土曜夫人
織田作之助



女の構図



 キャバレエ十番館の裏は、西木屋町に面し、高瀬川が流れた。

 高瀬川は溝のように細い。が、さすがに川風はあり、ふと忍びよる秋のけはいを、枝垂れた柳の葉先へ吹き送って、街燈の暈のまわりに夜が更けた。

 しかし、十番館のホールではまだ夏の宵だった。

 裳裾のようにパッとひらいた頽廃の夜が、葉鶏頭の花にも似た強烈な色彩に揺れて、イヴニングドレスの背中をくりぬいて見せた白い素肌が、蛇のようにくねると、そのくぼみに汗が汗ばみ、女の体臭を男の体臭が絞り出すような夏の夜の踊りに、体の固い若いダンサーのステップもいつか粘るのだった……。

 そんなホールの中へ、こおろぎが一匹、何にあこがれたのか、さまよい込んで、ピョンとはねた途端、クイックターンのダンスシューズの先に蹴られて、チリチリと哀れな鳴き声のまま、息絶えたが、その声はバンドの騒音に消されて、たれも気がつかなかった。

 木崎三郎も気がつかなかった。

 木崎は肉眼がカメラのレンズに化してしまったかと、思われるくらい、視覚神経の病的に鋭いカメラマンであり、ことにグラフ雑誌から頼まれたダンスホール風景の写真を撮りに、三晩もつづけて十番館へ足を運んでいるのだから、ホールの床の上のこおろぎという構図には敏感に神経が動く筈だのに、やはり見逃してしまったのは、丁度その時、木崎は二階の喫茶室にいたからであろうか、それとも……。

 喫茶室からは一眼でホールの隅から隅まで見下ろせたが、しかし、こおろぎまでは視力が届かない。とはいうものの、よしんばそれが出来ても、少くともその時の木崎の眼にははいらなかったに違いない。

 なぜなら、木崎の視線はひたすら、辻陽子というダンサーの姿態や顔の動きを追うていたのだ。憑かれた眼にはそれだけしか見えない。

 しかも、それが今夜で三晩も執拗につづいているのだ。最初の晩辻陽子を一眼見て、なぜかどきんとした途端に、もう木崎の眼は、

「よし。このダンサーだ。この女を撮ろう」

 と、たちまちカメラのレンズに化してしまったが、しかし、非情のレンズにしては、何か熱っぽく燃えて、夜光虫のように光った。

 木崎は自分の心の底を覗くように、レンズを覗いた。レンズの向うには、陽子のさまざまな姿態があった。が、三日目の今日まで、ついぞ一度もシャッターを切らなかった。

 気に入った構図が見つかるまで、めったにフイルムを使おうとしない、名人気質的な、ふと狂気じみた凝り方は、いつものこととはいうものの、しかし、いつもの彼ならいそいそと撮ったようなポーズにも強く反撥していたのは、一体何であろう。

 木崎の顔は憂愁の翳が重く澱んで、いらいらと暗かった。が、何を思ったのか、急に起ち上ると、木崎は階段の中程に突っ立った。

 そして、陽子へ向けたライカのシャッターを切った途端、一人のダンサーが声も立てずに、いきなり床の上へ崩れるように、倒れた。



 まるで、わざとのような偶然であった。

 木崎のライカがカチッとシャッターの音を立てたのと、そのダンサーの体が崩れるように床の上へ倒れたのと、殆んど同時──というより、むしろ、シャッターの音が防音装置のピストルのかすかな音のように、彼女を倒した──と言ってもいいくらいだった。

 木崎も驚いたが、客もダンサーも、そして楽師もあっと思った。

 バンドの調子は、いきなり崩れた。

 一階のホールの正面の演奏台ではスウィングバンド、二階の廊下から突き出したバルコニー風の演奏室にはタンゴバンド──この二つのバンドが交替で演奏するのだが、丁度その時はタンゴバンドの番だった。

 曲はクンパルシータ。

 みんな知っている曲ゆえ、一層その崩れ方が判った。が、楽師はあわてて調子を取り戻した。昨日までいてよそのホールへ引っこ抜かれたバンドの代りに、今夜から新しく雇い入れられたバンドだった。いわば初演奏だ。だからすくなくとも今夜はおかしいくらい熱心だった。しかし、取り戻した調子を張り上げた時は、もう誰も踊っている者はなかった。

 ステップをすっと引き寄せてから、その反動でぐっと女の体を押して行く──いわば情熱的にアクセントの強いタンゴの中でも、クンパルシータの曲は誰も踊りたがり、お茶を引いて椅子に「カマボコ」になっているダンサーすら、同じカマボコさんをつかまえて、女同士で踊っていたくらいだが、しかし倒れた茉莉の顔は、余りに青すぎた。

 ただごとではない。

「醜態だね。転ぶのはまだ早いや。宵の口じゃないか。不見転ダンサーか。誰なんだい」

 ステップを踏みはずして、転んだのか──と皮肉りかけた口の悪い客も、

「あ、茉莉が……」

 倒れたのかと気がつくと、あわてて相手のダンサーをはなして、

「──茉莉誰と踊ってたんだい。柔道屋か」

 茉莉はまかりまちがっても転ぶような、そんな下手なダンサーではなかったのだ。

「踊りでは茉莉、顔では陽子」

 と、十番館では定評になっていた。

「えッ、茉莉が……?」

 と、陽子も顔色を──いや、陽子の顔色は既に木崎がシャッターを切った時なぜかはっと変っていた。

「あ、うつされる!」

 と、ぎょっとしたように、いきなりそむけた顔が、みるみる青ざめた。

「失礼します」

 陽子は客からはなれて、木崎の方へ行こうとした──その途端、茉莉が倒れたのだ。

 写真も気になったが、それよりも茉莉のことが……。ちょっと迷ったが、やはり陽子は人ごみの間をすり抜けて、茉莉の方へかけよった。

 茉莉の顔は、青ざめた陽子よりも、血の色がなかった。頬紅の色まで青く変っていた。

 そして、口から泡をふき出して、床の上を蛭のようにかすかにうごめいている──その傍に、青年がキョトンと突っ立っていた。



「あ、京ちゃん」

 茉莉の倒れている傍に、突っ立ってキョトンとしている青年の顔を見ると、陽子は茉莉よりもその青年に声を掛けた。

 十番館では「京ちゃん」で通っている京吉という二十三の青年だった。

 京吉はどこのホールでも、チケットなしで踊れた。

 天才的にダンスが巧いのだ。ダンス教師も京吉のステップを見ていると、自分が情なくなるくらいだった。京吉の相手をしたダンサーは、慾も得も商売気も、そして憂さも忘れて──いや自分を見失ってしまうくらい、うっとりと甘くしびれるのだった。

「バンドがよくって、好きな曲で、リードの素晴らッしく巧い奴と踊ってると、よっぽど生理的にいやな奴でない限り、ふっと、こいつに口説かれてみたい──と思うことがあるわ」

 と、浮気なダンサーが言っているが、身持ちの固いダンサーでも、ダンスの三昧境へ巧みにリードされて行くと、ふっと相手に身を任しているような錯覚に、ゆすぶられることもあるという。

 ダンスの持っている強烈な、──殆んど生理的なリズムにまで燃える魅力の一つであろうか。

 京吉はそんな魅力を持っている少数の一人だった。

 おまけに、美貌だ。

 二十三歳だが、十代に見えるくらい、一見無邪気な可愛いい顔立ちで、ほっそりと痩せた横顔の青白さは、まるで胸を病む少女のようにいじらしく、ふと女たちにはやるせなかった。が、美しい眉に翳るニヒルな表情や、睫毛の長い眼のまわりの頽廃的な黝ぐろい隈や、キッと結んだ唇の端にちらと泛ぶ皮肉な皺は、何かヒヤリとした苦味のアクセントを、京吉の顔に冷たく走らせて、ふと三十男のようであった。

 ハンサムという言葉では、当らない。いわば、女たちをうっとりさせると同時に、ぞっとした寒気を感じさせる美貌だ。

 だから、みんな京吉と踊りたがった。

「チケットを倍にして返すから、あたしと踊ってよ。ねえ、京ちゃん、明日来て、あたしと踊ってよ」

 と、頼む女もあった。京吉となら、チケットを貰うのが済まないというのであろう。

 その京吉と、茉莉は今夜踊っていたのだ。

 ──と、陽子は思い出して、

「どうしたの、一体……」

 と、せきこんで、たずねた。

「う……?」

 京吉はちらと陽子の顔を見た。

「あんた、茉莉と……」

 踊ってたんでしょう──と、あとは眼できいたが、京吉は答えず、不機嫌な唇を結んで、キョトンとした眼で、茉莉を見下ろしていた。

 繋ぎ提灯の、ピンク、ブルウ、レモンエローの灯りが、ホールの中を染めていた。

 が、茉莉の顔はその色に染まりながら、いや、そのために一層、みるみる蝋色の不気味さに変って行くのが、判るようだった。

 苦しそうだ……。



 口からふき出している泡の間から、だらんと垂れた舌の先が見え、──茉莉はかすかに唸っていた。

 バンドは間抜けた調子で、誰も踊っていないホールへ相変らずクンパルシータの曲を送っていたので、茉莉のうめき声は、ともすればその音に消されたが、苦しそうにうめいていることだけは、さすがに風のように陽子の耳には判った。

「あ、いけない!」

 茉莉のうめき声は、いのちの最後の苦しみを絞り出しているのかもしれない──といういやな予感に、陽子はどきんとして、

「──お医者を……」

 呼びに早くボーイを……と、あわてて振り向いた途端、木崎の姿が眼にはいった。

 木崎は相変らず階段の真中に突っ立っていた。

 十番館ははじめ進駐軍専用のキャバレエとしてつくられたので、シャンデリア代りに祇園趣味の繋ぎ提灯をつり、階段は御殿風に朱塗りだった。

 ことに正面の階段は、幅がだだっ広く、ぐっとホールの中へ朱の色を突き出して、まるで歌舞伎の舞台のようであった。

 そんな階段の真中に、役者のように立っているのは、いい加減照れそうなものだのに、木崎は照れもせず、カメラを覗いていた。

「あ、また……」

 うつされるのかと、陽子は思わず顔をそむけたが、しかし、レンズの焦点は倒れている茉莉の体へ向けられていた。

 ホールの真中でダンサーが倒れたところで、きのうきょうの世相がうみ出している数々の生々しい事件にくらべれば、大した異色があるわけではない。が、「ホール風景」というグラフの取材としてねらえば、めったに出くわせる構図ではない──という職業意識に燃えて、木崎はあわててカメラにしがみついていたのだった。

 一つには、そんな場面をうつすことで、無意識のうちに、なぜか自虐的な、そして反撥的な快感があった。が、その理由は木崎自身にもよく判らない。

 いつもは事務室にいる十番館のマネージャーは、たまたまその夜新しく雇い入れたバンドの演奏ぶりを見ようとして、ホールの中へ来ていたので、階段の木崎を見た途端、木崎が何をうつそうとするのか、すぐ判った。

「あ、困りますよ。こんなところを……」

 うつされては……と、とめようとしたが、木崎は無我夢中でシャッターを切ると、ソワソワと階段を降り、何か憑かれたような大股でホールを横切って、姿を消してしまった。

 あっという間もなかった。陽子もマネージャーも木崎を呼びとめる間もなかった。

 いや、あっという間といえば、すべては一瞬の出来事だった。

 その証拠に、茉莉の体がやがてボーイたちの手で事務室のソファの上へ、運び移された時は、まだクンパルシータの一曲は済んでいなかった。



 クンパルシータの曲が終ると、ひとびとははじめて踊りを思い出し、ホールの騒ぎも冷淡に収まって行った。

 マネージャーはすかさず、タンゴバンドをスウィングバンドに取り替えた。熱演のタンゴバンドには十分満足していたが、ホールの気分を変えるためだった。

 そして、茉莉の体を気づかって、事務室までついて来たダンサー達を、

「ホールだ、ホールだ。お客様が待ってる、何をボヤボヤしてるんだ。踊った、踊った」

 と、ホールへ追いやった。

「でも、せめてお医者様が……」

 来るまで、陽子は茉莉の傍についていたかった。茉莉とは一番親しかったのだ。が、

「大丈夫。心配はいらん。茉莉は事務所の者が見ている」

 と、言われると、もはや陽子はマネージャーの言葉にはさからえなかった。

「京ちゃん、君も行って、踊ったらどうかね」

「おれか。冗談言うねえ」

 と、京吉は茉莉の蝋ざめた顔を見ながら、マネージャーに言った。

「──病人と踊れるもんか。──といって、ほかのダンサーとじゃ、茉莉にわるいや。今夜はおれ、茉莉に借り切られてるんだから」

 その言葉を、陽子は背中で聴くと、

「……? 茉莉があんたを……?」

 と、振り向いて、京吉の傍へ添って行こうとしたが、しかし、事務室では詳しい話は聴けない。それに、マネージャーの眼がせき立てている。

 陽子は眼まぜで誘って、京吉を事務所の外へ連れ出すと、

「茉莉があんたを借り切るって、一体何のこと……?」

 と、京吉の長い睫毛の横顔を覗きこんだ。

「昨日の昼間、おれ京極で、ひょっくり茉莉と会ったんだよ。茉莉ベソをかいてやがったから、だらしがねえぞ、ゴムまりが泣くぞ。こう言ってやると、奴さん、いきなりおれの手を掴んで、──おれ、照れたよ。京極の真中だろう……?」

「ふーン。で……?」

「京ちゃん、明日あたいと踊ってくれ、明日だけは誰とも踊らずに、一晩中あたい一人と踊ってくれ──と言うんだ。じゃ、踊ってやらア。その代り、明日、おれ茉莉ンで泊めてくれるかい。──うん、泊めてあげるッてんで、借り切られたんだよ」

「あんた、茉莉が好きなの……?」

「好きでもきらいでもないよ。好きな女は一人だけいるが、口がくさっても言えない」

 京吉はふと赧くなった。陽子も耳を赧くして、

「じゃ、どうして茉莉の所で泊るの……?」

「だって、今日──つまり昨日の明日の今日は土曜日だろう。おれは土曜の晩は泊る所がねえんだよ」

「あらッ、どうして……? 土曜日の晩……」

 茉莉のことを訊こうとしているうちに、いつか京吉のことを訊いている自分の好奇心を、陽子はわれながら、はしたないと思った。



「土曜日の晩は、ママの旦那が来るんだよ。だから……」

 京吉はまるで他人事のような口調で答えた。

「ママ……って、あんたの……お母さん……?」

 と、陽子がきいた。京吉は急に笑い出した。

 玄関のボーイが振り向いた。

 その視線を感じて、陽子ははじめて、立ち話の長さに気がつき、

「ハバハバ行きましょう」

 と、小声で誘って、ドレスの裾を持った。

「おれ、お袋なんかねえよ」

 と、京吉もロビイを横切って、

「──おれのいる家の女のことだよ。みんな、ママ、ママと呼んでるから……」

 おれもそう呼ぶんだ──というその言葉は、しかし、半分は聴きとれなかった。

 バンドの騒音が、ホールの入口に近づいた二人の耳に、いきなりかぶさって来たのである。

「ママお二号さんなの……?」

「うん。旦那は土曜だけ来るんだ。おれ居候みたいだろう。だから、旦那に見つからない方がいいんだ」

 京吉は聴えるように、ぐっと体を近づけていたが、ホールの中へはいると、陽子は何思ったのか、いきなり京吉からはなれて、

「あんた、じゃ、ママの燕……? いやねえ」

 不潔だわ──と、顔をそむけた拍子に、ホールの奥の朱塗りの階段が、いつもより毒々しい色で眼に来た。

 ふと、カメラを持っていた木崎のことが、頭をかすめた。陽子の眉は急に翳った。

「えっ……?」

 丁度演奏台の傍をすり抜けている時だったので、京吉には聴えなかったらしい。

「聴えなかったらいいわ」

 顔を見ずに、陽子は疳高く言った。

「燕だというんだろう……? まさか。ママは丙午だよ。大年増だよ」

 と、京吉は二十三歳に似合わぬませた口を利いた。

「いいじゃないの。どうせ年上ならいっそ……」

「二十違っても……? あはは……。まるで怪奇映画だ。おれの趣味じゃないよ」

「どうだか……」

「どうして、そんなにこだわるんだ」

 京吉は陽子の顔を覗きこんだ。

 凛とした気品に冴え返った、ダンサーにあるまじい仮面のような冷やかな顔が、提灯のピンクの灯りに染められて、ふと臈たけたなまめかしさがあった。

「だって、不潔じゃないの。燕だなんて。もし燕だったら、断然絶交よ」

「じゃ、燕でなかったら、おれを泊めてくれる……?」

 京吉はだしぬけにそう言った。

「えっ……?」

 商売柄、口説かれることには馴れていたから、口説かれて、腹の立つことはあっても、もはや驚くことだけはしなくなっている筈の陽子だったが、思わず立ちすくんだ。

 ──とは、一体どうしたことであろう。

 その時、一人の男が椅子に掛けたまま遠くから陽子に会釈した。



 会釈したのは、乗竹侯爵の次男坊の、春隆という三十前後の青年だった。

「ねえ、泊めてくれる……?」

 と、京吉が二十三歳の顔に、十代の無邪気な表情を浮べながら、くりかえす言葉をききながら、陽子は春隆に会釈をかえした。

 乗竹春隆は「乗竹」をもじった「首ったけ」侯爵という綽名をつけられていて、十番館の定連だった。

 十番館には、戦争犯罪容疑者として収容される前夜、青酸加里で自殺した遠衛公爵の三男坊が憂さばらしか、それとも元来享楽的なのか、時どき踊りに来るほか、数名の華族のいわゆる若様が顔を見せて、ある際物雑誌にその行状記を素ッ破抜かれた。

 春隆もその槍玉に挙げられた一人だが、もともと鈍感なのか、大して参りもせず、むろんその雑誌の買い占めに走りまわったりせず、そんな金があればと、せっせとチケットを買って、十番館へ通っていた。

 一つには、そんなことぐらいで謹慎するには、この「首ったけ」侯爵は余りにも陽子に首ったけであった。

 彼は十番館以外のホールへは行かず、また、十番館では、陽子以外のダンサーとは踊らず、陽子が他の男と踊っている時は、大人しく一つ椅子に腰を掛けて、いつまでも同じ姿勢のまま、陽子の体があくまで待っているのだった。

 今夜も茉莉が倒れたどさくさのあとへ来てみると、陽子の姿が見当らぬので、眼だけキョロキョロ動かせていたところだったらしい。

 そして、やっと見つかって、いそいそと会釈したのだが、陽子が京吉と話をしているので、椅子を立つまでは、もう一本葉巻を吸わなくてはなるまい──という彼らしいエティケットで諦めた。

 しかし、京吉にはそんなエティケットの持ち合わせは、耳かきですくう程もなかった。

「ねえ。泊めてくれよ」

「…………」

「今夜……。いけない……?」

「呆れたッ!」

 と、言葉だけでなく、本当に陽子は呆れて、

「──どうしてあんたを泊めなくっちゃならないの……?」

「だって、土曜の晩という奴は、たいていの女は差し障りがあるんだよ。ママみたいに……。茉莉と陽子ぐらいだよ。土曜でも清潔なのは……」

「だって、あんた茉莉に借り切られてるんでしょう」

「だから、茉莉に万一のことがあった時の話さ。死んじゃったりしたら、おれ今夜泊る所が……。おれ、茉莉が死んじゃうような気が……」

「する……? あんたもそんな気がするの……?」

 陽子は急に心配になって来て、

「──あ、そうだ。こんな話してないで、あんた事務所へ行って来てよ。お医者が来てるかどうか。ハバハバ行って見て来てよ」

 そして、ホールを出て行った京吉の後姿を見送って振り向くと、眼の前に春隆が立っていた。



 陽子は右の手のハンカチを左手に移して、

「…………」

 春隆が差し伸べた手を握った。

 それが春隆への、いや、自分に通って来るすべての客に対する、陽子のいつもの挨拶であった。

 蓮ッ葉なダンサーのように、

「あーら。来たの」

 と、いきなり飛びついて行ったり、ペラペラと喋ったり──そんなことは自尊心がさせなかった。ことに、東京の家を飛び出して、京都へ来た足でホールへはいった当座は、鉛のようにつんとしていた。貴婦人みたいに冷やかであった。美貌で品が良かったから、それがかえって魅力だと惹かれる客もあったが、たかがダンサーじゃないか、生意気なと、この頃は戦前にくらべると、ホールの柄も落ちていた。ダンサーの粒もまず気位からして下っていた。客を怒らせてはとマネージャーや先輩のダンサーが注意したくらいだった。

「じゃ、あたしよすわ」

 注意されると、令嬢気質がいきなり頭をもたげかけたが、よしてしまっては生きる辛さに負けるようなものだと、やっと自分をおさえた。それに女ひとりでそれくらい新円のはいる商売は、もっと身を堕すか自分を汚すよりほかには、なさそうだ──と思い直しているうちに、少しはホールの雰囲気に馴れて、せめて握手ぐらいは出来るようになったのだ。

 柄が落ちても、さすがにホールといえば、ほかの場所よりも客はきざっぽく気取りたがる。だから握手のきざっぽさもホールでは案外自然だ。

「──しかし、握手が素直な色気になっているのは、このダンサーぐらいだな」

 と、春隆はお茶を引いているダンサーの横をすり抜けて、陽子をホールの真中へ連れて行きながら、思った。

 容姿だけがそう思わせるのではない。昨夜誰かと泊った手で握手されるのは、むしろ頽廃めくが、陽子だけはその踊りっぷりのように固そうだった。

 曲はアロング・ザ・ナバホ・トレール。

 アメリカ西部大陸の滅び行くラテン系移民ナバホの郷愁が、涯しない草原の夜のとばりをさまようかのようなこの曲は、駒の響きを想わせる低音部のくりかえしが印象的で、ふと日本人のセンチメンタリズムをゆすぶるのだったが、陽子は粘って踊るほど柔くなかった。

 ターンの時、相手の膝を自分の両股にぐっとはさんで廻るような技巧も用いず、それが陽子を処女らしく見せていた。

 いや、京吉が土曜日すら清潔だと勘でかぎつけていたように、春隆──この乗竹侯爵の次男坊も、背中へ廻した手の感触で、この女はまだ一度も体を濡らしたことはないと、改めて直感すると、

「今夜こそこの女をどこかへ連れて行って……」

 という想いに心も弾むのだった。

 ついて来ればあとは自信はあるが、果してついて来るかどうか。いや、もしおれがとって置きの一言を言えば、もうおれの誘いを断り切れまい! その一言、春隆はいきなり言った。

「君、学習院の女学部だろう。そうじゃない……?」

「えッ……? はあ、いいえ……」

 狼狽して、ターンした途端に、ホールの入口に佇んでいる京吉の姿が陽子の眼にはいった。陽子はどきんとした。



 丁度その時、上海帰りのルミというダンサーが、自分と踊っていた闇ブローカーの浜田のでっぷり肥えた背中が、陽子につき当ったので、

「阿呆! シミイダンスの尻ばっかし振ってるさかい、衝突するねンし。プロ!」

 プロちゃんで通っている浜田を、すれっからしの口で叱り飛ばしたが、その言葉は陽子の耳にははいらなかった。

 それどころではなかった。春隆の思いがけない一言! そして京吉の顔色!

 陽子は思わず京吉の立っているホールの入口の方へ、気を取られたが、春隆は急にまたターンしたので途端に見えなくなった。

 春隆はやはり陽子が狼狽したのをみると、

「もうこの女はおれのものになったも同然だ」

 という想いのズボンを、陽子の裾にさっと斬り込ませながら、鮮やかにターンして、

「君は、中瀬古さんのお嬢さんでしょう……?」

「違います」

「いや、隠してもだめです。妹の卒業アルバムで、僕は君の写真を見ましたよ」

「…………」

「学習院で妹と同じクラスだったそうですね」

「たぶん、他人の……」

「……空似だなんて、随分君らしくもないエスプリのない科白ですね。どうして君は……」

 と、またくるりと廻って、

「──そんなに隠すんです。もっとも僕が新聞記者なら、隠す必要はあるかも知れない。君のお父さんはとにかく政界の第一人者ですからね。その中瀬古鉱三の令嬢が十番館のダン……」

「誰にもおっしゃらないで! お願いです」

「じゃ、やっぱし……」

 そうだったのかと、春隆のトロンと濁った眼は急に輝いた。そして、何思ったのか、

「──僕あした東京へ行きます」

 ぽつりと、連絡のない言葉を言って、陽子の耳を見た。

 いい形の耳だ! 春隆は耳の形の悪い女には、魅力を感じない男だった。

「東京へ……?」

 何をしに行くのか、このことを誰かに喋りに行くのか──という眼で、陽子は見たが、春隆はわざとそれには答えず、

「当分会えませんね。一度ゆっくりこのことで語りもし、相談相手にもなろうと思ったんですがね。まず今夜しか機会はなさそうですね」

 その時、アロング・ザ・ナバホ・トレールの曲が終った。春隆は早口に畳みかけて、

「──今夜はしかし僕田村へ行ってます。木屋町四条下ル。田村と赤い提灯が出ている料理屋です。ホールが引けたら、いらっしゃい」

 きっと待っていますよと、言ったかと思うと、返辞も待たず、あっという間にホールを出て行った。

 陽子は京吉の傍へ人ごみを抜けて行った。

「茉莉は……? お医者様来た……?」

「来た。来たけど……」

 京吉は急にわざとらしい京都訛りになって、

「来たけんど、手おくれどすわ」

「じゃ、茉莉やっぱし……?」

「青酸加里! 茉莉ばかだなア!」



 陽子はボロボロ涙を落しながら、事務室へかけつけた。

 うるんだ視線に、白い布がぼうっとかすんで、しかし、なまなましく映った。

 その布の下に、茉莉の蝋色の顔があった。

 近づいてみると、薄い上唇の真中に、剥げ残った口紅が暗い赤さに乾いていた。唇のまわりには、うぶ毛が濃かった。

 それが、顔を剃る気にもなれなかった茉莉の、昨日今日の悩みをふと物語っているように思われて、また涙をそそり、陽子はいつまでも放心したように佇んでいたが、やがて、ふとわれにかえると、隣の部屋で警官に調べられているらしい京吉の声が聴えて来た。

「……クンパルシータを踊ってたんです。すると茉莉が、京ちゃんのリードでクンパルシータで死ねたら本望だわと言ったので、なぜだいとききましたが、だまってました。するうちに、茉莉の顔色が急に変ったかと思うと、真青になってぱったり倒れたんです」

「何か口の中へ入れる所は見なかったか」

「入れる所は見なかったけど、何だかモグモグしていたようです。茉莉はチュウインガムをしゃぶったり、仁丹をたべたりしないと、口がさびしいというダンサーでしたから、おかしいとは思わなかったけど、今から思うと……」

 踊る前から、青酸加里のはいったカプセルを口の中に入れて置いて、噛みきったのか。

 やがて警官は、京吉に茉莉との関係をきいたが、何でもない仲だと判ると、二三人の事務所関係の者につづいて陽子にも訊問した。

「茉莉は何でもあたしに打ち明けていましたが、死ぬような事情なぞききませんでしたわ。茉莉に死ぬような悩みがあったのでしょうか」

 陽子は逆に質問した。

 稼ぎ高は多かったから、生活苦でもない。男との立ち入った関係も、噂に上るようなものはなさそうだ。

 警官が要領を得ずに引きあげて行くと、やがてラストのグッドナイトの曲が聴えて来た。

 京吉は陽子を事務所の隅へ連れて行った。

「おれとうとう泊る所がなくなったよ。今夜泊めてくれよ」

「だめよ。あんた今夜茉莉に借り切られてるんでしょう。お通夜してあげなくちゃ……。お通夜すれば、茉莉のアパートに泊れるわよ」

「それもそうだな。じゃ、そうしよう。その代り、こんどの土曜日泊めてくれるだろう。ねえ、おれ泊る所がねえんだよ。ねえ」

 子供が駄々をこねているようだった。陽子は微笑しながら、あいまいにうなずいた。

「お通夜、おれ一人じゃ心細いや。陽子もお通夜に行くんだろう……?」

「ええ。でも、あたし、ちょっと遅れるかも知れなくってよ」

「どっかへ行くのかい」

「田村」

「田村……? まさか木屋町の田村では……」

「木屋町よ」

「行っちゃいけない、田村はよせ。行くな!」

 京吉はいきなり叫んだ。


十一


 行くなと言われると、陽子はもう天邪鬼な女だった。理由はきかず、命令的な京吉の調子だけが、ぐっと自尊心に来て、

「あんた、あたしに命令する権利、耳かきですくう程もないわよ」

 迷っていたのが、この一言できまってしまい、声も言葉づかいも、もうダンサーではなかった。

「じゃ勝手にしろ!」

 と、京吉も唇を噛んだが、わざとひとり言めいて、

「──しかし、陽子も田村へ出入りするようになったのか」

「お料理屋へ行くのがいけないの……?」

 校長が女教員を説教するような口きかないでよ……と、皮肉ると、京吉も口は達者で、

「うぶな女教員は、田村をただの料理屋と思ってるから可愛いいよ。──もっとも料理は出るがね。何でも出る。ボラれて足も出る。枕も二つ出る。寝巻も二つ出る。出るに出られん籠の鳥さ。ただの待合とは違うんだ」

「へえん……? よく知ってるわね」

 はっとする所を、わざと露悪的に言った。

「そりゃ、知ってるさ。だって、おれ……」

 田村で寝起きしているのだ。田村のママの居候だからね──と言おうとしたが、さすがにそれは言いだしかねて、

「──それより、田村の帰り、お通夜には来ない方がいいぜ。仏がよごれるからな」

「それ、どういう……?」

 意味かも考えても、すぐにはぴったり来ないほど、陽子は何も知らぬ娘だったが、

「──あ、あんた、あたしが誘惑されると思ってるのね。失礼だわ。まさか……」

 と、これは半分自分に言いきかせて、二階の脱衣室へ上って行った。そして、イヴニングを腰まで落して、素早くシュミーズに手を通していると、ラストの曲も終ったのか、ガヤガヤとダンサーがよって来た。

 土曜日は、ダンサーの足も火のようにほてる。それほど疲れるのだが、しかし、大声で話ができるのはこの部屋だけだ。ことに今夜は茉莉の事件もある。シュミーズを頭にかぶったまま、喋っているダンサーもいた。

 しかし、陽子はいつものように黙っていた。澄ましてるよと、言われてから、一層仲間入りをしなくなっていた。

 黙々とコバルト色の無地のワンピースを着て、衿のボタン代りに丸紐をボウ(蝶結び)に結んでいると、上海帰りのルミが、

「殺生やわ、ほんまに……」と、遅れて上って来て、ペラペラひとり喋った。

「──今夜はパトロン、あしたは二時まで寝たる積りやのに、マネージャーの使いか。茉莉が倒れたとこ写した男いたんやテなア。朝のうちにその写真貰って来い、発表されたら困る、ルミの心臓で行って来てくれ。ダンサーを使うのん屁とも思てへん。マネージャーの方がよっぽど心臓や」

 陽子は何思ったのか、ルミの傍へ寄って行って、

「あたし、代りにあした行ってあげてもいいわよ」

 と、ルミがマネージャーの机から貰って来た木崎の名刺を、覗きこんだ。



夜光時計



 三条河原町の元京宝劇場は、占領軍専用の映画が掛り土曜日の夜はジープとトラックが並んだ。

 木崎が十番館を出て河原町通りまで来た時は、丁度その劇場のハネで、夜空に点滅する──

「KYOTO THEATRE」

 のピンクの電飾文字のまわりを囲って、ぐるぐる廻る橙色の点滅燈のテンポが、にわかにいきいきとして、劇場から溢れでる米兵の足も速かったが、木崎の足はソワソワと速かった。

 昂奮していたのだ。なぜだろう……。

 レンズが肉体に化した木崎の写真は、印画紙からニヒリズムの体臭が漂うくらい、個性が強く、彼のねらう構図にはつねに夜が感じられて、ふとデカダンめいたが、今夜の陽子と茉莉の写真も「夜のポーズ」という彼の好みのテエマにふさわしかった。

 しかし、美しい陽子をわざと最も醜いポーズで撮り、茉莉の倒れた姿に醜悪なポーズを見出したのは、単なる好みだけだろうか。ほかの場所では、それほどまでにしなかった筈だ。

 つまりは、彼のホールぎらいのせいだ。それというのも、亡妻がダンサーだったからである。

 亡妻の名は八重子といった。

 学生の頃の木崎が八重子と知り合った時は、しかし八重子はもうダンサーではなく、阪神間のあるホテルの受付で働いていた。

 四年の長い恋愛ののち結婚した木崎はダンスは出来ず、彼女もダンスレコードは集めたが、踊りたがらなかった。二年たって、八重子は軽い肺炎に罹り、南紀の白浜温泉に出養生した。ある日、彼が見舞いに行くと、八重子は旅館のホールで見知らぬ男と踊っていた。クンパルシータだった。咳をしながら、しかしうっとりと踊っていた。

 はじめて妻のダンスを、しかも、自分以外の男に抱かれて踊っている姿を見た途端、木崎はダンサー時代の妻が、毎夜抱かれて踊った男の数を考えて茫然とした。結婚前に既にホールの客と二三の関係があった、という打ち明け話も、にわかに思い出されて、なまなましい嫉妬が、今更のように感覚的に甦った。

 木崎はもはや、妻の過去に寛大な夫ではなくなり、嫉妬に背を焼かれてデカダンスに陥った。

 そして、この嫉妬の火は、一昨年八重子が死んでしまっても、消えてしまわず、十番館へ来てはじめて陽子を見た途端、再び燃え上った。

 陽子は、死んだ八重子に似ていたのだ。だから、陽子を撮ろうときめて、陽子の美しさを追うたのだが、旅館のホールで八重子の姿態を醜いとしか見られなかった木崎の、嫉妬の眼は、陽子の美しさに反撥して、どんなポーズも男にひきずられる女の本能の、あわれな醜さに見え、空しく三日通ったあげく、

「よしッ! こうなったら、もうあの女の一番いやらしいポーズを、撮ってやれ!」

 そんな自虐の快感に燃えて、シャッターを切った途端、茉莉が……。

 倒れたその姿に投げたのは、ホールへの諷刺だ。歪んだ昂奮に青ざめて、やがて木崎は四条通りを円山公園の方へ、歩いて行った。

 そして、祇園の石段を登って行くと、暗闇の中から、いきなり若い娘が飛び出して来た。



「おっちゃん、煙草の火貸してんか」

 ドスンドスンと歩いていた木崎の前に、娘はバスガールのように足をひらいて、傲然と立ちはだかった。

 声も若かったが、木崎がライターの火をつけると、まだ大人になり切らない娘の顔が、ぱっと白く浮び上り、十七か八であろう。

 しかし、娘は三十芸者のように、器用に火をつけて、

「おっちゃん、どこまで行きはるのン……?」

 と、きいて、アパートへ帰るんだ──という返辞もまたず、煙をふきだしながら、ついて来た。

「まだ、何か用か……?」

「夜道は物騒やさかい、そこまで送って行ってくれたかテ、かめへんやろ」

「そこまでって、どこまでだ……?」

「おっちゃんは……?」

「清閑寺の方だ」

「うちもその辺や」

「嘘をつけ!」

 と言おうとしたが、木崎はだまって娘と肩を並べて円山公園を抜けると、高台寺の方へ折れて行った。

 三条大橋、四条大橋、円山公園に佇む女は殆んどいかがわしい女ばかりだ──と、噂にもきき、目撃もして来たから、すぐにそれと直感したが、しかし、ふと、そうとも決め切ってしまえない感じが、その娘のどこかにあったせいだろうか。

 若すぎるから……ではなかった。十七や八はざらだった。そして、そんな年頃の、いかがわしい女は、若さの持ついやらしさがベタベタとぬった白粉や口紅を、不潔に見せていたが、この娘の白粉気のない清潔な皮膚には、遠いノスタルジアがあった。

 紫の御所車のはいった白地の浴衣に、紫の兵児帯──不良少女じみて煙草を吸っていても、何か中学時代のハーモニカの音を想わせた。

 ──といって、興味は感じなかった。ただ、帰れといわぬだけ、──いや、何一つ口を利かずに、ついて来るのに任せて、やがて、高台寺の道を清水の参詣道へ折れ、くねくねと曲って登って行くと、音羽山が真近に迫り、清閑荘というアパートが、森の中にぽつりと建っていた。

 門燈の鈍い灯りのまわりに、しんとした寂けさが暈のように渦を巻いていて、にわかに夜の更けた感じだ。

 木崎は遠くから指して、

「あそこだ、おれのアパートは……」

 と、はじめて口を利いた。

「──君の家はどこだ。まさか、あの山の中でもないだろう。帰れ!」

「そんなン殺生や。こんなとこから……」

「怖くて帰れんのか。ついて来るのがわるいんだ。幽霊は出んから、走って帰れ!」

「おっちゃん、アパートでひとり……?」

 うんと、不興気にうなずくと、娘はいきなり、

「ほな、うちも泊めて。──いや……?」

 と、木崎の顔を覗き込んだ。汗くさい髪の毛がにおいと一緒に、木崎の鼻にふれた。



「いやだ!」

「そんなこと言わんと、泊めて!」

「…………」

「うち、帰るとこあれへんねン」

「どうしてだ……?」

「うち、家出してん」

「ふーん、なぜそんな莫迦なことをしたんだ」

「…………」

「帰るところはなくっても、泊るところはあるだろう。宿屋で泊ればいい」

「うち、泊るお金あれへん」

 そこは藪の中で、蚊が多く、立ち話しているうちに、木崎は神経がいらいらして来たので、いきなり十円札を三枚つかみ出すと、

「じゃ、これをやるから宿屋で泊れ!」

 娘の手に渡して、やっぱりただの夜の花だったのか──と、且つはがっかりし、且つはサバサバして、あとも見ずに清閑荘の玄関へはいって行った。

 二階の階段を上って掛りの六畳が、木崎の部屋だった。六畳の中二畳ばかり、黒いカーテンで仕切ってこしらえた現像用の暗室へ、カメラを置いて、蚊やり線香に火をつけていると、ドアを敲く音がした。あけると、さっきの娘がしょんぼりと、しかし顔だけはニイッと笑って、立っていた。

「帰らんのか」

「うん」

 ペロリと舌を出した──のを見ると、木崎は思わず噴き出しそうになって、もう追いかえせなかった。娘はいそいそとはいると、

「木崎さん、ええ写真機持ったはンねンなア」

 部屋の外に掛った木崎の名札をもう見ていたらしい。それには答えず、

「君は大阪だろう」

 木崎も大阪人だけに、娘の言葉のなまりがなつかしかった。

「うん。焼けてん」

 娘は暗室のカーテンへ素早い視線を送っていた。

「お父さんは……?」

「監獄……。未決に……」

 はいっているのだと、ケロリとした顔で言ったが、ふと声を弾ませると、

「──未決にはいっていると、金が要るねン。差入れせんならんし、看守にもつかまさんならンし、……それに、弁護士は金持って行かなんだら、もの言うてくれへん」

 そんな心配を、この娘がしているのかと、驚いて、母親はあるのかときくと、いきなり、

「お母ちゃん、きらいや」

 と、その言葉のはげしさはなお意外で、ピリピリと動く痩せた眉のあたりを見ていると、

「──あんな妾根性の女きらいや。男ばっかし……」

 こしらえているようだった。が、木崎はそれ以上きく興味もなく、

「もう寝ろ!」

 と、押入れから蒲団を引き出した。

 娘は急に固い表情になって、木崎の動作を見つめていた。



 その固い表情に、木崎はふと女を感じながら、夜具を敷こうとすると、娘ははっとしたように飛び上って、部屋の隅へ後ろ向きに立った。

 六畳のうち、二畳は暗室に使っているので、狭い。だから、夜具を敷く邪魔にならぬように起ち上って隅の方へ寄った──という風に考える方が自然だろうが、やはり飛び上ったと感じたのは、木崎の思いすごしだろうか。

「家出してから、どのくらいになるんだ」

 木崎はふときいてみた。

「十日!」

 背中で答えた娘の、腰のふくらみへ、木崎はふと眼をやって、あわてて外らした。

 浴衣に兵児帯という姿に、淡いノスタルジアを抱いたとはいうものの、胴をきゅっと細く緊めているせいか、一層まるみを帯びて見えた娘の腰に、木崎はその娘の十日間のくらしを想った。暗がりで借りる煙草の火。しかし、それは木崎の好色の眼ではなかった。むしろ、痛々しさと反撥を感じていたのだ。

 外科手術台の女の姿態を連想したのだ。寝床、外科手術、若い女の裸身。痛々しさの感覚!

 好んで外科手術を受ける女はなかろう。が、それを受けるのが病人の、いや女の悲しい運命だ。手術台に横たわった女のあきらめ! 強いられた自己放棄! 失神状態! 手術者へすがりつく本能、不安! そして、憎悪と恨み……。自虐の快感!

 目出たいと騒ぐ初夜の儀式は、メスの祭典だ。唯の祭典ではない。手術のメス! 女の生理の宿命的な哀れさは、木崎にはつねに痛々しかった。それというのも、亡妻の八重子への嫉妬が、女の生理に対する木崎の考え方を変えてしまったからではなかろうか。

 八重子は木崎と結婚する前に、二三の男と関係があった。が、それは八重子が進んで求めたのだとは考えられず、ダンサーという職業の周囲に張りめぐらされたワナに、弱気な八重子がひっ掛って、のっぴきならなくなったのだ──という風に木崎は思いたかったのだ。

 八重子はその頃十八か九だったという。相手の男は市井無頼の不良の徒であった。十八か九の何も知らぬ小娘と不良少年、何という残酷さだ!

 木崎が外科手術を連想したのも、一つにはその男たちへの得体の知れぬ憎悪からであったろう。しかも、八重子が逃れようと思いながら、いつかその男たちの体の魅力にひきずられて行ったと考えると、女の生理の脆さに対する木崎のあわれみは、殆んどいきどおりに近いまでに高まったのだ。

 あわれみと反撥──その振幅の間には中間はなかった。いわば木崎は誇張的にしか女の肉体が考えられなかったのだ。しかし、嫉妬とはつねに誇張に歪んだ情熱だ。

 木崎がその小娘に感じたもの、やはりそれだった。ここに女の肉体がある! 木崎はいじらしいばかりに痩せた娘の肩と、ふっくりした腰を交互に見ているうちに、いらいらして来て、いきなり声を掛けた。

「おい!」



「何……?」

 と、振り向いたが、木崎はとっさに言葉が出なかった。

 何のために声をかけたのか、まるで自分にも判らず、やっと、

「君は何という名だ……?」

 と、きいた木崎の声はなぜか乾いていた。

「うち、チマ子や。うふふ……。けったいな名やろ……?」

 クスクスと無邪気に笑っていたが、ふと敷かれた夜具を見ると、

「──お蒲団一つしかないの……?」

「枕も一つだ。大阪で罹災したから、これだけだ」

「うち、眠とうなった。ここへ横になったかテかめへん……?」

 兵児帯のまま腹ばいになって、夜具の裾の方に投げ出してあったハンドバッグを、素足の先につまんで、ひょいと肩越しに枕元へほうり上げ、その中から煙草を取り出すと、

「火貸してちょう……。あ、これで点けるわ」

 蚊やり線香の火で、はすっぱに吸いはじめたが、いきなり仰のけになると、じっと天井を見つめていた。

 眼がピカピカ光っていた。そして、暫く化石したように動かなかった。が、全身で木崎を意識しているようだった。眼かくしをされ、麻酔薬をかがされても、メス皿にカチリと触れる音はかすかに聴いている患者のように。

「何を考えてるんだ。──灰が……」

 落ちるよと、木崎はつとにじり寄りながら、自分の血管の中で凶暴な男の血が脈を打っていることを、はじめて意識した。

 あわれんでいるものを、逆に残酷に苛めたいという得体の知れぬ衝動だろうか、それとも、反撥し、嫌悪しているものに逆に惹かれるという自虐作用であろうか。

 人は崇高な気持で愛しているものにも、ふと昆虫のような本能で挑むことがある。まして、チマ子はきのうきょう巷の夜にうごめいているいかがわしい女の、あわれさと醜さを見せているのだ。

 あわれさとは手術台に横たわる宿命的な受動性!

 醜さとは、醜さを意識しない官能の脆さ、好奇心!

 しかし、このあわれさと醜さが、木崎の描く夜のポーズの主題だ。そして、そんなデカダンスの底に、亡妻への嫉妬がうずいているのだ。好色ではなかった。

 だから、何を考えてるのかときかれて、チマ子が、

「……監獄にいたはるお父さんのこと……」

 と、ぽつりと言って、ふっと深く吸い込んだ煙を輪にして吐き出しながら、その消えて行く方に放心したような視線を向けているのを見ると、木崎ははっと手をひっこめて、もうチマ子が抱けなかった。

 その時、廊下に足音がして、

「木崎さん、只今ア!」

 と、声が来た。



 声ですぐ、隣の部屋の坂野という楽師だと判った。

 ホールがひけて帰って来たのであろう。いつもより不健康に濁った声が、夜更けの時間と、肩に掛けたアコーディオンの重さをガラガラと無気力に響かせていた。

「あ、お帰り……」

 と、木崎は頓狂な声を出したが、その声も何か浅ましくふるえて、不健康であった。

 醜く昂奮していたのが判り、情なくなっていると、やがて、

「木崎さん、木崎さん!」

 ちょっと来て下さいと、再び坂野の声がして、その頓狂な声も浅ましくふるえていた。マージャンに誘う声にしては、何かあわただしく取り乱している。

 木崎はチマ子の枕元から起ち上って、キラッと光る素早い視線を背中に感じながら、

「どうかしたんですか」

 と、坂野の部屋へはいって行った。

「女房が逃げました」

 わりに上手な、しかし右肩下りの字で、置手紙があった。

「……ヒロポン中毒とは一しょに暮していけません……」云々。

 ヒロポンは鎮静催眠剤とは反対に、中枢神経を一時的に刺戟して、覚醒、昂奮させる注射薬だが、坂野はもと「漫談とアコーディオン」を売物に舞台に出ていた頃から、この味をおぼえたらしく、煙草を吸うように、ひんぱんにこの劇薬を注射していて、その量と回数は、さすがの木崎もあきれていた。木崎があきれるくらいだから、坂野の細君は、

「十本入り二十三円でしょう。それを二箱も打つ日があるんですから、たまりませんわ。ヒロポン代だけでサラリーが……」

 飛んじゃいますわと、こぼしていたが、到頭逃げてしまったらしい。──米よりもまず注射薬を買い、米は買えなかったのだ。

「畜生! ひでえアマだ。(あなたは坂野医院の看板を出して、毎日注射して幸福にくらして下さい)か。ばかにしてやがる。いや、手紙よりも、木崎さん、一寸これ見て下さい」

 細君が出しなにたたき割って行った買いだめの注射薬のアンプルのかけらを、坂野は見せ、土色の顔を一層土色にして、ふぬけていたが、やがてエヘッと笑うと、

「印籠みたいなもンでさあ」

 と、ポケットからヒロポンの箱を出して来た。

「──これだけは肌身はなさず。エヘッ……。これがないと、アコーディオンも弾けませんや。何はともあれ……」

 まず一本……と、二CC、針のあとだらけの腕に打って、ペタペタたたいた。

「僕にも打って下さい」

 坂野を慰める最上の方法はこれだと、木崎は腕を出したが、一つにはヒロポンを打って、徹夜で陽子と茉莉の写真を現像しようと思ったのだ。

「チマ子に触れないためにも……」

 現像をすることだ──と、つぶやいて、やがて木崎は部屋へ戻ってみると、チマ子はいつの間にかいなくなっていた。

 そして、暗室へはいると、そこへ置いた筈のライカが見当らず、暗がりの中でただ夜光時計の青い針が十一時二十分をひっそりと指していた。



貴族



「十一時二十分ですわ。もう……」

 時間をきかれて、貴子はむっちりと贅肉のついた白い腕を、わざと春隆の前へ差し出した。──田村の二階の一室である。

 貴子は一日に五度衣裳をかえたが、土曜日の夜は、白いショートパンツに白いワイシャツという無造作な服装になることが多かった。男の子のように色気のない服装だが、それがかえって四十女の色気になっていると、この田村の女将は計算していた。

 長襦袢の緋の色で稼げる色気の限界なぞたかが知れている──というのが、十五年前銀座の某サロンのナンバーワンだった頃から今日まで、永年男相手の水商売でもまれて来たこの女の、持論であった。

「エロチシズムよりもエキゾチシズムだわよ」

 大阪でバーを経営していた頃、貴子が女給たちに与えた訓戒である。が、女給たちはその意味が判らなかった。銀座式のハイカラさが大阪では受けるのだと思ったのは、まだいい方で、たいていは外国映画のメーキャップを模倣し、エキゾチシズムとはアイシャドウを濃くして、つけ睫毛を太くすることだと考えたので、グロテスクな効果だけ残って、失敗した。

 貴子が言ったのは、白いショートパンツに白いワイシャツの魅力であった。が、このような服装が成功するには、美貌を前提としている。幸い貴子は美貌であった。しかし、美貌だけが成功するのではない。美貌が成功するには、彼女のいわゆるエキゾチシズムが必要なのだ。男は色気たっぷりの芸者をある程度の金で縛りつけることが出来るのだ。それを自分の方に惹きつけて無制限に金をひき出させるには、もうエキゾチシズムよりないと、貴子は水商売の女の考える限界の中では、まずギリギリの知慧を働かせていた。

 そして、彼女は成功して来た。もっとも、彼女のいう成功とは、二号として、即ち日かげ者としての成功であることは、いうまでもない。

 しかし、彼女はその服装では、一つだけ失敗していた。彼女の服装が時に滑稽に見えるということに、気がつかなかったのだ。これは重大な手落ちだ。すくなくとも、春隆はそんな貴子の恰好を見て、噴き出したくなっていた。

 しかし、春隆という男に、もし取得というものがあれば、いんぎんなエティケットがわずかにそれであろう。

 春隆は噴き出す代りに、彼女の時計をほめてやることにした。ダイヤの指輪をほめるには、春隆は余りに侯爵だったし、だいいち、せっかくのショートパンツとワイシャツにダイヤはぶちこわしで、ふとパトロンのある女の虚栄のあわれさであった。──時計は型が風変りだったのだ。

「拝見!」

 時間や分秒のほかに、日付や七曜が出て来るその時計を、覗こうとすると、

「見にくいでしょう」

 貴子はにじり寄って、ぐっと体を近づけて来た。

「たしかに、見にくいですな」

 相槌を打ちながら、見にくいという言葉に「醜い」の意味を、春隆は含ませていた。



 いきなり貴子から媚態を見せつけられて、さすがに春隆は辟易していた。

 このような場合、でれりとやに下るには、春隆は若すぎた。女にかけては凄い方だったが、四十男のいやらしさも冷酷さも、まだ皮膚にはしみついていず、一応はうぶに見えていたから、なるべく自分でもうぶに見せていた。

 いわば、首ったけ侯爵などと綽名されるような、純情な甘さの中に、女たらしの押しの強さをかくしていたのだ。──大して利口ではなかったが、馬鹿ではなかった証拠である。

 しかし、その純情らしさの外面を、仮面にすぎないと言い切ってしまっては、酷であろう。計算はしていたが、しかし全くの計算ずくめではない。やはり、うぶらしく自然に照れていた。十代のように照れていた。しかし、十代とちがうところは、照れている状態の効果の損得を、損も得も心得ているという二十代の狡さだ。

 そして、春隆はその二十の最後の年齢に達していた。二十九という厄介な歳だ。

 春隆が若すぎたように、貴子は年がいきすぎていた。

 貴子がもっと若ければ、春隆もこれほどまで照れなかっただろう。姥桜という言葉の魅力も、せいぜい三十三までだ。それ以上は姥桜という言葉は、もう二十代の自尊心にかけても、一応生理的にやり切れない。

 春隆は、貴子の歳を、自分では三十二と言っているが、三十五か六だろうと見ていた。ところが、実は貴子は丙午だから、ことし四十一歳である。

 春隆の辟易もむりはなかったわけだが、しかし、すっかり辟易していたといっては、言いすぎだろう。

 辟易したような顔をしながら、春隆は時計を見ている間、じっと貴子のむっちりした腕を握っていることを、さすがに忘れなかったのだ。

 そして、貴子の胸の動悸を冷静に聴いていた──のだから、「見にくい時計ですね」という言葉に「醜い」という意味を含ませたのは、春隆にわずかに残っていた自嘲の精神だろう。

 含ませるといえば、貴子の体を胸にもたせかけるまでにはしなかったが、含みはもたせたわけだ。

 将棋でいえば、王手はせぬが、攻め味は残して置くという手! 王手を掛ける相手はやがて来るだろう。

 陽子だ。

 陽子と貴子の魅力の違いを計りながら、

「いい時計ですね」

 春隆はわざとソワソワしたように、身を引いた。貴子は何の表情もない顔をしていた。燃えるような視線が、急にケロリと冷めていた。

「この女はおれに来ている」

 という春隆のうぬぼれを、ふと錯覚にさせてしまうくらい、冷やかであった。

 いわば双方とも申し分のない態度だった。陽子を待っている春隆にとっても、階下にパトロンが待っている貴子にとっても……。

「では、ごゆっくり……」

 と、やがて貴子は出て行った。が、何思ったか急にまた引き返して来た。



 春隆はちょっとあわてた。

 貴子のショートパンツは、尻の重みに圧されて、皺をくぼませていたので、起ち上った時は腰のまるみが裸の曲線とそっくりに二つに割れて、ふと滑稽な、しかしなまなましい色気が後姿に揺れていた。

 むき出した膝から下も、むっちりと弾んで、若くから体を濡らして男の触感に磨かれて来た女の、アクを洗いとったなめらかな白さに、すくっと伸びていた。

 陽子を待ちわびている春隆には、べつに心をそそるほどの魅力でもなかったが、やはりふとその後姿に眼が注がれて、じっと見送っていたので、いきなり貴子がひきかえして来ると、さすがにあわてたのだ。

 いきなり……だが、しかし、のっそりと貴子ははいって来ると、声もしずかに、

「この次いらっしゃる時は、お一人でいらっして下さいね」

 北海道生れだが、案外訛りのすくない言葉で言って、またしずかに出て行った。

 貴子は、同時に何人もの男をつくるのは平気であったが、その代り、その埋め合せといわんばかしに、男が何人も女をつくるのには平気でおれなかった。何人も女をつくる男は不潔だと思うことが、この何人も男をつくる女の潔癖を辛うじて支えているのだろうか。

 しかし、彼女にとって幸か不幸か、この潔癖を満足させてくれるような男は、ついぞこれまで一人も現れなかった。

 すくなくとも、田村へ来る男は、一人ではめったに来なかった。表向き料理店だが、その実連れ込み専門の貸席旅館だから、女を連れずに来る男もいなかったわけだ。

 貴子は大阪で経営していたバーが焼けてしまうと、一時蘆屋の山手のしもた家で、ひそかに闇料理をしていたのだが、終戦と同時に、焼け残った京都という都会に眼をつけて、木屋町の廃業した料亭のあとを十五万円の安値で買いとった。

 そして、改造費や調度家具類に二百万円を投じて、どの部屋にも鍵つきの別室がついているという構造と、数寄を凝らした装飾、一流料理人を雇った闇料理、朝風呂、夜ぬいだワイシャツは朝までに洗いプレスするというサーヴィスで、田村の看板を出した。

 敗戦後の京都の、いかにも女の都、享楽の町らしい世相を見ぬいたこの敏感な経営法はたちまち狙いが当って、木屋町の貸席や料亭は、すっかりこの大阪の資本に圧されてしまったのを見ると、貴子の水商売への自信は増すばかりで、丙午の運の強さも想い出されたが、しかしバーの時と違って、このような田村へ来る客は、宴会を除いてはみな女づれだ。これはと眼をつけた男が、まれに一人で来たかと思えば、ダンサーを待っている。

 そう思えば、店がはやりながら、やはり寂しく、男は何人もつくり金も出来たが、打ち込んだ恋は結局ただ一度もせずに四十を越してしまった女のあせりを、わざとゆっくりした足取りで押えながら、階段を降り、自分の居間に戻って来ると浴衣がけの男が、寝そべったまま、

「おい、あの子今日はおれへんな。どないしたんや」



 いきなりそう言ったのは、この田村へ女を連れずにやって来るたった一人の男──いいかえれば、貴子が田村の改造費の二百万円を借りた木文字章三だった。

 木文字章三は、姓も変っているが、それ以上に風変りな男であった。彼は年中、

「俺は爪楊枝けずりの職人の息子だ」

 と、昂然と言っていた。

 卑賤に生れたが、それをかくそうとせず、卑屈な態度は少しもなかった。美貌だが、自分から女を口説こうとしなかった。

 彼は北浜の株屋の店員だった頃から、貴子のバーの常連だった。ある時、女給が、

「くにの母さんの病気の見舞いに行くから……」

 と、彼に旅費を無心した。彼は言われた額の二倍くれてやった。

 ところが、その女給は見合いに帰ったのだと判ったが、章三は、

「見舞いと見合いは一字違いやが、考えてみたら、えらい違いや」

 と、笑っていた。そして、その女給が縁談がまとまって、バーへ挨拶に帰って来ると、

「これ葬式の費用や」

 と、結婚の祝をくれてやった。

 しかし、その女給は半年たたぬうちに、夫婦別れして、もとのバーへ戻って来た。そして、章三をパトロンにしようとした。彼は金をやったが、手をつけようとしなかった。女は彼をホテルへ誘った。彼は別に部屋を取った。女はバーのわらい者になった。

 それが彼の三十の年だった。

 それから五年がたち、三十五歳の章三は、終戦直後の北浜に木文字商事会社の事務所を持っていた。株で四五十万円は儲けたのだろうかと、貴子が田村の改造費のことを相談に行くと、ただ一言、

「京都へ行ったら泊めてくれ」

 と、二百万円だしてくれた。

 二号になれという意味だろうと貴子は察してむろんそれは百も承知だという顔をしたが、ところが章三はその後土曜日の夜ごとにやって来ても、口説こうとしない。

 たまりかねて、到頭貴子の方からむりやりこの美貌のパトロンを口説いてしまったが、その時章三は言った。

「おれは爪楊枝けずりの職人の息子や。女には金は出すが、金で口説けへん。女の方から惚れて来よったら口説かれてやる」

 その自尊心の強さに、貴子はむっとしたが、しかしこの三十五歳の青年には、何か頭の上らぬ感じだった。

「何をッ! 爪楊枝けずりの息子が……」

 と、思うが、鋭く迫って来る剃刀の光はヒヤリと冴えすぎていた。仮面のような美しい無表情も気になる。だから、

「あの子、おれへんな。どないしたンや」

 と、いきなり言われると、どきんとして、

「あの子……?」

 京吉のことを勘づかれたのだろうか、土曜日だけは田村へ置かずによそへ泊めているのにと、ひそかに呟いていると、

「うん。チマ子のことや。チマ子は……?」



「チマ子……?」

 わざと問い返して、貴子はワイシャツをぬぎはじめた。

 章三は黙ってうなずいて、ひそめた貴子の眉に、とっさに答えられぬ表情を読み、それから裸になった上半身を見た。ワイシャツの下はシュミーズもなく、むかし子供をうんだことのある乳房が、しかし二十歳の娘のように豊かに弾んで、ふといやらしい。

 うんだのはチマ子。十六年前、貴子が銀座の某サロンで働いていた頃のことだ。その頃貴子は、文士や画家の取巻きが多く、

「明日はスタンダールで来い」

 と、言われると「赤と黒」の二色のイヴニングで現れたり、

「今日は源氏物語よ」

 と、紫の無地の着物で来たりするくらい、文学趣味にかぶれていたが、彼女がパトロンに選んだ姫宮銀造は、大阪の鉄屋でむろん文学などに縁のない男だった。その代り、金があった。貴子は銀造の子をうんだ。チマ子だ。貧しい家に生れて早くから水商売の女になった貴子は、美貌と肉体という女の二つの条件を極度に利用することを、きびしい世相に生きぬいて行く唯一の道だと考えていた。世の封建的な親達が娘の配偶者の条件に、家柄、財産、学歴を考えるのとほとんど同じ自己保存の本能から、貴子は男の条件をパトロンとしての資格で考える女だった。そして男を利用しながら、男を敵と考えて来た。

 だから、チマ子をうんでも、うまされたと考えたのだ。しかし銀造はチマ子を可愛がったから、銀造の本妻が死んだ時、そのあとへはいれたのだが、銀造は既に破産していた。沈没船引揚げ事業につぎ込んで、失敗したのだ。

 貴子に見捨てられた銀造は満州へ走り、その後消息は絶えたので、サバサバしていると、終戦になりひょっくり内地へ引揚げて来た。みるかげもなく痩せ衰えて田村を頼って来た父親を見ると、チマ子は喜ばぬ貴子の分まで喜んで、あいた部屋へ泊めた。が、ある夜銀造は貴子に挑んだ。貴子は冷酷にはねつけて田村を追い出そうとすると、銀造の方から飛び出したが、一月のちには、どんな罪を犯したのか、大阪の南署から検事局の拘置所へ送られていた。チマ子は差し入れに行った。貴子はきびしく叱りつけ、銀造を見る眼は赤の他人以上に冷たく白かった。チマ子は家出した。

 浴衣に兵児帯、着のみ着のままで何一つ持たず飛び出したのである。環境のせいか、不良じみて、放浪性も少しはある娘だったから、貴子は箱入り娘の家出ほど騒がなかったが、しかしひそかに心当りは探してみた。そして空しく十日たっている……。

 と、そんな事情をありていに章三に言ったものかどうか。貴子は素早く浴衣をひっ掛けて、

「チマ子お友達と東京よ。芸術祭とか何とかあるんでしょう。気まぐれな子だから……」

 困っちゃうわと、東京弁で早口に言うと、章三は、

「ふーん。東京ならおれも行けばよかった。──いや、用事はあれへん。ただ、あの子と行くのがたのしいんや。どや、あの子おれにくれんか」



 貴子ははっとした。

「チマ子をくれって、あなたあの子に……」

 惚れてるの──と、あとの方はあわてて冗談にしてしまった。

「阿呆ぬかせ。──しかし、あの子は面白い子や。おれの顔を見ると、いつも白い侮辱したような眼で、にらみつける。おれはああいう眼を見ると、なんぼでも、おれの財産ありったけでも、出して、おれの自由にしたい──いう気になるンや。あはは……」

 章三は三十五歳に似合わぬ豪放な笑いを笑ったが、しかしふと虚ろな響きがあり、おまけに眼だけ笑っていなかった。それが油断のならぬ感じだ。

「金さえ出せば、女はものになると……」

 思ってるのねと、貴子は浴衣の紐を結んだ。

「君のような女がいる限り、男はみなそない思うやろ。君は男と金を同じ秤ではかってる女やさかいな」

「いやにからむのね」

「いや、ほめてるんや。女はみなチャッカリしてるが、しかし君みたいに、徹底したのはおらんな。男に金を出させといて、その男を恨んどるンやさかい、大したもンや」

「女ってそんなものよ。自分の体を自由にする男は、ハズだってどんなに好きなリーベだって、ふっと憎みたくなるものよ」

「つまり、おれなんか憎くて憎くてたまらんのやろ」

「あら。あなたは別よ」

「別って、どない別や」

「カーテン閉めましょうね。秋口だから、川風がひえるわ」

 窓の外は加茂の川原で、その向うに宮川町の青楼の灯がまだ眠っていなかった。

「──このお部屋、宮川町からまる見えね」

 いやねえ──と、わざと若い声を出しながらスタンドの青い灯だけ残して、あかりを消したが、章三はいつになく執拗になおもからんで、

「しかし、憎まれる方がおれはうれしいよ。好かれるためなら、何も二百万円君に貸すもんか。女は佃煮にするくらいいる。東京では紅茶一杯の女もいるということやが、女の地位は上った代りに、相場は下ったもンや。その点、おれに担保、証文、利子、期限なしで二百万円出させた君は大したもンや。しかし、おれが君に金を出したのは、実は君から薄情冷酷という証文を取りたかったからや」

 そして、にやりと冷笑をうかべて貴子を見た。自尊心のかたまりのようなその眼を貴子は全身で受けとめていた。章三はつづけた。

「──君は、男というものは見栄坊だから、虚栄心をつつけば、けちと思われるのがいやさに、しぶしぶ金を出すものと心得ているらしいが、しかしおれはしぶしぶじゃなかった。喜んで出したぜ。君のような女には、そうするのが一番君を……」

 侮辱することになるのだと、言いかけた時、玄関から若い女の声が聴えて来た。

「乗竹さんいらっしゃるでしょうか」

 陽子だった。



 春隆を訪ねて来た陽子の玄関の声をきいた時、章三はなぜかはっとした。

 しかし、なぜはっとしたのか、その理由はあとで判ったが、その時は判らなかった。いや、自分がはっとしたことすら、気づいていたかどうか。

「聴いたような声だな」

 という、しびれるような懐しさも、はっきり意識の上へは浮び上っていなかったようだ。

「乗竹というと、あの乗竹……か」

 侯爵の乗竹とちがうかと、章三はきいた。そうよと、貴子はすかさずいったが、

「侯爵よ。侯爵の若様よ。いやな奴よ」

 と、畳みかける口調がふとぎこちなかった。

「来てるのか」

「いやな奴よ」

「いやな奴テ、どないいやな奴っちゃ……?」

「へんな女なんか、連れ込んで……。今来たのがそうよ。男は三十過ぎなくっちゃ、だめね」

 自分でもそれと気がつかぬ女の本能から、貴子は章三の手前、春隆をやっつけていたが、しかしまんざら心にもないことをいっているわけでもなかった。嘘の中に軽い嫉妬の実感はあったのだ。もっとも貴子は春隆をそんなに好いているわけでもなかった。真底から男に惚れるには、余りに惚れっぽいのだ。つまり、簡単な浮気の気持──だが、春隆には大した魅力を感じているわけでもなかった。ただ、貴族──それだけかも知れない。貴族も相場は下った。しかし、相場が下ったから、貴子のような女は近づいて行くのだ。パトロンのある女は、こんどは逆に自分より非力の男と浮気したがるものだ。春隆も、貴子の眼にはそれだけ相場が下ったのか、終戦後の輿論だろうが、一つには、げんに金払いがわるい。もっとも、貴子は貴族を軽蔑しているわけではなかった。貴子は自分の名に「貴」の一字があることを、つねにある種の誇りを持って、想い出していたのだ。

 章三は鈍感ではなかったから、貴子が春隆の悪口を余りにいいすぎることに気がついた。貴子という女は、めったに客の悪口をいったことがなかった。自分の店へ来る客はいわゆる上客ばかしだというのが、貴子の自慢で、パトロンの章三にはとくにそれを誇張していたくらいだ。

「なんや、こいつ侯爵に気があるのンか」

 章三は不機嫌な唇を噛んだまま、鉛のように黙ってしまった。

 そして三十分許りたった頃、いきなりバタバタと階段を降りる足音がして、靴を出してくれと、昂奮した女の声が聴えた。

「まア、そないお怒りにならんと、泊っとうきやす」

「履物どこですの……?」

「もう電車おへんえ。泊っとうきやす」

「帰ります。履物出して下さらないの?」

 章三ははっとして廊下へ出て行った。玄関の女は振り向いた。視線が合った。

「あ」

 女はいきなり、はだしのままで、玄関を飛び出して行った。──陽子だった。



夜の花



 四条通りを横切ると、木屋町の並木は、高瀬川のほとりの柳も舗道のプラタナスも急に茂みが目立った。

 田村の玄関をはだしのまま逃げ出して来た陽子は、三条の方へその舗道を下って行きながら、誰もついて来る気配のなかったのにはほっとしたが、章三を見た驚きは去らなかった。

「あたしはいつもあの男から逃げている!」

 小石があるせいか一層歩きにくいはだしを、情なく意識しながら、陽子はつぶやいた。

 陽子が東京の家を逃げ出して京都へ来ているのも、実は章三という男のせいだったのだ。

 陽子の父の中瀬古鉱三は、毒舌的な演説のうまさと、政治資金の濫費と、押しの強さで政界に乗り出していたが、元来一徹者の自信家で、人を小莫迦にする癖があり、成り上り者の東条英機などを、政界の軽輩扱いにして、鼻であしらい、ことごとに反撥したので、東条軍閥に睨まれて、軽井沢の山荘に蟄居し、まったく政界より没落していた。

 ところが、終戦直前のある日、鉱三崇拝者の山谷某が大阪から山荘を訪れて来て、同行の木文字章三という青年実業家を紹介した。

 陽子が茶を運んで行くと、章三は陽子には眼もくれず、ひとりぺらぺらと喋っていた。

「僕は儲けました。これからも儲けます。最近、ある化学的薬品を使えば、酢、醤油、ソース、いや酒までつくれるという簡単な醸造法の特許権を、安く買い取りました。日本もいよいよポツダム宣言で手を打つらしいでンな。そうなったら、大いに今言いました事業で儲けます。あんさんの時代も日本がポツダム宣言で手をあげたら、やって来ますな。政治資金のことなら、一つ僕に心配させて下さい」

 鉱三はあっけに取られていたが、やがて終戦になり、政界復帰の機が熟したと見ると、大阪へ電報を打った。

 章三は東京の鉱三の寄寓先へ飛んで来て、三百万円の小切手を渡すといきなり言った。

「先生、何か情報ありまへんか。僕のほしいのは早耳と、それから、お嬢さんです」

 いつの間に見染めたのか、陽子を妻にくれという章三の言葉は、鉱三を驚かせたが、しかし、小切手を背景にした章三の精悍な顔と、押しの強さは、鉱三の青年時代を想わせて、満更でもなかった。難になる家柄の点も、民主主義という言葉が、この際便利だった。

 まず妻を説き、それから陽子を説き伏せに掛ったが、陽子もやはり民主主義を言った。そして、親娘は言い争った。

「民主主義のために闘うというパパが、あたしにいやな人と結婚しろとおっしゃるの……?」

 言い過ぎたと思ったが、陽子はもう家を出る肚をきめていた。父ものっぴきならなかったが、陽子ももうせっぱ詰っていた。

 陽子はたれにも頼らず自活して行くむずかしさを思ったが、そのむずかしさが自分の能力を試すスリルだと、ひそかに家を出て京都へ来たのだ……。

 おそくまでともっている紅屋橋のほとりのしるこ屋の提灯ももう灯が消えて、暗かった。

 三条小橋まで来ると、陽子はうしろからいきなり肩を掴まれた。



 陽子はどきんとした。どんな女でも、深夜の暗い道でいきなり肩を掴まれれば、はっとするだろうが、しかし、陽子は肩を掴まれたということよりも、掴んだ男が章三ではないかという予感の方がどきんと来たのだ。章三をそれほど怖れている自分が、不思議なくらいだった。

 田村をはだしで逃げ出したのも、そうだ。春隆の誘惑をのがれるために逃げるのだったら、堂々と靴を出させて、帰った筈だ。それだけの気位の高さは持っていたのだ。ところが、章三を見ると、もう靴どころではなく、はだしという、自尊心から言っても人に見せたくない醜態を演じてしまったとは、何としたことであろう。

 京都へ逃げて来ていることを、一番知られたくない章三に見つかってしまったという狼狽にはちがいなかったが、しかし、それも章三という男だけには、何かかなわないという気持があったからであろう。何かジリジリとした粘り強い迫力に、みこまれているようだった。だから肩を掴んだ背後の男を、章三だと……。しかし、振り向くと、巡査であった。

「何をしてるんだ……?」

「はア……?」

 咄嗟に意味は判らなかった。

「今時分、何をしてるんだと、きいとるんだ」

「歩いているんです」

 むっとして答えると、巡査もむっとして、

「歩いてることは判ってる。寝てるとは言っとらん。何のために歩いとるんだ……?」

「家へ帰るんです」

「家はどこだ……?」

「京都ホテルの裏のアパートです」

 章三に居所を知られたくないという無意識な気持から茉莉のアパートの所を言った。

「今時分まで、何をしとった……?」

「お友達のお通夜に行っていました」

「商売は何だ……?」

「お友達はダンサーです」

「お前の商売をきいとるんだ」

「ダンサーです」

「なぜ、はだしになっとるんだ……?」

 半分むっとした気持から、からかうような口調になっていた陽子も、しだいに気味悪くなって来た。夜おそく歩いていて、闇の女と間違えられて、拘引された女もいるという。

「踊ると、足がほてって仕方がないんです。電車があれば、靴をはいて帰りますが、歩くのははだしの方が気持がいいんです」

「靴はどうした……? 持っとらんじゃないか」

「お友達のアパートへ預けて来ました」

「どこだ、そのアパート」

「京都ホテルの……いいえ、丸太町です」

「丸太町から来たのなら、逆の方向に歩いてる筈だ。来い!」

 巡査はいきなり陽子の腕を掴むと、三条大橋の方へ連れて行った。

 橋のたもとには、女を一杯のせたトラックが待っていて、どれもこれも闇の女らしかった。



 検挙した闇の女を警察へ送るトラックであることは、一眼で判った。

「違います。あたしは……」

 商売女ではないと、陽子は言いかけたが、巡査はそれには答えず、

「そら一丁!」

「よし来た!」

 トラックの上の声が応じて、陽子はまるで荷物のように簡単に、積み上げられてしまった。

 橋のたもとの街燈は、ガス燈のように青白く冴えて、柳の葉に降り注ぐ光の中を、小さな虫が群がって泳いでいた。陽子はトラックの上からふっとそれをながめた途端、気の遠くなるような孤独を感じた。

 加茂川のせせらぎの単調なあわただしさは、何か焦躁めいた悔恨の響きを、陽子の胸に落していたが、やがてそれがエンジンの騒音に消されて、トラックが動き出した。

 橋を渡ると、急にカーブした。途端に陽子は茉莉を想い出した。

 陽子がダンサーになったのは、茉莉と知り合ったからであった。しかし、直接の動機はロマンティックなものではない。実は、家出して京都で宿屋ぐらしをしているうちに、二月の金融非常措置令の発表という殺風景な事情が、陽子をダンサーにしたとも言えよう。

 家の方へは行先を隠し、また京都では素姓を隠す必要上、陽子は転入証明も配給通帳もわざと持って来なかった。だから、旧円を新円に替えることも、通帳から生活資金を引き出すことも出来なかった。旧円流通の期限が来ると、宿賃はおろか電車にも乗れないと、陽子は狼狽した。

 新聞には、鉱三の封鎖反対論が出ていた。陽子は身にしみて同感だったが、しかし、一月前の父は、インフレ防止のためには封鎖策よりほかにないと、会う人毎に喋っていた筈だ──と想い出すと、一徹者だった父も選挙の成績をよくするためには、清濁ばかりか、黒も白も一緒に呑んでしまうようになるのかと、不可解な気がした。それが利口なのか利口でないのか、判らなかったが、父も鳩山一郎と共に何かタガがゆるんだような気がして、尻尾をまいて帰る気になれなかった。

「あたしの家出が封鎖のためにオジャンになったと判れば、パパは封鎖賛成論に逆戻りするかも知れないわ」

 皮肉だけはつぶやいたが、しかし、たまたまセットに行った美容院で、茉莉と知り合い、相談を持ちかけた時は、全く途方に暮れていたのだ。

 陽子は十五の年からダンスを知っていたし、好きでもあった。が、ダンサーをして新円を稼いで行くことを、陽子の自尊心が許したのは、ホールの環境に汚れずに、溺れるくらいダンスが好きでありながら、毅然として純潔を守って行く茉莉の自信の強さに刺戟されたからであった。

 だから、陽子は茉莉がたよりであり、茉莉の死が陽子を全く孤独な気持に陥しいれたのもそのためだ。茉莉も陽子をたよっていた。

「それだのに、あたしはお通夜に行ってあげられない」

 取りかえしのつかぬ二重の想いに揺れているうちに、やがてトラックは警察署についた。



 トラックから降りると、陽子はそのまま闇の女たちと一緒に、留置場へ入れられた。

 深夜の町をはだしで歩いていたというだけでも、疑われるのは無理もないと諦めていたが、しかし、警察へ行けばすぐ釈放されるだろうと、楽観もしていた。

 それだけに、留置場の狭い穴をくぐった時は、泣けもしない気持だった。身動きも出来ない狭さや、不潔さや、いやな臭気もたまらなかったが、何よりも茉莉のお通夜に行けなくなったことが、情なかった。

 それもみな、田村なぞへ行ったからだと、今更の後悔と一緒に、京吉の顔がうかんだ。

「田村はよせ、行くな!」

 と、京吉も停めたし、お通夜も気になったし、素姓をかぎつけたのを好餌にして釣ろうという春隆のワナは月並みで俗悪だったから、余りに見えすいてもいた。

 ところが、わざわざそのワナの中へ飛び込んで行ったのは、むろん春隆に口止めさせるためであった。

 京都でダンサーをしているという秘密が春隆の口から洩れて父の耳にはいれば、強引につれ戻されるおそれはあったし、それに家出生活の辛さを我慢している気持の中には、誰も自分の素姓を知らないというひそかなスリル感があった。新聞の種になってしまっては、もうつまらないし、父の政治的人気に疵がつくという心配もあった。

 一つには、京吉が命令するように停めたということへの、天邪鬼の反撥が、陽子の足を田村へ向けたのだ。

 しかしまた、それと同じ天邪鬼が、田村へ行く時間を出来るだけ伸ばして、春隆を待たせてやろうという気持を、ふと起させた。

「お願いです。誰にもおっしゃらないで……」

 と、思わず哀願したホールでの、みじめに狼狽した自分をそのまま持って行きたくなかったのだ。必ず来るという春隆の自信にも一応反撥したかったのだ。待たせる方が有利だという、女特有の本能も無意識に働いていた。

 だから陽子は十番館を出た足で、まず近くのすし常という店へわざわざ寄って行った。

 すし常の主人は変った男で、毎晩ホールへ行ってラストまで踊り、帰ってからそろそろ店をあけて、すしを握るのだが、準備に暇が掛るので、ホール帰りのダンサーがわざと遅く行っても、大分待たされる。しかし、やはりダンサーの常連が多いのは、この店の主人からチケット代りに無料でくえるすし券を貰うからであろう。

 やっとすし常を出ると、陽子は田村へ行ったが、案内されてはいった時の春隆の部屋は、煙草のけむりが濛々として、待たせた時間の長さを思わせていた。

 ──と、そんなことまで今陽子が想い出したのは、ちょうど陽子の隣りに膝をかかえて坐っている若い娘が、留置場の中へいつの間に持ってはいったのか、急に煙草を吸い出したからであろうか。

「姉ちゃん、一口吸わしたげよか」

 浴衣をだらんと着たその若い娘は、陽子へ話し掛けて来た。チマ子だった。



「あたし……? いらないわ」

 陽子が断ると、チマ子は吸い掛けの煙草を突き出して、

「遠慮せんでもええわ。はよ吸わんと、日本の煙草すぐ消えるさかい……」

 留置されている娘とは思えなかった。

「いいのよ。あたし喫めないのよ」

「へえん……? 真面目やなア」

 チマ子のその言葉に、陽子は微笑した。

 実は田村へ行った時、春隆も同じような言葉を言った──それを、想い出したのである……。

「煙草いかがです。どうぞ」

「喫めませんの、あたし……」

「本当……? 真面目だなア」

 そう春隆は言ったが、ビールの瓶は持って、

「──しかし、この方なら……」

「あら、いただけませんの」

「そうですか。じゃ、無理にすすめちゃ悪いから……しかし本当に飲めないんですか。少しぐらいなら……、飲むんでしょう……? 半分だけ……注ぐだけです。悪いかな、飲ましちゃ。僕も好きな方じゃないんです」

 細かい神経を働かせながら、さすがに粘りも見せて、一人ペラペラ薄い唇を動かせていた。

「東京へお行きになるんですの?」

「ええ、明日」

「お行きになっても、あたしのこと誰にもおっしゃらないで下さいません……?」


「今夜のこのこと……?」

 春隆はもううぬぼれていた。

「いいえ、ホールでおっしゃったこと……」

「ああ、あのこと……」

「もし誰かに知れると、あたしまた姿をくらまさなくっちゃなりませんわ。そしたら、十番館で踊っていただけなくなりますわねえ」

 これくらいの殺し文句は、陽子も使えるくらい、──頭がよかった。

「いや、大丈夫ですよ。あはは……。二人っきりの秘密にして置きましょう。じゃ、かん盃!」

「だめですの。本当に……」

「そうですか。じゃ、食事……」

「済んで来ましたの」

 それで遅かったのか、誰と食べて来たのかと、春隆は興冷めしたが、しかし、陽子の来た時間が遅かったのは、もっけの幸いだと思った。女中を呼んで、

「くるま呼べる……? くるまなければ、この方帰れないんだ」

「今時分、おくるまなンかおすかいな」

 あっては困る春隆のはらを、むろん女中は見ぬいていて、これは上出来だったが、余り心得すぎて、春隆がだんだんに陽子をひきとめる技巧を使おうと思っているのも知らず、あっという間に、さアどうぞと別室の襖をあけてしまった。

 行燈式のスタンド、枕二つ並んでいる。今見せてはまずい! と春隆が眉をひそめた途端、陽子はいきなり部屋を飛び出してしまったのだ。帰るきっかけをなくしかけていた陽子にとっては、女中が申し分のないきっかけを与えてくれたようなものだが、しかし、そのあとが……廊下の章三、はだし、巡査、留置場……。

「ああ、いやな土曜日!」

 思わず額をおさえていると、

「姉ちゃん、飴あげよか」

 チマ子がまた話し掛けて来た。



 陽子はあきれてチマ子を見た。

 兵児帯は留置される時に、取られたのであろう。だらんとはだけた浴衣の裾は立てた膝にまきつけていても、すぐみだれ勝ちになるのだが、それが案外だらしなく見えなかったのは、白粉気のない皮膚の清潔さと、青み勝ちに澄んだ眼の、怜悧そうな光のせいであろう。にやっと笑ってうかべたエクボには、あどけない少女も感じられた。

「こんな可愛いい子が……」

 煙草や飴玉をひそかに留置場へ持ってはいっている大胆不敵さに、陽子は驚いたのだ。

「トラックに乗ってる間に、浴衣の縫込みへこっそり入れといたってン」

 チマ子はペロリと舌を出して、素早く陽子に飴玉を渡した。陽子は茉莉を想い出した。

「姉ちゃん、ブラックガールのわりにきれいな」

「ブラックガール……?」

 すぐに意味が判らなかったが、

「──ああ。ちがうのよ。間違えられたのよ」

「そうやろと思った」

 チマ子は留置場の中を見廻して、

「──そこらにいる奴と大分ちがうと思った。あそこにいる女、あれ常習犯で病院へ入れられとったのに、毎晩こっそり逃げ出して、商売しとってん。病院にいると、親が養われへんそうや。まず親の働き口から見つけたらんと、あの女の病気いつまでたっても癒れへん。うちが警察やったら、あの女が入院してる間、毎日五十円ずつやる。ほな、あの女も安心して病気癒す気になるやろ。けど、巡査でも一日五十円月給取ってるやろかなア」

「そうね。──あんた頭いいじゃないの。政治家より頭いいわ」

「うちが頭よかったら、日本中みな頭ええわ。たれかテこないしたらええいうこと、判ってる。政治家かテ阿呆ばっかしと違う。けど、政治家が日本中の人間の一人一人のことを考えてたら、演説してまわるひまもないくらい、忙しいさかいに、だれのことも考えんと、自分のことばっかし考えてるンやろ。──うちは阿呆や、阿呆やなかったら、泥棒みたいなもンせえへん。しても、ドジ踏めへん」

「あんた泥棒したの……?」

「うん、下手売ったワ」

 と、与太者の口調になって、

「──監獄にいたはるお父さんを助けたげよ思って、娘が泥棒するなんテ、トックリ味噌つめるより、まだ阿呆や。けど、壺がなかったから、トックリにつめな仕様がない」

「一体、何を盗んだの……?」

「写真機!」

「ふーん」

 陽子はふと木崎を想い出し、そこが留置場だということをいつか忘れていた。

「あんまりええ写真機持っとるさかい、こんなン盗んだったかテ構めへんやろ思って、アパートまでついて行って、笑って来たってん。ほな、掴まってン」

「笑う……?」

「笑ういうたら、盗むこっちゃ」

 そして、ケタケタとチマ子は笑った。



「喧しいな。ええ加減におしやす」

 長い体を持て余して、窮屈そうにゴロンゴロン寝ていた痩せぎすの女が、チマ子の笑い声に眉をひそめた。

 留置場の鈍い灯が、左の眉毛の横に出来たコブを、青く照らしている。そのコブがゴム脹だとすれば、もういまわしい毒が末期へ来ているのかも知れない。

 水銀を飲まされたようなしわがれた声で、

「──豚箱へはいって、面白そうに笑う人がおすか。──喧しゅうて眠られへん」

「きつうきつう堪忍どっせ」

 チマ子はわざとらしい京都弁で言ったが、すぐ大阪弁に戻り、

「──喧しかったら、独房へはいったらええやないの。ここはあんた一人の留置場とちがう。無料宿泊所や、贅沢いいな!」

「何やテ、もう一ぺん言うとオみ!」

 と、女はむくりと起き上って、

「──わてを誰や思ってンにヤ……?」

 仏壇お春のあだ名を持った、私娼生活二十年という女だった。

 今はどうサバを読もうと思っても、四十以下には言えぬくらい老けてしまったが、若い頃はこれでも自分に迷って先祖の仏壇を売った男もいるくらい、鳴らしたものだ、四条の橋の上に張店みたいに並んだ何とかガールのお前のような女とは、ものが違うのだ──というお春の言葉は、陽子の耳をあかくさせたが、チマ子は負けずに言いかえした。

「あんたが仏壇お春やったら、うちは兵児帯おチマや。兵児帯おチマは喧嘩は売っても、体は売れへん。──年をきいたら笑って十七、可愛いあの子は兵児帯おチマ、喧嘩は売っても、体は売らぬ──とセンターでフライが唄うてるのを、あんた知らんのンか」

 三条河原町から四条、京極へかけて、京都の中心(センター)で、天プラ(フライ)の不良学生たちが唄っている唄を、チマ子は口ずさんだが、急にあーあと、自嘲めいた声になると、

「──ほんまに、うちのような娘を持った親はえらい災難や」

 その言い方にみんな笑った。お春も笑いながら、よれよれの背中を向けて、横になったが、留置場の床の痛さに骨ばった自分の体を感じた途端、お春はふと母親を想った。母親はもう七十、あと三年ももつまいが、しかし、自分の体が稼げなくなる時は、それよりも早く来るのではなかろうか。

 女が女である限り、どんなに醜くても、汚くても、たとえ五十を過ぎても、男相手に稼いで行ける──というお春の自信も、病気のまわった体を思えば、にわかに心細い。

「みんな、わてみたいになるンどっせ。しまいには、骨だけしか売るもンがない」

 あーあとお春も奇妙な溜息をついたが、もうだれも笑わず、何かしーんと黙って、うなだれてしまった。

 チマ子はしかしキラッと眼を光らせて、いきなり陽子の耳に口を寄せて来た。

「姉ちゃん、うちの頼み、きいてくれはる……?」



「きいてあげてもいいわ」

 陽子は、チマ子のささやきを耳になつかしく感じながら微笑した。

「兵児帯のおチマ」と名乗る不良少女などにふと、男心めいたなつかしさを抱くとは、留置場にいれば人恋しくなるせいだろうか。

 いや、不良少女らしく見えないという点にむしろ陽子の興味は傾いたのだ。一つには、チマ子が盗んだのが写真機だという点にも、ひそかな好奇心はあった。

「ほんまに、きいてくれはる……?」

「ええ、どんなこと……?」

「うちが写真機盗んだ人の所へ行って来てほしいねン」

「えっ……?」

「ねえ、行ってくれはる……?」

 甘えるように、体をすりつけて来た。

「でも、ここを逃げ出して行くわけにいかないわ」

「しかし、姉ちゃんは本当のブラックガールと違うさかい、明日になったら、すぐ出して貰えるわ。うちは泥棒したさかい、あかんけど、姉ちゃんは鳩やわ」

 飛んで出るから鳩だというチマ子の声の明るさに、陽子もほっと心に灯がともって、

「じゃ、ここを出たら、あんたの使をしてくれというわけね」

「モチ、コース……」

 モチは勿論のモチ、コースはオヴ・コース(勿論)のコース。綴り合せて、モチの論よという意味らしい。

「──うち、刑事にきかれても、あの写真機盗んだと白状せんつもりや。預かった品やと言うて頑張るつもりやねン」

「そんな嘘すぐはげるでしょう」

 陽子が呆れると、チマ子はじれったそうに、

「──そやさかい、行ってくれと頼んでるんやないの。その人の所へ行って、あの写真機はうちに預けた品やということにしてくれと、姉ちゃんから説き伏せてくれたらそれでええやないの」

「ふーん。でも、その人うんと言ってくれるかな」

「ええおっちゃんやさかい、うちを助けてくれはるやろ。一寸こわい所あるけど、親切な人やさかい。うち、今でも、あの人の写真機盗んだこと後悔してるねン」

「どこにいる人……?」

「行ってくれはる……?」

「それより、どこにいる人なの、それを先に……」

 言ってごらんと、一寸せきこむと、チマ子は場所をまず言って、

「木崎さんという人……」

「木崎……?」

 ルミから貰った名刺の「木崎三郎」の明朝みんちょうの活字が、ぱっと陽子の頭に閃いた。

「ねえ、行ってくれはる……?」

「行くわ。で、その写真機は……?」

「サツ(警察)で夜明ししてる! 売れば一万五千円の新円のサツやけどな」

 チマ子は吐き捨てるように言った。



兄ちゃん



 頽廃の一夜が明けて、日曜日の朝が来た。

 ただでさえ頽廃の町である。ことに土曜日の京都は、沼の底に妖しく光る夜光虫の青白い光のような夜が、悪の華の巷にひらいて、数々のいまわしい出来事が、頽廃のメシベから放つ毒々しい花粉の色に染まる──というこの形容は誇張であろうか。

 例えば、われわれが知る限りでも、昨夜、つまり土曜日の夜……。

 キャバレエ十番館のホールの階段に立った木崎のライカが狙う「ホール風景」の夜のポーズのシャッターが切られた途端に、倒れたダンサー茉莉!

 青酸加里! 京吉!

 東山のアパート清閑荘では、ヒロポン中毒のアコーディオン弾き坂野の細君が逃げ、闇の女を装う兵児帯のチマ子が木崎のライカを奪って逃げた。

 そのチマ子の母親が経営している田村では、好色の侯爵乗竹春隆を訪れたダンサーの陽子が貴子のパトロンの木文字章三を廊下で見た途端に、はだしで田村を飛び出し、闇の女と間違えられて留置されると、たまたまチマ子も同じ留置場にはいっていて、仏壇お春、病毒……。

 そして、さまざまな女が、いかにも女の都の京都らしく、あるいは一夜妻の、そして土曜夫人として週末の一夜を明かすと、日曜日の朝の河原町通りは、昨夜の男が子供にせがまれていそいそと玩具のジープを買うのだ。その幸福な顔!

 だから、土曜日の夜の二人連れを見るよりも、日曜日の朝の親子連れを見る方が、ふっと羨しい。ことに京吉のような男には……。

 朝といっても、もう午ちかい。茉莉のアパートを出た京吉は、わびしい顔で河原町の雑閙の中を歩いていた。

 京吉には両親の記憶はない。兄弟も身寄りもなく、祖母の手に育てられたが、中学校三年生の時にたった一人の肉親のその祖母もなくなり、天涯孤独となった身は放浪生活に馴染み易く、どこへ勤めても尻が落ちつかず、いまだにきまった職がなかった。

 しかし、十六の歳に十も年上の未亡人に女というのを知らされてから今日まで、彼の美貌と孤独な境遇と無慾な性格に慕い寄る女たちの間を、転々と移っている間に、もう自分はどんなことがあっても、この顔さえあれば女は食わせてくれるという自信がついた。

 いわば一見幸福な男だが、しかし、このわびしさは何であろう。

 日曜日の朝の親子連れの姿を見て、ふっと自分の孤独を知らされたからだろうか、それとも……。

 転々と女から女へ移った──というより、移されて来たが、恋は知らなかった。誰からも好かれたが、誰をも好かなかった。そのさびしさだろうか。しかし、そのさびしさの底には、昨夜到頭お通夜に来なかった陽子のことがなかったとは、いいきれまい。

 うかぬ顔をして、三条河原町の朝日ビルの前まで来ると、京吉はいきなり、

「兄ちゃん」

 と、声を掛けられた。



 兄ちゃんと呼ばれて、京吉はびっくりした。自分を兄ちゃんと呼ぶのは、田村のママの娘のチマ子よりほかにはいない筈だが、ちかしチマ子は十日前に家出したきり、行方不明であった。チマ子の父親は大阪の拘置所にいるゆえ、面会や差入れに大阪へ行っているのかも知れないと、京吉は考えていた。

 もっとも、昨日、四条通りでチマ子の姿を見かけたいう男もいる。してみれば、やはり京都へ帰って来ているのかと、京吉はひょいと声のする方を見たがチマ子ではなかった。

 朝日ビルの前に、靴磨きの道具を出して、うずくまっている十二三の少女が、なつかしそうに京吉を見上げているのだった。

 あ、そうだ、ここにも一人自分を兄ちゃんと呼ぶ娘がいたっけ──と、京吉は思い出して、寄って行った。

「なんだ、お前か」

 お洒落の京吉は、いつもその娘に靴を磨かせていたのだが、この半月ほどはその場所に姿を見せなかったので、ふしぎに思っていた。

「うん。あたいや。兄ちゃん、あたいまた戻って来ちゃったの。あたいのことよう覚えてくれたはったなア」

 娘はうれしそうだった。アクセントは東京弁だが、大阪と京都の訛りがごっちゃにまじって、根無し草のようなこの娘の放浪を、語っているようだった。

「どうしてたんだ……?」

 と、靴を出すと、いそいそとブラシを使いながら、

「あげられちゃったの」

「悪いことしたのか」

「ううん。浮浪者狩りにひっ掛ったのよ。寝屋川のお寺に入れられてたんえ」

「逃げて来たのか」

「うん」

 クリームを塗っていた手をとめて、顔を上げると、ニイッと笑った。

「──やっぱし、靴磨きの方がいいわ」

 笑うと、奇麗な歯並びが印象的に白かった。一寸すが眼気味の眼元がぱっちりとして、薄汚れているが思わず見とれたくなる可愛さは前とかわらなかった。が、半月見ぬ間にすっかり痩せおとろえている。

 そのことを言うと、

「風呂は入れてくれるけンど、お腹ペコペコやさかい、風呂の中で眼がまわりそうになっちゃった。あんなとこにいてられへん」

 寺院で経営している収容所には、放浪性に富んだこの娘をひきとめる魅力は何一つなかったが、その埋め合せといわんばかしに、我慢しきれぬいやなことが随分多かったらしい。

「──センターがなつかしかったえ」

「野宿しても腹一杯食べた方がましか」

「うん。それに、収容所にいたら、兄ちゃんに会われへんさかい……」

「えっ……?」

「あたい、兄ちゃんに会いたかったえ」



「おれに……? どうして……」

 会いたかったんだい──と思わずきくと、

「好きやもん。あたい、兄ちゃん好きえ」

 靴磨きの少女は、磨きもせず、熱っぽい眼でじっと京吉の顔を見つめながら、甘えるように言った。

 京吉はキョトンとした表情になった。

 時に三十男に見える京吉の苦味走った顔は、キョトンとすると、急に十二三の少年──いや少女のように可憐で無邪気な表情になる。びっくりした時の癖だった。

 いや、びっくりしたというより、むしろ不思議でたまらぬという気持だった。動く玩具を見た時の赤ん坊の驚きにも似ていた。鏡の前へ連れて行かれた犬のように、何か虚ろだが、新鮮な驚きだった。

「一体これは何の意味だろう。なぜこうなるんだろう」

 と、自分の心に、──というより自然に向って問いながら、首をかしげている謙虚な裸の状態だった。よれよれの五十銭札みたいに使い古された陳腐な言葉の助けを借りて、何もかも既知の事実にしてしまうという観念の衣裳をまとわぬナイーヴな子供の感受性を、京吉は馴々しく図太い神経の中に持っているのだ。

 例えば、祖母が死んだ時がそうだった。昨夜茉莉が倒れた時も、キョトンとしていた。

 そして今も……、十二の娘にあるまじい熱っぽい眼が、何か不可解で仕方がなかったのだ。しかも、それがなぜか得体の知れぬ不思議な魅力であった。

「兄ちゃん、右の足とかえて!」

 キョトンとしていた京吉は、娘に言われて、あわてて右足を出した。いつも左の足から磨かせているのは、ダンスの習慣で左足を先に出しているからであろう。

「ああ、もうそれでいい」

 いつもより念入りに磨いている娘の、鼻の上の汗を見ると、可哀相になって、金を払おうとすると、

「お金いらないわ。お兄ちゃんはただにしとく」

 ハアハア息を弾ませながら、娘は言った。

「ホールじゃあるめえし、──いや、ホールでももうただで踊るのは、おれこりたよ」

 払うよと、あちこちポケットを探ったが、財布の手ごたえがない。

「なんだ、掏られてやがらア」

 苦笑したが、べつに悲しそうな顔も見せず、

「──明日まとめて払うから、貸しといてくれ。済まん、済まん。じゃ、また……」

 歩き出して、三条通りを横切ろうとしたが、ジープが来たので、足を停めて待っていると、

「兄ちゃん!」

 娘が追いついて来て、腕にすがりついた。

「──あたいも一緒に行く!」

「…………」

 三条通りの角をカーブしたジープが、みるみる河原町の六角通り方に小さくなって行くのを見送っていると、

「もう、渡れる。兄ちゃん、さア渡ろう」

 京吉の手をひっぱるようにして横切った娘は、

「兄ちゃん、あたいと歩くのンいや……?」



 二言目には兄ちゃん兄ちゃんとうるさいくらい、繰りかえすのが、娘にはたのしい癖のようだった。

 しかし、それがふと哀れじみて聴えたのは、この娘の孤独のせいだろうか。浮浪し、流転して来た一年余りの歳月の間に覚えた悲しい人恋いの歌のリフレエンのようだった。

 すくなくとも、京吉の耳には悲しい響きに聴えた。孤独と放浪の淀の水車のようなリズムが人一倍判る京吉だった。だから、

「兄ちゃん、あたいと一緒に歩くのンいや……?」

 と言いながら、そっと覗きこんで顔色をうかがう十二歳の娘の気持は、三十女が何気なくすり寄せて来る肩の柔い体温の意味よりも、もっと身近に読み取れて、その言葉の何か故郷を持たぬ訛りにも、しびれるようななつかしさを感じた。

 しかし、それにしても、この娘の熱っぽい眼は一体何であろう。

「おれと一緒に歩くと、誘拐されるぞ!」

 京吉は肩を並べて歩きながら言った。

「うん、兄ちゃん誘拐して!」

「汽車に乗って、どこかへ行こうか。牛小屋や水車小屋のある百姓家で泊めて貰ったり、どっかの家の軒先で、ラジオの音が家の中から流れて来るのを聴いたり、降るような星空にすっと星が流れるのを見たりしながら野宿したり、行き当りばったりの小さな駅で降りると、こんな所にも小さな町があって、汚い映画館のアトラクションのビラに、ホールを追い出された顔馴染みのアコーディオン弾きの名前が出ているのを見て、なつかしさに涙がこぼれたり、さびれた温泉場の宿屋で宿賃が払えなくなって、兄ちゃんは客引に雇われ、お前は交換手に雇われて……」

「兄ちゃん、誘拐して! 誘拐して!」

 京吉の眼もふとうるんでいたが、娘の眼も濡れていた。

 河原町通りの雑閙の中で、ふと旅への郷愁を語るくらい、京吉は感傷的になっていたのだ。が、本当にこの娘と一緒に放浪しようかという気持がふっと起ったのは、昨夜茉莉のお通夜にやって来なかった陽子への面当てだろうか。

「陽子はきっと誘惑されたんだ。田村で泊ったんだ。だから、来られなかったんだ」

 女は何人も知って来たが、恋は一度もしなかった京吉だった。女と関係しながら、恋だけはもっと素晴しい女とするんだと夢を抱いて来たのだ。そして、陽子となら恋が出来そうな気がした。いや、もう恋になっているかも知れない。すくなくとも恋心めいたなつかしさは感じていた。だから、ほかのダンサーとは踊っても、陽子とは踊ろうとしなかったのだ。抱いて踊るには、陽子は京吉にとって余りに処女であった。どんな女にも生理的に抵抗できない自分の踊りの技巧の中へ、陽子だけはひきずり込みたくなかったのだ。

「誘拐するにも、おれ金がねえや」

 むろん娘にもない……と苦笑すると、娘は、

「あたいお金持ってる。あたい今日インフレやねン」



 京吉はケラケラと笑った。

 いくら持っているか知らないが、どうせ靴を磨いて稼いだ金のたかは知れている。それを、あたい今日インフレやねンという娘の言い方は、昨夜からの京吉の憂鬱を瞬間吹き飛ばして、京吉も噴き出しながら放浪の思いつきがもう一種の快感だった。

 陽子への面あてが咄嗟に放浪を思いつかせる──この衝動的な破れかぶれは、ませてはいても二十三歳という歳のせいか、それとも教養のなさか、身についた野性の浅はかな動きだろうか。いずれにしても、時と場合でぐるぐる変る京吉の心の動きは、昨日まであれほど魅力的だった京都の町々を、途端にいやらしく感じてしまった。

 焼けなかったと思って、威張ってやがらア。なんだ、こんな京都! 京都なんて隠退蔵物資みたいなもンだ。けちけちと食べずに残して置いたおかげで、値が上ったようなもんだ。もとは三文の値打しかなかったんだ。

 逃げ出そうと、京吉は娘の手を握ったが、しかし、足は自然に河原町通りを東へはいったごたごたした横丁の「セントルイス」という喫茶店へ向いたとは、一体どうしたことであろう。

「セントルイス」は京吉の巣であり、一日中入りびたっていることもある。京都をおさらばする前に寄って行こうと思ったのは、やはり京都への未練だろうか。

 しかし「セントルイス」は京都にありながら、京都ではなかった。この店の経営者は蘆屋のマダム連中で、かつては阪神間のブルジョワの有閑夫人を代表していた蘆屋のマダム連中も、洋裁教授の看板を出したり、喫茶店の共同経営を思いついたりしなければならぬくらい、恥も外聞も忘れた苦しい新円生活に追い込まれていたのであろう。

 京都は大阪や蘆屋の妾だといわれていた。しかし、この妾は旦那の大阪や蘆屋が焼けてしまうと、にわかに若がえって、無気力な古障子を張り替え、日本一の美人になってしまった。そして大阪や蘆屋の本妻は亭主の昔の妾を相手に、商売しなければならなくなったのだ。

 背に腹は代えられぬ情なさだが、しかし「セントルイス」は女の経営にしては、万事大まかに穴があいて、ちゃっかりした抜け目のなさが感じられぬのは、さすがに本妻の気品で、他の京都人経営の喫茶店を嗤っているところもあり、

「おれ京都がいやになったよ」

 と、京吉が言いに行くには、ふさわしい店でもあった。

 金文字のはいった扉を押すと、十球の全波受信機がキャッチしたサンフランシスコの放送音楽が、弦楽器の見事なアンサンブルを繊細な一本の曲線に流して、京吉の足は途端に、リズミカルに動き出した。が、

「京ちゃん、今電話掛ったわよ」

「誰から……?」

「陽子さん!」

 ときくと、はっと停った。



「なアんだ」

 陽子から掛って来たのかと、わざと興冷めていたが、さすが甘い胸さわぎはあった。

「京ちゃんのリーベ……? マダム、それともメッチェン……? マイ、ダアーリングね」

 バーテン台の中にいる夏子は、舌を噛みそうな外国語を、ガラガラした声で言って、不器用な手つきで京吉の肩をぶった。そして京吉の連れて来た娘が、白い眼をキッと向けたのも気づかず、いきなりけたたましい笑い声を立てた。

 声も大きいが、身振りも大げさで、何か身につかぬ笑い方だった。藍色の上布を渋く着ているが、頭には真紅の派手なターバンを巻いている──そのチグハグさに似ていた。

 しかし、夏子はこのターバンを思い切って巻くようになってから、急にうきうきした気分になったのだ。そんな自分が不思議でならなかった。

 夏子の夫は歯科医で、大阪の戎橋附近の小さなビルの一室を診療所に借りて、毎日蘆屋から通っていた。夏子は歯科医などを莫迦にして嫁いだのだが、歯科医のボロさは夏子を蘆屋のプチブルの有閑マダムの仲間へ入れてくれた。

 しかし、夏子はもともと引っ込み思案で、応召した夫が戦死したのちも、六つになる男の子と昔かたぎの姑と、出戻りの小姑と一緒に暮すつつましい未亡人ぶりが似合う女であった。ガラガラしたしわがれた声や、人一倍大きく突き出した鼻も、案外彼女のさびしい貞淑さを裏切っていなかった。

 代診を雇ってやらせていた医院が、買い溜めの高価な薬品や機械や材料といっしょに空襲で焼けてしまったり、預金が封鎖されたりして、到頭友達と共同で喫茶店をひらくようになってからも、陰気に蘆屋の家に閉じこもって夫のことを考えている日が多かった。

 ところが、セントルイスへ時々やって来て、旦那を待ち合わせている先斗町の千代若という芸者が、焼け出されるまでは大阪の南地にいたというので、いろいろ大阪の戎橋附近の話をしているうちに、ああ、あの歯医者はんなら知ってますどころか、あての旦那はんどしたンや。

 えっと驚いてなおきくと、夫は千代若だけではなく、何人もの芸者や女給と関係があったという。千代若は簡単に捨てられたらしい。

「箒で有名どしたえ。ほんまに、こんなええ奥さんがいたはったのに……」

 夏子がもとの旦那の本妻だったと判ると、もう夏子の分までふんがいしている千代若の言葉をききながら、夏子は真青になっていたが、しかし、ターバンを巻くようになったのは、それから間もなくのことだ。

 千代若とも変な工合に親しくなり、蘆屋に帰る日もすくなく、急に笑い上戸になった……。

 京吉は笑い声の高い女がきらいだった。顔をしかめて、

「いつ掛ったんだい」

「気になるの。おほほ……。今より約五分前!」

 夏子は情報放送の真似をして、

「──でも、少ししてまた掛けるから、京ちゃん来たら、待って貰ってくれと必死の声で、言ってたわよ」



「へえーん」

 京吉は小莫迦にしたような声を出していたが、やはり、陽子何の用事だろうと、胸はさわいでいた。

 京吉は陽子の身の上は何にも知らなかった。どこに住んでいるのかも知らなかった。陽子も京吉が田村に居候していることは知らなかった。十番館で一寸口を利くだけのつきあいでしかなかった。

 だから、セントルイスへ掛ければ、京吉がつかまると、陽子が知っていることすら、すでに京吉には不思議だった。むろん、これまで電話なぞ掛って来たためしはなかった。

 それだけに、意外なよろこびだと、胸が温まりかけたが、しかし、それでやに下るのはだらしがないと、京吉はピシャリと水を掛けた。

「昨日の今日じゃねえか。感じ悪いよ」

 夢がこわれたのだ。誰かと踊る時、いつもあごをぐっと引いて、心もち下唇を突き出しながら口を閉じている陽子の癖や、ほんのりと桜色に透けて見える肉の薄い耳から、生え下りへ掛けての、男を知らぬやるせない曲線の弱々しさを、三十男の感覚で思い出すと、なまなましい嫉妬が改めて甦った。

「おれ帰るよ」

「あら、電話きかないの……?」

「おれポン引じゃねえよ」

「ポン引って、何のことなの。やっぱしピンボケみたいなもの……?」

 夏子は「カマトト」ではなかったのだ。千代若と一緒に、キャッキャッと遊びまわったりすることが、何となく浮々と面白くて、にわかに不良マダムめいていたが、夏子はやはりうぶだった。スリルは感じても、体をよごすのは怖く、何にも知らなかった。見かけ倒しの不良マダムだった。共同経営者の他の二人が、抑留者の引揚げ促進運動のデモに参加することと、店へ来る客と大津へ泊りに行くことを、ちゃんと使い分けているのを、びっくりしたような眼でながめていたのだ。

「ピンボケ……? あはは……。朝帰りの女の電話を待つのは、ピンボケかポン引ぐらいなもんだ。おれ趣味じゃねえよ」

「あら、あら。本当に帰るの……?」

「電話掛ったら、おれもう京都にいねえよと、言っといてくれ」

「本当、それ。あたしあんたにリベラルクラブへはいって貰おうと思ってたのよ。知ってるでしょう、リベラルクラブ。同伴者がなければ入会できないのよ。アベック、素敵じゃないの。おほほ……」

 場ちがいのけたたましい笑いだった。

「アベックか。ふん」

 鼻の先で笑って、

「アベックは旅に限るよ。旅は道連れ、一夜は情けか」

 京吉は軽薄に言って、さア行こうと娘の手を取ると、

「──見よ、東海の朝帰り!」

 口ずさみながら、出て行った。



東京へ



 隣の部屋の話声で眼がさめた。枕元の時計を見ると、もう十時であった。

 しかし、章三にとってはまだ十時だ。

 章三はいつもは四時間ぐらいしか眠らぬ男だが、日曜日だけは夕方近くまでぐっすり眠ることにしている。寝だめをして置くのだ。田村という所は丁度それに都合よく出来ている。だいいち、貴子という女の体には、一種ふしぎな体温と体臭があり、エーテルのように章三を眠らせる作用を持っているのだ。ぐっすり眠ってしまう。忙しい章三にとっては、土曜日以外に会ってはならない女であり、日曜日の寝だめには重宝な女である。

 だから十時に眼がさめたのは、めずらしい方なのだ。しかし、眠りをさまたげたのは、隣の部屋の話声ではない。とすれば、一体何であろう。

 眼をさましたのは、彼の自尊心と情熱だ。いや、彼にとっては、自尊心と情熱とは同じものを意味する。自尊心だけが彼の情熱をうみ出すのである。

 そして、この情熱は今陽子に集中されているのだ。

 彼が陽子の父の中瀬古鉱三に陽子をくれといったのは、最初鉱三を訪問した時に陽子が章三に見せた高慢な表情のせいだった。陽子の眉はひそめられたのだ。好悪感情のはっきりしている陽子は、章三のような男のタイプには好感が持てなかった。章三の全身にみなぎっている自尊心が、元来自尊心の強い陽子を反撥したのであろう。爪楊枝職人の息子は、侮辱されたと、誇張して考えた。そして、この考えが直ちに陽子へのだしぬけの求婚に移るところに、章三の面目がある。即ち、章三にとって求婚とは陽子を侮辱する最も効果的な手段であり、鉱三に対する軽蔑も少しはあった。もともと、章三は鉱三の如き政治家を、少しも尊敬していなかった。尊敬していないから、金を出したのだ。

 ところが、陽子は章三との結婚をきらって家出した。

 章三の自尊心は完全に傷つけられた。この爪楊枝けずりの息子は、爪楊枝の先ほどの情熱も感じていなかった陽子に、はじめて情熱を動かされた。

「よし、いつかはあの女をおれの足許に膝まずかしてやる!」

 自尊心のためには、どんなことをもやりかねない章三だった。陽子を屈服させるためには、どんな犠牲を払ってもいいのだ。しかし、たった一つ、払ってはならない犠牲がある。いうならば、自尊心だけは犠牲にしてはならないのだ。

 だから、昨夜田村の玄関で陽子を見ても、章三は追うて行こうとしなかった。自尊心が許さなかったのだ。

「しかし、あの女が京都にいると判れば、こっちのもンや」

 ぼやぼや寝てられんぞ、と章三は寝床の中で、今日これから成すべきことを考えながら、隣室の話声をきくともなしに聴いていた。



「いい部屋じゃないの、この洋室。このままバーに使えるわね」

「使ってたのよ。ただのお料理屋や旅館じゃ面白くないでしょう。だから、バーっていうほどじゃないけど、まあ洋酒も飲めるし、女の子もサーヴィス出来るように、この部屋だけ特別に洋室にしたのよ。今はオフリミットになっちゃったけど、開店当時は随分外人も来たわよ。いい子もわりと揃えてたのよ」

「京都には女の子つきで一晩いくらっていう宿屋があるときいてたけど、ははアん……」

「何がははアんよ。だけど、本当……? 東京までそんなデマがひろがってたの……?」

「デマでもないんでしょう。モリモリ儲けてるんじゃない……?」

「旧円の時ほどじゃないわよ。警察が喧しいから、女の子もみないなくなったし、この部屋だって今は応接間に使ってるぐらいだから……」

「とにかくたいしたものよ。ママは……。どう、出資しない……?」

「ああ、さっきのキャバレエの話……? 面白いと思うけど……」

「百万円で出来るでしょう。ママ、半分出してくれたら丁度いいのよ。銀座でぱアッと派手に開店するのよ。わーっと来ると思うがな。ママをあてにして、わざわざ東京から飛んで来たんだから……。ねえ、乗らない、この話。……今から準備して、クリスマスまでには、百万円回収出来ると思うがなア」

「さア、東京でどうかしら。大阪の赤玉なんか西瓜一個で五千円動かせるって話だけど。……東京じゃ、新円が再封鎖になったりしたら、どかんとバテちゃうんじゃない……?」

「見くびったわね。まア一度東京を見ることね。話じゃ判らない。今夜あたしが帰る時、ママも一緒に行かない……?」

「あら、今夜もう帰るの……?」

「京都見物……? 田村で十分。焼けない都会なんていうおよそ発展性のない所を見物したってくだらないわよ」

「ご挨拶ね」

「うふふ……。それに、もう帰りの切符三枚買っちゃったの。まごまごしてると、国鉄ゼネに引っ掛ったりして、眼も当てれらない」

「首に繩をつけて、あたしを連れて行こうというのね。負けた。だけど、あとの一枚は……?」

「どうせママのことだから、途中で一風呂浴びてということになるんじゃない……? 誰か連れて行くでしょう」

「ばかね」

「エーヴリ・ナイト!」

「何よ。それ。エーヴ……。歯むき出して!」

「うふふ……。ママのことよ。今でもそう……?」

「ばかッ!」

 応接間で話しているのは、貴子と、東京から来た貴子の友達であろう。やがて話声が聴えなくなった。貴子は二階へ上って行ったようだった。

「侯爵のところだな」

 章三の眼は急に輝いた。昨夜春隆のところへ来ていた陽子!

 十分ばかりして、貴子は章三の寝ている部屋へはいって来た。



「あら。もうお眼覚め……?」

「うん」

 章三は腹這いのまま、手を伸ばして、煙草を取った。

「ライター……?」

 貴子がダンヒルのライターをつけようとしている間に、章三はもうマッチを擦っていた。ダンヒルのライターには、マッチを擦った時のぽっと燃える感じがない。それがいやだという章三の気持の底には、貴子と陽子の比較があった。

 魅力という点では、陽子は魅力の乏しい女だ。逆立ちしたって、貴子ほどの魅力は出て来ない。陽子がどれだけ処女の美しさに輝いていようと、高貴な上品さを漂わしていようと、教養があろうと、知性があろうと、一日一緒におれば、退屈するだろう。そう章三は観察していた。

 いわば、マッチの軸のように魅力がない。しかし、その陽子にジイーッと音を立てて燃える感じがあると、章三が思うのは、軸を手に持って、スッと擦る時の残酷めいたスリルに自尊心の快感を予想するからであろう。爪楊枝がマッチの軸を焼き亡ぼしてしまうのだ。そして、そんな野心がふと恋心めいた情熱に変っているのだから、所謂男の心は公式では割り切れない。

 火のついた軸から、ふと眼をはなして、章三は貴子を見た。貴子は昨夜のショートパンツではなかった。二十の娘が着るような花模様のワンピースを着ていた。エキゾチシズムからエロチシズムへ、そして日曜日の朝は、豚肉のあとの新鮮な果物のような少女趣味!

 章三の頭に陽子が浮んでいなかったら、この貴子の計算も効果があったかも知れない。

「東京でキャバレエやろうという話あるんだけど……」

 章三から金を出させようと思っているのだ。

「…………」

「何だか、銀座でいい場所らしいから、今夜行って見て来ようと思うんだけど……」

「誰と……?」

「ああ、お友達、来てるのよ。あとで会ってあげてね。ちょっと綺麗よ」

「それより、ゆうべ乗竹のとこへ来てた女、あれどこの女や」

「さア……」

「ここへは……?」

「はじめてでしょう。どうせ、どっかの玄人じゃないかしら」

「靴とりに来えへんのか」

「まだでしょう……?」

「乗竹は……? まだ居とるのンか」

「侯爵……? 帰ったわ、今……」

「ふーん」

「あなたは、これからどうなさる……?」

「大阪へ帰る」

「東京へ行くひまなんか……?」

「まア、ないな」

 そう言いながら、章三は、こいつ乗竹を誘って行くつもりやなと、キラッと光る眼で貴子を見た。そして、新聞をひろげると、

「売邸、某侯爵邸、東京近郊……」

 そんな広告が眼にとまった。



 章三はゾッとするような凄い笑いをうかべて、

「こりゃ面白くなって来よったぞ!」

 と、その新聞広告を見ていた。

「某侯爵邸と書いとるが、こらてっきり乗竹侯爵のことにちがいない」

 章三は偶然というものを信じていた。自分の事業家としての才能や、頭脳回転の速度や、闘志は無論信じていたが、それ以上に偶然を信じていたのだ。

 爪楊枝けずり職人の家に生れたのは、偶然だ。そして、この偶然がやがてかずかずの偶然を呼んで、三十五歳の無名の青年実業家が、二十一年度の個人所得番付では、古い財閥の当主の上位を占めるという大きな偶然を作りだしたのだと、彼は思っていた。

「偶然に恵まれんような人間はあかん」

 これが彼の持論だ。もっとも、考えようによっては、誰の一生も偶然の連続であろう。しかし、偶然に対する鈍感さと鋭敏さがあるわけだ。章三は絶えず偶然を感じ、それをキャッチして来たのである。しかもそれを自分にとっての必然に変えてしまうくらい、偶然を利用するのが巧かった。いや、利用するというより、偶然に賭けるのだ。そして、賭にはつねに勝って来た。幸運に恵まれた男だというわけだが、しかし、例えば爪楊枝職人の家に生れたという偶然を、結局幸運な偶然にしてしまうまでには、絶えず偶然の襟首を掴んで、それに自分を賭けるというスリルがくりかえされて来たのだ。自信はあったが、しかし、必ず勝つときまった賭にはスリルはない。

 だから、章三にとって偶然を信ずるということは、自分は絶えず偶然によって試されて行く人間であり、しかもその時自分の頼るのは結局天よりも自分だけだということであろう。

 例えば──、新聞は誰でも読む。新聞のない一日はユーモアや偶然のない一日より寂しいくらいだ。祇園のあるお茶屋では、抱えの舞妓に新聞を読むことを禁じた。彼女はパンツの中へ新聞をかくして、便所の中で読んだという。昔は若い娘が新聞を持って町を歩いている姿は殆んど見られなかったが、最近では夜の町角で佇む若い軽薄な背のずんぐりした娘でも、ハンドバッグと一緒に新聞をかかえている。猫も杓子も読むのだ。しかし、同じ新聞を同じ時にひらいても、一番さきに眼にはいるのが、同じ記事だとは限らず、某侯爵邸の売物の広告が何よりも先にぱッと眼にはいるのは、余ほどの偶然であろう。

 しかも、この偶然を陽子、春隆、貴子、貴子の友達、東京行き……などという偶然に重ねてみると、もはや章三にはその売邸が乗竹侯爵邸以外のものであるとは思えず、今日一日の行動がもはや必然的にきまってしまった。そして、その行動がひろがって行くありさまを、描きながら、さりげなく貴子にきいた。

「何時の汽車にするンや」

「急行だから、夜の九時頃でしょう」

「車よんでくれ。飯はいらん」

「あら、もうお帰り!」

「急ぐんや。君の友達によろしく。どうせまた会えるやろ」

 章三はにやりとした。



身上相談



 猫も杓子も新聞を読む。同じ記事を読んでいる。われわれが思っている以上に、猫の関心も杓子の関心もみな似たり寄ったりである。しかしまた、われわれが思っている以上に、猫も杓子も同じ問題に関心を抱いているとは限らないのだ。

 われわれが思っている以上に、ひとびとは一番さきに新聞の同じ欄を見るだろうし、また、われわれが思っている以上に、ひとびとが一番さきに見る欄は、それぞれ違っているのだ。

 たとえば、坂野という男は、まっさきに身上相談欄を読む。そのあとで、ほかの欄を読む──こともあるし、読まぬこともあるが、とにかく身上相談欄をまっさきに読むことだけは、一日も欠かしたこともない。もっとも、一日もというのは、誇張だ。載っていない日があるからだ。

 今朝の新聞には載っていた。細君が逃げてしまっても、身上相談欄はちゃんと彼の傍にいた。その欄を読むという習慣は、実は細君の影響だが、細君がいなくなっても、この習慣だけはヒロポン注射同様逃げてしまわない。

 だから、坂野はまずヒロポンを二CC打った。それから今日の身上相談欄を読んだ。そして、改めて細君に逃げられたことを想い出して、ふんがいした。

「問──私の出征中、妻は、御主人は前線から帰りませんよという一巡査の言葉に偽られて、不倫の関係に陥り、ついに子供まで出来てしまったのでした。

 その上相手は私の勤務先の手当や、子供の貯金まですっかり消費してしまい、終戦となるや、私の復員をおそれて無籍の嬰児を連れたまま行方をくらましてしまいました。妻も今では、捨てられたと詫びて、苦しんでおりますが、このような相手が公職にいるとは、国家のためにも許されないと思います。また連れて行った赤ん坊について調査の方法はないものでしょうか。赤ん坊は相手の意に従ってまだ籍が入れてありません」

「答──戦争はそれ自体が悲劇ですが、その悲劇に巻き込まれた国民の生活、これは最も悲惨で苦悩の深いものです。あなたの胸中をお察しします。同時に奥さんについても一概に不貞の妻としてかたづけてしまうのは、気の毒のように思います。

 私どもは出征者の遺家族の生活というものを知りすぎるほど知っています。もし奥さんが前非を悔いておるなら許してあげて、再び平和な家庭をつくって下さい。

 ことにお子さんたちの将来を考えるとき、私はそれを希望します。それにしても相手の巡査はけしからん奴です。遺家族とあれば一層保護を加うべき任にありながら、色と慾の二筋道をかけるなど実に言語道断です。

 その男の勤務していた警察署に頼んで探し出し、厳重な処置をして貰って下さい」

 読み終ると、坂野はいきなり、

「ばか野郎!」

 とどなった。



 その時、

「何が、ばか野郎なんだい……?」

 と、にやにや笑いながら、木崎がドアをあけてはいって来た。赤い眼をしばだたいているのは、昨夜坂野に打って貰ったヒロポンが効きすぎて、眠れなかったのであろう。

「聴えましたか。──いや、なに、おたくに言ったわけじゃないです。一寸これ見て下さい。ひでえもんですよ」

 坂野は新聞の身上相談欄を見せた。木崎はざっと眼を通して、

「なるほど、こりゃひどい!」

「そうでしょう。怒ったね、あたしゃ。全くこりゃ怒りもんでさアね。とんがらかる理由がざっと数えて四つはありまさアね。ひでえ話だよ、こいつア……」

 昔漫談をやっていただけに、真剣に喋っていても、坂野の喋り方は何か軽佻じみていた。

「まず第一に、よりによって、昨日の今日、こんな身上相談が出ているなんてね。罪ですよ。罪な野郎だよ、全く……。あたしゃアね、木崎さん、これを読んだ途端、女房の奴、てっきり男をこしらえて逃げやがったなと、ピンと来ましたよ。いや、それに違えねえ。ヒロポンだけで逃げるもんですか。だいたい、あたしと女の馴れ染めはね、あたしがまだ小屋に出ていた時分でしてね、え、へ、へ……。女房もその小屋で、ハッチャッチャッ……てね、足をあげて、踊ってましてね。つまり、踊り子。あたしゃ、これでも音楽家ですからね。先生ッ! ですよ。ねえ、先生ッ! と来やがった。徹夜稽古の晩にね、あたし眠いわと来やがった」

 そこで坂野は、ぶるぶるッと肩をふるわせて、もはや喜劇役者の身振りであった。

「──待ってましたッてとこですね。しかし、あたしゃ、眠いのかい、じゃ、一緒に寝ンねしようや──なんて言わない。夜が更けりゃ泥棒だって眠いや。辛抱、辛抱! 今夜のうちにあげてしまわなくっちゃ、明日の初日は開かんよ──ってね、実にこれ芸人の真随でさアね。すると、奴さん、眠くってたまらないのよ、ヒロポン打って頂戴! よし来た、むっちりした柔い白い腕へプスリ……、これがそもそも馴れ染めで、ヒロポンが取り持つ縁でさアね」

「じゃ、あんたのヒロポンは承知の上じゃないか」

「そうなんですよ。今更ヒロポンがどうの、こうの……。何言ってやがんだい。男が出来て逃げたに違えねえですよ。どこの馬の骨か知らねえが、ひでえ男だ。まるで、この警官でさアね」

 と、新聞を指して、

「──捨てられて、孕まされて、ポテ腹つき出して、堪忍どっせと帰って来たって、あたしゃ、承知しませんよ」

「しかし、そりゃ一寸気を廻し過ぎじゃないかな」

「いや。てっきりでさア。賭けてもいいね」

 百パーセントそれでさアねと、坂野が言った時、アパートの階段を登る足音が、

「見よ、東海の朝帰り……」

 という鼻歌と一緒に聴えて来た。



「坂野さん」

 京吉は部屋の前まで来ると、馴々しい声を出した。

「──はいってもいい……?」

「あ、京ちゃんか」

 それで、はいれと言ったのも同じだった。

「はいりますよ。うっかり、あけられんからね、この部屋」

 京吉はドアを一寸あけて、首だけのそっと入れると、

「──おや、お客さん……?」

 と、言いながら、はいって来た。そして、木崎に向って、ピョコンと頭を下げた。木崎はおや見たような顔だなと思いながら、挨拶をかえした。

「人ぎきの悪いことを言うなよ。──第一覗かれなくっても、もう手遅れでさアね」

 逃げちゃったよと、坂野はケラケラと笑ったが、さすがに虚ろな響きだった。

「へえーん」

「京ちゃん、どう思う。女房のやつ男が出来たと、あたしゃ思うんだが、どうかね。おたくの観察は……」

「そりゃ、てっきりですよ」

 京吉は香車で歩を払うように、簡単に言った。

「──女って、だらしがねえからな。いつ逃げたんだ。昨夜……? ふーん、そうだろうと思った。土曜日だからね」

 土曜の夜は女のみだれる晩だという、藪から棒の京吉の意見の底には、古綿を千切って捨てるような、苛立たしいわびしさがあった。

「そうか。おたくもそう思うか」

 坂野はいきなり京吉と握手した。木崎はふと顔をそむけて、自分だけがひとり女の弁護にまわりたい気になっている矛盾を、煙草のけむりと一緒に吐きだしていた。しかし、坂野が、

「ねえ、木崎さん、あたしゃ、絶対許しませんよ。許してやれなんて、身上相談の解答こそ、まさに許しがたいと思いませんかね」

 と、言うと、はや木崎はいつもの木崎であった。

「いや、こんな解答が平気で出来るという点が、身上相談担当の重要な資格になるんだよ。いちいち、質問者の心理の底にまではいっておれば、結局解答者は失格さ。警察へ届けて姦夫を処罰して貰え、女房は許してやれ。──こんなお座なりの解決で気が済むなら、誰も身上相談欄へ手紙を出すもんかね。財布を落しても、今時、警察へ届けろなんて、月並みなことを言う奴はいないよ。姦夫を処罰して貰ったって、悩みは残るさ。前非を悔いているから、許してやれ──か。ふん。学問が出来て、社会的地位があっても人間のことは、何にも判ってないんだ。ねえ、君、そうだろう」

 木崎は京吉の方を向いた。

「おれ、そんなことどうだっていいや」

 京吉は舌の先についた煙草の滓をペッと吐き捨てて、

「それより、坂野さん、おれにヒロポン打ってくれ。それで来たんだよ」

 と、腕を差し出した。



「ヒロポン……? よし来た。ここン所坂野医院大繁昌だね」

 坂野はにやりと木崎の顔を見ながら、ケースの中からヒロポンのアンプルを取り出し、アンプル・カッターを当てて廻すと、まるで千切り取るように二つに割った。ポンと小気味のよいその音は逃げて行った細君へ投げつける虚ろな挑戦の響きの高さに冴えていた。

 興奮剤のヒロポンは、劇薬であり、心臓や神経に悪影響があるので、注射するたびに寿命を縮めているようなものであった。しかし、不健全なものへ、悪いと知りつつ、かえって惹きつけられて行くのがマニヤの自虐性であり、当然アンプルを割る音は頽廃の響きに濁る筈だのに、ふと真空の虚ろに澄んでいるのは、頽廃の倫理のようでもあった。

 だから、坂野はうっとりとその余韻をたのしみながら、

「──京ちゃんもいよいよわが党と来たかね。毎日でも打ってやるよ」

「いや、今日だけでいいよ。注射、痛いだろう……? おれ趣味じゃねえや。痛くないやつやってくれよ。ねえ、たのむよ。ねえ、痛いんだろう。しかし、痛くってもいいや。今日は特別だから。麻雀に勝てればおれ我慢するよ。しかし、あんまり痛いの、おれいやだぜ」

「大丈夫だ。何でも痛いのははじめのうちでさアね。麻雀するのかい」

「うん。昨日寝てないからね。下手すると負けるからね。負けたっていいが、しかし、負けるとおれ東京へ行けないからね。──坂野さん、本当に痛くないね……? あ、チッチッ……」

 針がはいったのか、京吉は顔をしかめた。坂野は注射器のポンプを押しながら、

「──東京へ行く……?」

「うん。おれもう京都がいやになったんだよ。坂野さん、金ないだろう。貸しちゃくれんだろう……? だから、麻雀で旅費つくるんだよ」

 田村へ帰って、ママに無心すれば、金は出来ぬこともなかったが、陽子が昨夜泊ったのかと思えば、田村へ帰る気はせず、それにもともと嫌いだったママのことが今は田村と共に虫酸が走り、顔を見るのもいやだった。そんな気持が、京吉の放浪の決心を少し強めたのであろう。麻雀にはダンス以上に自信はあったし、それで儲けた金を旅費にしようとセントルイスを出た途端思いついてみると、何かサバサバと気持がよかった。

 だから、靴磨きの娘を、アパートの入口に待たして置いて、ホールで顔馴染みの坂野をたずねて来たのだった。京吉の行く麻雀屋は祇園の花見小路にあり、アパートからは近かった。

「どうだ、痛くないだろう」

 坂野は針を抜き取ると、ペタペタと京吉の腕をたたいた。

「痛いや。そら見ろ! 血が出てやがるぜ」

「血が出て痛けりゃ、鼻血が出せるか。──どうです、木崎さん。おたくも……」

「やって貰おうかな。眠気ざましに……」

 木崎の腕に針がはいった時、

「木崎さアン、お電話ア……」

 女中の声が廊下で聴えた。



 名前は清閑荘だが、このアパートはガタガタの安普請で、濡雑巾のように薄汚なかった。おまけに一日中喧騒を極めて、猥雑な空気に濁っていた。

 そんな清閑荘の感じを一番よく代表しているのは、おシンというその女中で、ずんぐりと背が低く「ガタガタのミシン」とかお化けとか綽名がついているくらい醜かった。声も醜く、押しつぶされたように荒れていたのは、一日中流行歌をうたっているせいばかりでなく、この女中の生活の荒れでもあった。人間はよかったが品行はわるく、木崎の名を「キジャキ」と発音して、木崎を見る眼がいつも熱く燃えているので、木崎は辟易していた。

 おシンはアパートのたれをも好いたが、ことに木崎を好いていたようだった。が、それも相手にする者はいない──ということになっていたが、しかし、おシンはいつも女中部屋のドアをあけはなして、あらわな寝姿を見せながら寝た。そして、酔っぱらった誰かが帰って来て、おシンに近づいて、いたずらしかけても、おシンはただ鼾をとめるだけで、眼はあけようとはせず、翌日はけろりとした顔であった。十九歳だという。

「あら、いないわ。──木崎さアん」

 おシンは木崎の部屋の戸をあけたらしい。

「ここだア!」

 坂野がどなると、おシンはバタバタとはいって来て、

「あら、また注射。──木崎さん、お電話ア」

「今、手が離せんよ」

 注射器のポンプを押しながら、坂野が代って答えた。

「だって、警察からよ」

「警察……?」

 なんの用事だろうと、木崎は咄嗟に考えたが、思い当らなかった。昨夜チマ子がライカを盗んで逃げた──そのことに関係した用件だとは、気がつかなかった。

「今、手が離せんといえ」

 坂野はわざとゆっくりポンプを押していた。

「だって、警察よ」

「じゃ、留守だと言っとけ!」

「本当にそう言ってもいいの」

「警察もへちまもあるもんか」

 坂野は身上相談欄で悪徳巡査のことを読んでたので、まるで自分の細君が巡査と逃げたような錯覚を起していたせいか、ふと警察への得体の知れぬ反撥を感じていたようだった。

「──用事があれば、向うからやって来まさアね。ね、木崎さん。悪いことさえしなきゃア、警察なンて、自転車の鑑札以外に用はねえや。──断っちゃえ。留守だよ、木崎三郎旦那は留守でござんす」

「あんたに言ってないわよ。木崎さん早く行ってよ。あたし叱られるわよ」

 しかし、坂野がなかなか針を抜かないので、おシンは、

「──知らないよ。叱られたって」

 そう言いながら、バタバタと尻を振って出て行った。



「あ、一寸、おシンちゃん!」

 坂野のふざけた調子を面白がっていた木崎も、さすがに少しは気になって、おシンを呼び戻そうとした時は、おシンはもうチャラチャラと階段を降りていた。

 京吉はそんな容子をにやにや見ていたが、急に、

「おれ帰るよ。ヒロポンもりもり効いてやンね。辛抱たまりやせんワ!」

 と、起ち上ると、はや麻雀のパイの、得意の青の清一荘(チンイチ)の頭に浮んだ構図にせき立てられるように、

「──さいなアら! 御免やアす」

 舞妓のように言って、出て行った。

 そして、管理室の横を通り掛ると、

「……木崎さん、お留守ですわよウ!」

 と、はすっぱなおシンの声が聴えていた。苦笑しながら、京吉は玄関を出て行ったが、ふと立ち停ると聴き耳がピンと立った。

「──盗難……? あ、写真機ですか。あ、それでしたら、昨夜たしか……」

 おシンがそう言いかけた時、京吉はいきなり管理室へはいって、おれにかせと、おシンの手から受話機を奪い取って、

「あ、もしもし。何でしたっけね」

「あなたは……?」

 電話の声はいかにも口髭が生えていた。

「僕ですか。えーと……」

 にやりと笑って、

「──事務所の者です。今出てました女中は一寸頭のゼンマイがゆるんでますので、僕が代りました」

 おシンに背中をどやしつけられながら、京吉は肚の中でケッケッと笑い声を立てていた。

「木崎さんは……」

「留守のようです」

「昨夜、あなたン所で盗難があったでしょう……?」

「はてね」

「木崎さんの写真機が盗まれたはずですがね」

「へえーん。そんなはずはありませんがね。何にもきいておりませんがね」

 からかうという積りではなかった。ただ不良青年特有の本能で、犯罪というものを無意識にかばいたい気持が、京吉を電話口に立たせていたのであろう。

「チマ子という娘知りませんか。木崎さんとどんな関係があるんですか」

「チマ子……?」

 と、驚いてききかえしたが、さりげなく、

「──さア一向に……。ところで、何かあったんですか。チマ子……という娘……」

「いや、べつに……。御面倒でした」

「あ、もしもし……」

 しかし、電話は切れていた。京吉は受話器を掛けて、おシンにきいた。

「昨夜何かあったの……?」

「木崎さんのライカがなくなったのよう」

「誰が……?」

「盗んだのか、木崎さん何とも言わないわ。警察へ届けないのよ」

「へえーん。チマ子が盗んだのか」

「チマ子、チマ子って、一体誰なの……? あんた知ってるの……?」

「いや、べつに……。おれ知るもンか」

 京吉は狼狽気味であった。



 ちょうどその時、表で待ちくたびれていた靴磨きの娘が、

「兄ちゃん、まだア……? はよ行こう!」

 と、管理室へはいって来たのは、京吉にはもっけの幸いだった。

「よっしゃ。行こう」

 行きかけて、ふと振り向くと、京吉の右の掌が、

「──おシンちゃん、おめえ、これだろう……?」

 と、腹の上に半円を描いた。

「京ちゃん、判るの……?」

 おシンはびっくりしたような眼を、くるくる廻していた。誰にも勘づかれなかったのにと、若いくせに女の体に敏感な京吉の眼が、気味悪くもあり、頼もしくもあった。

「困ってンだろう……?」

「はばかりさま。ちゃアんと父親は……」

「あるのよ」──と言いたかったが、誰だか判らず、おシンは坂野の細君にだけは、ひそかに打ち明けていた。坂野の細君もどうやらそれらしかった。祇園の方に、簡単に手術してくれる医者があるらしく、紹介してやると坂野の細君は言っていた。細君もおろす肚だったのだ。ところが、昨夜逃げてしまったので、おシンはもう諦めていた。

「月が早けりゃ、注射一本でも平チャラだよ。坂野さんに打って貰ったらいいよ。ねえ、おシンちゃん。そうしろよ」

 坂野さんは注射薬なら何でも持っているからと、言って、京吉は、

「京ちゃん、たまにいらっしゃいよ」

 おシンのゲタゲタした笑い声を背中にきいて、清閑荘を出て行った。

 チマ子のことは少しは気になっていたが、しかし、もう一度坂野の部屋へ戻って、木崎から事情をきこうという気になれなかったのは、

「おれの知ったこったねえや。どうだっていいや」

 という気まぐれな無関心であった。こまかく神経が働きながら、京吉にはどこか粗雑な投げやりがつきまとっていた。

 そのくせ、靴磨きの娘が、

「兄ちゃん、あたいもう兄ちゃんが出て来えへんと思って、心配してたンえ」

 と言いながら、いそいそとぶら下って来た小さな手の触感には、敏感だった。

 十二歳でありながら、京吉がこれまで触れて来たどの女の手よりも、ザラザラと荒れていたのだ。それがこの青年のわずかに残っている無垢な心を温めた。

「お前、東京生れだろう……?」

「うん。あたいコビキ町で生れたのよ。あたいのお家煙草屋。あたいの学校、六代目と同じよ。銀座へ歩いて行けたわ」

「田舎へ行くより、東京の方がいいだろう。やっぱし東京へ行こう」

「うん。こんな汚い恰好で銀座歩くのンいやだけど、兄ちゃんと一緒だったら、いいわ」

 高台寺の道を抜けて、円山の音楽堂の横を交番の近くまで来た時、京吉は石段下の方から登って来た若い女の姿を見て、おやっと立ち停った。



 占領軍の家族であろう。日射しをよけるための真赤なネッカチーフで、頭を包んだ二人の女が、その女の前でジープを停めて、話し掛けていた。

 写真を撮らせてくれと頼んでいるらしい。女は困って、半泣きの顔で、ノーノーと手を振っている。

 コバルト色の無地のワンピースが清楚に似合う垢ぬけた容姿は、いかにも占領軍の家族が撮りたくなるくらい、美しかったが、しかし足には切れた草履をはいていた。

 図書館や病院で貸してくれるあの冷めし草履だ。その草履のために、写されることをいやがっているのだろうか。

 しかし、京吉は、その女がなぜそんな草履をはいているのだろうと、考える余裕もなかった。

 いや、眼にもはいらなかった。

「あ、陽子だ!」

 と思いがけぬ偶然に足をすくわれていたが、しかし、偶然といえば、その時、陽子が写真をうつされることに気を取られていなかったとしたら、陽子も京吉に気がついていたかも知れない。しかし、偶然は、陽子の視線を京吉から外してしまった。

 そして、更に偶然といえば──偶然というものは続きだすと、切りがないものだから──京吉が陽子の傍へ行こうとした途端、

「おい、君!」

 と、交番所の巡査に呼び停められた。

「何ですかね……?」

「一寸来たまえ! お前も来い!」

 巡査は京吉と靴磨きの娘を、交番所の中へ連れてはいった。

 なぜ呼びとめられたのか、京吉はわけが判らず、むっとして、

「何か用ですか」

「名前は……?」

「矢木沢京吉!」

「年は……?」

「二十三歳」

「職業は……?」

「ルンペン」

「何をして食べとる……?」

「居候」

「その娘は、お前の何だ……?」

「…………」

「なぜ答えぬ」

「お前といわれては、答えられん!」

「ふーむ。その娘は君の何だ……?」

「妹です」

「職業は……?」

「見れば判るでしょう……? 靴磨きです」

 京吉はそう言いながら、陽子の方を見た。陽子は結局写されたらしい。そして、二言、三言、占領軍の家族と言葉をかわしたかと思うと、彼女たちのジープに乗った。

「あ、いけねえ!」

 今のうちに掴まえなくっちゃと、思わずかけ出そうとしたが、

「どこへ行くんだ……?」

 巡査の手はいきなり京吉の腕を掴んだ。

 やがて、陽子を乗せたジープは、交番所の横を軽快な響きを立てて走って行った。





 留置場では、釈放されて出て行く者を「鳩」という。

 陽子はチマ子が予言した通り、一晩留置されただけで、鳩になった。

 ブラックガールの嫌疑で検挙されたのだから、ひとにも言えぬ恥かしい取調べを受けたのだが、処女と判ればもう疑いの余地はなかったのだ。

 恥かしい想いをしたことで、陽子は泣けもしない気持だった。それに、なお困ったことには、靴がなかった。木文字章三に見つけられた以上、むろん田村へは取りに行けなかった。アパートへ電話して警察まで靴を持って来て貰うことも一応考えたが、事情を説明するのがいやだった。ありていに事情を打ち明ければ、かえってあらぬ疑いを掛けられるようなものだから、十番館の朋輩にも頼めない。

 こんな時、頼りになる茉莉は死んでしまっている。結局、頼めるのは京吉ひとりだった。京吉だったら、田村へ行ったことは知っているし、気軽にひきうけてくれそうだし、それに、靴を頼むことでかえって昨夜の清潔さの証明にもなるわけだと、警察の電話を借りてセントルイスへ電話してみた。

 いなかった。もう一度掛けるから、もし京吉が来たら待って貰っていてくれと頼んで置いて、十分ばかしして、また掛けてみると、

「京ちゃん、たった今帰りましてよ。ことづけ……? しましたわ。でも、電話が掛って来たら、もう京都にいないとそう言って置いてくれって、女の子と出て行きましたわ。おほほ……」

 けたたましい笑い声は、セントルイスのマダムの夏子の癖であったが、陽子はそんなことは知らずあざ笑われたように思った。

 電話が掛かることを承知していながら、わざと「女の子」と出てしまうなんて、ばかにされたような気がした。

「いいわ」

 もう京ちゃんなんかと二度と口をきくものか、靴なんかどうでもいい、はだしで歩く──と、陽子は真青になって警察を飛び出しかけたが、しかし、まさかはだしで歩けない。警察の小使が草履を貸してくれたので、それをはいて、出ると、その足ですぐ木崎を訪ねることにした。

 茉莉のアパートへも寄らなかったのは、チマ子に頼まれた用事を少しでも早く果さねばと思ったからであった。もっとも、木崎には陽子自身も会わねばならぬ用事があった。

 ところが円山公園まで来ると、占領軍の家族から写真を撮らせてくれと言われた。

「あたしは昨夜から写真ばっかり撮られている」

 悲しい偶然だと呟きながら、改めて草履ばきのみじめさに赧くなって、

「ノーノー。アイム・ソリイー。エキュスキューズ・ミイ」

 ブロークンの英語を使って断ろうとしたが、結局写された。が、その代り、彼等はお礼の意味で、ジープで送ってやろうと言ってくれた。

 陽子は草履ばきで歩くみじめさからやっと救われた想いで、ジープに乗った。そして、そんな一寸した騒ぎのおかげで、到頭交番所の中にいる京吉には気がつかなかった。

 しかし、気がついても声を掛けたかどうか。──ジープはやがて清閑荘の前に着いた。



 自動車を降りようとした時、陽子は、

「あなた、ダンス出来る……?」

 ときかれて、うなずくと、

「じゃ、こんどの日曜日、パーティに来ません……?」

 自動車のマダムたちは、陽子が気に入ったらしかった。ブロークンの英語が喋れるという点も彼女らには珍らしかったのであろう。

「ありがとう。もし行けましたら……」

 辞退のつもりで陽子は言ったのだ、が彼女らには、承諾の意味に聴えたらしく、ここへアドレスを書けと、手帳を出された。

「ノー・サンキュウ!」

 と、はっきり断るには、陽子は余りに日本人であった。とにかく、アパートの所を書いて渡すと、

「こんどの日曜日、夕方の五時に、このアドレスの所へ、自動車で迎えに行きます。よくって……?」

「ありがとう」

 わざわざ送っていただいて──と、陽子が車を降りながら言ったその言葉は、パーティーへ招待されたことへの感謝の「ありがとう」にもとれて、それで約束出来たのも同然だった。

 そよ風の吹く松林の道を、自動車は風のように下って行った。

 赤いネッカチーフを巻いた頭がふり向いて、秋の日射しの中に振られている血色のよい手が見えなくなるまで、陽子も手を振っていたが、おずおずとした振り方しか陽子は出来なかった。ちょうど陽子の立っている所は、清閑荘の建物に太陽の光線がさえぎられて、日かげになっていたが、陽子の心もふと翳っていた。

 陽子は十番館へはいる時、姓はかくしたが、名前は本名をそのまま使ったくらい、自分の持っているものの中で、陽子という名が一番好きだった。明るく陽気に、太陽の光の下で生きるという人間本然の憧れを、自分の名は象徴しているのだと、思っていた。が、今、自動車に乗っているアメリカの女性たちの屈託のない明るさを見ると、明るいとか陽気にとか、太陽の光の下で──などという形容詞が、うかつに使えぬような気がして、ふと思えば、自分もまた、この陰欝な清閑荘の建物にふさわしい人間かも知れないと、気が滅入ってしまった。

 誇張していえば、一町先が晴れても、そこだけが曇りその上を吹きわたる秋風の色がふと黒ずんで見えるような、そんな清閑荘だった。

 建物も陰欝だったが、しかし、やがておシンに案内されて、木崎の部屋へはいって行った時、陽子は木崎の表情の陰欝さに驚いた。

 木崎はちょうどドアをあけて、出かけようとしているところだった。東京の雑誌社から、

「シャシンイソグ……」

 すぐ送らぬと間に合わぬという意味の催促の電報が来たので、断りの返事を打つため郵便局へ出かけようとしていたのだ。

「あら。お出掛け……?」

 自動車で送って貰わなかったら、会い損ったわけだと、陽子はほっとしながら言ったが、

「…………」

 木崎はだまって部屋の中へ戻りながら、ちらと陽子の足許を見た。その表情がぞっとするくらい陰欝だったのだ。



 木崎の陰欝な表情については、

(なまなましい嫉妬が甦ったのだ)

 と、一行の説明があれば、もはや明瞭だろうが、しかし、表情というものは、心理のズボンに出来た生活の皺だ。一行の説明はズボンの皺を伸ばすアイロンの役目をするだろうが、言葉のアイロンに頼っても、目に立たぬ細かい皺は残っているはずだ。が、この細かい皺を説明するには千行の説明を以てしても不十分だ。まして、泛んでは消え、消えては泛ぶ心理の皺は、いや、意識の流れは、ズボンの皺のように定着していない。

 だから、一行を不足ともいえず、千行を過とするわけにもいかないが、しかし、人間のある瞬間の表情を、過不足なく描写する方法は、一体どこにあるのだろうか。

 ありきたりの言葉、ありきたりのスタイルを以てしても、過不足なく描写出来たと思い込んでしまうのは、自分の人間観察力に与える秩序の正しさを過信しているからだろうか、小説作法の約束というものへの妄信からだろうか。

 ──などという、こんな前書きは、作法には外れているから、小説作法の番人から下足札を貰って、懐疑の履物をぬぎ、つつましやかに小説の伝統の茶室にはいり、描写の座蒲団の上に端坐して、さて、作法通りに行けば──。

 木崎ははいって来た陽子の顔を見た途端、しびれるようななつかしさと同時に、何か、

「しまった!」

 という悔恨に狼狽したのだ。得体の知れぬ悔恨であった。

 陽子がなぜ自分をたずねて来たのか、まるで判らなかったが、カメラのレンズだけで覗いていた陽子が、今こうして一個の肉体となって現実に自分の前に現れて来た以上、もはや陽子は赤の他人ではなかった。

 はじめて、十番館のホールで陽子を見た時、

「似ている!」

 亡妻の八重子に似ていると、どきんとしたことは事実だが、しかし、仔細に観察すれば、他人の空似というほども似ていず、ただ少し感じが似ているというだけに過ぎないのだ。が、木崎は仔細に観察する余裕なぞなく、ホールの雰囲気の中で踊っている陽子の後姿をカメラの眼で追っているうちに、陽子の姿は嫉妬というレンズの額縁の中で捉えた亡妻の影像に変ってしまっていたのだ。

 だから、陽子が眼の前に現れたのは、木崎にとっては八重子の影像がレンズから脱け出して来たのも同然であり、もはや似ているというような生やさしいものではなかった。当然しびれるようななつかしさを感じたのだが、しかし、それは恋情というものだろうか。

 恋情とすれば、それはもう苦悩の辛さを約束したのも同様であり、心の自由を奪われてしまうことは覚悟しなければならない。だから、しまったと、悔恨を感じたのだ。

「到頭来たのか。やっぱし来たのか。何がこの女をおれの前へ連れて来たのか」

 という悔恨であった。それが木崎の表情を陰欝にしたのだ。この女とはきっと何かが起るだろうという予感には、いそいそとした喜びはなく、何か辛かったのだ。

 しかし、なぜ来たのだろう。木崎は陽子が口をひらくのを待った。



「わたくしお願いがあって、上りましたの」

 十番館では「あたし」と言っていたが、陽子には、改まって言う時の「わたくし」の方が似合っていた。すくなくとも、とってつけたようには聴えず、ダンサーに似合わぬ育ちの良さ……と、木崎の耳には聴えた。

 それがふと、木崎には悲しかった。しかし、それは、上品な育ちのよい女が身をおとして行く淪落の世相へのなげきではなかった。やはり、ダンスというものについて木崎の抱いている偏見のせいであった。清楚な女とダンスというものを、結びつけて考えたくないという偏見だ。事情は個人的なものだった。

 木崎にとっては、ダンスとはつねに淫らなリズムに乗って動く夜のポーズであり、女の生理の醜さが社交のヴェールをかぶって発揮される公然の享楽であった。

 だから、結びつけて考えたくないのだが、げんに陽子が結びついている。八重子が結びついていたように……。なぜ、ダンスなどするのかと、それが悲しかったのだ。むりやり悲しんでいたのだ。そして、ますます重く沈んでいた。

「──お願い二つございますの。どちらも無理なお願いですの。きいていただけるでしょうか」

「とにかく伺いましょう」

 木崎はじっと陽子の眼を見た。陽子も木崎の眼を見た。眼と眼とが触れ合ったが、しかし、陽子の眼は何一つ語っていなかった。木崎の眼の熱っぽさにくらべて、陽子の眼は取りつく島がないくらい、冷やかであった。眼は触れても、心は通わず、若い女というものは若い男と二人いる場合たいてい無意識のうちに恋愛へのスリルを感じている──という俗説に反撥するような、冷やかな無関心に陽子は冴え切っていた。

 だから、言葉は事務的であった。

「実は、昨夜十番館でおうつしになったフィルムを、わたくしにいただきたいのです」

「なぜ……?」

「理由は申し上げたくございませんの。言えませんの。──理由を申し上げなくっちゃ、フィルムをいただけないでしょうか」

「いや、きいてもきかなくても同じ事です。お譲りすることは、どんな理由があっても、出来ません」

「なぜ……?」

「理由は言えません」

 陽子と同じ返事をしたのは、皮肉ではなかった。陽子は暫らくだまっていたが、やがて、

「なぜ、わたくしをおうつしになられましたの……?」

「その理由も、今は言えません」

「…………」

「それより、あなたはなぜダンスなどしているんです」

 木崎はいらいらした声になっていた。

「生活のためです」

 陽子もむっとしていた。

「ダンサーをしなければ食えないんですか」

 追っかぶせるように、木崎は言って、陽子をにらみつけた。



 木崎ににらみつけられて、陽子の眉はピリッと動いた。自尊心が静脈の中をさっと走ったようであった。

「じゃ、おききしますが、ダンサーになってはいけないんですか」

「いけない!」

 木崎は思わず叫んでいた。

「なぜ、いけないんですの」

「…………」

 咄嗟に木崎は答えられなかった。持論だが、言葉にはならなかったのだ。なぜ、いけないのか、その理由はこれだと、昨夜うつしたホール風景の写真──陽子の後ろ姿の、ふと女体の醜さを描いた曲線を、見せるよりほかに、致し方のないものだった。

「あなたはダンサーという職業を軽蔑してるんでしょう……?」

「軽蔑……?」

 びっくりしたように、木崎はききかえした。

「ダンサーだって真面目な職業ですわ」

 陽子の口調は、新聞記者に語るダンス教師のように、ふと正面を切っていた。

「──ダンサーは労働者と変りはないんです。わたくし達は、三分間後ろ向きに歩いて、八十銭の賃金を貰う労働者です。わたくし達は、一晩のうちに、何里という道を歩くのです。人力車夫と同じ肉体労働者です。真冬でも、ぐっしょり汗をかきますわ」

 ああ、その汗……と、木崎は想い出した。背中のくぼみにタラタラと流れるその汗を、木崎は、女の生理のあわれな溜息のように見たのだった。

 その同じ汗を、亡妻の八重子は死ぬ前の日に流していたのだ。

 木崎は夏に八重子と結婚した。木崎の借りていたアパートの一部屋で過した初夜の蚊帳を、木崎は八重子と二人で吊った。暗くして、螢を蚊帳の中に飛ばした。螢のあえかな青い火は、汗かきの八重子のあらわな白い胸のふくらみの上に、すっと停って瞬いた。

 しかし、胸を病んでからの八重子は、もうどんなに暑い夜でも、きちんと寝巻を着て、ひとり蚊帳の中に寝た。汗をかく力もないくらい、衰弱していたのだ。

 そして、死ぬ前の晩、八重子はか細い声で木崎を蚊帳の中に呼び入れて、

「短い縁だったわね」

 ポロリと涙を落して、木崎の頭髪を撫でていたが、急にはげしく燃えた。

「ばか、死ぬぞ!」

「死んでもいい! 死んでもいい!」

 と、叫ぶ八重子の体は寝巻の上から触れても、火のように熱く、掌には汗がにじみ、八重子の最後のいのちを絞り出したような、哀しい触感だった。──木崎はこの時ほど、妻の中の女のあわれさを感じたことはなかったのだ。

「しかし、その汗は、男に絞り出された汗じゃないか! 男と手を握り合って流す汗じゃないか」

 木崎は苛々した声で言った。陽子はものも言わず、いきなりハンドバッグを掴んで、起ち上った。



「おやッ!」

 怒ったのか──と見上げた木崎の顔へ、陽子は投げつけるように、

げすッ!」

 白い眼をキッと向けたかと思うと、もう背中を向けていた。

 そして、さっと部屋を出て行こうとしたが、はいてみれば草履はみじめだった。陽子は半泣きになったが、しかし、ドアの音だけは、さすがに自尊心のように高かった。木崎はぽかんと坐っていた。

「何がげすだッ!」

 と、追って行こうともしなかったのは「げす」と言われたことに、むしろ喜びを感じていたからだ。

 勿論、木崎は自分をげすだとは思っていなかった。しかし、女というのを官能の角度からでしか見られない自分のデカダンスを、もはや主張する気にもなれないくらい、木崎はデカダンスであったが、しかし、げすと言われたことに甘んずる自虐の喜びではなかった。

 陽子が自分を「げす」と呼んで、ふんがいして出て行ったことを、デカダンスの沼に溺れている自分が掴むせめてもの藁にしたかったのだ。矛盾ではあったが、しかし、それが恋情というものであろう。なぜ陽子がそんな薄汚い草履をはいて来たのか、木崎には判らなかったが、しかし、草履をはいた陽子の後姿は、いつまでも瞼にこびりつき、淡い失恋の甘さにも似た後味があった。

「これでいいのだ」

 ほっとした諦めであった。陽子を見た途端「しまったッ!」もうおれはこの女とはただでは済まない──という悔恨が、薄れて行く安心であった。

 木崎は煙草に火をつけた。そして、かつて八重子への嫉妬に苦しんでいた頃、「法華経」の中から見つけ出した──

「愛する者に相逢うなかれ」

 という文句をふと想い出していると、煙草は孤独のにおいがした。

 しかし、配給の「ひかり」はすぐ火が消えた。木崎はごろりと仰のけに転って、天井をながめた。

 天井には蜘蛛が巣をつくっていた。

「女たらしになってやろうか」

 何の連想か判らない。が、だしぬけに泛んだこの考えに、木崎はどきんとした。

 その時、いきなりドアがあいた。木崎ははっと起き上った。ドアをあけたのは陽子だった。

 陽子は真青な顔で突っ立っていた。肩がふるえていた。

 そして、そのふるえが、身体全体に移ったかと思った途端、陽子はいきなり木崎の前へぺたりと坐った。



「木崎サン!」

 陽子ははじめて木崎の名を口にして、

「──あなたはなぜ、わたくしを侮辱……」

 しなければならないのか──という、あとの声はふるえて出なかった。

 そんなに昂奮している状態が、陽子はわれながら情なかった。

「げすッ!」

 と、いって一旦飛び出したのにおめおめと戻って来るなんて、自尊心が許さなかったが、しかし、やはり戻って来たのは、ただ、チマ子のことづけがあるためだけだろうか。

 何か得体の知れぬものが陽子を引き戻したのではなかろうか。しかし、それが何であるかは、陽子には判らない。

「侮辱なんか僕はした覚えはない」

 木崎はぽつりといった。

「──あなたは勘違いしているんだ」

「じゃ、どうしてあんなことをおっしゃるんです」

「…………」

「あなたは、なぜダンサーという職業を軽蔑されますの……?」

「軽蔑はしていない。しかし、もし軽蔑しているように聴えたとしたら、それは……」

 僕があなたを好いているためだ──といいかけた時、天井から蜘蛛がするすると陽子の頭の方へ降りて来た。

 木崎はいきなり手を伸ばして、蜘蛛を払おうとした。

 陽子はぎくっと身を引いた。

「蜘蛛です」

 木崎はひきつったように笑い、もう、陽子を好きだということは思い止った。

 女たらしになってやろうか──などという心にもない思いつきは、女を軽蔑する最も簡単な方法だったが、しかし、そんな思いつきの中にも、陽子だけは、たらしたくないという気持はあったのだ。

 そんな木崎の気持は、陽子にすぐ通じたのか、もう陽子の声も安心したように落ちついて、

「木崎さん、わたくしの願いをきいていただけます……?」

「ききましょう」

 木崎はもう素直な声だった。それがどんな願いであろうと、もう陽子にはその願いをききとどけてやることが、木崎のせめてもの愛情の表現であった。触れたいということのない愛情であった。

「実は……」

 と、陽子もチマ子のことづけを伝えて、

「──警察へそういって助けてやっていただけます……?」

 木崎はだまって、うなずいた。やがて陽子は起ち上った。

「おや、もう……」

 帰るんですかと、木崎の顔には瞬間さびしい翳が走った。

「いずれまた……」

 陽子は階段を降りて行きながら何かしらもう一度このアパートへやって来ることがありそうな気持に、ふっとゆすぶられていた。



キャッキャッ団



「間抜けたポリ的(巡査)もあったもんだ。おれを樋口だと思いやがるんだよ。円山公園感じ悪いよ。うっかり女の子連れて歩くと、ひでえ眼に会う」

 祇園花見小路のマージャン倶楽部「祇園荘」で、パイを並べながら、言っていた京吉もやがて鉛のように黙り込んでしまった。

 相手はグッドモーニングの銀ちゃん、投げキッスの泰助、原子爆弾の五六ちゃん──この三人は、マージャン倶楽部専門の不良団で、キャッキャッ団と称し、いつも三人一組で市中のマージャン倶楽部でとぐろを巻いており、いいカモが来れば、三人しめし合わせて、賭金を巻き上げるのだった。

 京吉はキャッキャッ団の手を知っていた。しかも、キャッキャッ団を相手に一勝負しようという気になったのは、マージャンの腕への過信であろうか。それとも、インチキに挑戦して行く破れかぶれの賭のスリルだろうか。

 京吉はたちまち旗色が悪くなって行き、イーチャンが済む頃には、もう四千もすっていた。

「京ちゃん、やけに大人しいね。ウンとかスンとか、音を上げたらどうだ」

 グッドモーニングの銀ちゃんがにやにやしながら言った。

「バクチと色事は黙ってしなきゃア、意味ないよ」

 京吉はそう応酬していたが、しかし顔色は蒼白になっていた。

「──バクチは負けるほど、面白いんだ」

 半ば自分に言いきかせながら、京吉はガメっていたが、テンパイになった途端に、いつも上りパイを押えられていた。

 北北(ペーペー)の風が廻って来た時、京吉に北が二枚あった。紅中(ホンチュン)が二枚。うまく行けば、スー(四)ファンの、満貫(マンガン)に近い手で上られる。

「しめたッ!」

 と、叫びながら、京吉は投げキッスの泰助が捨てた北のパイをポンして、泰助に向って、

「チュッ!」

 と、キッスを投げた。

 その時倶楽部の会計で金を払っている若い男の革の財布が、京吉の眼にはいった。

 その財布に見覚えがある!

「あッ!」

 おれの財布だと、京吉が起ち上ろうとした途端、グッドモーニングの銀ちゃんが紅中(ホンチュン)を捨てた。

「ポン!」

 京吉は威勢よく声を掛けて、

「──これは貰わずに置くものか」

 パイを拾いながら、もう財布どころでなかったが、急に隅の方のソファに坐っていた靴磨きの娘を呼んで、何ごとか囁いた。



「オー・ケー」

 娘は弾んだ声でうなずくと、いそいそとその男のうしろから祇園荘を出て行った。

「おや、邦子さん、消えちゃったね」

 グッドモーニングの銀ちゃんが言った。

「いえ、なに、ちょっと、そこまで煙草を買いに……。え、へ、へ……」

「御機嫌だね」

「絶対ですワ」

 北北(ペーペー)と紅中(ホンチュン)をポンして、四(スー)のファンのテンパイになった京吉は、もう掏摸どころではなかったのだ。

 何も娘にいいつけて、尾行させたりしなくても、一言「掏摸だ!」と騒ぎ立てれば、もうそれでよかったのだが、しかし、せっかくの満貫(マンガン)直前の気分を、そんなことでこわしたくなかったのだ。親の死目に会えぬマージャンの三昧境であった。

「五万」か「八万」のパイで上りだった。しかし、キャッキャッ団の三人はさすがに「万」パイは警戒して、自分たちの手をくずしてまで「万」パイを押えていた。だから、京吉はツモって上るよりほかに仕方がなかった。

「よしッ、ツモってみせる!」

 京吉の眼はギラギラと輝いていた。ダンスを踊らせても、玉を突かせても、マージャンを打たせても、何をやらせても、京吉は天才的な巧さを発揮したが、とくにマージャンの場合、京吉の巧さとは、いざという時には、無理なパイでもツモってみせるという闘志と勝負運の強さだった。

 そして、そんな瞬間だけ、生き甲斐を感ずるのだった。

 二十三歳という若さでありながら、何ごとにも熱中することが出来ず、倦怠した日々を送ってる京吉にとっては、日々の行動は単なる気まぐれでしかなく、たとえば、靴磨きの娘を連れての放浪や東京行きの思いつきも、マージャンで旅費を稼ごうという思いつきも、その相手にわざわざキャッキャッ団を選ぶという思いつきも、みんな、どうでもいい、気まぐれに過ぎなかったのだが、一たんパイのスリルの中にはいってしまうと、もう、それだけが京吉の青春であり、何ごとも忘れて熱中出来たのだ。

 東京行きの旅費が稼げるかどうかというようなことはもう問題ではなかった。何点すってしまうか、あとのイーチャンで取り戻せるかどうか、もし負ければ、無一文の自分には賭金が払えないが、どうすればいいだろうか──など、そんなことは、念頭にはなかった。

「五万か八万をツモってみせる!」

 これだけしか考えていなかった。

「流しちゃえよ。キャッキャッとね」

 と、投げキッスの泰助が言った。

「いや、おれツモるよ。ツモれや紫、食いつきゃ紅よ。色できたえたこのキャッキャッだ」

 京吉はそうふざけながら、しかし、表情だけはさすがに固く、パイを取って来ると、くそッと力を入れてその表を撫ぜた。



 京吉はパイをツモる時に、気合を掛けるようなことはめったにしなかった。が、ここぞという一枚にだけは「くそッ!」と、声に出した。そして、そんな時は、もうどんなパイも思いのままのパイに変えてみせるという魔術使いのようなインスピレーションに憑かれており、狙いはめったに外れなかった。自信がなければ、気合は掛けなかったのだ。追い込んで、抜く自信がある時だけ、ゴール直前で使う名騎手の鞭のような気合であった。

「くそッ! 五万!」しかし、五万でも八万でもなかった。

「なんだ、紅中(ホンチュン)か!」紅中ならカンになっており、リンシャンカイホウ(同じパイが四枚の時、もう一度ツモってそれで上る上り方)のチャンスがある。

 一同ははっと固唾を呑んだ。グッドモーニングの銀ちゃんは、煙草の火のついた方を口の中に入れて、火を消してしまった。弁士上りのグッドモーニングの銀ちゃんは、ひとの二倍は唇が分厚かった。

 京吉はもう黙って、手の汗を拭くと、すっと手を伸ばして、リンシャンパイを掴んで、ギリギリと掻くようにパイの表を撫ぜた。見なくとも、触感だけで判る。五万だった。京吉はがっかりしたように、パイを倒した。

「おれ知らねえよ。満貫だよ。五八(ウーパー)のトイトイだ。ウーファンだ。満貫だろう。意味ないよ。キャッキャッだ。怒るなよ。おれ辛いよ。感じ悪いだろう。おれのせいじゃないよ。怒るなよ」

 とりとめもないことを、ひとりペラペラ喋っていると、ふと孤独の想いがあった。

「ひでえキャッキャッだよ。おれも随分キャッキャッは見て来たが、おたくのようなキャッキャッははじめてだ。こうなりゃ、おれもやけだ。五六ちゃん、おれたちもキャッキャッで行こうよ」

 グッドモーニングの銀ちゃんがガラガラとパイをかきまぜながら言うと、祇園荘の女が、

「キャッキャッって、一体何のことです……? はい、満貫の景品!」

 卓子へ寄って来て、景品の煙草を置くと、何気なく京吉の肩へ手を載せた。

「揉んでくれ。おれも年取ったよ」

 京吉はふと女の顔を覗きこんで、ほう、ちょっといけるな──。いきなり、

「──今夜一緒に寝ようか。キャッキャッとは即ち寝ることだよ」

「知りまへん」

 女は赤くなって逃げて行った。

「いやか。いやで幸いだ。義理何とかは三年寿命が縮むと来てやがらア」

 パイを並べながら、もう軽佻浮薄な口を利いている、このとりとめなさは一体何であろう。一度満貫のスリルを味わってしまえば、もう交尾を終った昆虫のように、緊張は去り、ヒロポンの切れ目にも似た薄汚い粉だらけのような黄色い倦怠が来ていたのだろうか。

「ところがまた、そういうのに限って、よく孕みやがるんでね。ひでえ目に会うたよ。いやいや口説いたんだよ」

「いやいやねえ……?」

「はい。いやいや口説きました。孕みました。キャッキャッですワ。人妻ですワ。亭主にアコーディオン弾きを持つぐらいの女だから、アコーディオンみたいにすぐ腹のところがふくれやがる」

 銀ちゃんがそう言った途端京吉はおやっとパイから手を離した。



「だけど、銀ちゃん、それ、本当にあんたの子なの……? 坂……」

 野の子じゃないか……と、京吉はうっかり坂野の名を口にしかけたが、あわてて、いえさ、亭主の子かも知れないぜ──と、言い直した。

「余計なお世話だい。女はおれの子だと言ってるんだ。まさか、亭主の子だとは突っ放せまい。おれもグッドモーニングの銀ちゃんだ」

 ひょんな所で、グッドモーニングの銀ちゃんを利かせたが、もともと銀ちゃんは京極の盛り場では、本名の元橋で知られた相当な与太者であった。しかし、銀ちゃんは今では元橋という名を捨てて掛っている。与太者としての顔を、敗戦後のどさくさまぎれの世相の中で利かすことをむしろ軽蔑し、わざとグッドモーニングの銀ちゃんなどという安っぽい綽名を作って、自嘲しているのだった。

 銀ちゃんにいわせると、与太者というものは、結局バクチ打ちで、女たらしで、宵越しの金を持たぬ、うらぶれた人種だというのである。ところが、銀ちゃんの仲間の多くは、闇市のボスになり、キャバレーと特殊関係を作り、またたく間に産をなして、もはや宵を越さずに使おうと思えば四十万円、百万円の別荘を買うよりほかに方法がない。げんに買った連中がいる。

 敗戦当時、彼らはよれよれの国民服に下駄ばきだった。しかし、半月ばかりすると、彼等は靴をはいていた。五日たつと、ジャンパーを着ていた。三日たつと、りゅうとした背広を着て、革の鞄をさげていた。間もなく髭をはやし、目もさめるような美人を連れてホールで踊っていた。そして、ついに別荘を買ったのである。ところが銀ちゃんは、

「与太者が企業家になって、別荘を買うとは何たるキャッキャッの世の中だ。別荘から出て来たと思ったら、もう別荘を買ってやがる」

 と、言いながら、一日一日影うすく落ちぶれて行って、子分も投げキッスの泰助と原子爆弾の五六ちゃんの二人っきり、わけのわからぬキャッキャッ団を作って、

「──与太者はバクチで稼げばいいんだ」

 マージャンクラブに出没していたが、大したカモも掛らず、宵を越す金も危なかった。が、それで満足していた。ボスとなった仲間への、ささやかな抗議であった。だから、酒を飲んでも、安いアルプ・ウイスキーしか飲まなかった。ところが、そのアルプ・ウイスキーがいけなかったのだ。

「アルプのおかげで、おれもひとの女房に手を出すようなへまをしたンだ」

 と、銀ちゃんは、昨夜から自分のアパートへ来ている女のことを、ちらと想い出した。亭主の所から逃げて来たのだ。

「女という奴は……」

 パイを揃えると、銀ちゃんはまずパイパン(白板)を捨てて、

「──済ました顔で、新聞雑誌読んでるが、バイキンみてえに食っついたら離れたがらねえ。パイパンみてえに捨てちゃえよ」

「じゃ、おれ拾うよ。パイパンおれの趣味だよ」

「ついでに、女も拾ってくれよ」

 この時、電話のベルが鳴った。



 ぎおん荘でございます──と、さっきの女が電話口に出た。

「はい。おいやすどっせ。どちらはんどすか。──えッ、セント……? あ、セントズイス、セントズイスどんな」

「舌を噛んでけつかる」

 と、グッドモーニングの銀ちゃんは笑いかけたが、無理に笑っているような感じであった。そして、

「──セントルイスならおれだ」

 と、パイを伏せて腰をうかせかけたが、急にそわそわして、

「──いや、留守だといってくれ」

 と、いつもの銀ちゃんに似合わぬ落ち着きのなさは、何としたことであろう。しかし、

「京ちゃん、あんたに……」

 掛って来たのであった。銀ちゃんはほっとしたように、尻を落ちつけた。

「おれに……?」

 と、京吉は長い睫毛を、音のするようにぱちりと上げて、

「──今日はおれいやに電話に縁のある日と来てやがらア」

 パイを伏せて、わざと片手をズボンのポケットに入れながら、立って行った。

「京ちゃん……? あたし、判る……? おほほ……」

 笑い声で、セントルイスの夏子だと判った。

「何でえ……? 電話ばっかし掛けやがって、株屋の番頭みてえに一日中電話を聴かされてたまりやせんワ」

「あら。お門違いよ。あたしは封切よ。誰かさんと誤解してるんじゃない。おほほほ……。認識不足だわ」

 どうも言っている言葉がいちいち場違いにチグハグだったが、それよりも、受話器を通すと、ガラガラした声が一層なまなましく乾いて、あわれな肉感味を帯びているのが、たまらなかった。

「誰かさンて、誰だ」

「多勢いるから判らないんでしょう。えーと、あの人じゃないの。えーと、陽子さん! あれからまた掛って来たのよ。もう京都にいないって言ったら、絶望的だったわよ。おほほ……」

「…………」

「あんた、まだ京都にいたのね」

「はい、恥かしながら、パイパンで苦労してます」

「パイパン……? 何よ、それ。──京都にいるなら、リベラル・クラブへ一緒に行ってよ。今晩五時、発会式よ」

「どうぞ、御自由に」

「あら。一人じゃ行けないわ。会員は同伴、アベックに限るのよ。素晴らしいじゃないの」

「そんな不自由なリベラル・クラブよしちゃえよ!」

 電話を切ろうとすると、

「あ、ちょっと、ちょっと、用事まだ言ってないわよ」

「何だ……?」

「おほほ……」

「ハバア、ハバア!」

「せかさないでよ。今、代りますから。あたしはただお取次ぎよ」

 おほほ……と、笑い声が消えると、誰かが代って電話口の前に立ったらしく、息使いが聴えた。



 誰だろう──と、声を待っていると、

「兄ちゃん……?」

 なつかしそうに、しかし、おずおずと受話器を伝わって来た声は、思いがけず、靴磨きの娘だった。

「──あたい、判る……?」

「うん」

「兄ちゃん、あたいなんぜ、こんなところから電話掛けてるか、判る……?」

 何かいそいそと弾んだ声だった。

「えっ……?」

 と考えたが、咄嗟には判らなかった。

「──おれ判るもんか。なぜ、セントルイスへ行ったんだい」

「判れへん……? ほんまに判れへんのン、兄ちゃん」

 じれったそうだった。

「判るもんか。なぜだ。言ってみろ!」

「…………」

 しかし、返辞はなかった。

「まかれてしまったのか」

 と、京吉は何気なく声をひそめた。娘に、あの男──スリを尾行しろと、ただそれだけ言ったのである。尾行して、それからどうしろ──と、注意を与える暇はなかった。だから、財布は戻るとは当てにしていなかった。ただ、わざわざスリを見つけながら、ほって置くのも癪だ──そんな軽い気持で尾行させただけである。娘がスリにまかれてしまったところで、べつに悲観もしない。ところが、

「ううん」

 まかれなかったわよ──という意味の声が、鬼の首を取った威張り方で聴えて来た。

「ほう……? 大したキャッキャッだね」

 と、京吉は思わず微笑して、

「──どこまで、つけたんだ……?」

「ここで言えないわよ。兄ちゃん」

 鮮かな東京弁だった。ははあんと、京吉は上唇の裏に舌を当てて、

「じゃ、そいつ、セントルイスにいるのか」

「うん……? ──うん!」

 ちょっとセントルイスの中を見渡してから、うなずいたにちがいない──その仕草が想像されて、京吉はこの瞬間ほど娘がいとしくなったことはなかった。

「──だから、兄ちゃん、早く来てよ」

「よっしゃ」

「ハバア、ハバアよ」

「オー・ケーッてばさ。あはは……」

 と、笑った機嫌で、

「──お前何て名だっけ……?」

「あたい……?」

 びっくりしたようにきき返したのは、子供心に名前をきかれたという意外な喜びにどきんとするくらいだったのか、

「──兄ちゃん、あたい、カラ子!」

 と、しっとり、答えた声は、もう女の声だった。そんな息使いだった。京吉がもとの席に戻って来ると、グッドモーニングの銀ちゃんはなぜか重く沈んでいた。

「お待たせ!」

 その回も京吉が上って、そのイーチャンが終った。

「しかし、二千すったよ。金はセントルイスで払う。銀ちゃん、一緒に来てくれよ」

 と起ち上ろうとすると、銀ちゃんは、あわてて、

「おいもうイーチャンやろう」

 と、ひきとめた。

「だって、おれ急ぐんだ」

「いいじゃないか! セントルイスはよせ」

 銀ちゃんの声は急に鋭く凄んだが、眼は力がなかった。



 京吉をひきとめた銀ちゃんの強気は、しかし、実はセントルイスで女を待たせてあるという弱みのせいであった。

 女は坂野の細君であった。

 銀ちゃんと坂野とは、坂野が京極の小屋へ出ていた頃の知り合いで、坂野が細君と結婚する時も、せめて形式だけでもと挙げた式は銀ちゃんのアパートで、銀ちゃんが盞をしてやったのだ。いわば仲人で、だから坂野も銀ちゃんを頼りにし、細君も夫婦喧嘩の時は銀ちゃんのアパートへ泣きついて行った。

 ある夜、ヒロポンのことから大喧嘩になり、飛び出した細君は銀ちゃんのアパートへ泣きに来た。遅いから、今夜は泊って行け、明日はおれが坂野の所へ行って謝らせて来てやる、くよくよせずに、これでも飲めと、グラスにウイスキーを注いだ。

 それがアルプ・ウイスキーだった。四条のある酒場へ行くと、顔で一本八十円でわけてくれる。公定価格は三円五十銭だが、それでも一本八十円のウイスキーは安い。死んだという噂もきかないから、少々眼にやにが出ても、メチルではあるまいと、専らこれにきめ、その晩も二人で二本あけてしまった。

 安いのと、口当りがいいので、ガブガブやったのが、いけなかったのだ。ほかのウイスキーではそんなことにもならなかったが、やはりアルプだった。銀ちゃんは前後不覚に酔っぱらい、意識が混濁したまま、坂野の細君と妙な関係になってしまった。細君も女に似ず強かったが、さすがに参っていた。

 坂野はむろん疑いもしなかった。昨夜は女房の奴がまた御厄介で──と、へんに律儀に恐縮していた。銀ちゃんは返す言葉もなかった。

 細君も悩んだが、しかし、この女は奇妙な女だ。悩んでいるかと思うと、あんなヒロポンマニアとは別れた方がましだと、サバサバしたり、不義の子を孕んだといって泣いたり、あんたの子うむのうれしいわとやに下ったり、ああ、おろしてしまいたい。

 と、とりとめがなかったが、昨夜いきなり、置いてくれと、家出して来た。

「そりゃ困るよ、だいいち坂野に知れたら……」

 銀ちゃんは少しでも女と一緒にいることを避けたかった。細君が逃げたと判れば、坂野はきっとその報告にやって来るだろう。夜が明けると、銀ちゃんは拝むように、

「どこかへ行っていてくれ」

「どこへ行ったらいいの。行く所ないわ」

「活動でも何でも見て来たらいいだろう。三時にセントルイスで会おう。相談はそれからのことだ」

 とにかく、ここにいてはまずいと、無理やり女を追い出した。しかし、三時に会うても何の話があろう。いい思案もうかばぬことは判り切っていたから、会うのが辛かった。

 イーチャンが終ると、柱時計を見上げて、五時を指している針を見た時、だから銀ちゃんは軽い後悔と共に、何か諦めた安心感を感じたが、実は時計は故障で停っていたのだ。まだ三時半だった。間に合う。いかねばならない。しかし、もうイーチャン打って、ずるずる時間を延ばすことが、この際のごまかしだった。

 無理に京吉をひきとめていると、風のようにふわりと一人の男がはいって来た。あッ。

 坂野だった。



 北(ペー)の風から良い手のつき出した男らしく、京吉はもうイーチャン打つことには十分食指が動いていた。が、セントルイスで待っているカラ子のこともあった。

 だから、銀ちゃんにすすめられて、ふと迷っていた。その矢先の坂野の登場であった。

「あ、坂野さん、いいところへ来た」

 と、京吉はもっけの幸いの声を出し、それでもう肚がきまった。

「──おれ、のくよ。坂野さん代ってくれよ」

 ねえ、その方がいいだろう──と、銀ちゃんの顔を見ると、

「…………」

 銀ちゃんはうなっていた。

 京吉と坂野が知合いだったことを、銀ちゃんは知らなかったのだ。だから、

「亭主がアコーディオン弾きだから、すぐ腹がふくれやがる」

 云々と、女のことで口をすべらせたのだが、思えば、うかつに言ったものだ。パイを捨てる手拍子につれて、ひょいとすべった言葉だが、どだいおれは弁士時代から口が軽いと来てやがる。

 銀ちゃんは毛虫を噛んだような顔で、しお垂れていた。

 その顔をちらと見た途端、京吉もはじめて、坂野が知らぬ間に銀ちゃんに細君を寝取られていたというホットニュースを想い出して、

「うえッ! こいつアひでえキャッキャッになりやがった」

 と、坂野を残して行く皮肉さを、ひそかに砂利のように噛んでいたが、しかし、この場の空気をにやにや見ているほど、京吉はいかもの食いではなかった。

「逃げるにしかず!」

 と、起ち上ろうとすると、坂野は、

「いいよ、京ちゃんやんな! せっかくヒロポン打ったんじゃないか。あたしア高見の見物だ」

 と、とめた。

 いや、その高みの見物になりたくないから逃げるのだと、京吉はそわそわして、

「おれ、セントルイスへ取りに行くものがあるんだよ」

「じゃ、おれ行って来てやるよ。どうせ女房を探して……」

 町という町からア、丘という丘を、あちらをも、こちらをも、探すは上海リル……という唄の文句を、自嘲的に口ずさみかけた途端、

「あッ!」

 と銀ちゃんが声を上げた。が、だれも気づかなかった。まして、坂野の細君がセントルイスで待っていることを、知る由もない。

「え、へ、へ……。なアんて、うまいこといって、この使いめったにひとにやらせてなるものか」

 これ取りに行くんだからねえと、親指と人差指で丸をつくって見せると、あッという間に祇園荘を飛び出して行った。

「おい、京ちゃん、京ちゃん!」

 グッドモーニングの銀ちゃんは、なに思ったか急に起ち上って、京吉を呼びとめた。



「なンや、銀ちゃん……」

 あわてふためいて……と、京吉は入口まで戻って来た。もっと傍へ来い……と、銀ちゃんは眼まぜで引き寄せると、京吉の肩に手を掛けて、

「さっきの話……」

 坂野には内証だぜ……と、囁きかけたが、急にふっと気が変った。京吉という男は、ひとは善さそうだが、それだけに口は軽そうだ。だから、京吉の口から坂野の細君とのことがばれるおそれがある──と、銀ちゃんは呼びとめて、口止めしようと思ったのだが、京吉の顔を見ると、何だか京吉に対して恥しいような気がして、もう言えなかったのだ。いや、京吉によりも自分に恥しかったのだ。あわてふためいた口止めは、男らしくもないと思ったのだ。おまけに、それではあんまり坂野が可哀相だ。もっとも、一切合財坂野に打明けるのも、坂野には酷だと思った。が、「知らぬは亭主」の坂野のいる前で、こっそり口止めは、坂野を侮辱しているようなものだ。京吉に知られてしまったのは罰が当ったようなものだから、

「喋るなら喋れ」

 と、成行きに任せるのが、自分としても気が楽だと、銀ちゃんはせめてこの点で捨身の裸になっていたかった。

「さっきの……?」

 と、京吉はききかえした。

「いや、さっきの二千点の金、いつ払うんだ」

 と、銀ちゃんはむりにそこへ話を変えた。

 なアんだ、それで呼びとめたのかと、京吉は軽蔑したような口つきになって、

「ちゃっかりしてるね。払うよ。セントルイスへ行きゃア、はいるんだ。今日中に払うよ。銀ちゃん、そんなんかね。おれ見直すよ。感じ悪いや。払やいいんだろう」

 プイと怒って、出てしまった。銀ちゃんは憂欝な顔で卓子へ戻って来た。

「銀ちゃん、どうした。女に振られたんじゃないですか。元気溌剌じゃないですな」

 坂野はうかぬ顔でパイを撫ぜていた。

「そういうおたくも、からきし元気溌剌じゃないね」

「あッしですか。」

 坂野は苦笑して、

「──女房逃げちゃったンでさア」

「へえン」

「だから、ショボショボしょげてるッてんじゃねえですがね。人間あんまり腹が立つと、目まいがしていけねえ。くらくらッとね」

「大事にしてくれよ」

「女房をですかい」

「いえさ、体を。ヒロポン打ちすぎるンじゃないか」

「大丈夫でさア。漫才のワカナは一日六十本打ってもピンピン生きてまさア。それより、銀ちゃん、アルプはいけませんぜ。あれ航空燃料だといいますぜ、しまいにゃ、アップアップ、てっきりでさアね」

「うん。てっきりだね」

 銀ちゃんはそっと坂野の顔色をうかがったが、急に、

「──おい、場をきめよう! どうせ短い命だ!」

 喧嘩腰のような声になった。



暮色



 東京や大阪のバラック建ての喫茶店は、だいいち椅子そのものがゴツゴツと尻に痛く、ゆっくり腰を落ちつけて雰囲気をたのしむという風には出来ていないが、さすがに京都の喫茶店は土地柄からいっても悠長だ。

 例えば、セントルイスには半日坐り込んでいる常連がいる。三条河原町のD堂という古本屋の主人など、自分の店に坐っている時間よりも、セントルイスの片隅に坐っている時間の方が多いのだ。

 この主人の人生の目的は享楽にある。しかし、多くの金を要する享楽は、彼にとっては不愉快そのものだ。出来るだけすくない金で、出来るだけ効果的に楽しむことが、彼にとっては、真の享楽なのだ。彼はこの主義にもとづいて、毎日セントルイスでねばる。なぜなら、この店は場所柄先斗町あたりの芸者の常連が多く、それを見ていることが、彼にとっては目の正月であり、顔見知りの芸者を相手にいやがらせを言っておれば、お茶屋散財しているような気がするからである。むろん、芸者たちはいやな顔をする。が、どうせ金を使って散財しても、もてないことを知っているから、苦にはならない。色男を気取らず、見栄も張らず、けちで通った五十男らしいいやがらせを言っているのが、むしろサバサバしたたのしみであり、一杯十円の珈琲の高さが安くなるこの享楽にまさる享楽がほかにあろうか。京都人であった。

 セントルイスはめったに満員にならない。だからといってさびれているというわけではないのだ。京都では満員になる喫茶店なぞ殆んどないのである。しかし、たまにセントルイスが満員になることがあっても、彼は席を譲ろうとしない。泰然と落着きはらっている。チェーホフの芝居に出て来る下宿代を払わない老人のように、澄ましこんでいる。

「商談、お待ち合わせにお利用下さい」

 という女文字の貼紙の下で、あたかも誰かを待ち合わせているかの如き顔をしているのだが、むろん誰を待ち合わせているのでもない。

 しかし、D堂の主人を除けば、その時セントルイスにいたひと達は、まるで申し合わせたように、誰かを待っていた。

 マダムの夏子さえも、待っていた。京吉を待っていた。

 先斗町の千代若も旦那を待っていた。喫茶店で待ち合わせる旦那は、むろん上旦那ではなかったが、しかし、イロと旦那を兼ねた所謂イロ旦(那)はただの旦那、ただのイロよりもいいにはきまっている。だから、D堂の主人にからかわれながら、いつまでも待っていた。

 カラ子が祇園荘から尾行して来たスリも、誰かを待っているのか、いらいらしていた。

 そのカラ子は勿論京吉を待ちこがれていた。早く来てくれぬと、スリが出てしまう。カラ子は何度も表へ出て、京吉の来そうな方へ遠い視線を送っていた。が、来ない。

「遅いなア。どないしたンやろか」

 再びセントルイスへ戻って来たカラ子の心配そうな声をきいた時、一人の若い女がふっと顔を上げた。坂野の細君の芳子であった。

「遅い。本当に遅い。銀ちゃんどうしたんだろう」

 と、芳子はつり込まれたように、にわかに不安になって来た。



 三時に行くと銀ちゃんは言っていたが、もう四時をすぎている。狭い横町にあるだけに、セントルイスの店なかは、ただでさえ早い秋の暮色が、はやひっそりと、しかし何かあわただしく忍び込んでいた。

 もしかしたら銀ちゃんは来ないのではないかという心配が、その暮色のように迫り、芳子は、昨夜銀ちゃんのアパートへ転がり込んで行った時の、銀ちゃんの迷惑そうな顔を改めて想い出した。

「あたしが来ては、迷惑なんでしょう……?」

「迷惑じゃないが、困るよ」

「あたしがきらいなんでしょう……?」

「きらいじゃないが、ここにいちゃまずいよ」

「それごらんなさい。きらいなんでしょう」

「…………」

 坂野の手前困るんだ──という銀ちゃんの気持は、芳子には判らない。

 女というものは、こういう場合、相手が自分を好いているか、きらっているか──という二つのことしか考えず、それ以上のことは考えようとしない。すくなくとも、そんな顔をしている。三時セントルイスで会おうという口実でアパートを追い出されたのは、相手が自分をきらっているせいだ、──という風にひたすら思い込んでしまうのだ。

 その証拠に、三時の約束が四時をすぎても来ないではないかと、芳子はもう捨てられた女の顔であった。

 もっとも、はじめは銀ちゃんが好きでも何でもなかった。好きで結びついた関係ではない。アルプ・ウイスキーの魔がさした。──というより、酔ったゲップを吐き出すような、まるで冗談まぎれのような結びつきであった。出来心という言葉さえ、大袈裟であろう。ところが、そんな冗談から、もう銀ちゃんが忘れられなくなるという駒が出たのだから、肉体のつながりの不思議さは、われわれの考える以上だ。

 乗り掛った不義の駒を、動かせるのはいつも女の方だ。だから、芳子はわざとヒロポンにかこつけて、アンプルを割るという芝居までして、銀ちゃんのふところへ転がり込んで来たのだが、しかし、一つにはお腹の子供のこともあった。坂野にもそれと感づかれそうになっていたのだ。

 そのお腹の子のことがあるから、きらわれても、とにかくもう一度銀ちゃんに会わねばならない。が、銀ちゃんはどこにいるのだろう。アパートへ電話してみたが、むろんいなかった。半泣きの顔で、ふっと入口の方を見た途端、芳子ははっとした。京吉がはいって来たのだ。悪いところを見つけられたように、芳子はあわてて顔をそむけた。

 が、京吉はむろん芳子に気がついた。

「ははアん」

 セントルイスから祇園荘へ電話が掛った時の、銀ちゃんの狼狽ぶりが想い出された。京吉はわざと芳子には顔を向けて、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、くわえた煙草を、舌の先でペッと吐き捨てると、

「ひでえキャッキャッだ!」

 そのキャッキャッという言葉をきくと、芳子は何思ったか、急に起ち上って、京吉の傍へ来た。



「京ちゃん、あんた……」

 芳子はちょっと言いにくそうに、

「──元橋さんの居所知らない……?」

「元橋さん……? そんな男……」

 知るもんか、おれきいたこともねえよ──と、銀ちゃんの本名を知らない京吉は、寄ってきた芳子へ、わざとらしい背中を向けて、そしてカラ子とうなずき合った眼を、ちらとスリの方へ光らせていた。

 日頃の京吉は、友達の坂野よりも、むしろ細君の芳子の方へ、ペラペラと冗談口を利いていた。口は悪いが、しかし、それが一種の愛嬌になっていて、芳子も京吉がアパートへ遊びに来ると、何となく気がまぎれるのだった。が、その京吉の今日のこの不愛想さは一体どうしたことであろう。

 芳子は取りつく島のない想いの底に、何か後ろめたい気持を、ひやりと覗きながら、

「銀ちゃんのことよ。グッドモーニングの……」

 われにもあらず、赧くなっていた。

「おれ知らねえよ」

「あんた、銀ちゃんと会うて来たんじゃな……?」

「おれ知らねえよ」

 すねたように、うそぶいている言い方で、芳子には、京吉が今まで銀ちゃんと会うていたらしいと、判った。もっとも、さっき京吉が、

「ひでえキャッキャッだ」

 と、言った途端に、芳子にはピンと来ていたのである「キャッキャッ」というものは、銀ちゃんの口癖であり、その言葉が今京吉の口から出るのは、つい今のさきまで、会うていた証拠だ。

 どこで会うていたのか。芳子は、半時間ほど前に祇園荘へ電話をかけて、京吉を呼び出したことを、想い出した。京吉は祇園荘でマージャンをしていたにちがいない。そして、その相手は、もしかしたら銀ちゃんだったかも知れない。いや、そうにちがいあるまい。銀ちゃんは、まだ祇園荘にいるだろうか。

「ちょっと電話おかし下さいません……?」

 芳子はいきなり夏子にそう言って、祇園荘へ電話を掛けた。

 自動式ゆえ、どこへ掛けているのか、はじめはまるで見当がつかなかったが、

「もしもし、祇園荘さん……? そちらに……」

 という芳子の言い方で、すぐそれと判った──途端に、京吉は、

「あれッ、こりゃいけねえ」

 と、驚いて、芳子の言葉をさえぎるように、

「──だめ、だめ! いま掛けちゃいけねえよ。祇園荘、だれもいねえよ。いねえッたら!」

 坂野もいるんだとは言いかねた見えすいた嘘でごまかしていると、

「京ちゃん、邪魔しないでよ」

 京吉まで自分を銀ちゃんに会わすまいとするのかと、芳子はもう邪推のキンキンした声であった。

 その時、例のスリが急に立ち上って、勘定を払うと、セントルイスを出て行こうとした。

「兄ちゃん!」

 カラ子はじれったそうに、京吉の袖を引いた。



 カラ子にうながされて、京吉はすぐそのスリのあとをつけて出ようと思ったが、しかし、坂野の細君の芳子の方へ、気は取られた。

 放って置けば、芳子は銀ちゃんに電話を掛けるだろう。しかし、銀ちゃんの傍には今坂野がいる筈だ。芳子から銀ちゃんへ電話が掛ったことを、もし坂野がその場で知ったら、どんな波瀾が起きるか知れたものではない。よしんば、坂野が気づかなくても、銀ちゃんは困るだろうし、だいいち、京吉の気持としても、昨日までの亭主と情夫がいる場所へ、女が電話を掛けるという光景を、だまって見ているにしのびなかった。何かいやアーな気持だ。

「だめッたらだめだ!」

 よせッと、京吉はいきなり、芳子の手から受話機をひったくって、ガシャンと切ってしまった。芳子は真青になった。

「気ちがいッ!」

「おれ気ちがいなら、おめえはキャッキャッだ!」

「…………」

 芳子は肩をふるわせて、京吉を睨みつけていた。半泣きの顔だった。

「…………」

 京吉も半泣きの顔だった。──女ってみなばかだ。茉莉は死ぬし、陽子は誘惑されるし、この女は間男して亭主の所を逃げ出す……。おまけに、何も知らずに電話を掛けやがる。おやッ、姙娠してけつかる。おシンの奴もでかい腹だったっけ!

「兄ちゃん、早う……」

 行かないと見失うわよと、カラ子はそんな京吉に、気が気でない声をあげた。あ、そうだと、京吉はセントルイスを飛び出した。カラ子もついて飛び出して来て、

「あっちよ」

 と、河原町通りの方へ歩いて行くスリを指した時、芳子がバタバタと出て来た。そして血相をかえて、木屋町の方へ小走りに行こうとする──のを、京吉は、

「どこへ行くんだ……?」

 と、とめた。

「余計なお世話よ。どこへ行こうと……」

 あたしの勝手よ──と、いわんばかしに突っぱなしたそのいい方には、祇園荘へいるとにらんだ銀ちゃんに会いに行こうとする女の思いつめた激しさが読み取れた。

「おい、ちょっと待った」

「はなしてよ!」

「いや、はなさねえ」

「やぶけるわよ!」

「ねえ、待ってくれよ。祇園荘に行くんだろう……? ねえ、おれ頼むよ。行くのかんべんしてくれよ。ねえ、芳ッちゃん!」

「芳ッちゃん、芳ッちゃんって、お安くいわないでよ」

 と、いわれながら、京吉はしかし、ねえ、たのむよ、と、だんだん甘えるような哀願的な声になっていた。

 そして芳子をひきとめながら、ひょいと振り向くと、もうスリは河原町通りへ姿を消していた。同時にカラ子の姿も見えなくなっていた。



 四条河原町の三味線屋の飾窓の中に、委託品として陳列されているスリービーのマドロスパイプを吸口の所だけ照らしていた落日の最後のあかりも、市電を待っているうちにいつか消えてしまい、黄昏がするすると落ちて来た。古い都のうらさびた寂けさよりも、銀座風に植民地じみた雑然とした色彩の洪水の方がむしろ最近の特徴になっているこの界隈も、灰色の秋風が肌寒く走ると、さすがに古い京都らしいくすんだ黄昏たそがれ方であった。町も人もうらぶれたように風に吹かれて、都会の憂愁がほつれ毛のようにふるえていた。

 三味線屋の飾窓の前に立って、電車を待っているスリも、何かしらうらぶれていた。スリも人並みにうらぶれるのか。いや、その男はスリが本職ではなかった。本職のスリなら、電車を待つ行列の中にまぎれ込んでいるはずだ。ひとりぽつりと行列からはなれて、手巻きの、三分の一以上葉が抜けたような煙草を吸ったりしないはずだ。

 その男──北山正雄は大阪のある銀行の下級行員であった。商業学校の夜間部を出ると、出納係に雇われたが、間もなく応召し、五年の後復員して来たが、その五年の歳月はこの実直な青年の実直さを、すこしも変えていなかった。ボソボソとした小さな声も、応召前と同じで、ソロバンをはじく手にも五年間の異常な経験のしみはついていないようだった。けろりとした手だった。

 しかし、ただ一つ帰ってから闇の女を買うことを覚えた。

 ある夜、大阪の中之島公園で拾った娘に、北山は恋心めいた情熱を感じた。ところが、無理をして二三度会うているうちに、右の眼の下にアザのあるその娘はふいに中之島公園に現われなくなった。大阪駅前の闇の女の群の中にも見当らなかった。難波や心斎橋附近の夜の場所も空しく探したあげく、検挙されたのだろうか。病気だろうかと心配していると、ある日その娘から手紙が来て、

 ──大阪は何かときびしくなったので、京都へ来て働いている。こんどの日曜日、三時半に四条河原町の横町のセントルイスという店で待っているから来てくれ──という。

 飛び立つ思いとはこのことだと北山は日曜日が来ると、朝のうちにもう京都へついた。そして駅前で靴磨きに生れてはじめて靴を磨かせた。ところが、磨き終って金を払おうとするとズボンの尻のポケットに入れて置いた財布を掏られていることに気がついた。金がなくてはもう娘にも会えない。魂が抜けたようになって河原町通りを歩いていると、朝日ビルの前で靴を磨かせている若い男のズボンの尻から財布がはみ出していた。急に魔がさした。はっと思った途端、北山の手は伸びていた……。

「ああ、ああ!」

 その時のことを、北山はなまなましく想い出して、溜息とも叫びともつかぬ、得体の知れぬ声をうめきながら、ぶるんと首を振っていると、電車が来た。北山はそわそわと、しかし、何か心を残しながら、その電車に乗った。すると、そのうしろから、十二三の娘が急いで乗って来た。いうまでもなく、カラ子であった。



 電車が動き出すまで、少し間があった。その間、北山もカラ子もそれぞれ河原町通りの舗道を、窓ごしにキョロキョロ見ていた。カラ子は京吉が来るのを、待っていたのだ。

 せっかく祇園荘からセントルイスまで尾行して、電話で兄ちゃんを呼び出したのに、兄ちゃんはよその女の人にばっかし気を取られていたので、カラ子は結局機転を利かしてひとりで尾行して来たのだったが、さすがに嫉妬じみた気持に、カラ子は唇を噛んでいた。

 しかし、そのために京吉を恨もうという気もなかったのは、恋心の幼なさのゆえではない。ひとから優しくされることは、何となく諦めているこの少女の哀しいならわしだった。それゆえか、カラ子はひとから優しくされたいと願う前に、まず自分の方から献身して媚びて行こうとした。しぜん、ひとから頼まれごとをするのが好きだった。いや、頼まれぬことも進んでやりたがった。しかし、報酬はあてにせず、いわば孤児の感情のさびしさがさせる無償の献身であった。十二の小娘にしては、荷の重すぎるスリの尾行という仕事も、だからカラ子を、いそいそと弾ませていた。そして、それを立派にやりとげることが、京吉への恋心めいた気持の、せめてもの表現であった。

 電車が動き出した。カラ子はふと兄ちゃんとこのまま別れてしまって、もう二度と会えないのではないかという予感にさびしく揺れたが、眼はピカピカ光り、北山をにらんでいた。北山は未練たらしく、いつまでも河原町通りの方へ、視線を泳がせていた。あの娘を探していたのだ。その女のことがあるから、京吉の財布を掏ったのだった。さきに自分が掏られたことへの腹いせでもあり、魔がさしたともいえるが、しかし、その闇の娘を買う金という目的がなかったら、実直で小心な北山には、ひとを掏るなどという大それたことは出来なかったはずだ。掏ると、すぐ人ごみの中へ姿を消した。約束の三時半にはまだ間があった。行きあたりばったりに歩いていると、悔恨と恐怖が追うて来て、ジリジリと背中を焼いた。歩いていることが怖くなり、北山は祇園荘へ飛び込んだ。マージャンは戦地でならったことがある。マージャンで時間をつぶして、セントルイスへ行った。が、その娘はいつまで待っても来なかった。その娘が昨夜、仏壇お春たちと一緒に検挙されたとは、むろん北山は知らなかったのだ。

 いらいらと待っていると、いきなり、

「おれはこんな所でボヤボヤしていてもいいのやろか」

 という焦躁が、蛇のように頭をもたげて、北山の右の手首へからみついた。スリ、悪事、手繩! 気の小さい男だった。北山はソワソワとセントルイスを飛び出し、京都駅行きの電車に乗ったのだった。

 そして、女への未練と、一刻も早く京都を逃げ出したい気持を、二本の電車線路のように感じているうちに、電車は駅前についた。

 駅前の広場を横切る北山の足は速かった。カラ子はハアハア息をはずませて、チョコチョコついて行った。



 改札口をはいって階段を登ると、狭い通路を繩で仕切った中に、旅行者の群が陰欝な表情を無気力にうかべて、しょぼんとうずくまっていた。誰も立っている者はなかった。

 引揚者だろうか。それとも、汽車がはいるまで、その薄汚い通路で鈍い電燈のあかりを浴びながら、何時間も待たされているただの旅行者だろうか。ひとりひとりは独立の人格を持った人間だが、こうして群をつくっていると、もうそこから漂って来るのは、意志を失った一つの動物的な感覚のようであった。

 人々は彼等の傍を通り抜けながら、ふと優越的な気持が同情に先立つらしく、さげすみの眼をちらと投げて行ったが、北山の眼はそんな旅行者が羨ましい眼付だった。

 何もかも投げ出して、旅行者の中へもぐり込み、どこか見知らぬ土地へ行ってしまいたかった。うずくまっている旅行者の一人と、ふと視線が合った。何だか見覚えのある顔だった。

「…………」

 北山は半泣きの顔に弱々しい微笑をうかべて、何か言いかけようとしたが、その時駅員が前方からやって来た。北山ははっとして顔をそむけると、固い歩き方で通路を抜け、省線のプラットの方へ階段を降りて行った。駅員の服装が警官のそれに見えたのだった。

 女に会うという期待の下へ消していた「おれはスリを働いた」という悔恨の火が、会えずに帰る北山の背中に執拗に迫り、それを振り切って逃げようと焦る行手には、恐怖が怪獣のように立ちはだかり、ペロペロと法律の赤い舌を出しているのだった。

 大阪行きの省線はすぐ来た。高槻で座席があいたので、ぐったりとして坐り、向い側の座席にちょこんと坐っているカラ子を見た途端、

「おやっ!」

 北山ははじめて、カラ子が祇園荘からずっと自分について来ているらしい──と、気がついた。

 吹田を過ぎ、東淀川の駅を過ぎると、やがて南側の車窓に、北野劇場のネオンサインが見え、大阪はもう夜であった。大阪駅前の広場に、闇の娘たちが夕顔の蔓に咲いた夜の花のように、ひっそりとした姿を現わす時刻だ。

 北山は眼の下にアザのある娘がその中にいないだろうかと、空しく探す眼付になりながら、うしろからつけて来るらしいカラ子のことは瞬間忘れていた。

「いない」

 しかし、もしかしたら中之島公園にいるかも知れないという藁のようなはかない希望は、北山の足を中之島公園へ連れて行った。

 北山は公園の中をぐるぐると歩きまわった。白粉をどんなに濃く塗ってもかくし切れないアザは、どの娘の眼の下にも見当らなかった。

 ぐるぐると歩きながら、北山は孤独な自分の足音をきいていた。気の遠くなるようなさびしさに足をすくわれて、北山は急に立ち停った。そして振り向いた。カラ子が立っていた。

「なぜおれをつけるんだ……?」

 北山は自分でも不思議なくらい荒々しい力で、いきなりカラ子の肩を掴んだ。その時、パーン、パーンと銃声が聴えた。



「花火だな」

 と、北山はその銃声を遠い想いで聴いた。中之島公園は真中を淀川が流れ、花火を連想させる。げんに二月ほど前、この公園で水都祭が催され、お祭り好きがお祭り騒ぎの花火を揚げたのだった。だから、銃声とは聴かなかった。

「お、お、お前、京都から、お、お、おれをつけて来たんだろう」

 なぜつけた──と、北山は昂奮に吃りながら、狂暴な力でカラ子の肩を掴んでいた。

「…………」

 カラ子は咄嗟に返事が出来なかった。空襲以来こわい目には随分会うて来たし、こわい人間にも会うて来たが、しかし、北山の表情ほどこわいものを見るのは、生れてはじめてだった。声も出ず、カラ子はぶるぶるふるえていた。

「言ってみろ!」

 北山は血走った眼で睨みつけながら、カラ子の肩をゆすぶった。ゆすぶられて、カラ子はふっと空を見た。降るような星空に、星が流れ、あえかな尾を引いてすっと消えた拍子に、カラ子は京吉を想い出した。

「兄ちゃん、あたい、こんなこわい眼に会うてるのよ」

 何も中之島公園までつけて来なくても、途中交番の前を通った時、かけ込んで、あいつスリだと一言いえば、京吉の財布は戻った筈だった。が、交番というものには、やはり浮浪孤児らしい反撥があった。今日の昼間、円山公園の交番でもいやな想いをさせられたのだ。

 それと、一つには、警官のたすけを借りずに、京吉へスリを渡したいという子供らしい虚栄心もあった。スリの落ちつく場所を見届けて、それを京吉に知らせる時の喜びが、カラ子をいつまでも尾行させていたのだろう。

「言え! 言わんのか! こいつ! なぜ、おれをつけた……?」

 日頃大きな声も出せぬくらい大人しい北山には、ついぞこれまでなかった狂暴なその表情は怒りに逆上しているように見えたが、しかし、それは憤怒というより、むしろ北山の恐怖から出たものだった。

「こいつはおれがスリをしたことを知ってやがる!」

 という予感が、北山を逆上させていたのだろう。臆病者の方がいざという時には狂暴な行動をやりがちなのだ。

「──お前、何もかも知っているんだろう。畜生!」

 北山の手がカラ子の肩から首へ動いて、ぎゅっと力がはいりかけた途端、パーン、パーン……再び銃声が聴えて、なだれを打ったように、群衆がかけ出して来た。

「脱走だッ! 脱走だッ!」

「おい、こっちへ逃げろ!」

 近くの大阪拘置所を破って脱走して来た一団であった。銃声は守衛が威嚇的に射ったものだろう。誰かが川へ飛び込んだ。

 北山ははっとわれにかえると、その一団にまじってぱっとかけ出して行った。北山の狂暴な血は一時に引き、野卑な顔はただ狼狽の色に歪んでいた。



 逃げろ、逃げろという声は、拘置所を脱走して来た未決囚の一団が、良心の囁きに傾きがちな不安な耳へ、ぶっつける群衆心理の叫び声であったが、北山の耳は、

「お前も逃げろ!」

 と、聴いたのだ。だから、その一団にまぎれ込んで駈け出しながら、北山は自分もまた囚人であるかのような錯覚に、青ざめていた。

 その夜、脱走した囚人は、あとで警察へ報告されたリストが四度も訂正されたくらい故、その時は誰も正確には判らなかったが、ざっと数えて百名ぐらいはあったろう。それが三方に分れて逃げたらしく、中之島公園へ逃げて来た連中はざっと三十名ばかり、差入れの着物や洋服などのいわゆる私服を持たぬ青い官服の囚人姿の者がその大半だったので、一眼見るなり拘置所からの脱走者だと判った。

 その官服の青さは、月明りに照らされていたので、一層なまなましい不気味さに凄んで、悔恨の心のように北山の心に突きささったのだ。

「おれはスリのほかに、人殺しをしようと思ったのだ!」

 もう少しであの小娘を殺すところだった──と、もはや北山にとっては、中之島公園はあの闇の娘を拾ったなつかしい場所ではなかった。

「逃げろ、逃げろ!」

 中之島から逃げるんだ──と、北山もいつか囚人と同じ声を出して走りながら、あ、そうだ、こいつを持っていてはまずい。北山は京吉から掏った財布を投げ捨てた。

 再び銃声が聴えた。守衛がまた威嚇的に発砲したのであろう。気の抜けた遠い音だったが、ひとり一団からぽつりとはなれて駈けていた五十四、五の男が、いきなり身を伏せた。

 銀造であった。田村のマダムの貴子のかつてのパトロン、チマ子が木崎に「お父っちゃんは監獄……」と語ったその父親の銀造だ。

 銀造がひとりおくれて駈けていたのは、実は逃げる意志を持っていなかったからだ。

 横になることも出来ぬくらい収容定員の何倍もぎっしり詰った部屋の狭さの不平や、贈賄をしなければ差入れを許さぬ守衛への反感や、食事の苦情……が積み重っていたところへ、その日は夕食がいつまで待っても与えられず、ガヤガヤ騒ぎ立てていた矢先、たまたま起った囚人同士の口論が、それを鎮圧しようとした守衛に向って飛び火して囚人と守衛の間に険悪な空気が高まって行くうちに、極度にふくれ上った昂奮はついに拘置所の檻を破り、なだれを打って飛び出したのだが、銀造はその仲間にひき込まれながら──逃げ出してもどうせつかまって、罪が重くなるばかりだと、何か諦めていた。

 だから、逃げ足は渋りがちだったが、銃声に身を伏せた拍子に、北山の捨てた財布が眼にはいった。銀造は素早くそれを拾うと、

「そうだ、これさえあれば逃げられる!」

 淀屋橋の方へ通り魔のように走って行きながら、娘のチマ子の顔が頭をかすめ、京都へ行こう、京都へ行ってチマ子に会おうという想いの息を、ハアーハアーと重く吸っていた。



登場人物



 中之島公園を抜けて、淀屋橋の北詰まで来ると、銀造は一緒に脱走して来た連中を見失ってしまった。銀造は梅田新道の方へ広々とした電車通りを走って行ったが、追われている背中には、その一本道は長すぎた。大江橋まで来ると、銀造はいきなり左へ折れた。そして、川沿いの柳の並木にかくれながら、渡辺橋の方へ走った。一人になると、さすがに追われている身は不安だった。

 もっとも、財布を拾うまでは不安はなかった。追われる気持よりもいっそつかまった方が気が楽だと、脱走の意志は耳かきですくうほどしかなく、逃げられれば逃げたいという願いよりさきに、諦めが立っていた。しかし、財布を拾ったという偶然は、数字のように明確に銀造の迷いを割り切って、チマ子のいる京都までの道のりは、もはや京都行きの省線が出る大阪駅までの十町でしかなかった。

「この金があれば、京都まで行ける!」

 と、チマ子への想いをぐっと抱き寄せると、もう追われる不安がガタガタ体をふるわせて、何度も柳の木に突き当り、よろめいた途端、巡査とすれ違った。

 しかし、巡査はじろりと見ただけで、通り過ぎた。拘置所の脱走さわぎは十分前の出来ごとであり、その巡査の耳にはまだはいっていなかったのだろう。大量脱走者を出した大阪拘置所が、警察へ報告したのは、一時間たってからであった。

 もっとも、青い囚人服を着ていたとすれば、その場は無事に通り過せなかっただろうが、その時銀造はチマ子が差入れてくれた洋服を着ていたのだ。面会に来て、父親の銀造が青い着物を着ているのを見るのが辛く、チマ子は工面して闇市で洋服を買い、守衛にたのんで差入れたのだった。

「チマ子のおかげでたすかった!」

 と、ほっとしながら、渡辺橋の方へ折れると、道はぱっと明るく、バラック建ての商店街の灯が銀造の足下を照らした。──草履ばきだった。

 チマ子は靴も差入れようとしたのだが、拘置所では靴をはくことは許されず、持って行った靴は守衛への賄賂になったのだ。「この草履はまずい!」銀造は、もう誰も追って来ないと判ると、息苦しい胸を撫ぜて歩きながら、呟いた。洋服に草履ばきは、昨日今日ざらにある敗戦の身なりで、何の不思議もないとはいうものの、烱眼に掛れば、囚人用の草履であることを見抜くかも知れない。

 銀造は桜橋まで来ると、曾根崎の方へ折れて闇市の中へまぎれ込み、ズックの靴を買った。財布の金はまだ百円近く残っていた。

 大阪駅まで来て、京都までの切符を買い、何くわぬ顔でプラットホームで並ぶと、はじめてほっとした。が、さすがに不安は残り、キョロキョロうしろをみていると、十番線のホームで大阪仕立ての東京行き急行列車の二等に乗ろうとしている三十過ぎの男の精悍な顔が眼にはいった。銀造はいきなりどきんとした。



 見覚えがある──と思ったのと、

「あ、あの男だ!」

 と、想い出したのと、殆んど同時だった。

 木文字章三──というその男の名前は知らなかったが、しかし、その顔は田村で見たことがあったのだ。

「たしか土曜日の晩だった!」

 満州から引揚げて来た銀造が、昔の二号だった貴子と、その貴子にうませたチマ子のいる田村を頼って、板場(料理人)の下廻りでも風呂番でもいいから使ってくれと、かつては鉄成金だった五十男の男を下げて転がり込んでから、ちょうど四日目の土曜日の晩、銀造は貴子の所へ来ていた章三を見たのだった。ちらと一眼だけ、あとにも先にも一度だけ見た顔だったが、咄嗟の勘でその男が貴子の現在のパトロンであることが判り、その時以来、銀造にとっては生涯忘れられぬ顔となったのだ。というより、忘れたいくらいだった。どうせ貴子にパトロンがありそうなことは気づいてはいたが、顔を見れば、さすがに年甲斐もなくこの男かと嫉妬が起った──その証拠には、拘置所の夜明けにも、その男の顔が夢に現われたこともある。

 その顔が向い側のプラットホームから、汽車に乗ろうとしているのだ。銀造はどきんとして、苦痛に青ざめた顔をそむけた途端に、

「……十番線の列車は二十一時発東京行き急行であります……」

 という拡声機の声をきいた。銀造はプラットホームの電気時計を見上げた。

「二十時十分か。発車までにまだ五十分ある」

 銀造はそう呟いたが、肚の中はべつのことを考えていた。──あの男は東京へ行くのだな、すると今夜は京都へ行かないなと、そんなことを考えていたのだ。

 京都──田村──貴子!

「──今夜は貴子はひとりだ!」

 豊満な貴子の肉体、その体温、体臭の魅力がよみがえり、もはや銀造にとって、京都へ行く喜びは娘のチマ子に会うことよりも、貴子の顔が見られることであった。

 銀造はもう一度振り向いた。章三の顔は二等車の窓にあった。

 彼の傲岸な顔は、やがて来た京都行きの省線に乗った銀造の瞼にいつまでも残り、銀造はおれも昔はあんな顔だったこともあると、東京で囲っていた貴子に会いに、大阪から寝台車に乗っていた時のことを想い出していた。何もかも昔の夢だ。寝台車で結んだ夢ももう夢になってしまった。日本も変ったが、銀造もすっかり変ってしまった。満州から引揚げてからは、からきし意気地のない男になってしまったのだ。

 頼る所はなく一部屋貸してくれと、田村へ転がり込むのはまだいいとして、章三を見た翌日、夜更けて貴子の寝室へ忍び込んで、こっぴどくはねつけられ、田村をおん出てしまう羽目になったのは、何としてもだらしがなさすぎた。

 しかし、電車が京都へ着くと、銀造は駅前の人力車を拾って、田村のある木屋町へ走らせながら、貴子恋しさにしびれて、その時のだらしなさを忘れるくらい、だらしがなくなっていた。



 銀造を乗せた人力車夫は、見掛けは上品な顔だちだったが、車賃だけでは食って行けぬのか、怪しげな周旋もするらしく、旦那は木屋町へ行ってヤトナを買うのか、ヤトナは芸者よりは安いようで結局高いものにつく、それよりも、もっと安直で面白い所を紹介しようか──と、しきりにすすめるのだった。

「お銚子が一本ついて、タイムどしたら、百円でお釣りが来るのどっさかい、安おっしゃろ。それに、女は満州から引揚げて来た素人の女ばっかしで……」

 場所もM署の裏手だから、燈台下暗しで、かえって安全だという車夫の言葉を、銀造は辛い想いで聴いていた。

 引揚げとか、警察とかいう言葉は、銀造にとっては余りに身近な言葉だった。貴子に挑んで拒まれ、田村を飛び出してからの銀造の生活はうらぶれの底に堕ちていたが、しかし、さすがに大阪商人らしい気概は残っていたのか、おれも昔はひとかどの鉄屋だった。今に見やがれ、あの女を見返してやると、大阪の闇市の片隅で煙草を売り、握り飯を売り、砂糖を売り、酒を売り、その酒がメチルだったのだ。

 メチルとは知らずに売ったが、それでも人が死ねばやはり過失致死罪なのだろう、やがて投獄される憂目に会うたが、今はそれに脱走という罪が二重に重なって、おまけに拾った財布の金を無断で使っている。

 五条を過ぎると、急に雨だった。銀造の体が急に重くなったように、俥の歩みが遅くなった。さっと風が来て、横なぐりの雨を幌の隙間から吹きこんだ。

 幌につけたセルロイドの窓に雨滴が伝わり、四条通りの灯りをチラチラと流すと、やがて車は四条小橋から木屋町へ折れた──その途端、銀造ははげしい欲情を感じた。

 引揚者のわびしさも、脱走者の焦燥も、貴子への恨みも恥も外聞も忘れて、ただ貴子の白い肉体へのもだえに揺れているうちに、やがて俥は田村の玄関についた。

 さすがに敷居は高かった。女中に会わせる顔もなかった。が、思い切って勝手口からはいり、女中にきけば、

「ママはお留守どす。いま、東京へ立たはりました」

「チマ子は……?」

「こないだ(この間)からお居しまへんのどっせ」

 家出したらしいと、軽口の女中がペラペラと喋るのをききながら、魂が抜けたように料理場でぺたりとへたり込んでいると、貴子がいない失望よりも、家出したチマ子への心配が銀造をぽうっとさせ、いきなり十も老けてしまった。しかし、その時、電話が掛ってきて、

「M署……?」

 とききかえしている電話口の女中の声を聴いた途端、はや銀造の眼はピカリと光り、青ざめた顔を緊張が走った。

 丁度その頃、京都駅では、二十一時に大阪を出た東京行き急行列車がホームにはいり、昼間しめし合わせた乗竹侯爵と落ち合った貴子が、東京の女友達と一緒に、二等車へ乗ろうとしていた。



 大阪からその汽車に乗っていた章三は、貴子たちが二等車にはいって来たのを見て、ニヤリと凄い微笑を泛べた。

「やっぱりおれの思った通りや」

 貴子は今日の昼間、夜の九時頃に立つといっていたが、その時間に出る東京行きの急行はこの二十一時大阪発の一本しかないと、章三は田村から大阪へ帰った足で、すぐ切符の手配をして、その汽車に乗り込んだのだった。

 もっとも、貴子がただ女友達と二人きりで乗ったとすれば、章三のその計画も無意味なものになってしまうところだったが、案の定貴子は上品な顔立ちの青年と二人空いた座席へ並んで腰を掛けた。その青年の顔を一目見るなり、章三は、

「あいつやな、乗竹侯爵は……」

 と、疑いもなくピンと来て、自分の勘の適中に満足した。しかし、その満足は、非常に愉快なものだ──といっては、言い過ぎになる。

 なぜなら、げんに章三の眼の前にある光景は、自分の妾がよその男と旅行しようとしている──いわば章三のような自尊心の強い男にとっては、随分と男の下る事実なのだ。しかも、その男、乗竹春隆は昨夜田村へ、陽子を連れて来ているのだ。

 にやりと微笑したが、さすがに章三の顔がこわばった青さに青ざめていたのも当然だ。

「今に見ろ!」

 章三は今朝田村で見た新聞の売家広告を想い出した。

「売邸、東京近郊、某侯爵邸」とあったその広告を見て、大阪へ帰ると、章三は早速東京へ電話して、それが乗竹侯爵邸であることを調べ上げたのだ。そして、その偶然にスリルを感じていた。

 陽子──春隆──田村──貴子──売邸──東京行き……。

 偶然は偶然を呼んで、章三を取り巻いている。更にいかなる偶然が降って湧くか──と、章三の眼は人生のサイコロの数を見つめる人間のように血走っていた。

 いわば、偶然の糸を、章三は自分の人生のコマに巻いたのだ。そして、ぶっぱなせば、コマは廻って行く。それが章三にとっては、生き甲斐であり、章三の人生は絶えずコマのように回転している必要があるのだ。

 今に見ろ──とは、だから、ただ陽子の居所をきくために、春隆をとっちめるという最初の目的から飛躍して、

「おれがこの汽車に乗ったことは、ただで済むまい」

 春隆をもただで済まさないが、おれ自身もただでは済むまい。おれはもうサイコロを投げた──という、偶然への挑戦であった。

 偶然といえば、貴子も春隆も、その車室の隅に章三がいることに気がつかなかった。章三の方からははっきり見えるが、貴子や春隆の方からは見えにくいという位置に、それぞれ坐っていた。

 そして、貴子と春隆がそんな偶然を少しも感じずに、ピタリとつけたお互いの肉体からただ肉体だけを感じているうちに、汽車は山科のトンネルに入った。



「窓を少しあけましょうか」

 トンネルを過ぎると、春隆は腰を浮かして窓の金具に手を掛けた。春隆の上衣の裾が窓側の貴子の顔に触れた。

「でも雨じゃないですか……?」

 貴子は口にあてていたハンカチをはなしながら、分別くさい調子でゆっくりと言った。顔も体も声も若かったが、さすがにそんな言い方には、四十一歳という年齢がふと現れるのだった。

「あ。そうね」

 と、春隆は例のいんぎんな調子で、腰を下したが、貴子のそんな言い方が何だか面白くなかった。雨が降り込むことをうっかり忘れていた間抜けさ加減を嗤われた──と思い込むほど、春隆も貴族の没落を感じている昨今妙にひがみ易くなっていた。

 一つには、煤が眼にはいった不快さも手伝っていた。煤が眼にはいるのは不可抗力とはいうものの、春隆はそれをくしゃみのように恥かしいことだと感ずる男だったのだ。煤というものは下賤の人間だけにはいるものだと思っているのだろう。

 むっとしながら眼をこする代りに、だから春隆はその手で貴子の手を握ることを思いついた。

 眼の中のコロコロとした痛みを我慢しながら、一方で女の手の触感をたのしむなんて、思えばわれながら噴き出したくなるようなものだったが、もともと気のすすまぬ旅行だ、それぐらいはしてもいいだろうと、春隆は思ったのである。

 京都の悪友から遊びに来いと誘われて、東京を立ってから、もう一月以上にもなる春隆のもとへ、すぐ帰れという母親の手紙が来たのは、もう三日も前のことだった。春隆の父は五年前に、築地の妾宅で睡眠中に原因不明の死に方をし、兄は映画女優のあとを追うて満州へ行ったきり、長春かどこかで石鹸を売りながら生きのびているという風の便りが、一度あったほかは消息が判らず、現在は母親と妹の信子と三人家族だったが、母親の手紙によれば、妹の信子の品行が心配だから、兄のお前から意見をしてやってくれ云々とあり、春隆も母親の手紙を黙殺することは出来なかった。といって、京都には未練があった。

 陽子を誘惑し損ったまま東京へ帰るのは、何としても後味が悪い。どうせ東京へ帰らねばならぬとすれば、貴子から誘われたのはもっけの道連れだと、切符を手配する手間のはぶけるその汽車に乗って、

「途中熱海で降りるとしても、宿賃は向う持ちだ」

 と、存外俗っぽい、しかし、それが持ちまえのチャッカリしたやに下り方をしていたとはいうものの、さすがに、

「あっちが駄目になったから、こっちを……」

 という、陽子から貴子に乗りかえる現金さには、軽い悔恨があった。

 しかし、またそれだけに、くしゃみよりも簡単に手が握れる。いきなり膝の上の手を握ると、貴子は表情も変えずに握りかえした。

 それを、四つの眼が見ていた。



 貴子の女友達の露子と章三の二人が、それを見ていたのだ。

「ははアん。やってるな」

 露子は斜向いの座席から、握り合わされた貴子と春隆の手を、安物の彫刻を見るように、眺めていた。

 血が通っていないようだった。恋人同士はこんな風には握り合わない。こんな風に何の感激も何の感慨もない握り方はしない。

 だから、見ている露子の方でも、何の感慨もなかった。美しいとも、醜いとも、感じなかった。露子はただその握り方に、自分が銀座でやろうとしているキャバレエへ貴子が出してくれる資本の額を計算していた。

 どうやら、貴子はキャバレエの話には大して乗っていないらしい。が、せっかく京都まで来て、その日のうちに東京行きの汽車に乗せてしまうという早業に成功した限り、キャバレエの話にも乗せずに置くものかと、露子は意気込んでいた。そのためには、この旅行で貴子がさんざんたのしんでくれることが好ましい。

「さんざん見せつけたのじゃないの。おごる代りに資本を出しなさいよ。ね。気を利かせっぱなしじゃ、合わないわよ」

 という科白を用意しながら、露子はわざわざ貴子と春隆を二人並ばせて、自分は別の座席へ遠慮したのである。

 京都駅で春隆に紹介された時も、

「侯爵を燕にするなんて今時悪趣味じゃないの」

 と、皮肉りたいところだったが、じっと我慢して、

「──ちょっとハンサムね」

 という言葉で、貴子の耳をくすぐったりした──それも商売人が資本主との会談に芸者を当てがうというあの心理からだったのだ。

 しかし、貴子の何の情熱もなさそうな表情を見ていると、露子は、五十万円も出させるのは無理かなと失望気味でもあった。

 しかし、失望していたのは、貴子の方だ。自分の若さを金に換算し、男というものをパトロンになる資格の有無で見るならわしが身にしみ込んでいる貴子にも、もし夢があるとすれば、貴族への憧れだった。どんなチャッカリした女にも、一つだけ抜けたところがある。貴子の場合は、貧しい家に生れて若くから体を濡らして来た生活の中でも捨てなかった「貴子」という自分の名前への、浅はかな誇りがそれだった。

「この人とは恋が出来そうだ」

 そんな予感がふっと一筋の藁のように、頭に浮んだのだが、しかし、簡単に春隆から手を握られてみると、あっけなく夢はこわれ、もう貴子はリアリズムの女であった。米原を過ぎると、貴子は、

「ちょっとこっちを向いてごらん……?」

 春隆の瞼を眼医者のようにくるりとむくと、いきなり顔を寄せて、舌の先でペロッと一嘗めした。煤が取れた。

「──どう……?」

 ニイッと笑った貴子の顔は、恋をしない女の、恋の技巧がしたたるようだった。

 遠くから見ていた章三は、いきなり起ち上った。



 もう我慢が出来ぬ──と、章三は貴子の座席の方へ行こうとした。貴子の横面を殴ろうとしたのだ。

 自分の女がほかの男と手を握り合っているばかりか、男の眼にはいった煤を、舌の先で嘗めて取っているのだ。遠くから見ていると、そのポーズがもっと別のことを錯覚させる。

 章三でなくても、誰でも殴りたいと思うのは、当然だろう。しかし、その男が春隆でなかったら、章三もそれほど逆上しなかっただろう。春隆は章三にとって最もきらいな人種なのだ。

 貴子が貴族に憧れるのは、結局卑賤に生れたことが原因しているが、それと同じ理由で、爪楊枝けずりの職人の家に生れた章三は、貴族というものに敵意を感じていたのである。そしてまた、爪楊枝けずりの職人の息子だということが、章三の自尊心を人一倍傷つき易いものにしていたから、人一倍カッとなって、殆んど前後の見境もなくなるところだった。

「自尊心を傷つけられて、我慢するくらいだったら、死んだ方がましだ」

 というのが章三の信条であり、野心のためにどんな辛いことも我慢するが、自尊心を傷つけられることだけは我慢できず、野心は勿論自分をすっかり投げ出してもいいと思っていたのだ。いわば章三の情熱は野心以上に自尊心の振幅によって動くのだった。

 だから、前後の見境もなく、汽車の中でいきなり貴子を殴ろうとしたのだが、しかし、章三の自尊心はそんな向う見ずを彼に許して置くほど、けちくさい自尊心ではなかったから、二三歩行きかけて、急に立ち停った。

「あの女をいまここで殴れば、おれの自尊心は二重に傷つくのだ」

 章三は傷ついたままズキズキと膿み出している自尊心のはけ口のない膿を、持て余したまま、踵をかえすと、三等車との間のドアをあけて、デッキへ出た。そして、デッキのドアをあけて、吹きこむ雨風に打たれて、頭をひやそうとすると、

「ばか野郎!」

 デッキにうずくまっていた男が、どなった。

「……? ……」

「雨がはいるじゃねえか。間抜けめ!」

「…………」

 章三は血相を変えた。

「閉めろ!」

「…………」

「閉めろといったら閉めろ! つんぼか……?」

 男は起ち上って、ドアを閉めようとした。が、章三はドアのハンドルをつかんではなさなかった。

「こいつ!」

 男は章三の胸を突いた。胸に溜っていた自尊心の膿ははけ口を求めて、あふれ出た。章三はものもいわず、精一杯の力をこめて、どんと男の胸を突いた。男はあっという間に、デッキの外へ落ちてしまった。

「あっ!」

 章三は本能的にドアを閉めた。途端に、雨に濡れたドアの窓に若い女の顔がうつった。章三はギョッとして振り向いた。



 章三はその男を殺すつもりで、デッキから突き落したのではなかった。

 はじめにその男が章三の胸を突いたのだ。章三はただ突きかえしただけに過ぎない。もし、その男と章三が位置を変えていたとすれば、章三の方がデッキの外へ落ちたかも知れないのだ。

 殺意はなかったのだ。しかし、ドアがあいていることは知っていた。突けば落ちるだろうということも無意識のうちに感じていた。土砂降りの雨の中へ、その男が土人形のように落ちて行く姿も、その男の胸を突きかえす一瞬前に、章三の頭に閃いていた。だから、よしんばその男が必ず死ぬと判っていても、章三はやはりその男を突いただろう──ということだけはたしかだった。自尊心のためには、人殺しすらやりかねない男だったのだ。

 殺すつもりはなかったにしても、そんな結果になってもいいと思っているような突き方だったではないか。

 しかし、あっという声を残して落ちて行ったその男を見た途端、さすがに章三ははっと思って、

「おれは到頭人殺しをしてしまった!」

 という想いに蓋をするように、殆んど本能的に、デッキのドアを閉めたのだった。

「おれがこの汽車に乗ったことは、ただでは済むまい」

 と予感していたのは、実はこれだったのか。自分を取り巻くかずかずの偶然の重なりに、章三は挑戦して、サイコロを投げた。その返答がこれだったのか。

 いわば人殺しという大きな偶然を、自分の宿命的な必然にするために、章三は最初の小さな偶然の襟首をつかんで、自分にひき寄せたといえよう。しかし、更に章三を襲った偶然は、その時その殺人行為を目撃していた者が一人いたということだ。

 目撃者がいなければ、デッキから落ちた男は、自分の過失で落ちたものとされて、章三の罪は永久に闇に葬られてしまうだろう。だから、その時、あわてて閉めたドアの窓ガラスに、若い女の顔がうつったことほど、章三をギョッとさせたものはなかった。

 振り向くと、デッキの隅にすらりと立って、章三の顔をしずかに見ていた。あえかな微笑だった。褐色味を帯びた瞳が、青く底光る眼の中に、ぱちりと澄んで、何かうるんだような感触が、その瞳から迫り、ふと混血児のようであった。そして、その瞳が、

「あなたは今人殺しをしたのでしょう……?」

 と、章三の心の底を覗き込んでいた。

 美貌というものがもし生れつきのものであるなら、いかなる運命がこの女にそんな美貌を与えたのかと思われるくらい、その女は美しかった。そしてまた、美貌というものが才能であるならば、いかなる才能でこの女はこんなに美しく見えるのかと思われるくらいだった。

「おれはいま生れてはじめて、女と対決しているのだ!」

 章三はその女の顔をじっと見つめながら、そう思った。



 読者はこの物語の最初の小見出しが「登場人物」となっている理由を、もはや察したであろう。

 章三が見知らぬ男をデッキから汽車の外へ突き落した現場を目撃していた女──これが新しい登場人物なのだ。章三の人生にとっても、またこの物語にとっても……。

 さて、新しい登場人物が現れたのを機会に、作者自身をも登場させて、ここで二、三註釈をはさむことにしたい。

 この物語の主人公は、ダンサー陽子であろうか、カメラマンの木崎であろうか、それとも田村のマダム貴子であろうか、そのパトロンの章三であろうか、またはかつてのパトロンの銀造であろうか、その娘チマ子であろうか、田村の居候の京吉が主人公だともいえるし、京吉を兄ちゃんと呼んでいるカラ子も主人公の資格がないとは言い切れない。乗竹春隆もむろんそうだ。

 そう言えば、アコーディオン弾きの坂野も、その細君の芳子も、その情夫のグッドモーニングの銀ちゃんもセントルイスのマダムの夏子も、貴子の友達の露子も、素人スリの北山も、清閑荘の女中のおシンも、上海帰りのルミも、芸者の千代若も、仏壇お春も、何じ世相がうんだ風変りな人物である以上、主人公たり得ることを要求する権利を持っているのだ。

 この物語もはや八十五回に及んだが、しかし、時間的には一昼夜の出来事をしか語っていず、げんに新しい事件と新しい登場人物を載せた汽車が東京へ向って進行している間に、京都でもいかなる事件がいかなる人物によって進行させられているか、予測の限りではない。

 そして、このことは結局、偶然というものの可能性を追求することによって、世相を泛び上らせようという作者の試みのしからしめるところであるが、同時にまた、偶然の網にひっ掛ったさまざまな人物が、それぞれ世相がうんだ人間の一人として、いや日本人の一人として、われわれもまた物語の主人公たり得るのだと要求することが、作者の足をいや応なしに彼等の周囲にひきとどめて、駈足で時間的に飛躍して行こうとする作者をさまたげるのだとも言えよう。

 いわば、彼等はみんな主人公なのだ。十番館のホールで自殺した茉莉ですら主人公だ。しかし、同時にまた、この人物だけがとくに主人公だということは出来ないのだ。

 強いていうならば、げんにいま二等車と三等車の間のデッキに立って、章三と向き合っている新しい登場人物が主人公としてこの資格を、最も多く持っているといえるかも知れない。

 なぜなら、彼女は世相が変らせた多くの日本人の中で、その変り方の最も鮮やかな女であり、かつての日本には殆んど見られなかった人物であるからだ。

 彼女は章三と一瞬にらみ合った。視線が触れ合って火花を散らした──かと思うと、彼女の褐色を帯びたうるんだような瞳が、妖しく笑った。そして、

「あたしに会いたければ、銀座のアルセーヌにいらっしゃい」

 という言葉を残すと、三等室の中へすらりと伸びた姿を消してしまった。

 章三は洗面所の中へはいると、鏡に顔を写した。青ざめた顔にふっと微笑がうかんだ。



走馬燈



 四条通りの夜更けの底を雨が敲いていた。

 米原の駅の近く、汽車のデッキから突き落されて、ひと知れず死んで行った名も知れぬ男の、土人形のように固くなった屍の上に降り注ぐ同じ雨が、夜更けの京都の町をさまよう哀れな人々の、孤独に濡れた心にも降り注いでいるのだ。

 つい四五日前までは夏のようであったが、町中のお寺の前の暗がりにふと金木犀のにおいを光らせて降る雨は、はや一雨一雨冬に近づく秋の冷雨だった。

 ぶるッと体をふるわせて、カラ子は四条通りの交叉点を河原町通りへ折れて行った。

 背中のくぼみや腋の下まで、びっしょりと雨に濡れながら、なおさまよっているのは、京吉を探したい一心からであった。

 今日の夕方、京吉の財布を掏った北山を大阪の中之島公園までつけて行って、首をしめられそうになったが、拘置所の脱走さわぎのドサクサで危く助かった。ほっとしたものの、しかし、同時に北山を見失ってしまうと、もうカラ子は京吉に会わす顔のない想いに、がっかりしてしまうのだった。

 自分ひとりの力でスリをつかまえて、京吉にひき渡す時の喜びの期待に燃えて、チョコチョコ大阪までつけて来たのだが、今はその喜びも空しく、京吉のいる京都へトボトボ帰って来た足は、雨に濡れた心のように重かった。

 しかし、京都へついたその足でセントルイスへ来てみると、むろん京吉はいなかった。マダムの夏子も、誰かとアベックでリベラルクラブの発表会へ行ったのか、店にはいなかった。

「兄ちゃんからことづけは……」

「ないわよ」

 と、店の女の子は、日曜の夜は北野で待ち合わす男がいるのに、マダムの夏子がいつまでたっても帰って来ないので、出掛けられず、いらいらしていたのか、真赤に塗った唇が冷淡だった。

 すごすごとセントルイスを出ると、カラ子は無性に京吉に会いたくなった。

「兄ちゃん、かんにんえ」

 スリを逃がしたの──と、一言顔を見てあやまれば、

「ばかッ!」

 と、横面を殴られて、おめえなんかもう絶交だと、坂野の細君の芳子と一緒にさっさと行ってしまわれても、もう構わない。とにかく、会いたかった。

 祇園荘というマージャン屋も探して行ってみた。が、いなかった。隅の卓子で、主人夫婦らしい二人が、マージャン屋もあっちこっち出来すぎて、共倒れになりはしないかという夜更けの顔を向け合って、新聞を読んでいるだけ、あとは客もいなかった。

 雨の中を往ったり来たり、そのたびに一つずつ灯の消えて行く四条通りを河原町通りへ折れると、カラ子の足は自然セントルイスへ向いていた。

 セントルイスの戸は閉り、中は暗かった。軒下にたたずんで、カラ子はそっとその戸をたたいた。



「おばちゃん!」

 と、呼んでみたが、返事はなかった。暫くして、また戸をたたいた。そして、セントルイスの前をはなれて、カラ子は雨に煙る木屋町の灯の方へ歩き出したが、急に踵をかえして、しかし、トボトボとその横丁をセントルイスの軒下へ戻って来た。

「おばちゃん!」

 こんどはもっと大きく、ずり落ちるスカートの紐をひきあげながら声を掛け、戸はたたかず、ガタガタとひっぱりながら、無理にこじあけようとしていると、酒くさい息がふっと上から落ちて来て、

「誰……?」

 声は女だったので、そんなにびくっとせず、カラ子は黙って見上げると、よろよろ寄り掛って来て、

「なアんだ、君、京吉君の恋人……? おほほ……」

 けたたましい笑い声はいつもの夏子だったが、しかし、今夜のセントルイスのマダムはいつになくぐでんぐでんに酔っていた。リベラルクラブの帰りであろうか、チャラチャラとした軽薄な身振りは、しかし、悔恨の色にぐっしょり濡れて、傘も持たなかった。

「君、今頃どうしたの……? 忘れもの? 京吉君を忘れたの……?」

 夏子はカラ子の肩につかまって、ハンドバッグから合鍵を出そうとする手を泳がせていた。

「おばちゃん、京ちゃんどこへ行ったのか知らん……?」

 ねえ、教えてよと、カラ子はもうキンキンした声だった。

「京ちゃんか……? 京ちゃん東京へ行っちゃったよ……おほほ」

 口から出任せだったが、しかし、京ちゃんなんか東京へ行ってしまえという夏子の気持が、そう言わせていたのかも知れない。

「──一緒にリベラルクラブに行ってくれたら、こんなことにならなかったんだ。いや、あたしはね、おほほ……、京ちゃんとだったらこんなみじめな気持にならなかったわよ。おほほ……。安ブランデーか、安ホテルか、ガタピシのベッドか、おほほ……。髭をはやしてやがった。髭をはやした男大きらい! あたしは刺戟のある男はきらい! あいつひどい腋臭だった。ほら、まだあたしの手にしみこんでる!」

 ペッペッと、右の手に唾を掛けて、げっぷをしていた。

「おばちゃん、お酒のんだの……?」

「のんだよ。おばちゃんはもうあかん! おばちゃんは汚れちゃった。おほほ……。でも、いいわよ。あたしは自由、リベラルクラブよ。おほほ……。京ちゃんは東京へ行っちゃったよ」

「ほんとね……?」

 あたいも東京へ行く──と、カラ子はさいならという声を残して、横丁を出た足で河原町通りを京都駅の方へ歩いて行った……。

 雨はなお降りやまなかった。その雨の中を、京吉と芳子がちょうどその頃、三条から二条へ一つ傘で歩いていたのを、むろんカラ子は知らなかった。



 黙々として、京吉と坂野の細君の芳子は歩いていた。何のために、そうして、まるで恋人同志のように、肩を並べて歩いているのか、京吉にはわけが判らなかった。

 夕方、セントルイスの前で、祇園荘へ行ってグッドモーニングの銀ちゃんに会うという芳子を、拝むように停めたのは、祇園荘には芳子の亭主の坂野がおり、芳子がそんなところへはいって行けば、どんな結果になるかも知れない──という京吉の二十三という歳に似合わぬ老婆心からだったが、やっと芳子を説得してみると、もう芳子は、

「あたし、じゃ、どうすればいいの……?」

 と、駄々をこねたように、動かない。動かないだけならいいが、道の真中で、

「──いいわ。あたし泣いてやるから……」

 と、本当に泣いてやるからと本当に泣き出してしまいそうだった。

「女というものは、どだい男を困らせるように出来てやがらア。だから、おれきらいだよ」

 京吉はスリのあとをつけて行ったカラ子のことも気になっていたし、芳子など放って置いて、逃げ出したかったが、もともと京吉は自分の女以外には優しく、お人善しで、それがまた京吉の孤独なあわれさであった。

「芳ッちゃん、そんなに言うなよ。芳ッちゃん泣くと、おれ困るよ」

「じゃ、どうすればいいの……?」

「おれ知るもンか」

 坂野のアパートへ帰れとも言えなかったし、といって、グッドモーニングの銀ちゃんの所へ行けとも言えなかった。しかし芳子は、おれ知るもんかという京吉の言葉に、ぷイと腹を立ててしまうほど、ヒステリックな女になっていた。

「あ、芳ッちゃん、どこへ行くんだ」

 待ってくれと、京吉は肩を並べて歩き出したが、歩いているうちに、芳子の方が、

「どこへ行くの……?」

 と、きいてきた。

「どこだか、おれ知るもンか」

 あてがなかったのだ。そのうちに夜が来て、雨が降り、京極の知合いの店で、半時間たったら、返しに来るといって、借りた一つの傘の中に、もう四時間もはいっていた。

「ほんとに、あたしどうしたらいいの……?」

「おれ知るもンか」

「どこか、泊るところあるの……?」

「おれ知るもンか」

 やがて、もうそんな話よりも、ダンスだとか映画だとか、とりとめない話をしながら、あてもなくトボトボと歩いていたが、しまいには話の種もつきて、黙々と白い雨足を見つめながら、惰性のように歩いていた。

 芳子は、京吉が祇園荘へ行く自分をとめたのは、グッドモーニングの銀ちゃんに頼まれたからだと早合点して、京吉に駄々をこねて困らせてやることが、せめてもの腹いせだと、ダニのようについて離れなかったのだが、だんだん夜が更けて来ると、もう京吉と離れるのが寂しかった。雨も冷い。

 京吉もまた、芳子を持て余しながら、しかし、もともと心の寂しい男だった。といって、芳子と宿屋に泊ることは、困るのだ。夜通し雨の中を歩こうか、今夜はどこへ泊ろうか──と、思案しながら歩いていると、ふと陽子のことが頭に泛んだ。



 そうだ、陽子のアパートへ泊めて貰おうと、京吉の顔はにわかに生き生きした。

 芳子は坂野の所へは帰りたがらず、グッドモーニングの銀ちゃんのアパートへも連れて行けないとすれば、もう田村へ連れて行くか、どこか宿屋に泊るより仕方がなかったが、貴子の居候の自分が、よしんば何の関係のない女にしろ、まさか連れて行くわけにもいかない。

 といって、宿屋に泊れば、どんなことになるか、グッドモーニングの銀ちゃんの二の舞を演ずるようなことはないと言い切るには、今夜の京吉はあまりに人恋しかった。芳子もまた、一度堕落してしまった以上、もはや固い女で通せず、それにもともと浮気っぽいレヴューガール上りの裸体を、小指に触れられるのと大して変りのない簡単さで、京吉に許してしまいそうだった。銀ちゃんへの腹いせもあるだろう。いずれにしても、今夜の二人は危なそうだった。夜も更け、雨も降っている。しかし、それでは坂野にも銀ちゃんにも合わす顔はないし、よしんばそんなあやまちがないとしても、二人で宿屋へ泊ったとすれば、いいわけの仕様はあるまい。

 といって、芳子を宿屋へ送って、自分ひとり雨の中を、田村へ帰って行くというのも、気の遠くなるような寂しさだった。

 だから、陽子のアパートへ二人で泊めて貰うというだしぬけに泛んだこの思いつきは、京吉の心に灯をともしたようなものだった。そして、この思いつきは、やはり二十三歳の孤独な青年の、空ッぽの頭の触感が探り当てたものだった。陽子の所だったら、芳子とのあやまちも起らず、坂野や銀ちゃんに知れてもいいわけは成り立つし、それに陽子の所で一夜を過すというのは、何か自虐的な快感だった。

 陽子は昨夜誘惑されたのだ──と、京吉は信じ込んでいた。その陽子の所へ、女を連れて泊りに行く──これは陽子へ投げつける京吉の一種の軽蔑であり、悔恨のようなものだ。

「どんな顔をするか、おれ見てやりたいや」

 と、京吉はふと眉をひそめて呟きながら、女と二人で行けば陽子も泊めてくれるだろうし、おれも正々堂々と泊まれると、もう芳子をだしにする考えが、足を速めた。

「どこへ行くの……?」

「おれの知ってる女の所だよ」

「女の……?」

 と、芳子は横なぐりの雨に、ひやりと首筋を打たれた。

「ほかに泊るところねえや。ねえ、芳ッちゃん、いいだろう、アベックで泊めて貰おうよ」

 アベックで──という言葉に芳子は微笑して、

「泊って……それから……明日はどうするの……?」

 ふと甘ったれた声を、京吉は、

「おれ知るもんか。明日は明日の風が吹くよ」

 と、突っ放して、やがて陽子のアパートを探して歩いた。やっと見つかり、陽子の部屋をたたいた。

「陽子、おれだよ。おれ泊るところねえんだよ。泊めてくれよ」

 部屋の中では、夜具の上へはっと起き上ったらしい陽子の気配があった。



 陽子はぐったりと疲れて、眠っていたのだ。昨夜一晩十番館のホールで踊って、クタクタになったその足で乗竹侯爵に会いに木屋町の田村へ行き、挑まれてはだしで逃げ出し、闇の女と間違えられて、留置され、夜通し眠れなかった。おまけに、釈放されると、すぐ警察の草履を借りて清閑荘に会いに行き、その帰りは茉莉のアパートへ顔を出し、千葉の田舎から出て来た茉莉の肉親を慰めたり、葬儀の相談をしたりして、アパートへ帰ると、もう自炊する元気もないくらい疲れた体を、古綿を千切って捨てるように、夜具の上へ投げ出した途端に、もう夢の世界だった。

 夢の中で、京吉と踊っていた。ぐっしょりと汗をかきながら、踊っていた──と思ったのは、しかし、ふと眼をさましてみれば、盗汗だった。半年近いホール生活で、すっかり体をこわしたのだろうか、こんなに盗汗をかいてるわ──と思う前に、なぜ京ちゃんと踊っている夢を見たのだろうと、何か自分でも思いがけぬ触感のリズムが伴う胸苦しい甘さの後味に驚いていた。

 あたし京ちゃんと踊りたいのかしら、あたし踊りたい人なんかいなかったのに。そんな下品なこと考えてみたこともなかったのに。いいえ、夢にも思ったこともないのに。あたしは男の人と踊っても、ただ石になっていたのに。石には触感はない。あたしの触感があたしを裏切るなんて。あたしこんな下品さがあるなんて。おや、あの匂いは何だろう。

 アパートの中庭の金木犀の花が、雨に濡れて匂っていたのだ。その匂いをふっと甘く感じた途端に、再び陽子は眠りに落ちていた。

 浅い眠りのその中で、陽子はまた踊っていた。京吉と踊っていたのだが、耳の傍で自分の名を呼んでいるのは、木崎だった。木崎と踊っているのだった。

 はっと眼をさますと、部屋の外で声がしていた。京吉の声だと思った途端、ほのぼのとしたなつかしさがふっと胸に来たが、しかし、

「ねえ、泊めてくれよ。ねえ」

 という、いつもの声に、思わずその胸をかき合わせていた。

「駄目よ。約束がちがうわよ」

「そんなこと言うなよ」

 と、部屋の外の声が言った。

「だって土曜日だといったじゃないの」

 土曜日には泊めてあげる──と、はっきり約束したわけではなかったが、それを言った。

「だって、おれ泊るところねえんだよ。おれ一人じゃねえんだよ。二人だよ。女と一緒だよ。泊めてくれよ」

「あたし帰る」

 芳子は何思ったのか、急に階段を降りかけた。

「あッ、芳ッちゃん、待ってくれよ。ねえ、芳ッちゃん!」

 その頃四条河原町の雨の中を、二人の男がぐでんぐでんに酔っぱらって、肩を組みながら、よろよろと歩いていた。坂野とグッドモーニングの銀ちゃんだった。



「銀ちゃん、あたしゃアもはや一滴も駄目でさア」

 もう飲みまわるのはよしにしよう──と、坂野は眉毛まで濡れ下ったびしょ濡れの顔を、グッドモーニングの銀ちゃんの肩へより掛らせながら、ひょこひょこ歩いていた。

「阿呆ぬかせ。今夜は夜通し飲むんだ」

 銀ちゃんも情ない足取りだったが、

「──夜が明けて、グッドモーニングと挨拶かわし、盞かわしてグッドバイ……ってとこまで飲むんだ」

 都々逸の調子を張り上げながら、執拗に坂野をはなさなかった。

 祇園荘で二(リャン)チャン打つと、坂野が三千点ほど負けで、千点二百円だったから、六百円坂野が払おうとすると、銀ちゃんは受取らず、じゃその金で飲もうということになって、あちこち飲みまわって夜が更けたのだが、なお、なけなしの金をたたいてずるずると梯子酒を続けようというのは、飲み足らぬというよりは、むしろアパートへ帰るのがいやだったからだ。アパートへ帰れば、芳子がいるかも知れない。昼間セントルイスでは約束をすっぽかしたが、もう亭主の所を飛び出して来た芳子には自分の所しか行く所がない。すっぽかされてみれば一層アパートへ行って、根気よく自分の帰りを待っているだろう。

 そう思えば、やはり自分が手をつけた女だけにふびんだったが、これからの芳子の身の振り方、おなかの子の始末、女の愚痴、涙、すすり泣き……、泣くなと引き寄せて一応可愛がってやれば、女というものはからだにごまかされてしまう……とはいうものの、芳子のからだは香水でも消せぬいや臭いがそんな時漂って……。

「かわいそうだが、あれを思うとたまらねえや」

 それにげんに一緒に飲み歩いている亭主の坂野に別れた足で、芳子のいるアパートへ帰れるものか。おめえの女房貰ったぜともいえず、といって、おめえの女房とこんなことになったんだと白状も出来ず、しかし、知らぬ顔も出来ず、何かしら言いそびれたままに、ずるずる坂野をひきとめていたのだ。

「あたしアもう帰るよ。眠くてたまらんです」

「阿呆ぬかせ、女房の逃げたアパートへ帰っても仕様があるまい」

 銀ちゃんは自虐的な口を利いて、

「──眠けりゃ、ヒロポン打つさ」

「それもそうでやしたね。──じゃ、早速一発!」

 坂野は軒下に身を寄せると、注射のケースをポケットから取り出して、立ったまま器用にヒロポンを注射した。そして、腕を揉みながら、さア行こう、しかし、アルプはごめん謝りの介だよと、銀ちゃんの背中を抱いた。銀ちゃんは通り掛った人力車を停めた。

「飲ませる所へ案内しろ。但しひでえボリ屋へ連れて行ったら、キャッキャッだよ」

 一つの俥へ無理に二人乗りして、野郎の相乗りはキャッキャッだが、おめえいい尻つきをしてるじゃねえかと銀ちゃんは膝の上に坂野の体をかかえて、ふと幌窓の外を眺めた途端、雨の中を一人トボトボ歩いている女の姿を見て、おやっと思った。芳子だった。



 思えば今宵の京都の雨は、わが主人公たちをふと狂気めかせるために、降っていたのであろうか。頽廃の土曜の夜よりも、彼等の心を乱れに乱れさせた日曜の夜の底を、泥ンまみれにかきまわす雨であった。

 セントルイスの夏子も泥にまみれ、カラ子の京吉恋しさもただならぬ激しさであった。坂野も銀ちゃんも酒に乱れて行き、京吉の夜歩きも常規を逸していたが、今夜の陽子もいつもの陽子ではなく、妖しく胸騒いでいた。

 そして、坂野の細君の芳子も何か狂気じみていた──その証拠には、折角京吉について行った陽子のアパートから、急に飛び出して、呼びとめる京吉の声を雨の背中に聴き残しながら、町角を走って折れたが、やがて気の抜けた歩き方に重くうらぶれていた。

 京吉につきまとっていたのは、女の意地からとはいうものの、一つにはやはり女にとっては一人ぽっちになるのが一番辛いからであろう。それだけに、京吉と陽子の親しさを女の勘でかぎつけたことほど芳子をみじめにしたことはなかったが、いきなり、飛び出したのは、自分でも思いがけぬ嫉妬であろうか。しかし、一人ぽっちで夜の町をさまようという寂しさの中へ、わざと自分を虐めて行く女心は、もはやただならず狂気めいていたのだ。

 そして、おなかの子に障ることを忘れて、傘も持たず、びしょ濡れの体をなお雨の鞭に任せながら、うらぶれて歩いているそんな芳子の姿を、グッドモーニングの銀ちゃんは人力車の上から見た途端、はっと胸を突かれて、同じ人力車に相乗りしている坂野の手前がもしなかったとすれば、呼びとめたい程のなつかしさにしびれ、もはや芳子のあわれさは、芳子が持っているどんな女のいやらしさも、銀ちゃんの心から消してしまっていた。

 が、坂野は芳子には気づいていなかったようだし、まさか呼びとめも出来ず、みるみる遠ざかって行くうちに、銀ちゃんはふと、

「ひょっとすれば、もう二度とあの女に会えないのではなかろうか」

 という予感に襲われた。そして、夜具の中に見つかった針の先のように、チクリと胸をさす寂しい旅情にも似たこの予感に揺れているうちに、車夫が俥の梶棒をおろしたのは、警察署の裏手の怪しげなしもた家の前だった。門燈の色が医院の門燈のように赤かった。

「なんだ、赤提灯か」

 温泉場などでは、怪しい女のいる家には目印の赤い門燈がついていて、赤提灯という通称が春を売る商売の代名詞になっていたのだ。

「まア上っておみやす。お銚子づきで一枚にしては……」

 引揚げの女ばかりだから、びっくりするようないい女がそろっている──という車夫の言葉ほどではなかったが、主人じみたいやらしい女はいなかった。しかし、銀ちゃんは、

「酒だ、酒だ、酒がなけりゃアルプでもいいや」

 と、女には見向きもせず、やがて運んで来た冷の酒を一口のんでみて、顔をしかめた。

「──こいつアひでえキャッキャッ酒だ」

「銀ちゃん、メチルではにゃアですかね」

「そうかも知んねえだ。ふんに、おったまげた酒じゃにゃアか。おら、いっそ死ぬべいか」

 冗談口を利きながら、銀ちゃんは平気で飲んでいた。



 ちょうどその頃──というのはつまり、坂野と銀ちゃんが警察署裏の怪しげな家で怪しげな酒を飲み出した頃、京吉は再び陽子のアパートの階段を登りながら、

「芳ッちゃん、ばかだなア!」

 おれの停めるのもきかずに、一人でさっさと行っちゃうなんて、今夜泊る所あるのかい……と、呟いていた。

 もっとも、本気で連れ戻したい肚もなかったのだ。一応ひき停めたことは停めたし、あとも追い、探してみたのだが、すぐ見失ってしまうと、もうそれが一人で陽子のアパートへ戻って来る自分への口実になってしまったのだ。

 持前の放浪性が、時と場合で走馬燈のようにぐるぐると京吉の気持を変らせるのは、いつものこととはいいながら、しかし、人恋しさと親切な気持からさっきまではあれ程なつかしく、いたわりもしていた芳子を、急に見捨てる気持になったのも、実に陽子の声をドア越しに聴いたという現金な気持からであろう。しかし、このエゴイズムに気づかぬほど、京吉には孤児の感情が身につきすぎていた。

 はじめは芳子をだしにして陽子の部屋に泊めて貰おうと思ったくらい、細かい神経を使いながら、急に馴れ馴れしい図太い神経になって、いけしゃアしゃアと一人で戻って来たというのも、やはり同じ孤児の感情からで、いったん泊めてくれるものと信じ込んでしまうと、渡り鳥の本能でそのネグラへ帰って来る放浪者のあわれさであった。

「陽子、おれだよ。あけてくれ。邪険はいやだぜ。ねえ、泊めてくれよ」

 その京吉の言葉を聴くと、陽子はああ、やっぱし帰って来たわと、薄い肉が透けて見える形の良い耳を、ほんのり上気させた途端、

「あら、あたしどうかしたのかしら。さっきから、横にもならないで、お床の上に坐ったきりでじっとしていたのだわ。あたし一体なにを考えていたのかしら」

 浅い眠りの眼覚めに、ふっと襲った寂しさは、茉莉が死んで一人ぽっちになったという、まるで通り魔がすぎ去ったあとのような虚しさでもあったが、しかし、それよりも、眼が覚めてみれば、部屋には灯がついたまま、窓の外は雨が降り、金木犀が匂い、そして踊っていたのは夢だったのか──という憂愁の想いの方が、孤独の底を深くしていた。どんな人間でも持っているあえかなノスタルジアのようなものであった。だから、陽子は食堂車の灯を追うて線路伝いに汽車と一緒にかけ出そうとする子供のように、思いがけず現われて、ふっと消えてしまった京吉の足音を、何かにすがりつきたい女の本能のリズムに添うて、追っていたのだ。

「女のひとを連れて泊りに来るなんて、不潔だわ。もう絶交。だけど、あの女のひと誰だろう」

 京吉を軽蔑しながら、しかし、京吉のことをぼんやり考えていたのだ。こんな晩は京ちゃんと踊りたい。でもあたしは追い出すような口を利いたのだわ。

 そんな悔恨めいた気持があっただけに、再び戻って来た京吉の言葉をきくと、陽子は思わず起ち上り、日頃の勝気な天邪鬼の手がもはや一皮むけば古い弱い女の手になって、

「どうしたの、京ちゃん、おかしい人ね」

 ついぞこれまで、どんな男にもあけなかったドアをあけた。



「あら、京ちゃん一人……?」

 女のひとと一緒じゃなかったの──と、陽子は京吉がはいったあとのドアを、わざと閉めずにきいた。

「帰っちゃったよ」

 陽子の所はむろんはじめてだが、ほかの女のアパートには泊り馴れているせいか、京吉はキョロキョロ部屋の中を見廻したり、坐る場所を探したりせず、いきなり鏡台の前へ坐ると、雨に濡れた靴下を脱ぎながら、呟くように、

「──考えてみれば、あの女は……」

「京ちゃんの恋人なんでしょう……?」

 陽子はドアを閉めて、京吉の傍へ来た。京吉一人だと知って、何か割り切れぬ想いがなくなったのと同時に、女と二人だから泊めるのだという自分へのいいわけもなくなり、わざとドアをあけていたのだが、しかし、何だか京吉を警戒してあけているような気が、ふと陽子の自尊心を傷つけたのだろう。

「恋人……? へんなこと言うなよ。誰かの女房で、誰かのいろおんなだよ。考えてみれば、あの女もひでえキャッキャッだよ。いや、考えてみなくても、キャッキャッだよ」

「キャッキャッって何なの……?」

 坐ろうとしたが、靴下を脱いだ京吉の素足に、ふとなまなましい男を感じて、陽子はあわてて顔をそむけ、やはり立っていた。

「キャッキャッはアラビヤ語だって、グッドモーニングの銀ちゃん言っていたよ。陽子、銀ちゃん知らんだろう。銀ちゃん与太者だけど、中学校出てるんだ。キャッキャッって、一人寂しく寝ることだって、銀ちゃん学があるよ」

「つまらないこと言ってるわねえ。陽子断然軽蔑よ」

 陽子は京吉の前では、わざとはしたないダンサー口調が出た。そんな風にさせる所が京吉の徳であった。凄く大人っぽいかと思うと、まるきりテニヲハの抜けた舌足らずの喋り方をしたりする所が、女たちに気を許させるのであろう。自意識のあるもっともらしい男の前では感ずる羞恥心を京吉のような男の前では、奔放に捨ててしまうことが出来るのだった。眩しいほどの美貌だが、同時に暗闇のような男であった。

 だから陽子も寝巻に細帯というはしたない姿を、京吉の眼にさらしておれたのだが、急にこの暗闇からピカリと光る二つの眼がじろっと陽子の体を見た。

「何見てるの……?」

「陽子、今夜十番館へ行った……?」

「休んだの。あたしもうホールをよそうかと考えてるの」

「へえーン」

「このアパートも越そうと思うの。京ちゃんどこかアパート空いたら教えてよ」

「へえーン。越すの……? そうだろうね」

 昨夜首ったけ侯爵の春隆とてっきりだった──それが陽子の心境を変えてしまったのだと、京吉の眼は言葉のように針を含んでいた。

「何よ、そんな眼をして……」

「…………」

「京ちゃん、そんな眼をするんだったら、帰ってよ」

 陽子はふと気味悪くなった。ジリジリ迫る男の眼を感じたのだ。



 この唇……この耳……この首筋……この肩……この手……この胴……この腰……この足……をあの首ったけ侯爵が髭の剃り跡のような青い触感と蛇の動きにも似たリズムで濡らしたのか、──という視線で陽子の体をジロジロなめまわしているうちに、京吉の眼は次第に妖しく据って、ジリジリ迫る男の眼になっていたのだ。

 陽子自身にも、そのような眼は意外だったが、京吉自身にとっても思い掛けなかった。

 女の体は十六の歳から知っていながら、恋は一度もしなかった京吉にとって、ただ一人ひそかに陽子へ抱いているなつかしさは、もはや恋心といってもよかった。それだけに、陽子の体だけは指一本触れず、そっとして置きたかったのだ。自分の踊りの技巧が相手の女の生理を迷わすことを知っていたから、恋をしながら陽子とは踊ろうともしなかったくらいだのに、いま陽子の触感を求めている。このありきたりの情熱は一体何としたことであろう。

「ねえ、帰ってよ」

「…………」

「帰ってったら! 京ちゃん!」

 そんな眼をすると怖いわ──という声はわざと聴かぬふりをして、京吉は窓の外の雨の音を聴いていた。焦躁のような音であった。

 その音を陽子も聴いていた。そしてもし京ちゃんが強く出て来たら、自分はもう拒む力もないだろう──と、がっかりしてしまったくらい、その雨は気の遠くなるような孤独の音を、陽子の耳に降らせていた。

 しかし、京吉がいきなり陽子を抱き寄せようとすると、

「あ、京ちゃん、待ってよ。あたしはそんな女じゃないわ」

 陽子にとって一番大事なものが自尊心であるとすれば、この自尊心を与えているのは、自分は二十四の今日までたった一つ捨てずに来たものがあるという誇りだった。何れは捨てねばならぬものではあろうが、しかし、それをこんな風に簡単に……。その屈辱と、そして羞恥心と恐怖が、必死の力で京吉を防ぎながら、

「──あッ、京ちゃん、あたしに死ねというの、あたしをそんな女と思ってるの……?」

「だって陽子昨夜キャッキャッじゃなかったじゃねえか」

 一人寂しく寝るという意味を「キャッキャッ」に含ませて、昨夜は首ったけ侯爵に許したじゃないか──と、なおも迫ると、

「違うわよ。キャッキャッよ。昨夜はキャッキャッよ。あたしを信じてよ。何でもなかったのよ」

 陽子は必死で「キャッキャッ」を口にしていた。

「本当か」

 京吉は陽子の眼を覗きこんで、その瞳に自分の醜い表情が夜光虫の光のようにうつっているのを見た。

「本当よ。逃げたのよ。はだしで逃げたのよ。わたしは……」

 そんな女じゃないわ──という言葉を、三度目に聴いた途端、京吉はいきなり陽子をはなして、ものも言わずにそのアパートを飛び出して行った。


十一


 アパートの玄関の石段にさっと降り掛った雨は、京吉の昂奮をすっかりさましてしまったが、しかし、

「おれ二度と陽子に会えなくなっちゃった!」

 という気持は、冷たく背筋を伝わった。

 陽子に挑んだのは、陽子はもう失われてしまったと信じ込んでいた京吉が、執拗に迫る嫉妬からのがれるためにきりひらく唯一の血路であり、また、失われたものをなつかしむ気持の逆説的なあらわれであったが、しかし、一つには、陽子は春隆に許したのだから、自分にも許してもいいだろうという現金な気持からでもあった。

 この現金な気持があったから、京吉は陽子が清かったことを知ると、さすがに自分のしようとしていた行為の醜さを、恥じたのだ。

 だから、逃げるように飛び出して来たのだが、もう二度と会わす顔がないと思うと、京吉はノコノコとまたアパートの中へ逆戻りして、陽子の部屋へ上って行った。

 部屋のドアはあいたままだった。閉めようともせず、陽子は部屋の中で泣き伏していた。しかし、泣き声はなかった。

 なぜ泣いているのか、京吉には判らなかったが、陽子自身にも判らなかった。恥かしい目に会おうとした悲しみか、京吉もまた自分を侮辱しようとしたのかという怒りか、抵抗の昂奮がさめたあとのすすり泣きか、びっくりしたように京吉が去って行ったあとの思いがけぬ寂しさか、自分をあわれみ、そしてまた京吉をあわれんでいたのか、どんな人間にもある憂愁のノスタルジアだろうか、ヒステリーか──何れにしても、女の涙は男はもちろん女にも判らない。

 陽子は京吉がはいって来た気配に、気がつくと、頭をあげて、涙を拭いた。けろりとした顔のようだった。が、声はキンキンと、

「何かご用……?」

「ううう? うん」

 口ごもったが、いきなり京吉は手を出して、

「──金かしてくれ。おれ宿屋へ泊る金ねえんだよ。掏られたんだよ」

 こんなに遅くなると、もう田村へ帰るのが怖かったのだ。陽子はハンドバッグを投げ出して、

「いるだけ、持ってらっしゃい」

「恐れ入りやの……」

 京吉はもう軽薄な口調になって、ハンドバッグから百円札を一枚抜きかけたが、ちょっと思案して、

「──じゃ、これだけ借りるよ」

 三百円手につかむと、陽子がふっと微笑したくらい無邪気な表情を残して、出て行った。

 そして河原町通りへ出ると、空の人力車がすれ違った。宿屋へ連れて行けといったが、車夫は、もう遅いから、宿屋はだめだ、それより安く飲ませて泊める家があるからと、一人ぎめの方角へ走り出した。

 途中、土砂降りの雨の中を濡れて歩いている女にすれ違った。芳子ではないかと思ったが、ひと違いだった。

 警察署の近くまで来ると、京吉は道端にたたずんでいる五十男の顔を見て、おやっと思った。田村で見たことのある銀造だった。銀造は車夫の顔を見ると、急にほっとした顔で、笑いかけて来た。

底本:「定本織田作之助全集 第七巻」文泉堂出版

   1976(昭和51)年425日発行

初出:「読売新聞」

   1946(昭和21)年831日~128日(未完)

入力:佐藤洋之

校正:伊藤時也

1999年514日公開

2013年812日修正

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