込んでプツリと斬りましたが、殺しは致しませんで、蟠作のたぶさとお村の髻とを結び、庭の花崗岩みかげいしの飛石の上へ押据おしすえて、

 文「やい蟠作、能くもわれは大小を差す身の上でありながら、町人風情ふぜいの友之助を賭碁に事寄せ金を奪い、お村までむさぼり取ったな、大悪非道な奴である…お村、われは友之助と心中致す処を此の文治郎が助け、駒形へ世帯を持たせてったに、なんじ友之助に意地をつけ、文治郎に無沙汰で銀座三丁目へ引越ひっこし、あまつさえ蟠龍軒の襟元に付き心中までしようと思った友之助を袖にして、斯様かような非道なことをしたな、なんじは文治郎が掛合に参った時悪口あっこうき、能くも面体めんていへ疵を付けたな、おのれ」

 と七人力の力で庭の飛石へこすり付け、友之助がればこうであろうと、和田原安兵衞の差していた脇差を取って蟠作の顔を十文字に斬り、われは此の口で友之助をだましたか、此の色目で男をなやましたかとお村をズタ〳〵に斬り、われは此の口で文治郎に悪口をいたかと嬲殺なぶりごろしにして、其の儘脇差をほうり出し、藤四郎吉光の一刀をげて「蟠龍軒は何処どこるか、隠れずに出ろ、友之助になり代って己が斬るから此処こゝへ出ろ」と云いながら何処を探してもいないから、台所へ来て男部屋を開けますると、紙帳しちょうの中へゴソ〳〵ともぐって、頭の上へ手を上げて一生懸命に拝んで、

 男「何卒どうぞお助け下さい、何も心得ません、命ばかりはお助けなすって、御入用なればなんでも差上げます」

 文「己は賊ではない、てまえは奉公人か、当家の家来か」

 男「へえ先月奉公に這入った何も心得ませんもので」

 文「蟠龍軒は何処に隠れてるかそれを教えろ、蟠龍軒は何処に隠れて居るかそれを言え」

 男「何処だか存じませんが、今朝程築地つきじのお屋敷へ往って浮田金太夫うきたきんだゆう様の処へ、竹次郎というお弟子と今一人を連れて参りました」

 文「嘘を云え、何処に隠れているか云え」

 男「嘘ではございません、主人の煙草盆に手紙が挿してあります、浮田金太夫様からのお手紙が参って居ります」

 文「じゃア全くらぬか……残念な事を致したな、大伴兄弟がると思ったに蟠龍軒だけ築地の屋敷へ参ったか……あゝ残念な事をした」

 と云いながらプツーリと癇癪紛れに下男の首を討落うちおとしました。奉公人はいゝ面の皮で、悪い所へ奉公をすると此様こんな目に遇います。文治郎は刀をさげ、隠れてるかと戸棚とだなを開けたり、押入を引開けて見たが、居りません。座敷の真中まんなかほうり出してありますは結構な脇差で、見ると赤銅七子に金の三羽千鳥の縁頭、はてなと取上げて見ると、鍔は金家の作、目貫は三羽千鳥、是はのお茶の水で失ったる彦四郎貞宗ではないか、中身はと抜いて見るとまごう方なき貞宗だから、あゝ残念な事をした庄左衞門を殺害せつがいしたのは彼等兄弟の所業しわざに相違ないが、是を己が持って帰れば盗賊に陥り、言訳が付かぬ、かえって刀は此所こゝに置く方が調べの手懸りにもなろうと思い、此の事を早くお町にも話したいとのりぬぐって鞘に納め、塀を乗越えて立帰りましたが、これから災難で此の罪が友之助に係りまして、たちまちにお役所へ引かれますのを見て、文治郎みずから名告なのって出て、徒罪とざい仰付おおせつけられ、遂に小笠原島へ漂着致し、七ヶ年の間、無人島むにんとうに居りまして、のち帰国の上、お町を連れて大伴蟠龍軒を討ち、しゅうとの無念を晴すと云う、文治郎漂流奇談のお話もらくでございます。

    (拠若林〓(「※」は「おうへん+甘」)藏、酒井昇造速記)

底本:「圓朝全集 巻の四」近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫

   1963(昭和38)年910日発行

底本の親本:「圓朝全集 巻の四」春陽堂

   1927(昭和2)年628日発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。

また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。

底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」は、それぞれ「其の」と「此の」に統一しました。

また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。

※誤記等の確認に、「三遊亭円朝全集 第三巻」(角川書店、1975(昭和50)年731日発行)を参照しました。

※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。

入力:小林 繁雄

校正:かとうかおり

2000年118日公開

青空文庫作成ファイル:

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