独本土上陸作戦
──金博士シリーズ・3──
海野十三



     1



 およそ新兵器の発明にかけては、今日世界に及ぶものなしと称せられる金博士きんはかせが、とつぜん謎の失踪しっそうをとげた。

 おどろいたのは、ここ上海シャンハイ市の地下二百メートルにある博士の実験室に日参していた世界各国の兵器スパイたちだった。

 実験室は、きちんと取片づけられ、そして五分置きに、どこからともなくオルゴールががくを響かせ、それについで、

当分とうぶん失踪する。これは遺書いしょである。ドクトル金〟

 と、姿は見えないが、特徴のある博士の声で、この文句がくりかえし響くのであった。

 録音による遺書が、オートマティックに反復はんぷく放送されているのだった。

 あの新兵器発明王金博士のとつぜんの失踪!

 博士を監視していた五十七ヶ国のスパイは、いずれも各自の胸部きょうぶに、貫通かんつうせざる死刑銃弾の疼痛とうつうにわかに感じたことであった。

 一体、博士はどこへ行ってしまったのであろうか。

 人騒がせな博士の失踪は、精神錯乱さくらんの結果でもなく、いわんや海を越えて和平勧告わへいかんこくに行ったものでもなかった。しかし金博士の上陸したところは、スコットランドであって、グラスゴー市の西寄りにある秘港ひこうグリーノックであった。

 金博士は、上陸に際し、右足のかかと微傷びしょうを負ったが、それは折柄おりから丁度ちょうど、英軍の高射砲が襲来独機しゅうらいどくきを射撃中であって、その高射砲弾の破片はへんが、この碩学泰斗せきがくたいとの右足に当り、呪いにみちた傷を負わしめたのであった。が、まあ大したことはなかった。

「上陸第一歩に際し、イギリス官憲のみならず、イギリス高射砲隊からもこの鄭重ていちょうなる挨拶あいさつをうけようとは、余の予期せざりしところである」

 と博士は、折から空襲実況中継放送中のBBCのマイクを通じて、訪問の初挨拶をしたのであった。

 接伴せっぱん委員長のカーボンきょうは、金博士が、あまりにも空爆下くうばくかに無神経でありすぎるのにおどろき、周章あわてて持薬じやくのジキタリスの丸薬がんやくをおのが口中こうちゅうに放りこむと、金博士を桟橋さんばしの上に積んだ偽装火薬樽ぎそうかやくだるのかげに引張りこんだ。

「ああカーボン卿、ドイツ空軍のために、こんなにわたって爆撃されたのでは、借間しゃくまが高くなって、さぞかし市民はたいへんであろう」

「おお金博士。仰有おっしゃるとおりです。借間の払底ふっていをはじめ、そのほかわれわれイギリス国民を困らせることが実におびただしいのです。このときわれわれは、はるばる東洋から博士を迎え得て、千万トンのジャガいもを得たような気がいたしまする」

「ジャガ芋とは失礼なことをいう、この玉蜀黍とうもろこしめ」

 と、博士は中国語でいって、

「この空爆の惨害さんがいを、余にどうしろというのかね」

「いやいや、余は何とも申したわけではない。博士どの。イギリス上陸のとたんに、ぜひとも御注意ねがわねばならぬことが二つありまする」

「二つ? 何と何とかね」

「一つは、さっき申し遅れましたが、味方の撃ちだす高射砲弾の害。もう一つは、おそろしきスパイの害。──とにかく街上でもホテルでも寝床の中でも、おそるべきスパイが耳を澄して聞かんとしていると思召おぼしめして、一切語りたもうなよ」

「本当かね。まるでわが上海シャンハイそっくりじゃ」

ゆえに、物事を、スパイや敵国人のため妨害されないで、うまくはこぼうと欲すれば、それ、決して何人にも機密をらすことなく、自分おひとりの胸にたたんで、黙々として実行なさることである」

「お前さんのいうことは、むずかしくて、余には分らんよ」

「いや、つい騎士倶楽部風きしクラブふうの言葉になりましたが、要するに、自分の思ったとおり仕事をやりとげるためには、機密事項は一切おしゃべりなさるなという忠言です」

「なるほど、壁に耳あり、後にスパイありというわけじゃね。よろしい。今日只今より、大いに気をつける。もっとも、わしはスパイをさけることなら、上海でもって、相当修業して来ておりますわい」

「それをうかがって、安心しましたわい」

 折から高射砲は、かたやめとなり、往来はようやく安心できる状態となった。そこで瘠躯鶴そうくつるの如きカーボン卿は、樽のかげから外に出て、一応頭上を見上げたうえで、樽のかげの金博士の手を取って、引張り出したのであった。

「さあ、今のうちに急いで参りましょう」

「はて、余はどこへ連れていかれるのじゃな」

「行先は、今も申したように、スパイを警戒いたして申せませぬ。しかし、向うへ到着すれば、そこが何処だかお分りになりましょう。グローブ・リーダーの巻三には、『ロンドン見物』という標題ひょうだいもとに、写真入りでちゃんとくわしく出て居ります場所です」

「ありゃ、行先はロンドンですかい」

「ロンドン? あっ、それをどうして御存知ごぞんじですか。博士は、読心術どくしんじゅつを心得て居らるるか、それともスパイ学校を卒業せられたかの、どっちかですなあ」

「あほらしい。お前さんが今、ロンドン見物の標題で云々うんぬんといったじゃないか。お前さんがたのここんところは、連日連夜のドイツ軍の空爆で、だいぶん焼きが廻っていると見える」

 そういって、金博士は、自分の頭を、防毒マスクの上から、こつこつと叩いてみせた。



     2



 ロンドンの地下ホテルの大広間で、国防晩餐会ばんさんかいもよおされている。

 その大広間は、一見いっけんひろびろとしていた。ただ真中のところに、一つの卓子テーブルと、それを取囲む十三の椅子とが、まるで盆の真中にボタンが落ちているような恰好かっこうで、集っていた。そして卓上には、贅沢ぜいたくな料理が、大きな鉢に、山の如く盛り合わされ、そしてレッテルを見ただけで酔っぱらいそうな古いウィスキーやコニャックが、林のように並んでいた。

 そのとき、広間の北側のドアが、さっと左右に開いて、金ぴかの将軍が十二人と、それからひじのぬけそうな黒繻子くろじゅすの中国服を着た金博士とが、ぞろぞろと立ち現れて、そのもうけの席についた。

「さあ、ぼつぼつ始めましょう」

「各自、お好きなように、セルフ・サーヴィスをして頂きましょう」

 ボーイたちは、完全にこの大広間から追い出されていた。しかもこの料理は、五百パーセントの闇値段やみねだんで集められた豪華な料理であって、これすべて、遠来えんらいの金博士──いや、イギリス政府及び軍部が今は命の綱と頼む新兵器発明王の金博士に対する最高の饗応きょうおうであったのである。

「さて、早速さっそくではあるが、金博士に相談にのっていただくことにする」

 と、座長格の世界戦争軍総指揮官ゴンゴラ大将が口を開いた。

「なるべくなら、この御馳走を全部頂戴してののちに願いたいものじゃが」

 金博士は残念そうにいう。

「いや、事が事とて、ぐずぐずして居れないのです」

 と、総指揮官ゴンゴラ大将は、かまわず話をすすめる。

「これは今夜はじめて諸君にかぎり発表する最高の機密であるが、実は、わがイギリス軍は、最早もはや如何いかんともすべからざる頽勢たいせいを一挙に輓回ばんかいせんがために、ここに極秘ごくひの作戦を研究しようとしている。それは如何いかなる作戦であるか」

 と、ゴンゴラ大将は、そこで大いに気を持たせて、一座を見廻した。

(おや、十三の座席は、縁起えんぎでもない)

 将軍は、ちょっと顔を曇らせたが、胸の前で十字を切って、

「それは外でもない。十三──いや、諸君、おどろいてはいけない。吾輩わがはいは、ここに極秘の独本土上陸作戦どくほんどじょうりくさくせん樹立じゅりつしようと思う者である」

 一座は、にわかにざわめいた。将軍のなかには愕いて、手にしていたさかずきを取落とす者もあり、み下ろしかけていた若鶏わかどりの肉を気管きかんの方へ送りこんで目を白黒する者もあった。ただ平然として色を変えず、飲みくらう手を休めなかったのは金博士ばかりだった。

「独本土上陸作戦、それはえい本土上陸作戦の誤植ごしょく──いや誤言ごごんではないか」

いな、断じて、独本土上陸作戦である」

「ほほっ、ゴンゴラ総指揮官の精神状態を医師に鑑定せしめる必要ありと思うが、如何に」

「いや、もう一つその前に、全国の空軍基地に対し、単座戦闘機たんざせんとうきにゴンゴラ将軍を搭乗とうじょうせしめざるよう厳重げんじゅう命令すべきである」

「その必要はあるまい。なぜといって、ゴンゴラ将軍は、さいわいにして飛行機の操縦が出来ないから、安心してよろしい」

 ゴンゴラ総指揮官は、頬をトマトのようにあかくして、たくたたいた。

何人なんびとが何といおうと、独本土上陸作戦を決行する吾輩の決意には、最早変りはない。ドイツを屈服くっぷくせしめる途はただ一つ、それより外に残されていないのである」

 一座は、尚も喧々囂々けんけんごうごうおさまりがつかなくなった。あちこちで、同志討どうしうちまでが始まる。

「なにも、そんな危い芸当をやらないでも、もっと確実に、しかも安全にドイツをやっつける方法があるんだ」

「そんなことはないでしょう。自分は総指揮官の作戦に同意する」

「それは愚劣ぐれつきわまる。よろしいか。わしの考え出した作戦というのは、至極しごく簡単明瞭かんたんめいりょうである。それは、ドイツに対して『わがイギリスは貴国を援助するぞ』と申入れれば、それでよろしいのじゃ」

「なんだ、それは。敵国ドイツを助ければ、わがイギリスはいよいよ負けるばかりだ」

「それだから貴公きこうは、駄目だというんだ。ちと歴史を勉強しなされ、歴史を。今度の世界戦争以来、わがイギリスが援助をすると申入れた先の国で、滅びなかった国があるかね。ベルギーを見よ、和蘭オランダを見よ、チェッコを見よ、ポーランドを見よ、それからユーゴを見よ。ギリシヤを見よ、蒋介石しょうかいせきを見よ。だから、われわれイギリスが、『ドイツよ、お前を助ける』と申入れただけで、ドイツもまた、滅びざるを得ないであろう。これ、歴史上の事実から帰納きのうした最も正確にして且つ安全な作戦じゃ」

 仲々一座の納りがつかないので、ゴンゴラ総指揮官は、席を立って、金博士のところへやって来た。

「金博士。吾輩の切なるお願いである。新奇なる兵器を作って、わがイギリスの沿岸えんがんから発し、独本土へ上陸せしめられたい」

 このとき、金博士は、ようやく卓上の料理をことごとく胃のに送り終った。博士は、ナップキンで、ねちゃねちゃする両手と口とをぬぐいながら、

「ああ余は遠く来た甲斐かいがあったよ。ほう、美味びみ満腹まんぷくだ。はて、何といわれたかね」

 と、取り済ました顔である。

「おお金博士。今も申すとおり、吾輩の切なるお願いである。新奇なる兵器を作り、わがイギリスの沿岸より発し、独本土へ兵を上陸せしめられたい」

 ゴンゴラ総指揮官は、声涙共せいるいともくだって、この東洋の碩学せきがくに頼みこんだ。すると博士は、

「ああ、それくらいのことなら、至極しごく簡単にやって見せるよ」

「えっ、本当に出来る見込みがありますか」

「ありますとも。そんなことは、人造人間戦車の設計などにくらべれば訳なしじゃ」

「おお、それが真実なれば、吾輩は天にものぼるよろこび──いや、とにかく大きな悦びです」

「しかしのう、ゴンゴラ大将。それについて、余は、とくと貴公と打合わせをしたいのじゃが、この席ではなあ。つまり、こう沢山の人々の耳に入れては、それスパイに買収せられた耳もまじっているかもしれない。二人切りになれないものかな」

「ああ、そのことなら、吾輩としても、願ってもないことです。よろしい。では他の将軍たちを退場させましょう。おい諸君。君たちは一時いちじ別室へ遠慮せよ」

 さすがに総指揮官の一声で、他の将軍たちは、ぶつぶつがやがやいいながら、ゴンゴラ大将と金博士をそこに残して、元来たドアから出ていってしまった。

「さあ、もう一杯、いきましょう」

「すこし廻りすぎたが、もう一杯頂戴するか」

 あとは二人が水入みずいらずで向い合った。

 金博士は、そのとき顔を将軍に近づけていった。

「今誓約したことは、必ずやります。しかし一体、独本土へ上陸といって、どこへ上陸すればいいのかな。ブレーメンかキール軍港ぐんこうのあたりまで行かなければ満足しないのか、それともドイツの占領地帯で、お手近てぢかのドーヴァ海峡かいきょうを越えてきゅうフランス領のカレーあたりへ上陸しただけでも差支さしつかえないのか、一体どっちを望むのかね」

 金博士に大きく出られて、ゴンゴラ総指揮官は、あおい目玉をぐりぐり廻わし、

「どっちでも結構ですが、一つ早いところ上陸して貰いたいですねえ。ドイツ兵のいる陸地へ、こっちからいって上陸したということになれば、そのニュースは、ビッグ・ニュースとして全世界を震駭しんがいし、ふるわざることひさしきイギリス軍も勇気百倍、狂喜乱舞きょうきらんぶいたしますよ」

「狂喜乱舞するかな。それはどうかと思う」

「いや、狂喜乱舞することは請合うけあいです」

「そうかね。そこのところは、余にはよく呑みこめないが、とにかく、上陸作戦をやるについて、あらかじ種々しゅじゅもらうものは貰って置きたい」

「ああ、これは申し遅れて失礼をしました。成功のあかつきは、博士のはかり知られざるその勲功くんこうに対し、いかなる褒賞ほうしょうでも上奏じょうそういたしましょう。いかなる勲章がおのぞみかな。ダイヤモンド十字章じゅうじしょうはいかがですな。また、何もイギリスの勲章に限ったことはない。和蘭オランダの勲章はいかが、それともポーランドの勲章は。エチオピヤの勲章でもいいですぞ。それともフランスの勲章にしますか」

「勲章など貰っても、持って帰るのに面倒めんどうだから、いやじゃ。それよりも、当国とうごく逗留中とうりゅうちゅうは、イギリス製のウィスキーを思う存分ぞんぶんませてくれればそれでよろしい。今のうちに呑んでおかないと、きっとドイツ兵に呑まれてしまうからね」

「縁起でもありませんよ」

「しかしのう、ゴンゴラ将軍。さっき余が、貰うものは貰って置きたいといったのは、そんなものではないのじゃ」

「え、勲章の話ではなかったのですか」

「東洋人というものは、おぬしのように、左様さよう貪慾どんよくではない。余の欲しいのは、白紙命令書はくしめいれいしょだ。それを百枚ばかり貰いたい」

 博士は妙なことをいいだした。白紙命令書というのは、まだ命令の文句が書いてない命令書のことであった。

「白紙命令書百枚もよろしいが、何にお使いですかな」

 と、ゴンゴラ将軍は腑に落ちない顔。

「知れたことじゃ。お主から頼まれた一件を果すためには、万事極秘でやらにゃならん。だから余だけが計画内容を知っているということにするには、白紙命令書を貰ったのが便宜べんぎなのじゃ。尚その命令書には『おっ後日ごじつ何等カノ命令アルマデハ本件ニ関シ総指揮官部へ報告ニ及バズ』と但書ただしがきを書くから、予め諒承りょうしょうありたい」



     3



 ゴンゴラ総指揮官は、ついに白紙命令書百枚を金博士に手交しゅこうして、博士の手腕に大いに期待するところがあった。

 ところが、それから一週間たっても、二週間たっても、金博士が一向動きだしたという知らせに接しないのであった。

 将軍のところへ出入する情報局蒐集官しゅうしゅうかんたちは、きまって、将軍から同じ趣旨しゅしの質問を受けるのだった。

「おい、金博士の動静どうせいについてのニュースはないのか。すくなくとも一巻のニュース映画になるくらいのものは持って来い」

 将軍は、金博士の行動のニュースにえているのであった。

 情報蒐集官たちは、残念ながら、博士についてのニュース材料の持ち合わせがなかった。それで次回から、せいぜい気をつけることにして、金博士の身辺しんぺん猟犬りょうけんの如く、或いはダニの如く、或いは空気の如くからみついて、何を博士が実行に移しているかを調べたのであった。

 その結果は、毎日毎夜それぞれの情報蒐集官から、ゴンゴラ総指揮官のところへ集ってきた。

「金博士は、本日午前十時、セバスチァン料理店に現れ、午後二時まで四時間にわた昼酒ひるざけをやり、大いに酩酊めいていせり」

「ふん、大いにやっとるな」

 と、ゴンゴラ将軍は次の報告書を取上げる。

「金博士は、本日午後二時十五分より、カセイ・ホテルに現れ、飲酒三時間に及べり。午後五時三十分、退出たいしゅつす」

「よく飲むなあ。身体をこわさなきゃいいが……」

 次の報告書には、こう書いてあった。

「金博士は、本日午後五時四十五分、ピカデリー街に於て、数名の東洋人に襲撃せられ……」

「おや、これはニュースらしいニュースだ」

 と、総指揮官は、思わず前に乗りだして、さてその次を読むと、

「……街上がいじょうに於て、ウィスキーのラッパ呑みを強要されしが、それより博士の提案により、会場をコルコットがい裏通りのバー、ホーンに於て一同揃って痛飲会つういんかい開催かいさいせられることとなり、同夜午後十一時まで、通計つうけい五時間……」

 将軍は、にがり切って、その報告ではなをちんとかむと、紙屑籠かみくずかごへ投げこんだ。

「金博士は、地酒窟じざけくつランタンに現れ、午後十一時十五分……」

 どこまで読んでいっても、金博士が酒を飲む報告書ばかりであった。将軍は、うんざりしてしまった。

 気をつけていると、毎日毎夜、集ってくるどの報告書も、飲酒の実績報告ばかりであって、その中に只の一枚も、「金博士は、机に向い、設計用紙を前にして、計算尺けいさんじゃくをひねりつつあり」とか「金博士、只今、バーミンガムの特殊鋼とくしゅこう工場へ、マンガンこう五十トンの注文を発せり」などという工作関係のニュースは入っていなかったのである。ゴンゴラ総指揮官は、飛行機にのって特殊飛行をやってみたい衝動しょうどうられて、弱った。

 ついにゴンゴラ総指揮官の勘忍袋かんにんぶくろが切れ、警衛隊に命令して、金博士をオムスク酒場から引き立て、官邸へ連れて来させたのであった。そのとき金博士は、へべれけに大酩酊のていたらくであった。

「うーい。こら、こんな面白くない酒場へ引張ひっぱって来やがって。こーら、そこにいる大将。早くジンカクを持ちこい」

 ゴンゴラ大将は、仁王様におうさまがせんぶりのこなめたような顔をして博士のぐにゃぐにゃした肩をわしづかみにした。

「これ、金博士。いかに酒好きとはいえ、酒ばかり呑んで、吾輩との約束を無にするとは遺憾いかんである」

 総指揮官は、極力きょくりょく腹の虫を殺して、春の海のようにおだやかに云った。

「おお、お主はゴンゴン独楽こまのゴン将軍じゃったな。今聞いてりゃ、聞いちゃいられねえことをに向っていったな」

「吾輩は、三週間、いらいらして暮した。その間博士は酒ばかり飲んで暮した。例の仕事には、すこしも手がついていないではないか」

「あっはっはっはっ」と博士は笑って、「お主は、そのことを心配しているのか。余はイギリス人のように、やるといって置いてやらん人間とは違う。疑うなら、見せてやるものがある。さあ、余の右足をもって、力一杯引張れ。おい、早くやれ。酒を飲む時間が少くなる。なにしろイギリス製ウィスキーとも、間もなくお別れだからな。おい、引張れ」

 ゴンゴラ総指揮官は、博士に催促さいそくされて、床に膝をつき、博士の右足をつかんで、えいと引いた。すると、すぽんと音がして、博士の右脚が、太腿ふともものあたりから抜けた



     4



 ……と見えたが、驚くことはない、実は金博士が右脚にいていた肉色の超長靴ちょうながぐつが、すぽんと抜けて、ゴンゴラ将軍の手に残っただけのことであった。

「ひゃーっ」

 千軍万馬せんぐんばんばの将軍も、これにはきもつぶし、博士の一本脚──ではない実は超長靴を、絨毯じゅうたんの上に放り出した。博士は、それを無造作むぞうさに拾いあげ、その中に手を入れると、やがて一枚の青写真を引張りだした。

「ゴンゴラ将軍。これをお目にかけよう」

 将軍は目をぱちくり。膝の上に青写真をひろげて、二度びっくり。

「これは、素晴らしい新兵器だ。一人乗りの豆潜水艇まめせんすいていのようだが……」

「将軍よ。これは初めて貴官と会見した日、宿に帰ってすぐさま設計した渡洋潜波艇とようせんはていだ」

「ああ実に素晴らしい。さすがは金博士だ。これを如何いかに使うのですかな」

「これはつまり、一種の潜水艇だが、深くは沈まない。海面から、このふねの背中がようやぼっする位、つまり数字でいえば、波面はめんから二三十センチ下にくぐり、それ以上は潜らない一人乗りの潜波艇だ」

「ふむ、ふむ」

「これを作ったわけは、如何なる防潜網ぼうせんもうも海面下二メートル乃至ないし十数メートル下に張ってあるから、普通の潜水艦艇では、突破は困難だ。また普通の潜水艦艇では、機雷きらいにぶっつけるかもしれないし、警報装置に引懸ひっかかって所在が知れるし、どうもよくない。そこでこの渡洋潜波艇は、海面とすれすれの浅い水中を快速で安全に突破するもので、つまり水上と防潜網との隙間すきまねらうものである」

「ほう、素晴らしいですなあ」

「しかし、これは試作しただけで、余は取り捨てたよ」

「おや、勿体もったいない。使わないのですか」

「駄目じゃ。やっぱり相手方に知れていけないのじゃ。つまり海面と防潜網との隙間を行くものではあるが、こいつを何千何万せきとぶっ放すと、彼岸ひがんに達するまでに、彼我ひがの水上艦艇に突き当るから、ただちに警報を発せられてしまう。従ってドイツ本土上陸以前に、殲滅せんめつのおそれがある。これはやめたよ」

「惜しいですなあ。すると、これは取りやめて、以来いらい自暴酒やけざけというわけですか」

「とんでもない。余はイギリス人とは違うよ。余は既に、ちゃんと自信たっぶりの新兵器を作った」

「それは、どういう……」

莫迦ばか。現行兵器の機密が、他人にらせるものか」

「でも、吾輩は総指揮官……」

「総指揮官とて信用は出来ない。とにかく余は貴官と約束したところに従い、現実に独本土上陸をやって見せた上で帰国しようと思う。百の議論よりも、一の実行だ。実績を見せれば、文句はないじゃろう」

「なるほど。すると博士御発明の独本土上陸用の新兵器は、目下続々ぞくぞく建造けんぞうされつつあるのですな」

 ゴンゴラ将軍の瞳がかがやいた。

「その建造は、二週間前に終った。それから、搭乗員とうじょういんの募集にちょっと手間どったが、これも一週間前に片づき、目下もっかわが独本土上陸の決死隊二百名は、刻々こくこく独本土に近づきつつあるところじゃ。これだけは話をしてやってもええじゃろう」

「人員二百名は少いが、とにかく刻々独本土に近づきつつあるとは快報です。大いに期待をかけますが、果してうまくいくですかな」

「なにしろ、独本土へ上陸しようというイギリス軍人の無いのにはおどろいた。折角せっかく作ったわが新兵器も、無駄に終るかと思って、一時は酒壜の底に一滴いってきの酒もなくなったときのような暗澹あんたんたる気持に襲われたよ」

「しかしまあ、二百名にしろ、決死隊員の頭数あたまかずが揃ったは何よりであります。本官の名誉はともかくもたもたれました」

「さあ、どうかなあ」

「えっ」といっているとき、幕僚ばくりょうが部屋へとびこんで来た。

「総指揮官。只今ドイツ側がビッグ・ニュースの放送をやって居ります。事重大ことじゅうだいですが、お聴きになりますか」

「重大事件? ははあ、あれだな。スイッチを入れなさい」

 スイッチが入って、ドイツ放送局のアナウンサーの声が高声器こうせいきから流れだした。

「……繰返くりかえして申上げます。本日午後五時、二百名より成るドイツ将校下士官兵の一隊は、イギリス本土よりわが占領地区カレー市へ無事帰還きかんいたしました。これは、目下イギリスに在る金博士の発明になる深海歩行器しんかいほこうきによって、ドーバー海峡四十キロの海底を突破し、無事帰還したものでありまして、実に劃期的かっきてきな大陸連絡でありました。ちなみに金博士の深海歩行器というのは、直径三メートルばかりの丈夫なる金属球きんぞくきゅうでありまして、中に一人の人間が入り、局所照明灯きょくしょしょうめいとうにより、前方の機雷や防潜網をけながら歩行機械により海底を歩行出来る仕掛けになって居りますが、十分じゅうぶんドーバー海峡下の水圧には耐えるようになって居ります。その他のことについては、機密になって居りまして、詳細をここに述べられませんのは遺憾いかんでありますが、なお今回の壮挙そうきょのエピソードといたしまして、最初金博士は、この大発明兵器深海歩行器に搭乗する決死隊を、イギリス軍隊の中に求めましたが、何分にも赫々かっかくたるドイツ軍の戦績とダンケルクの敗戦を想起そうきし、一人の応募者おうぼしゃもありませんので、遂に金博士は腹を立て、かねて捕虜として収容されありし前記二百名のドイツ軍人に独本土上陸の希望を問合といあわしたところ、一同大喜びにて、決死隊に応募し、遂に今回の大成功を見たものであります。……」

 ゴンゴラ総指揮官が真赤まっかになって金博士の方に振返った時には、既に博士の姿は卓上の酒壜と共に、かき消すように消えせていた。

底本:「海野十三全集 第10巻」三一書房

   1991(平成3)年531日第1版第1刷発行

初出:「新青年」

   1941(昭和16)年7

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:まや

2005年515日作成

青空文庫作成ファイル:

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